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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第11章 親分たる器
188/252

秀虎という男

 玉座の間に困惑と混乱が広がる。それもそのはず、開封された高虎の遺言状の中身があまりにも信じ難いものだったからだ。


 無論、幹部たちは互いに顔を見合わせていた。


「先代が……そんな……」


「まさか」


「いやでも確かに……」


 そんな呟きが次々と漏れ聞こえる中、輝虎は若尾に詰め寄った。


「な、何を言ってやがる!? 秀虎は……」


 輝虎が反論しようとする。しかし、若尾はそれを遮って続けた。


「し、しかし! この遺言状には確かにそう書いてあるのでございます!」


「ふざけんじゃねぇよ! こいつはただの大学生だぜ!? 虫も殺せねぇ軟弱者で喧嘩なんかからっきし、そんなヘタレにヤクザが……それも眞行路一家の五代目が務まるってってのかよ!」


「わ、私に言われても分かりません! だって、そう書いてあるのですから!!」


 猛烈に追及してくる輝虎に若尾は要領を得ぬ返答をするしかない。


「じゃあ、何か? あんたは眞行路一家の跡目がこいつで良いってのか!?」


 輝虎は尚も食い下がるが、若尾は怯えながらも曖昧な返事をするばかり。


「は、はい。か、遺言状の内容に従うと……」


「ふざけんな! そんな馬鹿な話があってたまるか!! そうなったら組が終わりだろうがぁ!!」


「しかし、遺言状にはそう書いてありますので……!」


「だから何だってんだよ!!」


 言い争う2人を尻目に、俺はぐるりと室内を見渡してみた。


 両方のどんぐりまなこを大きく開いて口をぱくぱくとさせる須川。瞬きも忘れて硬直する蕨。そして相変らず無表情で何を考えているか分からない新見。幹部たちの反応は様々だが、皆一様に衝撃と驚愕を体感していた。


「カ、若頭カシラ。とりあえず落ち着い……」


「てめぇは黙ってろ!」


 荒れ狂う兄貴分を諫めようとして一喝された三淵。まあ、こいつの馬鹿真面目さは置いておいて、輝虎の怒りは尤もだ。ヤクザの跡目といえば普通、嫡男が継ぐのが常道である。それが次男に引き継がれるとあっては面目が立たぬ。しかも、その相手が喧嘩のひとつもできない軟弱な男であれば尚更だ。


「少しは落ち着きなさい! 輝虎!」


 息子を宥めるべく淑恵もようやく口を開いたが、輝虎は聞く耳を持たない。


「うるせぇ! 落ち着いてなんかいられるか!」


 淑恵も淑恵で話が呑み込めていない様子。彼女にとって長男の廃嫡は想定の範囲内であったにせよ、よもや次男が選ばれようとは思いもしなかったことだろう。


「……っ」


 親分どころか極道にすら向いていないと自他ともに認める秀虎が、どういうわけか後継者に指名されてしまったのだ。母親として、この事実は受け入れ難いものに違いない。激しく動揺するのは、あまりにも必定であった。


「輝虎! とにかく落ち着きな!」


 それでもなお息子を宥めようとする淑恵だが、御曹司はますます声を荒げる。


「黙れっつってんだろ!!」


 怒声を張り上げる兄貴分に対し、須川も蕨もすっかり萎縮してしまっている。もはやこの場は収拾がつかぬほどの混乱に満ちていた。


 そんな状況の中、俺は秀虎にも視線を向ける。


「ぼ、僕が……どうして……」


 絶叫と怒号が響く空間の中、秀虎は更に身を縮こまらせていた。まあ、無理もないか。彼もまた自身が跡目に選ばれるなど予想もしていなかったであろうから。


 それにしても秀虎は小さい。背筋が曲がっている所為もあるだろうが、男にしては随分と華奢に見えるのだ。身長は165センチ程度といったところか。体型も瘦せ型で、手足がひょろっと長い。


 これがあの眞行路高虎の息子なのだろうか?


 銀座の猛獣の面影など微塵もない。母親似と言えば母親似だが、秀虎はまるで覇気が感じられない。ヤクザとは実に程遠い絵に描いたような優男だ。


「ぼ、僕なんかに極道が務まるわけないのに……」


 秀虎は震える声で呟く。まるで怯えている子犬のようだ。そんな頼りない青年に、若尾も困惑の色を隠せない様子であった。


「わ、私にも何が何だか」


 若尾もまたわなわなと身を震わせて動揺を露わにしている。真島外相の秘書として眞行路一家の内情はある程度把握していたはずの彼にとっても想定外の展開なのだろう。銀座の猛獣の後継者は長男の輝虎だと認識するのは、消去法で考えれば当然のことだ。


 それは他の幹部たちも同様だ。誰も彼もが驚きと戸惑いの表情を浮かべていたのだった。


 しかし、そんな中でひとりだけ冷静な者がいた。新見である。


「まあまあ。若頭。そうカッカせずに。取り乱すなどあなたらしくもない。ここには本家の人間も来ているのです。跡目としてみっともなく思われますよ」


 彼は平然と言ってのけた。


「ああ!?」


 睨みつける輝虎に新見は続ける。


「こんな遺言状が何だというのです。ただの紙切れでしょう。気にするべくも無いと思いますが」


「てめぇ、なに寝ぼけたこと言ってやがんだ!?」


 輝虎はさらに激昂し、新見に詰め寄った。しかし、彼は全く動じない。それどころか余裕すら感じさせる態度で応じる。


「この内容に従う必要は無いと申しているのです。第一、秀虎様は極道ではないでしょう。そんな人間をいきなり跡目に据えるなど道理に合わない」


「そ、そりゃあそうだが!」


「家督継承の資格を持たぬ者を指名している時点で、この遺言状は効力を有しません。そうではありませんか。あなた様が従う必要など全くございませんよ」


「あ、ああ! 確かに! そうだよなあ!」


「ええ。ここは渡世の慣習に沿って考えるべきです。眞行路一家の五代目を継ぐ資格があるのは残念ながらあなた様だけなのですよ、若頭」


 少し慇懃な口調ながらも兄貴分を諭す新見。


「そ、そうか! そうだな! 俺が継ぐしかねぇんだ!」


 輝虎はようやく落ち着きを取り戻したようだ。その様子を見て若尾もほっと胸を撫で下ろした様子であったが、そこへ憤怒に満ちた声が待ったをかける。


「おいっ! 何を言ってんだい!」


 淑恵だった。


「あんた、自分が何を言ってるのか分かってんのか!? 遺言状に従う必要は無い!? あの人の……先代のお言葉を蔑ろにしようってのかい!?」


 淑恵は新見に食ってかかる。されど、彼は微塵も動じない。


「ご意思はご意思でも、渡世の掟に沿って考えればあまりにも不条理。ならば無いものとして考えるのが妥当というものかと」


「屁理屈こいてんじゃないよ! 先代の遺言状を何だと思ってんだい!」


「その遺言状が渡世の掟に反しているです。極道ではない人間を後継者に指名するなど言語道断。よってここは順当に若頭が跡を継がれるがよろしいと存じます」


 新見はあくまでも事務的に答えるのみ。姿勢はまさしくインテリヤクザのそれ。この組における彼の立ち位置は頭脳を用いたシノギを淡々とこなすことだと察しが付く。


「あんた……!」


 淑恵は怒り心頭の様子だが、新見は意に介さない様子である。それどころか更に続ける始末だ。


「姐さんの方こそ、任侠渡世の理を無視するおつもりですか。我らが重んずるべきは極道社会の安寧だとご教示くださったのは他ならぬあなた様でしょう」


「な、何を言うんだい!」


 淑恵は思わず後ずさりした。その反応を見て新見はニヤリと笑みを浮かべる。実に嫌らしい笑みだった。そして、彼は何の臆面もなく言い放つのだった。


「その紙切れには確かに後継者は秀虎様とありますが、それがどうしたいうのです。渡世の掟に反するものは、そもそも何ら効力を持たぬもの。極道社会の安寧を築くことを第一に考えるならば、伝統と慣習に従うことこそが大切ではございませんか」


