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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第9章 帰ってきた悪魔
164/252

沖縄

 出迎えた主君は、いつになく上機嫌だった。


「はるばるご苦労だったな」


 だいぶ長らく顔を合わせていなかったにもかかわらず、何故だかつい昨日にも会っていたような感覚。フランス式スーツに白塗りの化粧という中川恒元の特徴的な装いがそうさせるのか。


「会長。麻木涼平を連れて参りました。お待たせして申し訳ございませんでした」


「ううむ。ご苦労。お前もよくぞ長旅をこなしてくれたものだ」


 平野は、ひと仕事を終えたとばかりに大きく息をついていた。組織の情報網を使って調べ上げた所在地まで俺を迎えに赴き、会長の元まで連れてくるのが任務だったというわけか。その過程で要らぬゴタゴタに付き合わせてしまったのが、何だか忍びなく思えてくる……。


 とはいえ、あれは成り行きだったので仕方ない。幸いにも平野本人は「気にするな」という目をしていた。ここは気持ちを切り換えるとしよう。


「どうも……」


 そこから「久しぶりだな」と続けてしまいそうになったので、ハッと息を呑む。これはいけない。敬語を使わなくては。この御仁とは色々と因縁じみたものがあるが、今は俺の主君。ボス相手にはきちんとした言葉遣いをしなくては。


 とりあえずは挨拶だ。


「……ご無沙汰しております。麻木涼平です」


「おお! お前もいっぱしの言葉遣いができるようになったか! 長らく海外を流浪していたと聞くが、一皮剥けたようだな」


「ええ。まあ」


 ごく普通に面と向かって話すだけなのに何故か自然と背筋が伸びる。雰囲気だけで他社を圧倒できるとは相変わらずの貫禄だ。流石は中川恒元、関東の王者の風格は伊達じゃないってところか。


「少し背が伸びたのではないか? 顔つきも変わって見えるぞ」


「そりゃあ、まあ。5年も経ってますから。色々ありました」


「色々か。何があったかは知らんが、経験は人を変える。お前の成長を期待しよう」


「恐縮です」


 深々と頭を下げる俺。と、ここで恒元会長の後ろに控える二人が口を開いた。


「会長。こんなペーペーのためにわざわざ空港まで来なくとも……」


「そうです。こんな何処の馬の骨とも分からん若造のために、わざわざ会長自らお出迎えなさるなんて畏れ多い」


 沖縄ここへ向かう機内である程度の情報は得ている。彼らは俺と同じ中川会執事局次長助勤の藤村と沢木。初対面にしては随分と陰険な物言いだが、中川会構成員としては彼らの方が先輩というから止むを得まい。だが、敢えて言わせてもらう。


「ほう? ペーペーとは随分な言い草じゃねぇか」


「他にどんな言い方があるってんだ。カス野郎」


「少なくとも俺はあんたらより強いぜ。本当に俺が『ペーペー』かどうか、試してみるか?」


 ここは那覇空港地下駐車場。人目にはつきやすいが、必ずしも流血沙汰が御法度というわけではなさそうだ。恒元もこちらを見てニヤニヤと笑っている。


 さて、これから藤村と沢木の両名を如何にして料理してくれようか。「落ち着け!」と平野は窘めるが、ここで退いては舐められる。俺の強さを見せつけなくては。昔ながらの年功序列とやらに従う気は毛頭に無い。その旨を告げると、藤村と沢木のふたりが明らかに興奮する。


「何をッ!」


「若造が! 舐めるんじゃねぇ!」


 激昂した二人は俺に向かって拳や蹴りを繰り出してきた。やはり中川会。血の気の多い連中だ。だが、動きがあまりにも直線的すぎる。俺は難なくこれらを躱し、反撃の一手を打った。


「っ!?」


「うわっ!」


 ――シュッ。


 両名の首元に手刀を放ったのだ。無論、寸止めである。


 それでも恐怖を与えるのには十分すぎたか、藤村と沢木は尻餅をついて唖然とした面持ちで俺を見上げた。


「どうだ? これで俺が『ペーペー』じゃないってことは分かってくれたか?」


 2人は怯えてコクンコクンと頷く。


「……あ、ああ。そいつはすまなかった……!」


「いや、俺も言い方が悪かったな! すまねぇ!」


 どうやら分かってくれたらしい。単純だが、いざこざが早々に決着したのはありがたいことだ。先輩だろうが年長者だろうが、俺は対人関係において相手に遠慮をすることは無い。敬意を払うのは中川恒元だけ。この流儀を自ら省みたり、改めたりはしない。文句があるならかかって来れば良い。そう思っていた。


「藤村。沢木。今日から我輩の護衛に就く麻木涼平だ。よろしく頼むぞ」


 すっかり怯えきった2人を納得させ、会長は出発を告げる。


「では、戻ろう。働きづめの一日だったのだ。早く宿所に行って休みたい」


 彼の口ぶりから察するに、今日は俺を迎えに来る前に何処かで用事があったものと思われる。少し疲れた様子でもあった。


 俺は会長の警護係に就いたわけだが、何分にも恒元との間には5年のブランクがある。これから恒元が何を話すか予想もつかない。これからは会長が考えていることを先回りで想定してしておかねばなるまいが、やっていけるだろうか……?


 兎に角、今はただ付き従うだけだ。


「乗ってくれ。我輩の隣だ」


「はい」


 恒元の指示に従い、俺は彼のリムジンに乗り込んだ。内装は一般のそれとは比較にならないほど豪華。まさに巨大組織の親分らしい権勢をあらわしている。恒元はこれをわざわざ東京からキャリアカーゴに乗せて運ばせたという。


 その辺の事情を聞いた瞬間、俺は何となく察する。此度、恒元が沖縄に来た目的は外交。さしずめ盃交渉であろうと――。


 俺の予想は見事に当たっていたようで、会長は得意気に語る。


「交渉相手が用意した車には乗らない。これは基本中の基本だ。涼平、何故だか分かるか?」


「拉致される恐れがあるから、ですね」


「そうだ。車のみならず宿も自らの手で確保する。このような場面では何が起こるか分からんのでな。覚えておくと良い」


 今回、恒元は相手方が用意した那覇市内の迎賓館に泊まらず、郊外のホテルに滞在している。そこにも執事局の他、直参の組をひとつ護衛として随行さあせている念の入れようだ。


 そこまで細心の注意を払って、関東の大親分がはるばる沖縄にやって来た理由は他でもない。現地の組織を中川会の傘下に引き入れることだ。


「我輩の望みはこの国を中川の代紋で一色に染め上げること。北は北海道、南は沖縄まで、全ての街を手に入れたいのだ。そのために手段は選ばん」


 ゆくゆくは関西の煌王会をも倒して、天下統一を成し遂げたいと言ってのけた恒元。途方もない夢だが、ヤクザ稼業を張るからにはそれくらいの野心があった方が良いのかもしれない。覇道を突き進むには大きな力が要る。シマを拡げて、シノギを得て、カネを回す。その基本事項の繰り返しだ。サミット開催以来、沖縄は活気に賑わっている。新たな利権を手にするには、ちょうど良い街だろう。


「良い考えですね。道中で新聞を読みましたが、沖縄に経済特区を作ろうって政府の構想があるとか。一枚でも噛めたら莫大なカネが転がり込んできます」


「そうだ。我輩が狙っているのは本島の南半分。当地、那覇を含めた6市5郡。それだけ手中に収めれば、我が中川会は沖縄を手にしたも同然だ」


 沖縄県は経済基盤が本島の南に偏っている。沖縄市以北は旨味に乏しいため、優先して獲得するほどの魅力は無いそうだ。県全体を記した地図を広げながら、恒元は少し悔しそうに話を続けてきた。


「県北部は殆ど米軍基地で、他には自然保護区があるくらい。開発の余地は残っていないだろう」


「ええ、そうみたいですね。アメ公の基地の多さには目を見張ります」


「日本政府は沖縄に日米安保の負担を押し付けすぎなのだよ。島津氏による琉球侵攻の頃から、どうにも本土の人間は沖縄を半ば異民族を見るような目で見ている。まったくもってけしからん話だ」


 そういえば沖縄はかつて琉球王国という名の独立国だったとか。薩摩の島津義久による侵略で日本の属国とされ、明治時代に王国そのものが廃されたが、琉球の人々は彼らの民族性に従い、長きにわたって日本の他の地域とは異なる独自の文化を作り上げてきた。沖縄にヤクザが根付いた経緯も日本本土とは異なるという。


「本土では江戸時代から博徒と的屋が存在したが、沖縄にそういった集団は元来無かった。それが太平洋戦争の終結後、米軍基地へ押し入って物資やあぶく銭を奪う集団が現れた。名を戦果アギャーという」


「戦果アギャー……そいつらが結集して、次第に組織化していった結果生まれたのが沖縄ヤクザってわけですね」


「うむ。米軍統治の頃から沖縄を仕切っていたそうりゅうかいが典型例だろう。あれは元々、戦果アギャーから発展したものだ」


 米軍から強奪あるいは横流しを受けた最新鋭の銃火器で武装し、他の追随を許さぬほどに強大な勢力を誇っていたという蒼琉会。同時期の本土の暴力団と比較しても恐ろしく凶暴で、かなり手ごわい存在だったと考えられる。だが、蒼琉会は現在、旗揚げ時の本拠地があった那覇を失い、県北部へ追いやられていると聞く。何故なのか?


「今の那覇を仕切っているのは緋田ひだぐみ。80年代に本土からやって来て蒼琉会と激しい抗争を繰り広げ、瞬く間にシマを奪った。往時の蒼琉会をしのぐほどの超武闘派組織だ」


「へぇ。じゃあ、その緋田組って連中が今回の交渉相手だと?」


「ああ……それだけなら良いのだがな、問題は緋田組がかつて中川会の直参だったということだ」


 恒元は深く、大きなため息をつく。


「緋田組の離反は先代、我輩の兄の時代にまで遡る。彼らは沖縄に中川の代紋を掲げるべく送り込まれたのだが、蒼琉会から那覇を奪い取った途端に反旗を翻した。獲得したシノギを独り占めしたくなったのだろうな」


 東京へ上納金を払わなくなった緋田組に対して、当時の二代目・中川なかがわ広恒ひろつね会長は絶縁処分を下し、沖縄へ討伐軍を派遣した。だが、いずれも撃退され、北へ追われた蒼琉会を利用しての破壊工作も不発に終わる。業を煮やした広恒は自ら兵を率いて沖縄へカチコミをかけたが、返り討ちに遭ってしまった。


 兄に代わって中川会三代目を継いだ恒元は本土での領地拡大を優先したため、以来、中川会は沖縄に対して手出しせずにここまで時が流れてきたのだった。


「赤文字の絶縁状まで回したのに何ともバカバカしい話だが、あの頃の我輩に沖縄へ攻め込む余裕は無くてな。おかげで緋田組を長らく放置することになってしまったのだ」


「では、今回の盃交渉は遺恨の精算も兼ねていると?」


「そうだな。だが、我輩としては緋田への恨みは無い。むしろ、目障りだった兄を始末してくれて感謝しているくらいだ。あの抗争が無ければ、今こうして中川会三代目の椅子に座ってはいないのだからな…‥」


