盃交渉
俺が戻った時には、既に皆の準備は完了していた。
「涼平! どこで何をやってたんだ! もうすぐ出発するところなんだぞ!」
平野に小言を叩かれたのも止むを得ないか。何せ、宿所に着いたのは8時48分。いわゆる「30分前行動」が鉄則であるヤクザの世界にあっては大遅刻も良い所だったのだ。
「悪い悪い。ちょっと色々あってな」
「色々って、まさか緋田組の奴らと……?」
「絡まれたわけじゃないさ」
心配そうな平野をよそに、俺は恒元に一連の出来事を報告した。
「なるほど。その男はおそらく緋田組の人間で間違い無かろうな」
「ええ。電話で何やら報告を受けていました。俺が居ない間に変わったことはありませんでしたか?」
「特に何も起きていない。だが、それはあくまで我輩の目の届く範囲内でのこと。油断はできない。緋田咲吉とは、そういう男なのだよ」
昭和期に中川会を離反して以来、20年近くに渡って沖縄の利権を独占してきた怪人物・緋田咲吉。その男が見据える未来は、沖縄を未来永劫支配し続けること――。
恒元は緋田の人間性を「言うなれば“卑怯”の二文字が服を着て歩いているような男だ」と形容した。己の目的を実現するためには裏切りさえ厭わず、悪魔に魂を売るような真似も平気でやってのける卑劣漢だという。
「奴はすぐに裏切る。その時その時で立場を変え、たとえ恩ある相手でも利用価値が消えれば即座に切り捨てる。この世界において信用は無いに等しい。勿論、我輩も奴を信じてはいない。これまでに何度裏切られたか……」
過去、恒元は緋田を中川会に引き戻そうとあの手この手でアプローチをかけた。しかし、いずれも失敗に終わった。好意的に受け入れるかに見せかけて土壇場で掌を返す緋田の戦略に翻弄され、いつも辛酸を舐めさせられてきたそうな。俺個人としては恒元も相当な戦略家だと思うが、彼を上回る存在が居たとは。
「こちらが持ちかけた手打ちの案は悉く反故にされ続けている。歩み寄る気配がまるで無い。奴の望みは結局のところ、緋田組による沖縄利権の独占なのだ」
そこまで裏切られ続けた相手になおも交渉を持ちかける理由は、ただひとつ。恒元にとって、今回ばかりは何としても沖縄を手に入れたい大きな理由があるからだ。それは米軍基地の縮小計画に伴う利権の発生。
俺も新聞で何となく読んでいる。当時、沖縄に在る米軍基地の県外移設に向けた交渉が日米両国で進んでおり、実現すれば返還予定地の不動産価格がバブル期並みに高騰。その土地を事前に押さえておけば莫大な利益が得られるというわけだ。
「緋田は旧地権者と交渉して権利を既に取得している。聞けば県営跡地にリゾートを建設する計画もあるとか。基地が返還されたら、適当なタイミングで土地を売り払い、莫大な利益を貪る腹積もりだろう」
「で、緋田組が傘下に戻れば中川会はその上前を取れるってわけですね?」
「その通り。通常のシノギではまず手に入らない、未だかつてない大金が転がり込んでくる。それをみすみす逃す手はない」
「過去に何があったかは知りませんが、裏切り者ばかりが得をするのは気分が悪いですからね。良いでしょう。やってやりましょう」
利権を狙って古巣の中川会が近づいてくることは緋田組としても想定済み。ゆえに、ここは上納金のデメリットを承知で向こうを納得させられるだけの交換条件が必要になる。チャボや中国マフィアへの対処協力と、煌王会への二枚舌を槍玉に挙げた恫喝の二段構え。今回の交渉はそれで進めるという。
「ここが我輩の正念場だ。組織を守るためにも、何としても沖縄を取り戻して見せる。それこそが父や兄から中川会三代目を継いだ者としての責務……!」
交渉がどうなるか、それは行ってみなければ分からない。一筋縄でいかないことは明白。それでも中川恒元は万全を期して沖縄に来ている。戦争に発展した際の武力も拡充済み。俺はただ、隋兵の一員として彼の所業を全力で支えるだけだ。
「涼平。お前の着替えが済んだら行くとしよう。朝食会は初めてだろうが、行儀よく振る舞ってくれたまえ」
「ご冗談を。立食パーティーの経験くらいありますよ。傭兵やってた頃、東欧で各国の軍人相手にね」
「くれぐれも頼むぞ」
