絢華の涙
海辺に車を停めた後、絢華を車椅子に乗せた。
「おい。くれぐれも、妙な真似をするんじゃねぇぞ。お嬢に何かあったら、てめぇひとりのケジメだけじゃ済まないんだからな?」
絢華本人は何も言わなかったものの、廣田はやけに心配そうな面持ちで釘を刺して来た。俺が正式な組員ではない以上、有事の際に責任を取らされるのは彼である。気持ちは理解できたが、あまり気分の良いものではない。俺自身、そこまでの阿呆ではないからだ。
「わかったよ。すぐに戻ってくる。そんな、心配すんなって」
絢華と共に歩き始める。砂浜に差し掛かり、海の水に触れるギリギリの場所まで行くと、車椅子を海へ向けて止め、俺はその隣に立った。
「なあ、この向こうには中国があるんだろ?」
「違うわ」
「違うのか?」
地平線を眺めながら、絢華が訂正する。
「ここは神奈川の海だから、面しているのは太平洋。このまま東に進んだ先にあるのはアメリカでしょ」
「あっ。そっか……」
「はあ。あなたって、本当にバカなのね」
前言撤回。やっぱり俺は阿呆だった。そもそも全くと言って良いほど、自分には学というものが無い。このくだりを読んだ人の多くが、きっと絢華と同じ感想を抱くだろう。いま振り返ってみても実に恥ずかしい思い出だ。
もっと中学で、地理の授業を真面目に受けておけば良かった――。
後悔の念と恥ずかしさに駆られ、俺の顔は紅くなった。その一方で、絢華は明るい声を上げた。
「いつ来ても綺麗ね……海は……」
興奮冷めやらぬ、と書けば適切だろうか。海を眺める彼女のテンションは、まだ下がっていなかった。
(こいつは本当に、海が好きなんだな……)
俺はスラックスのポケットに手を突っ込み、目を閉じる。
心にそよぐ風の音を伝っていけば、この先には日本よりも遥かに広いアメリカという国があって、おまけにその国には日本の何倍もの人が住んでいるのだ。よくよく考えてみれば、あまりにも壮大な話ではないか。
こんな狭い国の中で、更には狭い街で威張り散らしたところで、世界全体からすれば取るに足らないちっぽけな存在なのだ。“井の中の蛙大海を知らず”とは、まさに言い得て妙である。
「……行ってみたいな」
「なに?」
「アメリカだよ。いつか、行きたいなって。ほら、アメリカって“自由の国”って言うじゃん。本場のハンバーガーを食ってみたい、ってのもあるけどさ。でも、やっぱり自由の女神だよな……ロサンゼルスの」
持ってきた煙草に火を点ける。吐き出した煙は潮風に導かれて、上へ、上へと昇ってゆく。焦げるような匂いが、鼻の中を突き抜けた。
「……」
何も言わない絢華。
あまりにも幼稚な俺の願望に呆れたのだろうか。それとも、何かを言いたくても言葉にならなかったのか。それは分からない。ちなみに後から知った情報だが、自由の女神像があるのはロサンゼルスではなくニューヨークだ。
その点をツッコまれなくて本当に良かったと今でも思う。
「……なあ、絢華」
「なによ」
「お前は、アメリカに行ってみたいって思うか?」
再び、沈黙。だが今度ばかりは、しっかりと言葉を返ってきた。
「思わないわ。でもアメリカには、いつかは行かなきゃいけないでしょうね。いまの身体を治すために」
いつの間にか、絢華は膝を両手でポンポンと叩き始めていた。俺は気になって、先ほど聞けなかったことを再度、問うてみる。
「お前のそれって、治るのか?」
「……アメリカで手術を受ければ治るって、医者は言ってた」
「それなら、受けに行ったら良いじゃねぇか」
絢華は、静かに首を横に振った。
「嫌。怖いから」
そう言って、絢華はジッとこちらを見た。
目だけを俺に向けているが、睨んでいる訳ではなさそうだ。大きな不安に、ほんの少しだけ期待が混じった眼差し。
俺は彼女の頭を軽く、撫でてやった。
「大丈夫だろ。よく分かんねぇけど、お前なら大丈夫な気がするよ」
「どうして、そう言えるの?」
「何となく、そんな気がするだけさ。それにな……」
「それに?」
ゆっくりと、言葉を紡ぎ出す。
「昔、俺の親父が言ってたんだ。『どんな幸せも、怖さを越えた先にある』ってな」
俺は後ろを振り向き、右手を差し伸べた。それに呼応するかのように、絢華は手を掴んでくる。
「……素敵なお父様ね」
「ああ」
雰囲気をしらけさせてはいけないと思った俺は、あえて「もう死んじまったけどな」とは言わなかった。
亡き父から借りた言葉だったが、絢華の表情は少しばかり和らいでいる。まだまだ緊張の介在した面持ちではあったものの、いつも村雨邸に居る時よりかはだいぶ、気持ちがほぐれているのが伝わってくる。
「さあて、そろそろ戻るか。廣田の野郎が心配しちまう」
「……うん」
俺は車椅子を押し、元来た道を戻っていく。今度は後部座席の右側に絢華を座らせると、廣田による運転で車は家路をたどり始めた。岸線をひた走り、柳島の国道1号に差し掛かった頃だった。
「……」
隣に座る絢華が、寝息を立てている。久々の外出で、さぞ体が疲れたのだろう。まるで童話の眠り姫のごとく、静かに瞳を閉じているではないか。
