どっこい大騒ぎ
翌日。こちらの呼び出しに応じて、輝虎は再びやって来た。所定の時刻より30分も早く到着するという律儀さである。
「誠意を見せようってのか? わざとらしいこったな」
「どう受け取って貰っても構わないさ。俺はただ、恒元公への忠義を貫くだけさ。眞行路一家の“次期総長”としてね」
玄関先で顔を見せて早々に皮肉る俺に対し、輝虎は何ら表情を崩さずに受け流す。
昨日と変わったのは、スーツの色合いとネクタイが若干明るめになっている点であろうか。端正な顔立ちも相まって憎らしい奴だ。
「よく来たな、輝虎。時間にしっかりしている所は昔から変わっていないようだねぇ」
「ご無沙汰しております。会長」
「それにしても久しぶりだな。最後に会ったのは若頭就任の挨拶に来た時、およそ7年前か。しばらく見ない間に逞しくなったものだな」
「いえいえ。恐縮です」
張り付いた笑みを満面に咲かせて応じる輝虎。
後ろに控えた俺は心中穏やかでいられない。込み上がる嫌悪感を押し殺すので大変だ。顔を見ているだけで腹が立つ。本音をいえば殴りたくて仕方がなかった。無論、会長の手前そんなことはしないのだが。
「大方の話は次長から聞いているよ。君はそう遠からぬうちに眞行路一家の当代を襲名したいとのことだったね。恐れ多くも、父親を倒して」
「ええ……確かに、結論から言ってしまえば……」
早速切り出した会長に対して、輝虎は慎重に言葉を選びつつ続ける。
「……ゆくゆくは眞行路の跡目を獲らせて頂きたく存じます。父、高虎はあまりに不忠者にて。このまま粛清せずに生かしておいては組織のためになりますまい。私が五代目を継いだ暁には組を挙げて会長にお仕えいたす所存で」
あまりに当たり障りのない言いまわしだと思った。もちろん良くない方の意味で。恒元も同じことを思ったのか、会長は少し不満げに問う。
「ゆくゆくは? 今すぐにではないのか?」
「然るべき時が来れば、という意味にございます。その時が“今すぐ”なのか、そうでないかは実際に来てみなければ分かりません。今はいずれ来る決起の時に備えて、ひたすらに力を蓄えている次第にて」
ここで辛抱たまらなくなった俺が皮肉をぶつけてやる。
「へっ、本当は親父に歯向かう勇気なんざこれっぽっちも無い癖に。口だけのヘタレ野郎が」
ついでに頬のひとつでも叩いてやろうかと思ったが、輝虎はひるまないどころか笑みを浮かべながら振り返ると口を開いた。
「捻じ曲げた解釈は止めてくれよ。俺は、いずれその時が来たら必ず立つ。口だけなどと蔑まれる謂れは無い」
「そうやって先延ばしにしてるのがクソダセェってんだ。やる気があるなら、いずれじゃなくて今すぐ動きやがれ」
「事を成すには時機というものが肝心なんだよ。あなたのようなチンピラのさもしい頭ではそんなことも理解できないのか」
「んだとゴラァ!?」
鼻を鳴らした輝虎の顔が本当に恨めしい。この男を殺せるならどんなに気が楽になるだろうか……ルックスから言葉の節々まで全てが嫌な奴だ。衝動的に右手の拳をギュッと握り込んだ俺だが、そこで恒元がストップをかけた。
「おいおい。やめないか、二人とも」
大きく首を振る恒元を目の当たりに、俺は複雑な気分になる。輝虎は遠回しに会長のことも小馬鹿にしているではないか。一発くらい殴らせてくれたって良かろうに。
「まあ、我輩としては涼平の言うことも一理あると思う。どうせやるなら先延ばしにするのではなく今すぐに事を成してほしいものだね」
恒元が軽くフォローを添えてくれた。それが無ければ俺は矛を収められなかったと思う。輝虎の態度は最早、慇懃の範疇を逸脱している。
「恐れ入りますが、勝負においては時機との兼ね合いが欠かせないのです。血気に逸り、いたずらに行動を焦っては泣きを見るだけ。私は、やるからには勝ち戦をしたいのでございます」
「てめぇ、いい加減にしろよ。会長に向かって……」
ここでまた恒元が割って入る。
「涼平。少し黙っていてくれないかね。今、我輩は輝虎と話をしているのだから」
再度の口出しを恒元に咎められ、俺は「失礼しました」と渋々ながらに押し黙るしかなかった。これ以上の抵抗は無駄のようだ。
「なるほど。よくわかった。確かに今の段階で事を焦れば、却って足元を掬われかねない。君が慎重になる理由も分かる。だが、それは同時に君自身の力では父親に及ばないという認識の現われではないかね?」
沈黙を命じられた俺を尻目に、輝虎は悠然と答える。
「いいえ。決してそのようなことは」
「では、質問を変えよう。我輩が『殺せ』と命じたらその日のうちに父親を殺せるか? 君自身の手で高虎の首を獲れるのか?」
「勿論にございますとも。会長が父を討ち取る裁可をお与えくださり、その後で私の眞行路一家襲名をお約束いただけるのであれば」
「我輩は関係無い! 君に自らの意思で銀座の猛獣が倒せるのかと聞いているんだ!!」
「……ッ」
ここへ来て初めて輝虎の表情が変化した。執務室の机を乱暴に叩いた恒元の一喝を受け、それまで漂っていた余裕の笑みが消えたのだ。
怒鳴られたところで欠片も怯まないかと思いきや、こうも分かりやすい動揺を見せるとは。輝虎の覚悟とやらの底が知れた気分だ。
喉の調子を戻し、恒元は淡々と続ける。
「どうして黙るんだね? 父親を殺し、自らが銀座の跡目を継ぎ、眞行路一家をあるべき姿に戻すと涼平に息巻いたそうだが? それらは全て戯言だったのかね?」
「い、いえ! 本当でございます!」
「だったら出来るだろう。我輩が許しを与えずとも、自ら動いて父親を討つことが。中川の忠臣を気取る君には容易かろうよ」
「……それには、会長のお許しが」
「ふんっ。やはり君は口だけの男か。組織のために不忠者を粛清すると言ったが、実のところは自分が眞行路の跡目を獲りたいだけ。そのお膳立てを我輩にさせようとの算段か。浅ましい男め」
「違います!」
「どう違うと言うのだ!? 答えてみたまえ!」
「……」
輝虎が言葉を詰まらせた。もはや余裕ぶった態度は完全に崩れ去っている。心のなかで「ざまあみやがれ」とほくそ笑む俺を尻目に、恒元はさらに詰め寄る。
「これが高虎の耳に入れば、奴は何とするだろうか。『流石は我が子。父を超えようとする気概は見事なもの』などと認めてくれると思うのか?」
「……うぐッ」
次第に青ざめてゆく輝虎の表情。俺はここでひとつの確信を得るに至った。やっぱり輝虎は父親の言いなりでしかないのだと――。
上辺だけ父を倒さんとする野心を仄めかしておきながら、実際には面と向かって歯向かうだけの度胸が無い小心者である。
さしずめ日頃より高虎には頭が上がらないと見た。実際の親子関係は分からないが、もしかすると組の中では総長に意見することすら許されぬ弱い立場なのかもしれない。そうでなくては高虎の言うことにああまで平伏したりはしないだろう。
「か、会長……」
やがて輝虎の額には汗が浮かんできた。間違いない。彼にとって最も恐ろしいのは、猛獣のごとく荒々しい高虎の存在である。
「どうした? 少し浮かない顔だが?」
「……あの」
「何だね? 言いたいことがあるならはっきりと言いたまえ。聞こえんぞ」
にじり寄る恒元に睨まれ、さらに小さくなる輝虎。この坊ちゃんの誤算は、会長が高虎打倒に全面協力してくれると思い込んだことだ。そうと決まったわけではないのに勝手に思い込み、本家側の人間である俺にその話を持ち掛けてしまった。
もしも、一連の話が銀座の高虎の耳に入れば、あの暴君はどんな行動に出るか分かったものではない。烈火のごとく激怒するのは確実だ。水面下で叛意を募らせていた息子を許さず、無惨なやり方で処刑する可能性も想定される。
「輝虎よ。君は高虎の打倒に向けて幹部の大半を味方につけていたそうだね。けれど、果たして何人の幹部が君の味方をするだろうか?」
「えっ……」
「そう自分を過信するものではないよ。特に、人望に関してはね。己の背中は己では分からんものだ」
「……」
「頼りにしている奴らほど肝心な時に味方になってくれないことるだってある。今回の場合、相手はあの恐ろしい銀座の猛獣だ。さあて、何人の兵が君と共に立ってくれるだろうか。見ものだね。君が踏んだ通りに物事が進むとは限らん」
ついには背筋を震わせ始めた輝虎。そう、彼にとって、今回の高虎打倒の話は途方も無く大きな爆弾。つまり弱みになったのだ。
決して当人に知られてはいけない――戦慄じみた恐怖が瞬間的に心を伝ったのか、輝虎の次なる行動は実に早かった。
「か、会長! どうかこの話はご内密に! こっ、ここだけの話に、オフレコにして頂けないでしょうか!! 何とぞッ! この通り!」
輝虎は地面に頭を付けんばかりの勢いで土下座した。ついさっきまでの威勢は何処へやら。まったく、呆れるくらいに情けない男だ。
「いきなり何をするんだね。頭を上げたまえ。みっともないぞ」
窘めるがごとく輝虎の肩をポンと叩いた恒元の頬は若干緩んでいた。こうなることを最初から狙っていたのか? 俺には前もって説明を寄越してくれなかったので、生意気な御曹司を斯様にして追い込むとは知らなかった……。
ともあれ、いい気味である。前夜までに抱えていた鬱憤がみるみるうちに晴れてゆく心地がする。会長もたまには良いことをするじゃないか。
小刻みに全身を痙攣させながら懸命な仕草で哀願する眞行路一家若頭を暫し見下ろした後、恒元は冷たく言い放つ。
「所詮はその程度の男だったということか、輝虎。君には大いにがっかりさせられたよ。少しは骨のある男だと思ったが」
「うっ、ううッ……!」
「組の大半を味方につけていたのであれば少しは自信を持っても良かろうに。涼平を相手に大口を叩いたのか?」
「……幹部たちが親父よりも俺を慕ってくれてるのは事実です。だけど、何て言いますか。それだけじゃどうしても心細いっていうか」
「ん? どういう意味だね?」
「昔から、親父を前にするとどうしても委縮しちまうんです。怖くなって……勝てるわけないじゃないかって思っちまうんです」
俺の聞き間違いではないと思う。輝虎は今確かにこう言ったのだ。「勝てるわけないじゃないか」と。
聞いているこっちまでが恥ずかしくなる、あまりにも無様な本音が漏れた。奴が俺に謀反の話を持ちかけた理由が何となく分かった。
総括するがごとく、ため息を吐いて恒元が問うた。
「つまりはあれか。自分ひとりだけでは高虎に勝てぬから、我輩の後ろ盾を得ようとしたわけか?」
「……はい」
「愚かしいにもほどがある! お前はそれでも極道か! 軟弱者め!」
ぴしゃりと叱責された輝虎は子供のように縮こまった。昨夜までに見せていた自信家の姿が、まるっきり嘘のようだ。尤も、かくいう恒元も今まで高虎に対して正面からぶつかることを避けていたので、あまり他人のことを言えないのだが。
それはさておき、俺は眞行路輝虎がどういう男なのかを理解できた。自分と同格あるいは格下の者に対しては尊大に振る舞うくせに、いざ強者が相手となると人が変わったように卑屈な振る舞いを見せる小物中の小物。それでいて見栄とプライドだけは妙に高いから始末に負えない。
一昨日の夜、奴が華鈴の店を滅茶苦茶に荒らしたのは、きっと銀座で親に抑圧されている反動もあるはずだ。息子として、若頭として猛獣への絶対服従を強いられている鬱憤が八つ当たり同然の形で表面化したのだ。
『欲しいと思ったものはどんな手段を使ってでも手に入れる』
相手が自分より弱いと分かっているから、こんな台詞が吐けるのだ。カタギの女である華鈴と比べて自分のほうが圧倒的に立場が上だから、脅しを掛ければ攻撃はできないと見越しての脅迫だ。何とまあ小さな男であろうか。
己が最も手に入れたいはずの跡目の座は、すっかりビビっちまって手に入れられずにいるくせに――。
俺は心底、目の前に平伏す男を軽蔑した。
一方、恒元としてはこうなる展開は最初から織り込み済みだった模様。やがて数秒前とは違うだいぶ穏やかな声色で輝虎に声をかけた。
「まあ、我輩も悪魔ではない。ここで聞いたことは黙っておいてあげよう。そもそも君の父上に密告したところでこちらに利益は無いからな」
「そ、それじゃあ秘密にして……!」
「ただし。今後は全てにおいて我輩の意を組んで動いてもらうよ。元はといえば君自身が“忠臣”と名乗ったのだから、当然だろう」
なるほど。最初からここへ落とし込む腹積もりだったか。
輝虎自身の口から造反計画を吐かせて弱みを握り、忠実な下僕として利用する――この手の輩を扱うには王道のやり方だ。
「は、ははあーッ! 従います! 従わせて頂きます! 会長のお言葉に従うことを固く誓います! ですから、どうか……!」
叫ぶように輝虎が言う。その姿は大いに滑稽だった。
「とりあえずは君の父親の全てを報告したまえ。高虎のあらゆる行動を見張り、包み隠さず逐一我輩に伝えるのだ。良いね?」
「はい! 勿論でございます!」
事実上のスパイになれという命令は決して容易いものではないが、高虎には逆らう余地なんて無い。この男にとって最も恐ろしいのは父親から睨まれること。父を殺して組を継ぐなどと大口を叩いておきながら、その父が怖くて怖くて仕方ないのだ。
ゆえに中川会本家の力を借りようとしたのだろうが、何とまあ肝の小さい男であろうか。滑稽を通り越して惨めとさえ思えてくる。
「た、高虎はおそらく、本家への叛意を捨てておらぬものと……」
「そうか。よく教えてくれたな。これからもよろしく頼むぞ。さあ、今日のところは帰りたまえ。やらねばならんことも多かろう」
「はいッ!」
退室を促されるや否や、輝虎はすたこら逃げるように去って行った。その背中が入って来た時に比べて小さくなっていたことは言うまでもない。
「会長も人が悪いですね。奴の覚悟が半端なモンだってのを最初から見抜いておられたとは。恐れ入りました」
「あまり揶揄わんでくれ、涼平。我輩とて呆れているのだよ。輝虎には『たとえ自分一人でも銀座の猛獣を仕留めて見せる』くらいは言って欲しかったのだ」
呆れ半分お怒り半分の恒元。おっと、この様子を見るに彼は輝虎に対して曲がりなりにも期待を抱いていたものと思われる。
現在、眞行路輝虎は28歳とのことだが、会長曰く俺と同じ齢の頃はもう少し血気盛んだったそうな。今となってはその片鱗すら見ることも出来ないが。
ともかく輝虎の心の奥底には父への敵意が渦巻いている。猛獣と渾名される眞行路高虎だ。息子にもそれなりの仕打ちをはたらいた過去は想像に難くない。
横暴な親を前に、子の中で憎しみが生まれるのは世間一般でもよくある話だろう。だが、問題はその息子が完全に臆してしまっていることだ。さしずめ長い時の中で父への恐怖が醸成されたと思うが……ああまで怯え竦むようでは話にならない。