 傍から聞いていても不快感を催すくらいに挑発的で慇懃な新見の物言い。それに対して淑恵が激昂するのは当然だった。


「紙切れだなんて! あの人が書いたものをそんな風に!!」


「まあ、そうですねぇ。先代が書いたという点では些かの価値があるでしょうが。それでも遺言状としては無価値です」


「口を慎みなさい!!」


「割り切って考えようじゃありませんか。あれは先代が大戦を前に緊張に苛まれ、正気を失った状態で書いたもの。よって単なる紙切れだと」


「あんたっ!」


 その瞬間、淑恵は新見の頬を殴った。


 ――バキッ。


 鈍い音が響く。女性ながらに凄まじい一撃であり、彼女の剣幕がよく分かる威力だった。殴られた新見は床に膝を付く。


「……っ」


「さっきから聞いてりゃ、好き放題言ってくれるじゃないか!!」


 歯が折れた子分を見下ろしながら、淑恵は怒りの声を上げた。しかし、それでもなお新見は薄ら笑いと共に平然とした態度のままである。


「ふふっ、姐さん。私はヤクザの筋道を重んじているだけですよ」


「何が筋道だよ! だったら先代の言葉に一字一句従えば良いじゃないか! あんたみたいなチンピラふぜいがあの人にケチつけるなんざ百年早い!」


 淑恵は拳を振り上げるが、それを制止するべく蕨が彼女の腕を掴んだ。これ以上は流石にまずいと思ったのであろう。


「姐さん。どうかその辺で」


「くっ」


 淑恵は鼻息荒く新見を睨みつける。しかし、彼は全く動じていない様子であった。それどころか余裕すら感じさせる不敵な笑みを浮かべているではないか。その態度がますます気に食わなかったのか、淑恵は舌打ちをして彼に唾を吐きかける。そして、息子の方に向き直った。


「……輝虎」


 彼女は静かに口を開いた。怒りの感情は少し落ち着いたようだ。ただ静かな口調で問いを放つ。


「この遺言状を何と心得る? 極道として、倅として、お父さんのご意思に従って、潔く身を引いてくれるわね?」


 鋭い視線を向けられた輝虎。さて、奴は何て答えるだろうか。少しの間を挟んだ後に発せられた返事は案の定というか、実に予想通りのものであった。


「その気は無いよ。母さん」


 輝虎はあっさりと言い切った。その口調には迷いが無く、むしろ清々しいくらいに潔いものであった。


「俺は嫡男の座から降りる気は無い。だから、父さんの意思には従えない。尤も、新見の言う通り、この遺言状は単なる紙切れだぜ」


 きっぱりと言い放つ息子を見て淑恵は唖然とした表情を浮かべたが、すぐに怒りの形相へと変貌する。そして勢いよく息子の胸ぐらを掴み上げた。


「輝虎ァ! もういっぺん言ってみな!! 」


 そのまま輝虎を殴ろうとするが、今度は須川によって止められた。


「姐さん、落ち着いて」


「放しなさい! 須川! こいつの育て方を間違った! お父さんのご意思を易々と踏みにじるような倅に育てちまった私の責任だ! その責任を取ろうってんだ!」


 やがて蕨も加わった二人がかりで羽交い絞めにされるも、淑恵は怒声を上げ続ける。そんな母に輝虎は涼しい顔で言うのだ。


「何度でも言ってやるよ。眞行路一家の後継者はこの俺だ! 遺言状に従うつもりは無い!」


「このガキが! 生意気ほざいてんじゃないよッ!」


「別に生意気は言ってねぇさ。組の跡目を若頭が継ぐのは当然のことだろう。何の問題があるってんだよ」


「お父さんはッ! 不埒にも反逆を企てたあんたに組を継がせないために遺言状を書いたんだッ! それを無視しようってんなら、私はあんたを殺すッ!」


「へへへっ。不肖な息子を産んじまった責任を取るってか。いいぜ。やってみろよ。出来るなら、な。息子を手にかける非情さがあんたにあるとも思えねぇが」


「黙れ!!」


 淑恵は息子を殴ろうとするも、その拳は空を切る。蕨と須川によって羽交い絞めにされているため、彼女は身動きが取れないのだ。


「放せ! 放しなさいよ! もうっ!!」


 そんな母の姿を前に輝虎は鼻で笑うのみだ。そして彼はそのまま部屋を後にしようとする。その背中に淑恵は叫ぶのだ。


「……待ちな!」


 しかし、輝虎は振り返らない。それどころか更に挑発的な言葉を放つ。


「誰が何と言おうと、俺は組の跡目を継ぐぜ。父さんの遺言状なんて知ったことじゃねぇよ。クソが」


「待ちなって言ってるんだよ! おいっ!」


 すると不意に輝虎が立ち止まる。ゆっくりと振り返ったその顔は嘲笑うような笑みに満ちていた。


「大体よぉ。仮に俺を廃嫡するとして、あんたはどうするつもりなんだよ。その遺言状に従って秀虎を跡目に据えるのかよ」


「当たり前だ! それがあの人の意思なんだよ!」


「秀虎をヤクザにしちまってあんたは良いのかって話だ。そいつが嫌で父さんにも頼んでたんだろ。『あの子が組事に関わらないように』ってよ」


「そ、それは……」


 淑恵は言葉に詰まる。直後から彼女の様子が少し変わった。次第に呼吸が荒くなり、顔色も青ざめていく。


「母さんは秀虎をヤクザにしたくはねぇんだろう?」


 輝虎は追い打ちをかけるように問う。淑恵は苦虫を噛みつぶしたかのような表情を浮かべて息子を睨みつけるが、それでも答えることはできなかった。


「まあ、結局のところ跡目になり得るのは俺しかいねぇわな。愛美んとこのガキはまだ3歳の赤ん坊で虚弱体質。かたや秀虎はそれ以上に体が弱いってんだからなあ」


「……」


「父さんが俺を廃嫡する気だったのは百も承知だよ。銀座の猛獣もアホじゃなかったからな、息子の不穏な動きを察する頭脳は持ち合わせてたろうぜ」


 どういうことか、秀虎をヤクザにするという文言を聞いた瞬間に淑恵が凍り付いた。何も言い返せないようだ。輝虎は勝ち誇ったような笑みを浮かべてなおも吐き捨てる。


「けれど、今さら梯子を外そうったって無駄なことだ。今の眞行路の中で相応の実力を持った真っ当な男は俺だけなんだから。俺はこのまま若頭として眞行路の五代目を継ぐ。それが正しい選択ってやつだ」


 そう言って去って行こうとする輝虎を制止するべく、俺は懐の銃を抜いて突きつけた。


「待て。輝虎」


 しかし、彼は動じる素振りすら見せない。それどころかニンマリとした不敵な笑みをますます強めるのみ。


「おいおい、麻木次長。冗談は止せや」


「黙れ。先代総長の遺言状を蔑ろにする行為は本家として見過ごせん。今の眞行路一家は本家の管理下、俺の言うことには従ってもらうぞ」


 俺は引き金に指をかけるが、それでも奴は余裕たっぷり。


 その態度を見て俺は確信した。輝虎の内面に変化が起きていると。何をするにも父の影を気にしていた先日までとは異なり、あらゆる所作から恐れや躊躇いが消えている。きっと父が殺されたことで畏れるべき存在がいなくなり、タガが外れたにも等しい心理状態なのだろう。こういう奴は面倒だ。制御が効かなくなった分、何をしでかしても不思議に非ず。


 ゆえに俺は早々に先手を打つことに決めた。肩を狙った威嚇発砲。少し痛い目に遭えば、この場限りは大人しくなろう。


「……」


 やるならさっさとやってしまおう。引き金にかけた指をひこうとした、その時。背後から俺を制止する声が聞こえた。


「……お待ち!」


「えっ?」


 淑恵であった。


 俺が戸惑いながら振り返ると、彼女は床にへたり込んでいた。その顔は青ざめており、小刻みに震えているようにも見える。それを見た俺の心に僅かな動揺が生じたことは言うまでもないだろう。


