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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第11章 親分たる器
185/252

親と子のすれ違い

 2004年12月3日。


 この日の午後、中央区銀座3丁目の眞行路一家本部は多くの組員たちでごった返していた。村雨組との講和成立に伴い、横浜で敵方の捕虜となっていた連中が解放され、帰ってきたのである。


「姐さん。申し訳ございませんでした。敵の罠に嵌まった挙句、総長をあんな形で……」


 平身低頭して詫びるのは若頭補佐のわらび剣斗けんと。彼は今回の戦争において突撃隊長を務めていた。組の主力を率いて大和方面に向かっていたところ、実は海上に居た村雨組にまんまと裏をかかれて総長を討ち取られたというわけだ。


「あんたが謝ることじゃないよ。顔を上げな」


「あ、姐さん……」


「そんなことより早いとこ休んでおくれ。横浜は寒かったろ。2日も警察サツ留置場ぶたばこに閉じ込められてたって聞いたよ」


 蕨は村雨組の息のかかった神奈川県警によって身柄を拘束されていた。他にも横浜へ攻め入った眞行路一家組員の大半が逮捕され、近隣自治体の警察署に押し込められていたという話である。一昨日の眞行路一家の事実上の“降伏”後、彼らが即時の釈放に至らなかったのは村雨組サイドによる恣意的な圧力があったゆえのことであると俺は邪推しているのだが。


「蕨。あんたにも辛い思いをさせたね。だけど、生きて帰ってきてくれてて良かったよ。眞行路一家の未来はあたしたちが作っていくんだ。いいね?」


「姐さん!!」


 感激のあまり泣き崩れた蕨。この男は輝虎と同心して総長を追放する謀反計画に絡んでおり、それは淑恵も既知の話であるはずなのだが――彼女が追及することは無かった。まあ、謀反も何も当人が討たれたとなっては罪を問う意味も最早無いのだが。


「姐さん、お怪我は?」


「ああ。あたしは平気だよ」


「いやあ、良かったです! 姐さんにもしものことがあったら、うちの組は終わってしまいますから!」


 恭しく淑恵を気遣う素振りを見せたのは本部長の須川すがわ泰吉たいきち。こいつもまた蕨同様、輝虎の腹心として高虎打倒の機会を狙っていた幹部の一人だ。立場的には輝虎の側近で彼が幼い頃にはお目付け役を担っていたそうなのだが……それではまるで輝虎に統治能力が無いと言いたげな台詞ではないか。


 おそらくは何か言葉をかけようという思いが先行し、よく考えずに口走ってしまったのだろうが、本人が聞いたら角が立つ話。若頭が便所に行っていて不在で良かった。


「須川。あんたもご苦労だったね。大変だったろう」


「いえ、姐さんこそ」


「ところで新見にいみはどうしたんだい? 姿が見えないが?」


「ああっ、ええっと……たぶん横浜に残ってると思います。法律関係の事務処理をやってるんでしょう。奴はそう言うのが得意ですからねぇ」


「あいつはパクられなかったのかい?」


「はい。そうだと思いますよ」


 2人の話に出た新見とは新見にいみ晴豊はるとよのこと。眞行路一家では若頭補佐を務めており、蕨、須川と並ぶ幹部の一人。村雨組の強襲時には偶然にも横浜市街へ出ていたために難を逃れ、その後も警察の逮捕を免れたそうな。


「あいつは昔からここぞって時には運の良い子だったからねぇ」


 帰還が遅れている幹部を淑恵はそう評していた。


 さて。彼らの会話を俺が何故に聞いていたかというと、俺が眞行路一家の屋敷に居たから。赤坂の中川会総本部で行われる講和文書調印式に先立ち、銀座を訪れていたのである。


 勿論これは私用ではなく会長の命令。此度、中川会は眞行路一家と村雨組の和平の仲裁役を担う。名目上は会長の中川恒元が両者の和議を取り持つのだ。


 銀横戦争の発生直前、恒元は眞行路高虎を絶縁に処しているため、仲裁を行うことには最高幹部たちから異論が噴出したが、恒元は部下たちの反対を押し切った。彼としては「絶縁に処したのはあくまでも総長の高虎個人であって眞行路一家自体は破門状態に留めている」との理屈である。少々屁理屈にも思えなくも無いが、なかなか巧妙なロジックだと思う。


 閑話休題。俺が腕時計を気にしながら廊下で待っていると、奥の部屋から輝虎が重い足取りで歩いてきた。


「い、いてぇ」


「おい、遅いぞ……って。どうしたんだよ。その手」


「見りゃ分かんだろ。今しがた小指を詰めたんだよ」


 苦悶に歪む輝虎は左手を押さえている。包帯でグルグル巻きにされた手指の小指部分にはうっすらと赤い色が滲んでおり、ちょっと短くなっている。


「何でまた」


「そ、そうでもしなきゃ……ケジメにならねぇだろうが……クソがっ!」


 なるほど。これより輝虎は眞行路一家の代表者として恒元に挨拶へ行くのだ。眞行路一家の破門を解き、組織への復帰を許してもらうために。


 おそらくそこで彼は父のこれまでの乱暴狼藉を詫び、恒元に対するより一層の忠誠を誓うのだろう。それには誠意を形にして示さねば何も始まらない。


 指を詰めるのは当たり前といえば当たり前だった。


「俺が頭を下げるだけで眞行路が中川会に戻れんだ……そう考えたら安いもんだぜ……は、早いとこ行こうぜ……」


 こちらとしては何も言えなかった。ただ黙って頷くだけしか出来なかったのだ。何かしら適当な言葉でもかけられたら良かったのだろうが、あいにく俺にはそのような粋な計らいをする美意識が無かった。


 ただ、輝虎を車に乗せ、総本部を目指すだけ。道中では気まずくなるものと踏んでいたが、思いのほか雑談が巻き起こった。


「……はあ。こいつが済んだら、俺は眞行路一家の五代目か。やっとここまで来たんだって感覚だわな」


「そうかい。おめでとさん。あんたも大変だなあ」


「ったく、他人事みたいに言いやがって。お前も偉大な親を持つ身なんだから、ちったぁ俺の苦労を分かち合えってんだ」


「へへっ。俺の親父はお前さんのと違って大人しかったらしいからな。銀座の猛獣と一緒にされちゃあ困るぜ」


「……ふんっ! 三次の組長ふぜいが!」


 輝虎は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。俺は彼の横顔を眺めながら思う。この男のこういうところが鼻に付くのだと。


 されど、今は自然と嫌な気がしない。それには隣の御曹司が家族と組のために指を詰めた直後であることが大きく関わっている。打算はあるにせよ、常に自分本位で度胸にも乏しかった輝虎のことを少しだけ見直したような心地だった。


「さて。着いたぜ」


 執事局の車で総本部に到着したのは午後2時過ぎ。講和文書の調印式は3時からである。


「送迎、感謝するぜ。麻木次長」


「お礼なら会長に言うこったな。本来なら破門したとこの若頭カシラ相手にここまでの計らいはぇぞ。全てはあんたへの期待の表れだ」


 そうは言ったが、実のところは輝虎の身柄を保護する意図もあった。


 眞行路一家が戦争に負けた――この事実は裏社会を激震させた。とりわけ総長の高虎が討たれたことは衝撃的であり、対外戦争では歴戦無敗を誇った最強親分の敗北に日本中が驚愕したことと思う。一方、それは今まで銀座の猛獣の侵略や横暴に苦しめられていた者たちにとっては、復讐を遂げるまたとない好機だった。


 喧嘩では負け知らずの高虎が討たれたことで、眞行路一家は大きく動揺。その権威に綻びが生じたのは言うまでもない。誰もが「今なら仕返しができる!」とばかりに勢いづき、統治能力が減衰した眞行路の各地のシマのあちこちで反乱の火の手が上がっている。


 そんな中で跡目継承者の輝虎が講和文書に署名するため総本部へ赴くとなれば、彼の命を狙う刺客が襲ってこないとも限らない。そうなれば眞行路一家は今よりも更に窮地に追い込まれることになる。そこで俺が護衛として付き添うことになったのだ。


「会長はお前が忠臣として組織に尽くしてくれることを期待している。これからの働きにな。信頼を裏切らねぇよう全力でお仕えしろ」


「へへっ、分かってるって。それより早く中に入ろうぜ。眞行路一家が中川会の直参に戻っちまえば誰も手出しできなくなるんだからよ」


「黙れ。調子こいてんじゃねぇよ」


 打算に満ちた下品な笑みを隠そうともしない御曹司の尻を叩き、俺たちは屋敷の中へと足を踏み入れる。待機室で輝虎を待たすこと50分後。ようやく儀式が始まった。


「ええっ。眞行路高虎が嫡男、輝虎でございます。この度は父の非礼の数々、大変申し訳なく思っております。ここにお詫びさせて頂きたく存じます。誠に申し訳ございませんでした」


 総本部の大会議室にて執り行われた講和文書の調印式は厳かな雰囲気だった。まずは輝虎が口上を述べて謝罪し、続けて村雨組の代表者が謝意を示す。その後は双方で署名と押印を行い、それらを立会人の恒元が見届けるという流れだ。


 この日、横浜から遣わされた使者は村雨組若頭補佐の柚月ゆづきつかさという男。物静かな空気感を漂わせる小柄の美丈夫だった。俺自身は大して記憶に無いのだが、若頭補佐を務めているからには6年前から組に在籍していたのだろう。


「……我ら村雨組は眞行路一家との和睦に合意致しました。今後、村雨組は眞行路一家および中川会に対して5年間は敵対的行動を行わないことをお約束いたします。これらは全て村雨組が当代、村雨耀介の意思によるものであると宣誓いたします」


