初めての弟たち
2004年5月3日。
俺は執事局の詰め所で寛いでいた。この日、朝から恒元のゴルフに付き合い、慣れないクラブを握らされて辟易した。その後で東京の総本部へ戻り、交代要員と護衛を代わった後は午後の時間を適当に潰していたのである。
世間的にはゴールデンウィークだが、ヤクザの世界には関係ない。親分の都合次第で忙しくもなるし、暇にもなる。つまり、普段の平日と何ら変わらない日常が続く。
次長になって2か月近くが経過するが、恒元の寵愛ぶりは相変わらず。どこへ行くにもお呼びがかかるし、外出時には必ず側に置こうとする。忍者である才原が遠くに潜んで哨戒する一方で、俺が近距離を守るという護衛スタイルだ。気に入ってくれるのは有り難いが、あまりベタベタされるのは好ましくない。おかげで俺は息つく暇もないのだから。
さて、久々に獲得した自由時間だ。気分転換がてらに近くのラーメン屋にでも行ってみるか……と思っていたら、部屋のドアが勢いよく開いた。
「次長! こんな所でサボってたんですか!?」
ドアを蹴破らん勢いで入って来たのは、酒井祐二。先々月から配属になった執事局の新メンバーだ。彼はツカツカと歩み寄ってきて、俺に向けてあからさまに眉根を寄せた。
「どこにも居ないから探しましたよ。まさか詰め所でサボタージュとは……」
「ったく、騒々しい奴だな。サボりじゃねぇよ。これは真っ当な休憩だ」
「その目。さては反省してませんね!?」
俺が適当にあしらおうとすると、なおも追及を続ける酒井。
この男は次長助勤で、いわゆる後輩にあたる。実直な性格なのだが、気が真面目過ぎる。
何をするにも全力投球。それはそれで良いのだが、馬鹿正直に挑んでは失敗したら取り返しのつかない程に落ち込むから扱いづらい。更にはありとあらゆる場面で規律や順序を重んじ、その通りに事が運ばないと取り乱す始末。礼儀作法に関してもとりわけ五月蝿く、相手が年長者であってもズバズバとモノを言ってくる。
そうした面倒な性格のためか、組織内では常に周囲から煙たがられている。先月には才原に個人的に呼び出されて「神経質では極道は務まらんぞ」と説教を受ける場面を目撃した。
だが、それでも本人は一向に意に介さない。自分の欠点を省みるどころか、真面目なのが唯一の取り柄と胸を張ってしまっている。今回も才原に許可を得た俺の休憩を“サボり”だと一方的に思い込み、詰め寄って来たのであろう。
せっかくの休息時間を邪魔されては敵わん。
誤解を解くためには、少々荒っぽい対応も止むを得ないか……? しかし、この日の酒井の来訪にはきちんとした理由があるようだった。
「会長がお呼びですよ」
恒元から招集がかかっていた模様。
「わかった。すぐ行く」
俺はゆっくりと立ち上がって伸びをした。せっかくの自由時間だったが仕方がない。最近話題の豚骨ラーメンを味わうのはまた今度に取っておこう。
詰め所を出た俺と酒井は、長い廊下を歩いて執務室へと向かう。酒井によれば俺を呼び出した際の恒元は然程焦っている様子でもなかったという。だとすれば、緊急性のある用件ではないと見て間違いない。
どうせ「出かけるのに付き合え」だとか、そんな命令だろう――。
昨日も夕方に突然呼び出されて西麻布のバーへ行ったので、自然と予感を覚える。今朝のゴルフも然り、突然の思い付きで始まったようなもの。中川恒元はプライベートな時間においてかなり気まぐれに動く癖があるのだ。
軽く嘆息をついた直後、廊下で出くわした男がすれ違いざまに挨拶してきた。
「お疲れさまです。兄貴!」
原田亮助。酒井と同じく、次長助勤。
「おい。兄貴じゃねぇ。『次長』と呼べって、いつも言ってんだろ」
「いや、おいらにとっては兄貴っスよ! そう呼ばせてくださいや!」
「ったく……」
