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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第11章 親分たる器
187/261

猛獣の遺言状

 2004年12月10日。


 この日、銀座3丁目の眞行路一家本部では四代目総長、高虎の葬儀が営まれていた。極道の葬式に『しめやかに』という表現は似合わない。大抵、葬儀とは名ばかりのどんちゃん騒ぎの宴会になる。


 だが、今回ばかりは違った。祭壇中央に置かれた高虎の遺影と位牌を前に、多くの者が涙を流していた。


「親父……」


「うわ~んっ! 総長!!」


「仇は必ず取りますから!!!」


 構成員たちは誰もが声を震わせていた。高虎は組員全員の親であり、人生の師匠でもあった。そんな男との最後の別れであるから当然だろう。


 なお、高虎の遺骸に関しては村雨組から返却された後で荼毘に付された。首が胴体から切り落とされた状態であったために腐敗が早く、組に戻ってきた際には見るも無残な状態だったという。聞けば村雨組長が首を落とした後、一部の組員たちが骸を蹂躙していたのだとか。いくら憎き相手とはいえ死人に鞭打つのはあんまりだ。村雨組も不埒な輩が増えたものだ。


「総長……っ!!」


 読経が続く中、構成員たちは声を震わせながら高虎に別れを告げていた。弔辞を読んだのは輝虎である。


「親父。あんたとは色々あったが、感謝もしている。親父のおかげで眞行路は天下にその武名が轟いたんだからな。あんたの伝説はこの俺が引き継ぐ。絶対にあんたを超えてやるからよ。見ていてくれ」


 まったく。少し前までは俺と共謀して父親の暗殺を企んでいたくせに。何が「感謝もしている」だ。随分と調子の良いことを言うじゃないか。そんな不肖の息子に悲しみの色は一切無い。文を読み上げるに際して一切涙を流していなかったのが何よりの証左だ。


 むしろどこか嬉しそうじゃねぇかよ――。


 さて。俺がどうしてこの会場に居るのかというと、恒元から代理での弔問を頼まれたからだ。中川会は眞行路高虎に絶縁処分を下している。よって組織の長である恒元が堂々と葬儀に顔を出すわけにはいかない。そこで俺が『都内で行われる催事の警護』という名目で代参を命じられたというわけだ。


「……ご焼香をお願いいたします」


 やがて俺に番が回ってきた。祭壇の中央に安置された位牌の前では来賓の政治家たちが遺影に向かって焼香している。生前の高虎と縁のあった人物だろうか。


 まあ、良い。


 俺は遺影に向かって一礼し、焼香を済ませる。


「……」


 眞行路高虎。俺としては久々に苦杯を舐めさせられた男だ。一度目の喧嘩では圧勝したものの、二度目の衝突では惨敗。挙げ句、鞍馬の奥義を紙一重で防がれてしまった。あんな屈辱を味わったのは久方ぶりだ。春先の帰国以来、負け知らずだった俺に膝を付かせたのは奴が初めてだった。


 あの日以来、心の底からあの男に「勝ちたい」と思っていた。輝虎の暗殺計画に乗じて復讐を果たすつもりであったのだ。


 それを果たせずして奴が殺されてしまった。俺とあの男の勝負は五分五分の引き分けのまま。こんなにもすっきりしない心地が他にあろうか。


「あんたを俺の手で討ち取れなかったのが残念だよ……」


 俺は位牌に向かって小さく呟いた。そして今一度遺影を見据える。


「……もしかしたら似た者同士だったのかもしれねぇな。俺とあんたは」


 どちらも喧嘩好きの一点は共通していた。同じ時代に生まれていたら、奴とは盟友同士になれたかもしれない。くだらぬ与太話なのだが。


「じゃあな」


 俺は遺影に向かって別れの挨拶を済ませると、そのまま元の席に戻った。それからも葬儀は淡々と続き、弔問客が位牌に手を合わせてゆく。


 そんな時。


「へぇ~! こいつが銀座の猛獣かあ! ツラぁ拝むのは初めてだけど、意外と大したことなさそうだなあ!」


 参列者の中から明らかに場違いな人物が姿を現した。葬式だというのにオリーブ色のジャケットに赤ネクタイと派手な装い。おまけにサングラスで装着していやがる。


 何だ、こいつは――。


 そう思っていると、男は俺の前で立ち止まりニヤリと笑った。


「よお。あんたが麻木涼平か」


「……そちらさんは?」


「俺は政村まさむら平吾へいご。水尾組の三代目組長だ。といっても、つい先々週に継いだばかりだけどな」


 政村平吾。覚えているぞ。水尾組の若頭で村雨組と眞行路一家の戦争のきっかけを作った張本人ではないか。先代組長の暗殺後、組長に昇格。横須賀の顔役になったようである。


「一体何の用だよ?」


「おいおい、つれねぇなあ。せっかく挨拶しに来てやったのによ」


「挨拶だと?」


「ああ。会ってみたかったんだよ。うちのシマをくすねた奴がどんなツラしてるのかってな」


 不敵な笑みを浮かべる政村だが瞳の中は笑っていなかった。どうやらこいつは俺に喧嘩を売るつもりで来たようだ。水尾組で正式な跡目継承が行われる空白期間中、俺が谷山たちを中川会に引き入れたのが気に食わないと見た。


「くすねた? 何かの間違いじゃねぇのか?」


 俺はあえてとぼける事にした。厳粛な式典の最中に揉め事は御法度。下手に乗ってしまうと話がややこしくなる。


「誤魔化すのが下手だなあ。水尾組うちの幹部を誑かしたからにはよっぽど口が達者な野郎だと思っていたが。ただの青臭いガキじゃねぇか」


 白を切る俺を憎々し気に睨みつける政村。明らかに敵意を剥き出しにしているが、無理もない。俺の調略により水尾組は三浦半島の大半を失ったわけなのだから。


「誑かすって何のことだよ?」


「あくまで知らぬ存ぜぬを通すつもりか。まあ、良い。そう遠からず三浦も鎌倉も水尾組うちが奪い返すことになるんだからな」


「ふっ。さっきから何の話をしてるのかさっぱりだが、そんなことができるのかねぇ。あんたはとてもじゃないがそういう器量のある人間にゃ見えねぇぜ」


 俺は政村を煽ることにした。ここで殴りかかってくれば大義はこちらが持てる。後は「中川会に弓を引いた」云々を口実に横須賀を叩き潰せば良いのだ。


「てめぇ……!!」


 案の定、政村は怒りで表情を歪めた。感情的な人間ほど煽りやすいものはない。俺はさらに挑発を続けようと口を開いた。しかし、その直後。彼の口から思わぬ言葉が飛び出した。


「それは俺が村雨組の幹部だと知っての物言いか!? 俺を愚弄するってことは天下の村雨耀介公に唾を吐きかけるってことだぞ!!」


 村雨組の幹部――なんと、この男は村雨組の舎弟頭補佐だった。虎崩れの変より少し前に村雨の盃を呑んでいたというのだ。


 そういえば政村は若頭の時から密かに村雨組と内通。先方と交流を深めていたのだった。それが眞行路高虎の宣戦布告に際して正式に組に加入したというわけか。


「……だから何だってんだよ」


「ふんっ」


 俺の言葉に政村は鼻を鳴らした。村雨組への参入を匂わせたことで俺を怯ませたと思っているのか。虎の威を借る狐、いや魔王の威を借る使い魔とは言い得て妙だ。


「麻木涼平。お前にはいずれ必ず落とし前をつけさせてもらう。領地を奪われて黙ってられるほど水尾組は甘くねぇんでな」


「そうかい。やりたきゃ勝手にしろや。いつでも相手になってやるぜ。俺一人でな。束になってかかってくるが良いさ」


「随分と腕に自信があるみてぇだな。若くして中川会の会長側近に成り上がっただけはある。大口だけはいっちょ前か」


「いや。あんたとの個人的な因縁に組織を巻き込みたくねぇだけだ。尤も、俺はあんたと違って強者に縋って喧嘩をするような真似はしねぇけどな」


「てめぇ!! 言わせておけば!」


 政村は俺の挑発にまんまと乗ってきた。彼にとっては我慢ならなかったのだろう。その様子を見て、俺は内心でほくそ笑んだ。


「……」


 俺は立ちあがり、政村を睨みつける。暫くの間、無言の応酬が続いた。奴も奴で部下を連れて来ている手前、簡単には引き下がれないようだった。


「……後で吠え面かくなよ。人様のシマ奪ってんじゃねぇぞ。組織に媚売るしか能のぇカス野郎が」


 そう言って政村は焼香に向かって行った。


 政村平吾。奴の体から俺は異様な雰囲気を感じ取った。人の道を外れた者特有の臭いというか、軽く言葉を交わすだけで「嫌な奴」と分かる有り様だった。


 事実、この葬儀会場における奴の振る舞いは異様そのもの。


「きゃははっ! 抹香ってこんな熱かったっけ? やべぇな!」


「ちょっとぉ、組長! ガキじゃあるまいし、そんなにふざけないでくださいよぉ~!」


「うわっ、顔にかかった!」


 手下と共に祭壇の前で騒ぎ立て、下品な声で大笑いする。何の真似かと顔をしかめた俺だが、その意図はすぐに分かった。政村は、眞行路一家の面々を挑発しているのだ。


「それにしても無様な最期だわなあ、銀座の猛獣も! 不意討ちで殺されるなんざ雑魚も良い所だぜ!ぎゃはははっ!」


 政村は馬鹿笑いをしながら、眞行路高虎の遺影に対して不遜な言葉を浴びせ掛けている。その傍若無人ぶりに周囲は眉をひそめたが、当の本人は一切気にも留めていない様子だった。


「……」


 必死で怒りを堪える眞行路一家の構成員たち。政村は彼らを煽っているのだ。この場で手を出させ、戦端を開かせるために。


 そもそもこの会場に村雨組の幹部である政村がいること自体、考えてみればおかしな話だ。政村は今回の戦争を引き起こした張本人。そして高虎を討った村雨組の人間なのだから。


 にもかかわらず高虎の葬儀に顔を出した理由は何だろうか。おそらくは手打ち破りか? 賠償金も領土も取らずに講和が結ばれたことをこの男は不服に思い、新たな戦争のきっかけを作るべく敵に我が物顔でやってきたのか? それはこの男自身の勝手な思惑か、あるいは村雨組長の命令か……? それは憶測では分からない。


「用がお済みならお下がりを」


 ぼそっと呟くように注意した眞行路の構成員。それに対して政村は「あ?」と睨みを利かせた。


「何だ、てめぇ? 敗残兵の分際で俺に楯突くってのか?」


「いえ、そんなつもりは……」


 眞行路一家の構成員は委縮して言葉を濁した。政村はそんな彼を嘲笑うかのように鼻を鳴らすと、ずかずかと会場を出て行ったのだった。


 まったく。何だ。あの男は。


 今の村雨組にはああいう奴が居るのか。


 かつて青春を過ごした組も、すっかり変わってしまったものだ。俺は政村を睨みつけながら苛立ちを募らせていたのだった。


「ええ、本日はお集まりいただきありがとうございます。夫もきっと喜んでいることと思います」


 最後に喪主である淑恵の挨拶で儀式は締めくくられた。政村との一件の後は何事も無く、滞りなく葬儀は終わった。眞行路一家組員の中には中川会本家として高虎排除を狙っていた俺を疎ましそうに睨む者もいたが、この場で食って掛かってもどうにもならない事は承知しているのか、特に何もしてこなかった。


「では、これで失礼させていただきます」


 やがて葬儀は終了となり、俺は屋敷を出て行った。


「次長。お疲れ様です」


 外で待っていた酒井の顔を見るなり、俺は大きく伸びをする。


「はあーっ。やっぱ苦手だねぇ。冠婚葬祭ってのは。息苦しくていけねぇや。出来ることならパスしたいもんだよ」


「分かります。俺もあんまり得意じゃないっす。大体、絶縁した組の葬式に人を遣わすことも《ね》ぇでしょうに」


「まったくだぜ」


 今回は中川会としての正式な弔問ではない。それゆえ香典の類は持ってきていないし、俺の服装は喪服ではなく普段のスーツだ。恒元としては弱体化した眞行路一家を狙った外敵の襲撃を警戒しての派遣らしいが、そこまで眞行路に配慮をしなくたって良いだろうにと俺は思った。


「次長。見てくださいよ。眞行路の姐さん、泣いてますぜ。俺、あの人が泣く所を初めて見たかもしれないっす。まさに女傑って感じの人ですもん」


「まあ、泣かせといてやろうぜ。あの人も色々あったろうからな」


「そうっすね」


 俺は酒井と雑談しながら、屋敷を後にしようとする。しかしその時、庭に奇妙な男たちがぞろぞろと現れた。


「ようようよう! 随分と盛大にやってるじゃねぇか! 天下獲りに最も近いといわれた銀座の猛獣、流石に葬式も立派なもんだな!」


 スーツやジャージに身を包んだ男たち。その数はざっと見た限り数十人、いや、百人はくだらなかった。一体、誰であろうか。


「何だ? お前らは?」


 駆け寄った眞行路の組員が慌てて問い詰めた。すると彼らは一斉にゲラゲラと笑い出した。まるで眞行路側の反応を楽しんでいるかのように。


「おいおい、忘れちまったのかよ! 俺らの顔をよぉ!!」


 そう言って前に出てくる一人の男。その瞬間、俺はすぐさま見当がついた。連中はかつて眞行路高虎に侵略された組の残党たちだ。


「だから、誰なんだと聞いている。ここを何処だと……ぶはっ!?」


 詰問する組員たちを殴り飛ばし、男は言った。


「弱いなあ! 眞行路一家も総長以外はただの雑魚だったか! こんな奴らにシマを奪われたって思うと何だか切なくなってくるぜ!」


 すると右隣に立つ男らが同調する。


「せや! こないな腑抜けどもを見たら、殺されたうちの親父が泣きますわ!」


「そうだよなあ! 銀座の猛獣の組っていうからには強者揃いと思っとたのに! 」


 なるほど。かつて高虎が侵略した北海道、福島、富山、静岡、岡山、鳥取、島根、大分。その土地でシマを奪われた連中が謂わば“お礼参り”に現れたのだ。組の垣根を超えて徒党を組んで。例えるならば連合軍とでも形容するのが適当か。


「お、お前ら、まさか……」


 眞行路一家の構成員が顔を青ざめさせる。


「おう! そのまさかよ! 今日は高虎はんに挨拶しに来たんよ! お前に受けた痛み、忘れられるわけが無い! 百万倍にして返したるわ!」


 次の瞬間、男らが暴れ始める。記帳のテントをなぎ倒し、中にいた組員を次々と殴り飛ばしてゆく。


「組長! やめてください! こんなことをしたら中川会との同盟が……!」


「くそっ! てめぇら! ふざけんじゃねぇ!」


 眞行路の構成員たちが必死に止めに入るが、先日の戦いで負傷している彼らは満足に戦えない。果敢に向かって行くも襲撃者らに帰り討ちに遭ってしまう。蕨や須川ら幹部が奮戦するものの、数が数だけに、防戦一方になってしまっていた。


「ひええええっ!」


 そんな中、輝虎は尻尾を巻いて屋敷の中に逃げて行った。組の跡目だというのに。つくづく情けない男であると俺は呆れ返った。


「次長? どうします?」


「どうするもこうするも、やるしかねぇだろ。ここは東京、中川会のお膝元だ。好き勝手やられたんじゃ、代紋が廃るってもんよ」


 そう酒井の肩を叩くと、俺は拳銃を取り出して頭上に向けて鉄砲する。


「……」


 突如として鳴り響いた銃声に一同が沈黙する。俺は前にゆっくりと歩み出ると、暴徒たちの中心と思しき男に向かい合った。


「せっかくのところ申し訳ねぇんだけどよ。帰ってもらねぇかな。田舎者に東京で好き勝手されるのは迷惑なんだわ」


「何や、おどれ。誰やねん」


 男は俺に対して挑戦的な視線を向けてくる。俺は彼らを真っ直ぐに睨みながら言った。


「中川会執事局次長、麻木涼平だ」


 すると男たちの間にどよめきが起こる。


「な、中川会だと!」


「ああそうさ。田舎者共に好き勝手されるわけにはいかねぇからな」


 俺がそう言うと男の一人はゲラゲラと笑い出した。そして不敵な笑みと共に騙りを繋いだのだった。


「誰かと思えば中川会て! そういやあ俺たちもこないだまで中川会だったなあ! 高虎のアホンダラに無理やり組み込まれたんやけどな!」


「ほう。銀座の猛獣が健在だった頃は逆らえもしなかったヘタレどもが、今になってお礼参りか。田舎者は考えることがショボいな」


「何やとワレぇ!? もういっぺん言うてみぃ……」


 ――グシャッ。


 その瞬間、男の言葉は中断された。


「あぎゃあああああ! 顔があああああああ!」


 俺が貫手を突き出し、眉間の中央を破壊したのだ。


「帰れって言ってんだよ。馬鹿野郎が」


 言い終わるや否や、俺はその男に蹴りを浴びせて命脈を絶つ。そして近くにいた別の男に対して手刀を放つ。


「ぐはあっ!?」


 鮮血がほとばしる。俺は血だまりを飛び越し、その勢いのまま次の男の鳩尾に飛び蹴りを繰り出す。


「ごふっ……」


 そしてそのまま体を回転させて、回し蹴りで別の男を叩き潰した。


「な、何だこいつは!」


「や、やべぇぞ! 逃げろ!!」


 俺の動きを見て恐れを為したか、襲撃者たちは一斉に逃げ始めた。しかし俺はそれを許さない。すぐさま連中の背後に回り込むと、手当たり次第に拳を振るい始めた。


「オラァッ!!」


「う、うわあっ!」


 手当たり次第に殴られる男たち。ある者は顔面をへこませ、またある者は血反吐を吐く。俺は彼らの腹部や胸部に容赦なく拳を突き刺して行った。


「逃がさねぇぜ!」


 逃げようとする男たちの行く手を塞ぎ、酒井が発砲する。弾丸は男たちの腕に、脚に命中、彼らを次々と地に伏していく。


 流石は俺の部下。射撃センスは本家の中でも抜きんでている。だが、そこへ意外な男が加勢に現れた。


「おうおう! 三代目水尾組! 助太刀するぜ!」


 帰ったはずの政村平吾。どういうわけか部下と共に乱戦の中に飛び込んできたのだった。


「ああん!? 何だてめえら!?」


 突然の闖入者にギョッとする酒井。だが、政村はそれに取り合うこと無く眞行路の組員たちの間に入り込み、暴れ始めたのだ。


「この野郎! 人様の弔いを邪魔してんじゃねぇぞ!」


 お前だって先ほどは葬儀会場でグダグダとふさけていたくせに。まあ、真意はさておき。鎮圧者側の人数が増えた方が片付けやすいので大いに助かる。


「逃がすかよ!」


 それから1分も経たぬうちに、俺たちは襲撃犯たちを一掃した。すっかり血みどろとなった会場には無惨な遺骸がそこら中に倒れていたのだった。


「……」


 多少の想定外こそあったものの、こうした眞行路高虎の葬儀は無事に幕を下ろした。その最中に乱入者が現れたこと、それを中川会の人間である俺が返り討ちにしたことは裏社会で瞬く間に噂となり、眞行路一家の動揺ぶりを改めて形で示すこととなった。よくよく考えると、これこそが恒元の狙いだったのではと思えてくる。


 葬儀が終わった後、俺は総本部へと戻った。一連の催事中に暴動が起きた旨を知った恒元は実に嬉しそうに笑顔を見せるのだった。


「そうか。それは愉快なことだな。親分の葬式を邪魔にしに来た不逞の輩を独力のみで追い返せなかったとあらば、眞行路の名は大きく失墜する」


 なるほど。それを見越して俺を代参させたわけか。やはりこの男は計算高い。眞行路高虎は各方面に恨みを買っていた。戦争の敗北で組の力が大きく減退して弱体化した今、因縁を持った奴らが何かしらの襲撃をかけてくるのは分かり切ったことだった。


「……だから俺に『行け』とお命じになったんですね」


「左様。お前は見事に期待に応えてくれた」


 そうして俺は恒元に唇を奪われ、執務室のソファへと押し倒された。そのままの勢いで服を脱がされて情事が始まる――恒元が口いっぱいに含んだカルヴァドスをキスで飲まされた俺。あまりにも濃密な行為のせいで何度も気が遠くなりそうだった。


「ふう。お前は可愛いな。涼平」


「いえ、そんなことは」


「ずっと我輩の物でいてくれよ」


 そうして着衣を戻した時には外は暗くなっていた。


「涼平。ちょっと使いを頼まれてくれんか。琴音に届け物をして貰いたいのだ」


「えっ?」


 代々木にいるという琴音。そんな彼女に渡すようと言われたアタッシュケースだが、やけに重い気がする。中身は何なのだろう……?


