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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第10章 虎崩れの変
182/252

猛き高虎

 それは読んで字のごとく、予想だにしない出来事であった。あんな出来事が起こると踏んでいた者が居たのだろうか。きっと一人として居ないはずだ。


 舘野美津男が水尾組の杉本宗次郎組長を射殺した。


 このエキセントリックな事件は言うまでも無く、情勢の複雑化を意味している。舘野はどうして杉本を殺したのか――それ以前に分からないことが多すぎた。陰謀が露見して窮地に立たされた彼の暴発を煽ったのは誰なのであろうか。


 杉本の死体を片付けるのと並行して、俺たちは舘野社長を捕えて尋問にかけた。尋問というよりは拷問である。信濃町の拠点へと連れ込んで背後関係を洗いざらい吐かせたのだ。


 ところが、彼は意外と素直であった。


「僕に杉本殺しを指示したのは政村です。水尾組若頭の政村平吾。彼が言ったんですよ、自分の言った通りに組長を始末すれば外国へ逃がしてやるとね」


「政村だと? そいつは何を考えてやがるんだ?」


「詳しいことは分かりません。ですが、ひとつ言えるのはなかなか頭が切れる男だということです。彼はおそらく煌王会に寝返る気でいる」


 杉本は殺される直前、水尾組の煌王会への密通は全て若頭がやったことで自分は関係ないと言い張っていた。もしや政村は組長が中川会に帰順するのを快く思わず、舘野を使って親分を暗殺したのか……? 現時点では憶測だが、そう考えるのが最も妥当だ。


「舘野さんよ。随分とペラペラ喋るじゃねぇか。まだそんなに痛めつけてねぇのに。訊いといてアレだが、大丈夫か? 政村に口止めされてるんじゃねえのか?」


「別に口止めはされてませんよ。むしろ捕えられたら洗いざらい喋るように言われています。包み隠さず、一切の内情をね」


「ほう?」


 どういうことだろう。政村は舘野が捕縛されるのを見越して計画を立てていたということか。一体、何を考えているのやら。


「政村若頭は僕の“裏切り”をお見通しでした。多摩の産廃跡地を米軍に売った後は水尾組を排除、利益を独占する算段だってことをね」


「そんなあんたを政村が助ける道理が何処にあるってんだ?」


「さあね。僕も同じことを政村さんに聞きましたが答えてくれませんでしたよ。ま、僕には利用価値があるってことなんじゃないですか」


 そう言ってから、舘野は下品に笑った。


「何にせよ、杉本宗次郎の首は獲りました。それはあなた方にとってだいぶまずいことになると思いますよぉ。残念ながら」


 舘野に対しては殴る蹴る以外にも様々な形で苦痛を与えたが、彼は飄々とした態度を崩さなかった。その強情さには感服させられるばかりだ。


「……はあ、はあ。もう良いんじゃないですか。何度やっても同じこと。僕は何も知らない。知りたいことがあるなら政村さんに直接聞いてください」


「そうか。だったら、もう用済みだ」


 俺はそう言って拳銃を取り出した。


「え? あ、あの……」


 舘野は目を白黒させて狼狽える。つい先刻までは大口を叩いていたくせに、いざ銃を突きつけられるとこの怯え様。所詮はこの男も小心者のカタギというわけか。


「お前はうちの直参組長を殺したんだ。そんな野郎を生かしておくわけないだろ。中川の代紋にかけて、お前を処刑する」


「ちょ、ちょっと待ってください! 僕は組員じゃないですよ! そ、それに、僕を殺せば大変なことに……」


「うるせえよ」


 俺は構わず引き金を引こうとした……ところが、その寸前になって才原が部屋に駆け込んでくる。


「待て! 麻木! その男を殺すな!」


「あ? 止めるなや局長。こいつは組織の直参を殺したんだぞ?」


「それはそうだが事情が変わった」


 何を言っているのか。俺は理解できずに当惑した。一周遅れで憤りがこみ上げてきた時、才原が俺に携帯電話を手渡してきた。


「……会長と繋がっている」


 よく分からないが、とりあえず耳にあてた。するとスピーカーホンの向こうから聞き慣れた声が聞こえてくる。


『涼平』


「もしもし、会長? どうかされたんですか? 舘野を殺すなとはどういうことです?」


『我輩としても不本意だが。すぐに解放してやってくれ。そうでなくては色々と面倒な事になるのでな」


「面倒な事? 何が何だか分かりませんぜ。失礼ですが、ご説明願えませんでしょうか」


 俺が食い気味に尋ねると、電話の向こうの恒元は低い声で応じた。


『電話を代わる』


 そうして数秒の保留音が鳴った後、俺は受話器から聞こえてきた男の声に耳を疑った。


『もしもし。麻木君。私だ」


「なっ!?」


 その声には覚えがあった。忘れるはずがない。忘れようにも忘れられない声だ。それは……。


「い、和泉先生……!?」


『そうだ。昨日は世話になったな』


 官房長官、和泉義輝。つい昨日に奥多摩のカントリークラブで一緒にゴルフを楽しんだ大物政治家である。そんな人物がどうして電話に出たのか。


 瞬く間に浮かんだ疑問は、和泉の次の一言で吹き飛ぶように解決した。


『要件だけを伝える。舘野を殺すな。こういう表現が正しいのかは分からんが、彼は米軍の御用商人だ」


「えっ!?」


 独自の情報網を使って調べたのか。和泉は俺たちが舘野不動産の社長を捕縛している旨を知っていた。その上で恒元へ電話をかけたというのだ。


『君も調べた通り、舘野は米軍の極秘基地建設用地の確保に動いていた。先方との話は既に大詰めまで進んでいる。ここで舘野が消えれば彼らは日本政府に不信感を抱いて何らかの報復を行うだろう』


 つまりはこういうことだ。


 米軍は舘野がいずれ買い戻す予定の産廃跡地に極秘基地を建設する予定である。ゆえにその舘野が殺されれば、計画は頓挫。米軍は泡を食うことになる。


 例の土地が予定通り米軍の手に渡らなければ何が起こるか分からない――和泉は日米関係に亀裂が入ることを何より危惧していた。


 元はと言えば舘野が水尾組と組んで日本政府に断りなく始めたことであるが、アメリカにとってはその辺は些末事。手に入れられるはずだった土地が手に入らないと分かった時、連中が激怒するのは必然だ。そのためにも舘野の存在は欠かせないとのことだった。


「いや、しかしですね。こいつは中川会を嵌めてカネを儲けようとした大罪人ですよ。そんな野郎を生かしておいたら代紋が廃れます」


『どうか分かってくれ。これは君たち暴力団だけの問題じゃない。日本の外交の行く末が懸かった一大事なんだ』


 舘野については事が全て終わった時点で、業務上横領や背任、外為法違反で、逮捕および投獄するよう取り計らうと和泉は約束してくれた。


「そうは言ってもねぇ、その間に海外へ逃げちまうでしょうよ。現に本人もそう言ってんだ。みすみす高飛びを許すなんざおかしい」


『恒元はもう了解してくれた。後は君が銃を下ろすだけだぞ』


「会長が……」


『麻木君。頼むぞ』


 和泉に念を押され、俺はついに押し黙るしかなかった。確かに今回の一件はヤクザ同士の揉め事では済まない問題だし、舘野を殺すことで米軍に土地が渡らなくなって悶着が起こるのも理解できる。不本意だが、ここは官房長官の顔を立てるしかない。


「……分かりましたよ」


『ありがとう。舘野社長はすぐに解放してくれ。今から内閣府の者を赤坂へ向かわせるからよろしく頼むね』


 電話を切った後、俺は恒元に問うた。


「会長。舘野は水尾組若頭の政村と結託していると言ってました。官房長官はそれを知った上で俺たちに奴を解放しろと?」


『どうだろうね。仮に知っていたとしても義輝は気にも留めぬだろう。彼の頭の中には日米関係を穏和に保つことしか無いからな』


「そうですか」


 おそらく政村はこうなることを全て読み、舘野を鉄砲玉として使ったのだ。杉本暗殺を実行した後で中川会に捕らえられたとしても政府からの圧力で必ずや解放される。そうすれば頃合いを見計らって舘野を海外へ逃がすことも可能だ。


『ただ、理解できないのは政村が舘野に口止めをしなかった真意だ。どうして彼はそこまで余裕なのだろうか?』


「事が全て露見しても構わないと言ってるようなものですよね。何か裏があるとしか思えません。俺たちを攪乱する目論見とか」


『まあ、政村が舘野に杉本殺しを吹き込んだのは事実なのだから。それはそれできっちり対処するとしよう。義輝も政村を殺すなとまでは言っていない』


「そうですね。ああ、組合長には俺の方から説明を入れておきますよ。何て言えば良いですか?」


『いや。我輩が直に連絡をするから大丈夫だ。あいつも分かってくれるだろう』


「分かりましたぜ」


 俺は頷くと、電話を切って拳銃を懐へ仕舞い込んだ。舘野は両手を縛られたまま地べたに座らされている。俺は彼を見下ろしながら言った。


「よう。あんた、帰って良いってよ。もうすぐ内閣府から迎えの車が来る。それに乗って帰って明日からまた励むと良いさ。米軍との金儲けにな」


「ふふっ……やはりそうなると思っていましたよ。これだからヤクザは滑稽だ。いつも単純で考えていることが手に取るように分かる」


「黙れ」


 嘲弄するがごとき面持ちで笑う舘野。この男を処刑できないのが残念でならなかった。やはり、代紋を侮る奴にはそれなりの報復を行わなくては。


 後で覚えていやがれ――。


 やがて和泉が遣わせた車に乗って悠々と帰って行く舘野の姿を見ながら、俺は怒りに燃えていた。恒元からは水に流すよう言われたが、やはり憤怒は収まらない。それでも政治家との友好関係を保って組織の利益を最優先に考えた会長の判断であるから、従わなくては。


「……」


 悶々とした怒りで胸が張り裂けそうになる。こういう時には気分転換だ。時計の針が22時をまわった頃、俺は夜の街へ出かけた。


 行き先は赤坂三丁目の『カフェ・ノーブル』だ。出禁が溶けたばかりの馴染みの店。久々に珈琲が飲みたい気分だったのである。


「よう」


「いらっしゃい。ふふっ、麻木さん。もう来たんだ」


 カランコロンカランと扉を開けると、穏やかな表情の華鈴がカウンターから出迎えてくれた。


 彼女の服装はいつものエプロン姿だった。古今東西の古めかしい家具が置かれた店内といい、華鈴の美貌といい、何もかもが懐かしく感じられる。


「……ああ。ただいま」


「は? 何よそれ。でも、まあ。おかえり。適当な所に座ってよ。片付けが済むまで待っててもらうことになるけど」


「いいぜ」


 ふと店内を見渡すと、至る所に置かれたテーブルの上には飲み終わりのティーカップと皿が。少し前まで店内には客が溢れていたことが伺える。先日の騒動で客足が衰えていなくて良かったと改めて思う。


「で? ご注文は?」


 ひと通り食器類を厨房に下げ終えた華鈴が尋ねてくる。


「そうだな……じゃあ、オリジナルブレンドで」


 俺は前回と同じものを頼んだ。彼女は「かしこまりました」と言って軽く微笑んだ後で豆を挽き始める。その後ろ姿はいつにも増して美しく感じられた。


「なあ、華鈴」


「うん?」


 彼女に舘野の件を伝えるべきか――悩んだが、敢えて言わないでおくことにした。マスターの与田も居ないのだ。小難しい話題は避けたい。


「さ、最近、めっきり寒くなってきたよな」


「何よ。そのとって付けたような話の振り方は」


「別に、そんなんじゃねぇよ。ただ本当に寒くなってきたよなって思っただけだぜ」


「うん。寒くなってきたよね。もうすぐ木枯らしも吹くでしょうって天気予報でも言ってたから」


 華鈴は可笑しそうに笑う。今はただこの空気を楽しんでおこう。俺はそう思い直して、ゆっくりとした時間の流れに身を任せていたが……。


 数十秒の後、ドアが開いた。


「おっ、来てたか。麻木君」


 ちょうど華鈴が珈琲を淹れ終わるのと同時に現れたのは、彼女の父親でこの店のマスターの与田雅彦だった。


「あ、どうも」


 俺は立ち上がって挨拶する。与田は「ああ、うん」と軽く手を挙げて応えてくれたが、その目はどこか虚ろで焦点が定まっていないように見えた。


「ちょっと!? お父さん!? 酔ってるの!?」


 父が酒気を帯びていることを華鈴はいち早く気づいたようだ。


「いや、大丈夫だ。少しだけ……酔っているかもしれんが。げふっ」


「全然少しじゃない! もう、あれほど飲み過ぎないでって言ってるのに!」


 そう言って華鈴は一旦作業を中断して、ガラスコップに水を注いで与田に持たせようとする。


「本当に平気だから。な? 華鈴」


「いやいやいや! 酔っ払いの『平気だ』ほど信用できないものはないから! 第一にすっごくお酒臭い!」


 2人の会話を聞きながら俺はカウンター席に腰掛けて成り行きを見守っていたが、やがて与田は俺の隣の席に腰を下ろすとテーブルに突っ伏し、大きないびきをかいて寝息を立ててしまった。