組幹部の大半を味方につけたというのに、肝心なところで本人が二の足を踏んでいる。やろうと思えば高虎を総長の座から降ろすくらい出来なくもなかろうに、決断できずにいる。挙げ句、それを自分より強い者の力を借りて成そうとする始末。
深いため息と共に、恒元は吐き捨てた。
「昔はああではなかったのだがな。とんだ意気地なしになってしまったものだ。わずかでも期待を寄せた我輩が愚かだった」
彼としてはかつて目をかけた若者の不格好な現状に落胆を禁じ得ないのかもしれない。されど、あの男を実質的に管理下に置けただけでも収穫ではないのか――と思ったが、ここは何も言わないでおこう。会長の機嫌を損ねては面倒だ。
それから間もなく、恒元は連絡係の助勤を呼びつけると明後日に臨時の理事会を招集するから各組に通達をまわすよう言いつけた。宛先の中には『眞行路高虎』の名前も入っている。このタイミングで奴を理事に復帰させる理由は他でも無い、敢えて側に置くことで首輪を締めて統制を強めようとの考えだ。
「我ながらお笑い草だな。ついこの間に理事を解任したばかりだというのに、今度は復職させるなどとは。まだケジメも取らせていないのに……」
然もありなん。異例中の異例ともいえる人事で、少なからず批判の声も上がって来よう。それでも推し進めるのは単に組織改革のためである。
自嘲気味に頬を緩めた会長に「それも全然ありだと思いますよ」と軽めの世辞を贈っておき、俺は執務室を出た。時刻は正午。腹が減ってきた頃合いだ。
さて。何か食べるとしようか。
この日、恒元は懇意にしている政治家連中から兜町での昼食会に招かれているようで、そちらには局長が付いて行くため俺は暇。いつもならば総本部で会長が食べた料理のおこぼれを預かるか、あるいは原田や酒井あたりが買ってきた弁当で腹を満たしている俺だが、この日はいつになく和食を口に入れたい気分であった。
そういう時、近くにある店を思案して先ず最初に浮かぶのが赤坂6丁目の「でんがく屋」だ。ここがまたおかしな所で、“でんがく”の名を冠した屋号にかかわらず店の献立に田楽味噌の類は無い。サバの味噌煮や豚汁といった王道の家庭料理を供する定食屋だ。
総本部からは少し歩くが、あの店の豚の角煮を想像すると腹が鳴ってしまう。それだけ体が肉料理を欲しているのかもしれない。
俺は早速でんがく屋に向かって歩き出した……が、正門へと繋がる庭を歩く中で知った顔を見付けたので思わず立ち止まった。
「おい、そんなところで何やってんだよ」
遅咲きのコスモスが植えられた花壇を眺めるように、寒空の下でぽつんとしゃがみ込む男。それは輝虎だった。
「あっ! 麻木次長!」
「てめぇ、まさかその花壇を灰皿代わりに使おうってんじゃねぇだろうな?」
姿勢を低くした彼の指に煙草が挟まっていたので、少し揶揄ってやった。勿論、無視して通り過ぎる選択肢もあったのだが、ニコチンを吸いながら物憂げに花を見つめる後ろ姿がとてつもなく可笑しく見えたのだ。
「違ぇーよ。灰皿なら持ってるわ。ほれ」
立ち上がった彼が背広の内側から取り出したのは携帯灰皿。喫煙モラルの向上を呼び掛ける専売公社が春先に発売した代物だ。
「へっ。ヤクザの癖に真面目なこった」
「俺が極道らしくねぇって言いてえのか。まあ、さっきは見苦しい姿ぁ晒しちまったな。つくづく面目ねぇ」
自嘲気味に笑った輝虎の滑稽さはさておき、奴が未だに総本部敷地内に留まっている理由は大方察しが付く。
「……そんなに怖いのかよ。てめぇの親父が」
俺の言葉に輝虎は逡巡しつつ、軽く頷いた。
「まあな。怖くねぇといえば嘘になるわな」
さしずめ、まっすぐ銀座へ帰るのが億劫になったのだろう。この御曹司にとって高虎の存在はよっぽど恐ろしいと見た。
ただ、それにしたって怖がり方が異様である。昔から「地震、雷、火事、親父」などとは云うが、これではまるで子供も同然ではないか。幼少の頃からひどく苛烈な仕打ちを受けてきたと容易に想像できる。
ところが、あれこれ推し測る俺に輝虎が語ったのは、少しばかり意外というか想像とは別の方角を向いた過去だった。
「お恥ずかしい限りだがよ。俺は親父にドヤされたことがない。甘やかされたってわけでもねぇが、銀座の猛獣は俺にだけは優しかった」
「はあ? ガキの頃に虐待されたトラウマが植え付けられてるもんだと思ったが?」
「少なくともぶん殴られたことは無ぇな」
「だったら何でそんなにビビってんだよ? 自分にだけは優しかったってんなら、さながら本物の猛獣みてぇに恐れる必要も無いだろう」
「だから怖いんだよ」
「ああ?」
首を傾げると、輝虎は投げやりに呟いた。
「俺に対してはただの一度も牙を剥いたことが無い。だから余計に怖ぇんだ。あの人が本気でブチギレたら、どうなっちまうのか」
何だか、少しだけ分かる気がする。
「そうかい。俺も親父とは面と向かってやり合ったことが無ぇ。尤も、俺はやり合う歳になる前に……」
「あなたの親父さんと言えば、あの川崎の獅子の?」
「ああ。てめぇと同じく倅の俺には一度も牙を剥かなかった。けど、親父が暴れる場面は何度か見たことがある。幼心ながらに怖かったぜ。『あの怒りの矛先が自分に剥いたらどうなるんだろう』ってな」
「そうだ! 俺もそれなんだよ! マジで尋常じゃねぇよなあ、あの感じは!」
気付けば輝虎と話が通じ合っている自分に気付いた。つい先刻までは憎しみをぶつけ、見下ろしていた相手だというのに。まあ、だからといって同情はしないのだが。
閑話休題。俺は2本目の煙草に火を付けようとする輝虎に問うた。
「で、あんたが親父の下で相当なストレスを抱えてるのは分かったが。結局、どうしてぇんだ? あの猛獣を殺してぇのか、殺したくないのか」
「……出来ることなら殺してしまいたい。その方が組のためにもなるし、俺も枷が外れるってもんだ。常に親父に怯えて、顔色を窺って生きなきゃならねぇ、呪縛じみた枷がな」
前者の方に傾いてるわけか。俺としては「だったらやっちまえよ」と嗾けたいところだが、下手に教唆した言質を取られるのもまずいので当たり障りのない言い方にとどめておく。
「お前さん自身にその気はあるようだな。幹部の大半を味方につけてんなら、やって出来ねぇ話でもねぇと思うがなあ」
「いや、出来ない」
「どうして?」
「怖いんだよ。親父と向き合うのが」
情けない奴め――そう吐き捨てようとした俺だったが、寸前のところで言葉が喉の奥に引っ込む。
かくいう俺も5年前に横浜で暮らしていた頃は残虐魔王を恐れていた。村雨耀介という圧倒的かつ絶対的な存在に畏怖し、ただただその矛先が自分に向かぬよう場を取り繕うのに必死になっていたものだ。で、その様子を「魔王の威を借る使い魔」と嘲笑されたこともあったような気もする。
目の前で見せつけられた強大な暴力による怖さ。
それはトラウマという形で心の奥に住み着いてしまう。
俺の場合は異国へ武者修行に出たおかげで概ね振り払ったが、考えてみれば未だ記憶の片隅に横浜での体験がこびりついている。村雨と初めて会った際、強烈な殺気を浴びせられた出来事が。今、あの男と戦えと言われたら……きっと足が竦んでしまおう。
心情だけを見れば、輝虎には共感の余地があった。
「そうか。詰まる所はお前さん次第だ。好きにすれば良い。けど、そうやってすぐに帰らねぇでいつまでも油売ってるとこを見りゃあ、心の中じゃだいぶ昂ってんだろうな。親父を討ちたいって思いが」
あまり過ぎた言葉はいけない。本家付き構成員の身分で直参組長の暗殺を唆したと分かれば、後々で必ず政治問題化する。それが分かっていたのか、輝虎は笑った。
「お察し頂き感謝するよ。『やるからには本家が全力で後押しする』と言ってほしいところだが、あなたにも立場があるだろうからな。仕方あるまい」
「親父さんが怖いのは分かるけどよ。自分より強い者にケツを持ってもらおうっていう、他力本願の姿勢はどうかと思うぜ。会長もそれが気に食わなかったんだ」
「……言葉を返すようで悪いが、他力本願なのはそちらだって同じじゃないのか。本家の思惑は分かってる。身内の争いを煽って御七卿の力を削ぎてぇんだろ。眞行路を潰したいなら率直に号令かければ良いのにな。それができねぇから俺なんかの野心を煽ろうとする」
「へっ。よく言うぜ。親父を殺して、跡目を獲りてぇって、先に持ちかけてきたのはお前さんの癖に。負け惜しみも良い所だ」
「何をッ!」
再び空気が凍てついてきた。やはりこの男は嫌いだ。強者には平身低頭するくせに弱者には態度がでかい、絵に描いたような小物。
このクズ野郎を更に罵る言葉を頭の中で考えていると――不意に軽快な音が鳴った。
「ん?」
輝虎の懐の携帯がバイブレーションを作動させた模様。彼は慌てて発話ボタンを押し、電話に出る。この場は一旦お預けのようだ。
軽く舌打ちを交えて宙を仰いだ俺だったが、輝虎の口から直後に聞こえてきたフレーズは聞き流せないものだった。
「……何? 何だと!? 赤坂の6丁目!? このすぐ近くじゃないか! なっ、何てことをしてくれたんだ! よりにもよって本家のお膝元で!」
声が上擦っている。眼をギョッと見開いた表情からして、喫緊の問題が起きたとすぐに推察できた。十中八九、これは良からぬ事態だ。
「分かった! すぐに行く!」
電話を切った輝虎に、俺は問いかける。
「何かあったのか?」
「話してる暇は無い! 失礼させて貰う!」
そう言い捨てると、輝虎は足早に駆け出して行く。何という偶然か、赤坂の6丁目といえば俺も今まさに向かおうとしていた地域。妙な予感に駆られたので、すかさず彼の跡を走って追いかけた。
「ど、どうしてついてくるんだよ!」
「いやあ、たまたまそこへ飯を食いに行こうと思ってたんでな。で? 眞行路一家の連中が6丁目で何かやらかしたのか?」
その問いかけに輝虎は口をつぐんだ。
「……」
だが、本家の人間である俺に話した方が良い事案だと判断したのか。無駄に長い庭の通路を走りながら、淡々と要旨を話し出す。
「……6丁目の交差点近くで、親父がバスを引っ繰り返したってよ」
「は? 何を言ってんだ?」
「そんな馬鹿なって思うだろ。お生憎様、俺も同じだよ」
バスを引っ繰り返したとは――にわかには信じられぬ話に、困惑と失笑が同時に込み上がった。されど、冗談を言っている風でもない。輝虎の目は至って本気……それどころか「親父なら考えられる」とでも言いたげな顔をしていた。
いまいち呑み込めない状況を懸命に整理し、俺は訊く。
「引っ繰り返したって? そりゃあ、バスという車体を物理的に横転させたってことか?」
輝虎の返答は単調だった。
「二度言わせるな!」
兎に角、理解できない以上は我が目で確かめてみるしかない。俺は輝虎が待たせていた車に同乗させて貰い、とりあえず現地を目指すことにした。
「どうも。久しぶりだな。麻木次長」
「お前、浅草の……!」
精悍な顔立ちをした若き組員。確か名前は三淵郁弥だったか。この男が輝虎の運転手を務めているようだ。
「おい、雑談に興じている暇は無い。すぐに出してくれ」
「承知いたしました」
若頭に促され、三淵はアクセルを踏む。
日頃より運転手を務めているのか、彼は浅草近辺の道路事情をよく知っているらしい。普通なら信号待ちを含めて3分くらいはかかるところをわずか1分足らずで到着してしまった。なかなかのドライビングテクニックだ。
「おいおい。マジかよ」
と、浮かんだ言葉がそのまま出てしまった俺であるが……三淵の運転技術に対しての賛辞ではない。着いて早々、車窓の外に広がった異様な光景への率直な驚嘆だった。
「なあ、あれをおたくの親父さんがやったってのか?」
「そ、そうらしいな。さしずめ、一昨日あなたを殺せなかったイライラが溜まってたんだろう。気を付けることだな。あの様子じゃ今の親父は相当キテるぞ。マジで、怒髪天だ」
「だからって、ああいう形で八つ当たりかよ……」
輝虎もかなり面食らっていた。それもそのはず。窓から見える赤坂6丁目交差点の中央部分で、マイクロバスの車体が見るも無残に横転していたのだから。
「えっ? あれを人間の力で倒したって言うのかよ! 冗談だろ!?」
「冗談であって欲しいと願うよ。俺も」
「おいおい……」
現に車体が横倒しになっている。目の前の光景は間違いなく真実であろう。アスファルト敷きの地面に散らばる車体の破片が恐ろしく生々しかった。
「……一体、何があったってんだよ」
いくら銀座の猛獣とはいえ、前触れも無く突然の思い付きでバスを引っ繰り返したりはしないだろう。そこへ至るきっかけがあるはずだ。
俺たちは車を降り、おろおろと取り乱した背広の男から話を聞いた。
事の発端は30分前の12時20分頃だそうで、眞行路高虎を乗せたリムジンが中央区方面へと向かうべく交差点にさしかかって赤信号で停車。ところが、信号が青に変わっても渋滞は一向に進む気配が無い。車列の先頭に居たバスがエンストを起こし、立ち往生していたのだという。
「そ、総長は激しくお怒りになって『今すぐ車を動かせ!』と仰いました。でも、車のエンジンのトラブルですからどうしようもない。私めも何とかお諫めいたしました。ですが、総長は聞く耳を持たず、ついにはお怒りのままに実力行使に出られたんです……」
憔悴しきった表情で語るこの人物は、眞行路一家の構成員。総長付きで秘書的な役割を務める立場という。彼の顔面は鼻が醜く歪んでおり、激昂した高虎に当たり散らされて殴られたのだとすぐに分かった。
「バスには人が乗ってたんじゃないのか?」
「そ、そうなんですよ。若頭。でも、総長はそんなことお構いなしで、それどころか『乗ってる奴を全員ぶっ殺してやる』と息巻いて……」
滅茶苦茶だ。暴れることで生じるカタギへの被害を何ら気にしていないあたり、何とも銀座の猛獣らしい話だと思った。
「ケガ人はどれくらい出た?」
「かなりの数がケガをしたようですが、全員が軽傷です。割れたガラスで手を切った程度で」
「そうか。まったく。親父も馬鹿な真似をしてくれたものだ」
部下と話し込む輝虎をよそに、ここで俺はあることに気付く。
「ん?」
横転したバスの割れたフロントガラスから見える車内の宛名に『大江戸プロレス御一行様』と書かれているのだ。
大江戸プロレスといえば、昔からある老舗の興業団体。子供の頃にテレビでしょっちゅう観ていたので、俺もよく知っている。
まさか、あの江戸プロの移動バスを……いや、そもそも現役のプロレスラーが乗ったバスを引っ繰り返してしまったというのか!?