 会長は窓の外の景色をぼんやりと見つめる。その瞳に映るのは空か、海か、それとも様々な意味で思い入れ深いであろう沖縄への複雑な感情か。


「絶縁処分はあくまで緋田個人に対して出されているものだ。よって、当代さえ渡世から身を退いてくれれば直参に戻してやっても良いと伝えてきた。さて……奴らはどう出るか……」


 俺を迎えに来る前に、緋田組とは既に第一次会談を行ってきたという恒元会長。組長の緋田ひだ咲吉しょうきちに代わって交渉の場に出てきた若頭は「前向きに検討する」と言ったとのことだが、果たして要求を呑んでくれるだろうか。


 現時点で俺が抱いた予想としては、穏やかな決着などまず有り得ない。


 緋田組が中川会から離反した理由は、ひとえに沖縄の利権を独占したかったから。それを直参に復しようものなら、再び中川にアガリを上納する必要が生じてしまう。普通に考えて、そんなデメリットをわざわざ引き受けるとは考えづらかった。


「緋田組にとって、うちに出戻る利点が何かしらあれば良いのですが」


「向こうの旨味なら用意している。彼らがもう一度中川の代紋を掲げたくなるよう、あれこれ手を打っておいた。そうだな? 藤村? 沢木?」


 向かい側の席に座る藤村と沢木に、恒元は目配せをする。確認のごとく訊ねられた両名は同時に口を開いた。


「ええ。ご命令の通り。首尾よくやっておきましたぜ」


「街のあちらこちらで騒ぎが起きてるみたいです。チャンボの連中は、カネさえ貰えればどうにでも転びますからね」


 チャンボとは、密入国のインドネシア人で構成された犯罪組織のこと。アジア圏全域で草の根的に構成員が拡散しており、各国で治安を脅かして社会問題になっていると聞く。日本の場合、沖縄県で最も猛威を振るっているようで、緋田組はその対処に手を焼かされているのだとか。


 今回、恒元は藤村と沢木に命じてチャンボ側とコンタクトを取り、札束を握らせ、緋田組のシマを荒らすよう仕向けたというわけだ。


「中川会に戻れば兵力の上で助けて貰える。緋田組だけでは対処しきれなくなったところで足元を見る……ってわけか」


「それだけじゃないぜ、麻木。俺たちは中国人も煽ってやった。今が緋田組を弱らせて沖縄に根を張る好機だってなァ」


「中国人っていやあ、大陸最大マフィアの狗魔か?」


「違う。四川省系のさいろうはんだ。奴らとの間にはコネがあるんだよ。すげぇだろ」


「はいはい。ご立派で……」


 手柄を勝ち誇るように胸を張る藤村と沢木に、俺ははおざなりに拍手を送ってやる。そのやり取りを見て、恒元は薄く微笑んでいた。


「フフッ……やはりあのお前たちには交渉の才があるようだ。さすがは平野が見込んだ者。藤村、沢木、よくやった。後で褒美を取らす」


「ありがとうございます!!!」


 直後、恒元は俺の方へ視線を移すとニヤリと目を細めた。


「お前にも期待しているぞ、涼平。この五年間で何を学び、どのように成長してきたか。お手並み拝見と行こうじゃないか?」


 要は、手柄を立てて見せろということ。ただ盃交渉に随行して、執事局次長助勤の職務通りに会長の護衛を務めるだけでは駄目なのだ。命令を受けずとも自ら先んじて動き、期待以上の成果を上げねばなるまい。この世界において、親分の期待を裏切ることは破滅を意味する。それは身に沁みて理解している。


「涼平の力量は申し分ございませんよ、会長。鉄火場では一騎当千。何やら活殺術なる武芸を身に付けたようで、そりゃあもう尋常じゃない強さです。エウロツィアでは私も大いに驚かされました。まさに逸材と呼んで差し支えないでしょう」


 太鼓判を押して、フォローしてくれた平野。だが、恒元は軽く笑って首を横に振る。


「いいや。ヤクザの価値は戦技の善し悪しだけじゃない。如何にして剣を抜かずに相手を丸め込むか、調略の腕も同等に肝心なのだ。涼平にはそれが難なくこなせるのか? どうせなら藤村と沢木に引けを取らない働きをしてほしいものだな」


 まったく。ハードルを上げてくれる。恒元のみならず、お手本として名前が出た藤村と沢木までもが上目遣いでこちらを見ている。「新参者よ、俺たちは格上だぞ」とばかりに揚々とした彼らの態度は、さながら挑発である。


 しかし、煽られれば煽られるほど燃えるのが俺だ。今回は日本に帰ってきて初の仕事、復帰戦。せっかくの機会だから、存分に働いてやろう。使える人間だという事実を恒元に見せつけ、出世街道をひた走るきっかけを掴んでやろうじゃないか。


「勿論です。ご期待に応えましょう」


 強い意志と僅かな野心を胸に、俺は静かに頷いたのだった。


「頼もしい限りだ。涼平、藤村、沢木。未来ある優秀な若者が我輩の元で着々と育っている……」


 その時、平野の携帯電話が鳴る。俺が日本を離れている間に、携帯は二つ折りタイプへ進化していた。俺も先ほど空港で渡されたが、執事局が使うものには盗聴防止機能が付いている。


「……もしもし? ああ。俺だ」


程なくして電話を切り、平野は恒元の方へ向き直る。


「会長。万事、問題は無いようです」


 本日の宿所の確認が終了したらしい。今夜、恒元が泊まる予定のリゾートホテルに危険が無いか、平野は会長の到着より先回りして兵を送って点検を行っていたのだ。当然だが、今回の沖縄訪問には俺たち以外にも執事局の人間が沢山来ている。彼ら同輩でありライバルでもある。手柄を確実なものとするために、決して遅れをとるわけにはいかない。


「よし。では、ホテルへ行って休むとするか。今日は疲れたぞ。やはり着いてすぐの現場直行は老体に堪えたな」


「会長。俺はちょっと街を回ってみます。何か目ぼしい情報が拾えるかもしれませんので」


「分かった。気を付けるのだぞ」


 リムジンがホテルに着いた直後、俺はさっそく情報収集を開始するべく街へ繰り出した。平野からはくれぐれも慎重に行動するよう釘を刺された。中川会の人間であることは、極力伏せた方が良いだろう。下手に騒ぎに発展しようものなら、交渉を台無しにしかねない。どこへ行くにも素性が露見しないよう気を配らなくては。


「……彫り物を背負ってなくて助かったな」


 車を降りて歩き始めた俺から、自然な独り言が口を突いて出た。ここでは当面の間、カタギを装って行動せねばならない。人前で服を脱ぐ機会はおそらく無かろうが、刺青が無い方が素性を隠しやすいから助かる。


 背中に彫り物を入れるのはヤクザ渡世のならわし。藤村も沢木も、平野も、彼らの体には各々に勇壮な絵柄が刻まれているのだろう。ヤクザになって5年目、今年で22歳になる俺だが、海外暮らしをしていたために刺青を入れる機会が無かった。


 刺青はヤクザの魂。生き方と覚悟を背中で示すためにこそ入れるのだと、どこかで聞いた覚えがある。そう遠くないうちに、俺も時間を見つけて背中を彫らなくては。だが、何を彫ろうか。龍? 鳳凰? 鬼? いまいち実感が湧かない――。


 謎の感慨に浸っている間に、気づけば辺りは日が暮れて暗くなり始めていた。大通りに出てみたが、昼の店はそろそろ店仕舞いの時間。代わって街はネオンが点灯を始め、夜の景色へと少しずつ移ってゆく。


「ねぇねぇお兄さん、もしかして観光客?」


 背後から女性に声をかけられた。振り向くと、そこにいたのはいかにも軽薄そうな装いをした若い女の子だった。丈の短いドレスを着ている割には、年の頃は15か16。見たところ高校生のような雰囲気も漂っているが。


「良かったらさあ、あたしと遊んで行かない? 今なら初めてのお客さんは3割引きだよ」


 と言って、少女は俺の手をいきなりギュッと握ってきた。


 なるほど。商売女か。どこかの店に属しているわけではなく、個人で客を取っているらしい。見た目からして娼婦をやるには早すぎる気もするが、未成年女性が生活のために春を売る光景を東欧では嫌というほどに見てきたので特に何も思わない。本土のヤクザはロリコン趣味を敬遠するが、沖縄の緋田組はこうしたものを容認しているのか……。


 今は女遊びをしている暇は無い。されども俺には一計が浮かんだ。女の子に話をつけてみる。


「なあ、お前さん。腹は減ってないか? 俺はこれから飯を食いに行くところだったんだが、お前さんさえ良ければ一緒にどうだ?」


 俺の申し出に、少女は飛び跳ねた。


「えっ、マジ? ちょうどお腹空いてたところだよー。お兄さん、奢ってくれるの?」


「もちのろん。一人で飯を食うより、誰かと食った方が楽しい。それも、お前さんみてぇな可愛い女が居てくれたら最高だろうよ」


「またまたー。そんなこと言ったって、何も出ないよぉ?」


「ははっ。んじゃ、行こうぜ」


 俺は少女の肩に手を置き、エスコートするような仕草で夜の街を歩いて行く。道中で制服警官と出くわしてドキッとしたが、少女を見るなりどこか気まずそうに素通りさせてくれた。ああ、そういうことか。あのポリ公も日頃より路上売春の客になっていると見た。官憲の役人とても所詮は人間。男たるもの、欲には逆らえぬというわけだな。


「ねぇねぇ、お兄さんのお名前は?」


 少女が訊ねてきたので、俺は答えてやる。無論、ここで本名を名乗る馬鹿は居ない。定番の偽名を使う。


「朝比奈だ。朝比奈隼一」


「あたしはユカリね。よろしくぅ、隼一」


「お、おう……」


 俺は苦笑いするしかなかった。偽名とはいえ、いきなり下の名前で呼び捨てされるとは調子が狂う。


「お兄さんは、普段何してるの?」


「フリーのカメラマンをやってる。あちこちをめぐって写真を撮っているのさ。この沖縄には動物を撮りに来た」


 エウロツィアから持ってきた一眼レフが役に立った。これは身分を隠すのにぴったりである。出国時、携行していたAKM突撃銃と弾薬は空港近くのジャンク屋に売ったが、カメラだけは何の気なしに首から下げ続けていたのだ。


「へえー。カメラマンって稼げるの?」


「まあ、俺の場合はな。得意先もあるもんで」


「良いじゃん。隼一みたいにかっこいい男の人が旅先で撮ってる写真なら、きっとすごく良いものに仕上がるんだろうなー。でも、なんで沖縄に動物なんて撮りに来たの?」


「顧客に頼まれたのさ。元々、俺自身が動物好きってのもあるけどな」


 付け焼刃の知識で急ごしらえの設定を並べたてる俺。こうしてユカリなる売春婦と他愛もない雑談に興じる目的は、ただひとつ。緋田組の情報を得て、あわよくば関係者に近づくためだ。


 ヤクザが仕切る街では、どこの組も街で働く女から上前をピンハネしている。組織的な管理売春なら当然の話だが、ユカリのように特定の店に属さない者からも何らかの形でアガリを巻き上げているもの。所謂“用心棒代”だの“挨拶料”だの、適当な名目を吹っかけて暴力をちらつかせて脅し、売り上げの一部をかっさらうのだ。