 まあ、どうせろくでもないものに違いない。


 俺は特に何の気も無しに総本部を出て街を歩く。代々木までは地下鉄に乗れば早いのだが、散々に尻を掘られた後となっては電車に乗る気分ではない。俺はタクシーを拾うべく大通りへ向かった。


 ところがどういうことか。一台も捕まらないのだ。走っているには走っているものの、いずれも『実車』あるいは『予約中』の表示。


「ちっ……。なんだってんだ」


 俺は舌打ちを鳴らしながら歩き回る。そうしているうちに足が自然と小路へ逸れ、いつのまにか三丁目の方へ来てしまっていた。


「ああっ、麻木君!」


 不意に声をかけられた。振り返るとそこには馴染みの顔が立っていた。与田組合長――華鈴の父親で、行きつけの喫茶店のオーナーだ。


 どうやら『Café Noble』の前まで来ていたらしい。


 そうだ。マスターに頼んでタクシー会社へ電話してもらい、店の前まで配車を頼んでもらおうか。


 思いついた名案に心の中で感嘆していると、与田組合長が俺に問うてきた。


「麻木君。この後は暇かい?」


「こんばんは。お生憎様、暇じゃねぇな。会長の使いで代々木まで行かなきゃならねぇもんでよ」


「おお! 代々木か! それならちょうど良い! ちょっと君に頼まれて欲しいことがあるんだ。引き受けてくれるかい?」


 何か頼み事があるといった感じの与田氏。俺が戸惑っていると、彼は少し大きな紙袋を差し出してきた。


「実は今、娘が代々木に居てね。これをあの子に渡して欲しいんだ。本当は僕が行くべきなんだけど……これから修理業者が来る予定で」


 与田氏の頼み事とは、華鈴に紙袋を渡して欲しいという依頼だった。何という偶然だろう。まさかあいつまで代々木に居るとは。


「あ、ああ。いいぜ」


 少し驚きながらも俺が引き受けると、与田氏は「いやあ、助かるよ!」と大袈裟なくらいに喜んでくれた。


「代々木の『STRANGER』っていうスポーツジムだ。出来ればこっちの方を優先してもらえると助かる」


「わかったぜ」


 俺は紙袋を受け取って、与田氏に軽く会釈した。そしてそのまま踵を返すと歓楽街を真っ直ぐに歩き出した。


 それにしても華鈴の奴も隅に置けないな。こんな時間にジムでトレーニングとは。きっと何か思うところがあって体を鍛えているのだろう。


 そんなことを考えながら歩ていると、横丁の外れで表示のないタクシーを見つけた。俺はすかさず手を挙げる。するとすぐにタクシーが停まった。


「代々木の『STRANGER』ってジムまで」


 そう告げると、運転手は何も言わずに車を出したのだった。


「……」

 与田氏から預かった紙袋、そして会長から持たされたアタッシュケースを膝の上に乗せながら、俺は窓の外を眺めていた。夜の東京の街はネオンで彩られ、まるで宝石箱をひっくり返したかのように美しく輝いている。特に通りはこの夜になると一段と壮観さを増すのだ。


 そんな光景を眺めながら、俺は華鈴のことを想っていた。


 あいつはどうしてジムなんかに行っているのだろう? やはり別府での一件が影響しているのか? いや、もしかすると俺が知らずにいただけで元からの習慣だったのかもしれないが……?


「お客さん、着きましたよ」


 運転手の声で我に返る。俺は慌ててタクシーを降りると、目の前にあった建物を見上げた。それは大きな雑居ビルだった。入り口の看板には『3F STRANGER』と書かれた看板が掲げられている。どうやらここで間違いなさそうである。


 支払いを済ませて車を降りると、俺は荷物を抱えて自動ドアを潜った。エレベーターで3階まで行くといかにもスポーツジムらしい雰囲気が出てくる。受付らしきカウンターがあったのでそちらに向かう。


 そこには一人の女性が座っていた。


「いらっしゃいませ」


 受付嬢と思しき女性が笑顔で出迎えてくれる。俺は軽く会釈しながら言った。


「いや、ちょっと人に会いに来たんだが……与田華鈴って娘はいるかい?」


 すると彼女は少し困ったような表情を浮かべた。そして申し訳なさそうに言う。


「すみません。会員制ではございませんので、お客様のお名前は把握してないんですよ」


「そうなのか?」


 スポーツジムといえば会員制だと思っていたので呆気に取られる俺。曰く、この『STRANGER』は券売機でチケットを購入し、それを受付で渡すことで入場できるシステムになっているらしい。会員にならずとも誰でも気軽に利用できるのが売りということか。


「なるほどな」


「その方とは待ち合わせされてるんですか?」


「いや、待ち合わせってわけじゃねぇんだが。荷物を届けてくれって頼まれててよ」


「でしたら、そのままお入り頂いて大丈夫ですよ」


「良いのか?」


「ええ。お恥ずかしい話ですが、館内放送も無いので」


 てっきり大人980円のチケットを買わされる流れになるかと踏んでいたので拍子抜けだ。まあ、無駄な出費をせずに済むのは助かる。


 俺は受付嬢に軽く礼を言ってから、ジムの中に足を踏み入れた。受付から廊下を行くとガラス張りの大きな部屋が見えてくる。中には広々とした空間が広がり、様々なマシンやトレーニング機器が置かれていた。

 華鈴の姿はすぐに視界に飛び込んできた。


「……あっ」


 思わず声が出た。ショルダープレスマシンで筋力トレーニングに励むその姿は、キャミソールに短パンという実に露出の多い格好。おまけに元よりグラマラスな彼女は谷間がくっきりと覗いており、胸の双丘には汗が浮かんでいる。


「……」


 俺はその光景に釘付けとなった。華鈴は汗を流しながら黙々とトレーニングを続けている。その表情からは真剣さが窺える一方、同時にどこか憂いを帯びているようにも見えた。


 そんな時である。不意に彼女の視線がこちらに向けられたのだ。そして俺に気づくなり驚きの表情を見せると、慌ててマシンから離れたのである。


「……麻木さん!?」


 彼女はタオルで汗を拭いながらこちらに近づいてくると、俺の目の前に立って戸惑った様子で問うてきた。


「どうしたの? 何でここに?」


「あっ、いや……その……親父さんに頼まれてな。お前にこいつを届けてくれって言われたんだよ」


 そう答える俺に、華鈴は嬉しそうな笑みを浮かべた。そして歯を見せて笑う。


「ありがとう」


 その表情はとても可愛らしく見えた。俺は思わず視線を逸らしてしまう。顔が熱い。きっと赤くなっているだろうなと思った時である――彼女が言ったのだ。


「それ、何が入ってるの?」


「な、何だろうな」


 俺はひとまず彼女に紙袋を渡す。ここに来るまでの道中、中身を確認することは無かった。与田氏から釘を刺されてはいなかったがアタッシュケースと同様に『中身を見てはいけない』という謂わば玉手箱的な思いで運んでいたのだ。


「うーん……何だろ……あっ!」


 袋の中に手を突っ込んだ華鈴は、すぐに怪訝な顔をして中身を取り出した。それは俺としても反応に困る代物であった。ひと組の女性の下着――ブラジャーとショーツである。


「はあ……またか……」


 華鈴は顔を赤らめながら呟くと、恥ずかしそうに俯いたのである。そんな彼女の仕草にドキドキしながらも、俺は努めて平静を装う。


 どうして下着が……いやいや、決していかがわしい理由ではあるまい。要は紙袋の中には着替えが入っていたのだ。その中から取り出したのがたまたまブラとパンツだったに過ぎない。


 いや、おかしい。


 あまりにもおかしい。


 このジムには他の客も居るのだ。それも女性のみならず筋骨隆々の男性客が。彼らの視線が気にはならないのか……女の子が自分の下着を晒すなんておかしいだろう!


 この娘は男勝りというか、時折普通の女とはかけ離れた行動を見せることがある。俺としてはもう少し気を付けて貰いたいところだが……まあ、彼女が良いなら良いのだろう。


 なお、当の華鈴は無言のままその下着をまじまじと見つめていた。そして俺の方を見るなり、彼女は吐き捨てるように言ったのだった。


「……お父さんの仕業ね」


「えっ?」


 俺は思わず聞き返す。すると彼女は大きく溜め息をついてから続けた。


「あの人、私のことになると過保護になるの」


「過保護って?」


「極端な話『たまには女らしい下着を着けろ』ってこと。お父さんに言わせれば、あたしは女としての自覚が足りないんだって」


 華鈴はそう言うと、苦笑いを見せた。直後に手にしていた下着を袋の中へと仕舞う。そして続ける。


「あたし、いつもスポブラだからさ。たまにはちゃんとしたブラを着けてみろってことなんだろうけど……でも、こんなレースたっぷりのフリフリしたやつなんて似合わないよ」


「そうか? 俺は似合うと思うけどな?」


 思わず口を衝いて出た言葉。それは紛れもない本心だった。華鈴は驚いたような表情を浮かべた後で、すぐに照れたような素振りを見せる。そんな彼女の反応を見て初めて自分が何を言ったのかを自覚したのだった。


「あ! いや……その……」


「あ、ありがとう……」


 互いに気まずくなりながらも沈黙。だが、それは決して不快なものではなかった。むしろ心地良ささえ覚えるくらいだ。俺は華鈴の照れた顔を見つめながら思うのだった。


 ああ、可愛い……そして同時に思ったのだ。この娘を守ってやりたいと……心からそう思ったのである。

 その後ですぐにハッとする俺だったが、時すでに遅しである。俺の視線に気づいた彼女は恥ずかしそうに顔を背けてしまったのである。


 俺は「やべぇ!」と心の中で叫んだものだ。されど、ここで言葉を紡がねば男の名に恥じるというものだ。


「あ、ああ……えっとな……」


 俺は慌てて華鈴に話しかけた。彼女は相変わらず赤面して俯いたままだが、それでも構わず続けることにした。


「た、たまには良いんじゃねえかな」


「……へ?」


「そ、そういうのを着けてみても。俺が口出しする話でもねぇと思うんだけど。きっと可愛いと思うぜ」


 俺の言葉を受けて華鈴は黙り込んでしまった。耳まで真っ赤にして俯いている姿は実にいじらしいものだ。そんな姿にドキドキしながら俺は思ったのである。

 しまった。つい、要らぬことを口走ったか。


「……」


 気まずい沈黙が流れる中、俺は必全力で言葉を探していた。華鈴は俯いたまま動かない。


「……」


 駄目だ。何も思い浮かばない。


 こんな時はどうすれば良いのだ? 誰か教えてくれ……!


 やがて華鈴が口を開いたのはその数分後のことだった。彼女は上目遣いに俺を見つめると恥ずかしそうに言ったのである。


「あ、ありがとう」


 それだけ言うとまたまた俯いてしまう彼女だったが、その表情にはどこか嬉しそうな様子が窺えた気がしたのだった。


 よしっ! 手応えありだ!!


 そんなことを考えていると突然、周囲から声が飛び込んできた。


「ははっ! 見せつけてくれるじゃねぇか! おふたりさんよぉ!」


「そこのお姉ちゃんよぉ! 随分と立派なものをぶら下げてるじゃないのぉ! ひゃはははっ!」


「そのデカいオッパイで俺たちのウインナーを挟んでくれよぉ! そんなダサそうな彼氏より俺たちの方がよっぽど上手いぜ! 1分につき千円やるから!」


 そんな声と共に現れたのは、“いかにも”な連中だった。年齢は20歳前後あるいは高校生といったところか。3人組の男共だ。全員揃って金髪でピアスをしており、鍛え上げた肉体を誇示するがごとく上半身裸。見るからにチンピラといった風貌である。


 なるほど。敷居の低いスポーツジムだけあって客の民度も低かったか……と思って舌打ちを鳴らす俺とは対照的に、華鈴は至って平然としていた。それどころか男共に挑発的な言葉を投げかけたのである。


「何か用? ブ男さんたち?」


「ああ!?」


 華鈴の言葉を受けて男達の表情が一変する。怒りに満ちた形相で睨みつけてきたのだ。俺は慌てて間に入ることにした。


「てめぇら、何の用だ。見たところ『トレーニングの仕方を教えてください』って風でもぇな。用が無いなら話しかけねぇでもらえると助かるんだが」


 そう言って睨みを効かせると、男たちがたじろぐ。


「っ!?」


 おっといけない。迫力を強めすぎたか。


「……」


 ただならぬ気配に背筋が凍る彼ら。それでも、一度女に狙いを定めたからには引くに引けなくなったのだろう。そのうちの一人が声を荒げて言った。


「お、おい! てめぇら!」


 すると残りの二人も威勢よく応じる。


「おうよ!」


「ああ、やってやるぜ!」


 3人の男は拳を鳴らす。それを見た華鈴が鼻で笑う。


「何それ? あたしを手籠めにしようっての? タマを潰されたくなかったら大人しく引き下がった方が良いんじゃない?」


 自信と貫禄たっぷりに言い放った華鈴。そんな彼女の態度に男達はいきり立った様子を見せる。


「んだとこのアマ!」


「大人しく這いつくばるのはテメェの方だ! 今すぐそこに土下座して詫びりゃあ手荒なことはしないでやるよ!」


 そのうちの1人が両脇の男を宥め、少し落ち着いたトーンで語りをかけてきた。


「なあ、お姉さん。俺たちは何もあんたを乱暴しようってわけじゃねぇんだ。ただちょっとだけ俺たちと遊ばねぇかって話よ」


 そう言ってニヤリと笑う男に華鈴は冷たい視線を投げかける。


「はあ? 何それ、キモいんですけど」


 すると男はさらに続けた。


「あんたにとっても旨い話だと思うぜ。何せ俺たちみてぇなデカチンと遊べる機会なんてそうあるもんじゃねぇだろうからな」


 その言葉に呼応するかのように他の2人も下卑た笑みを浮かべる。そして彼らは一斉に言ったのだ。


「考え直すなら今のうちだぜ……?」


 だが、華鈴はそれを一蹴した。


「お断りよ。間抜け野郎ども。そうやって徒党を組んでタカれば女は簡単に落ちるって勘違いも甚だしい」


「ああっ!?」


「さっさと失せろって言ったんだよ!!!」


 次の瞬間、華鈴が神速の挙に出る。


 ――バキッ。


 男の鳩尾めがけて打撃を繰り出した。鈍い音が響いたかと思うと、男は悶絶してその場に倒れ込んだ。


「ぐぇぇぇぇっ」


 他の2人が慌てて華鈴に飛びかかろうとするが、彼女はそれをひらりと躱すと男らの足を払った。そしてバランスを崩した隙に鳩尾へ強烈な蹴りを叩き込むと、最後の1人にも踵落としを喰らわせてダウンさせる。まさに一瞬の出来事であった。


「……」


 3人の男達は地面に倒れ伏したまま動く気配がない。どうやら気絶してしまったようだ。俺は華鈴の元へ駆け寄ると言ったのである。


「やるじゃねぇか。流石はレディースの元総長」


「こんなの喧嘩の内にも入らない」


 そう言って自嘲気味に笑う華鈴だったが、俺は彼女の強さを目の当たりにして改めて舌を巻いた。その機敏な身のこなしは目を見張るものがあるし、女子ながら拳に重みが乗っていて破壊力抜群そして、何より度胸があるように感じられたのだ。それはきっと彼女が暴走族時代にくぐりぬけてきた修羅場によって育まれた喧嘩のセンスであるに違いない。


「はあ。せっかく今日は良い調子だったのに。こいつらのせいで台無しになっちゃった」


「とんだ邪魔者だったな。ところでお前、どうしてジムなんかに? あまり鍛えてるイメージとか無かったから少し意外だな」


「あたしだって鍛える時もあるよ。まあ、最近はサボり気味だったけど」


「へえ……じゃあ今日はどうして?」


 すると華鈴は照れくさそうに顔を背けながら言った。


「あんたにあたしのトレーニングしてる姿をカッコいいところ見せたくてさ……」


「こないだ麻木さんのカッコいい戦いぶりを見ちゃったからさ。あたしも負けてらんないなと思って」


 俺は思わずドキッとした。だが、男がいつまでも赤面していては恥の一文字に尽きる。すぐに我に返ると慌てて取り繕うことにした。


「あ、ああ! そ、そうか! いや、嬉しいよ!」


 そんな俺の反応を見てか華鈴がクスリと笑う。


「何よ。『嬉しい』って」


「そ、そりゃあ、アレだ……まあ、ざっくり言うと『嬉しい』ってことだよ」


「うふふっ。説明になって無いじゃん」


 俺は気恥ずかしさを誤魔化すように笑った。彼女もまた笑っていたのだがそれはそれで良しとしよう。


「麻木さん。今日はありがとね。着替え、持ってきてくれて。これで安心してシャワー浴びられるわ。もうすっかり汗かいちゃって」


「ああ。親父さんに頼まれたからよ」


「とりあえず、あたしはもうちょっと運動したら帰るから。ああ、その前に。こいつらどうしよっか?このままにしとくわけにもいかないよね」


 華鈴が指さした先には、先程のチンピラども3人が気絶して倒れている。俺は小さく溜め息をつくと言ったのである。


「まあ、放置しておくわけにもいかねぇか……よし。俺が連れて帰るわ」


「良いの?」


「おうよ。本職としてこういう馬鹿にはきっちり灸を据えてやらなきゃならねぇからな。見たところカタギの不良ってところだし、近くの組にでも連れてって軽くシメてやりゃあ大人しくなるだろ」


 ここでいう近くの組とは中川会系列事務所のこと。何処か適当な直参を見繕って、こいつらを引き渡して“教育”を頼めば良いだろう。


「うふふっ。そりゃあ名案かもね」


 華鈴も賛意を示してくれたことだし、俺は携帯を取り出して端末内の連絡帳に視線を落とす。


「ええっと……代々木界隈だと……」


 自然と独り言がこぼれた時。俺の言葉を遮るように、不意に女性の声が聞こえた。


「その必要はありませんわよ」


「っ!?」


 驚いて振り返る。そこには、1人の女が立っていたのだ。黒のスポーツブラに黒のショートパンツというスポーティーな出で立ち。タンクトップから覗かせる両肩にはブラジャーの肩紐が見える。何と言うか物凄く妖艶で美しい女……と、見惚れている場合ではない。

