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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第10章 虎崩れの変
176/252

汝弱さを知れ

 銀座七丁目の眞行路一家本拠地。


 武家の城塞を思わせる造りをしているこの建物の一室、現在いま俺が居る部屋は眞行路一家にとっては玉座の間らしい。


 広さ三十畳くらいはある畳敷きの和室で、襖や天井にはきらびやかな金細工が施されている。入り口から入って奥の方が少し高くなっており、そこに敷かれた赤絨毯の上には立派な椅子。まさに玉座ぎょくざともいうべきそれに腰かけるのは、眞行路一家総長の眞行路しんぎょうじ高虎たかとらだ。


 この豪華絢爛な部屋は彼の趣味なのか。善し悪しはさておき、初めて訪れた者に権威を示すにはもってこいの設えであろう。高虎自身の放つ威圧感も相まって、なかなかの迫力だ。


 無論、俺はたかがインテリアごときで怯んだりはしないのだが、桃山文化を彷彿とさせる室内装飾の見事さには心の中で素直に喝采を送った。


 ただ、気に入らないことに変わりはない。


「……輝虎。ヤニをくれ」


 上座にてどっしりと構えた銀座の猛獣が、図々しくも喫煙を始める。あちら側に立った息子が取り出した葉巻にライターで火を付け、紫煙をくゆらせた。


 仮にも客人を相手にしているというのに、何たる態度か。これは俺や会長に対する挑発と見て良いだろう。受けて立ってやる他ない。


「ふう~。やっぱり洋モクはキューバに限るぜ。口の中で残る甘さが堪らねぇんだ。お前も吸うか?」


「生憎、煙草タバコは紙巻きしか吸わないもんでな。遠慮しておくぜ」


「ったく。これだから最近のガキはいけねぇや。食わず嫌いは了見を狭くするってのに。本当に吸わねぇのか? こいつを咥えてると並大抵のさは吹っ飛ぶぜ?」


「遠慮しておくと言っている」


 なおも俺が拒絶の意思表示をすると、高虎は鼻から勢いよく煙を吐き出した。


「そうかい。アレか、お前が咥えるのは三代目のチンポだけだってか? クククッ」


 冗談混じりに問うてくる眞行路。あざけるように下卑た表情で、横に立つ輝虎も似たような顔色でこちらを見ている。されども、俺自身は特に不快にも思わなかった。この程度の挑発などで冷静さを失うほど青くはない。


「……そろそろ話を始めても良いかね。眞行路さんよ」


「ふんっ」


 高虎はつまらなそうに鼻を鳴らすと、再び煙草をふかし始めた。そして、ある程度吸ったところでサイドテーブルの上にある灰皿で火を消す。


「まあ、良いだろう」


 ようやく高虎が重い口を開いた。俺は気を引き締めて彼の言葉に耳を傾けることにする。


「単刀直入に言おう。眞行路は中川の傘下に戻る気は無い」


「……ほう?」


 俺が問い返すと、高虎はニヤリと笑って続けた。


「そもそも眞行路は中川会に恩義なんぞ感じてねぇんだわ。むしろ、ウチの方が奴等より歴史が長ぇんだ。デカい顔されちゃあ困るってもんよ」


「なるほどな」


 俺は静かに頷いた。


 やはりその理屈で来るか。けんもほろろに一蹴されたわけだが、こちらとて眞行路一家を本気で直参に戻す気は無い。あくまでも目的は彼らを破門ないし絶縁に処すための時間稼ぎである。


 さて、表面上はこれから粘り強く“説得”を行ってゆくとして、他に得られる情報は無いか。高虎の口から何かしら重要事項を引き出せないかと考え、頭を回転させた。


「眞行路さん。そうは言ってもこの先どうする気だよ? 誰を後ろ盾にしてるのかは知らねぇが、中川会を割って出てタダで済むわけねぇよなあ?」


 すると、その問いに対して返ってきたのは思わぬ逆質問だった。


「小僧。お前は麻木光寿の息子なんだってな?」


「……質問しているのは俺だぞ」


「麻木光寿といえば川崎の獅子だ。関東どころか、この国の裏社会でその名を知らん奴はいない伝説の極道。わけぇ頃は俺も一目置かされたもんだよ」


「おい。何の話をしている」


 話をはぐらかすつもりか。気色ばむ俺にはまったくお構いなしで、高虎は語るのを止めなかった。


「川崎の獅子の倅として、ガキの頃からヤクザになるべくして育ってきたお前は16の時に家出して横浜へ流れ着き、そこでとある男に拾われた……村雨むらさめ耀介ようすけ。“魔王”とか呼ばれてるイキがった野郎だ」


「だから、何の話をしてやがるんだ」


「まあ、黙って聞けや。お前のことは色々と調べさせてもらったんだわ」


 本当ならば今すぐに銃を抜きたい気分だったが、交渉事は先に落ち着きを欠いた方が負けだ。きっと高虎は俺を精神的に揺さぶりたいのだろう。奴の思う壺になってたまるか。


 あくまで平静を装い、俺は畳の上から高虎を無言で睨み続けた。


「小僧。あの頃は随分と大暴れしてたみてぇだな。村雨の手先になって大鷲会を壊滅させ、野郎の横浜制圧に貢献した。おかげで村雨組は今や煌王の直系団体にして、気鋭の幹部だ。元は代貸も務まらねぇチンケな枝だったのによ」


「……」


「だが、現在のお前は何故か中川のろくんでる。村雨の貸元昇格の最大の功労者だってのによ。本当なら、今ごろ横浜で幹部とかに就いてなきゃ論功行賞が見合わねぇだろ」


「……」


「分かってるぜ? 三代目とナシをつけたんだったよなあ? 『自分てめぇが中川会に入る代わり村雨組にゃ手を出さないでくれ』ってよぉ? ったく、三代目も胸糞悪わりぃことしやがるぜ。いくらお前が麻木の倅だからって、村雨との絆を引き裂いてまで取り込まなくたって良かったろうになあ」


「……中川恒元の下で働いてる現状に俺が不満を抱いてるって、あんたはそう言いてぇのか」


 次の瞬間、高虎の口角が吊り上がる。


「そうとも言うが、ちょっと違う」


 一体、そこからどんな言葉が続いてくるのやら――心の中で身構えていた俺に浴びせられたのは、更なる挑発ではなく、意外な提案だった。


「小僧。眞行路一家に来ねぇか?」


「……は?」


 思わず、素の声が出てしまった。どういう風の吹き回しだ。言うに事欠いて、自陣営への勧誘とは……理解が追い付かない。


「お前はヤクザのサラブレッドみてぇなもんだ。そんな有望株を遊ばせておくのは勿体ねぇ。ましてや、あの異国かぶれのホモ野郎の所に置いといたんじゃ宝の持ち腐れよ」


 高虎はそう言ってこちらを見つめてくる。その眼には、はっきりと分かる打算の色があった――ここは敢えて沈黙を決め込んでおく。馬鹿馬鹿しいにも程がある申し出だったからだ。


「うちに来れば幹部に据えてやることだって出来るぜ。 どうだ? 悪い話じゃねぇだろ?」


「断る」


「何故?」


「何故もハゼもあるか。あんた、さっきから何を企んでやがる」


「何も企んじゃいねぇさ。ただ、お前の才能をウチで活かしてみちゃあどうかと思ってな」


 高虎は畳み掛けるように言う。


「中川恒元はお前の未来を奪った男だぞ? 惚れた女と添い遂げる未来を力ずくで捻じ曲げた、お前にとっては憎い仇敵のはずだぜ? そんな奴にこの先も尻を掘られて生き続けるってのか?」


 よくもまあ、過去の話を調べ上げてくれたものだ。俺は何も答えない。ただ、高虎の目を見据えて冷笑を投げるだけ。


「なあ、小僧。お前だって本当は分かってるんだろう? 中川会に居ても未来は暗いってことがよぉ」


「……あんたのところに行けば明るいってのか」


「おう。少なくとも、あのホモ会長よりはお前を上手に使ってやれる自信はある」


「参考までに聞いておくが、その自信は何処からだ」


「好きに暴れさせてやる。無類の喧嘩好きであるお前をな」


「喧嘩なら、あんたの下じゃなくたって出来る。間に合ってるよ」


「もっとデカい喧嘩ができるぞ。俺も、そのために中川会を抜けたようなもんだからなあ」


「ほう?」


 どこか興味を惹かれていそうな表情と声色を作って返した俺。本音のところは決してそうではないが、高虎から情報を得るためだ。今回、何故に奴は離反という道を選んだのか……? その理由を聞けるというなら、聞かない手はない。


 薄く笑みを浮かべながら、俺は高虎に尋ねた。


「詳しく聞かせて貰おうじゃねぇか。組織を割ってまで、あんたがやろうとしている喧嘩とやらについて」


 すると、高虎は平然と言ってのけた。


「俺はこの日本を統一する。全国津々浦々、北から南まで、ありとあらゆる街に四ツ割り菱の代紋を掲げてやるんだ」


「なっ!?」


 自然と素っ頓狂な声が俺の喉から飛び出す。驚き、恐れ入ったのではない。呆れるあまり、失笑がこみ上げてきてしまったのだ。


「ぷぷっ! ぷはははっ!」


 堪えきれず、笑いを勢いよく吹き出してしまった。すかさず輝虎が「おいっ! 何が可笑おかしい!?」と食ってかかるが、それを制して高虎は言う。


「何だ? 俺には出来ねぇと思ってるのか? 小僧?」


「そりゃあな。いくら兵の数が千人を超えてるからって、流石に無理があるだろ」


「悪いが、こちとら本気で言ってるんだぜ。俺たち眞行路一家はいずれ日本全土を制してみせる!」


 この男は一体、何を言っているのか。日本を統一する? 冗談にしても馬鹿馬鹿しすぎる。関東甲信越で二万騎の中川会ですら足踏みを続けているのが現状というのに、それを一介の親分風情が口にするとは……!


 けれども高虎の目は至って本気そのもの。見栄を切っているわけではないらしい。そう悟った瞬間、俺の中で点と線が繋がった。


「なるほど。だから各地の組織を傘下に入れまくってたのか」


「ほほう。さすがは麻木光寿の息子だぜ。察しが良いじゃねぇか」


 ここ最近になって高虎は各地に点在する構成員100人以下の一本独鈷の組織を無理やり併合して回っていたのだが、その目的はひとえに戦力の確保。四国の一条会、広島の共鶴同門会、九州の玄道会、そして関西の煌王会といった巨大勢力と渡り合うために兵の頭数を揃えていたというわけだ。


 そういうことだったか……俺は静かに頷きながら、このイカれた猛獣との会話を続けることにした。


「だいぶ無理のある話だと思うんだがな。いくら眞行路一家が膨れ上がろうと、万単位の関西や九州に勝てるわけがぇ」


「はっ、何も武力一辺倒で攻めようってわけじゃねぇ。そのために永田町の政治家連中の手綱たづなを握ったのよ」


「……警察を動かして敵方をとっ捕まえてもらうためか」


「ご名答。近頃、銀座へ飲みに来る真島まじま秀雄ひでおって代議士が警察庁の出身でな。古巣にはかなり顔が利くんだ」


「おいおい、マジかよ。あれは外務大臣じゃねぇか……」


「人間、誰しも弱みの一つや二つはある。それは史上二番目の若さで大臣になった若手政治家も御他聞に漏れずってやつだ」


「あの気難しそうな政治家をアゴで使えるほどのスキャンダルかよ。そらまた、どんなネタなのやら」


「おいおい。お前に話すわけねぇだろう。倅にも話してねぇんだからよぉ」


「別に本気で聞こうなんざ思っちゃいない。冗談のつもりだったんだがな」


「良いか? 秘密ってのは、それを知ってる人間が少ねぇから脅す価値が生まれるんだ。閻魔帳を持つのは親分だけで良い。お前も遅かれ早かれ、組を持つ時が来るだろうから。覚えとけや。ガハハハッ」


 豪快かつ下劣に笑う高虎の脇で、輝虎が少し気まずそうな顔をしていた。ああ、これは本当に聞かされていないのだなと俺はひと目で直感した。


 それはともかく、眞行路高虎の持つ情報網はたまげたものだ。よもや現職の閣僚をも懐柔していたとは。真島外相を介せば各県の警察くらい余裕で動かせると豪語する高虎に躊躇の色は無い。彼は本気で各地の勢力を従え、日本全土を手中に収めようと考えているのだ。


「いちおう言っておくが、中川会も例外じゃねぇぞ。いずれ折を見て中川には眞行路の傘下になってもらう」


「残念ながら本気のようだな。てっきり、あんたは中川恒元を倒して中川会四代目の椅子に座りてぇもんだと思っていたが」


「ふんっ、俺は四ツ割り菱以外の代紋を担ぐ気はねぇ。眞行路一家がこの国の全ての極道を支配するのさ」


 馬鹿馬鹿しい青写真のようにも思えるが、高虎が言うと嫌に現実味を帯びてくる。この男は単なる暴走機関車に非ず。政治家や警察を味方に付けて表と裏の両方で事を進める、豪胆で強かな切れ者なのだ。


 こりゃあ、思った以上に手強い――。


 背筋が自然と疼き始める中、眞行路はなおも口を開いた。


「で、ここからが本題よ。改めて言うが、小僧。眞行路一家うちに来ねぇか? 親父に似て頭の良いお前ならもう分かってるだろ。いまのうちに俺の盃を呑んでおいた方が得だぜ? なあ?」


「意外だな。あんたは俺のことを心底嫌ってるもんだと思ってたが」


「お前はクソ生意気なガキだが、腕っぷしについちゃ天下一品だ。高禄を寄越してでも迎え入れる価値は大いにある。何より、お前は俺とよく似ている」


「根っからの戦闘狂だって言いてぇのか」


「そうさ。俺は今でも覚えてんだぜ。6年前、居並ぶ幹部たちの前で堂々と大見得を切ったお前の狂犬みてぇな目をな」


 16歳の時分、組織に入る際の起請の儀式で俺が悪態混じりの啖呵を切った際に誰よりも激昂していたのが高虎だった。あの日、胸のうちでは俺にシンパシーを感じていたというのか……。


