ただならぬ帰路
それから道中で何度か野盗の襲撃に遭ったが、俺の拳の前に奴らは何も出来ずに蹴散らされた。
なお、徒歩での移動である。砂塵のイスファーンが乗っていた軽トラックは燃料が片道分しか入っていていなかったようで、道中で乗り捨てざるを得なかったのだ。砂漠の中を歩き続けるのは流石にきつい。
ここは寄り道せざるを得ないようだ。
「この近くに村落がある。そこに寄って休ませてもらおうぜ。運が良ければ車も手に入るかもしれん」
俺は平野に提案した。平野はと言えば完全に疲労困憊。よもや俺を迎えに行った先でこのような展開に陥るとは考えてもいなかったようで、明らかに肩をがっくりと落としていた。
「まったく……これだから外国は嫌いなんだ。早く東京へ戻りたい」
平野は深い溜息をついた。彼のような良い大人の口から弱音が出るとは珍しい。見たところ異国慣れしていなさそうなので、仕方ないと言えば仕方ないか。
平野に限らず、日本人は砂漠に弱い。ろくに水気の無い荒野が数キロも続くという地理が、日本国内には存在しないからだ。ラクダは居る。されど千葉御宿の砂浜や鳥取砂丘とは訳が違う。
ここはひとつ、励ましてやるか。
「安心しろ。俺の記憶が正しけりゃあ、人の住む場所はもうすぐだ。砂漠もそこで終わる」
「分かった。そうと決まれば……案内してくれ」
俺達は村落に向かって再び歩みを進めた。
しばらく進むと小さな村が見えてきた。平野の顔が忽ち明るくなる。2時間ぶりに人に会えるかと思うと胸が躍る思いなのだろう。気持ちは分からなくもない。俺もヨーロッパから中東に逃れてきたばかりの頃は、どこまでも続く砂漠に辟易とさせられたものである……。
「おう。前に来た時より栄えてるじゃねぇか。助かったぜ」
辿り着いたのは首都エレバンに程近いゴドバ村落。地理的な事情もあって多くの旅人が行き交う拠点の一つでもある。日本で云うところのベッドタウン的な側面も持っており、そこからエレバンへ働きに出る村民も多いのだが。
「……おいおい、話が違うじゃないか。涼平」
これから村に入ろうとする少し手前で、平野が俺に厳しい視線を向けてきた。
「あ? どうしたってんだ?」
「どうしたもこうしたもない。車だよ。車が見当たらないじゃないか」
彼の云う通り、視界の届く範囲内に自動車の影はゼロ。舗装されたアスファルトの道路はあるものの、肝心の車が走っていない。おかしいぞ。以前、この村に立ち寄った時には沢山の自家用車があった。首都へ向かう路線バスも走っていたはず……。
妙な違和感をおぼえた俺は、たまたま近くを通った住民に話しかけてみる。
「Ողջույն. Այս գյուղում մեքենաներ չե՞ն լինում. Կարծում եմ, որ դա տեղի ունեցավ, երբ ես այստեղ եկա ընդամենը մի քանի ամիս առաջ:(なあ。この村に車は無いのかい? つい先々月に来た時にはあったと思うんだが)」
「Կներեք, բայց հիմա նրանցից ոչ մեկը չկա:(申し訳ありませんが、今は一台も無いのでございます)」
俺が話しかけた老人は慌てて立ち去ってしまった。胸騒ぎがこみ上げてくる。これは尋常ならざる事態が起こっていると見て間違い無かろう。
「どうなっている? 涼平?」
エウロツィア語の分からない平野が不安げな様子で尋ねてくる。俺も答えようがなかった。事実関係を確認するため、ここは更なる調査を行ってみよう。俺はそれからも聞き込みを続けた。
しかし、合点が行くだけの答えは返って来ない。皆、挨拶はにこやかに交わしてくれるものの、俺が車について言及した瞬間にそっぽを向いて逃げてしまう。何かを隠している、というか、何かに怯えているように見えた。
「おいおい。どうするんだよ。車が全然無いじゃないか。このままじゃ飛行機の時間に間に合わん」
「ちょっと待ってろよ。局長」
「チッ! これだから外国は嫌いなんだ!」
苛立ち始める平野をどうにか宥めすかし、俺は調べを続ける。何か理由があるはずだ。内戦状態の途上国といえども村から自動車が丸ごと消えてしまうなんて起こり得ないはず。
村中を歩き回っていると、背後から肩をポンと叩かれた。振り返ると、そこに居たのは中年女性だった。ちょうど井戸へ水汲みに行こうとする途中だったらしく、大きな桶を持っていた。
「Ճանապարհորդ. Այս գյուղում մեքենաներ չկան.(旅人さん。この村に車は一台も無いわよ)」
「Ճիշտ է. Ես գիտեմ, թե ինչու։ Անցած ամիս այնտեղ էր:(だよな。その理由が知りてぇんだ。先々月にはあったのに)」
「Ի դեպ, այն պետական ուժայինների կողմից առգրավվել է երեկ նախորդ օրը: Կառավարությունը սխալմամբ կարծում է, որ Գոդովան դարձել է ծխականների գու...(実は一昨日、政府軍に接収されてしまったのよ。政府はゴドバが軍閥の巣窟になっていると勘違いしていて……)」
聞かされた村落の実情は思った以上に深刻だった。
ここのところ、首都ラクノジュの中央政府を擁するエウロツィア共和国軍とピアヌ地方を支配する私設軍隊「ランジャル軍閥」との間に緊張が高まっている。前年から急激に支配地域を拡大したランジャル軍閥がいよいよ政権を奪取するべく首都へ攻め込むのではないか、という噂がまことしやかに広まっているのだ。
「...... Այսպիսով, մենք՝ Գոդովայա գյուղացիներս, ամբողջ մեքենան վերցրինք, որպեսզի չհամագործակցեինք ռազմագերիների հետ: Ցավալի է, բայց մենք խնդիրների մեջ ենք, քանի որ այս պահին մեքենա չունենք:(……だから、私たちゴドバ村民が軍閥に協力しないように車は丸ごと持っていかれちゃった。残念だけど、私たちも今は車が無くて困っているの)」
「Հասկանում եմ. Հասկանում եմ. Բայց դու ավելի շատ պրոիշխանական անձնավորություն ես, չէ՞: Ոչ մի հիմք չկա ասելու, որ այն գտնվում է ռազմագերիների կողմում։(なるほどな。事情は分かったぜ。だけど、あんたらはどちらかと言えば政府寄りなんじゃねぇのか? 軍閥側だって言われる道理は無いだろうに)」
「Ճիշտ է. Ի վերջո, դա ոչ այլ ինչ է, քան պետական ռազմական ուժերի թելադրանքը։ Մեզ շահագործելու պատրվակ է:(そうなのよ。所詮は政府軍の言いがかりでしかない。あたしらを搾取するための口実よ)」
彼女によれば共和国軍の横暴は日増しに高まっているという。近頃は制服を着た将校が兵隊を多数引き連れてやって来ては「軍閥に靡いていないことを形で示せ」と無理難題を吹っかけてくるそうな。村で獲れた小麦や野菜の引き渡しを命じたり、人頭税と称して若い女や子供を攫ったり。要求に応じなければ全村民を武力征伐すると恫喝してくるため、村人たちは泣く泣く従う他ない。
「Դե այո. Նրանք շատ ավելի վատն են, քան անապատային ավազակները, չէ՞:(そりゃあ、ひでぇな。砂漠の盗賊なんかよりずっとタチが悪いじゃねぇか)」
「Այո՛ Եթե շարունակես դա անել, որոշ մարդիկ կփորձեն հանձնել ռազմագերիներին։ Բայց ավելի լավ է, եթե ներկայիս կառավարությունը կործանվի։(ええ。こんなことをされ続けてたら、軍閥に寝返ろうって人も出てくるわ。いっそのこと、現在の政府なんか滅んでしまった方が良いのかもしれないわね)」
だが、ランジャル軍閥が善政を敷いているというわけではない。奴らも奴らで問題のある連中だ。ここ一か月はアララト地方で暮らしていたからよく分かる。
「Ռազմագերիները Հեմսինից են, եւ նրանք մուսուլմաններ են: Ահա թե ինչու են լուրեր շրջանառվում, որ վերահսկվող տարածքներում մարդիկ ստիպված են դարձի գալ...(軍閥の大将はヘムシンの民で、ムスリムなの。だから支配地域の人間には改宗を強要しているって噂もあるから……)」
「Ա՜խ, լուրջ... Առաջին անգամն է, որ լսել եմ այդ մասին:(えっ、マジかよ! 初めて聞いたぜ)」
驚きのあまり大きな声が出た。ルカノシュクに居た頃は、そんな殺伐とした話は聞いたことが無いぞ。もしかすると、俺に軍閥の危害が加えられなかったのは傭兵稼業をやっていたからか……? というより、ランジャル軍閥の頭首がイスラム教徒という情報も初耳だ。エウロツィアはほぼ全土でキリスト教が信仰されている。国内にて回教は少数派だったはずだが。ましてや今をときめく軍閥の代表者がムスリムだなんて……。にわかには信じ難い話だ。
俺の反応を見た中年女性はため息をついた。
「Զգույշ եղիր, եղբայր: Դուք ձեր հայացքով վարձկան եք, չէ՞:(お兄さんも気を付けてね。あんた、見るからに傭兵でしょ)」
彼女の話を聞けば、共和国軍の方もとんでもないようだ。ゴドバ村に限った話ではないが、政府はこのところ首都近郊にある村落に探りを入れて外国人傭兵の取り締まりを行っているらしい。高報酬に釣られた傭兵たちが軍閥サイドに着くことを恐れた、いわば“傭兵狩り”だ。銃を持っている外国人はその場で射殺。法も人権もあったものではない。
最近、そんな風潮が一層強くなっている。そればかりか、外国人に対しても国家への忠誠を徹底的に求めてくるらしいのだ。
「Ոչ. Ես վարձկան չեմ: Ճանապարհորդը շատ ազատ ժամանակ ունի(いや。俺は傭兵じゃない。暇を持て余した旅人さ)」
「Իսկ ի ՞ նչ է այդ ատրճանակը ։(なら、その銃は何なの?)」
女性は俺が肩に下げた自動小銃を指差した。AKM突撃銃。東欧に居た頃から使っている、戦場では信頼できる相棒だ。尤も、俺には活殺術があるので発砲の用途は専ら牽制用で殺傷は殆ど行わないのだが。
「Այս տղան ինքնապաշտպանության համար է: Իմ պարտականությունն է լինել լուսանկարիչ: Կենդանիների լուսանկարիչ: Նայեք, օգտագործեք այս տեսախցիկը(こいつは護身用さ。俺の本分はカメラマンだ。動物写真家。ほら、このカメラを使う)」
身分偽装用の一眼レフカメラを持っていて助かった。クロアチアの戦場で拾ったものだが、こうした場面においてはかなり重宝する。女性は「アジア人は何を考えてるか分からないわね……」と呆れ顔になりつつも、それ以上は追及して来なかった。
「Ա՜խ, լավ: Եթե դուք լուսանկարիչ եք(まあいいわ。カメラマンというのなら)」
