思わぬ鉢合わせ
その晩は眠りに落ちるのが早かった。
灰色の背広を着てネクタイを締め、伊達眼鏡をかけ、紙は整髪料でガチガチに固め、挙げ句の果てには丁寧語で話した。柄にもない行為だ。昔から普段やらないことをやった日には疲れが増すと相場が決まっている。
「……ったく。あんな事、二度とやらねぇぞ」
やっぱり俺にはいつもの装いが最も似合っていると思う。翌朝、起床後に定番のジャケットに袖を通した時の安心感は並々ならぬものだった。
執事局の朝は早いが、この日はいつもより1時間も巻いている。眠い目をこすりながら朝食を取っていると、後輩たちが次々と現れる。
「次長。おはようございます」
「おはっす! 兄貴ィ!」
皆、本当ならばまだ寝ていたいと言いたげな寝ぼけまなこ。それもそのはず、現在の時刻は5時05分。まだ太陽が昇っていない時間帯からの行動開始は、しんどいに決まっている。
「おはようさん。あと、ついでに言っておくが俺は“兄貴”じゃなくて“次長”な。いい加減に覚えてくれ」
食パンに牛乳という簡素な献立をさっと完食し、俺はコーヒーを嗜んだ。自分で淹れるよりも華鈴の店で飲む方が美味い。けれども今のような時間に『Cafe Noble』が開いているわけでもないので叶わぬ願いといえよう。そもそも俺が行ったところできっとあの娘は嫌な顔をする。
未練じみた気持ちをブラックコーヒーの苦さで中和していると、部下たちの会話が聞こえてきた。
「そろそろ日が昇る時間じゃねぇかあ? こんな夜明けにバイクをすっ飛ばしたら最高に気持ちいいだろうな」
「バイクなんか興味ねぇよ」
「はーあ。これだから内向的なブ男は困るぜ。良い男ってのはなぁ、エンジンを吹かせて肩で風を切ってこそ一人前なんだ」
「へっ、やっぱりお前はガキだな。あんな子供のお遊びの何が面白いっていうんだ。そんな暇があったら本の一冊でも読みたいね」
原田と酒井。少し揉めそうだったので割って入る。
「おいおい。お前ら、少しは仲良くしろって言ってんだろ」
組の御曹司として事実上の温室育ちだった酒井に対し、原田は中学の時分から暴走族として活動していた過去を持つ。それゆえに価値観の違いは大きいが出来る限り溝は作らずにいて欲しいものだ。執事局というチームの結束はとても大切なのだから。
「2人とも幼稚園児じゃねぇんだからよ。ちったあ互いを認め合う努力をしろや。他の奴らは少しずつ仲良くなってるってのに、反目し合ったままなのはてめぇらだけだぜ」
懇々と説教を垂れる俺に小さな声で謝罪すると、酒井は足早に去って行ってしまった。
「はっ、あの野郎! お高く止まりやがって!」
「てめぇもだ。原田。過去をひけらかして小馬鹿にした態度。それが酒井にとっちゃあ鼻につくんだよ。いい加減に分かれや」
「……暴走族やってたのって、そんなに駄目っスかね?」
不意に神妙な面持ちを見せた原田。
「何だよ、いきなり」
「ヤクザは暴走族が嫌いじゃないですか。俺もここで働くようになって半年くらい経ちますけど、けっこう当たりが強いっていうか」
さて。何て答えれば良いものか。事あるごとに暴走族の頭目だった経歴を語るので誇っているかと思いきや、どうにも最近はコンプレックスのように感じてきている模様。
「こないだ幹部会が終わった後、直参のオジキらに『バイク乗りふぜいが調子乗ってんじゃねぇ!』って水をぶっかけられました」
他にも幹部が助勤らに差し入れや小遣いを渡す際、原田の分だけ異様に額が少なかったりと露骨な差別を受けたという。
暴力団と暴走族は昔から支配者と被支配者の関係にある。多くの場合、ヤクザは暴走族の後ろ盾を担っているが、実のところはケツモチの対価に様々な犯罪の片棒を担がせている謂わば下請け団体のような存在。それゆえにヤクザはバイカーたちを「安く使える都合の良い奴ら」という蔑んだ目で見ているのだ。
特に関東博徒の場合、その傾向が顕著。暴走族からヤクザに上がった者が白眼視されることも多々あり、それは直参・原田一家総長の息子である原田とて例外に非ず。むしろ直参の子だからと余計に風当たりが強くなっているようだった。
「俺、親父には殆ど勘当されてるようなものなんです。『親分の倅の癖に暴走族なんかやりやがって!』とか思ってるみたいで」
父君の原田総長との仲は険悪そのもの。
原田総長は息子の存在を恥じ、実子であるにもかかわらず組の跡目として認めていないほどだ。おかげで原田は助勤たちの中では唯一、組の継承権を持っていない。そんな彼を酒井が見下してかかるのも必然の至りなのかもしれない。
「じゃあ、何だってお前は暴走族なんかやってたんだよ。親父が直参なら物心ついた時にはヤクザのしきたりを分かってたろうに」
「親父への反発から……っスかね。ガキの頃から跡取りだからって帝王学やら何やらを厳しく押し付けてくる親父が嫌いで。俺はただ好き勝手に暴れてたかったというか。自由に好きなことやってたかったんです。だから中2でグループに入りました」
原田の実家は渋谷にあったが、彼は敢えて父のシマとは遠い多摩地域の暴走族に加入。ヤクザの息子とちやほやされたくなかったのもあろうが、やはり一番は自分の腕試し。地元から離れた土地で、己の腕一本でどこまで行けるかを測りたかったそうな。
「いつもバイクばっか乗ってたんで中学もまともに通ってませんし、高校は入学すらしてねぇですよ。代わりに、喧嘩の腕はかなり磨かれました。色んな強い奴と戦って、勝ったり、負けたりして、原田亮助っていう男を極めようとしてました」
「そうか。俺も似たようなもんだな。俺の場合は中学を出てすぐに実家を勘当されて、横浜のイケイケな奴らとつるみ始めたんだが」
「えっ。兄貴もっスか」
「兄貴じゃねぇ。次長だ。入ったけど、すぐに辞めちまったよ。俺の話は良い。んで? お前はどうしてェんだ? 暴走族だった過去を隠したいのか?」
俺の問いに原田は一瞬だけ黙る。まあ、すぐに答えを出せる質問でもないから当然か……と思っていたら、数秒ほど考えた後ではっきりと返事が出てきた。
「いいえ。胸を張りたいっス。あの頃に頭目やってた時機があるから、今の度胸と腕っぷしが身についたと思うんで」
その表情には何ら躊躇いが無い。真っ直ぐに俺を見据え、声色の中には決意が含まれている。どうやら心の迷いが晴れたようだ。
「そうか。じゃあ、馬鹿にされたくらいでヘコむなよ。色々と言ってくる奴らに言い返してやるくらいじゃねぇと渡世で飯は食えん」
「はいっ!」
「暴走族の存在自体を快く思わねぇヤクザは確かに多いが、そういう考えの者ばかりじゃねぇってことも覚えとけ。ただ、俺はお前の意地と気合いを高く買ってる。これからもよろしく頼むぜ」
俺の言葉に原田の顔が一気に明るくなる。
「こちらこそッ! よろしくお願いします、兄貴ィ!!」
少々褒め過ぎたかと思うほど大袈裟に喜ぶ原田。相変らず単純な奴だ。されど、その裏表のない単純さこそが彼の魅力とも言える。
「フッ、兄貴じゃねぇ。次長だ」
「あっ。すんません」
「要は自分のままの自分を貫けってこと。ただし、他人にテメェの考えを押し付けるな。それができりゃあ酒井とも少し上手くやれるだろ」
後々、当の酒井にも俺の方から言い聞かせておくとしよう。さてさて。ここまで偉そうな顔で説教を垂れてきた俺だが少し恥ずかしくなってくる。
きっと横浜に居た頃を知る連中が今の俺を見たら「何を言ってんだ」と開いた口が塞がらなくなること請け合い。かつての俺も、意地と気合いだけで生きていた。それだけでは通じぬと身をもって悟ったからこそ、斯様にして後輩に講釈ができる自分を作り上げたわけだが、時には原田のような真っ直ぐさが羨ましくなる。
若干複雑な気持ちになってきたので話題を変えよう。
「その昔の暴走族の仲間とは今も付き合いがあるのか?」
大きく首を横に振り、原田は答えた。
「いやあ。今じゃまったく音沙汰が無いっスね。執事局に来るときにグループは辞めたので」
「そうか……確かに多摩と赤坂じゃ距離があるからな。こっちで働きながら暴走族までやるのは流石に無理か」
「ええ。あとは俺ん中でヤクザとして生きるって決めたのもあります。見下す親父を見返すために極道になるって決めたのに、昔の友達とつるむと気持ちがブレちまいそうなんで」
昔の仲間と関係を断ち切ることでケジメをつけたというわけか。なかなかの決意だったという他ない。ただ、それでも時折ノスタルジックな感傷に浸る場面はあるそうだが。
「たまには昔みてぇに集会やりてぇなんて思ったり」
「会いに行っても良いんじゃねぇのか?」
「いや、会っちまうと昔に戻りたくなるんで。それは止めときます」
苦笑いを挟みつつ、原田は嘆息を漏らした。
「大体にして、暴走族も最近じゃ流行らなくなってきてますから。俺が居た多摩のグループも人数がどんどん減ってるみたいで」
意外な情報に思わず目が丸くなる。
「あれ? そうだっけ?」
「はい。長ランやリーゼントも俺らの世代で既には時代遅れになってました。暴走族に入ろうって不良も今じゃ珍しいと思いますよ」
「そりゃあ意外だな。ワルぶった不良が目指す先と言やあ、とりあえず暴走族ってのが今も昔も定番だと思ってたが」
「今じゃ殆どがカラー・モブでしょうね」
「何じゃそりゃ?」
カラー・モブとは初めて聞く単語だ。暴走族やツッパリに代わって数年前から台頭した不良少年たちによる集団のことを呼ぶようで、旧来のそれらとは一線を画しているのだとか。
「モブってのは英語で『不良』を指す言葉で、本場アメリカの厳つい連中を真似て徒党を組んでやがるんです。奴らはグループごとに決まった色を持ってて、そいつが『カラー・モブ』って呼ばれる由来っス。誰が最初に呼んだかは分かりませんけど」
「ほう。そんなのが居たとはな」
「暴走族に比べて雰囲気も緩くて、ファッションとかも俺らよりだいぶお洒落な感じで。喧嘩の強さは個人差が大きいんで何とも言えないんスけどね。でも、グループによってはそれなりの道具を揃えてる所もあるんで油断はできませんね」
流石に彼らは銃や刀剣は持っていないというが、それでもバットや鉄パイプで武装していれば一定の攻撃力はある。尤も、本職が引けを取ることは無いだろうが。
「俺が日本を離れてた間に、不良の界隈もすっかり変わってきてるんだな……」
かくして雑談を交わしているうちに朝食の時間は終了。俺は原田と酒井を連れて総本部を出て、まだ暗い街の中を歩いた。理由は他ならぬ信濃町の拠点に向かうためだ。
昨晩、俺の命を狙い襲撃をかけてきた日本刀のヒットマン。そいつを捕縛した後は廃屋の一室に監禁することとなった。まあ、ここだけ書けばヤクザ渡世の些末事なのだが、面倒なのはその男が俺を眞行路輝虎と誤認していた点だ。
如何なる経緯で人違いを犯したか。今後のためにも徹底的に追及してやらねば。訊き出す手段はただひとつ、拷問である。
「次長。用意が整いました」
助勤のひとりが報告の声を上げる。
「分かった。手はず通りに頼む」
「へいっ」
彼は俺の言い付けに従い、不気味な器具を手に取る。六角棒。人間を殴るために錬成された金属製の鈍器だ。
「んじゃ、まずは緩めに……おらよ!」
――バキッ。
脚部を強かに打撃され、その人物の体が左右に揺れる。両腕を上げたバンザイの姿勢で天井に吊るされている男。黒い布で顔を覆っているために表情を窺い知ることはできないが、きっと苦痛に歪んでいるに違いない。
「声ひとつ出さねぇとは大した根性だ。今、お前さんが殴られた箇所は脚の中でもけっこう脆いんだけどな。よっぽど痛みに強いと見たぜ」
俺が声をかけると、捕虜は低い声で答えた。
「……そうでなければ尽忠報国の武人とは言えん。皇国のために戦う男は痛みなど感じぬのだ」
「へぇ。尽忠報国ねぇ。ってことはお前さん、やっぱり右翼かい? さしずめ大皇連のお偉いさんに命じられて俺を狙ったと見たが? どうだ?」
「もしそうだとしたらどうするんだ」
質問をのらりくらりと躱す余裕綽々の態度。これはもう少し痛めつけてやる必要がありそうだ。鼻で笑い、俺は部下に命じた。
「おい。可愛がってやれ」
「合点」
返事がくると同時にブォンッと横一文字の薙ぎが闇に響いた。今度は男の上半身に六角棒が命中。裸体に剥いた脇腹のあたりから血が噴き出す。
「……」
さて、肋骨を打ち砕かれたのだからさぞ痛かろう――と思いきや、男は呻き声ひとつ上げない。これはたまげた。宙吊りにされて筋肉が延びた状態で骨を折られれば、本来なら激痛で悲鳴を上げるもの。
なのにこの男、息が乱れてもいない。
――バキッ。バキッ。
組員は数分に渡ってそれから連続して六角棒で腹を殴り続けたが、男は何も喋らなかった。ましてや一切の悲鳴を上げない。想像以上にタフな男のようだ。
「はあ……はあ……しぶてぇ野郎め……」
やがて六角棒を振り続けた組員の方が息を切らしてくる。10キロはある得物を持っているのだ。そりゃあそうなるわな。
「おいおい。浦田。もっとスタミナつけろや」
「はあ……次長……すんません」
その場に座り込んだ助勤の浦田に代わって六角棒を手に取り、俺は少し強めに男の足首を打ち付けた。
――ゴキッ。
明らかに骨が砕ける音が聞こえた。それでも声を上げず黙ったままの捕虜。一体どうなっているのやら、ここまで何も喋らないと少し可笑しくも思えてくる。
「おいおい。マジかよ。お前、すっげえ根性だわな」
いたぶられ続けた間、顔はどうなっているのか。若干の興味が湧いたので俺は男に覆いかぶせていた布を外す。
「……」
額に汗は浮かべているが、まったくの無表情。絵に描いたようなポーカーフェースというやつだ。ここまでくると何だか気味が悪い。
――ドガッ。
中くらいに加減をして顔面を殴ってみた。すると顔の骨が割れて鼻血が噴き出てきたが、それでも男は表情を変えぬときた。
それを見た助勤たちがざわめき始める。
「うわあ。見てみろよ浦田さん。あいつ、兄貴のパンチを食らって平然と澄ました顔してやがるぜ」
「どうなってんだよ、一体……」
「ありゃまるで怪物だ」
怪物――打撃の連発を真顔で耐え抜くタフさには、確かにその形容の句がお似合いだ。されども俺たちは本職。このまま何も吐かせられなかったとあれば男の名が廃るというもの。
さらなる苦痛を与えてやろう。
「おい。お前さん、名は何て?」
「……」
「そうか。それすらもダンマリか。舐めるんじゃねぇ!」
俺は男の腹部に貫手を突き刺した。
傷口から血が湧き水のように出てくる。それを確認するに少しは効いたか――と思ったが、それは甘い見立てだった。
「何!?」
痛がる素振りをまるで見せない。悶え苦しむどころか、俺の眼を見て淡泊に微笑んでいやがる。こんな奴は見たことがない。
「お、驚いたな。ここまでタフかよ」
「驚いたのはこちらの方だ。よもや指で人体を物理的に突き刺せるとは。さては空手か何かをやっているようだ」
無駄口を叩く余裕もあるのか。驚愕を通り越えて面白いとすら思えてきた。俺としては意地でも吐かせてやろうという気分になってくる。
「うるせぇよ。テメェが我慢強いのは分かった。けど、何処まで耐えられるか見ものだぜ。おいっ! あれを使うぞ!」
俺の号令で酒井が準備を始めたのは通電装置。いわゆる電気ショックで、アメリカのNSAや日本の公安警察といった各国の防諜機関で実際に使われている本物の拷問機材である。こういった場面に備えて恒元が購入していたものだった。
「最初は100ボルトからだ。行くぞ」
頑固そうな黒いカテーテルを捕虜の鼻腔に差し込み、それを装置に繋ぐ。スイッチを押すと……。
――バチバチバチッ!!
電流が弾ける音が響き渡り、男の体が痙攣を起こす。何かが焼け焦げる匂いも室内に漂う。普通に考えれば相当な激痛のはずだが。
「……」
例によって表情を変えない男。
「そうかい。じゃあ、110ボルトな」
「……」
「120ボルトだ」
「……」
「150ボルト。こいつはどうだい」
「……効かんな」
有り得ない。常人であればとっくに悲鳴を上げている電圧だというのに。この男の耐久力は化け物なのか。
「おいおい。痛くねぇのか?」
「ちっともな。私にとっては痒くもない」
「な、何て野郎だ」
かつて東欧の戦場で反乱軍の拷問に立ち会った際には、こうした鼻腔内への電流拷問はかなりの効果を上げていた。どんなに強情な奴も激痛には堪らず屈していたのだが。俺は目の前の男が信じられなかった。
「機械が壊れてるんじゃありませんか?」
首を傾げながらダイヤルを上げようと試みる酒井。その動作が横目で視界に入ったので俺は慌てて止めた。
「駄目だ。それ以上は無駄だ。痛みのチキンレースになる」
「何を仰いますか! ここまでやって、今さら引き下がることは無いでしょう!」
「こいつは情報源なんだ。背後に誰が居て動いたのかを突き止めなきゃならん。殺しちまったら元も子もねぇんだよ」
「いや、そうだとしても……」
不満そうな様子の酒井をどうにか押しとどめ、俺は男に問うた。
「なあ? 名前くらいは教えて貰えねぇか? お前さんがどれだけタフかは知らんが、このままいたぶられ続けるのも嫌だろう?」
その言葉を男は笑い飛ばした。
「別に。このまま数時間くらい痛めつけてもらっても構わないさ。それで情報を吐かせることができたら大したものだよ」
「お前、マゾヒストなのか?」
「この私の辞書に『痛み』の二文字は無い。それだけだ」
嘲弄するがごとき薄い微笑みに、傍らで見ていた酒井が激昂した。
「貴様! 侮りやがって!!」
そうして酒井はコントロールパネルに手を伸ばし、電圧を一気に上昇させた。俺が制止する間もなく機械は作動。その結果は言わずもがな。
――バンッ!!