 柚月は文書の内容を読み上げた。その口調には感情が籠もっていなかったが、それでも彼は輝虎に対して恭しく頭を下げて謝意を示すことを忘れなかった。


「ありがとうございます。こちらこそよろしくお願い致します」


 対する輝虎も深々と頭を下げた。そして両者による会談は滞りなく終わり、講和文書は無事に調印された。

 かくして眞行路輝虎は中川会の直参へ復帰するものと思われたが……。


「ううむ、どうにも手ぬるい」


 柚月が帰った後、恒元が思いがけないことを言い出したのであった。


「このまま眞行路を組織へ戻して良いものか。あっさり直参の地位を与えては他への示しが付かない気がする」


「な、何を仰いますか! 会長! 俺はこうして指まで詰めたんですよ!」


「それは承知している。だが、眞行路の当代はまだ高虎だ。その高虎が絶縁になっている以上、眞行路を組織へ戻すことは出来ん」


「そ、それって……どういう……」


 狼狽する輝虎に対し、恒元は言った。


「高虎の眞行路一家を直参に復帰させるのではない。お前が新たに総長となった眞行路一家を直参として迎え入れるのだ。何をするにも、まずは眞行路一家の五代目を継いでからだ」


 現時点での中川会復帰は認めないというのだ。これには俺たち執事局の面々も驚かされた。


「おいおい! マジかよ!?」


「ここへ来て掌返しか、会長もえげつないことをするなあ」


 助勤たちが互いに顔を見合わせて動揺している。それは俺も然りだ。会長の気まぐれは今に始まったことではないが、まさか当日になってこんなことを言い出すとは。


「……」


 ざわめきの中にあって、ただひとり無表情を貫く才原局長の隣で、俺は恒元の真意を測りかねていたのだった。


 無論、最も困惑に苛まれていたのは輝虎である。彼はしばらく呆然とした後、額に脂汗を滲ませながら恒元に訴えた。


「か、会長……ど、どうか考え直してくださいませ! 俺は親父とは違うんです! 中川会のためなら命も捧げる覚悟でございます! ですから、どうか……!」


「駄目だ」


 輝虎の訴えは無情にも一蹴された。


「我輩は復帰に反対しているわけじゃない。復帰するにあたって踏むべき順序を踏めと言っているんだ。お前が眞行路一家の五代目となった上で、改めて中川会へ復帰すれば良かろう」


「そ、そんな! 五代目を継ぐと言ったって……謹慎期間が明けるまで1ヵ月はありますよ!? それまで眞行路には野良でいろと仰るんですか!?」


「そうだ。大体、組織を離反して自ら野良になったのは眞行路だ。情勢が一変して苦しくなったからと言ってノコノコ戻ってくる方がそもそもおかしいだろう」


「し、しかし! それじゃあ話が違う!!」


「お前がどう言おうが、我輩は“四代目眞行路一家”を直参に復させるつもりは無い。盃をやっても良いのは“五代目眞行路一家”だ。異論は認めぬ」


 輝虎はがっくりと肩を落とした。彼としては今すぐにでも中川会の支援を必要としているのだろう。銀横戦争への出費で組の財政は破綻寸前、挙げ句、高虎の敗北に付け込んで他組織が所領に攻め込んできた。中川会に戻ればその問題に悉く片が付く。ゆえに輝虎は今日この日をとても待ち望んでいたわけだが――まんまと裏切られることになってしまった。


「輝虎よ。お前は先ほど『指まで詰めた』と言ったが、本当にそうしたのかね?」


「えっ……」


 恒元が意味深なことを言った途端、輝虎の肩が大きく震えたのが分かった。彼の表情は明らかに動揺していた。それを見逃さなかった恒元は畳みかける。


「もし仮に、その左手がまやかしだとしたら。お前は我輩を欺いたことになる。どうなのだね!?」


「あ、あの……それは……」


 輝虎は額に脂汗を滲ませて返答に窮した。その反応を見た恒元はニヤリと笑う。


「どうやら図星のようだな」


「……っ!」


「お前は本当に指を詰めたのか? いや、そもそも指を詰める意思など無かったのではないか? 小心者のお前に指詰めなど出来るわけが無い」


「……そ、そんなことは……」


「本当だと言えるのかね?」


「……」


「もし本当に指を詰めたと言うのなら、その証拠を見せてみたまえ」


「しょ、証拠って……」


「決まっているだろう。お前の指だ」


 輝虎は絶句した。さしずめ実際に指など詰めてはおらず、先ほどの痛がる素振りも含めて全てが芝居――まったくもって呆れた奴だ。


「……」


 違った意味で言葉を失った俺。おそらく奴の左の小指は健在だ。指を折り曲げて布で隠し、先端に赤いインクを塗ることでそれっぽく見せたのだ。


 すっかり騙されてしまった。大きくため息を吐いた俺をよそに、饒舌な会長はなおも続ける。


「おかしいと思ったよ。『指を詰めてきた』という割には、詰めた指を持参していないのだからね。お前は我輩に詫びる気など無かったのではないか?」


「ち、違います! 俺は本当に指を詰めて!」


「なら何故に我輩に見せようとしない? まさかとは思うが……本当は小指ではなく薬指だったとか?」


「そっ……!」


 輝虎は絶句した。


 そしてそのまま俯いてしまった。


 もはや言い逃れのしようも無い。恒元の言う通りだ。輝虎は実際には指詰めをせず、詰めたふりをして恒元に直参復帰を認めてもらおうとしていたのだ。


「まあ、我輩も馬鹿者ではない。そもそも指詰めなどどいうヤクザの風習は好かんのだ。その左手についてはそれ以上追及しないでやろう」


「はっ……」


 輝虎は顔を上げた。そんな彼を恒元は冷ややかに見下ろしながら言った。


「やり方はともかく。お前が組と家族のことを大切に想っていることはよく分かった。その心意気に敬意を表して、眞行路一家については何とか助けてやろう」


「か……会長……!?」


「五代目を襲名するまでの間、お前個人を中川会の食客扱いとする。そうすれば眞行路に手を出す輩も少しは減るだろう。どうだね?」


「……はっ、はい! 是非ともお願いいたします!」

 輝虎はその場に平伏した。そして、額を地面にこすりつけんばかりの勢いで声を張り上げる。


「ありがとうございます!」


 そのまま彼は肩を震わせるのだった。


 食客というのは、いわば準構成員である。代紋の使用こそ許されないが、その組織の親分に領地シマ事業シノギの面倒を見て貰える立場だ。


 眞行路一家が直参に復帰するにはまず輝虎が五代目を襲名して新体制を作らねばならないのだが、それには時間がかかる。前の親分が討たれた場合、跡目の継承者が次の親分になる前に謹慎期間を設ける必要があるため、輝虎の五代目総長就任は早くても年明けになってしまうからだ。そうなっては眞行路一家がますます窮するだけ。


 そこで恒元は五代目を継ぐまでの間だけ輝虎に食客という立場で中川会が庇護してやることを決定したのである。


「輝虎。食客になるということは体裁上、所領を組織が支給するということだ。ゆえに眞行路一家の領地はいったん我輩に寄進してもらい、その上で改めてお前に俸禄という形で下賜することになるが……それで良いかね?」


「もちろんでございます!」


「うむ。では、そのように取り計らおう。追ってぎょうしょを書くとしよう」


 眞行路一家の処遇が決まった。当面は食客という形で中川会の庇護下に入る。それに先立って領地をいったん中川に寄進するため、御七卿の括りから外れるのは勿論、明治以来100年以上に渡って続いてきた眞行路による銀座支配の歴史に一度幕が下ろされることになる。


 輝虎としては特に申すことは無い様子。父の敗北で傾いた組を立て直し、守ってゆくためにはやむを得ないと考えたのだろう。


「おいおい……食客になるってことは、眞行路一家が潰れるってことだよな!?」


「いや、潰れるわけじゃない。シマをいったん中川会の領有にするだけだ」


「それでも大ごとだぜ。何せ、こないだまで御七卿だった眞行路が単なる組と変わらねぇ扱いになっちまうんだからよ」


 例によって無表情な才原を尻目にまたもや助勤たちは騒いでいた。眞行路は中川会においては名門の中の名門の組。昔から聞き馴染んできた組が大きく変わるのだから、その動揺は当然といえば当然であった。


 中川会はおろか関東ヤクザの歴史をも覆す大改革において、最も得をするのは恒元である。御七卿のひとつであった眞行路一家を事実上自らの制御下に置いただけでなく、その力を大きく削ぐことができるわけだから。まさにしてやったりという表情を見せていた。


 順当な直参復帰を認めなかったのは、この流れに持ち込むためか――。


 流石は中川恒元。話の出し方が巧妙すぎる。関東の王を自称するだけのしたたかさに、俺はいつも以上に感心していたのだった。


 帰り際、俺は輝虎に声をかけた。


「良かったなあ。何はともあれ、これで眞行路が中川会に復帰する道筋はついたわけだ」


「……ああ。そうだな。恒元様には感謝してもしきれないぜ」


「しっかし、大丈夫なのか? シマをいったん返上するとなりゃ組の奴らが何て言い出すか分からんぞ?」


 俺がそう言うと、輝虎は自嘲気味に笑った。


「だよな……殊に母さんは猛反対するだろうな」


 今回の決定については淑恵に一切の相談をしていない。組の威光と体面を何より重んじる彼女が異論を唱えるのは明白であった。


「けど、説き伏せて見せるさ。何だかんだ言って母さんは賢い。組の皆の事を本気で考えるなら俺のプランに乗ることが正しいって分かってくれるはずだ」


 そうだと良いのだが。土壇場になって決定を覆されるようなことになっては困る。組織改革という意味で、眞行路一家の“浄化”は欠かせないのだから。


「……万が一、説得できねぇって時には俺に話してくれ」


「えっ、何をする気だ?」


「俺が代わりに説得してやる」


 輝虎は目を大きく見開いた。そして、すぐにフッと笑った。


「ああ……そうさせてもらうぜ。ありがとな、麻木次長」


 俺はただ頷いただけだった。俺の云う“説得”とは言葉で諭す行為ではない。武力をちらつかせて脅し、それに従わない場合は実力行使に出る誘導工作だ。


 その意味を輝虎は分かっているのか――少しもどかしい気持ちになったが、すぐに要らぬ心配であったと気付かされた。


「大丈夫だよ。母さんも話せば分かってくれる。あなたの手は汚させないさ」


 輝虎は俺にそう告げたのだった。


「そうか……なら良いんだが」


「おう。俺としてはすぐにでも組を会長の預かりにしてもらいたいと思ってる。親父が討たれたおかげで各方面の外敵が勢いづいてやがるからな」


 銀横戦争の直前、眞行路高虎は日本のあちらこちらへ出かけては襲撃と略奪を繰り返し、領地を拡げていた。そのせいで多方から敵意や恨みを買っている。ここ最近で獲得した土地の小規模所帯が高虎の敗北で眞行路一家が動揺した隙を狙い、武装蜂起を企てているのだとか。


