別府湯けむり温泉旅行
「新幹線に乗るの、いつ以来だろ? あたしはだいぶ長いこと乗って無いなぁ」
「俺もそれくらいかもなあ」
ホームへ出てコンビニで買い物を済ませた俺たち。東京駅から博多駅までは2時間。弁当と飲み物、それから暇潰しの雑誌や新聞は必須アイテムだ。
「へぇ。麻木さんって雑誌とか読むんだ。なんか意外」
「まあな。とはいえ昔からの習慣だぜ。俺たちの世界はこういうゴシップ誌なんかに一次情報が乗ってることが意外と多いんだよ」
「そっかあ……雑誌かぁ。メディアと言えば新聞だったけど、就活で出版社にエントリーシートを出す記者志望の子も最近は増えて来たんだよね」
大学生ならではの華鈴の話を聞いたところで新幹線が来た。東海道山陽新幹線博多行き。久々に目にする列車に若干の興奮を覚えながら、俺たちは新幹線に乗り込んだのだった。
「……」
2人並んで席に座ると、さっそく華鈴が先ほど買ったばかりの弁当を取り出してきた。
「はい、麻木さん。これ食べて!」
「おっ、サンキュ」
俺は彼女から弁当を受け取り蓋を開ける。中身は鶏の唐揚げがメインでおかずはきんぴらごぼうと卵焼きにサラダだった。最近のコンビニ弁当にしては意外と豪華だ。
「少し見ねぇうちに弁当も変わったなぁ」
「うちの店もお弁当サービス始めようってお父さんが言ってたけど、やっぱコンビニの販売力には敵わないよね」
華鈴の料理の腕前なら負けないだろうに――と思いながらも俺は唐揚げを頬張る。これがなかなか美味い。料理の質も上がっているのが分かった。
「凄い美味しいじゃん、これ! どうやって作ってるんだろう? 勉強させてもらいたいよ~!」
華鈴は照れ臭そうに微笑んだ。そうして俺たちは弁当を食べながら雑談に耽ったのだった。
九州へ着くまでの2時間ほどの間、俺は雑誌を読んでいたのだが、隣の座席の華鈴はずっと携帯を弄っていた。どうやら誰かとメッセージのやり取りをしているようである。
やがて彼女は俺にこう言ってきた。
「ねぇ、麻木さん。ユカちゃんの旦那はたぶん娘さんを渡したがらないと思うんだよ」
「そりゃあ渋るだろうな」
「うん。あたし、今までそういう夫婦トラブルには沢山立ち会ってきたけど、どちらか一方が親権を自ら手放した例はまず無い。皆、異様なくらいに固執するんだよ」
我が子への愛情か、あるいは元妻への対抗心か。まともに育てる気も無い癖に夫側が親権を手放そうとしないのは問題だと語る華鈴。赤坂三丁目の“何でも屋”的存在として泥沼化する夫婦の揉め事をこれでもかというほど知っているようだ。
「だから、もし旦那がユカちゃんから子供を引き離そうとするならこっちにも思い切った手段が必要になるかも」
「ああ。その時は俺が泥を被ってやるよ」
俺は即座にそう宣言した。すると彼女は少し驚いたような顔をする。
「えっ? 泥を被る?」
「最善は旦那と話をつけられることだが、上手くいかねぇのは目に見えてる。ユカには必ず娘を助け出してくると約束した。事と次第によっては誘拐まがいの手も使わなきゃならんだろうな」
俺はそこで言葉を区切った。そして数秒ほど間を置いてからこう続ける。
「……そんな時こそヤクザである俺の出番だろ」
一応、今回の交渉を有利に運ぶための材料も持っては来ている。恒元に頼んで書いてもらった玄道会会長への親書だ。これを見せればユカの夫のケツモチである玄道会側も無視できないだろう。
ただ、それでも上手くいかない場合は実力行使が必要になる。言ってしまえば誘拐だ。先方からユカの娘を半ば無理やり連れ去るのである。
「大分県警は完全に玄道会の味方だ。こっちからの賄賂が通じねぇ以上、向こうで罪を犯せば確実にブタ箱行きだ。華鈴、その時は俺の代わりにユカへの約束を果たしてやってくれ」
「あ、麻木さん……」
華鈴は感極まったように俺を見つめていた。しかし、やがて彼女は俺にフッと笑いかける。
「……うん。やっぱり良い人だね。麻木さんは。そこまで約束に真摯な人は初めて見るかも。何でヤクザやってるのってくらいに良い人じゃん」
「そりゃあ当然だろ。約束を守るのは」
「でも、大丈夫だよ。なるだけ荒っぽいことにはならないように切り札を持ってきたから」
「切り札?」
俺がきょとんとしていると、華鈴は鞄からクリアフェイルを出した。そこには一枚の白い紙が入っていた。何だろうか。
「一時保護決定通知書……?」
「そう。東京の児童相談所に出してもらっったもの。ユカちゃんの夫が娘さんを虐待してる疑いがあるってことで」
俺は思わず言葉を失った。児相に一時保護決定通知書を出してもらうのは簡単なことではないはずだ。緊急の案件でもあっても手続きには少なくとも3か月近くは要すると聞いたこともある。
つまり、彼女は事前に準備していたのである。しかも相当前から。
「これでも一応“何でも屋”だからね」
華鈴は得意げな顔でそう語ったのだった。確かに児相が行政機関として発行した書類があれば、俺たちがユカの娘を連れ去っても誘拐罪に問われることは無い。こちらの立場としては彼女の依頼を受けた代理人という形にすれば問題ないはずである。
ヤクザの裏工作とはまた違った、華鈴のカタギなりの戦略。これには敬服する他なかった。今回のプランであれば何とかなりそうだ。
「ふぁ~。何だか眠くなってきちゃったな。あたし、ちょっと寝させてもらうね」
「ああ、着いたら起こしてやるよ」
「ありがと! ほんっと早起きは苦手なんだよねぇ~」
華鈴はそう言うなりシートを倒して寝てしまった。ちょうど列車は岐阜羽島駅を出たところで、博多に着くまであと2時間15分。
それまで何をして時間を潰そうか……?
俺はふと恒元から預かった親書に目を落とす。その宛名は玄道会五代目会長、唐津久武とある。
懐かしい名前だ。出来ることなら金輪際関わりたくはなかったが、渡世を生きている限りは仕方あるまい。その名を目にするだけで苦い思いが胸を締め付ける。
◇ ◇ ◇
1999年2月。
あの頃の俺はお尋ね者だった。その年の年明けに起こした事件のせいで身を隠す羽目になり、あちらこちらを逃げ回った末に九州へ流れ着いたのだ。
とにかく無学で、地理や社会常識のことなどまるで分からなかった当時の俺。最初に逃げ込んだのは福岡県久留米市のドヤ街だった。組織から渡された逃走資金を博打で底を突かせてしまい、食うに困った挙句に日雇い労働者たちが暮らす地域へ入り込んだのだった。
最初に俺を雇ってくれたのは、とある建設現場。土木作業員として日雇いで働き始めた俺は、そこで初めて労働によって対価を得ることを学んだ。先輩に怒鳴られながら重い鋼鉄建材を運ぶ毎日だったが、それなりに楽しかった。
ところが、働き始めて数週間後に元請け会社とのいざこざがもつれて暴動が起き、現場はあっという間に崩壊。福岡県警の機動隊がなだれ込んできた時には肝を冷やした。俺は騒動に紛れて何とか逃げ出し、警察の目を掻い潜るようにそのまま九州を放浪することになった。
次に辿り着いたのは福岡県の中洲。そこでもやはり日雇い労働で食い繫ぐ日々が続いたが、ある日突然に俺の価値観を変える出会いがあった。
それは福岡は博多のキャナルシティという商業施設での出来事だった。俺はそこ1人の少女と出会った。彼女はまだ14歳だったが、その歳にしては大人びた雰囲気を漂わせていたことを今でも覚えている。
イベント設営の仕事をしていた俺に、その子がふと声をかけてきたのだ。
「お兄ちゃん。お仕事楽しい?」
俺は正直に答えた。「ああ、楽しいよ」と。すると彼女はこう返してきたのだった。
「じゃあ、あたしとお友達になって!」
その一言が俺を変えたのだ。この少女は俺の人生観を根底から覆したといっても過言ではない。彼女との出会いで歯車が動き始める。
その子は名前を萌乃といい、件のショッピングモールは仕事場――実のところ萌乃は娼婦であり、そこにやって来る物好きなロリコン野郎を相手に路上売春を行っていたのだった。どうやら俺を客だと見繕って近づいてきたようである。
「あたしとお友達になって!」という台詞は、客引きのための常套句だった。彼女を見た瞬間に一発でそちら系の女だと気付いた。未成年者相手にいかがわしい行為をはたらくのは勿論のこと違法。客にとっては後ろ暗い弱みとなり、その弱みを握られてケツモチに強請られることもしばしば。萌乃もご他聞に漏れず、元締めの暴力団の言われるがままに恐喝をはたらいていた。話を聞く限りは相当長い間路上に立っていたのだろう。
とはいえ、俺はカモにされることは無かった。ヤクザのお膝元の横浜で長いこと暮らしていたのだ。未成年少女を使った強請り行為の何たるかは理解している。
「お前、名前は?」
「萌乃っていうの」
「そうか。じゃあな萌乃。男をカモにするなら客を選ぶんだな。お生憎様、俺はガキ相手に欲情する趣味は無ぇんでな。あばよ」
そう吐き捨てて軽薄に立ち去ろうとした俺の袖を萌乃が強かに掴んだ。
「待って! お友達になってくれないなら、お金を置いてって! 1万円で良いから!」
何を言い出すのか。
「おいおい。『1万円で良いから』ってお前なあ、1万円ってのは俺にとっちゃあ大金なんだよ。気軽に払えるかっつうの」
俺でなくとも、きっと多くの平凡な人間にとって軽々しく使える金額ではないはずだ。彼女は一般的な金銭感覚を何ら理解していない。
「じゃあ、いくらなら良いの? 5千円?」
「そういう問題じゃねぇんだよ。俺はガキにゃ興味無ぇの」
萌乃はなおも食い下がる。
「お願い! 千円でも良いから!」
だから金額云々の話ではないというのに――俺はため息と共に言い放った。
「あのなあ! お前とヤッたら背後の筋者が出てくるんだろ!? そういうのはまっぴらなんだよ! 自分から揉め事のタネを拾いに行く馬鹿がいるか!」
「じゃあ、どうしたらお友達になってくれるの!?」
萌乃は今にも泣き出しそうな目で俺を見る。だが、俺の答えは変わらなかった。
「だからよ……俺はお前を買う気は無いんだよ……」
すると萌乃は俺の胸倉を摑んでこう叫んだのだ。
「……私だって好きでこんなことやってるんじゃないもん!! こんなの嫌なの!! だから私を買ってよ!!」
俺は思わずたじろいだ。だが、彼女の瞳から涙が零れることは無かった。ただただじっと俺を睨みつけていたのである。その気迫に圧倒されそうになりながらも、俺は何とか言葉を返した。
「いや……お前を買うってな……」
なおも食い下がる萌乃。俺の胸倉を摑んだまま、こう叫んだのだ。
「お兄ちゃんがお友達になってくれないと殺されちゃうの!!」
「……っ」
何となく事情は理解できた。おそらく元締めによってノルマ的なものが決められていて、それに達せねば罰を受けるのだろう。未成年者に限らず大人でもよくあることだ。
とはいえ俺とて面倒事は困る。事情を分かっていてまんまと恐喝されに行く愚か者は居ないだろう。俺は萌乃の手を振りほどいて立ち去ろうとしたが、彼女は俺の後をついて来た。
「ねえ! どうしたらお友達になってくれるの!?」
俺はもう彼女を無視することにした。だが、萌乃はしつこく俺を追いかけてくるのだ。そして遂に苛立ちが頂点に達した俺がこう言い放ってしまったのだった。
「いい加減にウゼェな! ついてくんじゃねぇよ! 大体、お前のケツモチってのは誰だよ! ガキを金稼ぎのダシに使いやがって! クソみてぇな野郎どもだなぁ! ぶっ殺してやりてぇよ! 俺の前に連れて来いってんだ!」
もう面倒は嫌だという直情が先行していた。よって完全に怒りに任せた台詞であったことは語るに及ばず。だが、萌乃は突然立ち止まった。
「お兄ちゃん……今なんて言ったの?」
俺は一瞬たじろいだ。彼女の声が明らかに変わったからだ。さっきまでの涙声ではなく、どこか嬉々たる響きが混じっていたのである。そして俺の耳元で小さな声で囁いた。
「……そこのベンチに座ってるおじさん。今、こっちを見てるでしょ。あの人が私たちを仕切ってる」
言われた通りに視線を向けると、そこには見るからに“そっち系”の人物がいた。派手な背広にリーゼントヘア。どうやらヤクザらしい。
「どこの組だ?」
「玄道会って人たち」
「ゲンドウカイ……」
当時の俺にはいまいちピンと来なかった。だが、玄道会といえば九州全体を支配する巨大組織。福岡にはその一大派閥が存在していたのだった。
「お兄ちゃん、あの人をぶっ殺してくれるんだよね? ぶっ殺してくれるってことは、あたしのこと助けてくれるんだよね!?」
「あっ、いや、さっきのは……」
「助けてくれるんだよね!?」
「おっ、おい! デケェ声を出すんじゃねぇ!」
「お兄ちゃん!?」
「ああ! もう分かったよ!!」
萌乃は俺の腕を引っ張る。その瞳にはどこか期待と歓喜が滲んでいる。おいおい……ちょっと待ってくれ……この流れはまずいぞ……。
そう不安に駆られているうちに辺りが騒ぎ始めた。萌乃があまりにも大きな声で囃し立てるせいで観衆がこちらを見始めた。無論、それは例のベンチに座る男も然り。
「おい。どうした、萌乃。引っかけた客と揉めてんのか?」
「ううん。このお兄ちゃんが、あなたをぶっ殺してくれるの!」
萌乃は嬉しそうに言った。俺は慌てて取り繕う。
「い、いや! そんなつもりじゃ……」
だが時すでに遅し。男の顔つきが一瞬にして変わる。
「ああ? どういうことだ?」
凄みのある低い声だった。とはいえヤクザらしいといえばそうなのだが、俺がそれまで相手にしてきた連中に比べたら格が低そうだ。
「いや、その……俺は……」
俺が言い淀むうちに萌乃がさらにまくし立てる。
「私、もうあなたの言うことなんか聞かないから! 」
それってつまり――自分は娼婦を辞めて男の管理下から逃れるという表明に他ならない。まずいぞ。かなりまずい。
男はニヤリと笑みを浮かべた。
「ほう? おもしれぇこと言うじゃねえかぁ、萌乃ぉ? お前、うちの組に幾ら借金があると思ってんだ? まだ一割も返せてねぇくせによ? 逃げるだと?」
「そうよ! もうあなたの言うことなんか聞かない! あたし、このお兄ちゃんと逃げるから!」
男は萌乃を指差してそう言った。
このままだと確実に地元ヤクザとのトラブルに発展してしまう。せっかく見つけた会場設営の仕事がパーになってしまう。俺にとってそれは大いに困る。
ゆえに慌てて割って入った。
「おい待てって! お、お前さ、自分が何言ってるか分かってんのか?」
だが彼女は聞く耳を持たない。それどころか男に向かって啖呵を切ったのだった。
「もうあたしはあなたの奴隷じゃないわ! もう客も取らないし、借金も返さない! だからもうあたしに関わらないで!!」
男は暗器を抜いた。
「おい! コラァ! お前、舐めたこと言ってんじゃねぇぞ!? もう客を取らねぇだぁ? んなもん許すわけねぇだろぉがぁ!!」
萌乃に向かって鉄パイプを振り下ろす、中年ヤクザ。だが、次の瞬間。俺は咄嗟に彼女を庇って前に出て、反射的に拳を浴びせる。
――バキッ。
男の体が前方に吹き飛んだ。
「ぐはあああっ!?」
そいつは床に倒れ込み、口からは血を吐いていた。腹部への強烈な崩拳。ついつい体が動いた俺。自然と出てしまった。咄嗟の行動だったとは思うが。
「……や、やっちまった」
意図せずとも独り言が漏れた。こうなった以上は仕方が無い。俺はその場から走りって逃げる他なかった。
だが、終わらなかった。
「おいっ! どうしてついてくるんだよ!?」
「お兄ちゃん! さっきはありがとう! 私を助けてくれて!」
「いや! そうじゃなくてよ! なんでついて来るんだよ!?」
「だって、もうあたしは自由の身だもん! だからこれからお兄ちゃんについて行くの!」
「はっ……!? いやいやいや!! おま……お前なあっ!!」
そんなやり取りをしている間にも背後から怒号が聞こえてくる。振り返ると複数のチンピラが追いかけてきていた。どうやらあの場に居たのは元締めだけじゃないらしい。
俺は咄嗟に掴んだ萌乃の手を引きながら、走る速度を上げた。だが彼女は楽しげだ。
「あははっ!お兄ちゃん、足速いね!」
「笑ってる場合か! お前、追われてんだぞ!?」
だが萌乃は笑っていた。そして俺は思ったのだ。
ああ……こいつもヤクザに飼われてた女なんだなあ……と。きっと逃げたくても逃げられなかったんだろうなぁと。そう思うと同情が湧いて来なくもない。
「あはははっ! 楽しいねっ!!」
「楽しいわけねぇだろう馬鹿がっ!」
それから俺たちは福岡の街を走り抜けた。追っ手を撒くために、そして彼女を守るために。挙げ句の果てに辿り着いたのは博多駅近くの繁華街。
「はあ……はあ……ここまで来れば大丈夫だろ……」
俺は息も絶え絶えにそう呟いた。萌乃もさすがに疲れたのか肩で息をしている。だが、その表情には笑みがあった。
「あははっ!お兄ちゃん、凄いね! こんなに走ったの初めて!」
「お前なあ……はぁ……呑気なこと言ってんじゃねえよ。アホが。お前のせいで、その玄道会って組を敵に回す羽目になったんだぞ。どうしてくれるんだ。ただでさえ追われる身だってのに」