「ああ……」


 華鈴は呆れたように溜息をつく。そして、仕方なくといった様子でエプロンの裾を捲り上げながら言った。


「仕方ないなぁ……もう」


「こりゃあだいぶ酔ってるみてぇだな。まだ22時台だってのに大したもんだぜ。やけ酒か?」


 俺が苦笑いでそう言うと、華鈴は「さあ」と肩を竦めた後で、与田の身体を揺すりながら言った。


「ほら! もうお父さん! 起きてよ!」


「うーん。もう飲めないよぉ」


 与田は寝ぼけた声でそんなことを言うと再び眠り始めた。これは本当にべろんべろんに酔っている。


「はあ。これは何かあったな。お父さん、昔から何か嫌なことがあるとすぐに大酒を飲んで帰ってくるからさあ……」


 困った顔で呟いた華鈴は、すぐに何かを思い出したような目をして返す刀で俺に問うてきた。

「ねぇ? あの件はどうなったの?」


 あの件とは、舘野社長の件だろう。わざわざ訊き返さずとも分かる。これ以上は誤魔化しても無意味と判断した俺は彼女にありのままを話した。


「……ってなわけだ。あとちょっとのところで政治家が嘴突っ込んできてよ。結局、奴を解放せざるを得なくなった」


「そう。やっぱりね。そうだったんだ。お父さん、中川の会長から電話が来たって事務所を出てったきり戻ってこなかったから。おかしいと思ってたんだ」


「それでこのやけ酒か」


 隣で寝息を立てる与田に視線を落とす。むにゃむにゃと意味のない言葉を発する姿には何処か哀しみも漂っている。今回の一件は最大限に舘野の利益を守るべく動いた与田にとっても、顔を潰されたにも等しい出来事となった。


 浴びるように酒を飲んで憂さを発散するのも無理もない。むしろ、それが自然と云える。


 悔しいのは俺もまた同じだ。


「俺としても奴の首は確実に獲りたかった。でなくちゃ、メンツも何もあったもんじゃねぇ。会長の目の前で直参を殺しといてお咎め無しなんざおかしい」


 歯噛みする俺に、華鈴はそっと淹れたての珈琲を差し出した。


「まあ、これでも飲んで落ち着いてよ」


 そう言って彼女は微笑む。


 いけない。ついつい極道の論理で口を滑らせてしまった。相手はカタギの女。渡世の事情など、どうだって良いというのに。気恥ずかしさで俺は何も答えられなくなってしまう。


「……」


 代わりに店内に流れるジャズ・ミュージックだけが俺の耳を撫でていた。


「あのさ」


 そんな中で華鈴がぽつりと呟いた。俺は彼女の方へゆっくりと顔を上げる。


「ぶっちゃけるとさ、あたしも理解できないんだよね。その舘野って社長が何の代償も払うこと無く野に放たれるのは」


「あ、ああ」


「そいつのくだらない野心のせいで街を汚された人たちのことを想うと、本当にやるせない気持ちになるんだよね」


 実に華鈴らしい言葉。組織への忠義あるいはヤクザ特有の価値観で憤った何処かの誰かとは対照的に、純粋に被害者へ心を寄せて怒ったのだ。俺と彼女は違うのだと改めて思い知らされる。


「華鈴は優しいよな」


「えっ、どうしたのそんなかしこまって。褒めたって何も出ないよ」


 自嘲気味に笑う華鈴。彼女にしてみれば普通の気持ちなのだろう。裏を返せば、俺がそれさえ持ち合わせぬ冷酷無比な人間になり果てているということ。


 16歳で初めて人をあやめ、大人の言われるがままに喧嘩に明け暮れた少年期。ただ強くなるために無我夢中で殺人武術を体得した南アフリカでの日々。単純に異国で飯を食うために戦地を渡り歩いた傭兵時代――それらの血生臭い体験と記憶が俺をここまで変えてしまったのだろう。


 こうして己を省みることができているのは唯一の救い。喧嘩好きでこそあれ、血と硝煙のことしか考えられぬ生粋の戦闘狂にならずに済んでいる現状は奇跡という他なかった。辛うじて俺を人間に繋ぎ止める要素が何なのかは分からないのだが。


「お前は思いやりがあって、人の痛みが分かる優しい娘だ。それに比べて俺はどうしようもねぇチンピラだぜ。喧嘩で暴れるくらいしか能が無い」


 呟くように答えた後、そこへ続く言葉の代わりに珈琲を口に含む。苦くて酸っぱい味がした。俺の心の中を表現しているようでもあった。


「麻木さんだって優しいじゃん」


「どこがだよ。喧嘩が始まると周りが見えなくなって、暴れるのを純粋に楽しんでるクズ野郎だと思うが」


「でも、今日はあたしのことを助けてくれたよね。少なくともあたしにとっては優しい人だよ。麻木さんは」


 華鈴はそこで一旦言葉を切ると、俺の目をじっと見据えて声をかけた。


「そんなに自分を駄目な人間みたいに言わないでよ。他の人とは違う優しい心を持ってるんだから。もっと胸を張って良いんだよ」


 俺は思わず息を吞んだ。こんな台詞をかけてくれる女は初めてだったのだが、それ以上に心が温かくなる。彼女の言葉には重みがあった。


「……」


 何も返せず、ただ黙って華鈴の顔を見つめていた俺。すると彼女は優しく微笑んで言ったのだ。


「大丈夫。あなたはあなたが思ってるほど非道なヤクザじゃないから。人並みの優しさを備えてるんだよ、麻木さんも」


 褒められているのか、小馬鹿にされているのかは定かじゃない。それでも無性に嬉しかった。心が軽くなってゆくのを感じた。


「……ありがとな。華鈴。おかげですっきりした」


「なら良かった」


 普段のような笑顔を見せた後、華鈴は続けた。


「ほら、冷めないうちにどうぞ。ナポリタンも作ってあげるから。今日はお礼も兼ねてあたしがご馳走してあげる」


 そうして彼女は厨房に入ると手早くナポリタンを作り始めた。麺を取り出して鍋にかける音を聞きながら、俺はぼんやりと考え事をしていた。


 俺が持つ優しさとは――。


 そんなものが果たしてあるのか、現時点では首を傾げるばかりだ。けれでも期待していたいと思う。まだまだ自分に人間らしい心が残っていることを。


「楽しみにしてるぜ。華鈴の作るスパゲッティは絶品だからな。考えただけで腹が減ってきちまうよ」


「もう、そんなにハードル上げないでよ。子供じゃあるまいし。ナポリタンは大した料理じゃなくて基本中の基本なんだからね」


 その晩は華鈴の作った料理に舌鼓を打った。やっぱりこういう時間が他のいずれより心落ち着く。確かな喜びを実感した夜であった。


 人間らしく在りたい。どこまで道を外れようと、人並みの良心と優しさだけは持ち合わせていたいという理想。それらは穏やかな暮らしの営みがあって初めて成り立つものだ。


 けれども裏社会に身を置いている限りはそうもいかない。誰かと傷つけ合って争うことからは逃れられぬものなのだ。事実、関東を取り巻く情勢はそこから数日の間に驚くほどの複雑化を見せていった。


 2004年11月15日。


 東京に木枯らしが吹いたこの日、中川会ではとある通達が下された。それは『水尾組への手出し無用』を厳命する教書。水尾組二代目の杉本宗次郎組長の暗殺を謀った若頭、政村まさむら平吾へいごについては絶縁処分としたものの、直参や傘下組織による一切の報復行為を禁じたのである。


 中川恒元が政村粛清を躊躇う理由はただひとつ。主君を殺した政村が、横浜の村雨組に身を寄せている事実が判明したからだ。


 才原党の調べによれば、政村は水尾組および自らが組長を務める政村総業を引き連れて村雨の元へ参じ、自らに盃を下ろすよう要請したとのこと。さらに政村は知人を通じて煌王会上層部ともを接触を図っており、現時点で水尾組の煌王会入りはかなり前向きに検討されているというのだ。


 村雨耀介は謹厳実直な人柄ゆえに、主君を裏切った身である政村を快くは思わぬはず。ただ、彼を受け容れるよう煌王会本家に命令されれば従うだろう。上層部としても、如何に食わせ者であろうと政村を組み込めば三浦半島一体が丸ごと手に入るのだ。


「横須賀を煌王に取られるのは好ましくないな。奴らの神奈川統一を許すことになる。せめてあの半島だけは我が手に留めておきたいものだが……」


 理事会の後、恒元は苦々しい面持ちで吐き捨てた。幹部たちからは政村の粛清と横須賀の絶対確保を訴える声が多数上がっている。


 それもそのはずだ。主君殺しという大罪を犯した上での離反をみすみす見過ごせば極道としてのメンツが立たない。関東最強組織の名折れとなろう。


 けれども現在、中川会には大きな戦争に挑むだけの力が無い。先月に発生した新潟の地震で土建系のシノギが大打撃を受けてしまい、財政事情が芳しくないのである。煌王会との全面対決に発展すれば、資金面で競り負ける懸念があった。


 関東の王としての面目と資金。それはまさしく理想と現実のギャップにも等しいすれ違い。恒元は眉間に皺を寄せるばかりであった。


「……どうにか政村だけを仕留める方法は無いか? ついでに三浦半島も守り切れれば嬉しい事この上ない。知恵を貸してくれるか」


 意見を求められたので、俺もそれに倣って頭を巡らせてみる。だが、現状を穏便に済ます手段など早々浮かばない。煌王会は横須賀の制圧に乗り気であるため、領土保全のためにはどうしても彼らと一戦交える必要がある。


 かくなる上は――。


 俺の中で些少ながらに閃きがあった。


「煌王会に横須賀を取られちまうのは避けられぬとしても、三浦半島全域まで奪わせなければ割は小さくて済む。損失を横須賀だけに留めるんです」


「その理屈は分かるが……具体的にどうするのだね?」


「水尾組には政村の三代目継承を快く思わねぇ奴だっているはず。何せ、親分を殺したんですから。その跳ねっ返りを中川会に取り込めば良いでしょう」


 咄嗟に思い付いた、謂わば付け焼刃の策。それゆえ大筋はまとまっていないのだが何も意見具申を行わないよりはマシであろう。


 俺は頭を捻りながら続ける。


「水尾組の幹部で何名か適当な奴を見繕って、声をかけるんです。『中川会の直参に取り立ててやるぞ』と」


「ううむ……なるほど。確かに、政村の水尾組に残るより、彼らにしてみれば大きな出世だな。水尾が煌王に入れば枝のままだが、こちらに来れば直参だ」


「ええ。要は分割継承です。三浦半島全域を支配する水尾組のうち、三浦や逗子を仕切る枝組織を中川会の直参に取り立てて水尾本体から切り離せば良い」


 さすれば中川会としては失う領土を横須賀だけに限定できる。横須賀を捨ててしまうのは確かに惜しいが、ここは致し方ない。恒元も了解を示してくれた。


「そうだな。三浦半島を丸ごと持って行かれるよりかは良いかもしれん。損失の額だけを見ればそちらの方が大いに少ない」


 やや拙速な案であることは自覚しているも、俺とて当てずっぽうの博打を提言したわけではない。水尾組には金融屋の件で弱みを握った三沼がいる。彼を通して組内部へ揺さぶりをかければ出世欲に駆られて中川会側へ寝返る者が必ず出てくると踏んでいたのだ。


「早速、水尾組の方へコンタクトを取ります」


「当てはあるのか?」


「ええ。こないだの騒ぎで貸しがありますから。人脈も広そうなんできっとどうにかなるでしょう」


 戦争ではなく外交で事を丸く収める。それが現時点においては最も穏やかで割の良いやり方だ。恒元に「頼むぞ」と背中を押され、勇み足で執務室を出ようとした時……。


「どういうつもりだゴラァ!」


 野太い怒声が聞こえた。


「この声は……?」


「まさか!?」


 恒元と顔を見合わせる間もなく、一人の男がずかずかと踏み入ってくる。


「見損なったぞ! 三代目!!」


 見るからに暴れ者らしい髭面に屈強な肉体。直参眞行路一家総長の眞行路高虎であった。


「何だね? お前は呼んでいないはずだが?」


「うるせぇ! どういう了見だって訊いてんだよ! 何だって水尾のアホどもを血祭りに上げねぇんだ!」


 入室早々、気勢を上げた眞行路。いきり立つ彼を助勤たちはどうとか制止しようと試みるも、逆に吹っ飛ばされてしまう。会長室へ来るまでにも何人かを蹴散らしていたようで、眞行路の両手には血が付いていた。