 この手の女と行動を共にしていれば、遅かれ早かれ元締めのヤクザが集金に来るはず。回収係を任されるのは大抵末端だが、上手くいけば緋田組について何か貴重な情報が得られるかもしれない。


 心の奥底に思惑を隠し、俺はユカリと表面的な笑顔で会話を楽しんだ。


「そっかー。あたしも本当は色んなとこに行ってみたいんだよね。今年で17になるけど生まれてこの方、沖縄を出たことが無いからさ。今はこの街で稼がせてもらってるけど、そろそろ東京に行きたいなんて思ってる」


「金を溜めて、行けば良いじゃねぇか。ユカリみたいに綺麗な子は東京でも十分にやっていけると思うぜ」


「やだあ、隼一ったらお上手!」


 くねくねと身をよじり、ユカリは体を寄せて来た。


「ねぇねぇ、早くご飯行こうよぉ。あたし、もうお腹ペコペコ。それでぇ、ご飯食べたらぁ、その後は……ね? ふふふっ……」


「おう。期待しているぜ」


 本音を言えば、俺にそんな気は無い。いくら発育の良い体をしていようと、少女を抱く趣味など持ち合わせてはいない。ゆえにこそホテルへ直行せず、まずは食事をおごってやると言ったのだ……それにしても、このユカリという娘。客の男に惚れさせて金をせしめるのが仕事だというのに、やけに生々しく迫って来やがるな。純朴そうな顔をして、これは相当のやり手だ。先刻は17歳だと言っていたけど、随分と商売に慣れている。察するに彼女の娼婦の歴は長そうだ。まあ、どうせ今夜限りの仲なので深くは尋ねないのだが。


「ところでこの辺りは何が名物なんだ? 俺は沖縄は初めてだから、よく分かんなくてさ。行きつけの店とかあったら教えてくれや」


「そうねえ……あたしのおすすめはソーキそばかな。あと、海ぶどう」


「海ぶどうって、ウニみてぇなもんか?」


「うん、それそれ。透き通るような透明度が大好き。あたしが常連の店はあっちね。付いてきて」


 ユカリに先導され、俺は夜の街を歩いてゆく。彼女に指し示された国際通りの一角には、際立ってネオンのまぶしい建物があった。看板には『ほたるや』と書かれている。


「いらっしゃいませー!」


 店に足を踏み入れると、中は多くの客でごった返していた。煙草の匂いと料理と酒の豊潤な香りが心地よい。日本の飲み屋に来るのも、実に5年ぶり。いや、もしかしたら大衆酒場へ繰り出すのは初めてかもしれない……。


 場慣れしていないことを悟られたら、男として格好が付かない。ここは気を引き締めていなくては。


「お好きな席へどうぞー!」


 店員の中年女性に案内されて、俺たちは2人掛けの席へ腰を落ち着ける。程なくして店員がテーブルに小皿を持ってきた。


「おいおい、まだ何も頼んじゃいねぇぞ?」


「こちら、お通しのイカスミになります」


「お通し? 何だ、そりゃ?」


「もう、お客さんったらあ! お通しはお通しですよ!」


「えっ……?」


 お通しって何だ? 聞いたことの無い単語の登場に、俺の頭には疑問符が浮かぶ。神妙な面持ちで首を傾げる俺を見て、店員がたじろいだ。


「ま、まさか、お通しを知らない!?」


「ああ。すまねぇ。分かんねぇや」


 店員は呆気に取られていた。まるでツチノコでも発見したかのような驚愕の目を向けられたが、知らないものは知らない。やがて彼女は「ご、ご注文お決まりでしたらお声かけください」と言い残してカウンターの奥へと引っ込んでいった。


「……ぷっ。あははははっ!」


 一連の模様を見ていたユカリは、テーブルを叩きながら大笑いした。


「何よぉ、お通しも知らないなんて! あははははっ!」


「いや。マジで分からねぇんだ。お通しって何だ?」


「お通しってのは、食事の前に出てくるお酒の肴みたいなものだよ。もちろん有料で、その店に入れば必ず支払わなきゃいけない決まり」


「ほう。なるほどな。キャバクラでいうところのチャージ料みてぇなもんか?」


「うん。そんな感じ。ってか、お通しを知らない人なんていたんだね。びっくり……」


「まあ、長らく海外に居たもんでな。こういう習慣がよく分かんねぇんだ」


 どうにか繕って、事なきを得た俺。川崎や横浜に居た頃から歓楽街では遊んだことはあったのに、こうした飲み屋の慣習を知らずにいたとは情けない。他にも知らないことはまだまだある。もっと勉強が必要らしい……。


「なあ。お通しって、大体こういう小皿料理が出てくるのか?」


「うん。大体はね。他の街のことはよく知らないけど、沖縄だとよく海鮮系が出てくるかなー」


「ほう。そういうもんがあるのか」


 ユカリの説明を聞いているうち、テーブルの上にあるイカスミが何だか無性に美味しそうに見えてきた。俺は思わず「おお……」と、感嘆の声を漏らした。これが噂の沖縄料理か。実物を見るのは初めてだ。程よく脂のついた海産物の匂いが嗅覚を刺激する。


「じゃあ、気を取り直して。さっそく飲もうか」


「おう。俺はサイダーで良いから、ユカリは好きに飲んでくれよ」


「えっ、お酒は飲まないの?」


「ああ。この後、ちょっと撮りたい写真があってな。あんまりベロベロになるとまずい」


「ふーん……真面目さんだねぇ……」


 ユカリは目を丸くして俺を見つめる。


「まぁ、そういうわけだ。好きなのを頼んで良いぞ。今夜は俺の奢りだから」


「分かった。それじゃあ、店員さん呼ぶね」


 ユカリは手を挙げて、店の奥に居た店員を呼んだ。


「すみませーん! ソーキそば、2人前くださーい!」


 異国暮らしで稼いだユーロやドラム、それからリラの紙幣は関空で日本円への両替を済ませてある。それゆえ財布の中身は心配ない。この後で目の前の女にチップを渡すことになったとしても余裕で支払えるだろう。


 俺の心配事は他にあった。店内で飲み食いする客の中に、どうにも気になる人物が居たのだ。俺の目は自然とそちらへと注がれた。


 あれは一体、何者だろう――。


 逆立てた紫色のモヒカンに袖の無いレザージャケットという異様なスタイリングに加え、2メートル近くはありそうな背丈。見るからにカタギではないと分かる筋骨隆々な大男だった。それが先ほどからこちらをジロジロと盗み見ている……ような気がする。


「あたしの顔、何か付いてる?」


 ユカリに声をかけられ、俺はハッと我に返る。


「い、いや。何でも無いぜ」


 咄嗟に取り繕った。一方のユカリもまた、件の大男の存在をどこか気にしているよう。この店に入った時から、定期的に奴の動きを横目で確認している。それでいて、視線を合わせないように努めているようにも思えるのだ。


 俺は、危険な奴は直感で分かる。あの男はおそらく緋田組の組員だ。たまたま飲んでいたところに俺を連れたユカリが入って来たことで、急遽監視を始めた手合いだろう。彼女が商売女として、きちんと“接客”をしているかを見極めるために。


 もうおいでなすったか。想像より、早かった――。


 やがて料理と飲み物が運ばれてきたので、俺は気持ちを切り換えて食事を楽しむことにした。


 初めて味わうソーキそばは、とても美味しかった。麵の歯ごたえが本土のそれとは違う。あの独特の弾力は一度でも味わったら癖になってしまう。


 イカスミの塩辛さ加減も絶妙で、一口食べるごとにもう一口、と箸が進む。また、塩分は薄味に仕上がっているので飽きることなく食べ進めることができる。食感はぷるんとしていて舌触りが気持ち良い。噛むたびにイカの風味が染み出てくるような優しい味わいに、俺はすっかり夢中になった。


「いやあ、食った食った。沖縄の料理って美味いんだな」


「あれっ、もしかして初めてだった?」


「ああ。本土じゃ馴染みが無いもんでな」


「へー、そうなんだ。あたし、生まれも育ちも沖縄だからさぁ、分かんないんだよね。他所から来た人がどう思ってるか」


「俺は大満足だぜ。定期的に食いに来たくなる味だ」


 食事を終えた俺たちは、そのまま和やかな歓談に耽った。先ほどまで監視していた大男もいつの間にか店の外へ出ている。ここは当初の計画通り、もう暫くユカリと一緒に過ごして組員が接触してくるのを待つか……と、思ったその時。


 先刻の大男が再び店内に現れた。


「……」


 そいつは黙ってこちらへ近づいてくる。ユカリが咄嗟に俯いて目を伏せると、かなりドスの利いた声で彼女の名を呼んだ。


「よう。ちょっとツラ貸せや、ユカリ」


「……待ってください。見ての通り、今は他のお仕事の最中で」


「うるせぇ。俺が来いと言ったら来い。お前に選択権なんか無いんだよ」


 男はそう言うと、強引にユカリの腕を引っ張って席から離れてゆく。2人して店の奥のトイレの方に行ったので、どんな会話を繰り広げるのかと思って耳をそばだててみた。戦場で鍛えられた俺の聴力はすこぶる冴えており、雑音の中でも聴きたい音をはっきりと聴ける。


「俺を放って他の野郎の接客とは良い度胸だな。ユカリ。あぁ!?」


「ご、ごめんなさい……だけど、お金が必要で……」


「言い訳は良い。お前は俺に買われたんだよ。その意味を思い出せ」


「ごめんなさい」


「何を他の奴に色目使ってやがる。俺の性格は、よく分かってんだろ……聞いてんのかゴラァ!」


 男は怒鳴り声を上げ、壁をドンと蹴る。店内に客が居る中での喧嘩だ。当然、他の酔客たちの注目はそちらへと集まるが、気にする素振りはまったく見せない。

 あれは間違いなく、筋者だ――。


 緋田組の人間ならば、登場を待つ手間が省けるというもの。ただ、回収係にしては少し台詞に違和感がある。俺はなおも盗み聞きを続ける。


「おい。誰がお前の弟の学費を払ってやったと思ってんだ。ちったぁ立場を弁えろや、クソアマが」


「ごめんなさい……だけど、もっと稼げって、あなたが……」


「だけどもヤケドもねぇだろ! 俺が悪いって言いてぇのか!?」


 モヒカン男はユカリに平手打ちを放った。乾いた音が店中に響き渡る。なるほど。こちらの筋者とおぼしき男はユカリの彼氏か。しっかし、大衆の面前で自分テメェの恋人を殴るとは、不格好な輩も居たものだ――。


 呆れる俺をよそに男の暴力は続く。直後、なんと今度は顔面目掛けて拳を繰り出したのだ。ユカリは咄嵯に身を屈めて頭を庇うも、男はそれを許さずに髪をわし掴んで上を向かせる。そして、激しく揺さぶりながら彼女を罵る。