「Հը, եթե մեքենա չունես, կարո՞ղ ես ինձ ուղտ տալ: Ես ուզում եմ գնալ Երեւանի(なあ、車が無いなら駱駝を貸してくれないか? ラクノジュへ行きたいんだよ)」
「Կներեք, բայց չեմ կարող վարկ տալ. Ինչպես տեսնում եք, մեքենա չի լինելու. Ուստի ուրիշ ելք չունեի, բացի ուղտ օգտագործելուց։ Մենք լիքն ենք մեր միջոցներով:(申し訳ないけど、貸せないわ。ご覧の通り車が無いでしょう。だから、移動には駱駝を使うしか無くて。自分たちの手段を確保するのにいっぱいいっぱいなのよ)」
「Այո...... Դե հասկանում եմ(ああ……そうか……)」
それから少し話し込んで時間を潰した後、中年女性から別れを告げられた。水汲みで忙しいのだという。俺は彼女に手を振って応えつつ、平野の元へと戻る。彼はといえば退屈そうに欠伸をしていた。俺があの女性から情報収集を行っていた所為で待ちくたびれたらしい。
「遅いぞ、涼平。これだけ待たせてくれたんだ。収穫はあったんだろうな?」
「悪ぃな。残念ながらゼロだ。車が無い代わりに馬や駱駝の類があるかと思ったが、俺達に貸す余裕は無いって話だ」
「チッ! これだから外国は!」
平野はこの国の何を知っているというのだろう。子供っぽく吐き捨てた彼の様子に、俺は少し可笑しさがこみ上げてきた。とはいえ、平野の気持ちも分かる。彼が押さえた航空機の離陸時間が5時間後に迫っている。ダラダラと時を浪費することはできないのだ。
「まあ、落ち着いてくれや。局長。俺にちょっとした考えがあるぜ」
「どういう考えだ?」
「さっき聞いた話によると、この村には政府軍がしょっちゅう来てるらしいんだ。忠誠の証に野菜やら女やらを寄越せってな。俺たちヤクザがやってる地回りみてぇなもんさ」
「ひとかどの軍隊が自国民相手にタカりとは。世も末だな」
「フッ、違いねぇ」
皮肉を言った平野の言葉に、俺は笑って同調した。この地域に限らず、中央政府が統治能力を失いつつあるところでは、きっとよくある話なのだろう。熾烈な内戦に揺れたユーゴスラビアもなかなかのものだったが、エウロツィアはかなり酷い。少なくともバルカン半島は戦国時代ではなかった。
閑話休題、俺が見つけた秘策は政府軍の来襲に在る。
「いっぱしの将校が兵卒を引き連れて来るって話だ。当然、徒歩じゃなくて何かしらの乗り物に乗ってるだろ。村に移動手段が無いなら、そいつを頂いちまえば良い」
「なるほどな」
中央政府の軍隊を名乗るくらいだ。乗っているのはオンボロの軽トラや馬ではなく、最新式の兵員輸送車である可能性が高い。うまく行けばエレバンまでそいつに乗ることも可能だろう。
「とは言え、どうやって奪うかが問題だな」
「なあに。考えはあるさ。俺が政府軍の兵隊どもを皆殺しにしちまえば良いのさ」
「さっきの活殺術とやらを使うのか?」
「まあな」
俺が身に着けたのは一対多数の戦いに最も特化した殺人拳、鞍馬菊水流だ。先刻の盗賊どもより少しは手強かろうが、対集団戦こそ我が本領である。平野も自ずと察してくれたらしい。「そうか。お前がやりたいなら好きにやれ」とコクンと頷き、彼の方から反論は特になかった。
こうして俺達はゴドバ村に一時滞在し、その時を待つことにした。村人の話では毎日夕方近くになると政府軍が現れるらしい。
「飛行機は18時発だぞ。それまでに間に合うのか?」
「大丈夫だぜ。局長。もし政府軍が来なかったら、その時は計画変更さ」
「どうするつもりだ?」
「この村の奴らを殺して、適当な駱駝を奪っちまえば良い」
「なるほど」
平野を安心させた後、俺は政府軍の来襲を待ち受けることにする。とは言え、このまま闇雲に待つだけでは飽きてしまうので、村の中を散策することにした。先程の中年女性から教わった話によれば、ゴドバ村は周囲を山に囲まれた盆地にあるらしい。エレバンから水道は引かれていないようだが、山からは湧水が豊富に流れているために綺麗な井戸水が飲めるとのこと。こんな砂漠のド真ん中の村としては珍しい話だ――そう思った直後、辺りに悲鳴が響いた。
どうやら待ち侘びた獲物のお出ましらしい。
「へっ、おいでなすったか」
俺は急いで声が聞こえた方向へ向かって走り出した。平野もついてくる。彼はこの近くで手に入れたらしい45口径の拳銃を抜いていた。
「涼平。今度ばかりは俺もやらせてもらうぜ。観てるばかりじゃ性に合わん」
「へっ、それじゃあお手並み拝見と行こうか!」
平野と共に声のした場所へ駆けつけると、そこには予想通り兵隊が居た。
「Կին է... Բերեք կնոջը...(女だ! 女を寄越しやがれ!)」
12人ばかりの将兵たちが、そう口々に叫びつつ村の女達を襲っている。既に数人の村の女たちは衣類を引き裂かれて地面に組み敷かれていた。
「Սպասե՛ք...(待て!)」
俺が飛び出して叫ぶと、彼らはピタリと動きを止めて振り返った。突如とした表れたアジア人に驚いたのか。皆、口をあんぐりと開けてこちらを凝視している。
先ほどは肩慣らしの目的もあって素手で戦ったが、今回は時間をかけていられない。さっさと制圧させてもらう。俺は肩に下げていたカラシニコフ小銃を構えると、引き金をひいた。
――ダダダダダッ!
乾いた破裂音が鳴り響き、銃口から飛び出した5.56mm弾が命中する。弾丸は敵兵の眉間を粉砕し、脳漿と血液を撒き散らした。
「Գյաա(ぎゃああああ!)」
平野の拳銃も火を噴く。1人、また1人と地面に転がり、瞬く間に辺りには死体の山が築かれた。
「Ախ Աստված իմ!(何しやがる!)」
そう叫んで、俺にライフルを向けてくる男。だが遅い。既に俺はそいつの懐に飛び込んでおり、相手の手首を握り潰す。さらに絶叫を上げるそいつの背後に回り込み、左手で顎を下から掴むと頸動脈を締め上げた。脳への血流を断たれたらどうなるか。行き場を失った酸素が頭部へ押し寄せて爆ぜる音が響くと共に敵兵は意識を失って倒れ伏した。
これで共和国軍の徴発部隊は壊滅……と思ったが、連中もただの馬鹿ではない。すぐに応援が駆けつけてきて、俺達は囲まれる形になった。平野が1人の兵にコルト45の銃弾を撃ち込み、1人を倒した。しかし、今度は別の奴がナイフを構えてこちらに向かってきた。流石は軍隊。正規の訓練を積んでいるだけあって、先ほどの野盗とは動きが違う。
「Հմֆ, սա արժե սպանել(フッ、こりゃあ殺し甲斐があるぜ)」
その刺突をいなしざまに相手の襟首を掴んで引き寄せると、俺は左膝を鳩尾に打ち込んだ。そいつは後方に吹き飛んで動かなくなる。平野の方を見ると彼もまた別の兵を仕留めたところのようだった。
「大丈夫か?」
平野は地面にうずくまっていた若い女に手を差し伸べている。どうやら彼女は先程の銃撃の巻き添えを受けたらしく、脚から血を流していた。すると、その時。平野が突き飛ばした敵兵が立ち上がろうとしていた。こりゃいかんと俺はそいつを強烈な体当たりで突き倒した。そして女の傷口を観察する。大腿骨を砕かれて重傷だが動脈は外れているようなので命にホッと胸を撫で下ろす。これなら命に別状は無い模様だ。
「痛かったろ。巻き込んで済まなかったな」
そう言うと、平野は自らのワイシャツからネクタイを外して脚の傷口を止血していた。日本語で話しかけていたために女性には言葉が通じていなかったが、そこは俺が通訳がてら間に入ってフォローしてやる。
「Պինդ բռնիր, մինչեւ որ արյունը չդադարի։ Այս գյուղում բժիշկ կա՞:(血が止まるまでグッと縛っておけ。この村に医者は居るか?)」
「Ես այս գյուղում չեմ, բայց շաբաթը մեկ անգամ հարեւան քաղաքից մի բժիշկ է գալիս ինձ այցելելու։(この村には居ませんが、週に一度隣町から先生が出張診療に来てくださいます)」
「Դե հասկանում եմ? Մի՛ ստացիր տետանուս: Լավ միջոց է ճիշտ ախտահանման համար:(そうか。破傷風になっちゃいけねぇからよ。ちゃんと消毒をするこったな)」
女に助言を施した後、俺は平野に向き直る。
「良いのか? 見るからに高そうなネクタイだったじゃねぇか」
「良いさ。命には代えられん」
「命って、あんた……」
さっきはエウロツィアという国全体を見下したような発言をしていたのに。まさか平野の口からそのようにクサい台詞が聞けるとは思わなかった。しかし、彼からすれば冗談ではなく本気で言っているようだ。
「強者の都合で繰り返される戦いで巻き込まれて死んでゆくのは、いつだって弱者。女子供さ。どんなに派手なドンパチをやらかそうと、そいつらの命だけは守ってやらなきゃいけないんだよ」
そのためにこそ筋者になったと語る平野。俺にはつくづく理解できない話だ。人命を守りたいなら、それこそ医者や警察官にでもなれば良かったものを。ヤクザなんてそこから最も遠い存在だろうに。
「俺の理想は任侠道。強きを挫き、弱きを助ける。そんな本物の侠になりたかったし、今もなろうと思ってる」
「意外だな。あんたの口からそんな言葉が聞けるなんて。あんたは、もっとクールでドライな人なのかと思ってたよ」
「よく言われる。良くも悪くも執事局の局長の椅子が板についてきてはいるが、その初心だけは一度たりとも忘れたことが無い」
中川会の内では大原征信あたりと同じタイプか? 見た目の印象とは大きく違った平野の理想とやらに、俺は素直に驚かされた。冷めた目元の中の瞳は熱い志で燃えている。利己主義がひしめくこの国はおろか、今どきは日本でもかなり珍しい部類ではないか。古風な任侠道を目指すことの是非はともかく、平野泰朝は思ったより面白い男のようだ。
「そうか。まあ、とりあえず協力させてもらうぜ。俺も戦場の応急処置くらいは学んだ身だ。手分けしてさっきの怪我人を解放するとしよう」
俺の言葉に「助かる」と礼を述べると、平野もすぐさま作業を始めた。俺は手近な奴に止血のやり方を指導すると、近くに居た老人に村にあったありったけの消毒液を持ってくるよう指示した。その傍ら、ふと周囲を見やる。
移動に使えそうな車両はあるか――。
政府が派遣してきたと思しき部隊は2台のジープに分乗していた。そのうち1台はタイヤが流れ弾に当たってパンクし、1台はボンネットから黒煙が上がっている。さしずめエンジンが損傷したと見るべきか。どちらを選ぶにせよ、エレバンまでの走行能力には期待でき無さそうである。
大方の介抱が終わった後、俺は村人に問うてみた
「Հե՛յ, տատիկ: Կարո՞ղ եմ պարտքով վերցնել չօգտագործված ուղտ կամ ձի:(なあ、婆さん。使ってない駱駝や馬を借りることは出来るかい?)」
「Ցավում եմ դրա համար. Հյուրեր: Ես ձեռքերս լիքն եմ հենց հիմա...(申し訳ございませんな。お客人。今は手一杯でございますのや……)」
「Դե հասկանում եմ(そうか)」
共和国軍を撃退し、村人の応急処置を行ったお礼代わりに貰えるかと思ったが、どうやら駄目らしい。やはり、この村は政府による搾取で疲弊しきっているのだ。何もかもが必需品であり、余所者に貸与している場合でないことは明白か。
「まあ、良いさ」
止むを得ない。ここは先程平野に話した強硬手段も取らねばなるまいか……?
