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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第11章 親分たる器
184/261

猛獣敗れたり

「聞こえておるのか!?」


 地鳴りのような村雨の声が空気を裂く。


 このままではまずい……ハッと我に帰った俺は踵を返して屋敷の中へ駆け込んだ。兎に角、眞行路一家としての出方を窺わねば。


「おい、あんたら。敵さんはああ言ってるぜ? どうすんだよ?」


 奥座敷へ戻った俺が問いかけると、床にうずくまる輝虎が吐き捨てるように応答した。


「どうするも何も。親父がああなった以上、俺たちには……」


「あ? その親父を倒して自分が組の跡目を獲ろうって息巻いてたのは何処のどいつだよ? 何を弱気になってやがる?」


「だってしょうがねぇだろう! 親父が……いや、眞行路一家うちが負けたんだぜ! どうすることもできねぇじゃねぇか!」


 思わず一喝しそうになるのを堪え、俺はひとまず状況を整理する。


 横須賀の利権をめぐって敵対した村雨組を倒すべく横浜へ遠征に出かけた眞行路一家は敗北した。総長の眞行路高虎は討たれ、無惨な有り様に。


 他の奴らはどうなったか知れない。眞行路一家には親子あるいは兄弟盃を交わし合った直系分派の組が沢山存在するが、その大半が戦力として横浜に出かけていた。ゆえに彼らも総長と同じ末路を辿ったと考えるのが自然であろう。


 殆どの組員が安否不明となった上に、総長が討ち取られた――これはどこからどう考えても眞行路一家の負けである。


 ただ、問題はこの後だ。


 眞行路高虎を打ち倒した敵方の組長、村雨耀介が銀座に現れた。さしずめ眞行路一家に対して降伏勧告を行う気でいる。これに対して輝虎以下、眞行路一家の残存勢力はいかに対処すべきか。


 先ほどから話し合っているようだが、なかなか結論を出すに至らぬ模様。


「しっかりおしよ! あんたは眞行路の跡目だろう!?」


 地面に突っ伏したままの息子を叱咤する淑恵。彼女もつい数分前までは現実を受け入れられぬ様子であった。


「とにかく、村雨に何か返事をおくる必要があるよ」


「でも、親父が……」


「だから! あんたが眞行路の跡目だろう!? そのあんたがそんな体たらくでどうするんだい!?」


 淑恵が輝虎を無理やり起こして摑んで揺さぶった。


「母さん……」


 輝虎はようやく顔を上げた。


「母さん……親父のことが悔しくないのか?」


「もちろん悔しいさ! だけど、ここで感情的になったって何も得られりゃしないわよ! この屋敷に居る連中をどう守るか、今考えなきゃならないのはそこだろう!」


「……」


 母親の怒鳴り声を受けて少しは立ち上がるかと思いきや、輝虎は俯いたまま。


「輝虎!」


 淑恵がさらに語気を強める。


「こんな時に、あんたの根性の無さを母さんに見せつけるんじゃないよ! 今こそ眞行路一家うちの組員をまとめて……」


 その時だった。


「ご無礼つかまつる」


 不意に男の声が聞こえた。恐る恐る振り返ってみると、そこに立っていたのは……。


「あまりにも話が長いので踏み入って参った。ご容赦願いたい」


 敵の大将、村雨耀介だった。村雨は屋敷の中へ勝手に入ってきたらしい。門番の組員らは蹴散らされたと見るべきか。


「ひえぇぇぇ!」


 負傷した肩を震わせながら尻餅をついた輝虎。恐れ慄くあまり気絶しそうになった息子をよそに、淑恵は突然の乱入者に向かって声を荒げる。


「なっ、何だいあんた!? 勝手に入ってくるんじゃないよ!」


「そうは申されても。私が先ほどから何度も呼びかけておるのに、なしつぶてだ。このまま返事を待っていたら日が暮れてしまうと思ったのだ」


「何ぃ!?」


 淑恵が目を剥いた。


「貴殿らが此度の負けを認めるのであれば、私はこれ以上の争いを望まぬ。しかし、あくまで戦うというのなら……」


 村雨がちらりと輝虎を見やると、彼はビクッと肩を震わせた。


「……その場合は、眞行路一家そちらの兵を一人残らず討ち取るまで」


「な、何ぃ!」


 淑恵がさらに語気を荒らげる。そこへ村雨は淡々とした口調で続けたのだった。


「浅ましくも横浜の地を踏んだ眞行路一家の兵たちは全員我が手に落ちた。その者どもをひと思いに始末してやっても良いのだぞ」


「……っ」


 淑恵は絶句した。輝虎に至っては顔面蒼白である。


「どうした? 返事を聞かせてもらおうか」


「……」


 村雨に返事を促された淑恵は動揺のあまり言葉を紡げない。


「ほほう。それは即ち、眞行路一家は私に対して膝を屈すると?」


「……」


「私は返事を求めている。聞かせてもらおうか」


 村雨は淑恵に返答を迫る。しかし、彼女は口をパクパクと動かすばかりで何も言い返せない。

「どうした? 答えられぬのか?」


 村雨は一歩前に出た。輝虎が慌てて逃げようとするも、手に力が入らないのかその場に崩れ落ちてしまう。

「まあ良い」


 そう言うと、村雨は淑恵の正面で膝をついた。


「まずはあなたの夫を手にかけたことを詫びよう」


「!?」


 いきなり何を言い出すのか。淑恵が信じられないという面持ちで村雨を見つめる。俺もまた然りだ。


「高虎公は立派な御方であった。斯様かような結末と相成ったことを誠に申し訳なく思う」


「な、何を……」


 淑恵は目を白黒させるばかりである。村雨はさらに続けた。


「先ほども申した通り、私は眞行路一家とのこれ以上の争いは望まぬ。そちらが矛を収めてくれるならば、こちらも兵を引くつもりだ」


「え……」


 淑恵がポカンと口を開ける。村雨は更に続けた。


「私は高虎公に何度となく釈明の書状を送ったが悉く返事を頂けなかった。本来、あなた方とは敵対したくはなかったのだ。戦になったのは是非もないが忸怩たる思いであった」


「あ……いや……」


 淑恵は完全に混乱している。俺も同じ思いだった。ここまでの会話の流れから言って、どうも村雨が本気で言っているとは思えないのだ。


 村雨組にとって眞行路一家との戦争が防衛戦争だったのは分かる。されど、高虎に対して一切憎しみを抱いていなかったなんて。


 信じられるか。


「どうか矛を収めては頂けまいか。お願い申し上げる」

 軽く頭を下げてきた村雨。


 えっ、この男が平身低頭した……!?


 つい5年前には絶対に有り得なかった光景だ。俺は村雨耀介という男を知っている。勝つことに対して異様なまでのこだわりを持つ、武闘派中の武闘派。彼が自ら非を認めるなど断じて無いといっても何ら過言ではない。村雨とはそういう男なのである。


 かつてこの人物に小姓として仕えていたので分かる。村雨の言葉は本心ではないと――黙っていようと思ったのだが、気付けば俺は口を滑らせていた。


「……それがあんたの本心なのかよ」


 淑恵、輝虎、留守居の組員、そして村雨組長。その場に居た誰もが俺に視線を集中させる。止めておけばと思うも後の祭り。


「む? 涼平?」


 村雨が俺を刺すように睨みつけた。ここまで至っては後には引けない。俺は意を決して村雨に向かい合った。


「今の言葉が本心とは思えねぇって言ってんだよ。あんた、さっきまでは銀座ここを火の海にするくらいの勢いだったじゃねえか」


「いかにも」


「それが戦争は不本意だって? 有り得ねぇにも程があるぜ。だったら、どうして高虎の旗をここへ持ってきやがったんだよ」


 村雨は俺を睨みながら反論する。


「左様にせねば戦が終わらぬと思うたゆえ。相手方の戦意を挫き戦を終わらせるのに最もちょうど良い策を講じたまでよ」


 だが、俺は鼻で笑ってみせた。


「……それは違うな」


「何?」


「あんたの本心はここに居る全員を皆殺しにすることだろう」


 俺の言葉を受け、村雨の眼の光がさらに鋭さを増す。

「何を申すか」


「あんた、高虎の旗を掲げた時『眞行路一家こいつらは俺が潰す』って顔してたぜ? それはつまり……」


 眞行路邸の残存勢力を挑発して戦端を開かせ、一網打尽に討ち取る算段だったのだろう――そう言おうとした俺だが、言葉は寸前になって遮られた。


「黙りな!!!」


 大声を放ったのは淑恵。ひどく動揺していたというのに、わずかに落ち着きを取り戻している。彼女は俺を睨んで続けた。


「部外者が口を挟んでんじゃないよ。ここは眞行路一家うちらの問題なんだ」


「部外者だと? 俺は中川会三代目の使いで……」


「三代目はうちを絶縁にしたじゃないか。組織から追い出しといて何を今さら出しゃばってきてんだい。本家の人間に口を出される義理は無いよ」


 淑恵はぴしゃりと言ってのけた。しかし、俺は黙らない。


「この場は任せてくれねぇかな、おばさんよ。ここを本家の預かりにしなきゃ眞行路一家は潰されちまうぜ?」


「黙ってなって言ってるじゃないかい!」


 淑恵がさらに声を荒らげた。俺は負けじと声を張り上げる。


「黙らねぇよ! あんたは組を潰してぇのか!」


「関東全体の問題にしたくないから言ってんだ!!!」


「ああ!?」


 わずかに面食らった俺に淑恵は少し咳払いをして続けた。


「今回の喧嘩は銀座と横浜の揉め事さ。ここで本家のあんたが出しゃばったら中川会と村雨組……ひいては煌王会全体との諍いになっちまうだろう。何でそれが分かんないんだい!?」


 すると、俺と淑恵の口論を黙って聞いていた村雨がここで口を開いた。


「ご夫人の申される通りだ、涼平。経緯いきさつは知らんが、お前は中川の代紋を背負ってここへ参っておるのだろう。迂闊な振る舞いをすれば、我らと中川会本家とが争うに至るぞ」


「……っ」


「代紋を背負うとはそういうものだ。分かったら無駄な口を挟まず大人しくしておれ」


 村雨に諭され、俺は考えた。組長の言うことは確かに一理ある。しかし、ここで何もしなかったら会長にとって不利益が生じるのではないか――そう悩んでいるうちに淑恵は立ち上がっていた。