着替えるよう指示された衣装は、黒のタキシードだった。あの頃は軍服っぽいものを着ていたが、今回は勝手が違う。振り返ってみれば、こうして背広に袖を通すのは初めてかもしれない。いや、生まれて初めてだ。紳士服のジャケットとはこのような着心地なのか。思ったよりも両腕が落ち着く。
「よし。これで完璧だ」
俺のタキシード姿を見て満足そうに頷いた恒元。
「様になっているな」
「ええ。良い物を着せてくださり、ありがとうございます」
いよいよ決戦の幕が開けようとしている。俺は意を決して、大礼服姿の恒元と共にリムジンへと乗り込んだ。
「では、向かうとしようか……」
那覇市久茂地2丁目、国道58号線に程近い閑静な一画に、目的の建物が鎮座していた。
緋田組本部事務所。事務所とはいえ地上11階建て。最上部には隠れ蓑たる「緋田産業」の看板がでかでかと掲げられていて、見た限りでは一般企業のオフィスビルにも見えなくもない。
ただ、目を凝らして見て見るとヤクザの本拠地らしい特徴があらゆるところに垣間見える。たとえば窓が全て防弾仕様になっていた他、コンクリートの外壁には小さな穴がちらほら。きっとあれは弾痕。過去の抗争で受けた傷であろう。
恒元によれば緋田組は中川会からの独立戦争以外にも南部奪還を目指す蒼琉会や海外組織、九州の玄道会とも戦を繰り広げたことがあるらしい。とすれば、組員はなかなかの武闘派揃いということになる。親分の調略の才に、子分たちの武勇。相手にとって不足は無いが、自然と緊張が走る。
「お待ちしておりました!!!」
ドアの前で俺たちを出迎えたのは、この事務所に勤める組員たちだ。
「ご苦労」
平野の先導で恒元が車を降りると、俺は彼の背後に付いた。会長の右には藤村、左には沢木で両脇を固める鉄壁のディフェンス・フォーメンションだ。これで敷地内を歩く際中に緋田組の者らが襲ってきたとしても対処できる。
他にも現場には平野局長の手勢である直参平野組の組員が来ており、その数は総勢50人。護衛としては十分すぎる数だろう。異国の戦場とは違った意味で物々しい空気感の中、俺たちはビルの中へと入っていった。案内されたのは、2階の大広間である。
「ようこそ。お待ちしておりました、中川会長。わざわざのご足労、いたみ入ります」
「……ああ」
「昨日に引き続き、饗応役はこの葛城朝彦が務めさせて頂きます。何かありましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
恭しく頭を下げた葛城なる男は緋田組の若頭らしい。派手な柄のダブルのスーツを着こなした中年の痩せ型の男だった。彼の握手に片手で応じた恒元は、わずかに不機嫌そうな顔をする。その理由は決まっている。
「葛城君。今日、緋田組長は来ないのかね?」
華やかな料理が盛られた会場内に緋田咲吉の姿がどこにも見当たらないのだ。
「申し訳ございません。緋田は未だ、体調が戻っておりませんで」
苦笑いで言い訳を述べる若頭を平野が追及する。
「昨日もそんなことを仰っていましたね。『急な腰の痛み』と。いつになったら治るのですか?」
「医者が言うにはあと数日とは思いますが、いかんせん本人の体調次第でございますので」
「おかしいでしょう。あなた方はこの会合を何だと思っておられるのか。こちらは会長御自ら足を運んだのですよ。そちらも相応の礼を持って迎えなければ道理が通りません。多少の腰痛くらい、無理をしてでも……」
「多少とは無礼な。聞き捨てならないお言葉ですね。何故、我が主君が無理をする必要があるのです? 平野局長、あなたは緋田組が所詮中川会の風下に立つ存在とでもおっしゃりたいのか?」
「シマの広さと組員の数を考えれば当然でしょう!」
「少々勘違いをされているようですな。ここ、沖縄は我らが緋田組の庭。全てが陸で繋がっている本土とは違い、戦争になればあなた方にとっては大いに分が悪い。その辺を踏まえた上でお言葉を発して頂きたい」
「つまり、緋田組は中川会を余裕で叩き潰せると。冗談でしょう」
「ほう。冗談に聞こえますか。ならば……」