すると彼女は俺の腕にしがみついてきた。
「ごめんなさい。だけど、あたし嬉しかったの。だって、初めて守ってくれる人がでくたんだもん!」
「いや、俺は別にお前を庇ったつもりはねぇぞ? ただ勝手に身体が動いちまっただけだ」
「それでもいいの! あたしはお兄ちゃんについて行くって決めたんだから!」
萌乃があまりにも嬉しそうに言うものだから、俺はそれ以上何も言えなくなってしまった。どうやら完全に懐かれてしまったらしい。
「……ったく……仕方ねぇなぁ……」
俺は近くの路地裏に入ると、偶然そこにあったビールケースの上に腰を下ろした。
「はあ。たぶん、あの仕事はクビだろうな。けっこう割の良いバイトだと思ったのによぉ」
すると萌乃が問うてきた。
「お兄ちゃんって何やってる人なの?」
どのように答えたものか。ここで馬鹿正直に己の真の素性を話すほど馬鹿じゃない。俺はいつも履歴書要らずのバイトの面接で答えている定型句を述べた。
「流れ者のフリーターだよ」
「ふうん。そうなんだぁ」
萌乃はそれ以上深く追及してくることはなかった。そして彼女は俺の隣に腰掛けると尋ねてきたのだった。
「ねえお兄ちゃん! これからどうするの?」
俺は少し考えてから答えた。
「……分っかんねぇ。ひとまず福岡を出る。どっか遠い田舎町にでも行けばヤクザたちも追っては来られねぇはずだ」
すると萌乃があかさらまに嬉しそうな反応を示した。
「じゃあ決まりね!二人で田舎に行こう!」
「お前、マジでついてくるのかよ」
「当たり前じゃん! 私だってこの街には居られなくなっちゃったから! 特に行くアテもないからね!」
俺は頭を抱えた。そして深いため息と共に言ったのだった。
「……お前な……俺がどういう人間か分かってんのか?」
すると萌乃がキョトンとした表情で俺を見る。だがすぐに満面の笑みで答えた。
「うんっ! もう分かってるよ! すっごく良い人!」
「いや。そう言う意味じゃなくて。何でさっき会ったばかりの知らねぇ男にホイホイついて行くような真似ができるんだって話よ」
「だって私を助けてくれたじゃん! それ以上の理由なんか要らないよ! お兄ちゃんがどんな人でも、春川組のヤクザに比べたらマシだよ!」
玄道会の春川組……それが福岡市で売春を仕切ってる勢力か……いや、それはともかく。何を言っても彼女の決意は変わらない模様。ならば俺が何を言っても仕方が無い。
「……分かったよ。勝手にしろや」
その瞬間、萌乃の両方の瞳が輝くのが分かった。
「うん!!!」
こうして俺は偶然の出来事で知り合った少女と共にまたしても九州で逃げ回る羽目になったのである。偶然にも電車賃だけの金は持っていた。それから程なくして博多駅に向かい、萌乃の持ち金も合わせて2人分の切符を買い、ローカル線に乗り込んだ。当時は未だ九州新幹線が開業していない時代だった。
それゆえ各駅停車の鈍行列車による長距離移動。電車に揺られながら、俺は周囲の目を気にしつつ、萌乃に身の上を問うた。
「お前、親は居るのか?」
「居るけど2年近く会ってない。小学生の時に春川組に売られちゃったの。子沢山で家計が苦しいから1人くらい要らないって」
「売られた……って……お前……」
俺は言葉を失った。すなわち人身売買というやつだ。横浜では借金を払いきれなくなった人間がタコ部屋へ送られるとの話は耳にしていたが、いずれも大人であった。
まさか玄道会は子供を売り買いしていたとは。おまけに買い取った少女には売春をさせていたというのだから……その衝撃は計り知れない。
だが、彼女はあっけらかんとした様子で答えたのだった。
「でも今は自由の身だから! もう私はヤクザの奴隷じゃないもん!」
「……そうかよ」
俺はそれ以上何も言えなかった。萌乃があまりにも平然としているものだから、却って圧倒されてしまったといったところか。
話を聞いていると色々なことが分かった。12人兄弟の末っ子として生まれた萌乃は、実家の貧しさ故にヤクザに売り飛ばされてしまった。
それ以来、学校には通っていないという。よく聞いてみれば萌乃は大人びた顔つきの割に言葉遣いがやや稚拙。10歳の時分にヤクザに売られてからというもの真っ当な学校教育を受けて来なかったのだ。
何だか胸が苦しくなる。
「それでね! 色んな所でお仕事してきたの! 政治家さんとか、会社やってるお金持ちの人とか!」
「なるほどな。まあ、そういう趣味の奴は多いだろうな。人より多くの稼ぎを持ってるってなりゃあ、特に」
俺は萌乃の話を聞きながら、彼女の境遇を思った。きっと彼女は途方もない辛酸を舐めていたのだろう。何せ、まだ中学生も出ていない齢だというのに売春をさせられて……。
だが、少女を憐れむと当時に、俺は己の行動を少しばかり悔やんだ。
俺があの場面でヤクザを殴り倒したせいで、彼女に更なる運命を背負わせてしまったのではないか? 少なくとも、俺が声をかけられた時点で何も言わずに立ち去っていれば、萌乃はヤクザに追われることにはならなかったはずではないか? 裏社会に的にかけられるよりは性奴隷に甘んじていた方が比較的安全だったのではないか?
まあ、考えたところで後の祭り。俺は責任を果たすしかない。ここまで来た以上は何が何でもこの娘を守ってやると。
「着いたみたいだ」
博多駅からローカル線を乗り継ぐこと3時間。俺たちは鹿児島駅に降り立っていた。1999年当時の鹿児島は九州新幹線の開業に向けた工事が遅れており、竣工が5年後の開業に間に合わぬかもしれないという焦燥感に呑まれていた感が個人的にはある。
ただ、それでも人口は55万人越えの中規模都市。博多まではいかないがこちらもなかなか栄えている。都会といえば都会だ。
「わぁ! お兄ちゃん見て! 人がいっぱいだよ!」
「ああ……そうだな」
俺は駅を出てすぐ目の前に広がる光景をしばしば見惚れていた。これから萌乃と二人で暮らしていけるか。期待と不安が半々ずつ襲い来る。
いっぱしの生活はできずとも、若い男女が二人して隠れ住むくらいなら何とかなるのではないか――。
俺の考えは甘かった。16歳と14歳、未成年の俺たちが二人きりで生きていくには、この世界はあまりにも過酷だった。住む場所も無ければ働くアテも無い。鹿児島には福岡のように日雇いの仕事や低所得者向けの住宅街があるわけでもない。当時は平成不況の真っただ中でアルバイトの求人すら少ない。ましてや住所不定の未成年者を雇ってくれるところなど有るわけも無かった。
「お兄ちゃん、これからどうするの?」
萌乃が不安げな表情で尋ねてきた。だが俺は何も答えられなかった。何せ、俺もまた考えあぐねていたのだった。
ただ、そんな俺でもひとつだけ言えることがあったのだ。それは……。
「何とかなるだろ」
そう吐き捨てるように口にしていたものだ。駅を出た後で俺たちは鹿児島の繁華街を歩き回った。日雇いの仕事やアルバイトを募集している店は無いかと探しながらだ。しかし結果は芳しくなかった。そもそも未成年者にバイトを斡旋してくれる店がまず無い。
「ねえお兄ちゃん、お腹すいた」
「……ああ、そうだな。どっかで何か食うか」
俺は萌乃を連れて飲食店を探した。だが、何処の店も入るに躊躇する。それもそのはず、持ち金の殆どを電車賃で使い切ってしまっていたのだから。
結局、俺たちは繁華街の端にあった小さな定食屋で食事をすることにしたのだった。そこで注文したのは豚カツ定食。一品を二人で分け合って腹を満たした。
「お兄ちゃん、これからどうするの?」
「……そうだな。何とかなるだろ」
俺はまたもそう答えるしかなかった。だが、そんな俺の答えに萌乃は不満げな様子だった。そして彼女は言ったのだ。
「ねえ、お兄ちゃん! あたしね……ずっと考えてたの!」
「何をだよ?」
すると彼女は真剣な眼差しで俺を見つめてきたのだった。その目は潤んでおり、頬は紅潮していた。そして彼女は俺に告げたのである。
「あのね……あたし、また稼ごうと思うの!また、あたしを買ってくれる人を探すの! そうすればお金が貰えるでしょ!?」
「な……っ!? おま……お前なぁ……」
俺は思わず絶句した。だが萌乃は続ける。
「だってね? もうあたしたちには住む場所も食べる物も無いんだよ? だから稼ぐしかないじゃん!」
「……いや、でもな」
そんな俺の言葉を遮るようにして萌乃は言ったのだった。
「お兄ちゃんはあたしのこと守ってくれるんでしょ? だったらそれで良いじゃん! 危なくなったら助けてくれれば!」
言うに事欠いて売春で日銭を稼ぐつもりの萌乃。そんな彼女を俺は全く咎められない。情けない話だが、俺には他にやり方が考え付かなかったのだ。
「わ、分かった。お前がそれで良いなら。それで」
こうして俺と萌乃の生活が始まった。生活といっても真っ当な住所が有るわけじゃない。鹿児島駅近くのネットカフェで寝泊まりをしながら、日雇いの仕事やアルバイトを探し続けた。
しかし未成年の俺がそう簡単に仕事にありつけるわけもなく、俺は萌乃の稼ぎに依存するしかなかった。皮肉にも彼女の方はいちはやく“仕事”にありついていた。
「ねえお兄ちゃん! また男の人が私を買ってくれるって!」
「……そうか」
俺は複雑な心境で萌乃の話を聞いていた。そして、そんな俺の心情を知ってか知らずか萌乃は明るい口調で言うのだった。
「これでしばらくは生活できるね!」
せいぜい俺にまともなアルバイトが見つかるまでのつなぎ――と思っていたが、状況は変わらず。そもそも未成年である俺たちに仕事など殆ど無いのだ。あったとしても時給数百円程度の低賃金なものばかり。とてもじゃないが二人で暮らしていくには足りなすぎる。
これから先、俺は本当にどうすれば良いのか。若さゆえの無知と無計画が招いた失敗。悩みに悩んでいるうちに3ヵ月が経った。
そんなある日のことだった。
偶然にも募集されていた1日バイトで得た久々の稼ぎを手に俺がネットカフェに戻った時。店の前に人だかりができているのが分かった。
何やら野次馬が騒いでいる。
「おいおい、やばいって。さっきの子。どうなったんだろう!?」
「警察を呼んだ方が良いんじゃないか!?」
「でも、あれは見るからにヤクザだったぜ。鹿児島署は唐田組と賄賂で繋がってるって話だよな……!?」
嫌な予感で思わず身震いしてしまった俺。集まっていた群集の一人に話を聞いてみた。
「なあ、何があったんだ?」
すると野次馬は興奮気味に答えたのだった。
「女の子だ! その子がヤクザに拉致られたんだよ!」
「何だって!?」
直感で萌乃のことだと分かった。他には考えられない。詳細を教えるよう俺が頼むと野次馬は答えた。
「なんか、ここで寝泊まりしてる女の子が、この辺りを仕切ってるヤクザに断りなく売春で稼いでたみたいで……さっき5人くらいの男に連れて行かれたんだ」
ああ。何となく察した。俺は思わず、頭を抱えたものだ。極道者にとって無許可での売春はシマ荒らし以外の何物でもないというのに。何故に俺はそれに気づいて萌乃を止めなかったのだろう。いや、知識は頭にあった。それでも俺は止めなかったのだ。暮らしてゆくために。日銭を得たいという思いが優先して、萌乃にリスクを負わせ続けていたのだ。
「おいっ! お客さん! どういうことだ!? さっき井桁組の人らが押し寄せて来たぞ! あんた、あの子に売春で稼がせてたのか……?」
帰ってきた俺を見るなり物凄い形相で問うた店主。そんな彼へ逆に掴みかかると、俺は鋭い視線を浴びせながら質問を投げた。
「井桁組の事務所は何処にあるんだ。答えろ」
「はあ!? そんなの……」
「何処にあるかと聞いてるんだ。殺すぞ」
「ひっ!? こ、この先のに高架沿いにあるビルだよ!」
俺は店主を放り出すと店を出た。そしてそのまま駆け出した。教えられた住所に向かって。
どうか無事であってくれ――そんな祈りを昂らせながら全力で走った。鹿児島駅から少し離れた雑居ビル、表に大きく『井桁興業』と書かれた看板が掲げられたビル。俺はその前で呼吸を整えた。
そして、意を決してビルの中に入ったのだ。エレベーターで最上階まで上がると、廊下には井桁組構成員と思しき男が3人立っていた。
「おい」
俺が声をかけると彼らは一斉にこちらを振り返った。そして怪訝そうな表情を浮かべると俺に向かって言ったのだった。
「何だ? てめぇ、どこのモンだ? ここを玄道会若頭、井桁……」
――バキッ。ドゴッ。
そのうち2人を一瞬で殴り倒し、残った1人に俺は迫る。
「俺のツレを返してもらおうか。あんたらが攫ったってことは分かってんだぜ。今すぐ叩き潰されたくなかったら案内しやがれ」
すると男は一瞬怯えた表情を見せるも、すぐ元の面構えに戻って高笑いしながら言い放った。
「あはははっ! さっきの小娘の彼氏か何かか! 良いねぇ! こりゃあ面白い! まさかヤクザの事務所に助けに来るバカがいるとはな! おいっ、お前ら出て来い! 敵さんのカチコミだ!」
すると廊下の奥から更にざっと見る限り12人の男たちが姿を現した。そのどれもが人相のよろしくない連中である。俺はそいつらに向かって叫んだ。
「おい、お前ら! も……あ、いや、お、俺の妹を返せ!」
「ああ? 妹だぁ? ってことはテメェ、あのガキの兄貴か!」
「そこを退け! 殺す!!」
1対12の喧嘩が始まった。数だけを見れば多勢に無勢だが、かつて横浜で百人以上相手に修羅場を演じたことのある俺にとっては、この程度は屁でもない。
俺は1人、また1人と連中を殴り倒した。そして最後のひとりとなった時である。
「止めろ」
野太い声が廊下に響いた。見れば、高級そうなスーツを着た中年の男が事務所から出て来ていた。騒ぎを聞きつけて様子を見に来たようだ。
「カチコミと聞いていたが、一人だけか。玄道の若頭の組ともあろうに情けない。たかが一騎相手に何ちゅう無様な戦いぶいだ」
舌打ちをしたその男に、組員らが口々に叫ぶ。
「組長!」
組長……ということは、この男がこの『井桁組』の組長か。
彼の後ろから何人もの組員が出てきて俺に構える。この守られ方は確実に要人だ。
思ったよりも早くの大将のご登場。これならば手間が省けたというもの。俺はその男に指を差して声をかけた。
「初めましてだな。井桁組の組長さんってことで良いんだよな?」
「ほいならったらどけんするんだ。大体、失礼な奴だな。人に名前を聞く前に自分から名乗らんかい」
「テメェ相手に名乗る価値は無ぇよ。この組の責任者ってことが分かればそれで良い。俺の妹を返してもらおうか」
「妹だと?」
鹿児島弁の男は訝し気な顔をしていたが、すぐに合点がいった模様。やがて含みのある言葉を投げてきた。
「返せと言われて素直に返すと思うか? あんガキはうちのシマを荒らしたんだぞ?」
「荒らしも辛子も関係ねぇよ。あいつは俺の妹だ。そっちが返さねぇってんならテメェを殺して、この組をぶっ潰すだけだ」
「そらぁ威勢ば良いのぅ……」
男は不敵に笑うと、背広の内側に手を突っ込む。さては懐の中から拳銃でも取り出す気か。そうなったら発砲と同時に身を翻して躱すまで――と思っていた。
ところが、違った。男が取り出したのは一枚の写真だった。
「おはんがあん子供の兄だっちゅうんならとんだ貧乏くじを引いたな。あいつは本家から捜索命令が出とうお尋ね者だ。春川組で囲ってた女が逃げ出したちゅうこっで」
その写真に映っていたのは萌乃。随分と迅速な手回しだと思った。たかが娼婦ひとりのために玄道会はここまで執拗に追跡をかけるのか。
「あんガキがおいのシマにおって、なおかつその兄であるおはんが殴り込んだっちゅうことを会長に伝えたら、博多の春川組はとんだ赤っ恥だな」
「へっ、知るかよ。テメェらヤクザの都合なんざ」
玄道会が九州全体に領土を持つ巨大組織である旨を強調して俺をビビらせたいのか。無論のことそのような易い手には乗らない。だが、男はそんな俺の様子を面白そうに見ながら話を続けた。
「まあ良か。そいにしてもおはんの妹はなかなかの上玉だのぅ、あんガキを売れば2、300万にはなるだろうて」
「……テメェ、殺されてぇのか」
「そんくらいの損失が出たっちゅうことだ。ガキが逃げたこつによってな。この埋め合わせはおはんがしてくれるんか?」
「テメェ、この野郎……!!」
俺は怒りに任せて男に掴みかかろうとした。だが、それは叶わなかった。何故なら――。
「動くな! 動けば撃つぞ!」
1人の組員が俺に向けて拳銃を向けていたのである。どうやら気付かぬ間に背後を取られていたらしい。
「けっ、だから何だよ」
即座に身を翻すと、俺は男に裏拳を浴びせて銃を奪った。
――バゴッ。
「後ろを押さえたからってすぐに油断しやがる。これだから田舎ヤクザは弱いんだ」
「き、貴様……っ!!」
銃を奪われた組員は怒り心頭といった様子で俺に殴りかかってきた。だが、俺はそれを躱すと男の顔面目掛けて銃を発砲した。
――ズガァァン!