「まあ、確かにそういう所の跳ねっ返りも支配者が中川会に代わったとなりゃあ一瞬で大人しくなるだろうよ。だが、良いのか? いったん会長に寄進したシマが、また戻ってくるとは限らねぇぜ?」


「構わないさ。銀座を仕切る権利さえ保証してもらえるならな」


「……そうかい。そいつを聞いて安心したぜ」


 場合によっては眞行路一家にとってだいぶ不利な状況となるかもしれないが、輝虎は承知の上と見た。


「んじゃ、俺は帰るぜ。往路の露払い感謝するぜ。ありがとな」


 そう言って御曹司は去っていった。俺はその後ろ姿を見送りながら思うのだった。眞行路が中川会に戻ってくるのはまだ先になるであろうが、それを機に中川会の組織改革を本格的に始められたら良いと――。


『眞行路輝虎を中川会の食客とする』


 このことを内外に示す御教書が出されたのは翌々日の12月5日のこと。同日、中川会では別の重要行事が行われようとしていた。


東西とざい東西とうざい~!」


 軽快に打ち鳴らされた拍子木と共に、野太い男の声が響く。場所は総本部2階の大広間。畳敷きの床には所狭しと座布団が並べられ、そこに着物姿の男たちが勢揃いしていた。


「草木枯れゆく候ではございますが、皆様お揃いのこと誠に祝着至極に存じます。さて本日はお日柄も良く、この良き日に中川会の新たな力が加わりますことを盛大に祝し、そのご健勝とご発展をお祈り申し上げまして、一席の宴を開かせていただきます」


 口上を述べた男に対し、大広間に並ぶ男たちが一斉に座礼をする。部屋の一番奥には神棚を模した祭壇がある。そう――今日は中川会が新たな直参組長を迎えるさかずきの儀式だ。


「まずは、盃の儀に先立ちまして、新しき直参として加わる英気溢れる若者たちをご紹介させていただきます」


 司会役を務めるのは酒井義直。俺の部下である酒井の父親にして、酒井組の組長だ。彼の言葉と共に広間の中央に座る三人の男たちが挨拶口上を述べる。


「手前は『谷山組』を名乗ります、谷山たにやま 大輔だいすけと申します。若輩者ではありますが、何卒よろしくお願いいたします」


「手前は『岡沢組』を名乗ります、岡沢おかざわ雅樹まさきと申します。未熟の身ながら精進に励みますので、以後お見知りおきを」


「て、手前は『三沼組』を名乗ります、三沼みぬま健太郎けんたろうと申します。ご指導鞭々、何卒よろしくお願い申し上げます」


 口々に声を発した3名は、いずれも横須賀のヤクザたち。古巣を割って出る形で中川会へ加わった連中だ。


「それでは、盃の儀を執り行います。媒酌人を務めまするは……」


 酒井義直がそう告げると、大広間に集まった構成員たちは一斉に頭を垂れた。そして、その中央をひとりの男が進み出てゆく。


 俺だ。


「……麻木涼平殿」


 紋付袴に身を包んだ俺は、祭壇の前に置かれた座布団へ腰を下ろした。


「それでは麻木殿、盃のご支度を」


 酒井組長の言葉を受け、俺は盆の上に並んだ3枚の白磁のさかずきを神棚へと掲げる。そして、そこに御神酒を注ぐと、その盃を持って後ろを振り返る。


 そこには珍しく和装姿の恒元が。先ほどの3人と向かい合う形で祭壇から向かって右側に座っていた。俺は手筈通りに恒元の前の高坏たかつきに盃を置き、谷山たちとの中央に正座した。


「中川会三代目、中川恒元公に申し奉り候」


 事前に覚えた台詞でそう呼びかけると、全員が一斉に頭を下げる。


「本日ここにおわします3名の者たちを新たな直参として加える儀、お許しいただきたく候」

 俺はそう言って一礼した。すると、恒元は大きく頷いて応じる。


「承りて候」


 さて。ここからが本番。いよいよ盃の下賜だ。

 失敗は決して許されない一発勝負。ここでしくじれば天下に轟く恥となってしまうため、絶対に粗相はできない。


 何度も練習したのだから、きっと大丈夫だ――そう自分に言い聞かせながら、御神酒が入った徳利を手に取った俺。


 考えてみれば不思議な光景だ。よもや関東最大の暴力団、中川会の直参盃の媒酌人を自分が務めることになろうとは。どうしてこんな流れになったのか?


 それは昨日に遡る。夕食を終えた後のことだった。


「えっ!? 俺が連中の媒酌人をやるんですか!?」


 会長に執務室に呼び出されて話を聞いた瞬間、声が裏返った。


「そうだ。谷山、岡沢、三沼の3名の媒酌人をお前に務めてもらいたい。ちょうど良い機会ではないか」


「ま、待ってください! どうして俺が!? 儀式を取り仕切った経験も無ければ、そもそも直参の組長ですらないってのに……!」


 翌日の盃の儀式で媒酌人を務めるよう命じる恒元。何の冗談かと思って戸惑ったが、こちらの困惑をよそに会長は本気だった。


 媒酌人と言えば極道社会においては渡世の親以上に重要な存在。事実上の後見人であり、その威光には渡世に在り続ける限り平伏さねばならない。時には親分以上に敬意を払われることもあるという大役だ。


「お、俺はそんな重要な役を担えるような人間じゃないですよ! 谷山たちより二周りも年下!ただのチンピラですぜ!?」


「キャリア的には確かに浅いが、涼平は我輩の側近だ。現にあの3人はお前が引っ張ってきたわけだし。血筋的にも何ら問題はあるまい」


「まあ、媒酌人ってのは本来なら加入希望者をその組に紹介した人間が務める習わしって聞きますけど……でも……」


「涼平よ。これはお前に経験を積ませるためだが、組織のためでもあるのだぞ」


「……組織の?」


 恒元は頷いた。


「お前が媒酌人となったからには、谷山たちはお前を我輩と同様に終生敬ってゆく義務を負う。それは分かるな」


「は、はあ……」


「つまりだ。お前は直参組長より上の立場になる。我輩直属の執事局が直参より格上に立つことが証明されるわけだ」


「……っ!」


 俺は思わず息を呑んだ。言われてみれば、確かにその通りだった。俺が谷山たちの媒酌人となれば、谷山たちは俺の影響下に――すなわち彼らの組は執事局の下に置かれるということ。


 直参組織を統制するという点では非常に画期的なモデルケースとなろう。恒元は鼻を高くしながら言ってのけた。


「執事局は直参よりも優越した存在である。このことを広く知らしめるにはちょうど良い機会だ。勿論全ての直参を今すぐそうできるわけじゃないが、少なくとも谷山組、岡沢組、三沼組はこちらへ組み込める」


 恒元が見据えているのは将来的な御七卿の切り崩し。仮に彼らと武力で争うことになった場合、会長が直接動員できる兵力は多ければ多いほど事がスムーズに運ぶ。直参組長の子息を執事局助勤として働かせる人質戦略に加えて、今回の盃を利用した戦略、この二本柱で会長派の組をどんどん増やしていこうと恒元は語った。


「というわけで涼平。よろしく頼んだぞ。谷山たちとの盃は明日の午前11時を予定している。それが終わり次第、昼食会だ。明日は過密日程だな」


「あの、媒酌人っていうと服装は着物ですよね?」


「そうなのだよ。あの息苦しい紋付袴を着なくてはならんのだ。我輩も全ての儀式を洋風で行えたら良いと思っているのだが、他所への手前そうにもいかん」


「着物ですか……俺、持ってませんぜ?」


「大丈夫だ。既に作らせてある。お前の背丈は概ね把握しているから採寸についても問題なかろう」


「あ、ありがとうございます」


 思わぬ形で大役を仰せつかった俺。その日の深夜に組織お抱えの呉服屋から届いた黒紋付を試着して「完全に合ってる……」と驚嘆し、段取りなどを軽く説明され、流されるまま本番に至るわけだ。


 俺は深呼吸をする。


 そして、酒の入った徳利を高々と掲げ、恒元の前に置かれた3枚の盃に注いでゆく。すべて一定量まで注ぎ終わったところで司会が語りをかけた。


「盃は親から子へと与える仁の施しであり、子が親に立てる義の誓い。まずは親である恒元公より盃を頂戴頂きたく存じます」


 恒元は酒井組長の口上に従って、高坏の上から1枚目の盃を持ち上げる。そして、それに口を付けて左脇に置かれた盆の上に乗せる。続いて2枚目、3枚目と同じようにして口を付けては盆に乗せていった。