平野と葛城との間に不穏な空気が流れた。葛城は背広の内側に手を突っ込み、平野も同様の仕草を取る。どちらが先に獲物を抜くのか。瞬く間に現場が張り詰める中、俺は恒元の前で防御の構えを取った。
だが、緊張を解したのは他でもない。その恒元本人だった。
「止めたまえ! 我輩に恥をかかせるつもりか?」
いきり立つ平野の肩をポンと叩き、凄みを利かせて制止する。
「局長。控えろ。それ以上の無礼はこの我輩が許さん」
「はっ……」
平野は元の姿勢に直り、一方の葛城若頭はバツが悪そうにため息をつく。恒元は桂木の方を向くと、穏やかに声をかけた。
「葛城君。うちの者が失礼をしたね。緋田組長の容態については我輩も昨晩から気にかけている。後ほど、見舞いに行っても良かろうか?」
「いえいえ。勿体ないお言葉。会長のお気持ちだけで十分でございますよ」
「そうか。では、改めて。葛城君。此度は君が緋田氏の代理として我輩と話をする。これで良いね?」
「勿論でございます」
恒元が一歩引いたことで、葛城としても下手に出ざるを得なくなった模様。この場で恒元相手にも強気で突っかかろうものなら、中川会に抗争を吹っかける口実を与えてしまうからだ。頭は下げず、その上で穏やかに事を前に勧める話術の妙。中川恒元という男の度量の深さがうかがえた瞬間だった。
「さっそくではございますが、お料理を準備してございます。沖縄の朝を代表するに相応しい品々を揃えました。お好きなものをお召し上がりくださいませ」
「ふむ……」
卓上に並べられた色とりどりの料理。それらは総じて沖縄近海で獲れた食材らしく、フレンチ仕立てに調理されて彩り豊かだ。ただ、俺は先ほどたらふく食ってきたので食欲はあまり無いのだが……。
恒元は満足気に笑った。
「我輩の好みを知っていたのかね?」
「ええ。中川会長のフランスへの造詣の深さは、私どもの耳にも入っておりまして」
「ほほう。遠く離れた沖縄にまで届いていたか。それはまた恥ずかしいな」
中川恒元のフランス通ぶりは裏社会でそんなに有名なのか。少し意外だったが、関東ヤクザの頂点に君臨する男である。その言動が各地に噂として流布するのも不思議なことではないのかもしれない。
「では、いただくとしよう!」
さっそくフォークを手に取った恒元。しかし、葛城が声を上げる。
「ああ! お待ちくださいませ!」
「む、どうした?」
「お毒見をせねば……」
「毒見とな?」
葛城はコクンと頷く。
「ええ。料理人が腕によりをかけて作った品々ではございますが、万が一ということもあります。そのような事故が起きてからでは遅いかと……」
すると、その場に一人の男が近づいてきた。葛城とは対照的に筋骨隆々としたスーツ姿の彼は、先刻事務所の前で俺たちを出迎える列に並んでいた。緋田組の幹部らしい。
「手前は緋田組で若頭補佐を務めさせて頂いております、喜矢武雅史と申します。僭越ながらお毒見をさせて頂きたく」
「要らん。毒など入ってはいまい」
「しかし……」
「喜矢武君とやら。君たちは何を心配しているのかね? たとえ我輩がこれを食べてこの場で腹を下したとしても、たったそれだけの理由で君たちを糾弾したりはせんよ。何故なら、緋田組との間には信頼関係があるのだから」
そう言うと、制止を振り切って料理を口に運んだ恒元。シマアジのポワレと海老のスモーク添え。丁寧な味付けが施されたであろう香りが美しい一皿だった。
「あっ、ああ、会長……!」
唖然とする周囲を他所に、恒元は深く味わうように咀嚼する。そして飲み込み終えると笑顔を見せた。
「délicieux(美味い)」
フランス語で率直な感想を呟き、満面の笑みで続ける。
「良い仕事をするようだね。いつも赤坂の料理人に作らせる飯より、断然こちらの方が美味いぞ。やはり使う食材が違うのだろうか? それとも料理人の腕かな?」
「も、勿体ないお言葉です!」
喜矢武は、あからさまに頬を赤らめて照れる。なるほど。食事および料理人の手配はこの男が行ったようである。
「ご満足いただけたようで、何よりでございます!」
「うむ。これなら今日の会合にぴったりである。中川会と緋田組が過去の遺恨を水に流し、未来永劫続く固い絆を結び直す記念の日にな」
