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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第10章 虎崩れの変
183/263

眞行路一家総攻撃

 数十分後、俺は下流の岸辺に辿り着いていた。


「はあ、はあ、はあ……」


 全身から滴り落ちる水。俺は呼吸を整えながら周囲を見渡す。


 どうやら高虎は追ってきてはいないようだ。安堵感がこみ上げてきたが、まだ気を抜くのは早い。一刻も早く赤坂へ戻らなくては。


「……寒い」


 11月ならではの寒さが身体を凍えさせる。全身ずぶ濡れだ。このままでは低体温状態に陥ってしまうだろう。


 ただ、着替えようにも代えの服が無い。それでもひとまずは休みたいと思い、足を引きずりながら移動を始める。入った先は、近くの公衆便所だ。


「……ふうっ」


 備え付けられていた鏡で自分の姿を確認した途端、溜息が出る。全身に刻まれた無数の傷痕に加えて、ひしゃげた顔。満身創痍という言葉が似合う、無様な形だった。


 負けた――。


 その事実が否応なしに脳内で認識されて溜息が増す。

 勝負は俺の完敗であった。俺はこれまで数多の修羅場を潜り抜け、あらゆる強敵を打ち破ってきたつもりだった。鞍馬菊水流は最強との自負もあった。


 しかし、銀座の猛獣を相手にこの様である。自信満々で打ち出したはずの最強奥義は破られ、手も足も出なかった。ここまで実力差があったとは思いもしなかった。


「く、くそっ!!!」


 悔しさがこみ上げてくるあまり、思わず大声を出した。ここまで負けるのは、実に初めてだ。いや、負けること自体が久々かもしれない。


 敗北感に苛まれながらも、俺は思考を巡らせた。


 これからどうしようか。


 ひとまずは安全な場所に身を隠す必要がありそうだ。傷ついた身体を癒すことができる手立ても探さなくてはならない。


 そんなことを考えていると、ふと携帯が鳴った。


「……ん?」


 着信だ。防水仕様の端末を貰っていたおかげで助かった。俺は電話に出る。


「もしもし?」


『才原だ。水尾組の三沼という男が総本部を訪ねて来ているぞ。お前の紹介を受けたとのことだったが……』


「そうだった」


 喧嘩にかまけてすっかり忘れていたが、水尾の人間を中川会へ寝返らせる調略作戦を仕掛けていたのだった。まさかこんなに早く事が動くとは意外である。色々な意味でちょうど良い。


「局長。ちょっと、頼みがあるんだ」


 俺は才原に迎えの車を寄越すよう頼んだ。高虎と一対一の戦いになった件を可能な限り簡潔に説明して、ひどく驚かれつつも。


『何だと!? お前、今はどこに居るんだ!? 大丈夫なのか!?』


「目黒川の近くにある公園だ。何か、腕が痛ぇな。たぶん折れていると思う……」


『すぐに迎えを寄越す! そこを動くなよ!』


 声色から才原が慌てているのが伝わってきた。現役の忍者ともあろう御仁にしては随分な取り乱し様だ。


 ともあれ、それから25分くらいで車がやって来た

 。

「次長! 乗ってください!」


 運転していたのは総本部で待機中だった助勤。局長の指示で車を飛ばしてきたという。彼はボロボロになった俺の身なりに驚いていた。


「じ、次長!? そのお怪我は……?」


「こっぴどくやられたぜ。俺としたことが。まんまと相手の調子に乗せられちまった」


 男は半ば信じられぬと言った様子だった。


「次長をこんなにする奴がいたなんて……」


 一方、当の俺はまたしても思案に暮れていた。内容は決まっている。先ほどの勝負は何故にあのような展開になったのかという疑問を解決するためだ。


 俺が高虎に間合いを潰された――。


 これは紛れもない事実である。神速で踏み込んで敵の間合いを潰したつもりが、自分が回避不能なところまで距離を詰められてしまったのだ。


 欄干に飛び乗ったのがいけなかったと思う。俺を平均台同然の狭路に乗せてパンチの威力を減らすという、高虎の罠にはまったのだ。


「……まったく」


 思わず愚痴がこぼれる。鞍馬菊水流の人間離れした拳の威力は、発動時に足裏で地面を蹴ることによって生まれる。足元が踏ん張れないと最大の威力を発揮できない。


 だからあの場面で俺は高虎との殴り合いに競り負けたのだ。


「次は必ず勝ってやる」


 暖房の効いた車の中、強く復讐を誓っていた。


 怒りに燃えたのは俺だけではない。この日は総本部に居た恒元は、泥だらけになって帰ってきた俺を見るなり仰天。腰が抜けそうな調子で声を震わせた。


「や、奴にやられたというのか……!?」


「すみません。会長。こんなザマで帰ってきちまって」


「おのれ高虎! 我輩の涼平をこんな目に遭わせおって! 絶対に許さんぞ!」


 昂る怒りに駆られた恒元はすぐさま理事会を招集。破門という段階であった高虎の処分を絶縁に格上げ。直参組織に対し、奴の即刻討伐を命じた。


「よろしいんですか? あの野郎を村雨とぶつけ合わせる算段じゃなかったんで?」


「愛しいお前がここまでされたのだ! 構ってなどいられるか! 奴を殺せるなら横須賀など煌王会にくれてやる!」


 怒りの感情に任せた方針変更。俺のみならず才原も冷静になるよう諫めたが会長は曲げなかった。勿論、そうした朝令暮改の意思決定について幹部から批判の声が上がったのは当然のこと。


「会長! 午後の会議じゃ横須賀については実益優先って言ってたじゃないですか! 高虎に攻めさせて村雨共々潰し合わせるって……!」


「そうですぜ。だから水尾組の処分も保留ってことで皆が納得していたのに」


 だが、恒元は完全にキレてしまっていた。


「黙れ!! この我輩が決めたことだ! 逆らうならば容赦せんぞ!!!」


 真っ赤な顔で怒鳴り散らすばかり。


「涼平の仇は我輩が討つ! 高虎め! 生かしてはおかんぞ……!」


 高虎を討伐するためには、自ら出陣することも辞さないとまで言ってのけた恒元。もはや誰も会長を止められる者は居らず、理事会はお開きに。結局、眞行路高虎と政村平吾の2名を絶縁処分とすることが決まって散会となった。


 一方、俺はといえば応接室で訪問者をもてなしていた。三沼が連れてきた水尾組元幹部ご一行様である。


「麻木次長。ご紹介申し上げます。こちら、水尾組の若頭補佐をやっておられた谷山の叔父貴と崎川の叔父貴でございます」


 三沼が挨拶すると、谷山と崎川はそれぞれ深々と頭を下げた。


「初めましてだな。『谷山組』組長の谷山たにやまだ。極道の仁義ってもんを無視する政村のやり方にはついていけなくなったんでな、よろしく頼む」


「同じく『崎川一家』総長の崎川さきかわだ。あんたの噂は聞いてるぜ。やっぱ一緒に渡世の荒波をくぐるなら、強いおとこと肩を並べてぇよなあ」


 俺が赤坂へ戻ってから色々と手間取っていたせいで、彼らと会うのはかなり遅くなってしまった。それなのに延々と待ち続けてくれていたのは感謝に尽きる。挨拶する段取りだった恒元が「そんな気分じゃなくなった!」と会見を投げ出したにもかかわらずだ。


 とはいえ、個人的な感想を申せばあまり好ましい連中じゃない。


 仁義だの侠だのと言っているが、要は二人とも中川会直参組長という餌に釣られただけ。こちらが条件を提示していなければ、ここへ来ることも無かったであろう。とはいえ、彼らに調略を仕掛けたのは俺なので歓待以外の対応は無いのだが。


「おう。こちらこそよろしくな。心から歓迎するぜ」


 俺は両名と握手を交わした。そこへ三沼が続ける。


「谷山の叔父貴も、崎川の叔父貴も、うちのオヤジ……いや、政村とは犬猿の仲だったんでございます」


 谷山と崎川の2人は元々、水尾組の中でも武闘派として知られていたらしい。しかし、その実力を存分に発揮できる機会に恵まれず燻っていたところで政村が増長。明晰な頭脳を活かしたシノギで莫大な上納金を組にもたらし、一気に若頭の座に就いてしまった。


 自分よりも年下でなおかつ格下の存在に指図されるのは誰だって面白くない。ましてやそいつが組の跡目を獲るなど受け容れ難いに決まっている。


「政村の野郎はカネ稼ぎと根回しくらいしか取り柄のぇ小物だ。あんな奴を『親父』と呼ぶなんざ、俺も崎川もまっぴら御免よ。だからこっちへ来た」


「だよなあ、兄弟。あいつが杉本の親父を蔑ろにしていたのも許せねぇ。どうせ親父が殺されたのだって政村の差し金に違いない」


 舘野社長が杉本を撃った件について二人は事実関係を知らない模様。その辺は官房長官の意向で恒元が情報統制をかけているのだろう。


 ともかく、彼らに政村に対しての叛意があるのは有り難かった。


「あんたらがこっちに付いてくれて嬉しいぜ。これからは中川会の直参として存分に働いてもらいたい。追って正式に盃の儀式を行うから、頼んだぜ」


 水尾組離反幹部の直参取り立てについて会長の承諾は既に得ている。俺がその旨を伝えると、谷山と崎川は上機嫌で帰って行った。会長から盃を貰うまでは東京に滞在するという。


 これで三浦半島の半分が中川会のものになった――。


 若干の安堵感からか背伸びをしていると、まだ室内に留まっていた三沼が神妙な面持ちで問うてきた。


「あのぅ、麻木次長……?」


「何だ」


「お、俺のことなんですけど……その、叔父貴らと同じく中川会の直参に取り立てて頂けるんでしょうか……?」


 すっかり忘れていた。俺は三沼についても直参組長の座を与えてやると持ちかけていたのだった。ゆえにこそ彼は谷山と崎川の説得工作に奔走したのである。


 ただ、本音を云えば三沼に関しては微妙な立ち位置。谷山や崎川と違って水尾組幹部ではなく政村総業の組員で、おまけに役職付きでもなかった。そんな人物が、いきなり中川会の直参に取り立てられるだろうか。渡世の理と先例に倣って考えれば、答えは否だ。しかしながら、口約束で終わらせては男の名が折れる。取り繕うように、俺は三沼に言った。


「大丈夫だ。お前も直参にしてやるよ。いずれ必ずな」


 その答えに三沼は目を輝かせた。よほど直参になりたかったらしい。さしずめ政村総業内での彼の待遇はあまり良くなかったのだろう。


「よ、よろしくお願いいたします!」


「ああ。安心して待ってな。会長には俺の方から話しておくから」


 たぶん谷山と崎川と同じタイミングでの盃は無理だろうが。時間をかけてでも恒元を説き伏せようと俺は心に決めた。嬉しそうに部屋を出て行く三沼の背中を見送り、ソファに深々と腰かける。


「ふうっ……」


 疲れた。


 ようやく一息つけた気がする。


 だが、まだ気を抜くには早い。煌王会および眞行路一家との折衝は始まったばかり。むしろ難しい局面はここからだ。


「……さてと」


 俺は新品の腕時計をちらりと見た。昨日まで愛用していた時計は川を泳いだ際にどこかへ行ってしまった。ゆえに先ほど着替えた際に代替品を貰ったのである。


 文字盤が示す時刻は20時10分。午後から何も食べていないせいで腹が減っている。昨日に続いて、華鈴の店で何か食わせて貰おうか――そう思って応接室を出た。


 どういうわけか無性に華鈴と会いたい。こっぴどい敗北を喫したせいか。いつになく心が疲れ果てているのかもしれない。


「はあ。ナポリタンが食いてぇ」


 軽く独り言を呟いた後、俺は総本部の廊下を玄関に向かって歩く。ところが、建物を出たところでその足は不本意にも止められてしまった。長らく待っていましたと言わんばかりに、数十人の男らが広い庭園にたむろしていたのだ。


「やっと来たか。麻木涼平」


 彼らは全員がスーツ姿。見るからに渡世の者、それも相応の地位の人間と分かる装いをしている。おまけに手にはバットや鉄パイプ……ため息をついて俺は尋ねた。


「何の用だ?」


「見りゃ分かんだろ。あんたをブチのめしに来たんだよ!」


 一体、誰が遣わせた兵隊だろうか。


 総本部の敷地内に入って来ている限り他組織の構成員でないことだけは確か。おそらくは中川会系列であろう。


 代紋のバッジは良く見えない。尤も、彼らの正体について深く考えている時間は無さそうだが。


「ぶっ殺してやるよぉぉぉ!」


 先頭の男が叫んだのを皮切りに、連中は一斉に襲いかかってきた。


「うおおおお!」


「その頭、粉々にしてやるぜぇぇぇ!」


 バットを振り上げて襲ってくる者。鉄パイプを振りまわして突進してくる者。その他諸々の凶器を持った連中が俺めがけて飛び掛かってくる。


 だが、俺は全く慌てない。連中の攻撃を軽々と躱し、すかさず反撃に出る。


「ぐあっ!」


 まず、鉄パイプを振り下ろしてきた男の腹に前蹴り。次いで金属バットで殴りかかって来た男には回し蹴りを食らわせる。そして最後に背後から襲いかかってきた男は左脚を後方に突き出して仕留めた。


「うぐっ……!」


 俺の攻撃を受けて地面に倒れた連中は全員が泡を吹いている。


「な、何だこりゃ……!」


「強ぇぞ!」


 連中は驚愕している。無理もないだろう。これはまさしく一撃必殺を絵に描いたような展開である。


 だが、連中も簡単には引き下がらない。降って湧いた恐怖心をかき消すかのごとく絶叫と共に襲いかかってきた。


「このガキがぁぁぁぁぁ!!!」


 俺は連中の攻撃を躱し、蹴り飛ばす。脚技のみを使っての戦いとなったが数分で片が付いてしまう。暫くすると現場には襲ってきた男らが無惨な姿となって散らばっていた。


「ば、化け物……」


 唯一、息があった奴を見つけて俺は近づく。


「おい。お前、どこの組のモンだ?」


 すると、男は息も絶え絶えに答えた。


「……む、椋鳥一家だ……総長がお前を痛めつけて来いと……」


 どうにも釈然としない答えであったが、大体の事情は見当が付く。おそらくは越坂部総長が「行って来い」と命じたのだろう。先ほどの理事会における突然の方針変更を不満に感じたか。