話によれば、高虎はバスに乗ったレスラーたちに煽られる形で事に及んだそうな。人間離れした馬鹿力を振るう高虎はともかく、いくら力自慢とはいえ、見るからにヤクザと分かる風貌の眞行路一家総長を挑発する奴らもまたおかしいと言わざるを得ない。あまりにも危険知らずだ。
話の節々で垣間見える事態の異常さ、そして奇怪さを前に、俺はただただ耳を疑うしかなかった。だが、全て現実として起きたことである。
「……それで、親父は?」
「バスを引っ繰り返した後、タクシーに乗って銀座へお戻りになられました。私はその後始末を仰せつかったというわけで」
「そうか。お前も大変だったな」
輝虎から労いの言葉を掛けられた若い衆は少しだけ安堵の表情を浮かべ、小さな声でこう言った。
「カ、カシラ……こんな騒ぎは今回限りにして頂きたいものです。いくら政治家に警察をコントロールさせてるからって、白昼堂々ここまで暴れられては誤魔化しようがありませんぜ。ただでさえうちの組は評判が悪いっていうのに」
「まったくだな。親父も何を考えてんだか」
「そう思うなら早く跡目を獲ってくださいよ! 総長を退かせてカシラが当代になりゃ、全てが丸く収まりますって!!」
部下にそう言われた若頭は途端に血相を変える。刹那、輝虎の眉間にしわが寄るのがはっきりと分かった。
「おい。滅多なことを口にするんじゃねぇよ。阿呆が」
「……ッ」
「黒いものでも親が白だといえば全て呑み込んで、つべこべ言わずについて行くのが盃貰った子分の役割だ。よく覚えとけ」
冷たい眼でそう言ってのけた輝虎だが、ハッとした様子で一転し「すまん。言い過ぎた」とばつの悪そうな表情をする。組の外での振る舞いは一旦置いておくとしても、組の中では思ったより人心を集めているようだ。幹部連中の支持を取り付けているとの話も、あながち大袈裟ではなかったか。
「と、ところで、カシラ。そちらにいるのは?」
「あ、ああ。本家執事局の麻木次長だ。この辺りに用事があるって話だったんでな、ついでに乗せてきたんだよ」
途端、話題が俺に及んだので背筋に緊張が走る。
「……」
組員の視線が俺へ注がれた。
「何だよ」
「あんたが麻木か。うちの総長の顔をよくも潰してくれたもんだなあ。おかげで大変だったんだぜ。一昨日と昨日、ブチギレて暴れる総長を宥めんのが。あんたにゃ迷惑料と手間賃のひとつでも貰いてぇくらいだ、なあ?」
「けっ。知るかよ。大体、親分のサンドバッグになるのは子分の役割だろう」
俺が悪態をついた途端、若い衆の目が据わる。
「ああ!?」
一喝したつもりなのだろうか。無論、この手のチンピラごときの凄みなど怖くもなんともない。俺は逆に睨み返してやった。
「……文句があるならかかってこいよ。俺は直参に手を出すこたぁ禁じられてるが、それ以外の人間を殺すなとは言われてねぇんでな」
「て、てめぇ!」
俺の発する眼光に彼が後ずさりした直後、三淵がすかさず止めに入る。
「まあまあ! 二人とも、落ち着いて!」
手指をがくがくと震わせる秘書役の姿が印象的だった。なお、傍らで見ていたはずの輝虎は何も言わなかった。どちらかといえば若衆ともども俺の醸し出した殺気に怯え竦んでいるようにも思えたが……面倒なので指摘するのは止めておこう。
「んで? 輝虎さんよ、あんたはこれからどうすんだ?」
「俺は一先ず銀座へ戻る。こうなった以上、親父から話を聞かなきゃならねぇもんでな。あなたは昼飯か」
「まあな」
大型バスが一人の男の怪力によって薙ぎ倒されるという大惨事だが、所詮は眞行路一家の問題。俺には何ら関わりの無いことだ。
やがて駆け付けた警官たちに対応する輝虎を横目で見送りながら、俺は俺の目的地へ向かって歩き出した。「でんがく屋」は目と鼻の先。よもや昼食を取るべく訪れた店の近くでこんな騒ぎが起こるとは考えもしなかったが、こちらは気にせず日本料理の舌鼓を打つとしよう。
いや、待てよ――。
ここは赤坂6丁目。赤坂地区は中川会本家の直轄領であり、仕切りは執事局が担うことになっている。バス横転のインパクトが大きすぎて、すっかり忘れていた。
事件の処理は眞行路一家が請け負うとしても、シマで起こったこと。本家がまったく関知しないのもおかしいだろう。
とりあえず会長の耳に入れておくとするか。店に着いて料理を頼んだら、出てくるまでの間に電話をかけておこうか。
「……まあ、とりあえずは昼飯だな」
独り言を呟くと同時に、タイミングよく店に到着。引き戸を開けて暖簾をくぐった俺は、店主の「いらっしゃい!」との声に出迎えられて、カウンター席に座ろうとする。
だが、そこにあったのは全く想定外の光景だった。
「……ッ!?」
入り口から見て最も奥の小上がりに、異様な雰囲気を纏う男が座っている。スキンヘッドに髭という風体のその人物は、俺の姿を見るなり不敵に笑った。
「よう。待ってたぜ。麻木涼平」
「……てめぇ、どうしてここに!?」
眞行路高虎。つい先刻まで、俺たちを取り巻いていた話題の中心に位置する男だ。紛れも無く本人だった。
「お前の行動パターンはあらかた把握済みだ。ここに来れば会えると思って待ってたんだよ。まさか、本当に現れるたぁ驚いたぜ」
「倅に命じて俺の行き先を探らせたのか?」
「いやいや。輝虎は関係ねぇ。俺が組の者に尾行させたのよ。あれと同じ車に乗ったのは驚いたが、仕方ねぇわな。俺があんなことをやらかしちまったもんだからよ。ガハハッ」
「そこまで俺に御執心とはな。大体、何であんな馬鹿力が出るんだよ。どういう鍛え方をしたらバスを引っ繰り返せるんだ」
「邪魔だから退かした、それだけのことだ。良い運動になったぜ。おかげで憂さも晴れた。まあ、とりあえず座れや。なあ?」
「……」
手招きで俺に着席を促した眞行路。直後、奴の口元から一切の笑みが消える。そこから放たれたのは闘気のこもった声色だった。
「座れよ。お前を殺る前に、飯の一品くらい馳走させろや」
そういう魂胆だったか。虎児ならぬ食事を得るために虎穴へ飛び込むような展開になってしまったが、ここで背中を見せて退散するのは途轍もなく不格好に思える。ゆえに、俺は言われた通りに座敷へと上がって畳の座布団へ腰を下ろした。
無論、まんまと殺されてやるつもりは毛頭ない。
「……あんたの奢りってことで良いんだな。眞行路さんよ」
「おう。良いぜ。たらふく食ってくれ」
この時には店の者達も異変に気付いたらしい。ただ事ではないと気付いた様子で、俺の横や後ろのほうから固唾を吞む気配がする。
「うーん。やっぱ、止めとくわ」
「何?」
高虎が無表情になった。まさに猛獣のごとき闘気を放つ彼にニヤリと笑って応じる俺だが、内心では冷や汗もの。凄まじい貫禄である。
だが、屈したらおしまいだ。
「勘定は俺に出させてくれや。ここは赤坂。本家の街だ。他所を仕切る者にデカい顔をさせるわけにはいかねぇ。そういうもんだろ」
「そうか。まあ、勝手にしろ。無駄に格好付けた若造ほど見苦しいものはねぇが、大目に見てやるよ」
豪快な笑顔とは裏腹に怒気を放ちながら、目の前のメニューに手を伸ばす眞行路。その手に握られる注文用の冊子が握力でぺしゃんこになりかけていたのは語るに及ばず。何だか見ていて可笑しさがこみ上げてきそうだった。
なお、それまで店内に居た他の客たちと言えば、俺が銀座の猛獣と激しいやり取りを繰り広げる最中にそそくさと退散してしまった。“赤坂”に続いて“本家”というワードが出たことで、俺たちの職業が何であるかを悟り、怖くなったのだろう。正しい反応である。
「おう、姉ちゃん。焼き魚定食を頼むわ。白飯は大盛りで頼むぜ。それから味噌汁もな。ちゃちゃっと持ってきてくれ」
片や俺は豚の角煮定食を注文した。元からそれが食べたかったのだ。不俱戴天の敵と食事を共にするという奇妙な状況に遭遇したところで、揺らいだりはしない。
「は、はい! ただいま……!」
アルバイトの女性はたどたどしい口調で注文を繰り返すと、逃げ去るように厨房へと引っ込んでいった。赤坂という立地上、この店にはヤクザが来ることも多かろうが、中でも高虎のような大男は別格と思う。明らかに怯えていた女給に俺は同情を禁じ得なかった。
「初めて来たが、良い店だな。俺は専ら割烹の飯しか食わんが、たまにはこういう小汚ねぇところに足を運ぶのも粋なもんよ」
「お高く留まってんじゃねぇよ。一見の癖して知った風な口で店を貶す奴に粋もクソもあるか。ボケが」
「フフッ、言えてるな。けどなぁ、俺はお前よか二回りは長く生きてんだぜ? この歳になると、飯を食う楽しみは味だけじゃねぇってことが分かってくる」
大して有り難くも無い説教を「黙れ」とかき消すかの如く、俺は静かに煙草に火を付ける。目上の者の前では失礼な行為だと分かってはいるが、そもそもこの男を敬ってやる理由など無い。昂然と煙を吹き出すのみ。
それでも調子を変えることが無く高虎の口からは頼んでもいない世間話が次々と出てくるのだから、おっさんとは嫌な生き物だとつくづく思った。
「平成に代わってから16年も経つってのにな。世の中、ちっともデフレから抜け出す気配が無ぇ。どうなっちまうんだろうなあ」
「ほう。あんたの口から『デフレ』って言葉が出るとは意外だぜ。世の中がどうなろうがお構いなしだと思ってたが」
「世が明るくならなきゃ、代議士たちも潤わねぇ。俺たち極道がカネをむしり取るためにも、先生方にはもうちょい経済を頑張って欲しいもんだなあ」
高虎の指摘にも一理ある。帰国早々の俺が語るのもおかしな話だが、ことし2004年は景気の明るさを今ひとつ実感できない世相だったと思う。
小柳紳一郎首相の打ち出した「聖域なき構造改革」とやらも庶民には何ら恩恵をもたらしておらず、国営企業をひたすら民営化して公務員を減らすことはむしろ大衆の消費行動を冷やしてしまうと疑問視する学者もいる。
株価だけを見れば上昇を続けているが、それが庶民に還元される様子は微塵も無い。前年から始まったITバブルで資産を築いた富裕層ばかりが私腹を肥やす一方、労働者の大部分は薄給を押し付けられっぱなしである。
「……まあ」
煙草を吸いながら俺は言った。
「日本に帰って来てそろそろ8か月になるが、良くも悪くも変わってねぇんだよな。バブルが弾けて皆が必死こいてた頃のどんよりした空気感のままっつうか。これで21世紀になったなんて信じられねぇぜ」
政治や経済に明るくない俺でも、世間に漂う雰囲気は何となく分かる。90年代の平成不況の閉塞感が未だ拭えないことは誰の目から見ても明らかなはずだ。今や夢も希望も無い時代なのである。
「そうだよなぁ」
俺の話に眞行路は深々と頷いた。
「貧乏が窮まって公園をねぐらにする奴が街に溢れる一方で、ひと握りの金持ちが高級車を乗り回して散財するのが今の日本だ。小柳がやってる改革なんざ、所詮はまやかしよ。藤城ファンドみてぇな成金を増やすだけの茶番だ」
おっと。ここで聞き過ごせぬワードが出てきた。優雅に他愛もない世間話を繰り広げてやる謂れは元より無いので、俺は即座に突っ込む。
「へぇー。藤城ファンドねぇ。その藤城を殺そうとしたのは他でもない、眞行路さん。あんたじゃねぇのか? 昨日はよくもやってくれたなあ」
「ククッ……」
口元を緩ませた眞行路。その眼光は笑ってはいなかった。ひと目で分かる、やはりこいつが黒幕であったかと――舐められたものだ。
「……そうか。鬼凛紅のガキどもが吐いたか。試し半分で使ってやったが、ろくに根性も無い奴らだったようだな。やっぱり暴走族は駄目だ。度胸が据わってない」
「その口ぶりじゃ自分が真犯人だって認めるんだな? 六本木の一件は米畑組に犠牲者も出てる。笑い話じゃ済まされねぇぞ」
「認めたら何だってんだ。米畑へのケジメで小指詰めろってのか。悪いが、話にならねぇよ」
傲岸不遜に話を躱す眞行路。まあ、普通に考えてこの男が「詫びる」という選択を取るわけが無いか。言質が取られただけでも良しとしよう。
「どうしてあんな真似をした? せっかく直参に戻ったんだ。もうちょっと行儀よく振る舞えとは言わんが、同門の領地を侵しちゃいけねぇことくらいガキにも分かると思うが」
「別に大した意味はねぇよ。永田町の上客に頼まれただけだ。『藤城燈華が目障りだから始末してくれ』とな。まあ、鬼凛紅がああまで使えん奴らだとは思わなかったぜ。手早く拉致れば良いだけの話を暴動まで起こしやがって。おかげで俺は幹事長に……」
「ふざけんなッ!!」
気付けば怒声と共に立ち上がっていた俺。我ながら予期せぬ、実に直情的な行動であった。何故だろう? あのグラマラスな美女の名が出た途端、自分の中の理性が著しく減じた。こんな事、今までには一度たりとも無かったのに……?
いけない。話を戻さなくては。あの女のことを考えている場合じゃなくて、中川会本家の人間として然るべき態度を取らなくてはなるまい。
俺は目の前の無法者を睨みつけてゆっくりと座った。
「眞行路。お前がやったことは他領への侵略だ。依頼主がどこぞの大物だろうが知ったことじゃねぇ。報いはきっちり受けてもらうぞ。この野郎」
「そう、いきり立つんじゃねぇよ。みっともねぇぜ。大体にしてよぉ。どうやって俺に報いを受けさせるってんだ? ああ?」
「てめぇ……」
「本家の犬が能書き垂れてんじゃねぇ! 俺に報復をするってんならやってみやがれ! お前ごときに出来るもんならなァ!!」
下卑た顔で、あからさまな嘲弄を放った銀座の猛獣。思わず手元にある割り箸で奴の左目を突き刺しそうになったが、寸でのところで自制する。
直参の組長を殺してはいけない――その縛りが俺にはあるのだ。一線を踏み越えてしまっては後々で必ず面倒な事になる。ここは冷静にならなくては。
「……」
自分に説諭を言い聞かせるがごとく、静かに深呼吸をして心を鎮める。その間、目の前の馬鹿野郎は此方を睨みつつ黄ばんだ歯を見せて「どうした? かかってこねぇのか、小僧」とほざいていた。本当に憎たらしい奴……だが、その時。
「あのぅ~、すみません」
エプロン姿の店員が膳を運んで来ていた。
「焼き魚定食と豚の角煮定食をお持ちしました。ご注文は以上でよろしいでしょうか」
この一言で雰囲気が変わった。俺も眞行路も互いに殺気を解いた。互いに矛を収めた、と形容するのが最も適切であろうか。
「おう。悪いな、姉ちゃん。ご苦労だった」
「いえ、いえ、それでは。失礼しました~」
よっぽど眞行路の顔が怖かったのだろうか。そそくさと立ち去ってゆく女給の様子が何処か妙に面白かった。
当の眞行路の顔つきからは険しさが消えていた。
「せっかくの飯だ。冷めないうちに食おうぜ」
「……ああ」
何はともあれ、食事の時間だ。自分に強烈な殺意を向けていた相手と共に飯を食う不思議な感覚。冷静に考えれば明らかにおかしいシチュエーションである。
どうしてこうなった?
向かいの席にて魚の塩焼きを箸でほぐし、熱々の白身を嬉しそうに口へと運んだのは眞行路高虎。俺にとっては倒すべき敵なのだが……?
まったく分からない。
裏社会を生きていると、このように思いもよらない珍事に度々出くわすことがある。天がもたらした奇跡か、あるいは運命のいたずらか。偶然の産物というものは時として人間を玩弄してくるから始末に負えない。
「は~っ、美味ぇ。やっぱりこの時期と言えば秋刀魚だな。脂が乗ってて塩加減も絶妙だ」
と、柄にも無い感想を述べた後、黙々と飯をかきこむ眞行路。見ているとこっちまで腹が減ってきそうな、見た目に違わぬ豪快な食いっぷりだ。
おっといけない。俺には豚の角煮定食があるのだった。
「ああ、美味い」
ひと口食べた途端に声が出た。甘辛い煮汁の中に溶けてゆくとろける柔らかな豚肉の食感と肉の脂が見事に絡み合い、米と共に頬張るや否や、口の中は幸せの波に包まれた。これだから「でんがく屋」の定番料理は格別なのだ。一度味わえば止められなくなってしまう。
「小僧。なかなか良い店を知ってるじゃねぇか。まだ若い癖に大したもんだな」
「へっ、さっきは『小汚い』とか何とか貶してた癖によく言うぜ」
「あれは褒め言葉のつもりだったんだぜ。こういうボロい店ほど料理に凝ってるって意味でな。最近の若い奴は行間を読むことを知らんからいけねぇや」
「そうかよ」
眞行路も素直に賞賛していた。褒めたたえた舌の根が乾かぬうちに、こんがりと焼けた秋刀魚を口の中へと放り込み、茶碗の米を食らう。美味い料理を前にすれば、銀座の猛獣も一人の平凡な男に戻るというわけか。
俺とて同じだ。単純な感想、それも「美味い」の三文字しか頭に浮かんでこなくなるほどに豚肉が口の中で踊っている。言うまでもないが、まさに天下逸品である。それを飯と一緒に味わう贅沢は何物をもってしても代え難いものだ。
この至福のひと時を堪能する傍ら、ふと眞行路の方に視線が行く。嬉しそうに、そして幸せそうに食っている姿は何だかゴリラのよう。ツルツルに剃り上げたスキンヘッド頭髪が余計にそう感じさせるのだろうか。
味噌汁を飲みながら、思わず笑い出しそうになってしまった。
「……んぐっ!」
「ああ? どうしたよ」
「別に。ちょいとワカメが喉につっかえただけだ」
この光景と会話だけを切り取れば、ごく一般的な定食屋のそれと同じだ。歳の離れた友人同士が食卓を囲んでいるとも見えなくもない。
だが、俺たちは極道。あくまで敵同士。組織からの離反を目論む直参組長と、その野心に楔を打たんとする本家の組員という、普段なら激しく火花を散らし合う者同士が偶然の産物で共に食事を取っているに過ぎないのだ。
飯を食い終われば、俺たちの関係はまた元に戻る。箸をおいた瞬間、戦いが始まるかもしれない。無情だが、それが宿命である。
「……ふう。ごちそうさん」
「おい、小僧。若者らしい食いっぷりだったじゃねぇか。殺す前に飯を奢ってやった甲斐があったってもんだぜ」
「うるせぇ。ここで殺されるつもりも無ければ、あんたに奢られる筋合いもねぇよ。自分の勘定は自分で持つ……っていうか、そもそも何で俺と飯を食おうと思ったんだ?」
「たまたま腹が減ってたからな。腹ごしらえついでに普段お前がどんなもんを食ってるか、確かめとこうと思ったんだ。意外と地味で驚いたぜ」
「……あんた、だいぶ変わってるな。普通は今すぐにでもブチ殺そうと思ってる奴と飯を食おうなんて思わねぇだろ。俺のことが憎いんじゃねぇのか?」
「ああ。憎いとも。何せ、おおそよ20年ぶりにこの俺を喧嘩で引き分けさせたんだからよ。なればこそ、俄然興味が湧くってもんだ。この俺に恥辱を舐めさせた若造のことをもっと知りてぇと思った。自分でも、不思議な感覚だけどな」
「そうかよ……」
真向いで笑った強面の極道を見て、俺はひどく複雑な気持ちになった。恐るべき執念の深さと、どこか飄々とした態度。この二つは本来なら交わらぬものだが、眞行路高虎の中では自然と同居している。
単に粗暴な暴れん坊ではない、この男は何なのか?
