修羅の道でも、さだめとあれば
ところが、俺が悩みに悩んでいた内通者の正体は、意外な形であっさりと結論が出ることになる。というより、内通者ではなかった。
「会長! こらァどういうことですかい!? 俺たちに隠れてコソコソ小遣い稼ぎなんざ、感心しませんねェ!」
翌日。執務室にカチコミのごとく押しかけて来たのは、理事の眞行路高虎。同輩の領地を侵した罪で先々月に理事長補佐を解任されたこの男は、謹慎明けだというのに全く遠慮が無かった。数十枚の写真を見せつけて、いきり立っている。
「証拠はばっちり押さえましたぜ。さあ、どう言い訳なさるんです? 聞かせてもらおうじゃないですか!!」
「そう焦るな。落ち着け」
「どういうことかと聞いてるんです! 答えてくださいや!」
胸ぐらを掴まんばかりの勢いだったので、俺と酒井が慌てて制止に入る。
写真にあったのは中規模の工業プラント。そう、都内某所に存在する中川恒元による麻薬の極秘精製工場である。どうやら眞行路にはすべてを押さえられてしまったらしい……。
中川会には初代、中川恒澄会長の定めた麻薬禁止の掟がある。中川の代紋を担ぐ者は何時、如何なる理由においても薬物を扱ってはならないという決まりだ。それは初代会長が元軍人で、戦後に流通したヒロポンや阿片が蝗のごとく人々の身体を害してゆく様を間近で見ていたことから来る誓いであった。
この掟を破り、あまつさえ麻薬を生産・密売する輩がいるなどということが表沙汰になれば、組織を揺るがす大問題に発展するのは避けられない。ましやそれが初代の実子たる三代目、恒元自身だったとなれば猶更だ。
眉間にしわを寄せ、眞行路は詰め寄る。
「麻薬禁止は初代から続くご祖法! だから俺たち御七卿はそれに従って今までやって来た! なのに、それを会長御自ら破るとは……どういう了見ですかッ!?」
さて。これに対して恒元は何と応じるか。俺たちが固唾をのんで見つめる中、会長は平然と言葉を返した。
「確かにな。麻薬は初代が固く禁じていた。『人を平然と害するものを売り捌く輩は任侠の徒に非ず』とな。それについては我輩も否定せん。初代の言うことは正しい、至極真っ当だ」
「ああッ!? だったら、これは何なんです! どっからどう見ても麻薬の製造工場でしょうよ。違うなんて言わせませんよ。既に作業員の証言を……」
「麻薬の製造工場。それは間違いない。紛れもなく、我輩が建てたものだ」
認めた! のらりくらりと追及を躱すものと思っていた俺は、思わず跳び出そうになった声をぐっと飲み込んだ。心の中で「何で言っちゃうんだよ」と漏れ出るのがはっきりと分かった。それがこの場における唯一の正解であるはず。
ところが会長は何を思ったのか、まったく逆の行動に出てしまった。眞行路もこれには面食らったようで、少しの間呆然としていたが、すぐに更なる追及をかける。
「会長。あんた頭おかしいんじゃないですか!? 皆の模範となるべきお立場でありながら、掟を平気で破るなんざ!」
自らを容赦なく詰る言葉を受けても恒元は動じない。慌てふためくどころか、さも当然と言わんばかりに、恒元は落ち着き払った様子で言った。
「眞行路。お前がおかしいと思うのも道理だが、我輩は別に間違ったことをしたとは思っておらん」
「何だとッ!?」
ついに堪忍袋の緒が切れたのか、眞行路は怒声を上げて机を強く叩いた。これには思わず俺も肝を冷やしたが、会長は全く動じず涼やかな表情を崩さない。その反応がますます気に障ったのだろう、眞行路は更に語気を荒らげて言った。
「どういうことだ、会長! 説明しろッ!!」
その剣幕に部屋全体の空気が震動したほど。だが、会長は部下の剣幕にも臆することなく淡々と口を開く。その様は、まさに関東裏社会の頂点に立つ者と呼ぶにふさわしい貫禄だった。
「涼平」
「はい」
不意に呼ばれて返事をすると、彼は部屋の隅の棚を指差して言った。
「そこにある鉄箱を持ってきたまえ」
言われた通りに、俺は箱を会長の机に届ける。何が入っているかは分からない。この異様な状況は事前の打ち合わせも無く始まったものだから。
「ご苦労。重かったろう」
「ええ、まあ……」
「それもそのはず。人を助けるものは重くて当然だ」
ぽかんとする俺と酒井をよそに、眞行路は咳払いをした。
「その箱が何だと言うんだ!? 話の腰を折らないでもらいたい!」
「はぐらかす気は無いよ。とりあえず、これを見たまえ」
恒元が箱を開けると、中に入っていたのは瓶詰めの液体。何だろうか? 見るからに薬品と分かるが、裏社会で闇取引されている類のそれではない。れっきとした病院で見かける“医薬品”だ。その証拠に、ラベルには英字が書いてある。
「会長。これは一体?」
酒井が問いかけると、恒元はさも当然の顔でこう答えた。
「これが我輩の答えだ」
彼はコクンと頷いて、眞行路に意味深な言葉を投げかける。
「件の工場で我輩が作っていたものだ。これを作ることは、初代の精神にも適うと思うがね」
俺の目についたラベルにはEntheogen(エンセオゲン、向精神薬)の文字が。あれを最後に見たのは何処だったか。確か、クロアチアの野戦病院で傷痍軍人たちに投与されていたような……?