「ま、あんたらの気持ちは分かるぜ。会長は俺が襲われたのがきっかけで眞行路の処分を格上げしたんだからな。こんな若造ごときのために組織が動いちゃ御七卿の面子メンツが立たねぇ」


「よく分かってるようだな、麻木涼平……調子に乗るなよ。会長お気に入りの側近だからって……何でも許されると思ったら……」


 恨みの込められた目で俺を睨む男。会長の寵愛を受ける俺への嫉妬もあるのだろう。しかし、俺は一切気に留めることなくそいつの言葉を遮る。


「うるせぇ。全ては会長が決めたことだ。それに従えねぇってんなら叩き潰すまでだ」


 ――バキッ。


 男の顔を思いっきり踏みつけ、やや強引に会話を終えた。これ以上は何を話しても無駄だ。どうせ彼らとは分かり合えないのだから。


 それにしても、まさか椋鳥一家が俺を襲ってくるとは。煙草に火を付けながら舌打ちがこぼれた。中川会の組織情勢は俺が思う以上に複雑らしい。


「……こりゃあ、晩飯はお預けになりそうだな」


 独り言を吐いて会長室へと向かった俺。


 一連の事態を知った恒元が激怒したのは言うまでもない。群馬へ戻る途中だった越坂部を呼び出して激しく叱責、彼に無期限の謹慎を命じた。椋鳥一家を破門にしなかったのは才原局長が「椋鳥まで追い出せば眞行路と結託して面倒な事になります」と諫言したからである。


 それが無ければ、恒元は更なる厳罰を下していたことだろう。会長の怒りは収まらず、俺を襲った椋鳥の組員らは夜のうちに全員が処刑された。越坂部も彼らを捨て駒としか見ていなかったようで、部下が勝手に動いた云々の自己弁護を繰り返すのみで子分らを庇い立てすることは特になかった。


 椋鳥一家総長、越坂部捷蔵の小物っぷりはさておき、この件で中川会幹部らの意向がはっきりと見えてきたのは事実。


 彼らは眞行路と戦争をしたくないのだ。中川会最大の武闘派であった銀座の猛獣と戦えば甚大な被害が出ると思っている。


 一方で、村雨組に対しては喧嘩上等の姿勢を崩していない。これについては眞行路一家の武力討伐こそ望むものの横須賀に関してはあくまでも穏便な決着を目指す恒元の姿勢と相反する。おそらくは関東ヤクザとして関西系に舐められてはなるまいという意地があるのだ。


 御七卿の総意としては「横須賀を守るために村雨組とは戦うが、眞行路一家の討伐は遠慮したい」ということ。彼らの中では眞行路高虎は村雨耀介より脅威という認識なのか。意外ではあるが有力幹部の協力が得られない以上は仕方が無かった。


「お前たちは腑抜けたか!?」


 数日後に開催された理事会にて恒元は声を荒げた。だが、彼の前に居並ぶ幹部たちは誰も答えない。俯く彼らの意思を代弁するように門谷理事長が口を開いた。


「お言葉ですが、いまこの段階で眞行路一家を討伐するのは得策ではございますまい」


「ほう。それはどういうことだ?」


「恐れながら申し上げますが……会長は怒りに逸っておられるのではありませんか。村雨とぶつけ合わせて数を減らした所で眞行路を討ちに行く。先日の決定通りでよろしゅうございましょう」


 理事長は続ける。


「皆、無駄な血を流したくはないのです。あの高虎と好んで戦いたい者が何処におりましょうか。ここはひとつ組織全体の利をお考えください」


「ふざけるな! 我輩が正気を欠いていると言うのか!?」


「お言葉でございますが、いささか短慮が過ぎると存じます」


 いつもなら会長の前ではひたすらに平身低頭で媚びへつらうのに、今日の理事長はまるで譲らなかった。口には出さずとも銀座の猛獣率いる眞行路一家と戦うことを本気で恐れているのが伝わってきた。それはまた理事長補佐の門谷も然り。


「会長。こないだの決定のままで良いじゃねぇですか。そんなに焦って銀座を叩かなくったって組織に損はありゃしやせんぜ」


 この男は高虎にはさんざん煮え湯を飲まされている。ゆえに真っ先にでも眞行路一家討伐に名乗りを上げるものと思っていたが、眞行路一家と直接ぶつかることの底辺さを誰よりも理解しているのだろう。彼の表情には若干の汗が浮かんでいた。


「軟弱者どもめ!!!」


 机を叩いて怒鳴った恒元。


 だが、結局のところ御七卿たちの意を覆すことはできなかった。実力者幹部の同意なくしては何も決められないのが現在の中川会である。


 銀座攻撃を渋々ながらに諦める恒元の後ろ姿を見るのは少し申し訳なかったが、俺としては高虎の即時討伐が棚上げになって良かったと思う。たかが俺のために組織全体の方針が変更になるのは何というか気が引ける。それに立場的な問題もある。


「ったく。会長の気まぐれには困ったもんだぜ。お気に入りの側近がボコられたからって感情的な判断を下すのは愚かなことよ」


「あの麻木とかいう若造のために戦争に駆り出されるなんざ御免だっつうの。直参でもねぇってのに、どうしてあそこまで気に入られてんだか」


「それだけ会長がぶっ飛んでるってことだよ」


 理事会の終了後にそんな会話が聞こえてきたのだ。


 ぶっ飛んでる……か。まあ、そうかもな――。


 俺は思わず苦笑してしまった。会長の俺に対する執着が異常であることは間違いないだろう。それでも組織の中には序列というものがある。理事会における発言権を持つ幹部ですらない、所詮は会長親衛隊のナンバー2の俺が組織全体の意思決定に絡んだとあっては流石に問題が生じる。直参組長らが快く思わないのは当然だ。


 無難な決定に落ち着いたのは良かったこと。組織にとっても、その方が良いに決まっている。幹部らの冷たい視線を気にしながらも俺は心の中で安堵していた。

 ただ、穏健な方針に決まった中川会とは対照的に、眞行路一家は腹を空かせた獣のごとく、ますます荒ぶっていった。


 2004年11月21日。


 眞行路高虎は横須賀の水尾組ならびに横浜の村雨組に宛てて討奸状を送付。自らへのあからさまな敵対行為を理由に宣戦布告を行った。


 この討奸状では、水尾組若頭の政村平吾の身柄引き渡しと村雨組からの“詫び料”の支払いが要求されていた。これらが得られない場合は武力をもって神奈川へ攻め入らんという痛烈な脅しだ。無論、これらの求めを先方は悉く黙殺し、拒絶。高虎は激怒して即時開戦を決定する。世に云う『ぎんおう戦争せんそう』が始まった。


 ただ、奇妙であったのは煌王会の動き。貸元で幹部の村雨組が他組織から宣戦布告を受けたというのに、どういうわけか村雨への庇護を表明しなかったのだ。武闘派中の武闘派として知られる眞行路高虎が相手というだけあって、二の足を踏んでいるとも考えられるが……関西東海で3万騎の巨大組織が傘下組織への攻撃を前に何もしないのは流石に不自然だった。


 討奸状が広く出回った日の夜、俺は恒元とこんな話になった。


「しっかし、何でまた煌王会は村雨を応援しないんでしょう? 普通なら煌王会全体への攻撃と捉えても良い事態なのに」


「分からんなあ」


 恒元は煙草をふかしながら続けた。


「我輩が思うに煌王会は一枚岩じゃないんだろうな。1998年のクーデタ―以来、あそこの六代目体制はお飾り同然。今や何もかも若頭の橘威吉に牛耳られている」


「その橘が村雨組を助けねぇよう傘下に圧力をかけていると?」


「だと思うよ。何せ、橘は村雨とはあまり関係が良くないんだ。両者とも煌王会の跡目をめぐって水面下で火花を散らしているとの噂もある」


 橘率いる神戸の松下組は6年前の一件で衰退した浜松の桜琳一家に代わって煌王会の最大組織となっている。加えて政財界との繋がりも強い。煌王会の中で大きな発言権を持っているのは誰の目から見ても明らか。


 一方、横浜の村雨組もまた、この6年間で尋常ならぬ台頭を見せた組織。横浜を中心に神奈川の大半を占め、伊豆半島、豊橋のほか、関東と東海の15都市に所領を持つ大所帯に成長した。その勢力はもはや松下組と並んで煌王会七代目の座を窺うほどだとか。


「つまり……橘の松下組としちゃあ、跡目を獲るのに邪魔な村雨組をこの機会に始末しちまおうってことですか」


「そういうことだ」


 俺は腕組みをして物思いに耽った。


 今から6年前、自分が居た頃に比べて村雨組は巨大な組織へと様変わりしている。そんな中で眞行路一家と激突すればどうなるか――まるで分からなかった。


 ただ、何にせよ中川会は現時点では不動を貫くのみ。優先すべきは横須賀の奪還。眞行路と村雨が戦って両陣営が疲弊した隙を突いて領土を確保するのだ。


「村雨組が煌王会の支援を得られないってなるとねぇ。軍配がどっちに上がってもおかしくは無いな。兵隊の数だけで考えれば眞行路一家が総勢2千なのに対して村雨は1千と差が開いているけど、村雨はなかなかやる男だからね」


「ええ、確かに俺もそう思います。あの人にとっては2倍の差なんてどうなってことないでしょうから」


「やはりお前は心穏やかでいられんかね?」


「いえ、別に」


「そうかね」


 図星を突かれるも何とか平静を装えたものと安堵した時。不意に俺は唇を奪われた。立ち上がった恒元に、力強く抱き寄せられる。


「ちょ、ちょっと会長……」


「良いではないか。今は二人きりだ」


 恒元の手が俺の身体をまさぐる。その感触に思わず身体が震えた。


「……っ……ん……」


「可愛い奴だな、お前は」


「ああっ……」


 俺は何もしなかった。むしろ自ら身を委ねた。この御仁は、一度こうなってしまったら最後まで収まりがつかないのだから。


「我輩のものでいてくれ。頼む」


 そのまま俺は手を引かれて別宅へ連れ込まれた。会長の寝室に入るなり、恒元はベッドへ俺を押し倒して激しく求めてきた。


「涼平……お前は誰にも渡さぬ……」


「……はい」


 背広を脱がされ、ワイシャツのボタンが外される。俺は目を閉じておぞましい感触に耐える。


「涼平……お前は我輩だけのものだ」


 恒元の手が俺の身体に触れる。その感覚に、俺は思わず吐息を漏らした。


「……はい……」


 やがて、彼の唇が首筋から胸へと下りていく。同時に彼の手はベルトを外して俺のズボンを下ろした。彼の舌が俺の下着越しに股間に触れる。その瞬間、俺は身体を震わせた。


「ああっ……会長……」


「お前もその気ではないか。嬉しいねぇ」


 下着を剥かれて、俺は全裸になった。恒元は俺のペニスを口に含んだ。


「うぐああっ!」


 彼の舌遣いに思わず腰が動いてしまう俺。そして自らも服を脱いだ恒元は、俺をうつ伏せに寝かせるとその尻の辺りに男根を這わせた。それは見事に反り立って隆起していた。


「挿れるよ」


 ベッドのそばに置いてあった瓶を手に取ってブランデーをぐいっと飲んだ恒元。次の瞬間、太いペニスが俺の尻穴を貫いた。


「あああっ!」


 俺はシーツを摑んで絶叫する。思わず身を捩るも、恒元は容赦なく腰を打ち付けてくる。その度に俺の尻は悲鳴を上げた。


「愛してるよっ! 涼平! どうか、どうか、これからも、我輩の側に居てくれ!」


「ううっ! は、はいっ!」


 やがて激しくも淫らな抽送が始まる。パンッ! パンッ! パンッ! という肉と肉のぶつかり合う音が鳴り響き、肛門が裂けんばかりに拡がる。だが、暫くすると痛みが快感に変わってくる。


 悔しいが、俺は興奮していた。


 何ということだろう。


「あああっ! 会長っ! もっと、強く……!」


「ふふっ。お前も目覚めたようだな」


 やがて恒元の腰の動きはさらに激しくなり、会長のペニスがますます膨張するのを感じた。


「涼平っ! 出すぞっ!」


 次の瞬間、俺の体内に熱い液体が放出された。同時に俺も絶頂を迎えた。全身が痙攣し、力が抜けてゆくのを感じる。


 気づけば俺の陰茎からも白濁液が飛び出ている。これを“トコロテン”と呼ぶのだろうか。よくは分からないのだが。


「はあっ……はあっ……はあっ……」


 すっかり息を切らしてしまった俺。だが、それでも満足しなかったのか恒元はまだ俺から離れようとしない。その晩は朝まで情事が続いた。


 どれだけ身体をぶつけ合っただろうか。


 部屋の中に陽光が差し込む頃、俺は恒元に言われた。

「涼平。これからも我輩の側に居てくれるか?」


 会長の眼差しは真剣だった。それどころか彼の眼には涙までが薄らと浮かんでいるではないか。俺は慌てて答える。


「は、はい」


 返事を聞いた恒元に抱きしめられる。

「ありがとう。愛しているよ」



「はい……」


 そのまま俺は恒元に接吻をされた。


「んっ……んむっ……」


 彼の舌が俺の口内を蹂躙する。俺も仕方なく応えるように舌を絡ませた。そのまま暫く互いの唾液を交換し合った後、俺は恒元に言った。


「……あ、あの。会長」


「何だね?」


 俺という肉便器で思いっきり楽しみ、大好きな酒をたらふく飲んでご満悦の恒元。何か要望を聞いてもらうには最もちょうど良い。酔っ払っている現在が好機だ。


「お願いしたことがあります」


 迷わず、俺は提案を申し出た。


「つい先日まで横須賀に居た三沼を直参にしていただけますでしょうか。直参の地位を貰えるなら所領は何処でも良いと本人は申してます」


 それに対する恒元の答えは単純だった。


「うん。良いよ。お前の頼みならお安い御用だ」


「ありがとうございます」


 近頃は不機嫌で苛立つ様子が目立っていた恒元。そんな会長に執務室で提言しても一蹴されるだけだと思ったのだ。男色の趣味があるなら、それを利用させてもらうまで。


「……ふふっ。お前も強かになってきたな。我輩は嬉しいぞ」


 耳の近くで囁かれたが、俺は軽く笑って見せるのみ。やはり、会長は何もかもお見通しだ。彼の言う通り、確かにそんな男になっているかもしれない――そう思って以降も暫くは不本意な情事に耽り続けた。