「取り乱してすまなかったね。村雨組長。お前さんの話、聞いてやろうじゃないか」


「母さん!?」


「輝虎、あんたもだよ。いつまでも呆けてるんじゃないよ」


「あ、ああ……」


 淑恵に一喝された輝虎はよろよろと立ち上がった。村雨はそれに同意を示すと、またもや口を開いたのだった。


「ご賢明なお考えだ。先ほども申した通り、今この時をもって和議と致せば我らとしては兵を退く所存。銀座に対してこれ以上の粉はかけぬと誓おう」


「横浜で捕まえたっていう眞行路一家うちの若い衆たちはどうしてくれる?」


「折を見て解き放ちそちらにお返しする。致し方なかった者を覗いて危害は加えておらぬ。安心なされよ」


「そうかい。だったら結構。あの子たちだけでも無事に戻ってくるなら良かったよ」


「ただ、和議を結んだ証拠を頂きたく思う。此度の戦は世間に対して広く知られた。有耶無耶には出来ますまい」


 和議を結んだ証拠とは、すなわち落とし前をつけろということ。賠償金カネか、もしくは領土シマか。戦争に及んだヤクザが何も取らずに手を引くなど、そもそも有り得なかった。


「……手打ちの見返りに何か寄越せってかい」


 言葉を声に出して反芻する淑恵に村雨は提案を投げた。


「左様。私としてはそちらの所領を頂きたく存ずる。高虎公が先だって玄道会から切り取られた別府を頂けまいか」


「ずいぶんと大きく出たね。大分なら、煌王会村雨組あんたらの東京進出ってことにはならないから中川会の顔も立つってか」


 村雨は淡々と続ける。


「うむ。私はこの機に乗じて東京への足掛かりを得ようとは考えておらぬ。ただ、此度の戦に勝った証が欲しいだけよ」


「……それは駄目だと言ったらどうすんだい?」


 すると村雨はあっさりと言葉を覆したのだった。


「左様か。では我らはこの屋敷を接収して東京攻略の出城と致す! 者ども、出て参れ!」


 声を上げた村雨組長。忽ち命令に呼応するがごとく、その場に大勢の背広姿の男たちがなだれ込んできた。村雨組の組員たちである。


「手回しが良いね。お前さんが単騎ひとりで来たとは毛頭思っちゃいなかったが」


 そう吐き捨てた淑恵に村雨は表情を変えずに言った。


「三方を囲ませてある。そちら方の不利は明白だ。大人しく我が和議の案を吞まれるが良い」


 歯噛みしながら淑恵が問い返す。


「この喧嘩、あんたの勝ちってことかい?」


「ああ。それゆえ私が勝った証が欲しいと申したのだ」


 その返事を受けて何を思ったか。深く考え込む表情を見せた淑恵。だが、次の瞬間、彼女は思いがけぬ挙に出た。


「これでもお前さんが勝ったと言えるってのかい!?」


 なんと淑恵は一瞬の隙を突いて懐中の短刀を抜き、村雨の喉元めがけて刃先を向けたのだった。


「テメェ! 何やってやがる!」


「組長から離れろ!」


「このババア! 蜂の巣になりてぇのか!? ああゴラァ!?」


 いきり立って一斉に拳銃を向ける部下たちを「止めよ」と制止し、村雨は何ら目の色を変えないまま総長夫人に言った。


「つまらぬことだ。もはや決着はついたと申しておろうに」


 だが、淑恵は負けじと言い返す。


「ヤクザの喧嘩ってのはね、敵の親分を討ち取ったら勝ちなんだよ!」


「だから何だと申される? 私はあなた方の総長を討ったではないか」


「今ここであたしがあんたを討ったら眞行路一家うちの勝ちってことさ! まだ喧嘩は終わっちゃいないんだよ!」


 なるほど。その理屈があったか……とはいえ、この状況では単なる負け惜しみにもならないのだが。そんな淑恵の啖呵を受けても村雨は拍子抜けしたように言った。


「では、私にとっても同じことよな」


「何?」


 呆気に取られる淑恵に構わず、村雨は彼女の短刀を持つ手首を掴むと瞬間的に得物を奪い取ったのだった。そして言葉を続ける。


「私と刺し違えるおつもりだったか? お止めなされ。女に血生臭い真似は似合わぬ」


「……くっ」


「なれど、その気位の高さは恐れ入った。所領の割譲は遠慮させて頂こう。ましてや償いの銭も要らん。あなたのお心だけで十分である。我らは兵を退くだけ」


 賠償金も領土も要求しないと言ってのけた村雨組長。これにはさすがに淑恵も驚いたらしい。


「な、何を言ってるんだい。それじゃあケジメが……!?」


 すると村雨はフッと笑った。


「良いのだ。天下に名高い銀座の猛獣、眞行路高虎公を我が手で討ったこと。それだけでも私にとっては大いなる実入りに他ならぬ」


 そう言い残し、組長は去って行った。村雨の若衆たちはどこか不満げだったが、親分の決めたことである。ゆえに渋々ながら、了承している様子であった。


「待っておくれ!」


 淑恵が村雨の背中に声を掛けた。呼び止められた村雨は立ち止まって振り返る。


「何だ?」


「……聞かせてくれないかい。あんたが、うちの人をどう討ったのか。うちの人は、高虎は、何であんたに敗れたのかを」


 謂わば夫の顛末を聞かせろという申し入れ。最愛の旦那を討たれた妻としては当然の求めであると云える。無論だとばかりに村雨は答えた。


「ああ。構わぬぞ」


 その反応に対し、淑恵は安堵した面持ちを見せた。


「良かった……」


 ただ、彼女が放った次なる言葉が意外だった。


「……ありがとう。今、お茶とお菓子を持って来させるわ」


 どういうつもりか。


「へ?」


 思わず気の抜けた声を出した俺。すると淑恵はこちらに向き直ってこう言った。


「あんたもそこで待ってな!」


 ついさっき夫を殺した仇に拳銃チャカではなく茶菓ちゃかをくれてやるなんて――この女性は正気なのか。


 見れば淑恵は子分らに檄を飛ばし、もてなしの準備をしようと台所へ歩いて行くではないか。これが極道の妻の矜持であるなら驚かされる。


 いや、まあ、俺はべつに構わないのだが。それにしても横浜から来た組員たちはこの状況で呑気に茶など出されても困惑するだけだろうに。


 だが、村雨は違った。彼は部下にこう命じたのである。


「皆の者! しばし休息を取れ!」


 当然、間の抜けた反応が返ってきた。


「え?」


「へ?」


「は、はあ……」


 親分の言葉に戸惑う組員たち。しかし、村雨は構わず続けた。


「高虎公との戦にて疲れも溜まっておろう。しばし休め! 茶菓の相伴に預かろうぞ!」


「い、良いんですかい? 組長……」


 そんな部下の問いにも村雨は淡々と返すのみだった。


「構わぬ」


 あっさりとした組長の返答に子分らはにわかに活気付き、いそいそとその場に座り込んでいった。


「そ、そういうことなら、お言葉に甘えて……」


「へへっ。じゃあ遠慮なく!」


「いやあーっ、連戦連勝とはいえ疲れてたんだよなあ!」



 一方、我慢ならぬという表情で彼らを見つめるのは眞行路一家の組員たち。輝虎の右肩の応急処置をしていた若衆の一人が、彼に鬼気迫る勢いで訴えていた。


「若頭! 見過ごして良いんですか!? あまつさえうちの総長を殺した組長に茶と菓子を出すなんて!!」


 それに対して輝虎は伏し目がちに答える。


「別に構わねぇだろう。母さんが決めたことなんだから」


「姐さんじゃなくて若頭ご自身はどうお考えなんですか!? まさか『仕方ねぇ』って仰るんじゃねぇでしょうね!? もしそう言うなら……」


「黙っとけ。俺に決定権がぇことくらいお前にも分かるだろう」


「な、何と情けない……」


「ああ? 文句あるのか?」


「……いいえ。別に」


 あからさまに舌打ちを聞かせながら組員が離れて行った後、輝虎はぼんやりと宙を見上げた。俺は壁にもたれかかる彼に近づいて煙草を差し出す。


「吸うか?」


「いや、要らん」


「そうかい」


 俺の申し出を断った輝虎はボソッと呟いた。


「クソっ、村雨の野郎。人様の屋敷でデカい顔しやがって。後で絶対にブッ倒してやる」


 御曹司の瞳は激情で燃えていた。父親を討たれた怒りを制しきれないと見た。少し前までは高虎の打倒を画策していたのだが……おそらく彼は父を自分の手で討ちたかったのだろう。よくよく分からない感情だが、憎い親とはいえ他者の手にかかるのは悔しいらしい。俺はそっと彼から離れて屋敷の奥へ移動した。


 悔しさに打ち震えている者は他にも居た。台所で淑恵を手伝っていた組員たちもまた、親分を討たれた悔恨に包まれていた。


 そのうちの一人が淑恵に漏らす。


「姐さん。どうしてあんな野郎をもてなすってんですか? 何度も言いますけど、奴は俺たちにとっては不倶戴天の敵ですぜ?」


「ああ。その通りだよ」


「それが分かってどうして……」


 すると淑恵は振り返ることなくこう答えた。


「決まってるじゃないか。どんな奴であれ、屋敷の門をくぐった客に対して何のもてなしも無いようじゃ恥も外聞もあったもんじゃないからだよ」


「いや、それは……!」


 なおも承服できないとばかりに反論したい気な若衆に、淑恵はきつい声色で言い付けた。


「つべこべ言わずに従いな。あんたらの気持ちはあたしがよく分かってる」


 その叱責を受けた組員たちは口を閉ざすほか無かった。よく見ると淑恵の瞳には涙が浮かんでいる。まあ、当然だよなと俺は率直に思った。


「何だい。あんた、居たのかい?」


「お、おう」


「ボサッと突っ立ってないで手伝いな。茶を淹れるくらいはできるだろ」


 台所の入り口付近に立っているのを淑恵に見つかってしまい、給仕を手伝う羽目になった俺。経験は無いが見よう見まねでやってみる。


「……あんた、意外と手際が良いじゃないかい。下積みの頃はお茶汲みでもやってたの?」


「そういう役回りはやったことぇな」


「へぇ。そうなのかい」


「ああ」


「だったら小さい頃は家でお母さんのお手伝いをした口かい? 子供の内からやってないとそんなに慣れた風にはできないもんだけどねぇ?」


 箱から取り出したばかりの栗きんとんを盛りつけながら、俺は話しかけてきた淑恵に答えた。


「ガキの頃から日々喧嘩三昧のヤンチャだったもんでよ。お袋の手伝いはしたことが無い。まあ、強いて言うなら15の時にその頃の組長の使いでしょっちゅう和菓子を買いに行ってたくらいだな」