首を傾げる俺を尻目に、恒元は続ける。
「麻薬と単に言っても様々な種類があってね。酒や煙草のように娯楽として用いる嗜好品から、学問の発展に寄与する科学実験の原料、そして精神の病に苦しむ人々に寄り添う薬……これは他でもない、医療用だ」
医療用――工場で造られていた幻覚剤の用途を説明するその言葉に、眞行路は面食らった。そんな答えが返ってくるとは思ってもいなかったという顔であった。
「はあっ!? 医療用……?」
「そうだ。この薬は主に鎮痛剤として使われていてな。人間とは精神の生き物だ。毎日の生活の中で小さな悩みや苦しみを抱えているものだが、それらが積もりに積もってゆくと“痛み”となる。それを取り除くべく存在する薬だ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 医薬品!? 」
「ああ。むしろ医薬品としての用途こそが、麻薬の本来あるべき姿なのだ」
「いいや、そんなはずは……会長、誤魔化さないでくださいよ! 医薬品なら、どうしてコソコソ密売するんだ!? 公に向けて売れば良いだろうが!」
眞行路が大声で喚いた。だが、それに対して恒元はきっぱりと言い切った。
「お前はこの国の法律を知らないのか。麻薬は違法だぞ」
「はあ!?」
「違法な品であろうと、必要とする人はいる。心の病に苦しむ人々には重宝される。我輩はその求めに応えているだけのことだ」
俺も少しばかり戸惑ったが、恒元の語った話は現実問題として確かに存在する。海外にて精神病の治療には幻覚剤が用いられており、聞くところによるとかなり麻薬成分のある薬が処方されているとか。
その機嫌は古い。第二次世界大戦で英国陸軍が欧州戦線において士気の低下を抑えるために開発された精神安定剤や睡眠薬などの中には、当時の日本では違法であった「ケシから採取したアルカロイド」を用いたものがあったという。そのことからも分かる通り、欧州では麻薬が常に身近な距離で存在していた。
かつては日本でも幻覚剤による精神病の治療の研究が行われていた。現在は覚醒剤と呼ばれているもので、戦時中には国民が精神を病むことが許されない状況下において「ヒロポン」の名称で知られていた。戦争末期になると増産のために様々な医薬品が大量に生産され、多くの薬局に並んでいたという。戦争が終わった後も、昭和20年代までは市販薬としてごく自然に購入できた。
閑話休題。恒元の主張としてはこうだ。
『自分が作っているのは精神病に苦しむ人が症状を少しでも和らげるためのものであり、いわゆるサイケデリック文化に興じる輩に向けたものでは決してない』
違法な物品ゆえに易く入手することはできないが、それでも心の病が原因で麻薬を求める人々が居る。彼らに向けて販売することは善意であって、利益のみを目的とした行為ではない。なればこそ、初代が麻薬禁止と並んで掲げていた理念とも合致するという。
「初代は任侠道を地で歩まれる人だった。『代紋は義侠心をもって良しとする』。我輩のやっていることは方向性こそ違えど、それに則っていると思うのだがな」
麻薬禁止の掟は確かに存在するが、それはあくまでも利益追求のために売ることを禁じたのであって、病で苦しむ人を救うことまでは禁じていない――そう、恒元は堂々と言ってのける。なるほど。こんな切り返し方があったか。
会長の言葉に、流石の眞行路も舌打ちを最後に黙り込んでしまった。
ただ、怒りに任せて執務室への乗り込んでくるほどの男だ。正論をぶつけられただけでは引き下がらない。
「そいつは詭弁ってやつだ! 本当は小遣い稼ぎのために売り捌いてたんだろうが!」
「ほう? 何故、そう言いきれる?」
「タイの組織に売ってたでしょうが!」
ここでようやく確信した。昨晩の事件を裏で暗躍していたのは眞行路だ。長い時間をかけて恒元の幻覚剤製造の情報を掴んでいた眞行路が本庄を唆し、サーマートと取引に及んでいた俺たちを襲わせたのだ。執事局サイドに内通者が居て本庄に情報を流したものと思っていたが、そうではなかった。作業員から内情を聞き出した眞行路に掌の上で踊らされていたというのが事の真相だ。
「ほう……君はどうして知っているのだね? 我々が彼らと取引を持ったことを」
「本庄の兄弟から全て聞いてますぜ! そんで、本庄のところの若衆をリンチしたそうじゃないですか! 自分の所業は棚に上げて、見下げ果てたる話だ!」
「あれは我輩に向けて引き金をひいた罰だ。殺さずにいてやっただけでも温情をかけた方だと思うが」
「何を仰る! 前波は、あんたらが外人相手に麻薬を売るのを見過ごせず……」
「見過ごせず? 五反田から逃れていた不逞外国人を討ちに来たと言っていたが? 我輩のことは知らないとの話だったが?」
「ううッ!」
しまった、という表情で眞行路が口どもる。ボロを出してしまったようだ。
「どういうことだ? 何故、君は前波なる男の行動をそのように推し測るのかね?」
「そ、そらぁ、あんたらの行動に大義が無いからで!」
「大義が無い? 単刀直入に尋ねるが眞行路、君は知っていたのではないか? 我々があの場所で取引に及ぶことを。そして、本庄と共謀して我輩を殺害するべく一計を仕組んだと。違うか?」
「そんなわけないでしょう! お言葉を返すようですがね、その不逞外国人とやらに麻薬を売ったあんたらの罪はどうなるんです! あいつらにも医療用を売ってたって言い訳するんですか!」
「いいや。彼らに売ったのは偽物だ。あのタイ人たちの所業は目に余ったのでね。我輩自らの手で生け捕りにすることにしたのだ。それを本庄に邪魔されたわけだが」
「とぼけるんじゃねぇやいッ! あれは絶対に本物だって、本庄の兄弟が……!」
再び、眞行路は目を見開いて沈黙する。またしてもボロが出た。そこを易々と聞き逃す恒元ではない。
「本庄が? 何だというのだね?」
「いや、何でも……」
「やはり繋がっていたのではないか。眞行路。やはり本庄と結託して、我輩を殺しに来たと」
「それは違ぇッ!」
声を荒げて恒元に掴みかかろうとした眞行路に、俺は銃を突きつけた。
「理事。そこまでだ。それ以上は許さねぇ」
俺に銃口を向けられ、荒ぶる大男は渋々ながらに大人しくなる。
恒元にとっては、してやったりだ。御法度破りの追及を躱せたばかりか、眞行路高虎の不義理まで暴くことが出来たのだから。
「眞行路よ」
「くっ……!」
銃口を突きつけられ、か細く呻くことしかできない眞行路に向かって恒元はこう宣告する。
「本日をもって理事を解任。直参に降格だ」