 おかげでその晩は一睡もできなかった。


 それでも三沼への確約が口約束にならずに済んだのだから大きな収穫である。翌日の教書で彼には葉山町が与えられることになり、本人は子供のように喜んでいた。


「麻木次長! こ、この俺が中川の直参ですぜ!? 夢みてぇだ……!」


「良かったな。三沼」


「は、はいっ! あざっす!」


 彼の喜びようを見ていると俺も嬉しくなってくる。あの街は三浦半島の中でも田舎であるが、観光的な資源もある。中川会の目を盗んで闇金を経営していた三沼ならばきっと上手くやっていくだろう。


「ところで次長」


「何だ?」


「その……お恥ずかしい話なんですが……」


 三沼は少し言いづらそうにしている。


「……暫くは東京に滞在してもよろしいでしょうか。組を旗揚げすんのに手駒を集めなきゃならねぇってのもありますんで。もうちょっとくらいは」


 なるほど。今まさに大戦争が始まらんとしている三浦半島に所領を持つことで、自分が中川会側の尖兵にさせられるのを警戒しているらしい。


「ふっ。見え透いた屁理屈だな。今のお前にあの半島は怖いか」


「いや! そんなんじゃありません! ただ、本当に色々と準備があるんです!」


「大丈夫だよ。別に『今すぐお国入りしろ』とは言わん」


「ありがとうございます!」


「ただし……兵を集めるなら出来るだけ早い方が良いと思うぜ。お前に葉山を仕切るだけの器がぇって会長が判断すりゃあ直参の話が帳消しになるかもしれん。あの人は気が変わりやすいからな」


 俺が睨みを利かせると、三沼は畏縮して小さな声で返事をした。


「わ、分かりました。すぐに準備を整えますんで」


「おう。よろしく頼んだ。何せ、お前はシマ荒らしの張本人だったんだ。そんなお前に直参の椅子をくれてやった会長のお情けを無碍にするなよ。良いな?」


「はいっ!」


 逃げるように総本部を出て行った三沼の背中を見て、俺は少し揺さぶりが過ぎたかと思った。しかし、これで良い。来る横須賀の奪還戦争のためには三浦半島における戦力増強は、何にしても欠かせない事だ。

「さて……と」


 ふと壁掛けの時計を見やった俺。時刻は15時18分である。昼食を取るには少しばかり遅い頃合いだが無性に腹が減っている。


 行き着けの喫茶店で何か腹に入れたいと思い、俺は揚々と玄関へ向かうべく歩き出す。その時。


 携帯が鳴った。

「麻木だ」


 電話の相手は酒井。どうしたのだろう――と思っていると、電話口から意外な情報が聞こえてきた。


『次長。銀座の眞行路一家の拠点ヤサを張ってたんですが、さっきから物凄い数の組員が集まり始めてます。尋常じゃない数です』


「ほう?」


『それで屋敷に入ってく連中の会話を盗み聞きしたんですが「中川会にひと泡吹かせてやるぜ」とか何とか言ってました。奴ら、赤坂に攻め込む気なんじゃ……』


 確かに看過できない光景である。俺が思うにおそらくは横須賀遠征へ出発する前の総決起大会だろうが、どうにも胸騒ぎがする。自然と眉間に皺が寄った。


「分かった。酒井、今から俺もそっちに向かう。お前は何処か目立ちにくい場所に隠れてろ」


『了解しました。まさかとは思うんですが。連中は本当に中川会を攻める気でしょうか?』


「確かめてみねぇことには何とも言えんな。あの眞行路高虎のことだ。奴が横須賀へ行く前の肩慣らしに赤坂を攻める可能性は大いにある」


 何をしでかすか分からない危険な男、それが銀座の猛獣なのだ。ここ最近にかけて中川会は奴の動きに翻弄されっ放し。苦虫を嚙み潰す思いで俺は電話を切った。


「会長。今すぐ守りを固めてください。もしかしたら眞行路がカチコミかけてくるかもしれません」


「何だと!? それはどういう……!」


「銀座におびただしい数の兵隊が集まってるそうです。あくまでも念のため防備ですが。お願いします」


 俺の頼みを受けた恒元はすぐさま号令をかけ、執事局は勿論のこと赤坂近隣の直参組織に総本部防衛を命じた。たまたまその日は門谷が居たので、彼は千葉から京葉阿熊一家の兵隊を呼び寄せてくれると約束してくれた。所領に居た他の御七卿の面々も事態を知るや否や、すぐさま総本部へ軍勢を率いて駆け付けると返事を寄越してきた。


 ところが。


 その中で一人だけ不穏な動きを見せる者が居た。


「椋鳥の越坂部総長には? まだ連絡が付かないのか!?」


「す、すんません! さっきから何度も電話してるんですけど全く繋がらねぇんです!! 群馬の枝の事務所に問い合わせても誰も出やしねぇ有様で……」


 椋鳥一家の越坂部捷蔵が、こちらからの集合命令に対してまるで応じる気配が無いのである。


「あの野郎……まさかとは思うが……!」


 嫌な予感がした俺はすぐさま携帯で前橋の椋鳥一家本部に電話を掛けた。だが、やはり繋がらない。よからぬ憶測が頭をよぎった。


「会長」


「越坂部は電話に出ないのか?」


「ええ。越坂部総長は恐らく眞行路と結託しているでしょう。この状況で椋鳥傘下の組すら電話が繋がらねぇとなると、それしか考えられません」


 以前から高虎と仲が良かった越坂部捷蔵。銀座の猛獣と通じていたとあれば、先日に総本部の庭で俺を襲った件にも説明が付く。古巣の中川会に弓を引こうと企てる眞行路一家と同心し組織を離反するつもりか。


「くくっ……越坂部め……ついにやりおったか……」


 恒元は、その怒りが頂点に達すると不気味な笑みを浮かべる癖がある。俺はそんな会長の様子を見て少し不安になったが、近くには才原がいるので大丈夫だろう。彼が側近に仕えている限りは、恒元が感情に逸って暴走することはまず無い。


「麻木。お前は銀座の方へ行ってやれ。ここは俺が持つ」


「助かるぜ。忍者さんよ」


 俺は足早に総本部を出た。酒井は上手く隠れているだろうか。彼からメールで示された合流地点へ行くと、雑居ビルの中にその姿を見た。


「次長! 遅いじゃないですか!」


「すまん。ちょっと手間取った。どういう状況だ?」

「さっき眞行路の総長が入って行きました。中庭にかなりの人が出てますんで、今からあそこで集会をやるんじゃないですかね」


 そこは銀座3丁目、眞行路一家本部が俯瞰できる某飲食店の5階テラス席である。酒井が指差した方を見ると、確かに大勢の組員たちが集まっているのが分かる。これより集会が行われるようだ。


「まさかこんなに見通しの良い建物があったなんてな……監視するのにもってこいじゃねぇか……いやいや、それよりも問題はどうやってあの中を探るかだ……」

「それなんですけど、次長。良かったらどうっすか?」

 酒井が手渡してきたのは何やら番号が懸かれたメモ用紙。一見すると何処かの連絡先のようだが。その答えはかなり意表をつくものだった。


「実はこれ、盗聴器なんです」


「盗聴器だと!?」


「ええ。携帯でこの番号にかけると、装置を取り付けた場所の音声が聞こえる仕組みでございまして。さっきこっそり中庭に仕掛けて来たんです」


 驚いた。携帯電話を使った盗聴器の存在自体は傭兵時代に知っていたが、よもや自分の部下がそれを持っているとは。おまけに酒井は一度密かに内部へ潜入を果たしたというではないか。


「お前、いつの間にそんな大それたことを……」


「ええ。次長に電話する前に。何かヤバそうな雰囲気だったんで。一応やっといて正解でしたね。俺ってこう見えても出来る男なんですよ」


「実に恐れ入ったぜ」


 酒井は得意げな顔で鼻の下を擦った。この部下の大胆不敵さには感服するしかない。これで眞行路一家本部敷地内の動向を探ることが出来るようになった。


 俺は彼に感謝しつつ、早速音を聴いてみることにしたのだった。


 さあ、どういう音声が聞こえてくるのやら――。


『……』


 番号にかけてみると、雑音に混じってざわめきが耳に伝わってくる。これは中庭の音だ。多くの組員でごった返しているのは見た通り。


 暫く黙って聞いていると、ざわめきが一段と大きくなった。集会が始まるようだ。ふと総本部の方を覗くと今まさに主役が登場しようとしていた。

 この組の総長、眞行路高虎だ。


『……お前ら! ついにこの日が来たぞ!』


 中庭全体が見下ろせる座敷に上った高虎は威勢の良い声で話し始める。その姿はさながら演説。まさしく全軍を鼓舞する将の貫禄を放っていた。


『俺たち眞行路一家は戦後59年間も中川会の下に甘んじてきた! それはひとえに臥薪嘗胆! 来るべき時に備えて力を蓄えていたからだ!』


 雄叫びにも似た檄は続く。


『だが! 雌伏の時間はもう終わりだ! ついに俺たちが天下を獲る時が来た!! 中川の代紋を払い除け、眞行路の代紋を天下に輝かせる時が来たんだ! 喧嘩の支度は良いかお前らァ!』


 高虎が問いかけると、中庭に集まった組員たちは一斉に熱狂する。「おおっ!!」という雄叫びと共に拍手喝采が巻き起こる。俺は酒井と思わず顔を見合わせた。


「……凄いな」


「ええ、流石は眞行路一家。気迫だけでも関東最強でしょう」


 こちらが圧倒される一方、屋敷内の興奮はなおも燃え上がる。さながら熱狂の渦といったところか。その中で高虎は拳を強く握り締めていた。


『今こそ眞行路の武名を天下に轟かせる時! ず、手始めに横須賀の雑魚どもを血祭りに上げ、その隣に居座る奸賊、村雨耀介を討つ! そして勢いに乗ってそのまま関東を平らげる!』


 やはり眞行路高虎の真の狙いは関東制圧――中川会を倒して関東の裏社会を乗っ取ることであったか。村雨耀介討伐はそのための布石だったのだ。

 ただ、奴の野望はこれだけではなかった。


『関東平定が成ったら、そこからが本丸! 俺たちは西方へ攻め込む! 名古屋の煌王会をぶっ潰して日本全土を手中に収める!!!』


 これには酒井も驚いていた。


「なにっ!?」


 まさか高虎がそこまで考えているとは思いもしなかったのだろう。俺にとっては「やはりそうだったか」という感想である。以前に聞いた通りの話だ。


「日本全土って……あの馬鹿野郎、本気で言ってやがるのか……」


「どうします? 次長?」


 俺は暫し考えた後に答えた。


「……まあ、眞行路がいずれ俺たちに刃を向けてくる未来図が鮮明になったわけだ。奴との決戦に備えて守りを固めようじゃねぇか。銀座の猛獣を返り討ちにできるようにな」


 唖然とする酒井をよそに、俺は緊張に包まれていた。眞行路高虎を倒せるか。次に奴と相まみえる日には必ずや討ち取らなくてはなるまい。


「ふっ、こりゃあデカい喧嘩になりそうだぜ」


 苦し紛れの精一杯の強がりのつもりで呟いて見せた俺と、ぽかんとする酒井。淡々と流れる時間の中で向こうの集会はなおも熱狂の勢いを増していた。

『俺たちはこれより神奈川へ攻め込む! 最初に狙うは村雨耀介のタマ! てめぇら気合いを入れやがれ!』


 高虎が拳を振り上げると居並ぶ若衆たちから「うおおーっ!! 総長!」と怒号にも似た拍手喝采が巻き起こった。


『面壁九年! 我こそは天空を走らんが雷の如し猛虎の化身なり! 眞行路一家、出陣!!』


 その絶叫は、まるで全てを揺らす地鳴りであった。中庭に集まった数百人以上の組員らが一斉に声を上げる光景は凄まじいの一言に尽きる。


『行くぞォッ! 野郎ども!!』


 高虎はそう叫ぶなり、中庭から姿を消した。彼の後に続くように組員たちも続々と屋敷内へと駆け込んでいく。その勢いたるやまさに嵐の如し。


 傭兵として暮らした東欧やアフリカの本物の戦場でも見たことの無い空気感だ。俺は思わず圧倒されていた。


「……」


 酒井もまた然り。数分が経った後で我に帰った時には、眞行路邸の敷地から次々と黒塗りの車が出て行くところであった。その先頭は高虎のリムジンだ。


「へっ。野郎。親分自ら先陣を切るってわけか」


「ど、どうします? 道中を狙います?」


「ここにバズーカ砲でもありゃ良かったんだが。当面は村雨と潰し合わせて数を減らすのが会長のお考えだろう。俺たちは帰るぞ」


 軽く冗談を交えて総本部へ帰ることにした。銀座の猛獣に今すぐリベンジできない悔しさに歯噛みしながらも、俺は銀座の雑居ビルを後にした。


 なお、その雑居ビルであるが、俺はひとつ気になっていた。屋敷の敷地内を丸ごと俯瞰できるという襲撃者にとっては格好の場所であるにもかかわらず、何故に眞行路一家はノーマークだったのか。よくよく考えれば不可思議な話だ。


 俺が思うに、眞行路高虎はわざとあの地点を手薄にしていたのだと思う。中川会本家に敢えて監視をさせるために。


 あれだけの集会を間近で見れば、きっと誰もが眞行路一家は横浜へ行ったものと考えるだろう。ところが、彼らはそうしなかった。眞行路が真っ先に狙ったのは、横浜ではなく千葉だった。その晩、千葉の緑区にある京葉阿熊一家の本部事務所が襲われて壊滅した。赤坂の総本部防衛のため組員の大半が出払っていたおかげで、まともに応戦ができなかったのである。


 眞行路高虎は中川会本家の裏をかくため、わざと屋敷の監視を許したのだ。偽情報を掴ませて、こちらの動きを攪乱するために。まんまとしてやられた、そんな気分だった。


「京葉阿熊一家の被害はどれくらいだ?」


「現金に換算すれば5億円は下らない額を奪われたそうで。裏の賭場や地下銀行が軒並み潰されちまったとか」


「ううむ。またしても高虎に一泡吹かされたか。情けない」


 夜になって報告を受けた恒元は舌打ちをした。横浜侵略に先立って行われた千葉襲撃は軍資金の確保だったようである。銀座の猛獣と謳われる眞行路高虎は、言うまでも無く今の中川会にとって最大の脅威だ。


「だがな、涼平よ」


 恒元は静かに口を開いた。


「時が来れば必ず奴を打ち倒して見せる。あの男に今まで払わされたものを全て返してやるのだ」


「……ええ。その時は俺がやります。負けっ放しは嫌なんでね」


 遠からぬうちに復讐することを誓い合い、俺と恒元は夜を共に過ごした。その翌日のことである。驚くべき情報が俺の耳に入ってきた。


「どうやら横須賀が落ちたようだ。総勢2千騎の眞行路一家に攻められて手も足も出なかったと。ほぼ一方的な戦いだったのは想像に難くない」


 思わず沈黙してしまった。会長曰く、横須賀市内の水尾組本部および関連事務所が一斉に攻撃を受けて陥落したとのこと。


 そんなことが有り得るのか……!?