料理を褒めちぎると、恒元は俺たち随行の組員にも食べるよう命じる。腹は膨れているが、この流れでは仕方ない。俺も沖縄食材で作られた高級フレンチの相伴に預かることにした。
うん、確かになかなかいける。空腹であれば、もっと格別だっただろうに――。
皿の上の料理を食べ進める中でふと視線を傾けると、葛城がひどく悔しそうな顔をしていた。まさに、恒元会長に一本取られたといった苦虫を噛み潰す面持ち。「このクソったれが」と言わんばかりのその顔を見ていると、何故か微笑ましくなってくる。
どうやら恒元が毒見役を跳ね除けたことで、緋田組としてさらに下手に出ざるを得なくなったらしい。形ばかりの誠意を示す格好のパフォーマンスが不発に終わったばかりか、あまつさえ「絆を結び直す~」と交渉にて目指す方向性を決められてしまったのだ。
この場で下手に非礼な言動を取れば、それは一転して俺たちに付け入る隙を与える口実になってしまう。恒元に恥をかかせるつもりがことごとく失敗したようで、俺からすれば実に良い気味だった。
恒元にとって、先ほどの一手は交渉を有利に進めるための戦略に他ならない。万にひとつ食事に毒が混入していた可能性を考えれば、まさに命がけの行動といえた。それだけ彼は今回の外交訪問に全てを懸けているのだ。
そんな会長は暫く経った後、ふんわりと本題を切り出す。
「昨日、話した件は考えてくれたかね? 葛城君」
話を振ると、葛城は面白くなさそうな顔をしながらも淡々と答えた。
「申し訳ございません。その件につきましては、組長が結論を出しかねております。今少しお待ちください」
回答を迫るにしても昨日の今日だ。少しばかり時期尚早である。だが、それについては恒元も分かっている。
「そうか。まあ、結論を急かすつもりは無い。ゆっくり考えてくれて構わんよ。しかし……妙な噂を耳にしたのだ」
「妙な噂? と、おっしゃいますと?」
「君たちが我々だけでなく煌王会とも話をしているとのことだ」
煌王会と聞いた瞬間、葛城の眉がぴくりと動く。
「えっ、それはまた……何の話でございましょう?」
「決まっているだろう。盃を呑む話だよ。君たちは我々を賓客として招いておきながら、煌王会の枝組織をもこの那覇に招いている。それは一体、何の意図あっての動きだろうか。教えてはくれまいか」
「はて……? 煌王会とぉ……盃……?」
すっとぼける葛城。絵に描いたような“しらばっくれ”。だが、所詮は臭い芝居。「まずい!」という心の内の動揺が顔に表れ出てしまっている。こんなにも隠し事が下手な御仁は初めてかもしれない。かつて横浜で相対した家入行雄以上の分かりやすさだ。
無論、その隙を恒元が見逃すはずも無く、彼は一気に畳み掛ける。
「どうなのだね? 葛城君。もしも事実だとすれば、それは我らに対する立派な背信行為になるが」
「そ、それはですねぇ……私にもよく分からないことでございますれば……」
視線を宙に泳がせつつ、葛城は必死で言い訳を考えている。やがて近くにいた喜矢武を手招きして呼び寄せると、食い入るように問うた。
「……おい、兄弟。どうなっている? こ、煌王会の連中が居るだなんて俺は知らんぞ。そんな報告、してないよなあ?」
「え……いや、俺に聞かれましても……」
「俺だって知らない! 何がどうなっているのやら」
すっかり慌てた彼らのヒソヒソ話に割り込むがごとく、恒元は声を荒げた。
「先ほど君は『自分は組長から外交権を預かっている』と言ったではないか! 知らないはずが無い! 」
葛城と喜矢武の両名は顔を見合わせ、あたふたするばかり。これには俺たちのみならず、緋田組側の組員たちまでもが呆れている。二枚舌の外交戦略を取るなら事前に口裏くらい合わせておけば良いものを。
「い、いや……それはその……」
「それとも君は、我輩の勘違いだとでも言いたいのかね? 我らが那覇空港に降り立った時点で煌王会など居ないと?」
「……」
「どうなんだね? 煌王会とは、話を進めているのか? いないのか?」
「……」
「はっきり答えたまえ!!」
恒元の一喝が場内に響き渡る。それをもって葛城たちは完全に畏縮した。まさに好機。このまま恫喝を続ければ、この手の奴らは簡単に落ちる。俺たちとしては証拠も押さえているのだから――。