「ぶは!?」
顔を撃ち抜かれた男はそのまま床に倒れ伏す。そしてすぐに動かなくなった。それを見た他の組員たちは一斉に俺に向けて拳銃を構えたが、連中の引き金に指がかかるよりも速く、俺は全員を射殺してしまったのだった。
「ふぅ」
久々に人を撃ったな――と、感傷に浸っている場合ではない。これでこの組の兵隊はひと通り片付けた。伏兵の存在に気を配りながら萌乃の救出に向かわねば。
しかし……。
「見事だなあ」
どういうわけか組長は動揺していない。それどころか満面の笑みを浮かべて手を叩いているではないか。自分の所の組員が殺されたというのに。この態度は一体何なのだろう。不気味な態度に胸騒ぎが起こる。得体の知れぬ恐ろしさが少しずつこみ上げてくる。
「……ボサッとしてると次はテメェだ。さっさと妹を連れてきやがれ」
どうにか冷静さを取り繕って男に銃を向けた俺。すると、奴は嬉々として俺に返したのだった。
「おはん、うちの若衆にならんか? うちのモンが腑抜けとったとはいえ、あれだけの数をたった一人で殺してまうとは」
「何を言ってやがる」
「ちょうど戦力を刷新しよかと思ってたところだ。おはんのような強者が来てくれたら頼もしい事この上なか」
どういうつもりだろう。この場、この状況において俺を懐柔しようとするとは。こういう状況には慣れていたのですぐに一蹴して、引き金に指をかけようとした、ちょうどその瞬間。
男が穏やかな声色で語りを紡いだ。
「今、ここでおいを殺せば、おはんの妹は戻ってこんぞ」
「……お前を殺した後で、残った奴らも全員まとめて殺し、妹は救い出す。簡単な話だ」
「いいや。そうはならん。何故なら、おはんの妹はもう博多に送り返したからよ」
「な……んだと!?」
俺は思わず耳を疑った。萌乃が博多に送還された? そんなバカな。ここまでの短時間で出来るわけが無い。きっとハッタリだ。
「その手には乗らねぇぞ」
「本当のことじゃ。博多の玄道会本部には『春川の所から逃げ出した女を捕まえた』と説明してある。ついでに『その女は兄と二人で暮らしてた』って情報も付け加えてな」
「なっ!? テメェ、まさかあの娘に吐かせたのか!」
「ああ、なかなかに強情だった。じゃっどん最後は泣きながら全部話してくれよった」
怒りが沸騰した俺は拳銃を握る手に力を込める。ところが、男が放った言葉によって思わず引き金を引こうとする指が止まった。
「今、ここでおいを撃てば、博多の連中は『妹を助けに来た兄がやった』て思う。そして報復にあん女を殺すかも分からん。おはんが妹を救いたいなら、おいの言うことば聞かんとなあ」
この男の発言の真偽はともかく、萌乃の身柄が奴の手に落ちていることは事実。それゆえ迂闊な行動は何とか避けたい。俺は歯噛みするしかなかった。
「ほら。何を黙っとう。さっさと銃ば捨てんかい」
俺は歯噛みしながら手の力を抜こうとした……だが、その時。不意に背後から気配が近寄ってくるのを感じた。数が多い。
嵌められたか。
「クソッ。最初からこうする気だったのかよ」
「そいゃあほいならっと。自分とこの組員ば殺した人間を組に入れっと本気で思うのか。そげんこっぉしたら井桁組は舐められてまうだろうが」
「何を言ってるかは分かんねぇが、テメェがゴミ野郎だってことはよく分かったぜ」
背後には銃を持った組員たち。おそらくはこのビル全体が井桁組の所有になっていたのだろう。これまでの会話は俺を包囲するための時間稼ぎだったというわけだ。
「ふふっ。大人しゅう銃ば捨てろ。こん期に及んでおはんにでくうこっなんか何ひとつなか。妹のこたあ諦むうんだな。まあ、ここを運良か抜け出せたら助けに行けっかも分からんが……」
それはすなわち萌乃は福岡へ戻されたということか。なるほど。これは美味い情報を得た。彼女の所在が確認できて何より。ならば俺の取るべき選択は一つ。
「へっ、そうかよ」
次の瞬間、踵を返した俺。狙うは非常階段への道。背後に群がる井桁組の組員たちに猛然と飛びかかる。
「な、何じゃ!?」
不意を突かれた組員たちは一瞬反応が遅れる。その隙に俺は連中の頭上を飛び越えると、非常階段の扉を蹴破って外へと脱出したのだった。
――ガシャンッ!!
「逃げよった! 追え!!」
そんな声が聞こえたような気がしたが無視。とにかく今は逃げることが最優先だ。萌乃は福岡へ送られたという情報を手に入れたのだ。
ならば後は博多の玄道会関連の事務所を当たるだけ。そうすれば自ずと萌乃を探し出すことができよう。
絶対に助け出す。あの子は俺が運命を変えてしまったのだ。修羅へと誘い出した責任を果たさずして何が男か。
群がる敵を打ち払い、飛んできた銃弾を躱し、ただひたすらに階下へ向かって全力疾走した俺。その甲斐あってか30秒ほどで地面に降り立った。
脱出成功。そしてここから萌乃の足取りを追えばどうにかなる――。
そう、思っていた。
ところが、そうではなかった。
ビルの前の横断歩道を渡って建物全体を俯瞰できる位置まで走った俺の視界に入ったのは、思いもよらぬ光景だった。
「……えっ!?」
3階の『井桁組』の文字が書かれた窓に、何と萌乃の姿が見える。組長らしき男に銃を突きつけられ、涙で真っ赤になった瞳でこちらを見ているではないか。
どういうことだ。彼女は福岡へ送られたのではなかったのか。半ば信じられずに呆然とする俺に、男が高笑いしながら言い放った。
「ひゃはははっ! 馬鹿な奴だ! まんまと騙されやがって! ご覧の通り、妹ばここだ! まさかあん状況を突破すうとは思わんかったが! こりゃあこいで面白か!」
畜生! またしても嵌められた! 俺はこの男の『妹は福岡に送った』という言葉を鵜呑みにして、事務所の外まで出てしまったのだ!
「クソがッ」
すかさず来た道を戻ろうとする俺。しかし、事務所から追ってきた組員たちが行く手を塞ぐ。各々が拳銃や軽機関銃で武装しており突破は難しそうだ。
「……ッ」
立ち止まった俺に、男がさらに爆笑した。
「ひゃはははっ! おいどんも舐められたもんたい! おいともあろう者が、こんガキに事務所を踏みにじられるたぁ!」
俺は苦虫を嚙み潰したような顔になる。まんまとしてやられたのだ。脱出がここまで上手く行くとは思っていなかったが、まさかこんな罠を仕掛けられているとは予想だにしなかった。
「お兄ちゃん!」
泣き叫ぶ萌乃を尻目に、組長は高笑いしながら俺に語りかける。
「これからおはんが蜂の巣になるとこを妹にたっぷりと見せつけたる……じゃっどん、そん前においの名前ば教えたろ。玄道会若頭『井桁組』組長、井桁久武。いずれこの九州の王になる男じゃ!」
憎々し気な笑みを崩さない井桁組長。一方、銃を持った彼の部下たちはゆっくりと俺の方へとにじり寄って来る。そして建物の窓には萌乃の姿が。
どうする。どうすれば良い。どのような手に出れば、この愚かしいにも程がある状況を打開できるというのだ。
全力で考えに耽る俺。だが、適当な答えは思い付かない。
「お兄ちゃん!!!」
そんな時、萌乃が絶叫した。
「お兄ちゃん! 逃げて! 私のことは構わないで!」
「も、萌乃ッ」
「お兄ちゃんと過ごした3ヵ月、楽しかったよ! 私、幸せだった! だから逃げてよ! お兄ちゃんは生きて!」
「萌乃ッ!!」
俺は思わず叫ぶ。だが、彼女はなおも叫んだ。
「私のことは良いから、早く行ってよ!! もうこれ以上、私の大好きなお兄ちゃんが傷付くのを見たくない!! 逃げて!!!」
そんな言葉を聞かされて、どんな思いに駆られたかは語るまでもないだろう。されども俺は歯を食いしばる。そして……。
「すまねぇ」
そう呟くと、俺は全力で走り出す。
「ひゃはははっ! 逃げたっ! 情けなか男じゃっ!」
井桁の嘲弄が聞こえた気がしたが、俺は振り向かない。なりふり構わず鹿児島の街を突っ走った。尋常ならぬ罪の意識に胸を焦がしながら。
萌乃がヤクザの事務所に落ちたのは、俺の所為だ。売春を強いられる彼女を救い出したつもりが、また彼女が娼婦として働くこととなり、挙げ句の果てには玄道会に見つかるという結果になったのだ。
俺はなんて情けない男なのだろう。責任を取ると誓ったではないか。更なる修羅へと萌乃を誘った者としてきちんと彼女の面倒を見ると。
大噓つきの自分を罰するには、あの場で蜂の巣になる選択もあったはずだ。ところが、それはできなかった。彼女に『逃げろ』と言われた以上に、俺の胸を縛り付ける想いがあった。それは自分は中川会の人間であるという自意識だ。そう、今は潜伏中の身だ。東京に呼び戻されるまで何とか無傷で居なくてはならない。その自覚が俺を回避行動へと駆り立てた。
所詮、そんなものは言い訳に過ぎないと思うが。
「……ッ」
息が切れるまで、どこまでも逃げ続けた俺。気が付けば、鹿児島湾に面した港まで来ていた。
「はぁ……はぁ……も、萌乃……すまん……必ず……お前を助け出すから……」
来た道を見つめ返しながら心に決めた――はずだったのに。
結局、俺は彼女を助けることができなかった。それから数日にわたって鹿児島市内に潜伏しながら救出の機会を窺ったものの、萌乃の消息は掴めなず。ただ、時間だけが過ぎていった。
そんな中、玄道会が本腰を入れて俺の捜索を始めた。井桁組の事務所へ殴り込んだ際に防犯カメラに映っていた顔の写真をばら撒かれ、実質的なお尋ね者状態になってしまったのだ。おまけに井桁が賄賂で癒着している鹿児島県警までも俺のことを捜し始める始末。
このまま九州に居たらまずい。それどころか、いずれ名前が突き止められて横浜での一件と結び付けられてしまう。そうなったら全てが水の泡となる。
俺は諦めざるを得なかった。少しの間、自分のことを兄と呼んで慕ってくれた少女を捨てて。大切な人を守れなかった後悔に苛まれながら。
「……」
それから程なくして、俺は偶然に偶然が重なって知り合った、玄道会と対立するタイ人マフィアが運営する密航船に乗り込んで、日本を離れたのだった。
以降はユーラシア大陸を流浪した末にアフリカへ流れ着き、現地でひょんなことから導師と出会って鞍馬菊水流を体得したのだが、それはまた後に思い起こすとしよう。
俺にとって九州は後悔の地。そして、今やどうなったかは分からない萌乃は罪の象徴だ。そこまで思い出した所で、俺は我に帰った。
◇ ◇ ◇
「……夢か」
どうやらうなされていたらしい。隣を見ると華鈴がまだ寝ている。俺もまた少しの間、眠ってしまったようだな。
ともあれ、まさか自分が因縁深い九州の地をもう一度踏むことになろうとは。今回は福岡や鹿児島ではなく大分であるが、こちらも似たようなものであろう。
『次は終点。博多。博多』
車内アナウンスが鳴り響く。その頃になると華鈴は起きて眠い目をこすり始めていた。
「ふわあ~、よく寝た。あれっ、もう着いたの?」
「おう。おはようさん」
やがて新幹線が駅に着いて、ドアが開いた。俺と華鈴はアナウンスに従ってホームに降り立った。
博多駅。
今回の目的地である大分県へはそこからさらに特急列車で30分ほどかかる。
「……やっと着いたね」
「ああ。意外とかかったな」
俺たちが大分駅に着いたのは13時32分。新幹線での移動時間も含めると4時間近い長旅になってしまった。
大分県別府市。
人口およそ12万人を擁するこの街は日本有数の温泉街として知られている。別府温泉は無色透明で肌に優しく、様々な効能があるとされる。また、大分県の名物グルメである温泉蒸し料理も有名だ。
そもそも九州全体が温泉大国である。九州北部は火山帯が連なり、活火山としては鶴見岳や由布岳などが有名だ。そのため地熱によって年間を通して比較的温暖な気候である。また、源泉の数も豊富で湯量にも恵まれており、市内には100以上の源泉が湧いているという。
そんな観光地に観光目的で来られたらどれほど良かったであろうか。鬱屈とした気持ちに苛まれながら、俺は駅を出る。
時刻は14時15分。
師走ゆえに陽が落ちるのも早い。さっさと用件を済ませて大分の華鈴に合流したいものだ。俺は駅の西口でタクシーを拾った。
「……とりあえず北浜公園まで」
「あいよ」
タクシーの運転手に行き先を告げる。車は別府駅のロータリーを後にして走り出した。
今回の目的地は北浜公園という場所に面した雑居ビルの5階にある『杵山組』の事務所。当然、直接的に「極道の拠点へ向かってくれ」とは言えないので事前に調べた知識を元にいちばん近くの観光名所を挙げたのである。
駅前町を出て県道32号線に入ると、運転手が話しかけてきた。
「お客さん。観光ですかい?」
「まあな」
「北浜公園からは海がよく見えますからねぇ。同業の間でも人気の場所です。最近になって建った展望台からは天気の良い日には愛媛の港が見えたりもする」
「ほう。そいつは凄ぇな」
尤も、今回の目的は観光ではないので適当に聞き流しておくのだが。
それにしても別府は海が綺麗だ。国道10号線に入ると丁寧に整備された港が見えてくる。海沿いには温泉旅館やホテルが立ち並び、海上には遊覧船の姿まである。
「別府って言えば温泉地のイメージでしょうが、実は海の街でもあるんですよ。ほら、あそこに見えるのが別府タワー。さっきお教えした公園の展望台と並んで市内では観光の二大定番です」
こんな事なら尚のこと華鈴と一緒に来たかった。いや、駄目だ。今日はデートや旅行で訪れた訳ではないのだから……どうにか雑念を振り払う。
俺はタクシーの中で運転手と他愛もない会話を交わしながら目的地を目指した。
14時35分。タクシーの運転手が俺を呼ぶ。
「お客さん。着きましたよ」
俺は料金を支払って降車した。
そこから横断歩道を渡って『杵山組』の事務所がある雑居ビルの前に降り立った。5階建てのビルの全棟がこの組の所有らしい。
「……行くか」
軽く呟いてから雑居ビルに足を踏み入れる。エレベーターは故障中らしく、階段を使うしかないようだ。2階まで上がると事務所の入り口が見えてきた。そのドアには『杵山組』という表札が掲げられている。一般企業に偽装した事務所ではないらしい。これはこの街では相応に住民の信頼を集めていると見た。
頭の中で憶測を繰り広げながら様子を窺っていると、事務所のドアが開いた。出てきたのは黒スーツに身を固めた恰幅の良い男である。
「……あんた、誰だ?」
「どうも。おたくの組長さんに会いに来たモンだ」
「アポは?」
「取ってるぜ。昨日、電話で連絡を入れたはずだ」
男は俺を怪しむような目で睨めつけた後、少し待っていろと言って事務所の中へ戻って行った。ややあってから今度は別の男が姿を現した。
今度は背広ではなく和装姿である。年齢は30代半ばくらいだろうか。
「あんたが中川会の使い、麻木涼平か」
「ええ。いかにも」
「……入りな」
俺は事務所の中に通された。
「狭い事務所だがくつろいでくれ。今、茶と菓子を持って来させるからよ」
俺は応接用のソファに座るよう促された。言われた通りに腰を下ろすと、和装の男は俺の向かい側に座る。
「俺はこの組の組長、杵山基次郎だ」
「中川会執事局次長の麻木涼平だ。今日はよろしく頼むぜ」
俺が頭を下げると、杵山は腕組みしながら言葉を放った。
「あんたが来た意味は分かってる。昨日の電話じゃ『親睦』だの何だのと言っていたが、要するに中川の傘下に入れってことだろう?」
何とまあ勘の良い御仁であろうか。
「へへっ、ご明察。あんた、話が分かるねぇ」
