最後の奉仕
一体、どういうわけなのか。何をもって、村雨組への最後の奉仕とするのか。恒元の言っていることの意図が、まったく分からない。
「あの、それって……」
俺が尋ねようとした矢先のこと。恒元は懐から拳銃を取り出したのだった。
(なっ……!?)
銃口を見た瞬間、背筋が凍る感覚を覚えた。咄嵯に身を起こそうとするも、恒元の馬鹿力で押さえつけられる。そして恒元は、俺に向けて銃を構えたのであった。
(おいおい……何ちゅう力だ……)
御年57歳のジジイではなかったのか。山崎や沖野、それから笛吹といった強敵たちと組み合った時よりもはるかに強い握力だ。やはりこの男、只者ではない。単なるフランスかぶれのホモ親分と見くびっていた人物評を改めねば。
「い、いきなり何しやがる……!」
「涼平。話を始める前に、お前にひとつ尋ねよう」
「何だよ!」
「君は中川会のために尽くす覚悟があるのか? 今さら村雨組に戻りたいなどとは間違っても口にしないだろうね? 返答次第によっては今この場で引き金をひくことになるが?」
驚いた。よもや恒元にはここまでお見通しだったとは。この男に、嘘はつけない。それを改めて痛感させられる。きっと俺はこれからも中川恒元の掌の上を転がされるのだろう。それが中川会の敷居をまたいでしまった俺の運命だ。しかし、後悔は無い。村雨耀介のためを考えた決断だったのだから。
「……」
死に物狂いで感情を割り切り、俺は恒元に返事をした。
「……骨をうずめる覚悟だよ。甘く見てもらっちゃ困るぜ。生半可な気持ちで中川会に来たわけじゃねぇんだ」
「ほう。では、これからは村雨耀介ではなく、この中川恒元のためにこそ命を捧げると。二言は無いな、涼平?」
「当たり前だ! 信じられねぇなら、この場で俺を殺すが良いさ! 撃つなり刺すなり好きにしやがれ!」
俺は堂々と啖呵を切った。すると恒元は笑みを浮かべながら俺の頬に手を伸ばしてくる。そして、憎たらしい声色で「ならばこうしても問題は無いな?」と宣うと、そのまま顔を引き寄せて唇を重ねてきた。
(くそっ……! なんで、こんなことに……!)
俺は心の中で叫んだ。しかし、いくら嘆いても事態は何も変わらない。ここは中川恒元の寝室なのだ。ベッドの上では、恒元が俺を抱きしめたまま放そうとしない。
(ああ……嫌だ……!)
俺は嫌悪感を押し殺しながら、恒元とのキスを受け入れ続けた。やがて恒元は、舌を入れてくる。
(うぅっ……)
俺はビクッと反応しながらも全力で我慢した。そこからもおおよそ数分ほど行為が続いたが、身体中のありとあらゆる神経を使って全力で耐えた。これで少しは恒元も分かってくれただろう。あなたへの忠義に一応は偽り無いと。そうでもなくば、まんまと肛門を許したりはしないというものを。
「では、気を取り直して本題に入るが……」
少し息をついた後、恒元は言った。
「今回、君がすべきことは他でもない。元斯波一家総長の清原武彦。奴の抹殺だ」
「……斯波一家の清原? こないだまで煌王会で伊豆を仕切っていた奴か?」
「そうだ。クーデターのかどで煌王会を絶縁になり、君の古巣の村雨組をシマを奪われた。それ以来、行方をくらましていたのだがな。つい先週、横須賀の路上で逮捕された」
清原は煌王会の元貸元であり、中川にとっては何ら関係は無い。それゆえ特に気にせず静観していた恒元だったが、とある情報源からもたらされた仮説を知って驚愕したという。
「どうやら横浜市長の和泉義孝が、年明けに開かれる市議会の公聴会で奴に証言をさせるようなのだ」
地方議会における公聴会とは、神奈川県知事や政令指定都市市長などが、施策や行政などについて市民の意見を聞くための場のことである。その公聴会で清原は「伊橋前市長と反社会的勢力の関わり」について発言するのだという。
そういえば、先ほどニュースでそんな話題が出ていたような。あの件における匿名の証人とは、まさか清原元総長のことだったのか。大いに意外であった。
和泉市長が清原に証言をさせる理由は、もはや明確。公権力を用いて村雨組を潰すべく、かつては上部組織の長だった清原の口から村雨の不利となる情報を公の場で引き出すこと。それを目論んでいるのだ。
「かつての弟分にシマを奪われたことを清原は深く恨んでいるはずだからな。奴が神奈川に入った理由も、村雨の屋敷に爆弾を投げ込んで復讐するためだったらしい。和泉の提案には喜んで乗ったことだろう」