 その女は俺の記憶にある人物だった。


「琴音!」


「うふふっ。こんなところで会うとは奇遇ね、涼平」


 霧山琴音。俺が前々から気になっている女であり、つい先日には見事にたぶらかされた女。というより、本日この後に届け物を渡す予定だった人物だ。


「あんた、どうしてここに!?」


「いけないかしら。私だってたまには運動がしたくなるのよ」


 何故に琴音がここに居るのか――事態が呑み込めず呆然とする俺をよそに、当の琴音は華鈴に向けてにこやかに挨拶を贈っていた。


「初めまして。霧山琴音です。よろしくね」


「あっ……ああ……初めまして……」


 瞳をぱちくりとさせる華鈴。無理もない。何故なら、ここにいるのは他でもない、霧山ファンド代表の霧山琴音だ。日夜ニュースを騒がせる時代の寵児たる女相場師なのだ。例えて言えば街中で偶然ばったりと芸能人と出くわした感覚に近しいか。ぽかんとした面持ちで「本物だ……」と呟いた気がするのも当然の反応であろう。


「あ、ああっ、そうだ! 琴音! 会長からあんたに渡せって頼まれたものがあったんだ!」


「ん? 何かしら?」


「これだ」


 ふと我に帰った俺は左手に携えていたアタッシュケースを琴音に差し出す。


「ああ。なるほどね」


 彼女は中身を開かずとも大体の事情が分かっているようだった。


「感謝しますわ、涼平。会長に伝えてくださらない? 『確かに頂きましたわ』と」


「お、おう」


 やけに満足そうに箱を見つめる琴音。一体、中には何が入っているのやら――そんな疑問はさておき。俺たちの会話を見ていた華鈴がここで口を挟んできた。


「あの、二人は、その、どういう関係?」


 直球の問い。俺の胸の鼓動が早まるのが分かった。ここで迂闊な答えは厳禁……間違っても『華鈴と同じく気になっていた女だ』なんてことは口に出せない。


 だが、しかし。


 それ以外ではどう答えれば無難で済むものか。適当な嘘が見つからずに俺は混乱に苛まれる。


「ああ……何ていうか……その……」


 絵に描いたような動揺に襲われて言葉に詰まる。そうして黙りこくる俺の様子を嘲笑うがごとく、琴音が先に答えを提示した。


「ビジネスの関係よ。中川会とは親しくお付き合いをさせて頂いているから。涼平はその橋渡し役というわけ」


「そ、そうなんですね」


 華鈴は高速で瞬きを繰り返すばかり。まあ、当然だ。あの霧山琴音が突如として現れたのだから……そう思っていると、琴音が頬を緩めて思いがけぬ台詞を放った。


「あらあら。驚かせちゃったかしら。一応、言っておくけど。この事実で私を脅そうったって無駄ですことよ」


「お、脅す?」


「ヒルズ族の女社長が暴力団と関係を持っている……あなたのような一般人にはスキャンダルの臭いがするかもしれないけど、任侠渡世の親分方と誼を通じているのは何も私だけではありませんわ」


「はあ?」


「この国を動かす政治家や財界人、俗に“権力者”と呼ばれるお歴々は皆、各々が極道とコネクションを築いている。表向きは犯罪組織の撲滅を掲げる司法当局のお偉方でさえズブズブのご昵懇。だから、あなたが暴力団との関係をネタに私を強請ろうと企てても無駄ということ。それは私にとって弱みでも何でもないのだから。お分かり……」


「強請ろうだなんて! そんなこと考えませんよ!」


 どういう意図か、やや煽るような口調であった琴音。それに対して華鈴は少し語気を強めて言葉を遮った。


「そんな説教臭く言われなくたって分かってますよ! 私はただ、新聞やニュースで見かけるあなたが突然現れたから、びっくりしてるだけです!」


「ああ。それなら良かったわ。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていらっしゃったから、てっきり私はあなたに良からぬ意図があるものと思ったの」


「ずいぶんと失礼ですね! 初対面の人に向かって! どれだけ金持ちか分かりませんけど、流石に一般人を馬鹿にしすぎじゃないですか?」


「あらあら。ごめんなさいね。私の世界じゃ初めて会う相手には先ず警戒心を持つことから始めなければならなくって。ついつい癖が出ちゃうのよ。嫌ね、職業癖かしら。驚かせてしまって本当に申し訳ないわ」


「驚くなと言われたって無理ですよ! 初めて生で会った霧山琴音がテレビで観る以上に無礼で不遜だったんだですから!!」


「うふふっ、あれは少しキャラを作ってる部分もあったのだけどね」


 日頃よりメディアでは歯に衣着せぬ物言いで通っている琴音。そんなキレキレの女社長を前にしても平然と皮肉を返してのける華鈴もなかなかのもの。かつては暴走族で総長を務め、今は街の何でも屋として毎日のように起こるトラブルを捌いているだけの度胸はあるか……いやいや、感心している場合ではない。


 この二人を止めなくては。何というか、空気があまりに気まず過ぎるのだ。世間でいう「三角関係」とは少し違うのだろうが、それに似た緊張感を感じる。


「待った!」


 俺は声を上げた。猛烈に睨みつける華鈴と、それを自信たっぷりの笑みで受け流す琴音。彼女らの間に割って入り、なるだけ穏やかに努めて言葉を紡いだ。


「と、とりあえず落ち着け」


「は?」


 次の瞬間、華鈴の怪訝な視線が俺を刺した。


「……」


 ゴクリと唾を呑み込む俺。


 言いたいことは分かっている。


 このような状況ではひとまず中立的な立場で物を言った方が良いと思ったのだが、どうやら間違いだった模様。


「……ああ」


 少し息を吐いた後に呼吸を整え、俺は琴音の方を向いて言った。


「華鈴のことを強請り屋みてぇに言うのは止めてくれねぇか。こいつは俺の大事なパートナーなんだ。あんたがどんなに組織にとって重要な人間だからって、それだけは承服できん」


 その言葉に、真っ先に反応したのは華鈴だった。


「パ、パートナー!?」


 怒っていた先ほどまでの表情が一変。両方の瞳を見開いた上に、口をあんぐりと開けて、拍子抜けともいうべき顔をしている。


 ああ! 言ってしまった! 俺としたことが、つい勢いに任せて要らぬことを……!


 だが、事実なので取り消すことはしない。それに何人も吐いた唾は飲み込めぬもの。本音であろうとなかろうと、男に二言は無いのである。


 問題は琴音の方だ。


「ふーんっ。そんなことを言っちゃうんだ……」


 何を思ったか、子供っぽく笑って見せた彼女。強かな女社長は少しの間を置いた後で明るい声色で続けたのだった。


「……私にとっても、涼平は大事なパートナーなのにぃ!」


 おいおい。何を言い出すんだ。そんな表現を用いてしまったら……。


「は?」


 華鈴がますます険しい顔色をするではないか!


「ちょ、ちょっと! どういうこと!? 涼平とはどういう関係なの!?」


「あら。私と涼平の関係がそんなに気になるのかしら?」


 琴音はクスクスと笑った後で答えた。


「ビジネスパートナーよ」


 華鈴は暫しの間を置いた後で口を開く。その口調には戸惑いと安堵の猜疑の色が三つ同時に滲んでいた。


「え? あ、ああ……ビジネスね……」


 納得してくれたかは分からない。だが、彼女がそれ以上の追及を投げてくることは無かった。きっと問い質し続けても無駄だと考えたのだろう。


「……別に構わないけど、あたしはあなたに危害を加える気は無いから。それだけは覚えておいて。あなたほどのお金持ちなら何をしたって勝てっこなさそうだし」


「あらあら。随分と弱気なのね」


「だって事実でしょ?」


 やれやれといった調子で肩を竦めてみせた華鈴。そんな彼女に対して琴音は余裕綽々の笑みを浮かべるばかりである。そうして一拍の間を置いた後で彼女は続ける。


「まあ、良いわ。ところであなた自身は涼平のどういう存在なのかしら? ひらたく言えば『あなたは涼平をどう思っているのか』ってこと」


 そんな質問をしたものだから俺は面食らった。尋ねてどうするつもりなのか。琴音のことだから、華鈴を弄ぶつもりなのだろうが。


「えっ? あたし? ああ、あたしは……」


 華鈴は答えに詰まる。それでも困惑の中で口を開いてくれた。


「……麻木さんは大事な人だと思ってる。も、も、もちろん、優しくて頼りになるって意味で。他に何があるって言うの」


 可もなく不可もなく。予想に反して単純明快な返答が出た。どちらかといえば淡白と形容しても差し支えなかろうか。


「へ?」


 思わず間抜けな声を出してしまった俺である。そんな反応を見てか、琴音がくすりと笑ったのが分かった。明らかに俺たちを見て楽しんでいる彼女の様子が何とも気に食わないのだが……文句を言える余裕など俺には無かった。


「……あ、ああ」


 内面を華鈴に悟られぬよう繕うので精一杯。ましてやここで気の効かせた台詞を吐ける才能など有りはしない。やはり、俺は女の扱いに関しては三流以下だ。


「そう。それじゃあ、そういうことにしておきましょうか」


「どうぞご勝手に」


 琴音の言葉に頷く華鈴。これでとりあえず事態は沈静化したと見て良いだろう。俺は胸を撫で下ろす思いだった。


「さてと……それじゃあ本題に入りましょうか」


 そう言って琴音は床を指差すのだった。


「そこに倒れている人たちは私が引き受けましょう。あなたのお望み通り、この近くの中川会系列の事務所へ運んで差し上げるわ」


「嬉しい申し出だが、どうしてそこまで」


「ほんのついでよ。第一にあなたには命を救われたでしょう。そのお礼ってこと」


 琴音はそう言うと、にっこりと微笑んだのだった。


「……鬼凛紅の件を言っているのか」


 この女が分からない。他者を弄ぶ憎たらしさを見せたかと思えば、こうして妙に義理堅いことをやったりもする。一体、どういう人間なのやら。


「ええ」


「俺は何もしてねぇよ。あれは成り行きでああなっただけだ」


「でも、助けてくれたことには変わりないわ」


 琴音はそう言うと、俺の目を見て言ったのだった。


「ありがとう。涼平」


 まったく。そんな顔をされたらどう反応すれば良いのか分からないではないか。琴音には大人の女性が醸し出す独特の雰囲気がある。それは俺と同世代の華鈴とはまた違った、淑やかで美しい空気感。情けない話だが、俺にとっては琴音も気のおけぬ存在だ。自然といやらしい視線を送ってしまうのである。


「お、おう!」


 ゆえに俺はそう答えるしかなかった。


 それから程なくして入ってきた琴音の部下たちが引きずるようにチンピラ連中を部屋から運び出してゆく。いつの間にか、先ほどまで利用客でごった返していたはずのトレーニングルームは俺たち3人だけになっている。


「……はあ。まさかこんなところで今をときめく大富豪様と出くわすなんてね。世の中、どこで何があるか分からないもんだわ」


「あらあら。そんなに意外だったかしら」


「意外も何も。あなたみたいなセレブがどうしてこんな低価格帯のジムを利用するわけ? お住まいの六本木ヒルズとかにはもっと良い所があるんじゃないの?」


 それについては俺も最初から気になっていた。霧山琴音の暮らす六本木ヒルズレジデンスには会員制の超高級ジムが備わっている。わざわざ、この低額で庶民的なフィットネスクラブに来なくたって良いはずだろうに。


「そうねぇ……確かにあそこは設備も充実してるし、サービスも良いわ。でも、今日はそっちの気分じゃなかった。代々木に来る用事もあったし」


 琴音は顎に手を当てて少し考える素振りを見せた後で、こう続けたのだった。


「……もし私が『涼平に会うために来た』って言ったら。あなた、どうする?」


「えっ」


 思わず声を上げてしまう華鈴。すると、琴音がクスクスと笑った。


「冗談よ」


 その表情に俺は溜め息をつきたくなった。またしても琴音は弄んでいるのだ。俺が華鈴に並々ならぬ慕情を抱いている事実を悟った上で。


 他人を嘲弄して楽しむなんて。琴音はまったくもって厄介な女だと思う。それでいて類い稀な美貌を持っているのだから始末に負えない。


 ただ、華鈴も強い。


「……別にどうもしないけどね」


 そうぶっきらぼうに吐き捨てた後で、不敵な笑みを崩さぬ琴音にこう言い放ったのだった。


「でも、ひとつだけ言えるのは全てがあなたの思い通りにはならないってこと。あなたが思ってるほどあたしは簡単じゃないよ」


 琴音は一瞬、驚いたような表情を浮かべた。しかし、それはすぐに笑みへと変わる。


「うふふっ。単純ね」


 そこへ華鈴も負けじと食ってかかる。


「……マジで嫌いだわ。あなたみたいな人」


 舌打ちの音が聞こえたような気がした。2人の女の睨み合いで途方もなく重々しい空気が流れる。


「……」


 先に口を開いたのは琴音だった。


「……あらそう? 私はあなたのような子、嫌いじゃないわよ?」


「何よ、その言い方。自分より格下の存在ってことで見下してるわけ」


「そんな嫌な意味は無いわ。ただ『可愛い』と思っただけよ」


「何なのよ、それ。どこまであたしを馬鹿にすれば気が済むのよ」


「いいえ、とんでもない。むしろ、褒めてる」


 華鈴は不快そうに眉を顰めるが、それでも琴音は余裕の表情を浮かべている。そんなやり取りを聞いていて俺は思ったのだ。この女はやはり一筋縄ではいかぬ。


「まあ良いわ」


 先に折れたのは華鈴の方だった。彼女は大きく溜め息をつくと、こう続けた。


「とにかく。あなたとは仲良くなれそうにないってことは分かったわ。大体にして、いつもテレビに出てる女社長とこうして話してること自体が不思議なんだけど」


「確かにそうよね。でも、こうして出会えたのも何かの縁よ。私はあなたと友達になりたいと思っているわ

「お断りよ」


 即答である。どうやら琴音の申し出は彼女の心を動かすには至らなかったらしい。まあ、ここまでの流れを考えれば当然であろうが。


「あらそう。それは残念ね」


 対して彼女はさして気落ちした様子もない。華鈴の答えなど最初から分かっていたのだろう。その余裕がまた何とも憎たらしいのだが……まあ良いだろう。この程度のことで腹を立てていたらきりがないのであるからして。


「じゃあ、あたしそろそろ行くから」


 そうして予定より少し早めにトレーニングを切り上げようとした華鈴。そんな彼女に琴音が放った言葉は、少し意外なものであった。


「ねぇ。どうすれば仲良くしてくれるのかしら」


「は?」


「どうすればあなたは私のお友達になってくれるのかと思って。あなたのお眼鏡にかなうような条件が何かあるのかしら。私、気になるわ」


「何よそれ……」


 華鈴は困惑の表情を浮かべると、少し間を置いて答えたのだった。


「別に……あたしはあなたに何も求めてないから。友達になりたいとも思わないし」


「そうなの? それは残念ね」


 言葉とは裏腹に琴音はちっとも残念そうには見えないのである。むしろ、その逆だと言えるだろう。彼女の表情はどこか楽しげであるのだから。まるで新しいオモチャを見つけた子供のよう。それは華鈴も確実に見抜いている。なればこそ拒絶を贈るのだ。


「あたし、心に決めてるんだ。あなたみたいな人には絶対に屈しないって。人の心を弄んで楽しむようなクズには」


「あら。だったら、私に負けたらお友達になってくれるのかしら」


「はあ? 何を……」


「簡単な話よ。私と勝負しましょう」


「勝負?」


 怪訝な顔をする華鈴に琴音が提案したのはシンプルな意味での勝負。彼女が指差したのはランニングマシンだった。


「時速10kmで5分間走れたらあなたの勝ち。私はお友達になるのを諦めるわ」


「え?」


 華鈴は拍子抜けしたような顔を浮かべる。


「それって、あたしが負けたらあなたのお友達になるってこと? そんなアホな話……」


 しかし、琴音は微笑む。


「ええ。そうよ。こう見えても私はマラソンが趣味でね。走ることには自信があるの。あなたも体を動かすのはお好きでしょう」


 そして続けるのである。彼女は自信満々にこう言い放つのだった。


「もし私が負けたら……そうね、もう二度と涼平には近づかないであげる。それでどうかしら?」


「え……」


 華鈴の眉間に皺が寄る。それはそうだろう。彼女が中川会のバックアップを受けている以上、組織の人間である俺と関係を絶つなど不可能だからだ。


 琴音の狙いは別にあるように思われた。そこで俺はすかさず口を挟んだのである。


「ちょっと待て」


 すると、彼女は俺に視線を向けて言った。


「あら涼平。何かしら」


「俺に近づかねぇってことは中川会と縁を切るってことだぞ。そんなことが出来るのかよ?」


「たぶん出来ないでしょうね。いや、絶対に無理。けれども不可能な約束を天秤に掛けるからこそ賭けは楽しいのよ」


「なっ……!?」


 琴音の言葉に俺は絶句した。そんな奇抜な考えをする人物が未だかつて他に居たであろうか。彼女は生粋の博徒、すなわちギャンブラーだ。


 証券を生業とする相場師は博打感覚で投資を行うのではなく、確実な見立てを組んで銘柄を買うと聞いたことがある。それゆえに俺は琴音のやり方にひどく驚かされた。いや、逆に言えば、そんな賭けをやってのける度胸があるから市場の世界で成り上がるに至ったのかもしれないが。


「さあどうする? 乗るの? それとも乗らないの?」


 琴音は笑みをたたえて華鈴の方を見た。彼女は困惑しているようだったが、やがて大きく頷くのだった。


「……良いわ」


「うふふふっ。嬉しいわ」


 そうして華鈴はランニングマシンに上がった。琴音も隣の台に上がり、2人して時速10kmで5分間走ることになったのである。


「先に機械から降りたり、リタイアした方が負けよ」


「ええ。分かってる。でも、あたしのみならずあなたまで5分走り切ったら?」


「その時はあなたの勝ちってことにして良いわ」


 琴音は余裕綽々といった様子だが、華鈴の方は至って真剣な表情。本気で勝とうという気概が感じられた。これは面白い勝負になりそうだと俺は思うのである。


「それじゃあ行くわよ」


「負けるもんですか」


 そうして2人は同時にスタートボタンを押した。機械の上のベルトコンベアが動き出し、華鈴と琴音がそれぞれに駆け出す。俺はそれを固唾を飲んで見守っていた。


「うふふっ」


「なっ……!?」


 傍から見ればとんでもない速さであるが琴音は顔色を変えない。彼女は楽しげな表情で脚を動かす。一方の華鈴は歯を食いしばりながら懸命に走っていた。


 その形相からは負けん気が溢れているのが分かる。


「あら。意外とやるのね?」


「うるさいっ!」


 琴音の指摘に華鈴が顔を赤くする。だが、すぐに彼女は前を向いて走り続けた。一方の琴音は余裕綽々といった様子である。


 2人の距離はどんどん開いてゆく。しかし、その差は一向に縮まることがないのである。不思議なものだ。俺はてっきり体力自慢の華鈴が優勢かと思っていたのに。趣味はマラソンという琴音の言葉は本当であったか。まるで息を切らしていないのだ。