 高虎が上機嫌に続けてくる。


「俺は物心ついた時から血を見るのが好きでな。銀座の跡取りに生まれなくても、ヤクザにしかなれねぇような人生だった」


「それで似た者同士だと?」


「ああ。殴る、刺す、撃つ、この三道楽に勝るよろこびは無いと思ってる。お前だってそうだろ」


「……」


 ここで「一緒にするんじゃねぇ!」と言えないのが少し悔しい。先刻、古田との喧嘩では他の全てを忘れるほどに全身の細胞が湧き立っていた。それは高虎と共通して、己が戦闘狂である何よりの証左だった。


「親の跡を継いで眞行路の四代目を襲名してから、この世の贅沢という贅沢はあらかた味わった。だが、ちっとも満たされねぇ。何をしていても結局は根底に暴力への渇望がある。強い奴と戦いたくて仕方ねぇんだよ」


 否定はしない。自分もまた、目の前の男と同じだからだ。


「俺は喧嘩がしてぇんだ。なのに、あのホモ会長と来たらカネ稼ぎばかりに精を出してやがる。口じゃ全国制覇だの何だのと抜かしてるが、実のところ自分てめぇの懐を潤すことしか眼中に無い野郎だ」


「……あんたが組織を割って出る理由はそれか」


「他に何があるってんだ。中川恒元に天下統一をやってのける度胸タマぇなら、俺が自分の手でやるまでよ。こないだはせっかく西へ攻め込む道筋を示してやったってのにイモ引きやがって」


「へぇ? あんたは浅草じゃ最初から全てを見抜いた上で動いてたってのか? そりゃあまた、初耳だな?」


「極道の生き甲斐は抗争ドンパチよ。派手な喧嘩ができるってんなら、それをやるのに手段は選ばねぇ。よくよく考えてみりゃ、全国制覇なんざ口実に過ぎねぇのかもなあ……クックックッ」


「口実? あんたが喧嘩を楽しむための?」


「そうだ」


 不気味に口角を上げた満面の笑みで大きく頷き、彼は再びこちらを見据えた。その目は先刻にも増して強い真剣さを帯びている。


「話がだいぶ横道に逸れちまったが。小僧、さっきの質問の答えを聞かせろ。眞行路一家うちに来るのか、来ねぇのか!」


 あくまでも“説得”のつもりで来たが、これは最早話し合う余地が無いかもしれない。仮に復帰工作が成就したとして、己一人が楽しむためだけに戦争を画策するような輩を置いておくことは、組織にとってリスクにしかなるまい。もう、ここらで始末をつけてしまおう。


「ほら、黙ってねぇで答えろよ! お前は眞行路一家に来るのか? ああ!?」


 無論、俺の答えは決まっている。


「お断りだ」


 ――ズガァァァァン!


 次の瞬間、玉座の間に轟音が響き渡った。


 俺が胡坐の姿勢から膝をずらして起立するほんの0.20秒の間に懐から銃を抜き、高虎に向けて発砲したのだった。


「小僧……いきなり何しやがる……!」


「ちっ、外したか」


 残念。不意打ちでの射撃だったにもかかわらず、高虎には座ったまま避けられてしまった。猛獣と呼ばれるだけあって、喧嘩の腕は想像以上のようだ。


 一方、父の椅子の背もたれに空いた弾痕を見て、輝虎は口をあんぐりと開けている。何とも常人らしい反応だと思った。


拳銃チャカを弾くのがお前の答えとはな。どういう了見だゴラァ!!」


 俺の突然の行動の理由はたったひとつ。そんなの、最初から分かりきっている。今回の騒動を一気に解決するためだ。


「眞行路高虎。悪いが、あんたは今この場で殺す」


「何だと?」


「このまま生かしておくのは危険すぎるんでな。ここで首を獲っちまえば、会長が悩まされることも無いってわけだ!」


 言い終わる前から俺は動き出す。1発、2発と拳銃を連射しながら前方に駆け、そのまま高虎の懐に突っ込んだ。対する銀座の猛獣は俺の打った弾丸を全て避けて見せた。


 何ちゅう反応速度。巨体の割に、なかなかの俊敏性だ――。


 されども銃弾が躱されることは想定内。十分に間合いを詰めると、俺は左手で短刀を抜いて横薙ぎを放つ。


 ――シュッ。


 惜しい。それもまた紙一重で避けられてしまった。攻撃に失敗した俺を待っていたのは、いきり立つ猛獣の反撃だった。


「この野郎! 調子に乗るなッ!」


 玉座の後ろで鎧兜と共に飾られていた日本刀を抜き放ち、斬りかかってきた高虎。すかさず俺は短刀ドスを横に構えて受け止める。


 ――ガキィィン!


 刃と刃がぶつかり合い、火花が散った。


「おお、こりゃすげぇ圧だわ。銀座の猛獣は伊達じゃないねぇ」


「小癪な奴め! ぶった斬ってやる!」


 短刀を持つ左手に物凄い力が加わる。流石に片手一本では受け止めきれないと判断した俺は瞬時に後退し、押し返しの斬撃を回避。高虎は完全に戦闘モードに入っており、頭に血が上って顔は真っ赤だった。


 ここはなるべく早くケリをつけねば。


「おらよ」


 ――ズガァァァァン! ズガァァァァン!


 天井の高くない空間では宙に舞えないので、俺は右手の拳銃を連発して高虎を牽制する。しかし、荒ぶる猛獣は放たれた全ての弾丸を太刀で弾き、全く寄せ付けない。


「うおおぉぉ!!」


 咆哮と共に再び斬りかかってくる高虎。それを短刀で受け流しながら反撃の機会を窺う俺だが、やはり片手では心許ない。俺は拳銃を懐に戻し、右手を刀身の峰に沿わせてがっちりと受け止めた。


 またしても、鋼同士の激突で火花が散る。


「ふんっ、思った以上にできるようだな! 小僧!」


「そっちこそ!」


 耳をつんざく金属音が響いた。互いの刃を削る鍔迫り合いの最中、俺を睨みつけながら高虎は問うてきた。


「小僧! もう一度だけ聞くぞ! 中川を捨てて俺の下に付く気は無いか?」


「あんたは今この場で殺す! それが俺の答えだ!」


「馬鹿な奴だ! この眞行路高虎を殺せばどんなことが起こるか、お前には分かっているのか!?」


「そんなのは脅しにもならねぇぜ!」


 高虎の刃を全力で押し返し、俺は続けた。


「あんたは自分に何かあれば背後バックの政治家が報復に動くと思っているようだが、そうはならない!」


「何ィ!?」


「皆、恐怖で飼い慣らされてるだけのこった! 強請り屋である眞行路高虎が殺されれば、奴さん方に着いてる首輪が外れる! あんたに握られた弱みっていう首輪がな!」


「この野郎……!」


 瞳の奥に動揺が浮かぶ。図星を突いたようだ。俺はその一瞬の隙を見逃さず、右足を高虎の股間めがけて突き上げた。


「ぐおっ!」


 よろめく猛獣。俺は続けざまに短刀で追撃する。


 ――ガキィィン!


 しかし、その斬撃はまたしても防がれてしまった。しぶとい男だ。俺の攻撃を受け流しながら後退し、間合いを取った高虎は腹をさすりながら睨みつけてくる。


「哀れだな! 小僧! あの頃は狂犬みてぇにギラついてたお前が、今じゃすっかり組織の犬に成り下がっちまってよぉ!」


「どうとでも言え!」


「お前、自分が中川恒元に使われる駒でしかねぇって自覚はあんのか? 間抜けも良い所だぜ! かつて自分の未来を捻じ曲げた男に今も玩具おもちゃとして遊ばれ続けてるなんてよぉ!」


「あんたにどう思われようが、知ったことか! 俺は俺の選んだ道を行くだけだ!」


 こちらが構え直すと、彼もまた構えを取り直す。太刀を八相の位置までゆっくりと持ち上げると、地鳴りのような叫びを上げた。


「だったら、ここでひと思いに殺してやるよ! 自分てめぇの選択を悔やみながら、輪切りになれやぁぁぁぁ!!」


 刹那、猛獣が牙を剝いた。目にも止まらぬ速さで突進してきたのだ。これは早い! 俺は即座に反応するも、斬撃に対して防御を行うのがやっと。


「うおおっ! こりゃはえぇわ!」


 再び刃と刃のぶつかり合いが始まる。しかし今度は鍔迫り合いにはならず、互いに一太刀ずつ浴びせ合った後すぐに距離を取った。


「小僧! 今、ここで土下座をして詫びれば許してやるぞ!」


「ほう? 随分と余裕綽々だな! こちとら、あんたを土に還すまで終わるつもりはねぇぞ!」


「ふんっ! 口だけは達者なようだな! だが、いつまでその威勢が続くか見ものだぜ!」


 そう言い捨てて高虎がまたも突進してくる。今度はさっきよりも更に速さが増している。慌てて対処行動を取るも、バランスが崩れる。


「ちっ」


 俺は横に跳び、ギリギリのところで斬撃を躱す。しかし猛獣は止まらない。再び斬りかかってくると、今度は俺の首を目掛けて横薙ぎを放ってきた。


「うおおっ!……くっ!」


 間一髪で短刀で防ぐも、その衝撃で大きく後ろに吹き飛ばされた。恐るべき斥力だ。高虎が追撃してくる前に受け身を取り、素早く立ち上がる俺だったが――その瞬間にはもう目の前に猛獣の姿があったのだ。速い!


「死ねぇぇぇぇぇッ!!」


 どうやら剣術ではあちらに分があるようだ。このまま斬り合いを続ければ不利になるのは見えている。一か八か、俺は大きな賭けに出た。


 ――シュッ。


 咄嗟に短刀を放り投げる俺。直後、捨て身の行動に走った。


「何だと!?」


 斬りかかってくる高虎の喉めがけて、右の貫手を真っ直ぐに突き出したのだ。直後、肉が抉れる感触が指先を伝った。


「ぐあああっ!」


 あまりにも奇想天外な俺の反撃に対処が間に合わず、高虎は苦悶の声を上げた。同時に、奴の首から鮮血の飛沫が噴き上がる。


 やったか?


「こ、このガキがぁ……!」


 いや、まだだ。寸前で首をよじったのか、高虎は致命傷には至っていない様子。少なからぬ出血でスーツを赤く汚しながらも、その眼光は未だ爛々と光り続けている。


「ったく。しぶてぇ野郎だ」


 だが、今の一撃で感覚は掴んだ。やはり俺は武器を使って戦うよりも徒手空拳の方が強い。鞍馬菊水流の真髄は、あらゆる得物を持たずして素手のみで敵を制することにあるのだ。


 一方、高虎は何故かほくそ笑んでいた。


「久々に痛かったぜ。小僧。こいつはうちの古田と似たようなもんか」


「さあな。何にせよ、あんたの数百倍は強いってことだ」


「そうかい……勿体ねぇなあ……てめぇをここで殺しちまうのが……」


「何を言ってやがる。無様に殺されるのはそっちだ。馬鹿野郎」


「ケケッ……生憎、その必要は無ぇようだぜ」


「ん?」


 次の瞬間、襖が勢いよく開かれて沢山の男が部屋になだれ込んできた。皆、銃や刀を手に武装し、殺気に満ちあふれていいる。


「総長、ご無事ですか!」


「おう。この通りだ。遅かったじゃねぇか」


 なるほど。どうやら時間を稼がれたらしい。連中は眞行路一家の組員である。おそらくは先刻の銃声を聞いて駆け付けてきたのだろう。


 まあ、良いさ。1人殺すのも、100人殺すのも、本気を出した俺にとっては容易いことなのだから――。


「貴様、よくも総長を……!」


 いきり立つ組員たちの中には先ほど拳を交えた古田と、先月に浅草への道中で出会った三淵が居た。見るからに興奮している前者に対し、片や三淵がやけに落ち着いて見えるのは気のせいだろうか……? 尤も、そんな些末事は関係無いのだが。


「小僧。てめぇをここで血祭りに上げて、その首を赤坂に送り届けてやる。そうすりゃ中川恒元への良い宣戦布告になるからよぉ。野郎に俺たちと事を構えるだけの胆力があるかは分からねぇけどな。ククッ」


 高虎は咽頭部の裂傷を手で押さえながら、勝ち誇った笑みを浮かべて太刀を俺に突きつけてきた。それに応じる俺の言葉は、至ってシンプルなもの。


「やれるもんならやってみろ。雑魚どもが」


 俺がそう吐き捨てる否や、激昂した組員たちは一斉に襲い掛かってきた。その姿はまさしく猪突猛進、一切の防御を捨てて向こう見ずに突っ込んでくる――しかし。


「お待ち!!」


 その瞬間に響いた甲高い声によって、奴らの総突撃は中断される。何があったのだ? 困惑気味に状況を観察していると、組員たちの群れを掻き分けるようにして1人の女性が姿を見せた。


 現れたのは和服姿の女性だった。


 その女性は畳を踏みつけるように、ずかずかと部屋に入ってきた。よわいは30代後半といったところか。艶やかな黒髪は後ろで束ねられている。顔立ちは整っていて容姿はまさに“和風美人”のそれだが、目つきの厳つさたるや並のものではない。


 見るからに極道の妻、云うなれば姐さんといった雰囲気の女だ。ふと高虎たちの方に視線を移すと、彼ら父子は呆気に取られていた。


「と、淑恵としえ……!」


「母さん! どうしてここに……?」


 母さんだと? 輝虎がそう呼んだということは、彼の母親? それすなわち、眞行路高虎の女房ということになるのだが……?


