海岸ドライブ
朝食を済ませた後、俺は黙々と庭を掃除していた。
作法はひと通り秋元に教わったので、もう自分の力だけで黙々とこなすことができる。そうして作業に没頭していると、頭の中では様々な事が浮かんでくるものだ。
自分はどうして、村雨組長にあんな事を言ってしまったのか。
正直、分からなかった。目の前にいるのが恐ろしい人物なのだと、たしかに知っていたはずなのに。下手な振る舞いをすれば即、死へ繋がることをはっきりと認識していたはずなのに。
あの時、命知らずにも程がある主張をした俺の脳裏をよぎっていたのは、絢華のことだった。
両脚の自由を失ってから、ずっと独りぼっちでいる虚しさ。
実の父親に、正面から向き合ってもらえない寂しさ。
そして、思い通りに生きられない現状への歯痒さ。
俺は彼女をどうにかして、助けてやりたいと思った。決して打算が絡んだ感情ではない。ただ直感的に、本能でそう願ったのだ。きっとそれは絢華の瞳に、自分と似た何かを感じ取ったからだろう。
「ん!?」
そんな考察に耽っている間に、トランシーバーにコールが入っていた。複数回も鳴ったバイブ音で慌てて我に返る。部屋に辿り着いた頃には、それはもう絢華はおかんむりだった。
「遅い。この役立たず」
「おいおい、そんな言い方ねぇだろ……」
「つべこべ言う暇があるなら、さっさとここを片づけて」
部屋の掃除を押しつけられた。それから何ひとつ喋らない時間が、かれこれ10分以上は続いた。雄弁は銀、沈黙は金とは言うが、余計な事を口走らない方が良いにしても気まずい沈黙の空間というものは流石に堪える。
「あのさ。今から、ちょっと出かけてこようぜ」
「……は?」
流石に驚いたようで、唖然とする絢華。あまりにも突拍子もない提案である自覚はあったから、当然といえば当然なのだが。
「ずーっと家に居たんじゃ気持ちも沈むだろ。たまには外の風に当たることも必要だって。今日は天気も良いことだしさ。言ってみないか?」
「嫌。日焼けしちゃうし」
「ほら、そんなこと言ってねぇで支度しなって!」
戸惑いながらベッドに寝転がる絢華を少し強引に起こして、黒色のジャンパーを着せる。そして体を持ち上げて車椅子に乗せると、俺は彼女を押して足早に部屋を出た。
「ちょっと、麻木君? お嬢様をお連れしてどこへ!?」
「外の空気を吸いに。坂の下の公園にでも行こうかって」
廊下で出くわした秋元もまた、呆気に取られていた。長らく引きこもり生活を送っていた絢華が「外出する」こと自体、珍しく思えたのだろう。
「なあ、秋元さん。あんた、車の運転はできるか?」
「免許なら持ってますけど……どうしてまた」
「せっかくだから、遠出するのも良いと思ってさ。だって半年近くも家から出てねぇんだろ? 気分転換だよ」
しばらく考え込んだ後、秋元は聞き慣れぬ名前を口に出した。
「……分かりました。では、ヒロタ君にお願いするとしましょう。このままガレージへ向かってください」
どうやらヒロタなる男が、運転を担ってくれるらしい。俺は初耳であったが、普段は幹部付きの運転手をしているとのこと。
「組長には、私の方から話しておきます。でも、夕方までには戻って来てください。くれぐれも危ない場所には近づかないこと、いいですね?」
「ああ、分かったよ」
その間、絢華は車椅子に座ったまま真顔で沈黙を保っていた。
「……」
しかし、特に不満を口にするわけでも無かったので、たぶん彼女自身も乗り気であったのだと思う。発言に一切の忖度が無いお嬢様のことだ。外に出るが嫌なら、すぐさま「やめて!」と大声を出すであろう。
一方、嬉しそうだったのは秋元。
「お嬢様が……お外に出られるなんて……」
彼女の目はすっかり細まって、頬は穏やかに緩んでいる。
久方ぶりとなる主人の外出を不安に思う気持ちも少なからずあったのだろうが、それ以上に喜びの方が勝っているようだった。やはり、絢華が人間らしい生活を取り戻すことは秋元の願いでもあるらしい。
「んじゃ、言ってくるぜ」
「はい! お気を付けて!!」
笑顔で見送る秋元を背にして、俺たちはガレージに降りた。
そこにあったのは、黒く光るセダン車が現れた。車体中央で美しく輝くエンブレムは、この世界で最も有名なメーカーの意匠であろう。
黒光りする高級車――。
子供の頃、父が頻繁に乗り回していた代物と同型だ。久々の再会に、俺は思わず胸が高鳴った。
「すっげぇ!!」
おそらくは、センチュリーのSクラスだろう。余談であるが、日本のヤクザは本当に黒のセダンを好んでいると思う。近年でこそヴェルファイアだの、アルファードだのとバラエティーに富んでいるが、90~00年代に「犯罪に使われる車」と言えばセンチュリーかベンツが定番だった。
「やっぱ、この車だよな……」
親父が生きていた頃、実家で毎日のように見かけた車との再会。興奮するなと言われる方が無理だ。衝動的なノスタルジーはまったく冷めない。
すると、そこへ1人の男が現れた。
「よう! 1週間ぶりじゃねぇか」
俺は息をのんだ。
「あっ、お前は……」
やって来たのは、俺が組に来た日に怪訝な態度で出迎えた小柄な門番だった。
「あの時は、随分とナメたマネをしてくれたじゃねぇか。本当なら今すぐにでもブチ殺してやりたいところだが、今日はお嬢の手前だ。特別に許してやるよ」
己よりも格上の者の威を借りる所は、まったく変わっていない。呆れる俺を尻目に、彼は絢華の前でペコリと頭を下げて見せた。