 ちなみに、その頃の組長とは村雨耀介のことである――そう付け加えかけたが寸でのところで腹に収めた。口に出して良い空気ではない。我ながら良い判断であったと思う。


 しかしながら、考えてみればおかしな展開になったものだ。あの村雨組長と、またこうして顔を合わせることになろうとは。


 あの時、俺は村雨組を出奔同然の形で逃げ去った。組の者には「何があっても涼平を中川に渡すな」と厳命が下っていたにもかかわらず。それは自分が中川に行かねば村雨組全体が潰されてしまうからと悩んだ末の判断だが、村雨本人にとっては裏切りにも等しい行為であろう。


 きっと怒っているはず。先ほど5年ぶりに軽く言葉を交わした際には然程感じられなかったが、実際には俺に逃げられた屈辱を捨てきれずにいるはず。きっとそうに決まっている。


 今になって言い訳はできない。さあ、村雨に対して何て詫びれば良いのだろう……。


「はいよ。茶を淹れたから運んでおくれ」


「……おう」


 俺は淑恵に返事をして盆を携え、台所を出た。この屋敷で休んでいる者たちに配って回るまでが俺の役回りらしい。


 村雨組の組員たちが我が物顔で居座る大広間には、部屋の雰囲気に似つかわしくない洋風のテーブルが置いてある。その上には茶と茶菓子が載っていた。


 俺は盆をテーブルに置き、その脇に正座した。すると組員の一人が俺に気付いたようで素っ頓狂な声を上げる。


「あっ! テメェは麻木!?」


「え?」


「この野郎! やっぱり中川会に居やがったのか!」


 俺自身ほとんど記憶に乏しいのだが、その男は俺の顔を覚えていた模様。彼が叫ぶなり場にどよめきが起こる。『麻木涼平』が出るや否や騒ぎが起こってしまったのだ。


「おい! 麻木! やっぱりテメェだったか!」


「中川会に居るって噂は本当だったか!」


「間違いねぇ! こいつ、麻木だ! 6年前に村雨組うちに居た生意気なガキだ!」


 大広間が騒がしくなってきた。村雨組もあの頃に比べて兵力増強を行ったと聞いていたので当時を知る人間は少ないか――と思いきや、意外と多かった。


 実子格の立場にありながら出奔を遂げた不義理の事実は彼らも知っているらしい。だが、今や俺にも立場というものがある。俺は吐き捨てるように言った。


「いや、俺はもう村雨の人間じゃねぇ」


 すると今度は別の組員が声を上げる。


「は? だから何だってんだよ?」


「俺は中川会の執事局次長だ。組を抜けた件は事実だが、今さら断罪される覚えはない。どうせ過ぎた話と思うがな」


 それを聞いた組員たちはたちまち食って掛かってきた。

「何だと!」


「どういうことだ!」


 するとその騒ぎを制するように別の声が部屋に響いた。


「静まれい!」


 その声は6年前、横浜山手町の屋敷で何度も耳にした声色とまったく変わらず。村雨組長であった。


「皆、落ち着け。客人の前であるぞ」


「ですが、組長……!」


 組員たちのざわめきは未だ収まることを知らないが、村雨は意に介さず言葉を続けた。


「改めて申すが、久方ぶりであるな。涼平。達者に暮らしておったか」


 俺をギロリと睨んできた村雨。


 睨まれた俺は思わず立ち上がってしまった。怯んだわけではない。これは反射的な反応である。


 何しろ相手は現時点で中川会に対する最大の仮想的なのだ。警戒を抱かぬ方がおかしいだろう。それに加え、今の俺には地球上で一番恐ろしい相手だ。


「……どうも。久しぶりだな。一応は元気だったぜ。あんたに心配されるまでもなくな。そっちは相変わらず喧嘩漬けみてぇだな」


「ふっ。戦は極道の本分よ。して、何故に中川会へ寝返った?」


「寝返った? 俺が?」


 どういうわけか訊き返してしまった俺。こんな反応を見せては逆効果だというのに。おそらくは恐怖と緊張が頭の邪魔をしたのだろう……。


 村雨はなおも続けてくる。


「違うと申すか? ならば、何故に横浜を出た? そして何故に中川恒元公の手元に居るのだ?」


「それは……」


 答えあぐねる俺。すると村雨はこう続けた。


「構わぬ。どうしておるかと気がかりであったが、斯様にしてお前が達者でいることを確かめられたのだ。それだけで十分だ」


 えっ……それってつまり、どういうことだ……!?


 拍子抜けというか意外というか。言葉の真意が分から固まってしまう。そんな若輩者を差し置き、村雨組長は奥の暖簾から姿を現せた淑恵に声をかける。


「茶と菓子のもてなし、いたみ入るぞ」


「口に合うかどうかは分からないけどね。好きに上がっておくれ。毒なんか入ってないから心配しなくて良いよ」


「ふっ……あなたがこの期に及んで左様な真似をする奥方でないことは分かっておるわ」


「そうかい。あたしも舐められたもんだね」


「分を弁えた女子であると褒めたのよ」


 冗談と皮肉が入り混じった薄ら笑いの応酬。夫を手にかけた仇敵に対し、淑恵としては精一杯の反撃を見せている。


 この場において出来得る最大限の強がりを。


 そうでなければ威厳が立たない。戦いに敗れたといえども極道は誇りを捨ててはいけないのだ。敵に情けをかけられるなどもってのほか。


 勝者と敗者。とりわけ戦におけるそれは無惨な程に明確な差を生む。淑恵を除いた眞行路一家の組員らがすっかり卑屈になり始めている一方、現時点で村雨側の若衆たちが律儀に振る舞っていることは素晴らしいと言わざるを得まい。勝者は往々にして粗暴になるものだ。そのようになっていないのは組長による日頃の躾の賜物であろうか……と邪推をする俺が居た。


 淑恵の女傑ぶりも見事なもの。先ほど台所にて覗かせた涙は何処へやら、村雨の前では毅然とした姿を見せている。夫を討たれた心の整理もついてはいまいだろうに。


「さあ、聞かせてもらおうじゃないか。あの人とお前さんがどういう戦いをしたのかをね」


「うむ」


 そんな淑恵から促されるように立ち上がり、村雨は彼女の後に続いて応接室へ入ってゆく。これから二人きりで話すつもりか……と思っていると、淑恵が俺に言った。


「あんたも来な」


 突拍子もない申し出である。


「へっ?」


「一応、中川の人間にも聞いといて貰いたいからね」


「いや、俺は……」


「いいから来るんだよ!」


「……ああ」


 有無を言わせぬ気迫に押され、俺は二人の後に続いた。その魂胆の程は如何に……村雨と一対一の状況になるのは流石に怖いのか? それとも単に村雨との会話を聞かせたいだけか? まあ何にせよ、俺のような部外者が同席したところで何も変わるまいに……。


 そんな俺の疑問をよそに村雨は了承した。


「良かろう」


 二人は応接室に入っていった。俺も彼らの後に続いて入室する。


 畳敷きの和室の応接室。その中央には黒檀の座卓が置かれ、座布団が二つ置かれている。入り口側に座った村雨の向かい合わせに淑恵が腰を下ろした。


 俺は両名の間を分かつ位置に座る。中川会本家の人間である俺が淑恵の後ろに控えるわけにはいかないし、かと言って村雨の後ろに座るのも問題がある。消去法でも、“同席者”という意味でも、ちょうど良いポジションであった。


「……見上げたものだな。この6年の間で斯様な場に相応しい作法を学んだか」


「まあな。俺に構わねぇで早いとこ始めたらどうだ。尤も、これから聞いたことは当然、中川会三代目の耳にも入るから、2人ともそのつもりでな」


「ふふっ、側近の役目も心得ておるか」


 揶揄うような目を俺に向けた後、村雨は視線を戻す。


「さて」


 そう切り出してから村雨が語り始めたのは、銀座の猛獣との戦いの顛末であった。


 遡るに15時間ほど前のこと――横浜の南本牧ふ頭に居た眞行路高虎を村雨組長が僅かな手勢を引き連れて襲撃、これを討ち取った。


「高虎公はジャマイカ人どもから銃を買う手筈となっていたようで、100騎前後の兵を連れておった。どんな数であろうと私の敵ではなかったがな」


 今後の戦いに備えて銃器を大量に購入する取引に訪れていた高虎。村雨はそこに奇襲を仕掛けたのである。無論、眞行路一家も数日前に忽然と姿を消した村雨耀介が不意打ちしてくることは予想して多めに兵を置いていたのだろうが……一騎当千の残虐魔王にはお構いなしだった模様。


「まあ、私にしては随分と手の込んだ真似をしたものだ。眞行路の戦力を散らせるが為に緒戦から敢えて手を抜いたのだからな」


「それでわざと屋敷を落とさせたってのかい?」


 淑恵が訊いた。村雨はそれに大きく頷く。


「左様。さすれば眞行路一家は横浜の本丸を押さえたと息巻き、そこを守るために多くの兵を割くであろうと踏んだのだ。高虎公は見事に乗ってくれた」


 手に入れた拠点には敵方の奪還を防ぐために守りの兵を置かなくてはならない。それが多ければ多いほど配置人員が必要になり、侵略を担う本隊の兵数が減る。他にも横浜市内の傘下事務所の人員を敢えてガラ空きにすることでわざと攻撃・占領させ、眞行路側にどんどん人手を使わせてゆく。


 そうして敵の勢力を広く薄く引き伸ばし、大将を守る兵が手薄になったところで一気に攻勢をかけて叩き潰す。兵の数で劣る村雨組の戦略勝ちだった。


「……トンズラこいたお前さんを捜すために多くの人手を使ったよ。うちの人も血眼になってた。あたしらは文字通り思う壺だったわけかい」


「ああ。あなた方が私を捕縛するために人手を出したおかげで高虎公付きの兵がますます少なくなった。こちらとしては狙いやすかったぞ」


「でも、何処に隠れてたんだい? うちの人は横浜市内は全て調べ尽くしたつもりだったけど? おまけに川崎や大和にも人を送ったけど足取りすら掴めなかったよ?」


「海の上にった」


「う、海の上って! それじゃあ船で……!」


 村雨は言った。


「そうだ。高虎公が横浜の地を踏んだ時点で、私は既に船で海に出ておった。後日に南本牧で武器の買い付けを行うと聞いたからにはなおさら事を為しやすいと思ったのだ」


 眞行路一家の襲撃に先立ち、大型客船を改造したクルーザーで海路に逃げていた村雨。その船には村雨組のほぼ全員で乗り込んでいたために、高虎の横浜攻略戦において彼らはほぼ無傷。そして機会を窺い、油断しきった高虎に奇襲を仕掛けて見事に討ち取ったのである。