「ふん。眞行路高虎が殺されたおかげで杵山組は宙ぶらりん。このタイミングで本家の人間を遣わしてきたとなりゃ、用件は自ずと見当がつくさ」
「まあそうだな」
軽く笑ってみせた俺に、杵山はため息をついた。
「東京者が別府にどういう幻想を抱いているのかは知らんが、所詮は観光業だけを頼みに成り立ってるちっぽけな街。デカい公共事業も今後10年はありゃしねぇ。中川会三代目が喜ぶシノギになるようなとびきり美味い話も無ぇぞ」
気怠さを押し殺すように吐いて捨てた杵山組長。そこに俺は言葉を挟む。
「……だが、あんたらは眞行路の盃を呑んだ。中川会三代目でも、銀座の猛獣でも、誰のためでもねぇ。自分たちのために」
俺の言葉を受けて、杵山はピクリと眉を動かした。
「ああ? どういう意味だ?」
「言葉通りの意味さ。あんたは眞行路に盃を呑むよう迫られた時、こう思ったはずだぜ?『これで東京の傘の下に入れる』ってよ」
「……何が言いたいんだ?」
俺はそこで一度言葉を切ってから続けた。
「違ってたらすまねぇが。あんたらは博多の玄道会が怖いんだろう。それで連中の侵略を撥ね除けるために中川会に入ろうとした」
その指摘を聞いた瞬間、杵山の顔に動揺の色が浮かぶ――と思った直後。応接室の扉が開いて、室内に男たちがなだれ込んできた。
「おうゴラァ! 調子に乗ってんじゃねぇぞ東京者がぁ!」
「さっきから聞いてりゃ舐めた口ききやがって!」
「あれこれ御託を並べちゃいるが、ただ単に別府を植民地にして九州進出を果たしてぇだけなんだろうがぁ!!」
見たところ杵山組の組員の模様。各々が拳銃を手にしていて鼻息も荒い。彼ら、どうやら“東京者”に対してよっぽど良からぬ感情を抱いているようだ。
「おいおい、お前ら。落ち着けよ」
そう軽く子分たちを宥めつつも、杵山組長は俺をジロリを睨んで言った。
「あんたには申し訳ねぇが、俺は親としてこいつらの言うことにも一理あると思うんだわ。麻木さんよ。あんたら東京者のやり方は勝手すぎる」
「ほう?」
「仮に中川の傘下に入ったとして、おたくの三代目が俺たちに何をしてくれるよ。土地も金も権力も貰えるわけじゃねぇ。玄道にますます睨まれるのがオチだ」
俺は杵山組長の話を聞きつつ内心で納得していた。確かに周囲をぐるりと玄道会領に囲まれた別府ではそうかもしれない。しかし、それ以上の旨味も必ずあるはずだ。
「改めて言っておくがな、麻木さんよ。別府は観光都市だ。温泉と海があるだけで他にはシノギの材料がろくに無い。そんな所を仕切る俺たちを傘下に入れたってあんたらの利益は乏しいぜ。本音じゃ俺たちを博多との戦争の尖兵にしてぇんなら……」
「まあな。そうかもしれねぇな」
杵山組長の言葉を途中で遮る俺。
「ああ!?」
当人のみならず近くに居た組員までもが俺の反応に苛立ちを見せた。
「てめぇ、今なんつった?」
「聞いての通り。『そうかもしれねぇな』と言ったんだよ」
殺気立つ周囲に対しては全く動じず、俺はもう一度同じ言葉を繰り返した。杵山組長が怪訝な顔をする。
「……何が言いたいんだ?」
組員たちに向けていた視線を今一度杵山に向け直し、俺は切り出した。
「あんたらは戦争の前線基地として別府が利用されるのを嫌がってるみてぇだが、腹の底じゃあ玄道とのドンパチを望んでる」
こちらの言葉に驚いた様子の杵山組長。それを尻目に俺はなおも続けてく。
「要は俺たちに玄道をぶっ潰して欲しいんだろう。自分ん所の兵力だけじゃあ勝てねぇから、疎ましく思ってるはずの東京者に代わりに戦争をして貰いてぇと」
「代わりにだ!? そんなわけねぇだろうが!」
「ああ。『そんなわけねぇ』よな。あんたらを見てりゃ誰だってすぐに分かる」
俺は杵山組長の反論を遮るように言葉を紡いだ。
「あんたらは見かけによらず武闘派揃いだ。きっと俺たちが兵隊を寄越さなくても、攻め来る玄道会を追い払って別府のシマを守るくらいの戦争は難なくやってのけるだろう」
「……何が言いたいんだ?」
俺に対して三度、同じ台詞で応じた杵山組長。ここまで来れば自ずと今回の要件は分かるだろう。率直に言わせてもらおう。
「杵山さん。うちの会長の直参盃を呑んでくれねぇかな。そうすりゃ戦争の軍資金と武器を山のように都合してやるよ」
「軍資金と武器を?」
「あんたの若衆は直接自分たちが玄道とドンパチをやるのをお望みだろう。だったら俺たちは後方支援に徹するまでだ。杵山組が好き放題に暴れられるよう条件を整えてやる」
俺の提案を聞いた杵山組長は考え込むような仕草を見せた後、ぼそっと漏らすように口を開くのだった。
「……なるほどな。確かにあんたの言う通りだ。俺たちゃ自分の手以外で喧嘩はしねぇ主義だからよ」
そこまで答えると、組員たちを振り返って言った。
「お前ら、聞いたか? 中川会の盃を呑みゃあ、戦争に先立つものは全て賄ってくれるってよ。九州男児としてこれほどの好条件は他に無いだろう」
予想通りの展開。部外者に助けられることを嫌う九州ヤクザの気風を事前に才原局長から聞いておいて良かった。
ちなみに、九州ヤクザは煽りに弱い。少しでも挑発的な物言いをすれば即座に噛みついてくる。だからこそ俺は先ほど「代わりに~」などと煽るような言い方をしたのである。
結果、杵山たちは話に乗って来た。喧嘩において東京者の援軍など要らないとばかりに全否定。カネと武器だけ融通してやるという俺の考えを受け入れたのだ。
若衆たちがざわつく。そんな中で俺は口を開いた。
「ただし条件があるぜ」
俺の言葉に杵山組長が反応する。
「何だ?」
「そちらのお望み通り九州の戦争に俺たちが直接手を出すことは無い。だが、もしも今後、うちの会長が戦力を必要としたら、その時には東京へ馳せ参じて貰おう。そして中川恒元公の旗下で戦列に加わって貰いてぇんだ」
俺の要求を聞いて、周囲のざわめきが更に度合いを増す。しかし、その中で杵山組長だけはまったく動じなかった。
「分かった。その条件、呑んでやろうじゃねぇか」
俺は小さく頷いてから言葉を返す。
「感謝するぜ」
「……だが、向こう暫くは無理だぜ。こちとら玄道会を追い払ってシマを守らなきゃならねぇんだからな」
「ああ、良いぜ」
当面は防衛戦争に専念してもらって構わない――そう了承した俺に対して、杵山組長は少しばかり訝しげな表情を見せつつも安堵の反応を示すのであった。
「まあ、あんたを全て信用したわけじゃないが。中川会ほどの大所帯で直参になれるんだ。たかが九州だけの組織に引き込まれるよりゃ断然マシだわな」
こちらとしても嬉しい限りだ。熱くなりやすい九州男児が相手ということで多少の難航は想定していたが。このまま話が妥結へ向かいそうで何よりである。
「ああ。そうだ」
俺が答えると組員たちは一斉に俺の方へと視線を向けた。
「おい、東京者。改めて言っておくが九州の戦争は俺たちの問題だ。そっちはカネと道具だけ寄越してりゃあ良いんだからな」
くれぐれも無駄な手出しはしてくれるなよと言いたげな彼ら。無論、そんなことはお安い御用である。
「分かっているさ。あんたら九州者同士の喧嘩に割って入ったりしねぇよ」
「けっ、九州者って。人を田舎者みてぇに呼びやがって。これだから中川会はいけねぇや」
「おいおい。そっちが先に東京者って呼んだんじゃねぇか。まあ、良い。話はまとまったんだ。これから仲良くしようじゃねぇか。なあ?」
「ちっ!」
露骨に舌打ちを鳴らして部屋を出て行く組員たち。彼らの背中を見て杵山組長は言った。
「すまねぇな……でも、分かってやってくれ。俺たちは東京から来た輩のせいで一度泡を吹かされてるんでな」
「眞行路か?」
「ああ。あの野郎はこっちが玄道会に攻め込まれて困ってるのを良いことに『傘下に入れ』と脅してきやがった。足元を見てやがったんだ」
なるほど。高虎の考えそうなことである。杵山曰く高虎に対して一旦は難色を示す返事を送ったそうだが、すると先方が苛烈な手段に出てきたという。
「あいつは玄道会ともパイプを持ちやがってよ。杵山組の弱みを向こうに流しやがったんだ」
「それは酷ぇな」
「ああ。おかげで若衆の何人かが大分の県警にパクられてシマも何割か奪われちまった。野郎は自分の目的のためなら何だってしやがる」
そうして窮地に陥った杵山組は仕方なく眞行路一家と兄弟の盃を交わした。高虎は盃を呑んだ暁には杵山への支援を約束していたようだが、それが果たされることは無く、逆に「東京へ兵を貸せ」と要求されるばかり。挙げ句、別府へ我が物顔でやって来た眞行路の組員に領土を荒らされることもあったというから何とも嘆かわしい。
「だから高虎が討たれたって聞いた時は安心したぜ。これでもう銀座の猛獣に別府を貪り食われることはねぇんだってな。博多の玄道会も厄介だが、あのキチガイ野郎はそれ以上だった」
先日の銀横戦争で高虎が敗れたとの情報が入った途端、杵山組は兄弟盃を叩き割った。同時に別府に駐留していた眞行路の組員を袋叩きにして東京へ追い返したそうな。如何に杵山たちが銀座の猛獣を嫌っていたかが分かる話であった。
「奴らは偉そうに指図しやがったからなあ。俺たちが喧嘩をするのに、何で他所から来た輩にああだこうだと言われなきゃならねぇんだ」
「ふっ、ごもっともだ」
九州男児は喧嘩に際しては誰の助力も受けず、自分たちだけで決着をつけることを良しとする。杵山組長の言は実に真っ当であった。
なればこそ俺は敢えて「中川会から兵は出さない」と約束したのだ。その方が彼らの歓心を買いやすいだろうと踏んだから。その選択は正しかった。
「俺たち中川会はあんたらの気概を最大限に理解しているつもりだ。正式に直参になってからもそこは変わらないから安心してくれ」
そう言うと杵山組長は嬉しそうな顔をした。
「ただしだ。さっきも言ったように、何かあった時には必ず東京へ来てくれ。中川会三代目の忠実な臣下として働くことを約束してくれ」
その言葉に対して大きく頷いた杵山。
「ああ。分かっている」
俺は続けて言う。
「近い将来、中川会は大きな戦乱の渦へ飛び込むことになる。その時に少しでも兵力が欲しいんだ。あんたらのような勇猛果敢な武闘派の力が必要なんだ」
「大きな戦乱? それって関西の煌王会とやり合うってことか?」
「まあ、そうだな」
実のところは微妙に違う。俺たちが間近に見据えているのは中川会の組織改革だ。椋鳥一家ら有力幹部とやり合う展開になった際、会長が直接的に命令を下せる御親兵を少しでも多く揃えておきたいのである。勿論、ここで詳しい事情は杵山に明かさないおく。中川会に内紛の可能性があると分かれば、せっかく話を呑むと決めた彼の気が変わるかもしれない。
ただ、今の時点で杵山は勘付いてはいないようであった。俺の言葉に、彼は軽快な返事で応じた。
「おうよ。その時が来れば俺たちに任せておけ。東京へに馳せ参じて関西でも東北でも何処とでも喧嘩してやるぜ」
そう言ってから、ふと思い出したような顔をする杵山組長。
「けど、その話で言えば玄道会も然りだな」
「なっ? そうなのか?」
「ああ。奴らはどうやら東へ上る構えを見せてやがるぜ。瀬戸内を押さえて、ゆくゆくは関西の煌王会とぶつかるつもりらしい」
博多の玄道会にそのような気配があったとは。俺にしてみれば完全に初耳だ。何でも玄道会の現会長はかなり好戦的らしく、領土拡大の野心を秘めているのだとか。
「玄道の唐津の最終目的は日本制覇だって聞いたことがあるぜ。若い頃からの夢なんだと。九州統一に躍起になってるのはその前段階のつもりだろう」
杵山組長はそう言いつつ「もっとも……」と言って言葉を継いだ。
「玄道が東へ兵を進めるとなりゃ瀬戸内の地元連中が黙っちゃいねぇだろう。九州ヤクザは西日本全体に警戒されてる。だから唐津も迂闊な真似はできねぇはずだ」
なるほどな。確かにそうだ。広島のみならず、関西に向けて攻め上る途上には有力な地元組織が多数存在する。玄道会がどんなに凶暴とはいえ、彼ら全てを敵に回して戦争をするのは困難を極めよう。ましてや現状の九州統一ですら1万の兵力で成しきれていないのだから。連中の野望は夢物語で終わると考えた方が妥当やもしれない。
「そうだよな。けど、油断せず備えを万全にしておいた方が良いぜ。唐津の野郎は何をしでかすか分からねぇ危険な男だ」
「あんた、玄道の唐津を知ってるのか?」
「前に一度だけ会ったことがある。その時はまだ鹿児島の組長だったが。嫌な野郎だったなあ」
俺の話に杵山は驚いた顔をしていた。唐津のやり口がいけ好かないというのは彼もまた共通の認識であるらしい。
「あの野郎は人を陥れるのが大得意で、その行為自体を楽しむとびっきりのクズだ。この別府の街も今まで散々奴に脅かされたもんだ」
唐津は絵に描いたような野心家。領土獲得のためには手段を選ばず、佐賀、宮崎、長崎、姶良と九州各地に存在していた一本独鈷の組もここ数年で次々と唐津体制の玄道会に呑み込まれていったという。唐津の陰湿かつ姑息な調略を前に成す術もなく降伏してしまったのだ。
「今や九州で一本独鈷は沖縄を除けば杵山組だけだよ。その俺たちも、もうじき中川会の直参になろうとしてるんだからなあ……」
少し寂しそうに語る杵山に俺は言った。
「大丈夫だ。中川会に来たからには絶対に損はさせねぇ。今まで以上に別府の街を盛り上げてやると男の名に懸けて誓おう」
「お、おう。期待しとくぜ」
少俺は杵山と固い握手を交わした。それから暫く他愛もない世間話に花を咲かせていたが、やがて応接室に組員が入って来る。
「組長!」
若干の慌てた様子に俺たちは顔を見合わせる。
「どうした?」
「げ、玄道会から使いが来てます! 『組長に会わせろ』と……!」
「何だと?」
杵山組長は困惑と驚きの声を上げた。
「玄道会? どうして?」
「は、はい。今、とりあえず玄関で待たせてますが……」
「ちっ!」
舌打ちする組長。俺は尋ねた。
「どうする? 会うか?」
「……ああ。そうしよう。居留守にしたところですんなり帰ってくれるとも思えん」
こうして杵山は事務所に玄道会の使者を招き入れたのである。その間、俺はひとまず隣の部屋に隠れることになった。面倒を避けるためだ。
数分後、応接室には2人の男がやってきた。1人は中年の男で、もう1人はまだ若い男である。どちらも黒スーツを身に纏っており、その出で立ちから彼らが玄道会の関係者であることが窺えた。
連中の用件はおそらく玄道会への傘下入りだ。さしずめ「眞行路との同盟が切れたのだから玄道会へ付け」とでも要求したいのだろう。もしそのような話を受ければ杵山組長は即座に拒絶、中川会入りが決まったことを明かして使者を追い払い、場合によっては即座に宣戦布告を行うと言った。
さて、どうなることやら――。
応接間と隣り合った組長室から他の組員たちと固唾を呑んで見守る中、いざ杵山と来客の会話が始まろうとしていた。先手を取ったのは杵山だ。
「おい! てめぇら、何しに来たんだ!」
いきなり敵意を剥き出しにして問うた杵山。すると中年の男が答えた。
「落ち着けよ。組長さん」
男は落ち着いた口調で答えるが、その目は笑っていない。そして続けて言うのだ。
「今日はあんたと取引に来たんだよ」
「取引だ?」
怪訝な表情を浮かべる杵山に中年男が言った。
「ああ、おたくにも損の無ぇ話だと思ってよ。とりあえず聞いてくれや。うちの会長にちしゃあかなり譲歩した方なんだからよ」
その横で随行の男がヘラヘラと薄ら笑いを浮かべる。組長室から少しだけ空いた扉の隙間から彼らの様子を覗く俺は、ちょうど隣にいた杵山の組員に問う。