いやに冷たく、重みのある声に眞行路のみならず俺や酒井までも気圧された。あれだけの啖呵を切った上で歯牙にもかけられずに切られては、立つ瀬も無かろう。歯噛みしながらも、彼は承服するしかないようだった。
「……分かりました」
「ついでに言っておくがな、眞行路。お前が銀座で薬をばら撒いていることは我輩の耳にも入っているのだぞ。仮にも会長である我輩をああまで罵っておきながら、自分のことは例外というのか」
「何の話でしょう。俺にはさっぱり」
「あくまで白を切り通すか。それならそれで良い。だが、既に物証は押さえたのだ。我輩がその気になれば何時でも内外に公表できるという事を忘れるな」
「……」
「それとな、眞行路。お前にはもう一人の息子が居ただろう。執事局の徴募に申し出なかったのは何故だ?」
「……秀虎のことですか。嫡男なら輝虎がいます。俺は出来の悪い次男坊までヤクザにする気はありませんので」
「子の行く末をどうするかは親であるお前が決める話だ。しかし、申告しなかったのは問題だな」
眞行路の不義理は他にも幾つか存在する模様。恒元はそれらを悉く証拠付きで把握しているらしく、まるで暴れ馬を抑え込む手綱のごとく利用する腹積もりだった。
「我輩に本気で逆らえば、どういうことになるか。一度、頭を冷やして考えてみると良い。これまでは御七卿だからと大目に見ていたが、事と次第によっては容赦はせんぞ」
「……チッ」
あからさまに舌打ちをすると、眞行路は部屋を出て行った。奴に反省の二文字は無い。流石に武力で反抗してくる展開は考えづらいだろうが、今後も眞行路一家との軋轢は続きそうだ。
「さて」
軽く伸びをすると、恒元は俺と酒井の方へと向き直る。その表情はいささかの安堵感が見て取れた。
「困ったものだな。これで暫くは大人しくなると良いのだが」
「ヒラの直参に下がったことで、更にタガが外れるかもしれません。いっそのこと破門に処した方が良いのでは?」
「できれば、そうしたいがな。眞行路一家が銀座で築いた人脈は侮れんのだ。政治家の中には我輩を通り越して眞行路と直接誼を通じる者もいる」
どういうわけか、日本の政治家は銀座という街を殊更に好む。彼らが密談を行う場所は専ら銀座の高級料亭で、少し羽目を外して飲みたいときには美しいホステスの集う会員制クラブへと出かける。そうした大物たちを眞行路高虎は上手く取り込み、自身や組を守る“人脈の盾”を作り上げているのである。
ヤクザが警察や政治家に賄賂を払うのは日常茶飯事だが、眞行路のそれは尋常の域をはるかに凌駕している。銀座の警察は眞行路の犯罪を取り締まらないばかりか、奴のためにカタギに無実の罪を着せて逮捕することもあると聞く。
警察庁長官を買収している恒元でさえ、そこには手が出しづらいという。
眞行路高虎は御七卿はおろか、中川会全体を見ても独自の地位を築きつつあった。銀座全体が眞行路の手で半ば独立国と化しているといっても過言ではない。きっと今回の降格処分も痛くも痒くもないのだろう。
「それに、眞行路は抗争では役に立つ男だ。程よく使って手綱を握り続けるしかあるまい」
「馬鹿と鋏は使いようってわけですか」
「そうだな」
俺の例えに恒元は深々と頷いた。他の幹部たちにも同じことが言える。会長への敬意や忠誠心の無さは問題だが、利害が一致する限り彼らは恒元の命令を聞く。イケイケの御七卿といえども、結局のところは自分たちを守ってくれる傘が欲しい。関東博徒の最高権威として中川の名を使いたいのだ。
ゆえに眞行路のような跳ねっ返りも表立って反抗したり、組織を離反することは流石に有り得ない。そう、恒元は睨んでいた。
「いずれにせよだ」
この話題はここまでだと言外に告げるように、恒元は軽く手を叩いた。
「幹部たちの統制はしっかりやらねばならん。このままでは今より組織が大きくなった時に、必ず立ち行かなくなる。子分が親の命令を聞かなくなったらヤクザは終わりだ」
「仰る通りです」
「そのためにも、まずは御七卿の力を削ぐ。全ての兵が組の垣根を超えて我輩の下に集まることが理想形だ」
中川会はひとつの転換期に来ている、そんな気がした。従来は関東圏の博徒のシマを守る守護者と、その恩に報いて奉公をする者たちという曖昧な関係性で成り立ってきたが、そろそろ主従関係を明確にしなくては先行きが危ぶまれる。
特に関西の煌王会は着実に勢力を強めているのだ。俺たちも結束して一枚岩にならねば競り負けてしまう。将来的な東西大戦争を見据えても、盤石な体制作りは絶対に必要だった。
「組織の改革に終わりは無い。これからは修羅の道だぞ」
これからは修羅の道――その言葉の意図するところが果たして何なのか。この時の俺は完全には理解しきれていなかったのだが、近い将来、俺はそれを深く思い知ることになる。
それから6日後の昼下がり。赤坂の総本部では理事会が招集された。
他組織の「幹部会」に相当する中川会の理事会では毎週火曜日の“定例会”と必要に応じて開かれる“臨時会”のふたつがあるのだが、今回は前者の方。定番の火曜日が祝日になっていたため、金曜日に持ち越されたというわけだ。
主な議題は組織人事の発表と、方針転換の表明。前者については眞行路高虎の理事解任が皆に言い伝えられたのみ。本庄利政に関しては処分が無かった。
結果として本庄がお咎め無しで済んだのは大いに意外だったが、会長なりに何か考えがあるものと思い、俺は特に疑問を残すことはしなかった。
ただ、問題は2つ目。恒元の口から発せられた新たな“方針”を前に、幹部たちのみならず護衛で控える俺までもが呆気にとられた。
「本日より、中川会は麻薬の扱いを解禁とする」
会議の場は動揺で支配される。中川会は二代目の恒高前会長以来、初代が書き置いた遺言を基に組織のかじ取りが成されてきた側面がある。反することは許されず、改正自体がタブー、それが暗黙の了解となっていた。
あまりにも唐突な宣言に、誰もが呆然としていたに違いない。長きに渡って保守してきた体制を突如として刷新するというのだ。驚かない方がおかしい。
「まあ……ええんやないですか」
居並ぶ理事たちの中で、真っ先に発言を行ったのはこの男。本庄利政だった。
「初代は立派な親分さんやったけんど、ちぃとばかし頭の硬いところがありましたわな。ヤクザが薬を扱ったらあかん、っちゅうんは理に適わん。ましてや今のご時世じゃあ、時代錯誤もええところや。皆さん。そう思いますやろ?」
本庄が切り出すと、場を支配していた沈黙は次第に収まり、他の理事たちも各々に話し始める。
「……確かに。本庄の言う通りだ」
「だよなあ。ヤクザがクスリを扱っちゃいけねぇなんてのは、理屈に合わんだろ」