ますます分からなくなってくる。まあ、何はなくとも今はこれからの動きを考えなくては。この後、眞行路と決闘する流れになるのだろうか――。
と、俺が長考に入りかけた時。店の出入り口の扉が勢いよく開かれる音が聞こえ、即座に思考が中断された。
「おいっ! 居たぞ! さっきの奴だ!」
野太い叫びが響き渡ると同時に、店内に複数の男がなだれ込んでくる。皆、ジャージやTシャツといったスポーティーな格好。恐ろしく屈強な集団だった。
「何だ? てめぇらは?」
俺が尋ねると、その中の一人が怒号を上げる。
「貴様、さっきはよくもやってくれたな!!!」
そいつが指差したのは俺ではなく、向かい側の人物。どうやら眞行路に用事がある……というより、眞行路を標的にやって来たようである。連中の服装から俺にはすぐさま察しが付いた。
こいつら、もしや大江戸プロレスの関係者か――。
いきり立つ彼らを見て確信する。眞行路にバスをひっくり返されたレスラーたちが怒鳴り込んできたのだと。
それにしても、ここに眞行路が居ると如何にして知ったのであろうか。筋者でもあるまいし。個人を特定できるだけの情報網があるとは思えないだが……。
そんな疑問はさておき、眞行路は一切表情を変えていなかった。
「ったく。バスがひっくり返ったくらいで騒ぐんじゃねぇよ。飯がまずくなるじゃねぇか」
「んだとぉ!?」
「は~あ……」
やれやれと溜息をつく眞行路。屈強な男らに取り囲まれているというのに余裕綽々。そもそも、バスを腕力で引っ繰り返するくらいだからな……人間相手には絶対に負けない自信があるのかもしれない。
「お前! 自分が何をしたか分かっているのか!? あのバスの中には女子も乗ってたんだぞ!? お前のせいで彼女は怪我をした! どう責任を取ってくれるんだ!!」
凄まじい剣幕で突っかかる金髪のレスラーに対し、眞行路は目線を合わすことなく応じる。
「知らねぇよ、んなこたぁ。お前さんらが道を退かねぇのが原因だろうが。人様を煽っといてよく言うぜ」
「と、とにかく! バスの修理代と怪我人の治療費はきっちり払ってもらうからな! どこの素人か知らんが、たかが力持ちが俺たちプロに……」
そこまで聞いたところで「はあー!」と今度は聞こえるように盛大な溜息を吐く眞行路。それから彼はゆっくりと立ち上がり、目の前の金髪男を睨みつける。その眼光の鋭さに男はたじろいだ。
「なっ、何だよ!」
「お前さんよぉ。この俺を『素人』呼ばわりとは良い度胸してるじゃねぇか。さっきから聞いてりゃ随分な言い草だな、ああ?」
凄みを利かせた声色でそう言いながら、プロレスラーの方へと一気に間合いを詰めた眞行路。後ずさりする彼らに、怒気を帯びた猛獣はさらに続ける。
「俺は昨日からイライラが溜まっててなぁ。ちょうど出くわしたお前らで発散させてもらってただけのことだ。何か文句あるか?」
じりじりと接近し、まるで獲物を標的に捉えたような感じで凄む眞行路。ただならぬ殺気を前にレスラーたちは完全に及び腰になっていた。
「……だ、だからって! バスを横転させるなんて滅茶苦茶じゃねぇか!」
「どこがだよ。手前の勝手な都合で道を塞いだお前さんらの方が、俺に言わせりゃよっぽど滅茶苦茶だぜ」
「あのバスはうちの大事な車だったんだ!」
「知ったことか。あの場に居たお前らが悪い。道の真ん中でエンストしてたら、偶然通りかかった俺の八つ当たりの道具になった。それだけのことじゃねぇか。ウダウダうるせぇよ」
「き、貴様……!」
怒りを露にするレスラーたちだが、眞行路の静かなる貫録の気迫に押されて言葉が詰まる。それを鼻で笑った後に眞行路は捨て台詞を放った。
「俺が邪魔だと言ったら邪魔なんだよ。一番強いのはこの俺だ。文句があるなら俺を倒してから言えや」
この言葉を前にしてレスラーたちはすっかり黙った。文字通り猛獣のごとき眞行路の視線を受けて一瞬で怯む。数的優位があるにも関わらず、おまけに筋骨隆々に鍛えた格闘家なのに、足元がガタガタ震えている。
何という光景だろうか。大江戸プロレスは俺も子供の頃から何度もテレビで試合観てきた。両親に連れられ、大会へ足を運んだこともある。ゆえに「でんがく屋」に集った男衆の中には知っている顔もちらほらいたが、啖呵の切り合いで競り負けるようにはとても見えなかった。しかし、彼らは見ての通り。すっかり怯え竦んでいる……。
少々複雑な思いで、俺は事の成り行きをただ見守るだけ。どちらか一方に加勢したりはしない。今回の件では完全に傍観者なのだから。
「……」
「おお? 何とか言ったらどうだ? 試合でイキがってる割にゃあ全然大したことねぇんだなあ、てめぇらはよお」
沈黙した男らを蔑む眞行路。すると、群れを掻き分けるように一人の偉丈夫が前に進み出てくる。2mはありそうな巨漢だった。
「グ、グランディさん!」
周囲にそう呼ばれた男の名を俺は知っている。
グローザー・グランディ。大江戸プロレスの看板レスラーで、巨体を売りにした豪快な力押し戦法と凶器攻撃で観客を沸かせる有名選手だ。
そんなグランディは怯える後輩たちを差し置き、憮然と鼻息を荒らげた。
「いい加減にしろや、このタコ野郎。俺たちに謝れって言ってんだよ。素人のくせに調子に乗るんじゃねぇ」
眞行路はニヤリと笑って応じる。
「へぇ。江戸プロは総じて根性無しかと思ったら、お前さんみてぇなのもいたか。度胸だけは褒めてやるよ」
「あ? 一般人ふぜいが何を調子こいてんだ? さっさとそこに手を突いて詫びろ。今なら土下座だけで許してやるよ。さあ、早く!」
「お前さん、俺が誰だか知らねぇみてぇだな」
「おっさんよぉ。悪いけど全然顔じゃねぇんだわ。人並み以上に馬鹿力があるのか知らんが、素人が俺たちレスラーに勝てるわけ……」
――グシャッ。
男の声は一瞬で遮られた。
「なっ!?」
周囲の者たちの顔が一気に青ざめる。それもそのはず。つい先刻まで眞行路の前に仁王立ちしていたグランディの頭が、木っ端微塵に粉砕されていたのだから。他でも無い。眞行路高虎の繰り出した横薙ぎの右フックによって。
「……」
店の床には潰されたグランディの頭部が無惨な破片と化して散らばっている。それはまるで割られたスイカであった。おそらく、彼は何が起きたかも分からままコンマ一秒にも満たぬ間に首を獲られたのだろう。
おいおい、化け物かよ――。
俺の背筋に戦慄が走る。よもや人間の頭蓋骨を一瞬で吹き飛ばすとは。およそ数トンはあろうバスの車体を横転させるくらいだから当然と言えば当然だが……予想を超えた出来事に思考が追い付かない。これが銀座の猛獣、眞行路高虎の強さか。俺はこんな超人じみた怪物と戦おうとしていたのか……。
ただ呆気に取られるしかなかった。
「誰だ!? 次にぶっ殺されてぇ野郎はッ!」
眞行路がそう叫ぶと、店にいた他のレスラーらが一斉に殺到してきた。人間の惨殺体を前にしても闘志を保っていられるとは大したもの、格闘家というだけあって流石に常人とは違う。忽ち大乱闘が始まってしまった。
「うりゃあっ!」
大柄でガタイのいい赤髪のイケメンが先手必勝とばかりに顔面を狙って拳を打ち込む。だが、それを片手で受け止める眞行路。
「こんなもんか。弱ぇな」
痛くも痒くも無いようだ。彼はお返しの拳を繰り出し、敵の命脈を絶つ。グシャッという醜い音と共に赤髪の若者は砕け散った。
それからも次々と押しかかる敵を眞行路は軽くいなし、ほんの一撃で潰してゆく。読んで字のごとく、眞行路の放つ打撃は相手を「殴る」というよりは「潰す」に等しい行為。本職の格闘家顔負けの剛腕から打たれる巨大な拳が、当たった箇所を押し潰し、めり込むように破壊するのだ。
「くそっ!」
「な、何て力だ!」
それでも諦めず、先輩の仇を討つべく攻撃を続けるレスラーたち。
格闘技で飯を食っているだけあって強いことには強いが、今回は相手が悪い。眞行路高虎は極道。ルールの中で行われる試合しか出来ない彼らが、互いの全存在を懸けて命のやり取りをする“喧嘩”を生業とする者にそもそも敵うはずが無いのだ。
「ガハハッ! 所詮、お前らがやってることはお遊びだ! 飯を食うように人を殺してきた俺に勝てるわけねぇだろうがぁぁぁ!」
高笑いしながら、眞行路は容赦なく拳を振り下ろす。
――グシャッ。
また1人、新たな犠牲者の脳天に拳をめり込ますと、返す刀で後ろから来た敵に左の裏拳を叩き込む。そいつは首がグニャリと折れ曲がっていた。
「どうしたぁ! この俺を倒すんじゃねぇのか!? 口だけのゴミどもがよぉ!」
当初は30人近く居たレスラーたちだが、どんどん数を減らしてゆく。これは勝負あったな。他の者は臆して逃げ出そうとする始末だ。
「や、やべぇよ……!」
「こんな化け物に適うわけがねぇ!」
「逃げよう!」
3人ほど、一目散に逃げていった。
それでもなお、残った者に檄を飛ばして何とか戦おうとする大将格の男が居たが、まったく相手にならず、1人、さらにもう1人と眞行路に吹き飛ばされてゆく。皆、角材や鉄パイプで武装していたというのに銀座の猛獣には一切通用しなかった。
「く、くそっ! 何でこんな……!」
一方、俺は相変わらず黙って見ているだけ。もはや止められる雰囲気ではなかった上に、止めてやる義理も無いからだ。
むしろ眞行路がカタギの大江戸プロレス御一行と問題を起こすことで、此奴の評判が落ちてくれるのではないかと期待していた。警察を手懐けているので捕まることは無いだろうが「カタギを嬲り殺しにした」との風評が広まれば、今後の眞行路一家のシノギにも少なからず影響が出よう。仮にそうなれば俺としては願ったり叶ったり、ざまあみやがれだ。
……といった目論見で静観を続けていた俺だが、そんな思惑とは裏腹に思わぬ出来事が起こった。不意に店内に悲鳴が響く。
「きゃっ!」
アルバイトの女店員が転倒したのだ。江戸プロのレスラーを何とか止めようと試みて、逆に突き飛ばされてしまったらしい。こうなっては俺も黙っていることができない。
「おいコラァ! 誰に迷惑かけてやがる!」
即座に立ち上がると、俺は近くに居たロン毛のレスラーを殴った。
――バキッ。
「ぶはあっ!?」
勿論のこと加減はしたのだが……それでも思いのほか力が出てしまったらしく、相手は壁まで吹っ飛ばされて動かなくなった。気絶したようだ。
「!?」
何だこいつと言わんばかりに全員がこちらを見たが、眞行路は大笑いしていた。
「ハハハッ! 小僧、てめぇもやる気になりやがったか!」
「うるせぇ。これ以上は外でやれ。店が滅茶苦茶じゃねぇか」
「そんな硬いこと言いなさんな! いくら綺麗事並べたってなあ、てめぇも俺と同じ穴の狢なんだよ! 俺と同じ戦闘狂だぁ!」
まさに狂喜乱舞。それからも眞行路は残ったレスラーたちを一方的な暴力で押し潰し、殴り殺す。ほんの数分足らずで店に居た大柄な男たちは跡形も無く殲滅してしまった。
俺はと言えばせいぜい襲いかかる敵を払いのけるのみで、殆ど出る幕が無かった。いや、これに関しては出る幕が無いことが正解なのだ。元々は眞行路高虎が個人的に引き起こした騒動なのだから。
「……ふう。食後の良い運動になったぜ」
返り血で真っ赤に塗れた顔を紙ナプキンで拭い、眞行路は再びどっかりと腰を下ろした。その光景を見て店主と女給が肩を寄せ合って怯えている。そりゃあそうだ。床には凄惨な撲殺体が無数に転がっているのだから。言うなれば地獄絵図だ。
「おう、板前さんよぉ。怖がらせて悪かったなぁ。ほらよ、こいつは今日のお代だ。飲み食いした分に色付けといた。店の修理なり、警察への賄賂なりに使ってくれ」
革の財布から取り出した帯付きの札束を店主にぽんと押し付ける眞行路。見たところ100万円はありそうだった。
「は、はい……!」
「あんた、良い腕してるじゃねぇか。美味かったぜ。んじゃ、また来るからよ。今度もまたたらふく食わせてくれや。ガハハッ」
颯爽と去って行く眞行路総長の背中に対し、店主はただ一言「ありがとうございました……」と呟くしかできなかった。一般人が店で暴れようものなら即座に出入り禁止を言い渡されるところだが、相手は傍若無人な極道の大親分。自然な反応だと思った。
一連の乱闘で店内はすっかり滅茶苦茶になってしまった。何ともしのびない気持ちに駆られながら、豚の角煮の代金を置いて黙って店を出た俺。
思わず独り言がこぼれる。
「……眞行路高虎。とんでもねぇ野郎だ」
極道の親分がプロレスラーを殴り殺すという前代未聞の事件。これが大きな騒ぎにならないはずが無かった。
総本部へ戻って経緯を報告すると、皆が絶句した。赤坂に来ていた篁理事長には「お前が付いていながら何たる結果だ!」と叱責されたが、やがて外出先から戻って来た恒元の反応は肯定的なものだった。
「あの猛獣を止めずに傍観していたのは良い判断だったな、涼平。これで奴の風聞は地に堕ちる。眞行路一家の力を削ぐまたとない好機だ」
しかしながら、中川会の直参組長が狼藉をはたらいたことは事実。バスを横転させた件も含めて、会長である恒元が管理責任を問われる可能性が出てきてしまった。
「うーむ、当局の方はどうにか抑え込める。だが、問題はそのプロレス団体だ。彼らのバックに付いているのが誰か、知っているかね?」
「まさか、煌王会ですか」
「いいや。大皇連だ。煌王会なんぞよりよっぽど厄介だ」
「あっ……」
大日本皇民社政治連盟、略して「大皇連」と呼ばれるこの組織は、俗に云う右翼団体である。対米自立とアジア民族主義をかかげる絵に描いたような街宣右翼で、反日的とみなした企業や芸能人への街宣攻撃などを中心に活動している。
「涼平。お前は知らんと思うが、渡世には“極道の三不如意”があってな。右翼、カルト宗教、自然災害の3つだけはヤクザの思うままにならんのだ」
「……なるほど。カネで買収できないからですか」
「そうだ。右翼は殊に厄介でな。保守と名のつく政治家は大半が右翼と繋がっていて、いくら賄賂を贈っても、極道と右翼がかち合ったら必ず右翼の味方をする。昔から、ずっとな」
事実、暴力団関係者と右翼活動家のトラブルに警官が駆けつけた場合、逮捕されるのは決まって前者。右翼には「政治活動の自由」という憲法で規定された特権じみた大義名分があるのだそうな。彼らは想像以上に手強く、陰湿な輩らしい。
「我輩の父も兄も、渡世における多くの先代たちも、長らく手を焼かされてきた。だからこそ、中川会では『右翼とは揉めるな。関わるな』という不文律を設けていたのだがな……銀座の猛獣にはお構いなしだったか。嘆かわしい」
曰く、大皇連とは数年前に相互不可侵協定を結んだそうだが、今回の一件が下手に拡がれば約定が破られてしまうことになる。よって、何としても騒ぎが大きくなる前に止めなくてはならなかった。
「しかし、どうなさるおつもりで? 天下の中川会の会長が素直に詫び入れるってのも世間体が良くないでしょう」
すると、ここで篁が声を荒げた。
「麻木! テメェは黙っていろ! そもそも、今回の騒ぎはテメェが眞行路を止めてりゃ済んだことじゃねぇのか!? 原因をつくった張本人が何を偉そうに口出してやがる!!」