頭の中に極論が浮かんだ。しかし、平野と話し合った結果、ここは大人しく共にゴドバ村落を去ることにした。村に残った僅かな子供たちを見て平野の考えが変わったようだ。甘い男だなとも思ったが、いくら文句を言ったところで意志は固そうなので敢えて口をつぐんでおく。
道中で出くわした野盗から車を奪える展開を期待して、ひとまず村を出ようと歩みを進める。収穫が無いと分かった以上、長居するだけ時間の無駄だ。飛行機の時間も迫っている――と思った、その時。
急に辺りが騒がしくなった。
「Ինչ-որ մեկը! Ինչ-որ մեկը գալիս է...(誰か! 誰か来て!)」
女の叫び声がする。聞き覚えのある声だと思って駆け付けてみると、そこに居たのは俺にゴドバ村の現状を教えてくれた中年女性。彼女は慟哭し、泣き叫んでいた。
俺は思わず平野と顔を見合わせる。そこで起きていたのは想定外の事態だった。
「おいおい……嘘だろ……」
軍服を着た男が、小さな子供を抱え上げて拳銃を突きつけている。驚いた……先刻撃退したはずの政府軍が、もう報復に来たとは! その子は中年女性の娘らしく、母親は我が子を返してくれと悲痛な絶叫を上げている。
「Խնդրում եմ! Աիշան ետ տա՜ր...(お願いです! アイシャを返してください!)」
しかし、男は首を横に振る。
「Չի աշխատում: Ես այս աղջկան ընդունում եմ որպես մխիթարող կին: Դու ավելի շուտ լավ գործ ես արել։ Մի քանի անգամ էլ քեզ վճարեմ:(動くんじゃねぇ。この娘は慰安婦として連れて行く。さっきはよくもやってくれたな。このツケは数倍増しにして払って貰うぞ)」
「Այդ տեսակ......(そんな……)」
女は愕然としながら膝をつく。まさか、ここまでして執念深く村を狙ってくるとは思わなかった。あまりの執拗さに呆れ果てる俺。平野もまた衝撃の光景から立ち直れないでいる様子だ。しかし、そんな俺たちを尻目に機敏な動きを見せた1人の男がいた。
見たところ30代前後の男性である。どういうわけか、左足を引きずっている。彼はそのまま単身、棍棒を片手に下っ端兵卒へと飛び掛かって行った。
「Այս բաստարդը!(この野郎!)」
だが、相手は戦闘のプロ。力では敵わず、得物はすぐに払い落とされてしまう。挙げ句、左足が使えないとあっては勝負にもならない。あっという間に地面に転がされ、男は集団で囲まれて殴られた。
「Տե՛ս... Դու դեռ կենդանի ես?(てめぇ! まだ生きていやがったか!)」
「Այս դավաճանը! խայտառակություն է Հանրապետության!(この裏切り者め! てめぇは共和国の恥さらしだ!)」
「Ներիր ինձ, որ պատվի վերք եմ, շարունակիր այն։(名誉負傷者だからって大目に見てりゃあ、調子に乗りやがって!)」
容赦ない打撃の連発を食らい、男はボコボコにされた。流石に見ていられない。俺は突撃銃を頭上に向けて1発だけ発砲、連中の動きを止めた。
「...... Վերջ(そこまでだ)」
すると、少女に銃を突きつけた将校が俺を見て目の色を変えた。
「Չէ՞ որ ես մնացի... Վատ օտարերկրացինե՜ր... Դուք, տղերք, դա՜(やっぱり居やがったか! 不逞外国人め! お前たち、やっちまえ!)」
男性を痛めつけていた兵卒たちが、今度はこっちへ襲いかかってくる。俺は容赦なく彼らに引き金をひいて全滅させた。敵が全員銃を抜いていないことが幸いして、あっという間に決着がついた。まったく。口ほどにも無い奴らだ。
「Նզովք, դեն նետե՛ք հրացանները... Եթե դեն չնետես, այս բրատը չի ապրի!(くそっ、銃を捨てろ! 捨てなきゃ、このガキの命は無いぞ!)」
「Չէ՞ որ դուք նրանց որպես մխիթարող կանայք չէիք ընդունում: Լա՞վ է սպանելը:(慰安婦として連れて行くんじゃないかったのか? 殺しちまって良いのか?)」
「Ուրուսեյ... Չի աշխատում!(うるせぇ! 動くんじゃねぇ!)」
「Դե այո. Դու գուֆեյ բասթարդ ես(そうかよ。間抜けな野郎だ)」
俺は将校の眉間を撃ち抜き、さっさとすべてを終わらせようとした。だが、その瞬間。
「Մի կրակիր!(撃つな!)」
突如として叫び声が聞こえた。何事かともってギョッとしていると、一人の老人が現れて俺の前に立った。その老人は俺を険しい眼差しで睨みつけると一転して将校の方を向き、あろうことか跪いて土下座をした。
「Ներողություն եմ խնդրում անհարմարությունների համար։ Ձեր գերազանցությունը. Քանի որ այս աղջիկը ձեզ է տրված, խնդրում եմ, նվազեցրեք այս գյուղի մեղքերը: Բարեսրտորեն......(ご無礼を致しました。少尉閣下。その娘はあなた様に差し上げますゆえ、どうかこの村の罪を減じてはくださいませんか。何卒……)」
地面に額をこすりつけて平伏しながら老人が放った言葉に、俺は呆気に取られる。言葉の分からない平野は、ただただ戸惑うだけ。事態は急転直下で意外な展開を見せたのだった。
「Այս գյուղի պատասխանատուն դուք եք?(貴様、この村の責任者か?)」
「Արդարեւ. Եթե ես լինեի գյուղի ղեկավարը(いかにも。私が村長ございますれば)」
「Լավ չէ՞, որ գյուղապետն այդքան հեշտ վաճառի գյուղացիներին. Այո՞։(村長が村人をそう易々と売り渡しちまって良いのか? ああ?)」
「Որովհետեւ իմ պարտքն է հնարավորինս շատ կյանքեր փրկել...(ひ、一人でも多くの命を助けるのが私の務めですゆえ……)」
「Հե. Շատ-շատ շնորհակալություն. Լավ, եթե ճիշտ է, ապա դա միայն մեկ բրատի մարմինը չէ: Ես այսօր լավ տրամադրություն ունեմ: Ես հոգ կտանեմ այս մասին:(へーへー。ご立派で。まあ、本当ならガキ一人の身体だけじゃ済まねぇんだがよぉ。今日の俺は機嫌が良い。これで勘弁してやるぜ)」
「Շնորհակալություն!(ありがとうございます!)」
「Շնորհակալ եղեք: Այս եսայիի առատաձեռնությանը:(感謝しろよ。このイザヤ様の寛大さにな)」
イザヤと名乗った若き将校は村長の頭を踏みつけ、高らかに笑った。そして俺の方を見ると不敵に言い放った。
「Երբ լսեցի, որ վարձկանները մոլեգնության մեջ են, շտապեցի նրանց մոտ եւ չմտածեցի, որ նրանք ՀՀ քաղաքացիներ են: Ես չեմ ուզում այսքան եսասեր լինել այս երկրում: Մեզ մի լիզեք: Ֆլեա բասթարդ(流れ者の傭兵が暴れてるって聞いて駆けつけてみたら、まさかアジア人とはな。あんまりこの国で好き勝手されちゃあ困る。俺たちを舐めない方が良いぜ。ノミ野郎が)」
そう言うと、イザヤ少尉は今度は怯え竦む村人たちを一瞥して言った。
「Ա՜խ, այ տղաք... Եթե ուզում եք, որ այս բրատը հետ լինի, երկու վարձկանների դիակները դրեք այնտեղ՝ Կլովի լեռան ստորոտին: Մի սխալվեք կամ տարօրինակ մի զգացեք, լա՞վ: Աղջիկս չի ապրի...(おう、お前ら! このガキを返して欲しかったらなァ、クロヴィ山の麓にそこの傭兵2人の死体を置け。間違っても変な気は起こすなよ? 娘の命は無いぜ!)」
彼は装甲車に娘を乗せて村を走り去って行く。
「Ախ ոչ! Սպասե՛ք... Աիշա՜, այշա՜ն...(いやああ! 待って! アイシャ、アイシャーッ!)」
娘を奪われた中年女性は泣きながらそれを追いかけるも、追い付くことは叶わなかった。
「な、何てことだ……!」
エウロツィア語は不明瞭であるものの、大体の事情を悟ったのか。平野は悔しそうな面持ちで立ち尽くしている。その顔には強い後悔の念が滲み出ていた。一方、俺は女性の方に視線を移す。彼女は中腰で立ち尽くすと、やがてその場にくずおれて泣き始めた。
「Ինչու...... Ինչո ՞ ւ է դա տեղի ունենում ։(どうして……どうしてこんなことに……)」
やがて彼女は俺達に激しい勢いで詰め寄った。