「ど、どうしたんだよ!?」


「銃を下ろして」


「えっ?」


 俺は思わず聞き返した。淑恵は声を震わせながら続ける。


「銃を下ろしてちょうだい」


「いや、しかし」


「良いから言う通りにしてくれ!!!」


 こうまで大声で迫られては言う通りにする他ない。俺が戸惑いながらも銃を下ろすと、輝虎は勝ち誇ったような笑みを浮かべて淑恵の方に向き直ったのだった。


「分かってるじゃねぇか。あんたにしちゃあ賢い判断だ」


「……」


「もう一度言ってやる。俺は組を継ぐ。誰にも邪魔はさせねぇ。あんたは可愛い秀虎の面倒でも見てろよ。変な気を起こしてこっちの世界に入って来ねぇようにな」


 そう言って輝虎は高笑いしながら部屋を後にした。その後ろを蕨と須川が慌てて付いて行ったのであった。

 さて、どうしたものか――。


 俺は畳にうずくまる淑恵に視線を向けながら思案する。


「姐さん、大丈夫ですかい?」


 三淵が心配そうに声をかけるも淑恵は力なく「ああ……」と呟くだけだ。そして、よろよろと立ち上がると俺の方へと歩み寄って来た。


「麻木次長」


「……え?」


 彼女は俺の目の前まで来ると深々と頭を下げたのだった。


「すまなかったね。みっともないところを見せちまってさ」


「何か深い事情がありそうだな」


 俺が相槌を打つと淑恵は大きく頷きながら話を続けた。その口調はいつになく弱々しかったが、それでもなお芯の強さを感じさせるものであった。


「私はね……秀虎に組を継がせたくはないんだよ。あの子は昔から身体が丈夫じゃなくて、腕っぷしも非力そのもの。誰に似たんだが、ろくに度胸もありゃしない」


 彼女が視線を送った先に居たのは秀虎。いつの間にか彼は部屋の隅で小さくなっていた。なるほど。母親の評価の通り。あれでは確かに組を継ぐ以前の問題だ。


「はあ」


 俯く息子を見て、嘆息混じりに淑恵は言った。


「あんな様子サマで渡世に放り込むのも酷ってもんだろ。食うか食われるかの世界に入っちまった日には1時間ともたないよ」


「まあ、確かに」


 俺は相槌を打った。淑恵は続ける。


「誰に似たんだか、あの子は優しい子なんだよ。ヤクザなんて似合わないよ……」


「でも、先代の遺言状に『秀虎に継がせる』と書いてあった以上はあんたとしても背くわけにはいかねぇんじゃねぇのか?」


「それは分かってる。分かってはいるが……」


 彼女はそこで言葉を詰まらせた。俺は彼女の言葉を待つことにしたが、その必要は無かったようだ。やがて淑恵はゆっくりと漏らした。


「……すまない。少し私に時間をくれないかい」


「構わんさ。時間はたっぷりあるんだ。好きなだけ考えるが良いさ」


「ありがとうね。すぐに答えを出すから……」


 淑恵はそう言って部屋を出て行ったのであった。


 俺は思案に暮れる他なかった。何しろこれは予想してもいなかった展開だ。あの見るからに弱そうな優男が跡目だなんて。銀座の猛獣は何を考えていたのだ? いかなる意図があってこんな選択をしたというのだ? どうして、よりにもよって非力な次男を後継者に……?


 疑問に苛まれる俺をよそに、もはや忘れ去られるも同然の格好となっていた男が帰り支度を始めた。若尾である。


「そ、それでは、皆様方。私はこれで失礼いたしますよ。もう私の出る幕ではないようですのでね、あははっ」


 彼は深々と頭を下げると逃げるように部屋を出て行ったのだった。


 一方、俺は部屋の隅で小さくなる秀虎を見ながら思案する。どうやらさっきの一件でショックを受けてしまったようだ。新見が声をかけても反応が無いし、かといって放っておくのも気が引けるというもの。とりあえずはそっとしておくかと思い始めたその時である。

 ようやく彼が口を開いたのだ。


「あの……」


「ん?」


 俺は秀虎に視線を向けた。相変わらず俯き加減ではあるものの、その目はしっかりと俺に向けられている。


 もしかして恵比寿駅でのことを言われるのか……!?


 一瞬だけドキッとしたが、どうにも違うらしい。


 彼は言った。


「ありがとうございます」


「え? いや、別に礼を言われるようなことはしてねぇが……」


 予想外の台詞に戸惑いながらも俺が答えると、秀虎は首を横に振った。


「いえ、違うんです……そうじゃなくて」


 そう言って顔を上げた彼の顔はどこか悲しげで。しかし、それでも彼は言葉を止めなかったのである。物憂げな面持ちはまるで懺悔するかのようにも見えた。


「母に考える時間をくださって、本当にありがとうございます。人間、ああいう時は一人で考えたいものですから。即断即決が常識の世界ですけどね、やっぱり何事もじっくり考えて決めた方が良いに決まってますよ」


 何かと思えば、俺が淑恵を気遣ったことへの感謝だったか。


「いやいや。あれはお袋さんが一人で勝手に出て行っただけのことだ。こっちは特に何もしちゃいない」


「でも、あなたは『好きなだけ考えるが良い』と言ってくれた。その一言で母はとても助けられたと思います」


「そうか。まあ、それなら良かった」


「僕と違って何でもズバズバ決めてっちゃう人ですけど、今日くらいは……まあ、僕がもっと強ければ母をあんなに悩ませずに済んだのでしょうけど」


 すると近くに居た新見が口を挟んだ。


「そんなことはありませんよ。秀虎様。あなたは十分にお強い。それにまだお若いのだから。これから成長していけば良いのです」


「あ、ありがとうございます。新見さん。でも、やっぱり僕は弱いから……」


 秀虎は俯くと黙り込んでしまった。そんな彼を励ますように新見は穏やかに語りをかける。


「大丈夫ですよ! あなたはまだまだ伸びしろがありますとも! ご存じですか、ワインに使われる葡萄には、1本の樹に100個以上の実をつけるものだってあるのです。そんな葡萄の樹も最初はか細い苗木。そこから歳月をかけて雨風に打たれながら少しずつ大樹へと育ってゆくのです。大丈夫。あなたも葡萄のようにゆっくりと確かな実をつけて行けばよろしい」


 優しい言葉をかけるかと思いきや蘊蓄が飛んできた。あの日、恵比寿のバーで会った時のままだ。俺は軽く咳払いをして割って入った。


「ちょいとマニアックすぎて難しい話だったじゃねぇのか? 新見さんよ?」


「おや! あなたは! 恵比寿の店に居た……!」


 どうやら俺のことを覚えていた模様。初対面ではないが彼はこちらの名前を知らない。軽く自己紹介しておくか。


「中川会執事局次長の麻木涼平だ」


「眞行路一家若頭補佐の新見にいみ晴豊はるとよです。どうぞよろしく」


 俺の顔を食い入るようにジッと凝視した新見は、何かを思い出すように問うてきた。


「あの店にはよく行かれるんですか? お連れの女性はあの日が初めてだと仰っておりましたが?」


「いや、俺もあの日が初めてだったな。恵比寿方面は詳しくねぇもんで。たまたま知ってたのがあの店だったんだよ」


「おっと。それはいただけませんねぇ。デートというものは下見をしてから臨むのが定石ですよ。そもそも若い男女が連れ立って夜遊びに出かける“デート”という行為の起源は……」


「おいおい。小難しそうな話を始めたな」


「ああ、これは失礼。つい自分の趣味の話になると止まらなくなってしまいまして」


 新見は穏やかな笑みを浮かべた。先ほど嫌味たらしく淑恵に食ってかかった時には思わず眉をひそめたが、やはり普段からこんな調子らしい。酒井とは違った意味で「言葉が多い」のだ。


 こういう輩はどの世界にも居る。下手に雑談に乗ってしまうと話が長引くので、適当な所であしらっておくのが程よく付き合う秘訣だ。


「まあ、デートじゃねぇよ。ただ一緒に飲みに行っただけだ」


「一緒にお酒を飲みに行かれるということは浅い仲でもありますまい?」


「あんたにゃ関係ねぇよ」


 新見はニヤリと笑った。そして、彼は秀虎の方に向き直ると再び彼に語り始めたのである。


「ところで秀虎様。あなたは眞行路一家の跡目を継ぐことに抵抗があるのですか?」


「……え? いや……その……」


 いきなり核心を突かれて戸惑う秀虎。


「いや、あの……その……」


「まあ、いきなりこんなことを聞かれても答えられませんよね」


 新見は苦笑いを浮かべた。そして彼は続けて言ったのである。


「お気を害されたら申し訳ありませんが、実は私としてはあなたの兄上様が継がれることに些か懐疑的と申しますか」


「……え?」


 今度は秀虎の方が驚いた様子を見せた。無理もないだろう。先ほど淑恵にあれほど輝虎の家督継承を主張していた男が突然こんなことを言い始めたのだから。


 横で見ていた俺も戸惑いを隠せなかった。率直に問うてみる。


「どういう風の吹き回しだ、新見さんよ?」


「ああ。これは私の個人的見解でありましてね」


 そう前置きしてから彼は語り始めた。


「私は輝虎様よりも秀虎様こそが眞行路一家の跡継ぎに相応しいと思っているのですよ」


「へえ……?」


 それは意外な発言であった。てっきり若頭の輝虎を猛烈に推しているものと思っていたのだが。俺は思わず聞き返した。


「……順当に若頭カシラが継ぐべきだとか何とか言ってなかったか? ここに来て心変わりした理由を聞かせてもらおうか?」


 そんな俺に対して新見はにこやかに応じる。


「心変わりも何も。今さっき判断したのです。秀虎様こそが次の総長となるべきだと」


「じゃあ、さっきはどうして輝虎の方を推した?」


「推したわけではありません。そもそもあの場ではどちらを応援するか決めかねていたのですから」


 新見はそこで一度言葉を区切ると、少し間を置いてから続けたのであった。


「横浜における敗戦で眞行路一家の権威は大きく揺らぎました。組員の半数近くを失い、さらには多額の借金まで背負った。所領の管理すらままならず、組の体裁を維持するだけで精一杯の状況です。まさに一家始まって以来の危機と言って良い。そうした中で未来を担う後継者が頼りないとあっては面目が立たないでしょう。ですから、私は次の親分には確かな実力と器を兼ね備えたお方を望みたいわけです。血筋や先代の遺言状云々に頼らず、自らの力を自らの意思で広く内外に示せるお方をね」