「初代のお志は至極真っ当だけどさ、時代の流れに追いつけないんじゃ仕方ないよ」
「しかし、初代からのご祖法を容易く変えてしまうのは如何なものか」
渋い顔をしたのは理事長補佐の門谷くらいで、あとは概ね賛成といった様子で肯定的な意見が大半を占めていた。こうなると俄然士気が上がるのがヤクザというものだ。彼らの本能に根ざした気質ゆえか、血気盛んに推し進めようとする者もいる。
「初代かて組織が潤うのを誰より望んでおられたはずや。毒を食らわば皿まで。とことん、やったろうやないですか!」
その本庄の言葉で、次々と気勢が上がる。七代目大国屋一家総長、櫨山重頼。六代目椋鳥一家総長、越坂部捷蔵、そして三代目森田一家総長、森田直正。表向きは会長のイエスマンである篁理事長を含めて、皆が賛意を示した。やはり、彼らは内心では掟の撤廃を強く望んでいたのか。ここに大原征信が居たら強く反対していただろうが、そこは考えないでおこう。
「突然の申し出ですまないね。だが、我輩は今こそが改革の節目だと思うのだ。時代にそぐわない制度は早急に改めなくては」
しかし、その中で門谷だけは慎重な姿勢を崩さなかった。
「会長の仰りたいことは分かります。ただ、いきなり全面的に禁を解くとなれば混乱も付きまとうでしょう。シマの中に不逞の輩も跋扈するかもしれない」
「そうした不逞の輩を駆逐するためにこそ改革をせねばならないのだ。確かに麻薬は使い方次第で人の身体を害するもの。臭い物に蓋をするがごとく目を背けるよりは、我々ヤクザの専売制とした方がコントロールも効くだろう」
「ええ。その通りでございます。近頃は千葉でも外国人やチーマーのガキどもが平然と麻薬を売るようになりましたから。ですが、今まで禁じていたものをいきなり公に扱うとあっては……」
「問題ない。現に、お前たちは密かに売っておったのだろう?分かっている。我輩の目は誤魔化せんぞ」
「いや……」
たちまち言葉に詰まる門谷。なるほど。これは図星だ。差し詰め、他の御七卿も大原の伊東一家を除いては同じ穴の狢と見るべきか。今までコソコソと商売していたからこそ、会長の方針転換に諸手を挙げて賛成したのだ。この門谷なる男の慎重論も所詮は形ばかりのもの。本当は、麻薬の公認が貰えるならそれに越したことは無いのだろう。
「……そのようなことは断じてございません。手前ども京葉阿熊一家は任侠道を重んじて」
「おうおう補佐ァ、今更ゴチャゴチャ抜かさんといてください! あんただってホンマは嬉しゅうてたまらへんのでしょ? 顔に書いてありますわ!」
なおも食い下がる門谷に対して本庄が横槍を入れる。完全に開き直っている様子だ。ここまで言われてしまえば言い訳のしようがないのだろう。門谷はそれ以上、何も論じることは無かった。
「さて。他に異論のある者は?」
「……」
「決まりだな。ようし。本日をもって中川会は麻薬解禁だ。皆、そちら方面に関しては好きにすると良い。ただし、代紋に泥を塗った者に関しては厳罰に処す。以降は我輩への隠し事も決して許さんから、そのつもりで」
こうして、旗揚げ以来50年以上続いて来た不磨の大典が崩れた。中川会の麻薬取引は事実上の解禁を迎えたのであった。会議室中央の金屏風の前から恒元が立ち去るや否や、幹部たちの笑い声で理事会は幕を閉じた。
一方、眞行路の理事会追放処分については驚きをもって受け止められたものの、日頃よりあの男の横暴が悪名高いだけあって皆即座に理解を示した。「自業自得だ!」と罵る声が多かったと思う。
ただ、眞行路一家は御七卿である以上、幹部の地位を離れてもなお一定の権威は有する。おまけに総長、眞行路高虎の武力。理事から降ろしたことで却って何をしでかすか分からない危険性を生んでしまった感はある。特に、領地が隣接している直参組長にとっては大きな脅威。しばらくは彼らにとって気の抜けない日々が続くに違いない。直参たちが畏縮するのは恒元にとっては痛し痒しだが……。
「涼平。ご苦労だったな」
退出後、執務室へと戻る廊下を歩く途中で俺に恒元は労いの言葉をかけた。
「恐縮です。それより会長、よろしいのですか?」
「何がだね」
「直参たちの麻薬取引をお認めになったことです。クスリ関係を大っぴらにシノギに出来れば、連中の懐は潤うことになる。それだと彼らを勢いづけてしまうことに……」
「よろしいも何も、もう決めてしまったんだ。今さら変えられないよ」
俺の言葉を恒元は笑い飛ばした。禁を解いたからにはその分の上納金をせしめることも可能になるが、それでも懸念は拭えない。彼らが稼いだ分をきちんと申告するとは限らないのだ。性善説では馬鹿を見る。それは裏社会の鉄則だ。
「あの者どもが収益を過少申告することがあれば容赦なく取り潰すだけだ。こちらとしては口実ができるのだから何ら不足ない。その時に備えて戦力を増強させておこう」
「もちろん、俺としてもそのつもりですが……眞行路については例外なのでは?」
「ああ。悔しいがな。しかし、このまま奴の専横に手をこまねいているつもりは無い。関東の王者はこの我輩だ。いずれ必ず、銀座を屈服させてやる」
恒元の力強い言葉に自然と背筋が伸びた。それでも俺は、嫌な予感が拭えないでいた。組織に新たな風を吹かせるのは結構だが、何か開けてはならない箱を開けてしまったような気がする。漠然とした感覚だったので、この時はいまいち上手く言語化ができなかったのだが……。
その事実を思い知らされたのは、皮肉にも直後のことだった。会長の護衛を才原と代わり、夕食を含めた休憩時間を与えられた俺は総本部の外へ出た。連休中には行けなかった赤坂3丁目のラーメン店へ行こうと思ったのだ。
自由に使える金があるのは嬉しい。執事局の最大の利点はシマを経営する必要が無いことだ。一般的なヤクザの構成員と違って月ごとに上納金を払わなくて良いどころか、“扶持料”の名目で会長から月に50万円の手当を支給される好待遇ぶり。
陽が落ち始めた外気は意外と冷え込んでいて、体の芯から冷える寒さすら感じられる。5月だというのに季節外れも良い所である。そそくさと南元町の大通りまで歩いてタクシーを拾い、青山通りの辺りで降りる。
運転手がその店の情報を知らなかったので、止む無く近くまで歩く羽目になった。オープンしたばかりの店にはよくあることだ。
「ええっと、確かこの辺だったよな……」
青山通りを直進して小路に入った、ちょうどその時。
「!?」
背後で感じた強い殺気に、俺は咄嗟に身をかがめた。
――シュッ。