 おまけに眞行路一家は駆け付けた警官隊にも攻撃を加えたという情報までも入ってきた。現時点で神奈川県警は敵陣営の味方。それゆえ警官に危害を加えれば問答無用で逮捕されるが、銀座の猛獣はお構いなしというのか。


「賄賂で手懐けていない警官は全員敵とでも言いたげだな。眞行路にとって多数の逮捕者を出すことは織り込み済みというわけか」


「そうまでして神奈川を攻略したいなんて……何が奴をそんなに駆り立てるんでしょうか」


 明らかに損失の割合の方が勝るであろうに。俺にはまったく理解できなかった。呆れた面持ちで溜息をついていると、恒元は言った。


「奴もまた武名を求めるおとこだ。おそらくは大きな箔が欲しいのだろうな。残虐魔王、村雨耀介を倒したという勲章が」


 煌王会の大幹部である村雨耀介。眞行路と同じく、喧嘩と血と煙を好む生粋の武闘派だ。そんな村雨を倒せば裏社会に大きく名が轟くことは間違いない。


「……確かに日本制覇の手始めとしてはちょうど良い相手なのかもしれませんけど。何ていうか。くだらないとしか言えませんね」


「まあな。けれども奴に限らずヤクザとは総じてそれ以外の価値観は持てないものなのだよ。大人しくしていれば穏やかに金儲けができるのに誰もが喧嘩をしたがる」


「ええ……」


 恒元の指摘は的を得ていると思った。カネだの、利権だの、表社会における力だのと任侠渡世の旨味は沢山あるはずだが、やはり一番は暴力。喧嘩をしている時が最も心が躍る。俺がこれまでに出会ってきた男たちは皆そうであった。かくいう俺とて例外ではない。頭では眞行路のような男を非難しつつも内心で共感を覚えてしまう自分がいる。


「我輩もここ最近は感情に逸り過ぎていたかもしれんな」


「い、いえ、そんなことは」


「とりあえず、我々はいつも通り紳士的に動こうじゃないか。喧嘩も大事だがシノギはもっと大事だ。大金を稼いでおこう」


 その提案に俺は大きく頷いた。銀座の猛獣は横須賀で大暴れしているが、こちらはただ手をこまねていているわけにもいかない。稼げる時に稼いでおかなくは。

 どうやら実りのあるシノギが舞い込んできた模様。話題を変えるように恒元は語り始めた。


「涼平。大江戸プロレスは知っているね?」


「ええ。こないだ揉めてナシを付けたところじゃないですね。そういやあ年末にデカい大会をやるって話だったような」


「うむ。実は、その興行をお前に仕切って貰おうと思ってな。なかなか儲かる事業になるだろうよ」


 たまげたものだ。何を言い出すかと思えば……俺が大会を仕切るとは如何なることか。素っ頓狂な声を出してしまった。


「なっ! 俺が!?」


「そうだ。元はといえばお前が持ってきた話なのだから、やはりお前に任せるのが一番だと思ってな。お前にとっては初めてのシノギというわけか」


 思えば3月頭に日本へ帰って来て以来、専ら会長の護衛しかしてこなかった俺。組織の全権大使として交渉へ赴いたことはあっても、カネが動く仕事をしたことが無い。ましてや、事業を回すなど全くの未経験だ。


「いや、しかし、どうすれば……!?」


「仕切ると言っても実務はその会社が担うから、お前は興行の最大出資者である中川会の人間として適度に口を出せば良い。いわゆる相談役だ」


 用心棒を兼ねた相談役――古来より日本のヤクザはそのようにして興行に入り込んできたという。


「そ、そんなこと言われても」


「なあに。大丈夫さ。難しいことは何も無いさ。お前はこの我輩の右腕だ。その肩書きさえあれば大抵のことは罷り通る」


 それはそうかもしれない。されど果たして俺に務まるのだろうか? 不安しか無いが、会長直々の命令とあっては従う他ない。


「分かりました。やらせてもらいます」


 流されるままに引き受けた。


 興行を仕切るなど未経験。それでも会長の命令とあらやってのける他ない。俺は即座に団体の事務所へと出向き、あれこれと算段を取り付けてきた。


 此度の興行名は『ビッグモンスター来日記念スペシャルマッチ』といい、米国の某有名団体所属のカリスマ選手であるビッグモンスターが初めて日本のマットに上がる記念試合だ。ビッグモンスターは世界的に名が知られた超人気選手。格闘技人気に押されて業績が低迷する団体にとってはまたとないチャンスとなろう。


「……それでは。よしなに。よろしくお願いいたしますね」


「おう。任しといてくれ」


 チケットは中川会系列のフロント企業が売り捌くこと、グッズの販売における収入は団体側が総取りすることなどを取り決めて俺は事務所を颯爽と後にした。


 帰りの車、送迎役の酒井が軽口を叩いてきた。


「凄いですねぇ、次長」


「別に慣れたもんでもねぇよ。俺にとっては初めてのことだから戸惑うことも多い」


「まさかこんなにもサクサクと話を付けてこられるなんて。いやあ、お見それいたしましたよ」


「そうかい。お褒め頂き感謝するぜ」


「シノギってのは難しいですよねぇ。うちの親父もベテランですが未だに手こずってますよ。こないだ、恵比寿にワインの専門店を出したんですが色々と難しいみたいでね」


「そうなのか?」


「ええ。元々、親父はずっと鉄火場くらいしか活躍の場がない人でしたから商才なんて皆無っすよ。まあ、次長は違うんでしょうけど」


 俺が喧嘩しか取り柄の無い武闘派だとでもいうのか。まあ、この部下の一言の多さは今に始まったことではないので受け流しておく。


 ちなみに大会は12月28日。会場となる日本武道館設営は3日前から着手する手筈となっている。俺としてはそれまでチケットの販売も含めて全てを着実に片付けたいのだが……中川会を取り巻く情勢としては、やはり眞行路一家の件が懸案事項であった。


 赤坂へ戻ると、恒元は眉根を顰めながら語り出した。


「眞行路一家が横浜へ攻め入ったそうだ。村雨組傘下の『田沢組』と衝突し、交戦状態に発展したと。あの猛獣はよほど大きな喧嘩がしたかったらしい」


 才原一族の調べによれば、既に田沢組の事務所は陥落しており、高虎は勢いに乗って山手町の村雨組本部を目指し総攻撃を準備しているとか。


「……どっちが勝つでしょうか」


「どっちだろうねぇ。我輩には何とも言えん。けど、まあ村雨も喧嘩上手だから互いに一歩も引かないまま泥仕合になるんじゃないかな」


 戦争が長引けば双方ともに数を減らし、それだけ俺たち中川会が横須賀を奪還し易くなるということ。


 それは分かるのだが、かつて恩ある村雨が防戦一方とは……。


 いやいや。今の村雨は俺にとっては敵。情が湧くなどあってはらない。


 俺は会長に一礼すると、その執務室を後にして廊下を歩いた。時刻は18時50分。この日は夕食を済ませていなかったために腹が減っている。


 そうだ。華鈴の店にでも行って何か食べようか――。


 訪れようと思っていたのに慌ただしさにかまけて最近は足を運べていない。俺は総本部を出て3丁目までぶらぶら歩いて、繁華街の通りに入る。


 意気揚々と『カフェ・ノーブル』の前までやって来たのだが……店の前には『本日臨時休業』の看板が立てかけられていた。


「え……?」


 俺は呆然とした。まさか今日に限って臨時休業とは。基本的には年中無休と聞いていたので驚いたが、仕方が無いので別の店に行こうと踵を返す。


 しかし、その時。


「あっ、麻木さん!」


 突然背後から名前を呼ばれたので振り返ると、そこには華鈴が立っており、こちらへ駆け寄ってきた。


「ごめんねぇ! 今日はお店休みなんだよ!」


 少し疲れた面持ちの彼女。俺は率直に理由を尋ねてみた。


「この店はあんまり休んでるイメージがぇから、びっくりしたぜ。どうしたんだよ? 何かトラブル?」


 すると華鈴は申し訳なさそうな表情で言った。


「……うん。実はお昼頃から水が漏れちゃってさ。修理してもらってるところなんだ」


「えっ? 水漏れ?」


「そうなの。うちだけじゃなくて、ここら一帯のお店が水浸しになってるみたいで……だから今日は営業できないんだ。ごめんね」


「マジかよ!」


 俺は唖然とした。どうやら水道管に問題が発生したらしい。確かに言われてみれば、周囲の店は軒並みシャッターを下ろしているではないか。


「おいおい。近所が丸ごとってなると、かなり大規模な配管トラブルだな。復旧にはどれくらいかかりそうなんだ?」


「区役所の人は『明後日には何とかなりそう』って言ってた。まったく困ったものよね。ただでさえうちは赤字なのに、2日も店を閉めたら大損よ」


 おかげで華鈴も今日は暇らしい。彼女の作る料理が食べたくてきたのだが、これでは仕方あるまい……と思って引き揚げようとした俺。


 されど、一瞬のうちにある考えが頭をよぎる。


「……なあ。華鈴」


「何?」


「もし良かったらで構わねぇんだが。今晩、一緒に飯でも食わねぇか。ちょっと行ってみてぇ店があってよ」


 俺は思い切って華鈴を誘ってみた。当の彼女は、ぽかんとしていた。


「……」


 突拍子もない提案であったことは自覚している。ただ、この後のスケジュールが空いていると聞いて彼女を誘いたくなったのだ。思えば出会ってから半年近く、単なる客と女給の関係であった。それが普通なのだが、それでは物足りぬと感じる自分が居た。


 もっと華鈴と距離を縮めたい――心の中にあった願いがようやく形になって口から飛び出した。これはいわゆるデートの誘いというやつだ。無論のこと当人は戸惑っていた。


「えっ、それって……」


 然もありなん。いきなり誘われても困るに決まっている。しかし、俺は一切の躊躇いを捨てて言った。


「もし嫌なら断ってくれて構わねぇんだけどさ……ほら、こないだの礼がしたくてよ」


「礼?」


「色々と俺の仕事を助けてくれたじゃねぇか」


 すると、彼女は少し考えてから答えを寄越した。


「うーん……まあ、別に良いけど……」


 断られると思っていた。ゆえに、彼女の返答には驚いた。


「良いのか?」


「うん」


 俺は思わずガッツポーズをしたくなったが、何とか堪えた。ずっと気になっていた娘と初めてプライベートな時間を一緒に過ごせる。それだけでとてつもなく嬉しかった。


「じゃあ、さっそく行くか」


「ちょっと待ってて。着替えてくるから」


 少し間の抜けた表情をする俺に、華鈴は少しムッとして言った。


「これからお出かけしようって時に仕事着のままじゃ格好が付かないでしょう!?」


 そう言って店のドアを開けて中へ入っていった華鈴。俺は「確かにな」と呟きながら、彼女が出てくるのを店の前で待つことにした。


 待つ時間はまったく長くはない。自分のために女の子がお洒落をしてくれると考えただけで心が弾むのだ。思い返せばこんなに惚気た経験は未だかつて無い。


 それから30分ほどで華鈴が戻ってきた。彼女は仕事着ではなく私服姿になっていた。黒のミニスカートに白のブラウス。そして黒のジャケットを羽織っている。


「お待たせ!」


「お、おう」


 俺は彼女の姿を見て思わずドキッとした。普段は仕事着の華鈴しか見ていないので、私服姿は新鮮だ。おまけに今日はいつものポニーテールを解き、化粧もしている。


 綺麗な娘だ。普段よりも大人びて見えるではないか……。


「どうしたの? ぼーっとしちゃって」


 華鈴が不思議そうに問うてきたので、俺は慌てて言い返す。


「い、いや! 何でもねぇ! じゃあ行こうぜ!」


 俺たちは並んで歩き始めた。


 こうして俺は人生初のデートに出かけたのである――。


 ただ、初めてとはすなわち経験が無いということ。女を傍らに連れて歩く際の振る舞いはおろか模範的なデートコースすら知らない。


「なあ、華鈴」


 俺は隣を歩く彼女に話しかけた。すると彼女はこちらに顔を向ける。


「ん?」


「……いや、何でもねぇや」


 話しかけたは良いが、沈黙が続いて気まずくならないための一時しのぎであり、何を話して良いか分からないので黙ってしまった俺。それを察したのか、華鈴は話題を振った。


「そういえば麻木さんっていつも何食べてるの?」


「えっ? ああ、まあ……適当に」


 俺は言葉を濁した。まさか『会長が食った残りだな。フランス料理が多いかもな』などとは口が裂けても言えない。華鈴はそれ以上深く追及してこなかった。


「そっかー」


 少し間を置いた後、彼女は少し考えるような仕草をした。


「じゃあ、今日は美味しいものを食べに行かなきゃね! どうせろくなの食べてないんでしょう? たまにはまともなご飯を食べて栄養を摂らないと!」


「お、おう」


 そうと決まれば出発だとばかりに早足で歩いて行った彼女。会話が変な方向へ波及しなくて本当に良かったと思う。こういう時に恋愛経験の少なさが露呈するから困る。


「ほらー! こっちだよぉ!」


 半ば手を引かれるように赤坂駅へと向かい、そのまま千代田線に乗っておよそ20分。俺たちは恵比寿駅で降り、出口に程近い道路沿いのビルへと入った。


「ここだよ!」


 エスカレーターを降りた後、華鈴が指さしたのはテナントの小さな洋食店だった。看板には『Windy』と書いてある。


「へぇ……こんなところに洒落た店があったとはな。この辺りは夏頃に会長の護衛で来て以来だ。駅周辺の店はざっと地図で目を通したつもりだったが」


「でしょ! けっこうな穴場だよね!」


 いざ入ってみると店内は現代的なビルの作りとは裏腹にレトロな雰囲気が漂っていた。テーブル席が3つにカウンター席があるだけの小さな店だが、清潔感があって居心地が良い。


 華鈴は慣れた様子で『本日のおすすめ』のメニューを注文した。俺は彼女と同じものを注文する。


「ねぇ、護衛の仕事ってやっぱり大変?」


「うーん……まあ、基本的には会長にぴったり張り付いてなきゃならねぇからな」


「え!? あ、あの会長さんとずっと一緒なの!?」


 俺が正直に答えると、華鈴が目を丸くする。


「ああ。基本的には局長……俺の上司にあたる人が随行してて、俺は会長の使いであちこちへ走ったりするのが主な仕事だけど。何かと気苦労は絶えねぇわ」


「ふーん。あの人は見るからに無茶苦茶そうな感じだから色々と大変でしょう。うちのお父さんも大概だけど。ま、今日はお互い日頃の疲れを癒すつもりで! 楽しんでいこうよ!」


「そうだな」


 やがて料理が運ばれてきた。米俵のように大きなハンバーグだ。華鈴曰く、国産ビーフをふんだんに使った名物メニューらしい。


「……いただきます」


「うん。いただきます」


 ハンバーグはふっくらと焼き上がっており、ナイフを入れた瞬間に肉汁が溢れ出る。俺は切り分けた肉にフォークを刺して口に運ぶ。


 すると……美味い!