「水尾組が横浜の村雨組に寝返ったってぇのに! あんな裏切りモン、さっさとぶっ殺しゃ良いじゃねぇか!!」


「落ち着きたまえ、高虎。これは単純な話ではないのだ。下手をすれば煌王会と全面戦争に発展してしまうから慎重に事を動かさねばならない」


 恒元は呆れ顔で眞行路を諭すが、眞行路はまるで聞く耳が無い。


「そんなの知るか! 水尾だろうが村雨だろうが、この俺がまとめて叩き潰してやるよ! 煌王会全体だって目じゃねぇよ!」


 鼻息荒く息巻いた眞行路。案の定というか間抜けというか……この男の考えることはやっぱり稚拙だ。既に幹部の席を追われているので理事会での発言は無かったが、さながら火山のごとく怒りを滾らせていたというわけである。


 尤も、この男が激怒している理由に関しては頷ける。何故なら水尾組は眞行路一家の傘下団体だったのだ。殺された杉本組長は高虎の舎弟だった。


 よって今回の離反は眞行路にしてみれば面目を潰された上に所領まで奪われるという散々な展開だ。怒らない方がおかしいと云える。


「おい、会長。この俺に今すぐ教書を出せ。水尾組を全員まとめてぶっ殺せって今すぐ命令しやがれぇぇぇぇぇ!!!」


 俺は呆れ果てて言葉も出ない。この男の短絡さは救いようがない。こんな調子だから政村も煌王会に寝返ったのかもしれない。


「その要望には応えられんな。煌王会との全面戦争は避けたいのだ。今は事を荒立てぬよう慎重に交渉を進めるに限る」


「だから! そのやり方が気に食わねぇんだよ! ヤクザなら堂々と勝負しろ! テメェはそれでも男か!? ああゴラァ!!!」


 恒元に食ってかかる眞行路。流石に度を越えていると感じたので俺は銃を抜いて彼に突きつけた。


「そこまでだぜ。猛獣さんよ。これ以上、会長に舐めた口を利くってんなら容赦できねぇぞ」


 向けられた拳銃に眞行路は目もくれず、なおも昂った気迫で恒元へにじり寄った。


「おい! 三代目! あんた、まさか煌王会に尻尾振ってんじゃねぇだろうな!?」


「何を言うか!」


「そんな腑抜けだから水尾組に舐められちまうって言ってんだよ!」


「この我輩を愚弄するのは許さんぞ!」


「ああ? どう許さねえってんだ?」


 恒元が一喝するも、眞行路は止まらない。やがて彼の口からはさらなる啖呵が出てきた。


「言っとくが、俺はもうあんたを見くびってるぜ! カネと利権に目が眩んでヤクザの何たるかを忘れちまったカス野郎なんか怖くも何ともねぇんだよ!」


 その瞬間、俺は眞行路に向かって突きを放つ。だが、眞行路は素早く反応して俺の左手首を掴んだ。


「っ!?」


 おっと、見切られたか。威嚇程度に繰り出した一撃なので本気ではなかったが、それでも意外であった。つい先日に拳を交えた時には、完全に俺の速さが上回っていたものを……俺はすぐに振りほどいて構えを取り直す。


「今度は躱せねぇぞ。切り刻まれたくなかったら、大人しくするこったな」


「ふんっ。思い上がるな。お前みてぇな半端者なんざ、俺の敵じゃねぇんだよ」


「上等だ! その減らず口、叩けねぇようにしてやるぜ!」


 俺は目の前の男へ飛び掛かろうと腰を屈める。


「待て! 涼平!」


 だが、それを制止したのは他でもない。恒元であった。


「高虎、お前はもう良い。帰りたまえ。もはや口で何を言っても通じないと見た。そんな輩を相手にするのは時間の無駄だ。我輩も暇ではないのだ」


「へぇ? んじゃ、俺は俺で勝手にやらせてもらうぜ? テメェが望んでる通りの穏便解決になんかさせねぇからな?」


「勝手にしろ」


 意外にもあっさりと言ってのけた恒元。


 どういうことか……ここで銀座の猛獣に灸を据えておかねば何が起こるか分からないと思うが……。


 そう懸念する俺を尻目に会長が放った次なる脅し文句は、言葉の域を超えた関東ヤクザの王に相応しい凄みであった。


「高虎。我輩とて、もうお前の力を恐れてなどいないのだ。この中川恒元に盾突いたことをいずれ泣いて詫びさせてやる」


 その場の空気を切り裂くかのような、貫録たっぷりの静かな恫喝。常人であれば思わず竦み上がってしまうだろう。


 ただ、眞行路高虎には通じなかった。


「へっ、そんなんで俺をビビらせたつもりかよ。笑えるぜ。破門でも絶縁でも何だってすりゃあ良い。あんたに出来ればの話だがな。クソが」


 最後にまたひとつ啖呵を吐き捨てて会長室を出て行った。俺はすぐさま奴の跡を追おうとする。だが……。


「涼平」


 俺は背後から呼び止められた。振り向くとそこにはいつもの柔和な笑みを湛えた恒元の姿があった。


「追わなくてよろしいのですか?」


「ああ。別に構わんよ。奴は本日限りで破門とする。我輩もうんざりしていたんだ。ちょうど良い機会じゃないか」


 ついに高虎を破門に処すのか。これまで本家の人間として奴の横暴を苦々しく見ていた俺としては「ようやくか」という思いであった。


「お前も知っている通り、高虎を組織から追い出せずにいたのは背後の存在を気にしていたから。だが、その心配は杞憂と分かった」


「そうですか……」


 ただ、現時点で奴を野放しにしてしまって大丈夫なのだろうか。水尾組に対して独断で報復を行うと明言さえしているのえだ。


「あの勢いじゃ眞行路は明日にでも横須賀へ攻め込むでしょう。そうなったら調略やら何やらが台無しになっちまうんじゃ……?」


「うむ。なればこそ高虎を本日付けで破門とするのだ。破門状さえ書いてしまえば中川会とは無関係。奴が何をしようが知ったことじゃない。当然だ」


 事もなげに答えた恒元であるが、彼としては他の打算もある模様。


「此度、高虎は水尾を完膚なきまでに叩き潰す気でいる。おそらくは眞行路一家の全兵力をもって横須賀を制圧するだろう」


「でしょうね」


「だが、水尾組は村雨組と結んでいる。もしも高虎が水尾組と戦うのであれば眞行路一家は村雨組ともぶつかることになる」


「……銀座の猛獣と横浜の残虐魔王、中川と煌王の二大武闘派親分による夢の直接対決が実現するってわけですか」


「その通り。いくら眞行路一家が強いと云えども村雨も強い。両者がぶつかり合えばタダじゃ済まないだろうねぇ」


 つまり、眞行路と村雨の激突による両者共倒れを恒元は期待しているのだ。


「高虎に村雨の戦力をある程度削いでもらって、横須賀の支配力が緩んだ隙を突いて悉く奪い返す。そうすれば中川会こちらの手間は少なくて済む。良い考えだろう?」


 いわゆる漁夫の利というやつ。確かに、煌王会および村雨組と直接的に事を構えたくない恒元にとっては好ましい話といえる。理屈としても大いに理解できる。


「眞行路と村雨……どっちが勝つでしょうか」


「どっこいどっこいだろうね。まあ、何にせよ我々は外交と実力行使の二正面作戦を淡々と進めようじゃないか。上手くいけば横須賀も守れるかもしれんぞ」


 少々見通しが甘いような気もするが、捕らぬ狸の皮算用はヤクザの常。特に、会長を諫めることはしない。俺はと云えば、それよりも他のことが脳裏をよぎっていた。


「……」


「ん? どうした? 物憂げな顔をしているが?」


「……あ、いや。何でもありません。水尾の跳ねっ返りに話を通す方法を模索していたところです」


「そうか。そっちの方は焦らずじっくりやりたまえ。カネと人脈が必要であればいつでも都合してやるから」


「ありがとうございます」


 俺は一礼して会長室を後にする。


 実のところ、頭の中にあったのは水尾組との交渉ルートではない。これから村雨組と敵対する流れになることへの憂いであった。


 自分は脆弱ヤワな人間じゃない――そう思って任侠渡世を生きている。必要さえあれば簡単に人を殺せるし、情が湧いて引き金を引けないなんてヘマもしない。


 ただ、その相手が旧恩ある人であったならどうだろうか。言うまでも無く横浜の村雨組は古巣。俺がヤクザになる道を示してくれた場所だ。


「撃てるのか?」


 誰も居ない廊下で、ふと呟いてみる。ベルトに挟んだグロック17のグリップを掴んで、独り言を反芻する。どうしてだろうか、自然と心が重さを纏ってきた。


 横須賀を守るべく村雨組を潰す。それが組織として取るべき方針だ。それは分かっているし、まったく異論はない。だが……それでも躊躇してしまう自分が居るのだ。


 いやいや、いけない! 引くべき時に引き金を引けないでどうするのだ! 相手によって発砲を躊躇うなんて未熟者も良い所ではないか!


 ヨハネスブルグで鞍馬菊水流の修行に明け暮れていた頃、師匠には「殺すことを躊躇うな。他者の生き血を啜ってこそ真の武人である」と叩き込まれた。おかげで俺は浴びる返り血で身を汚すことを厭わずに拳が振るえるようになった。むしろ血の匂いが心を掻き立てる。


 傭兵になった後は、躊躇う即ち破滅へ繋がるという大前提を否応なしに学んだ。銃弾と爆風の飛び交う本物の戦場が教えてくれたことだ。発砲を躊躇った同僚たちは皆次々と討たれていった。無駄な善意のせいで引き金を引くべき時に引けなかったからである。そうした未熟さはいざという時に行動を阻害する足枷でしかないのだ。


 異国を駆け回った5年間の流浪時代を思い出し、俺は大きく息をつく。自分に甘さなど存在しないと暗示をかけるように。直後に頭の中で唱えたひとつの台詞が背中を押してくれた。


 事と次第によっては村雨耀介を殺す。他ならぬ中川恒元の意思だ――。


 その瞬間、迷いが振り払われたような気がした。ここで銃を握るのを躊躇うようでは過去の自分に申し訳が立たない。中川会へ来ることを選んだあの日の行動を否定することだけはしたくなかった。


「ああ。やろう。やってやるさ」


 もう一度ばかり独り言を呟き、俺は懐から携帯電話を取り出す。廊下を歩きながら前もって頭に浮かんだ番号へコールした。


「もしもし? ああ、俺だ。麻木だよ」


 相手は南麻布の金融屋、三沼みぬま。あの事件の後で奴からは正式に名刺を拝借していた。今度おかしなことをすれば見逃さんぞと睨みを利かせる意味も込めて連絡先を聞いておいたのである。


『ど、どういうご用件でしょうか? 麻木次長? もう俺は店を畳んで横須賀に帰りましたが……?』


「おう。現在いまは何処に居るんだよ。横浜か、それとも横須賀か」


 水尾組の状況は構成員である三沼も当然のごとく知っていよう。気まずさをおぼえた一方で下手な隠し立ては無用と考えたのか、彼は若干怯えながらも偽りなく答えた。


『よ、よ、横浜でございます』


「村雨組だな?」


『え、ええ。左様でございます。あ、あの、俺はただ政村の兄貴に付いてっただけっていうか……付いて行くしかなかったというか……』


「分かってるよ。そいつを咎めようって気はさらさらぇ。ちょいとお前に提案したいことがあって電話したんだ」


『て、提案で……ございますか』


「ああ。そうさ。提案だ」


 軽く笑いながら、俺は本題を切り出した。


「なあ、三沼さんよぉ? お前、中川会に戻って来ねぇか? こっちとしては、条件次第でお前を直参に取り立ててやっても良いぜ?」


『え!? そ、それはどういう?』


「簡単な話だ。そっちから幹部たちを何人か引っ張って赤坂に盃を貰いに来い。三浦、逗子、葉山でそれぞれ領地シマを与えてやる。本当の話だ。早い者勝ちだぜ」


 そこから俺は堰を切るがごとく話を詰めてゆく。村雨組の盃を呑む政村の下に仕え続けてもろくな出世にならないこと、横須賀を除いた三浦半島は変わらず中川会が仕切り続けること、そして現時点で中川会へ恭順すれば裏切りの罪は問わないこと――甘い話をちらつかせる内に脅しも匂わせ、剛と柔の両方から畳み掛ける。


 三沼は困惑を隠せぬ様子であった。


『い、いや、でも……水尾本家の叔父貴たちならともかく俺は政村総業の人間ですぜ? そんな俺を直参にしてくれるってんですか?』


「お前の叔父貴とやらを出来るだけ多く引っ張って来られたらな。言うまでもぇが会長のご意思だぜ。お前みてぇなチンピラにはまたと無い出世の機会。前向きに考えた方が良いぞ」


『……検討します』


「おう。良い返事を期待してるぜ」


 電話を切った後で俺は携帯電話をポケットへ戻す。手ごたえとしては十分だ。三沼の声色には動揺がはっきりと聞こえた。経験上、ああいう輩は押せば落ちる。近々に「中川会直参襲名の祝儀」と称して多少のカネを贈ってやれば確実だろう。ほくそ笑みながら俺は廊下を歩いて玄関へと向かった。