「うふふっ、息が上がってきてるわよ?」


「だからっ、うるさいって!」


 華鈴の顔色がますます紅潮してゆく。このままではマズいと思った俺は2人のもとに駆け寄ったのである。

「おい! 大丈夫かよ?」


 しかし、そんな俺を華鈴は制するのだった。


「大丈夫!」


 いや、それはないだろうと俺は思うのだが……まあ良いだろう。彼女なりの考えがあるのだろうから。ここは黙って見守ることにしようか。


 2人はそのまま走り続ける。そしてもうすぐ5分が経過しようとした時、華鈴が悲鳴を上げた。


「きゃっ!」


 バランスを崩したらしい。後ろに倒れそうになったところで俺が咄嗟に支えた。


「……っ!」


 華鈴の顔に悔しさが滲む。


 勝負あり。先に機械から降りた方が失格というルールに沿って琴音の勝ちとなった。


 無論、華鈴にとっては受け容れ難い結果である。レディースの元総長として勝つことには人並み以上に拘る彼女のこと。歯を食いしばり、全身で激情を堪えているのが分かった。


「……ち、畜生!」


 俺の腕の中で叫んだ華鈴に琴音が言った。


「うふふっ。なかなか良い勝負だったじゃない。まあ、ともあれ私の勝ちね。約束通りあなたには私の友達になってもらうから。よろしくね。元ヤンさん」


 華鈴のことを何処で調べたのだろう――という疑問はさておき、華鈴は琴音を鬼の形相で睨み付けていた。

「っ!!」


 言うまでもなく怒り心頭。だが、それでも一度は賭けに応じた者としての矜持があったのだろう。やがて華鈴は折れるように溜息をついた。


「……はあ、分かったよ。なれば良いんでしょ。あなたのお友達ってやつに」


「ええ。仲良くしましょうね。これからは良き友人としてね」


 そうして琴音はランニングマシンから降りて去っていったのである。華鈴はといえば、苦虫を噛み潰したような顔をしていたのだった。


「何よあの女……っ!」


「おい、大丈夫か?」


「うん……」


 力なく頷く華鈴だったが、やはり悔しさが滲み出ているのが分かる。まあ当然の反応だろう。あれだけ啖呵を切っておいて負けてしまったのだから。


 しかし、彼女はすぐに気を取り直したようで俺に言ったのだ。


「……ねえ」


「何だ?」


 物凄く神妙な表情。その上目遣いに思わず唾を呑み込んでしまう。どんな言葉が出てくるのか。ふしだらな期待が自分の中で増長する。女がこのような色っぽい顔をする時には何かしら脈がある、なんて何時ぞやの文献に書いてあった気がするのだ。


「……」


 胸を高鳴らせながら、続く言葉を待った。しかし。


「さっきはごめん。その、睨んだりなんかして」


 何だよ、そんなことか――と言いたくなるのをぐっと押しとどめた俺。できるだけ穏やかな表情と声色をつくって華鈴に向き合った。


「いやあ、別に。睨まれたって気にはならなかったぜ」


「そ、そう。それなら良かった」


 溜息を我慢して、俺は煙草を取り出すべく懐をまさぐる。けれども、部屋の壁にあった『禁煙』の張り紙を見て動作を諦めた。いくらヤクザ者とはいえ、最低限のモラルを犯すほど無粋ではない。


「……」


 ニコチンを摂取出来ない苛立ちが募る。先ほどから心を支配する漠然とした憂さも相まって何だか辛い。だが、そんな俺を鬱屈さから解き放ったのは思いがけぬ華鈴の言葉であった。


「……ありがとね。あたしのことを『パートナー』って呼んでくれて。その、う、嬉しかったよ」


 不意の台詞に胸がドキリとする。


「あ、ああ」


 一気に体温が上昇して顔の辺りが熱くなるのが分かった。何て返せば良いのか。当然ながら俺はこのような場面における適切な返答の作法を知らない。


 しかしながら、飛んできたボールを投げ返さずにいては会話のキャッチボールが成り立たない。よし。ここは肚を決めよう。


 俺は思い切ってストレートを投げた。


「なあ、華鈴」


「何?」


 俺の呼びかけに彼女は首を傾げる。その仕草が何とも可愛らしいではないか。勝気な普段の態度とのギャップに尚のこと見惚れてしまう。


 いや、もしかしたらただ単に俺が邪推をこじらせているだけなのかもしれないが――まあ良いだろう。今この時だけは素直になることにするのだ。


「お前さえ良ければなんだけどよ……」


「……うん」


 俺は意を決して言ったのだった。


「なってくれねぇか。俺の“パートナー”ってやつに」


 その問いかけに華鈴は返事を詰まらせた。


「へっ?」


 どういう意味かと問い返したげな顔だ。俺は慌てて補足のごとく言葉を付け足す。


「いや、別に深い意味は無ぇんだけどよ。俺は華鈴のことを良い女だと思ってる。一緒に居てこんなにも安心できる人間は他に居ねぇくらいだ」


「う、うん。それで?」


「だから、その……」


 今度は俺が言葉に詰まった。続く言葉が出て来ない。

『……俺と付き合ってくれ。俺とずっと一緒に居て欲しいんだ』


 そんな台詞を吐きたかった。吐きたかったのに。それが出来たら本当に幸せであっただろうに。


 想いとは裏腹に、俺の口から出た言葉は違った。まさに妙な躊躇いと臆病に満ちあふれた情けない軟弱者の急場しのぎであった。


「……これからも俺と一緒に戦ってくれねぇか。俺の“パートナー”として」


 その瞬間、華鈴は大きく瞳を見開いた。


「あ、ああ。そういうこと……」


 彼女は小さく頷いた後、少し寂しげな表情をするのだった。少しばかり肩を落としたようにも見える。俺は慌てて言葉を継いだ。


「い、いや! 別に変な意味じゃなくてな!」


「……分かってるよ」


 そして、その口から紡ぎ出された言葉は淡白だった。

「うん……良いよ。あたしで良ければ涼平の“パートナー”になるから。麻木さんには安心して背中を預けられるもの」


 華鈴の言葉に安堵と後悔を半々ずつおぼえる俺。


 お前が好きだという直球な想いを伝えなかった。その理由は単純。伝えてしまったら変に思われるだろうと恐れを抱いたからだ。


 女友達に迂闊に愛の告白をした結果、友人関係がこじれたという話をメディア等で耳にしたことがあった。俺はそうなりたくはなかった。これからも華鈴と共に――その願いが先行して何とも無難な台詞を贈ってしまったのだ。


 正解だったか。不正解であったか。例によって俺には分からない。


 もしかすると華鈴は俺のことを異性として見ていないかもしれないし、愛を伝えるにはまだ時期尚早な可能性もあったろう。


 こみ上げてくる後悔の念を「これで良かったのだ」と鎮め、気分を一新するために煙草を2本くらい吸いたい気分だった。


 やがて流れ始める静寂に気まずさが催してくる中、空気を切り裂くがごとく先に沈黙を破ったのは華鈴の方である。


「ねぇ。ちょっと聞いても良い?」


「な、何だよ」


「さっきの社長……霧山琴音とはどういう関係?」


「組織の命令でやり取りしているだけだ。単なるビジネスの関係。それ以上でもそれ以下でもねぇよ」


「ふーん」


 単なるビジネスの関係という割には彼女のことを名前で呼んでいるのは何故か――それを突っ込まれたら答えに窮していたところだった。


 しかし、華鈴は問うてはこなかった。


「そうなんだ」


 納得してくれたのか、あるいは違うのか。当たり前だが、俺には想像しきれない。それ以上は何も言ってこない華鈴が、ただただ嬉しかった。


 そんな中であの女が再び割って入って来る。


「まだ一緒だったのね。お二人とも。喉、乾かないかしら」


 琴音だ。彼女は手にスチール缶を持っている。どこぞの自販機で買ったものであることは察しが付くが、いまいち馴染みの薄いパッケージだ……。


「それ、あなたが買ったの?」


 渋い顔で問うた華鈴に、琴音はにこやかに答える。

「うふふっ。『買ってくれた』と言って欲しいわね。こういうジムに来たら必須アイテムでしょう、プロテインは」


 どうやらプロテイン入りの栄養ドリンクらしい。肉体疲労を回復するだけでなく筋力の増量に必要不可欠なプロテインを柑橘等の果実風味で美味しく摂取できる優れ物。俺には知識が無かったが、近頃はスポーツジムの自動販売機ではミネラルウォーターと共に売られるようになったという。


「何? それをあたしに買ってあげて恩を売ろうっていうの?」


「そんなんじゃないわよ。せっかく“お友達”になったんだから、その証にね。大体にしてあなたに恩を売ったところで何になるの。お金も権力も私の方が持ってるのに。あなたに何かしてもらうことは殆ど無いわ」


「……ちっ。いちいち嫌な女」


「うふふっ。冗談よ。あなたって見ていて飽きないんだもの。可愛いもん。だから、これからも仲良くしましょう」


「……」


 華鈴が仏頂面でプロテインの缶を受け取る中、琴音は俺にも缶を差し出した。


「ほら。あなたの分もあるわ」


「は? 俺は運動してねぇぞ?」


「それは運動の直後じゃなくても効果があるのよ。ヤクザは体が資本。筋肉は必須でしょう。とりあえず飲んでごらんなさいよ。美味しいから」


 ジムに来ずとも俺は定期的に鍛えているし、鞍馬菊水流の鍛錬を毎日欠かさず行っているので筋肉はそれなりに付いている。


 だが、まあ……ここは話のタネに飲んでみるのも一興かもしれないな。


 ふと隣に目をやると華鈴が無言で飲み始めていたので、俺も彼女に倣いスチール缶のプルタブを開けてゴクリと飲んでみる。


「オレンジジュースみてぇな味だな」


「でしょ? 意外と癖になる味なのよね。こういう栄養素を手軽に摂れてなお美味しいドリンクはこれからどんどん増えていくと思うのよ」


「うん。確かに流行るだろうな」


「私としても嬉しい限りよ。大村製薬の株が上がれば経営に食い込めるようになるもの」


 なるほど。何とも琴音らしい理由である。そんな彼女は手持ちのドリンクを一気に飲み干し、華鈴に向き直って言った。


「ねぇ? そういえば聞いてなかったわね? あなたのお名前は?」


 すると、華鈴はぶっきらぼうな口調で言うのだった。

「与田華鈴」


「そう……じゃあ『華鈴ちゃん』って呼ばせてもらうわね」


「お好きに」


 そんなやり取りを傍から見ていた俺は少しばかり呆れていた。よくもまあ初対面の人間、それも一般人にここまで馴れ馴れしくできるものだと。金の力で何でもできる大富豪だけあってその辺の距離感は半ば麻痺しているのかもしれない。


 無論、付き合わされる側にとっては堪ったものではない。華鈴としても本当は嫌で仕方ないであろうに。それでも激昂しない彼女に敬服するしかなかった。


「ねぇ、華鈴ちゃんはジムによく来るのかしら?」

「別に。『よく』ってわけでもない。月に一度か二度くらい」


「もっと来た方が良いわね。週に一度くらいのペースがおすすめよ。女の子だって鍛えないとスタイルを維持できないんだから」


「余計なお世話」


「ねぇ、もし良かったら私の行きつけのジムを紹介してあげようか? 私のコネを使えば無料タダで通い放題よ?」


「だから要らないっての! あなたに借りを作るくらいならブサイクな男の金玉を舐めた方がマシだよ!」


「あらあら。素直じゃないわねぇ」


 不敵な笑みで揶揄う琴音に対し、蚊を払うがごとく、つっけんどんな態度であしらう華鈴。考えてみれば不思議な光景だ。本来なら縁もゆかりもないであろう一般女性が日夜テレビを騒がせているカリスマ女相場師とこのようにして丁々発止のやり取りを繰り広げているのだから。


 いやいや、感心している場合ではない。これ以上、華鈴に不快な思いをさせたくはない。口論がヒートアップせぬうちに、止めなくては。


「おいおい琴音。その辺に……」


 そう声をかけようとした時。彼女らの話は妙な方向に進み始めた。


「もう! うざったい! 別にあなたに気を遣われなくたって鍛えてるっての!」


「へぇ。だったらまた勝負してみましょうかしら。あの棒で何回、懸垂が出来るか。またあなたが負けたら今度はおっぱいを見せるのよ?」


「良いよ。次は絶対に負けないから」


 売り言葉に買い言葉だ。華鈴は本気で勝負に乗るつもりらしい。そんな彼女に琴音は余裕の表情で応じた。


「ふふっ……楽しみね、あなたのおっぱいが見られるなんて」


「ふん! 見てろ!」


 二人はそれぞれ準備運動を始めた。俺はそれをただ見守るばかりである。鼻息を荒くする人間に「止めておけ」と言ったところで無意味なのは俺がいちばんよく知っている。


 俺自身、華鈴のおっぱいが見たいという思いがある。


「うふふっ。じゃあ、まずは私がお手本を見せるわね」


 そう言うと琴音は腕を曲げて上腕二頭筋をアピールし、懸垂の準備を始めた。


「見てなさいね。こうやるのよ……んっ!」


 彼女は勢いよく飛び上がり、そして空中で体を反転させて棒にぶら下がった。その勢いは凄まじく、棒が折れてしまうのではないかと思ったほどだ。


 しかし、華鈴も負けてはいない。


「あたしだって……!」


 彼女もまた同様に飛び上がって棒にぶら下がった。


「んっ! ……うくっ!」


 懸垂は華鈴の方が上手かった。琴音よりも速く、そして軽々と棒にぶら下がり続けている。


「1……2……3……」


 必死の形相で棒を掴む華鈴。この勝負に関しては腕力で左右される。どうやら華鈴の方に分があるようだった。


「……んっ! あふっ!」


 それから互いに50回の懸垂に成功したところで琴音の腕が限界を迎えたようだ。彼女は棒から手を離して地面に落下する。


 片や華鈴はそれでもなお棒にしがみ付いている。


「あ……あんたなんかに……負けないっ!」


 勝負はついた。今度は華鈴の勝ちだ。彼女の粘り勝ちといえようか。


 よくやったじゃないか――。


 そう称賛の言葉をかけようとした時。突如として俺を眠気が襲った。


「くっ……!?」


 俺は思わず頭を押さえた。視界がぐにゃりと歪み、立っていられないほどの強烈な睡魔に襲われたのだ。そのまま近くにあったベンチに横になってしまう。


 何だこれは。こんな感覚、今までに味わったことが無い。


 眠い。物凄く眠い。眠くて仕方が無い。


「……っ」


 気付けば俺は眠りに落ちていた。


 それからどれだけ時間が経っただろうか。俺が目覚めたのは上等な部屋の中。ホテルのスウィートルームを思わせるような空間だった。


「ここは……?」


 俺は周囲を見回し、ここがどこかのホテルであることを悟った。しかし、どうして自分がここにいるのか皆目見当もつかない。


「……どこだ?」


 ぼそった呟いた時である。部屋のドアが開き、琴音が入って来た。先ほどまでの運動着姿から平時のブラウスとスカートに着替えていた彼女は俺と目が合うなり言った。


「ようやくのお目覚めのようね」


 その口調から察するに、だいぶ長いこと寝てしまっていたらしい。だが、ここは一体……? それに、あの状況からどうやってここに至ったのだろう?

 呆然としている俺に琴音は言った。


「いきなり倒れるように寝ちゃったものだから。運んであげたのよ。涼平ったら見た目以上に重いのね、うちのスタッフも文句言ってたわ」


「あ、ああ。そういやあ、あの時、何だか突然に眠くなったんだったな」


「ええ。ほんっと子供みたいにスース―寝てたわよ。あなた、ジムへ来る前にお酒でも飲んだ?」


 俺はハッとさせられる。恒元にブランデーを飲まされた時の記憶を――なるほど。大方の事情が分かった。


「……そうか。血糖値の急上昇か」


「はあ。呆れた。お酒の後でプロテインは禁物よ。血糖値が急に上がったら眠くなるのも訳ないわ。てっきり寝てないのかと思ったけど」


 そうか。道理で眠気が襲ってきたわけだ。俺は軽く欠伸をして背筋を伸ばした後、ゆっくりとベッドから降りて側にあった靴を履いた。


 着衣はそのまま。俺をここへ連れ込んだ詳しい経緯は不明だが、確かなのは琴音に介抱されたことだ。


「すまねぇな」


「良いのよ。あなたの寝顔、可愛かったし」


「……そうかい」


 俺はぶっきらぼうに答えたが、内心は満更でもなかった。琴音が俺の寝顔を可愛いと言ったのは事実であるから。だが、それを素直に喜べるほど子供ではない。


「ところでさ……」


 周囲を改めて見渡しながら俺が切り出すと、彼女は言った。


「何かしら」


「ここはどこなんだよ。いや、そもそもあの後どうなったんだ? 情けねぇことに前後の記憶がまったく無いんだが」


「ここは代々木の第一迎賓館。私が打ち合わせなんかで使わせて貰ってる会員制のホテルよ。あのジムにも近くて、あなたを一時的に運び込むのにちょうど良かったら」


 代々木の迎賓館と言えば、海外のVIPが来日した際に宿泊する場所として名高い名店ではないか。そんな政府御用達の宿をプライベートで利用できるとは。流石は天下の霧山琴音といったところか。


「華鈴はどうした?」


「帰ったわよ。あの子はあなたが普通に疲れて寝ちゃっただけだと思ってるようね」


 俺は慌てて携帯を開く。そこには1件のメールが入っていた。


『今日はありがと。だいぶ疲れてたみたいだから、ゆっくり寝てね。おやすみなさい』


 その無機質な文面に嫌な予感が走る。琴音が俺を連れて帰ったということは、華鈴にすれば俺が琴音に逆お持ち帰りされたも同然に見えたのではないか……?


 だが、杞憂だった。


「華鈴ちゃんったら意外と冷たいのね。寝落ちしたあなたを置いてそそくさと帰っちゃったわ。懸垂対決で勝ったご褒美に何か買ってあげようかと言っても『要らない!』ってむくれたまんまで」


 冷たいという人物評や本人の態度はともかく、そそくさと帰ったということは俺が琴音の手に落ちた光景をあの娘は見ていないということ。


 ひとまず安堵が胸をよぎった。


 いや、良くはない。話を聞く限りでは彼女は明らかに怒っているのだから。きっと俺が無様に寝息を立てたのが気に食わなかったのだろう。


 まずいな……どうにか華鈴を傷つけてなるものかと努めたが、最後の最後に怒らせてしまった。まったく俺は女の扱いに不得手だ。今回は偶然の出来事も重なったものの、またしても彼女の不興を買う結果に終わるとは。


 今までに築き上げたものが一気に崩れてゆく心地だった。


 そうなれば怒りが湧いてくる。俺はすまし顔で微笑む琴音を睨みつけ、少し語気を強めてぶつけた。


「ったく! 随分と余計な真似をしてくれたもんだな! おかげで俺はあいつに嫌われちまったじゃねぇか!」


「あらあら? 嫌われてはいないんじゃなくって? 女の気持ちは簡単には揺るがないものよ?」


「へっ、どうだか!」


 大体にして今回は全て琴音のせいだ。この女が突如として『STRANGER』に現れたせいで修羅場になった。いや、完全に修羅場とは言いきれないが……。


 待てよ?


 考えてみればそもそもおかしい。琴音がジムに現れた前後から、それまで施設内に居た他の客が忽然と姿を消したのである。


 まさか何もかも琴音によって仕組まれたことだったのか……? だとすると、あのチンピラたちも彼女の手の者か……?