「こりゃあすげぇな。さっすが和牛って感じの味だぜ」


 思わず感嘆の声を漏らす俺。華鈴も華鈴もご満悦である。


「美味しいね!」


「ああ。こんな美味いハンバーグを食ったのは初めてだ」


「良かった! 気に入ってもらえて!」


 華鈴は嬉しそうに言った。俺はその後も夢中で食べ続けたが、ふと彼女に視線を向けると、彼女もまた美味しそうに食べていた。


「お前、本当に美味そうに食うよな」


「え? そう?」


 彼女は少し照れた様子で言う。俺は続けた。


「ああ。何つうか、可愛らしいっていうか」


 その言葉を受けた華鈴は照れくさそうに笑った。


「馬鹿」


 彼女の笑顔に思わずドキッとする俺。いかんな……今日は初デート。まだ序盤でここまで心を高鳴らせてどうするのだ。


「なあ、華鈴」


「ん?」


 俺は一旦食事の手を止めて彼女に話しかけた。


「その……何だ。今日はいきなり誘ってごめんな」


 すると彼女は笑って答えた。


「ううん! 嬉しかったよ!」


「そ、そうか?」


「うん。だって、ほら。こんなに美味しいハンバーグが食べられる機会なんて無いじゃない。ずっと前から行ってみたかったんだよね。でも、あたし一人じゃ値段的に手が出せないっていうか……」


 おいおい。それってつまり俺に奢られるのを前提で来たということか――いやいや、それは別に構わないのだ。


 構わないのだが、俺としては「あたしも麻木さんとデートしたかったもん!」といった風な可愛らしい反応を期待していたので少し拍子抜けである。


「……ちょっと。何をボーッとしてるのよ。まさ

 かこの期に及んで『奢るつもりは無い』なんて言わないよね?」


「あ、いやいや。もちろん奢りに決まってるじゃねぇか。俺は女に財布を出させるほど貧しくはねぇぜ」


「ふふっ。馬鹿ね。冗談よ」


 そう言っていたずらっぽく笑った華鈴。あんぐりと口を開ける俺を見て、彼女はさらに口角を上げた。


「麻木さん。もしかしてこういうの初めてでしょう?」


「そ、そんなことは……!」


「初めてじゃなかったら『俺は女に財布を出させるほど貧しくはねぇぜ』なんて痛々しい台詞は吐かないよ。意外と可愛いとこあるんだね、あなた。うふふっ」


 俺は取り繕うように反論した。


「なっ!? そんなわけねぇだろ!」


 けれども逆効果だ。俺の顔は真っ赤に紅潮していたであろうから。気恥ずかしさに駆られる俺を見て、華鈴はクスクスと笑うばかりである。


 これはデートとしては成功なのか? たぶん失点である。意地でも格好つけてやらねば挽回できまいと思った俺であったが……華鈴はにこやかに言った。


「麻木さん、ここはあたしが出してあげる」


「いや、でも!? この店は高いんじゃ……!?」


「タダ券を持ってきてるのよ。だから、今宵の食事はあなたもあたしも無料ってわけ。第一にそんなに値段が張るような高級店じゃないからね」


 俺はため息をつく。


「ったく……」


 それでこの店に俺を引っ張ってきたというわけか。


 どうやら華鈴に面白おかしく揶揄われていたようだ。注文時に俺がメニュー表を見ずに彼女と同じものを頼んだため、値段を確認していなかったのだ。そのせいで一本取られてしまったというわけだ。


「うふふっ。麻木さんって見かけに反して面白いのね。女の子と沢山遊んでそうな顔してるのに、緊張が仕草に出ちゃってるもの」


 熱くなった顔を水を飲んで冷ましながら、俺は答える。


「……そういう経験は無いんだ。場数を踏んでねぇせいで色々と分からんことが多い。見苦しく思えるってんなら申し訳ない」


「あら、そうなの? 意外ね」


 またもや目を丸くする華鈴に、俺は正直に続けた。


「ああ。ガキの頃から喧嘩ばっかりでよ。誰かに好かれたり、好きになったりしたことがまるで無かったんだ」


「へぇ。本当に意外。見るからにプレイボーイって雰囲気のルックスなのに」


「おいおい。持ち上げすぎだぜ。一応、16の時に好きな女はできたんだけどな。すぐに別れちまったよ。女の体に触れたのは後にも先にもその時だけだ」


「ふーん……じゃあ、彼女自体は居たことがあるんだね」


「いっちょ前に彼女って呼べるほど長く付き合ってたわけじゃねぇがな」


 昔の苦い経験を思い出したおかげで、腹の底から酸っぱいものがこみ上がりかけた。過去はどうあれ、今は目の前の娘との時間を楽しみたい。


 青春の記憶を上書きするがごとく俺は言葉を繋げた。


「だからよ、勉強してみてぇんだ。皆がやってるような恋とか、デートとか、そういうもんを」


「ふーん……でも、それってあたしで良いの?」


 ここでの俺の答えはひとつ。たどたどしい口調で頷いてみる。


「ああ。俺は華鈴とこういうことをしてみたかった。華鈴と一緒が良いんだ」


 華鈴は照れたように顔を背けた。


「そ、そう……」


 デートにおける男が取るべき行動としては落第といっても良い、つくづく不格好な姿を見せてしまったと思う。だが、不思議と恥じらいは無かった。むしろ何処か、心に温かいものが湧き上がるような感覚であった。


「……じゃあ、楽しみましょうか。せっかくの機会なんだから。あなたに勉強させてあげなくちゃね」


 とても嬉しい申し出である。


「お、おう。ありがとな」


「ちょうどあたしも夜遊びがしたくなったから。たまにはこういうのも良いかなって。さあ、食べて食べて」


 それからも美味な肉料理に舌鼓を打った後、俺たちは会計を済ませて店を出た。外の気温は低めで夜風が頬を冷やしたが、決して寒くはない。華鈴の優しさが、心と体を暖めてくれているのだろう。


「なあ? 次はどこへ行く?」


「ゲーセンでも行こっか。」


「ほう。ゲーセンか……良いねぇ」


 目的地に向かって歩き出した俺たち。その道中で華鈴が俺に問うてきた。


「ねぇ、麻木さんはゲームとかするの?」


 俺は答えた。


「いや。ガキの頃にファミコンを買ってもらったことはあるが、最近は全然やってねぇな。ゲーセンも5年近く行ってねぇかもしれん」


「ふーん……じゃあさ、UFOキャッチャーとかやったことない?」


「ああ。無いな」


 華鈴は嬉しそうに笑った。


「ふふっ! なら決まりね!」


 彼女が行きたいというゲームセンターは、恵比寿駅から徒歩5分圏内の場所にあった。


「へぇ……近頃のゲーセンはこんな感じなのか」


 俺は思わず感嘆の声を漏らす。華鈴が行きたがっていたのは某大手ゲーム制作会社直営の店だった。中へ入ると、様々な電子音が耳に飛び込んでくる。


「麻木さん! こっち! やってみようよ!」


 華鈴は俺の手を引くようにして店内を歩き回った。そして、とある一角で立ち止まると……。


「これ! これがやりたいの!」


 彼女が指差したのはクレーンゲーム。俗に云うところの『UFOキャッチャー』と呼ばれる代物である。


「ほう……これが噂の……」


 俺は初めて目にする筐体をしげしげと眺める。


「麻木さんはやったことないんだよね?」


「ああ」


 華鈴が説明してくれたところによると、このゲーム機は中に景品をアームで掴んで取り出し口まで運ぶゲームらしい。


「じゃあ、さっそくやってみようよ!」


「おう」


 華鈴は100円玉を投入すると、慣れた手つきで操作し始めた。そして……アームが景品を掴んだ! しかし、それはすぐに落ちてしまう。


 だが、彼女はニヤリと笑う。


「うん。良いね」


「えっ?」


「今のはわざとそこに落としたんだよ」


 景品を取りやすくするための作戦のようだ。よく分からないので見守るしかない俺に目配せしながら、華鈴はもう一度コインを入れて操作を始める。


 すると、今度はアームが景品のタグに引っかかった。


 そして……。


「よっしゃ」


 そのまま吊り上げることに成功した!


「おおっ!」


 思わず歓声を上げる俺。華鈴は得意げな顔で言った。


「ふふっ! こう見えてもあたし、クレーンゲームは昔から大得意なんだよね!」


「やるじゃねぇか。今のはマジで凄かったぜ。いやあ、こういうインテリな遊びができるなんて大したもんだ」


 素直に感心していると、華鈴は景品を袋に入れて俺に渡してくれた。


「はい、どうぞ! これあげる!」


「えっ……いや、それはお前が取ったもんだろ?」


「良いから受け取りなさいよぉ!」


 戸惑いながらも俺は受け取った。華鈴は満面の笑みを浮かべて言う。


「麻木さんにプレゼントしてあげる」


「でも……良いのか?」


「もちろん! 『UFOキャッチャーを勉強した記念』ってことで!」


「そうか。ありがとう。大事にするよ」


 華鈴は照れたように顔を背ける。


「……うん!」


 クレーンゲームで景品を獲るには独特の技術が必要らしい。素人の俺がやったところで無駄にコインを使ってしまいそうな気がしたので、敢えて俺は触れずに店の奥に進んだ。華鈴の次なるお目当てはパンチングマシーンだった。


「麻木さん! これやってみようよ!」


「ほう……!」


 このゲームのルールは簡単。機械に向かって拳を突き出して、パンチ力を競うのである。これについては見たことがあった。


「麻木さんは右利き? それとも左利き?」


「右だ」


 すると華鈴は俺にグローブを手渡してきた。


「はい、これ使って」


 俺は言われるままに装着する。そして、華鈴が操作した機械のサンドバッグに向かって構えを取る。


「……前から思ってたんだけどさ。麻木さんのそれって空手?」


「まあ、古武術だな」


 今ひとつ理解できない様子の華鈴はさておき、俺は呼吸を整えて意識を拳に集中させる。遊びとはいえ鞍馬菊水流の伝承者。ここで高得点を叩き出さずして何とするか。


「あ、麻木さん?」


 心配そうな華鈴に俺は答えた。


「ああ、任せろ……でやああああああっ!!!」


 そして渾身の一撃を繰り出す。


 ――ドゴォン!


 凄まじい音を立てて俺の拳がサンドバッグにめり込んだ。その衝撃は凄まじく、打撃が当たった箇所が大きく抉れている。


「……計測不能だって」


「ああ。やりすぎちまったようだな」


「やりすぎでしょ! 壊れちゃったんじゃない!?」


「いや。壊れてはねぇはず……ってことにしておくか」


 暫くの間呆然としていたものの、やがて華鈴はお腹を抱えて笑い出した。


「あはははっ! 麻木さんって本当に面白いね!」


 それからシューティングゲーム、リズムゲーム、カーレースゲームと遊んだ後、俺たちは店を出る。時刻は21時32分。まさに夜遊びに相応しい時間帯になってきた。


「いやぁ、楽しかったな!」


 すっかり上機嫌になった華鈴は満面の笑み。俺もまた同じ気持ちだった。


「ああ! こんなに遊んだのは何年ぶりだろうな!」


「ふふっ! あたしもよ!」


 軽く背伸びをしながら彼女は言った。


「ねぇ。ちょっと何処かのお店で飲んで行かない?」


 それってつまり酒を飲むということか――不意にいかがわしい光景が脳裏をよぎり、俺は反応に困った。


「ん? 麻木さん?」


「あ、いや、何でもねぇ。酒だな。良いぜ。付き合ってやるよ」


「良かった!」


 動揺を悟られぬよう全力で表情を繕ったが華鈴にはお見通しであった模様。俺は冗談っぽく笑うと俺の腕を掴んできた。


「さっきは何を考えてたの?」


「べ、べ、別に」


「正直に言いなさいよぉ。ま、大体は予想が付くけどねぇ」


 華鈴はニヤニヤと笑っている。完全に俺を揶揄って楽しんでいるようだった。こうまで上手を取られては挽回することもできない。


「ああもう! 分かったよ! 全てお前の考えてる通りだよ!」


「やっぱりね。麻木さんってムッツリスケベなんだぁ」


「なっ! 男なら普通だろ!」


 俺は半ばヤケクソ気味に叫んだ。すると華鈴はさらに口角を上げる。


「いちおう教えといてあげるけど、男と女が一緒にお酒を飲んだからって必ずしもそういう流れになるとは限らないんだからね」


「そ、そうなのか?」


「うん。そういうこともあるってだけで、絶対ってわけじゃない」


 俺はホッと胸を撫で下ろす。


「そうか……良かったぜ……」


 すると華鈴は俺に顔を近づけてきた。


「ふふっ! もしかしてあたしとそういうコトしたかった?」


「……っ!」


 図星を突かれた俺は言葉に詰まる。華鈴は吹き出すのを通り越して爆笑した。


「あはははっ! もうっ! 麻木さんって本当に可愛いんだから!」


「うるせぇな……」


 俺は赤面しつつ華鈴から顔を背ける。すると彼女は俺の腕を引っ張って歩き始めた。


「ほら、行こうよ」


「ああ」


 つくづく自分が情けない。俺は何故にかくも女性相手には上手く立ち回ることができず、不甲斐ない姿ばかりを晒してしまうのだろうか。鉄火場で相まみえる男に対しては先ず後れを取らぬというのに。