 釣られてきょとんとしている俺の前に歩み出ると、その女性はまっすぐにこちらを見据えて問うてきた。


「あんたが赤坂の本家からの使者かい?」


 眼光が“鋭い”を超えて、もはや“凄まじい”の域に達している。これほどの迫力を醸し出せる女はそう居るものではない。日本は勿論、傭兵稼業で渡り歩いたアフリカや東欧でも見たことが無かった。


「……っ!?」


 荒ぶる猛獣、眞行路高虎を前にしても揺らがなかった俺が一体どうしたものか。あまりの迫力に思わず気圧されそうになるが、ここで引き下がるわけにはいかないのだ。鳥肌が立つ感覚を堪え、俺は彼女に応じた。


「……あ、ああ。執事局次長の麻木だ。あんたは?」


「あたしは眞行路高虎の妻、淑恵。この組じゃ実質的なナンバー2さ。よろしくね」


 眞行路しんぎょうじ淑恵としえと名乗るその女性は、怖そうな見た目とは裏腹に実にフランクな口調でそう自らの素性を明かした。そうか。やはり高虎のかみさんだったか。それにしては見た目が異様に若いので、一瞬戸惑ってしまったのだが。


「ああ。よ、よろしく頼む」


 動揺を声で悟られぬよう全力で取り繕いながら、俺は差し出された彼女の右手に握手で応じる。妙齢の女性らしい、柔らかな掌だった。


「あんた、なかなかやるようだね」


「え?」


 俺が呆けた声を返すと、彼女は微笑んで続けた。


「さっきの立ち回りを見てたよ。うちの人相手に一歩も引かずに戦うなんて大したもんだ。中川の三代目も、良い若武者を拾ったねぇ」


 褒められているはずなのに何故か釈然としない気分だ……というか、自分の夫に血を流させた張本人に対して随分と気さくな人だな。


「それに引き換え……」


 くるりと振り向いて、淑恵は背後で呆然としていた夫と息子をじろりと睨みつけた。


「……あんたらときたら、一体何をやってるんだい! 組織を抜けるだ何だと威勢よく啖呵を切っておいて、敵の若衆一人返り討ちにできないとは何たるザマだ!」


 次の瞬間、彼女の平手打ちが高虎の頬をぱちんと叩いた。怪我をしている夫相手に何とも容赦のない一撃だった。


「すまん、淑恵。面目ねぇ……」


「銀座の猛獣が聞いて呆れるよ、まったく!!」


 鬼嫁の叱責は隣の倅にも及んだ。


「あんたもだよ、輝虎! 仮にも眞行路一家のカシラが、こんな若造にビビッてんじゃないよ!」


「い、いや。母さん。俺は……」


「ボサッと突っ立ってないでお父さんを助けて戦えと言ってんだ! 指を咥えて見てる息子がどこにいるってんだい!」


 何とか弁明を試みるも、淑恵の剣幕に圧倒されて萎縮する輝虎。彼もまた強烈な平手打ちを食らい、すっかり小さくなってしまった。


「ったく! こんな体たらくじゃ天下を獲るなんざ夢のまた夢だよ! 二人とも、もっとしっかりおし!」


「……」


 ぴしゃりと叱られ、高虎と輝虎の両名は人が変わったように項垂れた。それはまるで折檻を受けた直後の子供のよう。組員たちの面前で総長と若頭たる夫と息子をここまで痛罵するとは、この女は違った意味でも只者に非ず。極道の妻といえば、映画に出てくるようにひたすら旦那の顔を立てるイメージがあったのだが、どうも偏見だったようだ。


 そんな淑恵は情けなく沈黙した男らを尻目にして、俺に向き直った。


「ま、それはそれとしてだ。あんたが来た理由は分かってるよ。そもそもは眞行路一家うちが中川の代紋を外すのを止めに来たんだろう?」


 さて。ここでは何て言えば良いのやら。適切な言い回しが見つからず返答に迷ったが、俺は率直に現状を伝えることにした。


「……ああ。最初はそのつもりで来たが、おたくの旦那が想像以上にろくでなしだったからよ。殺すしかなくなっちまった」


「はっはっは! だろうね。まあ、無理もないか」


 俺の言葉を冗談と捉えたのか、淑恵は豪快に笑って見せた……が、すぐに真顔に戻って彼女は言葉を続けてくる。


「でもね。うちの人は不器用なだけなんだよ。ましてや三代目へのよこしまな考えなんて、これっぽっちもありゃしない」


「ああ? 大っぴらに裏切りを表明しといて何を抜かしてやがる?」


 怪訝に聞き返すと、淑恵はにっこりと笑った。先ほどからこの女が見せる仕草がいちいちおどろおどろしい。さながら極道の妻というより魔女である。全身から強かさが滲み出ている。こんな女性は初めてだ――そう、改めて思わされた。


「うちの人は裏切りなんか企んじゃいないよ」


「だったら、あの書状は何だってんだ? 『中川会から離反する』って大々的に書いてあったろうが!」


「あれは、うちの人が書いたものじゃない」


「は?」


 どんな返事が飛んでくるかと思ったら、言うに事を欠いてそれか。俺は呆れ返った。腹の底から失笑がこみ上げてくる。


「おいおい。冗談言っちゃいけねぇよ」


「冗談は言ってない。あれは眞行路高虎の書いたものじゃない」


「奥さんよ。そんな子供じみた嘘を誰が信じるってんだ?」


「信じてもらうしかないわね」


 呆れを通り越して苛立ちがこみ上げてきて、俺は舌打ちをこぼした。何をふざけたことを抜かしているのかと憤ったが、同時に淑恵の態度に違和感を覚えてもいた。


 彼女は本気で言っているのか? それとも俺を煙に巻こうとしているのか? いや……違う。この感じは演技じゃない。ならば、一体……?


 俺が理解に苦しんでいると、先ほどから空気と化していた高虎がここに来て再び口を開いた。


「おっ、おい。淑恵。何を勝手に……」


「あんたは黙ってな! あんたの代わりにケツを拭いてやろうってんのさ!」


 尻を拭くとは何たる意味か。理解に困ったが、頭の中で自問自答を続けても埒が明かない。俺は違う角度から切り込んでみることに決めた。


「奥さん。あんたの考えてることが何となく分かったぜ。今回、旦那がしでかしたことのケツを拭いて、何事も無かったかのように全てを穏便に済ませる。そうだろう?」


「まあね。それができるなら、何よりだ」


「だから、この期に及んで『うちの書状じゃない』なんて言い出すんだな。かなり無理のある主張だってのに。アホな旦那を持った女は大変だな。同情するぜ。まったく」


「黙らっしゃい! あたしの前で亭主をアホ呼ばわりするなんざ承知しないよ!」


 淑恵は眉を吊り上げたが、俺は気にせず続ける。


「確かにな。あの訣別表明には紛れも無く『眞行路高虎』と書いてあった。ご丁寧に日付も添えてな。だが、事実として、あの手紙が眞行路高虎が書いたものと示す証拠はぇ。眞行路と中川会の決裂を望む第三者が眞行路を装って書いた……って可能性も僅かながらに存在する」


 自分でも何を言っているのやら、あまりにも頓珍漢な言説に可笑しさがこみ上げてきそうだった。まあ、もう少しだけ詭弁に付き合ってやるとしよう。


「奥さん。あんたはこうしたいんだろう? 赤坂に届いた離反表明は眞行路が書いたものじゃない、すなわち眞行路高虎に裏切る気なんてさらさら無いってことにして、全てを丸く収める。何事も無かったように。違うか?」


「……あんたの言う通りだよ」


「やっぱりな」


 俺は失笑を堪えきれなかった。我ながら実に胡散臭い笑みだとは思うが、この際どうでも良かろう。


「あの書状は未だ世間に広まっちゃいない。そして中川会は眞行路一家に何の処分も下していない。まだ渡世じゃ離脱扱いじゃねぇってことだ」


「そうよね。大体にして眞行路一家うちが送り付けたって証拠なんざ最初からりゃしないんだから」


「送ってきたのはおたくらの三下だったんだが……まあ、それはともかくとして、あんたらが組織に戻れる道理は有るっちゃ有るわけだ」


「だったら話は早い。眞行路を組織に戻しておくれよ。それで万事解決だ」


「戻すのは良い。だが、全て元通りってわけにはいかねぇな」


 俺は首を横に振った。淑恵は怪訝な表情を浮かべる。


「どういう意味だい?」


「あんたの旦那は危険すぎる。このままおいそれと組織に戻して、第二、第三の事件ことを起こされたら困るんだよ」


「……うちの人を引退させるってのかい?」


「引退だけじゃ足りねぇ。腹を切ってもらう」


「なっ!?」


 何の躊躇も無く言い捨てた俺の言葉で、その場に大きな動揺が走った。困惑する者、呆然とする者、何を言ってんだといきり立つ者とで若衆の反応は三様に分かれた。


「……」


 輝虎は呆気に獲られていた。そんな頼りなさそうな倅とは対照的に、暫く驚愕に包まれていた淑恵は、やがて目を見開いて早口でまくし立てる。


「あんた、いきなり何を言い出すかと思えば!」


「何だ? 受け入れられねぇか?」


「当たり前だ! そんなこと認められるわけ無いじゃないか!」


「だが、組織を抜けようとしたケジメとしてはその辺りが相応だろ」


「ケジメって……あんた、さっき自分で言っただろう! 眞行路一家うちを組織に戻す道理はあるって!!」


 俺の胸倉に掴みかかる勢いで詰め寄ってきた淑恵だが、俺は淡々と切り返す。


「それとこれとは別の話だ。眞行路高虎は大罪を犯した。そいつを償って貰わねぇと、こっちとしちゃあ収まりがつかねぇんだよ」


 離反表明を書いたのは眞行路高虎にあらずという淑恵の言い分を俺はれなかった。俺が目指す落としどころは、たったひとつ。


 この機会に乗じて銀座の猛獣を殺処分してしまおう――。


 主たる理由としては先ほど淑恵に語った通り。高虎を生かしたまま眞行路一家を組織に復帰させたのでは、必ずや後々で問題が起こる。憂いの種は早々に摘み取ってしまった方が良いに決まっていよう。


「許さない……そんなの、許せるわけが無いじゃないか!!」


 淑恵は一瞬だけ悲しげな表情を見せた後、すぐにキッと睨み付けてきた。彼女が怒号を上げると、若衆たちも一斉に喚き始める。


あねさんの仰る通りだ!」


「そうだ! 無茶苦茶じゃねぇか!」


「うちの親父にゃ指一本触れさせねぇぞゴラァ!!」


 口々に騒ぎ立てる若衆たち。しかし、直後に発せられた野太い一喝が、彼らのざわめきを瞬く間に鎮静化させてしまう。


「静まれい!!!」


 声の主は今まで妻の言葉を黙って聞いていた高虎だった。何を考えたか。奴は妻と子分たちを宥めた後、ゆっくりと立ち上がり、こちらに獣の眼光を飛ばしてきた。


「……てめぇの言いたいことはよく分かったぞ。小僧。要するに、俺を殺してぇんだな」


 頸部の裂傷をさすりながら凄む高虎。手負いの状態とはいえ、こらまたなかなかの迫力である。


「ああ、そうだ」


 俺は即答する。それに対して高虎が見せた反応は、再び太刀を手に取ることだった。


「だったら、さっきの続きをやろうや。俺もおとこだ。大人しく首を獲られるわけにゃあいかねぇんだよ!」


「待ちな! あんた、何を……」


「おめぇは黙って見てろ!」


 制止しようとした妻を怒鳴り付けて黙らせると、高虎は太刀を構えて闘気を放ってきた。その形相たるや鬼気迫るものがある。並の者ならば思わず後ずさりしてしまうだろう。しかし――俺は違った。


「流石は銀座の猛獣だ。良いねぇ」


 奴の醸し出すプレッシャーを前に怯むどころか笑いがこみ上げてくる。悔しいが、やっぱり俺は戦闘狂だ。こういう場面では気持ち良くてたまらなくなる。


「小僧、遺言はあるか? 後で中川のホモ野郎に届けてやるよ」


「ふんっ。その言葉、そっくりそのままお返しするぜ。そっちこそ可愛い子分や女房に最後の言葉を残しといた方が良いんじゃねぇかなあ」


「このガキが! 舐めくさりやがって!!」


 高虎は太刀を上段に構えると、そのままの勢いで斬りかかってくる……かと思いきや。奴に異変が起きた。


「ううっ……」


 刀を落とし、がっくりとうずくまったのである。


「あんた!」


「父さん!」


 淑恵と輝虎、それから若衆たちが慌てて駆け寄る。どうやら先刻の戦闘で負った首の傷から血を流し過ぎた模様。出血多量による意識朦朧だ。


 まさか効いていたとは――俺自身、さっきの貫手突きでは仕留めきれなかったと踏んでいた。しかしながら、目の前の高虎の様子を見るに頸動脈に傷をつけるくらいの結果は残していたようである。これは勝負あったな。


「こ……この程度で……」


「あんた! もう駄目だよ! これ以上は!」


「だ、大丈夫だぜ、淑恵……俺は眞行路高虎だ……こんな傷くらい、何のことは……」


 精一杯に強がって見せる高虎であるが、その顔色は真っ青を通り越して真っ白になっている。


「おい、誰か! 医者を呼べ!」


 主君の容態がかんばしくないことを察した若衆たちが慌てて駆け出す。それを見届けた後、俺は淑恵に向き直り、言った。


「奥さんよ。そこを退いてくれや」


「何をする気だい!?」


「決まってんだろ。とどめを刺すんだよ」


「なっ!?」


「ろくなことにならねぇんだよ。中途半端に生かしといたら。今、この機会に殺すしかない」


「そんなこと、あたしが許さないよ!」


 淑恵はすかさず立ち上がり、もはや戦えなくなった夫を守るように両手を広げ、息の根を止めようと近づく俺の行く手を阻んだ。


「そこを退け」


「退くものか! そんなに高虎の首が欲しいなら、あたしを殺してからにしな!」


「……そうかい。なら、遠慮なく」


 相手が誰であろうと、この場において情け容赦など要らない。俺は右の手刀を構える。すると周囲の若衆たちが一斉に騒ぎ出す。


「おいっ! 姐さんから離れろ!!」


 激昂する古田をはじめ、こちらに拳銃を構えている者ばかり。なるほど。この“姐さん”は皆から慕われているようだ。しかし、俺には関係の無いこと。ひと思いにやらせてもらう。


「じゃあな」


 淑恵の首を刎ねるべく、俺は右手を振り上げる。


 ――シュッ。


 だが、その一撃が彼女の肉を削ぐには至らなかった。相手の身体に届く、ほんの寸前。俺の腕は掴んで止められたのである。


「麻木。そこまでにしておけ」


 才原だった。何故に局長がここに居るのか。そして彼は一体何処から現れたのかという直球の疑問は横に置き捨て、俺は猛然と抗議する。


「局長!? どうして止めるんだ!?」


「お前はやり過ぎた。暫く大人しくしておけ」


「やり過ぎなものか! ここで殺しておかなきゃ、後々になって絶対に……」


「会長のご命令だ」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の全神経が止まる。何故だ? 何が起こったというのだ?