「なるほどねぇ……で、その船とやらは何処にあるんだい?」


「横浜の沖に停泊させてある。南本牧の埠頭にはそこから足の速い小船を下ろして向かった。大きな船では上陸は敵わんからな」


「ああ、そうかい……道理で気づかなかったわけだよ……」


 横浜のおかには隠密偵察要員だけを置き、全兵力をもって船で待機していた村雨。全ては敵の大将に防御の隙が生まれる瞬間を窺うために。情勢は彼の計算通りに進み、依然として姿を見せぬ残虐魔王に業を煮やした高虎はその捜索に人手を割いて本隊の戦力が手薄に、そして武器弾薬の補給を行うべくジャマイカ人と取引を行うとの情報が入ったのである。


「……しかしお前さんも大したタマだねぇ。取引を邪魔すれば外人だって黙っちゃいないだろうに。あたしらを追い払えれば異国のマフィアと喧嘩になっても構わないってか」


「当然だ。尤も、此度の場合はジャマイカ人も我が方に絡んでおったがな」


「なっ!?」


 村雨の言葉に淑恵の顔が強ばる。なんと、村雨組は高虎が補給のための買い付けを行うと見越した上でジャマイカ人と組んでいたというのである。何もかもが村雨耀介の掌の上だった――その衝撃的事実には無論のこと俺も腰が抜けそうになってしまった。


「高虎公は千葉と横須賀でかなりの弾薬を費やしておる。横浜で補給に出ることは明白であった。その機会を利用せぬ手はあるまい」


「敵ながらあっぱれとはこのことだね。最初から全てが仕組まれてたってわけか。あたしが馬鹿息子の不穏な動きを察して銀座に戻った隙を突くなんて」


「それはな……」


 村雨が説明を始めたところで俺は思わず口を挟んでしまった。

「ちょっと待て! そんな重要なことを部外者の前で話して良いのか!?」


 すると淑恵が俺を睨むように見て言った。


「今はこの人と話してんだい! あんたは口を閉じてな!」


 一方で村雨は穏やかな反応を見せる。


「まあ、良いではないか。ご夫人。この者なりにあなたのことを気遣っておるのだ」


「気遣いだって?」


「何人とて夫の末路を聞かされて平気を保てる者などおらぬ。役目と云えどそれに立ち会うのは気が引けるものだ」


「なるほどねぇ……」


 淑恵は納得したように頷いた。それから改めて俺を見る。


「あんた、意外と良いところあるじゃないかい。見直したよ」


「……そりゃどうも。で? どうするよ。俺はこの場に居た方が良いのか? 二人きりで話してぇっていうんなら、こっから先は席を外すぜ?」


「居てくれて構わないよ。むしろ居てもらわなきゃ困る。何せ、銀座の猛獣の末路を中川会三代目に伝えなきゃならないんだから」

 そんなやり取りをしつつ、俺は村雨の話に耳を傾けた。


「まさしく“猛獣”の名の通り、高虎公は猛々しき御方であった。あれほどの敵に遭うたことは今の一度も無い」


 どんな話が語られることやら……身を乗り出して聞き入る俺に村雨が明かした内容は想像を超えていた。


「海から迫った私を見て嵌められたことに気付いたのか、高虎公はすぐさま太刀を抜いて郎党を鼓舞した。そして、私に向けてこう言ったのだ」


「何と?」


「地鳴りのような声で『お前が村雨耀介か!』と。そこからは語るまでもない。我が方の船が陸に乗り上げるや否や、高虎公はジャマイカ人どもを蹴散らして私に向かってきた。その勢いたるや、まさに猛虎の如し」


「……あの男らしい」


「だが私とて高虎公に遅れをとらぬ。何しろ斯様な時に備えてこそ日夜鍛錬を積んでおるのだ」


 村雨はニヤリと笑った。


「太刀を抜いて走ってきた高虎公の前に我が組の若衆が立ちはだかった。なれど、奴らはほんの数秒で斬り倒されてしまった。銀座の猛獣は伊達ではなかった」


「それからどうなった?」


「気付けば私は高虎公と一騎打ちに及んでいた。振り落とされた太刀を躱し、懐へ拳を叩き込んだ。しかし、なかなか勝負は決まらなくてな」


「それで?」


「私も久々に本気を出させてもらった。高虎公の足捌きがあと少しでも早ければ、きっと私は負けておったであろう。泥臭い組打ちにもつれこんでようやく雌雄を決することが出来た」


 よく見れば村雨組長は顔中に傷を負っている。いずれも高虎との立ち合いで負ったものであろう。その痛々しさから戦いが如何に凄惨であったかが窺い知ることができた。


「私も高虎公も正面きっての殴り合いでは決定打を欠いた。あれほどの剛拳は他に見たことが無い。この私の洪家拳をもってしても避けきれなんだ」


 感慨深げに語る村雨に俺は言った。


「あんたをそこまで苦戦させる男がいたとはな」


 すると村雨は苦笑交じりに息を漏らす。


「私が思うに、高虎公はあれでも本調子ではなかったのであろう。決して浅からぬ傷を負っていたと見た。仮に万全の状態であったなら私はきっと敗れていた」


 村雨と相まみえた際、高虎は怪我をしていた? それも浅からぬ程度に? もしや、先月に目黒の橋の上で殴り合いを演じた際に俺が負わせた傷ではないか?

 

 自分の行動が村雨との勝負に影響を与えていたなんて。確証は無いが、仮にそうだとすると複雑な思いに胸を包まれる。高虎が負けたのは俺の所為なのか。


 いやいや。


 自嘲をする必要はなかろう。


 俺にとって眞行路高虎は唾棄すべき存在であり、今まさに先ほどまで奴を倒す計略を組んでいたところなのだ。


 ただ、何故だろうか。少しばかり心が苦しくなる。何か大きなものを奪われた気分である。その正体は寂寥感だ。ここ数日は銀座の猛獣の存在を見据えて「あの男に勝ちたい」と思っていたのだ。出来ることなら、あいつには自らの手で止めを刺してやりたかった。ああ。そうだ。父親を超えることができぬまま終わった輝虎と同じだ。結局、仇討ちを為せなかった。


「なるほどな」


 やや悲哀的な思いに駆られて俯く俺。そんな黙り込む同席者の様子には一切目もくれず、淑恵は低い声で言葉を紡いだ。


「そうかい。何であれ、うちの人はあんたに負けたんだね」


 彼女に対して村雨は何も答えない。ただ、目の前の女性に向かって無言で頭を下げるのみ。それが何を意味するのかはだれの目から見ても明らかだ。


「で、あんたはこれからどうする気だい? うちの領地も金も要らないってんじゃ下の連中の収まりが付かないでしょう?」


「初めから何かを得ようと思って戦をしてはおらぬ。銀座の猛獣を討ち、眞行路一家の侵略を跳ね除けただけで皆は満足しておる。それは私とて同じことだ」


「そうかい。なら良かった」


 村雨に頷いた淑恵。横浜で囚われている眞行路一家の組員たちについては順次解放してくれるとのことで、彼女は一安心していた。


「実を言うとね、もう眞行路一家うちには銭が無いんだよ。今回の戦争をやるために有り金は全ては使っちまったからね。だから正直なところあんたに賠償金を寄越せって言われなくてホッとしてるよ」


「左様か。であれば、むしろ我が方から金を都合した方がよろしいのではないか?」


「いや。そんなつもりで言ったんじゃないさ」


 淑恵は村雨の目を真っ直ぐに見つめて続けた。


「確かに眞行路一家はあんたに負けた。親分っていう大黒柱を奪われちまった。けれど、魂までは奪わせやしない、高虎の妻であるあたしが敵に情けをかけられるなんて、そんな屈辱を許すと思うのかい?」


「ほう」


「賊軍にも賊軍なりの意地があるんだよ。分かっておくれ」


 任侠者の妻の矜持の表れ。それを聞いて何を感じたか。村雨は深く頷いた。


「承知した」


 村雨は淑恵にそう答えると、今度は俺に顔を向けた。


「中川会三代目、中川恒元公に伝えよ。戦が起こるに先立って中川会は眞行路一家に絶縁の沙汰を下しておる。ゆえに此度の件は中川会とは何ら関わりが無いとな」


「ああ。勿論。俺たちも最初からそのつもりだぜ」


「加えて我らに関東侵略の意図は無い。横浜とその周囲の安寧が保たれればそれで良い。我が所領が脅かされぬ限り、中川と事を構える気は無い」


 煌王会系列の組の中で唯一関東に勢力を張る村雨組との関係は現状のままで良いということ。そこに変更が無かったのは何より。俺は胸を撫で下ろしつつ、返事を投げた。


「分かったよ。会長にもそう伝えておくぜ」


 俺が頷いたのを見て村雨は今一度淑恵の方を向く。そして静かに頭を下げたのだった。


「奥方様。どうかこれにて和約としては頂けぬか。降伏せよとは申さぬ。我が代紋の前に跪けとも申さぬ。ただ、眞行路一家との戦が終わった証が欲しいのだ」

「そうかい。分かったよ」


 村雨の申し出に淑恵は頷いた。


「そうまで頭を下げられちゃ、こっちとしても受け容れるしかないからね」


 そして彼女は俺の目を見て言ったのだった。


「これで良いね? 中川会さん?」


「……ああ。そうだな。あんたが決めることだからよ」


 今さら中川会本家の了解を取るべきことでも無かろうに。それでも一応俺に確認を寄越したのは何とも淑恵らしい。彼女の実直な気質ゆえのことであろう。


「はい。そうと決まれば一筆書くとするかね。おいっ! 誰かっ! 和紙と毛筆を持ってきなっ!」


 淑恵が部屋の外に呼びかけると、しばらくして「へい」という返事とともに組員の一人が紙と筆を持って現れた。彼女はそれを受け取るとすらすらと書状をしたためる。


 そして書き上げたものを村雨に手渡したのだった。


「ほらよ! これで良いかい?」


 受け取った書状に目を通す村雨。すると彼は大きく頷いた。


「うむ、確かに頂戴した」


「この内容で村雨組は納得してくれるんだろうね?」


「無論だ。この明文さえあれば皆矛を収めよう。そちらから手出しが無い限り向こう10年は粉をかけぬと誓おう」


 村雨はそう言うと、受け取った書状の左半分に何やら書き足す。ざっと覗き見た限りでは不可侵宣言。これによって和約の誓紙が完成したのだった。


「涼平。此度の和約は中川恒元公の仲裁によって成された形式としたい。お前から三代目に口添えを頼めるか?」


「ああ。村雨組の銀座不可侵は中川会にとっても旨い話だから、たぶん大丈夫だと思うぜ。どうにかなる」

「頼むぞ」


 後日、改めて和約締結の席を設けることで合意して話はお開きになった。俺は村雨から預かった書状を会長へ持ち帰り、仲裁の言質を得れば良いのだ。


 しかし、冷静に考えてみると疑問が出てくる。手打ちにあたって領土も賠償金も要らないとした村雨耀介。果たして本当にそれで済むのだろうか?