 会長の一連の所作が終わると俺は盆を手に取り、会長の前に平伏す谷山、岡沢、三沼の前の高坏へと盃を乗せる。


 そこで酒井組長が口を開いた。


「任侠渡世は修羅の道。親への恩義を忘れたる不忠者は、命をもってその罪を償うさだめなり。そのお覚悟がおりかな?」


 酒井組長はそう言うと、谷山たち3人に視線を送る。それを受け、彼らは一斉に答えた。


「無論にございます!」


 答えを聞いた酒井組長は彼らに言った。


「それでは、これより申します言葉を私の後に続いて復唱なさいませ。『盃の儀、謹んであいえ候。これにて手前は中川会へ加わること、ここに証し致す』」


「盃の儀、謹んで相了え候。これにて谷山組は中川会へ加わること、ここに証し致す!」


 3人の声が大広間に響く。それを受け酒井組長が彼らに促す。


「そのお覚悟に二言が無いことを示されませ! 肚、定まり次第、その盃を飲み干し、懐中深くに納められよ!」


「はっ!」


 3人は酒井組長の言葉で盃を手に取り、一気にそれを飲み干した。そして、その盃を高坏の上に置かれた和紙で包み、懐の中へと仕舞った。


「……」


 彼らは深々と平伏する。それを見届けて酒井組長が宣言した。


「これにて谷山大輔殿、岡沢雅樹殿、三沼健太郎殿が中川会へ加わることと相成りました! 皆々様方におかれましては、この晴れの日にお立ち会いくださったことに心から御礼申し上げます!」


 大広間の構成員たち、そして関東各地から招かれた来賓たちは一斉に拍手をした。無事に終わったようだ。俺はホッと胸をなで下ろしたのだった……。


 いやいや。まだ仕事は済んでいない。俺はゆっくりと立ちあがると祭壇の前に置かれたもうひとつの高坏を手に取り、谷山たちの前に運ぶ。


 その上には鮮やかな漆塗りの鞘に込められた短刀が置かれていた。


 ええっと、何だっけ……ああ、そうだった。事前に覚えた古めかしい口上を即座に思い起こし、俺は居並ぶ3人に声をかけた。


「これなるは中川恒元公より賜りし仁義のあかしにて候。今日よりお三方は中川会の直参として存分に働き、その忠義を果たされんことを」


「ははっ!」


 谷山たち3人は声を揃えて返事する。俺は高坏を両手で掲げるとそれを彼らの方へ差し出した。


 皆、それを両手で受け取ると着物の帯に挿し、またしても恭しく平伏して口上を述べたのであった。


「賜りし仁義の証、謹んで頂戴つかまつります!」


 こうして盃の儀は滞りなく完了した。親子盃を呑んで誓いを立て、その後で親分から短刀を下賜され、晴れて組の一員となる――江戸時代から続く関東博徒の慣習である。中川会は戦後に立ち上げられた組織であるが、初代会長が関東博徒の盟主を称したためにそのような習わしを取り入れて現代にまで受け継いでいるのだ。


 ちなみに俺が中川会に入った際に行った起請きしょうの儀式は、先ほど酒井組長が新参者に復唱させた句をフランス語に置き換えたもの。あちらの言葉では「オメルタ」と呼ばれているとか。ご存じ恒元は大のフランス通であり、本当なら組織における全ての儀式をフランス式で行いたいらしいのだが、関東ヤクザの顔役としては流石にそうもいかず、渋々ながらに執事局だけを洋風にしているそうな。


 さてさて。儀式が終わると、大広間は宴会場へと早変わりした。構成員たちは給仕の女たちが運んできた料理と酒の相伴に預って談笑し、来賓も銘々に料理を楽しんでいる。俺もまた恒元と共に料理に舌鼓を打っていた。


「いやはや……緊張したなあ……」


 俺は思わずそう呟いた。すると、酒井組長が笑いかける。


「ご苦労様でしたな涼平君。それにしても見事な口上だった」


「いや、まあ……必死に覚えた甲斐があったぜ……」


「ははは! 涼平君は記憶力が人一倍優れていると伺いましたが、それは本当のようですな!」


 そう言って酒井組長は笑った。そして、猪口に注がれた清酒に口をつける。俺は彼の横顔を眺めながら言った。


「……しかし、まさか自分がこんなに浅いキャリアで媒酌人とはな。先例も何もあったもんじゃねぇだろう」

「え? ああ、確かにそうですな。しかし、お気弱になられますな。どんなことにも初めてはある。君自身が先例になれば良いのです!」


 すると、上座に胡坐をかいていた恒元も上機嫌に笑いながら頷いた。


「義直の言う通りだぞ、涼平。お前は中川会直参の媒酌人になった。つまり、3名の直参組長の後見役となったわけだ。その立場に在る者が覇気のないことを言ってどうする。もっと自信を持ちたまえ」


「は、はあ……」


 俺は曖昧な返事しかできなかったが、ふとある疑問が浮かんだのでそれを口にした。


「ところで……理事長たちはどうしてます? 姿が見えませんが?」


「ああ、今日は来ておられませんぞ」


 酒井組長が答えた。


「えっ? 来てない?」


 俺がそう尋ねると、恒元が口を挟んだ。


「涼平。別に、あいつらのことなんか気にしなくて良い。どうせつまらん意地を張っておるだけだ」


 つまらん意地――大体の事情が分かった。理事長以下、御七卿の有力幹部たちが欠席している理由はただひとつ。彼らは今回の盃の儀式に納得がいっていないのだ。


 おそらくは俺が媒酌人を務めることが気に入らないのだろう。常識的に考えれば、新参者の後見人は組織における年長者が務めるのが慣例。今回で言えば理事長あるいは理事長補佐で京葉阿熊一家の門谷次郎総長が任せられるのが適切だったはずだ。


 それを曲げて若輩者でなおかつ渡世入り6年目、幹部どころか直参組長ですらない俺が新人たちに盃を注いだ。それが気に食わないというわけだ。意地というよりは矜持、彼らにしてみれば、プライドを傷つけられたにも等しいだろうなと思った。


「なるほど……そういうことか」


 俺は思わず苦笑した。すると、酒井組長が恒元に言った。


「会長? この機会に理事会の陣容を改められては? 眞行路補佐が降格されて以来、ひとつ空席になっていたでございましょう?」


「ほう、何か。お前は自分を理事に登用せよというわけだな」


「いやいや。滅相もございません。ただ常設では3席ある理事長補佐をいつまでも空いたままにしておいては……」


 酒井組長の謙遜を遮り、恒元は上機嫌に宣った。


「ようし! 分かった! 酒井義直、お前は今日から理事だ!


「あっ、ありがとうございます!!」


「ついでに川波一家の川波重五郎も理事に取り立ててやろう! 越坂部は降格! このあいだ涼平を襲った罰だ!」


 川波といえば次長助勤の川波亮助の父親。酒井組長同様、今日の今日までヒラの直参の職に甘んじていた男である。とんだサプライズ人事が飛び出したものだ。


「は、はい! 不肖、酒井義直! これからも息子ともどもより一層忠義に励みますので、何卒よろしくお願い申し上げます!!」


 平伏して感謝の言葉を述べる酒井組長。この男も真面目そうに見せて食わせ者だ。会長が酔っ払ったのを良いことに、ちゃっかり自分の立身出世を勝ち取って見せた。


「うむ! 皆、我輩のために励んでくれたまえ! この宴が終わったら御教書を書くぞ……げふっ!」


「ちょっと。会長。飲みすぎですぜ」


「涼平! お前も飲まんかぁ!」


 俺は苦笑しながら恒元に酒を注いだ。そして、そんな俺たちを酒井組長は微笑ましそうに眺めているのだった……。


 やがて15時くらいになって宴が終わると、頬を赤らめた参加者たちは次々と帰ってゆく。俺は酔い潰れた会長を執務室へ運び、部下と共にソファに寝かせてやった。


 その部下とは酒井と原田だ。


「ったく。言わんこっちゃない。一升瓶が何本空いたのやら」


 独り言を吐いた後、俺も自室に戻って着替えようと思った、ちょうどその時。不意に部下たちがこんな話を始めていた。


「おい、酒井!? どういうことだよ!? 何で俺とお前の親父が理事に昇格したんだ!?」


「そんなことを俺に聞かれても困る。会長がお決めになった人事だ。そもそも俺たちに文句を唱える資格はないだろ、阿呆が」


「うるせぇよ……」


「どうした。父親の躍進が嬉しくはないのか」


「何つうか……俺は、その……変な気分なんだよ。うちの親父、今までにろくに活躍も見せてねぇってのに……」


「分不相応な出世だと言いたいわけか」


「ま、まあ、そういうことになるわな。あんま難しい言葉は俺の頭じゃよく分かんねぇけど」


 酒の席で突如として決まった父親たちの理事昇格。少し誇らしげな酒井に対して、それが何とも受け入れ難いといった様子の原田である。


「おいおい。喜んでやれよ。理事っていやあ、組織の意思決定に参画できる要職だぜ。そこに入れたんだ。誉ある話じゃねぇか」


「分かってます。兄貴。でも、どうにも素直に喜べねぇんです」


「兄貴じゃねぇ。次長だ。どうしてお前は嬉しくねぇんだ?」


「言っちゃあアレですけど。親父にこれ以上、偉くなって欲しくねぇっていうか」


 眉間に皺を寄せて窓の外を見ながら、原田は吐き捨てるように言った。


「うちの親父は典型的なアル中で、昔からずっと飲んだくれでした。『自分は喧嘩しか能が無い』だの何だの、昼間から管を巻いては浴びるように飲んで、お袋を殴ってました。ガキの頃は俺も何度か殴られたことがあります……」


 家庭内では絶対的な暴君であるという原田の父。原田自身は実家暮らしを止めて久しいが、現在も練馬の原田邸では母へのDVが続いているのだとか。そんな父に息子が良い印象を抱くはずもなく、今回の人事で理事へ昇格すれば、ますます付け上がって横暴が激しくなるのではと懸念を持っていた。


「……うちの親父は器量も無ければ知恵も無いようなポンコツなんで。本当なら枝の幹部くらいがお似合いなんですよ。直参の総長やってるのだっておかしいくらいで」


 その時、酒井が反応した。


 ――バキッ!