 ともかく、俺は琴音が許せなかった。即座に立ち上がって距離を詰める。そして彼女の胸ぐらを掴んで静かな怒気を浴びせたのだった。


「あんたのせいで全てが台無しだ! どうしてくれる!?」


 だが、彼女は動じない。それどころか余裕の笑みさえ浮かべているではないか。


「あらあら。何をそんなに怒っているのかしら」


「ふざけるな!」


「ふざけてなんかいないわ。まあ、強いて言うならあなたの方がふざけているんじゃない。華鈴ちゃんという本命の恋人がいながら私に情欲を向けているんだもの」


「ば、馬鹿な! そんなわけ……」


 怒鳴ろうとした矢先に言葉が詰まる。悔しいことに、はっきりと否定できなかったのだ。俺は嘘が下手だ。女を前にしては尚更に弱い。すっかり俯いてしまう。


「……」


 そんな俺を見た琴音は腹を抱えて大笑いした。


「あっはっは! あなたって本当に嘘がつけないのね!」


「う、うるさい……!」


「ふふっ。可愛いわね。涼平」


 琴音はそう言うと俺の首に腕を回してきた。そして耳元で囁くのである。


「でもね、あなたのそういう所って素敵よ? だって……」


 彼女はそこで一拍置くと続けた。それは俺にとっては好ましからざる言葉であった。だが、拒絶しきれない言葉でもあったのだ。


「……私の好きな人だもの」


 たった一言の短い台詞。されどもあまりにも刺激的であった。それを鼓膜で受け止めた瞬間、全神経が昂るような錯覚に襲われる。


「ほ、本気で言ってるのかよ」


「本気じゃなかったら何なのよ。細かいことは気にせず、今日くらいは欲望のままになっちゃいなさいな。うふふっ。そういう顔も可愛いわね。ウブなヤクザさん」


「くっ……!」


 琴音は妖艶な笑みで俺を惑わす。俺はもう限界だ。彼女の言葉によって心も身体も支配されたのである。


「クソがっ!」


 気付けば俺は彼女を押し倒していた。そして馬乗りになるや、その唇を奪っていたのだった。それはあまりにも衝動的な行動であった。


「……んっ」


 琴音が小さく声を漏らすのが聞こえたが、構わずに続けた。彼女は抵抗しなかったし、むしろ俺の背中に腕を回してきたのである。それが余計に興奮を煽った。

「琴音……っ」


 俺は無我夢中で彼女の口内を犯した。舌を絡ませ合い、唾液を交換するような激しいキスだ。それは今までに経験したことのないほど強烈な快感だった。


 だが、それだけではない。もっと別の何かがあったのだ。それが何なのかは分からないが、とにかく凄まじかったのである。


 やがて息苦しくなったのか、彼女は俺を押しのけるようにして唇を離した。二人の口に架かる橋のように銀色の糸が伸びていたのを覚えている。


「うふふっ。ついに一線を越えちゃったわね」

「黙れ。あんたがいけないんだぞ。あんたが、そうやってふしだらに俺を誘惑するせいで……」


「まあまあ。面倒な事は抜きにして。今日はこのまま楽しんじゃいましょ。あなたがずーっと心の奥底で望んでいたようにね」


「いや、それは……」


「何もかもお見通しよ。ほら早く脱いで」


 彼女はそう言うと俺のズボンのベルトに手をかけたのだ。そして慣れた手つきでそれを外すとチャックを下ろしてしまった。それから下着越しに股間を撫でてくるではないか。


「うおっ!? な、何を!?」


 突然のことに驚いたが、それでもなお琴音の手は止まらなかった。やがて彼女は滑らかな手さばきで俺のペニスを露出させると、それを優しく握りしめてきたのである。


「うふっ。凄いわね……こんなに大きくて太いなんて」


 琴音はうっとりとした表情で言った。彼女の眼差しはどこか淫靡そのもの。俺はそんな妖艶なる女を見てゴクリと唾を飲み込むしかなかった。


「たっぷり楽しませてあげる」


 次の瞬間には、もう彼女の攻撃が始まっていた。反り立った男根を握り締めて上下に動かし始めたのだ。


「うおっ!?」


 久々に味わう刺激に思わず声が出てしまう。自分でするのとは比べ物にならないほどに強い快感だったからだ。


 しかも相手はあの霧山琴音である。天下の美女にして、この美貌で数多の男を虜にする魔性の女なのだ。そんな女に手淫されているという事実だけでどうにかなりそうだった。


「ふふっ」


 彼女は妖しく微笑むと、今度は亀頭を指先で弄び始める。鈴口をなぞったり裏筋を弾いたりして刺激を与えてくる。


「うっ……」


 強烈な快感に顔が歪む。だが、それでもなお琴音は手を止めなかった。それどころかますます激しく動かしてきたのである。


「どうかしら? 気持ちいい?」


「あ、ああ……っ」


 素直に答えると彼女は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔はとても美しく見えたのだが、同時に恐ろしくもあった。まるで獲物を狩る肉食獣のような鋭さを感じたからだ。


 そんなことを考えているうちにも彼女の手淫は激しさを増す。


「うあっ……ぐっ……」


 あまりの快感に思わず声が出てしまう。だが、それでも彼女は止めようとしなかった。むしろさらに強く握りしめてくる始末である。


 挙げ句の果てには口に入れて舐め始める。


「うっ……!」


「ふふっ」


 妖艶な笑みを浮かべると、そのまま一気にラストスパートをかけ始める琴音。俺のモノを咥える口内に力を込めると激しく先端を吸った。まるで搾り取るかのような動きであった。


「うおっ! あがっ!」


 もう限界だった俺は情けない声を上げる。


 程なくして一気に限界へと押しやられた。そして次の瞬間には大量の液体をぶちまけていた。勢いよく飛び出したそれは、彼女の顔を容赦なく汚したのだった。

「あらあら。元気な子ね」


 琴音はそう言いながら己の顔に飛び散った精液を指で掬い取ると、それを口に運んだ。そして舌の上で転がした後、ゴクリと音を立てて飲み込む。


「ふふっ。ごちそうさま」


 妖艶な笑みを浮かべる彼女を見て思わずドキリとしたが、すぐに我に帰ると慌ててベッド脇の箱からティッシュを手に取り、自分の顔を拭った。


 だが彼女はそんな俺の行動など意に介さずといった様子である。それどころか逆に俺の手を掴むとそのまま自分の方へと引き寄せる。そして今一度唇を重ねてきた。


「ふふっ」


 彼女は満足げに微笑むと、今度は俺の首筋を舐め上げてきた。その生暖かい感触に思わず身震いしてしまう俺だったが、それでも何とか理性を保つことに成功することができたのだった。


「くそっ……!」


 そんな俺に構わず、彼女はキスをしてきた。今度は舌を入れてきたのである。歯茎の裏や上顎などを丹念に舐め回された挙句の果てに舌を絡めてくる始末だ。そういった方面の経験値の少ない男としては成す術もなく翻弄されるしかなかったのである。


 やがて唇が離れる頃にはすっかり蕩けきっていた俺なのだが、気付けば服を脱がされて全裸になっていた。それでもなお、琴音は止まらない。


「さあ、ここからが本番よ」


 またあの不敵な笑みを見せたかと思うと、琴音はブラウスのボタンに手をかけてゆっくりと外し始めた。そして下着姿になるや、今度はスカートのチャックを下ろす。


「うふっ」


 妖艶な笑みを浮かべると彼女はスカートを脱ぎ去った。その下に隠されていた紫色のショーツが露わになる。それは清楚ながらも扇情的なデザインであった。


 一方、上体の方もなかなかに扇情的だ。大きく膨らんだ胸を包むブラはレース生地でできており、フロントホックになっているため胸の谷間が強調されている。何カップあるのだろう。少なくともGかHはありそうだ。いや、それ以上かもしれない……。


「どう? 私の身体を見て興奮するかしら?」


 見せつけるようにポーズを取る琴音。俺はそれをただ黙って見ているしかなかったのだが、それでも豊満なバストと太ももを前にしては股間のモノが正直に反応してしまう。


 我ながら情けない。


「あら、素直ね」


 琴音はそう言うとゆっくりとこちらに近づいてきた。そして俺の耳元で囁くように言ったのである。


「ねぇ……私を抱いてくれる……?」


 甘く蕩けるような声色だった。あれを耳にして聞き惚れてしまわぬ男などいないだろう。俺は無言で琴音を抱きしめていた。


「嬉しい」


 琴音はそう言うと俺から離れ、フロントホックに手をかけてブラを脱ぐ。観音開きにカップが外れると、果実のごとき琴音の乳房が姿を現した。その大きさたるや凄まじいものだった。メロンのように大きく、それでいて形も整っている。まさにパーフェクトボディである。


 ごくりと唾を飲み込んだ俺だが、今度はこちらから行動を起こす。彼女のショーツに手をかけてゆっくりと下ろしていったのだ。


「あっ……」


 琴音が小さく声を漏らしたのが聞こえたが構わず続ける。そしてついに一糸纏わぬ姿となった彼女をベッドへと押し倒したのである。


「ふふっ」


 妖艶な笑みを浮かべる彼女であったが、俺はもう限界であったのだ。すぐさま覆い被さりキスをするなり舌を入れ、乳房を揉む。


「あんっ……ああんっ……」


 彼女は甘い吐息を漏らすが、俺は構わずに続けた。彼女の口内を蹂躙しつつ乳房の感触を楽しむ。その揉み心地はさながら子供の頃に食したマシュマロだ。


「んふっ……んんっ……」


 彼女は時折身体をビクッと震わせるが、それでも拒む様子はない。むしろ積極的に舌を絡めてくる始末だ。やがて俺は巨乳の先端を勢いよく指でつまんだ。


「んんんっ!」


 琴音が一際大きく反応する。ふと彼女の顔を見ると、快楽と苦悶の中間くらいの何とも云えぬ表情をしている。


「大丈夫か?」


「うん……昔から乳首が感じやすくて……」


「へへっ、そりゃあ良いな」


 俺はニヤリと笑うと今度は口に含んで吸い付いたり舐めたりし始める。琴音の可愛い乳首を舌の上で転がし、唇で挟んで捩じる。その度に琴音はビクビクと身体を震わせていた。


「いやあんっ! あんっ! ああんっ! やめてぇっ! 感じちゃうっ! あんっ!」


 そしてついに絶頂を迎えたようである。俺の頭を押さえるようにして身体を仰け反らせ、痙攣し始めたのである。


「駄目ぇぇぇぇっ! あああああんっ!」


 絶叫にも似た喘ぎ声を上げると同時に潮を吹き出す琴音。その量は凄まじくベッドシーツに大きな染みを作っていくほどだった。


「はぁ……はぁ……」


 肩で息をしている琴音。その顔は上気しており、目も潤んでいる。


「はぁん……久々におっぱいだけで気持ち良くなっちゃったかも……なかなか上手だわ、涼平……」


 そう言って微笑む彼女だったが、その目はどこか挑発的であった。まるで「もっとしてみなさい」とでも言わんばかりの表情である。


 俺はそれに応じるべく今一度彼女の胸に手を伸ばしたのだが、すぐさま逆に押し倒されてしまった。両脚を広げられ、股間を胸のあたりまで持って行かれる。この体勢はもしかして……?


 期待と興奮で惚気る俺に琴音は煽るような笑みで言った。


「代官山の風俗仕込みの高速パイズリ、とくとご堪能あれ」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の竿は限界まで膨れ上がった。そして次の瞬間には琴音の胸に包まれたのだ。


「うおっ!?」


 想像をはるかに上回る快感に堪らず声が出てしまう俺だったが、それでもお構いなしといった様子で彼女は胸を動かし続けた。


「どう?気持ちいい?」


 そう言いながらもパイズリを続ける彼女だが、そりゃあめちゃくちゃ気持ち良いに決まっている。柔らかく温かい感触が肉棒を包み込み、上下左右に擦るように動かされる度に快感が走るのだ。


 さらに時折亀頭の先端に乳首が当たるのが何とも絶妙。その度ビクッと反応してしまう自分が情けないくらいだ。


「うふふっ、可愛い」


 俺の反応を楽しんでいるのか、琴音は妖艶な笑みを浮かべるとさらに激しく動かし始めた。それに伴い快感も増していく。


「うおっ! あがっ!」


 あまりの気持ち良さに情けない声を上げてしまう俺だが、それでもなお必死に耐えていた。ここで果てるわけにはいかないからだ。


 そんな俺の思いを知ってか知らずか、彼女はペースを上げていく一方である。そしてとうとう限界を迎えようとしていた時……。


 突然彼女が手を止めたのである。


「えっ」


 驚く俺だったが、その意図は分かった。


「ねぇ、涼平。そろそろれて?」


 そう言って琴音は体勢を変える。ベッドの上で俺に尻を向けてきた。


「早くぅ~」


 甘えた声で急かしてくる彼女だが、俺はそれどころではなかった。目の前に広がる光景に目を奪われてしまっていたからだ。


 そこには完璧な女体が広がっていたのである。大きく膨らんだ乳房にくびれたウエスト、肉付きの良いヒップライン……全てが完璧であった。まさに芸術品と呼ぶに相応しい肉体美であると言えよう。そんな極上の裸体が今目の前で惜しげも無く晒されている。


「ねぇ、どうしたの?」


 こちらを振り返る琴音の仕草もまた色っぽい。長い黒髪をかき上げながら流し目を送ってくる様はまるで誘っているかのようだ。


 俺はゴクリと生唾を飲み込むとゆっくりと手を伸ばした。そして彼女の尻に触れるとそのまま撫で回すように触れる。柔らかい肌の感触が手に伝わってくると同時に彼女は小さく声を上げた。


「あんっ……」


 その声に興奮した俺はさらに強く揉みしだく……すると次第に息遣いが激しくなり、やがて琴音は苦悶の声で訴えた。


「……ねぇ! 挿れてよぉ! 早くぅ!」


 催促されるがままに俺は琴音の尻を両手で鷲掴みにすると、ぱっくりと開いた下の口めがけてそのまま一気に突き入れた。


「ああっ!!」


 突然の衝撃に大きく仰け反る琴音だったが、それでも構わずピストン運動を始める俺であった。


 ――パンッ! パンッ! パンッ!


 肌同士がぶつかり合う音と共に結合部から愛液が飛び散りシーツに大きな染みを作る。その様はまるで洪水のようだ。


「あんっ! ああんっ!」


 激しい突き上げにより琴音は何度も絶頂を迎えているようだが構う事なく続ける俺に対して彼女は言った。


「もっとぉ……優しくぅ……」


「こ、こんなに締め付けられて止められるかよ!」


「そ、そんなこと言われても……ああぁんっ!!」


「やべぇっ! ああっ!!出るぞっ!!」


 疾風のように巻き起こる快感の渦を堪えきれなくなり、俺は琴音の膣内に思い切りぶちまけた。それと同時に彼女もまた絶頂を迎えるのだった。


「あああああああああっ!」


 ビクビクと痙攣しているのを見るに、どうやら一緒に果てたようだ。俺たちはそのままベッドに倒れ込む。とんでもないことをしたとか、途方もなく大きな罪を犯してしまったとか、そういった類の感情は一切湧かない。ただただ、この上なく幸せだった。幸せという名の海で波に身を任せて漂っているような、漠然とした感覚。少なくとも俺は快楽の中にいた。


「はぁ……はぁ……」


 肩で息をしながら呼吸を整える俺たちだったが、やがてどちらからともなく口づけを交わす。そしてそのまま抱きしめ合うのだった。


「……」


 グレーのシーツの上で、全裸で身と身を重ねる男と女。悠々と流れてゆく時間に背を向けるように、俺たちは暫くの間、情事に耽っていた。他には何事も出来なかった。


 いつの間にか眠りに落ちていた俺たち。外がすっかり暗くなった頃、ふと目覚めると琴音が着衣を戻していた。ブラを着けて、ショーツを履き、ブラウスのボタンを留めてゆくその姿もまた美しい。


「涼平」


 琴音が俺の名を呼んだ。俺が軽く頷くと、彼女は続けた。


「あなたも罪な人ね。華鈴ちゃんに何て説明するつもり?」


「……説明する気は無いさ。する必要も無いだろ。第一にあいつとはそういう関係じゃねぇんだし」


「ふふっ。意外と浮気者なのね。あなた」


「う、うるせぇよ。あんたのせいでこうなったんだろ」


 そう吐き捨てると琴音は笑った。


「まあね。でも、楽しかったわよ。ありがとね。私の誘いに乗ってくれて。気持ち良かった」


 礼を言うのはむしろ俺の方なのかもしれない。恥も外聞もあったものではないが、本音を云えばああしたくて堪らなかった。琴音の豊満な肉体を味わいたくて仕方が無かった。


「俺もだよ」


 そう答えると琴音は満足そうに微笑んだ。そして俺の頬に軽くキスをすると耳元で囁くように言ったのである。


「また会いましょうね。今度はもっと凄いことしましょう?」


「ああ」


 拒む選択肢など存在しない。俺は軽く頷き、ぼんやりと宙を見上げたのだった。一抹のやるせなさに駆られながら。


「……」


 それから俺も服を着て部屋を出た。琴音はもう少しばかりこのホテルに滞在するらしい。


「じゃあね、涼平」


「おう。またな」


 そう言って手を振る彼女。俺は手を振り返すとそのまま部屋を後にした。そしてエレベーターに乗って一階へと降りて行く途中、ふと考えるのである。


 俺は夢が叶ったのか――。


 それにしては随分と淡白な後味だ。琴音とは肉体関係を持ちたいと思っていた。その願いを見事に叶えたわけだが、どうにもスッキリしない。まあ、きっとそれは心に後ろめたさがあるからだろう。とりあえず今は余韻に浸っても良いはずだろう……そう思いつつロビーまで出ると着信が入った。


 何ということだろう。華鈴からだ。


「もしもし」


『もしもし、麻木さん? 今どこ?』


「あ……総本部だ」


『え、そうなの?』


「おう……」


 俺は言葉を濁した。まさか琴音とセックスをしていたなど言えるはずがないからだ。しかし彼女は勘が鋭いのか、すぐに見抜いたようだ。


『もしかしてまだ霧山琴音と一緒に居るとか?』


 図星を突かれて動揺する俺だが何とか平静を装って答えた。


「いいや。あいつとはあれっきりだ」


 すると電話口の向こうで華鈴はホッとしたように息を吐いた。


『それなら良かった』


「どうしてだ?」


『だって麻木さん、さっきスーツの人たちに連れて行かれたから。いきなり眠りこけたと思ったらすぐに背広の男が何人も入ってきたんだよ。びっくりしたわ』


「ああ……」


 俺は曖昧に返事をしたが内心では然もありなんと思っていた。華鈴にしてみれば、俺が拉致されたように見えたわけなのだから。


「……あの後、琴音が組織に連絡を入れてくれたんだよ。おかげで赤坂に戻って休むことができた」


『じゃあ、あの背広の人たちは麻木さんを介抱しに来たのね?』


「そうだ」


『袋叩きにされてない?』


「されてねぇぜ」


 その返事に電話口から安堵の吐息が漏れ聞こえた。


『……はあ。良かった。で、体の方は大丈夫なの?』


「そっちも大丈夫だ。実は代々木に出かける前、会長に酒を飲まされたんで体にアルコールが入ってたんだよ。そこへプロテインを流し込んだのがまずかったみてぇだ」


『へぇ……でも、本当に良かったよ。何事も無くて』

「そうだな」


『さっきはごめんね。あたし、ちょっといつも通りじゃなかったかもね。麻木さんにも強く当たりすぎちゃったと思う」


「いやいや」


 俺は華鈴に心配をかけたことを詫びつつ電話を切った。幸いにも彼女は怒っていないようであった。声色から判断する限りだが。


 あの後に琴音との間でどのような言葉を交わしたか――それについて深く尋ねる勇気は湧かなかった。


 しかし、ふとあることに気付く。


 華鈴は俺を連れ帰ったのが組織の人間=中川会の構成員だと思っていた。それすなわち、琴音に連行されたわけではないとの認識を意味する。つまり琴音は俺が中川会に回収されたと華鈴が思い込むよう計らってくれたのである。


 その真意は分からないが、恐らくは俺のことを思ってのことだろう。余計な角が立たぬよう気を遣ってくれたのだ。そうに違いないと思うことにした。


「……帰るか」


 俺は総本部に戻るとすぐに自室へと戻った。風呂に入ってベッドに倒れ込み、目を瞑るがなかなか寝付けない。仕方が無いので適当な音楽を聴くことにしたのだが……やはり落ち着かないままだった。