 さて、さっそく次なる説得工作に出るか……と思って屋敷を出ようとした時。懐へ仕舞い込んだばかりの携帯が鳴った。


「あれっ?」


 つい少し前に話を持ちかけたのだが、もう返事が来たか。随分と早いものだなと半ば呆れつつ電話を開いてみると、発信者は三沼ではなかった。馴染みのない番号だが、一応は連絡帳に登録してある名前。

 輝虎だ。


「おう。麻木だ」


『あっ、麻木次長! 良かった! あんたが出てくれて!』


「そんなに慌ててどうしたんだよ。眞行路の御曹司が電話を寄越すなんて、どういう風の吹き回しだ。こちとらついさっきあんたの親父を破門にしたところなんだが」


『は、破門……いや、そんなことより。あんたに頼みたいことがあるんだ。すぐに俺のところまで来てくれないか』


「ああ?」


 何だかいつもとは様子が違う輝虎。彼とは必要があった時に備えて会長の指示で連絡先を交換していたのだが、これまで電話が来ることは無かった。それだけに何の突拍子も無く着信があったとなると胸騒ぎをおぼえてしまう。


 先日に会長にやられた口の傷は治ったのかと尋ねたいところだったが、それは後回しにして質問を投げる。まずは簡潔な状況確認だ。


「何があった? その取り乱し様じゃ、よっぽどの事が起きたみてぇだな?」


 すると、輝虎は低い声で答えを返してきた。


『……人を1人、海外へ逃がしてぇんだ』


 詳しい話は落ち合ってからするとのことで、輝虎は俺に合流地点の住所を説明して逃げるように電話を切った。


 どうしたものだろう――。


 行くべきか、それとも行かずに無視するべきか。相手が相手だけに俺を嵌めようと罠を張っている可能性も否定できないが、声を聴く限りではそのような意図は感じられなかった。


 何のことやらと疑問に思いつつも、俺は輝虎から指定された場所へとタクシーに乗って向かう。そこは港区の湾岸エリア。


 俗に『ウォーターフロント・パーク』と呼ばれる都の重点開発区域であった。東京湾に面した埋め立て地で、海沿いには倉庫や工場が建ち並んでいる。


 その一画に佇むビルの前でタクシーを降りた俺は、電話を手に取る。


「もしもし? 着いたぜ?」


 すると、奴の声が聞こえた。


「ここだ」


 気配を感じて振りかえると、そこには輝虎の姿があった。近くには黒塗りのセダンが停まっている。ひとまず電話を切って彼に尋ねてみた。


「ほう? 随分と無粋な所へ呼び出してくれたもんだなあ? 何か密談で俺に打ち明けたいことでもあるってのか?」


「ああ。その通りだ」


「は?」


 冗談のつもりで口にした言葉であるも、輝虎はそれを肯定した。父親のことで何か報告でもあるのか――妙な予感が期待と共にこみ上げてくる。


 だが、輝虎が切り出した内容はそれと大きく違うものだった。


「……麻木次長。こいつを見てくれ」


 やけにそわそわとした動作で車のトランクを開けた輝虎。その中に入っていたものを見て、俺は息を呑まされる。完全に意表を突いていた。


「ほう」


 何と、トランクの中には人間が入っていたのだ。


 年齢は20代後半くらいか。髪の長い女性で、ベージュのセーターに白いロングスカート姿。手足は縛られているようで、口にはガムテープが巻かれていた。


 女はトランクルームの中でじたばたと動いている。


「ううっ! んぐううっ!」


 口元を塞がれているために何を言っているのかは分からないが「助けて」と叫びたいのは伝わってきた。拘束された手足を懸命に動かしてもがく様子はさながら陸に揚げられた魚……いやいや、違う。そんなことを考えている場合ではない。


 笑いを堪え、俺は輝虎に問うた。


「こいつは?」


「……俺の嫁だ」


「はあ!?」


 またしても意表を突く答えが返ってきた。


 聞けば、この女性は名前を眞行路しんぎょうじなぎさと云うらしい。前述の通り輝虎の妻。彼とは5年前に結婚していたようだが……?


 一体、どういうことなのだろう。とりあえずは訊いてみるしかない。


「夫婦喧嘩でもしたってのか?」


「そういうわけじゃないんだ。まあ、詳しく説明した方が良さそうだな」


 輝虎はトランクを閉めた。


「渚との夫婦仲はすこぶる良好だった。ちょっとばかり気が強い所もあったが、それ以上に愛嬌のある女だった」


「だったらどうしてこんなことになってるんだよ? 自分てめぇの女房をトランクに入れるなんざ聞いたことも無いぜ? 何があったってんだ?」


「こいつは前の名字を『杉本』と云ってな。5年前、横須賀の水尾組が親父へ降った時に俺のところへ嫁いできた。俗な言い方をすりゃあ“政略結婚”ってやつだな」


 俺は大方の事情を察した。政略結婚――すなわち、この渚なる女性は水尾組二代目の杉本組長の娘。水尾組が眞行路一家の傘下に入る際に友好の証として結婚するに至ったのだ。


「表向きは対等だが、実際には体の良い人質みたいなもんだ。『水尾組は眞行路一家を裏切りません』っていう恭順の誓い。そいつを娘を差し出すことで親父に形として示したんだ」


「……なるほど。読めたぜ。んで、結果として水尾は眞行路を裏切ることになった。それでもって嫁さんには殺害命令が下った。だからあんたは海外へ逃がしたいと」


「ああ。その通りだ」


 ゆっくりと苦々しい面持ちで頷いた輝虎。その正面で俺は腕を組んでいた。


「けどよ、何でまた俺を頼ったんだ?」


「あんたしか頼れないからだ。組の連中を使えば親父の目に届いちまう。俺が秘密裏に動かせて、なおかつ確実な仕事ができる人間ってなると限られてくる」


「そうかい。俺はお前さんの都合の良い兵隊ってことか」


 すると、輝虎は大きく頭を下げた。


「貸しを作ったと思ってくれて構わない。頼む。すぐにでも渚の身柄を海外へ逃がしたいんだ」


 さてさて。何て答えようか。俺に輝虎のために動いてやる義務は無いが、この渚のあまりに不憫な立場を思えば些か同情が湧く。


「ああ。良いぜ。やってやろうじゃねぇか」


「ほ、本当かい!?」


「お前さんのためにやるんじゃない。この女が可哀想だから動くんだ。ゆめゆめ勘違いしなさんなよ、御曹司よぉ」


 事が終わったら何でも俺の頼みを聞くと約束した輝虎。つい少し前にもそんなことを言われた気がするが、貸しがひとつ増えたと思えば良かろう。俺はさっそく計画の立案に入る。


「逃がす先にアテはあるのか?」


「国内には幾つかあるが、海外って言うと無いな。俺と結婚するまでは箱入り娘で育ってきたんだ。留学の経験どころか学歴も中学くらいまでだぜ」


「そうか……だとすると、逃げてからが大変になっちまうな」


 社会経験は元より学も無い人間が独りで渡って行けるほど世の中は甘くない。ましてや海外、それもか弱い女性一人となると猶更だ。異国へ逃げおおせたところでそこから先がどうなるか分からないだろう。


「こういう時は無理に外国にこだわらねぇ方が却って安全だ。ちなみに国内には幾つかあると言ったが、そこはどこだ? 具体的な場所を教えてくれ」


「東北だ。ここだけの話、極星連合の直参組織で若頭補佐をやってる奴が大学の同級生でな。そいつに頼めば匿って貰えるはずだ」


「極星連合か。よし分かった。そいつは電話一本で全てを引き受けてくれるような奴か?」


「たぶん大丈夫だ。引き受けてくれると思う。ただ、問題は親父の方だな」


「息子に嫁を殺せと迫るくらいだからな。彼女を生かすってことは本格的に親父に歯向かうことになるが。お前さん、覚悟はできてるか?」


 俺の問いに輝虎は低い声で返事を寄越してくる。即答だった。


「ああ。できているとも」


 この男は表面的には父を超える、倒すなどと息巻いておきながら、根本的な部分で覚悟が定まっていない感があった。しかし、最早それが感じられない。此度の騒動が彼の決意を強固なものとしたのであればこれ幸いだ。


「だったら良いさ」


 俺は輝虎の気合いを信じた。そして、その気合いに免じて彼の頼みを聞いてやることにしたのである。


 段取りが決まるや否や、さっそく輝虎は携帯を取り出して先方に電話をかける。間の良いことに、彼の古い友人はなんと東京都内に居た。それには俺も少し驚いたが、隠避先が見つからずに手間取るよりはマシであろう。


「浜松町で落ち合うことになった。時間はこれから30分後、13時50分だ。少し大きめのバンに乗ってきているようで助かったよ」


「ほう? 浜松町? こらまた近い所を選んだな?」


「ああ。たまたま芝大門の商社に来ていたらしい」


 極星連合の二次団体幹部が上京していたとは――中川会本家としては色々な意味で聞き逃せない情報であるが、これから東北まで行かなくて済むのは有り難い。


 俺は輝虎の車に乗り込んですぐさま直行した。


 芝浦埠頭から浜松町までは車で8分。高速道路の高架をくぐって右折し国道15号に合流すれば、あっという間に到着してしまう。


 指定された待ち合わせ場所は某ビルの地下駐車場。そこは中川会本家がみかじめを取っていない……というより、取れていない事業所だった。


 ゆえに施設内の構造などは把握していない。直轄領の管理が行き届かぬ原因は俺たち執事局の力不足にある。忸怩たる思いに駆られつつも、俺は助手席の窓から周囲を見渡して状況確認に努めた。


「……いくつか柱があるが、どれも細いな。これなら襲撃者が隠れる心配も無さそうだ。あんたのお友達は良い場所を選んだな」


「そうかい。っていうか、ざっと見回しただけでそんなことまで分かるのかよ。元傭兵って肩書きは流石に侮れんな」


「まあ、基本中の基本だね」


 相手がやって来るまで残り22分。俺は助手席のシートを倒して横になり、天井をぼんやりと眺めながら時間を潰した。


「なあ、麻木次長」


「ん?」


 すると、運転席の彼が不意に話しかけてきた。


「あんたとこうして話すのは初めてだが……その、何だ? 意外と話しやすいんだな」


「……どう思おうが勝手だが、俺は別に何とも思っちゃいねぇぞ」


「あ、ああ」


「ちょっと失礼。総本部に電話させてもらうぜ。会長に報告を入れておく。その方が何かと都合が良いんでな」


「か、会長に?」


「安心しろ。お前の親父さんは破門になったんだ。会長から銀座に話が漏れることは無いさ」


「分かった」


 輝虎の返事を聞いた後、俺は懐から携帯電話を取り出して総本部にかけた。会長は2コールで電話に出てくれたので報告を済ませる。


『おう涼平か! どうしたのだね?』


「会長。実は成り行きで眞行路輝虎と行動を共にしておりまして。奴の女房を東北へ逃がすことになったんです」


『何だと!?』


 恒元は驚いていたが、俺がなるだけ丁寧に説明を行うとすぐさま了解してくれた。


『まあ、良いだろう。上手くやるが良いさ』


「ありがとうございます」


 もしかしたら、東北へ逃がすのではなく中川会本家で匿う選択肢もあったのではないかと思ったが、ここまで来たら引き返せない。


 通話が切れると、俺は輝虎に向き直った。


「一応、会長にも伝えておいた。本家としてケツを持ってやるわけじゃねぇがな。恒元公はお前に情けをかけてくださるそうだ」


「それは有り難い! 助かった!」


「本当なら破門した組の若頭にここまでするなんざぇんだ。感謝しろよ。恩を仇で返すような真似だけはするんじゃねぇぞ」


 起き上がって睨みを利かせると、輝虎は大きく頷いた。


「もちろんだ。この恩はいずれきちんとした形で返す。これから会長のために尽くすことを誓おう」


「具体的にどう恩を返すってんだ? 言ってみやがれ」


「……親父を倒して眞行路一家の五代目を継ぐ。そしたら本家に詫びに行く。直参に戻った暁には恒元公の忠臣となって誠心誠意働く所存だ」


 一連の言質を引き出せた俺は、心の中でほくそ笑んだ。懐の中で、携帯の録音機能を密かに起動していたことは言うまでもない。輝虎に眞行路高虎の打倒を宣言させるためにこそ、このようにして大きな貸しを作ったのである。


「よく言ったな。輝虎さんよ。ただ、あの猛獣を討つのはもうちょっと後で頼む。当面は村雨と潰し合って貰わなきゃ困るんでな。その辺は心得といてくれや」


「分かった……横須賀の件は俺も困り果てているんだ。親父はすっかり頭に血が上っちまっていて、俺がどう諫めても聞く耳を持たん。『横須賀を奪い返すついでに村雨もぶっ潰す!』と息巻いてやがる」


「そうかい」


 父が破門になった理由について輝虎は詳細を聞かずとも理解しているようであった。彼の中では異論無しと思っているどころか、半ば賛同しているようにも見受けられた。高虎という存在は眞行路一家の身内においても既に厄介を極めていたというわけか。