 瞬間的に拳を繰り出して原田の顔を殴ったのである。


「うぐっ!? 何しやがる!」


「テメェは親が出世することの価値を分かっていない! 渡世にはなぁ、ずっと泥水啜って生きてる奴だっているんだよ!!」


 そう言うと酒井はもう一発、原田を殴ろうとする。だが、今度は当たらない。軽々と避けた原田は酒井の顔にハイキックを撃ち込んだ。


 ――ドゴッ!


「だから何だぁ! それがどうしたってんだ!!」


 ところが、酒井は怯まなかった。


「……ぐうっ!? そういう奴らの気持ちを考えろって言ってんだよ! 運良く出世にありつけることの尊さがお前には分からねぇのか!!」


 ――ドガッ!


 豪快に蹴られて口から血を流してもなお、気合いで立ったまま原田に反撃の右ストレートをぶち当てた酒井。そのまま二人は双方胸ぐらを掴んでの取っ組み合いになり、やがては床に倒れ込んで互いに馬乗りで殴り合った。


「おいっ! 止めねぇかっ!!」


 俺は慌てて彼らを引き離そうとするが、まったく言うことを聞かない――面倒だ。俺は軽く掌底を打ち出し、空気に波を起こした。


「うおっ!」


「ああっ!」


 衝撃波を受けた彼らはふわりと吹っ飛び、殴り合いは何とか中断する。ここで鞍馬の奥義を使うことになろうとは。ともあれ、喧嘩が収まって良かった。


「落ち着けってんだ。馬鹿野郎。テメェら、何をそんなに興奮してやがる」


 さながら子供を叱る親のような目線を部下たちに浴びせた俺。すると、酒井が何時になく怒気のこもった声で訴えてきた。


「次長! この男は甘ったれです! 親が出世をすることがどれほど幸せか、まったく分かっていねぇんです!」


「それって、どういう……!?」


 酒井が答えようとした瞬間。原田が声を張り上げた。


「もう良い! やってられねぇよ! こんな奴と一緒に!」


 そうして原田は俺に勢いのまま言葉を投げた。


「兄貴、いや、麻木次長、俺、ヤクザを辞めます! こんな世間知らずのお子ちゃまと一緒に居るくらいなら、足を洗った方がマシだ!」


「えっ……?」


 ヤクザを辞める――いきなり何を言い出すかと思えば。どういうつもりなのだ。俺が問い返そうと思った矢先、原田は走り出していた。


「今までお世話になりました! 失礼します!」


 憮然と走り去って行く。


「おいっ、待て! どこに行く! 原田!」


 部屋を飛び出す部下の背中を呆然と見つめていた俺。すると、傍らで寝ていた恒元がボソッと呟くように声を出した。


「放っておけ。ああいう奴はどうせ辞めない。すぐに戻ってくる」


「会長……?」


「誰にでも心を思い切り発散させたい時はある。周囲の者がどうこうできることではない。気の済むままにさせてやるしかないのだ」


「……はあ……」


 俺は何とも煮え切らない返事をして、原田の背中を見送るしかなかった。一方、恒元は酒井に向けてこんな言葉をかけていた。


「酒井。確か、義直は今年でよわい73だったな」


「ええ。そうです。先月が誕生日でした」


「そうか……」


 何度も小刻みに頷いた後、恒元は俺に視線を向けて言った。


「義直は我輩の父の代から仕えてくれている老臣だ。なれど、その渡世は決して順風満帆ではなかった。上に恵まれず出世の機会にありつけなかったのだ」


 恒元が言い終わると、今度は酒井が俺に言葉をかけてきた。


「次長はお父さん……麻木光寿組長とは何歳くらい離れてらっしゃいますか?」


「えっ、たぶんハタチかそのくらいだと思うぜ。それがどうかしたのかよ」


「ですよね。大体、そのくらいですよね。結婚して子供を儲けるのって。でも、うちの父は違うんです。俺が産まれたのは親父が53歳の時でした」


「そらまた、だいぶ遅いな」


「組の跡目だった兄が殺されて、必要に駆られて俺を新たに子作りしたみたいで。直参への昇格はそれから3年後、親父が56歳になってからです。それまでは上に都合よく使われ続ける人生だったんです」


「そうか……」


 酒井は神妙な面持ちで言った。


「父は10歳の時、貧乏だった祖父に売り飛ばされる形でこの世界に飛び込んだんです。いわゆる奴隷ってやつで」


「マジか……」


「そのおかげで若い頃から危ない橋を散々渡らされて。他の人間が嫌がるような汚れ仕事ばかりを押し付けられて。だから出世欲は人一倍あるんです」

「なるほどな……だから、あんなにも理事の椅子を欲しがったのか」


「ええ。とことん偉くなって、裕福になって、子供の頃に馬鹿にしてきた奴らを見返してやりたいって。あとは、同じような惨めな思いを自分の子供に味わってほしくないって思いもあったようで」


 父、酒井義直組長の口癖は昔から『俺はもっと上に行きたい』だったという。その向上心に違わずヤクザとしては優秀で、喧嘩では今まで数多もの戦争で手柄を上げてきた。またシノギにも長けており、字が読めないながらに中川会では指折りの経済派として知られ、日夜莫大な上納金アガリを生み出して組織に尽くしている。


 だが、そんな彼も50代になるまではなかなか出世の機会に恵まれなかった。初めて組を持ったのは30歳と比較的早いが、そこからは体の良い捨て駒として組ごと使い回される日々。上の人間の罪を被って服役した経験は何度もあるそうな。


「ムショから帰って来ても幹部の座は他の奴らが独占していて、自分は相変わらず使い走り。俺の兄が殺されたのだって、親父の組に無謀な全軍突撃の命令が下されたのが原因です。全ては身売りされた無学者っていう、親父の出自が原因でした」


 そうした差別にも等しい冷遇に喘いでいた酒井組長を引き上げたのが、中川恒元だった。17年前、中川会三代目を継いだばかりだった恒元は酒井義直という男の有能さに期待をかけ、周囲の反対を押し切って直参組長の地位を与えたのである。一方の酒井組長も恒元の期待に応えて任侠道に邁進、今や酒井組は渋谷区一円を仕切る大所帯へと成長を遂げている。


「……だからってわけじゃありませんが。組織の中で身を立てることがどれだけ大切なことか、俺は嫌ってほど知ってるつもりです」


「親父さんの教えか」


「ええ。ガキの頃から父には何かにつけて聞かされてましたから。『偉くならなきゃ何もできない。偉くならなきゃ意味が努力をする無い』ってね」


 なるほど。


「それでさっきの原田の言葉が許せなかったわけか」


「はい。あいつは舐めてますよ。原田の親父は世襲によって地位を得た成り上がり者で、玉突き的に直参に昇格したような経歴です。親子ともども立身出世の大変さを知らないんです。どうせまともに苦労しないでここまで来たんでしょうから」


 酒井が原田の発言を許せなかったのは、成り上がることに血の滲むような思いをした親の痛みがよく分かるからなのだろう。そして、そんな父に育てられたからこそ、酒井も出世の価値をよく理解している。だからこそのあの怒りだったのだ。


「でもよ……俺は思うんだがな……」


 そんな父親思いの酒井に対し、俺はこんな言葉を投げかけたのだった。


「……原田とその親父のことを『どうせまともに苦労しないで』って言い切っちまうのは違うんじゃねぇか。あいつらにだってそれなりの苦労はあると思うぜ。この世界、痛みを知らねぇ奴なんか居ねぇさ」


 憂さを紛らわす手段としてアルコールに逃げる癖があるなら尚更だ。成り上がり者には成り上がり者なりの苦悩がある。原田親子に限らず、誰だってそうだろう。人は誰しも苦悩を抱えて生きている。それは殆ど当事者にしか分からないことだ。親の武名を引き継ぐ難しさについては俺自身、少しは共感できるような気がするのだが。


「分かってますよ。次長が言いたいことは。でも、俺は親父の苦労を簡単に『要らない』と言いきっちまうあいつが許せないんです。だから……」


「ああ。そうだよな」


 俺は酒井の言葉を遮った。


「お前の気持ちはよく分かるぜ。口じゃあれこれ言っても、心の底じゃ親を尊敬してるのもまた然り」


「……」


「ただ、俺が言いたいのは原田もそれなりに苦労してるんだって話だ。あいつは家が裕福だった分、昔からプレッシャーの中で育ってきたんだろうよ」


「……どういう意味です?」


「親の敷いたレール通りの人生を歩まなきゃならねぇって精神的な重圧だよ。その苦しみを原田の親父は妻子に暴力を振るうことで紛らわせ、息子の方は父が最も嫌うバイク乗りになることで紛らわせた。お前と違って親子関係は冷え切ってるから、その苦しみだってあるだろうぜ」


 ついつい勢いのまま熱弁を振るってしまった俺。酒井はそんな俺を見つめながら、感慨深そうに呟いた。


「次長……よく見てますね」


「まあな」


 俺は照れ臭くなって頭を掻いた。


「とにかくよ。原田だって好きで自分テメェの親の元に生まれたわけじゃねぇんだ。生まれてくる親を選べるなら少しは違うんだろうけどな。選べないから、今までさんざん苦しんできた。それはお前も確かにって思うだろ?」


「それは、そうですけど……」


「仮にその苦労がお前の親父に比べりゃ取るに足らないモンだったとしても、全てを無かったように切り捨てるのはいけねぇぜ」


 どうしてここまで熱弁を振るったのだろう。それは己の頭でも分からない。ただ、部下に俺の考えていることを聞いて欲しかったのかもしれない。


「いや、分かってますけど……それでも許せないものは許せないんですよ。申し訳ありません。ちょっと頭を冷やしてきます」


 そう言って酒井は静かに飛び出して行った。


「涼平。追わんで良い。あいつにもやりきれないものがあるんだろうな」


「え、ええ。俺も出過ぎたことを言ったかもしれません」


「いやいや。さっきのお前の言葉は見事だったぞ。我輩は誇らしい気分で聞いていたよ」


「ありがとうございます」


「そんなことより水を持ってきてくれないか。これだから飲みすぎはいかんなあ。はははっ」


「ちょ、ちょっと! 茶化さないでくださいよ!」


 結局のところ、酒井も原田も、自分で自分なりの落としどころを探して納得する他ない――恒元の総括に深く頷く俺が居た。俺自身は親との関係に悩んだことは無いが、同じ立場なら思い悩んでいたことだろう。人間は誰しも自分の半径5メートル圏内の事象でしか物事を測れない生き物なのである。


 恒元の介抱を別の助勤と代わった後、俺は自室でシャワーを浴びた。湯に漬かりながら思ったのは「人間模様にも色々あるんだな」という他人事じみた切実な感想。自分の人間関係を丸ごと選べたらどれだけ楽であろうか。


 選べないから様々な問題が起こる。


 そうして起こる問題は時折暴力をもってしか解決できない場合もある。


 その暴力の担い手として俺たち極道が居るのだろう。

 何だか真理を見せられた気持ちで風呂から上がってスーツに着替えると、俺は総本部を出た。時刻は17時25分。外は陽が落ちてすっかり暗くなっている。


 夕食の頃合いとしては少し早い。ならば、軽く茶の一杯でも飲もうではないか。ひと息つくために向かう場所と言えば、あの店しかない。


 三丁目の喫茶店『Café Noble』だ。


 大通りの歩道から路地に入って歓楽街の方面に向かって行くと……数メートル先の路肩に何やら派手な車が停車しているのが分かった。


 あの車、どこかで見覚えがある。


 持ち主は誰だろう……?