「……っ!」


 身体を動かそうにも力が入らず、声を上げようにも声帯が動かない。ただ、呼吸を荒くするので精一杯。まるで自分の体が何者かに乗っ取られたかのような心地である。


 静止してしまった俺を尻目に、才原局長は淑恵と向き合う。


「初めてお目にかかります。私、執事局局長の才原嘉門と申す者にて。此度は眞行路一家の皆様と話を付けるべく参上いたした次第」


 瞬間移動のごとく突如として現れた才原。呆気に取られていた淑恵であるが、やがて軽く咳払いをすると毅然とした声色で応じた。


「……ああ、あたしは眞行路淑恵。高虎の女房さ。局長ってことは、あんたがこの若造の兄貴分なのかい?」


「その通りにて。先ほどはこの者があなた様方を相手にとんだご無礼を。心よりお詫び申し上げます」


「はっ。無礼って範疇を超えてるでしょ。うちの人をこんなにしてさあ」


 眉を吊り上げて「どう落とし前を付けてくれるんだ」とにじり寄る淑恵。しかし、一方の才原はまったく動じずに答えを放った。


「落とし前であれば、そちらが付けるべきでは」


「ああ?」


「そもそもは貴女の旦那様から届いた訣別表明を契機に始まったこと。責めを負うべきなのはどちらか、誰の目から見ても分かることでございましょう」


「だ、だから眞行路一家うちはそんなもの、書いてないって」


「この期に及んで、そのような言い訳は通用しませんぞ」


 ぴしゃりと言い放った才原。良かった。この男もスタンス的には俺と同じであるようだ……と思った矢先、局長の口から飛び出した台詞に、俺は我が耳を疑うことになった。


「……ですが、この無益な争いをいたずらに長引かせるのは寛容にあらず。いかがでございましょう? ここはお互いの遺恨を捨て、元の鞘に収まってみるというのは」


 は? 何を言ってやがる? 冗談じゃない! 何のケジメも無いまま眞行路を中川会に復帰させてしまうなんて! 甘すぎるではないか!


 声帯の自由が効いたなら、腹の底から「ちょっと待った!」と叫びたい気分であった。そんなことをすれば、また中川会は銀座の猛獣に踊らされることになる。才原にはそれが分かっているのか!?


 もどかしさと不服さに打ち震える俺を尻目に、会話はなおも続く。淑恵は才原の提案を数秒ほどの思案の後、肯定的な反応をもって迎え入れていた。


「まあ、こっちとしては願ったり叶ったりよ。何事も無かったかのように、うちの人を組織に戻してくれるというならさ」


「ええ。高虎親分にはこれからも中川会の発展に寄与して頂きたく存じます」


「ちなみに聞いとくけど、それは三代目のお考えなのかい? もしそうなら、この若造ガキは親の意を無視してうちの人を殺そうとしたってことになるけど……」


 極道の妻の眼光が鋭くなる。


「……」


 そんな淑恵を宥めるように、才原はきっぱりと答えた。


「いえ。私の考えたことにございます」


「はあ? あんたの考え?」


「いかにも。私と麻木は会長の使いとして、今回のあなた方との交渉における全てを一任されておりますゆえ。先ほどはこの麻木めが高虎様のご処分を申しましたが、それはこの私が上司として撤回させて頂きます。何卒、ご安心を」


「ふうん。じゃあ、全てを元通りにしてくれるんだね?」


「左様にございます」


 総本部に届けられた訣別表明は組織として受理せず、眞行路一家はこれまで通り中川会の直参として奉公を続けること――会長から全権を委任されたという才原は、そうあっさりと決めてしまった。無論、これには淑恵もすぐさま同意。後ほど自分が恒元に謝罪へ赴くことを唯一の条件に全てを受け容れた。


「うちの人もここまでのケガをしたんだ。暫くは動けないだろうよ。嫌でも大人しくなるだろうね」


「いえいえ。旦那様には、是非これからも中川会の一員としてご活躍頂きたい。早うに快癒されることを願っております」


「世辞は止めとくれ。まあ、本当はあたしがもっとしっかりしなきゃいけないんだろうけどさ。猛獣の手綱を握っておかなきゃ」


 俺は心の中で地団駄を踏みながら、雑談のごとく語らう二人の声を黙って聞いていた。そんな俺の横を担架に乗せられた高虎が静かに通り過ぎてゆく。何と、惜しいことをしたか……兎に角、俺は不服で仕方がなかった。


「それでは。我らはこれにて失礼いたします。後の子細は、この才原に全てお任せください」


 硬直したままだった俺の肩をポンと叩き、局長は退出を促す。


「行くぞ」


 そのまま屋敷を出ることにした。廊下を歩く時には「うちの親分をよくもやってくれたな」と睨みつける若衆どもの視線がきつかった。特に古田。物凄い形相だ。流石の才原も気まずくなったのか、途中から歩行の速度を上げていた。


 門を抜けて裏路地まで来た途端、俺は即座に抗弁を垂れる。


「局長! どういうつもりだ! さっきはどうして!」


 才原は至って平然と問いを返してくる。


「どういうつもりだったかを訊きたいのはこっちだ。麻木。何故、お前はあの場で眞行路高虎を殺そうとしたのだ」


「あのまま生かしておけば、後で必ず仇になる! 奴はあの場で殺しておくべきだったんだ! なのに、あんたは……」


「理由はひとつ。あの場で高虎を殺していれば、お前は確実に蜂の巣にされていた。それだけは避けたかったのだ」


 なんと、俺の身の安全のためだけに割って入ったという。確かにあの場では若衆たちが銃を構えていたが……そんなことは覚悟の上。命と引き換えにでも、俺は今後の憂いの種を断ち切るつもりだった。


 何て反応すれば良いのやら。組織の厄介者を消す繊細一隅の機会が俺のために失われた――その事実に、猛烈な怒りと悔しさが襲ってくる。才原に声を荒げずにはいられなかった。


「はあ!? そんな理由で!?」


「そんな理由とは何だ。お前は自分の立場が分かっているのか?」


 声色ひとつ変えずに抗議を一蹴する才原。苛立ちが収まらない俺に、局長はなおも続ける。


「あの場でお前が殺されでもしたら、会長はひどく悲しむ。それだけお前があのお方のご寵愛を受けているということだ」


「会長のために俺を生かしたってのか!? 真に会長のためを思うなら、あの場で眞行路の首を獲っておくのが正解だったと思うぜ!」


「だとしても、俺の行動は適切だった。何せ『涼平を必ず生きて連れて帰って来い』というのが会長から俺に与えられた命令だったのだからな」


「くっ……!」


 くだらないと言ってしまえば語弊が生じるけれど――それでも、物事には優先すべき順序というものがあるはず。さらに反論しようとする俺だが、続く言葉で遮られた。


「お前は会長のお気に入りなんだ。どうせ『覚悟の上だった』などと言うのだろうが、少しは自重しろ。会長のご寵愛を無下にするんじゃない。可愛がっている側近が命を落としでもしたら、会長がどんな思いをされるか。胸に手を当てて考えてみろ」


 懇々と諭され、俺は渋々ながらに頷くしかなかった。


「それからな。お前はもう少し落ち着け」


「……物事の解決を焦るなってことか?」


「その通りだ。誰か一人を始末して解決するほど渡世は単純じゃないんだ。『殺せば良い』という浅はかな考えは止めろ」


「またそれかよ」


 出そうになるため息を堪えるのが大変だった。“お気に入り”とは、果たしてどっちの意味なのやら……まあ、忠臣と男色の相手と2つの意味を併せ持っているのだろうけど。組織運営の健全化と、たかが性のオモチャの命とを天秤に掛けたのだとしたら、中川恒元という人物の気が知れない。そもそもどうして俺を危険地帯へ派遣したのかと問いたくなる。


 失笑を吹き出してしまった俺だが、局長は真剣そのものといった面持ちで続けた。


「麻木。会長はお前を我が子同然に思っておられる。ご自身の手で立派な極道に育てたいのだ。執事局で経験を積ませているのも、ゆくゆくは直参の組長として一本立ちさせるため。全てはお前の教育のためなのだ」


「はいはい。あんたの言いたいことは分かったよ。その教育とやらで俺が命を散らすことになっては元も子もない、ってか?」


「そうだ」


「はあ……もういいよ、分かった」


 これ以上の議論は無意味だと判断して俺は話を打ち切った。局長もそれ以上は何も言わなかったが、最後にこう付け加えた。


「麻木。お前は会長にとって大切な存在なのだということを心に留めておくように」


「はいはい」


「自分の命を粗末にするな。お前はもう、代わりの効くチンピラでもなければ、使い捨てが前提の傭兵でもないのだから」


 そんなこたぁ分かってるよ!


 ……と叫びたい衝動を堪えつつ、俺は内心でそう吐き捨てていた。まったく。重苦しいったらありゃしない――そんなこちらの気持ちは露知らず、強かな忍者は更なる話を振ってきた。


「俺は先程、あの屋敷の屋根裏に潜んでお前と高虎の戦いを全て見ていた。仮にも鞍馬菊水流の伝承者が一介のヤクザ相手に後れを取るようではいかんぞ。首を獲るつもりなら数秒以内に雌雄を決せねば」


「ちょっと手を抜いただけだよ。っていうか、屋根裏で見てたならさっさと止めれば良かったのに。俺が眞行路を殺すのはまずかったんだろ?」


「忍びの者として、少しばかり見入ってしまったのでな……とにかく。お前はもっと鍛えろ。今のままではいずれ足元を掬われるぞ」


 暗殺者のみならず戦闘者としても経験豊富な才原のありがたいお言葉は以降も延々と続いた。もっと得物を使って戦うことを覚えろだの、早撃ちを磨けだの……赤坂の総本部に到着するまでの帰路が長く感じられたのは言うまでもない。


 それから一連の結果を会長に報告し終える頃には、外はすっかり陽が落ちていた。まだ夕方だというのに夜も同然の暗さである。


 執務室の窓から見える中庭の池に映る月光を見つめながら、恒元は静かに煙管を吸い込んだ。


「……そうか。戻ったか」


 ここで彼の云う“戻ったか”というのは眞行路が組織に復した件ではなく、俺が無事に赤坂に帰って来たことを指しているのだろう――そう勘付いた瞬間、俺は唇を奪われていた。


「んぐっ!」


 貪り食らうような接吻が襲う。口の中を舌でなぶられ、途方もないおぞましさに見悶える。主君のするこの行為にはやっぱり慣れない。


「……よく戻ってきてくれたな。強い子だ。もしもお前が眞行路に討たれたらと考えたら、気が気でなかった」


「いや、俺はそんな軟弱ヤワじゃありませんって」


「お前が命を落とすようなことになれば、我輩は自分を保てなくなってしまうだろう。さあ、吸いなさい」


 恒元から手渡された煙管を吸い込むと、脳全体が甘く蕩けそうな感覚に襲われた。


「ううっ」


 軽く麻薬の成分が含まれていたと思う。感触から察するに、これはマリファナか。俺に薬物を嗜む趣味は無いが、きっとこの後に待ち受けているであろう試練を乗り越えるためには仄かにトリップするくらいが丁度良いと思う。


「くっ……」


「効いてきたようだな。さあ、こっちへ来たまえ」


 やや強めに手を引かれ、机の裏へ連れていかれる。次の瞬間には恒元は既にズボンを下ろしていて、眼前に巨大な肉棒が聳え立っていた。


「さあ、慰めてくれ」


 要は、しゃぶれってことか。勿論のこと不本意である。一体どこの世界に63歳のジジイと好き好んで性行為に及ぶ青年がいるというのか。


 されども会長の命令である。俺は黙って従う他なかった。亀頭を口に含み、ゆっくりと舌を動かしてゆく。


 するとすぐに先走り汁が溢れ出した。


 相変わらず凄い量である。


 苦みのある液体を嚥下しつつ、夢中で奉仕を続けるうちに恒元の息遣いも荒くなり始めた。そろそろ限界が近いのだろう――そう思った矢先、口の中に大量の白濁液を流し込まれた。むせそうになるが、必死に堪えて飲み下す。


「げほっ」


 ようやく解放された頃にはすっかり息が上がっていた。一方の恒元は余裕綽々といった様子で佇んでいる。


「今日は一段と付き合いが良いな、涼平。お前も寂しかったのだね。可愛い奴め」


 誰がそんなことを思うものか。こんなこと、東欧マケドニアの戦場で敢行させられた銃剣突撃の方が数百倍マシだというのに。


 とはいえ、そうした本音は口にしない。


「……」


「さあ。お前も脱げ。無事に役目を成し遂げた褒美を与えなくてはな」


 何が褒美だ。むしろ罰ではないか。


 絶望感に駆られながら、俺はズボンを脱いだ。そして恒元に背を向けて机に手をつくと、尻を突き出すような体勢を取る。するとすぐさま恒元の指先が肛門に触れてきた。


 そのまま中へ侵入してくる異物感に思わず顔をしかめるが、それでも懸命に耐える。やがて2本、3本と指の数が増えていくと異物感に加えて痛みも生じてくる。不意に漏れ出そうになる声を堪えていると、次の瞬間には熱い肉塊が押し当てられていた。


「行くぞ」


 短く告げると同時に、恒元が一気に突き入れてきた。凄まじい圧迫感に息が詰まる。内臓を押し上げられるような感覚に吐き気を覚えながら耐えていると、少しずつ抽挿が始まった。


 最初は緩やかだった動きが徐々に激しさを増していき、最終的には激しく腰を打ち付けられる形となった。あまりの衝撃と苦痛に耐えかねて悲鳴を上げそうになるが、歯を食い縛って必死に耐える。


「涼平……お前は本当に可愛いな……」


 そんな俺の様子を見て、恒元は満足げに呟いた。


「食べてしまいたいくらいだ……堪らんな」


 それから程なくして限界を迎えたらしい恒元が己を射出した。腸内に熱いものが注ぎ込まれる感覚を覚えつつ、俺はようやく解放されたことに安堵していた。


 しかしそれも束の間のこと。今度は身体を反転させられ、机に上体を押し付けられた状態で再び抽挿が始まったのだ。先程よりも深くまで突き刺さり、再び内臓を圧迫されるような感覚に襲われる。


「ううっ……」


「涼平、お前は本当に可愛いな……」


 再び同じ台詞を口にすると、恒元は俺を抱き寄せてきた。そして接吻をしてくる。


「んぐっ」


 今度は先程よりも深く侵入してきた舌によって口内を蹂躙される。息苦しさに悶えているうちにようやく解放されて――その次は首筋をペロペロと舐められた。


「……っ!」


 声にならない悲鳴を上げると、恒元は満足そうな笑みを浮かべていた。


「可愛い……涼平。もっとお前を味わいたい」


 それからおよそ2時間、俺は恒元に犯され続けた。恒元は何度も何度も絶頂し、その度に精を注ぎ込まれたが、それでも俺はオーガズムに達しなかった。第一、男相手に欲情したりはしないというのに。