空気が切り裂かれる音が聴覚へ飛び込む。この音は金属による高速移動。俺を狙って刃物の類が投げられたのだと、瞬間的に察した。
「誰だッ!?」
ラーメン屋にしては随分と手荒な歓迎である。怒声と共に振り返ると、そこにはスーツ姿の数名の男が立っていた。連中の胸元には見覚えがある。三ツ撫子の代紋バッジ。本庄組である。
「はあー、避けられちまったか。傭兵をやってたって噂は本当だったようだな。気配を感じる能力は大したもんだ」
その中のリーダー格らしい長身の男を睨みつけ、俺は問う。
「あんたら本庄組か。こりゃあ一体、どういうつもりだ?」
「どういうつもりって。ひとつに決まってんだろ。背後からチャクラム投げる理由って言ったらよォ!」
――シュッ。
啖呵を切り、男は銀色の物体をこちらへ投げつける。
その金属の輪っか=チャクラムはインドの伝統的な武具で、弧を描くように宙を舞う投擲武器。少しでも触れた相手を大量出血させる厄介な武器だ。
「おらッ、躱せるもんなら躱してみやがれぇ!!」
「チッ……」
再び身を躱すが、今度は2発連続で投げつけて来た。
幸いにも軌道は読めるので回避は可能だが、このまま右に左に頭を振り続けてもきりがない。俺は大きく上体を反らして円盤を避けると、返す動作で短刀を抜いて2つとも打ち落とした。
その光景に男は殺気立つ。
「野郎! 調子に乗るんじゃねぇ!」
彼が合図を出すと、奴らは一斉に飛びかかって来る。
敵は7人。皆、各々に近接武器を携行している。一方、こちらはトカレフを懐に入れているが、路地裏で発砲して銃声を響かせるのはまずい。かと言って迂闊に殺すのも避けた方が良さそうだ。ならば……。
俺は短刀を鞘に戻すと、向かって来た1人に足を引っかけて転倒させる。続けてやって来たもう1人を横に投げ飛ばす。そいつが吹っ飛ばされてダウンすると、俺はすかさず背後に迫っていた男を背負い投げして、隣の雑魚も同じく地面に寝かせた。
「な……何だこの野郎!」
あっという間に4人を倒されて焦り出す男たち。言うまでも無く、俺はかなり手を抜いている。確実に相手を殺傷してしまうので手刀や突きは使えない。そもそもこんな奴らを相手に鞍馬菊水流の奥義を使う価値など何処にも無い。
「てめぇらみてぇなカスには手を使うまでもねぇ。脚技だけで戦ってやる」
「舐めんじゃねぇ!」
俺の煽りに逆上し、男は三度チャクラムを投げた。分かっている。これはフェイントで、俺が双円に気を取られている間に残りの奴らが突撃する戦術だ。チンピラながらに連携は取れているが、俺の前では猿知恵だ。
「おらよ」
――バキッ。
低い打点で繰り出した右の蹴りが腹部に命中し、男が地面に崩れる。ちょうどよく飛んできたチャクラムを避けると、後ろに突っ立っていた男の顔面を切り裂いた。
「うぎゃああっ!」
おっと、いけない。この戦いでは流血させないつもりだったのに。尤も、俺に非は無いので省みたりはしないのだが。
「どうした? それまでか?」
「野郎ーッ!」
ヤケを起こして短刀を貫き、腰だめに構えてかかってくる男たち。戦いは先にこうなった方が負けだ。俺はその場で回し蹴りを放ち、残る2人を一気に仕留めたのだった。
「ふう。軽い運動にもならなかったぜ。あんたら、奇襲を仕掛けるならもっとマトモに戦えや」
「くっ……くそったれ……」
「で、俺を殺してどうするつもりだったんだ? 会長への警告か? んなことやったって何の意味も無いってのに」
地面に転がる雑魚どもに問いかける俺。その問いに答えたのは彼らではなく、これまた聞き覚えのあるしわ枯れた声だった。
「そうやなあ。三代目へのメッセージとしては今ひとつかも分からへんなぁ。せやけど、何もせえへんよりは格好がつく」
本庄組の組長、本庄利政だ。
「よう。本庄さん。さっきはどうも」
俺が軽い調子で呼びかけると、本庄は露骨な舌打ちを鳴らした。
「相変らず、しぶといやっちゃのぅ。まあ、異国での修行は伊達やあらへんっちゅうことかいな」
「そりゃどうも。あんたも相変わらず姑息だな。総本部からわざわざ俺をつけてくるとはご苦労なこった。それで? 結局のところ何がしたいんだ? 理事会が終わって早々に俺を殺せば会長の心象を悪くするだろうに」
そう訊き返すと、今度はフンと鼻を鳴らす。
「ああ。それが狙いや。さっきも言うたやろ。おどれを殺せば、ええメッセージになるて。『あんたの思い通りにはさせへんで』っちゅう三代目への警告や」
「警告だと?」
「せや。おどれには若衆を一人、使い物にならへん体にされとるさかいのぅ。このままやられっぱなしっちゅうんは対面が立たんやろ」
「あ? 前波のことか。あれはあんたらの自業自得だろ。悪いが、会長は俺が殺されたくらいで臆したりはしないだろうよ。せいぜい本庄組が取り潰されるのが関の山だぜ」
「ホンマに取り潰せるんかのぅ。あない肝の小さい男に。三代目かて、わしら直参が居らへんかったら何もできへんやろ……まあ、ええわ。今日はこのくらいにしといたる」
そう言って本庄は笑った。口角こそ上げたが、瞳の奥はまるで笑っていない。この冷たい微笑みこそが五反田の蠍の真骨頂、五年ぶりに間近で見る本庄利政の貫禄に俺は若干の懐かしささえ覚えたのだった。
「おう、おどれら。いつまで寝とんのや! 早う帰るで! こないなとこ人に見られたら、わしの名に傷がつくやろ! さっさと起きんかい!」
ボコボコにされた子分たちに発破をかけ、足早に撤退を決め込もうとする本庄。その背中へ俺は言葉を投げた。
「おい、本庄さんよ。あんたは小狡い男だが、決して小物じゃねぇ。物事を大局的に捉える目を持ってる」
「……せやから何やっちゅうねん」
「その頭脳を会長のために使う気は無いか? 敵として向かい合うのが勿体ねぇぜ。他所様のシマをこそこそ侵略するくらいの知恵があるんだからよ」
すると彼はぐるりと振り向いて、俺を睨んで距離を詰めてきた。
「腕っぷしはますます強うなったのに、そういう青臭い所は変わっとらんのぅ。涼平。アホなこと抜かすなや。何で、わしがあないなボンクラのために尽くさなあかんねん。願い下げや。ボケが」
俺にしてみれば、日本に戻って来てから見受ける本庄の行動は意外の連続だった。5年前は曲りなりにも会長のために動いていた男だ。恒元を馬鹿にする輩は誰であろうと許さず、煌王会の大物相手にも容赦ない恫喝を浴びせていたはず。それが、何故……。
あの頃との違いを指摘する俺に、本庄は言った。
「おどれは本音と建前の違いも分からへんのかい。わしが中川の盃ィ吞んだんは、ただ単にヤクザになるためや。ヤクザになって、兎に角ええ暮らしをするためや。せやなかったら、あないゲスの下に誰が仕えるか」