「葛城君。我々を見くびらない方が良いぞ。既に、君たちが煌王会と密かに通じていた事実は掴んでいる。何なら、今すぐこの場で……」
その時だった。突如としてドアが開き、一人の男が中へ入ってきた。
「失礼いたします」
白髪まじりのリーゼントヘアに灰色のスーツを纏った人物。その場に居た緋田組の下っ端たちが一斉に「ご苦労様です!」と立礼する。葛城と恒元の間に割って入るように現れた男の顔を俺は知っていた。
今朝のアロハシャツのおっさんだ――。
嫌な予感の的中に背筋が震える俺をよそに、恒元は男に尋ねる。
「……誰だね君は?」
「緋田組が組長、緋田咲吉と申します。この度は中川会長に大変ご無礼を致しました。心よりお詫びいたします、何卒、ご容赦くださいませ」
やはり、この男が緋田咲吉であったか。それにしても、凄まじい貫禄だ。ラフな装いだった頃からあふれ出ていたが、全身から闘気がみなぎっている。それが極道らしい服装に着替えたことで一気に表面化したのだろう。まさか、俺は交渉相手の親分に食事をご馳走になっていたなんて――。
一方、恒元は何ら臆することなく話を続けていた。
「いいや。来てくれて嬉しいぞ。緋田組長。腰の具合は大丈夫なのかね?」
「ええ。何とか。今朝、リハビリも兼ねて海釣りをしたら、美味い魚が釣れましてね。そいつを食ったら一気に回復した次第でございます」
「それは良かった。しっかし、魚を食べた程度でどうにかなる腰痛なら。昨日も来られたのではないか?」
「ははっ。昨日はリハビリをする気力も無かったもんですからぁ」
緋田は言い逃れが上手い。葛城とは大違いだ。恒元としてもこれ以上仮病疑惑を追及するのは無駄と判断したらしく、すぐに矛先を変えた。
「緋田組長。単刀直入にお尋ねする。君たちは煌王会と通じているのかね?」
さて、何て答えるのやら。俺はとても気になった。というより、あの豪放磊落なアロハのおっさんの口からどんな弁明が出てくるのかが楽しみであった。片や、緋田は俺には気づいていない。流石にそこまで気を配る余裕は無いようだ。
「まあ、誤解を恐れずに言えば……なんですがねぇ……」
やや含みのある前置きを放った後、緋田は言葉を続けた。
「……仰る通り。通じておりますよ」
あっさり認めた!
あまりにも意外な返答に、その場にざわめきが走る。俺たち中川会側は勿論、葛城と喜矢武ら緋田組サイドも呆気に取られている。正直に罪を認めて詫びを入れるつもりか? いや、これまで外敵の侵略を長きにわたって跳ね除けて来たやり手の親分のこと。もっと他の狙いがあるのだろう。俺には判断できない。ただ、どういうわけか彼が「笑っている」こと理解できた。
緋田の回答を受けて、恒元は小さく息を吐くと、冷静に言葉を返した。
「その答えだと、君は我々に対する背信行為を認めることになってしまうよ? それで良いのかね?」
「もちろん、よかありません。通じてるってのは、あくまでも『誤解を恐れずに言えば』です。今回、手前ども緋田組が採った外交方針は、見方によっちゃあ二枚舌と思われて当然でしたからね」
「では、その誤解を解くための言い訳を用意してあると?」
「ええ。聞いて頂けますか」
そう問うと、緋田はくるりと葛城たちの方へ向き直り、罵声を浴びせた
「おぅ! てめぇら! 俺の居ぬ間に随分とヘマやらかしてくれたみてぇじゃねぇか! どうしてきっちり説明できねぇんだ! てめぇらはガキの知能も無ぇのか? ああ!?」
葛城らに対して激怒する緋田。そこに先ほどまでの温和で人当たりの良い雰囲気は無く、極めて粗暴な人格が曝け出されている。まるで別人だ。
「すいません、兄貴。けど、俺も喜矢武も命令の通り動いて……」
「うるせぇ! 言い訳してんじゃねえ! 俺の顔に泥を塗りやがって!!」
弁明を試みる若頭たちを一喝して黙らせた緋田は、恒元の方へと向き直る。
「せっかく足をお運びいただいた会長の前で、こうして醜態を晒すことになってしまい、お恥ずかしい限りです。何とお詫びしたら良いのやら」
「そもそもは君が我々に誤解を持たせるようなことをしたのが原因ではないのかね? 謝を暇があるなら、早く聞かせてもらおうじゃないか。我々という交渉相手が居ながら、煌王会ともよしみを通じた理由を」