 と、思った時。笑顔で手を振る女の姿が見えた。


「涼平~」


 あっ、琴音!


 藤城ファンド代表、藤城琴音。ひょんな流れから互いにファーストネームで呼び合う関係になっておよそ2週間。ここ最近はぱったりと連絡が途絶えていたのである。


 こんな所へ、何の用だろうか。彼女は恒元の事実上の愛人であるから、赤坂に来ることはごく自然なことなのだが。それでも最近は中川会にも来ていなかったと思う。


「お久しぶりね、涼平。と言っても顔を合わせていなかったのは15日くらいになるかしら。元気にしてた?」


「ああ。元気にやってるよ。そっちはどうだ、藤城……いや。琴音」


「うふふっ、私は元気よ。ちょっと車でこの辺りを通ったから、ついでに赤坂へ寄ってみようと思って。何せ、涼平がいつもこの辺りで飲んでるって聞いたものですから」


 おいおい。俺がいつも赤坂三丁目を訪れることを一体誰から聞いたというのだろう。お抱えの私兵集団を使って備考でもさせたのか――まあ、良い。イラク戦争で行方不明扱いになった英軍の元将校を極秘ルートで専属の護衛として雇える琴音のこと。人様の足取りを洗うくらい朝飯前なのだろう。難色を示して追及したところで意味が無いので、俺は受け流すことにした。


「琴音、最近は中川会に来てないよな。会長に呼ばれてねぇのか?」


「ええ。あの御方もお忙しいみたいでね。夜のお相手ができないのは寂しいわ。ああっ。体が疼いちゃう……」


「そ、そうか」


 下世話な想像が脳裏をよぎったので即座に掻き消し、こちらから話題を振ることによって会話の流れを変えようとした俺。


「なあ、知ってるか? 銀座の……」


 ところが、俺が切り出す前にあちらが口を開いた。


「ええ。知ってるわ。銀座の眞行路高虎が討たれたって話よね」


「流石は琴音。耳が早いぜ」


「それくらい誰でも知ってるわよ。実話系雑誌に載ってるくらいだもの」


「あははっ。そうだよな。確かに」


「だけど驚きよねぇ……あの銀座の猛獣がこうもあっさり討たれてしまうなんて」


 何だか物惜しげに語る琴音。だが、かつて高虎は銀座を訪れた政治家の頼みで彼女に危害を加えようとしたのである。よくもまあ世間話のネタにできるものだな――と俺は改めてこの女相場師の度胸に恐れ入るのであった。


「まあ、とにかくこれであんたを狙う輩が消えたわけだ。それを伝えたくて、会ったら言おうと思ってたところなんだ」


「あなたの気持ちは嬉しいけど、別に消えちゃいないわよ。私を殺そうとする輩なんか、まだまだごまんといるわ。その担い手が一人いなくなったってだけで」


「……そんなに恨みを買ってるのかよ」


「そりゃあ日本経済に風穴を開ける女性投資家として注目の的になっている私ですもの。快く思わない方は数多くいらっしゃるでしょう。例えば外務大臣とか

 」

「外務大臣って? 真島秀雄のことか?」


「ええ。そうよ。真島先生」


 頷いた琴音。そういえば眞行路高虎に彼女の暗殺を頼んだ政治家は真島だったか。その動機も何だか抽象的で「世の中に拝金主義を蔓延らせる不逞な女ゆえに排除する」などという感情的なものだったような。


 無論、琴音とてただ黙って手をこまねいているわけではない。彼女なりに対策を打とうとしているようであった。


「恒元様のお屋敷に出入りさせて頂けるようになったとはいえ、まだ安心はできないからね。時期的にもにもそろそろケリをつけても良い頃合いだと思うのよ」


「ケリをつけるって、何をするんだ?」


「銀座のお客人を紹介して、私を狙うのはおしになるよう話をつけて頂こうと思いますの。眞行路一家の御曹司に」


 眞行路一家の御曹司って……輝虎のことか!?


 聞けば、その許可を得るためにこれから総本部を訪れるつもりであったという。あまりにも踏み込んだ算段だったので俺はたまげた。


「おいおい。マジかよ。いや、でもあの野郎は親父ほど人脈は持ってねぇと思うぜ?」


「それでも真島先生に連絡くらいは取れるでしょう。今、眞行路一家は懐具合が厳しいっていうじゃない?いくらかお金を融通して差し上げたらきっと喜ぶわ」

「いや、そうかもしれねぇが……」


 張本人が討たれたとはいえ、かつて自分の殺害を目論んだ組織を篭絡しようと考えるとは。やはりこの女のする事は常人離れしている。どうすればこのように突き詰めて打算的な発想ができるというのか。


「……何だか脱帽だわ、あんた」


「うふふっ。私は常に物事の最適解を探しているだけでしてよ」


 実際問題、現時点で輝虎に大金をちらつかせれば奴は即座に食い付くだろう。戦争の失敗で眞行路一家は莫大な赤字を背負っている。組の立て直しには財政状況の改善が必要不可欠なのだ。


「さてと。それじゃあ明日の午後にでも恒元様のところへ伺おうかしら。また会いましょうね、涼平」


 車に乗り込み、琴音は颯爽と夜の街に消えていった。様々な意味で普通ではない彼女。それでも俺の頭の中は「格好良い女だ」という評価が占めている。


 相変らずスタイルも抜群。胸は何カップあるのだろう。あの豊満なバストを一度で良いから揉んでみたい。

 おっと。いけない。路上でいかがわしい想像をめぐらせる行為ほどみっともないものは無いのだ。


 俺は気を取り直して本来の目的地へと向かう。ところが、みすじ通りに入った時。


 不意に俺を取り囲む集団があった。


「……」


 全員が上質な背広を着込み、顔はまさしく人殺しのそれ。明らかにカタギの雰囲気ではない。


「……誰だ。テメェら」


 俺が問うと、集団を掻き分けるように一人の男が歩み出て俺に声をかけた。


「よう。涼平。ここにったか。総本部からフラフラ出てったさかい、どこへ行くんかと思うとったがのぅ。何や。赤坂で遊ぶんかい」


 直参『本庄組』組長、本庄利政だ。となればこの集団は本庄組の兵隊か……。少し見ぬうちに随分と数が増えたものだ。


 そんな中で組長は紋付袴姿だった。さしずめ盃の儀式に出席後、総本部から俺を尾行してきたか。つくづく面倒な奴だ。


「別にあんたにゃ関係ねぇだろ」


「あるで。涼平、おどれに文句を言っとかなあかん思うてなあ。何で渡世に入って6年足らずのチンピラが媒酌人やねん。おかしいやろ。若輩者のくせに」


「けっ。何だよ、そんなことかよ」


 俺は余裕の笑みを浮かべて返す。


「文句があるんだったら会長に言えや。あの人が決めたことだからよ。中川会三代目の意向に盾突く度胸がぇから、こうして俺に嫌味を垂れに来たのか?」


「はっ。何ちゅうか、惨めやのぅ。涼平」


「惨めだと?」


「そうや」


 頷いた本庄組長は俺に憐れむような顔を見せてきた。嘲笑と同情が入り混じったような、実に憎たらしい表情。自然と舌打ちが漏れる。


「……テメェ、ブチ殺されてぇのか?」


「せやなあ。ほんまはここでおどれを弾いてやりたいところやけど、越坂部はんの二の舞になっても困るさかい。遠慮しとくわ」


「けっ! ヤクザの癖に直接やり合う度胸も無ぇのかよ! 見苦しいなあ!」


「おうおう。威勢だけはええのう、涼平。せやけど見苦しいのはおどれの方や。会長の決めたことを何とも思わんと従いよってからに。もっとこう、自分の意思っちゅうもんは無いんかいな」


「親分の決めたことに従うのは極道として当然のことだ」


 俺が吐き捨てると、本庄は嘲弄の色をさらに深めた。


「せやなあ。けど、おどれは虎の威を借る狐や。好き放題に暴れる癖に何かあるとすぐ会長の影に隠れようとする青二才。村雨はんのとこにった時と何も変わってへん。この6年で知恵と腕っぷしは上がったかも分からへんけど、中身はガキのまんまやな」


「……この野郎ッ」


「悔しかったら一度くらいおどれの力だけで事を為してみんかい! くそダサいで! 今のおどれは! 何の実績もあらへんくせに、イキってんとちゃうぞ! このボンクラが!」


 本庄が叫ぶように言い放つと、周囲の組員たちが一斉に笑い出した。俺は殺意を堪えるので大変だった。襲ってくれば返り討ちにできたものを……敢えてそうしないのは流石、五反田のサソリといったところか。


「まあ、せいぜい精進するこったなあ。涼平。おどれが会長に尽くすのは勝手やけど、本家の思い通りにはさせへんさかいな。ヒヒッ」


「ああ? それは会長への宣戦布告と捉えて良いのか? 一度吐いた唾は飲み込めねぇぞ?」


「せやから会長の名前出さんと自力で喧嘩してみぃ言うてんねん。おどれがこんなんやとみっちゃんが泣いてまうわ。ボケが」


 本庄はそう捨て台詞を吐くと踵を返した。そして配下の組員たちを引き連れて夜の街に消えていったのである。


「……」


 俺はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。やがて我を取り戻すと同時に怒りが込み上げてきた。あの野郎……言いたい放題言いやがって……!