 新見の言わんとしていることは分かる。だが、それでも今ひとつピンと来なかった。彼が先ほど輝虎の家督継承を猛烈に主張した理由だ。


「じゃあ、どうしてさっきはあんなこと言ったんだ? あれは明らかに輝虎の方を推す言い方だったぜ?」


「わざとですよ。あのように申せば若頭はきっと調子付いて本音を吐露される。あのお方が物事の分別を重んじるお人柄かどうかを測りたかったのです」


「随分と回りくどいやり方をするもんだな」


「ふっ、よく言われますよ。ですが十分に確証を得ました。やはり輝虎様は次代を継ぐべきお方に非ず。器が小さすぎる。先代のご意思に従おうという最低限の義侠心すら無いのだから」


 聞いて驚いた。


 この新見という男は輝虎を試したのか? 輝虎の暴言を引き出すために、わざと先代総長の遺言状を軽んじる発言をすることで同調を誘ったのか? そのせいで激怒した淑恵に殴られて痛い思いまで味わったというのに……?


 唖然とする俺をよそに新見はなおも言った。


「私は、次なる総長には極道として一本筋の通った器量を持つお方に就いていただきたい。しかし、残念ながら若頭では不適格だ。彼は渡世の慣習を理由に先代の遺言状が有効ではないと主張していますが、そもそも『先代の意思に従うこと』が渡世の慣習でしょう? ならば、それに反するような言動は慎むべきだし、ましてや親を軽んじるような発言など以ての外というわけです。若頭の言い分は二重基準の詭弁。組のためなどと言ってはいますが、所詮は自分が組を継ぎたいだけなのですよ」


 例によって演説みたく弁を連ねる新見。俺はそれをただ黙って聞いていた。


「ですから、私は若頭よりも秀虎様の方が相応しいと思ったわけです」


「その二重基準とやらで最初に能書きを垂れたのは、他でもねぇあんただと思うんだがな」


「いえいえ。そうではない。あれは若頭に揺さぶりをかけただけです。私の理想は器量の大きなお方が新たな親分となること。秀虎様のようにね」


 まあ、言われてみれば確かにそうかもしれない。しかし、問題は秀虎の意思。どんなに周りが持ち上げても本人にその気が無ければ意味がないのである。


 俺は秀虎に率直に尋ねた。


「なあ。あんた、本当に組を継ぐ気があるのか?」


「え? あ……いや……それは……」


 口籠る秀虎。やはりかと思いかけたところで彼はこう続けたのである。


「……でも、やっぱり僕はそんな器じゃないですよ」


 すると新見が声を上げる。


「何を仰います! あなたは眞行路一家の跡継ぎに相応しいお方! もっと自信を持ってください!」


「いやいや、そんなの、無理ですよ……ヤクザなんて怖いこと……僕には……」


「大丈夫ですよ! 私どもがお支えいたしますから! それにほら、あなたには高虎公の血が流れている! やって出来ないことなどありませんよ! 何ら心配ありません!」


「いや、出来るとか出来ないとかじゃなくて……ヤクザになりたくないって話なんですけど……ごめんなさい……」


 本音が聞こえた。


 ヤクザになりたくない――なるほど。これが彼の本心と見るべきだろう。周囲がどう言おうと本人の中で答えは既に出ているようなものだ。


 だが、新見はそれでも諦めなかった。彼は秀虎の両肩を掴むと熱っぽく語り始めたのである。


「いいえ! そんなことはありません! あなたは立派な親分になれる素質をお持ちだ! 私はそう確信しております!」


「……いや、だから……僕はそんな……」


「ご安心ください! 私があなたを立派なヤクザにしてみせます!」


「あの……だから……」


「まずはその言葉遣いから直しましょう! そのように覇気のないカタギ臭い喋り方はいけませんよ! ほら、私の後に続いて言ってみてください!」


 何やらおかしなレッスンが始まりそうになったので割って入る。これ以上はあまりにも酷だ。分不相応の立場を与えるのは本人を傷つけるだけ。


「おいおい、新見さんよ。もうその辺にしといてやれや」


「む……しかしですね……」


「何を言ったって変わりゃしねぇよ」


 俺が諭すと新見は苦笑しながら立ち上がり、秀虎に深々と頭を下げた。


「分かりました。今日のところは引き下がりましょうか。とんだご無礼を致しました、秀虎様」


「あ、あの……」


 何か言いたげな顔をしている秀虎に対し、新見は優しげに微笑んだのである。


「大丈夫ですよ、秀虎様。私はいつでもあなたの味方ですから。まあ、気が変わったらいつでもお声かけくださいな。フフッ」


「え……あ、はい……ありがとうございます……」


 戸惑いながらも礼を言う秀虎。その眼差しは完全に穏やかなるカタギのそれ。荒々しい極道者の雰囲気など微塵も感じられなかった。


 一体、どういう男なのだろう。新見が出て行った後もなお、俺は座敷に残った。今少しばかり、秀虎と話してみようと思ったのである。


「えっと、秀虎さん。だっけか?」


「秀虎で良いです」


「じゃあ、秀虎。さっきはすまなかったな。それと、こないだはとんだ失礼を施しちまった」


 俺は素直に詫びた。彼は明らかに嫌がっていたのに、もう少し早く新見を止めれば良かった。だが、当の秀虎は特に気にする様子も無く淡々と応じたのである。


「いえ……僕の方こそすみません……無駄に気を遣わせてしまって……」


 恵比寿駅の件は怒っているわけでもなさそうだった。しかし、どういうわけだろう。あの時よりも秀虎の顔は心なしかずっと弱々しく見える。


 酒井組の組員らに面と向かって行った時の度胸は、今の彼からはまるで感じられない。無駄に正義感を昂らせて暴走していたあの日の勇姿がさながら嘘のよう。一体、何が彼をここまで弱くさせてしまっているのだろうか。


 それはさておき、俺は話を続ける。


「あんたも辛いよな。高虎公が討たれたばかりだったのに、こんなことになっちまってよ」


「ええ……まあ……」


「しかし、何でまた高虎公はあんたを跡継ぎに指名したんだろう? あんたは今まで渡世には関わってこなかったんだよな? それなのに?」


 俺が尋ねると彼は俯きながら、ぼそぼそと吐き出すように答えた。


「……分かりません。ただ単に兄の代わりだと思います。それ以外は何も。父ともあまり会話をしたことが無いので。情けない話ですが」


 それにしたって今に至るまで一般人同然に暮らしていた男をいきなり跡目に指名するなんて。幼い頃からヤクザになるべく育てられていたなら未だしも、あまりにも不自然である。心情を察して少なからず同情を寄せた俺に、秀虎は視線を落としたまま語りを紡いだ。


「喧嘩とか、殴り合いとか、そういうのが子供の頃から苦手でした。人を傷つけることが好きになれないんです」


「そうか。なるほどな。だったらハジキ短刀ドスなんか持ったことも無ぇか」


「あるわけ無いじゃないですか。そんなもの。人を殺すための道具なんか見たくもありませんよ」


「ああ、すまんすまん。じゃあ、あんたは誰かを殴ったことも無いってのか?」


「無いです」


 聞けば聞くほどに分からなくなってくる。ヤクザの息子に生まれながらこうまで喧嘩を嫌うようになった理由は勿論のこと、母親をして『優しすぎる』と言わしめたほどの彼が何故に名門組織の跡取りに指名されたのか。なるだけ言葉を選びながら問いを続けた俺に、秀虎は来ていたセーターを不意に捲り上げてその内側を見せてきた。