「そうか。あんたには五年前、世話になったからよ。できれば敵同士になりたくねぇんだがなぁ……」
「恩を仇で返しとうない言うんか。甘いのぅ。ヤクザに過去はあらへん。現在、目の前の利益だけ見据えとったらええねん」
「おいおい。真に受けないでくれよ。例え話さ」
「例え話?」
「あんたを味方に付けたいのは事実だが、恩人とは思ってねぇ。あんたには煮え湯も呑まされたからな。喉元過ぎれば熱さを忘れる、ってわけにはいかねぇんだよ。それとこれとは別の話さ」
「ふんっ、せやったらええんやけどのぉ」
嫌味っぽく吐き捨てると、本庄は視線を宙に上げた。時刻は夕方から夜へと移り変わる頃で、空には星が幾つも輝き出している。釣られて星を見上げた俺に本庄が言う。
「この世界じゃあ輝ける星っちゅうもんは限られとってのぅ。べらぼうに大きい1つか2つ、後はみーんな屑星や。そのデカい星の輝きも永遠ってわけやない。どない綺麗な星も、いつかは堕ちる。永遠に輝ける星なんかあらへんのや」
天文学的に5月というのは寂しい時期でとりわけ美しい星座は見えない。それでも夕刻には水星や金星が輝き出し、地上の人々を明るく照らしてくれる。本庄組長に天体観測の趣味があったとは驚きだが、俺は何となく話に付き合ってやる。
そんな俺に、偶然にも見つけた宵の明星を指差しながら、本庄が言葉を繋ぐ。
「あの金星かて、あと何万年後かには消える。人間の輝きはもっと短いで。ヤクザなら尚更や。いつまでも同じ場所で輝いてられるほど、この渡世は甘くない」
「……会長の輝きもあと少しって言いたいわけか?」
「せやな。5年も10年も続かへんやろ。あの男は力の使い方を見誤っとる。組織の力が自分の力やと思い込んどるが、悲しいんはそれを指摘する人間が周りに居らへんいうことや」
何を言い出すかと思えば嫌味か。俺は鼻で笑って応じる。
「そうかい。参考までに覚えといてやるぜ」
すると、本庄はさらに続けてきた。
「涼平。おどれにひとつ教えといたる。ヤクザとして長く輝き続ける男が持っとるもんは何かっちゅうんをな。天下を獲る者には総じて共通項があんねん」
「へぇ? 何だよ、そりゃ。あんたの持論に興味は無いが、聞かせてもらおうじゃねぇの」
「ええかぁ。天下を獲る、それも吹けば飛ぶような百日天下じゃのうて何十年と続く巨木を作るために必要なんは、喧嘩の腕でもなければ、頭脳の良さでもない。血の冷たさや」
「血の冷たさ……だと?」
「せや。受けた恩を平然と仇で返して、どない親しい人間でも目的のためには簡単に切り捨てられる冷血ぶり。それが己っちゅう人間を天下に輝かせるために必要な唯一の要素や。中川恒元にはそれがあらへん」
いかに冷血でいられるか――。
確かに一理あると思う。しかしながら、彼自身も完全に情を捨てられているかといえば決してそうではなかろうに。山崎が殺された時、奴は慟哭していた気がする。100パーセントにドライな人間など居はしないのだ。
要はあれこれ理屈をこじつけて「中川三代目の時代は長く続かない」と言いたいのだ。挙げ句、自分はヤクザとして至極真っ当だとも言いたげ。すっかり呆れてしまった俺はそれ以上議論する気も起きず、黙って本庄に背を向けた。
「……やっぱあんたとは相容れないぜ」
去り際、向こうから声が飛んでくる。
「涼平。おどれが乗っとんのは泥船や。そう遠からず、あのボンボンの下についたことを後悔する日が必ず来るで。必ずな。それまでせいぜい頑張れや」
「好きに言ってろよ。あんたがどう思おうが関係ねぇ。俺は俺の役目を果たすだけだ、会長の側近としてのな」
「けっ。能書き垂れよってからに……そないに立派な奴から淘汰されてくのが渡世の常や。みっちゃんも、村雨はんも」
捨て台詞を吐いて立ち去っていく本庄の背中を見ながら、俺は煙草に火をつける。そして、深く煙を吸い込んだ後、ゆっくりと吐き出した。
本庄利政、食えない男だ――。
何と言えば良いか。五年前よりもずっと蠍らしくなっていた。狡猾と強欲、それから悪辣と下劣とを一身に纏ったような男。あれを味方に付けるなんて夢のまた夢。同じ組織に居る限り脅威にしかならないであろう。
眞行路とは違った意味で危険だ。このまま放置しておいて良いものか……?
いや、良いはずは無いが、全ては恒元の采配が決めること。一階の護衛係が考えたところでどうなるものでもない。不毛な脳内問答にコンマを打ち、ひとまず夕食を取ることにした俺。
しかし、遠回りの末にやっと辿り着いた目的地には思わぬ掛け札が掛かっていた。
『本日定休日』
まさか金曜日が休みだとは思わなかった。
そもそもラーメン屋という飲食業の代表的存在が最も集客の見込めるはずの金曜日に休むとは、誰も予想し得ないだろう……とはいえ、店に考えあっての休業ならば仕方のないこと。俺は豚骨ラーメンを諦めて歩き出した。
荒事を演じた所為か、やけに腹が減っている。何か食わねば気が滅入りそうだ。そんな中、速度を緩めて歩いていると、洒落た看板が目についた。
「へぇ。この店、喫茶店なのか……?」
コンクリート打ちっ話の無骨な外観には似合わぬ『カフェ・ノーブル』という店名。そのギャップで目を引かれた俺は吸い込まれるように扉を押した。
一度空腹を自覚してしまうと、そればかりが意識を支配し始める。今さら大通りに出て居酒屋を探すのも面倒だ。喫茶店であればボリューム感のある料理は期待できないまでも、軽食くらいはあるだろう。腹の虫が鳴った所為で、他の何よりも食欲が勝ってしまう俺であった。
「いらっしゃいませー」
女給の声が迎えてくれる。店内はシックで落ち着いた雰囲気に包まれていて、あちこちに飾られた小さな花が僅かな彩りを添えている。この空間に居れば自然と心が休まりそう。異国のそれとは違う日本のカフェならではの様式美だった。
「おひとりさまですか。カウンターにどうぞ。今、メニューを持ってきますね」
その女の顔を見て、俺は全身の毛が逆立つ感覚をおぼえた。
透き通るような美白と、後ろで束ねた絹のように艶やかな髪が印象的。まるで雪の妖精のようだ……と詩人めいた表現が浮かぶほど端正な顔立ちをした女性だった。年齢は俺と同じか少し上くらいだろうか。美しい。あまりにも美しい女だ。
「ん? お客さん? どうされました?」
麗しさを前に硬直する俺を当人が不思議そうに見ている。いけない。見惚れている場合ではない。ハッと我に返り、慌てて応じる。こんな時、己の経験値不足が嫌になる。
「あ、いや。ちょっと、腹が減ってるもんでな。何か食べる物もあれば嬉しいんだが……」