反論しようとした俺だが、才原に片手で制止される。局長は俺の代わりに篁と向き合った。
「お言葉ですが、理事長。麻木を責めるのはお門違いにございましょう」
「ああ!?」
「麻木が赤坂の店で眞行路と鉢合わせる前の段階で、既に奴は車をひっくり返していたというではありませんか。眞行路を制止したとしても、その時点で先方との因縁は発生していたのです。争いは避けられますまい」
まだ何か言いたげな篁理事長であったが、会長の手前、それ以上の追及はせずに矛を収めた。ここでの才原のフォローは、本当に有り難かった。おかげで無駄な労力を使わずに済んだというものだ。
「……ともかく。涼平の言う通り、所詮はカタギであるプロレスラーふぜいにこの我輩が膝を屈するのはまずい。別の方法を考えなくては」
「じゃあ、とりあえずは怪我人の治療費と壊れた車の弁償代ってことで。幾らかカネを引っ提げて俺が行ってきますよ」
「頼めるか?」
「造作もねぇことです。こないだの的屋と違って『眞行路高虎の首を差し出せ』って言われることも無いでしょうから。容易いもんかと」
この場において交渉役として白羽の矢が立ちそうなのはどう考えても俺――ということで、自ら名乗りを上げて大江戸プロレスへ手打ちを結びに赴くことになった。恒元には楽勝だと告げたが、実のところ楽観視していたわけではなかった。
双方とも怪我人が出たなら未だしも、今回は高虎による一方的な虐殺劇。向こうの怒りは相当なものとなるだろう。そこへ右翼が出てきたらカネで解決するのはさらに難しくなる。
「良いか? 奴らが街宣をかける前に、何としても和約を結んでしまうのだ。 ひと度街宣が始まったら面倒な事になるからな」
「分かりました」
「くれぐれも頼んだぞ。組織の未来が懸かっている」
早速、大江戸プロレスの事務所へ参上しようとした俺だが、いざ出発を前にあれこれ支度をしていると執務室に思いがけぬ来客が現れた。
輝虎だ。
「この度の父の不始末、弁解の余地も無いことでございます。心よりお詫びいたします。誠に申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げた輝虎に、恒元はこんなにも総本部へ来た理由を問う。肩を落とした御曹司の答えは真っ直ぐなものだった。
「決まっておりましょう。私は会長の忠臣、忠実なる下僕なのですから」
「そうか。まあ、親に代わって謝りに来てくれたのは嬉しいが。本音をいえば君ではなく高虎の方が来るべきだったのではないかな」
「……仰る通りでございます」
そこで控えていた篁が再び声を上げる。
「おい、コラ! 若造! 何が『仰る通り』だ、この野郎! どうして親父が来ねぇんだよ! 舐めてんのか!?」
「いえ。そのようなことは……!」
「だったら何で高虎の野郎はこの場に居ねぇんだよ! 説明してみやがれ!」
「お、親父は用事があると出かけて行きましたので……」
「んだとゴラァ!!」
篁が輝虎の胸ぐらを掴む。その瞳はとてつもない怒りに燃えている。彼の率いる白水一家は眞行路一家に所領を脅かされていると聞いていたので、理事長の言わんとすることは何となく分かった。
「毎度毎度、騒ぎばっか起こしやがって! どうなってんだ、テメェの親父は! 脳みその代わりに犬のクソでも詰めてんじゃねぇのか!? こちとらいい加減に飽きてんだよ! 眞行路のせいで冷や飯食わされんのは!! おお、この野郎!!」
輝虎は反論することをせず、ただ相槌を打って頷くだけ。彼としては倅の自分に言われてもという思いだったのかもしれない。それでも唇をグッと噛みしめてひたすら耳を傾け続ける姿が何ともしおらしく思えた。
「おい、若造! 聞いてんのか!?」
「す、すみません……」
「すみませんじゃなくてよぉ、本当に自分に非があると思ってんなら土下座しろやぁ! 土下座!! 頭ぁ下げることくらい出来んだろ!?」
言われるがまま床に跪き、頭を深々と下げた輝虎。その額を篁理事長は怒りに任せて蹴り上げようとしたが、寸でのところで恒元が止める。
「その辺にしておかないか。理事長」
会長から直々に窘められ、篁は渋々ながらに暴行を抑えた。ストップがかからなければ輝虎を殺していたかもしれない。それほどの勢いだった。
「頭を上げたまえ」
恒元に促され、やがて輝虎は姿勢を戻す。その根性には、素直に驚かされる思いだった。妙にプライドの高い人物だろうし、皆の前で罵声を浴びせかけられるのは相当の屈辱であったはずだ。
それからしばらくして場が落ち着くと、輝虎は再び謝罪の言葉を口にする。恒元は軽く頷いて受け止めるだけであった。
「会長。本当に申し訳ございませんでした」
「もう起きてしまったことは仕方ない。君が心から親の不始末を詫び、責任を取ろうと言うのなら、我輩はそれを受け容れるだけだ。息子に咎めを負わせたところでどうにかなる問題でもないのだからね」
「は、はい……」
すると恒元は神妙な面持ちになり、声色も引き締まったものに変えながら輝虎の耳元で囁くように言った。
「君。これから我輩は先方に手打ちの使いを寄越すのだが、良ければ同行しないかね?」
「えっ」
「そもそもは眞行路一家が起こした問題だ。そこの若頭である君が何もしないのは道理が立たんだろう。違うかね?」
一瞬は戸惑い、困惑していた輝虎だが、彼にとって返す答えはひとつしかない。少しの間を挟んだ後、健気な御曹司は大きく頷いた。
「……仰る通りでございます。お供させて頂きます」
「ようし。決まりだな」
笑みを浮かべ、会長は俺に視線を移す。
「では、涼平。そういうことだからよろしく頼む。輝虎も連れて行ってやってくれ」
いきなりの決定に俺も少し驚いたが、会長の命令とあらば断わるわけにはいかんだろう――と思っていると、傍に歩み寄ってきた恒元が他には聞こえぬ声量で密かに伝えてくる。
「出来たらで構わんが。この青二才に恥をかかせてやれ。やり方は問わない」
真意はすぐに悟った。要するに、和解交渉において眞行路一家が得をする結果になってはいけないとのこと。言われずとも分かっている。
「勿論ですとも。会長も人が悪い」
そうと返すと恒元は微笑するのみだったが、その瞳はこれまでに見たことないくらい愉しげな色を湛えているように見えたのだった。
さて。そんなこんなで使いに赴くことになったわけだが、大江戸プロレスの本部事務所は新宿にある。赤坂からは車で15分ほどの距離だ。勿論、道中は車で向かう。だが、本家所有の公用車ではなく眞行路一家のリムジンに乗ることとなった。
この車の運転手は三淵。他に蕨剣斗という屈強な男も付いてきた。この蕨なる者は眞行路の若頭補佐なのだとか。
「初めましてだな。俺は蕨ってモンだ」
「執事局次長の麻木だ。よろしく頼むぜ」
「ああ? 何だよ、その仕草は。誰がお前みてぇな下っ端と握手なんかするかよ。身の程を弁えろや。チンピラが」
一緒に来た原田が「てめぇ、兄貴に向かって何ちゅう口の利き方だ!」と激昂したが、俺は彼を制する。あくまで冷静であらねばならない。
「格は同じだと思ったんだがな……まあ、そっちが拒むなら無理強いはしない。せいぜい仲良くやろうや。チンピラ同士な」
その切り返しに蕨の目の色が変わる。
「ああ?」
直後、わずかに舌打ちの音が聞こえた。俺としても最大限の皮肉を交えたつもりだ。少しは効いたようで何よりである。
「……」
静かなる気迫と気迫のぶつかり合い。メンチを切るとでもいえようか。車内に緊張感が走る中、先に矛を収めたのは奴の方だった。
「まあ、良い。ここでお前を殺しても何にもならねぇからな。しかし、次は無いと思え」
「上等だよ」
軽口を返す俺に対し、蕨は完全に無視。上座に腰をおろしていた輝虎に話を振る。
「しっかし、若頭。総長もとんでもねぇことをやらかしてくれたもんでさぁ。よりにもよってプロレスラーと揉めるなんて」
「あの人の頭脳に『よりにもよって』なんて慣用句は無いさ。あの人は自分が世界で一番強いと思っておられる。喧嘩が出来れば相手は誰でも良いんだ」
「困ったもんですわなあ、まったく」
俺に話す時に比べて、蕨の声色が変わっている。至極当然のことなのだが、それにしたって口調が親しげというか。
兄貴分に対してというよりは、学校の仲の良い先輩と話をしているような……両者の関係は相当近いものだとすぐに察せられる様子だった。
「付き合わされる子分の身にもなってほしいもんですよ。はあー、早いとこカシラが跡目を獲ってくれねぇもんですかねぇ。そしたらこんな事は初めから起こらねぇのに」
「控えろ。蕨。俺たちは親父に黙ってついて行くだけだ。向かう先が何処であれ、子分が文句を言うことは許されねぇ。そいつが極道の理だろうが」
「へいへい。やっぱ律儀っすねぇ、カシラは」
なるほど。輝虎は、想像以上に部下からの期待を集めているようだ。それが輝虎個人への希望なのか、はたまた現体制への不満からくる新総長待望論なのかはさておき、ひとつ言えるのは高虎が組の中で大きく人心を欠いているということだ。
もしかすると眞行路一家は俺が手を下すまでもなく内部崩壊するかもしれない――彼らの様子を見ていると、そんな憶測すらも首をもたげてくる。
「蕨の兄貴。今の言葉はいけませんよ。仮に思ったとしても、決して口にしてはならないお言葉のはずです」
「うるせぇ! 黙って運転しろや三淵! 下っ端が口挟んでんじゃねぇ! てめぇはいつも一言多いんだよ! ぶちのすぞゴラァ!」
「失礼いたしました」
彼らのやり取りを見ていて可笑しく思ったのか、隣に座る原田がこっそりと俺に耳打ちしてくる。
「あの三淵とかいう運転手、酒井にそっくりですね。ああいうタイプは鬱陶しがられるんでしょうね。ククッ」
「おい。同輩の陰口とは感心しないな。お前ら2人は同期なんだから、もっと仲良くやれねぇのかよ」
「そりゃあ努力はしてますって。でも、どうにも反りが合わねぇんですよ。俺のする事、成す事に、野郎がいちいち突っかかってくるんで」
「それは自分と真反対の性格、つまり自分には無ぇものを持ってるってことだ。上手く付き合えば、互いに足りねぇもんを補い合える関係になれるかもしれない。きっと何かの縁で出会ったんだから、良い相棒になれるよう努力しろや」
「へいへい……」
そんなアホな会話の片隅で、俺はハンドルを持つ三淵のことを今一度観察する。下っ端でありながらスーツを折り目正しく着込み、黒髪もワックスでしっかりと整えている。そこだけ見れば確かに酒井と同じタイプなのかもしれないが、決定的に違うのは内面。
以前、言葉を交わした際にも思ったが、あの男には並々ならぬ功名心のようなものが感じられたのだ。何としても名を上げ、組織の中でのし上がってやろうという出世欲。それが言動の節々に滲み出ているように思えたのである。現に直参組長の息子であり、ゆくゆくは親の跡を継いで二代目酒井組を襲名できる酒井とは内側に渦巻く情念が違うだろう。
「……あの三淵って奴、意外と要注意人物かもな」
「えっ? 何て言いました? タイヤの音で聞こえませんでしたぜ?」
「いいや。何も」
それはそうと、俺は今回の目的地である大江戸プロレスについて思考をめぐらせる。考えてみればこの興行グループと右翼団体は切っても切れぬ関係にあった。
日本においてプロフェッショナル・レスリングという競技がメジャー化したのは終戦後間もない1945年。廃業した元関取が力自慢の占領軍兵士らを相手に行った“西洋相撲”が白黒の街頭テレビジョンで生中継されたのを端緒とする。
敗戦国の烙印を押されていた当時の大衆にとって、日本人が屈強な外国人を豪快に投げ飛ばす光景は痛快に思えたようで、娯楽が少なかった焼け跡社会の中にてプロレスは瞬く間に人気を博していった。
そんな中、大江戸プロレスの前身ともいえる団体が1950年に旗揚げする。そこでは日本人が筋骨隆々な白人レスラーを徹底的に痛めつけ、見事な技の連撃でスリー・カウントを奪う流れの試合が頻繁に組まれ、一種の花形と化していた。
代表を務めたのは戦前に貴族院議員を務めた興行界の名士で、GHQの公職追放に伴い右翼活動家に転身。彼は同時に、戦後社会の娯楽となりつつあったプロレスを政治的に利用することを思い付き、私財を投じて団体設立へと動いた。
「日本人VS白人」の構図で試合を組むことにより、民衆の反米感情と民族意識を扇動する狙いがあったといわれている。
しかし、時代が下るにつれてプロレス人気は下降の一途を辿り始める。戦後の復興期から高度経済成長期の只中にかけて、大衆娯楽の主役の座がアメリカ由来の野球やボクシングといったスポーツに取って代わられたのだ。
それでも細々と活動を続けていた旧団体だが、1971年に経営難に陥って解散。翌72年以降は幾つかの団体に事実上分派し、そのひとつが現在の大江戸プロレスとなる。設立の目的そのものが右翼による世論工作であった団体だけに、活動家との蜜月体質は今でも色濃く継承され、現代に至るというわけだ。
「着きましたよ」
三淵の声で我に返る。窓の外を見ると既に大江戸プロレスの事務所があるビルに到着していた。輝虎と蕨が先に車を降りるので俺も後に続くことにする。
ところが……。
「おい。執事局のぉ。まさかうちの若頭に頭ァ下げさせようなんて考えちゃいねぇだろうなあ?」
蕨が思いがけないことを問うてきた。
「そのつもりだが」
「ふざけんじゃねぇよ! そんな舐めた話が通ると思ってんのかゴラァ!?」
「通るも何も、会長の命令だからなぁ。そもそもおたくらの親分さんがやったことだろうよ。本来ならそちらさんが始末つけんのが筋ってもんだが、それをわざわざ本家の……」
「うるせぇんだよ!!」
その瞬間、蕨の一撃が飛んだ。
「おっと」
予備動作が大きかったので難なく避けられたが、いきなり短刀を抜くとは何の真似か。これには原田も激昂する。
「この野郎! 兄貴に向かって何しやがる!!」
とりあえず俺は彼を「待て」と制止した。ここで悶着を起こしても意味はない。多少の苛立ちはあるが、事を収めなくては。
「……蕨さん、だっけか。あんたの言いたいことは分かるぜ。けどなあ、こうなった以上、眞行路の人間にも詫び入れてもらわなきゃ困るんだよ」
「それが認められねぇってんだ。向こうに詫び入れるならテメェ一人で片を付けろや。うちの若頭を巻き込むな」
ああ。こいつはこういう男か。組の体面が何より大事な昔気質の極道。どんな状況であれ、組の者が他人に対して跪く形となるのが許せないのだろう。大柄で長身な背格好も相まって眞行路高虎と同じ部類の人間と思う。
「おい、蕨。次長が困ってるだろう。いい加減にしろや。別に俺は構わねぇさ。事が丸く収まるなら頭のひとつくらい下げてやるよ」
「若頭! いけませんぜ! この野郎の魂胆は眞行路一家に恥をかかせようって算段なんです!」
「だがな、そうやってゴチャゴチャ喚いていてもらちが明かねぇだろ。次長の言う通り、今回の件は親父の不始末。なら、息子の俺が頭下げるのが筋だ。俺は最初からそのつもりで来た。わざわざ来といて何もせずに帰った方が恥ずかしいわ」
「若頭……」
蕨も押し黙るしかなかった。
