六本木ヒルズ暴動事件
「そうか。輝虎がお前に話を持ち掛けてきたか」
朝一番の報告を受けた恒元の反応は思いのほか薄い。
高虎・輝虎親子の不仲については前々からある程度の想定をしていたようで「存外、早かったな」と付け加える。特に考え込む素振りなどは見せないまま、会長の判断は即座に下された。
「現状で我輩が奴に手を貸してやる義理は無い。放っておけ。あの若造も所詮は父親と寸分変わらぬ不埒者でしかないのだ」
美味そうな話にすぐさま飛びつかないあたりが何とも恒元らしい。罠は好機の顔をしているというのが彼の持論。遠からず銀座で眞行路父子の争いが起こるとしても、中川会本家としては静観を決め込む――それが現状の方針だった。
「眞行路が跡目争いで自滅してくれるのは良いが、どちらか一方に手を貸すことは無い。銀座で勝手にやってもらう」
「分かりました。じゃあ、眞行路の倅にはそのように伝えておきます。『親父を殺したいなら自分でやれ』ってね」
俺としては一安心といった気分だった。あの輝虎と共同戦線を張らなくて済むなら、それに越したことは無いからだ。まあ、会長に命じられたらたとえ相手が憎き恋敵であろうと組んでやったが……気分的にはきっと萎えただろうな。この日ばかりは恒元の判断に救われた。
「我輩の望みはただひとつ。力を持ちすぎた幹部たちの力を削ぐことだ。銀座がそのきっかけになれば良い」
「他の連中がどちらか一方に助勢する形で銀座に介入してくれれば一石二鳥ですね。眞行路以外の幹部も巻き込むことができる」
「うむ。関東でも銀座は指折りの旨味がある街だ。内紛に乗じてシノギを奪おうと考える輩は多いはずだ」
「確かに。もしもこのまま本当に抗争が始まるとしたら、親父と息子のどちらが味方を多く集めるでしょうか?」
「いや、その辺りは実際に戦争が始まってみなければ何とも言えないな。銀座で事が起これば、皆きっと動揺するだろう。どちらに付いた方が得か、暫く頭を捻って思い悩むはずだ」
「だとすると、日和見を決め込む組も多いかもしれませんね」
「うむ」
机上のケースから取り出した葉巻に火をつけると恒元は深く吸い込み、空気と混ぜ合わせるようにゆっくりと吐き出した。
「そもそもあの父子の不仲に気づいている者も少ない。輝虎は父の前だと、おおよそ従順な息子を演じているからな」
「奴が猫を被ってることについては俺も同意見ですね。あの役者ぶりは見事なものだと思います。尤も、親父の方も強かですけど」
眞行路高虎は兎にも角にも喧嘩早いが、阿呆ではない。直情型の思考回路の片隅に小さな理性を残している。獣のように警戒心が強い。自らを脅かさんとする息子の企ても見通していることだろう。それでもなお倅を側近に置き続ける理由は親としての情か、あるいは何らかの打算か――定かではないが、一筋縄では行かぬ男であるのは事実だ。
「伊達に銀座の猛獣と呼ばれているわけじゃない。お前の思う通り、高虎は頭の切れる男だ。片や息子の輝虎もそれなりの器量を持っている」
「大勢が決するまでは様子見に徹して、終盤になって優位な方に付く。きっと皆そうすると思います。どちらが勝つか分からないってんなら尚のこと」
「まあ、何にせよこの状況を利用しない手はない。他の御七卿ともども力を削いでやる絶好の機会だ。銀座で争乱の渦が起こりつつあるというのなら、なるだけ多くの者に巻き込まれてもらおうじゃないか」
一般的に組織のタブーであるはずの内紛を黙認するのは、単に眞行路を含めた御七卿の弱体化を狙うため。歪な形に増大した組織の在り方を正すには、それをやるしかない。例えるなら、組織正常化のために溜まった膿を全て出し切る“胃洗浄”というわけだ。
俺は静かに頷きながら相槌を打った。
「ええ。仰る通りですね」
ただし、あまり長引けば組織の屋台骨がぐらつく。いかなる良薬も呑み過ぎれば毒になるのと同様に、内部抗争が延々と続けば他の組織に隙を見せることになる。特に関西の煌王会は虎視眈々と東上を狙っている。ゆえに、事は慎重に決さねばならなかった。
吸い終えた葉巻を灰皿で処理した恒元はその視線を宙に泳がせ、わずかなため息の後で俺に言った。
「ご苦労だったな。涼平。下がって良いぞ」
なるほど。これは思案に暮れている時の顔だ。会長が眞行路一家をどう対処していくかについては、結論が出るまでにもう暫くかかりそうだ。高虎の持つ人脈が然程脅威ではないと分かった現在、ひと思いに破門状を書いてしまっても良さそうな気もするが――恒元としては、少しでも利益の多い道を選びたいのだろう。
ここで目下の者が口を出したところで結局は恒元自身が決めること。俺は何も言わず、そそくさと執務室を出ようと歩みを進める。
すると、その時。
「ああ、そういえば!」
ふと会長が思い出したように口を開いた。
「今日はお前にやってもらいたい仕事があるんだった」
「何です?」
「唐突だが、お前は藤城ファンドを知っているかね」
「藤城ファンド? ああ、あの新興の投資家集団ですか。確か藤城琴音とかいう女社長がやってる」
「うむ。まだ若いのに見事な手腕だ。それも女性ながらにああまでの資産を築くとはたまげたものだよ」
プロ野球再編問題で世間の注目を集める投資会社、ホライズン。それが一体何だというのか。よもや恒元もありふれた時事ネタについて語らうべく俺を呼び止めたわけではあるまい。
「お前も知っていることと思うが、昨日プロ野球のオーナー会議があってな。ホライズンはIT産業大手の祐天と新規参入を競い合って敗れた。投資家集団という点が受け入れられなかったらしい」
「んで、俺はそのホライズン社に何をすれば? 藤城からみかじめ料でも取ってきましょうか?」
「まあ、敢えて彼女からカネを取るならば“用心棒代”という名目になるかな」
「はあ……?」
おいおい。軽く冗談のつもりで問うたが、まさか的中してしまうなんて――恒元曰く、今回の仕事は件の女社長から用心棒の契約を取り付けてくること。いわゆる売り込みだ。
しかしながら、売り込みは売り込みでも俺たちは極道。一般社会におけるそれとは少しばかり事情が異なっていた。
「彼女は今、ある組織に狙われている。極星連合だ」
仙台を根拠地として東北一円に勢力を張る極星連合。複数の土建屋を隠れ蓑にしているが、実態は泣く子も黙る凶悪な暴力団。構成員も約五千人ほど抱えていると小耳に挟んでいた。