物凄い音と共に、何かが弾ける衝撃が空気を伝う。男の体は激しく揺さぶられる。300ボルトほどの電気が流れたようだ。
「馬鹿野郎! 何をやってやがる!」
部下の勝手な行動を俺は叱責する。だが、時既に遅し。吊り下げられた捕虜はすっかり気絶してしまっていた。
「まっ、まずい!」
殺してしまってはいけないと思ったのか。浦田が慌てて男を介抱しようと近づく。俺はそこへすかさず待ったをかけた。
「止せ! まだ駄目だ!」
「えっ?」
ちょうど、その直後。
「ぶるあああああああああああっ」
捕虜の体に触れた浦田が激しく弾き飛ばされ、床の上を転がる。言わんこっちゃない。今まさに電気を流したばかりの体にふれてしまったら一緒に電撃を食うに決まっていよう。
「ああっ……ああっ……」
幸いにも浦田は意識を保っている。大事に至らなくて良かった。俺はホッと胸を撫で下ろす。
「はあ」
とりあえずは捕虜の救護だ。電流を止め、酒井と原田に天井から降ろして地面に寝かせてもらう。呼吸はあるので心臓マッサージは必要ない。
「兄貴ィ。こいつ、大丈夫っスかね?」
「兄貴じゃない。次長だ。見たところ問題なさそうだな。人間、気合いで痛みに耐えても体がそれについてこれなきゃダウンしちまう。さしずめ全身の神経が電流の負荷に堪えかねて気絶したんだろう」
「なるほどぉ……」
捕虜のタフさに感心する原田はさておき、俺はこの囚われの人物はそもそも痛みを感じることが無いのだろうと推測した。いわゆる痛覚が存在しないのである。先刻、赤坂のバーで俺と戦った際、こちらの攻撃を食らっても顔を歪めなかった点を踏まえれば道理だ。
「次長。これからどうします?」
「拷問が効かねぇんだ。何か他の手段を考える他ねぇだろ」
「でしょうね」
「そんなことより酒井、さっきはどうして俺の命令を無視した? 俺は『それ以上は駄目だ』って釘を刺しといたはずだが?」
「それは……」
俺の追及に酒井が口ごもった。勢い余って電流のレベルを上げてしまったのなら少しは理解の余地がある。だが、彼はあの時点で一度機械から手を放していた。にもかかわらず再びダイヤルに触れたのはいただけない。ここはきっちり叱っておかねば。
「お前、さっきはこいつの言葉にキレたように見えたぜ。気持ちは分かるがああいう場じゃ自分を抑えろ。相手を感情任せに痛めつける行為を拷問とは呼ばない」
「……それについては俺の出過ぎた真似と言わざるを得ません。すみませんでした。けれど、あの舐めた態度は許してはならないと思いますが?」
「馬鹿野郎。目的は情報を聞き出すことであって、こいつに落とし前を付けることじゃねぇだろうが。お前は時々そうやって手段と意図があべこべになるからいけない」
「……」
「真面目過ぎるんだよ。俺たちは執事局。会長の手足となって働くことだけを考えてりゃ良いんだ。自分のメンツだの、余計な考えは要らない。捨てろ」
能天気で何も考えていない原田も大概だが、酒井は酒井で何かにつけて極道としての名誉を守ることを優先するきらいがある。結局のところ彼が一言多くて周囲と揉めるのはそれが理由だろう。過剰な自負心の強さ以外に目立った欠点は存在しないというのに。
「……自分は極道になるために生まれてきたような男です」
「ああ。噂によりゃあ、お前は酒井の親分さんが50を過ぎてようやく授かった一人息子だっけか」
「おかげでガキの頃から『舐められたら終わり』だと教え込まれて来ました。その言葉の通りに肩で風を切って生きる父の姿に憧れたから、俺もそういうヤクザになりたいと思った。間違ってたというんですか?」
「別に間違っちゃいない。ただ、メンツはメンツでも自分のと組織のでは違うって話よ。俺たちの場合は後者を重んじなきゃならねぇだろうが」
さて、ここからどう説諭してやろうか――と思っていると、部屋のドアが開いて聞き慣れた声が耳を伝った。
「おはよう。諸君。朝から精が出るね」
恒元のお成りのようである。
「おはようございます! 会長!」
「ああ、そのままで良い」
俺を含めて居並ぶ者たちが一斉に頭を下げると、恒元は片手で元の姿勢に戻るよう促した。何だかんだ言ってこの男には貫禄がある。それは関東の王者が纏う殺気といえようか――同じ空間に居るだけで身が引き締まる思いに駆られるのだ。
「涼平。この男からは何か聞き出せたかね?」
「いえ、何も。なかなか口が堅ぇみたいで。さっき痛めつけてたら加減をミスって気絶させちまいました」
「ふむ……なるべく早く口を割らせろと言いたいところだが、こういう思想だけで動く男は厄介だろうね。しぶとくて仕方ない」
「というより、こいつには痛覚ってもんが無ぇんだと思います」
「何だと?」
目を丸くした恒元に、俺は今までの流れを全て説明した。
「なるほどな。それはなかなか興味深い」
話を聞き終えた直後に会長が見せた顔は、まるで珍しい動物を見つめるかのようなそれであった。まったくもって自然な至りだ。痛覚が存在しない人間などはそうそうお目に掛かれるものではないのだから。
「痛みとて感覚の一部だ。何かのきっかけで神経障害を引き起こせば痛みを感じなくなることもあるだろうね。もっともこの男がどういう経緯で痛覚を忘れたのかは分からんが」
「へぇ。勉強になります。痛みを感じねえなら、弾丸を食らっても怯まずに戦ってられるんですかね。羨ましいような。羨ましくねぇような」
「一方で痛みを感じなければ負傷に気付かず、手当てが遅れて出血多量に陥ることも有り得る。要は痛し痒しだろう。何事にも利点と欠点があるものだ」
「確かに……」
是非はともかく、この捕虜が痛みを感じない体というなら今後の扱い方も変わってくる。拷問が通じない以上、こちらとしては如何に情報を聞き出すかを再検討せねばなるまい。現に未だ男の名前すら分かっていないのだから。
「まあ、気長にやると良いよ。我輩が思うに彼はほぼ確実に大皇連だが、仮にそうだったとして先方を問い詰めるのは面倒だ。右翼とは出来る限り揉めたくない」
「じゃあ、こいつは遠からず解放しますか?」
「いや。とりあえず身柄は取っておきたまえ。これから交渉を行う時の人質あるいは外交カードになるかもしれないからね」
何とも恒元らしい考えだった。
「なるほど。分かりました。では、そのように」
「よろしく頼んだよ。我輩は朝食が済み次第、ゴルフへ行ってくる」
そう言って会長は部屋を出て行った。今日は午前中から奥多摩のカントリークラブで予定があるとのこと。何とも自由気ままな人だ。
「あれ? 今日は理事会の日じゃ……?」
そんな事はお構いなしとばかりに別宅へ戻る恒元を慌てて呼び止めるが「適当に計らっておくれ」の一言ばかり。俺も声を上げるのが遅かったと思う。恒元がゴルフに行くという意志は変わらず、午前8時頃には総本部を出発してしまった。
無論、会長が理事会を放棄するのは前代未聞のことであった。
「はあ? ゴルフに行った!? 何とまあ勝手な……」
「本人がそうしたいってんだからしょうがねぇだろ。けど、こうやって重要な会議を放棄するのは迷惑だよなあ」
「所詮は三代目もご気分次第で生きておられるということだ」
「そうだな。前に眞行路の野郎を罵ってやがったが、あいつだって人のことを言えねぇってわけだ。関東甲信越二万騎の王ともあろう者が情けない」
「ああいうのが会長じゃ組の先行きが心配になる」
理事会にやって来た御七卿の面々からは当然のように不平の声が上がる。ただ、そんな中でも一人だけ違う男がいた。本庄組長である。
「まあまあ。落ち着いてくださいや。兄さん方。こうして理事会に穴ァ開けられるんは確かに迷惑やけど、えらく重要な相手とゴルフ行ったんと違いますか? だいぶ前からの先約やったさかい断れへんかったとワシは思いますで」
どういうわけか恒元を庇う本庄。会長への忠誠心などはとっくに消え失せているはずなのに。不思議に思いつつ、俺は火に油を注いだがごとく不満をぶち上げる御七卿……いや、御六卿たちを当人不在の会長席の横から見据えるしかなかった。
「ったく! 今日は眞行路の処遇をどうするか決める日だったってのによぉ! よりによってゴルフだと!? 冗談じゃねぇ!! 情けなくなってくるぜ!」
苛立ち任せに机を叩いた篁理事長の愚痴が響き渡り、程なくしてこの日の理事会は閉幕した。篁の本音はさておき、俺が良くも悪くも聞き過ごせなかったのは五反田の蠍の発言だ。いつもの彼なら恒元の気まぐれに不快感を覚えそうなものだが。一体、どういう風の吹き回しか。
終了後、会議室から退出するところで声をかけてみる。
「意外だな。あんたが会長の肩を持つなんて」
薄ら笑いを浮かべた俺に、本庄は眼光を鋭くさせてにじり寄ってきた。
「何や? おどれ? そらぁワシがいつも会長を鬱陶しく思うとるみたいな言い方やないか?」
「ああ。日頃のあんたを見てるとな。こうもいきなり律儀になられたら何か裏があるんじゃねぇかと思っちまうぜ」
「アホ抜かせ。親分のすることに黙って付いて行くんはヤクザの筋やないけぇ。おどれの節穴みたいな目にどう見えてんかは分からへんけど、ワシはワシなりに会長の仁義通してるつもりやで」
「何が仁義だよ。いつも露骨に反抗してるくせに」
返ってきたのは舌打ちだった。
「けっ。何も分かってへんのに知った風な口を叩くなや。おどれがホンマの会長の忠臣いうんならゲスの勘繰りしてんと、もっと他に考えることがあるやろ」
そう吐き捨てると、本庄は去って行く。俺は暫し考え込んだ後で脳裏に独り言を浮かべてみる。
あの男のことだからきっと何か企んでいる――。
それから数十分後。一旦、寮の自室へと戻ったところで携帯に着信があった。
「はい。麻木です」
『ああ、出てくれて良かった! ちょうど君を呼びたいと思っていたところなんだ! すぐに来てくれるかね?』
電話の主は恒元。いつになく上機嫌な様子である。いささか酒に酔っているのではと疑いたくなるが、今はまだ午前中だ。
「ええっと、奥多摩のゴルフ場ですよね?」
『ああ。青梅カントリークラブ。なるだけ早く来てくれよ』
「そっちに行くのは構いませんが。会長、酔ってるんですか?」
そこで通話は切れてしまった。
「はあ。あの変態ジジイ、昼間から飲んでやがるのか。今度は俺に何をさせようってんだよ」
会長直々の招集なら行かねばならないが、あの調子ではまた何かろくでもないことが待ち構えているような気がしてならない。挙げ句、昼間から酒が入っていたとなれば尚更だ。
しかし、ここは行ってみるしかあるまい。ゴルフ場には才原が護衛として付いていたと思うが、万が一の有事があっては困る。
そうして俺は手隙の助勤に3名ほど声をかけて青梅へと向かった。
「おおっ! やっと来たか、涼平! 待っていたよ!」
案の定だった。
クラブハウスのVIP専用休息スペースで寛いでいた会長の頬は赤い。これは5杯は飲んだなと、ひと目見ただけで分かるほどに。
「どうだね? お前も一杯やらんかね?」
恒元が片手に抱いていたのは普段よりご愛飲のフランス産ブランデーの瓶。すっかり出来上がってしまっている。彼に限らず、酔っぱらいの相手は面倒だ。
「いや、俺は結構です」
「そう言わずに飲みたまえよ。美味いぞ」
「……」
吐息の酒臭さに辟易とさせられるが、こうも間近に迫られては断りきれない。心の中で深いため息をつくも素直に応じる他なかった。
「……分かりました。頂戴しますよ」
嬉々としてグラスに酒を注ぎ入れる恒元。口移しで飲まされないだけまだマシだろう。だとしても不快感は拭えない。
並々ならぬ嫌気と共にカルヴァドスを唇の奥へと流し込んだ俺であるが、いざ飲んでみると不味くはない。あの独特の青りんごの豊潤な甘みが舌を潤してくれた。
「どうだね?」
「良くはありませんが、悪くはないですね」
「ははっ。そうだろう。そうだろう。お前なら気に入ってくれると信じていたよ。それでこそ我輩の涼平だ。嬉しいな」
気に入ったわけではないのだが。まあ、ここで訂正するのは面倒なので勝手に喜んでくれるならそれは別に構わない。
「ところで? 何でまた俺を呼んだんです? わざわざお酒を馳走するために奥多摩くんだりまで来させたわけじゃないでしょう?」
「うむ。実はな、お前に会わせたい人がいるのだよ」
誰なんだよ――ぶっきらぼうな返事を投げようかと思った矢先、俺の背筋を衝撃が走る。恒元の言う“会わせたい人”の正体。便所から戻って来たその人物は、こちらの想像をはるかに超えていた。
「えっ、あんたは……!」
ポマードで固めた白髪交じりの頭に端正な顔立ち。いかにも高貴な初老の紳士と言った見た目の男性であるが、その辺のおっさんとは訳が違う。彼は政治関連のニュースを報じるテレビや新聞ではお馴染みの超有名人だった。
和泉義輝。政権与党所属の衆議院議員にして現内閣のまとめ役、つまりは官房長官を務める大物政治家だ。
「ん? 誰だね、そいつは?」
それが和泉から俺に放たれた第一声であった。
「紹介しよう。彼は麻木涼平。うちの幹部で、我輩の左腕だ」
「へぇ。見たところかなり若そうに見えるが、あんたのところはそれくらいの若造でも幹部に据えているのかい」
「幹部と言ってもまだ直参の組長じゃないがね。彼はなかなかよくやる男だよ。そこらの21歳の若者とは比べ物にならん」
少々、買いかぶり気味に俺を紹介する恒元。当の俺はと言えば緊張気味だった。こちらをジッと睨みつける和泉の様子に、少したじろいでしまったからである。相手が国政の第一線で活躍する大物代議士だからではない。この和泉義輝官房長官は、俺が5年前に起こした横浜市議会襲撃事件で失脚した当時の横浜市長――和泉義孝の兄にあたるのだ。
とりあえず、挨拶をせねば。
「……ご紹介に預かりました。中川会執事局次長の麻木涼平です」
改めて俺が名乗ると和泉はフッと笑った。
「君、挨拶が遅いんじゃないのかな。親分に紹介される前に自分から名乗りなさいよ。それが社会の常識ってもんだろうよ」
「申し訳ありません」
「フフッ。まあいい。出会って早々の無粋な小言はこのくらいにして、君には礼を言わなきゃならないねぇ」
「礼とは?」
第六感で察しが付いてゴクリと唾を呑み込む俺。けれども、次いで和泉から出てきた言葉は、俺が予想していた皮肉や嫌味ではなく、純粋なる感謝の台詞であった。
「僕の弟を横浜市長から降ろしてくれてありがとう。おかげであの時はせいせいした気分だったよ。子供に戻ったように胸が躍ったものだ」
緊張と困惑で固まる俺に、恒元は言った。
「こちらの義輝は弟さんと仲があまりよろしくなくてね。もう何年も直接口を聞いていないくらいだ。兄弟だというのに呆れたもんだろう」
すると、和泉が口を開く。
「兄弟だからって誰もが仲が良いとは限らない。特に、うちのような名家中の名家ではね。親からの目の掛けられ方から本人の出来、不出来に至るまで、あらゆるところでどうしても競い合ってしまう宿命なのさ」
「もっと仲良く付き合えば良いのに。せっかく兄弟そろって政治家をやってるんだ。理念も似たり寄ったりなわけだから、個人的な遺恨は捨てて手を取り合えば良いものを」
「簡単に言ってくれるけどね、恒元。子供の頃から背負ってる因縁なんてのはなかなか下ろせないんだよ」
「どうして?」
「僕はずっとあいつが気に入らなかった。僕より頭が良くて、顔も良い。おかげで父は何かにつけてあいつと僕を比べる。周りの奴らも……」
「だから、そういう感情はいい加減に割り切ったらどうだねと言っている。君も還暦が見えてきた齢だ。少しは大人になりたまえよ」
「かくいうあなたも兄を殺して中川会三代目の座を射止めたじゃないか。兄弟で争う者たちの気持ちは分かるはずだぞ」
「ははっ、それを言われちゃ返しようが無いな」
半ば冗談っぽく皮肉交じりの談義を交わす恒元と和泉代議士の姿を俺は黙って見ているしかなかった。ふと頭の中をほのかな懸念がよぎる。巨大犯罪組織の会長をファーストネームで呼ぶ和泉の豪胆さよりも、ひどく気になることがある。
尋ねずにはいられなかった。
「会長。この政治家センセイはどこまで知ってるんですか?」
「何がだね」
「5年前の件です。さっき俺に『ありがとう』と仰ったとなりゃ、事の真相をあらかた把握済みと考えるのが普通でしょう。単刀直入に伺いますが会長は長官に教えたんですか?」
すると、恒元の代わりに和泉が問いに答えた。
「教えられたも何も。あの事件の後始末をしたのは、この僕なんだから。そもそもあれは僕が恒元に頼んだようなものだし」
こらまた思わぬ事実が出てきたものだ。あの清原暗殺の絵図を描いたのは自分だと明かす和泉官房長官。何を隠そう、弟の義孝を追い落とす策略として中川会に話を持ちかけたのだとか。
「ちょうど義孝が『暴力団の根絶』とかいう馬鹿げたことをやり始めたもんだからねぇ。ちょいと灸を据えてやったのさ」
証人喚問の真っ最中に証人が、それも議場内で暗殺されるという前代未聞の事件。この影響は当然ながら大きく、事件後に和泉義孝は責任を問われて横浜市長を辞任するに至った。
「まあ、それから数か月後で息を吹き返して神奈川県知事に選ばれたのは予想外だったが。市長職を辞した時の義孝の泣きっ面は、そりゃあもう滑稽だったよ。立場上、僕はノーコメントを貫いたけど本音では笑いたくてしょうがなかった!」
「……あんたの弟さんへの妬みはともかくとして。たまげたもんです。あれはてっきり俺が何から何まで自分の頭で考えて事を成したもんだと思ってましたんで」
「ふふっ。世の中そう単純ではないということだ」
この政治家は遠回しに俺を小馬鹿にしてはいまいか。話を聞いていると、自分が単なる政争の具として掌の上で踊らされた間抜けな存在だと言いたげだ――そんな思いに駆られて渋い顔で沈黙した俺に「だけど」と前置きし、和泉は続けた。
「君の活躍は見事だったよ。厳重な警備を突破して、清原を殴り殺してのけたんだから。あんな芸当は今どきCIAの工作員にもできないよね」
「そうですか。お褒め頂きありがとうございます」
軽い調子でコクンと頷くと、和泉が苦笑する。
「おいおい。もっと喜んでほしいなあ。あの後で警察庁に圧力をかけて捜査を攪乱してあげたのは、他でもない僕なんだから」
「ええ。その節はどうも」
「法務省に話を通して“朝比奈隼一”という戸籍データを調達させたのも僕なんだぞ。君の代わりに出頭させるスケープゴートを用意するのも大変だった」
「あっ、ああ……」
「多くのテレビカメラの並ぶ前であれだけの事件が起きたんだ。いつまでも犯人が挙がらないまま迷宮入りしてたんじゃ世間が納得しない。だから、警察に身代わりの人間を捕まえてもらうことでようやく幕が引けたというわけだ」
「……」
「もっと感謝して見せろよ。僕がどれだけ隠蔽工作に尽力したと思ってるんだ。まあ、代わりに捕まった奴を留置所での首吊り自殺の体で始末したのは中川会の功なんだがね」
恩着せがましい言葉を前に、俺は文字通り閉口する。
感謝して見せろという台詞は些か理解不能。絵図を描いたのは自分のくせに、何を言っているんだという気分である。この官房長官は俺が過去にケジメを付けるべくして行ったことに乗っかったに過ぎない。
あの時、俺が名乗り出ていなければ「別の者にやらせる予定だった」と恒元は語るが、いまいち釈然としない。どうにも俺は背後に潜んでいた事実関係を受け容れられない。きっとそれは、自分が権力者の体の良い駒として利用されていた現実を認めたくなかっただけなのかもしれない……。
いくら考えても、そうとしか思えなかった。
その後、恒元と和泉が複雑な権力闘争の原理に基づく身勝手な話をしたが俺は聞き流すだけ。奥多摩くんだりまで呼び出しを受けた時点で確定済みだったが、大いにげんなりとさせられた。蒸留酒を飲んだばかりというのに、まるで酔いが回らない。