「...... Քո մեղքն է... Դուք, ի վերջո, վարձկաններ չէիք: Դա տեղի ունեցավ այն պատճառով, որ դուք եկել եք! Ի՞նչ ես պատրաստվում անել ինձ համար։(……あなたたちのせいよ! あなたたち、やっぱり傭兵だったじゃない! あなたたちが来たから、こんなことになったのよ! どうしてくれるのよ!)」
「Ուաա, հը՜յ, սպասի՛ր(おっ、おい、待ってくれよ)」
女性に触発されたように、近くに居た村人たちも俺達に次々と食ってかかる。
「Հասկացել եմ դա! Քո մեղքն է...(そうだ! お前たちのせいだ!)」
「Կործանե՛ք այն խաղաղությունը, որը մենք այդքան ջանք ենք թափել պահելու համար:(俺たちが今まで一生懸命に保っていた平穏をぶち壊しやがって!)」
「Ինչպե ՞ս ես պատասխանատվություն կրում ։(どう責任取るんだよ!)」
中でも、先ほど頭を踏みつけられていた村長は鬼の形相だった。
「Ի՞նչ ես արել ինձ համար... Ոչ ոք չխնդրեց մեզ անել դա ։ Ձեր մոլեգնության պատճառով կառավարական ուժերը ձեզ վրա են նայում։(お前たち、何てことをしてくれたのじゃ! わしらは誰も依頼などしておらんというのに! お前たちが暴れたせいで政府軍に睨まれる羽目になったではないか!)」
これまでゴドバ村はどんな理不尽な仕打ちを受けようとも必死で政府への恭順を守ってきたが、俺たちが軍の挑発部隊を独断で撃退してしまったせいで以前までの努力が全て水泡に帰した――。
彼らの主張をざっくりとまとめるなら、こんなところか。確かに俺と平野が暴れたのは村人のためではなく、俺たち自身が移動手段を得るためだ。それが結果として村にとって沢財をもたらす形になったのだから、怒りはごもっともだ。
しかしながら、こちらにも言い分はある。
「Այդ դեպքում ինչո՞ւ պարզապես չես փակվում եւ չես նայում: Գյուղի երիտասարդ քույրերը բռնի էին։ Դուք, որպես գյուղի պետ, աչք եք փակում դրա վրա:(では、あの場で黙って見ていろと? 村の若い姉ちゃんらが乱暴されてたじゃねぇか。あんたは村長として、それに見て見ぬふりをしろってのか?)」
「Դե այո. Դա կփրկեր ավելի շատ գյուղացիների կյանքը ։ Ես դա ասել եմ առաջ: Իմ պարտքն է պաշտպանել ավելի շատ գյուղացիների կյանքը։(そ、そうだ。その方が、より多くの村人の命が助かるんじゃ。さっきも言ったろう。より多くの村人の命を守るのがわしの務めだと)」
「Պատվեր է, որ նույնիսկ կանայք պետք է պահեն, չէ՞: Դուք ասում եք, որ միակ բանը, որ պետք է պաշտպանեք, մարդկանց կյանքն է, այդ թվում նաեւ ինքներդ ձեզ: Եթե այո, ապա քո խոսքերը շատ են ։ Դուք կեղծավոր բասթարդ եք:(女だって守るべき命じゃねぇのかよ。まさかあんた、守るべきは自分を含めた男の命だけだとか言わねぇよな? だとしたら、あんたの言葉は詭弁だ。とんだ偽善野郎だぞ)」
俺の鋭い指摘を浴びた村長は押し黙った。かくいう俺自身もつい先ほどまでは子供を含めた罪のない命を奪おうとしていたのだが、それは心のうちに伏せておく。そんなことより、俺には言いたいことがあった。
「Թեմե, պաթետիկությունը շատ է: Եթե քեզ ուժով են ցած նետում, ինչո՞ւ չես դիմադրում դրան։ Արդյո՞ք լավ չէ շարունակել ճնշված մնալ։ Այո՞։(てめぇら、情けねぇにも程があるぜ。力でねじ伏せられてるなら、どうしてそれに抗おうとしないんだ! このまま虐げられっぱなしで良いってのか? ああ?)」
当然、村人たちは猛反発する。
「Մի խոսիր այնպես, ինչպես գիտես...(余所者が分かったような口を利くな!)」
「Հասկացել եմ դա! Բավական է, գնացե՛ք հիմա...(そうだ! もう良いから、さっさと行ってくれ!)」
「Ամեն ինչ քո մեղքն է... Դու նըման ես,(何もかもがお前らのせいだ! とんだ厄介者だ!)」
もはや誰の目にも燃え盛る炎のごとき怒りと悲しみを湛えており、彼らがこちらに向ける視線からは一刻も早く出て行ってくれと言わんばかりの怨念が込められているのが分かった。平野と顔を見合わせる俺。今の状況は本当にまずい。そんな中、一人の村人が俺に銃口を向けてきた。
「Դու վատ ես, բայց սպանիր ինձ... Սպանի՛ր քեզ եւ Այշա՛ն կփրկվի...(お前、悪いけど殺されてくれ! お前を殺せば、アイシャは助かるんだ!)」
ほう。そんな度胸のある奴が居たか。おいそれと撃たれてやる気など毛頭に無いが、俺は彼の向けた狩猟用ショットガンの銃口を自らのグイッと押し当てた。
「Դու ինձ կսպանե՞ս: Լավ, արա: Կրակեք եւ փրկեք խեղդված առնետին(俺を殺すってのか? 良いぜ、やれよ。撃って、攫われたガキを助け出すが良いさ)」
「Ու...(ううっ……)」
「Ի՞նչ: Արագ արա։ Ուզում ես օգնել բրատին, չէ՞: Ցույց տուր ինձ քո քաջությունը։(どうした? 早くやれよ。ガキを助けたいんだろ? 度胸を見せろや!)」
その一喝に怯んだ隙を突き、俺は男が持っていた猟銃を奪い取り、地面に捨てた。
「Դուք հպարտությամբ հայտարարում եք, որ չեք կարող դա անել: Պարզապես անբարեկիրթ է...(出来もしないことを高らかに宣うもんじゃねぇぜ。格好悪いだけだ)」
だが、それで場が静まるわけもなく、皆は更にいきり立った。火に油を注ぐ結果になってしまったようだ。これでますます収拾がつかなくなってきた。いよいよもって俺たちを殺しに掛かる者もいるだろう。
「涼平……どうするつもりだ……」
流石に焦燥を隠せなくなってきた平野に、俺は言った。
「決まってんだろ。頃合いを見て、とんずらするんだよ」
「逃げるのか?」
「当たり前だぞ。局長。こんな馬鹿どもに付き合うなんざ時間の無駄だ。見てろ。もうじき、こいつらは内輪で揉め始めるからよ」
俺の読み通り、1分と経たぬ間に村人たちは喧嘩を始めた。強さに劣る自分たちの力では俺たちを殺せぬことが分かったのだろう。ではどうやって子供を助けるのかと、今度は責任の押し付け合いだ。所詮、エウロツィアのような途上国では子供の命など石ころより安い値打ちなのだ。皆、大人たちは自分だけが助かれば良いと思っている。これまでに各地の紛争地帯を渡り歩いてきたから、このような光景は沢山見て来た。深く関わらないに尽きる。
「Դու գալիս ես ու օգնում!(お前が助けに行って来い!)」
「Ո՛չ, դու գնում ես...(いいや、お前が行って来いよ!)」
その混乱の中、俺は平野を連れて密かに村を離れた。小道を通って静かに村の外れまで歩みを進めた。「本当に良いのか?」と平野が問うてきたが、良いに決まっているではないか。
「まさか、あんた。あのガキを助けたいとか言わないだろうな?」
「……出来ることなら」
「助けてどうするんだよ。仮に助け出せたところで意味が無いだろ。俺たちが動けば、どうせあの村は後々で政府に睨まれて壊滅するんだ。それよりだったら、ここはそそくさと退散を決め込んだ方が犠牲は少なくて済むだろ」
あの村人たちが自らの手で武力を持って立ち上がろうとしない限り、余所者が手を差し伸べたところで悲劇の種が増えるだけ。外部の手を借りず、現地の民が自らの手で解決する。それが地域紛争解決の理想形なのだ。しかし、平野はまだ納得がいっていないようだった。
「だとしても。幼子の命を見捨てるのは俺の主義に反する……」
俺は彼の言葉を遮るように歩き出した。これ以上の長居は無用であるし、いつまでもこんな馬鹿騒ぎに付き合う暇は無いと思ったのだ。冷静に考えてみれば、あのアイシャなる子供は「担保として連れて行かれた」というだけで殺されたわけではないのだから。
そもそも飛行機の時間はあと3時間後だ。俺たちは一刻も早くエレバンへ行かねばなるまい。無駄なことをやっている暇など無いのである。
「ほら、局長。さっさと行くぞ!」
なおも躊躇する平野に業を煮やし、腕ずくでも引っ張っていこうとした時。その場に一人の男が現れた。