 そこには無数の傷跡があった。打ち身、裂傷、刺傷、火傷、その他いろいろ。数え切れぬほどの怪我の痕跡がびっしりと刻まれていたではないか。


「……邪推だったら申し訳ないが。いじめられた時についた傷か?」


「はい」


 秀虎は小さく頷いた答えた。


「元々、体が弱くて。体力も無くて運動もからっきしだったものですから。義務教育の間はずっといじめられっ子でした」


「おいおい。眞行路しんぎょうじって名字の子を敢えていじめる奴がいるのかよ。明らかに銀座を仕切るヤクザって分かるだろうに」


「僕、母の旧姓を名乗ってるんで。体の弱い僕を組事に関わらせたくなかったからだと思うんですけど。逆効果でしたね」


 猛勉強の末に高校以降は校風の穏やかな進学校へ入ったため、暴力的ないじめを受けることは減ったという秀虎。それでも男子にしては小柄な体躯のせいで、時折攻撃的ないじめっ子から嫌がらせを受けてきたと語る。大学に上がった今ではいじめられなくなったというが、彼の青春時代が暗い理由はただひとつ「殴る」という行為ができないからだ。


「やり返せないんです。どうしても。いざそういうことをしようと思うと、体が震えて止まっちゃって」


 秀虎はその原因を幼い頃の母の教育の結果だと分析していた。


「母は口癖のように言ってました。『お前は体が弱い。暴力とは無縁の世界にいなさい。次男だから組を継ぐ必要も無い』って」


 淑恵によって暴力的な行為は絶対に許されないと叩き込まれ、教えられてきた秀虎。そのおかげで物心ついた時には極端なまでの優男に育ってしまったそうな。


「殴られてもやり返せないから。そりゃあいじめられますよ。本当に嫌なもので」


 全ては彼を極道社会から遠ざけようとした淑恵の親心なのだが、それは本人にとってはあまり良い結果をもたらさなかったようだ。


「まあ、勇気を出して殴り合いをしたところで勝てませんよね。僕みたいな弱虫は」


「それは体が弱いから……か?」


「はい。そもそも生まれつきの体質だったみたいです。どんなに鍛えても筋力量が平均に達することすらない」


 なればこそに秀虎をヤクザの倅らしからぬ大人しい子に育てようとした淑恵。確かに酷い虚弱体質では息子を任侠渡世とは程遠い所に居させた方が安全というもの。


 それは彼女自身にも分かっていたことなのだろう。秀虎の将来を考えると組事に関わらない方が幸せであると彼女は考えていたのだから……。しかし、それでもなお結局のところ秀虎は極道の世界と関わることになってしまった。


 父親が残した遺言状によって。


「つまるところ、あんた自身としちゃあどうしてぇんだ?」


「無論、嫌ですよ。ヤクザになるなんて。絶対に。母の教えが無くたって人を傷つけることが苦手なんですよ」


「そうか。まあ、そうだよな」


「でも……」


 秀虎はそこで口籠った。何か言いたげな様子である。俺は続きを促した。


「でも?」


 すると彼はおずおずとこう言ってきたのである。


「あの……それで考えると……」


「何だ? 言ってみな」


「……僕が跡を継がなきゃ兄が継ぐってことになるんですよね」


「まあな。今のところ他には3歳に甥っ子さんがいるって話だが、眞行路一家とは長らく連絡が取れてねぇそうだからな。輝虎の野郎で間違いねぇだろ」


「そうですか」


 ボソッと呟き俯いた秀虎。何か含みのある反応であったが、彼がそれ以上に言葉を紡ぐことは無かった。俺としても特に深く聞き出すことはせずに会話を打ち切ることにした。


 先ほどの会話から見る限り、秀虎は兄に対してあまり良い印象を抱いていなさそうだ。あの様子じゃ日頃よりさんざん殴られているのだろう。虐待に近い扱いを受けているとなれば尚のこと兄へ忌避感が生まれる。兄が組を継ぐ――そうして兄が今以上の力を得れば自分の立場が危うくなるかもしれない。不安を抱くのも当然。だとすると取るべき行動はひとつだ。


「あんたの思いは分かったぜ。組に入るのが嫌ってんなら無理することはねぇし、これを機に家と縁を切っちまうのも良いだろう。その時は力を貸してやる」


「あ、いや。そういうわけじゃなくて……」


「ん?」


 違うのか。少し戸惑いながら尋ねた俺だが、秀虎は答えない。彼の中で答えがまとまっていないようであった。


「ええっと……いや、その……」


 何だろうか。俺は彼の答えを待ってやることにした。しかし、数秒の間を挟んで秀虎が寄越してきたのは実に投げやりな答え。


「……何でもないです」


 答えにもなっていない返事というべきか。それだけ言い置くと秀虎は立ち上がり、そそくさと座敷を後にしてしまった。


「あっ、おい!」


 俺は慌てて呼び止めるが秀虎は止まらない。そのまま彼は何処かへ行ってしまったのである。


「……」


 何か言いたげではあったのだが、まあ、良いだろう。無理に引き止める必要も無いし、本人が言わないことを俺が聞くのもおかしい話だ。第一に彼の様子を見る限るでは一家の跡を継ぐこともあるまいというのが率直な感想。


 欲を言えば「新見晴豊には気を付けろ」と忠告しておきたかったのだが、それはまたの機会で良いだろう。今の時点で下手に緊張させてもまずい。


 俺が思うにあの新見という若頭補佐は食わせ者だ。味方のふりをして何を考えているか分かったものではない。ああいう手合いは本当に面倒である。


 家柄や血筋云々で跡目を決めるのはよろしくないなどと言ったくせに、すぐ後にはこんなことを口走ったのだ。


『あなたには高虎公の血が流れている! やって出来ないことなどありませんよ!』


 そう秀虎に得意気に言い放った新見。これは明らかなる論理的矛盾、すなわちダブルスタンダードだ。あの演説チックな話し方といい、ヤクザらしからぬファッションスタイルといい、何もかもが胡散臭く見える。おそらく奴は二重スパイ。秀虎の信頼を勝ち取りながら、その実、輝虎のために策略をめぐらしているに違いない。


 やはり後継者は輝虎か。


 一応、淑恵の話も聞いておきたかったが組員曰く『姐さんは話ができる状態に非ず』ということだったので俺はひとまず引き上げることにした。彼女としては夫の遺言状の通りに事を為したかったのであろうが、どうにも次男を裏社会に引き込むとなれば話は別らしい。極道の妻として、筋を通すことには殊のほか厳格な淑恵も秀虎の件に限っては例外と見た。


 総本部へ戻る途上、俺は酒井に一連の出来事を聞かせた。世襲制組織で親の跡を継ぐ者がどんな心持なのかを知りたかったのである。


「……ってな話だ。先代遺言状には『秀虎』と書いてあったんだが、どうも本人はそれを望んでねぇらしい。お前はどう思う?」


 酒井はハンドルを握りながら答えた。


「本人にその気がぇなら嫌々ながらに継ぐことも無いと思いますぜ。そもそも遺言状ってそこまでの意味を持ちませんし」


「そうなのか?」


「組によりけり、っすね。結局は本人次第ってとこです。酒井組うちじゃあ実子が跡取りってことで俺はガキの頃からそういう風に教育されてましたが」


 確かにそうだ。秀虎は後継者になるべくして育っていないのだ。あの組での本来の後継者は輝虎であり、両親とも次男を渡世に入れる気が無かったのである。そうして実質的にカタギ同然の身分で過ごしてきた秀虎に突如として跡取りの話を持ちかけるのはいささか無理があろう。きっと誰が見てもそのように思うはず。


「ただ、こういう考えもできます。坊ちゃんの身を真に思えば組を継がせた方が却って安全かもしれませんぜ」


 酒井はそう言ってきた。


 坊ちゃん……?