「お嬢。本日は、この廣田 稔樹がお供いたします。さあ、お乗りください」
この男が、例の“ヒロタ”か――。
呆然とする俺には全くお構いなしで、廣田はエンジンをかけてから左の後部座席を開けて、絢華を乗せる。シートベルトで体を固定させると、自らは運転席のドアに手をかけた。
「おい、てめぇもグズグズすんな。さっさと乗れ」
「チッ。何でそんなに偉そうなんだよ……」
促されて、俺は右側の後部座席に腰を下ろす。その間、呆れていたのだろうか。絢華は何も言わなかった。
「さて、どこへ行きます? どこか、行きたいところがあればお連れしますが」
「……」
とはいえ、外出自体をしばらく忘れていたのだ。急に行きたい場所を問われても、返答に困るだけだろう。絢華は何も答えなかった。
押し黙ったままの時間がもどかしい。ここはひとまず、助け舟を出してやる。
「なあ。とりあえず、湘南に行ってみねぇか?」
あからさまに顔をしかめる廣田。
「はあ? 何でお前が決める……」
しかし、絢華の反応は違った。
「うん。では、行きましょう。茅ヶ崎あたりに」
「お嬢、良いんですかい?」
「いいって言ってるの。ほら、早く出して」
自分を殴り、愚弄した男の指図などまっぴら御免だろう。誰がお前のリクエストなんかに応じるかと言わんばかりに怪訝な目をしていた廣田であったが、絢華に言われたからには従うほかない。
素直に車を発進させた。一方、俺は窓の外を見やる。
飛び込んでくるのは横浜の街の風景。来てから2か月が経つものの、詳しい住所や地形を全て理解するには至っていない。運転は行きも帰りも廣田が担ってくれているようだから、今回に限っては迷う心配は無いだろう。しかしながら、今後のためにも早めに地理関係を把握せねば。
「……」
絢華もまた、頬杖をついて外の風景を眺めていた。
「どうだい? 久しぶりに外へ出るのは。やっぱ気持ちいいもんだろ。こういうドライブは」
「……別に」
相も変わらず不愛想な女である。ちょっとばかり、からかってやろうと思った。しかし運転席の廣田が、バックミラー越しに俺を睨んでくる。
「おい。気安い口の利き方をするな」
「は?」
「まったく。主人にタメ口を使う召し使いがいるか!」
廣田はそれ以上、何も言ってこなかった。ところが車が交差点を曲がって大通りに出ると、彼は車のCDドライブに何やらディスクを挿入し始める。
「何だ? それ?」
「お嬢がお好きなアーティストの曲だよ」
そう言いながら、廣田は再生ボタンを押す。
すると、どことなくクラシカルな雰囲気なピアノのイントロの後に、女声で歌詞が聞こえてきた。以前、何かの機会で耳にした曲のような気がしたが、いまいち思い出せない。
気になって、隣の絢華に尋ねてみる。
「……これは?」
「タイム・ゴーズ・バイという曲。知らないの?」
「いや、知らないってわけじゃないが。その、なんつーか、名前を思い出せなかった」
この年の2月にリリースされた、男女3人組ユニットの楽曲である。ヴィジュアル系ないしはロック以外の音楽に疎い俺には、分からなかった。
「ふうん。やっぱり、あなたって無知なのね。少しは自分の好きな曲以外も勉強した方が良いかもね。恥をかくよ」
「はいはい。ご忠告、どーも」
そう軽くあしらいながら聴いていると、1回目のサビの部分で絢華の足が軽く動いた。そのうち、俗に言う“貧乏ゆすり”のような動作でリズムを取り始める。その姿を見て、俺は訊かずにはいられなかった。
「おい、お前……」
「なによ」
「脚、動くのか?」
絢華はコクンと頷いた。
「感覚自体はある。ただ、力が入らなくて歩けない」
「そうなのか? でも、お前は……」
「ねえ、静かにしてくれるかな! いま、聴いてるところ!」
脚のに関しては何かしらの事情があるのだろうが、ピシャリと遮られてしまった俺。非常に気になる所だが、それ以上は尋ねることができない。
「……」
車の中は気まずくなってしまったが、10度目のリピートが聞き終える頃には、市街地を抜けて海沿いの通りに入っていた。
平日の午前中だからか。前にも後ろにも、他の車が1台として走っていない。そんな光景が後部座席にも伝わってきた時、絢華が口を開いた。
「ねぇ、廣田。もっとスピード出ないの?」
どこか高揚感を内包した声だった。
「は、はい。じゃあ、飛ばしますので……」
強く促された運転手は慌てて、アクセルを踏む。
もちろん、前方にいる車の数はゼロ。思いっきりスピードを出すには、もってこいの状況だった。
「窓、開けてくれる?」
「へい。いま開けますぜっ!」
ゆっくりとウィンドウが開き、暖かい風の香りが車内へ流れ込んできた。速度はどんどん上げて、やがては180キロに到達。圧倒的な清涼感と解放感が、俺たちを包んでいった。
「気持ちいいな!」
「な、なあに?」
俺の声は、風の音でかき消されてしまったようだ。
「気持ちいいなって!!」
「聞こえない!!」
その声は大きくて、元気だった。とても楽しそうで、素の自分が出ているように思えた。
ふと、絢華の方を見る。
(こ、こいつ……)
風で靡く髪に隠れた彼女の表情は、確かに笑っていた。
きわめて色白で、なおかつ上品で、整った顔立ち。
好みのルックスかと問われたら少し迷いが生じるところだが、不覚にもその表情には心が動かされてしまった。
あえて喩えるならば、“感動”だろうか。
「楽しいね!」
窓の外にではなく確かに俺の方を向いて、絢華はそう言ったのだった。