「……」


 気が付けば俺は携帯を手に取っていた。アドレス帳を開き『霧山琴音』の名前を選択する。そして通話ボタンを押した。


 コール音が数回鳴った後、相手が出る。


『あら。涼平』


「もしもし……」


『こんな夜中に何の用かしら』


 電話口の向こうで琴音は驚いたような声を上げたがすぐに嬉しそうな声色に変わるのが分かった。


『どうしたの?』


「……いや別に用ってほどじゃないんだが……その……」


 俺が言い淀んでいると彼女は察したように言った。


『ああ、もしかして華鈴ちゃんに上手く誤魔化してあげたこと?』


 図星を突かれて何も言えずにいると琴音が続けた。


『ふふっ。別に気にしなくて良いわよ』


「れ、例を言うぜ……おかげであいつとは揉めずに済んだ……」


『ヤクザっぽい部下を選んで運ばせた甲斐があったわね。まあ、今日のことは軽い遊びってことにしておきましょう。遊びで本命の子を傷つけちゃ可哀想だものね』


 情けなく相槌を打つばかりの俺に対して彼女はさらに続ける。


『お互い、守るべきものを抱える身だからね。くれぐれも優先度は間違えないようにしましょうね。おやすみ』


 そう言って電話は切れたのだった。俺は携帯を枕元に置くと深い溜息をつく……ああ。今日のことは忘れるとしよう。


 その晩は逃げるように眠りについたのである。


 まあ、日常とは無情なもので、翌朝から全てが元に戻ったかのごとく仕事の日々が戻ってきた。


 ちなみに華鈴とは何事も無かったかのように仲直りできたし、琴音との関係が特に冷え切ったわけではないのだが……それらとはまた別の大問題が起ころうとしていた。


 2004年12月12日。


 この日、俺は午後から眞行路邸へと向かっていた。午前中に眞行路一家の方から『重要な会合を行うので中川会本家の人間にお立ち合い願いたい』と申し出があったのだ。


 中川会、それも本家の人間を同席させるとは一体何であろうか。俺は疑問に思ったが、会長の命令とあっては仕方がない。


「わざわざお前を遣わせるほどのことじゃないとも考えたが。万が一、荒事になった時のためにもここはやはり腕の立つ者を活かせた方が良いと思ってな」


 用件にまつわる眞行路サイドからの説明は『着いてから明かす』の一点張り。それゆえ恒元としても何だか妙な雰囲気を察しているご様子。


「ほう。どうやら俺は思った以上に高く買われているようで」


「当然だろう。おかの喧嘩でお前より勝る奴は執事局におらん。その上、別府の件でお前の武名は天下に轟いた」


「ふっ。轟いただなんて、そんなオーバーな」


「オーバーなものか。もうお前は執事局次長のみならず我輩の側近、謂わば中川会の若手ホープなのだ。もっと胸を張りたまえ」


「は、はあ……」


 俺は謙遜気味に返事をして車に乗った。この日の気温は3度。まさに冬本番とも云うべき冷え込みで東京は寒気に覆われている。外に出るのが本当に億劫だと感じてしまうが、気候を言い訳に仕事を拒む自由はヤクザには存在しない。これも大事な役回りだと己に言い聞かせるがごとくコートを着込み、後部座席で揺られながら午後の首都高を眺めていた。


「しっかし、眞行路も良いご身分っすよねぇ。たかだか食客の分際で本家の人間を呼びつけるなんざ。少しは今の立場を弁えろって話ですよ」


 高速道路を降りたところでぶっきらぼうに呟いたのは運転役の酒井。彼の言うことには一理ある。御七卿の一角でなおかつ最高幹部であった頃なら未だしも、一直参ですらない格に落ちた今の眞行路が以前までのように振る舞うのは確かにおかしいだろう。


「まあな……けど、それだけ重要な会合なんだろう。何について話すかは知らんが。もしかすると本家にも関係のある事柄かもしれねぇし」


「そうじゃなかったらどうしてくれます? 仮に眞行路が本家を御用聞き同然に考えているんだとしたら、その時は“格”ってモンをきっちり教えてやらねぇといけませんぜ?」


「ああ」


 俺は適当に相槌を打った。実際問題、此度の眞行路一家からの呼び出しは中川会本家との上下関係にも繋がってくる話だ。御七卿の地位を捨てて、全ての所領を一旦返上し、直参の組として出直す――その条件を眞行路一家が呑んだからこそ恒元は彼らに温情をかけたのだ。


 さあ、今日の議題は何だろうか? わざわざ電話で『執事局の局長もしくは次長を遣わしてくれ』と注文を付けるに相応しい重要度なのか?連中の態度次第によっては少しばかり荒っぽいやり方で釘を刺すことも考えなくてはなるまいか……?


 弾を補充した愛銃を懐に差し、俺は軽く息をついた。そうこうしている間に車は都道35号線に合流。程なく到着した。


「着きましたよ」


 眞行路邸の門扉をくぐった駐車場。そこは2日前の暴動騒ぎのまま。塀の漆喰の至る所に、あの血生臭い戦いで付いたであろう弾痕が未だに残っている。


「壊れた所、直してねぇのか」


「そうみたいっすね。拠点ヤサの破損は赤っ恥も良いとこなんで、遅くとも翌々日までには修繕するのが常識なんですけど。眞行路一家は名前だけデカい癖にその辺りが行き届いてねぇらしいですね」


「言ってやるなよ。それだけ今の眞行路には金が無ぇんだろう。村雨組との戦争には億単位の軍資金を注ぎ込んだって話だからな、そいつが無様な負け戦に終わったとなりゃ尚のことスカンピンだぜ」


「高虎の件も方々から借金をしてようやく賄ったって噂ですからねぇ。手元に金が無いのに大風呂敷を拡げて喧嘩をしたのがそもそもいけなかったんです」


「へっ、違いねぇな」


 相変らず一言が多い酒井と雑談を交わし、俺たちは車を降りた。ふと周囲を見ると敷地内には既に来客用の車と思しきベージュの高級車が一台停まっていた。


「あれ? 誰でしょう? あの色はカタギ……?」


 酒井が訝し気に呟くと、それに呼応するかのように玄関から中年の男が姿を現した。男は俺たちの姿を認めるなり深々と頭を下げた。


「これはこれは。本家執事局次長の麻木涼平様とお見受けいたしました」


「はあ? 誰だ、あんたは? 何で次長のお名前を知っている?」


 酒井に対し、男は颯爽と名刺を差し出した。

「私、衆議院議員真島秀雄の政策秘書を務めております。若尾わかおと申します。麻木次長のご勇姿は一昨日に拝見いたしておりました」


 その名刺には確かに『衆議院議員 真島秀雄政策秘書 若尾健太郎』と記されていた。真島秀雄といえば現内閣で外務大臣を務める大物政治家。つまり、この若尾なる御仁は真島大臣の懐刀というわけである。


「ああ、これはどうもご丁寧に……って、何であんたはこの人が天下の麻木涼平様だってことを知ってんだよ?」


 酒井が問うと若尾は言った。


「実は先日、あの石畳の近くで拝見していたのでございます。暴徒相手に大立ち回りを演じられる麻木様のご勇姿を。いや、お見事でございました」


 どうやら一昨日のゴタゴタに居合わせていたというのだ。俺としては戦いに夢中になっていたために全く記憶が無い。まあ、高虎の件には彼と親交のあった多くの政治家が秘書を代参させていたのだから、そこに若尾の姿があっても不自然ではない。


 しかしながら、真島外相の秘書とは驚いたものだ……真島秀雄は現内閣における最大のタカ派政治家。琴音の暗殺を高虎に依頼していたとの話は本当だったか。


「麻木様。あの折は騒ぎを治めてくださり、本当にありがとうございました。あなた様がおられなかったらどうなっていたことか」


「大したことはやっちゃいねぇよ。ちょっとした成り行きで加勢しただけだぜ」


「ご謙遜を。あなた様の武勇は実に素晴らしい。お若いのに大したものだと他の先生方も仰っていました」


 恭しく頭を下げてくる若尾を軽くあしらう俺。ちなみに真島氏本人は出席していなかったという。極道の催事に現役大臣が名を連ねるわけが無いのだから当然なのだが……ここまで話を聞いていると、ますます気になってくる。


「あんたが政府のお偉いさんの秘書だってのは分かったが、それで? 現役閣僚の政策秘書ともあろう人間が何の用だ? 脱衣麻雀でもやりに来たわけじゃねぇだろう?」


「ええ。実は真島が高虎の親分から預かり物をしておりましてな」


「預かり物……?」


 少し意味ありげに放たれた若尾の言葉に酒井が反応した。


「どういうことだ? 詳しく聞かせろ」


 すると若尾は語った。


「あなた様方がご存じかどうか。高虎の親分は村雨組との戦争で自分が討たれた場合に備えて遺言状を書き留めていらっしゃったのです」


「遺言状?」


 俺が聞き返すと、若尾が大きく頷いて見せる。


「左様でございます。それをかねてより親交のあった真島に預けていたというのが事の次第でございまして」


「遺言状って……あの野郎はそんなもんを書いてたのかよ」


 俺は訝し気に呟いた。若尾曰く、それは村雨耀介との争いで自分が討たれた場合に組の今後をどうするかを明示したものだという。無論のこと『あくまでも万一の場合』のための備えであったとのことだが……。


「奴は自分に絶対の自信を持っていたんだぜ。自分が負けるなんざ1ミリも考えてなかったはずだ。それほどの自信家が遺言状を書くものか?」


 半ば信じられなかった俺。ただ、若尾の態度から見るに冗談を言っている風でもない。


「高虎親分の真意は私にも分かりかねますが。確かに我が主人は遺言状を預かっております」


「で、それを開封するためにあんたが遣わされたってのか?」


「ご明察でございます。麻木様。当然ながら遺言状の方は真島も見ておりませんので、ご本人の意思を尊重して今日この時に開封をと」


 なんと遺言状の開封の日付まで定めていたという高虎。自身が討たれた後、行われるであろう儀礼の2日後に組の幹部たち全員を集めて封を開けよとのこと。


 実に手回しが良いというか、あまりにも用意周到だ。無理の喧嘩好きであった反面、狡猾な戦略家でもあった高虎らしいといえば高虎らしいのだが。ともあれ、前総長の遺言状の開封が行われるというなら俺が同席するに相応しい大義は立っている。


「……確かに。これから眞行路一家は本家に降るんだ。組織の人間として立ち会う義理は一応あるっちゃあるな」


 俺はそう呟いてから酒井に命じた。


「お前は車で待ってろ。それから会長にも連絡を入れておいてくれ。よろしくな」


 酒井は「へい」と一礼すると車に乗り込んだ。


 高虎の遺言状――一般的に遺言状と言えば主人の財産をどう振り分けるか、その分配先を示すもの。特に極道社会においては重要な意味を持つ。組長が在職中に身罷った場合に誰が跡目を継ぐかを明記するのだからカタギのそれとは重みがまったく違う。


 しかし、俺は仄かに疑問を覚えた。


 眞行路一家には若頭として嫡男の輝虎がいる。わざわざ遺言状で示さずとも、跡目は既に決まっているようなものではないか……?


 ヤクザ組織における『若頭』はすなわち組の継承者を意味する。単なる当代におけるナンバー2という意味しか持たない『理事長』とは異なり、組長が渡世から身を引いた暁には必ずや組織を継承することが約束されている役職だ。その若頭を輝虎が務めている以上、遺言状などという形で後継者を指名する必要など無かったであろうに……。


 妙な予感が胸をよぎる。ひとまず俺は若尾を連れて屋敷の中へと入った。


「ようこそおいでなさいました。若尾先生。どうぞこちらへ」


 玄関先で俺たちを出迎えたのは淑恵。2日ぶりに顔を合わせる彼女は少し精悍さが戻っていた。夫を討たれた悲しみも少しは癒えてきたのだろうか。


「いやあ、奥様。『先生』はしてください。私はあくまで秘書の身であって代議士ではないのですから」


「何をおっしゃいますか。次の総選挙では真島外務大臣の後押しで自憲党から立候補なさると専らの噂ではございませんか」


 淑恵はそう言うと、照れくさそうに笑う若尾を子分に命じて屋敷の中へと案内させた。一方、彼女は俺の方へと向き直ると打って変わってフランクな口調で言った。


「いらっしゃい。師走の慌ただしい時に、今日はわざわざご苦労だったね」


「あ、ああ」


 俺は小さく頷いた。彼女から一昨日の件についての謝礼は無い。身を挺して守ってやったのだから礼のひとつくらい言っても良さそうなものだが……まあ、別に気にすることでもないか。それよりも気になるのは高虎の遺言状の件だ。


「ところで奥さんよ。あんたの旦那が遺言状を書いてたってのは本当なのかい?」


 俺が問うと、彼女は困惑気味に答えた。


「そうみたいね。あの人はそんなことをまったく言ってなかったから、私としてもただただびっくりしてるんだけど」


「だよなあ。俺としてもちょっと信じられねぇ。あの野郎が、まさか自分が負けることを想定して手を打っていたなんて」


「負けるということを何より嫌う人だったものね。言葉に出すのは勿論のこと、考えるのも嫌がってたくらい。『俺の辞書に敗北の文字は無い』ってのが口癖だったから」


 そこまで語った淑恵の瞳に一抹の寂寥の色が浮かんだ。それは紛れもなく夫を思い出したがゆえのもの。在りし日の高虎が瞼の裏に踊ったのだろう。


「……あんまり無理するなよ」


 悲しみ、怒り、無念。ただならぬ感情をひたすらに押し殺して気丈に振る舞う夫人を気遣い、なるだけ穏やかな言葉を贈ったつもりの俺。決して他意など有るはずもなかったのだが――次の瞬間、淑恵の表情と声色が変わっていた。


「無理するなだと? あんた、私がそんなに軟弱ヤワな女だってのかい?」


 不意を突かれた俺は思わず息を呑んだ。淑恵は俺に詰め寄り、殺気を孕んだ鋭い視線を浴びせてきた。


「申し訳ないけど、ふた回りも歳が下の若造に同情されるほど落ちぶれちゃいないよ。私は眞行路高虎の女房さ。言葉には気を付けるんだね」


 裏社会で長きに渡って夫を支え、組を盛り立ててきた、極道の妻。まさに女傑ともいうべき淑恵の貫禄は凄まじいの一言に尽きる。


 どうやらこちらの認識が誤っていたようだ。彼女に気遣いなど無用。余計な言葉がけは却って淑恵の神経を逆撫でしてしまうだけであろう。


 俺は素直に詫びた。


「ああ。そうだな。すまなかったぜ」


「ふん。分かればいいのさね」


 淑恵は鼻息を鳴らし、俺を解放した。このようにして啖呵を切れる活力があるなら大したもの。つい2日前は人が変わったように泣き崩れていたので心配になっていたが、あれから少しばかり調子を取り戻したようで良かった。俺は密かに安堵の息を吐いたのだが……そんな俺に彼女が告げた一言がさらなる衝撃をもたらしたのだった。


「麻木涼平って言ったっけ? あんた、なかなか良い男じゃないかい」


「へ……?」


 突然のことに言葉を失う俺に向かって淑恵は言った。


「一昨日はありがとうね。おかげで倅共々命拾いしたってもんだよ。あんたは若いのに本当によくやる。うちの人が見込んだわけだ。凄いね」


「おいおい。いきなり褒めるたぁ、どういう風の吹き回しだよ。あんたらしくもねぇ」


「あたしだって人の子さ。褒める時は褒めるよ」


 淑恵はそう言うと、俺の目をじっと覗き込んできた。まるで値踏みしているかのような視線である。俺は思わず身構えた。


「……」


 彼女が何を言わんとしているかが何となく分かったからだ。


「どうだい? あんたさえ良ければ眞行路一家に来ないかい? あれほど見事な戦いをする若武者に声をかけない手は無いだろう?」


 おい。よりにもよってそれかよ――俺は溜め息をつく。その誘いを受けるにも慣れてきたが、今日ばかりは断り方に気を付けてやるか。


「あんたの旦那にも同じことを言われたぜ。どんな餌をちらつかされようが、俺は執事局次長。その肩書きが変わることはねぇよ」


 すると淑恵は意外な反応を見せた。


「ふふっ。まあ、そうだろうね」


「あ?」


「そう言うと思ったよ。あんたの中川恒元への忠誠心は海よりも深くて山よりも高い。たとえ何を持ちかけられても揺らがないだろうね」


「だったらなんで誘ったんだよ? 俺を試したのか?」


「ああ。試させて貰ったのさ。高虎の見込んだ通り、あんたが真の意味で一本筋の通ったおとこなのかをね」


 いまいち訳が分からぬとばかりに眉根を寄せた俺。そんなこちらの反応を見て何を思ったか。眞行路の女将は軽く笑みを浮かべる。


「ふふっ」


 そして次の瞬間、俺の手を引っ張って玄関近くの小部屋へと連れ込んだのであった。


「おっ、おい!」


 戸惑う俺を無視して彼女は俺を畳の上に座らせた。そして自らも俺の隣に腰を下ろすと、そっと耳打ちしてきたのだった。


「ここだけの話だけどね……もう、あんたしか頼れる人間が居ないんだよ」


「……な?」


 俺は思わず淑恵の顔を凝視してしまった。それはあまりにも想定外の言葉であったからだ。


「……その顔は何か折り入った事情がありそうだな」


 淑恵はコクンと頷いた。


「なるほど。だからこんな湿っぽい所に」


「ああ。そうさ。ここなら話しても構わないだろうと思ってね。密談をするにゃあもってこいの物置き部屋さ。ちょっと埃臭いけど人に聞かれる心配は無い」


 そう言うと、淑恵は少し声のトーンを落として話し始める。


「実は、どうにも嫌な予感がしててね。うちの人が書いたっていう遺言状。私はそれがきな臭く思えて仕方が無いんだよ」


 淑恵が不安に感じていたのは、俺と同じく遺言状の意味について。己の敗北について考えることさえ嫌っていた高虎が敢えて敗北後の想定をしていた点もさることながら、若頭として輝虎がいるのに遺言状を設けていた事実が妙に引っかかっていたようだった。


「確かにな。わざわざ遺言状なんて形で示さなくても、若頭が継ぐ以外には考えられねぇってのに」


 俺が疑問を呈すると淑恵は頷きつつ答えた。


「そうよね。輝虎を嫡男、つまりは若頭に据えたのは他でも無い高虎自身だ。けど、もし途中であの人の気が変わっていたとしたら……」


 俺は思わず問い返した。


「廃嫡ってことか?」


 すると淑恵はこう続けたのである。


「ああ。あんたも知っての通り、あの馬鹿息子は父親を倒して組を乗っ取ろうとしていた。私には言わなかったけど、高虎はだいぶ前から気付いていたと思う」


「まあ、確かにそういう見方もできなくはねぇな。あの野郎は喧嘩一辺倒と思いきや相当に頭の切れる奴だったからな」


「うん。息子には少し甘かったけど、高虎は自分に敵意を持った輩を野放しにしておくような人じゃなかった。これまで反逆者は誰であろうと根こそぎ潰してきたからね」


 俺は頷いた。高虎は敵対する勢力や人物への攻撃の容赦の無さっぷりで有名だった。それはカタギに対しても同じ。かつて政治的に対立した東京某区選出の都議会議員を拉致、激しい暴行を加えた上で耳と鼻を削ぎ落し、都庁前に晒したこともあった。その血にまみれた豪胆なやり方こそがあの男を銀座の支配者たらしめていたのだ。