「口答えしてんじゃねーよ、馬鹿女! お前なんか、俺が居なけりゃマトモにやっていけない能無しなんだよ!」


「ごめんなさい」


「お前は俺の物だ。分かったか?」


「はい」


「ご主人様に恥をかかせる雌犬ちゃんには、何か罰を与えねぇとなあ」


 男はそう言うと、ユカリの顎下を指で持ち上げて睨み付けた。まるで腹を空かした肉食獣のように。そして舌なめずりをするように、口元が醜く歪み始める。


「……そうだ。あれ、やってみせろよ。他の客の前でさぁ」


 男はユカリの耳に口を寄せて、小声で何かを囁く。流石に俺の耳には届いていないが、何を喋っているのかはおおよそ想像できる。この手の会話は大抵、ろくなものではない。女性の人権意識の低い東欧諸国では沢山目にしてきたが、まさか日本でも蔓延っているとは。


「それだけは……無理です……やめて……」


「ああ? 拒否権なんざあるわけねぇだろうがよ!!」


 男は怒号を上げて拳を振り上げる。次の瞬間、鈍い音と共にユカリの頬から血が流れ出た。彼女は無言のまま、その場に倒れ込む。


「わ……わかりました……」


 瞳に屈辱の涙を浮かべ、女は男の前で正座をする。そして、ゆっくりと己の顔を近付け……男がズボンのチャックから露出した雄棒を舌で優しく舐める。


 ゆっくりと、なおかつ確実に、男の情欲を刺激するように、丹念に……それでいて健気に舌を動かすユカリ。そんな彼女の頭を、男は乱暴気味に撫でてやる。その動作に絆され、次第に深く……奥まで呑み込むように、ユカリは懸命に愛撫を続ける。


「ん……んんっ……」


 時折、苦しそうな声が漏れるが、それでも彼女は止まることなく奉仕を続ける。


 他の客の反応は十人十色だ。こうした歓楽街では日常茶飯事なのか気にしないふりをして食事を続行する者、突如として始まった悍ましい光景を前に絶句する者、そして善意と正義感に駆られたのか、止めに入る者。


「ちょ、ちょっとあんたら! 何やってんだ!」


「うるせぇ! 部外者は引っ込んでやがれッ!!」


 目を伏せるばかりで何もしない店員に代わって制止を試みたおっさんは、モヒカン野郎に殴られて気絶した。


「……おい、全然下手だな。がっかりさせるなよ」


 男は舌打ちを鳴らし、ユカリの頭を力強く掴むと自ら腰を動かし始めた。喉の奥深くにまで突き入れられているためか、呼吸が上手くできないらしく、彼女は悲鳴のような嗚咽を上げている。だが、それでも懸命に奉仕を続ける彼女に対して、男は慈悲を見せようとしない。


「げほっ! おごっ……んっ」


「おいこら、誰が休んでいいなんて言ったんだ!?」


「げほっ! ごっ、ごめん……なさい」


 ユカリは咳き込みながらも必死に言葉を紡ぎ出す。数十秒後、男は満足したのか、口から汚らしい男根を抜き取った。彼女は口元を押さえて激しくむせている。


「うえ……げほげほっ……」


「立てよ」


 男が命令すると、ユカリはよろめきながらも立ち上がった。先ほど殴られた頬が腫れ上がり、唇の端から血が滴っている。彼女の瞳には大粒の涙が浮かんでいた。


「も、もう許してくださ……い……」


「何を甘ったれたこと言ってやがんだ。お仕置きの本番はここからだ。脱げ」


 おいおい。まさかこの場で? 幾ら何でも度を越えている。ヨーロッパの無法国家じゃあるまいし、酒場で女の衣服を剥くなど……しかし、男は本気のようだ。彼の瞳がそれを物語っている。


「や、やめ……」


「脱げ!」


 躊躇するユカリに激昂し、思いっきり怒鳴りつける男。ユカリは震える手でドレスのホルターネック部分を解こうとするが、恐怖のあまり手元がおぼつかない様子。男は業を煮やしてその手を掴み、力ずくで引き千切った。


「……っ!?」


 ユカリは恥ずかしさに顔を赤く染めている。その胸の内を代弁するかの如く、彼女の両手は胸の前で交差して大きな乳房を隠す。目には大粒の涙が浮かぶ。


「手をどけろ。奴隷に拒否権なんか無ぇんだよ」


 ユカリの両手を自らの手で払い除けると、男はその胸を掴み、乱暴に揉みしだき始めた。


「……いや、やめて……」


「お前、乳首弄られんのが好きだよなァ?」


 そう言って男は人差し指と親指でユカリの乳頭を摘まみ、コリコリとした感触を楽しむ。軽く引っ張ったり、押し込んだりと強弱をつけながら弄り回すと、ユカリは途端に反応を変えた。


「あ……あ……んっ」


「はっ! もう感じてやがるのか? こりゃ傑作だな」


「ち……違う……」


「違わねえよ。おらっ、乳首も勃ってきたぜ?」


 そう言って男はユカリの乳首の先端を抓り上げた。その瞬間、彼女は身体を大きく仰け反らせ、軽く絶頂を迎えた。


「ひぃっ!?」


 ビクビクと震え、肩で息をするユカリ。だが、そんな彼女の腹に男は強烈な一撃を繰り出した。


「ぐふうっ……!?」


「誰が絶頂して良いって許したよ。淫乱女め」


 ユカリは腹を抑えて悶絶している。そんな彼女の髪を掴んで強引に上を向かせると、男は再び彼女を立たさせた。


「せっかくの機会だ。お前が淫乱なメス豚だってことを皆に分かって貰わねぇとな。ほら、今度はあれをやってみろ。いつも家でやってる、あれだよ」


「嫌です……あれだけは……」


 ユカリは弱々しく首を横に振る。男はまたもや舌打ちをすると、彼女をビンタした。そして、怒りの籠もった声で彼女に迫る。


「やれ! やるんだ! 弟がどうなっても良いのか!」


 ユカリは既に泣きじゃくっている。ここまでひどい仕打ちを受けたのだ。当然である。俺としても、そろそろ見ていられない。「胸糞が悪い」とはこのような出来事を云うのだろう。今までは興味半分に傍観していたが、流石に止めねば……と思ったのも束の間、ユカリは次の行動を起こしていた。男の命じる“あれ”を始めたのだ。


「ううっ……ぐすっ……」


 彼女は自分の乳房をゆっくりと揉む。自分の手で。しかも、それを目の前に居る男に見せつけるかのように。


「……ユカリのいやらしいおっぱい、思う存分見てやってください……お願いします」


 消え入りそうな声で命じられたままの文言を吐くユカリに対し、男はなおもいきり立って「声が小さい!」と罵る。さらなる行為を命令された哀れな娼婦は、今度はショーツを脱いでその場に座り込む。


「……ユカリのいやらしいおまんこ、味わってください……」


 震える声と手で、男の命令に従順に従い続けるユカリ。彼女の瞳からは涙が止めどなく溢れ、屈辱に歪む顔は羞恥の朱色に染まっており、今にも壊れてしまいそうだ。


 もう、限界だ。これ以上は見ていられない。俺は立ち上がると、男の元まで瞬く間に距離を詰めた。


「そこまでにしてもらおうか。変態はテメェ自身だ。モヒカン野郎」


「ああ!? 何だ、兄ちゃん! 何か文句あん……」


「あるよ。一撃じゃ足りねぇくらいにな」


 その刹那、俺は男の両目を狙って貫手を放つ。具体的な時間に換算すればコンマ一秒も経たぬ間の、まさしく瞬間的な出来事。対応することなど誰にもできやしない。


「ひえっ!?」


 情けない声を上げ、男は無様に尻餅をついた。


「さっさとこの場から立ち去れ。そしたら、目を潰さないでやるよ」


 残念ながら寸止めだ。本音をいえば両方の瞳を抉り取ってやりたい気分でいっぱいだったが……ここで殺人を行っては会長に迷惑がかかるので止めておく。重要な交渉を前に外交問題の火種を作ってはいけない。俺は懸命に我慢して、出来るだけ穏便にこの場を収めようと努める。


 だが、相手がそれを許さなかった。


「ふ、ふざけやがって! この野郎!」


 拳を握り固め、男は力任せに殴りかかってくる。俺に言わせれば、こんなの攻撃の内にも入らない。恐らく武術鍛錬の経験など皆無なのだろう。


 俺は後方にステップを踏んで回避する。男はそのままバランスを失い、地面に倒れ込んでしまった。


「ぐべっ!」


 奇妙な悲鳴とともに倒れるモヒカン野郎。店内で笑いが起きた。男が転んだ一連のモーションは実に滑稽であり、皆腹を抱えて笑っている。


「今のが最後のチャンスだ。さっさと失せろ」


 俺は冷たく言い放った。だが、男は痛みに呻きながら起き上がると、懲りずに立ち上がってくる。手にはナイフが握られていた。


「……お前、ぶっ殺してやる。俺を舐めるんじゃねぇぞ」


「やる気のようだな。んじゃあ、とりあえず表に出ろ。ここで騒ぎを大きくしても得はない」


 そう諭すと男は色めき立った。


「ははっ、表に出ろとは笑わせる! カタギの癖にイキるんじゃねぇよ! よっぽど痛い目に遭いたいらしいなァ!」


 2度に渡って転がされたくせに、外に出れば勝てるとでも思っているのか。お笑い種なのはそちらの方だ。まあ、ここは実力の差というものをたっぷりと教えてやるとしよう。


 屋外は夜風が心地よかった。沖縄は3月でも真夏並みに暑い。それでも夜の空気だけは涼しさを纏っている。俺は空に浮かぶ満月を見上げ、男に言い放った。


「俺を殺すとか言ったな? どうやってやるつもりだ?」


「このナイフで切り刻んでやるよ。そうすりゃ、どんな奴も泣き喚いて命乞いをしやがるんだ」


 男は口元を醜悪に歪ませながら、手にした銀色の刃を舐めて見せた。


「おい、兄ちゃん。土下座するなら今の内だぜ? てめぇは俺が誰がだか分かっていないらしいなァ? 本職の人間を甘く見て貰っちゃ困る。カタギ相手にこうも恥をかかされちゃ、代紋が泣くってもんよ」


 そうか。やはりヤクザだったか。完全に予想通りというか、ここまで事が思惑通りに運ぶとは考えてもいなかった。おかげで俺も好きに暴れられる。向こうが俺をカタギだと勘違いしているなら、なおさらだ。この場でどれだけこいつを痛めつけようが、中川会執事局次長助勤という素性さえ隠せば大きな問題にはなり得ないのである――。


 俺は男を睨み、吐き捨てた。


「代紋を泣かせてるのはあんた自身じゃねぇのか? 大衆の面前で自分てめぇの女を殴るなんて下郎のすることだ。恥という概念が無いのかよ」


「お前、ヤクザの怖さを知らんらしいな。良いだろう。徹底的に痛めつけた上で殺してやる。後悔したって遅いぜ。先に喧嘩を売ったのはお前の方だからな」


「良いさ。かかって来い。テメェがどこの誰だろうと関係ない。目の前で女を痛めつけられて黙ってられるほど、俺は人間ができちゃいねぇんだよ」


 軽く徴発してやった俺。


 すると、モヒカンはナイフを構えて襲いかかってきた。あまりにも予想通りの動きなので、呆れて溜め息が出る。そんな単純な攻撃でどうしようというのか。所詮はクズだ。こいつごときに鞍馬の拳を使うまでも無い――。