「……はあ、はあ」


 少し疲れた恒元から解放されると、俺はぐったりと倒れ込んだ。もう指一本動かす気力すら残っていない。そのまま眠ってしまいたかったのだが――そうは問屋が卸さなかった。


「可愛い子には密を与えなくてはな」


 何を思ったか。恒元は既に精液で濡れている俺の尻を舐め始めた。これだけ楽しんだのにまだやるかと眉を顰めるや否や、彼の次なる行動に度肝を抜かれた。


「ううっ!」


 なんと、恒元は俺の肛門に異物を挿れていた。彼の男根よりもすこしばかり細い茶色の円筒状の物体。それは葉巻だった。


「なっ、何を!?」


「よく味わって吸いなさい。男は下の口が1つしかないのが残念だ」


 饒舌に宣ったかと思えば、恒元は肛門に挿入された葉巻に火を付ける。香ばしい煙の匂いが瞬く間に立ち込め、一瞬だけ苦痛を忘れさせてくれる。だが、何のつもりなのか……俺には意味が分からなかった。


「これは少し前に眞行路が寄越してきたものだ」


「えっ?」


「奴曰く1本30万円はするキューバ産の高級品らしい。生憎、我輩はさほど葉巻を好かんのだがな」


 いきなり何の話をし出すのやら。葉巻を挿入されたまま放置され、俺は悶絶していた。肛門がヒリヒリするし、何より異物感が半端ない。早く抜いて欲しいのだが、恒元は一向に取り合ってくれなかった。


「問題は、あの猛獣がこれを上納金の代わりにしていることだ。1本につき30万円だから100本セットで3000万円なのだと」


「ええっ……?」


「つくづくふざけた話だ。尤も、奴の戯れはそれに限った話ではないのだがね」


 ため息をつきながら恒元は葉巻を引き抜く。長いこと圧迫されていた所為か、直腸にひんやりと空気が入り込む感触が不愉快だった。


 その一方で恒元はと言えば、つい数秒前まで俺の尻に刺さっていた葉巻を美味しそうに加えている始末だ。


「ああ。涼平の味がする」


 こんなろくでもないホモ野郎が俺の主君とはな――まったく、恥ずかしいやら情けないやら。心の中がグチャグチャになりそうだった。


 事後の気怠さに襲われてぐったりとしている俺に、恒元は平然と話を続けてきた。


「本音をいえば、眞行路高虎はこのまま追放してしまいたい。我輩としてもこれ以上安く見られるのは本意ではないのでな」


「で、では、眞行路の帰参は認めないと?」


「ううむ。政治家の後ろ盾もそれほど恐れる必要も無かったというからな。しかし……」


 少し間を置いた後、恒元は言った。


「……奴の人脈が組織にとって有益なのもまた否めん。当分の間、眞行路一家の処遇は保留とする」


 復帰については容認も拒絶もせず、暫くは現在いまの「訣別表明を預かっている状態」を維持すると語る恒元。会長の権威確立のためにはさっさと眞行路を切り捨ててしまった方が良いように思えるが、それも悪くは無かろう。眞行路からは銀座関連の利権を吸い取るだけ吸い取った後で時機を見て破門に処すということで話が落ち着いた。


「承知しました。では、眞行路高虎の処遇は保留と」


「ああ……心のつかえが取れた気分だ。少なくとも、奴の報復に怯える必要は消えたわけだからな。ところで涼平」


 着衣を戻している時にふと名前を呼ばれ、俺は身構える。恒元は吸っていた葉巻を灰皿に置くと、ゆっくりと立ち上がってこちらへ歩み寄ってきた。そして俺の顎先を指で持ち上げると、妖艶な笑みを浮かべてみせる。


「やはりお前は可愛いな」


 またそれかと思いつつも一応相槌を打っておくが――その直後に唇を塞がれた。感想は言うまでもない。拷問のような時間が早々に過ぎ去ることを祈るしかなかった。


「今夜はもう良いぞ、涼平。ご苦労だったな」


「……はあ」


「別宅にアリーシャを待たせているのでな。今度はそっちで楽しむとしよう」


 中川恒元の妻、アリーシャ=ド=フェイユ。名前の通りフランス人で、恒元の住居である赤坂別宅にて暮らす陽気な婆さんだ。生粋のパリジェンヌで、恒元が若い頃に巴里のドゥグレ通りで口説いたとかいう話だったか。


 恒元は男も女も抱ける両刀使いである。ゆえにアリーシャとは互いに齢60を過ぎても仲睦まじい夫婦で、定期的に盛んな夜の営みに励んでいるらしい。出来れば俺よりも、そっちに御執心になってほしいものだ……。


 とにかく、これでようやく解放された。俺はズボンを直して会長に一礼すると、よろよろと重い足取りで執務室を出た。


「ううっ……」


 恒元とのハードなプレイの余韻に襲われ、思わず廊下の壁にもたれかかった。鍛えているので肉体的な疲労はほぼ無い。あるとすれば精神的なものだろう。


 結局のところ、あのホモ会長は俺を性の相手としか見ていない。傍に置いているのはそのためだ。生きて帰ることを強く望んでいるのも俺を抱き続けたいからだ。


「兄貴。大丈夫っスか?」


 偶然通りかかった原田に声をかけられた。俺と会長の関係に気付いているのか、いないのか。やけに神妙な目つきだった。


「……おい。兄貴と呼ぶんじゃねぇ。いい加減に覚えろ」


「え、ええ。すんません。でも、俺にとっては兄貴なんスよ」


「うるせぇよ。執事局は組じゃなくて、あくまでも隊だ。親子兄弟の盃関係は存在しない」


「あ、はい。確かに、言われてみれば」


 本当に分かったのか。いや、たぶんこの馬鹿は理解していない。酒井とは違った意味で、まだまだ手がかかりそうな後輩である。


「いいか? お前は執事局の次長助勤だが、立場的には直参原田総長の実子、ゆくゆくは原田一家の跡目になる身だ。それを忘れるな」


「……はい」


「まあ、良いや。後でまたじっくり説教してやる。お前はこれから夜間警護だったな。抜かるんじゃねぇぞ」


 きょとんとしている原田を横目で見送り、俺はすたすたと歩いてゆく。他に用事は無かったので、そのまま屋敷を出ることにした。時刻は20時23分。いつの間にか夜である。


 やっと一日が終わった――。


 敵地への潜入をこなしたかと思えば、荒ぶる銀座の猛獣と一戦を交え、最後の最後には会長に掘られた。心の湧水が枯れ果てたような気分だ。昼から何も口にしていなかったために、ひどく腹が減っている。


 詰め所へ戻って体を休める前に、何かしら食べておきたい。空腹のままでは眠ろうにも眠れまい。適当な店を探すべく、俺は夜の赤坂を南に歩き出した。


「あっ、そういえば!」


 不意に赤坂三丁目に在る喫茶店『カフェ・ノーブル』が頭に浮かんだ。あの店ならばいっぱしの食事を出してくれる上に、なおかつ美味い。何より看板娘の華鈴に会える……俺に行かない理由は無かった。


「いらっしゃいませー! あっ、麻木さん!」


 店に入った途端、俺の姿を見つけた華鈴が明るい声で出迎えてくれた。相変わらずの元気っぷりである。彼女はテーブル席でコーヒーを飲んでいた客に断りを入れると、すぐにこちらへ駆け寄ってきた。


「もしかして久しぶりじゃない?」


「ああ。ちょっと最近、忙しくてな」


「もう! しばらく来てくれないからどうしたんだろうと思ってたよ!」


 しばらくと言っても2週間のブランクである。少しオーバーだなと思いつつ、緊迫した日常にかまけて足を運んでいなかった自分を愚かしくも感じた。常連になったのは今年からだが、やっぱりこの空間は心が落ち着く。


 俺はカウンタ―席に座ると、早速注文を述べた。


「じゃあ……オムライスを」


「かしこまりました!」


 愛想よく返事すると、華鈴は厨房の方へと駆けていった。その後ろ姿を見ながら俺は思う――やはり可愛い。


 彼女の美しさは何処から現れ出るのか? 歳は俺と殆ど変わらないというのに、既に大人の色香を漂わせている。きっとそれは強さだ。客でごった返す店を一人で切り盛りする肝っ玉が、彼女を美女たらしめているのだろう。


 特にあの顔が良いのだ。キリッとした美人顔に小ぶりな唇……おっといかんいかん! そんな邪念を振り払っていると、カウンター奥のテレビから21時のニュース番組の音声が聞こえてきた。


『……続いてのニュースです。プロ野球再編問題をめぐる新球団設立計画について、日本プロ野球機構は5日、祐天グループホールディングスを新たなオーナーとして承認すると発表しました。同じく新規参入を争っていた株式会社ホライズンを破った形となります』


 裏社会の情勢に気を取られている間に、表の社会も少しずつ動いている。俺は野球にはあまり興味が無いのだが、プロ12球団のラインナップが変わりつつあることくらいは何となく知っていた。店内でコーヒーを飲む客の中には野球ファンも居たらしく、にぎやかに語らう声が聞こえてきた。


「へぇー。それじゃあ、あの祐天が仙台に球団を作ることになるのかい」


「うん。確か『東北祐天ゴッドファルコンズ』とか言ってたっけ」


「こりゃまた大層な名前を付けたもんだ。東北くんだりに野球チームができること自体が驚きだけど」


「へへっ、ちがいないね。田舎に球団なんざ作ったところで、集客はたかが知れてるってのに」


 少々地方を見下したような物言いである。そんな酔客らの冷ややかな反応をよそに、ニュースはなおも続いてゆく。


『祐天のたにCEOは先ほど会見を開き『東北の子供たちに夢と希望を与える球団を作る』と抱負を述べました。また、新球団は親会社である祐天グループホールディングスが直接運営を行うとも発表しており……』


 そこまで聞いて、俺はふとあることを思い出した。新規参入が却下されたというホライズン社は夏頃に大阪の球団の買収を計画していたのではなかったか……? そちらの方はどうなったのだろう? 新聞のスポーツ欄は読まないので、一連の経過がまったく分からない――。


 やはり時事問題は定期的にチェックしておくべきだな。色々と知っていれば、華鈴と繰り広げる雑談のネタも増えるというものだ。


 当の彼女は、程なくして料理を運んできてくれた。


「はいどうぞ! おまたせしました!」


「おお、美味そうだ」


 オムライスにサラダ、コンソメスープにデザートのプリンまで付いている。これで500円なのだから実に安い。俺はさっそくスプーンを手に取り……とはいかなかった。華鈴がじーっとこちらを見つめているのである。


「えっと、見られると食べにくいんだが?」


「えー? なんでよ! いいじゃん別に減るもんじゃないしぃ!!」


「わ、分かったよ」


 どうやら久々に来た客が食べるところを見たいらしい。


 俺に気があるから……ではなかったので少しばかり寂しかったが、諦めてスプーンを手に取る。


 ひとまずオムライスを一口食べた。途端に卵のまろやかな味わいが広がり、後からバターの香りが鼻に抜ける。美味い。シンプルな料理だからこそ素材の良さが際立つというものだ。


「どう? 美味しい?」


「ああ」


 俺が答えると華鈴は満足そうに微笑んだ。


「良かった」


 それから彼女は他の客の接客へと戻っていったのだが、去り際の言葉が脳内で自然と反芻された。


「んじゃあ、ゆっくり食べていってね」


 社交辞令にもならない、接客業では当たり前の台詞。けれども俺は嬉しかった。一人の女性が自分に微笑みを向けてくれる――その事実だけでも大いに心が躍った。


 何故か? きっと、それは最悪な時間を過ごした直後であったからに違いない。敵地で己の未熟さを思い知らされ、挙げ句、男色趣味のジジイに尻を掘られ……。


「……疲れたな」


 思わず声が漏れてしまう。そんな俺の様子を見かねたのか、カウンターに戻って来た華鈴が心配そうな面持ちで話しかけてきた。


「大丈夫? なんか元気ないみたいだけど」


「大丈夫。ちょっと仕事でゴタついただけだ」


「ふーん。麻木さんでも悩むことがあるんだ」


 出会ってから今日に至るまでの5か月間、俺は華鈴の前では決まって明るく振る舞って来た。語学に精通した仕事のできる国際商社マンをひたすらに演じてきた。何を血迷ったか、「有能な奴は悩まない」と大口を叩いたこともある。


 そんな俺から愚痴がこぼれるのが珍しかったのだろう。華鈴は目を丸くしていた。


「麻木さんが悩むほどのことって、どんな……?」


「別に悩んでなんかいねぇよ。ただ、その、今日は色々あって疲れちまっただけだぜ」


「ふふっ。その割には『誰かに聞いてもらいたい』って顔してるけど?」


「いや、そんなことは」


「あははっ! 冗談だよ! 冗談!」


 華鈴はひとしきり笑った後、俺の隣の席に座った。そして頬杖をつくとこちらをジッと見つめてくる。その視線には何か強い意志が秘められているように感じられて、俺は思わずたじろいだ。


「な、何だよ」


「ちょっと気になっただけ。でも、悩みとかあったら相談に乗るよ?」


「……ありがとうな」


 彼女の優しさが身に染みる。しかし、これは俺の問題だ。他人に話してどうにかなるものではないし、気になる女に弱みを見せるのは恥ずかしい。


 何より、打ち明けようものなら華鈴に俺の素性が知れてしまう。彼女の前での役柄は善良なるカタギの会社員なのだから――俺が返事を迷っていると、華鈴が不意に言葉を紡ぎ出した。


「うちの店に来るお客さんには色んな事情があるから、こっちからあんまり首を突っ込みすぎるのはよくないんだけど……」


 そこから続いた質問に、俺は意表を突かれた。


「ねぇ。麻木さんの会社って何処にあるの? 良かったら教えてくれないかな。あたし、来年は就活生だからさ。気になってて」


 おっと、何て答えれば良いのやら。


「あー……」


 俺は思わず言葉を濁した。この5か月間、華鈴には“貿易業”と云うだけで具体的な企業名を教えていなかった。そもそも商社マンにあらずなので教えられるべくもないのだが、いつか聞かれると思っていた。


「……悪い。言えねぇわ」


「えーっ! 教えてくれたって良いじゃん!」


「何つーか、その。この店に来るときは立場を捨てたいんだよ」


「どういう意味?」


 きょとんとしてしまった華鈴の前で、俺は全力を尽くして適切な語句を探す。若干しどろもどろになりながらも、どうにかこうにか答えを出した。


「つまり、お、俺は、エリート会社員じゃなくて、ひ、一人の男としてあんたに会いたいんだ」


「……え?」


 俺の台詞を聞いた途端、華鈴は固まってしまった。それから数秒ほど経った後――彼女は弾けるように笑い出した。


「あはははっ! 何それぇ!」


「お、おいっ! どうして笑うんだよ!」


 抗議すると、華鈴はなおも笑いながら答えた。


「だ、だって麻木さんってば、自分のことをエリートだって!」


「あっ……」


 しまった。勢い余ってか、つい余計な単語を付け加えてしまった。自分で自分をそのように称するだなんて、だいぶ痛い男じゃないか! まったく、俺は一体何をやっているんだ……!