他にも、輝虎は蕨と三淵に外で待機しているよう命じた。どうやら俺と二人だけで話を付けに行くつもりのようだ。
「……そ、そこまで仰るなら」
渋々ながらに蕨は承諾した。尤も、彼としても自分の兄貴分が無様に頭を下げる姿など見たくないだろうからこれで良いと思うのだが。
「んじゃ、さっさと行きましょうぜ」
気を取り直してとばかりに、原田が先導して事務所へ入ろうとした。だが、ここでまたもやストップがかかる。
「おい! お前さんも留守番だよ!」
制止したのは輝虎だった。
「ああ? 何でだよ!?」
「さっきの話を聞いていなかったのか。俺と麻木次長の二人だけで話を付けに行くと言ったんだ。お前は余計だ」
「んだとぉ!?」
そう来たか。確かに輝虎サイドが護衛を連れていないのに、俺に随行が付いているのは不自然である。悔しいがここは応じるしかないか……。
俺はため息をつきながら言った。
「原田。すまんが、お前はここで待っていてくれ」
「兄貴ィ!?」
「こいつらが変な気を起こさねえよう見張っとけ。腕っぷしの良いお前にしか頼めねえことだ」
蕨たちの監視――ちょうど良い口実が存在していたのが幸運だった。おかげで猪突猛進型の部下を説き伏せる時間を要さなくて済む。
「わかりました! 任せてくださいッ!」
原田が単純で助かった。ただ、実のところ、蕨と三淵の動きが不穏なのは本音だ。彼らに対する抑えの要員が、一人くらいはいた方が良いだろう。
「二人だけで事を収めてくる。てめぇら、絶対に来るんじゃねぇぞ」
いちおうは釘を刺しておく。和解交渉の間、蕨と三淵が良からぬ暴挙に出ないことを祈りながら、俺たちはビルの中へと入った。
文京区本駒込3丁目。大江戸プロレス事務所。民家とオフィスが混在する風景に溶け込む形で、その建物はあった。
かつてはアリーナ級会場での興行を何度も打つくらいに隆盛を極めた団体だが、現在ではすっかり落ちぶれてしまった模様。同じく旧団体から派生した某競合他社がビルを一棟ごと所有しているのに比べたらその衰退ぶりが分かると思う。それでも、業界全体が総合格闘技人気に押される近年の情勢下ではまあまあ良い経営をしている方だ。
「麻木次長。あなたはプロレスに興味あるかい?」
「いやあ。そこまであるってわけでも無ぇな。ガキの頃は後楽園に試合を観に行ったこともあるんだが」
「そうかあ。我が家じゃプロレスは御法度だった」
事務所の呼び鈴を押そうとした直前、不意に話しかけてきた輝虎。彼の放った言葉が気になった。
「御法度? そりゃあどういうこった?」
「親父がヤクザになる前はヘビー級のプロボクサーだったって話はしたろ。だから、プロレスみてぇなショーじみたもんは毛嫌いしてたんだ」
「なるほどな」
格闘技の中でもプロレスは異質な存在である。ボクシングで日本チャンピオンまで行ったのなら、予定調和の目立つ競技が許せないのは当然といえよう。
「ただ、俺が思うにプロレスも完全な八百長ってわけじゃねぇと思うぜ。相手の技を敢えて受けるのは下手にもがくと却って危ねぇからだって話も……」
そう言った矢先、玄関のガラス戸が開いて中からTシャツ姿の人物が姿を現した。
「お待ちしておりました。眞行路高虎さんの代理の方ですな?」
袖口から覗く二の腕は恐ろしく極太で、身長もおそらくは180センチ超え。いかにもプロレスラーといった風体の人物である。
「ええ。いかにも」
コクンと頷き、俺は名乗りを上げる。
「代理人の朝比奈隼一と申します。この度は事の子細を預かって参りました。どうぞよろしくお願いいたします」
その瞬間に輝虎は呆気に取られた表情で俺を二度見するが、これは俺の戦略。偽名を使う件も含めて、彼には事前に伝えていなかっただけだ。もしも車内で打ち合わせを行っていようものなら、確実に蕨が邪魔に入っていたであろうから。
「こちらへどうぞ」
出迎えの男の案内で俺たちは建物の奥へと通される。廊下を歩く途中、輝虎が慌てた口調で問うてきた。
「おいっ! どういうことだ!?」
「どういうこととは。私の名前は朝比奈隼一ですよ。若頭。言ったじゃないですか。私に任せてもらえると有り難いのですがねぇ」
わざとらしく芝居がかった口調で返答する。対し、輝虎は若干の苛立ちの色を見せていたが――やがて察してくれたようだ。
「……分かった。頼むぜ。“朝比奈”さんよ」
この場においてはその偽名で通すことを承諾してくれた模様。理解が速くて助かる。蕨や三淵が居たらこうはいかないだろう。
なお、俺の格好はと言えばグレーの背広に青のネクタイ。いつものダークスーツではない。髪も整髪料で七三分けに固め、伊達眼鏡をかけている。真っ当な代理人に見せかけるための工夫だ。少しやり過ぎたかもしれないが、これくらいの装いで来た方が警戒されるまい。
そして手には現金の詰められたアタッシュケース。当初は原田が持ってくるものだったが、むしろ俺が自分の手で携行してきた方が良かったかもしれない。
交渉のプランは完全に頭に入っている。さあ、後はあちら側がどういう態度で来るか。出方を窺うとしよう。
「親方! 眞行路一家の者が来ました!」
やがてビルの3階へ移動した後、木製のドアの前で止まる。案内人の男が扉を開いた先で待っていたのは、潰れかけの事務椅子へと腰かける男。俺も名前と顔は何となく知っている、大江戸プロレス代表にして看板レスラーの木暮平八郎だ。
「おう。あんたらが眞行路の使いですか。とりあえずお掛けください」
着席を促され、俺たちは応接のソファーに腰を下ろす。木暮の顔には強い警戒感と怒りの色が刻まれていた。そりゃああれだけのことをやらかした男が使いを寄越してきたのだから、こういう顔にもなるか。
「初めまして。代理人の朝比奈と申します」
俺が軽く自己紹介をすると、隣の輝虎が名乗った。
「初めてお目にかかります! 手前、眞行路一家の若頭をやっております、眞行路輝虎と申します! この度は父に代わってお見舞いに参りました!」
極道者らしい何とも気風の良い挨拶口上。パフォーマンスとしては大層見事なものだが、どうにも言い方がまずい。木暮の顔がみるみるうちに曇った。
「お見舞いですってぇ? おたくら、詫びに来たんじゃないんですかい!?」
「ええ。お詫びも兼ねて……」
「何ですか、“兼ねて”ってのは! あれだけのことをやっといて謝罪は二の次だと言うんですか!?」
完全に言い方を間違えたな。おそらくは眞行路の若頭たる自分がカタギ相手に軽々しく頭を下げてはなるまいという思いがあったのだろうが、この場においてはくだらぬプライドでしかない。木暮が怒るのも無理はなかった。
「言っときますけどねぇ! こっちはあんたらのせいで一千万単位の損失が出てんですよ! それをついでみたいな軽い詫びで済まされちゃあ堪ったもんじゃない! どう落とし前を取ってくれるんです!? ええ!?」
「も、申し訳ない。木暮さん。お金については後々に必ず……」
「お金がどうこうって話じゃない! こっちは誠意を見せてくれと言ってんだ!!」
このまま輝虎が話し続けても埒が明かなそうなので、そろそろ間に入ってやった方が良さそうだな。
「まあまあ。そう興奮しないでください木暮さん。お金に関してはご希望の額をお支払いさせて頂きますので、ここは私の顔に免じてどうかお収めいただけないしょうか」
「おめぇの顔なんざ知ったこっちゃねえんだ! すっこんどれ! すっこんどれぇぇぇ!!」
俺の介入を撥ねのけようとする木暮。想定通りの反応だ。では、こちらもひとつ駒を進めてみるとしようか。
「ところで木暮さん。今回、私が誰の代理人であるかお分かりでしょうか?」
「あ? 何言ってんですかい!? いまはそんな話じゃ……」
「まあまあ、そう言わずに聞いてくださいな。実は私、中川会会長の中川恒元様の依頼で参ったのです」
「ナ、ナカガワカイ!? それじゃあ!」
「ええ。ご想像の通り。此度、私が持参いたしました現金は中川会長から大江戸プロレス様に宛ててお預かりしたものということになります」
「……ッ」
木暮の顔にわずかな動揺の色が浮かぶ。眞行路一家の親組織で関東最大の暴力団の会長の名が出てきたとなれば、あちらもケツモチの名を出すほかあるまい。そう踏んだのだ。
「……そうかい。中川会の会長が御自ら手打ちをお望みですかい。よく分かりました」
「ええ。ご理解いただけましたか」
「あんたは知ってるかどうか。俺たち大江戸プロレスのバックにゃあ、ちょっと厄介な方々がおりましてなあ。中川会が組織を挙げて出て来るってなると、こっちとしても後ろ盾を頼らざるを得なくなりますぞ」
「承知してますとも。右翼の大皇連でしょう」
俺の反応に、木暮は目を丸くした。
「へぇ。知ってたんですかい」
「そりゃあ勿論。日本最大規模の行動派右翼ですからねぇ。その気になれば日本全国で一斉に街宣をかけることも可能だ」
「そこまで知っておられるなら話は早い。帰って会長にお伝えくんなさい。『こちとら交渉する気は無い』ってね、おたくらヤクザは右翼と揉めたくないでしょうから」
さてさて。ようやく背後に大皇連がいることを認めてくれたわけだが、ここからは気を引き締めて言葉を発しなくては。一瞬の緩みで全てを帳消しにしてしまう。
わずかの間を置き、俺は木暮に切り返す。
「揉めたくないのは……いえ、大きな騒ぎにしたくないのはそちらさんも一緒じゃありませんか? 大江戸プロレスさん」
「どういうことですか」
「いや、なに。あくまでも可能性を述べただけですよ」
敢えてすぐには詳細な説明をしないでおく。目論見通り木暮がピクリと反応を見せたところで俺は続ける。
「右翼の街宣ってのは、丸々と一か月くらいかけて行われるみたいでしてねぇ。一度でも街宣車を出したら、相手が屈服するまで絶対に折れない。当方の言い分と要求を通すまで、徹底的にやるって話じゃないですか」
「それが何なんです!?」
たまらず怒りを露わにする木暮。序盤の食い付きとしては十分すぎる。交渉では先に冷静さを欠いた方が負けなのだ。
「いやあ、ねぇ。大皇連に頼んで中川会を攻撃して貰ってる間、あなた方の身は安全なのかなと思いまして」
「どういうことだ!?」
「日本で2番目に大きいヤクザを敵に回すわけです。何が起こるかは薄々予想がついているでしょうに。あなた方とにとって一番困るのは……中川会傘下の組員が興行を邪魔しに襲ってくることじゃあないですか」
興行の妨害。その部分を強調するだけで木暮は大いに揺らいだ。それもそのはず、プロレス団体にとって最も重要なのは興行の成功だ。大会が不発に終わっては仕事にならない。木暮は団体の代表ゆえ、集客の重要さを誰よりも理解しているはず。
俺は一気に話を進めてゆく。
「中川会の組員が大江戸プロレスに嫌がらせを始めれば、集客率が下がって大会は立ち行かなくなるでしょう。ああ、こんなシナリオも考えられますね。怒りに任せて暴走した組員があなた方の事務所や道場に弾丸を撃ち込むとか!」
「ッ、そ、そうなったら大皇連が黙ってない!」
「そうでしょうねぇ! しかし、大皇連など所詮は街宣右翼。いくら暴力性があろうと兵数の面では本職の極道に及びますまい」
日本の右翼、とりわけ大皇連には“行動隊”と呼ばれる実力行使を担う下部組織がある。拳銃や刀剣などでヤクザさながらに武装し、某左派系政党の党本部を襲って党首を殺害したりするなど、これまでに幾多もの政治テロ事件を起こしてきた。しかしながら、その構成員の総数としては公安調査庁の見立てで大体500名ほど。日本全国の大皇連会員を含めてこの数字である。関東甲信越で2万騎を有する中川会とは比べ物にならない少なさだ。いや、比較するべくもなかろう。
「あ、あんたらヤクザは右翼に敵わないって聞いたぞ!」
「ええ。確かに敵いません。どんなに賄賂を贈ろうと警察は右翼の味方をしますから、揉めたところで捕まるのはヤクザの方」
「だったら、あんたらに勝ち目は……」
「ヤクザが警察に捕まることを本気で恐れているとでも? 街宣右翼が政治理念で昂っているように、ヤクザはたとえ己の身が滅んでも親分のために命を張る任侠精神を持っているのです。覚悟を固めた侠らは、たとえパクられると分かっていてもあなた方を襲うでしょう」
「お、大袈裟な」
「大袈裟なものですか。ヤクザは最後の一兵になるまで戦い抜く。街宣車を見かけたら誰彼構わず襲いかかり、血の雨を降らせる。そうして抗争が拡大していけば、世間はどんな顔をするやら。きっと大皇連は街宣であなた方の名前を出すでしょうから『大江戸プロレスが暴力団と揉めている』という風聞が広まる。そうなった時、困るのは他でも無いあなた方のはずだ」
「……」
木暮が言葉に詰まった。この機を逃す手など無い。あちらの動揺が落ち着かぬうちに畳み掛け、本題を切り出すとしよう。
「この問題をヤクザと右翼の戦いに繋げてはいけない。どうか中川会からの見舞い料を受け取って事を収めていただきたい。私は子供の頃からプロレスを観てきました。あなた方が窮するところを見たくないのです。どうか」
抗争の勝ち負けや損得に関わらず、ヤクザは敵対視した勢力に対しては徹底的に攻撃をかける習性を持つ。そもそも大皇連とは兵力差が歴然としているため、ヤクザ側が逮捕を恐れなければほんの一瞬で決着がついてしまう。右翼など敵ではない。
無論、ハッタリも良い所である。当局が本気で潰しにかかってくれば、天下の中川会とはいえひとたまりもないのだから。
それでも、俺は己の意見を通した。
「私は確かに中川会長の依頼で参りましたが、一私人として申し上げているつもりです。どうか折れて頂きたい。この通り」
そう言って、最後に深々と頭を下げる。交渉においては相手の最も嫌がる未来予想図をちらつかせてやるのが王道。普段は使わぬ丁寧語で慇懃な口車を以て、俺は敵を陥落させて見せた。
「……分かったよ。降参だ。事を収めよう。うちの大会があんたらに邪魔されちゃまずいからな。無駄に争いを広げても、良いことは無い」
「ありがとうございます」
「まあ、バスの件は犠牲者が出たってわけでもないんだ。整備不良でエンストを起こしたこちら側にも責任はあるわけだし」
全てを水に流すわけではないが、ひとまずは和解に応じると木暮は約束してくれた。交渉妥結。されどもう一押しかけておく。
「木暮さん。よろしければ、あなた方の次の大会に中川会から出資させていただけませんか? 恒元様はそう仰っています」
「なっ! それはどういう……!」
「ええ。プロレスは日本人に後の焼け跡から立ち直る勇気を与えたもの。これからも守り、育て、未来に向けて繋いでいこうと、恒元様はお考えなのです」
実のところそんな話は聞いていないが、今回の交渉事に関して金はいくらでも使って良いと言われている。ゆえに俺の裁量で出資を約束しても良いだろう。会長も事後承諾してくれることと思う。
ここ数年の大江戸プロレスの経営難は有名な話だ。21世紀になってからというもの、日本ではMMA(総合格闘技)が業界を席巻している。