 俺は男の腕を払いのけると両手で抱えるように掴み、そのまま勢いよく肘関節をへし折った。


ゴキッ――。


 鈍い音がすると、男は呻きながら崩れ落ちた。


「ぐああ!」


「どうした? もう終わりか? 腕を折られたくらいで情けない奴だ。ユカリにあんな無体を働いておいて、その程度で許されると思うなよ」


 男は痛みに耐えきれなかったのか、半ベソ状態に陥りながら叫んだ。


「お、お前に何の関係があるんだよ! ユカリは俺の女だぞ! そいつをどう躾けようが俺の勝手じゃねぇかッ!」


「何が躾だ。そうやって立場に胡坐をかいて女を殴るのが気に入らねぇってんだ。お前には一方的に痛めつけられる恐怖と屈辱を味わってもらう。覚悟しやがれ」


 自分でも何故だか分からないが、俺は此奴のような輩が嫌いだ。それは幼少期、放蕩に耽った挙句に女房や子供に手を挙げるDV亭主を川崎で何人も見ていたからなのか……何にせよ、こういう時の俺は執拗だ。


 それから暫くの間、男の顔面を殴り続けた。


 顔面を中心にひたすら殴打を続け、皮膚が裂け、血が飛び散っても止めない。殺人武術の伝承者が本気を出すと死んでしまうので、一応は加減をしたのだが。


「はあっ……はあ……もう……止めてくれよぉ」


 俺が殴る手を止めたのは、モヒカン男が泣きながら命乞いをしてきた後だ。経緯はともかく、これで俺は“情報源”を入手した。後は尋問を行って、緋田組の内部情報をありったけ吐いてもらうのみ。幹部というなら少しは目ぼしい情報も持っていよう。


 男の首に腕を掛け、頸動脈を締め付ける。男は身体を激しく痙攣させるも、やがて反応がなくなった。どうやら失神したらしい。


「おいおい、寝るにはまだ早いだろ。来いよ」


 俺は男の髪を掴み、店の方まで引きずって行った。『ほたるや』に戻ると拍手喝采の嵐で迎えられた。他の客たちは皆モヒカンによる先ほどの狼藉を不愉快に感じていたようで、大袈裟にも英雄のような扱いだった。


 褒められて損は無いのだが、ここに長居するつもりは無い。


「マスター、勘定を頼む。釣りは要らねぇ」


「良いんですか?」


「構わねぇよ。今夜は面白い夜だった。しっかし、あんたらも大変だな。店のケツモチがあんな野郎じゃ」


「いえ、あれはケツモチでは……」


「これから何事も無いことを祈るぜ。また来る」


 俺は金をテーブルに置いて立ち上がる。だが、突然背後から呼び止められた。振り向けばそこには着衣を直したユカリの姿が。彼女はそっと俺の元に歩み寄り、手をギュッと握ってきた。


「ありがとう。隼一のおかげで助かったよ」


 そう言って微笑む彼女を見て、改めて思う。やはり俺には、こんな生き方しか出来ないのだなと。


「よせやい。たたま見ててムカついたから殴った。ただ、それだけのことだ」


「ふふっ、もう……でも、嬉しいよ」


 そう言って彼女はわらう。殴られた痣や傷は当然未だ癒えていないが、それでも、彼女から感じていた悲壮感は薄れていた。


「あたしはもう大丈夫」


「そうか? なら、良かった。このクソ野郎にはきっちり灸を据えておくからよ。お前さんもさっさと縁を切ってくれ」


「あ、うん……」


「離れられない事情でもあるのか?」


 俺の問いかけに、女は少し目を伏せながら答えた。要するにこのDV彼氏は暴力団の幹部組員で、経済的にはかなり裕福。かつて宜野湾の遊郭に売られていたところを身請けされて以来、男女の仲になった。女郎屋の借金を一括返済してくれただけでなく、一歳下の弟の高校進学のための費用も肩代わりしてくれたそうな。


「でも、色々と束縛が激しくてさぁ……気づいたら暴力を振るわれるようになってた」


「ヤクザ者は基本的にろくでなしさ。長所と言えば金回りの良さくらいだと考えるべきだな」


「そう、だよね。たった半年か五か月にも満たない間で、ぞっこんになったあたしが悪いよね」


「あ、いや。そういうわけじゃ」


 しまった。


 俺としたことが、また余計なことを言った。女を相手にするのは千騎の重装兵を相手にするより難しい。女性経験の圧倒的な少なさが、ここに来て俺の首を絞めた……。


 ユカリは再び大粒の涙をポロポロと零し、涙を拭う。


「あたしは殴られて当然の人間だから」


「すまん。俺はそういうつもりで言ったわけじゃ」


「良いの。分かってたから」


 女は俺のことを宥めた。確かに、軽率な発言だったかもしれない。この手の人間は何を言っても自分を責めるだけなのだから。今の俺に出来ることは、ただ、彼女が人生を好転させられるよう願うだけである。


「……なあ、お前。弟がいるって言ってたよな。年齢としの頃を考えりゃ、今年で高一か?」


「うん」


「弟を学校に行かすために身を削るなんて大したもんだ。だけど、少しは自分のことも大切にしても良いんじゃねぇか? 体を売れば手っ取り早く稼げるんだろうけど……他の道もあるんじゃねぇか」


 最終学歴中卒の俺が言えた話じゃないのは百も承知。そもそも、俺だって立派なヤクザ者なのだ。だが、それでもユカリの今後が憂えてならない。このまま娼婦を続けていたら、また件のモヒカンのような輩に引っかかってしまうのではないかと思えてならなかったのだ。


 たかが行きずりの女だというのに、何を心配しているのやら。俺もつくづく愚かな男である。


「うん。そうだね……隼一。あたし、一人で何とか頑張ってみるよ」


 ユカリは健気けなげにもそう言ってくれた。更に泣かせる展開にならなかったことを幸運に思い、同時に、彼女ならばもっと素晴らしい人生を歩んで行けるだろうと思った。


「……幸せにな。ああ、これは今日の代金だ。貰っといてくれ」


「えっ、このお金って!?」


「何も言わずに受け取ってくれ。じゃあな」


 俺は彼女に踵を返すと、無駄にデカい男の図体を担いでそそくさと歩き出した。ちなみに、俺が差し出したのは現金にして10万円。異国の傭兵稼業で稼いでいた金の一部だ。願わくば、その金を元手にユカリには人生の再スタートを切ってほしいものだ。


「待って! 隼一!」


「悪いな。俺はこれからやることがあるんだ。こいつが二度とお前の前に現れねぇよう、きっちり体で教えなきゃいけねぇもんでよ」


「……」


 ユカリはそれ以上、俺についてこようとはしなかった。良い子だ。俺のような人種とは二度と関わるべきではない。


 本来、人は出会いと別れを繰り返すものだ。一期一会こそが人生の基本。任侠渡世という修羅の道をく俺には、そんな生き方がお似合いだ。戦乱に揉まれ過ぎた所為か、最近はより強くそう思うようになっている。


 沖縄にしては涼しい空気に背中を押されて、俺は夜の国際通りを歩く。


 本土の歓楽街と並んでこうした流血トラブルはありふれているのか、血だらけの大男をファイヤーマンズキャリーの要領で運んでいても、誰も何も言ってこない。案の定とは思ったが、巡邏中のポリ公さえも素通りしたのには驚いた。この街の治安はどうなっているのやら。


 そそくさと移動を続けて国際通りに程近い松尾二丁目の空き地まで来ると、ひとまず男を地面に下ろした。この場所なら人通りも少ない。多少過激なことをやっても、目撃される恐れは少なかろう。しかし――。


 俺は煙草に火をつけ、周囲を見渡す。この辺りを仕切る緋田組の組員が探しているのではないか。それが非常に気がかりだった。


 先ほど、男は自らを幹部だと言った。だとすれば、緋田組にとっては由々しき展開ではないか。役職持ちが繁華街で突如として消えたとあっては、騒ぎになるのも時間の問題。組員総出で捜索を行うに至るだろう。

 どういうわけか今まで緋田の連中とは出くわしていないが、油断は禁物。やるなら、急がねば。


 俺は足元で横たわっているモヒカンの腹を蹴って、強引に覚醒させた。


「……ん?」


 薄ら目を開ける男。すかさず、俺は奴の鳩尾みぞおちにつま先をめり込ませた。


「グフッ!」


 声にならない悲鳴を上げるモヒカン男。さてと、尋問開始だ。痛みを持って脅迫すれば、大抵の人間は容易く落ちる。俺からすれば簡単な話。修業期間で身に付けた技術を使うとしよう。


「おい、チンピラ。お前には幾つか訊きたいことがある。誤魔化すと為にならねぇぞ」


「てめぇ、さては筋者だな? 偽善者面した素人を装って俺を嵌めやがったな!?」


「黙れ。質問するのは俺だ」


 ――グシャッ。


 早速、痛みを与える。男の指を反対方向に折り曲げ、破壊する。


「アガァアアアアアアアアッ!?」


 男は悲鳴を上げて身体をけ反らせる。尤も、指の関節には痛覚が集中しているのだから予想通りといえば予想通りなのだが。


「もう一度言うぞ。俺が訊いたことだけを答えろ。さもねぇと、すべての指を折ることになるぜ」


「わ、分かった! 知ってることは全て話す! だから、乱暴はしないでくれ! 頼む!」


 あっさりと素直になったモヒカン男。先ほどはユカリに散々乱暴していたくせに、どの口が云うのか。まったくもって呆れるばかりだ。このような手合いには組織への忠誠心も薄い。尋問を続行する。


「お前。組の幹部と言っていたが、それは本当か?」


「ああ! 本当だ! 俺は若頭かしら補佐ほさだ!」


「若頭補佐だと? へっ、組のナンバー3がお前みてぇなろくでなしとは。緋田組も不格好なもんだ」


「違う!」


 その時、男は首を大きく横に振った。


「俺は緋田組じゃない! う、うるしばらぐみの若頭補佐だ!」


 漆原組――。


 緋田の人間ではなかったのか。聞いたことの無い名前の登場に面食らう俺。一方、奴もまた俺のことを緋田の組員だと勘違いしているようで、ひどく混乱していた。


「そういうあんたは緋田の若い衆じゃねぇのか……!」


 曰く、てっきり街で暴れる自分を制裁したケツモチだと思ったらしい。緋田の人間が自分の乱暴狼藉を見咎めることは無いと思っていたので、それゆえに最初は正義感に駆られた素人だと誤認したそうな。


「何で他所の組の奴らがここに居るんだよ っていうか、何で那覇の街でデカい顔してるんだ?」


「ひ、緋田の連中は、俺たちに気を遣ってくれてるから……」


「だーかーら、訊かれたことだけに答えろっての!」


 俺は再び男の指を折る。今度は中指から小指にかけての3本。またしても男は悲鳴を上げた。


「ヒギャァアアアッ!? アギィィイイッ!」


「下手な誤魔化しは無用だ。単刀直入に訊かせてもらう。どうして他所者であるお前がここに居るんだ?」


「はあ……はあ……お、俺の組は……」


 かなり勿体ぶった言い方に苛立ちがこみ上げたが、直後に男の口から飛び出した情報はそれを瞬く間に掻き消した。予想だにしなかったとは、まさにこの事。とんでもない単語が飛び出したのだった。