 今回の戦争では、村雨サイドにも少なからぬ被害が出ている。横浜の事務所は焼け落ちたと聞くし、山手町の邸宅に至っては眞行路一家に占領されてしまったのだ。主犯の高虎を討つだけなく、何かしら旨味を得ねば釣り合わないのではないだろうか。


 まあ、その辺りは俺の気にすることではない。村雨が何かしら企んでいたとしても、要求は眞行路一家に対して行われるだろうから中川会は関係無い。尤も、わざわざ中川会三代目に取り持ちを頼むくらいだから村雨が手打ち破りをする可能性は低いと思うが。


 そんな分析を俺が繰り広げている横で、村雨と淑恵のやり取りは締めくくられようとしていた。


「さて。これにて一件落着と考えてよろしいか。本日はお会いできて嬉しゅうござった」


「ああ。まあね。でも、忘れないことだよ。あたしらは決して滅びたりしない。たとえ身一つになろうとも敵ある限り命を懸けて戦う。それが眞行路一家なんだ」


「分かっておるとも」


 釘を刺すような淑恵の捨て台詞を村雨は心の中で噛みしめている様子だった。彼もまたヤクザ。銀座の猛獣、眞行路高虎と相まみえた少し前の喧嘩を感慨深く思い返していたのかもしれない。


「では、これにて失礼致す」


 部屋を出るべく席を立った、その時。


 ――プルルルッ!


 村雨の携帯電話が鳴った。


「失礼」


 その場で端末を開いて通話に出た村雨組長。ただならぬ雰囲気であった。


「どうした? 何かあったのか? な、なにぃ!?」


 驚きのあまり村雨の声が裏返る。その反応に淑恵も思わず立ち上がった。


「ん?」


 やがて電話を「すぐに向かう」と言って切ると、村雨は俺たちに向き直ってこう言った。


「ではな」


 つい数秒前とは顔つきが違う。心なしか焦っているような、そんな面持ち。6年前、彼と一緒に過ごしていた俺には分かる。


 これは何か重大な問題が発生した時の顔だと。

「あんた? どうしたんだい? 何かあったのかい?」


 淑恵の問いかけに村雨は神妙な面持ちで答えたのだった。


「それは申せぬ。失礼」


 すぐさま部屋を出て行った村雨。


「皆の者! はよううに横浜へ帰るぞ! 支度を致せ!」


 村雨は組員たちにそう呼びかけて、足早に屋敷を出て行った。流石に敵方の屋敷の中。俺たちに聞こえる所で真相を口に漏らしたりはしないか。


 だが、あれは何だったのだろう?


 疑問に包まれる俺をよそに、村雨耀介は銀座を立ち去る。6年ぶりに顔を合わせたにもかかわらず身の上話は無い。それほど村雨には焦りの色が滲み出ていた。


「ねぇ、麻木」


 村雨が去った後、俺は淑恵に呼び止められた。彼女はやや興奮気味な様子で俺に尋ねる。


「あんた、今の電話聞いたかい?」


「いや」


「そうかい……でも、何か嫌な予感がするんだよねえ……」


 そんな不安を吐露する彼女に対して俺はこう返す他無かった。


「まあ、何はともあれ一件落着したじゃねえか。村雨も帰ったことだ」


 銀横戦争については無事に和約が成りそうだ。尤も、俺の6年前の喧嘩別れの過去にケジメが付いたとは思えないが。


「そうだね……まあ、無事に手打ちが成っただけ収穫と思うべきか」


「ああ。それに村雨の組員たちも全員無事だったんだしよ」


「そうさね……」


 淑恵はまだどこか腑に落ちない様子であったが、それでも俺の言葉に頷いてくれたのだった。


 夕刻。俺は眞行路一家が和約に同意した旨を会長に伝えるべく赤坂の総本部へ戻った。偶然にもこの日の恒元は暇であり、執務室で紅茶を飲んでいるところだった。


「いやあ、日本の冬は苦手だよ。寒くて外に出るのが億劫になっていけないね。これじゃあ仕事にならん」


 そんな彼に一連の出来事を報告すると、既に彼は才原局長から話を聞き及んでいるようだった。


「我輩も驚いたよ。まさかあの高虎が……こんなにもあっさりと……」


「ええ。埠頭に居る所を海路から奇襲されたようです。村雨と一騎打ちになって討ち取られたとか」


「そうか……あの高虎がなぁ」


 恒元はカップをテーブルに置くと、何かを思い出すような口調で呟いた。そして彼は俺に向き直る。


「とりあえず銀座の猛獣の野望は阻止できた。だが、これで組織体制の改革が成ったわけじゃないぞ」


「ええ」


「今回の敗北で眞行路一家は甚大な損害を被っただろうからね。しばらくは大人しくせざるを得ないはずだよ。けれども他の連中の動きが気になる」


 中川会においての最大かつ最強の勢力を誇っていた眞行路一家が敗れ、総長の眞行路高虎は討ち取られた。


 しかし、他の御七卿はまだまだ健在だ。特に群馬の椋鳥一家は眞行路と組んで不穏な臭いを漂わせていた。到底油断できる相手ではない。他にも眞行路一家が敗れたことで、その後塵を拝していた組織が一気に台頭を見せる可能性もあった。


「むしろ眞行路高虎という大物が消えたおかげで関東の情勢はますます不安定化するかもしれん。これから暮れにかけて何が起こるか分かったものじゃないぞ」


「はい。承知しています」


 俺は頷いて答えた。恒元の言う通りだ。高虎が討たれたことで眞行路一家という最大勢力は間違いなく衰退に向かう。


 その後釜を狙う者が現れ、幹部たちの勢力争いはより一層激しさを増すだろう。これからは誰が敵で誰が味方かを見極めねばならないのだ。


「まあ、とりあえず今日はもう良いだろう。ご苦労だったね」


「いえ、こちらこそありがとうございました」


 頭を下げた後、俺は会長室を後にした。廊下を歩きながら頭の中を整理してみる。


 銀座の猛獣、眞行路高虎が討たれた――。


 実にあっけない展開であった。彼に復讐戦を挑んで追い落とさんとあれこれ計略を練っていた、ここ数日の自分が馬鹿らしく思えてくる。あれほど疎ましく腹立たしく感じていた不俱戴天の仇がこんなにも簡単に敗れてしまうなんて。


 拍子抜けと驚愕が同時に来て虚無感すらおぼえてしまいそうだった。どうしてだろう。高虎には敗北の屈辱を舐めさせられたというのに。


「やれやれ……何なんだ、この気持ちは……」


 俺は思わず独り言を呟いていた。本来なら喜ぶべきところなのに、何故にこんなにも心が軽やかにならないのだろう。あの男の存在にここ最近はずっと悩まされていたというのに。


 しかし、どこか釈然としないものが心に残っているの。それが何なのかは自分でも分からないのだが――。

 考えれば考えるほどに分からない。俺は迷いを振り払うように外へ出た。腹が減っていたので3丁目の『Café Noble』へ向かった。


「いらっしゃい」


 この日も華鈴の一人営業。店内はそこそこ賑わいを見せている。俺はいつものようにカウンタ―に腰かけ、前もって決めていた注文を述べた。


「ミート―ス、頼めるか? オリジナルブレンドのコーヒーも頼むわ」


「はあい」


 華鈴はいつものように淡々と応じ、珈琲の準備に取り掛かった。そして俺は注文の品が届くまでの間、静かに待つことにする。


 やがて料理と飲み物が運ばれてきて、俺の前に並べられたのだった。


 この日は店が混んでいたため華鈴は接客にせわしなく雑談を交わす寸暇もない。気分を換えるためにも彼女と話したかったが仕方ない。


 ミート―スに舌鼓を打ちながら黙々と食事を進めることしばらく。どうやら仕事がひと段落したらしい。カウンター越しに華鈴が声をかけてきた。


「ねえ、麻木さん」


「ん?」


「何かすっごい暗い顔してるじゃん。何かあったの」


「あ……いや、別に」


「別にって」


 誤魔化す俺だが、華鈴は納得しなかった。


「嘘でしょ。だって麻木さんの周りの空気がどんよりしてるもん」


「そうか?」


「うん。何かあったんでしょ? 話してみてよ」


 そんな華鈴の言葉に促されて俺は思わず口を開いていた。本当はヤクザ周りの事情を軽々と伝えるのもいかがなものかと思ったが、彼女は既に中川会のシノギに関わっている。カタギではあるが問題は無いだろう。

「……眞行路の総長が討たれた。眞行路高虎が」


「えっ!?」


 想像以上に驚きの顔を見せた華鈴。中川会最大の武闘派親分ということで高虎の強さは彼女の耳にも入っていたらしい。それくらいの大物が討たれたという報せは衝撃をもって受け止められたようだ。


「眞行路高虎っていえば、あの銀座の猛獣でしょう? そんな人が……」


「ああ、俺も驚いたよ」


 高虎が討たれた。


 俺にとっては超えるべき壁が突如として崩れたような感覚。少し大袈裟な表現をすれば、目標のひとつが失われたにも等しい。


 所謂“拍子抜け”以外の言葉で説明するとするなら、どんな言葉が適切なのだろう。分からない自分もまた情けなく思える。


「……無様に負けを晒して『次こそは』って思いで過ごしてた。ようやく奴を倒せると思った矢先にこれだよ。リベンジする機会も無いなんて」


「別に良いんじゃない? むしろ、あたしだったら好都合としか考えられないわ」


「どうして」


「だって、自分が手を下す間も無く消えてくれたんだよ。嬉しい以外に、何の感情があるって言うの。まあ、その辺は男と女の感じ方の違いだろうね」


「ああ……」


 華鈴の言葉は実に的を射ていた。眞行路高虎が討たれたことは客観的に見れば喜ばしいことなのかもしれない。中川会三代目に仕える身としては、これで会長と奴との因縁にケリが付いたと思うべきなのだろう。


 しかし、同時に複雑な思いもあるのだ。あれだけ世間をかき乱した男がこうもあっさり討たれてしまって良いのかという疑問が未だに拭えないのだ。


 そんな俺の胸中を見透かしたように華鈴はこう続けたのだった。


「麻木さんもさぁ、もっと気楽に考えなよ」


「気楽に?」


「メリットの方が明らかに多いわけじゃん。ヤクザの事情はよく分かんないけど、少なくともあいつに苦しめられる人はいなくなるわけだし」


「……」


「あたしだってその中の一人よ。眞行路一家が勢いづくってことは、あのクソ御曹司が調子に乗るってことだから。このまま眞行路が衰退に向かってくれれば嬉しいことこの上ない」