そんな情勢下で従来どおりの見世物興行を続けたところで客は集まらず、興行費用の元すら取れぬ赤字に終わるばかり。かと言って総合格闘技路線に迎合しても世間の冷笑を買うだけ。今や何を試みても裏目に出る、謂わばプロレス冬の時代なのだ。
興行をやるために一銭でも多く金が欲しい所に出資を持ちかければ、飛びついてくるのは当たり前。今後の禍根を残さぬためにも、なるべく大江戸プロレスとは良い関係を築きたい。交渉においては、こうした踏み込んだ譲歩も必要なのだ。
「いやあ、願っても無い話で。何から何まで本当に助かりました。このご恩は決して忘れません……さて。勝手ですみませんが。次の大会『ビッグモンスター凱旋記念試合』を中川会さんの方でお引き受け頂けますでしょうか」
「分かりました。我が依頼人にお伝えいたします」
「有り難い!」
かくして和解は無事に成立の兆しを見た。恒元の言い付け通り、輝虎および眞行路一家には何ら花を持たせぬ形で交渉を成就させてのけた。
正直なところ、俺はひどく緊張していた。事務所に入った瞬間、江戸プロの所属レスラーや右翼の闘士がぞろぞろ出てきて物々しい雰囲気になると思っていたのだ。実際、そうならなかったのは先方の配慮ゆえのことであった。
「実は練習生も含めて、うちの者はあらかた道場に押し込めたんですよ。きっとあなた方の姿を見るなり飛び掛かるでしょうからね」
「そうでしたか。お気遣いいただきありがとうございます」
「当然のことで」
やはり、向こうとしても大きな騒動には繋げたくなかったようだ。後は何事も無く、この事務所を出れば良いだけ。ところが、帰り際。
こんなやり取りがあった。
「なあ、あんたは何のためにおいでなすったんで?」
木暮が俺の背後に居た輝虎に向かって怪訝そうな顔で声をかける。すると、それまでボーッとしていた御曹司は目が覚めたような顔になった。
「えっ、あ、俺は……」
「謝罪で来たって言いましたけど。頭も何も下げてないじゃありませんか。こちらの代理人さんにばっか話をさせて、あなたはダンマリですか」
「いやいや。そういうわけじゃありません。俺はただ、お二人の話を邪魔してはいけないと思って」
「ふーん。それじゃあ、何です? 眞行路一家さんとしては今回のことで頭を下げる気は一切無かったと? そう考えてよろしいですか? ええ?」
「そりゃあ。俺も組の若頭ですから」
こんな些末事では頭を下げられぬ、と後に続きそうな返答。木暮は大きくため息をつき、俺の方に向き直った。
「はあー。どうしようもありませんね。相手がカタギだからと見下したような態度をとって、挙げ句の果てには責任逃れ」
「申し訳ありません。後で、きっちり言い聞かせておきますので」
「まったく。今日は中川会さんの顔を立てて和解ってことにしますけど、本当は腹の底じゃ許せねぇんですよ。うちの選手をあんな目に遭わせといて」
そう言って再び輝虎の方を睨む木暮。彼の視線は実に刺々しいものだった。どうすれば良いんだとばかりに固まる若頭へ、瞳の色で軽蔑を送っている。
直後、思わぬ台詞が彼の口から飛び出た。
「チッ。本当に何様のつもりなんだよ。チンピラふぜいが」
「木暮さん!」
俺が制止するも時既に遅し。その侮蔑の言葉ははっきりと口から放たれ、輝虎の耳に瞬く間に飛び込んでしまう。当人が激昂するのも当然だった。
「テメェ! 今、何て言いやがった!!」
ああ。せっかく話がまとまりそうだったのに。木暮も木暮で、余計な一言を紡いでくれたものだ。
「こっちが下手に出てりゃあ良い気になりやがって! プロレスラーごときが極道を舐めてんじゃねぇぞゴラァ!!」
「へぇ。これがあんたの本音か。随分とまあ、身勝手なことで」
たちまち場は大喧嘩一歩寸前へと沸騰。俺は慌てて双方の間に入り仲裁を試みる。だが、輝虎の方は引っ込みがつかない。
「上等だ! そのスカした面ァぶん殴ってやる!!」
今にも殴りかかりそうな様子。対する木暮も導火線に火がついてしまったようだ。顔を真っ赤にして怒声を上げている。
「やってみろや! ヤクザだろうが何だろうが、お前さんみてぇな素人が格闘家に勝てるわけねぇんだよ!!」
さて、この場をどうやって抑え込むか。けれども考えてみればこれで眞行路の株は下がったはずだ。ゆえに俺としては思惑通りというか。
苦笑混じりに考えていると、声が響いた。
「いい加減にしな!!」
矢のように真っ直ぐに空気を貫く女の声。聞こえてきた方に視線を向けると、入り口の方から1人の女性が歩いてきた。
「はりきって出かけて行ったかと思えば……あんたは一体何をやってんだい! みっともない姿晒してんじゃないよ!」
「か、母さん」
その姿を見て輝虎が硬直した、和服に身を包んだ妙齢の婦人。彼女は、眞行路淑恵。輝虎の母親にして高虎の妻、眞行路一家のナンバー2であった。
「母さん、違うんだ。これは……」
言い訳がましく責任を擦り付けようとする輝虎。けれども、淑恵は聞く耳を持たずに息子の頬を思い切り平手で打つ。
「眞行路の男ともあろうもんが、情けない」
「……」
すっかり黙り込んでしまった息子に代わり、淑恵は木暮の方へにじり寄って平身低頭で詫びの言葉を吐いた。
「此度は大変申し訳ございませんでした。うちの人……いえ、うちの総長がとんでもないことをしでかしまして。心よりお詫び申し上げます」
「いやいや! そんな。そこまでしなくても大丈夫ですよ」
「それでは道理が通りません。怪我をした方には出来る限りの償いをさせていただきます。他にも何かございましたら、こちらに言いつけて下さいませ」
突然現れた着物の女性に面食らっていた木暮であるが、淑恵の真摯な謝罪は効果てきめん。すんなりと受け入れてくれたようだった。
「……」
当事者である輝虎は完全に置いてきぼりを食っている。そんな彼の間の抜けた表情はさておき、俺は淑恵に問うた。
「どうしてあんたが?」
「うちの人を問い質してね。まさかとは思ったけど、本当に車をひっくり返したと来たもんだから。何もしないわけにはいかないだろう」
傍らに佇む倅に視線を移し、淑恵は続ける。
「このバカ息子が事を収めに出てったと聞いたもんだから、どうせ上手いことやれないだろうと思って駆け付けてみれば案の定さ」
淑恵は鼻を鳴らした。それから彼女は膝を曲げて屈むと、射抜くような視線を送りながら息子に怒りをぶつける。
「あんた、頭の中身は相変わらずちんけなままだねぇ。出来の悪い子に育ったもんだよ。まったく」
「い、いや、俺はただ……」
「問答無用! あんたはもう黙って帰りな! 後はあたしが何とかする!」
母の剣幕に押し切られ、輝虎はとぼとぼと事務所を出て行く。御曹司のあっけない敗北を見届けつつ、俺は淑恵に頭を下げた。
「助かった。あんたが来なけりゃどうなってたか分からねぇぜ」
「別に礼を言われる筋合いはないよ。駄目な亭主と駄目な子供の尻を拭くのは女房の務めだからね。そいつを果たしたまでさ」
からりとした笑い声を上げる淑恵。さて、あまり長居するわけにはいかないのでそろそろお暇しよう。踵を返す俺の背に彼女は言った。
「借りだと思わなくて良いからね。うちらは本家に頭を下げるつもりは更々ないんだ。持ちつ持たれつで行かせてもらうよ」
皮肉っぽくもどこか嫌に感じさせない威勢の良さ。それでいて言葉の節々にはどこか人情味じみたものが見え隠れしている。強く、どこかいなせに釘を刺すような淑恵の台詞は、まさに眞行路の妻らしいと思った。
ところがどっこい。
その日、夕方近くになって淑恵は突如として総本部に姿を見せた。俺はこれを予測していなかったので来訪の報せを受けた時には驚いた。
「此度は大変失礼いたしました。うちの人にはきつく言い聞かせておきますので。どうかお許しいただけないでしょうか」
無論、これには恒元も困惑する。
「淑恵よ。君の言うことは尤もなのだが、どういう風の吹き回しだね? 本家への服従をあれだけ嫌がっていたのに」
訝しむ会長に淑恵は答えた。
「これは“詫び”に非ず。単なる“挨拶”にございます。ゆえにこそ、こうして頭を下げずにお願い申し上げているのではありませんか」
「なかなか面白いことを言うんだね。謝るように見せて遠回しに啖呵を切っている。まあ、そのくらいでないとあの猛獣の妻は務まらんか」
「うちの人とは今後も仲良くお付き合いくださいませ、会長。手前どもといたしましても素敵な関係が築ければと思っております」
あくまでも中川会本家と眞行路一家は主従関係ではない、と言いたげな淑恵。何ら気後れせず豪快に笑っていた。その点については大した胆力と言えようが冗談にしてはあまりにも畏れ多いこと。
詰まる所、この女もまた中川会三代目を舐めているのだなと俺が確信を抱くのに時間は要さなかった。
「はあ。まったく。あの女にも困ったものだ」
淑恵が帰った後、酒井が淹れた紅茶を飲んで恒元は嘆息をこぼしていた。微塵の敬意も感じられなかったので当然の反応である。
「せめて彼女だけでも我輩に従順なら良かったのだがな。夫の暴走を嗜めるどころか、あれでは尻を叩いてしまっているようなものだ」
「あの女房は何がしたいんでしょう?」
「おそらく見据える先にあるのは天下取りだ。いずれ我輩を退け、眞行路一家でこの国の覇権を握らんとしている。恐ろしい女よ」
「やっぱり……!」
何となくそんな気はしていた。あれほどに肝の座った女傑ならば旦那を差し置いて独力でも覇道を進みそうなものだが。ただ、彼女の行動目的は高虎を支えることにあるという。
「我輩は昔からあの女を知っているが、何をするにも高虎が一番でな。言うなれば良妻賢母の鑑のような奴だ」
ティーカップを置いた会長が呟く。
「高虎を愛し、心より慕っているからこそ、たまに尻を叩いたりもする。全ては、高虎を日本一の男にするために。そのためには手段を選ばん女だ」
「だとすると、もしも輝虎の叛意を知ったら……?」
「何をするか分からんな」
それを聞いた俺の背筋にひやりとしたものが走った。もしかすると、俺たち中川会本家にとって一番の脅威は高虎よりも彼を支える妻、淑恵なのかもしれない。眞行路一家の多くの組員が彼女を「姐さん」と愛慕しているなら、尚の事だ。
「眞行路一家には蕨剣斗っていう見るからに武闘派の男もいましたが、ああいう血の気の多い連中を手懐けるだけのカリスマ性を持っているとなると手強いですね」
「少なくとも、人を動かす才覚については高虎や輝虎を遥かに超えている。現状の眞行路一家は淑恵で持っているようなものであろう」
恒元の指摘に、俺はひっかき棒で背を押されたような想いがした。だが、ひとまず深くは考えないことにしておく。こういう話の場合、思い過ぎるのは良くないことだから。
「まあ、今日は方々にご苦労だったな。ゆっくり休むが良いぞ」
執務室を出た途端、大きな疲労に襲われた俺。いつもは使わない整髪料やスーツのせいで心の負担が倍増している気がする。
大江戸プロレスとの因縁はどうにか一応の決着を見た。彼らの興行に中川会が協力する合意に至ったことで、シノギも転がり込んできた。そちらは中川会本家の預かりというわけで俺に仕切らせてもらえる運びとなった。
ただ、廊下を歩きながら一日の事を振り返ると、真っ先に想起されるのが眞行路高虎との遭遇だ。奴は俺を殺そうとしていた。一昨日の出来事がよっぽど悔しかったのだろう。すぐにでも襲いかかってきそうな勢いであった。だが、その前に俺に飯を振る舞ったのは何故だろう。
奴なりの気まぐれか、それとも何かの思惑があってのことか。
どちらにせよ俺に出来るのは気合いを入れ直すこと。いずれそう遠からず高虎とは決着を付ける流れになりそうだ……。
とはいうものの、今日のところは少し疲れた。明日以降に向けて英気を養うのも良いかもしれない。俺は総本部を出て夜の街へと繰り出した。
真っ先に頭の中に浮かんだのは三丁目の『Cafe Noble』である。華鈴はどうしているだろうか。また以前のように会えたらどれだけ良いか。華鈴の笑顔が胸をよぎり、自然と胸が熱くなる。だが、もう彼女は俺を嫌ってしまっただろう。何せ俺がヤクザだと知られてしまったのだから。
不安と諦めに苛まれつつも、それでもどこか「もしかしたら」と思ってしまう自分がいる。そんなわけで俺は三丁目まで足を延ばし、店のある通りへと歩いてみた。
「……」
カフェはいつも通りに営業していた。窓から中を覗いてみると客であふれ返っている。ああ、良かった。一昨晩の騒ぎは客足に影響していないようだ。赤坂は歓楽街でもある。それゆえに珈琲を出す店は夜職関係者に重宝されているのだろう。あれくらいのトラブルはむしろ日常茶飯事なのかもしれない。乱闘があったくらいじゃ店の根幹は揺らぐまい。
少しほっとした気持ちになり、胸を撫で下ろす俺。すると、店の中でせわしなく動き回る女性と目が合った……あっ! 華鈴!
直後、俺は自然に身体が動いた。その場から足早に逃げ去ってしまったのだ。理由は自分でも釈然としない。ただ、彼女と向き合うのが怖かった――という気がする。きっと、今の感情を理屈で言いくるめることは難しい。
直感に従い俺は再び通りに出た。あのまま店内に入ったところで歓迎はされまい。もう華鈴のことは忘れるのが利口だろう。
後ろ髪を引かれる思いではあるが致し方ない。この辺りを散歩でもして気を紛らわそう。
「……俺は駄目な男だな」
ボソッと呟いてみた。まったくもって情けない限りだ。彼女にろくな言葉一つかけられなかった自分が嫌になる。
とりあえず、今宵は酒を飲みたい。飲むだけ飲んですべてを忘れてしまいたい。適当な酒場を探して暫くうろついたが、こういう日に限って赤坂の店は何処も満席と来ていたので、唯一札止めになっていなかった店にしぶしぶ入る。
だが、そこは……。
「ったく。何ちゅう偶然だよ」
一昨夜、輝虎に連れ込まれたバーだった。フロアへと続く地下階段を降りる途中でその事実に気付くも、今さら他の街へ出るのは億劫に感じられたので仕方なく店内へと入る。あいつさえいなければ大丈夫だと心の中で祈るように。
「いらっしゃいませ」
2日前と同じく不愛想なマスターが出迎えてくれる。そこまでは良かったのだが、カウンターの中央に腰かける先客の顔を見た瞬間に反吐が出る思いに駆られた。
「マジかよ……!」
輝虎だった。
「ははっ。そう邪険な顔をしないでくれよ。ここは俺の行きつけの店なんだからさあ。一緒に飲もうよ」
そう言ってこちらへ涼しげな笑みを送る輝虎。すぐさま引き返す選択肢もあったのだが、俺は舌打ちをして奥の席へ座る。この途轍もない苛立ちを鎮めるためにも一刻も早くアルコールを体内に入れたかった。
「ご注文は?」
「……バーボン」
「ダブルで?」
「ああ」
すると間もなく俺の前に氷の入ったグラスが置かれた。品の良い匂いを放って鼻腔をくすぐるそれに一瞬だけ恍惚とするも、すぐさまぐいっと呷る。
「いい呑みっぷりだねえ。麻木次長。嫌なことでもあったかい? 分かるぜ。今日は俺もヤケ酒だからな。飲んで忘れるのは大人の特権さ」
「ふん……」
そんな輝虎の方はというと、カクテルグラスに黄色がかった酒を注いで貰っている。ライムの果実が添えられているので、あれはおそらくモスコミュールだろうか……?