「はーい。でしたら、お口に合うか分かりませんが、美味しいご飯があるんですよ」
たどたどしく言葉を返した俺に微笑むと、女給は小冊子を手渡してくる。その『カフェ・ノーブル』は喫茶店でありながら本格的な食事の提供もウリにしているようで、メニューにはオムライスやカレーといった料理の数々が並ぶ。
「でも、うちの主力はコーヒーなんです。直輸入のエチオピア・コーヒー。店内で焙煎してます」
「そいつは珍しいな。俺はあの国のコーヒーの、ちょっと甘酸っぱい感じが好きだぜ」
「えっ、飲んだことあるんですか? エチオピア産を出してるのは都内でもうちの店くらいだと思ってましたが…… 」
「ああ。前に仕事でアフリカに居たもんでな。エチオピアじゃあないが、周辺国にけっこう出回ってる」
「へえ。そうなんですか。確かにアフリカでは中南米産よりもポピュラーだと聞きます」
コーヒーについて少なからず知識を持っている様子のウェイトレス。蘊蓄を語る彼女の顔をよく観察してみると、目鼻立ちもかなりくっきりとしていて美しい。間違い無く“美人”の類に入る女だ。
「エチオピアは帝国主義の時代に唯一、あの大陸で植民地支配を免れた国ですから。アフリカの誇りみたいな存在らしいです。だから、現地の人々は欧米人が持ち込んだ豆よりもエチオピア産を好むのでしょうね。列強には負けないぞってことで」
「そうだよなあ。そういう背景もあるよなあ。ヨーロッパじゃアフリカのコーヒーをカトゥーラやブラッディ・マンデリンと呼ぶとか。生豆に泥がついてるからその名が付いたって話だよな」
「おっ! お詳しいですね!」
「あの辺りの歴史を知ってる身としては、好きな呼び方じゃねぇんだよな。何か、見下してるような感じがして」
「分かります。ヨーロッパ人のネーミングって、意外と蔑称だったりするんですよね」
屈託なく笑う女給の表情に一瞬見惚れてしまう俺。よく見ると胸もそれなりにあるようだ。この店の制服らしい白のブラウスがもこっと膨らんでいる……いけない。ここで欲情するなんて恥の極みだ。俺は慌てて自分を抑える。
日本に戻って来てから、ずっとこうだ。綺麗な女を見ると体が熱くなる。我ながら呆れるほどの変態野郎だ。
ともあれ、注文を決めねば。
「レギュラーコーヒーをホットでくれ」
「お料理はどうされますか?」
「うーん、じゃあ……」
俺は小冊子に再び目を落とす。
オムライスやカレーも良いが、腹の減り具合からして今はそれよりもボリューム感のあるものを食いたい気分である。それならば炭水化物の権化である麺料理が最適だろう。
「……このミートソースってのを頼む」
「はい、ミートソーススパゲティですね! かしこまりました!」
丁寧に一礼するとカウンターの奥へと消えていく女給。いちいち仕草が優雅な印象を受けた。そうして彼女は間もなくコーヒーを淹れ始め、たちまち辺りに良い香りが漂い始める。あぁ、腹減ったな……と思っていたらすぐこれだ。プロの手捌きは見惚れてしまうほどに速く正確。あっという間に熱々のコーヒーがテーブルの上に運ばれてくる。
「お待たせしましたー」
注文の特製自家焙煎コーヒーをひと口啜る。
「……美味い!」
柑橘系のさわやかな風味と珈琲豆特有の苦味が華麗な二重奏を奏でている。それでいて後味はスッキリしていて、飲んだ後には余計な後が残らない。これならば食事にも合いそうだ。
「良かった。お口に合ったようで何よりです」
「あの大陸の荒野を駆けまわっていた頃を思い出した。やっぱりエチオピア・コーヒーは美味いな」
嬉しそうに微笑む女。
その表情を見るだけで心が安らぐ感覚がする。異国でも美女と呼ばれる類の人物と何度もお目にかかって、時には夜を共にしたこともあるが、どうにも彼女は違う。不思議と気持ちが穏やかになる。こんな気持ちになるのは久方ぶりだ……。
「ところでお客さん、何のお仕事をされてるんですか?」
「ん? ああ……」
あまりにも美味いコーヒーのおかげで傭兵時代の思い出が蘇っていたところで、女給の質問が飛んだ。何て答えれば良いのか。俺は焦る。「傭兵をやっていた」なんて言えない。ましてや「今はヤクザだ」なんて言えるわけが無い。さて、どうする?
悩んでいた中で運良く、無難な答えが生まれた。
「……会社員だ。貿易関係でな。仕事柄、色んな国に行くんだよ」
「へぇ、貿易かぁ! なら、アフリカとかにも?」
「ああ。あの辺りには1年くらい住んでた」
「凄いなぁ……私も行ってみたいです!」
「良い所だぞ。飯が美味いし自然も綺麗だ。ただ、物凄く治安が悪いけどな」
実際、あの国は素晴らしい場所だったと思う。文化や風習の違いも面白いものだったが、やはり一番の魅力は何と言っても地球の長い歴史が作り出した景色だ。
「ヴィクトリアの滝やキリマンジャロ、あれは絶景だったぜ。しかし、ここ数年は周辺が物騒すぎる。アフリカはまだまだ気軽に行ける所じゃねぇのかもしれん」
「国家間の紛争もまだまだ続いていますし、内戦や民族対立なんかも未だ根強いって聞きますよね」
「それでも正真正銘の戦国時代だった東欧に比べりゃ安全な方だけどな」
「東欧? そっちにも行ったんですか?」
「ああ。仕事でな」
おっと。それ以上語ると傭兵をやっていた頃の血生臭いエピソードを語ってしまいそうなので、この辺にしておこう。
女給は俺との会話が少し落ち着いたあたりで厨房へ戻り、再び料理を始める。
「お待たせしましたー」
そうして運ばれてきたのは、ミートソーススパゲティとサラダ。その香りに食欲を刺激され、俺はさっそくフォークを手に取ることにしたのだった。
「いただきます」
まず最初に手を付けたのはパスタだ。麺がもちもちで旨い! 話によればこちらも自家製らしい。とにかく食感が良くて、味も虜になってしまいそうだ。トマトの酸味が効いたソースとも絶妙に絡み合っている。
「美味いな。これは絶品だ」
「はあー、良かった。パスタを茹でるのは初めてだったので。お客さんが気に入ってくれるか、ドキドキしてたんです」
「ここはあんたが経営してる店じゃねぇのか?」
「まさか。20歳の小娘に店なんか持てませんよ。私はバイト。と言っても、最近は私一人で切り盛りしてるようなものですけどね。えへへっ」
「そ、そうなのか」
何か複雑な事情があるようだ。その証拠に、苦笑い気味で語った彼女の表情にはどこか影が差している。
「でも、こうしてお客さんに美味しいって言って貰えるのが何よりも嬉しいんです。それだけで他の悩みなんか一気に吹っ飛んじゃいます。そのためにこそ、ここで働いてるのかもなあ」