いい加減に帰りたくなってきた。
「……ところで、会長。俺を呼び出したのはゴルフに参加させるためですか? それとも5年前の衝撃の真相を知らせるためですか?」
「ああ。すまない。くだらん雑談にかまけて、本題を伝え損ねていたよ。第一の目的は君を義輝に会わせることだった。ヤクザをやっていれば政治家との付き合いは避けて通れんから今後のためにもね」
「で、第二の目的は?」
「それはコースに出てクラブを握りながら話すとしよう。我輩のみならず、中川会全体の未来を左右するビッグ・プロジェクトだ。君の力も欠かせないぞ」
どうやらまだまだ赤坂へは戻れない模様。
俺にゴルフウェアに着替えて来るよう申し付けた恒元は、氷を入れたバケツで冷やしていた2本目の酒瓶を開ける。
上流階級、とりわけ欧州貴族の人々は酒を嗜みながらホールを回るのがお約束というが、この日の恒元はだいぶ酒が進んでいる。
競技を始める前からこの調子だ。彼の云うビッグ・プロジェクト、くわえてこれからここにやって来るであろうゲストはよっぽどの特別なのだなと察して俺は着替えに向かった。
「ったく。何で俺がこんな事を。大体、平日の昼間だぞ。現職の官房長官が平日の昼間から油売ってて良いのかよ。少しは国民のために働けっての」
どうにか抑えようと思っていたが、ついつち口をついて出た独り言。ロッカールームでの着替えが本当に億劫で仕方がなかった。
とはいえ、ここまで来たら応じる他ない……。
「会長。お待たせしました」
「おお、なかなか様になっているな。売り出し中のプロゴルファーなんぞよりよっぽどそれらしく見えるぞ」
「ええ。どうも」
ポロシャツとスラックスにシューズ、そしてキャップ。この日の催しに俺を混ぜるべく恒元がわざわざ買ってくれていたという。それは有り難いが、ゴルフは今の今まで殆どやったことが無い。
「俺、たぶんまともに打つことも出来ねぇと思いますよ?」
「その辺は気にしなくて良い。良いスコアを出そうなどとは考えるな。適当にクラブを振ってるだけで構わんよ」
「んじゃ、足を引っ張ったらご勘弁を」
ゴルフというのは何とも胡散臭いスポーツだ。できることならクラブハウスでサボっていたい――そんな夢見がちな勘違い男には目もくれず、早くも手を引っ張ってコースに出た恒元。そこに集っていた面々がまた俺の度肝を抜く顔ぶれであった。
「……全員、テレビで観たことがありますね」
「そりゃあそうだ。この国で一と二を争う大企業の経営者ばかりだからな。だからといって気後れするんじゃないぞ」
「分かってますよ」
業界最大手『トクダ自動車』の総帥や旧財閥の影響力を残す『日本勧業銀行』の頭取、さらには米国の某資産運用会社における日本法人の代表までもが一堂に会している。信じられない布陣だ。その中でもとりわけ目を引いたのが、でっぷりと太った禿げ頭の男――人材派遣会社大手『パーソン・ジャパン』代表取締役社長CEOの竹取久兵衛だった。
「お待ちしておりましたぞぉ、中川の親分。それから和泉先生」
竹取が恭しく下げるのと同時に、野外に響き渡る全員の挨拶。冷静に考えれば考えるほどに目の前の異様な光景を幻のごとく感じてしまう。
「ご苦労さまでございます!!」
おまけに今日は和泉官房長官までいるのだ。中川会の会長ともなればこれだけ豪華な面々と一緒に芝生を回れるのか。俺は暫く呆然としていたと思う。
「それじゃあ始めようかね」
恒元の一声でプレイが始まる。ゴルフの作法も何も知らない俺だが、とりあえずは見よう見まねでクラブを振った。
「おお、良いぞ。その調子だ」
俺の拙いスイングを見た恒元が嬉しそうに褒める。
だが、俺は内心ヒヤヒヤしていた。だってそうだろう? ゴルフのルールすらロクに知らないのだ。なのにいきなりコースに出よとは無茶というか狂気的というか……。
打球がお歴々に直撃してしまわぬものか気が気でなかった。
「……」
緊張のあまり硬直してしまう。そんな若者の様子を見かねたのか、竹取社長が揶揄うように声をかけてきた。
「ほら、そこの若いの。もっと楽しそうに打たないか。せっかくの雰囲気が台無しだろうがあ」
「すみません。今日が初めてなもので」
「まったくぅ。これだから最近の若者は肝っ玉が小さくて困るよぉ。ゴルフくらい嗜めないようじゃ出世はできないぞ」
随分と馴れ馴れしい口調に辟易させられる。
ちなみに、この竹取久兵衛という男は1999年の労働者派遣法改正で最も得をした人物といわれている。世の企業が契約社員枠を増やせるようになった大規模規制緩和は、人材派遣業を営む彼にとってはまさしく棚から牡丹餅。あまりにも都合の良い展開に、当時は「パーソン・ジャパンの竹取が当時の内閣と結託して法改正を行わせたのではないか?」と疑う報道も多かったそうな。あの頃の俺は日本に居なかったので、よく分からないのだが。ただ、少なくとも企業が労働者のクビを切りやすくなったことで社会に失業者が溢れる中、この男だけが良い思いをしているのは確固たる事実だ。
「……申し訳ありません。ゆっくりとゴルフをやろうにもシノギにかまけて時間を取れないのです。食うに困って闇金を頼る奴が増えたから俺らの業界も儲かって仕方ありませんよ、どこかの誰かが派遣法を改正してくれたおかげでね」
気付けば嫌味を放つ俺が居た。
「何だとぉ? うちの会社のせいだって言いたいのかぁ?」
「そう受け取られたなら申し訳ない」
「何も知らん若造がデカい口叩いてんじゃないよぉ」
竹取も竹取でだいぶ酒が入っているのか、少々テンションが高くなっていた。仮にもヤクザである俺にまったくビビらず食ってかかれるとは。この男はアルコールで人柄が変わるタイプの男と断じて良かろう、
「第一にぃ、あれはだなあ、アメリカからの要求であってぇ、うちの会社が仕掛けたもんじゃないんだわ」
途中で何度か噛みながらも説教を止めなかった竹取。恒元が笑う中、今度は和泉が俺に絡んできた。
「ええっと。麻木君、だったか。君は年次改革要求書というものを知っているかい?」
「いいえ。ですが、名前からして大方の想像はつきます。アメリカが属国と見下す日本にあれこれ要求を突きつけてると」
「だいぶ語弊のある言い方だけど……まあ、そういうことだな。実質的には。我が国はあの国に逆らえた試しが無いんだ」
冗談めかしたやり取りになるかと思いきや、思いのほか真剣な顔で語った和泉。その言葉に他のVIPたちも深々と頷いていた。
「けれども僕は希望を捨てちゃいない。いいなりになるしかないなら、その中で最大限に足掻いて国を盛り立てたいと思ってる。昨今の要求書も別の角度から考えれば日本を欧米基準の自由主義国に作り替える絶好の機会でもあるのだから」
物は捉えようってやつか。国内制度を軒並みアメリカナイズすることが果たして理に適っているかはさておき、この官房長官の国家を思う気持ちは本物のようだ。我田引水の甘い汁を吸うことしか頭に無い竹取社長らとは違うのだと分かる。
尤も、好きな部類の人間ではないのだが。
「今度の改革では是非とも君たち中川会の力を借りたいと思っている。この国の古き伝統を打ち壊す、革命にも等しい政策だからね」
「それで? 何をしようってんです?」
「郵便制度の完全民営化だよ」
「ほう……?」
現在、日本郵政公社が行っている郵便、郵便貯金、簡易保険の郵政三事業を完全に民営化する――まさに前代未聞の改革である。あまりにも大それた話に俺は戸惑った。
「今の日本の郵便局は民間企業のそれに比べて非常に非効率的だ。職員の数が多すぎて人件費もかさんでいる上に、過疎地や離島ではサービスを維持できなくなってきている。いっそ民間にやらせた方が税金の無駄を省ける」
「分かりますよ。けど、サーボスの質云々で考えるなら民営化してしまうと却って利用しづらくなるのでは?」
「確かに料金は高くなるだろう。それでも、万単位の準公務員をこのまま国家で養い続けるよりかはずっと国民の負担は減る。総理もそのようにお考えだ」
小柳紳一郎首相の若き頃からの信念であり悲願である郵便事業の民営化。国家が抱える膨大な負債を解消するためには「官から民へ」を推し進めるのも合理的だと思うが、果たして成就するのやら。郵政公社はかつて郵政省と呼ばれていた旧官庁であるだけに大きな反発が予測される。
「ひと筋縄では行かないと思います。元役人どもは猛反発するでしょう。権益を喜んで手放したがる連中なんざいませんぜ」
「織り込み済みさ。そこで君たち中川会の出番なんだよ。僕が何を頼みたいかは分かるね?」
「……反対派を軒並み始末しろと」
「その通り」
指をパチンと鳴らし、和泉は言った。
「郵政民営化に反対する学者、ブン屋、活動家を片っ端から血祭りに上げてくれ。方法は問わん。世論に影響を与えそうな奴を消すんだ」
「なるほど」
「ただし、議員は殺すなよ。総理も流石にそこまでの破壊は考えちゃいない。僕らがヤクザを使ってると有権者に騒がれたら困るからな」
郵政改革法案を国会に提出する閣議決定までに反対しそうな有識者を軒並み粛清するよう依頼された。和泉の言葉尻からして、この件は小柳総理も内諾済み……というより総理直々の意思でもあるのだろう。あの首相もテレビで見せる高潔な印象に反してなかなか物騒なことを考えやがる。
「フッ、そいつはまたけっこうなことで」
苦笑いで応じた俺に、そこまで沈黙を保っていた恒元が口を開いた。
「涼平。こんな話を義輝がわざわざお前に面と向かってする意味が分かるか?」
「ええ。何となく。要は、俺にその暗殺作戦の音頭を取れってんでしょう」
「そうだ」
和泉をはじめ、周囲に並んだ竹取社長ら政財界の大物らを一瞥し、恒元は尚も続ける。
「お前の手腕を見込んでのご指名だ。皆、お前には並々ならぬ期待を寄せている。やってくれるな?」
「へっ。お安い御用です」
俺は即答した。もとより断る選択肢など有りはしないが、こうも真正面から依頼されては引き受ける他ないではないか。ヤクザ稼業に足を踏み入れたからには、こういう汚れ仕事は避けて通れぬもの。こんな時に今さら嫌がったりはしない。
そもそも今回の案件は恒元としても俺を使う他ない話と思う。御七卿以下有力幹部たちの統制が取れていない現時点において、会長が信用できるのは執事局だけ。うっかり直参に命令を下そうものなら何処から情報が洩れるか分かったものではないのだ。
特に御七卿はその歴史が中川会本家よりも古いため、旧体制側とは浅からぬ繋がりがあると考えるべき。彼らが古狸たちと結託する前に出来るだけ早く事を進める必要があった。
「麻木君」
大方の事情を悟ったところで、和泉官房長官が再び声をかけてきた。
「今までの活躍は恒元から聞いている。是非ともよろしく頼むよ。今回の改革は君の双肩に懸かっているといっても過言ではない」
「ええ。全力を尽くしますよ」
「政治をやるには強大な暴力と財力が欠かせない。その両方を持つ極道こそが今の僕には必要なんだ。会長と共に力強く支えてくれんか」
俺は頷いた。
「勿論ですとも」
綺麗事だけで国は動かせない。政治家とヤクザは公と私を司る表裏一体。この二つが手を組んで、初めて世を導くことができるのである。
「さあ、難しい話は終わりだ。今日はせっかくの良い天気なんだ。皆でゴルフを楽しもうじゃないか」
恒元が手を叩きながら促すと、VIPたちがぞろぞろとコースに戻っていく。
「麻木君。君もおいでよ」
和泉に誘われるがまま俺も立ち上がる。すると竹取社長が近づいてきて俺の耳元に顔を近づけたかと思うと、小声で話を振ってきた。
「君さぁ。官房長官が何で君たち任侠者をアテにするか、分かるかぁい? 政権のために殺しをやらなきゃいけないならそれ専門の機関が内閣府の傘下には仰山あるってのにぃ」
おそらくは内閣情報調査室――いわゆる内《ちょう》のことを云っているのだろう。傭兵時代に何度か関わったことがあるが、内調は国内外の至る所に工作員を送り込んで必要に応じて荒事も実行する凄腕の特務機関。確かに、普通に考えれば国策に反対する者を秘密裏に処刑するくらい朝飯前のはずだ。
そんな殺しの集団を抱える政府のナンバー2たる官房長官が、敢えて彼らではなく中川会に裏工作を命じる理由とは……?
ほのかに予想は付いていた。
「まあ、和泉先生は俺たちに頼むほか無いでしょうね。内調にやらせれば内閣府全体の手柄になっちまうわけですから」
「そうだよぉ。つまり、あの人は手柄を独占したいのさぁ。郵政民営化の最大の功労者としてポスト小柳に就くためにねぇ」
小柳首相を頂点に戴く自由憲政党の総裁任期はあと1年と10ヵ月で満了を迎える。自憲党は党規約で総裁が連続して3選されることを禁じているため、再来年の秋を持って小柳内閣は終了し、新たな総裁を決める選挙が行われることになる。
一世一代の大改革である郵政民営化を総理の最側近として成し遂げたとあらば、それはもう総裁選における絶好のアピールポイントとなろう。旧華族の名家出身の和泉が胸を躍らせないはずが無い。彼が次の総裁選を標的に定めていることは明白だった。
「君が知ってるかどうかは分からないけどぉ、和泉先生の御父上の義実先生とお爺様の義章先生は共に首相を務められた」
「ほう。じゃあ、もし仮にあのセンセイが次の総理に就任すれば和泉家は祖父から孫まで三代に渡って首相を出したことになりますね」
「うん。明治以降、親子二代はあっても一族三代での総理就任は未だかつて無いからねぇ。和泉先生が総理の座を欲しがらないわけが無いよぉ」
「あの人は一族の栄光も背負ってるってわけですか」
「それだけじゃない。何より官房長官は弟さんに負けたくないのさ。現状、和泉家の中ではご嫡男でありながら影が薄いからねぇ」
そういえば以前に週刊誌の記事で読んだことがある。行政改革に積極的で県民から高い支持を集める弟の和泉義孝神奈川県知事を「和泉家の最高傑作」などと賞賛する文面を。品性もへったくれも無い三流誌の提灯記事だが、年長者の自分を差し置いて弟ばかりが持て囃される状況は兄として面白いはずもあるまい。
「言っちゃあアレだけど、あのお二方は出来が違うと思うんだよねぇ。兄は受験に失敗した挙句に実家のコネでフランスの大学に裏口で入ったのに、弟は東大に現役合格だぁ。見た目だって義孝先生の方がずっとハンサムでダンディって印象。団子っ鼻の兄貴とは比べるべくもないよぉ。まあ、ハゲとデブを兼ね備えた僕に言われたくないと思うけどぉ、うへへへっ」
ほろ酔い状態で話す竹取社長は少し言い過ぎと思ったが、きっとそれらは本人が最も痛感している。閣僚の最高位たる官房長官を務めてもなお弟ばかりが世間から賞賛される現状――対抗心が芽生えるのは至極当然のことだ。根底で渦巻く「負けたくない」という思いを糧に日夜政争に勤しむ和泉義輝という男を俺は嫌いになることができなかった。
「まあ、何が言いたいかっていうとぉ。せいぜい気を付けてねってことだぁ。官房長官はあくまで君ら中川会を私兵として利用するつもりだからねぇ」
「ご忠告感謝しますよ。お互い、その辺は注意してやっていきましょうや。たぶん和泉先生はあんたら財界人のことも票集めに利用するつもりでしょうから」
「うへっ、うへへへへへっ」
竹取社長はにんまりと笑い、通路沿いに置かれたテーブルの上のワインを飲み干すと再び芝生の上に戻って行った。
「……」
さてさて。気を取り直してゴルフ再開だ。
「麻木君。普段からゴルフはやるのかね?」
2ホール目で5番アイアンを思いっきり打ったところで和泉が尋ねてきた。俺はコクンと頷く。
「いいえ。ほぼ当てずっぽうでやってるようなもんです。見苦しかったらすんません」
「そうかね。初めてにしては良い球を打つなぁ」
もしかして、こういう場に初めて連れて来られた俺を心配してくれたのだろうか。何とも有り難い気遣いだ。自分が大物政治家……それも現職の官房長官と語らっているという異様な状況への違和感は未だに拭えないけれども。
「お褒めに与り光栄です。和泉先生はゴルフ、おやりになるんですか?」
「当たり前じゃないか。これができなきゃ代議士は務まらん。跡継ぎってことで、子供の頃から父親に叩き込まれたものだよ」
「そうですか。だとしたらけっこう長いんですね」
「うむ。しかし、実を云うと僕はゴルフよりテニスの方が好きなんだけどね。接待ゴルフはあっても接待テニスは無いのが残念だ」
「接待テニスですか。うーん、あっても良さそうなもんですが。たぶん無い理由は紳士のスポーツに接待云々は似合わねぇってことじゃないですか?」
「おいおい。それを云うならゴルフも紳士御用達の競技だぞ。まったく君は面白いことを言うなあ、ははっ!」
そして俺たちは笑い合った。
何だかんだゴルフ自体は面白く、5つ目のホールに差し掛かる頃にはすっかり楽しくなっていた。先刻までの憂さは何処へやら。その場に馴染んでしまっている自分に気が付く。
「涼平。初めての芝生はどうだね?」
恒元が満足気に尋ねてきた。
「ええ。思ったより面白いですね」
「ならば良かった。屋内で素振りをするより爽快だろう。お歴々の皆さん方とは仲良くなれそうかね?」
俺は少し考える素振りを見せた後でこう答えた。
「……そうですねぇ。あれこれと政治の裏事情を聞かされて戸惑ってますが、勉強だと思えば楽しいもんです」
笑いが起こった。恒元も周囲に聞かせるべく敢えて大きめの声で問うたのだと思う。まあ、俺としては半分ほど皮肉を交えたつもりだったのだが。
「若いうちは勉強あるのみだ。様々な経験を積むことで人は成長する。これからもどんどん色んな人と出会い、親睦を深めていくといい」
「ええ、そうします」
「ところで、涼平」
恒元は唐突に話題を変えた。どうやらここからが本題らしい。俺は居住まいを正す。
「はい? 何でしょう?」
「実はな。“出会い”とは違うかもしれんが。“親睦を深める”という意味において、今日はもう一人のゲストを呼んでいるのだよ」
「ほう……?」
「そろそろ到着するはずだ。お前も知っている顔だ」
そして恒元がそう云った直後だった。突如としてコース内にどよめきが走ったかと思うと、その直後に俺の耳に聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「あらあら。ゴルフにしては随分と豪華な顔ぶれが集まっていますこと。私なんかが混ざって良いのかしら」
俺は驚きのあまり、持っていたクラブを思わず落としてしまった。次いで、その声の主が誰なのかすぐに理解したところで、今度は心臓が口から飛び出そうになった。
「また会ったわね。涼平」
淑やかな笑みを浮かべ、俺に向かって手招きをしている女――藤城琴音だ! 俺は慌てて彼女の許へと向き直る。
「あ、あんたか。どうして?」
「どうしても何も。私もここへ呼ばれていたのよ。今日は朝から外せない会合があったから途中参加になってしまったけど」
まるで聞かされていない飛び入り参加。VIPな政治家がもう1名来ると思いきや、まさか彼女とは……。
それも藤城琴音。よりにもよって、この女だ。一昨日の晩も、昨晩も、脳内で昂る欲動を押さえ込むのに苦慮したというのに。
ゆらゆらと燃え上がる本能をどうにか我慢せんとする俺をよそに、藤城は軽く一礼して恒元に挨拶した。
「ごきげんよう、会長」
「やあ。琴音。来てくれて嬉しいよ」
「私なんかをこのような場にお誘いくださり嬉しいですわ……あらやだ。つい昨日の夜もお会いしたばかりだというのに、何だか初対面みたい。うふふっ」
えっ、昨日の夜も?
それってすなわち、恒元と藤城は昨日も逢瀬を遂げていたことではないか?