尋ねてもいないのに、奴は正解を教えてきた。
「モヒートと言ってね。ラムベースの爽やかなカクテルさ。俺のお気に入りで、ここへ来た時には専らこればっか飲んでる」
無視して自分の酒を淡々と飲み続ける俺。すると、輝虎はグラスを持ってこちらへ席を詰めてきた。
「何で寄ってくるんだよ?」
「そりゃあ、あなたと語らいたいからだよ」
「離れてくれ。今日は一人で飲みたい気分なんだ」
「まあ、そう言ってくれるなよ。あなたには借りもあるんだ。そのお礼をさせてもらえると嬉しいんだが」
「借りって何だよ」
「今日、俺の代わりに話をつけてくれたことさ。ああいう場が苦手だからさあ。本当に助かったよ」
俺が来るまでにかなり飲んでいたのか。輝虎は少し酔っているのが分かった。やがて彼は得意気に申し出る。
「マスター、この客の注文は俺の勘定にツケといてくれ」
軽く頷いた店主。こうなっては仕方がない。無理やり奴を追い払える雰囲気ではないので、隣に座ることを認めざるを得なかった。
「いやあ。酔って忘れたいことってあるよなあ。誰にだって」
馴れ馴れしく俺に身体を預けながら嬉々として話す輝虎。とりあえず彼の様子などを努めて気にせず、ひたすらグラスを空けることに専念するとしよう。そうすりゃ、この嫌な時間も少しはマトモに過ごせる。
「……」
だが、そんな俺の都合などは何ら関係無いといった調子で、酔っ払った御曹司は饒舌に話題を振ってきたのであった。
「しっかし、人生ってのはなかなか思うようにならないもんだねえ。どんなに理想を描いても現実の壁は容赦なく立ちはだかる」
「……何の話をしてやがる」
「他でもない俺の話だ。こういう時は酒を飲むに限る。どうにもならねぇ憂さをアルコールが中和してくれるんだ」
「そうかい」
実りのある話はできなさそうだ。ここで思い切ってバッサリと無視を決め込むことにした。適当に頷きつつ酒を飲む俺。輝虎は構わず一人で話を進める。
「俺は組の中じゃ若頭をやらせて貰っちゃいるが、立場の上じゃあナンバー3でな。母さんの方が発言力がデカい」
口を開けば、出てくるのは決まって愚痴。このような場面では自然なことであろうが反応に困る。
「昨日も聞いた」
「勘違いして貰っちゃ困るのは、母さんは決して親父に黙って付き従ってるわけじゃねぇってことだ」
「見てて分かる。銀座の猛獣も女房にゃ頭が上がらないらしい」
「上がらねぇどころか、むしろ親父の方が母さんに盲従してるくらいよ。昔からうちはかかあ天下でな。親父も母さんの言う事だけは素直に聞く」
「だから、それも分かってるつーの。同じ話を何度も繰り返すんじゃねぇ。暇人が」
「そう言うな。俺の話には続きがあってだなぁ……」
何だ、まだ続くのか。事実上は無視しているにせよ、いい加減にうんざりしてきた。遮ってやろうと思うや否や、輝虎が急に神妙な面持ちになった。
「……実のところ、お袋は親父を見限ってると思うんだ」
これはまた思いもよらぬ情報が出てきた。当初は話を聞く気も無かった俺だが、グラスを持ったまま説明を促す。
「見限ってるだと?」
「ああ」
コクンと頷き、酒をひと口飲んだ輝虎。そして彼は語り始めた。
「御七卿の中じゃ珍しい話だが、親父とお袋は恋愛結婚でな。月島でスケバンやってたお袋に親父が惚れて、そのまま籍を入れたんだ。爺さんを含めてえらく反対にしたそうだが、そこはお袋が眞行路の嫁になる努力を重ねて周りを説き伏せたらしい」
「で? てめぇの親の馴れ初めなんざ聞きたくもねぇぞ」
「親父が21歳、お袋が17歳の時に俺が産まれた。その頃の親父はボクサーでよ。俺が産まれた翌週にタイトルマッチで王座を初戴冠したんだ」
「へぇー。そいつはおめでたいこったな」
ここまで聞けば単なる昔話だが、そんなものを俺に聞かせて何になるというのか。軽く指摘すると「まあまあ、そう焦るな」と前置きを挟んで輝虎は次なる話を繋げてきた。
「何で親父がボクシングやってたかっていうと後継者候補じゃなかったからだ。元々はと云やあ次男でな。その頃の眞行路一家にゃ家虎っていう親父の兄貴……まあ俺から見りゃ伯父にあたる跡目が決まってたんだ」
「ほう。そいつは初耳だ」
そこで輝虎はグラスをテーブルに置く。少し言いづらい内容の話であることはすぐに分かった。つくづく感情が言動に出やすい男である。
「……爺さんは親父をヤクザにする気はなかったらしい」
「そいつは意外だ。『極道になるために生まれてきたような男』って浅草の親分は言ってたぜ」
「他所の者はそう思うだろうが、銀座の連中には稼業をやらせるにゃあ喧嘩っ早すぎると思われてたらしい。爺さんが親父にボクシングをやらせたのも、結局は『人を殺したい、暴れたい』って衝動を抑えるためだったとかで」
「話だけ聞いてりゃあ、むしろスジモンにおあつらえ向きと思うがな」
「昔から後先考えずに暴れまわる厄介者だ。そんな輩が親分になれば組は迷走する。現に、いまの眞行路一家がそうなってるじゃねぇか」
聞くところによると眞行路高虎は物心ついた時から粗暴で傍若無人、喧嘩に明け暮れて父兄にも一切遠慮せず、天性の剛力で暴れ回った。ボクサーとして活躍していた1980年には試合で対戦相手を殴り殺すという事件を起こしている。
そんな次男を危険視した先代・眞行路正虎三代目は高虎を組から遠ざけることを決断。長男の家虎を跡目として正式に定め、高虎が裏社会への野心を持たぬうちに総長の座を譲ってしまおうと考えた。
ところが……。
「俺が5歳くらいの時だったかな。爺さんが殺されたんだよ」
「皆まで言わなくても分かるぜ。てめぇの親父が殺したんだろう? さしずめ、跡目が兄貴に決まったのが許せなかったとか?」
「ああ。そうだ」
これまた神妙な面持ちで輝虎は頷く。
その後の顛末は聞くまでも無かった。簒奪を狙った高虎と、正統な次期総長である家虎による兄弟での跡目争い。この戦乱は兵数の上で兄が圧倒的優勢だったが、人間離れした戦闘力を持つ高虎があっという間に形勢を逆転、最終的に家虎を打ち倒して四代目総長の座に就いてしまったそうな。
昔から俺には、取るに足らない話、あるいはどうでも良い話だと分かっていても傾聴してしまう癖がある。今回もまた然り。気付けば輝虎から語られる過去の話にどっぷり聞き入っていた。
「元はと言やあヤクザの女房になるはずじゃなかったんだけどよ。お袋も覚悟を決めたらしくてな。組を継いだからにゃあ、渡世の天下を獲れるよう全力で親父を支えていた」
「糟糠の妻ってやつか。それがどうして旦那を見限ってんだ?」
「答えはひとつ。お袋は親父じゃ天下を獲れねぇってことに気付いたからだよ。あのやり方じゃ、いたずらに敵と火種を増やすだけだ」
恒元から聞いた話とはまるで違う淑恵の人物像に俺は少し戸惑った。どちらが正解で、どちらが誤っているということは無い。きっとあの女は両方の側面を併せ持っているのだ。
「まあ、お袋は意志が強い人だからな。一度でも慕うと決めた以上は親父を裏切るこたぁ無ぇだろうぜ。器じゃねぇと分かってても、親父を亭主として盛り立てるだろう」
「なるほどな。で、あんたはお袋さんとは対照的に親父を裏切ろうとしてるってわけか。ご両親に比べて凄ぇ弱っちく見えるのは気のせいかねぇ」
「他力本願のヘタレだって言いてぇのか。まあ、好きに評して貰って構わんよ。その見立ては紛れも無く的を得ているからな」
「ほう? 認めんのかい?」
「認めざるを得んよ。ただ、なあ……」
程なく供されたあたらしいカクテルの注がれた杯を深く飲むと、輝虎は真正面を見据えて口を開いた。
「……こんな俺でも、やろうと思ったらやる男だぜ。カネも、権力も、女も『欲しいもんはどんなやり方を使っても手に入れる』ってのが信条なんでな。親父の受け売りだが」
その瞳は正面を向いている。今日は輝虎の間抜けな面を何度も目にして軽蔑と嘲笑を交互に催したが、この男とて極道。彼にもまた猛獣の血が流れている。
侮って良い相手でないことは揺るがぬ事実だ。
「ご立派なことで」
ボソッと吐き捨てて酒を一気に食らう俺に、輝虎が横目を注いでくる。睨みつけるといった表現が的確か
。
「今、俺を小せぇ男だと思ったろ?」
「思ってねぇと言ったら嘘になるわな。少なくとも、あんたは自分の言葉で理想を語れるほどの器じゃない。自分って人間を言い表すのに殺したいと思ってるはずの親父の言葉を借りるなんざ自己矛盾も良い所だ」
「それを言われちゃ耳が痛いが、結局のところ極道ってのはそういう生き方しかできねぇもんだろ。自分じゃ何も作れず、他人がこしらえたものを踏み荒らし、奪うだけ。渡世に居りゃ、誰もが意図せずしてそうなる」
輝虎は俺を指差し、ニヤリと頬を緩める。
「麻木次長。そういうあんただって奪おうとしてんだろ」
「何をだ?」
「この俺から惚れた女をな」
「……か、華鈴のことか?」
「ああ」
背筋に動揺が走る。いやいや、そんなはずは無い。俺は出来る限り平静を装って否定の言葉を投げた。
「別に。あの女のことは何とも思っちゃいねぇよ」
すると、輝虎はさらに笑みを深める。
「俺の目には良い感じに映ったけどな。あなたの顔に書いてあるんだよ。華鈴に惚れてるって」
その言葉には舌打ちで答えるしかなかった。絵に描いたような図星だ。他に反論のしようが無い。
「……うるせぇよ」
「一応、言っとくがな。華鈴は俺の女だ。たとえこの国中の富を対価に提示されてもあなたには渡さないぞ」
「当の彼女はあんたを嫌ってるみたいだったが?」
「それでもいずれ振り向かせてやるさ。俺は眞行路輝虎。あいつも、眞行路一家五代目の座も、必ずモノにしてみせる」
何ら揺るぎなく真っ直ぐに夢を語るその眼に、俺の奥底で何かが疼いた。盛夏にもここまでは噴き出さぬであろう汗がじっとりと背筋に浮かび始める。このままで良いのかと――。
ここでは黙っているつもりだったのに。軽く受け流すつもりだったのに。忘れるつもりだったのに。
気付けば俺は輝虎に向き直っていた。
「彼女をモノにするだと? 冗談じゃねぇよ」
何を口走っているのだ。いけないと思いながらも、ひと度開いてしまった端緒はどうすることもできない。感情が理性を上回る。
「てめぇは自分の欲で華鈴を傷つけた。惚れた女を闇金使って手に入れようとするクズ野郎に、あの子を渡せるかよ。くそったれが」
言い回しに棘を含ませるどころか、語り口が鋭さを増していくのが自覚できた。あの子を渡せるかって……何を言っているのだ? 自分で自分に驚きしかない。だが、続けてしまう。
「舐めんじゃねぇ。てめぇには絶対に負けねぇからな」
止められない。自分を抑えきれなかったのだ。後悔するも後の祭り、弾けるような笑い声が耳に飛び込んできた。
「ハハッ。それってよぉ、認めるってことだよなあ!? あなたも華鈴に惚れてるって!」
張り合うがごとき言い方をすれば、そういうことになってしまうのだ。やっちまった。口から出た以上は最早取り消しようも無い。
何も答えずにいると、輝虎は鼻を鳴らした。
「ふっ、図星かよ。こりゃあ面白い。まさかここで新しい恋敵ができるとは驚いたぜ。それがよりにもよって執事局の次長とは。世の中ってのはつくづく……」
だが、その時。
――ドンッ!
突如として大きな音が響いた。何か激しい衝撃によって扉が破られ、ガラスが割れた音だと直ぐに分かる。
「何だ?」
咄嗟に音のした方を見やると、日本刀を構えた人物が店内に入って来ていた。年恰好は俺と同じくらいの若い男。詰襟の学生服に似ても似つかぬ黒い制服のような衣服を纏っている。
呆然とする店主を尻目に、輝虎が問うた。
「貴様、何者だ? どこの組の者だ?」
すると男が叫ぶ。
「眞行路輝虎! 掟に従い粛清する! 覚悟ッ!」
粛清とはどういうことか――こちらが疑問に思う間もなく、男は刀を振り上げて突進してくる。
「うおおおおおおーッ!!」
ところが、そいつの標的は輝虎ではない。何故か俺に向けて斬りかかってきた。いやいや、輝虎はそっちだっての……なんてツッコミを入れる暇など無い。
「ちっ!」
慌てて飛び退くと、刀は顔の右側を掠めていった。
何ていう速さだ。コンマ1秒遅れていれば耳を切り落とされていたと思う。反射的に態勢を整えて二撃の刃を退けると、地に下ろされたはずの刀身が再びせり上がってくるのが見えた。
「食らえッ!!」
俗に云う、燕返し。小説や時代劇の世界ではお馴染みの剣術奥義であるが、本当にお目にかかれるなんて。
いや、感心している場合ではない。
――シュッ。
勘に頼って後方へ飛び退き、どうにか刃を躱した俺。敵の剣撃はまるで視界に捉えられなかった。速い。あまりにも速すぎる。
数年前に横浜で戦った居合の達人の姿が思わず頭に浮かぶ。もしかすると、あの男よりも剣の速度が上かもしれない……。
一方、呆気に取られていた輝虎だが、程なくして状況を察知したのか。我に返るや否や懐から拳銃を抜いて構えていた。
「動くなッ!!」
男に銃口を突きつけ、武装解除を試みる。
「……」
ところが、男は全く動じない。畏縮して刀を捨てるどころか却って殺気立ち、輝虎へ間合いを詰めてゆく始末だ。
――ズガァァン!
そんな男に対して輝虎は容赦なく引き金をひく。しかし、放たれた弾丸は甲高い金属音と共に地面に散らばった。刀をひと振りして打ち返したのである。
「何っ!?」
「この私に銃など通じない。無駄な足掻きは逆効果だ。命は受けていないが、邪魔をするなら一緒に叩き切ってやるまで」
男は低い声で吐き捨てると、今度は輝虎に向かって斬りかかる。例によって凄まじい挙動の速さである――だが、そうはさせない。
「はあッ!!」
瞬間的に輝虎との間に割って入った俺は男に向かって全力で掌底を打ち出した。それによって衝撃波が発生し、敵は否応なしに吹っ飛ばされて後ずさる。
「うぐっ!?」
輝虎やマスターから遠ざかる格好だ。これなら少しは体勢を立て直す交渉の余地があるだろう。幸いにもけが人は出ていない。
俺は男に訊いた。
「てめぇ、もしや大皇連のヒットマンか? そのクソダセェ学ランみてぇな格好してる組織は右翼以外に考えられねぇよ。軍服もどきっていうか」
「黙れ! 今から誅される人間に答えるべくもないッ!!」
そう叫ぶと男は再び突進をかけてきた。
「ったく! 俺は輝虎じゃねぇってのに!!」
振り下ろされる一撃を躱し、次いでの横薙ぎを避け、ほんの僅かな隙を狙って右脚で蹴りを放つ。直後、鈍い音が発せられた。
「ぐうっ!!」
俺のハイキックを食らった男はまたしても吹っ飛ばされ、地面にうずくまった。これで勝負あったか……と思いきや、辛くも立ち上がっている。どうやら顔面に蹴りが直撃する寸前に二の腕を入れて衝撃を中和した模様。
この鞍馬菊水流伝承者の攻撃を見切って見せるとは。この男の動体視力はどうなっているのやら。嫌でも感心してしまう。
ただ、今の一撃で奴の右腕は大きなダメージを受けたようで、刀を地面に落としている。出血した腕で得物は握れまい。戦況は俄然こちらの優位となった。
「もう一度訊く。てめぇは何者だ? 誰に頼まれて俺たちを斬りに来た?」
「はあ……はあ……粛清だ……」
「何?」
「粛清だッ! この国を汚す不逞の輩は、この私が叩き切ってくれるッ!!」
「おいおい」
痛めた腕を庇いもせず、まだ自由の効く左手で刀を掴んで気勢を上げた男。またもや咆哮のごとき形相で斬りかかってくる。
だが、利き手が仕えなければ威力は下がる。動きの速さも先刻より落ちている。俺は難なく左に動いて躱し、奴の脚に蹴りを当てる。
「ぐあっ!?」
そこへ輝虎が弾丸を放つ。
――ズガァァァン!
今度は見事命中。右大腿部を鉛玉によって撃ち抜かれ、男は崩れるように床に転げ落ちた。俺たちの勝ちのようだ。
「ったく。こいつ、どこの者だ?」
拳銃を構え、輝虎が男の方へ近づいて行く。彼としては面識が無い模様。おそらく大皇連傘下の右翼活動家と思われるが、俺としても知らない顔である。誰に頼まれて奇襲を仕掛けてきたか。そもそも大皇連が刺客を放ってくる理由は何か。大江戸プロレスとの因縁は一応のところ決着を見たというのに……。
ただ、ひとつ言えるのはこの若いヒットマンは俺と眞行路輝虎を誤認して襲ってきたという決定的事実。明らかなる人違いである。
「おい。クソガキ。これはどう言うことだ?」
拳銃を向けたまま詰問する輝虎。俺もその視線を追って下を見やると、若い男と目が合った。
「眞行路輝虎。貴様は必ず殺す! この国のために!!」
「ああ? 何を言ってやがる? そもそも俺の名は麻木涼平……」
その瞬間。俺は気付いた。男が左手を服の中に突っ込んでいることに――この動作は暗器あるいは爆薬を取り出す仕草。
経験上、ほぼ間違いない。
「輝虎! 伏せろッ!!」
「へ?」
その瞬間。銃声が轟いた。
――ズガァァァン!
嫌な予感の通り、男はこちらが油断した隙を突いて発砲してきたのだ。懐の中に小ぶりの拳銃を忍ばせていやがったか。
間一髪、俺は被弾を回避した。どういうわけか輝虎を抱きかかえる形で横跳びしたことにより、何とかなったのだ。尤も、わざわざ彼を助けた理由は分からないが。
「くそっ!」
取り出した拳銃の撃鉄を起こし、再度の発砲を試みる男。俺は即座に銃を抜き、敵の手元めがけてすかさず発砲する。
「ぐうっ……」
「そこまでだ。もう無駄な足掻きは止めるこったな」
2発の弾丸で刺客の両手を撃ち抜き、俺はこの戦いに蹴りを付けた。敢えて殺さなかったのは情報を聞き出すためだ。色々と知りたいことが多すぎる。
「ふう。久々にヒヤヒヤしたぜ」
立ち上がった輝虎が俺に握手を求めてきた。訳が分からず困惑していると、彼は数分までとは打って変わった真摯な面持ちで礼を述べた。
「あなたのおかげで助かった。麻木次長。感謝するぞ」
「いや。別に。成り行きでああなっただけのことだ」
「さっきはあんなに罵ったというのに……この俺を助けてくれるなんて……」
決して謙遜するわけでもなく、意図的に助けたつもりは微塵も無かった。本当に成り行きで身体が動いてしまっただけ。深々と頭を下げられるおぼえなどこちらには存在しないというのに。
何というか、むず痒い思いがする。
「止めてくれ。あんたにそう言われると調子が狂う」
「いいや。あなたがいなければどうなっていたことか。とんだ借りができてしまったな」
どうして輝虎を助けたのだろう。この男は奸計を用いて華鈴を陥れようとしているクソ野郎だ。体を張って危機を救う義理など何処にも無いではないか。
強いて理由を付けるなら、眞行路一家の解体工作のために利用価値があるからだろうか……要は組織のため無意識のうちに体が動いたということか。だとすれば、俺は組織の忠犬も同然だ。本音をいえば、こんな憎い奴を守りたくはなかったのだから。
それでも起きたことは紛れもない事実。ため息をつこうと、俺は輝虎の言葉に向き合うしかなかった。
「……じゃあ、後で適当に返してくれや。面倒くせぇ」
かくして休息のつもりで出かけたバーにて、思いがけず遭遇した襲撃事件。火花を散らしたまま明日を迎えると思っていた輝虎と意外な形で距離が縮まったのは結果オーライ……ということにしておこう。俺としては、奴と仲良くする気は無いのだが。
何にせよ、窮地を切り抜けられたのは最大の成果だ。
「改めて礼を言わせてくれ。麻木次長」
「だから、もう良いっての」
「ああ。思えば、俺は今まで対等な形で付き合った人間は一人たりとも居なかったかもしれん。ましてや損得抜きで俺のことを守ってくれた人間は……」
何やら妙な勘違いをした上に、とてつもなく感激した素振りの御曹司。面倒くさかったので軽めにいなしておく。何はともあれ会長を行わなくては。
一体、あの刺客は何者なのだろう――。
それから、俺の連絡を受けて総本部から執事局の面々が駆けつけてきた。右翼活動家とおぼしき男の身柄を押さえ、ひとまず信濃町の拠点へ連行する。明日以降、そいつからじっくりと事の子細を訊き出すことになった。
喧嘩三昧の涼平の長い一日はようやく終わった。それでも裏社会の渦は彼を放っておいてはくれず……。次回、物語は新たな展開を見せる!