 ただ、このままリードされっ放しで終わるのは何だか不本意に思える。俺はゆっくりと口を開いてみた。


「あのよ、ちょっと気になってる店が近くにあるんだ」


 そうすることで少しは華鈴を相手に格好付けてみたかったのだ。


「えっ? それってどこ?」


 華鈴は意外そうな顔をする。


「たぶんこの辺りだと思う。選りすぐりのカクテルしか置いてねぇ専門店らしいんだ。オープンしたばかりって聞いたし、ちょっと寄ってみないか?」


 すると彼女は皮肉交じりに微笑んだ。


「あたしは場所を聞いたんだけどなあ……でも、良いよ。行ってみよう」


 どうやら興味を示してくれたようだ。俺は胸をなで下ろすと彼女を案内する。だが、華鈴の指摘する通り肝心の店の場所が分からなくては意味が無い。


「ちょっとごめんな」


 俺は携帯電話を手に取って電話をかける。相手は決まっている。酒井だ。


「おう。酒井か。俺だ、麻木だ」


『もしもし? 次長? どうしたんです?』


「お前が昼間に教えてくれたワインの店に行ってみてぇんだが、場所が分からなくてな。住所を教えてくれねぇか」


 電話の向こうの酒井は上機嫌だった。テレビでも観ていたところだったか。


『ああ、あの店ですね! 良いですよ。恵比寿一丁目の「ラ・フォルファ」っていう店です。銀座通りのド真ん中にあります』


「銀座通り……ってことは、今いる場所から意外と近いな。ありがとな。助かるぜ」


『いえいえ! お安い御用ですよ! 素敵な夜を満喫なさってください! 次長が誰と一緒かは存じませんがね! ふふっ!』


 部下の軽口を受け流して電話を切った俺。華鈴の方に向き直ると、彼女は少し苦笑いを見せていた。


「麻木さん。もしかして店の場所も知らないのにあたしを誘ったの?」


「いや、まあ……そうだな」


 俺は気まずさを感じて視線を逸らす。すると華鈴は溜め息を吐いた。


「もうっ! 麻木さんったら!」


「すまん。ただ、せっかくだから一緒に行きてぇと思ったんだよ」


「良いよ。麻木さんと一緒に行ってあげる。これも勉強ってことで」


 またしても不格好な姿を晒してしまった。店の知識を披露して挽回するつもりが見栄も何もあったものではない。それでもクスクスと笑って許してくれる彼女に救われた心地だ。


「……じゃ、じゃあ。行こうぜ」


「うん」


 こうして俺たちは恵比寿一丁目にあるワイン専門のバーへと向かったのである。


 中央区ではなく渋谷区。それも恵比寿だというのに銀座通りとは。ここ最近は銀座絡みで色々と痛い目に遭ってきたので、そのネーミングには何だかよからぬものを感じてしまう。


 だが、いざ店内に入ってみると、そこは薄暗い照明が照らす落ち着いた雰囲気の空間だった。


「へぇ……なかなか良い感じじゃない」


 華鈴は興味津々といった様子で店内を見回している。俺はバーテンダーに話しかけた。


「どうも。こんばんは。予約も取らずに申し訳ねぇんだが……」


 すると彼は落ち着いた笑顔で応対してくれる。


「いらっしゃいませ! お好きな席へどうぞ」


 俺は華鈴を促してカウンター席へ。するとバーテンダーはメニューを差し出してきた。


「お決まりになりましたらお声かけください」


「ああ、ありがとう」


 華鈴と並んで座ると、早速メニューを眺めた俺。


 やはり専門店というだけあってワインの品揃えはなかなか豊富である。いずれもアルコール度数は少し低め。それゆえ酔っ払うために呑むというよりは、純粋に葡萄の味を楽しむためにオーダーする客が多いのだろう。


「麻木さんはどんなのにするの?」


「そうだな……輸入物とか年代物とかあんまりよく分からないから、見たところオーソドックスなやつにしようかな」


「じゃあ、あたしもそれにしようっと」


 華鈴がそう言うのでバーテンダーに注文を伝えると、彼は笑顔で応じた。そしてすぐにグラスを二つ用意してくれる。


「お待たせしました。こちら甲州10年醸造の赤になります。お口に合いましたら幸いでございます」


 俺と華鈴はグラスを軽く合わせて乾杯する。


 そして、一口飲んでみた。


「……」


 葡萄の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。確かにこれは美味い酒だと感じた。


「うん! 美味しい!」


 華鈴が顔を綻ばせるのを見て俺も喜ばしい気持ちになる。


「ああ。なかなか良い店だな」


「本当ね。麻木さんにその店を教えてくれた人に感謝しなきゃね。恵比寿でこんなに美味しいお酒が飲めるなんて思わなかった」


 その会話を聞いてバーテンダーも嬉しそうに微笑んでいる。


「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです」


 ふと俺は店内を見渡してみる。客は俺たち以外に1人だけ。眼鏡をかけた長身の男で、何やら小説らしき本を読みながら黙々と飲んでいるようだった。


 店内にはピアノとエレキギターの旋律が流れる。おそらくこれは洋楽だろう。とてもお洒落な曲調で店の落ち着いた雰囲気と調和している。こんな環境下では読書も捗ることだろう。なかなか良い趣味を持っているな……と感心した時。


 懐に入れていた携帯が鳴った。


「すまん。ちょっと出てくる」


「うん」


 華鈴に一声かけて、俺は店の外へ出た。電話の主は才原だった。


「もしもし?」


『麻木。今、何処に居る? 話せるか?』


「……個人的な調べ物があって恵比寿に居る。話せるっちゃ話せるが。何か問題でもあったのかよ」


 俺が言葉を返すと、ひと呼吸ほどの間を置いて才原が本題を切り出してきた。


『先ほど俺の一族の者から伝令があってな。横浜の村雨耀介の屋敷が眞行路一家の手に落ちたらしい』


「何だと!?」


 自然と声が裏返った。


 意味が分からない。どういうことだろう。村雨の屋敷が落ちたなんて……?


 聞けば本日の夕刻頃に眞行路高虎率いる眞行路一家の軍勢が総攻撃を敢行、山手町にあった村雨邸を強襲して占領するに至ったというのだ。


「おい! それは確かな情報なのか!?」


『間違いない。銀座の猛獣が山手町に攻め入る模様は多くのカタギが目撃している。おそらくは明日の新聞にも載るだろうな』


「……」


 俺は言葉を失った。屋敷が占領されたということは、それすなわち占領された側が敗北したということ。まさかあの村雨が負けたのか? 一騎当千の喧嘩の腕を持つ村雨が?


 全くもって信じられない思いだった。


『今、高虎は横浜市中における村雨組の残党を掃討しているという話だ」


「……村雨組の組長はどうなった? 殺されたのか?」


『分からない。ただ、我が一族の調べでは、高虎が占領した際に村雨の屋敷は既にもぬけの殻だったそうだ』


 またもや声が裏返る。


「も、もぬけの殻!?」


『ああ。組長の村雨耀介以下、幹部および組関係者は全員が姿を眩ませていたと』


 それで高虎は血眼になって村雨の行方を追っているというわけか。いや、ますます分からない。どうして村雨は敵を前にしてそんな真似をしたのだろう。


 現時点では情報が少ないので村雨の意図についてはまったくの不明。引き続き才原一族が横浜での調査を続けるとのことだった。


「分かった。俺も何か情報を掴んだら連絡する」


『ああ、頼む』


 電話を切ると俺は店の中に戻るべく歩き出す。


「……」


 村雨が負けた。それも、本陣たる屋敷を敵にあっさり占領されたというではないか。才原から聞かされた事実が受け入れ難くて頭が混乱する。


 屋敷はもぬけの殻?


 行方を眩ませた?


 おまけに組長以下幹部全員?


 頭の中を疑問が埋め尽くしてゆく。直ちに思いつく仮説は空城の計だ。されど、敵勢に本陣をみすみす奪わせるようなことを村雨がするであろうか。


 勝つことへの執着が異様に強い、あの村雨耀介が。


 考えれば考えるほどに理解が追い付かない。この戦争は眞行路一家の完全優位で進んでいる。銀座の猛獣の勢いを前に村雨が敗れたというのか……。


 呆然自失になりながら、扉を開けて店内に戻った俺。


 すると耳に会話が飛び込んできた。


「ご存じですか? この国で最も最初にワインが作られたのは縄文時代まで遡ります。稲作が始まるよりもっと早くに、日本人は葡萄の味を楽しんでいたのですよ」


「へ、へぇ。それは知りませんでした」


 カウンター席に座る男女が会話を交わしている。よく見ると女の方は華鈴で、もう一人の男の方は先ほど見かけた長身で眼鏡の男だ。何を話しているのだろうか。


「葡萄の栽培が本格的に始まったのは弥生時代です。中国から伝わった技術を用いて、人々は畑に葡萄を植えていきました」


「……そ、そうなんですか」


「ところが日本にはワインを作るための酵母菌が存在しなかった。よって本格的に普及するのは遥か未来の明治時代まで待たなくてはなりませんでした」


「す、すごいですね……」


「やがて明治に入ると海外から様々な種類のワインが輸入されるようになりました。そして日本人の舌にも合うようにと研究が進められて現代に至るわけです」


 華鈴は完全にドン引きしているのに男は語りを止めない。おそらくは初対面であろう他の客にここまで熱弁できる度胸はともかく、その知識量は見事なもの。興味に駆られた俺は声をかけた。


「ちょっと聞かせてもらったが。すげぇな、あんた。だいぶ詳しいようだな」


 俺が近づいて行くと、男は華鈴に軽く笑った。


「おっと失礼。お連れ様がお待ちのようでございますね。私もおしゃべりが過ぎました」


「あ、いえいえ。面白かったですよ」


「要は『全てのワインに個性がある』ということです。普遍的、あるいはオーソドックスなものなど存在しません。それをお分かりいただきたかった」


 そう言うと立ち上がり、彼は俺に視線を合わせて会釈する。


「では、良い夜をお楽しみください」


「お、おう……」


 やや呆気に取られる俺をよそに男はすたすたと立ち去ってゆく。そうしてクレジットカードで支払いを済ませてそそくさと店を出て行った。


「……変わった男だったな」


 俺が呟くと、華鈴が溜息をつく。


「あの人、麻木さんが電話をしに外へ出た後でいきなり話しかけてきたの。ワインの歴史について語り始めたと思ったら、いきなり『全てのワインに個性がある』とか何とか言ってきてさ。正直、ちょっとウザかったよ」


「確かになあ」


 俺が先ほどの注文でオーソドックスという単語を出したのが気に食わなかったらしいが……初対面の人間にあそこまで饒舌になれるものか? それとも酒が入れば誰でもこうなるのか? 俺には分からない。ただ、あの男が只者ではないのは確かのようだ。


「ああいうインテリな輩は何を考えているのかが分からねぇよな」


「言っちゃアレだけど、あの人はインテリじゃないと思うよ」


「えっ?」


「さっきの話で『最も最初に』って言ったじゃん。本当のインテリさんはそんな国語的におかしい表現をしないよ。ああいうのは所詮は見掛け倒し」


「眼鏡をかけてるからそれっぽく見えてるだけってことか?」


「そういうこと。大学にも多いのよ。自称知識人ってやつ」


 俺と華鈴が話していると、マスターが申し訳なさそうに声をかけてきた。


「いやあ。すみません。あのお客様は、いつもああいう感じなんですよ。他のお客様に話しかけては一方的に知識をひけらかしたり、自分語りを始める。困ったものですが、うちにとっては数少ない常連様なので。あまり無碍にはできないと申しますか」


 開業してから未だ日が浅くて地域に馴染んでいない店にとって、定期的に訪れてくれる客はとても貴重な存在。下手に注意して機嫌を損ねたりはできないのだろう。少し辟易とさせられたが気持ちは何となく分かった。


「まあ、ああいう客もたまにはいるさ。気にするなよ」


 俺がそう言うとマスターは安堵したように胸を撫で下ろす。華鈴も喫茶店の女給をしているので、個性的な客との遭遇には慣れているのかもしれない。さほど不愉快には感じていない様子であった。


「さ、気を取り直して。飲み直そっか」


 華鈴がグラスにワインを注いでくれる。


「ああ、そうだな」


 俺は一気に口へと含んだ。芳醇な葡萄の風味が口いっぱいに広がる。先ほど飲んだものと同じ銘柄だが、やはり美味いものは美味い。


 それから俺と華鈴は互いに様々なことを語らった。

 仕事のこと、プライベートのこと。そして、互いが見据える将来像についても。


「あたし、大学を卒業したら貿易をやりたいと思ってる。商社に就職するのも良いけどさ。やっぱりうちの店の珈琲豆の輸入を手伝いたいんだよね」


「そりゃあ良いな。お前みてぇな娘が居ると親父さんも嬉しいだろうなあ」


「あたしが傍に居ないと何しでかすか分からないからね、うちの駄目オヤジは」


 グラスを回しながら華鈴は笑う華鈴に俺は同調した。


「まあ、確かに正義感が強すぎる人ではあるよな」


「うん。そのせいでお母さんも愛想を尽かして出て行ったようなものだし」


 華鈴の両親は彼女が13歳の時に離婚していた模様。弟を連れて家を出たというので事実上の一家離散だ。母と弟には定期的に会っているらしいが、なかなか複雑な家庭環境といえる。


「でも、あたしは何だかんだ言ってお父さんが大好きなんだ。お母さんと弟が出て行ってからはずっと二人で頑張ってきたし」


「そうか……」


 俺は部外者なので華鈴の家庭の事情についてとやかく言うことはできない。だが、彼女の父親が筋金入りの正義漢であることはだけは確かだ。そして、その娘である華鈴もまた父親似の正義感に溢れている。


