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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第8章 餞別
161/252

鴉が哭く空に

 徹底されたボディ―チェックを受けた後、傍聴席へと入れたのは開始1分前。かなりギリギリだった。


 検査そのものもかなり執拗で、上着の内側からポケットの中まで隈なく調べられた。おまけに職業と年齢、今回の公聴会はどのような目的で来たのかまで訊かれる始末だ。


年齢としは16。バイトで暮らしてるよ。何つーか、ちょっと政治に興味があってな」


「政治に興味? 失礼ですが、とてもそういう風には」


「うるせぇな。どうだって良いだろうが」


 何故だか俺だけしつこく尋ねてくる係員。まさか素性が露見、あるいは村雨組が送り込んだ口封じのヒットマンと誤認されたかと危ぶんだが、単純に俺の容姿を馬鹿にしているだけのようだ。


「差し出がましいようですがね、そうやって暇を持て余してるとろくな大人になりませんよ。何ですか。その格好は。金髪に全身真っ黒のジャージだなんて。まったく、これだから最近の若者は」


 典型的な保守的思考。中学の時分のセン公もそうだった。やはり公務員は総じて似たような考え方になってしまうのか。


「余計なお世話だっつーの」


「はい、これが入場整理券です。奥から順に詰めて座ってください。間違っても議場内で騒いだり、問題を起こしたりしないように」


「へいへいっ」


 俺は半ば強引に手渡されたチケットを持って会場の最上段へと向かった。指定された座席は通路側から数えて5列目の真ん中あたり。あまり目立たない位置だ。


 事前に立てた作戦を遂行するにあたっては芳しいとは言えない。傍聴席のフロアは既に見物人でごった返している。ここから清原めがけて駆け出すとしたら、どうしても人混みに邪魔をされてしまうだろう。


 軽くため息をつきながら、場内を見渡す。


(ここが横浜市議会ってところか……)


 青い絨毯が敷きつめられ、壁には高そうな額縁に入った絵が飾られている。まるで高級ホテルのロビー、もしくは西洋美術館のごとき格式ばった空間である。たかが話し合いの場をここまで豪華絢爛にする必要もあるまいと思えたが、やはり地方政治の最高機関なのだ。品位を保ち、威儀を示すためには仕方ないのかもしれない。


 尤も、今はそんなことを気にしてはいられない。清原を仕留める任務に集中せねば。


 俺はさっと周囲を確認する。


(始まりが遅れているのか……?)


 清原の姿が無い。奴はまだ来ていないのだろう。着席している関係者の姿はあれど、公聴会は未だ始まっていない。どうも開会が遅れているらしい。


 さらにぐるりと見渡して、俺は驚いた。新聞記者のみならず、大きなカメラを携えた撮影クルーの姿が散見されるのだ。この公聴会はテレビ中継されるという。


 少し大袈裟なようにも思えたが、つい先日まで現役だった暴力団の元総長が市議会公聴会という公の場に出てくるのだ。この異例事態を前にしてテレビが動かないわけがない。聞けばお昼のワイドショー数社が中継を組んでいるとのことで、世間の注目度の高さがうかがえた。


 そんな状況でこれから大事件が起こるのだ。良くも悪くも、俺はこれから日本の歴史に名を残すことになるかもしれない。そう思うとますます身が引き締まる。


(……まぁいいや。とりあえず腰を落ち着けるか)


 俺は静かに着席した。すると、どういうわけか隣の見物客に話しかけられた。60代前半くらいの爺さんだ。


「やあ、こんにちは。お若いですな。あなたも政治に興味がおありで?」


「まあな」


 俺は適当にあしらう。構う必要は無いからだ。


「私は普段から傍聴が趣味なのでよく来ているのですがな。あなたのようなお若い方は珍しい。市民として、この街に救う暴力団は許せませんよね。前の市長と癒着していたというのも実に嘆かわしいことで」