決して悪い男ではないものの、お調子者だ。例えて言えば江戸の岡っ引き。朝も夜もそそっかしくて、落ち着きというものがまるで無い。おかげで小さなミスが多く、俺もたびたび叱責している。几帳面な酒井とはまったく対照的である。
聞くところによればヤクザになる前は暴走族の切り込み隊長だったか。それに比例して性格も短気。明らかに自分が悪いと分かっていても、一旦カッとなると我慢が利かない。
ヤンキーのノリで任侠渡世に入って来てしまった――現時点で適切な評価を下すなら、そんなところか。
「おいら、兄貴には絶対服従っスから! 何でも命じてください!」
「はいはい。分かったよ。そん時が来たら、よろしくな」
「へい!」
すると、酒井が彼を睨みつけた。
「おい。原田。いい加減にしろよ。次長がお困りじゃないか」
「ああん? 何だよ、文句あんのかァ?」
「ちゃんと言う事を聞けよ。『次長と呼べ』と言われたら、次長と呼べ。いつまでも暴走族みたいなテンションでいるんじゃねぇ」
「てめぇにゃあ関係ねぇだろうが!」
当然のごとく、ザ・真面目ちゃんの酒井とは反りが合わない。痛烈な指摘に激昂し、取っ組み合いが始まってしまった。顔を合わせればいつもこうだ。配属が決まったその日から、両人は事あるごとに喧嘩三昧だ。
「おい! 止めねぇか!」
俺の一喝でピタリと喧嘩は止む。先に冷静になったのは酒井だ。
「すいません」
しかし……。
「けど、言い分としては俺の方が正しいですよね」
「はあ?」
「俺はあくまで正論を言ってるつもりです。だってほら、執事局は“部局”であって“組”ではないので。盃を交わしてるわけではない以上、“兄貴”と呼ぶのはおかしいですよ」
遠回しに原田を非難した上、俺に賛同を求めてきた。酒井の思考パターンは至ってシンプルだ。いつ、いかなる時も取り決められた順序や理屈に従えば良いと思っている。
「……だとしても、顔を合わす度に揉めるのは違うよな。原田はお前の同志なんだ。ちったぁ仲良くやれや」
所構わず正論をぶつける性格は困ったものだ。返す刀で、俺は原田にも説諭する。
「お前もお前だ。原田。そうやって、すぐにカッとなる瞬間湯沸かし器みてぇな性格は何とかしろ」
「へ……へい……」
「良いか? 俺たちは執事局。会長の親衛隊だ。普通の組のチンピラならそれで良いのかもしれねぇが、俺らに求められるのは節度と忠誠。喧嘩する場所と相手も選べねぇガキに務まるわけねぇだろ」
「そ、そうかも……しれないっスね」
「そろそろ気合い入れて自分を改めろ。でないと、俺が容赦しねぇぜ」
眼光を鋭くした俺の叱咤に、原田は肩をすぼめる。「すいませんでした」と頭を下げ、逃げるようにその場を去っていった。あの様では反省などしていない。また同じようなトラブルが起こる。かつての俺がそうだったから、よく分かる。まったく、暴れたい盛りの10代の少年を相手にするのは骨が折れる――。
自然と、ため息が漏れた。
「次長。大丈夫ですよ。奴には後で厳しく言っておきますから」
「お前は何もするな。あいつに関しては俺や局長がその都度、シメていくしかないんだから」
「いや、でも……」
「さっきの話を聞いていなかったのか? 誰彼構わず正論吹っかけりゃ良いってもんじゃねぇんだよ。馬鹿野郎」
「は、はい……」
やや納得のいかぬ面持ちを作りながらも、一応は頷いて見せた酒井。こいつも行く末が心配である。自他に妥協を許さぬ融通の利かない性格が、取り返しのつかない騒動を引き起こさなければ良いのだが。
「ほら。行くぞ。会長がお呼びなんだろ?」
若干しおらしくなった酒井に声をかけ、俺は廊下を進んでゆく。この男にせよ、原田にせよ、俺にとっては初めての部下。人を育てるという行為が、かくも難儀なものとは思いもしなかった。大体にして、何故に彼らのような曲者が執事局に入ったのか……?