「俺が渚を連れ出すのを見ても幹部たちは何も言わなかったよ。『夫として反逆者の嫁は自ら始末をつけてくる』なんて口実、誰が見てもバレバレの嘘だってのにな。もう親父のやり方にはついていけなくなってるんだよ」


「なるほどな。けど、親父にはバレてねぇのかい? どんなに幹部が黙認しようたってそこを隠し通さなきゃ意味が無いぜ」


「大丈夫だ。親父には勘付かれちゃいねぇ。喧嘩の支度で頭がいっぱいだからな。きっと横浜を攻め落とすことしか考えてないはずだ。生粋の戦闘狂は困ったもんだよ」


 輝虎の言葉に俺は頷きつつ、また天井を見上げた。車内には俺と輝虎の二人きりだが、荷台には彼の妻が乗せられている。渚夫人は、自分が殺されるものと思っているようだ。


 時折、後部座席を通り越して彼女がジタバタと暴れる音と苦悶の声が聞こえてくる。少しばかり、可哀想な気持ちになってくる。


「ぐっ! ぐっ! ううううっ!」


 気分を刷新するがごとく、俺は輝虎に話を振った。


「それにしても驚いたな。まさかあんたに嫁さんが居たとは」


 すると輝虎は俯いた面持ちで答えた。


「まあな。5年前、たまたま独身だったもんで娶らされたんだ。渚は俺には出来過ぎた妻だと思ってるよ」


「そうかい。そんな出来過ぎた妻とやらが家で待ってるのに、お前さんは他の女にうつつを抜かしていたというわけか」


「……華鈴のことか」


 華鈴に目を付け、彼女の喫茶店をあの手この手で潰そうとしていた輝虎。そうすれば、経済的に追い込まれて自分を頼ってくるだろうと――何ともゲスな考えである。あの日の出来事を思い出すだけで腹が立ってくるが、静かに腹の底へ鎮めて俺は問う。


「そういやあお前、なかなかクソみてぇなことほざいてたな。『女は支配することに意味がある』だの何だの。自分てめぇの嫁さんもそうやって扱ってたのか?」


「いや、渚は力で支配するまでも無かったよ。基本的に俺には従順だったからな。お袋とも上手く付き合っていたし不満があっても文句を言うことも無い」


「ほう? それじゃあつまらんから、華鈴を愛人にしようと狙ったのか?」


「まあな」


「この変態野郎。テメェのせいで華鈴がどんだけ傷ついたと思ってんだ。出来ることなら今すぐでもお前を殺してぇくらいだ、クズが」


 俺が怒気を露わにすると、輝虎は冗談っぽく笑った。


「それは……その、一時の気の迷いだったという他ないな」


 物凄く腹が立つ言い方だ。華鈴という女を何だと思っているのか。気づけば俺は輝虎へさらに食ってかかっていた。


「一時の気の迷いだぁ? ふざけんじゃねぇよ! あいつはお前のために居るわけじゃねぇんだよ!!」


「それは分かっている。けど、妻子を持つ身で少しばかり他の女が気になるなんざ誰にでもあることだろう」


「うるせぇよ! お前はあいつを自分勝手な欲のために慰み者にしようとした! そんなのが許せるかってんだ!」


「慰み者……か。まあ、そう言われると返す言葉も無いな」


「この野郎!」


 輝虎は苦笑いしている。反省の色がまったく見られないところが余計に腹が立つが、この車内で奴を殺すことだけは何とか止めなくては。拳をぐっと握り締めて堪えていると奴がさらなる言葉を続けてきた。


「けど、華鈴に惚れていたのは事実だ」


「何だと!?」


「あんたにも分かるだろう。強くて可愛い彼女の魅力が。『もう二度とあの子に近づくな』と言われてもおそらくは無理だろうな」


「……よくもまあ、そんなことを言えたもんだな」


「言えるさ。何せ、初めて好きになった女が華鈴なんだ。よこしまな欲求を一切除いても俺は彼女を愛している」


「くそっ。ますますお前さんが嫌いになったぜ。自分の妻を遠くへ逃がそうとしている途中だってのに、よりにもよってそんな言葉を」


「当然だろう。欲しいものは力ずくで手に入れる、それがヤクザなのだから。俺は華鈴のことが好きだ」


 思わず銃を抜きそうになってしまったが、そこへ割り込むように聞こえてきた車の駆動音で俺はハッと我に返る。


 ――ブゥゥン。


 なるほど。どうやら輝虎のお友達が来たようだ。こうなったら口喧嘩は一旦中止。誠心誠意をもって為すべきことを為さなくては。


「……降りるぞ。俺に任せてくれ」


「ああ」


 輝虎に促されて降車し、トランクを開ける。


 縄で縛られた女性――渚夫人は顔が真っ青になっていた。暗い地下駐車場の証明に照らされて頬の涙の跡がうっすらと見えた。


 輝虎は短刀を抜いて彼女の縄を切ると、口を塞いでいたガムテープを外してあげた。


「はぁ……はぁ……だ、誰か助けてぇぇぇぇぇ!!」


 その直後に絶叫した渚。本能ゆえの行動というか当然の反応だと思った。


「落ち着け、渚」


「嫌ぁぁぁぁ! やめてえぇぇ!」


 夫が宥めようとするも、渚は泣き喚くばかり。それでも輝虎は懇々と彼女に言い聞かせた。


「渚、よく聞け! 俺はお前を殺さない! 遠くに逃がしてやる! 今までのはお前を助けるための芝居だ! 信じてくれ!」


「え……」


 すると、渚はピタリと泣き止んだ。輝虎が嘘を言っているようには見えなかったのだろう。しかし、だからといってまだ信用したわけではないようだ。


 嗚咽を交えながら彼女は言った。


「……本当なの?」


「ああ。本当だとも。いくら親父に命令されたからって何の罪もないお前を殺せるほど俺はクズじゃない」


「で、でも……」


「大丈夫だ。俺は本当にお前を愛しているんだ」


「……分かった。信じるわ」


 渚はようやく落ち着きを取り戻したようだった。


 ずっと暗い閉所に押し込められていたのだ。常人なら錯乱状態がすぐには収まらないだろうが、ここまで早く気を鎮められとは流石ヤクザの娘というだけある。


 ただ、ついさっきのやり取りはトランクに居た渚に聞こえていたのだろうか……? 輝虎の口から出た「愛している」との台詞に俺は白々しさを感じてしまった。それを指摘したとして何にもならないので傍観者としては黙っているだけなのだが。


「さあ、立てるか。渚」


「え、ええ」


 妻を抱えてトランクから出すと、輝虎は俺に目配せした。


「次長。あの柱の近くに泊ってるワゴン車に声をかけてくれ。『眞行路輝虎がここに居る』とな」


 指示を受けた俺は無言で頷き、やってきたばかりの車へと足早に近づいた。


「おい!」


 運転席の窓をノックして呼びかけると、運転手は驚いた様子で窓を開けた。


「な、何だ!?」


「眞行路輝虎の使いの者だ。そこに本人がいる。おたくのあるじに話を繋いでくれ」


 俺が尋ねると男は何か考え込む動作を見せた後、後部座席に居る人物に声をかけた。


「……とのことです。兄貴。どうされますか?」


 すると、その人物は車からゆっくりと降りてきた。


「輝虎が来ているのか」


 見たところ輝虎と同じ年齢くらいの小太りの男。極星連合系の組幹部ということで間違いないのか。とりあえず、俺は首を軽く縦に振る。


「ああ。来てるぜ。あんたは?」


「極星連合直参、三代目さんだいめ衣束きぬづか若頭補佐の井上いのうえ庄太郎しょうたろうだ。うちに来たいってお客人を預かろうじゃないか」


「ついてきな」


 この人物で合っているようだ。俺は井上を連れて輝虎の待つ車まで戻った。


「おお。久しぶりだな、井上。少し見ない間にまた太ったんじゃないか」


「くだらん話をしている暇は無い。奥方をさっさとこちらに渡せ。ただでさえ今日は極秘で来ているのだから、あまり長居したくないんだ」


「ふっ、相変わらずだな」


 軽く笑みを浮かべた後、輝虎は渚に向き合って言った。


「渚。暫くの間、お前には秋田で身を隠してもらう。俺が親父を倒して眞行路一家の五代目の座に就いたら必ず迎えに行く。だからそれまで待っててくれ。良いな?」


 訳が分からず呆然としていた渚であるが、輝虎の真摯な眼差しに射抜かれて、やがて事情を呑み込んだのだろう。夫の目を見て彼女はコクンと頷いた。


「分かったわ。必ず迎えに来てね。旦那様」


「もちろんだ。愛してるよ。渚」


「私も……」


 すると、そこへ井上が口を挟んできた。


「おい、お前ら! いつまでも無駄話をしている余裕は無いぞ!」


「ああ、そうだったな。でも、もうちょっと待ってくれ。どうか、頼むわ」


 さっさと出発したいとせがむ同級生を押しとどめ、輝虎は渚を抱きしめた。


「好きだ。渚」


「旦那様……」


「俺はお前を幸せにする。必ずだ。何が何でもお前のことは守ってやるから」


 そう耳元で囁いた後、輝虎は渚に唇を付けた。


 唾液と唾液が絡まる接吻の音が聞こえる中、井上は熱い2人に呆れたような目を向けていた。それについては俺も同様。呆れるというよりはドン引いていた。ついさっきは他の女の方が良いと言ったくせに、いけしゃあしゃあと「愛してる」だなんて口走れる二面性が理解できない。まあ、嘘を巧みに使い分けられる方がヤクザとしては上手なのだろうが……。


「愛してるわ、旦那様」


「俺もだ。渚……」


 やがて2人は唇を離した。唾液が糸を引いているのが見えた。それから輝虎は後部座席のドアを開けると、妻を井上に引き渡して言った。


「じゃあな、渚」


「ええ……またね」


「ああ」


「絶対に迎えに来てね」


「当たり前だ。俺が約束を破ったことがあったか?」


「……無いわね。分かったわ、待ってるから」


 渚はそう言うと車に乗り込んでいった。


「東京で何があったかは知らんが、お前の奥方は必ず守る。だからなるだけ早く秋田へ迎えに来い。彼女を泣かせることがあれば俺が許さんぞ」


「ありがとう。心強いよ。井上」


 井上は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。照れ隠しのつもりなのだろうか? 何にせよ、この男が味方に付いてくれれば安心ではないかと思った。


「じゃあ、頼むぞ!」


 輝虎の声に見送られて渚を乗せたワゴン車は駐車場を出て行った。


「なあ、輝虎さんよ? さっきの男はお前の同級生だと言ったが? 極星の人間がどうして東京に居たんだ?」


「それについては俺も知らんな。上層部の使いで来たという話だったがそれ以上は教えてくれなかった」


 妻を匿ってくれるだけでも畏れ多いのに、輝虎としては詮索するわけにもいかなかったのだろう。非常に気になるがとりあえずは捨て置こう。そちらの調査に関しては後日改めてゆっくりやれば良い。