「Ա՜խ... Ներիր ինձ(あのぅ! すみません!)」
近づいて来たのは、先ほど兵隊たちに囲まれてボコられていた男。左足を引きずっていたのですぐに分かった。一体、何の用か。もしや逃走に気付いて追いかけてきたかと危ぶんだが、彼は意外なことを口走った。
「Ա՜խ, վարձկաններ: Կգնայի՞ր Կլովի լեռը:(あのぅ、傭兵さん方。もしかしてクロヴィ山へ行かれるところでしたか?)」
「...... Իսկ ի՞նչ է...(……だったら、何なんだよ)」
「Դրա կարիքը չկա ։ Որովհետեւ ես գնում եմ(その必要はございません。私が行きますので)」
なんと、その男はこれから自分がアイシャの救出に向かうというのだ。俺は呆気にとられた。一体、どういうつもりなのか。
「Հեյ հեյ. Զենք չունե՞ս, դո՞ւք... Դու կգնա՞ս ամբողջ ճանապարհով:(おいおい。あんた、武器を持っていないよな? 丸腰で行こうってのか?)」
「Ոչ. Եթե շրջեմ, կշտանան:(いいえ。私が丸腰で行けば、奴らは満足するでしょう)」
首を傾げる俺に、男は言った。
「Ես եմ պատճառը, որ գյուղն առաջին հերթին կառավարության թիրախում է:(そもそも、村が政府に狙われているのは私が原因なのです)」
「...... Կարծում եմ, որ պետք է մանրամասն լսեմ ձեզ:(……詳しく話を聴く必要がありそうだな)」
「Այո(はい)」
男は名前をジュストといい、元はエウロツィア共和国陸軍の大尉だったそう。正規軍の在籍時には国境警備の任に就いており、数年前に勃発したトルコとの国境紛争で負傷して左脚を失い、名誉除隊。故郷であるゴドバ村に戻っていたのだそう。
「Երբ լսեցի այդ պատմությունը, մտածեցի. «Ի՞նչ, եթե»: Բայց երբեք չէի մտածել, որ նա իսկապես նախկին զինվոր է:(話を聞いて『もしや』と思ってたけど、まさか本当に元軍人だったとはな)」
「Այո՛ Այժմ ես ապրում եմ այդ գյուղում։ Ինձ հրավիրեցին զինվորական ակադեմիայում ուսուցիչ դառնալու, բայց թվում էր, թե գյուղական քամին ինձ հարմար է։(ええ。今はあの村で農業をして暮らしています。士官学校の教官になる誘いもありましたが、やっぱり自分には田舎の風が似合っているみたいで)」
「Ընդհանուր ժողով: Բայց չնայած թոշակի էիր անցել, բայց դեռ նավապետ էիր, չէ՞: Ինչո ՞ ւ էր այդպիսի երիտասարդ սպա ինձ ճնշում ։(そうかい。だけど、退役したとはいえあんたは大尉だったんだろ? 何で、あんな若手の将校なんぞに圧されてたんだよ)」
「Դե իրականում...... Այս երկիրն է... Ի տարբերություն այլ երկրների, Հայաստանը չունի վետերաններին պատվելու համակարգ:(それが……この国なんです。他国と違って、エウロツィアには退役軍人を敬う仕組みなど有りませんので)」
それは酷い話だ。国のために戦って負傷したならば、国による終身扶養が行われて当然であろうに。何かと問題の多かった戦前の日本軍でさえ、傷痍軍人にはすこぶる敬意を持って遇していたと聞く。軍人だった過去が見る影もないほどに弱弱しいジュスト元大尉の声色は、何だか聞いているだけで切なくなってくる。
「Պաթետիկ է, չէ՞... Եսայի անունով մի տղա, որն ինձ ավելի շուտ ծեծում էր, իմ նախկին ենթական է։(情けない話ですがね。さっき私をタコ殴りにしていたイザヤという男は、私の元部下なのです)」
「Ի՜նչ...(えっ!)」
「Պատճառն այն է, որ նա չափազանց խիստ էր, երբ զինվորական էր։ Ոխը վերադարձնելու համար նա ինձ օգտագործում է որպես թշնամի եւ որոշ խնդիրներ է պայթեցնում։(彼が新兵時代に厳しく当たり過ぎた所為でしょうか。恨みを返すように、奴は私を目の敵にして何かと問題を吹っかけてくるのです)」
「Դե, նորից...(そりゃあ、また……)」
「Երբ ձեռք բերեցի պրոթեզային ոտք, ինձ անվանեցին «զինվորական խայտառակություն»: Նրա զորքերը գալիս են գյուղ իմ պատճառով: Շուտով պատրաստվում էի հեռանալ գյուղից, որպեսզի բոլորին չանհանգստացնեմ, բայց երբեք չէի մտածել, որ դա տեղի կունենա։(義足になった私を『軍の恥さらし』と。奴の部隊が村にちょっかけいをかけてくるのも、おそらく私が居るせいです。皆に迷惑をかけないよう近いうちに村を出て行こうと思っていましたが、まさかこんなことになるなんて)」
なればこそ、ジュスト元大尉はかつての部下が待つ山へと向かうのだ。村に災厄が及んでしまった責任を取るために。そして、今まで居させてくれた恩を返すために。丸腰で行くのは、自らの命と引き換えにイザヤたちにアイシャの解放を乞うつもりであるからだ。
「Եթե կիսով չափ պատռես ինձ, եսայի կշտանա: Եթե Այշան վերադառնա, ես ուրախությամբ կյանքս կտամ: Ոչ մի տատանում(憎い私を八つ裂きにすれば、流石のイザヤも満足するでしょう。それでアイシャが返ってくるなら、喜んで私は命を差し出します。躊躇はありません)」
俺の通訳を黙って聞いていた平野も思うところがあったのだろう。静かに口を開いた。
「ジュストさんの気持ちはよく分かった。だが、本当に良いのか? あの子供はあなたの我が子ではないのだろう? わざわざあなたが命を散らさずとも……」
「Ոչ. Կարծես իմ աղջիկն է... Այդ գյուղի երեխաները բոլորն էլ նման են իմ որդիներին ու աղջիկներին։(いいえ。我が娘も同然です。あの村の子供たちは、皆が私の息子や娘のようなものですから)」
「ジュストさん……」
「Անկախ նրանից, թե ինչ ժպիտ ունի երեխան, մենք՝ մեծահասակներս, պետք է պաշտպանենք այն։ Ի տարբերություն ագահությամբ ու կարմայով ծածկված չափահասների՝ երեխաներն անմեղ են։ Նրանք կառաջնորդեն այս երկրի հաջորդ սերունդը եւ կբացի նոր աշխարհ: Երեխաները ապագան են(子供の笑顔は何があろうと、私たち大人が守らなくてはなりません。欲や業にまみれた大人と違って、子供は純真無垢。この国の次代を担い、新しい世を切り開いていってくれる。子供は未来なんです)」
子供は未来――。
覚悟を決めた男の強い眼差しを前にしては、平野も二の句が継げないようだった。当然かもしれない。アイシャとやらがどうなったところで我々の知ったことではないというのに、彼の口から出て来る言葉は強い決意に漲っていたからだ。その眼に宿る眼光には、民族や人種を越えて心を強く揺さぶるものがあったのだろう。
平野の顔つきが変わったのが分かった。
「分かりました。俺も同行しよう」
俺は戸惑った。
「ひ、平野さん!?」
「お前が止めても俺は行くぞ、涼平。久々にまともな人間に会った気がする。この人こそ、真の任侠者だ。ここで手を貸さねば男の名が廃るというもの」
「本気かよ……」
元大尉が自らの命と引き換えに全てを解決させるというのなら、せめてそれに同行して道中の露払いをするという平野。この手の男は頑固だ。日本橋の親分がそうであったように一度言い出したら聞かないことはよく分かっているので、俺もそれ以上は止めなかった。
「ほら、涼平。早くエウロツィアの言葉に訳してくれ」
「……分かったよ」
あれだけ気にしていた飛行機の時間はどうするのやら。気乗りしなかったものの、俺はジュストの方を向いて通訳を行った。
「Պարոն Ջիուստո. Կուղեկցենք ձեզ... Եթե դուք պատրաստվում եք հրաժարվել ձեր կյանքից, գոնե թույլ տվեք ձեզ հսկել ճանապարհին: Այդ մասին է խոսքը: Ողջույն?