 今回ばかりは気を取り直せない。考えれば考えるほどに憤りが心を焦がす。あの男を殺せないのが本当に残念だった。


『何の実績もあらへんくせに』


 その言葉が刹那的に感情を支配した。きっと俺自身に覚えがあったからに他ならない。会長に重用されるに見合った功績が現時点で乏しいことの。


「ああっ! クソッ!」


 怒りに駆られて声を荒げ、俺は夜の街を歩き出す。どうにかして気分を換えたい。ちょうど喫茶店へ行く所だったのだから茶を飲んで心を鎮めるとしよう。


 数分後。当初の予想よりだいぶ遅れて、俺は華鈴の店に着いた。


 木製のお洒落な扉をゆっくり開けると、店内は閑散としていた。まだ夜の店が開いて混み始める前の時間帯であるため、当然といえば当然なのだが。尤も、俺にしてみれば華鈴とじっくり語り合えるため好都合なのだが。


「ああ、麻木さん。いらっしゃい。見ての通り暇だからさ。適当な所に座ってよ。すぐお冷水ひやを準備するから」


「おう。すまねぇな」


 俺はカウンター席に腰を下ろし、水が出されるのを待った。その間、店内を見渡すと……やはり華鈴以外に客はいないようだ。


「はい。お待たせ」


 程なくして華鈴は水の入ったグラスを俺の前へと置いた。そしてそのまま隣に腰掛ける彼女。ふわりと香ってくる香水の匂いに思わずドキッとした俺であった。


「何か今日は活力に満ちてるね」


「えっ?」


「一昨日はどんよりした感じだったのに。復活したみたいで良かったわ」


 先ほどの出来事への怒りが顔に表れ出て、結果としてそのように見えているだけだと思うが。まあ、華鈴が少し安心しているので良しとしておこう。俺は出された水をひと口飲んで注文を述べた。


「ミートソースとオリジナルブレンドのセットで」


「はあい。麻木さんっていつもそれだよね。毎回同じ注文で飽きないの?」


「飽きないさ。華鈴のつくるスパゲッティは世界一美味いんだよ。冗談抜きでな」


「ふふっ、何よそれ」


 若干小馬鹿にしたような笑い顔を見せると、華鈴は厨房に入って調理に取り掛かった。スパゲッティは茹でるのに少々独特な工程を踏む。それはアルデンテと呼ばれる茹で加減に仕上げるためだ。麺が茹で上がるまでの間に華鈴は手早くソースを作る。


 この店の隠し味は、イタリアから直輸入のクリームチーズ。それを大さじ一杯分、鍋に投入するのだ。何でもこの店の創業者、華鈴の祖父が考案した調理法だというのだ。


「秘伝の味ってわけじゃないんだけどさ。おじいちゃんがジェノバを訪れた時に閃いたらしいの。おじいちゃん、味にはうるさかったから」


「へぇ。だから美味いのか」


「うん。私も大好きでさ。時々、家でも作って食べてるんだよね」


 調理をしながら華鈴は語る。


「子供の頃、おじいちゃんが教えてくれたんだよね。『お前はこの店の二代目だからしっかりレシピを覚えるんだぞ~』って」


「えっ? 二代目と言えば親父さんじゃねぇの?」


「お父さんはおじいちゃんに勘当されてるような身だからさ。この喫茶店は継がせて貰えなかったの。一応、この店の責任者はお父さんになってるけど」


「そうなのか……」


 俺は思わず声を漏らした。若い頃から正義感に逸って様々にやらかしてきたという与田組合長なら有り得なくはないのだが……まさかそんな過去があったとは。


「あたしが生まれる前、お父さんは刑務所に入ってたことがあったの。ヤクザに借金を作った友達を助けるために事務所に乗り込んで、ボコボコにされて、挙げ句そのヤクザと結託してた警察に捕まって、そのまま懲役3年。お父さんは武勇伝みたく語ってるけど、おじいちゃんからしたら息子が犯罪者になるなんて大恥も良いところなわけだし」


「それで勘当されたと……」


「うん。でも、あたしはそんなお父さんが大好き。ちょっとアホなところはあるけど街の皆のために尽くしたいって思いは本物だから」


 まあ、尊敬の念が無ければ親のために殺人の罪を被ることだって無いだろうな――そう言おうとしたが直前になって堪え、俺は一言のみを返した。


「ああ。マジで良い人だよな、華鈴の親父さん」


「ふふっ、ありがと」


 やがて華鈴は盛り付けの終わったミートソーススパゲッティを俺の前に出した。


 イタリアから直輸入したチーズをふんだんに使ったミートソースが自慢の一品。確かにこれなら毎日でも食べたいと思う。


「はい、お待ちどおさま!」


 食欲をそそる香りが鼻腔を刺激する。


「いただきます」


 俺は早速、フォークとスプーンを使って食べ始めた。


「うん!やっぱり美味いな!」


「あははっ、大袈裟なんだからぁ」


 そんなやり取りをしながら俺は食事を続けた。そして数分後には皿の上が空になっていた。腹も満たされたし気分も落ち着いたので、そろそろ帰るとしよう……と思ったその時だった。


「あっ。麻木さん。ちょっとこの後、時間ある?」


 立ち上がろうとしたところで、ふと華鈴に呼び止められた。


「ふぇっ!?」


 ついつい素っ頓狂な反応をこぼしてしまう。何せ『この後、時間あるかな?』なんて言われたものだから。これはひょっとしてデートの誘いか!?


 いやいや。そんなわけあるまい。ひとまず冷静になって俺は腰を下ろす。


「な、何だよ。いきなり」


「いやさ。ちょっと相談に乗って欲しいことがあってね」


「相談? 俺に?」


「うん。あたしのことじゃないんだけど、ちょっと知り合いに困ってる子がいてね。力になってあげて欲しいんだ」


 華鈴はそう言うと少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。俺はその顔を見てすぐに察した。これは何か厄介ごとを抱えていてそれを俺に相談したいのだと。まあ、別に断る理由も無い。事態を打開できるかは分からないが、話くらいは聞いても良いはずだ。


「分かった。相談に乗るよ」


「ありがと! 麻木さんならそう言ってくれると思ってた!」


 華鈴は明るい表情を見せると、店の外にある看板を『OPEN』から『CLOSE』へとひっくり返しに行った。そして時計を見る。


「そろそろ、いつも来る時間なんだけど……」


 時刻は18時33分。このくらいの時間帯に決まって訪れるというその人物。俺が2杯目の飲み物を注文して待っていると、暫くの後にドアが開いた。


「ごめんなさい。遅れてしまって」


 表れたのは若い女性。年齢は20代後半くらいだろうか。


 真っ赤に染めた髪を後ろで束ねている。派手なヘアスタイルとは裏腹に服装は控えめでグレーのパーカーという出で立ち。目鼻立ちは整っているが、それでいてどこか暗い雰囲気を漂わせている。


「いえいえ、全然大丈夫よ」


 華鈴が笑顔で応じると、女性は軽く会釈をして俺の隣に腰掛けた。そして注文を尋ねてきた華鈴にホットミルクティーを頼んだ。


 どうやらこの女性が相談の当人のようだ。


「初めまして。俺は麻木涼平。びっくりするかもしれねぇが、この近くにある赤坂の……」


「知ってます。中川会の麻木さんですよね」


 華鈴からざっくりと俺の素性は聞いているらしい。ヤクザと対面ということで驚かれるかと心配していたのでその辺は良かった。これなら話しやすい。


「ああ。そうだ。ところで、相談ってのは?」


 そう俺が切り出した矢先。女性は大きな声を張り上げた。


「お願いします! 助けてください! 警察には頼れなくて、もう他にアテが無いんです!」


「お、おう……」


 あまりの気迫に圧倒されて俺は言葉に詰まる。女性は続ける。


「もう私、どうしたらいいのか分からなくて! もう頼れるのは麻木さんだけなんです!」


「そ、そうか……まあ、とりあえず落ち着けよ」


 若干引き気味になりながらも俺は女性を宥める。そして華鈴が作ったホットミルクティーをテーブルに置くと、彼女はそれをひと口ほど飲んだ。そして大きく息を吐くとようやく落ち着いたようで話を始めたのだった。


「……私、実は夜逃げをして来た身なんです」


 彼女の名前はユカ。元は九州の出身で、地元の高校を卒業した後は大分市のローカルスーパーに就職して品出しの仕事をしていたが、やがて友人の紹介で知り合った6歳上の男と結婚し寿退社。翌年には2人の子供も生まれ、幸せな暮らしを営んでいたはずだったが……。


「息子の後で娘が生まれて暫く経つと、夫が暴力を振るうようになったんです。最初は叩いたり、軽くつねったりとかだったんですけど……次第にエスカレートしていって……」


 家ではまるで絶対君主のように振る舞っていたという夫。「飯がまずい」だの「子供の躾がなってない」だのと些細な落ち度を挙げては口汚く罵り、サンドバッグのように激しく殴ってくる。ユカは息子を庇いながらも必死に耐えていたが、ある日とうとう限界を迎えて逃げ出してしまった。