「分かりました。少し、長い話になるんですがね」
緋田は、ばつが悪そうに後頭部をぼりぼり掻きながら話し始める。
「お察しの通り、手前ども緋田組は煌王会の使者とも会談を行いました。もう既に会長御自身もお聞き及びと存じますが、私に接触してきたのは漆原組。煌王会横浜貸元、村雨組の系列組織にあたります。村雨は煌王会でも指折りの武闘派として名高い組織。我々としても、ああまで渡世で恐れられる大所帯を刺激するわけにはいかなかったのです。それゆえに、村雨とは形ばかりの交渉を行っておりました」
残虐魔王こと村雨耀介を擁する村雨組の武力を恐れ、やむなく交渉に応じるしかなかったと緋田は話す。確かに村雨の最強伝説は日本中に知れ渡っていて、彼は現在進行形で勢力拡大を目指して各地へ侵攻を続けていると聞く。組を守らんがために避けられない判断だったとすれば、煌王会と接触を持った件にも酌量の余地が生まれよう。上手い弁明である。
「形ばかりの交渉……ということは、煌王会とは盃の約束を交わしていないのだね?」
「ええ。漆原には適当に話をはぐらかし、回答を引き延ばし、会長がいらっしゃるまでの時間稼ぎと致しました。手前どもが中川会の傘下に戻ってしまえば、煌王会とて迂闊に手が出せないでしょうから」
「なるほど。考えたものだな」
漆原組からの勧誘はやり過ごすつもりだったとする一方で、中川会に対しては前向きな検討どころか一刻も早く盃を交わしたいとまで言ってのけた緋田。おそらくこれは方便だろう。中川会への復帰を切望していたなら、何故に昨日の時点で交渉を妥結させなかったのか。
しかし、これに対しても緋田組長は明確な答えを用意していた。
「はい……その辺は私の伝達不行き届きと申しますか。ここにいる葛城が私の意図を理解せず、誤ったお答えをしてしまったようなのです。何卒、許してやっておくんなさい。この通りです」
深々と頭を下げた緋田に続いて、葛城がその場に土下座した。
「申し訳ありませんでした!」
現時点で緋田組とは対等な関係。彼らの昨日と今日の態度の変わりようについて、それ以上の追及や謝罪を求めることは道義上難しい。緋田の口八丁にしてやられたと思う他なかった。
「なるほど。それが事の顛末という訳だね……」
恒元に対し、大きく頷いた緋田組長。
この後、彼はどう出てくるのか。沖縄の利権独占を狙う男のこと。今さら中川会に戻るなどという判断を好き好んでするわけが無い。何かしら理由をつけて盃を拒否するだろう。
だが、そこで終わる恒元ではない。こちらにはまだひとつカードが残っている。緋田組に揺さぶりをかけ、屈服させ、あくまでも中川会に対して隷属的関係を強いるためのとっておきのネタが。緋田組サイドの主張には明らかな矛盾点がある。それを突いて不義理を糾弾できれば、向こうが頭を下げる形で盃を呑ませることができるのだ。
「……しかしなぁ。信じてやりたいのはやまやまだが。君たちの言うことは、どうにも信用ならんのだよ」
「それは如何なることでございましょうか?」
「君たち緋田組が煌王会との盃に積極的ではなかったとする、先ほどの主張。これは出鱈目だ」
「何故にそう思われるので?」
懐から写真を一枚取り出し、恒元は緋田に見せた。
「この男が全てを吐いたよ。面識が無いとは言わせんぞ」
俺が昨晩に捕縛した煌王会系漆原組組員、東村朔治の写真である。
「現像が間に合って良かった。彼は君たちとずいぶん親しい仲だったようじゃないか。どうだね、緋田組長?」
写真を見つめた緋田は僅か一瞬だけ仰天の眼を見開いたものの、すぐに元のいかつい顔に戻った。流石は親分。これくらいで感情を悟られるような凡庸さは無いか。
「……漆原補佐のところで幹部をやっている男ですね」
「そうだ。我々は昨晩、東村の口から全てを聞いた。君たちが煌王会と共謀して我らの排除を目論んでいると」
「何と! 会長、それは違います! 排除だなんて滅相も無いことです!」
「では、何と申し開きをするつもりだ? 言っておくが、我々は東村の証言を全て録音している。それらの信憑性は大いにあるぞ」