「確かに。許せねぇわな」


「ええ。先月の選挙、私はもちろん和泉さんに入れましたよ。和泉さんならこの腐った街を変えてくれると信じております。どうか頑張って欲しいものです」


「ああ、そうだよな」


 本音を言えば、気が散るので話しかけないで欲しかった。だが、ここで下手に声を荒げて騒ぎを起こすわけにもいかない。「察してくれ」という意味で舌打ちを挟みつつも。どうにか淡々と対応するよう努める。


「ところで、あなたが着ている服。格好いいですな。最近のお若い方の間での流行りなので?」


「分かんねぇ。好きだから着てるだけだし」


「ほう。そうでしたか。何だか、遠くから見るとカラスのようでしたぞ。ああ、では、そろそろ始まるようですし、また後ほど」


 鴉とは。これはなかなか個性的な例え方だ。まあ、上下黒なので似ているといえば似ているのだが。


(前にも同じようなことを言われたような……)


 そうこうしているうちに場内がざわめき始めた。警護担当者が議場内の安全確認を終え、ようやく開会のめどが立ったのだろう。ぞろぞろと人が入ってくる。俺その模様に黙って神経をとがらせ続けた。


「……」


 開会を前にした議事堂の空気は冷たく、恐ろしい緊張感が漂っていた。議員席には四十人近い妙齢の男女が座っており、全員が正装である。


 演壇の脇の席に座っている、ポマードで塗り固めた横分けの黒髪が特徴の中年男。机のネームプレートには『横浜市長 和泉義孝』とある。この日、俺は初めてその姿を目にした。


 前月の市長選で村雨組が推す現職の伊橋いはしすすむ氏を破り、齢43にして初当選を果たした気鋭の若手政治家。確か首相経験者の大物代議士を父親に持つ、超名門一族の生まれであったか。事前に気にしていた印象の通り、確かに胡散臭そうな見た目をしている。


(こいつが和泉って野郎か。ウザそうな顔してる……)


 そんな和泉は壇上に立つと、マイクに向かって声を発した。


「えーと、市民の皆様。本日はお忙しい中、公聴会に御足労いただき誠にありがとうございます。早速ですが、これから私が皆様に申し上げますことは全て真実でありますことをまず初めに申し上げておきたいと思います。それでは私の話を始めさせていただきます……」


 和泉の声はよく通り、聞く者の耳に入った。政治家一族の出だけあって演説の技術は相応に叩き込まれているものと思われる。おまけに、内容もきわめて簡潔で分かりやすい。


 市長選の公約に掲げていた『暴力団の横浜からの追放』を実現するには、行政とヤクザの癒着を完全に断ち切らねばならないこと。


 その第一段階として、煌王会系村雨組とズブズブの関係にあった伊橋前横浜市長の市政を徹底糾弾して不透明な金の流れに調査のメスを入れる必要があること。


 ゆえに、一連の不当な関係を知る立場にあった人物に証言してもらうこと――。


 所々で軽快なジョークや少しばかり不謹慎な例え話を用いて傍聴席内内の笑いをかっさらった後、和泉は高らかに言った。


「……論より証拠。これより証人にご登場頂きましょう。広域指定暴力団煌王会系斯波一家、元総長、清原きよはら武彦たけひこ氏です!」


 和泉の手招きを受け、その男は奥の出入口からゆっくりと姿を表す。写真で見た通り。いかにも軽薄そうな雰囲気を醸し出す、老け顔のオッサン。少し前までは村雨耀介の兄貴分にあった男、清原元総長である。


「ご紹介に預かりました。手前は清原武彦。煌王会が伊豆半島が貸元、斯波一家の代紋を名乗らせていただいておりました。本日はよろしくお願いいたします。これまで善良な市民の先輩方にご迷惑をおかけした者として、少しでも自らの罪を……」