俺は全くもって知らされていない。おそらくは深夜に別宅へこっそり招き入れたのだろう。そう考えると何だか複雑な思いがこみ上げてくる。
こっちは夜通し、藤城のグラマラスな裸体を想像しては悶々としていたというのに……同じ別宅で会長が密かに彼女と交わっていたなんて……。
個人的な痴情を抜きにして立場柄きっちり言っておかねばならないので、僅かに咳払いをして俺は物申した。
「会長。誰かとお会いになるなら、ちゃんと執事局を通してもらわないと困りますぜ。安全確認とかそういうのがあるんですから」
「別に構わんじゃないか。我輩にしてみれば夕食の出前を頼むのと大差ない行為だぞ。娼婦と呼ぶのに毎度のこと面倒は要るまい」
「いや、そうだとしても……」
「何だ? 涼平? 顔が赤いぞ?」
恒元は薄ら笑いを浮かべた。明らかに、こちらの考えていること全てを見抜いた上で訊いている顔。俺は慌てて取り繕うことにする。
「べ、別に。俺は何も」
「ははっ! 結構なことだ!」
豪快に笑い飛ばした恒元と、彼に肩をポンと叩かれて何とも言えず黙り込んだ俺、そして相変らず艶めかしく微笑む藤城。
21歳の若造にしては途轍もなく気まずい空気感が流れ始めたわけだが、それを感じていたのは自分だけではなかった。
「……おいおい。恒元。これはどういうことだね?」
深いため息を吐き、和泉が問いかけた。
「何だい。義輝」
「何だいって、君ねぇ。ふざけているのかい? 彼女が来るなんて聞いていないと言っているんだよ! 僕が藤城ファンドをどう思っているかは知っているだろ? 戯れも大概にしたまえよ?」
官房長官の言葉は、そこに居並ぶ客分らの意見を代弁しているかのようだった。皆、口々に「そうだ」とか「その通りだ」などと、和泉に同調している。
「まあまあ。そうカリカリせずに。この今という時を機に仲を深めれば良いじゃないか」
そう軽く言ってのけた恒元だが、官房長官はなおも食い下がる。
「冗談じゃない。僕は嫌だね。こんな女と親交を深めるくらいなら、いっそ1人でゴルフをした方がまだマシだったねぇ」
すると、そこで藤城が尋ねる。
「あらあら和泉先生? 直接お会いするのは初めてだったと思いますけど。私、何か嫌われるようなことをしましたっけ」
その声色にはどこか挑発的な響きがあった。
「嫌いだね! 大嫌いだとも! 我が国の企業を安く買い叩いて海外へ売り飛ばすような女をこの僕が好ましく思うわけ無いだろう!」
「心外ですわ。私はただ、お金を儲けているだけに過ぎませんのに。先生は『売り飛ばす』などと仰いますけど不良債権を……」
「黙らんか! それ以上口を開くと刑務所にブチ込むぞ! 官房長官ともなれば地検の特捜部くらい簡単に動かせるんだからな!」
藤城の言葉を遮り、顔を真っ赤にして激昂する和泉。その剣幕は爆発する火山を思い起こさせるほどに強烈で、すかさず恒元が割って入った。
「義輝。何をムキになっているんだ」
「うるさい! 僕はこの女が嫌いなんだよ! こいつのせいで近頃は世間に拝金主義の空気が漂いつつある!」
「確かにそれは嘆かわしいことだよね。だが、彼女は何ひとつルールを破ってはおらんぞ。官房長官ともあろう君が検察を恣意的に動かす旨を口走るのはいかがなものか」
その言葉に反論しようとする和泉だったが、彼の口を止めたのは他でも無い藤城本人であった。
「お言葉ですが和泉先生。あなたも私のお金儲けの恩恵に預かっている身ではなくて?」
怒鳴り散らす大物政治家、それも現内閣のナンバー2を前にしても全く動じる様子の無い藤城。流石の度胸と言う他ない。推し測るに花街で水商売をしていた経験が彼女を強者たらしめているのだろう。
「な、何をふざけたことを! この僕がお前の汚い金稼ぎに一枚噛んでいるだと!? 何を根拠にそんなことを!!」
「だってそうでしょう。一昨年の金融再生プログラムで弊社レギンレイヴコンサルティングに不良債権処理を委託したのは、他の誰でもない和泉先生ではありませんか。私はあの時の御恩を骨身に染みつけて覚えているつもりでございますが」
レギンレイヴコンサルティングとは藤城ファンドの中核を為す投資顧問会社で、藤城がCEOを務めている企業。その社名を出された瞬間に和泉の顔色が変わった。心当たりが無いわけではないようだ。
「馬鹿を言うんじゃない! あれは真っ当な銀行に金を出したのであって、貴様らハゲタカどもをのさばらせるための措置ではない!」
「でも、金融庁が各行に指定した増資先には私の名も含まれておりました。それは和泉先生ご自身も重々ご理解されていたのでは? まさかこの期に及んで『藤城を儲けさせるとは思わなかった』とでも仰るんですか?」
「だ、黙れ……!」
小柳内閣が2002年に実施した金融再生プログラムとやらの概要は俺も何となく把握している。融資が焦げ付いて窮地に立たされた銀行を救うために政府が公的資金を投入し、不良債権を一気に処理させようというものだ。結果的に銀行の自己資本比率は向上して経営は上を向いたという。
ただ、事の顛末をざっくり言ってしまえば、借金で首が回らなくなった国内法人が海外資本に軒並み売り飛ばされてしまったも同然。金融庁に推薦を受けた藤城のレギンレイヴコンサルティングも例外ではなく、破綻寸前の企業を安く買い取って外資に売却した。そこで得た利益を元手に彼女は藤城ファンドを設立して現在の億万長者の地位に至るというわけだ。
和泉を見下ろすように笑いながら、藤城琴音は言った。
「それにあなた自身も甘い汁を吸っていたではありませんか。改革を指揮した経済諮問会議の直轄は内閣官房、つまり全てが先生の功績になったわけですから。来る総裁選を見据えた実績づくりとしては十分だったはず」
「だから何だというのだね。政策が成就した際に栄誉を賜るのは所管閣僚として当然だ。褒美を貰って、いけないことは無いだろう」
「その“ご褒美”が問題なのですけどね。あなたは政策実行の見返りに複数の海外投資家から献金を受けているようですねぇ。それも、公表できないほどの額を」
「はあ!? 知らんぞ、そんなこと!」
和泉が血相を変えた。日本企業を手中に収めて最も得をする外資系企業から大金を受け取っていたとの話であるが、真相は如何に。仮に事実であれば官房長官自身も『国の資産を海外に売って私腹を肥やした』ということになるのだが……?
彼は物凄い勢いで否定していた。
「貴様ぁ! いい加減にしておけよ! 僕はそんなことやってない! やるわけが無いだろう! 外資とは距離を置いているんだ! 公私を混同して金儲けに走るは政治家として最もあるまじき行為! 一銭たりとも貰ってなんかいない!」
「ふっ、シラを切っても無駄ですわよ。何せ弊社のヨーロッパの顧客がそう証言しているのですからね。『日本のイズミという政治家に金を払った』と」
「うるさい! やってないものはやってないんだ! そいつがそう語ってると云うなら、きっと何かの間違いだ!」
額に冷や汗をかき始めた和泉。藤城の指摘が図星だったことを物語っている。
「まあまあ。落ち着きたまえよ、義輝。別に彼女は君を断罪しようなどというつもりじゃないんだから」
恒元がそう宥めるも、和泉は止まらない。
「無実の咎を吹っかけられて落ち着いていられるか! 僕はこのハゲタカ女とこれ以上話すのは御免だ! さっさとこの女を追い出せ!」
「あら、それは残念。今日は和泉先生のお役に立つお話を持ってきましたのに。けれども先生のご機嫌を損ねてしまいましたからには仕方ありませんわね」
藤城はそう言うと、手提げバッグの中から1枚の紙を取り出した。
「良かったらお読みになってくださいまし」
それは英語で記された書状。レポートあるいは契約書だろうか。やけに事細かに文が書き連ねられているようだった。
「ああ? 何だ、これは!?」
「私からのほんのささやかな気持ちですわよ。官房長官」
「だから何だと聞いている! さっさと教えんか!」
歯噛みしながら返事を催促する和泉に、藤城が満面の笑みで放った答え――それは度肝を抜くものだった。
「池袋のケニア大使館が本国へ送った電子メールを傍受したものでございます。要約すれば『天然資源採掘事業から日本を排除する』と」
「な……なにぃ!?」
愕然とする和泉。俺も聞いていて耳を疑った。ケニアの駐日特命全権大使と本国大統領との間でやり取りされた内容であるそうだが、こんな代物をどうやって入手したというのか……?
そもそも何故に彼女が持っているのだろう。分からないことが多すぎて困ってしまう。恒元は勿論、竹取社長を含めたその場の全員が呆然としていた。
皆の反応を楽しむかのように藤城は続ける。
「ご覧の通り、ケニア政府は『日本にはハーフメタル採掘から手を引いてもらう』と言っています。代わりには中国を充てるようです」
「いやいや! ちょっと待ってくれ! 話が見えない!」
「ああ。正真正銘の本物ですのでご心配なく」
「そうじゃなくて! 先ず、どうしてこれをお前が持ってるのかって話だよ!」
すると、藤城は平然と答えてのけた。
「ブラックマーケットに通じる、その筋の友人に売って貰いました。先生がご存じかどうかは分かりませんが、最近ではこうした途上国の外交文書が闇取引されておりまして。実際問題、ああいう国々は機密保持の“き”の字も無くてよ」
聞いて驚いた。思わず恒元と顔を見合わせる俺。
「……」
曲がりなりにも傭兵をやっていたので国際政治の裏事情などには明るいと自覚がしていた。そんな俺でも寝耳から水だ。外交文書が弾三国のスパイ活動を通じて流出する話はよくあるが、闇市場で不法取引されていたなんて……。
「い、いやいや! まったく分からない!」
「少なくともケニア政府は日本を見限る気でいるらしくてよ。日本は見返りを求めすぎるから今以上の関係は好ましくないと。その点、中国は低い利回りで動いてくれるから……」
「だから! なんでそれをお前が持っているのかを聞いているんだよ! 大体にして、そいつが本物の外交書簡である保証は!?」
和泉は半ばキレ気味で叫んだ。藤城はそれに対し、涼しい顔で答える。
「あらあら。ぶしつけですけど、先生に真偽云々を気にしているお暇なんか無いのでは。何せアフリカでの資源採掘はあなたの肝煎り事業だったのですから」
和泉義輝は1990年の総選挙で初当選後、いきなり外務政務官に任じられた。これは当時首相を務めていた父の義実からの強力な推薦による所謂“身内贔屓”の人事だが、ソルボンヌ大学を卒業してフランスの商社に勤務していた国際感覚を買われての登用。それだけに現小柳内閣では外相を差し置いて外交政策をリードする立場と見られている。
察するに、2001年に始まったケニアでの資源採掘事業は和泉が声高に主張して始まったものであろう。それが途中でご破算になることは何を意味するか?
次期首相を目指す和泉にとっての大きな汚点である。
「くっ! そ、その書類が本物だという証明は!?」
「お抱えの内調にでも頼んで鑑定されては……と言いたいところですが、ご安心を。れっきとした正式な外交文書ですよ。本物である証拠というわけではありませんが、私の方から担保を差し上げましょう」
「何? 担保だと!?」
藤城は手提げバッグの中からもう1つ別の文書を取り出して見せた。こちらは日本語で書かれたものだ。数字が羅列されている。
「これは私ども藤城ファンドが昨年に行った証券取引をすべて記録した帳簿の写しになります。よろしければお納めください。どうぞ」
またまた聞いて驚いた。藤城琴音の提示した担保――それはすなわち、渡した資料に疑わしい点があるのなら、インサイダー取引等の罪状でいつでも牢屋に放り込んでくれて構わないという、彼女なりの覚悟の表明だった。あまりにも大袈裟だ。
「……本気で言っているのか?」
「ええ。本気ですわ。先生。尤も、私に後ろめたい部分などは何らございませんけどね。それでもお役人様の中には藤城ファンドを敵視する声も多いと聞きます」
「確かにな。お前らの評判はお世辞にもよろしくはない。脱税やら粉飾決算やらで、しょっ引いてやろうって、ヒルズ族に狙いを定めているとか、いないとか」
「困った話ですわ。私は法に則った形でお金儲けを行っておりますのに。その人に犯罪の事実が無くても、罪状をでっち上げて訴追してしまうのがこの国の当局のやり方」
「よく分かっているじゃないか。彼らは基本的に世論で動くから、お前がいくら金持ちでも買収は先ず不可能だ。金持ちを妬み、嫌う大衆の声を優先して捜査をするんだ。よって、こいつが当局に渡れば何が起こるか。その頭で想像はつくな?」
藤城はコクンと頷いた上で「私のことが信じられなくなったら、それをいつでも検察に売って頂いて結構ですわ」と言い放った。
「ああ、そうだ。先生ご自身が特捜部と交渉する際の切り札にして頂いても構いませんわ。『これをやるから自分の政治資金規正法違反は見逃してくれ』と」
「馬鹿を言うんじゃない。私は清廉潔白だ」
「それは私も同じですわ。何にせよ、この国の司法は困ったものよね。ヤクザの買収工作には平気で乗っかるっていうのに……うふふっ」
視線が俺と恒元に集まった。ゆえに少しばかりの気まずさが俺たちを襲う。当人たちも、決して皮肉や嫌味の類で言ったわけではなかろうが。
「……」
そんな空気感を打ち破ったのは恒元だった。
「まあまあ。藤城君もここまで誠意を見せているわけだし、義輝も信じてやったらどうだね。彼女は君のためを思って情報を寄越してくれたんだぞ」
長年の友人の言葉に、流石の官房長官とて折れざるを得ないようだった。深いため息の後で和泉は漏らすように答える。
「分かったよ。君が言うのなら」
そして彼は藤城の方へと向き直る。
「ただし、勘違いするなよ。僕はお前を信じたわけじゃない。恒元の顔を立てて話を吞んでやると言ったんだ。ケニアの件にほんの少しでも間違いがあれば、即座に地検の特捜部を動かしてお前を捕まえるからな。その時は覚悟しておけよ」
「はいはい。その時はどうぞご自由に。というわけで交渉成立、嬉しゅうございますわ」
「……見返りは何だ? 交渉と言ったからには、お前も僕に何かしら要望があるのだろう? 全く無いとは言わせんぞ?」
「あらやだ。先生ったら、鋭いですわね」
藤城琴音は風俗嬢から成り上がった女相場師だ。その思考はギブ・アンド・テイクの大原則に基づいており、相手に施しを差し出したのならそれ相応の報酬を求めるず。ましてや己の破滅にも繋がりかねない情報まで開示しておいて何も手に入れない方が不自然である。
「そうですわね。強いて言うなら、来年開催のアフリカ開発会議に先立つ産官学連携委員会に私の席を設けてくださるかしら。つい先日買収した鉄工会社がお役に立てそうなので」
「ふん。強欲な女だ」
和泉は吐き捨てるように言うと、藤城に背を向ける。そして取り出した煙草に火を付けて呟くのと同様の声色で返事を投げた。
「考えておこう。僕としても日本の優れた技術が世界の人々の役に立つことには吝かではない。鉄工業なら尚更だ」
「うふふっ。それは良かったですわ。ついでに、もう1つ」
「何? まだあるのか?」
「ええ。お役に立てるんじゃないかと思いまして。官房長官のお力で、どうにか席を用意してくださらないでしょうかぁ」
「今度はどこの会議に食い込みたいんだ?」
少しばかり勿体ぶった素振りで藤城が投げた答え。どんな要求が飛び出すかと思いきや、俺たちの想像をはるかに上回る言葉が彼女の口を突いた。
「現内閣でございます」
そこに居た誰もが固まる。俺は意味が分からず、戸惑いの顔を浮かべていたと思う。だが、最も衝撃を受けていたのは、無論のこと和泉官房長官であった。
「なっ、入閣させろというのか!?」
「ええ。是非とも内閣特命担当大臣の地位を頂けますでしょうか。あなた様から総理にお頼みすれば難しい話でもないと思いますが」
「馬鹿な! お前のような民間人が大臣を務めるなど!!」
「いいえ。民間人閣僚ならば前例がございましょう。それに今回は私ではなく、私の推薦する御方でございます」
「お前の息のかかった人間を就けるということか!」
「そう取ってくださって結構ですわ」
「冗談じゃない! 拝金主義に染まった銭ゲバ女が政に関われば国が乱れる! 代議士として、そんな話を認めるわけには……!」
「難色を示されるのを承知でお願いしております。けれど私の推す方はあなたにとっても有益な存在かと思いましてよ。先生」
何を言い出すかと思えば、内閣特命担当相の職を寄越すよう求めてきた藤城。傍から聞いていても無茶苦茶なおねだりである。流石の和泉も叫んだ。
「ふざけるな!」
だが、それ以上の罵倒の句は出て来ない。根本的には義理堅い性分の和泉の中で、少しばかり思うところがあったのだろう。自らの前途を安寧に保つためには欠かせぬ貴重な情報を受け取っておきながら、その対価を払わぬことへの侘しさが――暫らく悩む素振りを見せた後で彼は渋々ながらに言った。
「……参考までに聞いてやる。お前が欲しているのはどの大臣職だ? 言っておくが財務や経産だけは絶対に無理だぞ」
その質問に、強かな女相場師は嬉々として答えを返す。
「金融政策担当大臣でお願いできますか」
「金融政策?」
「ええ。現職の椿原さんを罷免して、今から私の指定する御方を後任に就けてくださいませ。そうすれば和泉先生にとってもメリットが大きいと存じます」
「椿原を追い出せと来たか。認めたくはないが、お前は伊達に株相場で飯を食っているわけじゃないようだな。懐への入り方をよく分かっている」
「うふふっ。キャバクラで働いていた時に学びましたの。先生が毛嫌いする水商売でね」
椿原康雄金融政策担当大臣は自憲党における若手有力者。政敵とまでは行かぬも、和泉とはバチバチに火花を散らし合っていると新聞が報じていた。次期総裁選への挑戦も噂される椿原を大臣交代の名目で排除できれば和泉にとってかなり美味しい話となろう。やはり藤城琴音は交渉に長けている。官房長官の評価に俺も完全同意した。
「椿原さんは経済諮問会議の意見をなかなか取り入れようとなさらないでしょう?金融再生プログラムがこれだけ成果を上げているというのに、日銀に媚びへつらうだけで大胆な改革には二の足を踏んでおられる。それが総理の掲げる『改革なくして成長なし』の基本指針と相反するものであるのは誰の目から見ても明らかでございます」
「ふん。確かにその通りだ。奴を大臣の座から降ろす口実としてはちょうど良いな……」
いつの間にか鼻の下を伸ばしている和泉。将来的にライバルとなり得る人物を失脚させる機会がめぐってきたと分かるや否や、みるみるうちに上機嫌に変わった。つい少し前までは藤城の提案をけんもほろろに突っ跳ねる気でいたのに。
「分かった。お前の要求を呑んでやろう。あの男を更迭させるよう僕の口から総理に頼んでみる。産官学連携の件も任せておけ。民間の有能な人材を活躍させるとあれば誰も文句を言わんだろうからな」
「そうこなくては。嬉しゅうございますわ。和泉先生」
「ところで、お前が大臣に推す人物とは誰だ? 自分を差し置いて名を出すくらいだからよっぽど優秀な存在なのだろうな?」
「ええ。それはもう。是非とも先生から総理に進言して頂きとうございます」
「勿体ぶらずに早く言いなさいよ」
「はい。では、お耳を拝借させて頂きますわね……」
藤城は和泉の耳元で何かを告げる。
すると、和泉の両眼が大きく開かれた。絵に描いたように素っ頓狂な顔に変わっていった。誰の名を伝えたというのか。
忽ち和泉は藤城の肩を摑んで揺さぶった。
「何の冗談だ!? お前、正気か!? そんなことをしてお前に何のメリットがあるというんだ!?」
「良いことずくめでございますわ。少なくとも、その御方が大臣に起用されれば全てが私の思い通りになる。何せ彼は既に私の手駒なのですから」
「……いつの間に懐柔していたのやら。まったく、お前は恐ろしい女だ。分かったよ。総理に伝えておこう。良いように取り計らうから」
そして和泉は俺たちの方を向いた。
「恒元。この女と、どこまでの仲なのかは知らんが。あまり胸襟を開かん方が良いぞ。油断も隙もあったものじゃない。これは君への忠告だぞ」
「ん? 何だね、義輝? 妬いているのか?」
「……出来ることなら今すぐにでもぶん殴ってやりたいところだ。『最初から僕を嵌める気でいたのか』と。実に不快だよ」
「ふふっ」
「だが、止めておこう。君とはこれより先も良い友人であり続けたいからな。何より君のようなヤクザを敵に回せば面倒だ」
「ああ。そうだな」
恒元が軽く笑って応じると、和泉は居並ぶ財界人たちへ視線を移す。きょとんとしている彼らの中で真っ先に睨まれたのは竹取社長だった。何故か。
「……」
物凄い形相で睨まれた竹取は狼狽えていた。どうして自分が睨まれるのか、理由がまったく分からないと言わんばかりに。成金社長を見据える和泉の顔はまさしく鬼神のそれだった。
「……」
「あ、あのぅ。官房長官。どうなさいましたか?」
「……チッ。別に。どうってことはないよ」
なるほど。和泉が竹取を睨んでいた理由は何となく見当が付いた。されど、ここで俺の推論を発表するのは止めておこう。
そんなことをしても無駄に空気を凍らせるだけだ。俺が物を申さなかったところで特に不都合は生じぬだろう。今は議論をしているわけでもないのだから。
これすなわち調和を守るということだ。
「さてと。問題も片付いたわけだし、楽しいゴルフに戻ろうじゃないか。せっかく新しい仲間が加わったのだからねぇ」
恒元の声でホールめぐりが再び始まる。俺も気持ちを切り替えてプレイに集中するよう試みた。しかしながら、人は慣れない行為に励むと少なからず雑念が湧くものだ。
「あらあら。全然飛ばないのね……」
「そんなことないじゃないか。我輩なんぞよりはるかに上手だぞ、藤城君は。自信を持ちたまえよ」
「嬉しいわ。会長は褒めるのがお得意ですこと」