「録音も何も、所詮はチンピラの戯言じゃあございませんか……」
少しオーバーリアクション気味にため息をつくと、緋田は言った。
「確かに手前どもは東村を相手に交渉を行っていました。ですが、奴に取り込まれたりはしておりません」
昨晩、俺は東村を拷問の末に緋田組と煌王会の癒着関係について白状させ、事の子細を全てテープレコーダーに録音した。その音源を使う時が来たようだ。恒元から目配せを受けた平野は持参していたカセットをプレイヤーに挿入し、再生させる。
『ひ……緋田組長はかなり乗り気だったぜ……一緒に中川会を倒す計画を持ちかけたら、喜んで飛びついてきやがった……』
スピーカーから流れ出す音声を聞き終えると、緋田は渋い顔をした。
「それは東村が勝手なことを言っているだけです。そんな話、奴の口から聞いたことも無い」
「百歩譲って我々を排除する計画が無かったとしても、だ。君たち緋田組は煌王会の方に御執心のようじゃないか」
「そんなことはありません! 私はあくまでも中立に……」
「中立だと? 先ほどは最初から我らの側であると言ったではないか! 我輩に二言を吹いたな!」
机を強かに叩き、恒元がたたみかける。
「緋田組長。君の真意がどこにあるのかは知らんが、いま最も賢い選択は緋田組を中川会に戻すことだ。さもなくば東京から大軍勢を呼び寄せて沖縄を火の海にしてやる。煌王会に尻尾を振り、我輩を欺いた罪は重いぞ」
「くっ……」
頭の切れる緋田もここは追い詰められた様子だった。のらりくらりと追及をかわすつもりがうっかりぼろを出してしまい、逆にそれを突かれてしまったのだから無理も無い。やがて、彼は観念した様子で項垂れた。
「……分かりました。では、あなた方の盃を呑むと致しましょう」
「その言葉に偽りは無いな? 約束を違えれば容赦せんぞ」
「ええ。偽りございません。あなたのご要望通り、私は渡世を引退いたします。跡目はこちらの葛城に譲り、葛城を新たな直参として中川会の末席にお加えいただく。それで構いませんか」
「良かろう」
ついに緋田が折れた。中川会に復帰するとの言質を取るため、沢木は最初からずっと録音機で一連の会話を密かに録音していた。当然ながら、約束を反故にされた際にはいつでも緋田組討伐および沖縄侵攻の理由付けができる。
「藤村! 酒と盃を持ってこい!」
「へぇ。こちらに」
なんと、恒元はこうなることを見計らって盃の儀式に必要な神酒と白磁の器を持たせていたのだった。アタッシュケースの中からいきなり二点セットが出てきたため、その場に居た緋田組側の誰もが驚いていた。だが、先延ばしは禁物。出来る時にやっておかねば先方に主導権を奪われかねない。相手は卑怯者の緋田咲吉だ。最期まで何が起こるか分からないのだ。
「ちょ、ちょっとお待ちください。儀式も無しに盃を呑まねばならないので?」
「当然だ。君は一度、組織を離反した身。裏切り者を戻すのに儀式など要らない」
「では、せめて東京へ行かせてください。そこで葛城に盃を……」
「いいや! 今、ここで呑め!」
藤村が取り出した盃に平野が酒を注ぎ、恒元が口をつける。きわめて簡易的なれど媒酌人も存在する、渡世においては正当とみなされる盃の儀だ。もう、緋田たちは後戻りできないだろう。
「どうした。早く呑まんか。まさか今になって取り消すなどとは言うまいな!?」
恒元がいきり立つと、随行の組員が一斉に銃を構えた。俺たち執事局の護衛役もまた手持ちの拳銃を抜き、緋田たちに向かって突きつける。つい3時間前に食事をおごってもらったおっさんに銃口を向けるのはしのびないが、やるしかない。
「てめぇら! はかりやがったな!」
「これが東京者のやり方か!」
「ふざけんな! ぶっ殺してやる!」
緋田組の連中も怒声を上げ、次々に銃を抜く。辺りが一気に緊迫した。葛城もあたふたしながら獲物を抜いたが、彼の場合は拳銃ではなく短刀だった。まったく、若頭の癖に何をやっているのか……。
ただ、混乱と恐慌に包まれる緋田組の中で、1人だけ冷静さを保っていた者が居る。
「……おい、止めろ。銃を下ろせ。俺に恥をかかせる気かよ」
緋田組長だ。彼は配下の者たちを冷静に諭して武装を解かせると、盃を差し出す恒元会長の前に一歩進み出た。