こうしてみると、意外と可愛いものだ。少し、ふしだらな感情が芽生え始めたその時。運転席から声が飛んできた。
「おい。さっき、海でお嬢と何を話した?」
廣田が問いかけてきたのだ。
「何って。そちらさんには関係ねぇだろ。もしかしてお前、お目付け役か何かか?」
「いや、そういうわけじゃないが」
「だったら何なんだよ」
「お前に変な誤解をされると、困るんだ。お嬢のことを」
思わず、問い返す俺。
「誤解だと?」
「そうだ。お嬢が今の暮らしを続けているのには理由がある。お前もお嬢のお世話を担うんなら、今から言うことをしっかり胸に刻んでおけ」
誤解と言われてもいまいちピンと来なかったが、トーンを全く変えないまま、廣田は話を始めた。
「元気そうに振る舞ってはいるが、お嬢の身体は内臓がほとんど機能してねぇんだ。1年前、村雨組とドンパチやってた組織の下っ端に不意打ち食らってよ。後ろから何発も、何発も撃たれたんだ」
ちょうど、絢華が学校から1人で帰宅している時だったとの事。不運にも近くに通行人などはおらず、銃声を聞いて駆け付けた警察に保護され、病院に搬送されるまでに時間がかかってしまったという。
廣田は言った。
「担ぎ込まれるのに手間取ったせいで、処置がだいぶ遅れてな。あらゆる内臓がうまいこと動かなくなったのさ。おかげで、お嬢は自分の力だけでは歩くことができないし、メシ時に箸を持つこともままならない。汗をかこうものなら、たちまち死んじまう」
「……」
「医者は『一命をとりとめただけでも奇跡』と言ったらしいが、お嬢にしてみりゃ死んだ方がマシだったかもしれん。中途半端に助かったせいで、とんだ生き地獄を味わい続ける運命になったんだからな」
何も、言うことができなかった。
組同士の抗争に巻き込まれ、身体に重い障害を負った話こそ既知である。しかし詳細は想像以上に悲しく、惨たらしいものであった。そんな過酷な運命に襲われた少女に、俺は「割り切って生きていくしかねぇんだよ」と言ってしまった。
知らなかったこととはいえ、己の愚かさが悔やまれる。
「だから、誤解しないでくれ。お嬢は好きで、部屋に引きこもってるわけじゃない。本当は同じ年頃の娘達と同じように、出かけたり、遊んだりして、楽しく暮らしたいんだよ。いいか? これだけは、絶対に忘れるんじゃねぇぞ」
「……わかった」
「でもな。ここだけの話、お嬢に希望が『まったく無い』わけじゃねぇんだ」
「治療法があるってのか?」
ハンドルを右に切りながら、廣田は頷く。
「ああ。いま、組長が話を進めているんだが……お嬢の身体に、健康な人間の心肺を移植する計画がある」
「もしかして、それはアメリカでやるのか?」
「その通りだ。向こうはそっち系の医療技術が、日本とは比べもんにならねぇくらいに進んでるからな。大金を積めば、どうとでも治療できるんだ。けど、問題は……」
「当の本人が、それを拒んでいると?」
その瞬間、バックミラーに映る廣田の目が丸くなった。
「ああ。そうだとも。お嬢はアメリカでの手術を『怖い』と仰ってる……ってお前、どうして知ってるんだよ」
眠っている絢華をあごで指して、答える。
「さっき、コイツから聞かされたよ」
廣田は軽く「そっか」と応じた。それから少しの間、会話が途切れた。車内が無言のまま、外の風景は国道を抜けて東名高速道路に移り変わる。だが、往路の際と違って気まずい感覚はおぼえなかった。
俺は再び、廣田の話に耳を傾ける。
「お前も知ってると思うが、組長はお嬢の件で責任を感じておられるんだ。『あの日、学校に迎えの部下を遣わせていれば……』とか、『あの日、自分が絢華を迎えに行ってやれば……』とかな。たしかにあの頃、うちと連中は抗争の真っ最中だったし、そういう気配りもできたかもしれない」
「たしかにな」
「でも、あれは誰にとっても想定外だった。まさか、やつらが組長じゃなくて、お嬢の方を標的にしてただなんてな。あの一件を予測できた人間なんか誰もいやしねぇよ。組長でさえも」
絢華が大ケガをして以来、村雨はあらゆる方法で彼女を救おうとしていると廣田は言った。
しかし、それらは絢華の頑なな心によって、悉く拒まれてしまう。事件に遭って以来、彼女は父親とまともにコミュニケーションを取ろうとしなくなったばかりか、目を合わせようともしないそうだ。
「お嬢も、何を考えておられるのか……手術が怖いのは分かる。でも少しは、組長のお気持ちも汲んでいただきたいもんだよ。ほんとに」
村雨組長と絢華。
両者の関係改善に、組の人間たちは腐心しているのだろう。苦い笑みを浮かべながら、愚痴のような本音を漏らした廣田であったが、俺は肯定も否定も出来なかった。ただ、意地を張っているだけには思えなかったのである。
(本当は父親のことが大好きなはずなのに……)
村雨や秋元に命じられたのもあるが、完全に自分の意志だった。誰の指図を受けるわけでもなく、ただ純粋に心の底から、村雨絢華という女を「救いたい」と願ったのである。
(……やってやるさ)
決意が自分の中でゆっくりと定まっていく一方、俺の横で静かに寝息を立てる絢華の頬は、わずかに濡れていた。