「……煌王会の枝だ」


 誰もが知っている、我らが中川会と日本の裏社会を二分する国内最大規模の暴力団。俺は思わず訊き返してしまう。


「何? 煌王会だと?」


「そうだ。分かるだろ。これでテメェは天下の煌王会に手を出したことになるんだよ!」


 まさか、煌王会とは……俺は大きな衝撃に包まれた。


 だが、これで納得した。どうして男が繁華街であのように振る舞っていたのかを。那覇を仕切る緋田組の人間なら、自らの領地で暴れたりはしないはず。そういった類の輩を懲らしめるのが用心棒たる任侠者の役目なのだから。


 しかし、一方で新たな疑問が浮かぶ。


「枝組織とはいえ、煌王会の人間がどうしてこの街に居るんだ? まさか『観光で来た』なんて言わねぇよな?」


「とぼけてんじゃねーよ。てめぇら緋田組の人間がいちばんよく分かってるだろうが。ったく、汚い真似しやがって……」


 俺はすかさず、男に駄目押しの一撃を浴びせる。今度は親指。関節の砕ける音がはっきりと聞こえた。


「イギャァアアアッ!?」


「訊かれたことだけに答えろと言ったはずだ」


「や、止めろぉ! 止めてくれぇ! 何かよく分からねぇけど、全部喋るから! 」


「なら、さっさと洗いざらい白状したらどうだ。大体の察しは付くけどな」


 どこの地域も歓楽街は広いように思えて、意外と狭い。ひとたびトラブルが発生すれば瞬く間に情報が伝播し、その街を仕切るケツモチの極道が仲裁あるいは鎮圧に駆けつけてくるもの。


 しかし、先ほどの店ではそのような気配がまったく無かった。他所の組のチンピラが一般客と揉めているにもかかわらず、緋田組の人間が姿をあらわさなかったのだ。おそらくは店の人間が連絡を入れなかったのだろうが、俺はそこに何か深い事情があると思えてならなかった。緋田組の用心棒を呼べない、もしくは緋田組側がケツモチを派遣できないだけの大きな理由が――。


 確信を得たわけではないが、男に仮説をぶつけてみた。


「漆原とかいうお前の組。もしかして緋田組と盃交渉に来てるんじゃねぇの? 煌王会の傘下組織として、味方に引き入れるために」


 どんぴしゃり。男は大きく頷いた。


「ああ! そうだよ! それで、てめぇら緋田組は俺を罠に嵌めて攫ったんだろ! 少しでも交渉を有利に進めようって算段でなァ! ずっと俺のことをマークしてやがったのか!」


「ああ? 何を言ってる?」


 その時だった。歩道に面した空き地の入り口側で、犬の鳴き声が聞こえた。まずい。先ほどの男の絶叫があまりにもうるさく、おかげで夜の散歩中だった通行人に気付かれたようだ。


 どうする。無力化するか、それとも――。


 俺が思案に暮れていると、モヒカン男が突如行動を起こした。


「おーい! 助けてくれぇ!」


 大きな声を上げ、出口に向かって走り出したのだ。


「ちっ、逃げるんじゃねえ!」


 ここで逃げられてしまってはかなり面倒な事になる。俺は短刀を引き抜くと、瞬時に男の跡を追いかけて一閃を放つ。


「ぐああっ!?」


「両脚の腱を切断した。これでお前は、もう自力で歩くことができない。諦めるんだな」


「ち、畜生め!」


 幸いにも、歩道付近で騒いでいた犬は野生のようで飼い主らしき人物は無し。暫く間付近を歩き回ると、何処へともなく行ってしまった。


「さあ。話の続きを聞かせて貰おうじゃねぇか……と言いたいところだが、念のためだ。場所を変えさせて貰うぜ」


「おっ、俺を拉致するのか!?」


「悪いがお前は重要な情報源だ。こっちもなりふり構ってられねぇんでな」


 俺は携帯を取り出し、番号を入力して電話を掛ける。相手は平野。生真面目な彼らしく1コールで着信に出た。


「もしもし。俺だ。麻木だ」


「お前、今どこに居る? そろそろ戻って来てくれ」


「それなんだが、松尾二丁目に車を寄越してくれねぇか? ちょっとした“収穫”があったもんでな」


「何?」


 数分後。沢村の運転するバンが近くにやって来た。俺が抱えた血まみれになったモヒカン男を見て、彼は表情をみるみる表情をこわばらせる。


「お、お前、そいつどうしたんだよ……まさか緋田組の人間と面倒を起こしたのか?」


「いいや。緋田組なんかより、もっと面倒な連中だ。とりあえず車を出せ。向こうについてから詳しく話す」


「お、おう……」


 かくして俺は少なからぬ“収穫”を手に会長の元へ戻ったわけだが、大変なのはその後処理だった。


「涼平。大手柄だぞ。よくぞ見つけてきてくれたものだ。こうなることは我輩も可能性として頭の片隅に置いてあったが、まさか本当に仕掛けてくるとはな」


 全てが片付いた翌朝、恒元はコーヒーを啜りながら呟く。


「……ええ。俺も驚きましたよ。だいぶ前から煌王会に先手を打たれていたなんて」


 宿所のホテルの一室を借りて件のモヒカン男に更なる拷問を行った結果、色々と厄介な事実が判明した。


 まずは、男の素性。奴は名前を東村ひがしむら朔治さくじといい、煌王会系三次団体「漆原うるしばらぐみ」で若頭補佐を務める人物だった。東村は舎弟たちを連れて前年の十月頃から沖縄に来ていたようで、緋田組を煌王会の傘下に取り込むための前段階として沖縄に滞在していた模様。


 我が物顔で振る舞っていたのには、理由があった。


「あの野郎、国際通りにある店を何軒か言いなりにさせていたみたいです。店主たちの弱みを握って『緋田組にチクられたくなかったら言うことを聞け』と」


「店が緋田組への用心棒代を誤魔化している事実を掴んだわけか。なかなかの情報力だな」


「はい。組の本隊に先んじて沖縄入りを任されるくらいですからね。上に一目置かれているのは確かでしょう」


 国際通りに根を張った後、東村は緋田組の目を掻い潜って那覇市内で勢力を拡大。緋田との交渉本番を有利に進めるべく、着々と準備を整えていった。その過程で何人かの女をつまみ食いしていたようで、ユカリも奴の毒牙にかかった一人だったというわけだ。


「緋田組は沖縄の南半分に何軒もの遊郭を持ってるみたいでして。そこに囲われてた女たちの脱走に東村は手を貸してたようです」


「脱走? 身請けではなく?」


「ええ。当の女たちには『お前は大枚はたいて身請けしてやったんだぞ』と吹いてたようですが」


「なるほど。それで恩を押し貸して、自らの奴隷のように扱っていたというわけか。典型的なチンピラだな」


 ともあれ、娼婦の脱走は緋田組にとって看過できる事態ではない。女たちは商売道具。賃金の前渡しという遊郭の制度上、逃げられたら少なからぬ損失を被ることになる。そのような出来事が立て続けに起これば、緋田組は次第にとある可能性を疑わざるを得なくなる。


「……何者かがシマを脅かそうとしている、本土から侵略の手が偲び寄っていると?」


「ええ。そうすれば、緋田組はシマを守るためにどっかのデカい傘の下に入ることを考えるようになる。他にも色んなシノギを妨害してたと言ってましたね」


「困っている所へ颯爽と現れて手を差し伸べ、藁にも縋る思いの緋田組を傘下に引き入れる。まさにマッチポンプではないか」


 東村が地固めを行っていた沖縄に漆原うるしばらへい率いる漆原組本体が到着したのが、3月1日。ちょうど1週間前である。漆原は緋田組から歓待を受け、煌王会入りの話についても「かなり前向きに検討する」との返事を受け取っているという。おまけに漆原は緋田組の緋田咲吉組長本人との会談を成し遂げている。本日、恒元が緋田組本部を訪ねた時には体調不良を理由に面会が叶わなかったというのにだ。


「あくまでも俺が東村から拷問で吐かせたってだけで、裏が取れてるわけじゃありませんけどね。俺たちをビビらせようとハッタリをかましたって可能性もあります」


「だが、状況証拠と言動を照らし合わせる限りは信憑性が高い。先ほど平野に調べさせたが、迎賓館の宿帳には確かに『漆原小平太』の名前があったそうだ。この街には煌王会も来ていると考えて間違い無いだろう」


「困ったことになりましたね。煌王会が居るとあっては、俺たちとしても動きづらい」


「ああ。我輩の訪問7日前のタイミングでの御来訪だ。おそらく奴らはこちらの動きを読んでいたのだろうな」


「だとすると……会長と初顔合わせを行った時点で、緋田組は既に煌王会側と話を進めていたことになります。これはとんだ不義理ですよ」


「そうだな。早い話が昨日の歓待は形だけに過ぎなかったのだ。『前向きに検討させてもらう』と若頭の葛城は言ったが、これから緋田組がどう出るかは最早明らかではないか」


 28年ぶりの領土回復を目指す中川会としては何とか巻き返しを図りたい格好だが、現時点で煌王会側に傾いている緋田組長を心変わりさせられるかどうか。かなり難しい状況と言わざるを得なかった。ただ、打開策が皆無というわけじゃない。


「東村の身柄ガラはこっちで押さえてるわけですし、そいつを交渉材料に使う手もあります」


「あの男の証言を口実に緋田組側の二枚舌を糾弾し、盃を呑むよう迫るわけか」


「はい。強硬手段にはなってしまいますが、それが現時点では最も有効打かと思います。緋田が煌王の盃を呑んでしまう前に手を打たれるべきです」


「ふむ……まあ、やってみるとしよう。我輩にも関東の支配者としての意地があるのでな。緋田組ごときにコケにされたままでは終われん」


 場合によっては沖縄および煌王会との戦争も辞さず――というのが恒元の意向だった。彼は長年にわたって関東ヤクザの頂点に君臨してきた絶対君主だ。その名誉と誇りを守るためなら、敵に回ると分かった相手に容赦はしない。


「戦争になった時に備えて、総本部から直参組織を今のうちに呼んでおくのはいかがでしょう。執事局と平野組だけでは兵力的には心許ないかと」


「心得ているとも……だが、慎重にやらねばならんぞ。緋田組はこの街の警察を支配下に置いている。本土から大々的に銃を持ち込むことは叶うまい。下手をすれば、銃刀法違反云々で我輩が真っ先に掴まってしまうのでな」


「道具に関しては俺の方で調達の手配をつけておきます。マケドニアで交流のあった将校が、嘉手納にいましてね」


「ああ。その言葉を聞いて安心したぞ。まったく、傭兵をやっていたお前を呼び寄せた甲斐があったというものだ」


 恒元は再びコーヒーカップを手に取ると、ゆっくりと口へ傾ける。


「何としても、沖縄を手に入れて見せる。何としても……」


 その口調からは、既に戦いが決定付けられたかのような闘志が滲み出ていた。ともあれ、俺をヤクザに戻してくれた恒元には感謝しかない。話がひと段落した直後、いきなり「やはりお前は美しい」とキスをされたのは心外だったが、甘んじて受け入れる。色々と問題のある人物だが、とりあえずはこの御仁について行こうと思う。