その理由は、実に単純。酒井祐二と原田亮助。両名の父親は中川会の直参組長であるからだ。どちらも親が「不出来な倅ですが何卒よしなに」と頭を下げて恒元の所へ連れて来た。というより、そうするように恒元が働きかけたのだ。
『執事局の欠員を補充する。それ故、16歳以上の息子が在る者は理事・非理事の別を問わずこれを申し出よ。既に組で役職職に就いている者を除き、執事局にて見習い修行をさせる』
先々月に恒元自身が理事会で布告した通達である。
これはが以前に上申した「直参から兵を供出させてはどうか?」との提案に恒元がひと捻り加えたもの。直参組長たちから大事な子息を預かることで、彼らが離反しないよう人質を取る意図があった。実に恒元らしい画期的な策だった。
御七卿は実子が女性であること、もしくは後継者の男子は既に成人して役付きであることを理由に応じなかったが、結果として102ある全直参組織の中から63人が集まり、次長助勤の見習いとして執事局での修行生活が始まっている。
倅を差し出した組長たちは殆どが渋々ながらに従う態度であったが、中には自ら進んで連れてきた親もいる。この酒井と原田の両父君が代表例で、いずれも「自分のところでは最早面倒を見きれないバカ息子を教育してくれ」とばかりに懇願してきた。
特に原田に関してはそれが顕著。暴走族の中核として都内で悪名を轟かせていることもあってか、息子の将来を本気で案じているようだった。
だからこそ、俺はそうして預けられた連中を再教育してやらねばいけないのだが……本当に悪戦苦闘の毎日だ。全員、それまで組長の息子ということで特別扱いされて育ってきた所為か、無駄にプライドが高い。小競り合いが絶えず、目を放せばすぐに喧嘩が始まってしまう有り様。
表立って反抗的な人間が見受けられなかったことを幸運に思うべきなのだろうが、これでは組織全体の統制も乱れかねない。先ずは彼らに如何にして“調和”というものを学んでもらうか、日々考えすぎて頭が痛い。何せ63人もいる。俺個人の部下ではないにせよ、目下の者をまとめ上げる大変さに揉まれている気分だ。
「次長。どうかされました? ボーッとされてますけど」
「いいや。別に……っていうか、お前。目についたことをすぐに指摘すりゃあ良いってもんじゃねぇぞ」
「はい?」
「普通はもっと相手の顔色を窺うんだよ。言わば『間』だな。その間に何を感じたのか、相手の立場になって考えてみるんだ」
「……はぁ」
「いや。“はぁ”じゃなくて。分かったか?」
「……すいません。まだよく分かりません」
案の定というか、またも酒井は分かっていない様子。頭を掻きながらボソリと謝るだけだ。舌の根も乾かぬうちに、またこれが来たか。
呆れ返りながらも、俺は言葉を繋いだ。
「お前、そんなんじゃあ痛い目を見るぞ。今、ここで俺がブチギレてボコらなかったところで、いつか必ず誰かの怒りを買ってシメられる。お前が思ってるほど、渡世は甘くねぇんだよ」
「いえ、俺は別に……」
「お前が良くても周りが困るんだよ。俺や局長がどれだけ心配してるか、分かってるのか? 親父さんの酒井組長だって、お前の今後を本気で案じておられる。いずれ自分の跡目を継げる男に育ってほしいってな。だから会長の下に預けたんだ」
「いやあ、大袈裟な。親に心配してくれと頼んだ覚えは無いですもの」
「お前がどう思うかの問題じゃねぇ! 人の気持ちを考えろと言ってるんだ!!」
俺が思わず声を荒げると、流石の酒井もそれ以上は反論してこなかった。酒井祐二の父である直参、酒井組の酒井義直組長は任侠道を重んじる昔気質の親分。老境に差し掛かって引退を考えたのだが、口ばかりが達者で理屈っぽい息子にこのまま跡目を譲ってしまうのは問題があると考え、執事局で修行させることを決めたのだという。
「……上に向かって自己主張できる度胸は大したもんだ。そいつを活かす場面さえ弁えりゃ、お前は組織にとって欠かせねぇ人材になる。幹部の道だって見えてくる。早いとこ一人前になって、酒井組長を安心させてやれや、なあ?」
俺が静かに肩を叩くと、酒井はコクンと頷いた。彼なりに思うところはある模様。指摘されている現実を受け止め、これから少しでも成長していってくれると良いのだが。
「よし。伝令、ご苦労さん。お前は下がって良いぞ」
「は、はい。次長」
程なくして会長の執務室に着いた俺は酒井を下がらせ、扉をノックする。