「まあ……お前の場合はそうなのかもしれねぇな」


「中川会全体にとっても良いことなんじゃない? まあ、知らないけど。とにかく、こういう時はさぁ、もっと物事を俯瞰して見るんだよ」


 華鈴の言葉に俺は沈黙で答えるしかなかった。確かに彼女の言うことは尤もだ。俺自身の手で復讐を果たさねばなるまいと固定観念に囚われていたから、こうも複雑な思いを抱いてしまうのだと思う。


「……これで良かったって思う他ねぇのかな」


「そうだよ。あたしはいつだってそうやって割り切って暮らしてるよ。でなけりゃ、世の中は理不尽なことばっかりで嫌になっちゃうもん」


「そうか……」


 華鈴の言うように、物事を俯瞰して見ることも時には必要なのかもしれない。そうすることで新たな道が開けることもあるのだろう。


 これで良かった。過ぎたことに踏ん切りをつけることは人生においてとても重要だ。現に俺は6年前の選択をそのようにして自己肯定した。恩人に背を向けて中川会に行くという選択を。今もなお、あの時の選択は間違っていなかったと思う。そう意識するよう努めている。そうでなくては自分が自分で居られなくなってしまうからだ。


 何故にここまで思い悩むのか。きっとそれはかつての恩人、村雨耀介と久方ぶりに顔を合わせたせいだ。

 あの人は俺を許したのか? 許していないのか?


 結論を得ぬまま別れてしまった。そのことについて直接問うてみるべきだったかもしれないが、その度胸は無かった。


 またまた自分が情けなくなる。


「……」


 なおも俯く俺に、華鈴はため息をつきながら珈琲を注ぐ。


「はいはい。2杯目はサービスしてあげるから。これでも飲んでさっさと元気出してよ、湿っぽいったらありゃしないわ」


 華鈴の気遣いに感謝しつつ、俺は淹れたての珈琲をすすった。


「ああ、すまねぇな」


 苦味のある液体が喉を潤すと同時に心も癒されるような気がした時。


「お姉さん、席を変えても良いかい?」


 背後から男の声が聞こえた。


「あ、はい。どうぞ」


 華鈴が応じると、その男はどういうわけか俺の右隣に腰かけた。席は他にも空いているというのに。


「どうもね」


 男はそう挨拶すると、おもむろに煙草に火を点けた。おかしな野郎も居たもんだ――俺は横目でその男を見やる。年齢は30代半ばくらいか。メンズモデルと見紛うほどにすらりとした長身が特徴的。それでいて顔立ちは整っていた。大きな瞳が印象的に見える。装いについても紫のスーツに同色のネクタイという派手なものを着込んでいる。なかなかに洒落ている。


 しかし、どこか胡散臭い印象を受けるのは何故だろう? おまけに何だか既視感がある姿をしているが? この男、依然に何処かで会ったような?


「この店は良いね。こんなに美味い紅茶が飲める上に料理も絶品ときている。僕は初めて来るけど、常連の皆様方が羨ましいよ」


 そう独り言のように語りを飛ばした男。不意に彼と目が合った。偶然か、必然か、まるで魔法のように、視線が吸い寄せられる。


「やあ」


「なっ!?」


 ああ、確信した。俺はこの人物と以前に会ったことがあると。そして彼の正体は俺にとってはあまりに重大な意味を持つと。


「菊川さん!?」


「久しぶりだね、麻木クン」


「どうしてここに!?」


 そこに居たのは菊川きくかわ塔一郎とういちろう。村雨組の若頭にして俺とは旧知の仲……いや、因縁の仲と呼んでも過言ではない男だ。


「あ、あんた、どうしてこんな所に居やがる!」


「どうしても何も。赤坂に来たついでにちょっとお腹が空いたから立ち寄ったんだよ。そしたら運よく美味いホットサンドにありつけたってわけさ」


「そうじゃねぇ! 何で煌王会の人間が東京に居るのかって話だ!」



 俺は思わず素っ頓狂な声を上げていた。一方、華鈴はきょとんとしている。


「えっ……麻木さんのお知り合い……?」


「知り合いも何も、この男はつい今日まで眞行路一家と戦争してた村雨組の若頭カシラだ!!」


 俺がそう説明すると、華鈴はぎょっとした顔になる。


「ええ!? そんな人がどうしてここに!?」


 彼女の視線を受けた菊川は苦笑いした。


「まあまあ。そんな怪訝な顔をしなくたって良いじゃありませんか、お姉さん。さっきも言った通り僕はただ食事に来ただけなんだから」


 いやいや、絶対におかしい。飯を食うなら、横浜で済ませれば事足りるものを。直系組織のナンバー2ともあろう存在が何故に東京の、それも中川会のお膝元へ堂々と姿を見せたのか……?


 俺は動揺を抑えるのが大変だった。然もありなん。何せこの菊川という男は6年前に俺を村雨組から追い出した張本人なのである。


「……どういうつもりだ?」


「何が」


「とぼけんじゃねぇ! いい加減に答えろやぁ! どうして東京でデカい顔して飯を食ってんだよ!」


 こちらの激しい詰問に対し、菊川は涼しい笑みで答える。


「はあ。冗談が通じないのは相変わらずだね。麻木クン。そんなんじゃモテないよ。元々女の子には縁もゆかりも無いだろうけどさ」


「くだらんおしゃべりはそこまでだ。さっさと俺の質問に答えやがれ。頭を撃ち抜くぞ」


「つくづくキミはつまらない男だねぇ……まあ、一言で答えるなら組長の使いだ。中川の三代目に仁義を立てたいと思ってね」


 想定外の答えに俺は絶句するしかなかった。仁義とは如何なる意味か。村雨組長から東京に遣わされたという目的が分からなかった。


「ほら、おたくの会長には銀座との和議の仲介人を頼んだろ。そのお礼ってことで挨拶に行こうと思ってたんだよ」


「だから東京に来たってわけか」


「うん。で、ちょっと腹ごしらえをしてたら運よくキミと出くわした。村雨組うちを抜けて中川会に走り、今や会長の側近になったキミとね」


 和議仲介の礼と挨拶。確かに道理は通っている。だが、それでも俺は食って掛かる。


「ふざけるな。仁義だ何だっていうなら組長が直に来るのが筋だろ。あんたみてぇな三下が簡単に会えるほどうちの会長は暇じゃない、ましてやその名を軽々しく使うなんざ……」


「その話を了承したのはキミだろ! あまつさえ『会長にも取り次ぐ』とうちの組長に約束もした!それを今さら無かったことにするのは違うんじゃないか!?」


「……」


 菊川の反論に俺は言葉を詰まらせる。確かにそれは事実だ。銀座における村雨組長と眞行路淑恵の会見の場において、俺は中川恒元を名目上の仲裁人とする村雨組長の提案を承諾しているのだ。


「まあ、キミの言い分も分からなくはないけどね」


 菊川はそう前置きして続けた。


「でもさ、僕は仮にも煌王会貸元のナンバー2なんだよ。もうちょっと敬意を持ってほしいもんだねぇ。ただの若衆が来たならともかく若頭なんだからさぁ」


「分かったよ! あんたを会長に会わせれば良いんだろ!」


「分かればよろしい」


 俺が調子を崩されるのは菊川のせいだ。6年前と何ら変わらぬ、人を食ったような飄々した態度。鼻に付く薄ら笑いも当時と同じ。


 かつての俺はこの男に散々振り回されていた。あの日、菊川が俺を追い出すための策を弄していなかったら――今もなお俺は村雨組に居たかもしれないのに。こいつこそが俺の未来を歪めたのだ。


 同じ空間に居るだけでも強烈な憎しみが湧き上がってくる。それは忽ち殺意に変わり、俺の思考をジリジリと焦がす。


「……」


 ああ。いけない。ひとまず冷静にならなくては。俺はカップのコーヒーをグイッと飲み込んで激情を中和するよう努めた。それでも全てをかき消すには至らなかったのだが。


 しかしながら、まさかこんなところで会うとは思わなかった。昼間の村雨といい、偶然にしてはあまりにも都合が良すぎる。一体、何のめぐりあわせなのだろうか。


 ひとまず軽く咳払いをして、俺は菊川に向き直った。


「分かってると思うが今日は無理だぞ。会長は先約のためお出かけ中だ。挨拶したいってんなら明日以降にしてくれ」


「うん。それで構わないよ。っていうか、別に僕は今すぐに会いたいとは一言も言ってないんだけどねぇ」


「うるせぇ。だったら今夜はさっさと横浜へ帰って明日の朝にでも出直してきやがれ。村雨組の若頭は常識も知らねぇのか」


 この男は相変わらず一言が多い。いちいち嫌味臭いというか皮肉が効いているというか。尤も、俺もこの6年で相当な皮肉屋になったものだが。


 とにかく一緒に居ると神経を逆撫でされるようで心をかき乱される。酒井とは違ったベクトルでの厄介者だ。


「はいはい、分かりましたよ」


 菊川は投げやりな返事をした後、視線を俺から反らした。


「お姉さん。紅茶、お代わりをお願いできますか」


「あ、はい」


 華鈴は菊川の要望に応えてティーポットから紅茶を注いだ。カップになみなみと注がれる琥珀色の液体を菊川は優雅に味わう。その風流ぶった態度がまたしても俺の神経を逆撫でする。


 俺はさっと珈琲を口に含んだ。そして、ふと思い至ったことを口にしてみることにした。


「……あんたも眞行路との喧嘩に噛んでたんだろ? だったら連中とのドンパチでどれくらいのカネが使われたか出費額は把握してるはずだ」


「ああ。もちろん。億単位ってわけじゃないが、そこそこのお金を投じることになったよ」


 菊川はあっさりとそう答えた。だが、それは俺にとっても既知の情報だ。


「6年前、あんたは組の金庫番だったよな?」


「まあね。今は僕も組を立ち上げたもんだから、村雨組の事務周りは別の人間に任せてあるけど」


「そうかよ。何にせよ、戦争をやるには決して安くはないカネが必要ってことは知ってるだろう。なのに村雨組は今回の和議で眞行路サイドに一銭も要求してないってのはどういう風の吹き回しだ?」