 その恒元が、不意にため息をついて問うてきた。


「……涼平。お前は大丈夫なのか?」


「問題ありませんよ。他の組織とどう付き合っていくかは、会長が決めること。俺はただ従うだけです」


「そうではない。古巣の組と事を構えるのに抵抗は無いのかという意味だ」


「あっ……」


 忘れかけていたとある事実を思い出し、俺の表情は自然と暗くなる。


「……そうでしたね。だけど、大丈夫です」


 しかし、俺もひとかどの極道。己の感情に振り回されて判断を誤ったりはしない。公私の分別くらい、ついているつもりだ。「何ら問題ないですよ」と答えたが、それでも恒元は懸念を隠せないようだった。会長が左様なまでに俺のことを心配してくれる理由は、ただひとつ。


「漆原組の直属の親組織は、煌王会横浜貸元の村雨むらさめぐみだ。漆原と事を構えれば、ゆくゆくは村雨組ともやり合う流れになるだろう。村雨耀介本人が鉄火場に出てくるかもしれん。お前は旧恩ある村雨を相手に戦えるのか?」


「会長。過去がどうだろうと、今はあなたの子分ですよ。あなたに『殺せ』と命じられたら、たとえそれが親兄弟であっても殺す。それだけです。たとえ旧恩を仇で返す未来になったとしても、あの日の誓いが揺らぐことはありません」


 俺は強く言い切った。5年前のあの日、俺を拾って育ててくれた村雨組長に背を向けて横浜を抜け出し、ひとり東京の中川会の門を叩いた時から、俺の覚悟は決まっている。組織に入る際に交わした、血の契約。俺に躊躇いなどあるわけが無かった。行けと命じられれば、俺は率先して村雨耀介の首を獲りに行く――。


 この5年間、世界中を放浪して戦場を渡り歩いてきたのは武術の修行のためであり、同時に横浜への未練を完全に絶ち切るためでもあった。もう、俺は村雨組とはかかわりが無い。誰が何と言おうと中川会、中川恒元の腹心なのである。


「そうか……ならば、これ以上は何も言わん。お前の意志を尊重する」


「ありがとうございます」


「ああ、そうそう。お前が5年前に清原を殺した件だが、こちらの方で上手く揉み消しておいたよ。存分にやりたまえ」


 有り難い話だ。まだ戻っても間も無い部下を気遣ってくれる恒元に報いるためにも、大きな武功を挙げなくては。抗争が始まったら、一番槍を目指すくらいの勢いで挑もうではないか。


 それから程なくして、俺は宿所の外に探索へと出た。東村の拉致に勘付いた煌王会系漆原組が動いている可能性があったため、緋田組の情報に加えて連中の動向をも調べておかなくてはならない。


 東村の失踪を誰の仕業と考えるかは別として、中川恒元が那覇に来ていることに奴らは気づいている。恒元がうっかり漆原の組員と鉢合わせようものなら、確実にその場で首を獲られかねない。かつての村雨組がそうであったように、三次団体は出世欲からくる野心に燃えている。中川会の会長という最大級の首級を前にして、何もしないわけがないのだ。


 このあと控えている第二回会合を兼ねた朝食会の会場に漆原の組員が居ないか、徹底的に安全確認を行わなくては。そのためにも、まずは緋田組総本部から探りを入れてみるか――。


 そう思いながら、西の埠頭を歩いていた時。俺は意識外から声をかけられた。


「おーい! そこの兄ちゃん! ちょっと手伝ってくれ!」


 何事かと思って周囲を見渡していると、岸壁の上に一人の壮年男性が立っている。老人と見るには少し若い気もするが、頭には白髪がちらほらと目立つダンディーな人物。水色のアロハシャツを見事に着こなし、下はジーンズにスニーカーという若々しい装いだった。気品と豪快さを兼ね備えた、とにかくお洒落なおっさん。一体、どこの誰だろう……?


 ぼんやりとしている俺に、おっさんは言った。


「おい! 何をぼさっと突っ立ってるんだ! 早くこっちに来てくれよ!」


「えっ? 俺か?」


「他に誰が居るんだよ!」


 確かに言われてみれば、周囲に俺以外の人影は無し。時刻は朝の6時37分。埠頭を歩く人間も殆ど居ない時間帯だ。


 指図されるがままに慌てて近寄り、岩壁を登る。そのおっさんは釣竿を持っており、かかった獲物を引き上げるのに難儀しているようだった。


「兄ちゃん、俺が今から網で掬うからよ。それまで竿を持っててくれねぇか。頼むわ」


「はあ? おい、ちょっと待て……」


「離すんじゃねぇぞ!」


 こちらが返答をする前に、おっさんは俺に竿を託した。成り行きというか、とんだ偶然というか。半ば強引に早朝の釣りに巻き込まれる形となったわけだが……引きが思いのほか強い。釣り糸を引っ張り、海の中でビチビチと跳ねている。


 そこそこ大きい魚影もハッキリと見えた。


「よっしゃあ! 捕まえっぞ!」


 おっさんは網を構えて腰を低く下ろし、得物を掬い上げようと試みる。俺は釣りなどにあまり詳しくはないが、かなりの大物と期待して良いのではないか? 網を持つおっさんも、満面の笑みを浮かべていた。


「こりゃあデカそうだ!」


 やがておっさんの持つ手網が魚を捕らえ、彼は勢いよく水面から取り出そうと上体をグイッと起こす。だが、その時。


「うおおっ!?」


 突如としておっさんがバランスを崩し、前のめりになってしまう。


「危ないっ!」


 俺は慌てて彼を支えに入る。寸でのところでおっさんの転倒を阻止し、俺はホッと胸を撫で下ろした。


「悪ぃな兄ちゃん……助かったよ」


「やれやれ。肝を冷やしたぜ。ともあれ、釣れて良かったな」


「まあな。こいつは逃がしちゃいけねえ」


 おっさんは地面に腰を下ろすと、網で掬い上げた獲物を改めて観察する。俺も横合いから覗き込んでみると、岩壁のコンクリートの上でビチビチと跳ねていたのは知っている魚だった。


「おおっ、ナポレオンフィッシュじゃねぇか!」


「何だ、兄ちゃん。知ってるのか?」


「ガキの頃に図鑑でお目にかかったことがある。見ての通り、面白い顔をしてるもんだからよ。やけに印象に残ってたんだ」


「あははっ、確かに面白い顔だわな」


 おっさんは得意気な顔になる。どうやら地元では馴染みの深い魚らしい。


 俺もさほど詳しくは無いのだが、一般的にナポレオンフィッシュと言えばインド洋やら太平洋にかけての熱帯海域に生息しており、珊瑚礁の近くで見られる。大きく前方に突き出た頭部が最も特徴的で、フランスの皇帝ナポレオンが愛用していた二角帽子(Bicorne)に形状がそっくりだったためにその名が付いた。


 幼い記憶を頼りに蘊蓄を披露していると、おっさんは嬉しそうに笑った。


「兄ちゃん、なかなか物知りじゃねぇか。最近の若者にしちゃあ珍しい」


「いや、物知りってほどじゃねぇよ」


「魚は好きかい?」


「わりと好きな方だ」


「もし良かったらよぉ、このあと俺に付き合ってくれねぇか? いま釣った奴を食わせてやるよ」


 意外な申し出である。助けてくれたお礼がしたいと語るおっちゃん。俺は腕時計に目をやる。ちょうど時刻は午前7時。午前9時前には戻ってくるように言われている。2時間程度あれば、間に合うのか……?


「分かった。それじゃあ、お言葉に甘えて」


 俺はおっさんの誘いに乗ることにした。朝食も未だ済ませていなかったのである。近くに店を持っているというので、今朝はそこで魚料理を食わせてもらおう。

 到着するまでは一緒に海を眺めながら歩いた。水平線は快晴の空の青と完全に一体化していて、その美しさに思わず目を奪われてしまう。


「兄ちゃん。沖縄の海がどうして青いか、知ってるかい?」


「本土に比べて海水の不純物が少ねぇって話は聞いたことがあるぜ」


 おっさんの問いかけに即答する俺。彼は俺を「海についても詳しいんだな」と褒め称えた。だが、他にも理由があるという。


「確かに海水自体も綺麗なんだが、砂が真っ白いから余計に海が青く見えるってのもある。沖縄の砂浜は殆どが石灰でできてるからな。人間が手を加えなくても自ずと白くなるって寸法だ」


 なるほど。そんな仕組みだったとは。綺麗な砂浜が海の美しさを引き立てている、まさしくこれは自然が生み出した調和の美といえよう。


 おっさんの説明に納得しているうちに、俺たちは店にやって来た。国際通りに程近い大衆食堂だ。


「へぇ。ここがあんたの店なのか?」


「そうだな。正確に言えば、うちの会社で面倒を見ている店だが」


「ふうん」


 面倒を見ているとは、どんなビジネスモデルだろう。顧問料でも貰っているのか。ラフな見た目に反して肩書きは複数の事業を手掛ける実業家というおっさんの意外な一面に圧倒されつつ、俺は店内をぐるりと一望する。


 中はこぢんまりとした外観と違って中々広く、10人程度が座れるカウンターとテーブル席がある。内装は落ち着いたダークブラウンを基調としたデザインで統一されており、年季の入ったランプシェードが異国情緒を演出していた。


「ここは昔ながらの沖縄料理を出す店だが、内装は琉球スタイルに振り切っていない。どちらかといえば洋風居酒屋寄りだ。そのギャップに客が集うのよ」


「へぇー。なかなか考えてるんだな」


「さあ、さっそくだがナポレオンフィッシュのフルコースと行こうじゃねぇか」


 おっさんはカウンターの向こうのキッチンへ入ると、手を叩いて店主を呼んだ。店は未だ準備中だったらしく、店主の老人は奥のテーブルで軽く居眠りをしていた。

「おう。爺さん。台所、借りるぜ」


「いらっしゃいませ。社長。どーでぃんぐ自由にうちかいくぃみそーれー」


 老店主が話しているのは沖縄弁……というより、古めかしい琉球語でまったく聞き取れない。昨日のユカリもここまで訛りがきつくはなかった。まあ、通訳に関してはアロハのおっさんに任せるとしよう。


 俺はただ、料理の完成を待つだけだ。


「兄ちゃん、この辺じゃ見ねぇ顔だな。旅行かい?」


「生憎にも仕事だな。気楽に観光で来られりゃ最高だったろうが」


「そうかい。確かに何にも考えねぇで、ただ純粋に楽しく過ごすのが一番だからなぁ。この沖縄って街は」


 その通り。遊び感覚で沖縄の滞在を満喫できたらどれだけ良かったことか。人生で初めて訪れる南国旅行は、昨晩から想定外の出来事続き。名物の沖縄料理に舌鼓を打ったと思っていたら喧嘩騒動に巻き込まれ、悩みの種が増えてしまった。せめて食事の時間だけは何も考えず、平穏に過ごしたいものだ。