「それで離婚したと」


 俺の問いに彼女は首を横に振った。そして、話を続ける。


「まだ離婚は成立してません。息子と一緒に着の身着のままで夜行バスに乗って逃げて来たので」


「息子と一緒ってことは、娘は旦那のところに居るのか」


「はい……」


 まだ保育園にも入れぬ年齢だった娘までは連れ出せなかったと語るユカ。その表情には悔しさが滲む。暴力夫の元に我が子を置き去りにしてしまった自分への怒りであろう。


 そんなユカが東京への逃走後、辿り着いたのが赤坂の町。バスターミナルに程近い、この三丁目の歓楽街だったわけである。無論、何のアテも無い状況で女が一人で生活してゆくのは難しい。おまけに子供を抱えているとなると尚更に就職の選択肢は狭まる。まっとうな働き先が見つからなかったため、やがて彼女は夜の仕事をすることを余儀なくされた。


「この近くの店で出勤させて頂いてます。子供が寝た後に、朝まで8時間くらい。それで1日3万円くらい貰えますから何とかやっていけてます」


 よく見るとユカはパーカーの下に水着を付けていた。どうやら彼女はセクシーパブで嬢として働いているらしい。


「なるほどな。事情は分かった。で、旦那はあんたを探してるのか?」


「はい……」


 ユカは目を伏せる。


「……夫は私を執拗に捜したみたいで。東京に居ることも、たぶんバレてると思います」


 彼女の夫は逃げた妻を半年くらいしつこく追い続けたが、やがては諦めたのか離婚に同意。弁護士を通じて裁判所に調停を申し出た。ところが、そこに至って新たな問題が生じることになる。


「夫が息子の親権を主張してるんです」


「えっ、どうしてだよ? 事実上あんたが養育してるんじゃねぇのか?」


 思わず口を挟むと、彼女は目を伏せたまま言った。


「要は『離婚が成立する前に息子を連れて逃げ出したので、あなたの行為は実子誘拐にあたる』と。夫の代理人にはそう言われました」


「マジかよ……」


「はい。元は息子は夫の扶養家族だったので。私の養育能力が夫を上回らない限り、息子の親権は夫が持つことになるそうです」


「なっ!?」


「夫は『お前が帰って来ないなら息子だけでもこちらに戻せ』と要求しています。『さもないと警察に訴え出てお前を誘拐容疑で逮捕させる』と」


 ユカは唇を嚙み締めた。子供と引き離されるのがよほど辛いのだろう。俺は同情すると共に疑問に思ったことを口にする。


「なるほどな。それで警察には頼れねぇってわけか。けどよ、日本じゃ実子誘拐は大半が見逃されてるんだぜ。DV夫から子連れで夜逃げしたって状況なら尚更だ。そんなにビビらなくても逮捕まではぇと思うぜ?」


 すると、ユカは口ごもる。


「……」


 答えづらそうな面持ちだ。何か込み入った事情があるのか――と思っていると、カウンターに立つ華鈴が口を開いてきた。


「麻木さん。ちょっとあたしの方から説明させて貰うけど」


 華鈴の口調はいつになく真剣だった。俺は思わず聞き返す。


「えっ?」


 すると彼女はこう続けたのだった。


「実はね……ユカちゃんの旦那さんて、ヤクザと繋がってるらしいんだ」


「なっ!?」


 俺はまたもや素っ頓狂な声を上げた。まさかの展開である。しかし、すぐに俺は思い直す。


「……ひょっとして、そのヤクザってのはげんどうかいか?」


 俺の問いにユカは小さく頷いた。


「はい」


 やはりそうだったか。九州全域に勢力を張る玄道会であれば警察とも賄賂で癒着しており、買収した警官を恣意的に使うことも可能であろう。警察は頼れない――俺に相談を持ちかけた意味がようやく分かった。


「つまり、同じく稼業人である俺に旦那とナシをつけてほしいってことか」


 俺がそう口にした瞬間、ユカの顔色が変わる。彼女は縋りつくように涙声で訴えてきた。


「どうかお願いします! 私たちを助けてください! 麻木さんは中川会なんですよね!? 中川会は玄道会より強いんですよね!? お金なら後で一生かかってもお支払いしますから、どうかこの通り! 助けてくださいッ!!」


 椅子から降りて床に額を擦りつけて頼んできた。


「おい、頭を上げろって。別に俺は……」


 すると華鈴が口を挟んできた。


「麻木さん! あたしからもお願い! ユカちゃんを助けてあげて!」


 彼女の声は今までにないくらいに大きかった。それは本気で傍らの女性を助けたいと思う気持ち、そして俺への期待の表れだ。


「……分かったよ」


 俺は渋々ながら承諾した。九州ヤクザと揉め事を起こすのは正直言って気が進まないが……しかし、華鈴の頼みであれば断るわけにはいかない。それに、俺の中で大分という地名について、何だか引っかかるものがあったのである。


「この話はいったん持ち帰って会長の耳に入れさせてもらう。勿論、あんたの名前は伏せるよ。会長には適当に誤魔化しておく」


「ありがとうございます!!」


 ユカに泣きながら感謝され、俺は勘定を済ませて店を出た。


「……」


 この紛争の舞台は大分県。彼女の旦那は大分市に居るとの情報であるが、同県の別府市は一昨日に聞いた地名だ。


 そう。


 別府と言えば村雨組が眞行路一家へ割譲を迫った領地である。元々は玄道会の縄張りであったが、先々月に眞行路高虎が戦争を仕掛けて奪取した経緯があった。


 ここ数か月の間に高虎は日本の至る所へ出かけては喧嘩を吹っかけ、その土地のチンピラを従わせて強引に領土を拡げていた。大半は巨大組織に属していない一本独鈷の組に対して行われていたが、その唯一の例外が玄道会から奪い取った別府だった。ゆえに「別府が玄道会に奪還されないよう地元の組を中川会の傘下に収めに行く」とでも言えば恒元も納得しよう。


 我ながらに妙案を思いついたと歓喜した俺は、翌朝になって恒元へ話を持ちかけた。


「…‥というわけです。現状、別府は眞行路一家の租借地のような状態です。そこへ直参の盃を下ろしてやれば中川会は名実ともに九州進出を達成したことになります」


「なるほどな。確かにそれは素晴らしい」


 恒元は満足げに頷いた。彼としても領土が拡大するなら文句は無いと見た。ましてや会長派の直参を増員できるのだから尚のこと嬉しかろう。


「ただ、兵は出せんぞ。玄道会と直接的に事を構えるのも避けてくれ。九州ヤクザは戦争になると本当に厄介だからな」


 軽く釘を刺されたものの、これで会長の許しは得た。さっそく俺は『Café Noble』へ向かって華鈴へ報告する。「良かった! じゃあ、麻木さんはお仕事って名目で堂々と大分へ行けるんだね!」

 だが、彼女は思いがけないことを言い出したのであった。


「明日の何時の新幹線で行こうか? あたしはいつでも大丈夫だよ?」


「いや、ちょっと待て。お前も一緒に行くのかよ」


「えっ? だってユカちゃんの娘さんを助けに行くんだよ?男の人だけで行くより、女のあたしが居た方が何かと安心するでしょう?」


 俺は一瞬だけ戸惑ったが、すぐに了解が追い付く。確かにそうだ。今回の目的はユカの夫と話をつけ、大分県警への刑事告訴を取り下げさせ、離婚に応じさせること。そしてユカの2歳になる娘を夫から救い出すことである。最終的には幼い女の子を九州から遠く離れた東京まで連れて来ねばならない。そこには男より女が居た方が本人も安心できるはずだ。


 だが、華鈴と一緒に旅行に赴くとは――。


 いやいや、別に深い意味は無いだろう。頭の中を一瞬よぎった下品な想像を掻き消し、俺は華鈴に承諾の返事をした。


「分かった。じゃあ、明日の朝8時に駅で待ち合わせな」


「うん! 遅れないで来てよね! ユカちゃんにはあたしのほうから伝えておくから!」


 華鈴は満面の笑みを浮かべていた。俺は若干ドキッとしながらも平静を装って茶を飲んでいたのだった。


「……」


 そうして迎えた12月7日火曜日の早朝。俺と華鈴は東京駅に居た。これから新幹線に乗って九州へと向かうのだ。ユカから預かった書類や着替えなどを詰めたバッグを手に提げてホームへ向かう途中、華鈴が話しかけてきた。


「ねぇねぇ麻木さん。ユカちゃんの娘さんって、どんな子なのかな?」


「さあな。まあ、娘っていうくらいだから。母親似なんじゃねぇのかなあ」


「そっか。でも、きっと可愛いんだろうね!」


 華鈴は期待に胸を膨らませていた。俺はふと思いついて彼女にこう尋ねる。


「そういやよ、店は大丈夫なのか? お前が九州に行ってる間、誰か代わりに店番してくれるのか?」


「大丈夫! お父さんが預かってくれることになってるから。料理はできないけど、飲み物を作るくらいはできるだろうから」


「そうか……なら、良いんだけどよ……」


 俺は曖昧に返事した。


 与田組合長は料理がからっきしだったという話ではなかったのか。九州に何日滞在することになるかは分からない。その間に『Café Noble』の評判が落ちなければ良いのだが……。


「あ、でも心配しないでね! 前にもこういう時はあったからさ、あたしが不在の時はドリンクメニュー限定って常連のお客さんは分かってるから!」


 赤坂三丁目で長く愛されている老舗の喫茶店だ。ちょっとやそっとで客は離れないのだろう。それを聞いて少し安堵したような気がする俺であった。


「さっ、行こっか!」


 ベージュのコートに赤いマフラーという装いの華鈴は、足を弾ませながら駆けて行く。何だか旅行気分のようだ――そう思いながら、かくいう俺も意気揚々と改札へと向かったのであった。

いざ、涼平は華鈴と共に九州へ。向かう先は大分県別府温泉街。果たして無事に仕事を達成できるか……!?

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