 菊川は押し黙った。


「……」


 その沈黙からして深い事情があるとすぐに分かる。俺はさらに続ける。


「戦争に勝ったのは村雨の方だろ? 俺の知ってる残虐魔王に『敵を赦す』なんて流儀は無かったと思うが?」


「……鋭いところも相変らずだな、麻木涼平。キミの言う通りさ。村雨組うちにも色々あって、多少慌てても講和を結ばなきゃならない事情があるんだよ」

「ほう?」


 俺が詳細を問うと菊川は紅茶を口に含んだ後、ゆっくりとカップをソーサーの上に置いた。


「今の煌王会ではかつて権勢を振るった桜琳一家がすっかり衰退してしまった。それは知ってるだろ?」


「ああ」


 俺は頷いた。6年前、煌王会の長島勝久六代目は自らの出身母体である桜琳一家の人間を優遇して最高幹部へ登用し、その身内贔屓の人事に組織内では不満が燻ぶっていた。そこへ最高幹部同士の権力争いから始まったクーデター『坊門の乱』が発生、この動乱で当時の坊門清史舎弟頭、日下部平蔵若頭、庭野建一総本部長は失脚し、桜琳一家一強体制は崩れた。


「ところがね、力を失った浜松の桜琳一家に代わって、神戸の松下組がここ数年で一気に増長してきているんだ」


「ああ、それも知ってるぜ。松下組って言えば煌王の橘威吉とかいう若頭が組長をやってるところだろ」


「そうだ。我らが村雨耀介も負けてはいないんだけど……ここへ来て神戸に不穏な気配が見え始めたんだ」

「不穏な気配?」


「神戸は松下組に牛耳られようとしている。そして、村雨耀介を疎ましく思う連中が次々と神戸へ流れていってるらしい」


「どうやら松下組は本気で六代目体制を倒すつもりでいるらしい。長島会長を追いやって自らが次期会長、つまりは七代目の椅子に座るつもりだ」


「なるほどな……」


 部外者である俺が思う以上に、煌王会執行部の覇権争いは激しさを増していた。なんと橘威吉若頭は煌王会の現時点での全権を掌握済み。6年前の銃撃事件の後遺症で半身不随になった長島会長に代わって組織を事実上コントロールしているというのだ。


「長島会長には桜琳一家っていう子飼い組織があったんだけど、あのクーデターの後に勢力を削がれちゃってね。総長の片桐は服役中だ」

「とするとよ、煌王会の中で松下組に立ち向かえるのは村雨だけってことか」


「ああ。うちの組長の立場はあくまでも六代目体制の護持。長島勝久会長が渡世に在る限り現状の変更は認めないって考えだ。けど、味方は少ない」


 今や橘率いる松下組は煌王会の直系団体の半数以上を味方に引き入れており、着々と七代目襲名の下地を作りつつあるそうな。


「じゃあ、その橘って野郎がいつ事を起こしてもおかしくねぇってわけだ」


「おかしくないどころか、どうやら起こしてしまったらしいんだ」


「何だって?」


 溜息と苦笑を同時に見せた後、菊川は低い声で語った。


「今日の昼下がり、本家から長島会長の引退が発表された。『本日をもって渡世より身を退き、跡目には橘威吉若頭を指名する』と」


「おいおい、それって……!?」


「ああ。もちろん正当な手続きを踏まれたものじゃない。実を言うと未明くらいに名古屋の総本部へ松下組の連中が大挙して押し寄せるのが目撃されている」


 これが何を意味するかは最早言われるまでもない。第二のクーデタ―だ。松下組の橘威吉による、煌王会七代目の座を狙った反乱である。


「……なるほどな。だからあの人は慌てて横浜へ飛んで帰ったってわけか。領地も賠償金も取らずに手打ちを早めたのも頷ける」


 合点がいった俺に菊川は続ける。


「そうさ。だから、村雨組うちとしては、あんまり銀座との戦争を長引かせたくなかったんだ。そしてこれはまだ公には表明していない情報だけど、我らが組長は橘と一戦交えるつもりでいる」


 俺は思わず菊川の顔を二度見した。


「マジで?」


「あいつが義侠心を絵に描いたような男であることはキミも知っているだろう。六代目には貸元に引き立てて頂いた恩がある。相手が誰であれ、それを忘れるような村雨耀介じゃない」


「……なるほどな。それであんたは中川会に加勢を求めに来たってわけか」


「ご明察。さすがは麻木涼平だ。キミならきっと話に乗ってくれると思っていたよ」


 菊川はニヤリと笑った。さて、どうしたものか。話の大筋は分かったのだが――俺はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向く。


「勘違いすんな。俺に決定権はない。お前さんらに力を貸すかどうかは会長がお決めになることだ」


「分かってるさ。そんなこと」


 菊川は俺の反応を見て愉快そうに笑うのだった。


「まあ、決定権は無くとも口添えはできるんじゃないか? 何せキミは中川恒元のお気に入りっていうじゃない? おまけに夜な夜なお楽しみだとか?」


「……ッ」


 反応に困った。何故に菊川はそれを知っているのだろう。いや、俺が恒元に夜の相手をさせられている旨は組織内では半ば公然の秘密となっているのだが。よもや菊川が知っていようとは。想像よりもずっと情報は広まっているようだ。


「うるせぇよ」


 取り繕うように吐き捨てた俺。ここには華鈴も居るのだ。彼女の前でそのようなことを言われては困る。幸いにも彼女は厨房で他の客が注文した麺料理を茹でているところだったが、万に一つ聞かれでもしたらどうするのだ。俺は菊川を激しく睨みつける。


「ふーん? 図星かな?」


 食わせ者の若頭は、それでもなお俺をからかい続けた。相も変わらずこの男は嫌な奴だ。この話題をさっさと終わらせたかったので、俺は強引に話を引き戻すことにした。


「……別に口添えしてやるのは構わんが。会長に村雨組を助けてやるメリットはぇぞ」


「そうかな。橘威吉は中川への敵対姿勢を鮮明にしているからねぇ。あれが煌王会の七代目になったら色々とまずいんじゃないの」


「さあな」


「少なくとも、煌王会は今以上に関東に攻勢をかけてくるだろうね。そうなったら中川会はどこまで煌王と戦えるだろうか。ただでさえ資金難だっていうのに」


「言葉を返すようで申し訳ねぇが、おたくら関西にも関東を攻めるだけの力があるとは思えねぇぞ。組織を挙げてデカい戦争ができるくらいに統制が取れてたら反乱なんて起きねぇっつうの。脅すならもっとマトモな口実を考えるこったな」


「ははっ。こりゃあ見事だ。少し見ないうちに弁が立つようになったねぇ、麻木涼平」


「当たり前だ。馬鹿野郎」


「まあ、それはともかくとして」


 菊川はそこで言葉を切ってから続けた。


「キミは村雨組に恩があるはずだよねぇ? 6年前、野良犬だったキミを拾って実子格の立場まで与えてやったんだから?」


「……チッ」


 ああ言えばこう言う。俺は思わず舌打ちした。だが、確かにその通りだ。俺は6年前、煌王会に拾い上げられた身である。その借りを未だ返せていないどころか、せっかく賜った実子格の立場を軽々しく捨てた不義理に対する償いもできてはいないのだ。


 気づけば村雨組長の姿が脳裏をよぎる。久々に会ったというのに、今日はまともに雑談も交わせなかった。何処か他人行儀な素振りにも見えた。


「……」


 菊川は俺の泣き所を突いている。割り切れぬ過去を槍玉に上げれば断り切れないと分かっている。まったく、どこまで人を食った奴なんだ。


 俺は大きなため息をつく。されども、ここで迂闊な口約束はしない。


「分かったよ。会長には口添えしてやるが、中川会が村雨組に肩入れする義理は無い。せいぜい煌王に外交圧力をかけるくらいだ」


「構わないさ。中川会三代目が出てきてくれるだけでも心強い」


 菊川は満足そうに頷いたのだった。結局のところ、村雨が中川恒元に名目上の仲裁を頼むのも中川会の後ろ盾を得たいから。恒元の顔を立てることで後々に助勢を得られる踏んだのであろう。


「ったく……どこまでも食えねぇな。あんたも、村雨の組長も。ダシに使われる俺の身にもなって欲しいもんだぜ」


「おいおい。6年も経って、まだそんな甘いことを言ってるのか。ヤクザってのはそういうものだろう」


「分かってる。個人的な理想を述べたまでだ。あんたはともかく、組長とはもう少しくらい人間味のある話をしたかった」


 すると彼はあからさまに鼻を鳴らしてきた。


「もう僕らと人間味のある話ができる仲じゃないってことはキミ自身が一番よく分かってるんじゃないの?」


 またまた痛いところを突かれた。俺は思わず押し黙る。


「……ッ」


 菊川はそんな俺の様子を見て、呆れたように笑うのだった。


「まあいいさ。6年前の件については僕にも非がある。見苦しい嫉妬心を昂らせてキミを組から追い出そうとしたのがいけなかった」


「……随分とあっさり認めるんだな。自分にも責任があるって」


「あの後、組長にもえらく怒られたからねぇ」


 菊川の真意はさておき、中川会へ出奔した俺の選択を村雨組長はどう思っているのか。それだけがとても気になっていた。


「あんたは組長に責められたのか?」


「そうだねぇ。『何故に涼平を中川会へ渡したのだ』って。けど、あいつも内心じゃあ分かってたみたいだよ」


「何を?」


「結局のところ、キミを手元に置き続けることはできないと」


 2杯目の紅茶を飲み、それから華鈴が3杯目を注いだところで菊川はさらなる言葉を付け足す。


「麻木涼平、キミには川崎の獅子の血が流れている。関東ヤクザとして中川会で渡世を歩むべき宿命さだめだったんだよ。生まれた時からね」


 俺はまたもや返答に窮した。村雨組長がそんなことを考えていたとは……あの時、彼は是が非でも俺を手放さぬつもりと思っていたのだが。


「組長はキミを子分にすることで超えようとしていたんだ。かつて自分に膝を付かせた伝説のヤクザ、麻木光寿を。けれどもそれは所詮あいつの自己満足でしかない」


「……」


「まあ、僕個人としてはそれが許せなかったってのもあるよ。あいつは川崎の獅子の幻想に心酔し過ぎていた。だから僕は敢えてキミを中川会へ渡したんだ」


「……そうなのかよ」


「その過程でああいうことが起こったのは想定外だったけどね。あの日、キミにやられた傷は今も残っているよ。組の連中だって同じさ」


 もう俺は何も言えなかった。この6年間、自分が抱えてきた苦悩は一体何だったのだろう。決して帳消しにはならない罪も犯した。赦されないと分かっていながら、心のどこかでそうではない言葉を望んでいた。過去から逃れようと血と硝煙に塗れた日々にのめり込む一方、心の中には常に村雨への思いがあった。