「兄ちゃん。ナポレオンフィッシュはこの沖縄で何て呼ばれてるか、知ってるかい?」


「ええっと。確か“シロサー”だったっけ」


「そうだ。けど、魚自体は元々は日本列島の固有種じゃない。インドの海から長い年月をかけて渡って来たんだ」


「外来種みてぇなもんか」


「いやあ、外来種ともまた違うんだが、完全に違うとも言い切れん。まあ、似て非なるものだな」


 その瞬間、まな板に乗せた魚に包丁が入った。硬い肉に刃を入れる際のストンという快音が店内に響く。豪快に捌きながら、おっさんは説明を続ける。


「かつては異国の魚だったわけが、今やこいつを外来種と呼ぶ奴はいねぇ」


「確かに固有種だよな」


「そうだ。長い時間をかけて、沖縄の人々に親しまれていったんだ。その理由が分かるか?」


「美味い食べ方が沢山考えられたから?」


「それも有る。だが、それよりも大きな理由がある」


 おっさんが手を止めて語り始める。その声色はどことなく誇らしげだ。


「この魚の模様が変化したんだ。鮮やかな青色になったのは元居たインド近海から沖縄の海にやって来た後のことのさ」


「進化ってやつだよな。環境に適応して体の一部が変化する」


「おうよ。んで、何が言いてぇかっていうと、誰かに愛して貰うには自分が変わるしかねえってことだ。ありのままの自分を受け入れて貰おうって考えるのは至極真っ当だが、それだけじゃいけねぇんだ」


 周囲に変化を求めるより、自分が周囲に適応して変わっていった方が建設的で手っ取り早いとおっさんは語る。これは生物学に限らず、人間関係や仕事などあらゆる局面にも通じることだという。


「ポッと出の新参者が嫌われるのはどこも一緒だ。人間、誰しも得体の知れえねぇ輩が気持ち悪いのは当然なんだから。それに文句を言ったところで始まらねぇ。『分かってほしい』と思うより、分かって貰えるような自分になることが大切なんだよ」


 魚も然り。沖縄の海に来る前は、とても綺麗と呼べる外見ではなかったという。彼らの場合は好かれようと思って姿形を変えたわけではなかろうが、マクロで考えればおっさんの言うことは確かに正論だ。それは俺自身も理解できること。だが、どうして俺に言うのだろうか……?


 気づかぬうちに三枚に下ろしていた魚の切り身をざるに入れ、鍋を用意して湯を沸かす。その作業の中、おっさんは俺に視線を移して言った。


「すまねぇな。何の話をしてるんだって思ったろ」


「あ、いやあ。別に」


現在いま、別の仕事が正念場でよ。この魚を切ってたら、ふと思い出しちまったのさ。人生の基本ってやつをな」


「そうかい。何か、悩みでもあるのか?」


「悩みってわけでもねぇが。ちょっとした面倒事でな。そういう時に限って、こいつを釣っちまったら妙な展開になったりするんだよ」


 それはジンクスの一種。科学的根拠には乏しい。信じる信じないは個人の自由なので、俺がとやかく言うことではない。


「ナポレオンフィッシュか。なるほど。あんたにとっては思い入れのある魚のようだな」


「この沖縄で初めて釣った魚がこいつさ。あの時は切った貼ったの連続だったが、今はそう簡単に揺らぎはしねぇよ。乗り越えて見せるさ」


 おっさんは魚の目を見て笑った。その笑顔には経験に基づく確信や自信が垣間見えた。ついさっき語られたことは彼の人生哲学、謂わば信条なのだろう。彼の抱える問題が何なのかはさておき、まあこの人なら大丈夫か。きっと事を上手く進められよう。


 飲食業の他にも手広くやっているとの話だが、俺にはひとつの仮説が浮かんだ。さっそく問うてみる。


「なあ、おっさん。元々は本土の出身だろ?」


「ほう。何故にそう思うんだい」


「元々は他所の街で事業をやっていたが、訳あって沖縄に進出してきた。『郷に入っては郷に従え』みてぇな格言を座右の銘にしてるもんだから、もしやと思ってな」


「ははっ。当たりさ。お前さんの言う通り、元は東京者だ。20年近く前に沖縄で事業を起こした」


 大きく頷いた後、おっさんは答えを続けた。


「それまで東京じゃ不運続きでうだつが上がらなかった俺も、沖縄じゃ瞬く間に羽振りが良くなった。そいつはひとえに俺が沖縄に適応する努力をしたからだ。純粋に沖縄を愛したら、逆に沖縄の方に愛されちまったってわけさ」


「沖縄に愛されちまった……か」


「おうよ。お前さんも本土の出身なら分かるだろ? 沖縄って街は他とは何もかもが違う。時間の流れから文化まで、全てが沖縄流さ。全ての人間を受け入れてくれるとは限らねぇ」


「だから、自分が受け入れられる努力をすべきだと」

「ああ。その土地の懐が広いだの狭いだの、ウダウダ文句を言う前にな」


 郷に入っては郷に従え……それこそが人生を好転させる基本の極意だと説くおっさんの言葉は、尋常ならぬ説得力に満ちていた。


 過去を詳細に語らずとも分かる。彼自身がビジネスマンとして沖縄に溶け込むべく、様々に努力を重ねてきた。だからこそ本人曰く「羽振りの良い」暮らしが営めており、幾つもの事業を手掛けるまでに商売を繁盛させ、なおかつこうして地元の人と良好な関係を築けているだ。


 おっさんはやがて、俺にひとつの品を出してきた。


「お待ち。食ってみな」


「これって刺身……じゃないよな?」


「シロサーのあらい。塩や醤油をかけずに、そのまま食うのさ。美味うめぇぞ」


 それが沖縄では一般的な食べ方らしい。まさに、郷に入っては郷に従え。本土では見たことも聞いたことも無く、鯉以外の魚を洗いで食すのも馴染みが薄い。されど、本場の食文化を堪能するチャンスだ。


「ええっと、それじゃ……」


 俺は切り身を箸でつまみ上げ、口へ運んだ。


「よーく噛めよ。三十回以上は噛まねぇと味が分からねぇ」


「ううん……」


 言われた通りに咀嚼を重ね、その後で舌に乗せ、少しずつ飲み下す。おお……これは……。


「……美味うまい!」


「だろ?」


 思わず、俺は感嘆の声を上げた。お湯でサッとゆでで冷水でしめただけのシンプルな工程で、味付けもほとんど手を加えていない。淡白な風味でありながら、そこに生臭さを一切感じない。しかしながら口の中で広がる味わいは上品かつ繊細で、素材の味がよく活かされている。俺は一瞬で虜になってしまった。


「まだまだあるぜ。遠慮しないで、たらふく食ってくれよ」


「是非とも頼む」


 それからも“シロサー”ことナポレオンフィッシュの洗いをたっぷりと堪能させてもらった。かなり大きな魚なので、捌いた切り身にはまだまだ余裕がある。それにしても、このおっさんは調理の手際が凄すぎる。「良かったら定食を作ってやるよ」と言われたので、俺は有り難く頂戴することにした。今日、朝食は済んでいない。この後の大一番に備えて腹を満たしておこう。


「へぇー。AとBで選べるのか……」


「別に無理して二者択一をするこたぁねぇさ。両方の良いとこ取り、って作り方もできるぜ」


「できるのか?」


「できるとも。この店じゃ裏メニューだがな。へへっ」


 その時、テーブルに腰かけていた老人が「おいおい、社長。教えちゃあ裏メニューの意味が無いだろ」と苦笑いしたが、まったく何のことやら。


 台所を預かったおっさんはAコースとBコース、双方の主食をおかずにして出してくれるという。しかし、それではAとBにコースを分けている理由が分からなくなってしまうのでは……?


「別に構わねぇよ。どっちを取るか、迷った時はどっちも取る。それが人生で得をし続ける鉄則ってもんさ」


「どっちも取る……か。理には適ってるな」


「だろ? その時は丸ごとかっさらうんじゃなくて、自分にとって旨味になる部分だけを貰うことだ」


 無論、万事通用するとは限るまい。経営者によってルールがあろうし、一般的な店ではそもそも断られる可能性が高いと思う。だが、そう指摘するとおっさんは首を大きく横に振った。


「駄目だな。『できない』って言われて、おいそれと諦めるようじゃ。その時は粘り強くナシをつけるんだよ。あちら側の股を開かせるようなネタを出してなあ」


 たかだか飲食店でそこまで粘るのもどうかと思うが、まあ参考程度に覚えておくとしよう。しぶとく食い下がる粘り強さこそ、このおっさんの実業家としての持ち味なのかもしれないが――。


 彼は何者なのだろう。一言でいえば雰囲気が異質だ。そんじょそこらの社長さんとは顔つきが違う。幾多もの荒波を潜り抜けてきたような、百戦錬磨の熟練者たる目をしている。


 瞳の奥に、はっきりと闘志が見えるのだ。いや、あれは暴力性だ。目的のためなら手段を選ばず、たとえ相手を打ち倒してでも利益を得ようとする非情さである。


 日本を5年も離れていたためによく分からないが、成功を掴み取るビジネスマンは誰もがあんな感じなのか? 少なくとも、あのおっさんは東欧の荒野にいた戦闘者にそっくりだ。


 もしや、渡世の者か……?


 刹那的な可能性が頭をよぎり、俺は肩に若干の力が入る。こちらが人間観察に耽っている間におっさんは調理を進め、いつしかテーブルには2つの大皿が並んでいた。


 1つは煮付け。薄味ながらにコクのある出汁の風味が癖になる美味しさだった。この沖縄では家庭料理の代表格とおっさんは言う。2つ目はフライ。綺麗な小麦色にカラッと揚がった後は天然の琉球塩をかけて頂くのだが、これがまた食欲をそそる。前者との組み合わせも抜群。想像以上に白飯が進み、俺はあっという間に満腹になってしまった。


「ふうー。美味かった。絶品だったぜ。ごちそうさん」


「おうよ。お前さんは命の恩人だからな。これくらいの礼はさせて貰わねぇとな」


 さて、時計の針を見ると午前8時32分。そろそろ戻らねばまずい頃合いだ。おっさんに別れを告げて店を出ようと思った時、着信のベルが鳴った。


「おおっと! こりゃあいけねぇ! 忘れてた!」


 おっさんが慌てたように携帯電話を手に取る。


「おう。俺だ……おう、そうか。上手くいったか……分かった。じゃあ、最後まで抜かりなく頼むぜ。じゃあな」


 通話を終えたおっさんに、俺は何気なく尋ねてみる。


「仕事の電話かい?」


「ああ。そうだな。ちょいとした野暮用が片付いたもんでな。どうやら天が俺に味方してくれたようだ。これもシロサーを食ったおかげだな」


「そっか」


 それ以上の追及はせずに店を出た俺だが、程なくしてはっきりと確信する。あのおっさんはヤクザだ。先ほど電話を受ける際に見せた顔つきが、完全に筋者のそれだったのである。同業者は表情を見れば分かる。あの男は緋田組の幹部クラスか。せめて名前を聴いておけば良かった――。


 妙な胸騒ぎをおぼえながら、俺は宿所へと戻った。

涼平が肌で感じた沖縄の現実。過去の遺恨を越えて緋田組を中川会に戻すことはできるのか? 次回、緋田組の組長・緋田咲吉がついに登場!!

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