生まれて初めて、俺は誰かに必要とされた。
村雨邸に着いたのは、陽が完全に落ちた頃。
ドライブから戻った絢華は、そのまま風呂を済ませ、ベッドに入って溶けるように眠りへと落ちてしまった。もちろん、入浴の世話は秋元が担う。いつもよりも疲れていた絢華を見るなり心配そうな顔をしていた秋元だが、しばらく経つと俺に穏やかな声をかけてきた。
「今日はお疲れさまでした。お嬢様を外に連れ出してくれて」
「おう。俺もちょうど、どっかに行きたい気分だったからよ」
風呂から上がった絢華がベッドで寝息を立て始めた後、俺は部屋に戻る。
すると秋元がやって来て、俺に紅茶を振る舞った。この日の“ねぎらい”の意味もあったのだろう。毎夜にレモンティーを飲む高尚な趣味など持ち合わせてはいないが、ここは素直に感謝した。
「どうも」
「いえいえ。お嬢様、喜んでおいででしたよ。『楽しかった。また海を見に行きたい』って」
彼女には確信があるようだった。
「あの声からして。お嬢様、笑ってらっしゃったと思うのです」
「絢華が?」
「はい。麻木君と一緒にいることが、お嬢様にとっては良いみたいです」
予想だにしない言葉をもらってしまった。思わず、鼻の奥がむず痒くなってくる。
「おいおい……冗談だろ。俺は何も」
だが、秋元は至って真剣な面持ちだった。
「決して冗談ではありませんよ? お嬢様はあなたに『これからも、世話係を続けてほしい』と仰ってましたよ。何でも、あなたの言葉が胸に響いたとか」
「うーん。大した事、言ってねぇんだけどな」
「嬉しそうでしたね。『初めて、背中を押してもらえた』と……私からも、お礼を言わせてください。ありがとうございました」
いつも以上に真面目な様子で頭を下げる秋元であったが、どうもピンと来なかった。
(背中を押した……? いや、俺はそんなこと)
絢華との場面に限らず、いかなるシチュエーションにおいても俺は頭に浮かんだ“もっともらしい言葉”を選んでいるに過ぎない。それが偶然、彼女の心に響いたという事だろう。少しばかり照れくさい思いはするが、不興を買ってしまうよりはマシだ。俺はひとまず愛想を繕って応じた。
「お、おう。それなら、良かったぜ」
「はい。普段、お嬢様にああやって正面から意見を言える人がいないのです。組の人たちは勿論の事、私も含めて。ですから、あなたのような存在がお嬢様には必要だった。やっぱり組長の目に狂いは無かったと思います。これからも、よろしくお願いしますね」
「ああ」
「では、本日はお疲れさまでした。どうかゆっくり、休んでくださいね」
そう言うと、秋元は部屋を出て行った。ひとり残された俺は、若干ぬるくなった紅茶をすすりながら、物思いに耽る。
『組長の目に、狂いは無かった』
そのわずかな言葉が、どうにも頭の中に引っかかった。いかなる意味なのだろう。考えても分からないが、ひとつだけ確かなことがある。それは俺が、絢華から「必要とされている」という、紛れもない事実であった。
今までの俺は、とにかく周囲から後ろ指をさされ続ける人生であった。クラスメイトには「消えてほしい」と陰口を叩かれ、後輩には卒業式で「いなくなってホッとする」と言われ、母親にさえ「出ていってくれ」と匙を投げられた。すべては自分の素行が招いたことであり、古い四字熟語で例えるならば自業自得。しかし、心の中に憂さはたまっていた。
自分は誰からも、必要とされない――。
どこへ行くにしても、何をするにしても、そんな考えが己に影を落としている自負があった。しかし、もう違う。いまの俺は必要とされている。自分を必要としてくれる他人が確かに存在するのだ。
その事実を噛みしめれば噛みしめるほどに、はっきりとした充足感が湧いてくる。出会った経緯こそあまり良いものではなかったが、俺という存在を認めてくれるのが絢華だ。ならば彼女のために動いてやろうではないか。
そうして少しずつ、心の中が明るくなっていったその時。
「涼平。いるか?」
ドアがノックされた。村雨の声だ。俺は慌てて、返事をする。夢想状態からいきなり現実世界に引き戻されたので、声が若干上擦っていたと思う。
「入るぞ」
ドアを開け、ずかずかと入ってきた組長。彼はベッドの脇の椅子に腰を下ろす。