「麻木さんは? 家族とは仲良くやってるの?」


「いや、ぜんぜんだな」


 俺は肩を竦めてみせた。


「えっ? そうなの?」


 華鈴が驚いたような表情を浮かべる。無理もないだろう。俺に限らずヤクザの家庭環境はカタギのそれ以上に特殊であることが多い。


「ああ。まあ、よくある話だよ」


「そっか……中川会は世襲が多いって聞いたけど。麻木さんのお父さんもそっち系の人だったの?」


「一応はな。枝の組長をやってた。尤も、親父の組は俺が小さい頃に潰れちまったが」


 ワインを飲み、俺は続ける。


「親父に憧れてっていうよりは気付いたらヤクザになってたようなもんだからな。ガキの頃から色んな大人に流されて、利用されて、振り回された末の渡世入りだ。たまに、自分って人間が分からなくなる」


「でも、今は麻木さんは自由に生きてるんでしょ? 自分の意思でヤクザをやってるんじゃない?」


 華鈴が訊いてきた問いに対して、どう答えようか。俺は考えに迷った。中川会で会長の右腕に収まっている今の状況は決して自ら望んだわけじゃない。かつては村雨耀介の子分として渡世を歩む未来もあったのに。


 それを歪めて中川恒元の所へ来てしまったのだから。


 だが、結局は俺自身が自ら選んだことだ。横浜を出奔して中川会へ行くことで村雨を守ろうとしたのだ。悔いは無い……というより、過去の選択を悔いたくはない。


 不本意ではありつつも愚直に恒元の寵臣を演じている理由は、きっとそれに尽きると思う。ゆえに俺は前を見据えて答えた。


「ああ。それなりに楽しくやってるよ」


 その返事に華鈴も笑顔を見せる。


「うん」


 俺と華鈴。生い立ちや境遇は違えど、互いに後ろめたい過去を背負っている。周囲の大人の都合に翻弄されて自分をかたちづくってしまった。


 そのようにしか生きられなかったと哀しみに駆られることもある。なればこそ、俺は華鈴に対して今まで以上に親近感を抱いているのかもしれない。



 そして彼女を似たような人生を歩む者同士として大切に想っているのかもしれない――。


「なあ」


「ん?」


 グラスのワインを飲み終えた彼女に「俺はな、華鈴」と前置きしてから話を続ける。下手な台詞だがアルコールの力を借りて伝えてみよう。


「お前と出会えて良かったと思ってるよ」


 その言葉を聞いた瞬間、華鈴は驚いたように目を見開いた後で照れ臭そうに笑った。


「……ありがとう」


 互いに視線がぶつかり合って交わり、心地よい雰囲気になる。暫しの間、俺たちは見つめ合っていた。


「あたしも。麻木さんと出会えて良かったよ」


「ああ」


 俺も素直に頷いた。


 華鈴はグラスのワインをカウンターに置く。そして俺へ少し距離を詰めたかと思うと肩に頭を乗せてきた。あまりにも大胆な仕草に心臓が高鳴るが、全力を尽くして平静を装う。


 こんな時、どうするのが正解であろうか……?


 そうだ。ゆっくりと髪を撫でてみよう。


「……」


 彼女は嫌がらなかった。むしろ心なしか嬉しそうにも見える。経験が少ないなりに思い切ったことをしてみて良かった。


「麻木さん」


 やがて華鈴は上目遣いで俺を見つめてきた。


「ん?」


 俺は緊張しながら次の言葉を待つ。そうしていると彼女は頬を赤らめながら言った。


「麻木さん……これからもよろしくね」


「ああ」


 俺は力強く返事をする。


 ここで取るべき次なる行動は、華鈴の唇へそっとキスを落とすことだろうか。


 いや、それは流石にやり過ぎだ。本当はすぐにでも口づけを交わしたくてたまらなかったが、理性を保つ。酔った勢いに流されてはいけない。


 でも、彼女と近づきたい。


 とりあえずは華鈴の肩に手を回してみた。すると彼女もそれに応えるように俺の腰に手を回してきた。


「……はあ。たまにこうして肩を借りたくなる時があるんだよね。あたしも結局は女なんだなって思わされるわ」


 少し小さめの声で華鈴が呟いたので、俺は咄嗟に返す。


「男とか女とか関係ねぇよ。華鈴は強い」


「ありがとう」


 やがて華鈴はゆっくりと俺から体を離した。


「もう大丈夫。ありがとうね」


「……おう」


 俺も華鈴の肩から手を離した。もう少し触れていたかったが「柄にもないことしちゃったね」と彼女が苦笑するので仕方が無い。


「さてと……そろそろ行こうかな」


 そう言って立ち上がった彼女。時刻は23時を回ったところである。


「もう帰るのか?」


「うん。終電、逃しちゃってもまずいから」


 俺は会計を済ませて華鈴と共に夜の街へ出る。


「んじゃ、帰るとするか」


 本音をぶっちゃけると、華鈴ともっと一緒にいたい。このまま共に夜を越したい。だが、そんな我儘を言っても彼女を困らせるだけだ。


「うん」


 華鈴は頷いた後で俺に言った。


「麻木さん……今日はありがとうね」


「ああ……」


 俺は言葉少なに返事をする。すると彼女は少し寂しそうに笑ってから続けた。


「また一緒にご飯食べに行こうよ。今度は昼間から遊ぶのも良いかもね」


 今度は昼間から――嬉しさを噛みしめながら、俺は降って湧いたように思いついたことを提案してみる。


「なあ、来月の28日は空いているか?」


「え、たぶんお店は休みだけど……」


「その日、一緒に試合を観に行こうぜ」


 華鈴は少し驚いたような表情を浮かべた後で嬉しそうに笑った。


「うん! 楽しみにしてるね!」


 デートと呼んで良いのかは分からないが、また会う約束を取り付けられて良かった。それから俺は華鈴と共に恵比寿駅まで戻って来たのだが……。


「麻木さん。ごめん。ちょっとトイレ」


 ふと便意を催したらしく、華鈴は駅近くのコンビニへ便所を借りに駆け込んで行った。彼女を待つ俺は懐から煙草を取り出して火を付ける。


「ふう……」


 紫煙を燻らせながら夜空を見上げた……その瞬間。俺の物思いは突如として中断される。


「この野郎! 何してくれてんだ! よくもシノギを邪魔しやがって!」


 怒鳴り声が耳に飛び込んできたのだ。声のした方に視線を向けると、見るからにいかつい2人組の男が1人の青年に詰め寄っているところであった。


「あんな手口で金儲けしようとする方がおかしいでしょう!」


 青年は毅然として言い返す。されども男たちの迫力は彼を大いに上回っている。


「おかしいも何もあるか! どう落とし前付けてくれんだ! ゴラァ!」


「そ、それは……」


 やがて男のうちの1人が青年に掴みかかる。


「ああ!? さっきから舐めた口聞きやがって! どこの素人か知らねぇけどな、俺たち酒井組を舐めたらどうなるか教えてやるよ!」


 青年は恐怖に顔を歪めた。


「ひいっ」


 どうやら揉め事のようだ。一方は確実にヤクザ。となれば中川会系、その中でも酒井組と言えば俺の部下の実家にあたる組か――俺は煙草を近くにあったスタンド灰皿に押し込んでから彼らに歩み寄る。


 そして青年の胸倉を摑んでいた男の手を掴んだ。


「おい。その辺にしておけよ」


「ああ? 何だ、お前は……」


 男が俺の手を振り解く。そして俺と対峙する形となった。俺は男を睨み返すが、相手も怯むことなく睨み返してくる。するともう1人のヤクザが俺を見て言った。


「あっ、あんた、どっかで見たことあると思ったら、執事局の次長じゃねぇですか!?」


 俺は無言を貫く。執事局は会長直属の組織。組織内の掟により直参の組に対しては一定の優越権が与えられているのだ。


「……ちっ」


 青年を掴んでいた男は舌打ちと共に引き下がった。そこへ俺は問いを投げかける。


「いかにも俺は執事局の次長だ。お前ら、さっき酒井組と言ったな? 中川の直参がたかが素人に2人がかりとは情けねぇなあ」


 すると男は「うるせぇ!」と怒鳴り返してきた。敵意を剥き出しにこちらを見ている。


「いきなり現れたと思ったら上から目線で説教かよ……会長の親衛隊だからって調子に乗りやがって……俺は前から執事局が気に食わなかったんだ!」


 男は懐から短刀を取り出して構える。俺は呆れて溜息をついた。


「おいおい。そんなものを向けたら自分がケガするだけだぜ」


 次の瞬間、俺は男の腕を摑んで捻り上げていた。そして短刀を奪い取ると男の膝に軽く蹴りを入れて地面に倒す。


「ぐほっ……!」


「事情を聴かせてもらおうじゃねぇか。そしたら俺に短刀を向けたことは見逃してやるぜ」


 すると、もう一人の男が慌てて言った。


「か、勘弁してください! 俺たちはただ、シノギの邪魔をしたクソ野郎を懲らしめようとしてただけなんでさぁ!」


 ふと俺は青年の方を見る。下は白いスニーカーとジーンズに、上はカーキ色のセーター。顔はどこかあどけない雰囲気を放っている。ファッションと面持ちから見るにどこかの大学生で年齢は19歳くらいか。こんな奴がどうしてヤクザと揉めたのか――。


 疑問をおぼえていると青年が口を開いた。


「この人たちは駅前で女性たちに売春をさせていたんです。それで僕が女性たちを逃がしてあげたら、この人たちが逆上して……」


「なるほどな」


 素人が無駄に正義感を募らせてヤクザに喧嘩を売ったケースか。この手の間抜けなエピソードは歓楽街ではよく聞く。この組員たちが怒るのも無理はないだろう。


「はあ。兄ちゃんよ。女どもがどうして駅前に立ってたか、分かるかい?」


「それは……この人たちに強要されていたからでしょう」


「どうして強要されていたと思う?」


「……借金のカタに身体を売らされていたから……とかでしょうか」


「まあ、そんなところだ。他にも、自ら職業としてそういうことをやってる娘も居るがな。要するに、彼女らには売春をしなきゃならねぇ事情があったんだよ」


 俺は青年へにじり寄って続けた。


「良いか? お前がやったことは彼女らがカネを稼ぐのを邪魔したに他ならねぇ。ヤクザが売春をさせるのはカタギの女らに働き先をくれてやっているんだ」


「そ、それを僕が奪ったと。承服できない言い方ですね。そういうのを屁理屈っていうんですよ、経済的に追い込まれていようが売春するのは違うでしょう」


 やけにこの世界の事情に詳しい青年は怯えながらも俺を睨み返してくる。正論ではあろうが、俺はこの青年を諭すように言った。


「じゃあ何か? お前は売春婦たちを救ってやったつもりか? 違うだろ? 彼女らはヤクザに借りを作ってまで稼がなきゃならねぇ事情があったんだよ。お前はそれに水を差したんだ」


「……こ、この国で売春は違法行為です」


「知った風な口を聞いてんじゃねぇよ、素人が!! 違法だろうが何だろうが、稼がなきゃならねぇ事情が彼女らにはあるんだよ!」


「そんなのはヤクザの勝手な理屈です!」


 なおも言い返す青年に俺は畳みかける。


「だったら、さっき逃がした女どもに聞いてみやがれ! 『売春以外で稼げるのか』ってな! そういうことをする女たちは他にアテがぇんだ! 表社会ではろくに仕事へあり付けねぇ女たちなんだよ! 彼女らの最後の救いをお前は壊したんだ!」


「……」


「ヤクザから逃げちまった以上、彼女はこの町には居られねぇ。いずれ追い込みをかけられて今よりもっとひどい目に遭うだろう。まともな仕事にもありつけず惨めな思いをして暮らすことになる」


 青年は完全に押し黙った。そこへ俺は続ける。


「恥と屈辱を忍んで歯を食いしばって駅前に立ってたところで逃げるよう唆した。お前は彼女らの生活をぶち壊したんだよ!」


 やがて青年は肩を落として項垂れた。そして絞り出すような声で言う。


「……違う。僕は間違ってない」


「黙れ。東京湾に沈められたくなかったら今すぐ消えろ。そして二度とこの界隈に近づくな。お前みてぇなのが居ると多くの人間が無駄に迷惑を被るんだよ。カス野郎が」


 睨まれた青年は足早に立ち去って行った。彼の背中が見えなくなるのを見届けてから、俺はヤクザたちの方へ向き直る。不本意ではあるが始末を付けなくては。


「あんまり素人と面倒を起こすんじゃねえよ。お前らも今の中川会がどういう状況か、分かってんだろ。カタギと揉めてる暇があったら眞行路との喧嘩支度をしろや」


 するとヤクザの男は舌打ちをした。


「チッ……仕方ねぇな」


 そしてもう一人の男へ目配せする。


「おい、行くぞ」


「で、でも! それじゃ埋め合わせが……!」


「馬鹿野郎! 執事局には若が人質に取られてんだ! 下手に逆らえばあの人がどうなるか分かったもんじゃねぇ!」


「わ、分かった!!」


 彼らは踵を返して去って行った。若とはすなわち俺の部下の酒井祐二のことだろう。恒元は直参組織統制のために彼らの子息を執事局の構成員として預かっている。連中の言う通り、実質的な人質だ。直参たちが本家に歯向かわないようにするための事前策というわけである。


 何だか酒井に申し訳ない気持ちになってきた。


「……はあ。どうしてあのガキを助けたんだろう」


 アルコールが入っていたせいで俺も正義感に駆られたのかもしれない。まったく、とんだ無駄なことをしてしまったものだ。


 そう思って溜息をついていると、華鈴が戻って来た。


「おまたせぇ! ごめんね! ちょっと長くなっちゃって!」


「あ、ああ」


「ん? 何かあった?」


「いや。別に。特にはぇよ。行こうぜ。電車に乗りそびれたらいけねぇからよ」


「あ。うん」


 そして俺たちは駅の中へと入って行った。切符を買う華鈴を見ながら、俺は直感する。この娘ならあれこれ考えずにさっきの青年を助けるだろうと。


 それこそが人として正しい道であろう。だが、俺はヤクザ。裏社会の物差しでしか頭をまわせなくなっている――改札口を通る時に表情が曇った。


「この駅にも早く導入されたら良いんだけどねぇ。電子改札」


「ああ、そ、そうだな」


「そうすればいちいち切符を買わなくて済むのに」


 話を聞いていなかったので慌てて適当に合わせた。どうやら華鈴は俺が切符を買う手間を厭わしく感じていると思ったらしい。


「そうだよなあ」


 それから俺と華鈴は取るに足らない雑談を交わしながら電車に乗り、赤坂まで戻った。三丁目に着いた時にはすっかり深夜。日付が変わろうとしている。


「じゃあ、麻木さん。また遊ぼうね」


「おう」


 華鈴にとって『Café Noble』は店舗兼自宅。彼女が店に入って鍵をかけた後、俺はそそくさと総本部へ戻る。ともあれ楽しい夜だった。


 ここ最近は気の抜けぬ毎日を過ごしていたので尚のことそう感じる。願わくば、毎日が斯様に穏やかであったら最高なのに。


「……」


 翌朝。俺は会長に呼び出された。眞行路一家が横浜を陥落させた件で新たな情報があるようだった。


「涼平。どうにも村雨耀介の考えていることが分からない。高虎が方々を捜しても未だ行方を眩ませたままだというが、奴は一体何を目論んでいるのか」


「俺には屋敷が眞行路の手に落ちたって話も信じられませんでした。何かしらの作戦だったとしても、あの村雨が自分の家を敵に明け渡すような真似をするとは到底思えなくて」


「ううむ、何がどうなっているのやら」


 高虎が横浜市内を徹底的に探しても村雨の行方は依然として分からず。幹部共々まったく足取りすら掴めないというのだ。一方、眞行路一家は横浜市内において支配体制を構築。奪った村雨邸を拠点に人員と金を集め、次なる戦について着々と準備を整えつつあるらしい。奴の標的は俺たち中川会だ。中川を関東から蹴散らすことこそが高虎の野望なのである。