「ただいま、参りました。麻木です。お呼びでしょうか?」
「うむ! 入りたまえ!」
部屋に入ると、いつもの黒いソファの右端に恒元がゆったりと座っていた。着座を促されたので俺は向かい側にゆっくりと腰を下ろす。
「失礼いたします」
「休んでるところ、すまないね。急な用事が入ったもので人手が必要なんだ。さっそくで申し訳ないが、出られるか?」
「ええ。もちろん」
案の定、やはり外出の付き添いか。恒元は他に護衛が居る時でも必ず俺をついて来させる。さて、今回はどこへ行かされるのやら……と思っていたら、会長の口から出たのは意外な内容だった。
「取引の日付が早まった。今夜になった。タイ人どもはせっかちで困るよ」
彼の云う“取引”とは、タイの麻薬組織との幻覚剤(LSD)の取引である。日本の暴力団にしては珍しい話だが、中川会はLSDを自家生産している。都内某所には製薬工場に偽装した精製プラントがあり、恒元が個人的に嗜む分を除いた余剰量を他組織へ売り捌いているのである。
LSDは他の麻薬とは異なり、裏社会にて一種のプレミア的価格で流通している。中川会では理事会にて『幻覚剤禁止』を布告済み。だが、それは中川宗家が利益を独占するための方便。実際には会長である恒元が自ら禁を破って私腹を肥やしているのだ。
俺も事実関係を全て把握した時には驚いたものだ。
「大丈夫でしょうか? 勘付かれてはおりませんか?」
「問題ない。バレたところで誰も我輩を糾弾できまいよ。皆、どうせ我輩に全ての利益を申し出ているわけではないのだから」
「それはそうかもしれませんが……」
シノギ内容の是非はともかくとして、会長に歯向かう口実を与えてしまうのではないか? 幹部たちが勢いづくことが何より懸念されてならなかった。
「なあに。心配など無用だ。いざとなったら、おこぼれのひとつやふたつでも渡してやれば良い」
俺の不安を見透かしたかのように、会長は快活に笑った。果たして彼の見立てが正しいかどうかは不明だが、会長が信念をもって取り組むことならば俺も余計なことは口にすまい。今はただ、黙って従うだけだ。
「それでは、早速向かうとしよう。既に才原が現地へ斥候に入っている。お前はいつも通り側に居てくれ」
「はい。承知しました」
「助勤たちも連れて行こう。彼らにシノギの現場の何たるかを教える良い機会だ」
「えっ!? 連れて行くんですか?」
「いつかは教えてやらねばなるまいに。無論、全員を連れて行くわけじゃないのだから」
俺はさっそく詰め所へ戻ると待機していた面々に事の子細を告げ、7人を選りすぐってバンに乗せた。その中には酒井も含まれている。
「お前らは背広に銃を入れて静かに立ってるだけで良い。くれぐれも余計な真似はするんじゃねぇぞ? 分かったな?」
念を押すがごとく注意を促すと、酒井たちは「分かりました」と言った。不安は付きまとうが、恒元の指示なので止むを得ない。当然、選抜組に原田は加えなかった。奴はそそっかしすぎてこのような場面に向いていない。落ち着きが出てくるまでは総本部内で働かせるに留めておくのが賢明だろう。まったく、いつまでかかることやら……。
一方、かくいう俺も隠密の取引は経験が少ない。日本では5年前に村雨組のシノギについて行ったくらいで、後は傭兵をしていた頃に闇商人から銃を買った程度。敵部隊との“交渉”をしたことはあるが、それとこれとは勝手が違いそうだ。
部下たちは別の車で向かわせ、現地で合流する手筈。いつものように会長専用車後部座席の左側シートに背を預けて「ふう……」と一息ついた俺に、恒元は目を細めて話しかけてきた。
「やっぱり骨が折れるか? 新入りどもを相手にするのは」
「はい。団体行動ってものを知らねぇ連中ばかりですからね。まるで昔の俺を見ているようです、ただのチンピラだった頃の俺を」
「ふふっ。最初は誰もがそんなところだ。経験が人を育てる。成長するには、とにかく色んな場数を踏ませるしかないのだ。そうすれば自ずと適切な振る舞いも身に着く」
「だと良いんですけどね……」
「では聞くが、涼平。その、“ただのチンピラ”だったお前がこうまで変わったのは何故だと思う? 自分でも分かっていることと思うが、あの頃と現在とでは雲泥の差があるぞ?」
「いやあ……やっぱり、外国で荒波に揉まれたからだと思います。井の中の蛙、大海を知らず。『上には上がいる』ってのを知って、青臭い思い上がりが綺麗さっぱり消えた感覚があります」