「今日はご苦労だったな。秋元から、お前が絢華を海へ連れて行ってくれたと聞いたぞ。あの子は近頃、出不精気味でな。私としても、たまには外の空気を吸わせてやりたいと考えていたところだ」
「いや、別に……」
「ご苦労だったな。恩に着るぞ」
俺に向き合った村雨は、黒の着物姿であった。いつも自宅では大抵、この装いで過ごすらしい。何とも「親分」らしい。そのうち、彼は懐からタバコを1本取り出した。
「……」
上下の唇でタバコを挟んだまま、ジッとこちらを見ているので、俺はもしやと思い、頭に浮かんだ動作を実行に移した。
「そうだ。よくできたな」
ポケットからライターを取り出し、村雨が咥えていたタバコに火を付けたのだ。幼い頃、俺は親父の事務所で同様の場面を見た事があった。下の者が、上の者に尽くす。これは歴然とした縦社会である、極道界の“基本動作”だ。
火が付いたタバコを深々と味わいながら、村雨は言った。
「覚えておくことだ。これができなければ、我々の世界では飯が食えんぞ。無論、つけるのは1回だ。分かったな」
「……ああ。でも、ひとつ聞いていいか?」
「何だ」
紅茶を一気に飲み干した俺は、村雨を見据えて尋ねた。
「これから、俺はどうなるんだ? しばらくしたら、ヤクザになるのか?」
「奇妙な質問だな。まあ、良いだろう。教えてやる」
俺の問いかけに何を思ったのか。村雨はニヤリと微かな笑みを浮かべると、まっすぐ前を見据えて答えた。
「来るべき時が来たら、正式に盃を与えるつもりだ。最も、お前を迎え入れたきっかけは違うがな」
「きっかけ?」
「ああ」
村雨は言った。
「あの日、高坂晋也と共に私の所へ乗り込んで来たお前を見た時、私は驚かされたものだ。自分を恐れない人間が、まだこの街にいたことにな。だから、相応しいと思ったのだ。我が娘を正面から支える人間に」
「……要は、あんたの事を怖がらなかったから、お嬢さんの世話係に就けようと考えたってわけか」
「そうだ。絢華の世話係が、今までに何人も辞めている事はお前も聞かされたであろう? それは奴らが皆、あの娘に面と向かって物を申せず、“遠慮”してしまったからだ」
俺が飲み終えたティーカップの中に灰を落としながら、村雨は穏やかな声で続ける。
「だがお前には、その“遠慮”が無い。いかなる相手であっても己を貫き、本音でぶつかってゆくことができる。だからこそ、私は『この者なら、本当の意味で絢華に寄り添うことが出来るのではないか』と思い、お前に自分の下で働くように頼んだのだ」
そういうことだったのか。俺自身、高坂と一緒に中区元町のクラブ・フェアリーズに押し掛けた時の会話は、未だに一字一句、はっきりと覚えている。こちらを睨み、「私が怖くないのか」と尋ねた村雨に俺は『怖くないね』と答えた。
まったくもって向こう見ずな答え方なのだが、まさかこの返答で俺の“採用”を決めたとは。思わず、苦い笑いがこみ上げてしまった。
「へへっ。なるほどな。自分にビビらなかったくらいだから、娘に何を言われても動じないだろうって考えか」
村雨は深く頷く。
「ああ。その通りだ。事実、お前は私の期待に応えてくれた。遠慮なしに絢華と向き合い、見事に信頼を勝ち取ってみせた。やはり、私の見立てに間違いは無かったという事だな。これからも、よろしく頼むぞ」
そう言うと、彼は右手を差し出してきた。
握手を求めてきているのだろう。少しばかり恥ずかしさは伴うが、応じぬわけにもいかない。俺も素直に、右手を伸ばす。
「おう。任しとけ」
だが、どうしても解せないことがあった。
「……って言いたいところだけど、もう1つ、聞きたいことがあった。あんたの年齢だよ。今年で、いくつになる?」
「……30だが」
「そうか。じゃあ、絢華は今年で何歳だ?」
「16になるな」
俺は、それまで頭の中でずっと燻ぶらせていた疑問を投げかけた。
「年齢、おかしくないか? この数字が正しいなら、あんたは14の時に絢華をつくった事になるぞ。もしかしてだけどさ。サバ、読んでるのか?」
すると、村雨はフッと微笑んだ。
「ほう。それはまた、良い所に気づいたな……」
次の瞬間、彼の口から飛び出した話。それは、こちらの想像をはるかに上回る、あまりにも衝撃的な内容であった。