 まったく。バレバレの詭弁である。本当はそんなことを微塵も思っておらず、ただ後の裁判での減刑を狙ってこそ証言を引き受けたくせに。それでいて村雨組の悪事を並べ立て、自分だけは処罰を逃れようとしているのだから。性質の悪いことこの上ない。俺としては本当に反吐が出る思いだった。


(この野郎……)


 そんな中、清原は和泉に促されて演壇へ歩む。奴自身も襲撃を警戒しているのか、周囲に忙しなく気を配っている。やがて懐から白い紙を取り出し、仰々しい口調で読み上げたのだった。


「私、清原武彦はこの度の公聴会において、これまでの人生における全ての罪を認め、また、ここに告白致します」


「ええ。証人。一切の嘘偽りなく、真実のみを述べることをお約束されますか?」


 清原に尋ねたのは議場を仕切る、市議会議長の坂山さかやま浩二郎こうじろう。老練な政治家らしいデブの爺さんだ。先月に就任したばかりの和泉市長とは、是々非々の関係で上手くやっているとか。典型的な狸おやじだ。


「もちろん。こんなとこで与太をこくほど馬鹿じゃありませんぜ、議長」


「結構です。それでは宣誓を」


「はい、ここでは嘘偽りなく真実のみを述べることを誓います。以上。これでいいんでしょ?」


「ええ。ありがとうございます。証人。ところで、あなたはこれまでに様々な事件を起こして来られたと聞いていますが、相違ありますか?」


 よもやいきなり過去の犯罪歴を問うとは。直球の質問だ。清原は大きく首を横に振った。


「いやぁ? 全く身に覚えがないですな。犯罪なんて認識は無くて、ただ男の道を突っ走っただけでごぜぇまして。そりゃあ、喧嘩の一つ二つはやったかもしれませんがね。しかし、そんなのは子供の遊びみたいなもんでしょう?」


「ええ。あなたの言う通り、確かに子供同士の喧嘩程度のものであれば、こちらとしても大した問題にはしませんでした。ですが……」


「うん?」


「今回の件はそういうわけにもいきませんよね? 特に、かつて配下だった村雨組が当自治体の伊橋前市長と不当に癒着している疑惑。これについていかがお考えですか? 証人? 包み隠さずお答えください」


 ここで坂山は本題へと切り込む。清原は少しの間を置いてヘラヘラしながら口を開いた。さて、俺もそろそろ動くとしようか。


「はっはーん……さすがに察しましたわ。あんたが何を言いたいのか。つまり、あれでしょ? ヤクザと政治家の癒着の話をしたいんでしょ?」


「ええ。勿体ぶらずにお答えを。村雨組は、伊橋氏と何処まで親密な関係にあったのですか」


「そりゃあ、もう……」


 清原元総長が更なる言葉を吐こうとした、その瞬間。俺は行動を起こす。


 おもむろに立ち上がると、席を足早に立って前方へ移動する。人混みを押し退け、ひたすらに前方へと。


(……よし。この高さならいける)


 俺が突然席を立って前方まで足を進めたことで、周囲は若干騒がしくなった。互いに顔を見合わせている者が殆どだ。されども気にせず、俺は己の成すべきを成す。


「ちょっと。ご起立はご遠慮ください。元の席へお座りください」


 係員が制止してくるも、突き飛ばす。そして俺は傍聴席の柵に手をかけると、1階へと翔んだ。狙うはただひとつ、演壇に立つ清原武彦の首だ。


 ――ドンッ。


 着地すると、思いのほか大きな音が出た。落下の衝撃も想像より強くて足が少しジンジンと痛んだが、気にはならない。大きくどよめき、動揺に包まれる周囲の反応だけが聞こえていた。


「おいっ! あいつは何をしている!?」


 狙うべき標的を捕捉すると、俺は颯爽と駆けだす。俺の動きに気づいた衛視たちが動き出し、すぐさま行く手を阻んできた。しかし、これまで幾多もの修羅場を経験してきた俺にとっては敵ですらない。


 瞬時に振り払い、ひたすら前へ。全力で足を動かし、疾風のごとく進み続ける。俺の目にはマトの姿しか認識されていなかった。


(清原……覚悟しやがれッ!!)