(ジュストさん。俺達もあんたに同行しよう。あんたが自分の命を投げ出そうってんなら、せめて道中の警護をさせてくれ。それくらいはやったって良いだろ。なあ?)」
当然、元大尉は驚いたように眼を見張る。
「Իսկապե՞ս... Վտանգավոր է...(ほ、本当ですか? 危険ですぞ)」
「Լինում են պահեր, երբ մարդը պարզապես չի կարողանում հետ քաշվել... Ահա թե ինչ եմ ասում... Չեմ կարող օգնել, դրա համար էլ քեզ հետ կգնամ. Իմ պարտքն է վայրի գնալ:(男には、どうしても引けない時がある……って俺のツレが言ってるもんでな。仕方ないから俺も付き合ってやるよ。暴れるのは俺の本分だからな)」
俺の返答にジュストは思わず噴き出した。そして、少し考えるような仕草をした後、俺に深く頭を下げた。
「Սրտիս խորքից շնորհակալ եմ:(心より感謝致します)」
かくして俺たちは3人で村の少女の救出に向かうことになった。飛行機の離陸時間までは3時間を切っている。クロヴィ山まではエレバンの方角へ歩いて20分ほどらしいので、山まで元大尉を送り届けたら俺たちはそのまま首都へ直行するとしよう。道中、何かしらの交通手段が拾えれば良いのだが……。
目的地に着くまでの時間はとても短く感じた。平野とジュストとの話が盛り上がり、様々な経験や苦労話に花を咲かせたおかげだろうか。尤も、通訳である俺を介したぎこちないやり取りであるが。それでも俺はいつの間にかジュスト元大尉の素性を詳しく知るようになっていた。
「Պարոն Հիրանո ի Նակագավա Կաի?(平野さんはナカガワカイに?)」
「ああ。高校を出て組織に拾われて以来、ずっと戦うことを生業にしてきた」
「...... Զարմացած. Ես չգիտեմ, որ Ճապոնիայում նույնպես նման կազմակերպություն կար:(……驚きました。日本にもそのような組織があったとは)」
下手にオブラートに包もうとした俺の訳し方がまずかったか。ジュストは平野のことを軍人だと勘違いしているようで、日本の暴力団である中川会のことはエウロツィアで云うところの軍閥だと思い込んだようである。少し違和感が付きまとうが、修正するのも面倒なのでこのままにしておこう。
「Բայց չե՞ք հոգնում ամեն օր կռվելուց:(でも、戦いばかりの毎日では疲れませんか?)」
「ああ。血生臭い生活を長らく続けていると善悪の感覚が鈍ってくるが、そういう時に人間に戻してくれるのが妻子の存在だ。かみさんと娘がいるから、俺は完全な殺人マシンにならずに済んでいる」
「Լավ, չէ՞... Ի՞նչ է ընտանիքը: Ես չեմ ամուսնացել, ուստի նախանձում եմ այն մարդկանց, ովքեր ընտանիք ունեն։ Ինչպիսի ՞ անձնավորություն է քո կինը ։(良いですよね。家族って。私は結婚しなかったので所帯を持っている人が羨ましいです。奥さんはどのような方なんですか?)」
「あれこれ気配りができて、いつも俺を優しく包み込んでくれる天使みたいな女さ」
20分の間で両者はかなり近づいた。気恥ずかしそうに語る平野をジュストは微笑ましそうに見ている。その眼差しには何処か温かみが感じられるような気がした。見た目だけでは30代くらいなのに、このおっさんはもしかしたら意外と年齢を重ねているのかもしれない――。
俺の方からもジュストに会話を切り出そうかと思ったが、そうする前に時が来た。目的地、クロヴィ山へ到着したのである。
「……着いたか」
高くそびえ立つ岩山の断崖絶壁を見上げ、平野がボソッと呟く。イザヤ率いる共和国軍の小隊が拠点として支配しているという山岳基地。道中で野盗に襲われなかったのは幸運だ。しかしながら、ここへの到着は、それ即ちジュストが連中の手にかかることを意味する。
俺も平野も、この期に及んで「やはり止めておきませんか」などとは言わない。男の覚悟に水を差すような真似ほど無粋な行為は無いからだ。
「Շատ-շատ շնորհակալություն. Էստեղից էլ ես լավն եմ լինելու. Դուք երկուսով պետք է հեռանաք որքան հնարավոր է շուտ: Մնաս բարով(平野さん、朝比奈さん、ありがとうございました。ここから先は私一人で大丈夫です。お二人はお早くこの場を立ち去ってください。それでは)」
岩山全体が見渡せる小高い丘の上で俺たちと別れ、ひとり敵陣へと歩いてゆくジュスト。その背中からは、悲壮で勇敢な意思を強烈に固めた戦士のオーラが漂っていた。
ジュストは後ろを振り向いて俺たちの顔をよく見る。俺も平野も彼から目を逸らさない。深々と頷き、手を振る俺達に微笑みかける。そして――。
「Կարճ ժամանակ էր, բայց լավ էր խոսել։(短い時間でしたが、話せて良かった!)」
ゆっくりと俺たちの方に向き直ると、深々と頭を下げた。エウロツィア人にお辞儀の習慣は無い。知識として頭の片隅にでもあった立礼の仕草を俺たちのためにやってくれたのだろう。
「こちらこそ、ありがとうな!」
平野がジュストの背に向かって日本語で声を投げかけた。エウロツィアの風に運ばれて、少し遅めの砂塵が俺達の足元を撫でて通過した。遠ざかりゆく背中は振り返らず、どんどん小さくなる。生温い風が今はちょっとだけ肌寒く感じられた。俺は思わず身震いしてしまう。隣を見ると、平野もやけに神妙な面持ちだった。
「……涼平。暫くここで待っても良いか? 連中が本当にあの女の子を解放するのか、見届けねばならん」
「ああ。俺も同じことを言おうと思ってた」
道中では馬も駱駝も拾えなかった。この流れだと飛行機には間に合わなくなってしまうだろうが、最早平野には二の次らしい。ジュストが自らの命と引き換えに果たそうとしている目的が、きちんと達成されるのか。それを見届けることの方が大切と見た。まあ、恒元には後で何かしらの言い訳が必要になろうが、人質の解放については俺も気がかりだ。
平野と共に、それから30分ほど荒野の風に当たり続けた。
しかし――。
出て来ない。解放されるはずの人質が、一向に姿をあらわさないのだ。それから1時間余りが経過しても、ジュストが帰って来る気配すら感じられなかった。遂に痺れを切らした平野が斜面を駆け下りようとするのを俺は慌てて引き止めた。
「離してくれ。この目で確かめたいんだ」
「いや、冷静に考えればそもそも出て来なくて当然だ。連中が出した条件は俺達の首だったわけだし」
「だとすれば俺たちの所為じゃないか! なおさら行かなくては!」
基地に殴り込みをかけて事の子細を確かめ、場合によってはジュスト共々人質を救出せんとする平野。彼が取り乱す声に周囲の砂塵が呼応するように舞い上がる。腕を振り上げて抵抗する平野を必死に押さえつけながら、俺は歯噛みする思いで彼の身体を羽交い締めにした。
「せっかく庇ってもらったのに、ここで全部台無しにするつもりなのかよ!」
「分かってる! だが……」
それでもなお基地の方へ向かって走り出そうとするので、俺は足を引っ掛けてやった。すると平野は前のめりに転び、地面に倒れ伏す。よもや平野がここまでに冷静さを失うとは思わなかった。
「痛てて……何をしやがる……」
「そんなに確かめてぇなら俺も行く。ただし、正面切っての殴り込みじゃねぇ。潜入するんだ」
隠密行動で忍び込んで、そこからジュストの救出、或いは人質奪還を実行する。これがベストアンサーだ。平野の気持ちはよく分かるし、彼の代わりに俺がやったところで実行できる保証も無いが、それでもやらないよりはマシだ。
「こういう時こそ落ち着いてくれや。局長。敵の数だって分からねぇんだ」
「……そうだな。動揺して済まなかった」
平野は渋々ながらも納得した様子で立ち上がった。こうして俺は平野と2人で敵陣へと潜入することなったのである。
「局長。あんた、隠形の経験は?」
「駆け出しの頃は敵の事務所によく忍び込んだものだ。気配の消し方なら心得ている。本物の軍事施設で通用するかは分からんがな」
「上等だ。まあ、足を引っ張らないでくれよ」
先ずは状況の観察。俺は双眼鏡を取り出し、遠くに見える基地を注視する。
「歩哨はそんなに多くはないみてぇだな。小隊規模の基地にしては大きすぎる気もするが」
その時、俺は崖沿いの地面に何かを見つけた。ベージュの服に身を包んだ男性が倒れている。あれは、もしや……?
ジュストではないか!
「まずいな。全身傷だらけだ。だいぶ酷いケガだって、この距離からでも分かるぜ」
俺と平野はすぐさま行動を開始。周囲を警戒しながら荒野の岩陰に隠れて進み、地面に倒れ込んでいるのジュストの元へ急いだ。
「おい、しっかりしろ!」
平野がジュストを揺り起こす。意識は朦朧としている。片方の目が潰されていて、挙げ句に全身に無数の打撲痕と刺し傷。兎にも角にも出血がひどい。早く処置をしなければ、命にもかかわる負傷具合である。
「Պարոն Հիրանո...... Ասահինա-սան...... Ինչու......(平野さん……朝比奈さん……どうして……)」
「Ինչպե՞ ս կարող է նման բան լինել։ Ջուստո՜ն, դժոխքը ի՜նչ եղավ...(どうしてもこうしてもあるか! ジュストさん、一体何があったんだよ!)」
「Ա՜խ, ես լավն եմ... Երեխաներ... Օգնեք երեխաներին...... Նրանք չէին պահում իրենց խոստումները...(わ、私のことは良い……子供たちを……子供たちを助けてください……奴ら、約束を守らなかった……)」
そこでジュストは意識を失った。恐る恐る、呼吸を確認した俺。肌に触れた瞬間に「もう駄目だ」という事実が一瞬で伝わってきてしまった。
「畜生め……」
平野がジュストをそっと寝かせてやる。彼もまた悔しさに打ち震えていた。5年前に接した時にはここまで情が深い男だったか? 異国での経験を通して、平野なりに思うところがあったのだろう。
「……仇は討つ。涼平、行くぞ」
「ああ」
ここまでくると無関係とは言っていられない。細かいことは考えず、俺は自然に山城の中へと入っていった。有機的な外観に反して内部は実に整備されており、まさに岩山に偽装した秘密基地といった雰囲気だった。このような設備を建造できるとは。エウロツィア共和国軍もなかなかやるではないか。
「ここは手分けするより、2人1組で動いた方が安全だし確実だ。平野さん、悪いけどここは俺の背中から離れないでくれよ。潜入任務は傭兵時代に嫌ってほど場数を踏んでるんだ」
俺の言葉に平野は素直に従った。ヤクザ者にありがちな、こうした場面においても妙な先輩風を吹かすような奴でなくて本当に良かった。
「しっかし、無駄に広い基地だな。小隊の拠点とは思えねぇ」
「実際にはもっと兵隊が居るんじゃないのか? 俺は軍事関連のことはよく分からんが」
「どうだろうな……あっ、向こうから人が来る!」
俺たちは廊下の隅にあった木箱の山に慌てて身を隠した。前方より歩いて来た兵卒が、何やら話し込んでいる。情報収集は潜入任務の基本。耳をそばだてないわけにはいかない。聞き取りづらかろうが、やってやる。
「Այդ բաստարդը նույնպես հիմար է: «Խնդրում եմ, ինձ հետ տվեք երեխային»,- ասաց նա եւ եկավ ինձ հետ ուղիղ խոսելու:(さっきの野郎もアホだよな。『子供を返してください』って、みすみす直談判しに来るなんざよぉ)」
「全くだ。こちとら人質を返す気なんか毛頭無いってのに」
「Բացարձակապես: Ես չեմ ուզում վերադարձնել պատանդներին.(そもそも解放する気なら最初から連行しないよなぁ!)」
平野と顔を見合わせる。
「涼平。奴らは何て言ってる?」
「……最初から人質は返さないつもりだったってさ」
「チッ、外道め!」
やはりジュストの交渉は失敗した。タコ殴りにされた挙句、無惨に殺されたと考えるべきだ。ここから先は平野も俺も慎重さを増す必要がある。下手に動けばあの勇敢な元軍人の二の舞になりかねない。
だが、一方で一つの疑問が浮かぶ。イザヤたちが人質の解放をまったく考えていないのだとしたら、何故に奴らは村人たちに「返して欲しかったら~」などと交渉の余地を残す台詞を吐いたのだろう。もしかして、最初から解放交渉に来た村人を誘き出して惨殺する計画だったのではないか?