此度のプロ野球再編問題では、祐天の五方谷社長がこの組織を味方に付けたことで参入を確実にしたと恒元は語る。
「五方谷が仙台出身という事情もあるが。祐天は今年の夏ごろから大枚の“挨拶料”を極星連合に贈っていたようだ。律儀にも、仙台長町の極星連合総本部に五方谷自らが何度も出向いてな」
一方、藤城率いるホライズン社はその出費と手間を惜しんだために参入争いに敗北。祐天の勝因は表向きこそ経営体力の優越などと報じられているものの、実際には後ろ盾の極星連合がオーナー会議の老人たちを懐柔していたことが大きかった。
「だったら、藤城は俺たち中川会を頼れば良かったのに。東北ゆかりの五方谷が極星にケツモチを頼むことくらい予想できそうなものですが」
「それを予想した上で敢えて何もしなかったのだろう。我輩が思うに、彼女は今回の競争ではわざと負けを選んだのかもしれん」
「わざと負けた? 何のために?」
「これを見たまえ」
恒元が俺に渡してきたのは、ここ数日分の経済新聞のスクラップだった。東証二部における企業の株価の値動きが詳しく記されている。
「……首都圏にあるゼネコンの株が軒並み下がってますね。これは暴落と呼ぶに相応しい下げ幅だ」
「おお。流石は我輩の涼平。数字に強いな」
「いや、別に」
資料の解読は我ながら得意な方である。傭兵時代、敵から奪った機密文書を読み込んでいるうちに自然と鍛えられたのだ。それは良いとして、俺には気づくことがあった。
「なるほど。これらの企業群は仮にホライズンの新球団設立が認められていた場合、球団本拠地の建設やスタジアムの改修を行う予定だったところ。値下がりが始まった時間帯がプロ野球機構の公式発表の時刻とほぼ一致している」
俺の指摘に恒元は大きく頷いた。
「ご明察」
いずれの企業もホライズンによる新球団招致活動のおかげで今まで好調に株価を上げてきた。もし、それらの株式を藤城琴音が大量取得していたとしたら、暴落直前に売り抜けば彼女は一夜にして莫大な現金を手に入れたことになる――恒元の見立ては何とも説得力があった。
「いけ好かないやり方ですね。でも、こういうのをインサイダー取引っていうんじゃないですか?」
「海外の代理人を介せば内部者取引の禁止には引っかからないと思うが……まあ、その辺はグレーなところだろうな。どちらにせよ我輩の推理が事実だとすれば、藤城は手っ取り早く現金を入手した上に一人勝ちを果たしたことになる」
「土建業者を捨て駒にあぶく銭を稼いだも同然ですからね。同じく土建系ヤクザの極星連合が不愉快に思うのも当然ってわけですか」
挙げ句、藤城はこれまで極星連合に対して一切の挨拶を欠いていたのだ。極星側が彼女に報復を行う可能性は大いに有り得る。
「日本国の大工の守護者であり顔役とならん。それが極星の掲げる綱領だ。藤城の被害に遭ったのは関東の企業だが、奴らからすればシマの内だろうと外だろうと関係無いらしい」
「あちらさんにどんな大義名分があったって、関東は中川会の領地。自分とこのシマに他所の兵隊が送り込まれてくるのを黙って見てる馬鹿はいませんよ」
「そうだ。だからこそ、我らは藤城琴音を守らねばならないのだ。これは中川と極星のせめぎ合いでもあるのだから」
単なるトラブル解決かと思いきや、そこに組織同士の折衝も絡んでくるとは。思わぬ方向へ広がった話の大きさに少々困惑した俺だが、ヤクザとしてのメンツの問題となれば動かぬ理由は無い。気づけば二つ返事で承諾する自分がいた。
「まあ、そういうことなら引き受けましょう。東北の田舎者に好き勝手されるのは癪なんでね」
俺はそう答えながら頭の中で藤城琴音に関する情報を整理する。
旧帝大在学時から株式投資を始め、中退後に投資顧問会社「ホライズン」を起業。天才的な頭脳と勝負勘で瞬く間に市場を席巻、女相場師として20代で不動の地位を築いた。今や彼女の資産は百億円を超えると言われている。
「あの女の住まいとオフィスは六本木にあってな。下界の民を見下ろしながら、レジデンスの最上階で優雅に暮らしていると聞く」
「こないだテレビで言ってましたね。典型的なヒルズ族ってやつか。それくらいのとこに住んでるなら、金づるとしては十分でしょう」
「うむ。とりあえずは我々の味方になることを確約してくれたら良い。後は追々、赤坂へお招きしてゆっくりと話を進めるとしよう」
要は、件の女相場師を総本部に連行して来いとの命令だ。
そこへやや上機嫌に「手段は問わんよ」と続けた恒元の股間が、心なしかもっこりと盛り上がっているように見える。
ああ、なるほど……そういう理由か……確かにテレビなどで観る藤城琴音のルックスは絶妙に妖艶で、男好きのする身体つきをしているが……。
「わ、わかりました。ところで、会長」
不意に昨晩の恥辱を思い出してしまい、急降下気味にげんなりとさせられた俺は慌てて話題の転換をはかる。
「極星連合のヒットマンが襲ってきたら本気で返り討ちにしても大丈夫ですか?」
「ああ。構わんよ。ここは中川会のシマだ。存分にやりたまえ。極星連合の神林は、わざわざ我輩に『藤城琴音を殺しても良いか』などと電話で尋ねてきた。田舎の土建屋ふぜいが侮りおって!」
「ほう。そりゃあ舐めてますね。じゃあ、六本木で極星の人間と出くわしたら問答無用でぶっ殺しますので」
昨夜、午前0時頃に極星連合の神林会長から電話がきたと憤る恒元。「会ったことも無いのに無礼な奴だ!」と怒り心頭だ。
先方がこちらを敢えて挑発するような行為に出てきたのは驚きだが、よくよく考えてみれば、極星連合は何かにつけて中川会に敵対的だ。浅草の件が良い例である。このタイミングで本格的に牙を剥いてきてもまったく不自然ではなかった。
「極道の礼儀も知らぬ田舎者に、他所のシマを荒らせばどういうことになるかをきっちり教えてやれ。頼んだぞ、涼平」
「ええ、任せてください」
とりあえずは藤城琴音の身柄確保。
それが最優先事項である。
俺は酒井と原田を連れて行く許可を次いで恒元から取り付けると、早速行動を開始することにした。
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投資家集団「ホライズン・ジャパン」が本拠地としている六本木ヒルズは、言わずと知れた高級住宅街であると同時に観光名所としても名高いエリアだ。