女給の言葉に強く感心した俺は、その後も夢中でスパゲティを頬張る。コーヒーのお代わりも貰った。今宵は会長の夜間警護もあるのでカフェインを摂っておいた方が良さそうだ。
「ああ。美味かった。こんなに美味いもんを食ったのはいつ以来かな」
「嬉しいです。お客さん、本当に美味しそうに食べてくれましたものね」
「だって、マジで美味かったんだから」
「うふふっ。お粗末様です」
「あんたとの話も楽しかったぜ。その、良かったら……」
あんたのことをもっと教えてくれ――そう言いたかったが、思い切った台詞を吐くには至らなかった。ちょうどその時、店のドアが開いて他の客が入ってきたのだ。派手なドレスを着込んだキャバ嬢風の女たち数名である。
「いらっしゃいませ!」
「かりんちゃん、おばんでぇ~す! これからロングの営業だからさ。コーヒーを飲ませて貰おうと思って」
「はーい、かしこまりました! お食事はいつものオムライスで良い?」
「うん! かりんちゃんのオムライスって、ほんっと美味しいからね。正直、マスターのよりずっと」
「もぉ! 褒めても何も出ないよぉ?」
「だって本当のことだもーん!」
会話を聞く限り、そのキャバ嬢とは親しい仲にあるようだった。始業前に同僚を連れてくるくらいだから相当な常連客なのだろう。
それから店にはぞろぞろと他の客が入って来て、女給は彼ら彼女らの接客に追われる。ゆえに俺とじっくり落ち着いて話すことはできなくなってしまったが、こちらは既にコーヒーも飲み干して料理も完食しているので仕方ない。元来、ウェイトレスとはそういうものだ。
最後、会計の際に再び話すことができた。
「お会計は1050円になります」
「あいよ。この店、マジであんた一人で切り盛りしてるんだな」
「ええ。今、マスターが店に出て来られなくて。雇っている従業員も私一人だけだから、私がマスターの代わりに」
「こんだけの量を一人で相手するなんて、すげぇな……」
感嘆と共に店内を見渡した俺。
先刻よりも客の数はさらに増えており、店内はほぼ満席状態。客たちの姿を改めて観察すると、皆それぞれにラメ入りのスーツやドレスといった派手な装いをしている。察するに、連中はこの辺りで働くホストやキャバ嬢、その他夜職関係者だ。仕事前の腹ごしらえも兼ねて眠気覚ましのコーヒーを飲みに来たものと思う。
おまけにこの『カフェ・ノーブル』は出前も受け付けているそうで、近隣の夜の店に珈琲豆も卸している模様。流石にそれは配送業者の手を借りると言うが、接客と並行して注文を捌くなど彼女一人でこなせる仕事量ではないことは明らかだ。
聞いて驚いた。俺は思わず「しんどくはないか?」と尋ねたが、女給はにっこり笑って首を横に振る。
「いえいえ! 慣れればなんてことありませんよ! それに、私はお客さんの笑顔を見るのが好きなので」
誇らしげに語る笑顔はとても晴れやかで、本当に仕事を楽しんでいる様子が見て取れた。この店の雰囲気や料理の美味さは間違いなく本物だ。それはきっと、店を切り盛りする彼女の心が生み出したものなのだろう。
「おーい、かりんちゃん。早くこっちに来てよ」
店内奥の席に座る男性客が呼んでいる。これ以上、雑談を続けては迷惑になると思い、俺はここらで退散することにした。少々後ろ髪を引かれる思いだが、また近いうちに来れば問題無いだろう。
「ごちそうさまでした。また来させてもらうぜ」
「はーい! またいらしてくださいね!」
俺に深々とお辞儀をした後、彼女はすぐさま客の居るテーブルへと向かってゆく。勘定を済ませた俺はゆっくりと店を出て、およそ1時間前にも増して肌寒い夜風に吹かれながら息を吐く。
あの女、名前は“かりん”っていうのか――。
偶然足を踏み入れた喫茶店で、あんなに美しい女と出会えるなんて思ってもいなかった。歳も俺のひとつ下らしい。都会の雑踏の中、アスファルトで舗装された道路から可憐に咲き誇る大輪の花を見つけた心地だ。
近いうち、また訪れるとしよう。
「さて、行くか」
俺は気持ちを切り替えて、再び夜の街へと歩み出すことにした。この後は会長の夜間警護が入っている。
総本部へと戻る道中、考えていたのは本庄のこと。自分が日本を離れている間に組の兵力を増強していた点もさることながら、奴の放った言葉が妙に心に引っかかる。
『立派な奴から淘汰されてくのが渡世の常や。みっちゃんも、村雨はんも』
麻木光寿と村雨耀介。この両名が例えに持ち出されたことに、どうにも不穏なものを感じていた俺。本庄にとって、前者はかつての兄弟分であり親友、後者は極秘の密約を結ぶ同盟者であるはずなのだが……。
『淘汰』とは如何なる意味か?
在りし日の麻木光寿が渡世で競り負けたとでも言いたいのか? 村雨耀介がいずれ破滅するとでも言いたいのか? 2人とも俺とは決して浅からぬ縁を持つだけあって、彼らを悪く評する台詞が聞き逃せなかった。
何にせよ、親は親、俺は俺。村雨とも縁が切れている。ゆえに思い悩む理由なんて無い。余計なことは考えず、今はひたすら中川恒元に尽くすことを考えれば良い。そうでなくては、あの日、全てを捨てた自分に申し訳が立たない――。
村雨耀介の後継者として歩むはずだった人生を自ら棒に振ったのは、恩ある村雨を破滅から救うためだった。おかげで愛する女を裏切ることにもなったし、結果として長きに渡る異国暮らしを強いられもした。
だが、あの選択を悔やんではいけない。悔やんでしまうと、俺の人生そのものが絶望の色に染まってしまう。「あれで良かったのだ」と過去を肯定して、前に進むしかない。たとえこれから歩む未来が偽りであろうと、なかろうと。
己を滅して、忠誠心だけを燃やして中川恒元に仕えよう。
そう割り切れるのは、鞍馬菊水流の過激な修行を経て心境に変化が現れたからではない。異国の戦地を転々とする傭兵によって心がすり減ったからでもない。結局のところ、そうしなくては自分を保てなかったからに他ならぬ。
「……全部、俺が選んだ道だ」
これから何が起ころうと構わない。運命と対決し、力ずくで打ち破ってやる。独り言を呟き、決意に身を固め、俺は夜の赤坂の街を速やかに歩いて行った。
かつて未来を奪った男・中川恒元に付き従う覚悟。それは涼平が自ら選んだ道。過去への未練を捨て、哀しき男の冒険が始まる……!
ーー
これにて第9章は完結です。お読みいただきありがとうございます。読者の皆様のあたたかい応援が、作者の励みになっております。本当に感謝に堪えません。引き続き、来週から第10章が幕開けとなります。今後とも『鴉の黙示録』をよろしくお願いいたします!!
雨宮妃里