 当の本人は、何が起きたかを理解すらしていないようだった。口をぽっかりと開け、ただただ呆気に取られている。猛スピードで距離を詰めてくる少年が、己の首を獲りに来たとも気づかないようで。


「……えっ? 誰?」


 それが清原武彦の発した、最期のまともな言葉だった。


 ――ドガッ!


 猛烈なる勢いで奴に突っ込んだ俺は、そのままの力で打撃を繰り出す。ホウケン。村雨組長に教えてもらった一撃必殺の技。清原の胸を射抜くように見舞う。鈍い音と共に、奴の悲鳴が上がった。


「ぐふぅっ!!」


 吹っ飛んだ清原は演壇から転げ落ち、床に尻餅をつく。一方で、俺もまた演壇の上へと飛び乗っていた。目の前には、顔面を蒼白にした清原の顔がある。


「はあ……はあ……はあ……」


 恐怖に怯え、ひどく呼吸を乱している。残念ながら今の一撃で奴の臓物を潰すには至らなかったらしいが、呼吸器官を狂わせたらしい。口からは血を吐いている。もうすぐこの男は終わりだろうが、念の為にトドメを刺してやるか。


 俺はそのまま清原の身体に圧し掛かると、両手で首を絞めた。必死の抵抗が返ってくるも、奴はすぐに力を失う。


 先ほどの打撃に加えてこの首絞めはかなり効いたはず。酸素不足に陥って失神してしまったようだ。俺はすぐさま清原の頚髄をへし折り、奴を地獄に送った。


「……」


 完全に息の根を止めたことを確認してから、俺はゆっくりと立ち上がって周囲を確認する。いつの間にか静まり返った場内には、おびただしい数の警官たちが殺到していた。全員が銃を構えている。


「動くなぁっ!」


「手を上げろぉっ!」


「取り囲めぇっ!」


 口々に叫び、包囲陣形を形成していく。だから何だというのか。銃を向けられた程度で俺は怯まないし、そもそも日本の警察官に“発砲”ができる奴など殆どいない。


 俺は気にせず強行突破を図る。


「と、止まれぇぇぇぇーっ!!」


 ――ズガァァァァン。


 おっと。これは想定外だ。1人が拳銃を発砲したのを皮切りに、居並ぶ警官たちが次々と引き金をひく。てっきり威嚇だけで実際に発砲することはないと思っていたが、これはこれで良い。俺としても遠慮する理由が無くなった。


「悪いが、通らせてもらうぜ」


 俺は降り注ぐ弾丸の雨を避け、弾幕の中を突き進む。正面の警官を殴り飛ばし、右方からの銃撃を掻い潜り、左方の銃弾をかわしつつ前進していく。やがて前方に見えた一人の男に狙いを定めると、躊躇なく接近して懐に入り込み、鳩尾みぞおちに渾身の蹴りを叩き込む。


 ――ドンッ。


「ぐはぁ……っ!」


 苦悶の声が漏れた瞬間に、すかさず延髄蹴りを見舞って昏倒させる。


「邪魔するな」


「な、なんだこいつ……バケモノかっ!?」


 ポリ公たちは慌てふためいていた。そもそも丸腰の俺に発砲してきたのはそちらの癖に。まったく腹立たしい限りである。


退けよ。クソどもが」


 大混乱に包まれた議場を脱出するのに、特に手間はかからなかった。パニックになって逃げまわる群衆の中に紛れ、着ていた黒のパーカーを脱ぎ捨てる。この格好は目立つため、脱いでしまえば誰も気づかないだろう。ましてや狂騒の中だ。誰も彼もが逃げることだけを考えていて、他の者に気を配ったりはしない。俺にとっては非常に都合の良い条件がそろっていた。