 いつか村雨耀介に詫びたい。期待を踏みにじってまで中川会に行った理由を言い訳させてもらいたい。そして、赦されたい――。


 全ては俺の独り善がりであったようだ。


 だが、思い悩み、苦しんでいたのは村雨もまた同じ。彼とて考え抜いた末に過去への踏ん切りをつけたのだろう。結局のところ、それもまた俺の自分勝手な解釈なのかもしれないが。


 いずれにしたって過去を振り返るのは不毛なことだ。


「まあ、いいさ」


 やがて菊川は話を切り上げた。


「ともかく、僕たちは中川会三代目の力添えを必要としている。裏社会の安寧秩序を保つためと思って、助けてやってくれないか」


「ああ、分かったよ」


 俺に断るという選択肢は存在しなかった。一連の話は俺に話を呑ませるための菊川による創作なのかもしれない。されど、俺は恒元に口添えをするだろう。

 それが村雨に対して出来る、ひとつの償いの形であるような気がしたから。過去を振り切るには、もう少し時間を要しそうだ。


「おおっ、そうだ。キミに会ったら是非とも伝えておきたい土産話があったんだよね」

 菊川はポンと手を打った。


「土産話?」


「うん。キミが覚えているかは分からんが、絢華ちゃんの近況だ」


 思わず俺は身を乗り出していた。村雨絢華――覚えているに決まっているとも。村雨組長の娘にして、俺が初めて愛した女なのだから。


「あ、絢華がどうしたって!?」


「あの子は今、イギリスに居るよ。現地の大学で政治学を学んでいる。キミも知っての通り、彼女は異国暮らしが長かった。その影響だろうね。たぶん」


「そ、そうなのか」


 驚くと共に安心した。彼女も彼女なりに自分の道を歩んでいることに。村雨組から逃げ出した後は彼女がどうしているか、ずっと気がかりであった。夢を見据えて着実に努力を続けているようで本当に良かった。それが分かっただけでも大きな収穫だ。


「ああそうだ、絢華ちゃんといえばね……」


 菊川は思い出したように続けた。


「……最近になってイギリスから連絡があったんだ」


「連絡?」


「うん。『涼平はどうしているの』と」


「なっ、何だとぉ!?」


 随分と間抜けな声が出た。俺が素っ頓狂な反応を見せたことで菊川は笑った。いつもの嘲弄ではなく、素で腹を抱えているのが分かった。


「はははっ。いい反応だね、麻木涼平」


「うるせぇよ! そんなことより、何で絢華がそんなことを!?」


「さあね。未だキミの存在が心の片隅に残ってるんじゃないかなぁ。向こうで彼氏は作ってないみたいだしさ」


 向こうで彼氏は作ってない――その言葉を耳にした途端、胸の辺りがそっとなだらかになった。別に安堵する必要も無いというのに。絢華とは恋人関係にあるわけでもないのだから。


「と、ところであんたは絢華に何て言ったんだ? 俺のことについて……?」


「別に。僕だってキミのことを逐一把握しているわけじゃないからさあ。『それなりに元気にやってるんじゃない』とだけ言っておいたよ」


 若頭の報告に対して絢華は何と反応したのか。それを深く尋ねる度胸は俺には無かった。組長同様、6年前に裏切ってしまったあの娘と向き合うのが怖かったのかもしれない。


「そ、そうか……何はともあれ、あいつがちゃんと自分の人生を歩んでるって知られただけでも良かった」


 出来ることなら、俺のことなど既に忘れていてほしかったのだが。


 男が色恋に関しては付き合った相手毎に記憶の引き出しを作るのとは対照的に、女性の記憶は謂わば上書き型だ。別れた恋人は新しい恋人の存在によって搔き消されてゆくのである。絢華には早いところ良い男性と知り合って俺との思い出を消し去ってほしい。


 そう思うのは無責任な男の我がままだろうか。今さらあの子に対して償う手段があるとすれば、それは彼女の幸せを祈ることである。


「心配しなくても絢華ちゃんは大丈夫だよ。体もすっかり元通りになったことだし、これから自分の力で人生を切り拓いていける。将来は歴史学者になりたいんだってさ」


「そうか。だったら良かったぜ。俺があいつの人生を歪めちまったんじゃねぇかって、ずっと心配してたんだ……」


「フフッ、思い上がりも甚だしいな。自分の存在をどれほど過信してるのかは知らないが、キミなんかあの子に何の影響も及ぼしていないよ。寂寥感を抱くべきなのは、芹沢せりざわあにさんだろう」


 これまた懐かしい名前が聞こえた。菊川が“あにさん”と敬称で呼ぶのは芹沢せりざわあきら、村雨組の舎弟頭で俺にとっては組長と並んで恩のある人物だ。確か6年前に中川会の策略で投獄されてしまったと聞いていたが……?


「兄さんはあれから5年間を刑務所で過ごす羽目になった。単純逃走罪と銃刀法違反罪、それから公務執行妨害罪も加わった」


「ど、 どうして5年も……銃刀法違反ならともかく逃走と公妨でそこまで重くなるのか!?」


「どうしても何も。キミのボスの中川恒元の嫌がらせだよ。あのクズ野郎は法務省を動かして兄さんを牢屋に送るよう仕向けたんだ、村雨組うちへのあてつけにね」


 そんな岡島だが今年の1月に出所してからは村雨組に復帰、村雨の領地昇進に伴い三次団体の「岡島組」を旗揚げして相模原の辺りを仕切っているという。


「……」


「まあ、キミのせいでもあるが完全にキミのせいとは言い切れない。難しい所だよね。尤も当の兄さんは麻木涼平を微塵も恨んじゃいないようだが」


 それどころか芹沢は俺に対してこんな思いを抱いているという。


「前に兄さんは言ってたな。『涼平を守ってやれなかったのは俺の力不足だ』と」


「なっ……!?」


「自分がもっとしっかりしていれば辛い思いをさせずに済んだかもしれないってさ。ま、今度会ったら一言くらいは詫びておくべきだね。きっと兄さんは笑い飛ばすだろうけど」


 俺は放つべき言葉が見つからなかった。どうして俺のためにそこまで――中川会の策略だったとはいえ、芹沢が臭い飯を食う必要など無かったではないか。


 絢華と芹沢。他にも俺が償うべき相手は沢山いる。あの頃、自分は任侠渡世の宿命に翻弄された被害者とばかり思っていた。しかし、それは違う。俺がとった浅慮な振る舞いのせいで多くの人間が傷ついたのだ。それは他ならぬ罪としか言えないだろう。


 過ぎた時間は二度と戻らない。あの頃を思うと心が張り裂けそうになる。己のしでかした事の重大さを前に絶句する俺を見て、菊川は締め括った。


「別に気にしなくたって良いよ。むしろ僕はこう思ってる。キミが中川会に寝返ったことは決して間違ってなんかいないってね」


「ッ……」


「キミは中川恒元に自分を売ることで、その身を呈して村雨組を守ったんだ。あの状況で他に何が出来た。決して間違いなんかじゃないよ」

「……いや、だけど」


「それに、ああせざるを得ない状況を作ったのは僕だ。僕がつまらぬ嫉妬心に駆られてキミを嵌めたのがいけなった」


 今さらそんな台詞を寄越されたって困るだけである。俺は何も言えなかった。ただ、黙って菊川の話を聞いているだけであった。


「さて、そろそろおいとまさせてもらおうかな」

 やがて紅茶を飲み終わったところで菊川はゆっくりと立ち上がり、テーブルに代金を置いてから言った。


「そうそう、最後に一つだけ」


「……何だ?」


「胸を張って生きろよ。麻木涼平。泣いても笑っても過去の埋め合わせなんか今さら出来やしないんだから、いっそのこと開き直ってしまえば良い。中途半端な寂寥感は却って迷惑をかけた人らに失礼だ。これから先は堂々とね」


 思いがけぬ言葉であった。

「……」


 菊川の呼びかけは冷静に考えれば至極真っ当なものである。だが、俺は戸惑っていた。まさかこの男が人情味のあることを言うはずがないと思っていたからだ。

「あんた、本当に丸くなったな」


「ははっ。そりゃどうも」


 俺が皮肉交じりに言うと菊川は笑って答えた。そして彼はそのまま店を後にしたのだった。


「麻木さん」


 厨房から出てきた華鈴が、少し呆然としていた俺に声をかけて現実へ引き戻してくれる。


「さっきの人の言った通りだと思うよ。いつまでも過去に縛られちゃいけないわ」


「……聞いてたのかよ」


「あたしの耳を舐めないでよね。お客さん同士の会話は嫌でも聞こえてくるんだから」


 華鈴の予想外の耳の良さに驚きつつも、俺は先ほどかけられた言葉を頭の中で反芻する。


『泣いても笑っても過去の埋め合わせなんか今さら出来やしないんだから』


 俺は村雨組長や麗香たちに償う方法をずっと探していたのかもしれない。だが、それは間違いだったと今になって分かった気がする。俺がすべきことは過去に囚われて自分を責め続けることではなく、今ある現実に精一杯向き合うことだったのだ。たとえ過去が赦されなかったとしても。


「ありがとな。華鈴。俺、堂々とやってくよ」


「いや。あたしにお礼を言われても困るんだけど。どうせ言うならさっきの人に言ってよ」


「そうだったな」


 俺は菊川に心の中で礼を述べた。そして誓った。もう過ぎたことを引きずるのは今日限りで終わりにすると――。


 翌朝。中川会総本部への来訪を予告していた菊川であるが、彼が赤坂の門をくぐることは無かった。「予定が変わった」などと言い訳を残して横浜へ帰ってしまったのだ。


 代わりに菊川組の若衆を名乗る人物から親分が持参する筈だった手土産が届けられた。現金にして1億円。眞行路一家との講和にあたって中川恒元へ仲裁を頼んだ、謂わば謝礼とのこと。


「……食えねぇ野郎だな。相変わらず」


 かくして俺の懐古は幕を閉じた。


 村雨組の面々と6年ぶりに顔を合わせることになったわけだが、それは思いのほか淡白であった。もっと昔の思い出を語らう時間があっても良かったかもしれないが、ますます過去に足を取られてはいけないのでそれはそれで正しかったと思う。それに敢えて時間を作らずとも稼業を続ける限りはいずれまた顔を合わせる機会は訪れよう。


 裏社会の情勢は混迷の度合いを強めている。世に云う“虎崩れの変”は各方面に大きな波を起こした。次なる戦の下火が、今まさに東京で燻ぶりつつあった。

村雨組の圧勝で幕を閉じた銀横戦争。銀座の猛獣、眞行路高虎が消えた東京でこれから何が起こるのか? それは誰にも予想がつかない……。

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