俺の返答に、恒元は指をパチンと打ち鳴らして笑った。
「そう。経験がお前を変えたのだ。彼らだって同じだよ」
現状、酒井たちの役割は直参組織を抑えるための人質であ。よって「即戦力にならずとも良いから長い目で見て鍛えてやれ」と恒元は言った。しかしながら、今のままでは足手纏いも良い所だ。これから赴く現場でも、彼らがどんなヘマをやらかすか分かったものではない。自然と俺の眉間には皺が寄ってしまう。
「不安が顔に出ているぞ、涼平」
「あっ……失礼いたしました……」
「大丈夫だ。今回の相手とは初めてじゃない。信頼関係があるから、そう警戒するような取引にはならんだろ」
「そ、そうですか……」
「新入りたちの勉強の機会としては十分だ。お前も肩の力を抜いて良い」
それでも釈然としないものを感じる俺に対して、会長は諭すようにこう続けた。
「そう簡単に成長してくれるものではないからこそ、人は育て甲斐があるのだ。だから、焦ることはない。彼らの面倒を見ることは、お前にとってもきっと良い経験になる」
会長の言葉を受けて、俺はそれ以上考えるのを止めた。ここで悩んだところで俺が答えを出せるはずもないのだ。それよりも、今は目の前の仕事に専念すべきだと判断したのである。
「……分かりました。必ずや、あいつらを一人前に育ててみせます」
「うむ。良い返事だ。それでこそ、お前だ。我輩から見ても、よくやっていると思うぞ。言っては悪いが、お前の父親は人を育てることに限っては不得手だったからな。あれとは大違いだ」
「えっ? そうだったんですか?」
「ああ。おかげで麻木組は奴の死後、すぐに崩壊してしまった」
父の率いた組が解体した経緯についてはよく存ぜぬが、考えてみれば麻木光寿という男は部下への当たりが何かと強かった。子分や舎弟たちに対しては常に威丈高かつ尊大、意に沿わぬことや気に食わぬ振る舞いがあればその場で鉄拳制裁を加えていた。笛吹慶久が良い例である。
横暴な言動があろうと、それでも川崎の獅子を慕う者は多かったが、笛吹のような跳ねっ返りが存在したのもまた事実。事実、あの男は日常的な折檻を恨みに思い、光寿の息子である俺に対して復讐を企てるに至ったのだから。他にも“被害者”は存在するものと思う。
俺の知らない父の姿を沢山知っているのか、恒元はしみじみと苦笑していた。
「光寿と違って、お前は人の使い方が上手い。暴力や脅しに依らず人を動かす術を既に心得ている」
「そ、そうですかね……?」
「焦らず、じっくりと向き合ってみることだ。父親のようにはなってくれるなよ。あははっ」
会長の乾いた笑い声に、俺はただならぬものを感じつつも頷くしかできなかった。そうこうしているうちに車は目的地の近くまで来たようで、程なくして運転手が声を上げた。
「会長、そろそろ到着いたします!」
「ああ。分かった。門の前に止めてくれ。敷地内へは歩いて行く」
とりあえず、今は仕事に集中しよう。恒元曰く、今回の取引場所は稼働を終了した廃工場で、こちらも先方もお互い合流地点には車を近づけない取り決めになっているという。互いに制約を課すことで、信用関係を保つことに繋がるのかもしれない。
バンは工場前の駐車場に停車した。ドアを開けると、かび臭いような埃っぽい空気とともに外気が流れ込んできた。五月の上旬にしては暑い28度。これから来る梅雨を通り越して夏が一足早く来てしまったのかと思ってしまう気温だ。
俺は一息吐いてから恒元と共に降車した。酒井たちのバンも到着済みだ。
「ようし、着いたな。それでは行くとしよう。定刻通りだが彼らを待たせては申し訳ない」
皆に声をかけて歩き出す恒元。すると、どこからともなく影が現れた。
「……会長。ご苦労様でございます」
才原だ。俺たちに先駆けて現地入りしていた彼は、辺り一帯を見て回っていたのだ。特に罠が張り巡らされている気配も無かったようだ。
「この前と同じように連中はもう来ております。総勢31名。懐に拳銃を隠し持っています」
「うむ。分かった」
「ただし、この工場跡は人が隠れられるほどの遮蔽物も多いと存じます。万が一の可能性もありますので、何卒お気をつけください」
「ははっ、心配しすぎだ。サーマートたちに限ってそのようなことはあるまい。何せ、今回で5度目なのだからな」