オフィスや商業施設が立ち並ぶ一角にそびえ立つ巨大なタワービルは、なんと地上約250mの高さを誇るらしい。その威容を見上げていると思わずため息が出てしまいそうだ。
「はあ。高いですね」
隣で気怠そうにそう呟いたのは原田だった。酒井もまた圧倒されている。立ちつくした部下の姿を横目に、俺はただただ言葉を失うだけである。
自分が日本を離れている間にこんなにも高い建物が完成していたなんて――。
高さだけなら横浜のランドマークタワーの方が上だろうが、目の前に広がる光景の方が圧倒的かつ壮大なスケール感で勝っている。構内にある飲食店や娯楽施設はどれも一流の名に恥じないものばかりだろう。ここに入り浸っているだけでも小遣い稼ぎができそうだ。当然、入居費や年間の維持費も一般人からみれば夢にも見ないような額であろうが。
「どうも。お待ちしておりました。麻木次長」
横から声をかけられ、ハッと我に返る。現れたのは痩せ型の男だった。
「おう、あんたが梶谷さんか。唐突な連絡ですまなかったな。今日はよろしく頼むぜ」
梶谷というその人物は六本木界隈を縄張りとする中川会直参『米畑組』の若頭だ。今回、協力を仰ぐことになっている。
「本当は赤坂までお迎えに上がりたかったのですが。朝から立て込んでおりまして。現地での合流になってしまい申し訳ない」
「いやいや。こちらこそ、忙しい中こんな場所までわざわざ来てもらって恐縮だぜ……ほら酒井と原田も挨拶しろ」
俺に促された酒井と原田が慌てて頭を下げる。
「は、はじめまして! お初にお目にかかります!」
「よ、よろしくお願いしゃす!」
多くの人が行き交う大通りに厳つい男らが集まると目立ってしまう。それはなるべく避けたかったので、二人が軽い挨拶を済ませると早速本題を切り出すことにした。
「梶谷さん。今日は何をするか、話は聞いてるか?」
「ええ。女を1人ほど拉致るってんでしょう。うちの手狭な事務所で良ければご随意にお使いくださいませ」
「助かるぜ」
総本部を出る前、執事局の事務方組員に米畑組へのレクチャーを言い付けておいた。今回、俺たちはヒルズ内で藤城琴音を襲い、身柄を拘束。その一時監禁場所に六本木三丁目の米畑組事務所を使わせてもらう手筈だ。
梶谷の反応を見る限り、事務方からのレクはきちんと行われていた模様。ならば話は早い。俺は胸を撫で下ろしたのだが……。
一方で、気になることがひとつあった。
「なあ。梶谷さんよ。あんた1人で来たのかい?」
「ええ、1人で参りやした。近くにバンを停めてますんで決行の時には回してきますぜ」
たまげたものだ。他に連れの姿が見当たらないのでまさかとは思ったが、本当に単騎で来ていたとは。
「おいおい……マジで言ってんのか?」
「ご心配なく。これでも運転には自信があるんで」
「そうじゃねぇ。何で1人で来たのかって聞いてんだ。普通、こういう時って出来る限り人手をかき集めて来るもんだろ」
「へぇ。ごもっともなことで。それについちゃあ、面目次第もありません」
そう言って深々と頭を下げた梶谷。いやいや、おかしい。有事に備えて5人程度は見繕って連れてくるよう事務方に伝言を頼んだはずなのだ。
だが、さらに文句を言おうとした俺が口を開く前に、ばつの悪そうな顔で梶谷が語り出した。
「たいへんお恥ずかしながら。今のうちにゃあ、これがやっとなんです。人手が足りてねぇもんで」
「足りてねぇだと? おたくらには確か100から成る腕利きの兵隊がいるもんだと聞いてたが?」
「ええ。ですが、その大半が使い物にならねぇ状況でして……」
「何?」
「申し訳ない。どうか分かってくだせぇ」
兵が使えぬとは一体どういう状況かと問うても、梶谷はただただ頭を垂れるばかりで何も答えようとしない。怪訝な顔で詰め寄る原田にもシラを切り続けるばかり。
「使い物にならねぇって、何を言ってんスか!?」
「その言葉のまんまでございます」
「冗談抜かしちゃあいけませんぜ。梶谷さん。あんた、俺たちに協力するのが面倒だからってゴタク並べてんじゃないでしょうねぇ!?」
「ど、どう受け取られても結構でございます。うちらは本当に人手が足らんのです」
「何を!」
延々と続く腑に落ちぬ説明。次第に苛立ちがこみ上げてくる。それでも、俺はいきり立って掴みかかろうとする原田の肩をグッと掴んだ。
「止めろ。原田」
「す、すんません……」
一方、酒井はと言えば至って冷静だった。彼は何やら梶谷の足元を注意深くジッと見つめていた。
「失礼ですけど、梶谷さん。その左脚はどうされました?」
「えっ」
「引きずっておられるようですが」
突然の問いに目を丸くする梶谷。原田も戸惑いの声を上げるが、俺には酒井の抱く違和感の正体が何となく分かっていた。
「……ああ! こいつァいけねぇや! いやあ、ちょいと痛めてしまいましてねぇ……へへへっ……」
しまったとばかりに顔を歪めると、梶谷は取り繕うように続けた。
「でも、運転にゃあ差支えありませんから。ご安心を。それじゃあ、自分は先に車を暖めておきます」
彼はそそくさと立ち去ってしまった。まるで、誤魔化すように。
「何だよ、あいつ。やる気あんのかよ」
軽い舌打ちと共にムッとする原田を尻目に、酒井が俺に小声で耳打ちをしてきた。
「次長。あの梶谷って人は、たぶん左脚を……」
「ああ。骨折してるな。あの引きずり方を見る限り、間違いねぇ。それも単に転んで折ったとかじゃなさそうだ。おそらく荒事だろう」
傭兵時代に負傷者の姿を嫌というほど見てきた俺は容易に察することが出来た。例の梶谷なる若頭は左脚に大きな障害を抱えている。
さしずめ膝に強い衝撃を受けてしまったか。考えられるとすれば、被弾か殴打か――俺の経験則では後者だ。
「うーん、変な方向に曲がってたもんな。あれは瞬間的に生じるケガじゃねぇよ。長い時間、それなりの力が加わり続けて起こる現象だ」
「長い時間、それなりの力が加わり続けて……ってことは、もしや敵に捕まって拷問されてたとか?」
「かもしれねぇなあ」
この推理が当たっているとすれば、梶谷があまり多くを語らなかったのも道理だ。体面を重んじる極道にとって、敵に捕縛されることは大きな恥だからだ。しかし、一体誰に……?