「あの連中は名を名乗りもしなかったが、何者なんだ?」
「ああ。あの豚みてぇなおっさんは玄道会の総本部長の森川だ。嫌味臭くていけ好かねぇ野郎だよ」
「総本部長がお出ましとはな……」
「若い方は知らんが、まあ、護衛だろうよ」
なるほどな。総本部長が自ら使者を務めるということはよほど重大な用事と見た。玄道会としては是が非でも別府を支配下に置きたい腹か。
「それで? 玄道会はあんたらに何て言って来てるんだ?」
すると組員は答えた。
「……それが……俺たちに『組を解散してシマを全て明け渡せ』と」
「なっ!?」
思わず耳を疑ってしまう。傘下に入るどころか、組の解散とは。あまりにも不当かつ尊大な要求であろう。
「おいおい。そんなの最初から別府と戦争する気で来てるようなもんじゃねぇか!」
憤慨を見せた俺に組員は言った。
「なあ、あんた。中川からの支援はいつ届く? こっちはすぐにでも玄道会をボコボコにやっちまいてぇんだよ!」
「出来るだけ早く送るよう掛け合っておくから。もうちょっと待っててくれ。会長もあんたらには期待しておられる」
「さっさと頼むぜ! でなけりゃ東京者に跪いて盃を呑む意味が無ぇんだからよ!!」
そんなやり取りを繰り広げる一方、壁一枚を隔てた応接室では今まさに本題が切り出されようとしていた。
「不可侵協定の締結だと?」
杵山の声が裏返る。対して森川はニヤニヤと笑いながら言う。
「ああ、そうだ」
「どういう風の吹き回しだ? てめぇらは俺達に別府から立ち退いて欲しかったんじゃねぇのかよ!?」
「うちの会長がお情けをかけてくださったということだ。玄道も杵山も同じ九州男児。これからは対等に付き合いたいと考えをお改めになった」
「そんな話を信じられるかよ。今までさんざんちょっかい出しといてよく言うぜ」
「こちらの誠意の証として杵山さんには1億円を支払う……そう会長は仰せだ。俺たちとの戦争を回避できる上にカネも入るんだから、得じゃねぇか。まあ、見返りと言っちゃあおかしいがこっちとしても貰いてぇものがあるんだけどよ」
「……何だ?」
眉間に皺を寄せる杵山に対し、森川は言った。
「あんたらのシマを奪おうってんじゃないさ。ただ単にな、鶴見岳城島高原の採掘権を譲ってほしいんだ」
「何だとぉ!?」
杵山の声がまたしても裏返る。
無理はなかった。鶴見岳城島高原――それは別府における温泉の源泉ともいうべき場所である。別府に数ある源泉の中でも、鶴見岳城島高原の湯は古くから人々に愛され続けてきた。そして今もなお新たな泉脈を求めて採掘事業が行われていると、ここへ来る前に読んだガイドブックには書いてあった。
そうした別府にまつわる温泉の権利を全て寄越せと玄道会は要求してきたのだ。
「そんな大それた話、呑めるわけがねぇだろうが!」
怒鳴る杵山組長に森川は言った。
「そちらには1億を払うんだ。タダで寄越せと吹っかけてるわけじゃねぇんだから」
「釣り合いが取れねぇって話だよ! 城島高原の源泉は今後100年は泉脈が枯渇しねぇっていう絶好の開発地だ。経済効果で言やあ1000億はくだらねぇ場所なんだ。それを1億で売れだと!? ふざけんじゃねぇよ!」
「今すぐに1億が手に入って、その上に俺たちとの恒久和平まで確約されるんだ。安い取引じゃねぇと思うけどなあ……」
「もう良い! 話は終いだ!!」
長机を蹴り上げると、杵山組長は応接室の扉を開けて叫んだ。
「帰れ!!!」
「おいおい、そんな言い方はねぇだろう。こっちはわざわざ出向いて来てやったんだぜ?」
「今すぐ帰れっつってんだよ! この侵略者どもがあ!!」
杵山組長が凄むと森川は肩を竦めて言った。
「……まあ良いさ」
そして彼は随行の男と共に立ち上がったのである。
「今日のところはこれで帰るとするよ。俺たちは鶴見岳のホテルに居るから。気が変わったらいつでも連絡くれや、なあ?」
2人は応接室を出ようとする。だがその時、ふと思い出したように森川が振り返った。
「……ああ、そうそう! ひとつ言い忘れてたことがあったぜ」
そう言ってから例によって不敵な笑みを浮かべて言葉を繋ぐ。
「あんたらが不埒にも中川会と手を組んで、俺たち玄道会に戦争を仕掛けようってんなら……その時は容赦しないぜ」
「ああ!?」
杵山は阿修羅の形相で凄みを利かせた。それでもお構いなしに森川は続ける。
「さっき俺のことを“侵略者”と呼んだが、そういう算段があるのは中川の方だぜ。玄道会は単に九州ヤクザの結束を図りてぇだけだ。東京に媚を売ってうちの会長の顔をご配慮を無碍にする気なら好きにすれば良い。こちとら徹底的にやらせて貰うからなあ。まあ、せいぜい賢い選択をするこったな」
2人は応接室から出て行った。そして入れ違いで組員たちが応接間に戻る。彼らは口々に言ったものだ。
「あいつら、舐めやがって……!」
「でも、どうして俺たちが中川と結ぼうとしていることを知っていたんだろう?」
「いやあ、釘を刺しに来たにしてもタイミングが良すぎるよなあ」
そう、確かに偶然だとしても時期が合いすぎるのだ。
「てめぇら。慌てるんじゃねぇ。こっちは中川会がケツを持ってくれることになってんだ。戦争になっても負けやしねぇさ。玄道会なんざ一瞬でぶっ潰してやる」
「そうですよね!」
杵山組長の言葉に、若衆たちは安堵したように肩の力を抜いた。さて、俺はさっそく会長に連絡を入れるか――そう思って携帯電話を出した途端。
「おい! こりゃあどういうことだ!!」
室内に怒鳴り声が響いた。ふと声のした方を見ると、先ほど入り口で俺を出迎えた大柄な組員が怒りの形相でにじり寄って来ていた。
「おい、東京者! てめぇは俺たちを嵌めるつもりだったのか!?」
「え?」
俺は一瞬、彼が何を言っているのか分からなかった。だが、彼が手に持っている物が明らかにまずかった。それは中川恒元がしたためた親書。玄道会の会長に宛てて恒元が贈ったものだ。その狙いは同盟などではなく、単なる挨拶程度の意図。しかしながら、今この状況でそれを見られるのは……しまった! 俺としたことが……迂闊だった!
まさか持ってきた鞄を漁られるとは思わなかった。完全に俺の不覚であった。歯噛みしていると、男はさらに詰め寄った。
そして俺の胸倉を摑んで言ったのである。
「この手紙は何なんだよ!? ああ!?」
「……っ!」
「てめぇ、うちを傘下に取り込むフリして玄道会と同盟を結ぼうってのか!?」
大柄の組員の追及に歩調を合わせるがごとく、その場に居た他の連中の視線が一斉に俺へと向けられる。
「おい、どういうことだよ!?」
「まさか中川会と結託して俺たちを潰そうってのか!?」
「ふざけんな!」
口々に叫ぶ組員たち。俺は言った。
「……違う! そんなつもりは……」
だが俺の弁明に耳を貸す者などひとりも居ない。この状況では当然の至りであろうか。皆の怒りが俺に向けられる中、杵山組長が叫んだ。
「静まれ!!!」
その一言で場は一気に静まり返った。そして杵山組長が俺に向かって問いかける。
「おい、あんた……こらぁどういうことだい? 説明してみろや、俺たちが納得のいく説明をよぉ」
「それは見せかけだ」
「見せかけ?」
「別府は玄道会の領土の中の飛び地みてぇなもんだろ。中川の人間である俺が玄道のシマを踏めば、諍いが起きるとも分からねぇ。そうなった時の打開の切り札って奴よ。建前でも会長直筆の手紙を持ってりゃ面倒は避けられる」
俺はそれしか答えられなかった。すると彼はさらに言った。
「そんな言い訳が通ると思うのか!? 手紙を送るってこたぁ、それすなわち仲良く付き合いましょうって意思表明だろうが!」
「……会長の本心は別府を守ることだ」
そう答えるのが精一杯だった。だがそんな俺の様子を見て、組員たちは口々に言うのだ。
「東京者の言葉を信じられるかぁ!」
「こいつ、中川会と結託して俺たちを潰す気なんだ!」
「もう良い! ぶっ殺そうぜ!」
さて、どうしたものか――ここでは最早小賢しい言い訳は逆効果。仕方が無い。俺は咄嗟に思い付いた策を叫んだ。
「だったら行動で示せば良いのか!? 俺たちが玄道会とグルじゃねぇってことを!」
「ああ!?」
杵山組長が凄みを利かせる。だが、俺は負けじと続けた。
「さっきの連中をぶっ殺す。俺が玄道の総本部長の命を獲ったら、あちらさんと通じてねぇってことを分かってもらえるのか!?」
「……いきなり何を言い出しやがる」
「答えろ!!!」
「てめぇ、喧嘩売ってんのか!?」
「俺の質問に答えろってんだぁ!!!」
俺がそう叫ぶと、組員たちは一斉に静まり返った。こちらの気迫に押されたのだろう。少しの沈黙を挟んで杵山が小さな声で答えた。
「……良いだろう」
杵山組長が頷くのを見て、若衆たちが俺に詰め寄る。
「だったら俺たちが見届け人として付いてってやるよ!」
「ああ、そうだ! てめぇが玄道のアホどもをその手でぶっ殺したら信じてやるぜ!」
そんな彼らの言葉を聞きつつ俺は思った。
しまったな。これは完全に軽率な言葉であった。玄道会と直接的に事を構えるのは止めてくれと会長には言われていたのに――だが、もう遅い。
玄道会の森川とやらに恨みは無い。されども玄道会というだけで激しい怒りが湧いてくる。銃を向ける理由としては十分すぎるくらいに。
深呼吸をして、俺は杵山に言った。
「おい。あいつらが泊まってるってホテルに案内しろや。さっきの森川って総本部長の命を獲らなきゃならねぇでもんでな」
杵山は頷いた。
「分かった。ただし、あんたの手柄にはするなよ。野郎を討ち取ったのは杵山組の人間って体にして貰いたい」
「なるほどな。自分の領内で他所から来た人間が鉛玉をぶっ放したってなりゃ、九州ヤクザの恥だもんな。別に構わねぇぜ」
「九州男児の喧嘩に他人の助けは不要。ご理解いただけて何よりだぜ、麻木さんよぉ」
杵山の体面はともかく、名目上は杵山組の仕業ということになるなら、玄道会と直接的に諍いを起こしたことにはなるまい。俺としては大いに助かった。
「ああ。だがな、杵山さんよ」
俺は言った。
「俺が玄道の連中をぶっ殺したら、それ以降は俺のために働いてもらうぜ」
「ああ!? 何でそうなるんだよ!?」
「あんたが直参盃を呑む時の媒酌人は俺だからだ」
そう答えると彼は舌打ちをしてから答えた。
「……分かったよ! ああ、良いだろうさ!」
そんなやり取りを経て俺たちはホテルへと向かったのである。玄道会の森川らが宿泊しているという温泉リゾートへは車で30分。バンでの移動中、両脇を組員に囲まれた状態で助手席の杵山が俺に言った。
「森川の野郎、どこまでも舐めてやがる。あそこのホテルと城島高原は歩いてすぐの距離。『今回の使いは採掘地の視察も兼ねてるんだ』って意思表示なのさ」
県道52号から山道に分け入ると、すぐに城島高原の採掘プラントが見えてきた。
「なるほどな」
俺は相槌を打つ。確かに近くにはホテルの看板が立っている。森川は玄道会の人間として、そう遠からずこの辺りを手に入れてやると意図を誇示しているつもりであろう。
だが、それは同時に杵山組への挑発でもある。俺としては話が単純で助かる。例え殺しが露見しても全てを杵山組のせいに出来るのだから。
「杵山さんよ」
俺は言った。
「こういう展開になって、俺はむしろ良かったと思ってるぜ。何せ、あんたらに俺の腕前がどれほどかご覧いただけるんだからなぁ」
すると彼は鼻を鳴らして答えた。そしてこう続けたのである。
「けっ三下が、東京者はこれだからいけ好かねぇんだ!」
やがて車はホテルに着いた。先に車から降りた組員の偵察によると、森川たちは近くの採掘場へ出かけたという。杵山の予想通りだった。
「やっぱりな、あの野郎ども……もう別府を手に入れたつもりでいやがる……!」
「安心しろ。俺が今すぐ仕留めてやるから」
俺は杵山と共に車から降り、駐車場を抜けて山道を歩く。砂利の上をひたすらに行くこと10分。辺りが蒸し暑くなってきた。
「そうか。ここは温泉地だったよな。温泉の源泉がこの辺りにあるのか」
「ああ。だが、今も絶賛湧出中だ。専門家の仮説じゃあ今後100年は枯れねぇって話だよ」
「だったら尚さら玄道会にくれてやる訳にはいかねぇわな」
やがて前方に鉄柵が見えてきた。その向こうに広がるのは採掘プラント。森川らが向かったという現場だ。
俺は言った。
「んじゃ。杵山さんよ。ここで見ててくれや」
「……ちゃんとやるんだぜ」
皮肉交じりのやり取りを経て俺たちは鉄柵に近付くと、それを押し開けて中に入ったのである。するとすぐに作業員らしき男が俺たちに近付いて来た。
「おい、あんた! ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」
そう言って男は俺の腕を摑んだ。だが、俺は冷たく言い返す。
「ああ、すまねぇな」
そして俺は男の手を払いのけると懐から拳銃を取り出したのである。すると作業員たちは皆一様に驚きの表情を見せたが、すぐにそれは恐怖へと変わった。
「きっ……貴様ぁ!!」
「杵山組長の使いで来た。さっきここに博多訛りの男が二人、来なかったか?」
「な、何のことだ!」
「後ろめたいのは分かるが、正直に答えた方が身のためだぜ。今なら組長も見逃してくれるってよ。あんたらが賄賂を受け取って採掘場の中に他所者を入れたってことをな」
「なっ!?」
作業員たちは顔を見合わせる。
「どうするよ」
俺がそう問いかけると、作業員たちは観念したように答えた。
「あ、ああ……確かに来たよ。き、杵山組長に依頼を受けた福岡の大学の研究員だって言ってた」
あっさり吐いたなと内心で笑った俺。しかし、その後に続く言葉が少し意外であった。
「か、勘違いするなよ! そいつが『杵山さんに頼まれて湧出量を調べに来た』って言ったから通したのであって! 賄賂は受け取ってないぞ! 杵山組の敵だったら一人で来ねぇだろうし! 本当にカタギの専門家だと思ったんだ!」
どういうことだ。
「ん? 一人? そいつは単独で来たってのか?」
「ああ! そうだ! 今、奥の方を調べてるよ! 事を済ませるなら早くやってくれ! 改めて言っておくが俺たちは杵山さんに背を向けちゃいないんだからな!」
作業員の自己弁護はさておき、俺は少しばかり疑問に思った。一人で来た――それは何故だろうか。先ほど森川は護衛を連れて来ていたではないか。
そもそも玄道会の総本部長なのだ。それほどの大幹部が護衛を連れずに外を出歩くものだろうか。とんでもない不用心だ。
「……まあ、構わねぇさ」
何にせよ今は奴を射殺するだけだ。俺は拳銃を右手に携えて砂利道を歩いて行く。3分ほどで、やがて採掘場の最奥部へと辿り着く。
そこには背広の男が一人、立っていた。
「おい! てめぇ!」
俺がそう声をかけると彼は振り返った。紛れもなく森川である。そして俺は待っていましたとばかりに拳銃を突き付ける。
「杵山組の使いで来た」
すると彼は怯えたような顔を見せた。
「なっ? 何だと!?」
「玄道の大幹部様が随分と隙を見せてくれるじゃねぇか。すっかり別府を手に入れた気になって油断したかよ、アホが。残念ながらこれが杵山組の返事だ」
「まっ、待て! 助けてくれ! 金をやる! 大金をくれてやるぞ! 今日、タイ人とのデカい取引がある! それに一枚噛ませてやる! だからどうか……!」
腰を抜かした森川に対し、俺は容赦なく引き金をひいた。
――ズガァァァン!