「我輩は本当のことを言ったまでだよ」
「うふふ」
藤城が恒元と和気あいあいとしているが、俺はあまり会話に加われないでいた。理由は単純明快である。藤城の身体が気になって仕方がないのだ。
「……」
ピンクのブラウスにセーターを重ね着し、白のタイトなミニスカートからは肉付きの良い両脚が伸びている。ゴルフウェアと呼ぶからにはかなり刺激的な出で立ちだ。その胸元ははち切れんばかりに膨らんでおり、否応なしに視線が吸い寄せられてしまう。
出来ることなら今すぐにでも彼女の胸を揉みたい……。
ふしだらな願望が俺の中で燃え上がった。どうにか堪えようとするも、一度湧き起こった情欲の炎はなかなか消えない。自分を鎮めるのが本当に大変だった。
「ん? どうした、涼平? 具合でも悪いのか?」
「いえ。別に」
恒元に訊かれて何とか茶を濁したが、元娼婦の観察眼を持つ藤城には一瞬で見抜かれていた模様。終了後、こっそりと耳打ちをされた。
「涼平も意外と変態なのね。あなたみたいな人のことを“むっつりスケベ”っていうのかしら?」
「な、何のことだよ」
「うふふ。とぼけても無駄よ。さっきは私のおっぱいばかり見ていたくせに」
「……」
「良いのよ、別に。男の子なら当然のことだもの」
藤城は俺を揶揄うように見下ろすと、その透き通るような白肌の手で頬を撫でてきた。
「……やめてくれよ」
「どうやら女と寝た経験はあるみたいね。でも、その反応からすると随分とご無沙汰なのかしら? だいぶ溜まってるみたいね」
「よ、余計なお世話だ」
「あらあら。つれないのねぇ」
藤城は艶めかしい手つきで俺の身体に触れてくるが、敢えて彼女の手を払い除けた。俺だって男の端くれ。弄ばれるのは流石に不快である。
「……あんた。ふざけてんのか」
「ふざけてなんかないわ。私は本気よ。あなたみたいな強くて可愛い子を見ると、滅茶苦茶になるまで遊んであげたくなっちゃうの」
「それをふざけてるって言うんだよ」
「あなただって望んでるんじゃないかしら。『この女と寝たい』って。もし私が今ここで服を脱いで裸になったら、きっと鼻血を噴き出して喜ぶでしょうね」
「うるせぇ! お、俺はあんたみたいな子持ちのビッチなんかに興味は無ぇぞ! 言い寄られたって嫌なこった!」
「あらあら。それは残念ね」
藤城は余裕の笑みで俺を見下すばかり。こうまで内心を看破されるとは悔しいものだ。まったくもって恐ろしい女だと改めて思った。
やがて彼女は煙草に火を付ける。
「まあ、それはそうとして。あなたはこの会合をどう見た? なるだけ率直な感想を聞かせてちょうだい」
「えっ。ああ……」
藤城に問われて俺は暫し考えた。正直な話、会合の主旨など分かりきっている。所詮は官房長官を型に嵌めるための茶番劇でしかなかったのだから。
だが、見たままを伝えても面白くは無かろう。
「……なら、お望み通り率直に伝えさせて貰うぜ。あんたが推薦した次期大臣候補ってのは竹取さんだろ。違ってたらすまんが」
「あら? どうしてそう思ったのかしら?」
「ほう。やっぱりか」
どんぴしゃり。反応を見る限り、俺の予想は当たっているようである。尤も先刻の和泉の様子を注視していれば誰でも気づくとと思うが。
「でなけりゃ、官房長官閣下があんな般若みてぇな形相になったりしないっての。分かりやすいんだよ。まったく」
「うふふ。正解」
軽くパチンと手を叩き、藤城は語った。
「竹取さんには私から頼んで大臣になってもらうことにしたのよ。説き伏せるのに手間暇はかかったけど。案外、話の通じる御方だったわ」
「どうしてあのおっさんを?」
「決まってるじゃない。ああいう個性的な人が入らなきゃ古い行政の体質は変わらないからよ。それに元はと言えば構造改革の言い出しっぺは竹取さんなのだし、この際だから最後まで責任をもって改革をやり遂げてもらわないと」
「だったら、あんた自身が入閣を躊躇う理由は何だ? 本気で改革をやるなら、既に派遣法改正で国民に総スカンを食らってる竹取なんかより、今をときめく藤城ファンド代表の方が少しばかり世論の支持を得られると思うが?」
「馬鹿をおっしゃい。私みたいな小娘が大臣になったって誰も言うことを聞きやしないわ。結局のところ、日本は男尊女卑の国だものね」
俺は呆れて二の句が継げなかった。あれこれ御託を並べてはいるが、要するにこの女は自ら矢面に立ちたくないだけである。竹取久兵衛を傀儡の大臣に就けて裏から操っていれば何か失政をやらかしても直接的に責任を取らずに済む。
「しっかし、驚いたぜ。あのパーソン・ジャパンの竹取があんたの言いなりになってたとはな。どんな手を使って味方に引き入れたんだ?」
「言いなりじゃないわ。『大臣になれば稼げる』って軽く吹き込んだだけよ。別に弱みを握ってるとかそういうのじゃないから、邪推しないでね」
「おっと。これは失礼したな。あんたお得意の色仕掛けで誑したもんだと思ってたが、違ったようだな」
「まあ……最初はそういう方法を考えなくもなかったんだけどね……」
「マジかよ」
軽い皮肉のつもりで放ったものの、まさかの肯定が返ってきた。いやいや、そこは首を横に振るところだろうと失笑がこぼれそうになってしまう。ほのかに心の中でツッコミを入れつつ、俺は続く藤城の話に耳を傾ける。
「でも、竹取さんってそっち方面には興味が無いらしいのよ……何ていうか、女体を見ても、そういう気分にならないって」
「糖尿か何かで勃起不全ってことか?」
「いえ。あの御方には稚児趣味があるのよ。言ってしまえば小児性愛者。ロリコンって説明すれば分かりやすいかしら。成人以上には欲情しないと専らの噂」
「なっ……!?」
「とんだ変態よね。あんなのが国政を牛耳ってるなんて考えただけで吐き気がするわ。元売春婦の私も大概だけどさあ」
表沙汰になっていないだけで、竹取社長のアブノーマルな性癖は六本木界隈で有名な話らしい。それが公然の秘密という扱で済んでいるのは和泉官房長官による情報統制の賜物だろう。よって普通に考えれば竹取は和泉に頭が上がらないわけなのだが。
「今日の件で竹取は和泉の不興を買っちまった。諮問会議の参与として重用してたはずが、よりにもよってあんたと繋がってたんだからな。これからどうなることやら」
「別にどうにもならないわよ。竹取さんはこれまで通り官房長官にお仕えする。苦しくなるのはむしろ和泉先生の方ね」
「あんた、まさか最初からそれが狙いだったのか? 官房長官の周りの連中を全て取り込んで、孤立させて、最終的に言うことを聞かせようって算段か?」
「ご名答。流石は中川会三代目の懐刀。察しが良いわね。あと、ついでに言うと、官房長官に渡した取引明細は偽物よ。例えお芝居でもああやって覚悟を示して見せなきゃ、あの人はご納得くださらなかったでしょうから」
「恐ろしい女だぜ……」
俺の言葉を聞くや、藤城はふっと微笑んでみせた。それから煙草をスタンド灰皿へ置きつつ俺を見返して言い放つ。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
やがて喉の渇きを潤すべく、彼女は颯爽とクラブハウスの休息ブースへと向かって歩いて行く。
俺としても何か飲みたい気分だ。奥多摩カントリークラブは会員とその連れに対して無料の軽食とドリンクが提供されているので、それを愉しむのも一興。いつの頃からか世間一般では『ゴルフ場は飯が美味い』という印象が広がっているが、ここも例外ではなく、本格的なカツレツからピザやスパゲッティまでひと通り献立は取り揃えられている。特に海老フライは絶品らしい――そう考えると立ちつくしている時間が惜しい。
すぐさま休憩所へ行ってみようと足を奮い立たせるが、耳寄りな会話が飛び込んできて立ち止まる。
「ったく! 今日は銭ゲバ女に一杯食わされたよ!」
見れば、壁際のベンチに腰かけた和泉と彼の秘書官らしき男らが何やら話し合っているではないか。
「あの小娘! 知らぬ間に参与の連中をあらかた篭絡していたぞ! 可愛い顔をして、とんでもない策略家だ!」
「ですから、申し上げたではないですか。先生。藤城はともかく中川恒元のような極道者と会えばろくなことにならぬと」
「仕方ないだろう! 奴に呼び出されていたんだから!!」
苦虫を嚙み潰した表情を浮かべて、和泉は力強く地団駄を踏んでいる。やがて彼は「煙草! 新しいのを持って来い!」と叫んだので、傍観する俺としては非常に面白かった。いつもテレビのニュースや国会中継で見せる紳士然とした上品な姿とは似ても似つかぬ、さながらチンピラのごとき振る舞いであった。
「好かんのは竹取だ! この和泉義輝に恥をかかせおって! 後で痛い目に遭わせてやるから覚悟しておけよ!」
もはや発言は任侠者のそれだ。ただ、ひどく気を昂らせながらも部下に八つ当たりしていない辺りが何とも彼らしい。和泉家は旧華族の流れを汲む名門。粗暴な言動は慎むよう幼いころから躾けられていたことは想像に難くない。政治家の中には目下の人間をサンドバッグ同然に扱う者も少なくないため和泉義輝はある意味で貴重な存在だといえる。
「ところで竹取様はどちらに?」
周囲を見渡しながら尋ねた部下に、和泉がぶっきらぼうに答える。
「知らんッ!!」
言われてみれば竹取の姿が無い。おそらくは官房長官の怒りに触れることを恐れて遁走したのだろう。尤も、後で顔を合わせるのは確実なのだからこの場から逃げ帰ったところで効果は薄いのだが。
「ああ……もう! まったくもって不愉快だッ! どうせあの取引明細とやらも偽物だろう!」
「では、どうして先生は入閣の話をお許しになられたので?」
「あの女は既に僕のブレーンの大半を取り込んでいる。今ここで歩み寄らねば後々で必ず足元を掬われるだろう。入閣を受けたのはこれ以上、あいつを付け上がらせないための妥協策だ」
たまげたものだ。渡された書類が紛い物であることに和泉は気付いていた。恥や屈辱を忍んで気に食わぬ女の話に敢えて乗るのは、次の総裁選を見据えた長期的な利を得るためか。この和泉義輝という男はただの世襲政治家じゃない。相当に手練れた老獪な戦略家である。
「帰るぞ! こんな場所には一秒だって長居したくはない!」
「承知いたしました。車は用意してございます」
立ち上がった官房長官は出口を目指して足早に歩き出す。俺は軽く会釈してやり過ごそうとしたが、そういうわけにもいかず。帰り際の和泉に声をかけられた。
「麻木君。親分によろしく伝えておいてくれ。『郵政民営化の法案を出す折には協力してもらうぞ』とな」
「あ、はい」
そう言い残すと和泉は不機嫌な調子で去って行った。
彼がここへ来たのは恒元に呼ばれたからであって、仮にも自らの意思で来たわけではない。両名はフランス・ソルボンヌ大学時代の同級生だそうなのだが、単なる友人関係とは呼べぬ仲であると見た。政治家とヤクザ、その関係は決して対等ではない。
それはそうとして、うちの会長は異国の大学に通っていたのか――などという他愛もない感想が頭に浮かんだ時。
「義輝は帰ったか」
恒元が現れた。ホールまわりが終わって早々に尿意を催し、厠へ駆け込んでいた彼。今までの話を聞かずにいたのは偶然というべきか。
「ええ。お帰りになられましたよ」
「つれないなあ。挨拶くらいする暇はあるだろうに」
「お忙しいんじゃないですかねぇ、意外と」
クラブハウスのロビー内には煙草の匂いが残っている。つい数秒前まで和泉が愚痴を叩いていたことを恒元は悟ったようだ。
「彼は、何か言っていたかね?」
「はい。『郵政民営化の法案を出す折には協力してもらうぞ』と」
「そうか。まあ、その件は今すぐに考えるべきことじゃないから、胸の内にでも留めておくと良いよ」
旧郵政省の残党を一掃する一世一代の大改革。和泉官房長官は、俺たち中川会に反対者の“抑え込み”を依頼してきた。暗殺や脅迫といった暴力を用いて世論を法案賛成へ誘導するのだ。
その音頭を俺に取らせると恒元は言った。彼の側近となって半年にして初めて任される、ビッグ・プロジェクト。本来はシノギを行う必要のない執事局次長である俺に敢えて仕切らせるのは、俺に経験を積ませる目的と執事局以外の組織には気を許せぬ切実な現状、2つの事情が絡んでいる。
「涼平。今日ここへお前を呼んだのは他でも無い。政財界の要人らと顔を合わせる機会を作りたかったからだ」
恒元が俺に期待を寄せているのは確かだった。それに応えてやる義理は無いのだが、俺はとりあえずこの半年間はずっと仕事に励んできた。
会長は俺の心の内に気付いているのだろうか……?
考えている内容の一切合切を他者に悟らせぬ主君なので、まったくもって分からない。ただ、俺も自分自身があまり分かってはいない。かつて俺の未来を奸計で捻じ曲げた怨敵であるはずの男に、かくも恭しく仕えている理由の全てを。
「……色々と勉強になりましたよ。楽しかったです」
「そうか。それは良かった。ここで会った連中は、いずれお前の役に立つ日が来るだろう」
「ええ。そうですね」
「ただ、和泉義輝を除いては」
「除いては?」
「あれは所詮、昼行燈のお公家さんだ。弟とは違い、実家の和泉家の力だけで現在の地位を手に入れたような男。器量も無い癖に、態度だけは大きい」
「そうですかねぇ。意外と人を見る目はあると思いますよ。藤城琴音の出した書類の一部が偽物ってことも見抜いてるようでしたから」
俺は適当に相槌を打つが、恒元は意に介さず話を続ける。
「げんなりしたんじゃないか? 何せ、テレビでや新聞ではお馴染みの官房長官の醜態ともいうべき姿を見てしまったんだからなあ?」
「……いえ。特には。酒を飲めば誰だってああいう風になるでしょう」
「優しいな、お前は。そうだとも。義輝は昔から酒癖が悪かったんだよ。少しでも酒が入ればあの有り様だ。ソルボンヌの時は輪をかけて酷かったな」
「へぇ。意外ですね。会長がフランスの大学に行かれていたことも初耳ですが」
「言ってなかったか?」
つい先刻まで和泉が座っていたベンチに腰を下ろし、いかにも昔話の懐古に浸るといった柔和な面持ちで会長は語りを紡いだ。
「我輩はソルボンヌ大学の社会学部を出ている。こう見えても学士を持っている身なのだぞ。卒論もまっとうに書いたものだ」
「人は容貌によりませんね。大卒のヤクザも最近じゃ増えてきましたけど、まさか会長にもそんな学歴がお有りとは。留学ですか」
「留学ではない。正規の入学試験を受けてソルボンヌに入ったのだよ。あの頃はパリに住んでいたからなあ」
これまた思わぬ情報が飛び込んできた。驚くというか、戸惑ってしまう。話が呑み込めないという表現が最も適切であろうか。
「えっ? フランスに行ったことがあるという話は前に訊きましたけど、住んでたこともあるんですか?」
「そうだよ。高校まではマルセイユに居て、軍に入ってからはグルノーブルの基地で勤務していた。パリには軍を辞めた後に移り住んだから23歳の時だな」
「ええっ!?」
ちょっと待った。話が見えない。フランスへに滞在していた過去に加えて軍隊経験? 母親がフランス人だという話は以前に聞いていたが? 言われた通りに時系列を整理すると、そもそも恒元は同国の出身ということになるのだが……?
「あのぅ。失礼ですけど。会長は日本人ですよね?」
「国籍で云えば日本人だな。しかし、若い頃はフランス国籍だった。日本で中川の三代目を継ぐにあたってあちらの国籍は放棄したが」
ますます分からなくなってくる。元はフランスで生まれた日系人だったのなら、何故で日本のヤクザになったのだろうか。会長の謎めいた過去に少し興味が湧いてきた。
「えっと。会長が生まれたのは日本? それともフランス?」
「フランスだ。性格に言えばフランス領か。分かりやすく言えば、そこを訪れていた父と現地人の母が出会って、恋仲になり、我輩が生まれた」
「それって何処なんですか?」
「ベトナム。我輩が生まれた当時は『仏領インドシナ』と呼ばれていたそうだな。我輩にはあまり幼い日の記憶が無いのだが」
ますます分からない。この人は一体何者なんだ? 混乱した俺の様子を見て取ったのか、恒元は悪戯っぽく微笑んでみせた。
「いずれ折を見てゆっくり聞かせてやろう。人には誰しも過去という名の歴史がある。長い話になるから余裕のある時にな」
「は、はあ……」
ひとまずはここでの追及を避けることにした。この人の過去は、きっと訳ありだ。俺の想像を絶するものに違いないだろうから。
「ところで涼平。竹取たちは帰ったか?」
「はい。官房長官がブチギレてるもんだから怖くなったんでしょう」
「あははっ。あの男らしい。とはいえ、この後は一緒に飯を食う約束をしていたのだがな。まあ良いか。奴の気持ちも分かる」
そう笑い飛ばすと、恒元は奥の休息ブースへと歩いて行く。クラブハウス備え付けのレストランでは既に藤城が舌鼓を打っていた。
「あらあら。お先に頂いてましたわ。会長」
彼女が食べていたのはカレーライス。傍らには付け合わせの福神漬けとらっきょうが置いてある。
「奥多摩の名物なんですってよ。美味しゅうございます」
この辺りで牛肉が名産という話は聞いたことも無いが見るからに旨そうだ。兎にも角にも芝生の上を動いたおかげで腹が減っている。恒元が同じくそれを頼んだので俺も彼に従い、藤城の向かいの席に座った。
「涼平は辛いものが好きかしら?」
スプーンでカレーを掬いながら藤城が訊いてくる。「麻木さん」とファミリーネームではなく直接名前を呼んでくるのは何故だろう……と若干むず痒く思いながらも、俺は少し考えてから答えた。
「そうだなあ。好んで食うほどじゃねぇが、嫌いじゃないぜ」
「良かったわ」
藤城はカレーを口に運んだ。そこへ、おしぼりで手を丁寧に拭きながら恒元も会話に加わってくる。
「そういえば赤坂には専門店があったな。今度、時間が合えば行こうじゃないか。涼平も一緒にな」
恒元の誘いに、藤城は「是非とも」と応じた。もう二人がそんな仲になっていたなんて……悔しいやら、もどかしいやら、不思議な感情で胸がいっぱいになりそうだ。互いに結託して策謀を練るくらいだから当然といえば当然なのだが。
やり切れぬ想いの紛らわせ方を考えていると、やがて俺たちのところへも料理が運ばれてきた。
「お待たせいたしました。カレーライスでございます」
給仕がテーブルに置いたのは、藤城が食べているものと全く同じ献立。黄色がかったカレーと白米とのコントラストが美しい。香辛料の匂いも食欲をそそる。
「いただきます」
スプーンで掬って口に運んでみた。
うん、旨い――。
牛肉は口の中で蕩けるように柔らかく、それを濃い目のスープがまろやかに包み込んでいる。遅れてやってくるピリリとした辛味が癖になる味だ。
俺は夢中で食べ進めた。
「すげぇわ。これ」
最上級の賛辞が口を突いて出てくる。いつも総本部ではお抱えの料理人に難題ばかり吹っかける美食家の恒元も、大いに満足しているようだ。
「うむ。これは美味だ。かなり辛めだが、それでいて何処か和風の趣も感じさせる豊潤な味付けが成されているな」
「あらあら。会長ったら、例えがお上手ですこと」
「これなら1日おきに食べても飽きんぞ。素晴らしい」
二人の会話に耳を傾けながら黙々と食べ進めていると、やがて恒元が感嘆した面持ちで呟いた。
「いやあ、恐れ入ったよ。料理店でもないからと甘く見ていたが、よもやこんなにも美味い食事にありつけるとはな。料理というのは、実に奥が深いものだ」
巨大組織の首領として日頃より食に贅を尽くし、これまで古今東西の味覚を嗜んで来たであろう男の言葉だ。それはもう、舌を巻くほどの説得力があった。彼の云う通り、料理には人の一生を費やしても探求しきれぬくらいに広い世界が存在するかもしれない。
ただ、そんな有り難い至言を賜っている最中だというのに、俺の視線はまったく別の方を向いていた。見つめた先は前方。妖艶な女相場師の身体だ。
「まったくですわ。わたくしも、こんなに美味しい料理は久方ぶりに頂きました……ああ。ちょっと刺激的のが難点ですわね」
幸せそうな面持ちで黄色い辛味を頬張る彼女が纏う服から開いた胸の谷間に、じっとりと汗が浮かんでいたのだ。俺は思わず生唾を飲み込む。
この女性は、何故にかくもいやらしい肉体をしているのか――。
やがて藤城が俺に流し目を送ってくる。その眼差しは挑発的。そして彼女はわざとスプーンを皿の上へ落としてみせると、それを拾ってから俺の目を見据えてこう云ったのだ。
「美味しいわね」
「……あ、ああ。旨ぇな」
慌てて言葉を紡いだ俺であるが、藤城の目線は俺から離れないままだ。それどころか胸元のボタンを1つ外してたわわな胸をより強調してくる始末である。その動作からは俺を揶揄う意図が明らかに感じられる……。
平静を繕うのが本当に大変だった。
「会長。ここのレストランは食後のデザートも格別でしてよ」
「ほう。それは楽しみだな。フレンチで肥えに肥えた我輩の舌を満足させられるかは分からんが」
「ご心配なく。きっとお喜びくださることでしょうから。うふふっ」
火山のごとく昂り、勃起する性欲を押さえ込むのに苦慮する俺と、そんな情けない若造をよそに歓談する二人。
話題に出た食後のデザートは意外と早く運ばれてきた。
それは意外にもプリンだった。それもただのプリンではない。カラメルソースをたっぷりかけた上に生クリームまで添えてあるという豪華版。
「うわあ、美味しそう。頂きます」
上機嫌な藤城のスプーンがその先端に突き刺さり、ゆっくりと持ち上げていくと、プリンは匙の上にて小刻みな拍子で揺れる。
「うふふっ」
藤城はそれを口に運び、舌で舐め取ってから咀噛した。そして恍惚とした表情で感想を述べるのである。
「美味しいわ。とっても甘くて……まるで涼平みたい」
「はあ?」
不意を突かれて動揺する俺に、藤城は追い討ちをかけるように妖しく笑ってみせた。
「うふふふっ。冗談よ」
もう、この女は何なんだ!