現時点で考えられるのは極星連合である。現に奴らは恒元に挑発を吹っかけてきている。本格侵攻を見越して水面下で六本木にてゲリラ活動を展開していたとしても何ら不可解に非ず。
「じゃあ、米畑組が人手不足に陥ってるというのは極星にカチコミかけられてるせいでしょうか?」
「その可能性は大いに有り得るな。本部の守りを固めなくちゃいけねぇもんだから、俺たちの所に兵力を割けねぇのかも」
「でも、それならそうと何故に言わないんでしょう? 他所から侵略を受けてるわけですから、すぐさま本家へ報告すべきことなのに」
「言えねぇ事情があるんだろうよ」
「例えば?」
「面子とか。米畑の親分さんは見栄と外聞だけで生きてるような人だ。極星みてぇな田舎ヤクザとの喧嘩で負けが込んでるなんざ赤っ恥以外の何物でもねぇからな」
「なるほど」
邪推も良い所の憶測だが、酒井は大きく頷いていた。原田も「あのオッサンなら有り得ますぜ」と理解を示す。2人とも直参組長の嫡男。きっと米畑組組長、米畑房男とはそれぞれに面識があるのだろう。
部下たちの反応を受けて、俺にもうっすらと記憶が蘇る……。
初夏頃に総本部で見かけた米畑組長は典型的な「嫌な奴」だった。態度は尊大、権威主義、挙げ句飲み食いの作法が下品というチンピラヤクザの三拍子が揃っている御仁。その日はちょうど直参組長たちの食事会だったのだが、米畑は給仕の女性にわざと高圧的な態度を取ることで自らの威勢を示そうとしていた。見かねた恒元に窘められるや否や、人が変わったようにヘコヘコと頭を下げていたのが実に印象的だった。
情けないというか、みっともない。あれでいて立場だけは見事で、大正時代から続く米畑組の五代目を張っているのだから極道社会とは実に不思議なもの。まさに世襲制の弊害と云うべき存在だ。尤も、その立場もここ数年で政治家が進めた六本木の大規模再開発により降って湧いたおこぼれに過ぎないのだが。
米畑組長のことだから、腹心の若頭に何を命じたかは見当がつく。大方、東北ヤクザ相手に苦戦している事実を隠すべく箝口令を敷いたのだろう。組のナンバー2が敵方の捕虜になるなど恥もへったくれも無いからだ。
しかしながら、その線で考察を進めると、また新たな疑問が湧く。梶谷は何故に運よく解放されたのだろうか? 俺が極星の人間であれば、敵の副将を捕らえたのなら人質として外交カードなり心理作戦なりに有効活用したいものだが……?
分からないことは多いが、今は思考に耽っている時ではない。事の真相は頭の片隅にでも置いて後々考えよう。
「まあ、何にせよだ」
俺はひとまず原田たちに向き直り、こう告げた。
「お前らはいずれ親御さんの跡を継いで中川の直参になるんだ。組織の代紋を担ぐ者として、何を一番に重んじるべきかは分かるよな? 間違っても自分の見栄で非常事態を隠蔽するようなバカにはなるんじゃねぇぞ」
原田も酒井も力強く首肯する。
「へい!」
「分かってます!」
色々と問題のある2人だが、素直な点だけは評価できる。彼らならばきっと大丈夫だろう。これからも今のままでいてほしいものだ。
「よし。それじゃあ、作戦開始と行こうか」
俺たちは梶谷が待つ駐車場へと足を進めた。
***
10分後。俺はワゴン車の助手席に座っていた。運転は梶谷だ。後部座席には酒井と原田の姿がある。
これから俺たちが行うのは藤城琴音の拉致および拘束。ホライズンの本社オフィスが入居する六本木ヒルズ杜タワーからレジデンス住居棟までは直線距離で1.5kmほど離れた位置関係。その移動中に襲撃を仕掛けて攫う作戦だ。
「お前たち、良いか?」
けやき坂通りに差し掛かったタイミングで、俺は後方の部下たちに声をかける。
「普段の稽古でやってることを思い出せ。両脇を固めて、口を塞いで2人がかりで車に乗せる。基本に忠実にやりゃあ大丈夫だ」
酒井、原田からは威勢の良い返事が返ってくる。この2人ならきっと上手くやってくれるだろう。俺は小さく頷くと、再び前を向いた。
「……」
そこそこ走ったところでワゴン車はけやき坂の交差点に差し掛かった。赤信号で停車した時、ふと梶谷が話しかけてきた。
「噂には聞いておりましたが、顔つきが違いますな。流石は会長直属の親衛隊。こういう人攫いも朝飯前ってところですか?」
「いや。要人誘拐は訓練でみっちりやってるが、こいつらの実戦は今日が初陣だ。俺も3回くらいしか経験がない」
「なんと。初仕事の相手がヒルズ族とは……! でも、皆さんならきっと大丈夫でしょうな」
梶谷はそう言うと、微笑みを向けてきた。一応は励ましてくれているらしいのだが……どうにも馴れ馴れしいというか、距離感が近い男だ。
こういうタイプはあまり得意ではないし、正直なところ鬱陶しくもあるのだが……まあ良いだろう。俺は深く考えないことにした。
「着いたか」
やがて目的地付近に近づいたところで、再び停車する。
「んじゃ、俺はおとりに出る。後は手筈通りに頼んだぜ」
「はい! 行ってらっしゃいませ!」
颯爽と車を降りた俺。目の前に立つ高層マンションを睨みながら、煙草を1本取り出して火を付ける。標的はもうすぐ出てくるはず――。
作戦はこうだ。まずは藤城のボディーガードの注意を逸らす。俺が住居棟の周囲でちょっとした騒ぎを起こし、彼女が連れているであろう護衛たちがそちらに気を取られるよう仕向ける。
残った歩哨は俺が体術をかけて無力化する。その隙に酒井と原田が奇襲をかけて、藤城本人を車に引きずり込むという算段だ。
恒元から聞いた話によれば、藤城琴音はいつもこの時間帯に自宅からオフィスへと向かうらしい。正午過ぎに家を出るとは典型的な社長出勤。ブルジョアの考えることには辟易させられるが、多くの車が行き交う慌ただしい朝を避けられるのはこちらとしても好都合だ。
酒井と原田の別動隊は梶谷の運転する車でレジデンスの周りをぐるぐると回っている。同じ場所に停めていては怪しまれるためである。
そこへ藤城がマンションから出てきた瞬間に、俺が携帯を鳴らして合図を送る。そして手筈通り、エントランス前に駆け付けて、そそくさと事を済ませる。後は彼らが上手くやってくれることを祈るばかりだ。