 秀虎のことをそう呼んだ酒井。話を聞いてみると、彼らの間には浅からぬ縁があるようだった。


「うちの親父が横の繋がりを重んじてるもんで、あの兄弟とはガキの頃からけっこう親しく付き合ってました。もちろんあいつらの気質もそれなりに知ってるつもりです。その上で言わせて貰いますが」


 前置きを挟み、酒井は軽いため息と共に続けた。


「もし輝虎が眞行路の五代目を継げば、その時は坊ちゃんの命はぇでしょう」


 自分の立場を脅かす者、あるいはその意図を持つ者に対しては躊躇いなく殺しにかかる――輝虎はそういう男なのだと酒井は語る。相続争いでは少なからず憎しみが生まれるものだが、血を分けた兄弟に殺意を向けるのは穏やかではない。されど、任侠渡世では自然なことだ。


「確かにな。あの強欲な兄貴なら有り得る」


「今でこそ組はまとまってますが、あの中には輝虎のやり方を快く思わねぇ輩もチラホラいます。奴が五代目を継いだ後で組の運営に瑕疵があればそいつらが黙ってねぇでしょうからね」


「なるほど。リスクの種は早々に潰しちまおうってことか。跳ねっ返りが担ぐかもしれん御輿は最初から壊しておこうと」


 大きく頷いた酒井。車が赤信号で停車すると、彼はぼんやりと窓の外を見やり、吐息を漏らしながら呟くのだった。


「……輝虎も坊ちゃんも俺にとっては竹馬の友、ガキの頃から一緒に育った仲です。出来ることなら兄弟同士で争ってほしくはねぇし、二人ともこれからも変わらず過ごして貰いてぇ。それが甘い考えだってのは、百も承知なんですけどね」


 酒井の心情はごもっとも。俺自身に今もなお友と呼べる幼馴染は居ないが、親戚同然の付き合いをしてきた連中が血生臭い騒ぎを繰り広げる様子さまなど見たくないと思うのが常。決して甘い考えではない。


 しかしながら、あの輝虎のこと。『欲しいものはどんなやり方を使っても手に入れる』という強欲さを隠そうともしない男が、相手が弟だからと妥協を見せるだろうか……?


 そうはならないはずだ。


「仮に秀虎が五代目を継いだとしてだ。そうなったらそうなったで輝虎は納得しねぇと思うぜ?」


「輝虎が廃嫡を恨みに思って坊ちゃんを殺すってことですか」


「ああ」


 いずれにせよ兄弟間の争いは避けられないと思うべきだろう。それは酒井も分かっているようで、彼は苦い顔をしていた。


 俺は部下を気遣い、ひとまずは会長に遺言状の件を報告しようという文句で話をいったん打ち切った。しかし、かといって恒元が宥和策を示してくれるわけでもない。むしろ総本部へ戻って一番に報告を投げた直後の彼は、どこか並々ならず嬉しそうな声を出したのだった。


「ほう。となると、お家騒動になるかもしれないということか。そりゃあ面白いじゃないか」


 跡目をめぐる争いが勃発した方が、それだけ眞行路一家の力を削げるから好都合――そう言わんばかりに鼻の下を伸ばす恒元。


 一体、何を考えているのやら。まあ、言われずとも分かる。俺たちがすべきことは輝虎と秀虎の争いを煽るだけ煽り、なるだけ大きな形で争乱に繋げることなのだと……。


 どうせそんなところだろう。


「しかし、問題は現状で秀虎を推す連中が如何ほどいるかだ。秀虎はあの通り気弱な性格だし、遠慮なく言えば『器に非ず』という評価が妥当ではないのかね」

「まあ、そうでしょうね。でも会長としては器じゃねぇ奴が継いでくれた方が都合が良いんでしょ?」


「ああ。その通りだとも」


 恒元は大きく頷いた。理屈としては単純明快なこと。その方が本家として新体制の眞行路一家を操縦しやすくなるからだ。


「かと言って輝虎が継ぐのも吝かではないがね。奴は実に乗じやすい男だ。ああいう阿呆は小手先で使うにはもってこいだ」


 そう恒元が笑った直後、部屋に取次担当の助勤が入ってきた。


「失礼いたします。会長、眞行路一家の若頭がお見えです。跡目の件で取り急ぎお話があるとか……」


 おっと。噂をすれば何とやらだ。その旨を聞いた恒元は即座に立ち上がった。


 そして助勤に告げる。


「通せ」


「よろしいのですか?」


「構わんとも」


 そのやり取りを傍で見ていた俺は、内心で予想を立てた。さしずめ自らの跡目継承の認可を貰うべく、恒元へ直談判に来たのだろうと。


 輝虎とはそういう男なのだ。


「いやあ。お忙しいところ、アポも取らずに申し訳ございません、会長。何分、すぐさまお耳に入れた方が良いと考えたものですから」


 数十秒後に執務室へやって来た輝虎は恭しく頭を下げる。案の定、その顔には打算に満ちた笑みが浮かんでいる。どうやら俺の予想は当たった模様。


「構わんよ。座りたまえ」


 恒元はソファに腰かけるよう勧めた。そうして助勤が茶と菓子を持ってくるなり、待っていましたとばかりに輝虎がさっそく本題へ入るのだった。


「……会長。父の遺言状のことなんですが」


「ああ。ちょうどさっき我輩も涼平から報告を受けたところだ。高虎はお前ではなく弟の方を跡目に指名したようだな」


「ええ、その通りで。父も何を考えていたのやら。まったくもって理解に苦しみます」


「で、お前はどう考えている?」


「もちろん弟を跡目になどさせません。親父の遺言状なんて所詮は紙切れです。そんなものに縛られる必要はありません」


「もちろん弟に跡目を譲る気はございません。遺言状などは所詮ただの紙切れ。そんなものに踊らされてよぉ、組のために長年尽くしてきたこの俺を嫡男の座から外すなんざ道理が通らねぇでしょう」


 やはり何の躊躇もなく言ってのけた輝虎。彼の言い分を聞いた恒元はさも愉快と言わんばかりに笑った。そして大きく頷いた後で頬を緩める。


「お前がそう言い出すことは我輩もとっくに見越していたよ」


「では……」


「ああ。お前が眞行路の五代目を継ぎたいと思うなら我輩はそれを応援しよう。我輩としても秀虎では些か役不足と思うからね」


 どういうわけか輝虎の肩を持って見せた恒元。その真意の程はさておき、恒元の答えを聞いた輝虎は深々と頭を下げた。


「ありがたき幸せ!!」


 そして、顔を上げないままで言うのだ。


「つきましては会長にお願いしたいことが」


「何だね?」


ぎょうしょを書いて頂けませんでしょうか。『眞行路一家の跡目は既定の通り若頭の輝虎』という会長のお言葉さえあれば、父の遺言状の効力を無に帰すことができますので」


「ああ。そういうことか」


 恒元は頷いた。絵に描いたような不敵な笑みを浮かべている。一体、何を企んでいるのやら……。


「分かったよ。書こうじゃないか。跡目に関しては出来るだけ早くに決めてしまった方が良いだろうから」


 それでも輝虎は大喜びするのみだった。


「ありがとうございます!!」


 俺は心の中で勘ぐった。無論、恒元の思惑について。

 このまますんなり輝虎の跡目継承を認めるはずが無かった。必ずや対抗馬たる秀虎と争わせるよう仕向けるはず。そうでなくては本家にとって旨味が少ない。ただ、眞行路一家を直参に戻しただけでは、組織体制の改革という点において不十分なのだ。