そう考えると、奴らの悪辣さに反吐が出る。
「連行した子供をダシに村人を誘き出して殺すってか。クソみてぇなやり方をしやがる」
「許せんな。涼平、先を急ごう。ますます心配になってきた」
敵兵が通り過ぎ去った後、俺と平野は急いで移動を再開する。察するにアイシャ以外にも捕らわれた子供たちがいると見て間違い無かろう。ここは早く助け出してやりたい。
だが、その基地の内部構造は本当に複雑だった。
「おい、涼平。この建物、一体いくつ部屋があるんだ?」
「見たところ20以上はあるな」
俺と平野は途方に暮れた。基地内を何周しても人質はまだ見つからない。あまり手間取っていると、敵兵に発見される可能性が高まる。平野も焦りが募っているのか、額に冷や汗を浮かべていた。
「まったく……どこに居るんだか……あっ、また敵が来る!」
俺たちは再び物陰に身を隠す。またしてもやってきた歩哨たちは、今度はこんなことを話していた。
「Երկրորդ լեյտենանտը նույնպես վատ մարդ է: Ես շատ պարագաներ ունեմ, բայց պատրաստ եմ հնարավորինս սեղմվել հարեւան գյուղերից:(少尉殿も人が悪いよな。物資なんか余るほど抱えてるのに、近隣の村々から搾り取れるだけ搾り取る気だぜ)」
「Իրոք. Նախ՝ Ռանջալի ռազմագլուխների պատմությունը նպատակահարմար է, չէ՞: Իսլամին ստիպողաբար դարձի գալու պատմությունը եւս բացահայտ սուտ է:本当に。第一、ランジャル軍閥の話は方便だってんだろ? イスラムに強制改宗させてるって話も真っ赤な嘘で」
「Այո՛ Սուտ տեղեկություն է, որ գյուղացիներին վախեցնելու համար երկրորդ լեյտենանտը տարածվել է: Զզվելի է:(ああ。村の奴らをビビらせるために少尉殿が吹聴した偽情報さ。嫌なもんだねぇ)」
何ということだろう。「軍閥の大将がムスリム」との話に、どうりでピンと来なかったわけだ。イザヤたちはありもしない脅威をでっち上げることで近隣の村人を脅し、それに対抗するとの名目で自分たちに物資や資金を供出させている。村人が無知なのを良い事に、搾取の構造を維持し続けているのだった。エウロツィア共和国軍が腐敗しているとの話は聞いていたが、まさかこれほどまでとは……。
「……平野さん。ちょっと作戦変更。こりゃあ、早急に片を付けた方が良さそうだわ」
俺は物陰から飛び出すと、歩いていたパトロール兵の背後から拳を浴びせて仰向けに倒した。残る一人は何発か殴った後で羽交い絞めに拘束し、短刀を抜いて突きつける。
「Ողջույն. Ո՞ւր է քո հրամանատարը: Որտե՞ղ են երեխաները սահմանափակված: Թքեք այն ամենը, ինչ գիտեք(おい。お前等の部隊長はどこにいる? 子供たちはどこに監禁している? 知っている情報を全て吐け)」
「Ցավ է... Որն է նպատակը(く、苦しい……な、何が目的だ)」
「Սա գիծն է այստեղ: Այո՞։ Տեսնո՞ւմ ես ցավող աչքերը պատասխանի համար:(それはこっちの台詞だっての。ああ? 答えねぇと痛い目を見るぞ?)」
平野も合流した。歩哨の男を壁に抑え付けると、同時に手首を掴んであらぬ方向へ折り曲げる。関節をへし折ってやったのだ。
「Օուչ օ՜ց, Վերջ տուր! Երաշխավորություն: Խոսի՛ր... Որովհետեւ մենք խոսում ենք!(痛い痛い! やめてくれ! 分かった。話す! 話すから!)」
平野と俺が手を離すと、歩哨は泣きべそをかきながら語り始めた。
「Հիմա վերեւի հարկում առաջին հրամանատարական պոստում երկրորդ լեյտենանտն է...(さ、最上階の第一指揮所に、少尉がいらっしゃる……)」
「Որտե՞ղ են պահվում պատանդները:(人質の監禁場所は)?」
「Հրամանի սենյակում... Հաջորդ սենյակն է...(指令室の……隣の部屋だ……)」
思いきり顔面に蹴りを入れた。鼻血を吹き出しながら倒れる歩哨。平野が俺に促す。
「涼平、急ぐぞ」
俺たちは敵を躱し、或いは無力化しながら基地内部を駆けてゆく。だが、目立ってしまったようだ。「侵入者発見」とエウロツィア語で緊急アラートが鳴り響く。敵の監視は徐々に厳しくなっていた。それでも、進むしかない。
「どうやらこの先が指令室みたいだな。涼平」
「ところでさ、この後はどうするんだ? イザヤって野郎をぶっ殺して、子供たちを救出した後は?」
「それは後で考える!」
俺の問いに明確な答えを返す間も無く、平野は扉を蹴破った。瞬間、室内のすべての視線が俺たちに注がれる。敵兵の数は30名強といった具合か。その奥の長机には、司令官然とした男が腰掛けている。イザヤだ。
「Ի վերջո, դու ե՞ս եկել։ Ասիական(やはり来たか。アジア人)」
余裕ぶった笑みを浮かべるイザヤ。口調から察するに、俺たちが来ることを見越して罠を張っていたか。部下たちは全員が銃を構えている。
「Մերսենի որսը նախագահի հրամաններով է: Մասնավորապես, ենթադրվում է, որ օտարերկրյա վարձկանները պետք է սպանվեն գտնվելու պահից: Մինչ ռազմագլուխները կհամագործակցեն:(傭兵狩りは大統領の命令でね。特に、外国人傭兵は見つけ次第殺すことになっている。軍閥に協力される前に)」
「Ինձ դա չի հետաքրքրում։ Ո՞ւր գնաց բրատը: Կվերցնեմ միստր Ջուստոյին սպանած քեջիմը(そんな話はどうでも良い。ガキどもはどこへやった? ジュストさんを殺ったケジメ、きっちり取らせてもらうぜ)」
「Դուք եկել եք երեխային օգնելու? Զարմանալի է, որ Գոդովայի գյուղացիները դեռ նման հարստություն ունեին։ Դե լավ կլիներ: Եթե ուզում ես ինձ տանել, տար ինձ(お前たち、子供を助けに来たのか。ゴドバの村人にまだそんな財力があったとは驚きだ。まあ、良いだろう。連れて行きたいなら連れて行くが良いさ)」
一体、何を考えているのか。不敵に頬を緩ませると、イザヤ少尉は指をパチンと鳴らす。その瞬間、部屋の脇にあった幕のようなカーテンが勢いよく開いた。
「なっ……!?」
「う、嘘だろ……!」
その先にあったものを見て、俺と平野は言葉を失った。イザヤは高笑いする。
「Ի՞նչ եք կարծում, ՀՀ քաղաքացիներ! Քո երկրում չէ! Սա Հայաստան է! Ուժեղները նորմալ են այս երկրում! Այրե՛ք այն այդ աչքերի մեջ... Հայաա(どうだ、アジア人! お前たちの国には無いものだろう! これがエウロツィアだ! 強者こそが全て、この国の常識なんだよ! その瞳に焼き付けておけ! ひゃーはっはっはっ!)」
空間の中央を支配するがごとく置かれた手術台。その上に小さな子供が寝かされ、腹を切り裂かれていた。
何が行われていたかは一瞬で察しが付く。臓器摘出。ブラックマーケットに売るための人間の臓器を抜き取っているのだ。それも、年端もいかない児童の臓器を。台の上に固定された子供は絶命しているのが分かる。白目を剥き、口は大きく開かれている。まさか、麻酔無しでやったのか……!?