 恥ずかしさで頬が熱くなる。駄目だ。まともな切り返し文句が浮かばない。


「……」


 肩を落としてがっくりと俯き、すっかり沈黙してしまった俺を見て、華鈴はなおも目を細めていた。


「あはははっ! 麻木さんは面白い人だね!」


「……悪かったな」


「でも、嬉しいよ。そんな風に言ってくれて」


「えっ?」


 わずかに顔が上がる。笑われるばかりと思っていたが、少し意外な反応が来たものだ――俺の胸が高鳴るのに時間はかからなかった。


「だって、あんまりいないからさ。この店のことをそこまで褒めてくれる人は」


「……そ、そうなのか?」


「うん。だから凄く嬉しいの。ありがとね!」


 そう言って彼女は優しく微笑みを見せた。期待していた返事とは少し違ったが、それでも俺は華鈴の笑顔に思わず見惚れてしまう……反則だ! そんな表情を見せられたらますます想いが強まってしまうではないか!


 くそっ! 俺は一体どうすれば良いんだ!?恥ずかしいやら、照れ臭いやら、先刻とは違って今度は良い意味で思考がグチャグチャになりそうだ……!


 こんな時の俺は弱い。


「あ、あのさ」


 咄嗟の勢いで俺が取ってしまった行動――それは乱れに乱れた内心を悟られぬよう、速やかに話題を変えることであった。


「華鈴は、その、悩んだりすることってあるのか?」


「そりゃああるよぉ。あたしだって人間ですから」


「た、例えば?」


「今一番の悩みは『将来、何になるのか』とか。後は……」


「後は?」


 誤魔化すつもりで放った問いの答えが待ち遠しくてならない。そんな俺に、華鈴はまたしても想定外のものを寄越してきたのだった。


「後は……うん。好きでもない男に好意を抱かれてることかな」


「はえっ!?」


 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった俺。動揺を悟られないよう、慌てて視線を逸らす。そんなこちらの心理状態を知ってか知らずか、華鈴は滔々と語りを繋いでくる。


「あたしのことを好きな人が居るんだけど、あたしはその人のことが嫌いっていう。それが最近の悩みかなあ」


「……へ、へぇ」


 俺の口からは気の抜けた返事しか出てこない。華鈴に想いを寄せる男が他に居るなんて初耳だ……いや、冷静に考えてみれば自然なことである。


 美貌に加えて、いつも笑顔を絶やさず明るく振る舞う彼女を男連中が放っておくわけがない。ここは歓楽街、赤坂三丁目の喫茶店。彼女を目当てに訪れる客は俺以外にも多いはずだ。


 いや、待てよ……もしかして、俺のことを言ってる? 心の内を読まれぬすべはそれなりに鍛えたつもりだが、女を相手にすれば話は別。華鈴のことを意識してしまう下心が、あろうことか本人に読まれてしまったか?


 いやいや、そんなはずは……。


「麻木さん? どうしたの?」


「えっ!? いや、何でもないぜ。は、話を続けてくれ」


「そう」


 華鈴が不思議そうにこちらを見つめてくる。俺は努めて平静を装った。これ以上ボロを出すわけにはいかないのだ。


 しかし、思考の中には荒波が立ち始めている。女として口説く以前の段階で鬱陶しがられていたとは……まあ、俺だと決まったわけではない。


 咳払いで調子を戻し、俺は華鈴と向き合った。


「そいつ、すっごく嫌な奴でさ。何かにつけて威張り散らして、お金で全てを解決しようとする。おまけにさぁ……」


「……けど?」


「なんか、重いんだよね」


「重いって、どんな風に?」


「あたしのことを『運命の人』だとか『一生一緒にいたい』とか言うの。正直言って気持ち悪いよ。まだ恋人でもないのに。っていうか、そいつに好意を向けられただけで吐き気がする。何で好かれちゃったんだろ」


 良かった。話を聞く限り、どうやら俺のことではないようだ。ひと安心で喉の詰まりがみるみるうちに解れてゆくのが分かる。


 しかし、左様にして華鈴へ言い寄る男がいるとは驚いた。それはひとえに恋敵が存在することを示す決定的事実。ただ、滅多に人の悪口を言うことの無い彼女がボロカスに吐き捨てるくらいにそいつを嫌っている、というのが唯一の救いだ。


「そ、そっか。なあ。そいつのことがあんまり鬱陶しいようだったら、俺に……」


 願わくば、目の前の女性は自分がモノにしたい――劣情の波に吞まれそうになりつつ、落ち着いて提案を投げようとした、その時。


「てめぇ! いい加減にしろ!」


 突然、店内に怒声が響き渡った。客の誰かが揉めている様子。俺は咄嗟に椅子の上で身を捩って後方を振り返る。


「ちょっと、離してよ!」


「うるせぇ! 来い!」


 見ると、俺や華鈴と同年代くらいの若いカップルが喧嘩をしているではないか。女は男の腕を振り払おうともがいているものの、男はそれを許さない。それどころか女の胸ぐらを掴んで……。


「やめてください!」


 気が付くと、華鈴が駆けて男の方を制止にかかっていた。まさに間一髪。男の腕を掴むのが少しでも遅ければ、女性が顔面を殴られていたところだった。


「ああ? お前にゃ関係ねぇだろ」


「関係あります! 何があったか知りませんけどこの店で暴力は許しません!」


「うっせえな。これは俺とこいつの問題なんだよ。部外者は引っ込んでろ」


 喚き散らす男は派手なスーツに身を包んでおり、見るからに軽薄そうな装いだった。さては何処かの組のチンピラか? 顔面には無数の傷跡がある。


 厳つい人物を目の前にしても、華鈴は怯まずに言葉を続ける。


「いいえ! 見過ごせません!」


 他の客たちが沈黙する中、毅然とした態度で男に立ち向かう華鈴。その様子に俺は思わず息を呑んだ。普段は明るく振る舞っている彼女だが、いざという時はこうして勇敢になれるのか……ますます好きになったかもしれない。


 そんなことを考えている間にも事態は進行してゆく。


「はっ、バイトふぜいが何を偉そうな口叩いてんだコラ」


 男は華鈴の制止を振り切ると、向かい側に居た女の腕を強引に掴んで店外へと連れ出そうとする。


「おらっ! 行くぞ! 帰ったらたっぷり躾けてやるよ!」


「やだ! めて!」


 しかし、華鈴はなおも食い下がった。


「待ちなさい!」


 出口付近に仁王立ちして男の行く手を通せんぼすると、彼女は鋭い口調で言い放った。


「その女性ひとから手を離して! じゃないと、警察を呼ぶよ!」


「あ?」


 男が華鈴を睨みつける。眉を吊り上げ、その形相はまさしく野獣のそれだ。しかし、彼女は怯まない。それどころか更に語気を強めて男を威圧する。


「これ以上、この店で騒ぎを起こすなら容赦しない!」


「どう容赦しねぇってんだ、このアマ。言っとくが俺はヤクザだ。警察サツが怖くて渡世が務まるかよ」


「だから何だっていうのよ! あたしだって、ちっとも怖くないよ! あなたみたいな肩書きで他人を脅すような輩なんか!!」


「……っ」


 その迫力に気圧されたのか、男は一瞬たじろいだように見えた。だが――次の瞬間には怒りを込めた挙動で華鈴に詰め寄り、彼女の胸ぐらを掴み上げていた。


「てめぇ……本職を舐めるとどうなるか教えてやろうか!」


 おっと、このままではまずい。俺は即座に立ち上がり、男の次なる暴力行動を抑制するべく声を上げる。


「そこまでだ」


「あん?」


 無法者の視線がこちらに向いた、ちょうどその時。


 入り口の扉にぶら下がっていた鐘がカランコロンと鳴った。緊迫を裂くように一人の男が入ってくる。


「おいおい、何をやってるんだ?」


 その人物の姿を見るや否や、チンピラは凍り付いた。


「なっ!?」


「黙ってないで答えろよ。こんな所で何をやってるんだと聞いたんだ」


「カ、カシラ……!」


 俺はその背広の男を知っていた。


 それは俺とて同じこと。奴は本日の午後に銀座で出会った眞行路一家の若頭、眞行路輝虎だった。


 どうしてここに奴がいるのか。訳が分からない。呆然とする俺を尻目に、輝虎はずかずかとこちらへ距離を詰めてくる。


須川すがわよぉ、いつも言ってんじゃねぇか。カタギさんに迷惑かけんなって。こりゃあ何の真似だ?」


「お、俺はその……この女が……」


 男はしどろもどろになりながら言い訳を紡ごうとする。しかし輝虎はそれを遮るように男の腕を掴み上げると、そのまま関節を反対方向にひねり上げた。


 須川と呼ばれた男は少々大袈裟気味に悲鳴を上げてその場にうずくまった。そんな川本を見下しながら、輝虎は淡々とした口調で言葉を繋いだ。


「お前、ここがどういう場所が分かっててやったのか? 仮にも俺の未来の花嫁、フィアンセの店だぜ?」


「そ、そうとは知らず、すいませんでした! 許してください!」


「駄目だね。お前は俺の顔に泥を塗ったんだから、落とし前は付けてもらう必要がある。それに……」


 輝虎は俺の方へゆっくりと視線を移す。


「……どういう経緯わけか知らんが、執事局の次長さんもいらっしゃる。ここは尚更ケジメを付けなくちゃなあ」


 不敵に笑う輝虎の顔が嫌らしく見えた。その隣では華鈴が絶句している。


「……」


 えっ? おいおい、ちょっと待ってくれ!


 ここで「執事局の次長さん」などと言ったら、俺の正体がバレてしまうではないか!


 咄嗟に誤魔化そうとする俺だったが、状況に思考が追い付いた時には遅かった。輝虎の口は既に開かれてしまっていた。


「やあ、華鈴。積もる話は山ほどあるが、とりあえず紹介するよ。この人は麻木涼平さんと言ってな。俺と同じ中川会の極道だ。覚えときな」


 華鈴は絶句していた。驚愕と、失望と、憤怒が3分の1ずつ織り交ざったような彼女の反応を見て、俺は思わず息を吞んだ。


 ああ、ついにバレてしまったか……今まであれこれ手を尽くして隠してきたのに。心の中で地団駄を踏みたい気分だった。


「えっ。もしかして知り合いか?」


 そう尋ねられた華鈴が低い声で口を開く。


「……別に。輝虎さんには関係ない」


「ふふっ、その顔は知り合いって顔してるな」


「違う」


「なあに。隠さなくたって良いんだ。麻木次長はハタチそこそこで会長の護衛を任されてる立派な極道、こんな小さな茶店さてんにとっちゃあ太客だろ」


「知らないってば!」


「ああ。大丈夫だよ。それくらいじゃ俺は気にしないさ」


 輝虎が苦笑しながら肩に回した手を華鈴はそっと払いのけた。


 なるほど。二人はそういう関係か。先ほど彼女が語った“嫌な男”とは、輝虎のことだったのだ。そうでなくては颯爽と駆け付ける王子様のごとく振る舞ったりはしないだろう。即座に察しが付き、俺はため息をついた。


 よりにもよって、眞行路一家の若頭だったとはな――。


 まったくもって面倒な展開になってきた。どんな顔をして良いか分からずにいると、輝虎が俺に声をかけてくる。


「こんな所で会うとは奇遇だねぇ。麻木次長。あなたもこの店の常連だったのか?」


 こいつ。先刻の両親の前では口数が至って少なかったというに、今は随分と饒舌である。それはともかく、何かしら返事をしなくては。


「ああ。まあな」


「この店にはいつ頃から?」


「よく覚えちゃいねぇや」


「キリマンジャロコーヒーはもう飲んだかい? 華鈴が淹れるあれは絶品だよ。裏メニューだけどね」


「いや。まだだ」


 適当に返事をしつつ、俺は輝虎の表情を窺っていた。まさかとは思うが、俺が店内に居ることを知っていて踏み込んできたのか? そんな懸念が頭をぎる。状況的に単なる杞憂だと即座に判断できないのが気持ち悪かった。


 渋い顔をする俺をよそに、輝虎は華鈴に向き直る。


「とにかく、今日は運が良かったよ。間一髪で君を守れた。たまたまこの辺に来たんで立ち寄ったら、まさかこんな場面に出くわすだなんて夢にも思わなかったけど」


「……あなたに用心棒なんて頼んでない」


 きっぱりと言い放った華鈴に対し、輝虎はわざとらしい表情と口ぶりで首を大きく横に振ってみせた。


「はあ。強情なのは君のチャームポイントだけど、ウィークポイントでもあるな。さっきは危ない所だったぞ。俺が来るのが少しでも遅かったら、君はこのチンピラに乱暴されていたかもしれないんだ。あまり無茶はしないでくれ」


「この人が彼女さんを無理やり連れていこうとしたから止めただけ。お客さんを守るのは店員の役目よ」


「だからって、君が危ない目に遭っちゃ世話ないだろう。頼むから危険なことは金輪際しないと誓ってくれ」


「何よ。あなたにそんなことを約束させられる筋合いなんか無いんだけど」


「本当に危ないんだよ。ここは赤坂。関東ヤクザの総本山みてぇな街だ。俺や麻木さんのような紳士も居るが、大半は人間くずれのごろつきだ。そんな連中をさっきみたいに怒らせたら……」