経験の少ない俺を揶揄って何が面白いというのか……?
彼女のイタズラめいた台詞で俺の体温は急激に上昇してゆく。顔が火照って仕方がない。そんな俺の様子を面白がるように見つめながら、藤城はなおもスプーンでプリンを掬ってみせた。
「ほら、涼平も食べてみて」
そう言って俺の眼前にそれを差し出してくる彼女。これは所謂「あーん」というやつなのか? いや待て落ち着け俺よ。
こんな程度のことで動揺して何とする。
「……冗談は止してくれよ」
俺は目を逸らした。
「あらら。残念ね」
すると藤城は、今度は恒元の方を向く。
「あなた様は召し上がってくださるかしら?」
そしてスプーンでプリンを掬ってみせたのだ。
会長にも同じ戯れをするつもりか――と思いきや、美しき女相場師はその豊満な胸を寄せて谷間を作ると、そこにプリンをわざと落とした。
それから上目遣いに恒元を見つめてこう云ったのだった。
「ああん……おっぱいが汚れちゃった……綺麗にしてくださる……?」
老練な親分の返答は、単純明快。
「ふんっ、造作も無いことだ」
次の刹那、恒元は藤城の隣へとまわりこみ、胸に顔をうずめて、その谷間に溜まったプリンを舌で舐め取っていった。
「あふっ……はぁん……」
藤城は身をくねらせて甘い吐息を漏らす。一方の俺はそんな二人の様子を直視できずにいた。直視できるわけが無かった。
ただ、時間が早く流れ去ってくれるよう願うだけ。唾液の音がピチャピチャと淫らに響く中、己を懸命に押し殺して理性を保つ。何とまあ、惨めな若者であろうか。
つまらぬ名誉と羞恥心さえ存在しなければ、俺だって女の胸を吸いたいというのに――。
恒元がこんな行為に及べるのは単に彼が支配者であるからだ。曲がりなりにも関東極道の王を名乗って君臨し、裏社会のみならず表社会の要人たちをも畏怖させるだけの権力。それを持っているがゆえに、かくも卑猥な遊びに興じていられるのだ。
レストランに俺たち以外の客が居ない貸し切り状態で本当に良かったと思う。尤も、仮に先客が居たところで追い出してしまうだろうが。
中川恒元はこの空間の全てを支配していた。
「……ふう。だいぶ綺麗になったな」
やがて、恒元が顔を上げた。藤城は恍惚とした表情で彼を見つめている。
「ありがとう……あなた様……」
それから二人は見つめ合ったまま、しばしの間沈黙した。
俺は固唾を呑んで見守るのみだ。次いで何が起こるかは見当がつく。恒元は藤城の後頭部に手を回し、その美貌を引き寄せた。
――チュッ。
唇が重なり合った。藤城は目を閉じて、恒元の首に両手を回すと、積極的に舌を絡ませてゆく。それはまさに男と女の本能が為す、情熱的な接吻だった。
「……」
二人の時間は、あと如何ほどに続くのか。咳払いで中断させるのも無粋だが、かと言って延々と指を咥えて見ているのも辛い。蚊帳の外に居るのがこんなにも苦しいものだとは――と思った矢先。
「オラァッ! 退けェ!!」
突如として辺りに響いた叫びで、恒元と藤城は我に返る。
「な、何ですの?」
「誰だ! こんな時に!」
レストランの外で誰かが騒いでいる……というより、激しく揉めている。挙げ句その喧騒は徐々に大きくなってゆくではないか。
「会長! お下がりください!」
これはまずい。咄嗟に俺が恒元を守るようにして前に立ち、藤城も慌ててテーブルの下に隠れる。現在の状況に置いて可能な最大の防御の体勢だ。
やがてレストランの扉が蹴り開けられ、乱入者が勢いよく踏み込んでくる。
「……ッ」
ただ、そいつは銃や拳銃といった得物の類を持っていなかった。どういうわけか丸腰で現れた男。俺はその顔に見覚えがあった。
「て、輝虎!?」
眞行路輝虎。突如としてこの空間に割って入ってきた不埒な輩は、あろうことか眞行路一家の若頭だった。どういうことなのか。
「あんた、何でここに!?」
訳が分からず困惑する俺の問いには答えず、輝虎は言った。
「ここに居られましたか、会長! 大変でございます!」
当の恒元は暫くの間、ぽかんとしていた。然もありなん。本来ならばこの場に来ていないはずの男が不意に目の前に現れたのだから。
だが、そこは中川会三代目の胆力。すぐさま我に返ると、眉間に皺を寄せて輝虎を睨みつける。そして、彼はこう言い放たのだった。
「よくも水を差してくれたものだな……この無礼者が!」
凄まじい声量での一喝に怯んだ輝虎。しかし、彼は負けじと主張する。
「も、申し訳ございません! ですが、喫緊の事態であると思い、ご無礼を承知で参上いたしました! お許しください!」
一体、何があったというのか。
いつになく取り乱した輝虎の様子に、妙な予感が胸をよぎる。
このゴルフ場のクラブハウスの入り口は勿論、レストランの前には複数の護衛たちが集っていたはず。それを蹴散らしてまで会長に面通りを敢行したのだから、輝虎がよっぽどの事情を抱えているのは想像に難くない。見れば、冷や汗までかいている。
「動くなッ!」
先刻に押し退けられた助勤たちが遅れて駆け込んできて、輝虎に向けて次々と銃を構えた。片や当の本人は何ら臆することなく声を発する。
「会長。水尾組が……」
だが、恒元がそれを聞き入れることは無かった。
「黙らんか!」
「えっ?」
「黙れと言っているんだ!!」
怒声を放った直後、恒元は手元にあったグラスを輝虎に向けて投げつける。
「うぐっ」
それは顔面に命中した。輝虎は鼻を押さえてその場に蹲る。呆気に取られる俺と藤城、それから助勤の面々をよそに恒元が前に歩み出て行った。
「よくも我輩の時間を汚してくれたな! この青二才め!」
――バキッ。
馬乗りになったかと思うと、恒元は輝虎の顔面を強かに殴る。
――ドガッ。ドゴッ。
さらに、二度三度と殴りつけた。その一発ごとに輝虎の身体は揺れ、口からは血が飛び散る。
「会長! お止めください!」
慌てて酒井が制止するも恒元は止まらない。殴られ続ける輝虎の顔面は見る間に腫れ上がってゆく。あまりにも一方的な暴力だ。
数分前とは違った意味で見るに堪えない光景であるが、恒元の心情は容易に推測できる。要は藤城琴音との接吻を邪魔されて腹が立っているのだ。それはさながら楽しい遊びを邪魔された子供がわき目もふらずに激昂しているにも等しい様であった。
少し経った後で恒元は輝虎の顔面を殴る手を止めた。そして、血塗れの拳を拭いもせずにこう告げる。
「涼平」
「はい」
「この無礼者を連れて行け!」
「……へぇ。承知しました」
俺は酒井と目を合わせると頷き合い、完全にノックアウトされた輝虎の両脇を抱えて外へ運び出そうとする……が、持ち上げたところで、恒元が止めた。
「待った。この男には楽しい時間を邪魔されたのだ。相応の埋め合わせをしてもらわねば、我輩の気が収まらん」
またしても、ぽかんとする一同。彼らには目もくれず、恒元は俺に指示を飛ばしてきた。
「涼平。我輩のクラブを持て」
「あっ、はい」
今度はゴルフクラブで殴るつもりなのだろうか。とりあえず俺は恒元のバッグを取ってくるべくフロントの荷物預かり所へと走った。
直前、助勤たちが小声で話しているのが聞こえてくる。
「会長、何をするんだろう?」
「さあな。どうせろくなことじゃねぇよ。ひとまずは事が終わるまで黙ってた方が良いぜ。こっちまで巻き添えを食ったら堪ったもんじゃねぇから。マジで」
主君の考えていることは俺にも分からない。確かに云えるのは、恒元がいつになく激怒しているという事実だけだ。
「お待たせしました。会長」
「うむ」
やがてクラブのケースを持って戻って来ると、恒元は大きな鞄の中からウェッジクラブを取り出して右手に携える。もう片方の手に持つのは『ティー』と呼ばれる釘のようなもの、そしてボールだ。
「おい。口を開けろ」
仰向けに横たわった輝虎の口に釘を咥えさせると、その上に打球を置いた恒元。にこりともせぬ真顔のまま低い声で宣う。
「さてさて。チップインの練習だ。まあ、大して面白くはないであろうがな」
そうしてクラブをゆっくりと頭上高くに振り上げる。普段からエキセントリックな言動が絶えない会長のこと。彼が何をするかは、簡単に想像がついた。
――グシャッ。
次の瞬間、鈍い音を立てて輝虎の口の辺りにクラブがめり込んだ。
「ぶごっ!?」
輝虎は苦悶の声を上げる。
「おっと。弾道の計算を誤ったようだな」
表情を変えず、恒元は第二打を繰り出した。
――グシャッ。
「ごふっ」
再び鈍い音が鳴り響き、輝虎の口元が更に歪む。
その様子を目の当たりにした俺は思わず顔をしかめた。人間ティーショット。何ともえげつない遊びと形容する他ない。
遊びというよりは最早拷問だ。
「どうだ? 楽しいか?」
輝虎は無言で首を縦に振るしかない。その様子を見た恒元が三度、クラブを構え直す。そして――。
「ぶはあっ!?」
今度はウェッジの先端が釘に乗ったボールを見事に捉え、弧を描いて飛んで行った。芝生の上なら「ナイスショット!」と掛け声が飛ぶところだが、ここは屋内。生憎なことに、天井と壁のある狭い空間である。
打球は壁に当たって跳ね返り、近くに立っていた助勤の側頭部に当たって床にコロコロと転がった。
「あはははっ! 何とも愉快なものだな! まったくもって気持ちが良いよ!」
直撃を受けた部下が泡を吹いて倒れたというのに、高らかに吹き出して笑い飛ばした恒元。恐ろしい男である……。
一方、ふと床を見ると、白い欠片が何本か散らばっていた。輝虎の歯だ。ウェッジを叩きつけられたおかげで折れて砕け散ったのだろう。
哀れというか、何というか。俺には同情を寄せることしかできなかった。
「それで? 輝虎よ。我輩に伝えたかったこととは何だね」
クラブを元の場所に戻しながら恒元は問う。すると、輝虎は震える声で言った。
「じ……実は……」
「うむ」
「み、水尾組が……煌王会と密かに通じているとの情報が……入りまして……」
――ドガッ。
直後、恒元は再び輝虎の口めがけてクラブを振り下ろした。
「ふはははっ! 見たまえ、諸君! この間抜けな表情を! 喋っている途中で気絶しおったぞ! 実に滑稽であろう!」
恒元が哄笑する。その狂気じみた振る舞いに、助勤たちは恐れをなして後退った。無理もないだろう。俺だって同じ気持ちである。ついでに言えば、畏縮していたのは藤城も然り。彼女は完全にドン引いていた。まあ、それでも何とか平静を保とうとしていたのは流石の度胸であるが。
「さて……涼平」
一通り笑い終えた後で、恒元は俺に向き直る。怒りの発散を終えて満足したのだろうか。その顔はすっかり穏やかなものに戻っていた。
「この愚か者をつまみ出してくれ。それから、このクラブのケースを車に積んでおけ」
「承知しました」
とりあえず部下たちには打球の直撃を受けて卒倒した男の介抱を命じ、俺は輝虎の身体を担いでレストランの外へと向かう。
そこへ酒井が慌てて駆け寄ってきて、俺の代わりに輝虎を運ぶのを手伝ってくれた。最近になって、少しは気が利くようになってきたか。
「……会長もエグいことしますよね」
「余計なことは考えなくて良い。忘れろ」
「は、はい」
酒井も衝撃を受けていた様子である。それでもすぐさま気持ちを切り換えられる胆力は大したもの。その辺は酒井組長の嫡男だけあって、幼い頃から鍛えられてきたのだろう。
「次長はああいうのを見ても平気なんですか? さっきはいかにもポーカーフェースって感じでしたけど?」
「別にそうでもねぇが、強いて言うならあれよりもっと悲惨なのを過去に沢山見てきたからな」
「例えば?」
「生きたままワニの餌にされる処刑とか、全身にミルクを塗りたくって足の指先から蟻に食わせる拷問とか、色々とな」
「うわっ……」
その全てが傭兵として暮らしたアフリカや東欧で目にした光景。18歳から20歳にかけてそういった地獄絵図を目にし過ぎた所為で、俺の感覚は麻痺してしまったのかもしれない。
「まあ、会長のアレもそのうち慣れるさ」
「そうですかね」
「心に耐性ができちまうんだよ」
酒井とそんな会話をしながら俺は輝虎を担ぎ上げてクラブハウスを出た。
すると、そこで違和感に気付く。輝虎が乗ってきたであろう眞行路一家の車および随行の組員が一人たりとも見当たらなかったのだ。
「えっ? あんた、単独でここへ来たのか?」
「……ぐあっ。そうだとも。今日は親父の目を盗んできたからな。一刻も早く会長に報告せねばと思たんだ。痛ててっ」
口元を押さえて苦悶しながら、輝虎は胸の内を語った。
「今度という今度は親父を止めなきゃならん。さもなくば、煌王会と戦争になりかねん。たとえ親父を……高虎を殺してでも……抗争は避けなきゃならん……」
「一体、何があったってんだよ。さっきは水尾組が煌王と内通してたとか何だと言ってなかったか?」
「そ、そうだ」
ところが輝虎がそれ以上を語ることは無かった。話す途中でがっくりと意識を落としてしまったのである。全身から脱力し、白目を剥いていた。
「おっ、おい!?」
俺は動揺する酒井を落ち着かせる。
「大丈夫だ。息はある。たぶん痛みで気絶したんだろう。口は痛覚が集中している所だからな。そこへ一定以上の負荷が加わり続ければショックを引き起こす」
「あっ、だから歯を抜く拷問があるんですね」
「そういうこった」
俺はここでふと、早朝の出来事を思い出す。あの右翼のヒットマンとおぼしき男には痛覚が無かった。一体、あれは何者なのだろう……?