「はあ。よくよく思えば俺が出る幕も無かったんじゃねぇか。最初からさっきの井上って奴を頼ってれば済む話だったろ」


「いや。井上に断られた時には海外へ逃がすしかなかった。万が一の時にはあんたの力が必要になったんだ」


「そうかよ」


 思ったよりずっとあっさりと解決してしまったので、何だか拍子抜けだ。ともあれ一件落着と考えて良かろう。俺は少しホッとした。


「さて、そろそろ戻るか。いつまでもここに居ると怪しまれる」


「だな」


「会長に許しを得たとはいえ、眞行路一家は破門されたんだ。帰りは別々に動いた方が良さそうだ。俺はタクシーで帰らせて貰うぜ」


 俺は輝虎と別れて駐車場を出た。時刻は14時ちょうど。昼飯を食べていなかったおかげで腹が減っている。


 赤坂に戻って、何処かの店にでも行くか――。


 酒井や原田あたりを誘って2丁目に開店したばかりのハンバーガーショップへ出かけるのも良いかもしれない。俺は少し上機嫌で大通りに出てタクシーを拾った。


「赤坂まで頼む」


「はあい」


 運転手は車を発進させる。俺はシートに身を預けて目を閉じた。


「お客さん、この辺りの会社でお仕事されてるんですか?」


 運転手が尋ねてきたので、俺は目を開いて適当に答える。


「そうだな」


「へぇ、それにしてはお洒落なスーツを着ておられますなあ」


 運転手は興味深そうな反応を示した。この男、俺がヤクザだと気付いているのか……? 若干瞳の色が変わったような気がした。


「まあな。服はそれなりに良いもん着てるつもりだ」


「ですよねえ。お客さん、とてもお若く見えますけど、ひょっとして30代くらいですか?」


「いや……まだ20代だ」


「へぇ! 20歳そこそこでそんなに立派なスーツを買えるなんて羨ましいなあ……」


 運転手は感心した様子で言った。妙にリアクションがオーバー気味というか。声の大きさに自然と眉が顰まった。


「別に大したもんでもねぇよ」


 俺は適当にあしらうことにした。あまり深く関わりたくない相手だと思ったからだ。


「いやいや、そんなことないですよ! 私なんかもう40代も半ばを過ぎてるっていうのに未だにこんな安物のスーツしか買えませんからねえ……」


 そう言うと運転手は車載の無線機を手に取る。


「赤坂に向かっております」


 会社に連絡を入れたようだ。おかげで会話がひと段落したので俺はそっと窓の外を見つめる。出来ればこのまま会話をせずに赤坂まで行きたいが……。


 ふと車窓の景色が気になった。


「なあ、赤坂には日比谷通りから行った方が近いんじゃねぇか? 何でわざわざこんな狭い裏道を通る? 大体そっちは虎ノ門だよな?」


 明らかな遠回りをしている運転手。露骨に距離を稼いで料金を吊り上げようという魂胆か。しかし、それにしては赤信号で停まらず直進を繰り返す。


「いえいえ、この道で大丈夫ですよ」


「そうかよ」


 多少、運転が荒いだけなのか……俺はそれ以上追及せずに再び目を閉じた。しかし、運転手はしつこく話しかけてくる。


「ところでお客さん……ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど……」


「何だ」


「……お客さんのお名前って麻木あさぎ涼平りょうへいさんですか?」


 その瞬間、俺はギョッとした。


「おい! テメェ、何者だ? どこに向かってやがる!?」


 食い入るようなこちらの質問に運転手は乾いたような笑いを浮かべて答えた。


「乗ってりゃ分かりますよ。ふふっ」


「おい! 質問に答えろ! テメェは……」


 その時、俺の問いを遮るように運転手が言った。


「私は眞行路一家の者です。唐突ですが、あなたを連れて来いとのご命令です。うちの総長からね」


 声と呼応するかのように、車が停まる。これは一体何なんだと思っていると、後部座席側のドアが静かに開いた。


「お代は結構です。降りてください」


 なるほど。それでこのように人気の無い場所に俺を連れて来たというわけか。


 周囲を見れば人通りはおろか車の姿もまるで見えず、川を渡す橋の上にぽつんと乗って来たタクシーが停車しているという状況だった。


 車から降りて、俺は奴の名を呼んだ。


「おい! どこに居る!? 眞行路高虎!」


 その間に車は猛スピードで走り去ってしまう。置き去りにされたのは良いとして、おそらく俺を嵌めたであろう人物の姿が見えないのは不自然だ。


 そもそもこの橋とて普段から人通りが少なくはないであろうに。警察を動かして交通規制でも敷いたか。銀座の猛獣ならば考えそうなことだ――。


 それにしても俺を始末するためにここまでするとは。奴もとんだ物好きである。


「……まさかこの橋に爆弾でも仕掛けやがったか?」


 苛立ちに任せた勢いで独り言がこぼれ出た、ちょうどその時。突如としてエンジンの音が近づいてくる。その方向へ目をやると一台のリムジンが走ってきた。


 ついに真打のお出ましである。車から颯爽と降りてきたのは眞行路一家総長、眞行路高虎だ。


「待たせたな、小僧。今日はこの俺を随分とたぶらかしてくれたじゃねぇか。もう直々にテメェを始末しなきゃ気が済まねぇ」


「あんたも懲りねぇなあ。ついさっき組織を追放されたばかりだってのに、また恥を重ねに来たのか。トラ野郎」


 俺は鼻を鳴らして高虎を睨みつけた。一方の奴はまったく意に介さない様子で続ける。


「小僧。輝虎と組んで、うちの渚を東北へ逃がしたろ。こちとら何もかもお見通しなんだよ」


「何のことだか分からねぇな」


「とぼけようったって無駄だぜ。まあ、別に怒っちゃいねぇんだがな。あの輝虎に親へ歯向かおうって度胸があると分かっただけでも儲けモンだ」


 まさか全てが筒抜けになっていたとは。俺は驚きを隠して平静を装うので大変だった。何処からこの男に見られていたというのか……?


 物凄い威圧感を放ってくる高虎に対して俺も殺気を露にする。こうなった以上、もはや奴との激突は避けられまい。


 やってやるか。


「……ッ」


 さっそく構えを取った俺。


 両脚を半歩に開いて大きく息を吸い込み、左の手刀を前方に突き出して、右手の拳を腰の辺りまで引く。鞍馬菊水流、ふうようかまえ。呼吸による精神のコントロールにより、人間の潜在能力を最大限まで引き出すのだ。


「ほう……やっぱり鞍馬菊水流か」


 高虎はニヤリと笑って言った。どうやら流派について情報を得たようだ。俺は警戒を強める。


「まあ、そう身構えるなや」


 余裕たっぷりに言うと高虎はネクタイを緩める。その直後に俺の背後から気配が近寄ってくるのを感じる。程なく、こちらの退路を塞ぐがごとく1台のバンが停まった。


 やがて中からぞろぞろと出てきたのは7人の屈強な男達。いずれも筋骨隆々で見るからに厳つそうな面構えである。


「あんたを入れて8人か。別に大したことは無いな」


「手始めにこいつらがテメェの相手になる。うちの組でも指折りの喧嘩上手だ。甘く考えてると痛い目を見るぜ」


 そう高虎が言うと、男らは一斉に俺に襲いかかってきた。


「うおおおっ!」


 男達は思い思いに叫びつつ、俺に向かって拳や蹴りを繰り出すが、俺はそれらを紙一重で躱してゆく。そして小さな隙に手刀や肘打ちを叩き込む!


 ――グシャッ。


 鞍馬菊水流の極意は一撃必殺。俺に殴られた男らは皆、瞬く間に倒れ伏した。


「ほう……なかなかやるじゃねぇか」


 高虎が感心したように言うと、今度は後ろから新手が現れた。


「おらぁ! テメェら、何チンタラしてやがる!」


 新たに出現した男はドスの利いた声で叫ぶと、先頭に立って俺に襲いかかってくる。


「おらよっ!」


 俺はその男の拳を軽い動作で避け、そのままカウンターの要領で腹部へ正拳突きを叩き込んだ。


 ――バキッ。


 男は血を吐いて仰向けに倒れる。これで残りは高虎のみとなった。


「思ったより立ち回れるもんだな、小僧。やはり鞍馬菊水流は一対多数の状況で最も強さを発揮する拳。ここまで実践的な古武術は日本ではそうない」


「あんたがどこで話を聞いたかは知らんが一対一タイマンでもいけるぜ。鞍馬の強さについちゃあ身に染みて分かってるはずだろ」


「こないだのはまぐれだ。俺もあれから色々と対策を練ったもんでな。同じ手は二度と通用せんってことを教えてやるよ」


 まさに獣のような目つきでこちらを睨むと、高虎は近くに居た組員から得物を受け取る。先日と同じ黄金塗りの太刀。元々刃渡りの長い剣ゆえに奴が持つと更に迫力を増す。


「分かってると思うが手出し無用だ。お前はそこを動かず黙って見ていろ」


「かしこまりましたっ!」


 高虎がそう言うと組員は後ろに下がった。


「……」


 俺は目の前の巨漢を見据えて殺気を送りつつ。頭の中では冷静に状況を分析していた。唯一残った運転手の組員に加勢を禁じたということは、言葉通り本気で俺とサシでやり合うつもりらしい。


「……来いよ」


 俺は構えを取ったまま言った。


「ああ……」


 高虎は小さく頷くと太刀を抜き放つ。刀身がギラリと光った。奴は剣を上段に構え、俺へ更なる静寂の気迫をぶつけてきた。


 一方、こちらは徒手空拳。短刀ドスや拳銃を抜かなかったのは、我が流派の強みを最大限に生かして戦うため。鞍馬菊水流は平安時代に農民が源氏の鎧武者に立ち向かうべく編み出した殺人術。音よりも速い身のこなしで瞬時に間合いを詰めて懐へ入り込み、相手が日本刀を振り下ろすより早く拳撃を炸裂させるのだ。


 それゆえ敵が刀を用いる剣術使いであった場合はこちらにとって大いに分がある勝負ということになる。

 右の拳を握り締め、俺は高虎を睨む。


 ここは一気に突進して喉に貫手を刺すか。しかし、高虎の殺害許可は出ていない。奴は殺さずに横須賀で村雨とぶつけ合わせるのが恒元の策。


 よってこの男は殺さず、程々に痛めつけるだけに留めなくては。ただ、そうなってくると加減が分からない。一体、どこまでやれば良いのか……?


 思案に暮れる俺に高虎が言った。


「どうした小僧。この銀座の猛獣を前に足が竦んで怖気づいたか」


「うるせぇよ。あんたこそどうしてヘラヘラ笑ってやがるんだ。ビビッて動けねぇのを隠してるってのかよ」


「いいや。これから横須賀で村雨とやり合うにあたってテメェにやられた傷が何処まで癒えたか、他でもねぇテメェ自身で試してやろうと思ってな」


 俺は苦笑いした。


 なるほど。そういうことか。かねてより俺を始末しようと息巻いていたのだろうが、このタイミングで襲って来た理由に合点がいった。


 無論ながら奴にまんまとやられるわけにはいかない。試す道具として使われる屈辱もさることながら、俺に敗北があってはならない。鞍馬菊水流の伝承者に敗北と逃走の文字は存在しないのだ。


「おう、かかって来いよ。俺の流派について少しは学んだなら、今の自分がどんだけ不利な状況か分かってるはずだぜ。ま、身の程知らずのあんたにゃ関係ねぇか」


 矢を射るがごとく挑発する俺。それに対して高虎は軽く笑うだけだった。


「舐めるなよ、小僧」


 互いに全身から意志を放つ。殺気と殺気がぶつかり合って空気がますます張り詰める。目の前の敵を是が非でも倒さんとする凄まじい執念――それが静かな間合いの空白をより一層凍てついたものとした。


「……」


 次の瞬間、高虎がスタートを切る。


「うおおおおおおおっ!」


 響き渡る大音声と共に突進する高虎。片や俺も地面を蹴って走り出す。


 頭上より高くに振り上げた太刀の斬撃が落とされる寸前、俺は奴の腹部めがけて拳を叩き込む……つもりであった。


 だが、途中で高虎の足が突如として止まった。


「っ!?」


 そして俺が腰だめに構えた拳を打ち出そうとした瞬間、奴の腕の位置が変わる。この向きは横薙ぎだ! 太刀を振り下ろすかに見せかけて途中で攻撃を変えたのだ!


 直後、強烈な一閃が飛んでくる。


「そこだあああッ!」


 俺は咄嗟に上体を反らせて難を逃れる。鼻先からわずか3ミリくらいの所を刃が通過したのが分かった。刀が空を切る音も聞こえた。


 ――シュッ。


 ただ、奴の攻撃はそれだけでは終わらない。間髪入れずに今度は逆方向の横斬りが飛んできたかと思うと、その威力を何ら殺さず真上から斬撃が落ちた。


「くっ!」


 燕返しか。俺は咄嗟に横へ飛び退いて避ける。しかし、高虎は攻撃の手を緩めない。


 すぐさま体勢を立て直し、再び刀を振りかぶる。そして……。


「貰ったぁぁぁ!!」


 こちらが完全に避けきれなくなったと視認するや否や、猛烈な振り下ろしを浴びせてくる。このままではまずい。文字通り一刀両断にされてしまう。


 だが、俺は大きな切り札を持っている。およそ千年に渡って受け継がれてきた、鞍馬菊水流の奥義だ。


「はあっ!」


 俺は雄叫びと共に掌底を繰り出す。それは相手にぶつけるまでも無い。音速を超えた一撃は空気に波を起こし、衝撃となって前方に伝わる。


「な、何っ!?」


 直後に高虎の身体が動く。彼の身体がふわりと浮いたかと思うと、そのまま後方へ押し退けられる格好となった。奴は何とか両脚でバランスを取って立っていた。


「……超音速で空気を揺らして衝撃波を起こしたか。驚いたな。古文書には載っていたが本当に実在する技だったとは」


「へっ、これで分かったろ。あんたじゃ俺には勝てねぇんだよ」


 敵が少し呆気に取られている間に俺は起き上がって体勢を立て直す。凄まじい拳の速さによって衝撃波を発生させることこそが鞍馬菊水流の最大の強み。それを拳にまとわせれば地上のあらゆる物質を砕き、手刀や貫手に纏わせれば例え超合金であっても容易に切り裂いてみせる。


 それらは武士が身に着ける鎧の鉄板を貫通するべく生まれた技だ。古の時代には衝波しょうはと呼ばれていたらしい。寝そべった体勢ゆえに少し威力が落ちたがそれでも圧し掛かる巨漢を退けるには充分だった。


 太刀を構え直して高虎は呟いた。


「これが鞍馬菊水流……そう簡単には行かねぇか」


 奴は腹部を軽く擦っていた。少なからず臓腑に効いている何よりの証左だ。俺が先々週の戦いにて開けなかった衝波という引き出しがよほどの驚きだったに違いない。


「……けど、これで分かったぜ。小僧。テメェが俺に勝つ見込みは万に一つもねぇってな」


「何を寝ぼけたことを言ってやがる? こんだけの実力差でどうやって俺を倒すってんだ? ああ?」


「さっきの一撃で大体の動きは見切った。こりゃあ思ったより味のある喧嘩になりそうだぜ」


 どういうわけか余裕綽々といった様子の高虎。その薄ら笑いの奥には確固たる自信が見て取れる。まあ、所詮は大口を叩いているだけに過ぎないだろう――俺は構えを取り直して言い放った。


「そうかよ。じゃあやってみるか。銀座の猛獣も鞍馬の奥義の前には非力ってことを思い知らせてやるよ」


 次はこちらの方から仕掛ける。息を吸うと同時に、俺は走り出す。奴の懐へ瞬く間に飛び込んで拳による一撃を食らわせるために。


「やっぱすげぇや! 速いぜ!!」


 例によって笑みを浮かべた高虎。奴は左手の拳を突き出す。


 ――パァン!