「人間くずれのごろつきって。随分な言い草ね。大体にして、そこに転がってる人はあなたの部下なんでしょう?」


「うん。だから、俺自身が落とし前を付ける必要がある」


 そう言うと、輝虎が今一度視線を落とす。その先に居たのは川本なる眞行路一家の組員。先ほど若頭に腕を折られ、無様にも床に横たわっていたのだ。


 他の客が目を伏せる中、輝虎は川本の髪をグイッと掴んで持ち上げた。


「さあて。この馬鹿にどうやってケジメを付けようかな。指の一本でも詰めれば反省するかあ」


「ひっ……ゆ、許してくだせぇ」


 須川は情けない声で懇願したが、輝虎は聞く耳を持たない。それどころかさらに手に力を入れて脅しつける始末だ。


「おいこらぁ! 口答えすんじゃねぇよ! てめえがやったことは俺への反逆だぞ!」


「……っ!!」


 川本の顔面には脂汗が滲んでいる。やがて輝虎は彼を再び倒して仰向けにさせると、馬乗りの体勢で顔面を殴り始めた。


「オラァ! 痛ぇか! 痛ぇだろう!?」


「うっ……ぐっ……がはっ!」


 何度も、何度も。輝虎の拳が川本の顔面に振り下ろされる。


「ちょっと、止めなさいよ!!」


 華鈴が制止に入るも、輝虎は無視。なおも川本の顔を連続で殴打し続ける。店内に居た一般客はすっかり怯えきっている。これはあまり良い状況ではないな――。


 判断し終えるのを待たず、俺の身体は動いていた。


「その辺にしとけや。眞行路の若大将よ」


 実にシンプルな行動だった。川本に拳を浴びせ続けていた輝虎の右腕を掴み、彼の動きをぴたりと止めたのだ。


「……何故に止める? 麻木次長? これはこいつへのケジメだぜ?」


「外でやれや。ここに集ってるカタギさん方にしてみりゃ、あんたらのしてることは迷惑以外の何物でもねぇ」


「青いな。カタギの都合なんざ関係ねぇだろ。見せる所できっちり見せていかねぇと、誰も極道を怖がらなくなる」


「さっき『カタギさんに迷惑かけんな』と言ったのはあんた自身だ。まさかこれは迷惑じゃないとか言わねぇよな」


「へへっ」


 俺の言葉を一笑に付すと、輝虎は思い切り力を込めた正拳をぶつけて川本を気絶へと追い込んだ。直後、またもや不敵に笑う。


「良いや。今日はこれくらいにしといてやるか。中川会執事局次長にして会長の側近、麻木涼平様の顔を立ててなあ」


「話が速くて助かったぜ。若頭さんよ」


「まあ、これからは本家とも手を取り合っていきたいんでな。まずは友情の証ってことで」


 輝虎が右手を差し出してきた。何のつもりだと無言で応じていると、彼はオーバーな口調で返礼を迫ってきた。


「何を黙って突っ立ってんだよぉ! 握手だよぉ! ほらぁ!早くやろうぜぇ? お互い中川会のヤクザ同士、いがみ合う理由なんざ何処にも無いだろぉ!」


 店中に響き渡る大声に、思わず舌打ちをこぼした俺。


 この饒舌な若頭が声を張り上げているのは客全員に聞かせる意味もあれば、傍らに立つ華鈴に理解させる目的もあるのだろう。麻木涼平の正体が、ヤクザであると――当の華鈴はジッと俯いている。俺は悔しさで全身が沸騰しそうだった。


 とはいえ、このまま黙殺を決め込むのも得策ではない気がする。少し考えた後、俺は右ではなく左の手を差し出し、輝虎と軽い握手を交わした。


「これからよろしくなあ、麻木さん。眞行路一家の若頭と執事局の次長。互いにナンバー2ってことで良い関係が築けそうだ」


「期待したって俺からは何も出ねぇぞ。尤も、あったところで出すつもりはさらさらぇが」


「まあ、そう言うなよ」


 怒りと憎しみを込めた目で睨みつけると、輝虎は何のこっちゃといった風に口角を上げて見せた。つくづくムカつく野郎だ。父親とは違った意味で悪辣が極まる。


 とはいえ、ここで輝虎をぶん殴ってしまってはいけない。眞行路一家の処遇は当面保留にすると恒元が決めた以上、その若頭に下手に危害を加えるなど言語道断。執事局次長として、会長の方針を守るのが最優先だ。


 ああ。考えなくたって、最初から分かっているとも。俺の行動は至極適切だった――そう思って自分自身を鎮めるしかなかった。


「……」


 問題は俺たちの目の前にいる女性、華鈴だ。


「皆さん、お騒がせして申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました。不快な思いをさせてしまったお詫びに、本日のお代は無料とさせて頂きます」


 そう言って1テーブルごとに頭を下げて回る華鈴。店内の客たちは戸惑いながらも、彼女の言葉を受け入れたようだ。「いえいえ……」とか「大丈夫ですから……」といった台詞が聞こえてくる。


 しかしながら、客たちは今日この光景を目の当たりにして、相当な恐怖を味わってしまったことだろう。もしかすると、これからこの店に来てくれなくなるかもしれない。客商売には疎い俺にだって、それくらいの展開は予想が付く。


 今後の事を思うと、ひどくやるせない思いが心を伝った。


 第一、俺も与田華鈴とは縁が切れてしまうだろう。何せ、化けの皮が剝がれてしまったのだから。善良なカタギのエリート商社マンという、今まで苦労して繕ってきた仮の姿が。


 虚無と絶望に包まれて愕然とする俺にはお構いなしで、片や輝虎は何事も無かったかのように華鈴に声をかけていた。


「大変だな。この人数の飲食代と言ったら相当な額だぜ」


「何を他人事みたいにのうのうと……全部あなたのせいじゃない!」


「おいおい。俺はチンピラに絡まれて困っていた君を助けてやったんだぜ? 感謝こそされど、文句を言われる覚えは無いんだがな」


「……っ!……あなたって人は……」


 怒り心頭といった様子の華鈴をよそに輝虎は飄々とした態度を崩さない。すると、奴からは信じられない言葉が飛び出てきた。


「なあ、せっかくだから珈琲を飲ませてくれない? さっきから喉が渇いちまってさあ」


 この状況でそれを言うか。眞行路輝虎という男には恥という概念が無いだろうのか。俺は開いた口が塞がらなかった。


「あなたに飲ませるコーヒーなんて無い!!」


「そう言うなよ、今日はタダで飲めるんだろぉ? なあ? 愛しの華鈴よぉ?」


「止めてッ!」


 背中に手を回そうとする輝虎を激しく拒絶すると、華鈴は入口の方へと歩いて行って扉を開ける。そして、大きな怒声を浴びせた。


「もう帰って! あなたの顔なんて見たくない! 二度と来ないで!」


 至極当然の退去要求。これに対して、傲岸不遜な若頭はどう出るか――彼が直後に見せたのは案の定、下劣の2文字を絵に描いたような表情だった。


「はははっ! 嫌われちまったな! ま、今日のところは帰るわ。でも、また来るぜ。『嫌よも好きのうち』って言うからなぁ」


 悪びれる様子は一切無く、横たわる川本を引きずって輝虎は店の外へ出て行った。


「二度と来るなッ!!」


 華鈴は輝虎の背中に向かって叫び、乱暴に扉を閉めた。店内には重苦しい空気だけが残された。客たちはすっかり怯え切ってしまっているようだ。中には泣き出す女性客も居る。俺は思わず息を呑んでしまった。


「……本当に……申し訳ありませんでした……」


 深々と頭を下げる華鈴に、かける言葉が見つからなかった。読んで字のごとく、本当に何て声をかければ良いのか分からなかったのだ。今までまっとうに女と触れ合った経験が殆ど無いのだから――こういう時の俺は弱い。


「な、なあ。華鈴」


 俺がやっとの思いで声を捻り出したのは1分の間が過ぎた後。


「何?」


 こちらを見返した華鈴。その目の色は憤慨に満ちていた。当然だ。失望どころの話ではない。もはや、彼女にとっても裏切りにも等しい。


「いや……その……」


「何を突っ立ってんのよ。さっさと帰ってくれない?」


「……すまん!」


 俺は華鈴に向かって深々と頭を下げた。これしか出来なかったのだ。


「は? すまんって、何が? 何を謝ってるの?」


 怪訝な声が返ってきた。それでも頭を垂れてしまった以上、後には引けない。俺は続ける。


「すまなかった……あんたのこと、騙すつもりは無かったんだ……ただ、あんたを怖がらせたくなくて……」


「だから商社マンだのエリートだのと嘘ついてたってわけ?」


「あ、ああ。さっきも言ったけど、俺はあんたと立場で接したくなかった。ここには極道の肩書きを捨ててきたかったんだ」


 懸命に編み上げた俺の苦しい言い訳。それを聞いた華鈴は何も言わずに目を伏せた。ほんの少しばかり、舌打ちが聞こえたような気がする。


「……はあ」


 ため息の後、華鈴は沈黙を破った。


「嘘ついてたのは別に良いよ。そういうお客さんも多いし。でも、許せないのはあなたがさっき何もしなかったこと。どうして輝虎を止めなかったの? あなたはヤクザなんでしょう!? だったら止められたはずでしょうよ!!」


「それは……」


「挙句の果てに握手まで交わしてさ。あなたのことをほんの一瞬でも良い人って思ったあたしが馬鹿だったわ」


「……」


 言葉を失った俺に、華鈴は涙声のままで続ける。


「だからヤクザは嫌いなのよ。人様の生活に土足で踏み込んで、勝手な理由を付けて大切なものを根こそぎ壊して、奪ってく……あなたも所詮は輝虎と同じ。同じ穴の狢!」


 ただただ華鈴に詫びることしか出来なかった俺。


「もういい」


 そんな俺に彼女は再び深いため息をつくと、扉に向かって歩き出す。言いたいことは聞く前から最早明白であった。


「いつまで居るつもり!? 早く帰って! 帰ってよ!」


「……なあ、華鈴」


「お願いだから帰って!!!」


 華鈴の叫びが耳をつんざく。


 こうなったは言われるがままにするしかない。出た瞬間に彼女が勢いよく扉を閉めた。彼女の嗚咽が聞こえたような気がしたが、俺は歩みを止めない。もう何も出来なかった。


「……」


 外の風が寒い。仕事の多忙さを口実に気付かぬふりをしていたが、季節は冬に向かいつつある。肌を突き刺す空気感が哀しかった。


 終わった――。


 そんな一文が自然と脳裏をよぎる。俺はあの女に惚れていたのだ。それは紛れも無く、恋。失ってようやく気付いた。なんて愚かなことをしたのだろう。


 数えてみれば5年……いや、6年ぶりの恋。異国の戦場を流浪していた間は、そういう感情と一切無縁だった。久々に人間らしい心を取り戻せたかと思ったら、結果がこのザマだ。自分の情けなさに反吐が出る思いだ。そして、運命を呪いたい。


「……チッ」


 舌打ちと共に煙草を取り出し、火を付ける。肺に煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。歩き煙草は背後への注意が若干散漫になるので好ましくないが、それでも今は何かしていないと落ち着かない。俺は夜の赤坂をすたすたと進んでゆく。


 そんな時だった。


「ん? あれは……?」


 数十メートルほど前方の電柱付近で3人の男女がたむろしている。野外だというのに、缶ビールを片手に談笑している模様。


 路上で酒宴とは呑気な奴らだ――。


 軽い舌打ちで通り過ぎようとした俺だったが、とある事実に気付く。街灯に照らされ、連中のうちの一人の顔が浮かび上がる。


 あれは……輝虎じゃないか!


 こんな所で何をやっているのだ。店からはあまり離れていないというのに。呆れと怒り、そして憎しみが同時に襲いかかってきた。


「おお、麻木次長! あなたもお帰りか!」


 俺の存在に気付いた輝虎が声を上げる。近づいて行くと彼の横に居る男女の顔もはっきりと分かる。案の定、見覚えのある奴らだ。


 男は先ほど『カフェ・ノーブル』の店内で暴れたチンピラ、須川。そしてもう片方は彼にDVを受けていた恋人とおぼしき女性……なるほど。大体の事情が分かった。


 煙草を投げ棄て、俺は奴らを問い質した。


「お前ら、グルだったのか」


 すると、輝虎があの不気味な笑みを浮かべて答えた。


「おう。ご明察の通りだ。この須川は眞行路一家うちの本部長で、俺の右腕だ。横にいるのはその女房。さっきは一芝居打ってもらったってわけさ」


 やはりそうか。眉間にしわを寄せて歯噛みする俺に、輝虎はこれまた憎たらしいニヤケづらで言葉を続けた。


「いやあ、本当はあなたに用があって赤坂に来たんだけどね。まさか華鈴の店にいるとは思わなかったよ」


「どうしてあんなことをした? 話を聞く限りじゃ、あんたはあの看板娘に入れあげてんだろ? 何でわざわざ、意中の女に害成す真似を?」


「決まってるじゃないか。彼女を追い込むためさ」


「ほう?」


 彼女を追い込むため――そんな短い字面だけで途方もないおぞましさを感じる台詞。輝虎の饒舌な語りはなおも止まることを知らない。


「客商売は評判が命。『ヤクザが暴れた』って悪評が広まれば、遠からず客足が衰えて店の経営は苦しくなる。そうなった時に幾らかの札束をちらつかせりゃ、彼女は嫌でも俺に泣きつくしかなくなるだろう」


「……援助と引き換えにあの子を自分てめぇのモノにしようって算段か。けっ、とんだマッチポンプじゃねぇか」


「ふふっ、良い計画だろう」


 眞行路一家は兜町の金融家たちとも繋がりがある。彼らに圧力をかければ、都内の都市銀行はいずれも『カフェ・ノーブル』への融資を拒絶。眞行路一家傘下の闇金が付け込むには格好の窮状となろう。


「欲しいものは力ずくで奪う。それが眞行路のやり方さ」


 そう語る輝虎の瞳が妖しく光った。なんちゅう野郎だ――この男は父親譲りの、いやはるかに凌ぐほどの強欲さを内に秘めている。紳士然とした見た目に反して、とんでもない卑劣漢ではないか。