「……さて」
煙草を地面に投げ棄てたところで、俺は改めて周囲を見渡した。六本木ヒルズレジデンス。日本有数の高級タワーマンションというだけあって警備は厳重だろう。
一般的な集合住宅にありがちな花壇や茂みが見当たらないのは、きっと不審者が隠れやすい箇所を減じる設計目的だ。その反面、こういう施設では警備員が潜む場所には事欠かないからタチが悪い。
世間を騒がせる新進気鋭の女相場師、藤城琴音。決して少なからぬ数の人物から恨みを買っていることは承知の上で、堅牢に守りを固めているのかもしれない。
監視カメラに映らぬよう、わずかに見つけた電柱の影に身を隠して息を潜める俺。時折やってくる巡回の歩哨の目を躱しながら、周囲に気を配って機会をうかがう。1秒、10秒、30秒……時間は刻々と流れてゆく。
そこから、暫くして。
「来たか」
俺の視界にターゲットの姿が入った。藤城琴音だ。
以前テレビで見かけた姿のまま、9頭身くらいはありそうな抜群のスタイル。後ろで束ねた黒髪は艶やかで、雪のように白い肌をより一層引き立てている。ファッションモデルと称しても何ら遜色は無い容姿である。
何とまあ……綺麗な女だ……いや、綺麗というよりも妖艶の2文字が相応しい美女である。こんな若い女が現在、日本の株式市場を騒然とさせている剛腕相場師なのか……? にわかには信じられなくなってくる。
おっと、今は見惚れている場合ではない。早く自分の為すべきを為さなくては。携帯を取り出して別動隊に合図を送り、俺は呼吸を整え直して改めて標的を視界に捉える。
あいつが今回の標的、藤城琴音――。
足取りは威風堂々としており、相当な自信に満ち溢れているように見えた。醸し出す雰囲気もまた、いつもメディアでお目にかかる強い女のそれと完全に一致している。
だが、俺は違和感を覚えた。
「……ッ!」
マンションから出てきた藤城琴音の周囲に居るはずの者が居ない。護衛たちだ。どういうわけか、彼女の周囲に警備員が1人も立っていないのである。
いや、おかしい。そんなはずは無い。藤城琴音ともあろう要人中の要人が、護衛を1人もつけずに外へ出るなんて――と、嫌な予感が背筋を駆け抜けた瞬間。
握ったままだった携帯電話から、不意に声が聞こえた。
「じ、次長」
酒井の声だ。事前の打ち合わせでは、こちらからの発話はあくまでも号令に過ぎないから出なくて良いと言ってあったのに。
この状況で通話状態になるとは、如何なることだろうか。挙げ句、部下の声はひどく震えているではないか。
胸騒ぎが一段と強まってゆく。俺は恐る恐る、端末を耳に当てた。
「……何があった?」
「すんません、次長。捕まっちゃいました」
「えっ?」
「何か、ずっと見られてたみたいで。作戦失敗です」
その言葉で大方の状況は悟った。
「……」
まさか、こんな結果に――とてつもない焦燥感がこみ上げてくる。そんな俺がふと視線を戻すと、エントランス前に居たはずの藤城琴音が居ない。
いつの間にか、彼女はこちらへゆっくりと距離を詰めてきていた。
「初めまして。何かご用かしら? 私を攫おうとしたチンピラさん」
俺のすぐ目の前で立ち止まり、にっこりと微笑みを向ける女相場師。その瞳の奥で冷たい炎が燃えているのがはっきりと分かった。
こいつ、ただ者じゃねぇな――。
されどこのまま愕然としていても仕方がないので、とりあえず返事を投げておく。
「……その言い草じゃあだいぶ前からお見通しだったみてぇだな。藤城琴音さんよ」
「ええ。あなたのお仲間がこの建物を何度も周回し始めた時から、ずっとね」
「ほう」
酒井と原田は上手くやったつもりだろうが……藤城には最初から全てお見通しだったというわけか。何とも情けない話だ。やはり実戦経験の不足は否めないな。
だが、今はそんなことを悔やんでいる場合ではない。何とかしてこの場を切り抜ける術を模索せねば……! 俺は改めて目の前の美女に向き直った。見れば見るほど綺麗な女だが……致し方あるまい。
「悪いね」
秒速でグロック17を抜き、藤城に突きつけた。
「一緒に来てもらおうか」
「あら。随分と手荒な真似がお好みなのね。警察に捕まるのは怖くないのかしら?」
藤城は動じることもなく、余裕たっぷりに微笑んでいる。この状況下でもまだ自分が優位に立っていると確信しているのだろう。
だが、その慢心が時に命取りとなることもあろう。俺は声色ひとつ変えずに言葉を返していった。
「別に怖かねぇさ。尤も、ここであんたがポリ公を呼ぶとは思えんがな」
「そう思う根拠は何処から?」
「あんたは天下の女相場師、藤城琴音様だ。脱税だの、粉飾決算だの、どうせ叩けばいくらでも埃が出る体なんだろう」
「それで?」
「迂闊にサツを頼れば当局の捜査を招く。だから、こんな要塞みてぇなマンションに私兵を囲って住んでる。違うか?」
「ふーん。別に警察なんか怖くないわよ。あんな奴ら、賄賂を渡せばいくらでも懐柔の余地はあるもん」
「警察に鼻薬効かせてんのはこっちも同じだぜ。要するに、ここであんたを殺す選択肢もあるってことだ!」
拳銃を構える両手に力を込め、語気を強める。
いま、自分は最近話題の女相場師に銃口を突きつけている――そう思うと何だか不思議な気分だ。ちょうど昨晩テレビのニュースに出ていた人物が目の前に居る点もまた、非現実的な感覚を助長する。
「撃ちたいなら撃てば? あなたの大切なお仲間さんがどうなっても良いならね」
藤城は依然として余裕の表情を崩さない。
察するに、酒井たちを乗せたバンはこの女の私兵に見つかって動きを封じられたか。こちら側の関係者を人質に取っているから彼女はここまで強気なのだ。
その証拠に、藤城琴音は無線機を左手に携えていた。それで別動隊からの報告を受けていたのだろう。そこへ自分が「殺せ」と命令すれば、捕らえた部下たちの処刑は瞬く間に実行されるのだぞとでも言いたげな満面の笑み。
こんな短時間で、それも多くの車が行き交う六本木の市街地のド真ん中で車両の臨検・制圧をあっさりとやってのけるなんて……藤城琴音はよっぽど強い連中を抱えているらしい。