飛び出した銃弾が奴の体に命中。そこから数発ほど食らわせてやると、玄道会の総本部長はあっけなく絶命したのであった。
「……ふう。やったか」
俺は蜂の巣同然に変わり果てた森川を引きずり、来た道を戻って行く。途中ですれ違った作業員たちは絶句していた。まあ、無理もないか。
そうして車の所まで戻ってくると待ち構えていた杵山組長に言った。
「おい、杵山さんよ」
俺は言った。
「これで分かったろ? 俺が玄道会とグルじゃねぇってことをよぉ?」
すると彼は鼻で笑って答えた。
「……けっ! おめぇみたいなガキが媒酌人なんて俺の渡世の運も尽きたもんだな! だが、それで中川の直参になれるなら安い買い物か!」
どうやら納得して貰えたようだ。一時はどうなることかと思ったが、無事に杵山組との盃交渉は成就した。組員たちも俺への猜疑心を捨て去っている。
当然だが森川は杵山組が預かるという。博多の玄道会総本部へ送り付ければ良いメッセージになるだろうと組長は言った。そして俺たちは山を下りて市街地へと戻ったのである。杵山組長と信頼関係を確認し直した後、俺は彼に言った。
「じゃあな、杵山さんよ。盃の日取りは追って連絡する。都合の良い時に東京へ来てくれ」
すると彼は答えた。
「ああ。また会おうぜ」
杵山組の組員たちは皆一様に安堵の表情を見せていたが、すぐに彼らは俺の前に集まってきた。
「麻木さんよぉ! あんたやるじゃねぇか!」
「見直したぜ!」
口々に賞賛する彼らに俺は言った。
「よせやい、照れるじゃねぇか」
すると組員たちはさらに続ける。
「あの森川って野郎は気に食わなかったんだ! あんたなら安心して盃を交わせるぜ!」
そんな彼らの言葉に対し、俺は答えた。
「ああ、ありがとよ。だがな……」
そして俺はこう続けたのである。
「……ここからが本番だぞ。杵山組が別府を守るための戦いはな。『九州男児の喧嘩に他所者は呼ばぬ』って言葉の真髄、お前らの行動で示してくれや」
その言葉に彼らは息巻いた。
「おうよっ! 博多のガキどもなんざ全員まとめてぶち殺してやる! 俺たちの喧嘩、とくと見ていやがれ!」
この威勢の良い男たちならきっとやってくれる。こちらが兵を貸さず大丈夫そうだ。俺は大いに安堵感をおぼえて杵山の事務所を後にした。
さて、そろそろ大分に戻るか――。
時刻は17時。外はすっかり暗くなっている。大分でユカの娘を探している華鈴は上手くやっているだろうか。すぐさま合流したいところだ。その前に、彼女と連絡を取りたい。
俺は携帯を開いた。
「あれっ?」
不在着信が5件ほど入っている。いずれも華鈴。マナーモードに設定していたために電話に気付かなかったようだ。
未読のメールもあった。
『ごめんね。ちょっと状況が変わった。別府駅で待ち合わせできる?』
どうやら華鈴がこちらへ来るというではないか。
何かあったのだろうか――。
そう思いつつ、俺は北浜公園の前でタクシーを拾って別府駅へと向かう。西口前の広場で華鈴はそわそわしながら待っていた。
「あっ、麻木さん!」
「おう。すまねぇ。ちょっと長引いちまってよ。で、どうした? 例の娘は大分に居なかったのか? 父親と一緒に市内に住んでるって話だったが……?」
「実はね、今は別府に来てるらしいの」
意表を突かれた。
「何だって?」
このまま寒空の下で立ち話をするのも億劫に思えたので、俺たちはひとまず駅の中にあるレストランに入った。
「……それで、その娘ってのはどんな子なんだ?」
俺が問いかけると華鈴は写真を取り出して答える。
「名前は加奈ちゃんっていうんだけど、年齢は1歳」
「……1歳? そらまた赤ん坊同然じゃねぇか」
写真に映るのは、まだ自分で歩くこともおぼつかぬであろう小さな赤ん坊。想定していた年齢よりもずっと幼かったので、俺は呆気に取られてしまった。
すると彼女は頷いてから言ったのである。
「うん……私も最初は驚いたよ」
1歳の少女か――そんな小さな我が子を連れて、父親はどうして別府に来たのか。おそらくは仕事であろうが赤ん坊を同行させる意味が分からない。
「それで、その加奈って子の父親は何て奴だ?」
「こいつよ」
そう言って華鈴が取り出したのは一枚の写真。視線を落とした瞬間、俺はたまげた。
「なっ!? この男は!」
見るからに厳つそうな髭面の男。それは先ほど対面したばかりの人物である。杵山組事務所を訪れた玄道会の使いのうち、若い方の組員だった。
こんな偶然があるのか。俺は驚きを隠せなかった。
「おい、華鈴……こいつは玄道会の構成員だぞ」
すると彼女は瞳を丸くしてから答えた。
「えっ? そうなの?」
俺は頷いた。
「ああ、間違いねぇ。俺がさっき杵山組の事務所で会った奴だ。玄道会の総本部長付きの護衛だとか言ってたな」
そしてさらに続ける。
「ってなると、ユカの旦那は……」
そんな俺の言葉に対し、彼女は言った。
「うん……そうらしいね」
俺たちの会話はそこで途切れたが互いに考えていることは同じであった。
ユカの旦那で、加奈の父親であるこの男は、ヤクザと繋がりがあるどころの話ではなく、玄道会でそれなりの地位にある人物――。
まさかそれが今回の敵の正体とは。事態は想像以上に複雑だった。
「しっかし、玄道の人間ってなるとますます分からんな。何でまた別府に来たんだろう。おまけに子供まで連れてよ」
「ねぇ、この辺で一旦状況を整理してみない? 今日、お互いが知り得たことを共有し合うの。その方が何かと分かりやすいと思って」
「ああ。そうだな」
俺たちは互いの戦果を報告し合うことにした。
まず、華鈴は俺と別れた後に大分市内を捜索。情報を元にユカの旦那の居所を探したところ、近隣住民から「娘共々別府へ行った」という話を聞いたのだとか。そうして彼女はその足ですぐさま別府駅へと向かい、杵山組交渉事を終えた俺と出会ったのである。
「ユカちゃんの旦那さんは名前を笹田といってね。話を聞く限りじゃあ玄道会のフロント企業を経営しているみたい」
「なるほどな。企業舎弟の経営者が盃を貰って組員になるケースは珍しくない。たぶん、その笹田とかいう奴も似たような経緯で組織に入ったんだろうな」
「総本部長付きにまで出世するくらいだから、よっぽど儲かってたんでしょうね……」
フロント企業からの渡世入りは中川会でも増えつつある。ただ、問題はその流れで入った人間がどうして“護衛”を務めていたのかという点。元はカタギの頭脳派にとって、体を使うボディーガードの役は明らかに不相応な気がするのだ。
「麻木さんから見て、笹田はどんな奴だった?」
「総本部長の隣でニタニタ笑ってやがる陰気臭い野郎だったよ。とても喧嘩が強いようには思えなかった」
ああいう奴に限って妻子には滅法強くて暴力を振るったりするから始末に負えない。
「そっか……じゃあ、どうして総本部長にくっついて別府へ来たんだろう」
「総本部長にとっては笹田を連れてくるべき何かしらの理由があったんじゃねぇか」
俺は華鈴に今日の出来事を全て話した。盃交渉で訪れた杵山組に玄道会の使いがやって来たこと、杵山たちの信頼を得るためにその使いを射殺したこと、それから件の総本部長が撃たれる直前に気がかりな言葉を口にしていたこと――俺としても妙に聞き過ごせなかった。
「あいつ、俺を懐柔しようとしたのか『今日、タイ人とのデカい取引がある』って言ったんだよ。『それに一枚噛ませてやるから助けてくれ』と」
「じゃあ、その取引とやらに必要だから笹田を連れてきたってこと?」
「確証は無いが、そいつがカタギの企業人出身のインテリヤクザだとすれば可能性は大いに高いな」
それすなわち、総本部長の言った“取引”の場に行けば笹田に会えるということ。尤も、当初の予定通り行われるかどうかは分からない。何せ、玄道会側の代表者であった総本部長は俺が射殺してしまったのだ。
第一に笹田も雲隠れしてしまったと思う。総本部長が杵山組に討たれたと思い込み、身の危険を感じて逃げてしまったであろうから。
「それに顧客である総本部長がああなった以上、タイ人としても商売のやり様がない」
「どうだろ。でも、一応は行ってみましょうよ。もしかしたら笹田が総本部長の代わりに取引をやるかもしれないじゃない」
その取引では何が売買されるのか、それに詳細な場所が何処なのかは不明。けれども俺たちは確認に向かうことにした。今回の仕事は笹田から娘を奪取すること、加えて滞納分の生活費の支払いも添えてユカとの離婚に同意させることなのだから。
「だけど問題は取引の場所よね……」
「ああ、それについては有力な情報源がある。ちょっと待っててくれ」
俺は携帯を開いて電話をかける。入力した番号は先ほど盃交渉に合意したばかりの杵山組事務所であった。
「よう、杵山さん。俺だ」
『ああ? 麻木!? こんな時間になって何の用だ?』
こんな時間と怪訝な声を出されても未だ夕方なのだが。おまけにこれより媒酌人となる立場の俺を敬称も付けずに呼ばれても困る。
ともかく、俺は彼に言った。
「別府市内でヤバい取引が行われそうな場所ってあるか? どうにも今日の玄道会の総本部長の取り巻きがタイ人と何かするみてぇなんだ」
すると彼はオーバー気味な反応を寄越したのである。
『なっ、何だと!?』
相変らず素っ頓狂な声だ。まあ、タイ人との取引云々の話は杵山組長に伝えていなかったので無理もない。俺は彼に問う。
「なあ。パッと思いつく場所で良いから教えてくれ。場所だけ聞かせてくれりゃあ、後はこっちで何とかするから」
『アホか!別府の問題は俺たちで片を付ける! 東京者が出てくる幕じゃねぇんだよ、お前は何もしなくて良い!』
「そうはいかねぇんだよ。タイマフィアは中川会全体にとっての敵だ。本家の人間として黙って見ているわけにはいかん」
『た、確かに……』
杵山組長の反応が一変した。
『よし、分かった! 詳しい住所を教えてやる!』
そんな経緯で俺は杵山組に別府市内のとある場所を教えてもらったのである。そして華鈴と共にその場所へと向かったのだった――。
ところが。
「……ここ?」
「ああ。杵山組長はそう言ってたぜ」
やって来たのは別府の最北端にある埠頭。近くには別府タワーも見える、隠密の取引を行うにはどう考えてもそぐわぬ場所である。
複数のコンテナが置かれているわけでも無い。港というよりは海浜公園といった具合で非常に見晴らしが良い。逆に言えば身を隠す遮蔽物に乏しいのだ。
俺と華鈴は近くにあったプレハブ小屋の陰に隠れて何とか様子を窺うことにした。
「ねぇ、杵山さんが言ってた場所ってここで間違いない?」
華鈴が小声でそう聞いてきたので俺は答える。
「ああ。たぶん間違いねぇよ」
すると彼女は言った。
「でもさ……こんな目立つ所で取引なんて妨害してくださいって言ってるようなものじゃん」
そんな疑問に対して俺は答えた。
「それが却ってカモフラージュしやすいのかもしれねぇぜ。少なくとも杵山は『自分だったら確実にここを選ぶ』と言ってたぜ」
「いや。そうかもしれないけど。そもそも、その杵山さんは来るの?」
「ああ。現地で合流する手筈になってる」
時刻は23時51分。あれから6時間近く駅前のカフェで暇を潰した。杵山曰く『この辺りの人気が消えるのは23時以降だ』との話だったので、その頃に取引が始まるものと見越してちょうど51分前にここへ着いた。
しかしながら、暫く待っても取引が始まる気配がまるで無い。誰一人として現場に近づいてくる気配が感じられないのだ。もしかして杵山に出し抜かれたか……そんな懸念が頭をよぎった時。
「あっ、来たみたい!」
やっと杵山の到着かと思いきや。華鈴が指差した方角から現れたのは一隻の船だった。その船は俺たちから少し離れた位置に停泊する。
「あれは……」
俺は目を凝らした。見たところ小型漁船である。そして、その船の舳先に立つのは明らかに日本人とは違った顔立ちをした男だ。
「えっ、あれがタイ人のマフィア?」
華鈴がそう問いかけてきたので俺は答える。
「たぶん。こんな時間に船で来るってことはおそらくそうだ」
本当に来やがったか……と思った矢先。今度は公園の駐車場に一台の車が走り込んでくる。黒いワゴン車だった。
「あっ、あれは!?」
「ご登場ね」
小声で顔を見合わせ、頷き合った俺たち。複数の手下と共に車から降りて来たのは笹田だった。写真で見た通りの背丈だ。
「あいつら、何をする気だ……?」
車を降りた笹田たちはそのまま海側の方へと近づいて行く。一方、漁船の方も岸に近づいて接舷を果たす。船からは数名の外国人が降りてきた。
「こんばんは。笹田さん。こんな時間にすまないね」
「構わないさ。有能なビジネスマンは昼夜を問わず仕事ができるものさ。そうでもなければこの世界で食ってはいけない」
タイ語で何やら話し込んでいる彼ら。遠くからなので詳細は聞き取れないが、これからカネのやり取りが始まるということは何となく分かる。
「ところで、例のブツは持ってきてくれたかな?」
「そりゃあ勿論。あの車の中にあるよ」
「ははっ。結構結構。しかし、笹田さん。あんたもえげつないことするねぇ。金欲しさのために我が子を売り飛ばすなんて。俺の国にもここまでの拝金主義者は居ないぞ」
「我が子だろうと他人の子だろうと関係ないさ。金になるならな。そんなことより、さっさと支払いを済ませてくれよ」
「ああ、いいぜ」
ん? ちょっと待て、今、あの男は“我が子”と言わなかったか? 一体、奴らは何を売買するつもりなのか……?