笑い飛ばした恒元であるが、一方の才原は何か不穏な予感を抱いた模様。現代を生きる忍者だけあって、彼の云う“勘”は常人のそれとは違い、安易に聞き流せない。悪い方面に的中しなければ良いのだが……。
俺は酒井たちに指示を飛ばす。
「お前ら、銃はいつでも抜けるようにしておけよ。ただし、事が起こるまで隠しておけ。下手に道具をちらつかせて、先方を刺激しちゃあまずい」
当の彼らはまったく表情を変えない。“落ち着いている”と言えば聞こえは良いが、ある意味では“緊張感が足りない”とも見受けられる態度。大丈夫か? こういう手合いは往々にして有事の際に慌てふためくので、始末に終えない。世話が焼けるが、万に一つの時は俺が体を張って守ってやるしかないようだ。
局長の報告通り、取引相手はもう来ていた。
「待っていたよ、ナカガワさん!」
流暢な日本語で、さらには満面の笑みで駆け寄ってきた男。彼の名はサーマート=チャイ。タイ人で構成された犯罪組織『サーマート・ファミリー』の首領である。
日本と同じく、タイ王国で麻薬は犯罪。ところがその法定刑は我が国の比でなく、たった1回の所持で銃殺という苛烈ぶり。世界で最も薬物事犯に厳格な国といわれている。
しかしながら、いくら法で厳しく禁じたところで「麻薬を吸いたい」という民衆の欲求までは抑制不能。そういった裏のニーズに応える存在として、サーマートのようなマフィアが跋扈しているのだ。
彼らは日本や韓国、香港やマレーシアといったアジア諸国で高品質なドラッグ類を仕入れ、母国の顧客相手に売り捌く。不真面目な政治家や財界人といった富裕層が主たる客になっているようで、時には直接依頼を受けて買い付けに赴くことも。それゆえに資金力は豊富であり、俺たち販売側としても高く買ってくれるから有り難い存在だ。恒元によるとサーマートはかなりの太客らしく、毎回の取引額は1億円前後にも上るとのこと。そこまで来ると太客を越えてある種のビジネスパートナーといっても過言ではない。
「やあ、サーマート。日本の春はどうだね?」
「タイに比べたらちょっと寒いけど、日本はゴハンが美味しいから万々歳だよォ~!」
恒元と握手を交わすタイ人の頭目。やけにハイテンションな物腰だったので少々引いてしまったが、おそらくこの男もクスリを使っている。察するに相当な常用者だ。声を聴けばすぐに分かる。
薄暗い空間であるにもかかわらずサングラスをかけているのは、きっと薬物中毒者特有の血走った瞳を隠すためだ。半袖のシャツから覗いた腕にも、心なしか注射痕のようなものが散見される。
しかし、そんな明らかな中毒者を前にしても会長は表情ひとつ変えずに話を進める。
「相変わらずだな、サーマート」
「はははッ! 僕は寒がりだからしんどいよ~」
そう云いながら両肩をさする仕草を見せる彼だったが、果たして本当に“気候による寒さ”で参っているのか怪しいものだ。幻覚成分のある薬を長く使っていると体温調節中枢に異常を来すらしいが……まあ、指摘しないでおこう。
「そんなことよりナカガワさん、例の物は持ってきてくれた?」
「もちろん。涼平、商品をこれへ!」
恒元の合図で、俺は車のトランクから抱えてきたアタッシュケースを差し出す。中にはLSDの粉末がびっしりと詰められている。
「あれ? これって覚醒剤じゃないの?」
「ああ、そうだよね! ヤクだったよねぇ! ごめんごめん、ついうっかりしちゃってさぁ~!」
いつも買っているというのにLSDを覚醒剤と誤認するとは。大丈夫か。この男。確かに粉末状に加工されているという点では似ているが、両者はまったく異なるもの。麻薬取引のしすぎで記憶が混同している模様だ。
「いやあ~! ナカガワさんはサービスが良いよ。ねぇ、さっそく確かめても良い?」
「ああ。良いとも。好きに試したまえ」
「えへへっ、それじゃあ……」
すると次の瞬間、サーマートはアタッシュケースの中から袋を一つ取り出すと封を開けた。そしてそれを躊躇いなく自分の鼻腔付近へ持って行き、そのまま勢いよく吸い込んでしまった。
「ふはああーっ」
ああ、やはりか。先ほどの疑念が確信に変わる。サーマートは間違いなく中毒者だ。そうでなくては、このように恍惚の表情を浮かべたりはしまい。商品が本物か否かを確かめる試用でこんな顔をするとは。日本の暴力団では鉄則である「売人側がジャンキーになってはいけない」との規範がタイ人には無いのだろうか?