だが、相手がどんなに腕の立つ奴であれ、簡単に引き下がるわけにはいかない。俺は平然と突っぱねた。
「こちとらヤクザだ。そんな脅しで退くわけねぇだろ。俺の方こそ、可愛い部下が今すぐ解放されなきゃあんたを撃つぜ」
「あなたに撃てるのかしら。大体、ここで私を殺したらマズいんじゃない? 『生け捕りにしてこい』って命令でしょう?」
「撃てるさ。第一、射撃は殺すのが目的とは限らない」
「ん?」
女の目が丸くなった瞬間、俺は引き金をひく。
――ズガァァァン。
弾丸は頬の真横を通過し、マンションの壁に当たった。それまで涼しげだった藤城琴音の顔に、初めて動揺の色が見える。
「おっと、外しちまったな」
「なっ……! あなた、何を……!」
わざと外したのだ。
この手の輩は本当に銃声が轟くとは思っていない。なればこそ、想定外の事態を起こしてやり、揺さぶりをかけ、交渉を有利に進める――そのための威嚇発砲だ。
「次は肩に当てるぜ。人間の身体ってぇのは急所にさえ当てなければ何発でも風穴開けられんだ」
「くっ……」
強気な女の余裕が消えた。動揺を堪えきれず、悔しそうに歯噛みしている。その瞳の奥底には恐怖の二文字。
目論見は当たった。ここまで来たら屈服させるまで、あともうひと押しだ。一気に畳み掛けてしまおう。
「さあ、どうする? 大人しくついてくるか? それとも血ぃ流すか? 嫌だね。あんたみたいな美人さんの体に傷付けちまうのは」
「……」
じりじりと距離を詰め、俺は銃口を相手の肩に突きつけながら問う俺。この距離で撃たれれば間違いなく肩甲骨が粉々に破壊されるだろうが……この女は果たしてどう出るか? 俺はさらに睨みを利かせる。
「もう一度言う。藤城琴音、一緒に来い。俺は両腕を削ぎ落してでもあんたを連れて行くぜ」
すると、藤城は降参したように両手を上げた。
「はあ。やっぱ、ヤクザは強いのね……」
字面だけを捉えれば敗北宣言。彼女は自らの負けを認めたということになるが――どうにも引っかかる。
目の前にいるのはただの女性に非ず。情け容赦を知らぬ拝金主義の女相場師、藤城琴音だ。そう簡単に降伏などするものだろうか? 疑念が首をもたげてきた俺の中で、以前にテレビで観た藤城の台詞じみた発言が脳裏をよぎる。
『私は転んでもタダでは起きない主義なので』
そうだ。
この女は搦め手を持っている。完敗したように見せかけて、思わぬ所から引き出しを開けてくる狡賢い女だ。こりゃあ匂うぜ――。
背筋に冷たいものが走った時には、藤城の顔には余裕の色が戻っていた。口角もにんまりと吊り上がっている。
「……だけど、勝負はまだ終わっていないわ」
「ッ!?」
不敵な笑みを浮かべ、彼女は言うのだった。
「戦う男を気取るなら、背後には気を配った方が良くってよ。無作法なチンピラさん」
その刹那。俺を斬撃が襲った。
「おおっと!」
間一髪のタイミングで躱し、咄嗟の横跳びで藤城から一時的に距離を取る。
「あら、惜しい」
彼女は余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》といった表情で俺を見つめている。今の一撃は何だ? 油断していたとはいえ、気配がまったく読めないなんて……。
この女が用意していた搦め手の正体に、俺は驚かされた。
「な、何だ……てめぇは……!」
振り返ると、そこには両手にマチェットを携えた大男の姿があった。見たところ2メートル以上はあるのではないか。兎にも角にもデカい、明らかに人間離れした巨躯を持つ黒人男性が殺気を放っていた。
「てめぇ、何者だ……!?」
俺はそいつに銃口を向け直し、引き金に指をかける。やがて大男の側に移動した藤城琴音が、勝ち誇ったような笑みを向けてきた。
「うふふっ……彼は私の用心棒よ。形勢逆転ね」
そう言って彼女は大男の肩にそっと手を添える。すると彼は表情ひとつ変えずに名乗りを上げたのだった。
「タウロス、ソレガ俺ノ名前ダ。覚エテオケ」
「タウロスだと……!?」
英語で闘牛《Taurus》を意味するその名は、おそらくコードネームであろう。体格から察するに、この男は従軍経験者あるいは傭兵だ。片言の日本語の訛りを訊く限りでは西アフリカのスワヒリ語圏出身と考えられる。
そんな男が何故ここに――と、考察に耽っている暇は無い。動揺する俺に向けて、大男=タウロスが一歩ずつ近づいてくる。
獲物を視界に捉えた巨人のごとく、ゆっくりとした足取りで距離を詰めてくるのだ。彼の表情は強固な殺意で燃えていた。
「琴音様ヲ傷ツケル奴ハ許サナイ。殺ス」
どうやら、ここで取るべき道はひとつのようだ。
「けっ。面白くなってきやがったぜ」
俺は迷わず引き金を引いた。
――ズガァァァン!
だが、タウロスはマチェットで銃弾を防ぎ、防御と同時に踏み込んで俺との距離を詰めてくる。
「ほうっ!?」
その速さたるや尋常ではない。次弾を放つ間も無くあっという間に肉薄されてしまい、刃が頭上から振り下ろされる。
「ッ!!」
すんでの所で躱した俺は、そのまま横へ飛び退きつつ発砲するのだが、これもまた弾かれてしまう。こいつ、巨体の割になかなかの反射神経だ……!
ならば、こちらも戦法を変えるまで。俺は銃を左手へと持ち直し、空いた右手で短刀を抜いて突進。目の前の巨人に猛然と斬りかかった。
「うおおぉぉ!!」
「ウゥッ!」
俺の斬撃をタウロスはマチェットで受け止める。刃と刃がぶつかり合い、火花が飛び散る。至近距離で睨み合った俺たちは鍔迫り合いの体勢となった。
「ナニッ!?」
「……っ」
力と力の単純な競り合いだ。敵の怪力は文字通り化け物じみていて、少しでも気を抜くと瞬時に押し返されてしまいそうだ。
されどこちらだって負けてはいない。一子相伝の殺人武術、鞍馬菊水流の伝承者が力比べで負けるなどあってはならない!
「うおおおおおっ!」
腹の底から放った怒声を気合いに換えた俺は短刀の柄に力を込め、徐々に相手の得物を圧倒していく。やがてその勢いに耐えられなくなったタウロスが後退し始めた隙を突き、一気に畳み掛ける!