「ねぇ、麻木さん。あいつらは何て言ってるのよ」
「いや。分からん」
俺が妙な胸騒ぎをおぼえ始めた、次の瞬間。
「おうゴラァ! やっぱり来やがったかぁ! 福岡のクソどもが!」
その場に啖呵が響き渡る。
「なっ、何だ!?」
俺は慌てて振り返った。するとそこには……。
「杵山さん!」
そう、そこに居たのは杵山組組長の杵山だった。銃や刀剣を携えた部下たちも大勢いる。彼らは怒り心頭といった様子でずかずかと歩み寄ってくる。
そして驚く笹田たちに向かって怒声を浴びせたのだった。
「てめぇら!よくも人様のシマで勝手なことしてくれたなあ!? この落とし前、きっちりつけさせて貰うぜ!!」
「……っ」
「遠慮は要らねぇ! 野郎ども、かかれーっ!!」
杵山組長の号令と共に、組員たちが一斉に銃や刀剣を構えて突撃していく。
「なっ、何だと!?」
「どうしてバレたんだ!?」
そんな笹田たちの反応などお構いなしに、彼らは次々と攻撃を仕掛けていった。
「この野郎、覚悟しやがれ!!」
「ぐはあっ!」
杵山組の組員たちが笹田たちに襲いかかり、一人、また一人と銃弾を浴びせ、剣で豪快に斬り倒してゆく。その数はざっと30名ほどだろうか。一方の笹田たちはタイ人マフィアも含めて10名前後だ。人数的にも戦意的にも杵山組が圧倒的に優位。挙げ句、笹田一党はまともに武装していない。どうせ秘密の取引だからと完全に油断していたようである。
「くそっ、逃げ……」
笹田が踵を返して逃げようとすると。
「おっと!そうはいかねぇ!」
杵山がすかさず回り込み、退路を遮断する。そして。
「おらあああっ!」
――グシャッ。
杵山の振るう一閃が笹田の上半身を切り裂いた。
「ぐはっ!」
その一撃で笹田は地面に倒れ伏す。
「へっ、他愛ねぇな」
そんな光景を目の当たりにしたタイ人マフィアたちは慌てふためき、一目散に逃げ去ろうとしたのだが、その行く手は組員たちによって塞がれている。
「逃がさねぇよ。外人ども」
――ズガァァァン! ズガァァァン! ズガァァァン!
彼らの拳銃が次々と火を噴き、タイ人たちはその場に倒れた。中には自らも拳銃を抜いて応戦しようとする者もいたが、杵山組には敵わなかった模様。
決着がついた。ほんの数分足らずで杵山組の圧勝。ここまで一方的な戦いになるとは思わなかった。
「麻木さん! 今のうちに!」
「あっ、そうだったな!」
俺と華鈴は物陰から飛び出し、倒された笹田の元へ駆け寄る。まだやることがある。笹田が事切れる前に確かめなくては。
「おいっ! 笹田!」
その男は既に虫の息となっていた。ざっくりと入った刀傷からは血が噴き出し、街灯に照らされたアスファルトを真っ赤に染めていた。
「おい! テメェの娘はどこに居る!? 別府に連れて来てんだろう!?」
「だ、誰だ……お前は……」
「いいから俺の質問に答えろ! 娘はどこだ!?」
俺が怒鳴りつけると、笹田は震える手で指し示す。
「あ、あそこだ……」
「なっ!?」
それは彼が乗って来たバン。まさか――瞬間的によぎった仮説で心が沸騰しそうになるも全力で堪える。そして俺は叫んだ。
「華鈴! あのバンだ! あの中に赤ん坊が居る!!」
「えっ!?」
華鈴は慌ててバンに駆け寄った。そしてドアを開けるなり中を覗き込むと、そこには写真で見た赤ん坊が横たわっていたのである。
「麻木さん! この子! 加奈ちゃんだよ!」
少女を抱きかかえると、華鈴はすぐに車から降りた。一方の俺は笹田を睨みつける。怒りで声を震わせながらも奴に詰問を浴びせた。
「おい、テメェ……自分の娘をタイ人に売り飛ばそうとしやがったな……!?」
すると笹田はゆっくりと返事を寄越す。
「ああ……そうだよ……ちょうど良いカネになりそうだったんでな……お前たちが邪魔をしなければたんまりと儲けられたものを」
「ふざけるなっ!!!」
俺は激昂した。
「そんな理由で娘を売ろうってのか!? 自分の娘だろう!?」
だが、笹田はあの憎たらしい笑みを浮かべて応じる。
「俺の子だからだよ……ガキなんか所詮は穀潰し……煮ようが焼こうが親の勝手じゃねぇか……」
そんな台詞を耳にして俺は絶句した。そして同時に悟る。どんな常識も通じやしない、この男は根っからの無法者であると。
すると華鈴が赤ん坊を抱いて俺に訴えかけてきた。
「麻木さん! この子、危ない!」
「なっ!?」
「栄養が足りないんだよ! 早く手を打たないと!」
今までまともな食事を与えていなかったようだ。赤ん坊同然の子供に対して何たる仕打ちだ。俺は激昂しながら笹田の体を揺さぶった。
「おい! テメェ! それでも人の親か!」
すると彼は虚ろな目で答える。
「けけっ……偽善者ぶりやがって……偉そうに言ってるけどお前だってヤクザ……同じ穴の狢じゃねぇか……どうせお前も俺みてぇに非道なことを沢山やってるクチだろ……」
「ああ!?」
「お前も根っからのクズのくせして、いっちょまえに人を罵ってんじゃねぇぞガキが……人身売買はヤクザの専売特許……他人の娘は売るのに……自分の娘は売ったら駄目なのかよ……そんな道理があってたまるか……」
「っ!?」
俺は言葉に詰まった。この男の言っていることは筋が通っている……かもしれない。いや、駄目だ! 駄目に決まっている!
「うるせぇ! テメェみたいなクズ野郎と一緒にするんじゃねぇ!!」
すると笹田は俺の顔をじっと見て言った。
「へへっ……同じだな……お前は俺と同じ、阿修羅の顔をしている……」
「黙れ!」
「人を殺すのが好きで好きで堪らねぇって顔をしてやがるぜ……どこのガキかは知らんが、久々に面白い奴に会った……こりゃあまるで生き別れの兄弟にでも会った気分だぜ……へへっ」
「黙らねぇと殺すぞ!!」
「ああ……殺してくれよ……煮た者同士のお前に殺されるなら本望だ……ひゃはははっ!」
「黙れぇぇぇぇぇぇ!!!」
男の後頭部を思いっきり地面に叩きつけそうになった時。杵山が俺の手を止めた。
「待った」
「ああ!?」
「ここは俺たち杵山組のシマだ。他所者に勝手をさせるわけにはいかん。『九州ヤクザの喧嘩に他人の助けは要らん』って流儀、忘れたわけじゃねぇよな」
そこまで聞いて俺は笹田の体から離れた。冷静さを取り戻してゆく。我に帰った、と表現した方が適切であろうか。
「……」
「後は杵山組で引き受ける。おいっ!」
杵山が声をかけると、組員たちが笹田の体に布を押し当てて止血を行う。これは応急処置だ。俺はその行為の意味が分からなった。
「……おいおい。良いのかよ」
「これから玄道会との戦争が始まるんだ。こいつには人質としての利用価値がある。せいぜい役に立って貰おうじゃねぇか」
そう言うと、杵山は笹田を睨みつけて吐き捨てる。
「お前は俺たちの街を土足で踏み荒らしたんだ。楽に殺してくれると思うなよ。ボケが」
すると、笹田はぼんやりと宙に視線を泳がせて呟く。
「ああ……こんなことになるなら、もっと殴っておけば良かった……出来損ないの嫁と倅を……」
この期に及んでそれを言うか。
「テメェ!!」
俺はまたもや奴に飛び掛かりそうになるが、それを止めたのは華鈴だった。
「麻木さん! 落ち着いて!」
「ああっ」
またしても寸でのところで我に帰った。俺は深呼吸をして心を落ち着かせる。そして、華鈴に言った。
「この子を……加奈を……」
「……分かった」
彼女は赤ん坊を抱えたまま頷く。すると杵山たちが俺に視線を向けてきた。
「その辺はもう手配してある。麻木、お前とはまた今度ゆっくり話をしてぇな」
「ああ……そうだな」
そんな短いやり取りの後、俺たちは解散した。
直後に到着した救急車で加奈は病院に運ばれた。組お抱えの医者によれば栄養失調とのことで命に別状はないという。
俺と華鈴はホッと胸を撫で下ろした。まるで自分たちの子のように。世の親たちの気持ちが何だか少しだけ分かったような気がした。
これで加奈については無事に保護が完了した。児相の通知書もある。よって後日、正式な手続きをもって東京のユカの元へ送り届けられることになる。
全て事が終わったのは翌朝の6時。警察には杵山組が対応してくれたため、俺たちは特に手錠を嵌められることは無かった。
「麻木さん。今日は本当にありがとうね」
「いや……」
帰り道の途中、華鈴が感謝の言葉を述べてきたのだが俺は複雑な心境だった。結局、あの男は自分自身の手で娘を売ろうとしていたのだ。そして俺に向かって浴びせられた言葉と言えば……何とも胸の辺りが苦しくなってくる。まるで俺のやっていることが正しいのか間違っているのか分からないような気持ちである。
「……なあ、華鈴」
「ん?」
「俺、間違ってるのかな」
すると彼女はこう答えた。
「麻木さんは正しいよ」
「……そうか?」
「だって、あの男が加奈ちゃんを売ろうとしてたのを止めたじゃない。それに……」
そこで華鈴は少し言い淀むと、意を決したように続けた。
「私ね……ずっと思ってたんだ。どうして人は人を殺すんだろうって」
「……」
俺は黙って耳を傾けた。それは俺も同じ疑問を抱いていたからだ。数秒の沈黙の後、彼女が続けた台詞は偶然にも俺と重なっていた。
「でも、答えは出なかった」
「……だよな」
「うん。だから私は自分の正義に従って行動することにしたの。今日は麻木さんが居てくれたから私、自信を持って加奈ちゃんを助けることが出来たんだよ」
華鈴はそう言うとニッコリと笑った。俺はそんな彼女に見惚れてしまうのだった。すると彼女は俺にこう持ちかけてきた。
「ねぇ、せっかく別府に来たんだからさ。温泉に入って帰らない?」
「温泉か」
「うん。いいでしょ?」
「……そうだな」
華鈴の提案に俺は同意した。何だかんだで疲れたし、ゆっくり休みたいところである。それに別府の温泉は有名だ。一度は入ってみたいと思っていたのだ。
俺の答えを聞いた彼女は嬉しそうに言うのだった。
「やった! じゃあ、決まりね!」
上機嫌に歩いて行く華鈴の中を見つめながら、俺は思う。この女が傍に居てくれて、今日は本当に良かったと――それが俺の素直な気持ちだ。
この世界は分からないことだらけだ。何故に人は人を殺すのか。まともに答えることが出来ない難問だ。ひとつだけ言えるとしたら、それは人間の本質的な部分にあるのだろう。争うことだって然り。結局、人と暴力は切っても切り離せない関係にあるのだ。
ただ、傷つけることは止むを得ずとも愛することはできる。互いが互いを認め合い、赦し合い、時に想い合うことだってできるはず。
血と硝煙の匂いが燻ぶる裏社会の中にあっては、それは単なる絵空事なのかもしれない。だが、俺は例え小さくとも大切にしていきたい。
人が人であることの愛おしさを。
暫し俺はそんなことを考えていたが、ふと我に返り、慌てて華鈴の後を追った。
「麻木さん!」
彼女が振り返る。そして満面の笑みで言った。
「ほら! 早く行こうよ!」
まるで子供のような表情を見せる彼女に俺は思わずドキッとしてしまうのだった。
俺たちが向かったのは別府駅に程近い温泉旅館。杵山組の手回しにより、朝早い時間帯にもかかわらず特別に日帰り入浴を許してくれたのだ。
「うわぁ! すっごい広いね!」
女将から大浴場の説明を受けた後、華鈴は興奮気味に言った。別府の温泉旅館には内湯と露天風呂が一緒になった大浴場があることが多いのだが、この宿も例に漏れずそうだった。源泉かけ流しというだけあって長く浸かれば一日分の疲れが取れそうだ。
「じゃあ、あたし行ってくるね! 麻木さんもお風呂を楽しんでね!」
「あ、ああ」
華鈴はそう言うと、そそくさと女湯の脱衣所へと消えていった。実を言えば華鈴と一緒に入りたかった。だが、流石に旅館で混浴はまずいだろう……。
俺は仕方なく男湯へと向かい、服を脱いで大浴場へと直行。体を洗い始める。
「ふぅ……」
思わずため息が漏れる。やはり温泉というのは良いものだ。別府の湯は炭酸水素塩泉で肌に優しいのが特徴だと言われているが、まさにその通りである。
「ふぅ……」
またしてもため息。俺は大きく伸びをしてから湯船に浸かった。そして天井を見上げる。そこには湯気が立ち込めており、それがまた心地良いのだ。まるで雲の上にでもいるかのような気分である。
「はぁぁ……」
思わずため息が出るほど気持ちが良い。やはり温泉というのは最高だ……そう体全体で感じて心地よさに満ちあふれながら50分かけて湯から上がった。
「ああ。けっこう長湯になっちまった。上せたぜ」
バスタオルで身体を拭いてドライヤーにて髪を乾かし、脱衣所を出る。華鈴はまだ風呂から出ていないようだったので、俺は自販機で飲み物を買った。
温泉の定番と言えばコーヒー牛乳である。俺は自販機からそれを取り出すと、栓を開けて一気に飲み干す。
「ぷはっ」
美味い!
風呂上がりの一杯は格別だ。
火照った体に染み渡るようである。俺は満足感を覚えながら過ごしていたのだが……そこへ一人の仲居が通りかかった。
「ごゆっくりどうぞ~」
大人びた顔つきに対して、声色が少しだけ幼く見える。以前にどこかで会ったことのあるような。そんな既視感を覚えた。
「あ、どうも」
俺は軽く会釈してその場を立ち去ろうとしたのだが、その仲居は俺を呼び止めた。
「えっ……嘘……お兄ちゃん!?」
戸惑う俺の顔を凝視し、やがて彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。そして深々と頭を下げてくるではないか。一体どういうことだろうか?