「まあ、こちらとしても手をこまねいているわけにはいかないのでね。あの男にちょっとした策を仕掛けてみようと思う」


「策……とは?」


「単純な話さ。眞行路一家で反乱を起こさせて高虎を総長の座から降ろす。奴も組の力が無くては関東制圧なんて出来ないだろうからね」


 高虎の息子である若頭、輝虎が密かに進めていた計画を実行に移すのだという。中川会としては輝虎の肩を持って『眞行路一家五代目』として組織に復帰させるのだ。そうすれば高虎を裏社会から追放することができるのだ。


「しかし、こないだの出陣式を観ていた分には眞行路の若衆どもはなかなか親分への忠誠心が強いようでしたぜ?」


「うむ。高虎を即座に追放できずとも眞行路一家を解体することは可能だ。高虎派と輝虎派にね。そうなれば高虎の戦力は大きく削がれる。戦争を続けられなくなるだろう」


「なるほど……」


 輝虎も輝虎で組内における人望はそれなりに集めている。当代である父と事を構える展開になっても、ある程度の兵は付いて来よう。実現性はさておき何もしないよりはずっと良いので俺は会長の意見に賛同した。


 それから8日後。


 2004年12月1日。


 東京都内に遅めの初雪が降り積もったこの日、俺は銀座に招かれていた。そこは三丁目。眞行路一家の本部屋敷である。


「……来たか、麻木次長」


 いつもはお抱えの業者が出入りする勝手口から密かに俺を出迎えたのは輝虎だ。そう。会長と内密で示し合わせたこの男に呼ばれ、俺は銀座へと赴いたのだ。


「よう、坊ちゃん。俺はてっきりあんたも横浜へ向かったものと思っていた」


「ドンパチの時の若頭カシラの役目といえば留守居役だろ。万が一にも親分が討たれた場合に跡目まで一緒に巻き添えを食ったらまずい」


「違いない。まあ、俺とあんたはこれからまさに親分を討つ企てをするわけだがな」


 輝虎の先導で勝手口から入り、そのまま邸内を歩いて行った俺。今や組の戦力の大半が横浜遠征中というだけあって、屋敷の中はがらりとしていた。


「で? どうなってる? 親分を討つ手筈は整ったのか?」


 俺の問いに輝虎は頷いて見せた。


「ああ。既に若頭補佐のわらび新見にいみ、それから本部長の須川すがわを味方に引き入れている。俺の命令があれば奴らはすぐに動くはずだ」


 作戦の流れは単純明快。


 次なる中川会との決戦を見据えた高虎は横浜で武器の調達を行うべく、ジャマイカ系マフィアと取引を行うことになっている。ジャマイカ人との取り決めで商談の場には高虎がわずかな護衛を連れて行くことになっているそうで、その隙を狙って事を起こすのだという。


「まずは須川が横浜の拠点ヤサを押さえて親父を締め出す。それと同時に俺は赤坂へ向かって三代目に拝謁し、眞行路一家の跡目継承を認めてもらう。んで、最後は蕨と新見がジャマイカの連中と一緒に親父を取り囲んで引退させると」


 輝虎の計画は既に大詰めのところまで準備されており、後は決行の号令を待つだけ。


「麻木次長。あんたには万が一、事が親父に漏れた場合の対処を頼みたい」


「その時は銀座の猛獣を討てってか」


「ああ」


 苦々しい面持ちで輝虎は言った。


「蕨と新見は組の中でもそれなりの喧嘩上手だ。けど、親父を敵に回して勝てるかどうかは分からない。銀座の猛獣を相手に立ち回れるのはあんただけなんだ」


 いざという時に使う切り札が俺というわけか。まあ、買いかぶり過ぎな気もするが妥当な判断といえる。何にせよ銀座の猛獣には借りがある。


「良いぜ。分かったよ。その時は俺がケリを付ける」


「ああ。頼んだぜ」


「やられっ放しは嫌なんでな。奴には、こないだボコられた分の返しをさせてもらうぜ」


 話を終えると、輝虎は俺をとある一室へ案内した。そこは高虎の執務室である玉座の間。先日に俺が奴を一度倒している場所である。


「親父は今ごろ横浜で取引相手との商談中だ。護衛も最小限で、あとはジャマイカの連中だけ。しかも武器調達に躍起になってやがるから親父は丸腰に近い」


「そいつは良いな」


 高虎が無防備ならやりやすい事この上ない。輝虎は俺に念を押すように言った。


「良いか? 事が始まったらお前は先ず一目散に赤坂へ行って会長に拝謁しろよ? 任侠渡世じゃ大義名分が何より欠かせねぇんだからな?」


「ああ。心得ているさ」


 そう軽く答えた後、輝虎は上座に置かれた大きな椅子へと腰を下ろした。


「うん。座り心地はなかなか良いな。事が成ったら、俺がここへ座るわけだ。眞行路一家五代目としてな。楽しみだぜ」


 これまで、輝虎は偉大な父親の影に甘んじてきた。決して歯向かうことはせず、何を命じられても淡々と従うだけの人生を送ってきた。その苦労がようやく報われる時が来ようとしているのだから、心が躍らないはずが無い。


 しかしながら、現時点において油断は禁物だ。まだ気を抜くのは早いぞ――と声をかけようとした時。外から声が聞こえた。


「あっ、姐さん!? どうしてこちらに!」


「つべこべ言わずにそこを退きな!!!」


 留守居の組員の声がしたかと思うと、すかさず襖が勢いよく開いて女が入ってきた。眞行路淑恵。高虎の妻にして輝虎の母親である。


「か、母さん! 何で! 横浜に行ってるはずじゃ……!」


「この馬鹿息子が! あんた、父さんに逆らう気だね!?」


 淑恵は息子の胸ぐらを掴んで怒鳴り散らした。その形相たるや鬼気迫るものがある。輝虎は狼狽した様子で答えた。


「な……何を言ってんだよ母さん……」


「惚けるんじゃないよ!! こちとら何もかもお見通しなんだよ!!!」


 その言葉に俺は唖然となった。どういうわけだろう。何故にこの女に見抜かれていたのだろう。彼女が知っているということはとどのつまり、高虎も知っているということだ。


「母さん! 違うんだ! 何かの誤解だ!」


「ふざけるな!! この馬鹿息子が!!」


 輝虎は全力で弁明を試みるが、淑恵は聞く耳を持たない。それどころか息子を激しく殴りつけて激昂した。


「最近、どうにも大人しいと思ったら……まさか父さんを倒す段取りをしていたなんてね! あんたに眞行路の五代目なんざ百年早い!! 器じゃないんだよ!!!」


「ぐはっ!」


 淑恵の渾身のビンタを食らい、輝虎はその場に倒れた。すると彼女は今度は俺の方へ視線を向けた。


「本家の好きにはさせないよ! いまうちの人がこっちに向かっている所だ! あんたには馬鹿息子ともども消えてもらう! 舐めんじゃないよ! 甘ったれが!」


「なっ……」


 誰かが密告したのか。あるいは輝虎の情報管理が甘かったのか。経緯はどうあれ高虎に計画が漏れている。


 これはいけない。実にまずい状況だ。どうするか? どうやって事を手筈通りに為すか? 如何にしてこの場面を打開するか?


 全力で頭をまわした……。


 結果、思いついた行動はひとつ。一切の躊躇いを捨てて俺は懐から得物を取り出す。


「……すまねぇな。おばさん」


 淑恵に対して、銃を向けたのだった。


「あたしを撃つってのかい?」


「会長からは『邪魔をする者は全て始末しろ』と言われている。それに従えばこうするのが妥当というか最適解なんでな」


 だが、淑恵は一切動じない。


「撃てるもんなら撃ってみな」


「……ほう?」


「あたしを撃っても、うちの人があんたを倒す! 銀座の猛獣は誰にも負けやしないんだ! 必ず天下を獲る男さ! 中川会なんかすぐに蹴散らしてくれる!」


 淑恵の言葉に俺は思わず苦笑した。


「なるほど、そりゃあ良い」


 この女性は心の底から夫を愛しているようだ。忠誠心というよりは慕情とでも呼ぶべきなのだろう。妻が旦那を敬う気持ちは大いに分かる。


 だが、それでもやらねばならない。中川会三代目に忠誠を誓った人間として。ヤクザとして。


 俺は銃を構えたまま淑恵に応じた。


「ならば、あんたを撃った後で高虎に始末をつける。それで良いな?」


 すると、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。


「馬鹿だねぇ……中川に利用されてるってことが分からないのかい。あんたみたいに自分の頭で考える力の無いガキは嫌いだよ」


「言いたいことはそれだけか」


 ここでどんな議論を交わしても埒は明くまい。やるならやってしまおう。俺は引き金にかけた指に力を込める。


「待てッ! 母さんを撃つな!!」


 輝虎が大声を張り上げるも、時すでに遅し。引き金は引かれ、轟音が響く。


 ――ドンッ!


 鉛の銃弾が発射された。ところが、それは俺の標的には当たらなかった。寸前で母親との間に割って入った輝虎の肩を撃ち抜いていたのである。


「うぐっ……ああっ……!」


 まったく。無駄なことを。溜息を吐きながら、俺は輝虎に促す。


「何やってんだよ。半端野郎が。さっさと退けよ。撃てねぇだろうが。まさか気が変わったとか言わねぇだろうな」


「う……ぐぅ……」


 しかし、輝虎は突っ立ったまま。肩の痛みに耐えながらその場に踏み留まっている。俺は舌打ちした。


「ちっ、馬鹿野郎が」


 もう一度、引き金に指をかける。


「輝虎!」

 どういうわけか土壇場で自分を庇った息子に向かって淑恵が叫んだ、その時。


「若頭ァァァ!」


 部屋に組員が駆け込んできた。彼はすっかり青ざめている。銃声を聞いて駆けつけて来たかと思いきや、その男は声を張り上げた。


「若頭! 大変です! カチコミです!」


「カ、カチコミだと……!?」


 肩の銃創を手で押さえながら苦悶の表情で尋ねた輝虎。まさか高虎が来たか。どうやら遅かったようだ……と思ったが、違った。


 組員は驚愕の来訪者の名を明かした。


「村雨です!村雨耀介が攻めて来ました!」


「何だと……?」


 輝虎は雷に打たれたように唖然とする。俺も目を剥いた。まさかここであの男の名前を聞くことになろうとは。


「な……何で……」


「分かりません! とにかく若頭の指示を仰ごうと……!」


 組員の男はそう言うと、そそくさと戻って行った。


「お前ら! 守りを固めろ!」


 屋敷内に詰める居留守役の兵らに檄を飛ばしている模様。


 村雨のカチコミ?


 意味が分からない。どうして奴がここに来たのだ。そもそも村雨耀介は横浜から姿を眩ませていたのではなかったか?


「……まさか!」


 ただならぬものをおぼえた俺は、呆然とする淑恵と輝虎を尻目に座敷を飛び出す。空城の計。奴が敵を前にして逃走を図った理由がほのかに分かった気がする。


 あの男なら有り得る……!


 己の導き出した仮説に自信を深めながら、廊下を走って玄関を目指す俺。奴は敢えて屋敷を敵に明け渡したのだ。おそらくそうだ。


 自分の目で全てを確かめなければ。


 興奮と驚愕と衝撃を織り混ぜた心地で玄関を出ると、その男が見えた。5年ぶりに姿を見る男――村雨耀介は眞行路邸の庭に立っていた。


 風にたなびく長い髪と切れ長の目、そして背広を纏った鍛え抜かれた肉体。見紛うことなき村雨耀介である。


 やってきた俺に気づかぬまま、その男は声を上げた。


「ここに住まう郎党どもに申し次ぐ! 貴殿らの親分、眞行路高虎は討ち取った! よって此度の戦は我が方の勝ちと相成った! その方らは即刻武装を解いて和約を結ばれたい! さすれば命までは取らぬと誓おう!」


 その大音声は眞行路邸内に響き渡った。


「む、村雨……組長……」


 思わず呟いた俺。


「うぬ、涼平か。久しいな」


「あ、ああ……」


 気付かれたようだ。しかし、そんなことは二の次。村雨が右手に持っているものに視線が向かう。


 何ということだろう。


 言葉を失う俺をよそに、村雨はその悍ましい物体を高々と頭上に掲げて今一度大声を上げた。


「敗残の兵どもよ、この男が目に入らぬか!? そなたらが親分であるぞ!!!」


 言い終えるや否や村雨が屋敷に向けて放り投げたもの――それは言葉通りの代物。


 眞行路高虎の生首であった。


「……」


 対外戦争において歴戦無敗を誇った銀座の猛獣が敗れた。後に“とらくずれのへん”として語り継がれるこの歴史的な出来事は、言うまでもなく任侠渡世に混乱を広げてゆくこととなる。


 その渦の中心に、今まさに俺は立たされようとしていた。

眞行路高虎、敗れたり……!

それは言うまでもなく裏社会全体を巻き込む未曾有の争乱の序章。これから涼平は新たな戦火へと巻き込まれることに。


第10章は今回をもって完結となります。応援してくださった皆様に御礼申し上げます。来週から始まる次章にも是非ともご期待ください!

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