「おらああっ!!」
「バ、馬鹿ナ……」
タウロスの体勢が崩れた。その隙を見逃さず、俺は一気に懐へと飛び込む。そして……短刀の切っ先を彼の喉元に突き刺し、一気に斬り上げた。
「ぐ……がはっ……」
大量の鮮血を噴き出し、タウロスはその場に崩れ落ちた。致命傷だ。もはや助からないだろう。俺は短刀に付着した血液を振り払いつつ、藤城に向き直った。
「勝負あったな」
「う、嘘でしょ!? ケニアの戦闘民族出身の傭兵をこうもあっさり……!」
目を見開き、わなわなと震え上がる藤城琴音。やっぱりこの手のインテリは想定外の事態に弱い。今度はこっちに形勢逆転だ。
俺は拳銃を構え直し、ゆっくりと彼女に近づいていく。
「一緒に来てもらおうか。下手に逆らえば体に風穴が開く。どうするのが正解か、賢い投資家のあんたなら分かるよなぁ?」
「……はあ。主力をお仲間の方に差し向けたのが運の尽きだったみたい。とんだ戦略ミスね、私ったら馬鹿みたい」
「そうだな。んじゃ、手始めに俺の部下たちを解放して貰おうか。で、あんたの用心棒たちを引き上げさせろ」
「……」
俺は藤城の持つ無線機に視線を送る。端末を持つ白い手がゆっくりと上がり、彼女は小さく頷いた。
「……分かったわ」
藤城が無線機に向かって話しかけると、程なくして部下から応答があった。
『琴音様! お怪我は?』
「……私は大丈夫。でも、タウロスがやられちゃった」
『……なっ!? 何ですと!?』
無線の相手は、おそらく彼女の側近だろう。タウロス敗北の事実にひどく驚愕しているのがスピーカー越しの声から伝わってきた。
「それでね、キグナス。頼みがあるんだけど……」
藤城琴音には配下の私兵部隊に星座にちなんだコードネームを付ける趣味でもあるのか。白鳥《Kygnus》と呼ばれた部隊長らしき男に、藤城は命令を告げようとした。
「……今すぐあたしを」
その瞬間。彼女が言い終わるのを待たずに、俺は引き金を引いていた。
「おっと! そこまでだぜ!」
発射された弾丸は藤城の持つ無線機に命中。忽ち、端末は木っ端微塵に砕け散った。
「きゃっ! なっ、何を……!?」
動揺する女相場師に、俺は鼻で笑って応じる。
「あんた、今しがた『助けに来て』って叫ぶつもりだったろ? お見通しなんだよ!」
「……ッ」
図星のようだ。相手の口元の動きで相手が何を言い出すかについておおよその見当をつける――傭兵時代に培った他愛もない特技が、よもやここで役に立つとは。
「さて、これでもうあんたは助けを呼べなくなった。大人しく付いてきな。手荒な扱いはしないでやるよ」
「くっ……」
悔しそうに歯噛みする藤城。もはや抵抗する気力も失せたのか、彼女はゆっくりと両手を挙げた。
「……降参よ」
作戦成功。多少の想定外はあったが、藤城琴音の身柄拘束という任務の第一段階は完了した。あとは彼女を中川会総本部へと連行すれば良い。
藤城に銃口を突きつけたまま、俺は空いた左手で携帯を開いて電話をかける。相手は酒井。今後の動きを指示するつもりだったが……。
『もしもし?』
電話に出たのは、酒井ではなかった。つい先刻に聞いたばかりの男の声。あのキグナスとかいう私兵部隊長だ。
ほんの一瞬だけ戸惑ったが、すぐに状況を呑み込む。察するに俺たちのバンを制圧した際に酒井から携帯を奪い取ったのだろう。
気を取り直し、俺は電話口の男に語りかけた。
「よう、キグナスさんとやら。単刀直入に用件から伝えるわ……今すぐ俺の部下を解放しろ。そしてその車から降りるんだ」
『貴様は何者だ? 何の目的があって琴音様を狙う?』
「答える義務はねぇ。言っとくけど、あんたらのご主人様は俺が預かってんだぜ。命が惜しいならさっさと俺の言う通りにしろ」
『ふざけるな』
「別にふざけちゃいない。事実を言ってるまでだ。良いか? テメェらは今すぐ車を降りて、俺の部下たちにマンションまで来させろ。さもねぇと、藤城琴音を殺す」
『貴様、あまり俺たちを舐めない方が良いぞ』
電話の向こうから凄みが聞こえてきた。先刻のタウロスとは違って言葉の発音に違和感は無い。おそらくこいつは日本人だろう。
「話を聞いてんのかよ。とにかく、あと5分以内に部下を解放しろ。もし、ここへ来た車に見かけねぇ顔の奴が1人でも乗ってたら、その時点で藤城は蜂の巣だ。お前らの大事なボスだ。よく考えて判断するこったな」
『……分かった』
渋々といった様子でキグナスは要求に応じたが――ひとまず、そうする素振りを見せただけだろう。
きっと奴は酒井たちを解放しない。彼らのバンに乗ったままこちらへやって来て、到着と同時に攻撃を仕掛けてくるはず。藤城琴音を救出するために。
俺が思うに、キグナスなる男はこちらの目的があくまで藤城の誘拐である事実に気付いている。生け捕りにするのが必須要件である以上、俺たちは藤城を殺せない。ならば、奴にとって「藤城琴音の殺害」は脅し文句になり得ないわけだ。
バンが到着したら、藤城の私兵部隊を即座に殲滅せねば。現状で向こうの捕虜となっている酒井たちの安否も心配だ。
現時点で彼らが生きているかは不明。仮に生かされていたところで、到着後の乱戦に巻き込まれれば命の保証は無い。
可能な限り助けたいが、俺たちはヤクザ。目的達成のためには非情な決断を下すことも止むを得ないか……!
迷いをかき消すかのごとく、俺はため息をつく。そうして「あと5分だ。遅れるなよ」と一応釘を刺してから電話を切り、藤城に向き直った。
「おい。今さら逃げ出そうだなんて馬鹿なことは考えるなよ。大人しくしてりゃ、全てが穏やかに片付くんだからな」
「……っ!」
体に銃口をぐりぐりと押し当てられたことで若干動揺した様子の彼女だったが、すぐに気を取り直したのか強気な口調で返事を寄越してきた。
「別に。もう逃げたりしないわよ。わざわざ痛い思いをするのは性に合わないから」
「そうかい。利口な女だぜ」
「損切りってやつよ。私たちの世界で云うところのね。勝ちが消えたゲームにいつまでも執着しているより、さっさと諦めて負けを割り切った方が損耗を小さくできる」
「なるほどな。流石は今をときめく相場師さん。あんたが言うとなかなか説得力があるねぇ、この状況なら尚更だ」
「嫌味のつもりかしら。言っとくけど、これは投資家としては至極当然の思考なのよ。あなたみたいなチンピラには分からないと思うけど」
早いとこ諦めを付けるのが得策と語る割には、先刻は搦め手の傭兵を差し向けてきた藤城。それって立派な勝ちへの執着ではないのか……?
まあ、その辺は指摘しないでおいてやろう。
「さあ、どうだかな。俺は投資云々に興味は無いもんでね」
「あらそう。それじゃあ、どうして私を攫おうとするの? 私を使って金儲けしようと目論んでるんじゃなくって?」
唐突に藤城が核心に迫る部分を問うてきた。さて、何て答えれば良いやら。とりあえずは適当にはぐらかしておくか。
「さあな。俺はただ、あんたを連れてくるよう言われてるだけだ。詳しいことは何も聞かされてない」
「見たところヤクザみたいだけど、何処の組の人? 東北訛りが無いから極星連合のヒットマンってわけじゃなさそうね」
「ほう。自分があの田舎者どもの標的にかけられてるって覚えはあるのか……」
「極星じゃないとすると、中川会かしら?」
別に隠さなくても良いのだが。俺は敢えて肯定も否定もせず、藤城の質問に対して適当な返事を返した。
「さあね。ご想像にお任せするぜ」
「……そう。まあいいわ。とにかく私は、あなたみたいなチンピラの言いなりになんかならないから」
「別に良いさ。あんたの意思なんて関係ないからな」
「……」
俺の言葉に一瞬怯んだような反応を見せる藤城だったが、すぐに強気な口調を取り戻して俺にぶつけてきた。
「あなたたちは私に何をさせたいの? プランニング? マネジメント? 私に仕事を頼みたいなら、会社を通して話を持ってくれば良いのに。これだからヤクザは嫌いなのよ。おかげで午後の時間が台無しじゃない。ほんっと、嫌」
怒り任せに吐き捨てる彼女が視界に入った瞬間、俺は思った――やっぱり綺麗な顔をしていると。特にその目。意志の強さを感じさせる、力強い眼光が麗しい。
彼女が穿いたショートパンツから伸びるストッキングに包まれた脚も、健康的で美しい。細すぎず太すぎず、程よい肉付きだ。
挙げ句、胸も大きい。白熊毛皮のファーコートを羽織った白いブラウスのボタンが弾け飛びそうなくらいに。胸元には見事な谷間が形成されているではないか。
彼女の肢体は扇情的でありつつも下品には感じさせず、むしろ芸術性すら感じられるほど美しく整っている。
確か、相場師になる前は歓楽街でキャバクラ嬢をやっていたと雑誌の取材で語っていたっけ。こんな豊満な肉体で言い寄って来られたら世の男どもはイチコロだろう。
藤城琴音は恐ろしい女だ。同じ空気を吸っているだけで、その色香が醸し出す魔力に呑まれてしまいそうになる。
ついつい視線が引き付けられるそうになるのを慌てて堪える。ああ、何をやっているのだ。どうして俺はこんなにも女に弱いのやら。さっさとこの場を離れたい。早く迎えのバンが来てくれないものか……!