疑問に思っていると彼女が口を開いた。
「私だよ! 萌乃!」
「……なっ!?」
数秒遅れで気付いた。
萌乃だ。かつて俺が“妹”として一緒に暮らしていた少女。間違いない。背丈こそ少し伸びているが、顔つきはあの頃のままだ。紛れもなく本人である。
「お前!? 萌乃か!? どうしてここに!?」
「久しぶりだね。お兄ちゃん。あれからもう5年になるもんね……」
まさか旅館で仲居として働いているとは。俺は驚きを隠せなかった。
「お前……どうしてここに?」
「えへへ。実はね、私この旅館で住み込みのバイトしてるの」
萌乃は照れ臭そうに言った。確かに仲居の制服が似合っている。だが、何故彼女が別府にいるのだろうか? それも萌乃はあの時……。
「お、お前、あれからどうなったんだ?」
震える声で問うた俺。いや、おかしい。それよりもまずは謝らなくては。直後、俺はその場に突っ伏す。額を頭に擦りつけて平身低頭。
心からの詫びを贈った。
「すまなかった! あの時、お前を置いて逃げ出しちまって! 俺のせいでお前は……本当に辛い思いをして……!」
「ちょ、ちょっと! 頭を上げてよお兄ちゃん!」
「何百回、いや、何千回も詫びたところで俺の罪は消えねぇ。でも、これだけは言わせてくれ! 本当にすまなかった!」
俺は心の底から謝罪した。すると萌乃が慌てて叫ぶ。
「わ、分かったから! もう良いよ!」
「いや、駄目だ! 俺がお前に対して犯してしまった過ちを……ちゃんと償わないと……」
「……もう」
萌乃は少し呆れたようにため息をつくと続けた。
「謝らないで」
「え?」
「だって、あの時に『逃げて』と言ったのは私だよ。お兄ちゃんが謝る必要なんてないよ」
「いや、でも……」
「それにね。私はもう大丈夫だから」
萌乃はそう言うとニッコリと笑った。その笑顔には一点の曇りもないように思える。本当に吹っ切れたようだ。俺は若干ホッとしたような気持ちだが……。
そこで新たな疑問が生まれた。
「……お前、あれからどうなったんだ? 今はどうしてここで働いてるんだ?」
「うん。話せば長くなるんだけどね」
ベンチに腰かけて萌乃は言った。
「あれから私は色んな所を回された。文字通り“性奴隷”としてね。玄道会の井桁に気に入られちゃったみたいで。本当に辛かった。もう、言葉にできないくらいに」
「……」
俺は黙って耳を傾ける。萌乃は続ける。
「でも、私は諦めなかった。自由になることを。それから逃げ出す機会をずっと窺ってた。」
「……そうか」
「うん。それで3年くらい経った頃に運良く隙を突いて逃げ出せたから、あちこちを逃げ回った末に別府まで来たってわけ」
そう言って彼女は笑った。その笑顔にはどこか陰りがあるように感じられたが、それでも彼女の表情はとても晴れやかだった。きっと今まで辛い思いをしてきたに違いないだろうに……そんな俺の心を見透かしたように萌乃が言う。
「あ、でも今は全然平気だから! こうしてお兄ちゃんにも会えたし!」
「……そうか」
俺は少し安堵した。だが、同時に疑問に思ったことがある。何故彼女は旅館の仲居をやっているのかということだ。当時と同じようにまた商売をやっているよりかはマシだろうが……それでも当時は表の仕事がなかなか見つからなかったものだ。それにさえありつけていれば、あんな惨めな思いをせずに済んだであろう。
「なあ、萌乃」
「ん? 何?」
「お前さ、どうしてこの旅館で働いてるんだ?」
「ああ、それはね」
萌乃はそこで一旦言葉を区切ると、昔と同じ笑顔を見せて言った。
「杵山組の組長さんに紹介してもらったからだよ!」
「……え?」
俺は思わず耳を疑った。今、彼女は何と言った? 杵山に助けてもらったと? つまり……あの組長の仲介によって今の職を得たというわけか!? そんな馬鹿な! いや、でも……あの御仁は権威主義者に見えてどこか人情家っぽいし…それに別府は玄道会と敵対しているから、有り得ない話でもないのだろう。
「そうか。お前が別府に逃げ込んだのは、ここを仕切ってる杵山組が玄道会と喧嘩してるからだな。とりあえずそのお膝元に居れば井桁の手は届かねぇってわけか」
「うん! 敵の敵は味方ってやつ! それに杵山組の組長さんは凄く良い人なんだ! 私の境遇に同情してくれて、住む場所や食事まで提供してくれたの!」
「へぇ……」
あの組長が。人は見かけによらないものだ。少し感心したように頷いた俺に、萌乃は続ける。
「それでね、私はここで住み込みで働かせてもらうことになったんだ」
「そうなのか?」
「うん。最初は大変だったけど……今は何とかやってるよ!」
そう言って笑った萌乃の表情は幸せに満ちている。本当に良かったと思う。
「そうか」
俺は安堵の溜息を漏らした。あれからずっと萌乃への贖罪が胸の中を占めていた。彼女を地獄に叩き落としてしまったのではと後悔の日々だった。
正直な話、東欧で傭兵をやっていたのは、そうした罪の意識から逃れるためでもあった。銃弾の飛び交う荒野を駆けていれば、少しは気が紛れるのではないかと思った。
だが、それでも心のどこかには萌乃のことが引っかかっていた。だからこそ俺は彼女に会いたかった。そして今、その願いが叶ったのである。
5年ぶりに会った“妹”はあの頃よりだいぶ大人になっていた。されど、その笑顔は昔と全く変わらない。それがたまらなく嬉しかった。
「お前が幸せにやってるようで何よりだぜ。遠路はるばる九州まで来た甲斐があったってもんだ。本当に良かった」
「ところでだけど、お兄ちゃんはどうして別府に? お仕事か何か?」
「あ、それは……」
俺は答えに窮した。こちらの身の上をどう伝えたものか、実に悩ましかった。「殺し屋になった」などとは口が裂けても言えない。けれども妹を相手に微塵も嘘をつくことができなかった。萌乃にこれ以上の裏切りを重ねてはいけないと心によぎったのである。
「……俺は今、東京でヤクザをやってる。中川会って組織で会長の御用聞きをな。九州へはちょっとした野暮用で来た」
「ヤクザ……?」
萌乃は瞳を大きく見開いた。無理もないだろう。ヤクザと言えば世間一般では残虐非道な存在として認知されているのだから。
少し前まで彼女を苦しめていたのもヤクザである。きっと暴力団の存在は最も嫌っているだろうに。第一に俺が別府を訪れたのは「妹を探すため」ではなかったのだ。
失望を買うのを承知で答えるしかなかった。
「まあな」
俺は曖昧に頷いた。すると萌乃は目を輝かせて言ったのである。
「凄いね! お兄ちゃん!」
「え?」
俺は思わず面食らった。この世界へ飛び込んことを「凄い」と褒められたのは初めてだったからだ。普通は怖がるものだと思うのだが……。
そんな俺の思いを察したのか、萌乃は続けた。
「中川会っていえばさ日本で一番か二番かくらいに強い所だよね? そんなところでボスの側に仕えてるなんて! お兄ちゃんも出世したじゃん!」
確かにその通りではあるのだが……それでも褒められるというのはむず痒いものである。そんな俺に構わず萌乃は続ける。
「お兄ちゃんのことだから、義理人情に篤い昔気質の侠客になったんでしょ。誰かのために戦う、かっこよくて凄い人だよ!」
「……そんな偉いもんじゃねぇよ」
「ううん。褒めさせてよ。お兄ちゃんが優しくて良い人だってこと、私は知ってるからさあ。自信を持ってよ。そんなに暗い顔なんかしないでさ」
「会長の、ボスの命令なら、どんなに酷いことも平気でやっちまう男だぞ。そんな俺でも、お前は褒めてくれるってのか?」
「大丈夫。お兄ちゃんがどんな人でも、私の中ではたった一人のお兄ちゃんだからさ」
俺に微笑みを向けた後、萌乃は言った。
「きっと私以外にもいるはずだよ。お兄ちゃんの優しさに救われた人が。私みたいな困ってる人を放っておけない、お兄ちゃんのそういう所を必要としてくれる人は必ずいるから」
俺は思わず涙腺が緩みそうになった。彼女の言葉が俺の心に深く染み渡るようであった。
「ありがとな」
俺は素直に礼を述べた。すると萌乃は嬉しそうに頬を緩めた。その笑顔はあの頃と全く変わらない……心からそう思ったのだった。
「お兄ちゃん。良かったらさあ。連絡先を教えてくれない?」
「えっ」
「また会いたいから」
「あ、ああ……」
俺は戸惑った。いくら心が通じ合った仲とはいえ、俺のような裏社会の人間とあまり深く関わりを持つのは良くないのではないか?
そう考えたが、彼女の笑顔を見ると断りきれない。
「ああ。分かった」
俺は携帯電話を取り出し、萌乃に電話番号を教えること互いの連絡先を交換した。萌乃は少し照れくさそうにしていたが……やがて意を決したように口を開く。
「お兄ちゃんにお願いがあるんだ」
「……何だ?」
俺は身を固くした。やはりヤクザと関わることに恐怖心を抱いているのだろうか? そんな俺の思いとは裏腹に彼女は言った。
「もし良かったらでいいんだけど……その、お兄ちゃんの名前を教えてくれないかな」
ああ。そういえば、萌乃には俺の名を教えていなかった。5年前に一緒に住んでいた頃も『お兄ちゃん』と呼ばせるだけで俺のことはあまり伝えなかったのだ。
「ああ。俺の名前は、あさ……」
そう、口走りかけた時。
「おーい! 萌乃ぉ!」
遠くで彼女を呼ぶ声が聞こえた。見れば制服姿の男が立っている。この旅館の若手板前だろうか、俺と同じくらいの年恰好である。
「健一郎さーん! こっちこっち!」
萌乃に名前で呼ばれた男は、こちらへと駆けてきた。そして俺を見るなり怪訝な表情を浮かべた。
「萌乃……誰? この人は?」
「私のお兄ちゃんだよ」
「……え? あ、お兄ちゃんって、前に萌乃のことをヤクザから助けてくれたっていう?」
「うん」
「じゃあ、この人がお前の恩人か……!」
なるほど。どうやら過去の話は萌乃の口から聞いていたようである。健一郎なる男はハッとして俺に深々と頭を下げた。
「萌乃のことを助けてくれて本当にありがとうございました! 何とお礼を申し上げたら良いか……!」
「あ、いや……頭を上げてくれ」
俺は慌てて繕った。救ったなどと堂々と誇れる立場ではない。そんな俺に構わず彼は続けた。
「萌乃が酷い目に遭ってた時に助けてくださったと聞いてます。本当にありがとうございます!」
「……ああ」
「俺、萌乃とお付き合いさせて貰ってる木村健一郎って言います。お兄さん……ああ、そう呼ぶのはマズいかな?」
「ど、どうとでも呼んでくれよ。あんたがこいつの彼氏だって言うならな」
「じゃあ、そう呼ばせてもらいます! お兄さん! 改めて、5年前に萌乃のことを助けてくださって、本当にありがとうございます!」
「だから、頭を上げろっての」
俺が適当に頷くと、健一郎は言った。
「あの……失礼ですがお名前は? 実は、来年の春に萌乃と結婚式を挙げようと思ってるんです。よろしければお兄さんにもお越し頂きたくて」
「え? ああ……」
さてさて。何て答えようか。俺は少し悩んだ。
「……朝比奈隼一だ」
結局、定番の偽名を名乗った。萌乃は良いとしても健一郎がこの偽名を信じたかどうかは怪しいものだ。だが……それでも構わなかった。これから俺がやろうとしていることはヤクザとして血と硝煙にまみれた修羅の道を突っ走るも同然なのだから。
5年ぶりに会った妹に、これ以上の火の粉はかけられない。
「じゃあな。萌乃。健一郎君と幸せにな」
俺は踵を返して旅館を出た。背後から呼び止められたような気がしたが「おう」とだけ答えてそのまま歩みを進めた。
「……」
寒空の下で昇ってきた朝日を見ながら煙草を吸う。これで良い。これで良かったのだ。何度も自分に言い聞かせた。心に蓋をするように。そうでもしなければ未練に駆られて、もっと萌乃との時間を楽しみたいと思ってしまうだろう。決まっている。もう萌乃は裏社会と関わらずに生きてほしい――。
程なくすると華鈴が外に出てきた。彼女は俺が先に建物から出ていたことに驚いたようだ。
「麻木さん! まったく! 先に上がったんならロビーで待っててよぉ! てっきり長湯してるもんだと思ったじゃない! 変な人なんだからぁ!」
「ああ。ちょっとな……」
少し虚ろな瞳で返事をした俺を見て、きょとんとしていた華鈴。だが、すぐに分かったようだ。駅へと向かう道を歩きながら、彼女が声をかけてきた。
「話、聞いてあげようか?」
やっぱり華鈴には敵わない。俺は苦笑しながら語りを始めた。
「……実はな」
大まかに話すつもりが、気付けば俺の過去を含めて全てを彼女に打ち明けてしまっていた。それは相槌上手な華鈴の聞き方がそうさせるのだろうか。歩いた後に西口広場に近づいて話が終わりに差し掛かると、懐の広い看板娘は「然もありなん」とばかりに言うのであった。
「まあ、正解なんじゃない?」
「えっ」
華鈴はあっさりと続ける。
「その子を妹さんと呼んで良いのかは分からないけど。これ以上、ヤクザの世界に関わらないようにっていうあなたの判断は」
「お前もそう思うか」
「うん。だって、それまでヤクザにずっと搾取されてて、そこから逃れてようやく幸せを掴もうとしているのに。下手すれば、過去のトラウマを蒸し返すことにもなりかねないわ」
「そっ、そりゃあいけねぇ!」
「だから偽名を伝えたのは正しい判断だと思うのよ。中川会に“朝比奈隼一”ってヤクザは居ない。その娘としても殺戮兵器、麻木涼平の妹って事実に翻弄されなくて済むから」
「さ、殺戮兵器って……!」
「冗談よ。でも、カタギの人からすればあなたはそう見えるってこと。人を殺したことがある奴なんか異常者でしかないんだから、あたしを含めてね」
「そ、そうか……」
あまり温かくはない現実が降ってきた気分だ。とりとめのない話を聞いてくれた華鈴の優しさには敬服するしかない。彼女もまた辛いであろうに。
「まあ、罪を背負っていきましょうよ。あたしも、あなたも」
「ああ……」
華鈴の励ましに俺は思い直した。そうだ。萌乃が幸せに暮らしていると分かっただけでも良かったじゃないか。それだけでも救いだと思えるのだから。
「……帰ろうか」
「ええ」
俺たちは列車を乗り継いで東京へと戻った。別府の中川会入りとユカの娘の保護。この二つの仕事は完全に達成されたのである。
後日、娘が戻って来たことにユカからは泣いて感謝を伝えられた。当分は長男ともども児相に面倒を見て貰いつつ、区の生活支援を受けながら昼の仕事への就職を目指すという。
一方でユカと子供たちを虐げ、あまつさえ娘を海外組織へ売り飛ばそうとした笹田については、杵山組がきっちりと落とし前をつけた。杵山の領土を荒らした笹田の末路は語るに及ばないだろうが……その件で杵山側から少し気になる情報を得た。
娘を海外に売ろうとした理由について、奴はどんなに凄惨な拷問を受けても最後の最後まで口を割らなかったというのである。取引の現場にタイ人たちはバーツ紙幣を2億枚分も持ってきていた。それはすなわち、あの加奈という赤ん坊が日本円にして1億円で売られようとしていた衝撃の事実を示す。
赤ん坊ひとりにどうしてそこまでの大金が……?
理由が分からなかった。
ともあれ、加奈は無事にユカの元へ戻ったのだから一先ずは良しとしよう。なお、ユカが得るはずだった分の生活費については杵山組が笹田からきっちり回収してくれた。彼らにしてみれば会ったことも無いユカのために、随分と気前の良いことだと思った。
そんな杵山は暮れに中川会の直参盃を呑む流れとなった。媒酌人は勿論のこと俺である。「麻木涼平はキングメーカーにでもなったつもりか!?」という批判が飛んできそうだが、俺にとっては些末事。
何故なら玄道会の笹田を型に嵌めたことで、向こうの会長が激怒しているというのだ。玄道会五代目会長、井桁久武。俺にとっても因縁深い人物である奴は、総本部長の殺害および笹田の拘束が杵山組単独の仕業ではないことにどうやら気付いているらしい。
そして、各方面にこんな命令を放ったというのだ。
『杵山組の背後で事を仕組んだ中川会の人間を炙り出せ! うちのシノギを邪魔したツケをたっぷりと払わせてやれ!』
あの男が本気を出した以上、真相が明るみに出るのは時間の問題。俺は沖縄のみならず、九州にも宿敵を作る流れになりそうだ。悲しいかな、これが任侠渡世の掟である。
「やれやれだ……」
俺はひとり、溜息をついた。ヤクザの世界で生きることを選んだ以上は仕方のないことだ。だが……せめて平穏な日常を送れる程度には生きていきたいものだが。
そんな俺の願いが叶う日は来るのだろうか。
無事に別府を中川会の傘下に入れたとも思いきや、九州ヤクザに睨まれた涼平。裏社会の摂理によって過去の因縁が燃え上がる。争い合う男たちはどこへ向かうのか……?