 ここは話を引っ掻き回せるだけ引っ掻き回し、跡目争いへと持って行くのが定石だ――いつの間にか俺は会長の考えることが分かるようになっていた。


「ところで輝虎よ」


「何でしょうか?」


「組の者たちは皆お前が継ぐことに賛成なのかね」


 やはりそう来たか。


「遺言状で秀虎が指名された以上、彼を支持する者も少なくないだろう。直参に戻った後で跡目争いなどを起こされては困る。組の総意はひとつにまとめてもらいたいものだ」


 恒元が言うと輝虎は大きく頷くのだった。


「ええ。分かっておりますとも……」


 彼としても思うところがあったはずだ。遺言状を無視して五代目を継ごうとする自分を組の全員が支持してくれるのか。確かに微妙なところであろう。


「……本部長の須川、それから若頭補佐の蕨と新見。この3名は必ず俺を推すでしょう」


「他の幹部たちは? 」


「それについて心配は要りません。『遺言の通りに』って頭でっかちなバカもいると思いますが、たぶんその須川ってのが上手く説き伏せると思うので」


「たぶん? 随分と曖昧な表現だな?」


 恒元の眉がピクリと動く。輝虎は慌てたように取り繕う。


「いえ。決して曖昧な表現ではございません。必ずや説き伏せることでしょう。跡目をめぐって組が割れることはございません」


「もし、それで組がまとまらない時には?」


「不穏分子を早々に粛清いたしますので。その時は会長のご助力を仰げればと」


「ご助力? 弟を殺すのに我輩の力を借りるということか?」


 妙に不機嫌そうにそう吐き捨てた恒元。まあ、これは輝虎を精神的に揺さぶるための芝居なのだろうが。当の本人は気付きもしない。


「あ、いえいえ。その、本家の兵をお借りしたというわけではなく。ただ、会長のお墨付きを頂きたいだけでございまして」


「お墨付き?」


「え、ええ、先代の遺言状を無視して組を継ぐわけですから。それについて、大義名分が必要なのでございます。その方が皆も納得するものと……」


「ちょっと待ちたまえ。何だ、その言い方は。お前は自分が組を継ぐことに何か後ろ暗く思う部分があるのかね?」


「いえ、後ろ暗いっていうより、異を唱える奴が出て来ても不思議じゃないと申しますか……だって、渡世の慣習に反することをしようってんですから……」


「それはすなわち自分の跡目継承が筋の通らぬ行為だと少なからず思っているということではないか! 自分でも疑問に思うことを我輩の名を借りて押し通そうというのか!?」


「そ、それは……」


 言葉に詰まった輝虎は口ごもる。そこへ恒元がピシャリと言ってのける。


「どうやらお前は組の総意をまとめる自信がないようだな。内紛の火種を抱えたまま組織に戻られても困るのだ。もっとしっかりせんか!」


「は、はいっ!!」


「組全員の支持を取り付けろとは言わん。だが、対抗馬くらい自分の力で何とかして見せろ。そうでなくては我輩の盃はやれぬぞ」


 なるほど。このようにして輝虎が秀虎を武力で排除するよう仕向け、眞行路一家内部の不協和音を煽って内紛へ繋げる算段か。

 一方、今ここで中川会のトップとして輝虎を支持する御教書をすぐに書かないのは、騒動を出来る限り複雑にするため。


 輝虎も言っていた通り、継承問題は会長のお墨付きさえあればすぐに収まる。逆にそれが無ければいつまで経っても終わらない。恒元のねらいとしてはゴタゴタを長引かせるだけ長引かせ、眞行路一家の力を二度と本家の脅威にならざる程度まで削いでしまおうというのだ。


「わ、分かりました。それではすぐに組をまとめますので……」


「ああ。頼んだぞ」


 恒元は明らかに高笑いしていた。そんな会長の本心に気付いているのかどうか。頭を下げながら、輝虎はただただ脂汗を流していたのだった。


「さあ、分かったらさっさと帰りたまえ。我輩も暇ではないのだよ」


「は、はいっ!」


 輝虎がそそくさと部屋を出て行こうとした時。扉がノックされた。


「申し上げます」


 入ってきたのは酒井だった。


「会長。眞行路一家の幹部が謁見を願い出て来ておりますが、いかがいたしましょうか」


 その瞬間、輝虎が驚いて尋ねる。


眞行路一家うちの幹部? 誰だ、そいつは?」


「三淵という男です」


 何のことだろうか三淵が訪ねて来ているという。その言葉が耳に飛び込んだ途端、輝虎はあからさまな舌打ちをかました。


「あ!?」


 眉根を寄せた怪訝な表情だ。一方、恒元は失笑を吹き出した。


「これは奇遇だな。若頭に続いて幹部までが来たか。おまけにどちらともアポを取らずにな」


「ええ。いかがされますか」

「連れて来い」


「承知いたしました」


 酒井が一礼して退室すると、恒元が俺の方を振り向いて言った。


「これは愉快なことになりそうだな」


「まあ、確かに」


 三淵の用件が何であるかは知らない。されども若頭が来ているのに自分も来たということは穏やかな用事でないことは容易に想像がつく。組の後継者をめぐって揉めに揉めている中とあれば尚更だ。


「ちょ、ちょっと待ってください会長!」


 輝虎が血相を変えて会長に訴えかける。


「何だってここへ通すんです!? あんなチンピラふぜいが会長に謁見を求めるなんざ分不相応ってもんでしょう!」


「何だ。お前、秀虎と跡目争いをするつもりが無いのか?」


「せっかく来たのだ。話を聞いてやるのも良かろう。それに奴は組の幹部と言ったな。じかに我輩の所へ来ることは認められよう。何ら問題はあるまい」


「え? いや、けれども連絡も無しにいきなり……」


「アポイントを取らずに来たのはお前だって同じではないか」


 輝虎は黙る。会長に反論できないでいる。そんな様子を尻目に恒元は俺に言うのだ。


「さて。何の用件だろうね」


「いやあ。想像もつきません。まあ、少なくとも若頭に傘を届けに来たわけじゃねぇってことは確かでしょうよ」


 外は雨が降り始めた。ただでさえこの日の気温はひと桁台だというのに、雨まで降ってはますます寒い。道路を容赦なく凍らせるから師走の雨は苦手だ。


 そんな他愛もない感想を頭の中で述べていると、扉が開く。酒井の先導で入ってきたのはみつぶちふみ。先ほど銀座でも顔を合わせた眞行路一家の幹部だ。


「やあ。初めましてだね。三淵といったね」


「お初にお目にかかります。恒元様……いや、会長とお呼びした方がよろしいでしょうか?」


「ああ。好きに呼んでくれて構わんよ。適当にかけたまえ」


 着席を促され三淵は輝虎の隣に腰を下ろそうとする。そんな部下を若頭は睨みつけた。


「おいっ! 三淵! てめぇ、何しに来やがった!?」


「はい。出過ぎた行為ということは分かっています。ですが、どうしても会長にお伝えしなければならないことがありまして」


 若頭は語気を強める。しかし、三淵はまったく委縮する気配が無い。そんな部下の姿を見て輝虎は憤怒を滾らせた。


「分かってんだろうな!? ヒラ幹部のてめぇが俺に断りも無く総本部に来るなんざ許されねぇことだ! 何を考えてるのかは知らねぇが……」


 見かねた恒元が割って入った。


「構わんよ。ここでは組内での序など気にせずとも良い。言いたいことがあるなら何だって言いたまえ、下の者の意見を幅広く吸い上げられる方が健全な組織運営が出来るというものだ」


「会長。ありがとうございます」


 三淵は深々と座礼をする。しかし、そこに輝虎が噛みついた。


「会長。お言葉ですが、それをお認めになっては示しがつきません! そもそもうちの組では……」


「黙れ」


 恒元にピシャリと言われて輝虎は口をつぐむ。三淵は顔を上げると口を開いた。


「では、恐れながら本題に入らせて頂きます。既に若頭からお聞き及びのことと存じますが、眞行路一家の先代が遺言状でご次男の秀虎様を跡目に指名いたしました。その件で、会長のお考えをお伺いしたいのです」


「何だとゴラァ!?」


 激昂した輝虎を恒元が制する。


「輝虎! この我輩が『黙れ』と命じたのだ。聞こえなかったか」


「……」


 歯噛みしながら口を閉じる輝虎を尻目に、恒元は三淵に問いかける。


「我輩の考えを聞きたいと言ったな?」


 恒元の言葉に三淵は頷いた。


「ええ。願わくば、会長が若頭と秀虎様のどちらに跡目の継承をお認めになるか。ご聖断を頂きたいのであります」


「ほう? それはつまり、眞行路一家は後継者についてその決定を我輩にゆだねるということか?」


「左様でございます」


 輝虎が大きく口を開けて唖然とする。それもそのはずだ。要は、三淵は眞行路一家の跡目に関して会長による裁定を願い出たのである。


「ははっ。これはまた思い切った申し出だな。今は食客といえども組織に身を置く者であれば我輩の決めたことには絶対に従わねばならんが、眞行路一家はそれで良いというのかね?」


「ええ。その通りで。いかなる決定であっても従います」


 三淵は大きく肯首する。ただ、会長の言葉を待っているようだった。そんな彼の真面目な表情を恒元は豪快に笑い飛ばす。


「まあ、確かに。先代が嫡男以外の者を指名したのではな。どちらを跡目にするか決めかねるのも無理からぬことよ」


 ここで俺は思わず口を挟んだ。声を上げずにはいられなかったのである。


「ちょっと待った!」


「何だね?」


「会長の裁定を求めるってのは、この男の独断でしょうか!? だとすれば道義的な問題が生じます! いち幹部が上を差し置いて組の今後にまつわる決定を下すのはいくら何でも……」


「ふむ。確かにな」


 恒元は顎に手を当てる。そして、三淵に向かって言った。


「三淵よ。我輩の裁定を仰ぐと決めたのはお前個人か?」


「……いえ。眞行路一家総長代行、眞行路淑恵の意向でございます」


「ならばおかしいではないか。代行の考えなのであれば、どうしてここに彼女は来ておらぬのだ。あの女の気質を思えば使いの者を立てたりせずに自ら赴いてきそうなものだが」


「それは……」


 三淵が言い淀む。輝虎がここぞとばかりに割り込む。

「おいこら、三淵よぉ! どういうことなのか説明しろや! 会長のご聖断を仰ぐなんて俺はまったくもって聞いてねぇぞ!」


 そして饒舌な若頭は会長に向き直った。


「この男は嘘をついています! そもそも、跡目は俺だと決まってるんですから! うちのお袋だってそれで納得してますぜ!」


 だが、恒元はそんな部下の言葉を一蹴するのだった。


「黙っていろ」


「……っ」


「淑恵がお前を跡目として認めているだと? 馬鹿も休み休み言え! ならば何故にお前は組をまとめきれていないのだ!?」


「そ……それは……」


「本当に淑恵が納得しているなら須川、蕨、新見のみならず全ての者が従うはずだ。彼女はあの組ではそれほどに慕われているのだからな」


「……」


「彼女を味方につけることが叶わぬから我輩の口添えを求めたのだろう。お前の方こそ嘘をつくな。以後、不埒な振る舞いがあればその時点で絶縁とする」


 弁明をするつもりが藪蛇に不興を買ってしまったらしい。ボロを出したとはまさにこのこと。嘘を見破られて完全に押し黙る他なかった輝虎を尻目に、恒元は三淵に尋ねる。


「淑恵が我輩の裁定を求めているというお前の話は本当なのだな?」


「はい。間違いございません。今日はどうしても外せない用事が入っていましたので、姐さんはこの私を遣わしたのでございます」


 そう断言した三淵であるが。


 本当だろうか……?