憂さを発散するべく煙草に火を付けようとした、その時。
「……なっ!?」
突如として、俺たちの周りを男が取り囲んだ。全員が目出し帽を被っていて、手には金属バットや鉄パイプが握られている。
いけない。藤城琴音に見惚れていたせいで、気配の接近にまったく気付かなかった。よもや更なる伏兵を用意していたとは。
「ちっ、やりやがったな! 本隊のご登場かよ!」
屈服したと見せかけてとんだ時間稼ぎをされてしまったと思わず舌打ちをした俺。ところが、当の藤城の反応は違った。
「なっ、何よ!? こいつら!」
増援の到着に喜ぶどころか、腰を抜かして驚愕している。いや、戦慄しているにも等しい眼差しである。どういうことだ。
「あんたの味方じゃねぇのかよ」
「し、知らないわ! こんな奴ら! あなたが呼んだんじゃないの!?」
「いや、俺の部下じゃない……」
なんと藤城の護衛部隊じゃないという。だとすると、その正体は何か――そうこう話しているうちに、男らは俺たちを包囲する輪を縮めてきた。
「くっ……」
わけの分からぬ状況になってきた。藤城琴音を確保したは良いが、謎の集団が俺たちをぐるりと取り囲んだ。
単純に推考するならば第三勢力。俺たち以外で藤城の命を狙う組織が漁夫の利を狙って奇襲をかけてきたということか?
ふと敵方の装いを観察してみると、全員がジャージやスカジャンといった軽薄な服を着ている。得物は全て打撃系で銃を所持している者は見当たらない。
さては極星連合か? 東北の田舎ヤクザは慢性的な資金難で銃火器の調達に困っているという話を聞いたことがあるが……。
「おい! お前ら、極星の者か? ここへ何しに来やがった!」
俺は男たちに向かって大声で問いかける。だが、返ってきたのは中央に立つリーダー格らしき男による敵意剥き出しの叫びだった。
「お前ら、やっちまえ!! 藤城琴音を攫うぞ!」
その瞬間、居並ぶ男たちが「うおおおーっ」と雄叫びを上げる。ああ、やはりそうだったか。俺は即座に戦闘態勢に入る。
呆気に取られて動けない藤城を庇うようにして立ち塞がり、向かってくる男らにとりあえず応戦する。
「おらよっ」
――バキッ。
「ぐはあっ」
数十秒も経たぬうちに、俺は違和感を覚えた。
おかしい。何かが変だ。
この連中、弱すぎるのだ。殴打や蹴りをたった1発浴びせただけで地面に転がってしまう輩ばかり。
ヤクザにしては明らかに喧嘩慣れしていない。かといって、ただの素人とも思えない。金属バットを振りかぶって突進してくるだけの度胸はある。
「てめぇら! どこの組のモンだ!? 名乗りやがれッ!!」
「ぶはあっ……」
尋問を行うつもりだったが、上手くいかず。俺が勢い余って手刀を繰り出してしまったせいで、男は血を噴き出しながら首と胴が寸断されてしまったのだ。
「ちっ、情けねぇ連中だぜ」
手刀で人体が切断される光景に言葉を失う藤城を尻目に、俺は愚痴をこぼした。まったく手応えが無さ過ぎるのだ。さっき戦ったタウロスはもっと強かったぞ? こいつらは一体何者だというのだ……?
と、その時だった。リーダー格の男が再び叫んだのである。
「お前ら! 怯むんじゃねぇ!! 何としても藤城の身柄を押さえろ! ヤクザなんかに渡すんじゃねぇ!」
すると、奥の方から無数の男たちが走ってきた。騒ぎを聞きつけた野次馬も含めて物凄い数である。
「ちっ、まだいやがるのか。キリがねぇぞ……!」
唾を吐きつつ応戦する俺。だが、いかんせん敵が多すぎる! 1人倒す間に10人以上は押し寄せてくる有り様。一体、何人の兵を抱えているのか? そもそもこいつらは何なのか? ヤクザじゃないとすると、果たして……?
ともあれ、今は藤城を守れなくては。彼女を得体の知れぬ連中に渡すわけにはいかない。すっかり怯え竦んだ女相場師の目の前で、俺は群がる敵を手刀で次々と薙ぎ倒してゆく。
「ぐはあっ!?」
「うぐおっ!」
「ぶはっ。こいつ、強い!」
手刀で斬られ、掌底で内臓を潰され、断末魔を上げて転がってゆく敵兵たち。それでも次から次へと増援がやってくる。
これでは埒が明かない――と、思った矢先だった。
「次長ー! ご無事ですか!!」
1台のバンが走ってくる。群がる暴徒どもを次々と跳ね飛ばし、勢いのまま俺たちの前で急停車した。
「乗ってください!」
運転しているのは梶谷。後部座席には酒井と原田。ついでに、見かけぬ顔も乗っている……。
迷彩服を着た外国人風の男女6名がおしくらまんじゅう。連中の正体が何処の誰であるかは察しが付いた。彼らは、藤城の私兵部隊だ。
どうして彼らも乗っているんだ? 色々と聞きたいことはあるが、話は後。俺は藤城の腕を引っ張り上げながらバンに乗り込んだ。
「梶谷さん! 出してくれ!」
「はいっ! すぐにここを離脱します!」
ドアを閉めるとすぐに車は急発進する。
「待てやゴラァ!!」
車外から男どもが叫ぶ声が聞こえる。その中でもひと際野太くも重低音が目立った男の声が、俺の耳に反響した。
「おいっ、逃がすな! 逃がすと眞行路さんに殺されるぞ! 何としても捕まえるんだーっ!」
なるほど。経緯はともかく、この暴動騒ぎを起こした仕掛け人についておおよそ見当がついた。 されど、今は逃げの一手。
後ろを振り返ることなく、車は六本木の通りを抜けていった。
いくつかの想定外に直面しつつも、何とか藤城琴音の身柄を確保。だが、この先はどうする!?