 大きな破裂音が響いた。空気を切り裂いて剛拳と剛拳がぶつかり合ったのだ。


「ほう!?」


「ぐはははっ、こりゃあ良いぜ! 久々に拳がピリピリしてきやがる!」


 これはたまげた。


 どうするかと思ったら、何と高虎は俺の拳をパンチでもって打ち返したのだった。


 指が痺れるのはこちらとて同じ。高虎の拳打はさながら大きな鉄球。全体重が左手に当たったような強烈な衝撃に、俺は思わず顔をしかめる。


「や、やるじゃねぇか!」


 お返しとばかりに即座に奴の顔面目掛けて拳を叩き込む俺だが、今度はバックステップで避けられてしまう。すかさず追撃を仕掛けるも、高虎が左手で銃を抜いたのを見て足が止まる。


「避けられるかァ?」


 至近距離での発砲。だが、俺には距離なんか関係ない。


 ――ズガァァァン! ズガァァァン! ズガァァァン!


 3発とも難なく避けた。そして躱すのと同時に間合いを詰め、奴へとさらに近づいてゆく。銀座の猛獣はそれでも余裕を崩さなかった。


「こうまで距離を潰してきやがるか! だが、近づきすぎは禁物だぜ! おらァァァァァ!」


 高虎はそう叫ぶと、今度は右手の太刀を振り下ろしてくる。勿論ながら俺は見切っている。


「ふっ!」


「んだと!? こいつも避けやがるかァ!」


 全力の斬撃を回避した後はこちらの間合い。お得意の燕返しも出来ぬ所まで距離を縮め、俺は防御が空いた敵の懐へ一撃を繰り出す。


「食らえっ!」


 それは腰だめの位置から放つ剛力の掌底。


 ――ドガッ!


 大きな音を立てて見事に炸裂した。


「がっ!?」


 高虎の身体がくの字に曲がる。そしてそのまま後方へ吹っ飛んだ。


 だが、俺は追撃の手を緩めない。奴の身体を吹っ飛ばした勢いを利用して回転し、その遠心力を乗せた蹴りを繰り出す!


「おらあああっ!」


 俺の右足は高虎の腹部へ直撃する。


「がはっ!」


 奴は口から血を吐いて飛んでいき、やがて橋の端のところで止まった。勝負あったか。よもや今の一撃で殺してしまったか……と思ったがとんだ杞憂だった。


「……ううっ、やっぱりつえぇな。まともに受けてたら体の上半分が砕け散ってたところだったぜ」


 何と高虎は無事。それどころか、ゆっくりではあるが両脚で立って見せたのだ。思わず背筋が寒くなるほどのタフさである。


「ありがとな、小僧。さっきのを食らったおかげで確信したぜ。無双状態に見えるテメェの唯一の弱点ってやつがな」


「この期に及んでまだ虚勢を張るか。いい加減、負けを認めて立ち去ってくれねぇかな。あんたが無駄に傷つくだけだぜ」


「どうやら気づいてねぇようだな。自分の戦い方にゃあ大きな欠陥があるってことに」


 吹っ飛ばされた際に落とした太刀を拾い上げ、高虎はまたしても近づいてくる。その動きはやけに勝ち誇るがごとき自信に満ちていた。


「俺の基本はボクシングだが、古武術にも縁があってな。殺しのテクニックは洋の東西を問わずに片っ端から学んできた。その中でも鞍馬菊水流は群を抜いてイレギュラーだ」


「だから何だよ。別格ってことは、強いに決まってんじゃねぇか」


「超音速の俊敏さで敵の間合いを侵略する技。こりゃあ世界でも他に類を見ねぇ体捌きだ。けどな、そこに大きな問題がある」


 やがて高虎は太刀の切っ先を俺に向けて言った。


「テメェは攻撃の瞬間、必ず相手の間合いに潜り込む。その速さゆえに敵の攻撃を視認することすらままならねぇ。だが、それは裏を返せば自分も相手から攻撃をされやすいってことだ」


「テメェに限らず、ちょこまかと動きがすばしっこい奴ってのは戦いの主導権が常に自分にあると思ってる。自分が間合いを潰されるとは微塵も思ってねぇ」


「……!」


 俺はハッとした。自分が間合いを潰される――高虎の言う通り、その可能性は考えてもいなかった。「考えられなかった」と表現した方が適切か。


 そもそも己の弱点について考察する頭脳を俺は持ち合わせていなかった。目の前の男の指摘が的を得ているかは分からない。


 ただ、奴の言葉は俺の中で確実に波紋を巻き起こす。


「……」


 動揺を悟られぬよう無表情を繕う。だが、それでも百戦錬磨の銀座の猛獣にはお見通しだったらしい。奴は不敵に笑みを見せた。


「そうかい。やっぱりその通りか。まあ、どんな奴であれ弱点のひとつやふたつは必ずあるもんさ」


「……鞍馬菊水流は、千年の間も負けることを知らなかった最強の兵法。誰が相手だろうが後れを取ることは無い」


「青いなぁ。流派の歴史そのものが自分の強さだと勘違いしてやがる。そのおごりこそ、テメェの弱点だ」


 弱点とは何か。


 高虎の言葉を反芻しながら俺は考える。


 鞍馬菊水流の最大の強みは速さだ。敵が得物あるいは拳を振り上げる一寸の隙に間合いを詰める、いわば突進力である。そのおかげで歴代の伝承者たちは武士の剣術に徒手空拳で勝利を収めてきたのだ。


 高虎が右手に携えるのは太刀。一般的な打ち刀よりも刃渡りが長い特徴的な武器といえる。ゆえに鞍馬の基本的な戦闘様式を用いれば優位に戦うことができよう。


 俺の間合いを潰してやると高虎は豪語しているが……そんなことが可能なのか? 刀剣は刃渡りが長ければ長いほどに懐に入られた際の打開が困難。反りの強い太刀なら尚のことだ。


「だったら試してみやがれ。負けを見るのはそっちの方だってことを教えてやるよ、馬鹿野郎。さっさと来いよ」


 俺は構えを取り直した。高虎が何を企んでいるかは知らんが、またあっさりと一蹴してやるだけのことだ。


「ああ……そうしようぜ……」


 すると奴は太刀を構えるなり猛然と突進してきた。


 先手を取って間合いを詰める気か! だが、その目論見はとっくに予想済み。俺も瞬時に走り出して奴の懐へ飛び込む。


「おらああっ!」


 ――シュッ。


 高虎が振り下ろす刃を躱し、俺は右の掌底を突き出した……つもりだった。ところが。


「何っ!?」


 その一撃は当たらなかった。


「ふっ、乗ってきたな!」


 待ってましたとばかりに笑う銀座の猛獣。俺の攻撃を避けたかと思うと、奴は右手の太刀を放り投げて懐から短刀を抜く。


「っ!?」


 その動作はあまりにも速い。俺は不覚にも怯んでしまった。そしてその隙を見逃さず高虎が短刀を振るい、俺の左腕を斬りつけた。


「ぐあっ!」


 鋭い痛みに思わず声が出る。傷はそれほど深くないが……それでも確かなダメージだ。こんな手があったとは大いに驚いた。


 しかしながら、俺も負けてはいない。


「でやあああっ!!」


 奴の股間めがけて右足で蹴りを放つ。正中線への攻撃は戦闘の基本。人体で最も脆い場所を突かれて立っていられる者などいないからだ。


 ――バシッ!


 大きな衝撃音が響く。俺の金蹴りは決まらなかった。タイミングをほぼ同じくして高虎も右足を蹴り上げて俺の攻撃をガードしたからだ。


「ちっ、やるな!」


「舐めんなって言ったはずだぜ。小僧」


 鋼鉄の脛当てを着けているのか。奴の右脚は想像以上に堅固で驚いた。逆に、俺の脚がダメージを受けたのではないかと思うくらいだった。


「お返しだ!!」


 感心している間も無く、次なる攻撃が飛んでくる。短刀での横払い。俺は頭を低くして回避すると同時に足腰へ力を込める。


 舐めるな? こっちの台詞だ。


「食らえぇぇぇぇ!!!」


 俺は高虎の腹部へ全力の掌底を叩き込んだ。


「ぐふっ!?」


 堪らず奴は仰け反る。そしてそのまま後方へ吹っ飛ぶ。


「……がはっ!」


 だが、高虎は踏みとどまった。これでもまだ倒れないというのか。口から血を吐きながらも奴は笑っていた。


「ぶはっ……ごへぇっ……へへっ、良い掌底だ……あの時とそっくりだ……22年前、この俺が喧嘩で初めて膝を着いた時となァ……」


「ああ?」


「……麻木光寿。奴は俺を一対一サシの殴り合いで負かした唯一の男だ。その息子をこの手で倒してこそ、俺は天下取りへの道を歩み出したと云える!!」


 どうしてここで親父の名前を出したかは存ぜぬが、大体の事情は察しが付いた。要はこの男は俺を己の実力を測るダシに使いたいだけなのだ。かつて敗北を喫した相手と同等の存在を殺すことで自分が最強である証明を為さんとしているのだろう。


「へっ。くだらねぇな」


「ああ。くだらねぇとも。だがな、ヤクザってのはそういう生き物だろうが」


 高虎はニヤリと笑った。


「俺はお前の親父が大嫌いだったぜ。枝の分際で生意気。いつもヘラヘラしてて何考えてるか分からねぇ、そのくせ喧嘩だけは強ぇときたもんだ……いつか殺してやりてぇと思ってたよ」


 一体、何度目であろうか。父の過去の因縁をぶつけられるのは。慣れているといえば慣れているが久方ぶりのうざったさがこみ上げてくる。


「知らねぇな」


 俺は軽く吐き捨て、高虎を見据える。


「お前が親父と何があったかなんて知ったこっちゃないんだよ。昔がどうあれ、俺は俺のやりたいようにやらせてもらう」


「くくっ、その口の聞き方も似てやがるぜ。尚更に殺したくなってきたってもんだ。覚悟しやがれぇぇぇぇぇ!!!」


 そして高虎はそのまま突っ込んできた。直後、目にも止まらぬ速さの刺突の連撃が俺に浴びせられる。


「おらあっ!!」


 速い。これはまるで機関銃の一斉掃射だ。俺は堪らず後退するが、高虎は逃がさないとばかりに追ってくる。


「おらっ! おらっ! 逃げてるだけじゃ勝機は無ぇぞ! どうした! 小僧! この程度で追い込まれたなんて言わねぇよなァ!」


「くっ……!」


 たまげた。完全に意表を突かれた。見たところ2メートルと百キロ以上はありそうな巨躯でこれだけ高速の短刀捌きができるとは。


 俺は奴の刺突を躱すだけで精一杯。短刀を抜いて反撃を食らわせる余裕など全く無い。だが、得物を抜かずとも打開の手はある。


 あれをやるか――。


 呼吸を整え、俺は貫手を放った。


「はああっ!」


 まず狙うは高虎の左目。眼球を潰すつもりで放った一撃だ。


「むっ!?」


 さすがにこれは予想外だったらしい。高虎の顔に動揺が浮かぶ。奴の短刀の軌道に寸分のズレが出たのは言うまでもない。


 この時を待っていた。俺は全神経を両手に集中させる。


「うおおおおおおっ!」


 そこから俺は無心で貫手の連撃を繰り出した。


「な、何ちゅう速さだ!?」


 自分の目でも残像が見えるほどの超速。高虎は怯んで防戦一方。それでも元ボクサーゆえの動体視力で俺の攻撃を辛うじて躱してしまうのが悔しいが……俺は突きを果敢に繰り出し続ける。


「はあっ! はあっ!」


 ――グシャッ。


「ぐおっ!?」


 そしてついに高虎の左腕を捉えた。貫手が奴の左腕に直撃し、肉が抉れる鈍い音が聞こえる。直後に奴は怒りの反撃を放ってきた。


「この野郎!」


 左手で拳銃を取り出し、発砲してくる。俺はすかさず跳躍で避ける。


「ちっ、すばしっこい野郎だ。だがな……」


 着地した俺に高虎はさらに発砲してきた。1発、2発、3発。銃弾が飛び出すと同時に俺は逆方向に向かって飛んで躱す。だが、それでも高虎は射撃を止めない。弾が尽きれば懐から装填して発砲。その動きも例によって従軍経験があるのではと思うほどに速かった。


 尤も、俺には関係の無いこと。


「どこを撃ってんだ、止まって見えるぜ!」


 俺は右へ左へジグザグに動いて弾を躱し、もう一度高くへと跳び上がって橋の欄干に着地。そうして懐から短刀を抜いて、高虎を見据える。このまま奴へ突撃を仕掛け、この戦いにケリをつけるか……と思ったその時。


「引っかかったな」


 不意に高虎が笑った。


「ああ?」


「おらよっ!」


 奴の笑い顔に疑問を呈する間も無く、敵は想定外の行動に出た。何と軽々と巨体を跳躍させて自らも欄干の上に飛び乗ったのである。


「うおおおおおっ!」


 奴は右手の短刀で突いてくる。避けようにも、ここは欄干の上。足元がおぼつかぬ以上は動きが限られてくる。


 ――ガキィン!!