 俺には半信半疑だった。というのも、先ほど銀座に居た時に淑恵は「まともに話ができる状態ではない」と組員が言っていたのだ。そんな精神的に動揺した状態で総本部に代理の者を行かせるという判断が下せるのか……?


 ましてや恒元も指摘した通り、生真面目な淑恵ならば如何に慌ただしくとも自分の足で赴くと言い張りそうなものだが……?


 しかし、その辺のことは恒元にはあまり関係が無いようだった。


「そうか、なるほどな」


 またまた顎に手を当てる恒元。そして、一瞬の間を置いた後、その口を開いた。


「良いね。では、この件に関しては我輩が預かろう」


 声を上げたのは輝虎だった。


「会長!?」


 彼はわなわなと震えながら言うのである。


「何故ですか!? どうしてよりにもよって、こんなチンピラふぜいの言葉をお信じになるのです!?」


 すると恒元は平然と言ってのける。


「少なくともお前よりは信ずるに値する男だ」


 されども輝虎とて負けてはいない。


「お袋はさっき部屋から出ないって言ったんですぜ!? そんな状態で難しい判断ができるわけねぇでしょう!?」


「彼女ほどの女であればできなくもあるまい」


「いやいや、おかしい! そもそもさっき言ったじゃないですか! 俺に跡目を継がせてくれるって!」


「気が変わった。それに我輩は『継がせてやる』などとは言ってない。単に『応援する』と言ったのだ」


「それは二枚舌……」


 けれども反論は無理やり中断させられた。


「輝虎!」


 恒元は厳しい声で窘める。その表情はいつになく険しかった。


「お前はいつからこの我輩に盾突くようになったのだ? 何があっても我輩に従うと忠誠を誓ったのではなかったのか? この我輩が『預かる』と言っているのだぞ?」


 あまりの迫力を前に畏縮しきった輝虎に、恒元は低い声で続けた。


「これ以上の無礼を重ねるなら容赦せん。お前の全身を切り刻み東京湾に沈めてやるぞ。それが嫌なら口を閉じておれ」


 そんな会長の言葉に若頭も黙るしかない。項垂れたその姿はまるで獲物を取り逃がした獣のようだった。


「では、三淵よ」


 恒元は何事も無かったかのように話を進めていた。


「そちらの申し出は承知した。帰って淑恵によろしく伝えてくれ。この中川恒元が『必ずや調和をもたらしてみせる』とな」


「ありがとうございます!」


 三淵は深く頭を下げる。そして、彼はそのまま部屋を出て行く。


「……会長。先ほどはご無礼を申し訳ございませんでした。この眞行路輝虎、組の跡目継承をお認め頂いた暁には忠臣として仁義を尽くすことをお約束いたします」


「もう良い。お前も帰らんか。さっさと行け」


「は、はい。それでは失礼いたします」


 三淵に続いて輝虎も帰った。すごすごと部屋を出て行く背中はあまりにも覇気を欠いている。実に滑稽であった。


「……会長も本当に物好きですね」


 部屋に二人きりになったのを確認して俺は口を開く。

「何がだね?」


「いつの世も『必ずや調和をもたらしてみせる』と言った人間が調和をもたらさないのは古今東西の歴史が証明しています。どうなさるおつもりですか?」

 すると彼は小さく笑うのだ。


「どうもしないさ。ただ、グチャグチャに掻き混ぜてやるだけだ。眞行路一家が二度と我輩の脅威にならないようにね」


 そんな会長の言葉に俺は肩を竦めるしかない。輝虎と秀虎の2人を争わせる気のようだが可能なのか。実際問題、後者にはそもそも跡目を獲りたい野心が無いように思える。


「俺が喋った限りじゃ秀虎には野心の“や”の字すらありませんでしたぜ? そんな奴が自分の命を危険に晒してまで兄と争うでしょうか?」


 俺の問いに恒元はあっさりと答えた。


「まあね。本人にその気が無いのは事実だろうな。我輩もあれが7歳の時に会ったことがあるが“軟弱者”という言葉が服を着て歩いているような奴だ」


「だったら……」


 だが、そこで恒元は人差し指を俺の唇に当てるのである。


「戦争とは何も互いの大将だけでやるものではないぞ?」


 そして彼はニヤリと笑うのだった。その笑みに俺は底知れぬおぞましさを感じたのだ。この会長は一体何を考えている……?


 恒元は言った。


「我輩は秀虎に五代目を継がせるつもりだ。弟の方が選ばれたとなれば輝虎は確実に蜂起するだろうから、後は兄弟で潰し合わせる」


「しかし、秀虎の方は……」


 言いかける俺を恒元は制する。


「秀虎自身にその気が無くとも、周囲が奴を担ぐだろう。若頭カシラのやり方を快く思わん連中がな。三淵あたりはまさにそうだろう」


 俺は考えた。確かに三淵は生真面目で先代の遺言の実行を何より重んじることから、秀虎を五代目として推戴する方向に傾くと思われる。先代の意思を蔑ろにせんとする輝虎に反感を抱く者は他にも少なくなかろう。


「……なるほど。それで眞行路一家を輝虎派と秀虎派に分断すれば、そのまま跡目争いに持ち込めるってわけですね。秀虎は立つでしょうか?」


「立たなくとも立つしかあるまい。周りが自分を御輿に担いで戦争を始めたとなればな。気弱であれば尚のこと流れには逆らえぬ」


 これは所謂、同調圧力というもの。恒元は人間の心理をよく知っている。極道に限らず御輿の担ぎ手が暴走して戦乱の火ぶたが切られたケースは日本では多々あるのだ。


「南北朝時代が良い例だ。足利尊氏には実のところ後醍醐天皇と戦うつもりは無かったが、配下の高師直が暴走して戦が避けられなくなった。秀虎も自らを慕う者たちが激発すれば否応無しに戦うしかあるまい」


 なるほど。では、秀虎にとっての高師直は三淵というわけか。何とも独特な例えだがその辺りの歴史を知る俺にとってはとても分かりやすかった。


「問題は淑恵がどう出るかだな。彼女は秀虎を極道にしたくはないと考えている。先ほどの三淵の言葉はおそらく嘘だ」


 恒元はそれが分かっていながら敢えて三淵の虚言を聞き入れたのである。眞行路一家の跡目争いを誘発するために。


「……普通に考えて渋るでしょう。次男をヤクザと関わらせないために別姓まで名乗らせてるくらいですから。いくら夫の遺言だってそればかりは承服しかねると思いますよ」


「うむ。場合によっては輝虎を推す可能性もあるな。最愛の秀虎をヤクザにしたくない一心でな。そうなったら困るね。淑恵に弓を引ける者はあの組の中には居ないのだから」


 眞行路一家の中でも淑恵の存在は大きい。総長の妻、すなわちあねとして先代体制下では組員の実質的な母親代わり。精神的な支柱でもあったのだ。三淵のようなイケイケの若手でさえ彼女にはきっと逆らえない。いくら姐の意を汲んで輝虎を倒す気満々でいても当の本人に「止めろ」と言われればあっさり止めてしまう。そう思われてならなかった。


「さて、どうしたものかな」


 恒元は呟く。その瞳は遠くを見据えていた。


「まあ、何であれ我輩の裁定は絶対だ。それに従わぬなら逆賊として討伐するまで。その辺は淑恵もよく分かっているだろうから大丈夫だ」


 まるであの極妻に深い思い入れを抱いているかのような言い方だ。俺の知らない過去の秘話があるかもしれない。無論、詳しく尋ねることは無いのだが。

輝虎と秀虎。兄弟の確執は深まるばかり。これは極道社会の避けられぬ因縁か。

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