話はともかく、とりあえず輝虎をどうにかしなくては。俺は財布から複数枚の現金を取り出して酒井に握らせると指示を下した。
「こいつでタクシーでも拾って、この御曹司を病院に連れてってやれ。会計が足りなきゃ電話を寄越せ。俺が行って払ってやるから」
「自腹を切るおつもりとはご立派なことで。俺なら見ず知らずの奴に金を出すなんて嫌ですけどね。ところで何科に行けばよろしいんで?」
「歯医者だ。それくらい分かんだろう。口をやられてんだからよ」
余計な一言の多さと、頭の硬さはいつも通りか。俺が「くれぐれも丁重に扱ってやれよ」と釘を刺すと、酒井は「分かりました」と言って、偶然近くを通りかかったタクシーの後部座席に乗せて現場を離れていった。
「……さてと」
恒元のゴルフバッグを車に戻した俺はクラブハウス内へ戻った。すると、打球を食らってダウンしていた助勤が意識を取り戻していた。
「おい。大丈夫か?」
「な、何ともねぇです。ご心配をおかけしてすんません。次長」
「念のため後で医者に診て貰うんだな。ほら、これをやるから」
「お、お金まで……わざわざすんません……」
俺は部下にそう告げておると、背後から声をかけられた。
「遅かったな。涼平」
そこでは恒元が帰り支度をしている最中だった。
「はい。輝虎の野郎を病院へ運ばせました。ここで万が一にも奴が身罷りゃ、本家が殺したってことで眞行路に要らん口実を与えちまいますから」
「流石は涼平。気配りができる男だな」
「そりゃあどうも」
自分の悪ふざけのせいで輝虎は重傷を負ったというのに、まるで他人事のごとく感心している。この中川会三代目はつくづく恐ろしい男だ……。
「それで? あの馬鹿は何か言っていたかね?」
恒元が問う。俺は小さく首を横に振った。
「詳細を聞き出す前に気絶しちまったんで。『親父を止めなきゃ煌王会と戦争になる』とか何とか言ってましたね」
「ふうむ。そうか……」
暫く考え込む動作を見せた後で、恒元が言い放った結論――それはこちらの腰が抜けるほどに淡白なものだった。
「まあ、後で考えよう。いざとなったら眞行路一家に破門状を書けば済む話だ。あの猛獣に何が起ころうと我輩の知ったことでは無いな」
「は、はあ……」
俺は呆気に取られる。眞行路一家の後ろ盾が所詮ハッタリであることが分かったので何時でも破門に出来るのは事実。だが、輝虎を盛り立てて高虎の追い落としをはかるというのが当面の方針であったろうに……。
単なる気まぐれ屋なのか、あるいは俺たちが見ている現実よりもはるか先を見据えた戦略家なのか、それとも両方を兼ね備えた面倒な御仁なのか。
中川恒元という男がますます分からなくなった。
「……ところで、藤城さんは?」
「ああ。さっき出て行ったよ。気分が優れなくなったから先に帰るそうだ。我輩も赤坂へ戻るとしよう。涼平、後事を任せても良いかね」
アタッシュケースを渡された。会長の云う“後事”とは口止め工作のこと。ここで起こったことが外へ漏れぬよう、ゴルフ場側にカネを贈るのだ。
「ええ、勿論」
「うむ。よろしく頼むぞ。またな」
護衛の助勤たちを引き連れ、恒元がクラブハウスを出て行く。
なお、自家用高級車に乗り込まんとする彼を先導してドアを開けたのは才原だった。今までは姿が見えなかったが、正真正銘の忍者である局長のこと。きっと気配を消してゴルフ場全体を監視していたのだろう。
「……ふう」
恒元たちが去ったのを確認してから、俺は溜息を吐く。これから施設の関係者と話をつける仕事が残っているが、少しばかり肩の荷が下りた気分だった。
すると、そこへ……。
「だーれだ」
背後から目隠しをされた。この声は藤城だ。
「おいおい。何の真似だよ」
俺は彼女の手を掴んで振り向く。すると、そこにはいたずらっぽく微笑む美女の顔があった。
「ふふっ。涼平ったら私が近づいても全然気付かないのね。後ろから来る気配を悟れないなんてヤクザ失格だぞぉ~」
「うるせぇよ。敢えて気付かねぇふりをしてやったんだよ……っていうかあんた、先に帰ったんじゃなかったのか?」
「いや、何だかシャワー浴びたくなっちゃって」
この奥多摩カントリークラブには天然温泉を有するスパ設備が用意されており、ゴルフを楽しんだ客はそこで汗を流すことができる。
「ああ。そういうことか」
「うん。ついでに涼平と喋りたくなったってのもあるけど」
肩を竦める俺を藤城はぐいっと抱き寄せてきた。
「……止せよ。どういうつもりだ」
「うふふっ。素直じゃないのね。本当は嬉しいくせに。ずっと私のおっぱいばかり見てたものね。この変態男め」
「だ、黙れ」
俺は藤城を振りほどく。この女は俺を揶揄って楽しんでいる。見下ろしたような眼差しも鼻につく――とはいうものの、廻立ちが美しいことに変わりはないのだが。
「ねぇ、涼平? この後の時間はお暇かしら?」
「お生憎様だな。色々と話を付けた後は総本部に帰らなきゃならねぇんだ」
「あらあら、それは残念ね」
若干おどけたように苦笑する藤城。彼女は俺の耳元で囁いてきた。
「じゃあ、せめて一緒にお風呂に入りましょ? さっきは汗をかいたんじゃない? 背中を流させてよぉ?」
「なっ……!」
「ふふっ。冗談よ、じょーだん」
俺は狼狽する。藤城はそんな俺の反応を見て愉しんでいるようだった。まったくもって意地の悪い女だ。
だが、それがまた彼女の美しさを引き立てる気もしなくもない。彼女はこういう奴なのである。男たらしという言葉がよく似合う。
「……こんな所で油を売ってて良いのかよ。さっさと風呂に入って来いや。キグナスたちを待たせてるんだろ」
「それについては大丈夫。皆、辛抱強い人たちで『待つ』ということに関しては慣れてるから。でなけりゃ傭兵なんかやってられないわよ」
「ふ、ふーん」
白々しく目を背ける俺。されども本音を語れば、藤城と一緒に風呂に入りたかった。豊満な裸体を拝めると想像しただけで、俺の股間は反応を示してしまう。
勃起に気取られまいとこちらから話題を振る。
「御用達のボディーガードさんらとはどういう経緯で知り合ったんだ? 俺も元は傭兵だったから分かるけど、あいつら滅茶苦茶強いぜ? 尋常じゃねぇっていうか、ありゃ米軍の特殊部隊並みだぜ?」
少しばかりたどたどしくなったものの、一応は質問の形に成った。危うく嘲笑われるところであった。
「そりゃそうでしょうね。だって、全員元SASだもん」
「おいおい。世界最強と名高いイギリス陸軍の特殊部隊じゃねぇか。そんな有名どころからどうやってヘッドハンティングしたんだよ」
すると、藤城はふと真面目な顔に変わった。
「……彼らはね。本当は存在してはいけない人たちなの。公式の上では行方不明者として扱われている」
「はあ?」
「去年、米英の連合軍がイラクに攻め込んだでしょう。その時に、彼らは敵に捕まって殺されたことになっているの。でも、実際は違うわ」
「えっ? どういうことだよ?」
俺が問うと藤城は語り始めた。
「バグダッドに侵攻した米英の大義名分が『イラク政府が隠し持つ大量破壊兵器の無力化』だったのはあなたも知ってるわね」
「あ、ああ。確かニュースでそんなこと言ってたよな」
「うん。でも、大量破壊兵器は無かった」
「無かっただと? いや、おかしいぞ? だってイラクにはプルトニウムの再処理工場らしきものがあったって……」
「それはホワイトハウスがでっち上げたデマゴーグ。本当は無かったのよ。バグダッドの関連施設に核兵器は一つも置かれていなかった。彼らはそれを承知の上で攻め込んだ。米英にとって都合の悪いイラクの指導者を殺すためにね」
俺は啞然とした。前年に勃発したイラク戦争の話は、当時東欧に居た俺の耳にも自然と入って来ていたのだ。あの頃は国際世論の過半数がアメリカの肩を持っていた。『核武装を試みるならず者国家を討つ!』という旗印に誰もが同調し、日本を含めた同盟国は軒並み後方支援に名乗りを上げたものだ。それがまさか大義の無い侵略戦争だったというのか……。
傭兵時代にアメリカ軍の将校と親しかった所為か。国際情勢を見る俺の思考軸は自然とアメリカ目線だ。ゆえに、藤城から聞かされたあの戦争の裏事情がにわかには信じられなかった。
ただ、彼女が嘘を言っているとは思えない。しかし、それが真実ならば……。
「……米英こそが真の侵略者ってことになる」
「そうよ」
大きく頷いた藤城琴音。彼女は続ける。
「ここからが本題。核兵器の存在を主張してイラク侵攻を行った米英だけど、核兵器は何処にも無かった。そうなると後々の処理が面倒になってくるわよね」
「ああ。『イラクの大量破壊兵器が無い』と分かった上で攻め込んだ以上、平和に対する罪だ。国際社会が黙っているわけが無い」
「そう。だから米英は、その罪を無かったことにしようと目論んだのよ。『大量破壊兵器は確かに“有った”けど踏み込んだ時には既にイラク側に持ち去られ後だった』ってね」
「でも、どうやって? 上の人間がどんなにやましく思ったって、下っ端の兵隊たちまでには伝わらねぇだろ。実際にイラクへ足を踏み入れる連中はすぐさま真相に気付いて、自分がやってる戦争にゃ大義が無ぇって思うはずだぜ」
「ええ。だから当時の米英両政府は口封じをはかったのよ。核弾頭の有無を確認した先遣偵察部隊の参加者全員の口を物理的あるいは精神的に塞いでね」
「なっ……」
旧ソ連がアフガン侵攻失敗を隠すために行った裏ペレストロイカを想起させる情報統制。俺は思わず絶句する。彼女が言わんとしていることはすぐに分かった。
「……まさかそんなことをやってたとはな。要するに米英がバグダッドにカチコミかけた時の参加者たちは全員が口封じに遭って粛清されたということか?」
「そうよ。あの作戦に参加した米英の軍人は全員が行方不明者扱い。家族には『敵の捕虜になって殺されたものと思われる』と嘘の説明がされてる」
「だが、実際には違う?」
「ええ。大半が殺されて、一部は頭をおかしくさせる薬を投与されて秘密収容施設に隔離されてる。半永久的に口を塞ぐために」
「じゃあ、あんたは……」
俺は藤城の顔をまじまじと見つめる。彼女は真剣な目で俺を見据えた後、大きく頷いて答えた。
「そうよ。殺される予定だった彼らを助けてあげたの。民間軍事会社を立ち上げた上で、イギリス政府と交渉してね」
言葉が出なかった。まさか、そんな背景があったなんて――例のキグナスたちが藤城琴音を「琴音様」と呼んで慕っている理由が分かった。あの連中にとって藤城は恩人中の大恩人で、命を賭けてでも守るべき大切な主君なのである。
「……なるほどな」
「まあ、半分くらいは善意だけど打算もあったのよ。どうせボディーガードを雇うなら天下無双レベルで強い人たちが良いもの。長らく特殊作戦のエキスパートとして活躍してきたあの人たちは私の要求に見事に応えてくれたってわけ」
「そうかい。なんか、あんたって人の見方が変わったよ」
「ふふっ。ありがと」
またしてもイタズラっぽく微笑む藤城。
ああ、やはり、この女は最高だ。世間では銭ゲバだの拝金主義者だのと囁かれているが、美しさの中に義理の深さを内包している。それが藤城琴音だ。
「これからこのゴルフ場の運営側と話をつけるのでしょうけど、ひとつ覚えておいてほしいのは必ずしも絶対の口止めなんか無いってことよ」
「ふっ。別に殺しはしないさ。覚えておくとも」
「そう。じゃあ、私はお風呂に行くわね。また会いましょうね。涼平」
会話がひと段落して去って行こうとする藤城に、俺は手を振った。
「じゃあな、藤城さん。また会おうぜ」
すると、彼女がぴたりと足を止める。
「あっ、そうだ」
「何だ?」
「その“藤城さん”って呼ぶのを止めて貰えるかしら。こっちがファーストネームで呼んでいるのだから、あなたも私を“琴音”って呼んでほしいわ」
ドキッとした。みるみうるうちに熱くなる頬の赤らみを悟られぬよう、わずかに俯いて俺は答える。
「お、俺は別に構わねぇけど。馴れ馴れしくねぇか?」
「馴れ馴れしくて良いじゃない。あなたとはもっと仲良くなりたいんだもん」
「な、な、仲良く……!?」
「ふふっ、うふふっ。中川親分のことは“会長”って呼んでるわよね。そんな私があなたを名前で呼ぶ理由を考えてみてね、涼平」
「……分かったよ。琴音」
「はい。よくできました。今度からそう呼んでね」
にっこりと微笑み、藤城改め琴音は大浴場へと歩いて行った。
一人ぽつんと佇む格好となった俺は、数秒前の余韻に浸り続ける。どうしようもなく、心が燃えている。だが、どこからか不思議と活力が湧いてくる。
俺はあの女に惚れているのだろう――。
己を支配する感情の正体に気付くのに、さして時間は要さなかった。
琴音の後ろ姿を見送り終えた後、俺はトイレへと向かった。個室に入って鍵をかけるとズボンとパンツを下ろす。
そして見事に反り立った男根を慰め始める。
ちょうど時を同じくしてシャワーを浴びているであろう琴音の妖艶な裸体を想像しながら。
あの豊満なおっぱいを揉み、乳首を吸いたい。しなやかに肉の引き締まった太腿を舐めたい。そして、熟れた果実のごとき女唇へ俺自身を挿れたい。
この歳になって自慰行為に耽るとは情けないもの。されども、それをやらずにはいられなかった。溜まりに溜まった情欲を発散させねば理性を維持することが出来なかったと思う。
「……ッ」
全てを終えた後、俺はスーツに着替え直す。嫌が応にも現実へ戻らなくてはなるまい。恒元から言い付けられた隠蔽工作を完遂させて、真っ直ぐ赤坂へ帰った。
帰り際に琴音とニアミスできるかと期待したが、俺がゴルフ場の支配人に金を渡し終える頃には彼女の姿は無かった。先に帰ってしまったものと考えられる。
一抹の寂寥感が襲ってくるも、それが脱力感へ変わることは無い。何故なら、彼女の連絡先は入手できたのだから。会おうと思えば、また会えるのだから。
今日も今日とて濃密な一日になってしまったが、嫌な気はせず。夕暮れの光を浴びて赤坂へ帰る頃には不思議と意気が戻っていた。また明日からも頑張ろうという心地になっていた。
「次長。戻られましたか」
「おう、酒井。お疲れさん。輝虎の野郎はどんな具合だった?」
帰着早々に玄関で酒井に出くわした。彼は俺の支持で輝虎を青梅市内の歯科医院へ運んで行った帰り。聞けば、輝虎の傷は思ったより軽かったそうな。
「歯も根元からは折れてなかったみたいで。顎の骨にもヒビが入って無いとのことで、目立って心配することでもねぇそうです」
「そうかい。案外、タフな野郎だな。坊ちゃん育ちで打たれ弱いかと思ってたが」
「はい。医者も驚いてました。当の本人は『歯医者なんかに通ってる暇は無い。すぐにでも親父を止めなければ』って焦ってましたが」
「その件だが、何があったってんだ?」
「本人から軽く聞き出しましたが、どうにも眞行路一家の枝の水尾組ってとこが煌王会に通じてたみたいです」
「ほう……」
水尾組は眞行路一家が傘下に収める横須賀の組織で、中川会全体で見れば三次団体にあたる。ただ、その規模はそこそこ大きく、100人近い兵力を備える中規模所帯。かつては横浜大鷲会に属していたが、同組織の壊滅後に一本独鈷となっていたところを眞行路高虎の調略を受けて中川会隷下に入った過去を持っているとか。
「んで、水尾組の組長を呼び出して弁明を求めたんですがなしのつぶて、挙げ句の果てには送った詰問状にも未だ返答が無いようで」
「そこで業を煮やした銀座の猛獣が横須賀侵攻を企ててるってわけか?」
「ええ。仰る通りで」
だが、事の次第はそんなに単純に非ず。現時点で水尾組がどこまで煌王会と通じているのかにもよるが、仮に盃を貰う段階まで裏切りが進んでいたとなれば一大事。水尾組だけではなく、煌王会とも争うことになってしまうのだ。
「横須賀って言うと……近くの煌王会系の組は村雨組か」
「ええ。あの村雨組です。残虐魔王、村雨耀介が率いる泣く子も黙る村雨組」
「困ったもんだな」
煌王会横浜貸元、村雨組――俺が色々な意味で最も敵に回したくない相手である。尤も、現時点で彼らと対決すると決まったわけではないが、どうしても胸騒ぎを催してしまう。想像するのも何だか億劫になる。
「……次長? どうされました?」
「あっ、いけねぇや。ちょっとボーッとしてたわ。今日は色んな人に会わされたもんで疲れたのかもしれねぇなあ」
「はあ」
言いようの無い感覚がこみ上げかけたところで、酒井の声にて我に帰った俺。かつて村雨組に居た過去は恒元の方針もあって部下たちには一切話していない。「恐れている」と思われたくないので咄嗟に取り繕った。
「まあ、渡世ってのはなるようにしかならねぇもんだからな。先のことを考えても仕方が無い。とりあえず目の前のあるものを片付けていくしかねぇよ」
「そうですね」
「俺は会長に話してくる。お前も今日は疲れただろう。ゆっくり休めよ」
部下を寮に戻し、そそくさと向かったのは会長の執務室。
「おう、早かったな。涼平」
着替えを済ませて背広姿に戻っていた恒元に、俺は一連の報告を順を追って行う。すぐにでも伝えたかったのは、やはりあの件である。
「酒井からお聞きになったかもしれませんが。俺自身、水尾組の件はかなり危うく感じています。もしかすると村雨が出てくるかもしれない」
「ふむ。確かにキナ臭いな」
俺の話に相槌を打った恒元は、葉巻に火を付けながら語り出す。
「お前を配下に迎える時点で、村雨耀介とはいずれ遠からず戦うことになるだろうと踏んでいた。実を言えばお前を5年も海外へやったのは守るためでもあった。お前を力ずくで取り戻そうとする村雨の手からな」
「そ、そうだったんですか」
「幸いにも杞憂であったが」
そこへ「しかし」と付け加え、恒元は続けた。
「最早あの時とは情勢が違う。横浜の西半分を支配する程度だった村雨も、気付けば神奈川のほぼ全土を手中に収めるまでに成長した。煌王会内での地位も幹部に昇進して向かうところ敵なしといった盤石ぶりだ」
「俺が日本を離れてた間に、あの人はそこまで……」
「ううむ。煌王会の中でも、村雨の勢いは凄まじいようだな。シノギの額では松下組や桜琳一家を既に追い越している。若頭の橘威吉も奴の台頭ぶりには
かなり警戒していると見た。言うなれば裏社会全体の脅威と呼んでも何ら差支えなかろう」
予想をはるかに超えた躍進を遂げていた村雨。不意に俺の中で、あの驚異的な戦闘力の武闘派ヤクザの姿が幻影に近い形でフラッシュバックする。「話を聞かなければ良かった」と少しばかり後悔したのは言うまでも無かった。
「くっ……村雨か……」
「大丈夫だ。奴も若衆を養う親分。中川会と正面からぶつかればどんなことになるか、想像は付く。無駄な犠牲は避けたいであろう。戦争にはならんよ」
「だ、だと良いのですが……」
「お前の気持ちは分かる。『経緯はどうあれ村雨を裏切る形で中川会に来てしまった自分をあの人は許さないのではないか』と。怖いのだろう?」
「怖いわけでは」
その問いに俺は明確な答えを返せなかった。恒元に図星を突かれた所為もあるが、一番は憐憫の情。曲がりなりにも少年時代の自分の居場所であった横浜と、最大の理解者にして親代わりであった村雨、それらに対して戦いを挑むことが心苦しく感じられたのだ。
怖いといえば、怖い。けれどもそれを否定したい自分も在る。相反する気持ちの中で揺れ動く心が、あまりにも醜く思えた。自分は何処まで軟弱なのだろう。いっぱしの任侠者であるなら、そもそもこんなことでは悩まない。私情も過去も関係なく、主君に「殺せ」と命じられた対象を討ちに行く。それこそが極道の筋、あるべき姿であろうに――。
少しの間を挟んだ末、俺は捻り出すように言葉を発する。痛感した己の甘さで、全身が溶かされる痛みを味わいながら。また、それを噛みしめながら。
「分かりません。よく、分からねぇんです。自分は本当はどう思ってるのか、そいつが上手く言葉にならねぇっていうか、理解しきれなくて」
「そうか。まあ、その時になったら考えれば良いよ。そんなに気にすることは無い」
葉巻を深く吸い込み、恒元は笑った。
「いやあ、まさかここまで深刻な事態だとはね。こんなことになるなら、他人事みたいにしないでちゃんとあの時に輝虎の話を聞いておけば良かった。彼には申し訳ないことをしたなあ、ははっ!」
軽い調子で笑い飛ばす会長に「いや、その言い方も十分他人事に聞こえますけど!?」と心の中でツッコミを入れた俺。気のせいか、心の中の不快感が和らいだ。いつもは鬱陶しいはずの会長の軽口が、この時ばかりは有り難たかった。
「さて。この話はこの辺で置いておいて。今日はお前に、頭の片隅に入れておいてもらいたい話があるのだ」
「何でしょうか」
「話というよりも、お前ならどう思うかという相談なのだがね」
どうやら話題が変わるらしい。渡りに船とは、まさにこの事。これ以上、葛藤と苦悩で心をかき乱さずに済むので、俺としては願ったり叶ったりだった。
「相談とは?」
疲れて休みたいと思う自分に喝を入れ、会長の言葉にジッと耳を傾ける。とりあえず、何でも良いから気分を換えたい。新たな仕事が入っても構わない。
「うむ。お前が知っているかどうか。赤坂にある会社が厄介なことに巻き込まれてしまったようでな、どうにも嫌な予感がするのだ」
「ほう? それは気になりますね」
会長から切り出された話題を胸の中で何度も反芻する。数秒前までの件をかき消すように。尤も、それが簡単かどうかは別問題。
「あそこは赤坂の中でも指折りに羽振りが良い不動産屋だったのだがな。一体、誰に目を付けられたのやら」
「詳しく聞かせてください」
会長の話によれば、土地の売買をめぐるトラブルらしい。
事の始まりは3週間前に遡る。赤坂4丁目にある『舘野不動産』が落札した土地に不逞の輩が居座り、法外な立ち退き料を吹っかけてきているとのこと。
「そこだけ聞けば占有屋ですね。件の不動産屋に突きつけられてる額ってのは具体的に幾らほど?」
「3億と言っていた」
「なるほど。そりゃあ、馬鹿馬鹿しい額だ」
居座っているのは十数人程度だというが、見るからにカタギではない雰囲気を漂わせているために会社としては迂闊に手出しがしづらい。挙げ句、連中はその土地の「居住権」を主張し、民事訴訟に持ち込む構えも見せているから始末が悪い。裁判を起こされたくなかったら億単位を金を寄越せ――例えるならな土地を人質にとった身代金要求だった。
「そんで、うちにお鉢が回ってきたってわけですか」
「ううむ。舘野不動産からは大枚のみかじめを貰っているし、本家お膝元の赤坂で起きていることだ。見過ごすわけにはいかんだろう」
ただ、そうなってくるとひとつ疑問が生じる。
「その占有屋は不動産屋に俺たち中川会が付いてることを分かって動いてるんですかね? だとすりゃ見上げた度胸ですよ」
「ああ。我輩はおそらく、背後には煌王会が在ると読んでいる。あれくらいの後ろ盾が居なくては東京で中川会に粉をかける真似はできまい」
「煌王会か……」
会長が口にした組織の名前を耳にした途端、俺は自然と顔をしかめた。ここでもその単語が飛び出すとはたまげたものだ。関西はよっぽど東京への進出に御執心なのか……?