 咄嗟に俺も短刀を振り上げて刺突を弾いた。


「へへっ、やるじゃねぇか」


「何っ!?」


 高虎はニヤリと笑う。その笑みに不吉な予感を覚えた直後、俺は目を疑った。奴はあろうことか短刀を鞘に入れて懐へ仕舞ったのだ。


 そしてそのままストレートパンチを放ってくる。


 ――バキッ。


 避けられず、肘で受け止める。それでも元ヘビー級日本王者の拳は尋常ではなく鈍い痛みが走る。衝撃も相まって俺は仰け反る。


 その隙を見逃すことなく、高虎は回し蹴りを放ってきた。


 ――ドカッ!


 今度は脇腹を蹴られたようだ。欄干の上ゆえにバランスを取るのが大変だが、ここで怯んでいては話にならない。すぐに体勢を立て直して俺も拳を放つ。


「うらあっ!」


 ――バキッ!


 拳が高虎の肘を捉えた。ところが、普段の動作とは何かが違う。手と指がジンジンと痛む感覚がある……これはまさか!?


 気づいた時には高虎が大笑いしていた。


「ぐはははっ! そんな不安定な足場じゃ衝撃波は出せねぇだろ! テメェの馬鹿力はどういう条件下で生まれるのか、俺なりに研究させて貰ったんだわ!」


「ほう!?」


「俺の罠に嵌まったな! 小僧!!」


 奴の言葉を遮るがごとく拳を浴びせる俺であったが、いつも通りの破壊力が生まれない――それもそのはず。鞍馬菊水流の技は強靭な足腰を力の源とする。だが、不安定な足場ではその威力は半減してしまうのだ。


「ちっ……!」


 俺は舌打ちをして一旦後退するも、高虎は逃がしてはくれない。そこから始まった拳の打ち合いで俺が怯んだと見るや否や、一気に間合いを詰めて俺に抱き着き、そのまま欄干から降りる。奴は俺を抱えたまま物凄い力で締め上げてきた。


「ぐあっ!」


「現役の頃からクリンチは得意でな。とくと味わうが良いぜ」


 背骨が悲鳴を上げる。このまま折られるのではないかとさえ思った。


 好きにやられてなるものかと奴の脇腹に蹴りを入れた。高虎は苦悶の表情を浮かべはしたが、それでもなお俺を締め続ける。


「ぐぬうっ……!」


 そしてついに俺の背骨が軋み始めた。このままでは本当に折られるかもしれない……そう感じた刹那、俺は思い切った行動に出る。


 ――バキッ!


 頭突きだ。高虎の額めがけて力任せにぶちかましてやった。少年の頃からの得意技である。


「ぶはっ!? このガキが!」


 奴は怯み、俺を締め付ける力が弱まる。その隙を突いて俺は奴の腕から脱出した。


「あっ……ああっ……」


 乱れた呼吸を整えて後退し、俺は構えを取り直す。その瞬間に両腕に痛みが走った。どうやら骨にひびが入ってしまったようである。


 一方の高虎は短刀を抜いて俺への殺意を剥き出しにしていた。文字通り獣のごとき形相だ。


「やってくれたな、小僧! テメェはここで必ず仕留める!!」


 さて、どうするか。俺は先ほど欄干の上で組み合った時に短刀を放り投げてしまった。銃は持っているが高虎の殺害は許可されていない為に迂闊な使用はできない。


 かくなる上は……?


 俺は南アフリカでの修行の日々を思い起こしていた。師匠から教わった戦いの哲学。鞍馬菊水流の伝承者に敗北の二文字は無い。


 現在の俺が為すべきことは何か。流派の秘密を見抜かれてしまった上に両腕を負傷しているため、このまま戦い続ければ確実に不利となろう。よって答えはすぐに出た。


 奥義を使おう――。


 戦闘においてまったく同じ状況はふたつとして存在しないとの考えから決まった型や技を持たない実戦本位の武術、鞍馬菊水流。


 その中で名前のつく技が3つだけある。そのひとつが『鎧崩し』だ。敵との間合いを神速で詰め、跳躍と共に浴びせる低空の飛び蹴りだ。


 手技主体の鞍馬菊水流にしては特異とも云える足技であるが威力は絶大。師匠との修練では何枚もの鉄板を貫通したことがある。


 両腕を負傷している現在、銀座の猛獣を倒すにはこれしかないと思った。


「眞行路高虎。勝負はまだ終わっちゃいねぇぞ」


「そう来なくっちゃなあ! この程度で片が付いたら面白くねぇ! もっと楽しませてくれや!」


「笑ってられんのも今のうちだ。行くぞ……」


 真正面の敵を見据えて、呼吸を整えた俺。超人的な動体視力と思考で食らった技は全て見切ってしまう高虎のこと。狙える機会は一度きりであろう。


 この技に全てを懸ける。


 意を決して、俺は地面を蹴った。


「うおおおおおおッ!!!」


 高虎の懐めがけて猛烈に加速。


 そして跳躍。その勢いのまま、俺は右脚を高虎へと突き出した。


「くっ!? はえぇな!」


 流石の高虎も回避できまいか。奴は野生の勘に頼って何とか躱そうと試みるも、俺の方が上手であった。凄まじい衝撃音が辺りに轟く。


 ――ズドォォン!


 音に遅れて感触が伝わってくる。蹴りを繰り出した俺の右足の裏には確かな反応があった。何かが潰れるような、はっきりとした心地。


 これは完全に決まった。鞍馬菊水流の最強奥義が俺に勝利をもたらした。この一撃を受けて耐えられた人間など歴史上にひとりも居ないのだから。


 と、思っていた。


「……えっ?」


 俺は目を疑った。信じられないことに高虎は無傷であった。額に汗を浮かべながらも俺を睨みつける奴の姿がある。


 そしてあろうことか、蹴りを入れた俺の右足が高虎の左手によって掴まれていた。


「な……にっ!?」


「へへっ……捕まえたぜ……」


 そして奴は俺の右足を掴んだまま、地面へ叩きつける。


 ――ドサッ!


「ぐあっ……!」


 俺は堪らず呻き声を漏らす。身体中が悲鳴を上げ、起き上がろうにも起き上がれない。だが、高虎は容赦なく俺の右足首を掴んで持ち上げる。


「ぐ……!」


「おらっ!」


 またもや地面に叩きつけられた。


「がはっ……!」


 強い衝撃が背中から伝わってくる。内臓全体が揺さぶられるような感覚だ。瞬く間に息が苦しくなり、俺は表情を歪ませた。


「へへっ、良いザマだな。さっきの蹴りはお前にとって乾坤一滴、ラストチャンスだったと見える。あれを食らってたら、俺もヤバかった」


 どうしてだろう。鎧崩しは鞍馬菊水流の最強奥義、その破壊力は銃弾にも匹敵するというのに。何故に奴は食らっても平気なのか。


 愕然とした面持ちで居た俺の目に飛び込んできたのは、高虎が左手に持つグニャリと曲がった短刀の刃。少しずつ分かってきた。


 奴は蹴りを受ける直前、短刀を自分の身体の前に挟むことで威力を軽減したのだ。


「……く、クソったれが。遅かったというわけか」


「残念だったなぁ。この勝負は俺の勝ちだ。おらあっ!」


 高虎は勝ち誇るが如く、うずくまっていた俺に拳を浴びせる。


「ぐふっ! ぐはっ!」


 ――バキッ!


「ぐっ! あああっ!」


 ――ドンッ!


「あぐああっ!」


 俺は為す術も無く、ただただ奴に殴られるばかり。ただでさえ強い元日本王者のパンチ力に体重が加わり、その剛拳は岩をも砕く凶器と化している。


「ははははっ! テメェは殺す! ぶっ殺してやるぜぇ!!!」


 高虎は狂喜に酔っていた。これほどまでの高揚感を覚えるのは久しぶりらしい。奴にとって俺はこの上ない強敵であったようだ。それが今や単なるサンドバッグにも等しい有り様。奴の殺意は最高潮に達していた。


「終わりだァァァァァ!」


 高虎は気分に任せて大きく拳を振り上げる。


 これを食らったら終わりだ! そう思った瞬間、俺は本能的な回避行動を取る。


 ――シュッ。


 残った体力を振り絞ってのバックステップ。後退することで銀座の猛獣との間に距離を開いたのだ。反射的に身体が動いたと言っても良いだろうか。


「はあ……はあ……はあ……」


 無理やりに間合いを確保したことで一時的に難を逃れた俺は、直線上で不敵に笑う高虎を見据える。


「おいおい。避けるなよ。空振りになっちまったじゃねぇか」


 俺をボコボコにできて、奴はご満悦だ。


 この戦いは全てが高虎の計算通りだった。最初に掌底を何発か浴びせた時点で優勢だと錯覚した己が愚かしく思える。すべては鞍馬菊水流特有の拳速を見切るための高虎の罠だったというのに。


 銀座の猛獣の策略に気付かず、俺はまんまと罠にかかった。衝撃波を出せぬよう足場の狭い橋の欄干へと誘導され、あっさりと捕獲。両腕を折られた挙句、最後の切り札として放った奥義も防御されてしまった。


 これから、如何にして戦うか……?


 潰された顔から滴り落ちる血を拭いながら、俺は構えを取る。痛みの所為で上手く力が入らない。鞍馬菊水流の伝承者ともあろう男が何とも情けない限りだ。


「ははっ、だいぶ効いてるみてぇだなあ。だが、こんなもんじゃねぇぜ。お前をこれからたっぷり痛めつけて村雨耀介討伐の余興にしてやる」


「……ううっ、ぐうっ」


「自分の技が研究されているとも知らずに俺へ戦いを挑んだのがそもそもの間違いだ。拳法使いならではの自信過剰。そいつがテメェの敗因だよ」


 俺は言われずとも分かっていた。鎧崩しを防がれた時点で、この戦いに最早“勝ち”が存在しないことを――だが、それでも立ち上がるしかない。


 本当の“負け”を回避するために。


「さあ、俺の前で膝をつけ。土下座をしろ。そうすりゃあ楽な殺し方をしてやるよ」


 にじり寄ってくる高虎を睨みつけ、俺は思案した。


 この場を脱出するのに最も容易い方法は何かを。


 腕を折られてしまった俺は拳を振るうこともできない。また、蹴り技だけで高虎を倒すだけの体力も残っていないのだ。逃げるしかあるまい。


 ただ、ここは橋の上。反対方向は既に高虎の部下が塞いでしまっている。そいつを倒すくらいはできるか?


 いや、待てよ。


 ひとつだけあるではないか――この窮地から脱する可能性を持つ唯一の方法が!


 即座に決意した俺は高虎を見据え、吐き捨てるように言った。


「何もかもが自分テメェの思い通りに行くわけねぇだろうが。間抜け野郎。今日のところは引き分けって形にしといてやる」


「ああ? 何をほざいてんだ?」


「だが、次はそうはいかねぇぜ! また会ったらその時には必ずお前を倒す! それまで待っていやがれ!」


 みっともない台詞であることは十分に分かっていた。それでも無関係だ。俺は痛む両腕に気合いで鞭を打って走り出す。


「逃げる気か! 小僧! そんな真似は許さねぇ!」


「へっ! じゃあな!」


 俺は高虎の怒号を無視して欄干から飛び降りた。


「待ちやがれェェェェェ!!!」


 高虎が身を乗り出して俺を呼び止めるも、すでに俺は空中に居る。そのまま一気に降下。水の中へと勢いよく飛び込んだ。


「くそっ!!」


 悔しそうに叫ぶ高虎の声が聞こえてくる。水中に潜った俺には奴の表情は見えないが、おそらく悔しそうな顔をしているに違いない。


 こういう時は逃げるが勝ちだ。


 激しい流れに身を隠し、俺は川を全力で泳いでいった。

まさかの敗北を喫した涼平。このまま銀座の猛獣の暴走は加速してゆくのか……!? 次回、衝撃の章完結!


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