(さて……ここからどうやって逃げる……)


 市役所の外へ出た時、俺は後ろからぐいっと腕を掴まれた。何かと思って振り返ると、そこには意外な人物の顔が。なんと、先ほど傍聴席で話しかけてきた老人である。


「おい、何だよ!」


「こちらへどうぞ。会長の命であなたのご活躍を見守っておりました。お見事でしたな」


「あんたは中川会の……?」


 話は後だと言わんばかりに力強く腕を掴まれ、近くの路上に止めてあったセダンに乗せられる。


 運転手付きの高級車だった。


「どこへ行くんだ? 警察に追っかけられやしないか?」


「大丈夫です。お任せください」


 そう言うと、老人は自分の携帯電話を取り出し、何処かに電話をかけ始めた。その相手は、他でもない。恒元だった。


「……ええ。上手くいきましたよ。やっぱりあなた様のお見立て通り。麻木涼平は百年に一人……いや、千年に一人の逸材かもしれません……かしこまりました。いま、本人に代わります」


 端末を渡される。


「も、もしもし?」


『エクセラン、涼平! 実によくやった! いまテレビで観ていたぞ!』


 電話の向こうから、恒元の歓喜に満ちた声が聞こえてくる。“エクセラン”というのはおそらくフランス語だろう。例によって意味不明だが、状況から察してたぶん褒め言葉だ。それはさておき、恒元は上機嫌だ。


 どうやら民放のワイドショーで生中継されていた公聴会の様子を観ていたらしく、俺の成功をとても喜んでいた。


『実に見事だった! 拳銃が使えないと分かるや否や素手での殺害に切り替えた頭の回転の速さは勿論、黒いフードを被ってテレビカメラに背を向け、顔が分からないようにした点も実に素晴らしい! これで村雨組にはひとつ貸しができた! 役人どもは我々ヤクザの力を恐れることになるだろうね……あーはっはっはっ!』


「あ、いや。まあ、その。何つーか。まぐれにまぐれが重なっただけだ。それより、いま警察から逃げてるんだけど。これからどうすればいい?」


『その車に乗っていろ。君をひとまず安全な所へ逃がしてやるぞ。それじゃあな』


 電話が切れた。恒元は大いに浮かれているようだったが、本当に大丈夫なのか。運転手の巧みなドライビングテクニックのおかげか、車は既に市役所から離れた。けれどもサイレンの音が聞こえないわけでもない。追尾されているのか、いないのか。本当に不穏だった。


 何だか、厄介なことになってしまったような気がする。俺は思わず呟いた。


「……このまま逃げ切れんのかよ」


「どうされましたか?」


 運転席の男が聞いてくる。


「いや、何でもない」


 俺は窓の外を流れる景色を見ながら考えた。このあと、自分はいったいどうなるのやら。安全な所へ逃がすといっても、警官たちに俺の顔は見られてしまったわけだし。今頃は指名手配でもされてるんじゃなかろうか。


「はい。これをどうぞ」


「何だ?」


 物思いは隣から聞こえた声によって中断される。老人が、俺に鞄を手渡してきたのだ。


「数日分の着替えと現金100万円、それから拳銃が入っています。パスポートも入っていますので、必要があれば海外にでもどうぞ」


「はあ? おいおい、何を言って……」


「暫くの間、これを使って身を隠してください。どこへ逃げても構いません。ほとぼりが冷めるまで、あらゆる手を使って逃げ延びるのです。これは会長のご命令、あなたに与える修行ですので」


「ちょ、ちょっと待ってくれ! 」


 いきなりそんなことを言われても困る。どこへなりとも高飛びして身を隠せというが、いくらなんでも話が急すぎる。実行した後のことは考えていなかったのでアシストしてくれることは嬉しいが、よりにもよって自力で潜伏を続けろというのは過酷すぎやしないか。