「うへっ、うへへへっ、うへへへへっ」
あれだけの量を吸引したらキマって当然。完全に蕩けた目をしている。こいつは阿呆なのか――。
恒元も俺と同感のようで、視線を交えた俺たちは苦笑するしかなかった。しかし、これはビジネスだ。笑っている場合ではない。こちらは商品の代金を受け取らなくてはならない。
「日本円ニシテ1億5千万円ヲ持ッテ来タ。確認シテクレ」
サーマートの部下らしき片言の男がジュラルミンの箱を差し出してくる。俺はすぐさま受け取ってケースを開け、紙幣の確認作業に入る。
「うひひっ、えへへ~っ」
一連のやり取りを見届けているのか否か、サーマートはなおもトリップしたままだ。札束を目視で数えてゆく俺を尻目に、ただただ奇声を発するのみ。
警視庁組対部や麻薬取締局には大枚の賄賂を払っているそうなので、ここに官憲が踏み込んでくることは無い。しかしながら、取引相手がこうでは不安になってくる。このまま雲行きが怪しくならなければ良いのだが……と思ったその瞬間。
銃声が響いた。
「ぐへあっ!?」
悲鳴かと思ったら、断末魔だった。
何が起きたかと前方を見上げたら、サーマートが絶命している。額には大きな弾痕。撃ち抜かれたようだ。
一体、誰がこんなことを――。
操り糸の切れた人形のごとく頭目が崩れ落ちると、誰もが茫然とその場に立ちつくした。
「……」
しかし、ほんの2秒もすれば沈黙が狂乱に変わる。その場に居た男たちは瞬く間に激昂し、タイ語で口々に怒声を上げ始める。
「この野郎! 嵌めやがったな!」
「取引と称してカネだけ奪おうって算段か!」
「許さねぇ! よくもうちの大将を殺しやがったな!」
皆、リーダーが殺されてお怒りのようだ。
「ちっ!」
俺は舌打ちを漏らすと、すかさず背後を振り向いて部下たちを凄んだ。
「おいッ! 誰が撃てと言ったんだ!!」
だが、おかしい。こちらから撃った痕跡が無いのだ。
酒井をはじめとする新入りたちは全員が愕然と震えて立つばかりで、彼らの両手は空いている。銃を構えている者は一人も居ない。では、誰がサーマートを射殺したというのか……?
いいや、今はそんなことを考えている場合ではない。問題はタイ人たちの怒りの矛先。あろうことか俺たちに向いているではないか。日本のヤクザが自分たちを罠に嵌めたと思い込み、怒髪天を突いて殺気立っている。
「ผิด! มันไม่ใช่เรา! ไว้ใจฉันนะ!(違う! 俺たちじゃない! 信じてくれ!)」
向こうの言葉でどうにか説得を試みるも、最早話し合いが成立する状況に非ず。タイ人たちは銃を取り出し、強烈な殺意を向けてくる。
「まずい……皆、伏せろッ!」
どうして、こうなるのか。血みどろの乱戦が幕を開けてしまった。
例によって決裂したタイ人との麻薬取引。銃弾を放った者の正体は如何に。恒元は勿論、できたばかりの“弟分”たちを涼平は全員無事に現場から脱出させることはできるのか?