「ずいぶんと姑息なこったな。男なら惚れた女の一人や二人、くらい器量で口説き落とせば良いものを」


 軽蔑の眼差しと共に言い捨てた俺。すると、輝虎は鼻で笑った。


「女は普通に口説いて手に入れるだけじゃ意味が無いんだよ。跪かせ、服従させ、奴隷の首輪を嵌めてこそ価値が生まれる」


「それ、単に自分だけの性奴隷が欲しいって言ってるようなもんだぞ。とんだ変態野郎だな。あんた」


「まあな。開き直るわけじゃねぇが、俺はガキの頃からお袋の尻に敷かれる親父の姿を見て育ったもんでな。女が男より強いってのが許せねぇんだ。女はあくまでも女。男の下で、男を支えるためにこそ存在するべきなんだ」


 性別ごとの役割云々はさておき、輝虎はろくでもない男だ。こんな奴に華鈴が狙われていると思うと、余計にはらわたが煮えくり返る思いだった。


「御託はともかく。あんたがゴミだってことは分かったよ。振り向いてくれない女を極道のやり方で手に入れようとする、ちっちゃい男だ」


「ププッ。そういうあなたはどうなんだよ。負け惜しみを言っているようにしか聞こえんがなぁ、俺には」


「何だと?」


「あなた、華鈴に惚れてたんだろう。気づいてないとでも思ったか。横恋慕はいけねぇなあ、三代目に掘られてる肉便器の分際で!」


「この野郎ッ」


 その瞬間、俺は銃を抜いていた。


 そうせずにはいられなかった。湧き上がった激昂を抑制することができず、背広の内側へと伸びる右手を止められなかったのだ。さもなくば、悔しさで押し潰されてしまいそうだったから。


「……」


 けれども、引き金は引かない。僅かながらに機能した思考が寸前で歯止めをかけたようだった。そんな俺を輝虎は嘲笑した。


「どうした? 撃たないのか?」


「……ッ」


「だよなあ! 撃てるわけないよなあ! くくっ!」


 トリガーに指をかけたまま硬直する俺。本当は撃ちたくて仕方がなかった。それが出来れば、どれだけ心地よかったことであろうか。


「……現時点で眞行路一家を潰す許可は出ていない」


「そうだよ。それで良いんだよ。処遇保留の段階で俺を撃ち殺しちまったら、三代目の命令に背くことになるのだから」


「くっ、このクソ野郎め!」


「さあ、早く銃を下ろしてくれよ、麻木次長。俺はここで殺し合いをする意思は一切無い。今日はあなたとゆっくり話がしたくて来たんだ」


 輝虎は至って余裕綽々。銃口を向けられて怯え竦む川本夫妻とはまったくもって対照的だ。きっとこちらの事情を知り尽くしているのだろう。


 ああ、この男を撃ちたい。額に風穴を開けてやりたい。それができたらどれだけ爽快なことであろうか――。


 可能な限りの凄みを利かせながら、俺は静かに銃を下げる。


「本当だったら今すぐにてめぇを殺してる所だ。華鈴の店を滅茶苦茶にしやがって。このゴミクズ野郎」


「あははっ。あの店ならきっと潰れないさ。何せ、華鈴には未来の夫であるこの俺が付いているんだからな」


「クソが」


 俺が銃を懐にしまうと、輝虎の口角がニンマリと上がる。その勝ち誇るような表情を前に、俺は殺意を堪えるのが本当に大変だった。


「須川。お前は先に帰ってろ。俺はこれから麻木次長とゆっくり話をしなくちゃならないんでな」


「おひとりでよろしいのですか? それに、カシラは道具をお持ちになっておられないようですけど……」


「構わんさ」


 何のつもりだろう。輝虎は随行の本部長を先に返してしまった。言ってしまえば人払いであるが、奴の意図が分からない。


「麻木次長。こっちは見ての通り、丸腰さ。今宵は肩を並べてじっくり語り合おうじゃないか」


 背広のジャケットを開いて見せる輝虎の動作はわざとらしかったが、現時点での敵意や殺意の類はまったく感じられなかった。


「……話とは何だ? 俺はあんたと駄弁る気はこれっぽちもありゃしないんだが」


「まあまあ。そう言わずに。ちょっくら飲みに行こうじゃねぇか。なあ。せっかく秋も深まる良い夜なんだからよぉ」


「何が良い夜だ。人様が楽しく過ごしてたところをぶち壊したのはてめぇのくせに」


「そう言うなって。雑談するつもりで来たわけじゃない。あなたにとってもきっと有益であろう話を持ってきたんだ」


「ああ?」


「ここで話すのはアレだ。場所を変えよう」


 輝虎には赤坂へ来た時は必ず立ち寄る、行きつけの店があるらしい。そこは同じく三丁目のこじんまりとしたバーだった。


「良い店だろう? 酒も美味いし、客も少ない。落ち着いて話ができる」


「一応聞いとくが、あんたはこんな所で飲んでて良いのかよ。重傷の親父さんの側に居てやった方が良いと思うぜ」


「親父なら至ってピンピンしてるよ。出血が多かっただけで、あんなのはただのかすり傷。怪我の内には入らねぇってよ」


「そうかい。なら、さっさと本題に入れよ。俺はあんたと同じ空気を吸ってるだけで吐き気がしそうなんだが」


「まあまあ。そう急かすなよ。まずは一杯やろうじゃないか」


 輝虎はカウンターに立つバーテンダーにオーダーする。俺はジントニックを注文した。やがて運ばれてきたグラスを手に取り、輝虎が乾杯しようと視線を送ってきたが俺は無視する。


 苦笑いで酒をひと口飲み、陽気な色男は再び話し始めた。


「これは冗談じゃなくて本当の話なんだが……いずれ俺は親父を殺す。あの猛獣を仕留めて、眞行路一家の跡目を継ぐ」


 親父を殺す――あまりにも唐突な告白に思わず言葉を失う。どういうつもりで言っているのか。奴から紡ぎ出される次なる言葉に、自然と耳が傾いた。


「親父は暴れることしか頭に無い。あれがあのまま銀座を仕切っていては為にならん。遅かれ早かれ、組は衰えてゆくだろう」


「……だからあんたが跡目を獲るってのか」


「そうだ。俺はこう見えてもビジネスマンでな。若い奴らをたんまりと儲けさせてやるだけの自信はある」


 自らを経済ヤクザと称する輝虎。喧嘩よりも金儲けを重んじる知性派という部類だ。彼がそれに当てはまるかはさておき、この男は銀座で対面した時よりもずっと饒舌になっている。全身から滲み出ていた“遠慮”の二文字が消えたというか。


 きっと父親の前ではひたすらに猫を被り、聞き分けの良い孝行息子を演じているのだろう。同族運営の組織ではよくある話だ。


 ただ、俺には分からなかった。


「あんたの見立ては分かった。だが、どうしてこの話を俺に? まさか『親父を追い落とすのに本家の協力を得たい』なんて言わねぇだろうな?」


「そのまさかさ。本家が俺のケツを持ってくれるなら、新体制下の眞行路一家は恒元公へ全面的に忠を尽くすと約束しよう。従順な飼い犬になってやるよ」


 要は、俺に会長への口利きを頼みたいというわけか。銀座の猛獣をチワワに戻せるなら我らが中川会本家としては異存無い。輝虎曰く誓紙を出しても良いという。


 しかし――。


「どういう魂胆だ?」


「魂胆も何も、跡目を獲るためにゃあ手段なんざ選んでられねぇってだけの話さ」


「あんたの出した交換条件じゃ、眞行路一家が中川会の風下に立つのを認めることになる。そりゃあ従順になってくれるのはがてぇけど。あんたらにしてはデメリットが大きすぎるんじゃねぇの? 少なくとも現状の優位性は失われちまう」


「構わないさ。むしろ、本家の意向を無視して好き勝手にやってた今までの方がおかしい。大きな代紋の下に集まり、徳のある人物を主君として担ぎ、命令には絶対服従する、それが博徒としてあるべき姿だと俺は思ってる」


「腰を折るようで悪いけどよ、俺はあんたが良心で言ってるようには見えねぇな。何かしら旨味を得られる打算があっての物言いなんだろう?」


「眞行路の跡目を獲れるならそれで良い。そのためにゃどんな代償も払ってやるよ」


 先ほどからグラスに口をつけてはいるが輝虎の頬は大して赤くなっておらず、まだ酒に酔っている風でもない。されど、配下の組員に寸止めの拳打を浴びせる茶番を巧妙に演じてのけた男である。完全な真意を確かめるまで、油断は禁物だ。


 現時点では肯定も否定もしないでおこう。


「……今のはオフレコにさせてもらう」


 そう云い捨てると、俺は煙草に火を付けた。輝虎は尚も食い下がってくる。案の定、下品な笑みを浮かべて。


「おいおい。つれねぇな。恒元公のお墨付きが欲しいってのもあるが、俺はあなた個人の実力を買ってもいるんだ」


「俺にあんたの親父さんを殺せってのか?」


「そうなってくれると嬉しいな」


「ふざけんじゃねぇ。俺はお前さんの子分でもなけりゃ舎弟でもない。ましてや個人的に雇われて動くなんざ、まっぴらだ」


 ぴしゃりと言葉を放って眼光鋭く睨みつけた俺に、またしても、輝虎は気味の悪い薄ら笑いを浮かべる。その眼差しは不愉快を通り越し、ある種の禍々しさをもたらすものだった。


「まあまあ、そう言うなって。腕の立つ強者ツワモノと戦えるのはあなたにとっても悪い話じゃないはずだ」


「あんたが俺の何を知ってるってんだ」


「知っているとも。麻木次長、あなたは血を見るのが好きで好きで仕方ない筋金入りの戦闘狂だ。それはまさしく銀座の猛獣と似て非なる存在」


「てめぇ……!」


 嘲り嗤うような物言いに、一度は抑え込んだはずの憎悪が再びこみ上げてきた。銃を抜かないまでも、視線で強烈な殺意をぶつけてやった。


「おお、怖い怖い。そう。その闘気だよ。親父と同じことを言うのは本意ではないが、うちの組に欲しいくらいだ」


「うるせぇ。あんまり適当なこと抜かしてると舌を引き抜いて味覚を分からなくしてやるぞ。カス野郎」


「いいねぇ。俺が求めているのはあなたほどの度胸と腕っぷしをもった人間……そうでなければ親父は、眞行路高虎は倒せない」


「口を閉じやがれ。誰があんたの話に乗ると言ったんだよ。言っとくが、会長に口利きしてやるつもりは毛頭もぇぞ」


「そうだとしても、あなたに他の選択肢は考えられないはずだぜ。麻木次長。中川恒元の忠犬に成り下がることを自ら選んだあなたには……」


「黙れ!」


 言葉を遮るように、俺は突きを放った。


 ――シュッ。


 だが、それが憎たらしい若頭の顔面に刺さることは無い。両眼の間の、わずか3ミリあたりのところで止めた。強さとしても、衝撃波が出ない程度の加減を施して。


 そうすることしかできなかった。悔しいが目の前の男の言っていることは概ね的を得ている。所詮、俺は中川恒元の奴隷でしかない――。


 悶々とする俺に、輝虎はしたり顔で囁いてきた。


「素晴らしい貫手だ。さっき銀座で親父の肉を削り取った時も凄かったが、やはり生で見ると心躍るねぇ。これなら親父のことも容易く倒してしまいそうだ」


「……ッ」


「親父は昔プロレスをやっていてね。祖父から組を継ぐ前にはヘビー級の世界王者になったこともある。そんな化け物でも、あなたなら素手で殺してしまうだろうなあ」


 もう、これ以上は話を続ける気にならない。このままここにいれば自我が沸騰してしまいそうだ。俺は懐から財布を取り出し、万札を一枚カウンターに置いて席を立つ。


「あんたの思い通りにはならねぇよ」


 それだけ告げて踵を返した。直後、輝虎が「青くさいガキが格好つけやがって」とほくそ笑んでいたような気もするが、俺は気にも留めなかった。


 ただ、一刻も早くこの場を離れたかった。


 ――バタンッ!


 乱暴に扉を閉めて店を出た後、俺は路上に出て空を見上げる。ポツリ、ポツリと小雨が降り始めていた。秋の風は相も変わらず、冷たい。


「……はあ」


 湯気が立つようにため息がこぼれた。一体、俺は何をやっているのだろう。同時に押し寄せてくる様々な感情にげんなりとさせられた。


 人通りの少なくなった夜道を歩きながら、自然と背広の内側へと手が伸びる。取り出したのは支給品の黒い携帯電話。無意識のうちに画面を開き、連絡帳から番号を入力する。


 ふとした瞬間で手が止まり、ハッとさせられた。どうして俺は電話をかけようとしているのか――。


 ボタンで打ち込んでいたのは総本部の電話番号だった。理由はひとつ。輝虎から伝え聞いた事の子細を会長へ報告しようと思って。


 口利きなんかしないと啖呵を切った癖に、何故そんな行動に出てしまったのか? それは他でもない。輝虎を利用して銀座の猛獣を仕留めれば恒元の利益に繋がると考えたからだった。


 恒元のために――たったそれだけを理由に、惚れた女を傷つけた憎き恋敵と手を組むことをいとも簡単に受け入れた。そもそも、あの場で輝虎を刺さなかったのも、頭の片隅に恒元の命令があったからだ。奴の言った通り、俺は結局のところ中川恒元の奴隷でしかない。何もかも「恒元にとってどうあるか」を基準に考えてしまっている。


 これは自らの手で選んだ道。けれども無性に虚しく、悔しかった。覚悟を決めたはずなのに、そんな気持ちに至ってしまう己が情けなくもあった。


「……弱いな、俺は」


 やり場のない気持ちを滾らせたまま、その晩は真っ直ぐに詰め所へと戻って風呂に入り、眠りについた。もう俺には何か食事をとる気力すら残っていなかった。


 翌日。


 目覚めた俺は朝食が終わる時間帯になるのを待ってから、真っ先に執務室へと向かって恒元に謁見する。ナプキンで口を拭く三代目に投げかけたのは、こんな話題である。


「会長。実は昨晩、眞行路の若頭が俺に接触してきまして……」


 途端に目を丸くして「ほう? 詳しく説明したまえ」と興味を持った会長に、俺は報告を続けてゆく。眠りによって奥底へ鎮めた葛藤を再び呼び起こさぬよう、平常心を保つよう、最大限に気を付けながら。


 哀れかな、俺はそういう男だった。

恋に破れ、己自身の弱さを思い知った涼平。それでも時間とは無情にも悠々と過ぎてゆくもの。また新たな問題が、いつも通りにやってくる……。

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