「なあ、ちょっと流石に無茶だって。大体にしてどこへ逃げれば良いんだよ!」


「それを自分の頭で考えて決めるのも修行のうちです」


「修行って、あんた……」


「これは中川恒元の意思。中川会において、あのお方のお考えは絶対です。逆らうことは許されません。会長はあなたに期待しておられるのです。その意味が分かりますね?」


 取り付く島もないまま、俺は埠頭で車を下ろされた。後は俺一人で何とかしろという。後は事の始末も含めて恒元がすべて処理するとのことで、ほとぼりが冷めた時点で俺に迎えを寄越すという。それまでは中川会本部はおろか、東京都内に入ることも禁止。「決まりを破ればその時点で殺す」と釘を刺されてしまった。


(マジかよ……)


 さて、ここからは自力で何とかするしかない。本当にどうすれば良いのやら。俺は悩んだ。


 これが中川会による“施し”であることに変わりは無い。俺の清原殺しは本当に無謀なものだった。普通ならば警察に追われて捕まっていてもおかしくは無かったのだ。そんな俺に逃亡の機会を与えてくれたのだ。むしろ感謝すべきだろう。最初からこうなることを分かっていて、作戦のお膳立てをしたのかもしれないけれど。


「……とりあえず、遠くに行くか」


 意を決して、俺は歩き始める。この1年間で順応性はかなり高くなった。めまぐるしく変わる状況にすぐさまついていけずとも、馴染ませるのに時間は要さなくなったように感じる。きっと今回も、上手くいくだろう。


 不平不満ばかり言っていても仕方が無い。少しでも明るい未来が訪れるよう、希望を持って前に進むしかない。結局のところ、人間にはそれしかできないのだから――。


 俺が引き起こした『横浜市公聴会襲撃事件』は、言うまでも無く、世間に衝撃を与えた。


 議会に召喚した証言者が突如として現れた謎の人物に殺害されたという事実の前代未聞さは勿論のこと、犯人が黒いフードで顔を隠し終始正体不明のまま警官を圧倒してあっけなく逃走に成功した点、おまけにその模様が全てテレビ中継されていた点もまた、社会全体を震撼させた。日本犯罪史に残る大事件となり、その影響は測り知れなかった。


 そもそも保釈されたばかりの暴力団の元総長を議会に呼ぶという行為が異例中の異例で、何が起こるか分からない大いにハイリスクなものだったのだ。公聴会を主導した和泉義孝は、責任を取って横浜市長を辞任。神奈川県警は最高指揮官たる本部長が引責辞職し、要人警護の在り方が大いに見直される事態にまで発展したという。


 突如として現れ、清原元総長の口を殺害という形で永久に塞いだ“黒ずくめの人物”とは誰なのか――。


 連日のごとくマスメディアでは報道が過熱していた。県警は威信にかけて犯人逮捕に全力を挙げるとし、逮捕に繋がる情報には多額の賞金すら支払うとまで宣言したが、結局捜査は進展しないまま迷宮入り。


 それについては中川恒元が政府のお偉いさんを動かして介入を行ったとか、行わなかったとか。俺は詳しくは分からない。あれ? そういえば、俺があの時、市役所内に隠した拳銃入りのボストンバッグはどうなったのだっけ?それについて報じる記事は特に無かったので、たぶん発見されないままだったのだろう。しかしながら、拳銃という異様な物体が誰にも見つからないまま放置されるというのもおかしな話。まあ、今さらあのプラスチックで出来たコルト・パイソンの行く末を確かめる術は無いので、諦める他ないのだが。


 一方、村雨組は予想通り破滅を免れた。俺との戦いで組員の大半が戦闘不能に陥り、ヒットマンすら用意できない絶体絶命の状況で蜘蛛の糸のごとく清原が殺されたのだ。泣く子も黙る村雨組長も、今回ばかりはホッと胸を撫で下ろし、安堵に頬を緩ませたことだろう。