「組の跡目を継ぐ時、実の弟さえも酷い殺し方で血祭りに上げてるんだよ。そんな人がいくら息子だからって見過ごすとは思えない」


「でも、本当にその気があるなら早々に倅を処刑しちまってるんじゃねぇのか?」


「殺す気だけは無かったと思う。さっきも言ったように、何だかんだで息子には甘かったから。殺しはせずに罰を与えようとしていたんだよ」


「その罰が廃嫡だってのか……?」


「うん。私はそう考えてる」


 廃嫡とは読んで字のごとく嫡男の座から外し、後継者として認めないということ。いずれ遠からぬうちに高虎は自らへの謀反の咎で息子を組から追放していたであろうと妻は見ていた。それは言うまでもなく輝虎にとっては大きな屈辱となったであろう。


「そうなったらそうなったで輝虎は父親に噛みついてたと思うが……あんたはそれを旦那が遺言状として書く形で息子に罰を与えたと思うわけだな?」


 淑恵は大きく頷いた。


「ああ。あの人にしちゃあ『俺に歯向かおうとしたお仕置きだ』ってことでね」


「でも、輝虎が納得するとは思えねぇぜ。遺言状に廃嫡を書かれることはそれ即ち渡世からの強制引退を意味する。親父譲りの野心家のあいつがそれを甘んじて受け入れるはずが無い」


 すると彼女は俺の言葉を遮るように語気を強めたのだった。


「だからあんたの力が必要なのさ」


 なるほど。少しずつ事情が読めてきた。俺は頭の中で情報を整理しながら、淑恵の話に耳を傾けて相槌を打ってゆく。


「私は妻として、最後まで夫の意志を貫いてやりたいのよ。それがあの人に嫁いだ女としての矜持。だから、高虎が倅の廃嫡を望んでいたとしたら、それを叶えてやりたいんだ」


「要は俺に遺言状の見届人になれってことか。だが、俺は本家の人間だぜ。ましてやこないだまであんたらの敵だった。会長の命令で旦那を殺そうともした。そんな俺に大役を任されたって困るぜ。分かるだろう」


 すると淑恵は俺の瞳をじっと見つめてきた。その眼差しは真剣そのもので冗談など微塵も感じさせないものだった。


「あんたならできるよ。いや、あんたにしか頼めないことなんだ」


「どうしてそこまで買いかぶる?」


「買いかぶりなんかじゃない。あんたは忠誠心の化身のような男よ。筋道を通すためならどんな無茶もやってのける、その仁義と勇気を買っているの」


 忠誠心の化身とは。褒め言葉なのか、もしくは皮肉の句なのか。きっと前者であろうが今の俺にはどうしても貶されているように思えてならなかった。


 そんな感想はさておき、何とも難しい問題である。淑恵は遺言状の開封で“廃嫡”の二文字を見た息子が激昂し、暴走する展開を懸念している。つまるところ、もしもそうなったら俺に輝虎を止めてくれと依頼してきているのだ。


「まあ、俺は別に構わんが。加減を間違えて倅をボコボコにしちまうかもしれねぇな。あんたはそうなっても良いってのか?」


「あの馬鹿息子が頭を冷やすにはもってこいだよ。輝虎は組の力を自分の力だと履き違えてる。むしろ一思いに殺した方が世のため人のためさね」


「おいおい。仮にも腹を痛めて産んだ我が子だろう。随分とひでぇ言い方してくれるじゃねぇか」


「我が子なればこそだよ。あの子を産み落とした者として責任を取ると言ってんのさ。ああ。トドメは刺さないでね。落とし前は私が付けるから」


 そう吐き捨てた淑恵は、懐から腰刀を取り出して見せる。どうやら彼女は事と次第によっては本当に輝虎の息の根を止める気でいるようだった。


「……まあ、それは他にどうしようもなくなった時の話よ。いちばんはうちの人が遺言状にあの子を嫡男として指名し、予定通り跡を継がせると書いてあること。輝虎だって、いざ自分が親分の座に就けば心持ちが変わるかもしれないんだ」


「ほう? じゃあ、もし遺言状に輝虎を後継者に据えるとあったら? あんたは俺にどうしてほしい?」


「決まってるじゃないか。その時はあの子の抑えになってちょうだい。本家の執事局の次長として、輝虎が変な気を起こさないようしっかり見張っておくれ」


 語り終えると同時に、深々と頭を下げた淑恵。畳に額が擦れるほどの座礼であった。俺としては無碍にできる雰囲気でもない。


「ふっ、頭を上げてくれや。おばさん。あんたの頼みはよく分かったよ」


「引き受けてくれるのかい?」


「断る理由もぇだろ。俺は会長の側近だ。本家として眞行路一家次期総長を管理下に置けるってんなら好都合だ」


 淑恵は顔を上げて俺を見た。その瞳は潤んでいた。


「ありがとう……恩に着るよ……」


「だがな、ひとつ条件があるぜ」


 俺は少し間を置いて続けた。


「輝虎が会長の盃を呑む時の媒酌人は俺が務める。知っての通り、媒酌人ってのは渡世では親分と同格に敬うべき存在になる」


「……ああ。きっちり導いてやってくれ。あの子が道を踏み外さないように」


「もし輝虎が組織にとって仇成す存在と会長が判断したら、その時は俺が奴の始末をつける。それで良いな?」


 その問いに対して淑恵は何て答えるか。母親として、先代総長の妻として、どんな反応を見せるか。固唾を呑んで返事を待つ俺に彼女が寄越した言葉は、少しばかり意外なものであった。


「構わないよ。見据えるべきは渡世が穏やかであること。そのためにこそ眞行路一家は中川会に降ると決めたんだからね」


 俺は思わず問いを重ねた。


「あんた、それで良いのか?」


「良いに決まってるじゃないか。中川会の力で全てが丸く収まるなら、私としては願ったり叶ったりだよ」


「……そ、そうなのか!?」


「何を驚いた顔をしてるのさ。中川恒元へ領地シマを返すってんで皆を説得するのに、私がどれだけ尽力したと思ってんだい」


 これまた意外な事実が明かされた。なんと、淑恵は眞行路一家の改革に賛成だったというのだ。てっきり彼女は最も反対するであろうと思っていたが……そこへ続いて語られたのは極道の妻としての胸の内だった。


「高虎は三度の飯より喧嘩が好きな生粋の暴れ者だった。だから私もあの人を支えようと力を尽くしたよ。私心を滅して。日本制覇っていう夢を一緒に叶えるためにもね。鉄火場がありゃあ付いて行ったし、政財界のお偉方を接待してコネを作ったりもした。けど……もう良いんだよ。あの人が殺されて何かが切れちまった。心の中の糸みたいなのが、ぷっつりとね」


 淑恵はそう言ってから自嘲気味に笑った。そしてこう続けたのだった。


「正直に言うとね、もう沢山なんだよ。大事な子供たちが命を散らしてくのを見るのは。覇道を突き進む猛獣は俗世を去ったんだ。出来ることなら、うちの子たちには穏やかに暮らしていって貰いたい。成り上がるのは止めにしてさ」


 どういう顔をして聞けば良かったのだろう。俺は何も言えなかった。夫と同じく、眞行路淑恵は武闘派気質だと思っていたのだ。その夫が身罷った後も遺志を継いで眞行路の野望のために進んでゆくものと思っていた。その口からまさか、こんな言葉を聞こうとは。


「御七卿の立場を捨てて中川の一直参に戻れば、前のような身の丈に合わない喧嘩はできなくなる。うちが本当の意味で変わるためにはそれしか無いと思ったんだ」


「なるほどな」


 どうやら夫を失ったことで渡世の儚さを痛感し、虚無の境地を悟ったとでもいうべきか……とも思ったが、それは違う。


 この女性は根っからの喧嘩好きではない。むしろ内心では平穏な暮らしを誰よりも望んでいたのだ。夫を支えて組を盛り立てる妻の役柄を果たすため、そうした本音を今まで押し殺していたに過ぎない。


「銀座の猛獣とまで呼ばれた高虎が消えたんだ。渡世を穏やかにするのは良い機会じゃないか。力ある者の下で皆がひとつにまとまり、君臣の序を基に大きな家を作ってゆく。そうすりゃ無駄な争いも起こらないと思うのよね。その頂点に立つべきは、この関東では結局のところ中川会を置いて他には無い」


「……らしくねぇことを言うじゃないか」


「ふんっ、私の言葉が信じられないのならそれで良いさ。でも、心にも無いことは言っちゃいないよ。あんたにだって理屈は分かるはずだ」


 淑恵は俺の瞳をじっと見た。その眼差しは真剣そのもので冗談など微塵も感じさせないものだった。まあ、ここはひとまず乗ってやるか。眞行路一家の跡目継承を円滑に行うことは、統制力強化を目指す本家にとっても差し障りのある話ではない。むしろ会長にとってより忠実な人間を新総長に据えられたら好都合であろう。


「改めて。私の頼みを引き受けてくれるね?」


「ああ、分かったよ」


 俺が頷くと彼女は安堵の表情を浮かべた。

「ありがとう。助かるよ」


 淑恵に同情するわけではなく、執事局次長として最大限に得のある判断をしたまで。ただ、そこで俺はふと気になったことを口にした。


「……ひとつだけ言わせてもらうが、輝虎はあんたが思ってるほどバカじゃねぇぞ。見た目以上に分別のある野郎だ」


 すると彼女は苦笑して答えたのだった。


「そういう奴に限ってバカなんだよ。男ってのは。シマの返上も最初はあの子が言い出したことだけど、所詮は口だけさ。会長に擦り寄ってお墨付きをもらった方が組を継ぎやすくなるからねぇ。輝虎に中川への忠誠心なんかこれっぽっちもありゃしない」


 だが、それは裏を返せば輝虎が遺言状の存在を予め想定していたということ。父に廃嫡される展開を踏まえ、恒元に媚を売ることで眞行路一家の新総長就任を後押しして貰おうという腹だ。遺言状に何が書いていようが知ったことか――そう言わんばかりの打算的な振る舞いである。


「どうやら認識を改めなきゃならねぇようだな。こないだ赤坂に来た時にはさっきのあんたと同じようなことを言ってたもんだから、てっきり輝虎は穏健派なのかと思っていたが」


「やり方が違うだけで根っこは父親と同じさ。仮に高虎が遺言状で今まで通り輝虎を跡目に指名してたんなら、その時はあたしとあんたできっちり抑え付けなきゃいけないよ。昔から調子に乗ると何をしでかすか分からない子だったんだから」


「ああ、そうだな……あれ待てよ? 眞行路は代々実子で継承してきたんだろう? それなら、そもそも輝虎以外に跡目を譲る奴はいねぇんじゃねぇの?」


「まあね。いるっちゃいるよ。輝虎の下に秀虎ひでとらって次男が」


 馴染みの薄い名前が飛び出した。


「秀虎か。聞いたことがあるような、無いような」


「けど、あれは親分たる器じゃない。親分どころか極道にも向いてない子だよ。優しすぎる。おまけに度胸も無い。うちの人も殊に嫌ってた」


「そりゃあ極道としちゃ資質に欠けるわな」


「母親として情けない限りだよ。うちの人も、あれを指名するくらいなら3歳のチビを選ぶでしょうね」


「3歳だと?」


「ああ」


 そう言った淑恵は、ため息をつきながら立ち上がる。


「一応、私と高虎には娘もいてね。もう家を出て久しいけど、結婚して倅が生まれてる。女系の継承にはなるが、その子に継がせれば祖父から孫に跡目を譲ったことになる」


 理屈の上では筋が通る。さりとて常識的に考えればかなり無理のある話だ。ましてや当人はまだ3歳だというではないか。そんな幼子にヤクザの総長の座を継がせるなど前代未聞。眞行路の通字である『虎』の諱もその子には受け継がれていないという話だし。だが、それでもやりかねないのが高虎という男であった。


「関東博徒の因習ってやつね。徹底して世襲にこだわるのは侍の猿真似。うちに限らず、江戸の頃に由緒を持つ組は何処も同じさ」


「ああ。かつて徳川幕府は有力な親分に名字帯刀を許し、治安維持の役を負わせたって話だもんな。博徒系ヤクザが武家文化を模倣するのはその名残りかもしれねぇわな」


「煌王会じゃとっくに世襲制は止めたっていうのに。戦後に旗揚げした中川会がいつまでそんなのを続けてんだか……とまあ、話を戻すけど」


 軽く咳払いをしてから淑恵は続けた。


「うちの人はそういう古臭い価値観に子供の頃からどっぷり漬かって育ったんだ。組は直系の男子に継がせるのが当然だと思ってる。実の倅らじゃ役不足と考えりゃ、15歳で勘当した娘が産んだ幼子を跡目に指名するのも訳ないよ」


「なるほどな。じゃあ、もしそうなったらあんたはどうする? 年端もいかねぇガキが組を継いでも良いと思うのか?」


「悲しいことに、かくいう私も夫と同じ古臭い人間だからね。あくまで遺言状の内容に従うまでさ。その時は孫が成長するまで私が組を仕切るよ」


 今の時点では候補のひとつに過ぎないものの、新しき総長が3歳というのも非現実的な話。いまいち想像がつかない。ただ、それでもなるようにしかならないのが任侠渡世の常。道義的な是非はさておき、新当主が未熟で安定しない方が本家としては眞行路一家をコントロールしやすいかもしれない。まあ、その結果どうなるかは分からないのだが。


「何にせよ。私の望みは皆で穏やかに暮らすこと。無駄な血を流さず、二度と間違いを起こさないことだ。誰が跡目を継ごうとそれだけは変わらない。協力してくれるね?」


「ああ。こっちにとって損はぇからな」


 俺と淑恵。立場とねらいは違えど、見据える方向はとりあえず一致している。利害の異ならぬうちは手を組むのも良いだろう。


「それじゃあ、行くとするかね」


 小部屋を出た夫人に続いて俺も歩き始めた。


「で、遺言状ってのは? さっきの若尾って議員秘書が持ってるのか?」


「ああ。私もその時に初めて存在を知らされたよ。今朝、真島代議士の事務所から連絡があった時には『重要な報告があるから急ぎ幹部を集めてください』としか言ってなかったからね」


「なるほどな。道理でこっちに着くまで俺たちにも詳細が明かされなかったわけだ」


 淑恵にとっても寝耳に水だった遺言状の存在。となれば、今回の会合の主導権は若尾秘書が握ることになる。事情があるとはいえヤクザの寄り合いをカタギがリードするなど異例中の異例。きな臭い予感がするのも頷ける。俺は歩きながら懐中の銃をそっと確認して気を引き締めた。


 いざとなったら、こいつで輝虎を撃つ――。


 なるだけ血生臭い惨事が起きぬよう祈りたいものだ。それでもプライドの高い御曹司のこと。意に沿わぬ父の遺言状に激昂して大暴れする可能性は否めない。


 淑恵の考えでは次男が後継者に選ばれる可能性は皆無らしい。よって次期総長は消去法で嫡男の輝虎か、あるいは高虎にとっては孫にあたる名も知らぬ幼児かの二択ということになる。


「私が思うに、たぶん跡目は孫になると思う。娘とはもうだいぶ前に疎遠になってるせいで生まれてから一度も会ってないけどさぁ」


「長男が反逆者で次男がヘタレだってんじゃあ自ずとそうなるわな。問題は実際にそうと決まった時に輝虎がどんな反応をするかだ」


「うん。もしかしたら幼い甥を殺そうとするかもしれない。自分が跡目を継ぐためにね。だから、あんたはそれを止めておくれ」


「心得た」


「あの子の態度次第によっては今日その場で殺してくれて構わないわよ。私はもう、多くの血が流れるさまは見たかないんだ」


 父親譲りの傲慢さゆえに激昂すれば何をしでかすか分からない輝虎。下手をすれば大事件を引き起こす恐れは大いにあった。そんな不安に対し、我が子ひとりの犠牲で済むならそれで良いと淑恵は言ってのけた。新たな争いを回避できるなら喜んで息子の命を差し出してやると。


 母は強しとはよく言ったもの。私心を殺して極道の妻を長年にわたって務めてきた女の矜持。流石という他なかった。


「まあ、任せてくれや」


 健気な女傑の背中に続き、俺は奥座敷へと歩いて行ったのだった。


 さて、話し合いが行われる奥座敷は、屋敷の最奥部に位置する。『玉座の間』と呼ぶ相応しい空間で、上座には総長専用の大きな椅子が設えられている。そう、かつて俺が高虎と激戦を繰り広げたあの部屋である。


 そんな高虎はもういない。今や黒光りする革の椅子が主人の面影を残すのみとなっている。ぼーっと眺めていると何だか無駄に寂しさを催しそうだが、余計なことを考えている場合に非ず。


 15時53分。少し陽が落ちてきた和室の中で、これからまさに眞行路一家……いや、眞行路家の家族会議が始まろうとしていた。


 少し甲高い議員秘書の声が室内に響く。


「そろそろ始めてよろしいですかな?」


 総長代行の淑恵が上座に着席し、その斜め後ろに俺が控える。俺から見て左側に若尾が座っていた。そして彼の目の前には輝虎がいる。


「ああ。構わねぇよ」


 座布団の上で胡坐をかく輝虎はそう答えたのだった。しかし、それに待ったをかけたのは淑恵だ。


「お待ち。まだ秀虎が来てないじゃないか」


 輝虎が怪訝そうな顔で聞き返した。


「秀虎?」


「ああ。そうさ」


「おいおい、母さん。あいつは極道じゃねぇだろう。組の今後をどうしようって話し合いに参加する必要は無いと思うが」


「いや、そうはいかない。極道じゃないが、あの子だって眞行路の人間であることに変わりは無いんだ。先代の息子である以上、あの子にもここへ来る義理はあるよ」


「いや……それはそうだが……」


 淑恵の言葉に輝虎は口ごもった。やはり輝虎の中には一抹の懸念が渦巻いているようだ。嫡男の座を他の者に奪われるのではないかという恐れが。

 尤も、その秀虎なる次男が選ばれる可能性は皆無に近いそうなのだが。輝虎としてはリスクの種はなるだけ潰しておきたいのだろう。


 姑息で狭小な男だ。されど不安に思う心情自体は分かる。


「大体、俺以外に組の跡目を継ぐに相応しい奴がいるのかよ。そうだろう? 母さん」


「ああ。そうさね。少しは落ち着いたらどうだい。あんたを跡目から外すと決まったわけじゃないのに。さっきから何を怯えてるんだい。若頭の癖にみっともない」


 息子の考えていることをおおよそ見抜いたのだろう。淑恵は呆れ顔でため息をつく。一方の輝虎は舌打ちしてそっぽを向いた。


「ったく、札幌に居るっていう愛美あいみのガキだってまだ3歳なんだろ? そんな赤ん坊同然のチビに総長が務まるかってんだ!」


 ちなみに愛美というのは高虎と淑恵の娘であり、輝虎にとっては妹にあたる女性。15歳の時に眞行路を勘当されたという例の跡目候補の幼児の実母だ。


「まあまあ。少しは落ち着いてくださいや、若頭カシラ。先代もその辺はきっちりお分かりになっていたはず」


「ああ? 何言ってんだよ、須川! 物の順序も分からねぇような頭だったからアホみてぇにドンパチを繰り返したんだろうが!」


「いや、それはそうなんですがね」


 隣に座った本部長の須川が宥めようとしたが、輝虎の勢いに押されてすっかり同調してしまった。輝虎の奴、高虎が健在だった頃は父親への不満を組屋敷で口に出すなど有り得なかったというのに――怖い存在が消えて完全に調子づいている。この具合では2日前の涙も噓泣きだったと考えるべきか。