あまりにも惨いことだ。平野は握り締めた拳をなわなわなと震わせていた、そんな俺たちを見て、イザヤが嘲笑う。
「Բրատի քաջերը վաճառվում են բարձր գնով: Մեր օրերում ոչ միայն բժիշկները, այլեւ այլասերված բաստիոնները, ովքեր ցանկանում են հում լյարդ ուտել եւ գիմո դառնալ, դառնում են հաճախորդներ: Ինչ ես կարծում? Չե՞ք վախենում...(ガキの内臓は高く売れるものでね。近頃は医者だけでなく、生き肝を食べたいって変態野郎までが客になってくれる。どうだ? 恐れ入ったろ?)」
「Դու......(てめぇ……)」
「Ասեմ, որ սա նախագահի պաշտոնական հավանությունն է: Այնտեղ պառկած բոլոր երեխաները ֆավելաներից են: Այս երկրում թույլը վնասակար է. Մեղք է(言っておくが、これは大統領公認だぞ。そこに転がってる子供らは全員が貧民街の人間。この国じゃあ、弱いことは害悪。罪なんだよ)」
「……」
「Որոշվում է, որ ավելի լավ է, որ մեզ նման ուժեղները հարուստ լինեն, քան թույլերը ապրեն! Բայց Ջուստոն նույնիսկ չփորձեց հասկանալ դա։ Ահա թե ինչու սպանեցի քեզ... Վերջում լաց եղա ու աղաչեցի կյանքիս համար։(弱者なんぞが生きるより、俺たちのような未来ある強者が潤った方が良いに決まっている! だが、ジュストの奴はそれを理解しようともしなかった! だから殺してやったのさ! 最後は泣いて命乞いをさせながらなァ!)」
平野からイザヤとのやり取りを日本語に訳すよう求められたが、流石に躊躇った。奴の発言を知ってしまえば、局長は忽ち我を忘れて怒り狂うだろうから。
「おい。麻木。何を黙っている。ほら。早くしろ。早く日本語に訳してくれ。あの男は何て言ってるんだ?」
せっつかれたので止むを得ない。俺はできるだけ省略して日本語に訳す。
「奴さん曰く『弱者なんぞが生きるより、俺たちのような未来ある強者が潤った方が良い』ってよ」
案の定、平野は激昂した。
「何が未来だ……てめぇらに未来を生きる資格はねぇーっ!!」
居並ぶ敵に向かってコルト45を連射し、弾丸が尽きると懐の短刀を抜き放ち敵兵の喉笛を搔き切る平野。敵はその勢いに圧倒されるばかり。慌てて自動小銃を連射するも、すべて不発。激情を爆発させた男に銃など効かない。
「Ա՜խ, այ տղաք... Ի՞նչ ես անում։! Սպանի՛ր այդ ասիացիներին հիմա...(お、お前たち! 何をしている! そのアジア人をさっさと殺せ!)」
まさか侵入者がこんなにも強いとは思わなかったのか。イザヤは椅子から転げ落ち、怯えきった面持ちで後ずざりし始める。
「Ո՜վ, եկե՛ք փախնենք...(おっと、逃がさねぇぜ!)」
鬼神と化した平野に視線を奪われていたが、俺も負けてはいない。逃げるイザヤを追いかけ、背中を蹴り飛ばす。壁に叩きつけられたイザヤは、顔中に脂汗を滲ませていた。
「Ույու... Դամն... Դուք տղաներ, օգնեք ինձ արագ! Արի՛, դու նմանվելու ես այս բրատին!(くっ……くそう! お前たち、早く助けろ! さもねぇと、このガキみたいになるぞ!)」
イザヤが指し示す先には、一人の子供が寝かされていた。要は「心臓を抜き取ってやるぞ」という脅しだろう。しかし、頼みの屈強な部下たちはもういない。ほんの数秒の間に平野が全員始末してしまったからだ。
「Վա՜յ, ես ստանում եմ... Կորցրի... Ասիական! Եկեք ինձ հետ գործ անենք!(わ、分かった! 俺の負けだ……アジア人! ここは俺と取引をしようではないか!)」
イザヤは胸元から一枚の紙きれを取り出すと、こちらに見せつけてきた。
「Սա Նախագահի կնիքն է! Այս մեկով դուք կարող եք մուտք գործել երկրի ցանկացած շենք! Անկախ նրանից՝ դա խառնաշփոթ է, թե կին, դա ձեր ուզածի պես է։ Ես պատրաստվում եմ դա անել, ուրեմն կարոտում եմ ինձ...(これは大統領の印証だ! こいつを使えば、国中のどんな建物にも入れる! 飯だろうと女だろうと思いのままだ! こいつをやるから、俺を見逃して……)」
「うるせぇ!」
――ザクッ。
平野が投げた短刀が、イザヤの右手首を貫いた。悲鳴と共に紙が落ちる。
「ああ、ああああああっ!!」
「俺は端からてめぇを生かしておくつもりはねぇんだよ」
平野は短刀を抜き取ると、そのままイザヤの心臓に突き刺そうとした。だが、俺がそれを止める。
「なあ、こいつは俺に任せてくれねぇか? このまま一突きで殺しちゃ、子供らが浮かばれない。もっと苦しめて、生まれてきたことを後悔させてろうぜ」
イザヤに聞こえるように平野に言った。日本語が通じずとも俺の冷たい視線で全てを悟ったらしく、元少尉の顔は恐怖に引き攣る。戦慄のあまり小便を漏らしているようだった。
「Դե այո!(そ、そんな!)」
壁にもたれかかっていたイザヤを無理やり立たせた俺は、奴の両脇に掌を入れて圧迫する。そして拳を握り固め、ありったけの力を込めて左右の肋骨を抉った。
――ゴキッ!
「Նուա(ぬあああああっ!?)」
イザヤの口から絶叫が迸った。さしずめ、相当な痛みが走ったものと思われる。きっと肋骨の何本かは折れていることだろう。息苦しさと痛みに悶絶するイザヤに、俺は淡々と言った。
「Բոլոր ձախ ու աջ կողերը ջարդուփշուր եղան։ Ոսկրի բեկորները խոցում են հինգ օրգանները, եւ շուտով թոքերը լցվում են արյունով: Մոտ 30 վայրկյանում դուք կխեղդվեք ձեր իսկ արյան մեջ:(左右の肋骨を全て砕いた。骨の破片が五臓に刺さり、もうじき肺が血で満たされる。あと30秒ほどで、お前は自分の血液で溺れ死ぬことになる)」
「Ուի՜յր...(ひぃっ!)」
「Ամենաշատը այդ 30 վայրկյանների ընթացքում զղջաք այն ամենի համար, ինչ արել եք մինչ այժմ: Ու դժոխքի՜ն գնա...(せいぜい、その30秒の間にこれまでの行いを悔いろ。そして地獄へ落ちやがれ!)」
そう宣告すると、俺はイザヤから離れた。既に上半身のありとあらゆる動脈が破裂しており、最早自力で体を動かすことはままならない模様。彼は顔を真っ赤にしながら膝を折り、うつ伏せに倒れ込んでしまう。そして……。
「...... Ես ատում եմ... Ուզում եմ մեռնել... Ուզում եմ մեռնել... ...... Ահհ Աա Ու!!(い……嫌だッ! 死にたくねぇ! 死にたくねぇよおお!……あがっ!? あがあああ!? うぐっ!!)」
俺の言葉通り、血管から漏れ出た血液が肺に溜まり始めたらしく、奴は呼吸困難に陥った。やがて体内に蓄積しきれなくなった血は外へ漏れ始める。口から、鼻から、耳から、目から、身体中の穴という穴から赤い液体を流し、醜い断末魔を上げてイザヤは果てた。
「……帰ろう」
「ああ、そうだな」
俺は平野と共に部屋を後にした。無駄に大きな軍事施設の玄関口に差し掛かったところで、平野は呟いた。
「ヤクザとしてあるまじき行為をしてしまった。臓器密売なんて、俺らの世界では日常茶飯事なのに。慣れていたつもりなんだけどな」
どう言葉を返すのが正解なのか分からなかったが、ここで黙っているのも無粋だ。ひとまず俺は当たり障りのないことを口にしておいた。
「仕方がないさ。誰だってあんなものを見たら頭に血が上っちまう。俺だって、怒りで我を忘れてた」
平野は失笑する。
「ははっ……涼平、お前は俺より冷静だったように見えるがな」
「そうか?」
「俺と違って、お前はあの場面でも冷静に状況の観察ができていた。大したもんだ」
苦笑し合った俺たちふたり。こうして互いが互いを励ますことでしか、後味の悪さを中和できなかった。結局のところ、アイシャは救えなかった。己の命を懸けたジュストの行動にもかかわらず、あの子は殺されてしまったのだ。
「この5年間、色んな国に行ったけどよ。結局はどこも同じなのかもしれねぇな」
「そうだな。洋の東西を問わず、人間の本質は変わらない」
「欲望と執着。この二つを貫き通した奴だけが、最後に笑うんだ。そいつを俺は嫌ってほど学んだ」
「涼平、お前はまだ21歳じゃないか。その年齢でそれを見極められたんなら、大したものだぜ」
「だと良いんだがな……」
すっかり暮れてしまった空を見上げ、平野は漏らすように吐き捨てた。
「まあ、何にせよ。今日の俺らの行動は相応しいものじゃなかった。人間としては正しいのだろうが、ヤクザとしては失格も良い所だ。この世界で甘さは命取り。涼平、俺みたいになるんじゃないぞ」
局長の言葉を重く受け止め、俺は再び歩き出す。あの場で激昂してしまった点で、麻木涼平もまだまだ甘いということだろう。これから俺は組織の人間になるのだ。裏社会を生き抜くために、人間らしさなどは早々に捨てねばなるまい。今日のことは忘れよう。そして東欧の戦場を駆け抜けていた頃の自分、すなわち獣に戻ろう――。
それから俺たちは基地にあったジープでラクノジュへ向かい、スカーノドッツ国際空港から日本へ戻った。無論、事前に平野が予約していた便には間に合わず、新たな航空券の確保までに3日間も足止めを食う羽目になった。
しかし、驚いたのは行き先である。
エウロツィアから日本までの直通便は存在しないため、途中で別便に乗り換えるのだが、経由地のドバイ国際空港から飛んだのは千葉の成田国際空港ではなく大阪の関西国際空港だった。これはどういうことか。
「おいおい、どうして大阪なんかに……」
「涼平。お前の行き先は東京じゃない。沖縄だ」
「沖縄だと!?」
曰く、恒元会長が那覇に滞在中という。観光でも楽しんでいるのか。あまりにも意外な地名の登場に、俺は己の耳を疑わざるを得なかった。何とも嫌な予感がこみ上げてきたが、ここは流れに身を任せるしかない。5年ぶりに日本へ戻って来たかと思いきや、帰国早々ゴタゴタに巻き込まれるのか――。
「おお、戻ったか。見違えたな。麻木涼平」
2004年3月22日。那覇空港まで直々に出迎えに来た恒元と、久々の再会を果たした俺。激しく揺れる争乱の渦が、いよいよ間近にまで迫っていた。
思わぬアクシデントを乗り越え、無事に日本へとたどり着いた涼平。ところが、到着した先は何故か沖縄!? 次回、因縁の男と再会する!