「中川恒元親分。こうなったのは全て私の不徳の致すところゆえ。責任を取り、渡世を引退いたします。しかし、身を退くに際して心残りがございます。申し上げてもよろしいでしょうか?」
「何だ。聞くだけ聞いといてやる」
「ははっ。それはつまり、煌王会との関係でございます。私が去った後、緋田組は煌王会から睨まれて戦争になるでしょう。渡世の親として、跡目を託した我が子が戦火に焼ける姿を見るのは耐え難いのです。ですから、お願いです。緋田組の名跡を今後とも残してゆくために、どうか最後に私の要望を……」
「断る。これから辞める人間の気にすることでは無いだろう。そもそも緋田組がどうなろうと、我輩の知ったことではない。煌王会との戦争は心配するな。お前たちが潰れたら、別の直参に沖縄を仕切らせるだけの話だ」
盃を差し出し、立ち竦む葛城に強引に吞ませようとする恒元。しかし、そこへ無理やり割って入って緋田は言った。
「どうかお情けを……頼みます! 我が子らに慈悲をかけてやってくださいませんか!」
「いい加減にしろ。大体、この期に及んで何を願うというのだ?」
「私の気がかりはただひとつ! 煌王会との遺恨は如何にして清算されるおつもりか、それをお聞きしたい!」
「しつこいぞ。お前が気にする必要は無いとさっき言っただろう」
「そこを何とか! 教えてください!」
床に平伏し、頭を地面に着けてまで懇願する緋田。どうしてそこまでするのか。俺には訳が分からなかった。親分として引退した後の組の行く末が気がかりなのは共感できる。だが、何故に土下座してまで……? 緋田は子分想いな組長なのだろうが、恒元の言う通り、所詮は中川会に全てを委ねる他ないのだ。
「お願いします! 教えてくださるまで、頭を上げませんぞ!」
なおも土下座し続ける緋田に対し、恒元は業を煮やして言った。
「煌王会との遺恨がそんなに気になるか? まったく、愚かな男だ。そもそもは自分で蒔いた種だというのに」
「己で蒔いた種なればこそ気になるのです! どうか、お教え願いたい!」
「馬鹿め。二代目緋田組にはいずれ来る煌王会村雨組、まずはその枝の漆原組の対処をしてもらう。幹部の首を獲られて、漆原はさぞ怒り狂っているであろうからな」
「漆原組、でございますか? いや、しかし、手前ども緋田組は漆原の幹部なる者を殺してはおりませんぞ?」
「ああ。そうだ。東村を殺したのは我々、中川会だ。あの男は拷問の後、舌を噛み切って自ら命を絶った。お前たち緋田組には、手始めにその尻拭いをしてもらおうというのだ。さっきから何を寝ぼけたことを……」
その時だった。
「くっくっくっ。こいつは傑作だぜ」
床に顔を伏せたままの緋田が、突如として笑い出したのだ。
「何が可笑しい?」
「笑えるでしょうよ。あんた、俺を詰るついでに自分の罪を自白したんだから!」
「自白しただと? 我輩が何を言ったというのだ!?」
ゆっくりと顔を上げ、獣のごとく立ち上がる緋田組長。その表情は勝ち誇るようである反面、底なしの狂気に満ちていた。如何なる意味だ? 今になって何を言い出す? 一体、何を考えている? 俺の背筋に緊張感が走った。
まさか、策があるのか――。
俺が身構えるや否や、緋田は叫んだ。
「聞きましたかぁ!? 漆原組長! 中川会の会長さんがあなた方のところの子分を殺したってさぁ!!」
その瞬間、大宴会場の空間を仕切っていたカーテンが開き、武器を携えた物凄い数の男が姿をあらわす。目視で数えるだけで100人は下らない兵力。皆、顔を真っ赤にしていきり立っている。
その中のひとりが日本刀を抜き、名乗りを上げた。
「よう! 俺は村雨組若頭補佐の漆原小平太だ! 中川さんよぉ、うちの若い衆をよくも殺ってくれたな! ケジメつけさせてもらうぜ!」
まずい。嵌められた。緋田組はこの大宴会場に漆原の兵隊たちを隠し、最初から恒元の首を獲るつもりでいたのだ。完全にしてやられたぞ。どうする――。
「覚悟しろやッ、中川恒元!!」
気勢を吐いた組長に続き、狂乱状態の男たちが一斉に襲いかかって来た。
仕掛けられた緋田咲吉の巧妙な罠。中川会、絶体絶命!!