 村雨組長から教わったホウケンが、あのような形で役に立つなんて。考えてもいなかった。思えば俺は村雨組に入るものと思っていた。それが何の運命か、中川会という因縁めいた組織で裏社会を生きるさだめになってしまった。本音を言えば、村雨組で生きていきたかった。だが、もう遅い。村雨から伝授されし技をある種の餞別と思い、過去を割り切るしかないのかもしれない。


 あれから村雨組がどうなったかは、風の噂でしか耳にしていないのでよく知らない。聞けば村雨耀介は日本に帰り、すっかり元気になった絢華と主に父娘の幸せな時間を過ごしているという話だ。


 絢華は近々、イギリスに留学するという。治療に伴う米国での暮らしで外国文化の楽しさに触れ、将来は国際的に活躍できる人になりたいと父親にねだったのだろう。村雨は娘には甘いので、頼まれれば二つ返事で了承したと思うのだが。俺と別れた痛みを彼女が乗り越えてくれること、それだけを影ながら願っているとしよう。彼女と過ごした記憶は決して忘れない。これから、何があっても。絢華は絢華の幸せを掴んでほしい。


 一方、俺はといえばあちこちを転々とする日々だった。日本全国津々浦々、本当に色んな場所に隠れた。挙げ句、とある事件に巻き込まれて日本にいてはまずい理由ができてしまったため、恒元が用意した偽造旅券を用いて海外へ逃げる羽目になった。


 人という生き物はつくづく不思議で、ひと度その状況に体が慣れてしまえば当たり前のように心身に染みついてしまう。“石の上にも三年”と云うが、まさにその通りだ。予想を超えて長期間に渡った逃亡生活において、俺はそれをしじみと感じることとなった。


 辛くはなかったかって?


 ああ、もちろん辛かったとも。言葉の通じぬ異国での暮らしはかなり堪えた。おまけに警察のみならず、常に得体のしれない何かに狙われているおぞましい感覚。これを好き好んで味わいたいというもの好きはいないはず。仮にいたとしたら、とんだマゾヒストだ。言っては悪いが、俺からすれば正気を疑いかねない。


 俺に「ほとぼりが冷めたら迎えを寄越す」と言っていた中川恒元だが、事件から3年どころか4年を超えても俺を拾おうとはしなかった。


 彼の云う“修行”とやらは、こんなにも過酷なものだったとは。あの場で捕まって数年投獄されるのと、どちらがマシだったのか。


(もうすぐ二十歳ハタチになっちまうぜ……)


 かつて自分が起こした事件を振り返る日本の新聞を読みながら、ふと宙を見上げた俺。何を暗示しているのかは知らないが、どんよりとした曇り空が広がっている。


 ――カアアッ! ア゛ア゛ア゛ッ! ア゛ア゛!


 真っ黒い鳥の不気味な哭き声が、孤独な俺の頭上で響いていた。


《第8章・完》

かつての旧恩を返し、自分なりの仁義を通した涼平。これから彼が歩む人生や如何に? 血と暴力で汚れた道を征く先にあるのは、栄光か、それとも破滅か? 今後の展開を乞うご期待!


鴉の黙示録の第8章『餞別』はこれにて完結。同時に、第1シリーズ“青春篇”も終了。この物語は一旦の幕引きを迎えます。いかがでしたでしょうか? 2021年1月4日の連載開始以来、実に2年半以上、長らくお付き合いくださりありがとうございました。読者の皆様の温かい応援のおかげで、筆者としては初めてとなる長期連載に挑み、ここまで作り上げることができました。本当に感謝に堪えません。麻木涼平の物語はまだまだ続きますが、ここでひとまずお休みをいただきたく存じます。海外での“武者修行”を経て、涼平はこれからどんな極道に化けてゆくのか。第9章および第2シリーズの開始まで今少しお時間は空いてしまいますが、その行く末を皆様と一緒に見守っていけたら幸いです。


雨宮妃里

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