「ああ! もう面倒くせぇ! 跡目は若頭で良いじゃねぇですか! 何を話し合う余地があるってんです!? それが真っ当な筋ってもんでしょう!」


「おう。お前もそう思うよなあ、蕨ぃ」


「当たり前でしょう! 今まで先代に忠実に仕えて、組のために散々尽くしてきたんだ! そんな若頭を差し置いて跡目を継げる奴なんかこの組にはいませんぜ!」


 蕨と呼ばれた男は若頭補佐だ。左隣の須川と並んで輝虎に次ぐナンバー3の地位にある男。こいつは見た限り根っからの輝虎支持者らしい。


 前に会った時から思っていたが、何というか……容姿からして単純そうだ。赤く染めたドレッドヘアに金銀のピアスを着け、黒のタンクトップの上に羽織った背広はこれまたド派手な豹柄。名門組織の幹部というよりは、どこぞのチンピラともいうべき軽薄な格好だった。組の今後を決める会議に着てくるべき服装ではないだろう。開いた口が塞がらない。


「まあ、気持ちは分かりますがね。蕨の兄貴。先代が書いた遺言状があるのにそれを確認しないってのもおかしな話でしょう」


「んだとぉ!?」


 顔を真っ赤にする蕨を“兄貴”と呼んだ七三分けの男。こいつを俺は知っている。三淵みつぶち史弥ふみや、確かこの組では幹部候補生だったか。


「遺言状が存在する以上、きちんと封を開けて先代のご意思を知る。これが筋というものではございませんか」


「うるせぇ! 輝虎様が跡目を継ぐことに何の問題があるってんだ! 先代が跡目と定めたから輝虎様を若頭に就けたってのに、確認するまでもぇじゃねぇか!」


「いや、そういうわけじゃ……」


「黙りやがれ! 三淵! テメェの意見なんか求めちゃいねぇんだよ!」


 ――バキッ。


 蕨が怒りに任せて殴りつけると、三淵は畳の上に倒れた。


「うぐっ……」


「昇進したからって調子に乗るんじゃねぇ! いっぱしの屁理屈をこねるなんざ百年早いってんだ!」


 話を聞く限りだと、彼は先月からの間に正式に幹部となっていたらしい。第一印象としては真面目な男だ。クールな黒髪といい、控えめな色合いの背広といい、蕨とは実に対照的。察するに普段から頭でっかちな几帳面さを発揮しており、疑問に思ったことはその都度諫言せねば気が済まない質のせいで兄貴たちの不興を買っていると見た。


「……」


「ああ? 何だ、その顔は? まだ殴られ足りねぇってのかゴラァ!?」


 豪快にぶっ飛ばしたにもかかわらず、更に三淵へと掴みかかろうとする蕨。そんな若頭補佐を諫めたのは意外にも輝虎だった。


「こら。その辺にしねぇか、蕨。お客人の前だぞ」


「す、すんません! つい!」


 言葉とは裏腹に輝虎の表情はどうにも満足気であったのだが。淑恵はすっかり呆れ果てた眼差しを向けていた。


「……」


 それはそうと、当の“お客人”こと若尾は至って平然と構えている。本職の暴力を見せられてもまったく動じていない。これはなかなかの胆力だと思う。代議士とヤクザとの橋渡し役を担う議員秘書だけあって、そういう光景には慣れているのだろうか。


 閑話休題。生意気な弟分が殴られたことで溜飲を下げた若頭に追い風を吹かすがごとく、不意に襖が開いて一人の男が入ってくる。


「失礼いたします」


「おう、新見にいみ。戻ったか。どうだった?」

「申し訳ございません。愛美様とそのお子をお連れすることは叶いませんでした。お二人は岐阜へ移り住んでいるようでございまして」


 やや慇懃気味な口調で報告する30代半ばと思しき男――新見にいみと呼ばれたその人物に、俺は見覚えがあった。


 あっ! あの男は!?


 以前に恵比寿のバーで話しかけてきた男とよく似ている。花の模様があしらわれた茶色のドレスシャツに同色のスーツを重ね着し、眼鏡をかけた知的な雰囲気。間違いない。紛れもなく本人だ。こちらが頼んでもいないのにワインの蘊蓄を華鈴に語っていた、あの奇妙な男だ。


 よもや極道だったとは。それどころか眞行路一家の構成員だったとは。人は見かけによらぬというが、単なる通気取りのサラリーマンと思っていたので驚いた。

 呆気に取られる俺を他所に、新見なる男は輝虎に報告を繋いでゆく。


「お分かりとは思いますが、岐阜の南半分は煌王会の領地シマ。こちらとしては迂闊に踏み込めますまい。今の我々には煌王と外交を行うツテも無ければカネもありませんからね」


「そうかあ。残念だったなあ。そんなところに居たんじゃ今さら呼び寄せることも出来ねぇわなあ」


 輝虎はあからさまに喜色を露わにした。やはりこの男にとって妹の愛美が産んだ甥の存在は大きな障壁。そのことが分かる反応であった。


「はい。さしずめ銀座へ連れ戻されることを恐れての移住でしょうねぇ。美月様およびそのご子息にはもう我らと関わる気は無いと考えて良いかもしれません」


「ププッ。だから言ったろぉ、新見ぃ。うちから出てった奴らなんか気にする必要は無いって」


「ええ。その通りでございます。おかげでとんだ無駄足を踏まされましたよ」


「ま、ご苦労だったな」


 満面の笑みを浮かべた輝虎だったが、一方で黙って聞いていた淑恵は新見を睨みつけていた。


「おい。愛美は岐阜の何処に居るって?」


「ええ。私が調べた情報によりますと、多治見の辺りに住んでいるとかいないとか」


「何だい、その曖昧な答えは。『多治見の辺り』ってのは。あんた、ちゃんと調べたのかい!?」


 淑恵は新見を問い詰めた。すると、彼は眼鏡のブリッジを指で持ち上げながら返事を投げた。


「もちろんですとも。お調べしました。ですが、それ以上に調べるとなると煌王会と折衝を行わねば……」


 そんな新見の言い訳じみた返答を遮り、淑恵が声を荒げる。


「だったら煌王とナシを着けりゃあ良いじゃないか! 何を勿体ぶってんだい!」


「勿体ぶるなど滅相も無い。私はただ、岐阜へそれ以上に踏み込むとなると煌王会と摩擦が生じると申し上げているまで」


 負けじと反論する新見だったが、それを淑恵は激しく一喝した。


「御託を並べてんじゃないよ! 煌王との摩擦が何だってんだ! 揉めようが何しようが『連れて来い』と言われたら連れて来るんだよ! あんた、それでも眞行路の若頭補佐かい!? 情けないったらありゃしない!!」


 やれやれとばかりに苦笑する新見。あの高虎をも黙らす貫録の総長夫人に怒鳴られてもなお、飄々とした態度を崩さずにいる。この男もまた肝が据わっている。


「それはご尤もながら、今この状況で煌王会と事を構えるのは得策ではないと存じます」


「何で!?」


「お分かりになりませんか。愛美様が煌王会の領内に居るということは実質的に彼らの手に落ちたも同じ。いたずらに先方と問題を起こせば、愛美様とその御子息の身の安全が保障できかねるということですよ」


 新見の言葉に淑恵は押し黙った。彼の言うことにも一理あると認めたらしい。すると、それまで黙って聞いていた輝虎が口を開く。


「まあ、そういうことだよ。母さん。元より愛美たちを連れ戻すなんて無理のある話だったんだ。そもそもあいつは父さんが勘当しているんだから。もう眞行路の人間じゃねぇんだよ」


「輝虎、あんた……!」


「そんなことよりさっさと始めようぜ。若尾さんだって待ちくたびれてるんだからさぁ。早いとこ父さんの遺言状ってのを見せてくれや」


 憤慨する母親を無視して若尾へ視線を送った御曹司。すると当の若尾は微笑みながら大きく頷いた。


「ええ。構いませんよ」


 だが、そんな彼を淑恵が制止する。


「お待ちください。若尾先生。まだ私の愚息めが来ておりませんので」


「……えっ?」


「次男の秀虎でございます。申し訳ありませんが、もう暫しお待ちください。何卒」


「ああ。そうですか。それはそうですね。待つといたしましょう。我が主人、真島秀雄にも可能な限り一族の皆様方が揃った状態での開封を申し付かっておりますゆえ」


 若尾の言葉に輝虎は苛立ちを見せた。舌打ちを鳴らし、大きくため息をつく。そうして眉根を下げて残念がる兄貴分に新見が耳打ちする。


「大丈夫ですよ。何も恐れることはありません。若頭は堂々となさっていれば良いのです」


「あ、ああ。そうだよな。」


「ええ。どうかリラックスなさってください」


 そうして気遣いの言葉をかける様はまるで酒場のマスターのよう。しかし、その実はヤクザの若頭補佐というから人間は見た目だけでは測れぬものである。


「ああ」


 輝虎は新見の言葉に頷いたが、その表情にはどこか不安の色が窺えた。やはり心の奥底では、遺言状の内容が気になって仕方ないのであろう。先代に廃嫡されて今まで築いたものを全て失う結果になりはしないか、心配でたまらないと見た。


 俺が奴に同情を寄せることは無い。されどもあの男のここ3ヵ月における苦労は知っている。輝虎なりに悩み、迷いながら歩んできたのだ。


 父を武力で倒して組の実権を奪い取る謀反を画策したのは事実。廃嫡があるとすれば他でも無いそれが一番の理由だろう。しかし、あのクーデター計画は輝虎の成長の表れでもある。父を超え、自らの時代を作り上げてゆく決意を行動で示そうとしたのだ。ただただ畏怖していたあまりに恐ろしい父に真っ向から勝負を挑もうとした度胸――。


 俺は輝虎の味方ではないが、少しは努力が報われる結果になっても良いと思う。言ってしまえば彼が順当に跡目に選ばれさえすれば流血の惨事に至る可能性は大きく減るのだから。


「……」


 気付けば一同の会話が少なくなり、緊張という名の静寂が流れ始めた奥座敷。そんな空気を切り裂くように襖の外から声が聞こえた。


「失礼いたします!」


 今度は若い男の声だ。


「古田でございます! たった今、秀虎様をお連れいたしました!」


 その報告に淑恵が頬を緩めた。


「おお! 来たかい!」


 若尾もどこかホッとしたような面持ちでいる。一方で輝虎たちは歯噛みした。新見はというと、相変わらずのポーカーフェイスだ。


「……」


 やがて襖が開かれると、そこには20歳前後と思しき青年が立っていた。細身の身体にセーターを着込んだスリムな体型。その面立ちは整っており、柔和な優男といった雰囲気を醸し出している。


 この男が紹介に上がった、眞行路高虎の次男――眞行路しんぎょうじ秀虎ひでとらのようだ。


 身長はかなり小さいと見た。おそらくは160センチ台であろう。おまけに背筋は少し曲がっていて猫背気味。


 えっ? この男がヤクザの息子? それも銀座の猛獣と恐れられた高虎の倅だというのか?

 にわかには信じられなかった。


「あ、あの……」


 おずおずと口を開いた秀虎に輝虎が言った。


「おいっ! 今まで、どこで何をしていた!? 今日がどういう集まりか知らなかったわけじゃねぇだろ!」


「だ、大学の補講が長引いちゃって……」


「情けない奴だ! 学業なんぞを言い訳に遅刻をするくらいなら最初から来るな! 組を何だと思っていやがる!」


「ご、ごめんなさい!!」


「俺じゃなくて若尾さんに謝れ! お前のためにだいぶ長いこと待ったんだぞ! 『お待たせしてすみませんでした』と土下座のひとつでもしたらどうだ!」


 兄に怒鳴られ、高虎は即座に若尾へ膝を付いて詫びを入れた。


「お、お待たせしてすみませんでした! 申し訳ありませんでした!」


「いえいえ。大丈夫ですよ。お気になさらず」


 若尾は笑顔で許しを与えるが、輝虎の怒りはまだ収まらないようだ。彼は秀虎の方へ近寄ると、胸ぐらを掴んで無理やり起こした。


「いいか!? お前は眞行路の男子なんだぞ! そんな体たらくでこの先やっていけると思うのか!?」


「ご、ごめんな……さい……」


 すっかり萎縮した様子の秀虎に居並ぶ幹部たちが冷笑を浴びせる。その中で三淵のみが真面目な表情で声を上げる。


「若頭。どうかその辺で」


「テメェは黙ってろ!!!」


 そうして弟に視線を戻した輝虎。彼の瞳には怒りが燃えていた。いや、どちらかといえば憎しみに近い色でもあった。


「ご、ごめんなさい……」


 秀虎は謝罪の言葉を繰り返すが、輝虎は構わずに続けた。


「いいか!? 俺は今までお前に優しくしてきたつもりだぜ? だがなぁ! もう我慢ならねぇ! もうお前を甘やかすつもりは無いからな!!」


「ごめんなさい……」


「何が『ごめんなさい』だ! ねじ曲がった心を叩き直してやらぁ! 歯を食いしばりやがれ!」


 そう言って輝虎が拳を握り固めた時。


「止めなさい!」


 叫び声が轟いた。淑恵の声だった。


「その辺にしておきな。輝虎」


「か、母さん!?」


「お客人の前だ。見苦しい姿を晒すんじゃないよ。馬鹿野郎が」


 淑恵は、今度は弟の方にも視線を向ける。


「秀虎、あんたもだよ! いつまでそうやってへたり込んでんだい! 遅れるなら連絡をしろとあれほど言っといただろう!」


 母親の厳しい口調に秀虎は項垂れる。一方の輝虎はため息と共に元の場所へと戻ってゆく。兄弟が揃って正座をした後、す淑恵は若尾の方を見て言った。


「先生、大変失礼いたしました。お見苦しいところをお見せしてしまい……」


「いえいえ」


 そんなやり取りを傍目に、俺には大きな衝撃が走っていた。


 あの秀虎とかいう男。彼はつい数週間前に会ったことのある人物だ。あの夜、恵比寿駅前の広場で酒井組の組員らと揉め事を起こしていた青年ではないか!?


 すぐには気付かなかったが、改めて見直してみてもやはり同じだ。顔つきといい、声色といい、全てが記憶の通り。間違いなかった。


 新見に続いて、またしても。何という偶然だろう。


 しかし、あの時は酒井の強面構成員を相手に堂々と口論を仕掛けていたというのに。今では別人のように意気消沈。さては兄には頭が上がらないようだ。典型的な外弁慶というやつか。尤も、弁慶と形容できるほど体躯には恵まれていないのだが。


「……では、よろしいですかな。お揃いのようでございますので」


 若尾が口を開くと、一同は彼の方へ向き直った。それを確認した後、彼はひとつ咳払いをしてから話を始めた。


「皆様方にはこの慌ただしい中お集まりいただき、誠にありがとうございます。それでは早速でございますが本題に入らせていただきます」


 一同が黙って耳を傾ける中、若尾は懐から一枚の封筒を取り出す。


「ここに我が主人、真島秀雄が眞行路高虎様からお預かりした直筆の遺言状がございます。こちらは高虎様が横浜へご出発なさる直前、かねてより交流のあった真島に直接手渡したものにございます」


 若尾の言葉に一同がざわめく。輝虎は「マジかよ……」と呟き、新見は眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら無表情を貫く。秀虎に至っては顔面蒼白だ。


「この遺言状には眞行路一家の今後について記されております。甚だ僭越ながら、これより代読させて頂きます」


 若尾はそう言って封筒を開けた。しかし。


「すみません。その前に少しお尋ねしてもよろしいですか?」


 淑恵が問いを挟んで中断させた。


「はい。何でございましょう」


「真島先生と高虎は確かに深い間柄だったと存じておりますが、その遺言状はどのような経緯で先生にお預けしたのでしょうか?」


「それについては私も詳しくは聞かされておりませんが、高虎様が横浜へご出発される直前、真島の家を直に訪れて手渡したとのことで」


「直前? 具体的な日付は?」


「ええっと、これを読む限りだと『2004年11月18日』と」


「なるほど。その日に……」


「はい」


 またもやざわめきが起こった。何故なら、その11月18日というのは眞行路一家が横浜の村雨組に宣戦布告を行った日付だからだ。


「と、父さんは負けることを見越してたってのかよ……!?」


 半ば呆然気味に呟いた輝虎。彼としても信じられないようだった。確かに開戦直前にそのような行動を取っていたとなると何とも自信無さげといえる。


「いえ、高虎様はこれまで戦争へ出かける度に我が主人へ遺言状を預けておりました。万が一つに自らが敗れて討ち取られた場合、組の今後をどうするのかと」


 若尾の説明が信じられないといった様子なのは淑恵も同じであった。


「夫がそんなことを……? 私には一言も相談が無かったのに……?」


「奥方様の前では強いご自分でありたかったのでしょうな。『負ける』などという言葉を使いたくなかったと。不肖ながら、私はそのように推測しております」

 そう答えた後、若尾は続ける。


「高虎様は眞行路一家が自らのカリスマのみで存立していることを懸念されておりました。事実、高虎様の存在あってこそ眞行路一家が在ると言っても過言ではありますまい。その彼が討ち取られたとなれば、組が存続するかどうかすら危うくなってしまう。それを何より危惧されていたからこそ、万が一つの場合に備えて遺言状を設けていたのでしょう」


 若尾の話を聞いて、淑恵も輝虎も納得したようだ。幹部たちにとっては何とも耳の痛い話であったに違いない。親分抜きでは組をまとめきれない決定的事実。それは2日前の暴動騒ぎで彼らとて痛感させられたはずだ。銀座の猛獣が消えた途端にこれまで押さえつけていた勢力が瞬く間に反乱を起こし、さらには今までの報復とばかりに攻め込んできたのだから。


「では、改めて代読させて頂きます……」


 若尾は封筒から取り出した書状に視線を落とし、少し大きめの声で読み始める。


きたる村雨耀介との喧嘩において、俺は必ず勝つつもりだ。しかし、万が一の事態は想定しておかねばならない。そこで俺が敵に討たれた場合に備えて遺言状をここに記しておく。この書状が読まれているということは、俺は殺されたか、あるいは敵に捕らえられているかのどちらかだろう。いずれにせよ、今後について明示しておくべきだと考えたからだ』


 一旦区切りを入れ、若尾が更に読み上げる。


『まずは組の今後について……』


 だが、途中で読む声が止まる。


「……こ、これは!?」


 若尾は驚愕の面持ちである。どうやら何か想定外のことが起きたようだ。


「なんだよ? 続きを読めよ」


 怪訝な眼差しで輝虎に促され、若尾は書状に視線を戻して読み上げる。しかし、その声色は明らかに先程のものと異なっていた。


『俺が討たれた場合、眞行路一家の跡目および五代目総長の座は……』


 一同が注目する中、震える声で代読を続けた若尾。彼の口から飛び出した言葉はこうであった。


『……秀虎に継がせるものとする』


「はあ!?」


 輝虎は素っ頓狂な声を出した。それは他の幹部たちも同じで、一様に驚きの表情を浮かべている。


「お、おい! 何言ってんだよ!? 秀虎に継がせるだと!?」


 絶叫する輝虎にと若尾も頷いた。


「……はい。そう書いてあります」


 どういうことか。俺もわけが分からなかった。秀虎といえば輝虎の次男、親分どころか極道そのものに向いていないヘタレの弟という話だったではないか。


 そんな凡庸な男をどうして後継者に……。


 無論、驚愕に慄いていたのは当の本人も同じ。彼はすっかり言葉に詰まっていた。真っ青になった顔で、秀虎は息を漏らしたのだった。


「ぼ、僕が、眞行路一家の跡目!?」


 はかり知れぬ困惑がその場に押し寄せていた。

後継者はまさかの秀虎!? 組の後継者問題は混迷の様相。新たな火種か……?

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