内情は想像以上に深刻だった。
「舘野が押さえた土地は瑞穂町にあってな。元は産業廃棄物の処理施設だったが、数年前にダイオキシンが出て操業中止になった」
「ほう。てっきり都内の一等地か何処かを落としたもんだと思いましたが。何でまたそんな辺鄙なところを?」
「実はそこに都が清掃工場を建てる話があるそうでな。事業計画を察知した舘野が都に先んじて土地購入に動いたというわけだ」
一連の出来事に納得がいった。居住権を主張する“住民”が存在する以上、都としては事業開始に踏み切れない。計画自体が白紙化してしまえば地価は暴落して用地の確保に大金を注いだ舘野不動産は多大な損失を被ることになってしまう。
「ちなみに舘野はその土地をどれくらいで落札したんです?」
「1億だ。会社のおよそ1年分の予算に相当する額らしい」
「うわっ。じゃあ、占有屋に吹っかけられてる立ち退き料はその3倍ってわけですか」
「そうだな。舘野にしてみれば会社の命運を懸けた大博打だったのだろう。それがまさか不埒な連中に付け込まれるとは」
瑞穂町のある奥多摩地域は直参大国屋一家の管轄。恒元は数日前から大国屋一家に占有屋の排除を命じているが、一向に成果が上がらないという。同組総長の櫨山重頼曰く「頑強な抵抗を前に苦戦している」そうな。
「ちょっと待った。大国屋と云えば500の兵隊を抱える大所帯じゃないですか。御七卿の一角ともあろう組が、たかが占有屋ごときに手を焼くもんですか?」
「そこなのだ。普通に考えれば実におかしい話だ。大国屋は若頭が海外出張中で戦力的には本調子じゃないが、それでもチンピラ相手に苦戦はしないはず」
ここで恒元が俺の顔をジッと見た。まさに「お前はどう思う?」と言いたげな視線。会長が俺に期待する答えはたったひとつ。
「あくまで俺の憶測ですが。大国屋もグルなんじゃないですか。占有屋の件は自作自演、煌王会と結託して中川会に歯向かおうとしている」
すると、恒元は指をパチンと鳴らす。
「その通り」
俺の意見を聞きたい……というよりは御七卿の暗躍を疑う己の見立てに同意を得たかったのだろう。それはともかくとして、恒元の推理はある程度の真実味を孕んでいる。でなければ大国屋一家にとってあまりに都合が良すぎるのだ。
「煌王会は東京への進出を狙っている。それゆえに大国屋を動かして舘野不動産に損失を出させ、やがて本家が動くよう仕向けたのだ」
「そういうことでしょうね。本家が事の対処に失敗すれば三代目の権威に傷がつく。となれば、ここで会長御自ら動かれるのは奴らの思う壺なのでは?」
「守り代を預かる会社をみすみす潰したとあっては尚更に恥だろう。だからこそ、此度の件は必ず解決させねばならん。中川会本家の手でな」
ゆっくりと頷いた俺に会長は言った。
「涼平。お前に任せたいと思っている。頼めるか」
まあ、そうなるわな。配下の直参を当てに出来ない限りは直属戦力である執事局の出番。ここで断る選択肢なんか有るわけがない。
「承知しました。あなた様の威信に懸けて、必ずや解決してみせましょう」
「うむ。頼んだぞ」
かくして新しい仕事を与えられることになったわけだが――果たして如何に動けば良いものか。文字通り、手探り状態での始動になりそうだ。
こういう時は先ず情報収集である。
「会長。とりあえずは当事者に話を聞いてみたいです。明日以降のアポイントをお願いできますか?」
「勿論だ。舘野に電話してみよう」
そう言って葉巻の火を消し、机の上にあった古めかしい電話機のダイヤルを回し始めた恒元。中川会の会長ともなれば、お膝元にある企業の経営者くらい電話一本で呼び出せるのかもしれない……と黙っていていた、ちょうどその時。
「会長。失礼します。お客人がお見えです」
執務室の扉をノックする音と共に助勤の声が聞こえた。
「おい。今はお取込み中だ。後で出直してくれや」
「赤坂の組合長が『どうしても会いたい』と……」
ドア越しに聞こえた助勤の返答を聞いた瞬間、電話をかける恒元の手が止まった。
「ああ、そうだった! すっかり忘れてしまっていたよ! すぐに通してやってくれんか!」
どうやら先約があった模様。助勤が「かしこまりました。お通りします」と去った後、頭を掻きながら恒元は苦笑した。
「いやあ、この歳になると忘れっぽくていけないね。今日はゴルフを楽しんだ所為かな。記憶が丸ごと上書きされてしまっていたよ」
「ところで誰なんです? その組合長って人は?」
「赤坂地区に看板を出す企業群の顔役でな。我輩とは長い付き合いになる男だ。カタギではあるが、実質的に赤坂の街を仕切ってくれている」
「ほう? そんな人がいたんですか?」
「うむ。涼平とは会ったことが無かったな。ちょうど良い機会だから、今宵はお前も顔を合わせておこうじゃないか」
その組合長なる人物の正式な肩書きは『赤坂地区商工協同組合組合長』と云う。元々は赤坂で輸入雑貨商を営んでいた人物で、先代から引き継いだ会社を堅実に経営するやり手らしい。その人柄の良さと面倒見の良さが評判を呼び、今では“街の顔役”として界隈の人々に慕われているという。
「知っての通り赤坂は中川会の謂わば直轄領だが、本家としてシマの差配は行っていない。お前たち執事局にもみかじめを取りに行かせたことは無いからな」
「確かに。でも、さっきは守代を貰ってるって……」
「そう。一般的な組のように地回りでショバ代や用心棒代を巻き上げてはいないが、赤坂にある店や企業からは“顧問料”の名目で金を貰い、何か面倒が起これば対処に当たる契約を取り決めている。その回収を担ってくれているのが彼なのだ」
中川恒元は自らを代表とした『中川綜合警備保障』という名のペーパーカンパニーを設立し、協同組合と顧問契約を締結することで組合に加盟する全ての事業所から合法の上で守り代を取っている。その守り代は組合の会費の中に含まれているため、カネを搾り取られる云々の不満が中川会へ向くことは無いという算段だ。なかなか賢い、合理的なやり方と思った。
「なるほど。しかし、その組合長がわざわざ会長に会いに来たってのは……」
「うむ。占有屋の件だ。彼には舘野不動産との仲介役を買って貰っているからな」
ここで恒元が葉巻に再び火を点けたので俺もそれに倣う。一服しつつ、俺は頭を回転させた。前もって決まっていたとはいえ、このタイミングでの訪問ともなれば十中八九、何か良からぬ事態が起きたと考えるのが妥当。でなければこんな夜間に会う段取りなど付けまい。
そう思っていたところで、扉がノックされた。
「会長。組合長をお連れしました」
「うむ。通してくれ」
助勤が扉を開けると、そこには背広姿の中年男性がいた。
背丈は俺より少し低いくらいか? 年齢は40代半ばといったところだろう。黒縁の眼鏡に穏やかな印象の顔立ち。七三分けにちらほらとみえる白髪が目立っていた。
「夜分に申し訳ございません。中川の親分」
組合長なる男はそう言って頭を下げた。その口調は丁寧で礼儀正しい。いかにも“好人物”という雰囲気を醸し出しているが、俺は何となく胡散臭さを感じた。この男に限った話ではなく、ヤクザと付き合いのある人間は多かれ少なかれその傾向はある。
「構わんよ。それより、君に紹介したい男がいる。こちらは麻木涼平だ。我輩の側近でね。現時点で組織の中じゃ最も信頼の置ける男だ」
すると組合長は「ほう……」と呟き、値踏みするような視線を俺に向けてきた。そして、おもむろに口を開く。
「初めまして。与田雅彦です。不肖ながら赤坂の商工組合をまとめております、よろしくどうぞ」
握手を求められたので、俺は素直に応じた。
「こちらこそ初めまして。麻木涼平です」
与田雅彦と名乗る組合長と握手を交わす。与田というのは、なかなか珍しい名字である。どこかで聞いたことのあるような気がするが……まあ良いだろう。
恒元の言葉で会話は本題へと入った。
「与田君。奴らは未だ立ち退く気配が無いか?」
「ええ。仰る通り。舘野の社長も頭を抱えてますよ。3億円でなければテコでも動かんの一点張りで。困った連中です」
与田は頷き、客人用の大きなソファに腰掛けた。そして、歯噛みしながら言う。
「実は舘野不動産側が妥協案を提示したのです。『3億は無理だが、その代わりに』と。相手が極道だと分かって完全に腰が引けているようで」
「ちょっと待ちたまえ。妥協案とは何だ? そんな話、我輩は聞いていないぞ?」
「舘野が連中の代理人へ直に持ちかけたんです。立ち退き料の代わりに会社が保有する土地を無償で譲り渡すとか」
「馬鹿なことを! 極道を相手に少しでも譲歩すれば付け込まれるだけというのに! あの不動産屋はその辺を分かっておらんのか!」
「はい……俺も止めたんですが、舘野は聞く耳を持ってくれなくて……」
ため息をついた後、恒元が問う。
「で、舘野サイドが妥協し始めたのを見るや否や占有屋どもは勢いづいたというわけか?」
「その通りでございます」
与田の返答に恒元は舌打ちをした。そして、苛立たしげに葉巻を灰皿に押しつける。
「くっ、愚か者めが! 勝手に動きおって!」
恒元としては、顔を潰されるにも等しい行為。舘野不動産のために中川会が奔走しているのに、その舘野不動産が解決を遅らせては本末転倒。挙げ句、中川会側に何の断りも無く頭越しに先方と交渉を行うなど無礼千万ではないか。
俺が恒元の立場でも怒りを感じると思う。根底にあるのは舘野側の焦り。そしてもうひとつ聞き捨てならぬ事情があるようだった。
「言いにくいんですがね、舘野としちゃあ中川の親分を頼りたくないんでしょう。借りを作りたくないのかもしれません」
「借りも何も。組合には加盟しているのだろう? であれば我輩が無条件で助けてやる道理は成り立つではないか」
「ええ。ですが、舘野の社長はプライドの高いお人で。他者に頼らず自分の手でどうにかしたいって気持ちがあるんでしょう」
「馬鹿な男だ。そのような生き方は時として己の首を絞めるだけだというのに」
「まったくです。けど、あの社長はそういう人ですから。元は建設省で事務次官候補まで昇っただけあって誰かに縋るのは得意じゃないんでしょう」
話を聞く限りでは舘野不動産の代表は旧建設省から天下りしてきた身らしい。元官僚ならではのエリート意識というやつか。あまり共感はできないが。
「そうだとしても、我輩にもケツモチを買って出た者の立場というものがある。与田君。彼に『もう勝手な真似はするな』と伝えておいてくれんか」
「はい。きつく言っておきます」
「はあ……ただでさえ幹部たちに軽んじられているというのに。カタギにまで蔑ろにされるようでは威厳も何もあったものじゃない」
煙草の煙を吐き捨てた恒元。二人のやり取りが少し落ち着いたところで、俺も少し口を挟んでみる。
「与田さん。ひとつ気になることがあるんですが」
「気になることとは」
「占有屋が例の土地に居座り始めたのは何時頃からですか? 話を聞く限り、どうにも手回しが良すぎるっていうか」
与田は頷きつつ答えた。
「ええっと……産廃処理場が操業中止になってすぐに妙な輩がたむろし始めたって噂だから、今年の夏頃ですかね」
「それは土地が競売にかけられるより前のことですか?」
「前ですね」
土地が売りに出される前の段階で、既に産廃処理場跡の占拠は行われていた――とするとますます臭う。
「なるほど。その時期から居座りが始まってたとなりゃ、占有屋が居住権を主張するのに都合の良い状況ですね」
「と、言われますと?」
「この騒動はおかしいってことです。最初から占有屋の乱入が既定路線だったとしか思えない。おそらく奴らは土地の元の所有者とグルになっている」
与田が「まさか」と反応し、恒元も驚きを露わにした。
「麻木さん。それじゃあ……」
「ええ。旧地権者はあらかじめ占有屋を用意した上で土地を手放した。落札者から立ち退き料をむしり取る目的でね」
俺が仮説を伝えると、与田は目を丸くして絶句していた。一方の恒元は葉巻の煙を燻らせつつ「ふむ……」と呟く。
「涼平の言う通りかもしれんな。となると、舘野不動産はとんだ外れクジを引いてしまったというわけか」
与田が頷きつつ口を開いた。
「し、しかし、何故そんなことを?」
「それは分かりません。ただ単に金が欲しかったか、あるいは舘野不動産を嵌める意図があったか。いずれにせよ旧地権者に訊くのが一番ですね」
俺の言葉に恒元は頷く。
「そうだな。かつて産廃処理事業を営んでいたという前の持ち主を洗ってみよう。事のからくりが一気に見えてくるかもしれん」
先ず、はっきりさせるべきは煌王会の関与の有無。仮に奴らが絡んでいたとすれば、それは中川会への宣戦布告にも等しい。一歩間違えれば東西全面抗争にも繋がりかねない重大事案ゆえに、慎重に確かめる必要がある。
「いやあ、親分。何だか大事になってきましたな。ただの不動産会社のゴタゴタだと思っていたらこんなにも複雑な話だったとは……」
「その辺は気にせんで良いよ。与田君。極道絡みの問題は我々が何とかするから、あくまでも君は舘野不動産を助けることだけを考えて動いてくれ」
「いつもすみません、親分」
「良いんだよ。君が常に義理と人情でモノを考える男だからこそ、我輩はこの赤坂を任せたいと思うんだ。頼りにしているよ」
「は、はい」
与田は感激した様子で頭を下げた。何だか彼の人となりが分かった気がする。この男は己の損得よりも善意を重んじるタイプの人間だ。
かつて街の顔役だった極道者が現代では忘れてしまった義理と人情――謂わば任侠精神をカタギの身でありながら胸に抱き、己の是として行動している。
騒動に巻き込まれた舘野不動産を守るべく動いている原動力は、赤坂地域の顔役としての使命感以上に、この人が元来備える侠気なのだろう。
少し敬服していると与田は「ところで……」と前置きして俺の方を見る。
「麻木さん、夕飯はお済みですかな? もし良ければうちの店で食べて行かれませんか?」
何とも思いがけない誘いだ。俺が少し考える素振りを見せていると、恒元が明るい声を出した。
「良いじゃないか。行ってきたまえよ。与田君の店は美味いぞ。何せ、この件はお前が仕切るんだ。これからに向けて親睦を深めるにはちょうど良い機会だと思うよ」
「では、お言葉に甘えて。行って参ります」
「うむ。そうこなくてはな!」
というわけで、俺は与田の店で夕飯を馳走になることになった。
「いやいや。心強い限りですよ。あなたのような覇気あふれる若者が味方についてくれれば、百人力どころか千人力だ」
「大したことありませんよ。ただ、俺は会長に言われた通りに動くだけですんで……」
与田が嬉しそうに言うものだから、思わず謙遜してしまう俺。だが彼はそんな俺の言葉を笑い飛ばした。
「何を仰いますか! 涼平さんはその年齢で任侠精神を体現している。そして何より、親分の信頼を得ている! それだけで十分ですよ」
「はあ……」
「お噂はカタギの間にも伝わっておりますよ。勇ましいご活躍ぶりだとか。きっと義理堅いお心が顔つきに表れるんでしょうなあ」
与田は俺を大絶賛するが、俺としては過分な評価に戸惑うばかりである。俺はただ会長の命令に従っているだけで、俺自身が何かを成したという自覚はない。それに『任侠精神を体現している』というのは、結局の人間としての甘さが顔に滲み出ているという意味ではないのか……?
彼とて貶すつもりで言ったわけではないにせよ、良からぬ受け取り方をしてしまうのは一般人とは異なる価値観ゆえか。義理堅い人間性は表社会では良いこととされているが、実際の任侠渡世では時として欠点となり得る。生きるため、主君の命を遂げるために「情を捨てろ」と教え込まれる。
人間らしい尤もな情を捨てて、無慈悲に引き金をひけるようでなくてはヤクザとして食っては行かれないのである。俺は少しばかり、複雑な気持ちになって与田の話を聞いていた。赤坂地区で店をやっているという彼はやがて総本部を出て賑やかな歓楽街の方へと歩いて行く。
「けっこう歩きますね。どのあたりでお店をやってるんですか?」
「3丁目にあります。俺の本業は輸入雑貨なんですけどね、副業がてらに喫茶店をやってるんですよ。最近じゃ珍しいかもしれませんが純喫茶です」
「へぇ。そらぁ楽しみだ」
「ええ、お陰様で繁盛しておりますよ」
赤坂3丁目にある純喫茶……!?
どこかで聞いたことのある情報。妙な既視感にも似た予感が頭をよぎる。
「麻木さん。どうかされましたか?」
「い、いえ、何でもありません」
俺は与田に悟られないよう平静を装った。だが、この感覚は徐々に大きくなっていく。まるで警鐘のように。赤坂見附の交差点を右に曲がったところで、はっきりとした胸騒ぎに変わる。
これは、明らかに知っている道だ。もしかして、あの場所へ向かうのではないか? 何せ、この組合長の名字は「与田」なのだ。
そしてついに――その店を目にした瞬間、俺の胸のざわめきは的中した。
「えっ、この店は……!?」
「おや。ご存じでしたか。自分で言うのもおかしな話ですが赤坂じゃ有名な店なんですよ。まあ、ご覧の通り時代遅れの純喫茶ですが」
「いや、その……」
俺は言葉を失った。そう……この純喫茶『Cafē Noble』は俺も何度か訪れたことのある店だったのだ。与田が不思議そうに首を傾げている。
「どうしました?」
「……まさか、この店だったとは。前にここでコーヒーを頂いたことがあります」
「おお! いらしてたんですか! いやあ、嬉しいですねぇ! やっぱり赤坂じゃ有名店なのかもしれないですなあ! はっはっはっ!」
「ええ。そうですね……」
俺は歯切れの悪い返事をするしかなかった。与田はなおも豪快に笑う。
「お恥ずかしながら、俺は組合の仕事にかまけて殆ど店には立ちませんもので。娘の淹れるコーヒーはいかがでしたかな?」
「……お、美味しかったです」
「そうでしたか! こうしてお褒めの言葉を頂くと、家業ってもんに自信が持てますよ! 尤も俺は店に立ってないんですけどね!」
「は、はあ……」
与田は上機嫌だったが俺は複雑な心境だった。まさかこんな形で戻ってくることになろうとは……運命とは皮肉なものだなと思った。
何を隠そう、この店は俺は数日前にこっぴどい失恋をしてしまった場所なのだから。
「さ、娘のコーヒーを飲んでいってくださいな! どうぞ!」
ここまで来たら入るしかない。虚しさと気まずさが同時に押し寄せて心が燃え上がりそうになりつつも、俺は意を決して足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ!」
扉を開けるとカランコロンというベルの音が鳴り響き、カウンターに居る可憐な若い女が俺に目を向けてきた。
「お一人様ですか……って、あなた!?」
「よ、よお。久しぶり……でもねぇか」
驚きと憤りが入り混じった眼差しで俺を睨むその女の名は、与田華鈴。数日前に俺をひどく罵った看板娘であった。
もう会うことは無いと思っていた華鈴と、まさかの再会……!