「けっ。組長本人はアメリカにいるってのに……んで? 俺はその清原武彦って奴を殺せば良いんだな?」
「そういうことだ。頼めるかね」
清原は数ヵ月前まで、村雨組の上部組織たる斯波一家の総長をしていた。ゆえに村雨耀介が当時の横浜市長、伊橋進らと非合法な癒着関係にあった事実を知っていて、何らかの弱みも握っているかもしれない。奴が議会で証言を行う前に、殺害という形で口を塞ぐ。
理屈としては納得できる。それこそが俺に与えられた最後のチャンス、世話になった村雨耀介と村雨組に対して“恩返し”を行う唯一無二の機会だとすれば、引き受けない手はない。俺はすぐさま快諾した。
「ああ、いいぜ。やらせてくれ」
俺が言うと、恒元は嬉しそうな顔をした。
「助かる。君ならやってくれると信じていた。さすがは私の見込んだ男だよ」
「期待に応えられるよう努力するぜ。ありがとよ。でも、清原を殺してあんたに何かメリットはあるのか? 村雨組や煌王会は助かっても、中川会に実入りは無いような……?」
「利益はあるとも。これは我々と和泉の関係性の問題でもあるのだから」
「どういうことだ?」
そもそも和泉市長を水面下でバックアップしていたのは中川会のはず。支援者なのであれば、彼のやろうとすること邪魔するのは得策ではなかろうに。理解が追い付かず、聞き返した俺に、恒元は言った。
「今回和泉が進めようとしている改革案には、ごく一部、我輩の了解を得ていない部分がある。奴は先月の市長選の折、政策決定に関しては中川会に事前に意見を伺うと約束したにもかかわらずだ。取り決めをこうも容易く反故にされたのでは、こちらとしても何らかのアクションに出なければならない」
「なるほどな……つまり、その和泉って野郎に警告する目的もあるけか。『中川会に逆らうな』と」
「そうだ。自らが主導した公聴会の場で証人が殺されれば、市長としての権威が大きく揺らぐと同時に、和泉は恐怖するはずだ。我輩を甘く見たことを心から悔いるほどにな」
それならば、中川会にとっても清原殺しを膳立てするメリットがあったというもの。俺は恒元の話を聞きながら思った。やはり、何のメリットも無しに動く男ではないのであろう。
中川会にとって和泉義孝は都合の良い傀儡にすぎない。和泉が政治家としてのキャリアをスタートさせるには暴力団のバックアップが必要不可欠であり、その力を借りねば票を集めることはできなかった。口では反社会的勢力の排除を掲げておきながら、実際には自らも反社の世話になっている言行不一致。そんなダブルスタンダードを平気でやってのける薄汚い政治家には、ちょうど良いクスリとなるかもしれない。清原の殺害は村雨組と中川会、双方ともに喜ばしい結果をもたらすだろう。ここまで分かったら、最早やるしかなかった。
「それで、具体的にどうしたら良いんだ?」
「清原武彦について、現在は県警の横須賀署の留置場で勾留されている。おそらく公聴会の日に横須賀署から横浜市議会へ護送されるのだろう。横須賀で護送車に乗るか、あるいは横浜に着いて護送車から降りたタイミングを狙うか、その二通りを軸に計画を練るべきだろう」
恒元の助言に従い、俺はさっそく計画の立案に入る。平野経由で現地の地図を用意し、普段は護送車が如何なるルートを辿るのか、施設内から囚人を連行する際の手順など、あらゆるデータを参考にして考えに耽った。
しかし、上手くはいかなかった。まったくと言って良いほど、隙という隙が無かったのである。
清原を暗殺するにはあまりにリスクが高い。
本来ならば護送車が市議会へ行くことなどな有り得ないため、今回はいつにも増して厳戒な警備の体制が敷かれている。
証言の当日、清原を乗せた護送車は横須賀にある留置施設を出て、神奈川県の県庁所在地である横浜市へと向かう。道中、横浜地検の支部に立ち寄って保釈の書類を受け取り、そこから再び車での移動となる。
清原を殺せるとしたら、その際の車から降りたタイミングであろう。しかしながら、車の外に出る際の清原は大きな鉄の盾で囲まれて歩くそうなので、近づけないどころか銃火器による狙撃は困難を極める。また、当日はおびただしい数の警官が現場で警戒にあたるとのことで、こちらも簡単に近づけない。
他に考えられるのは、護送車を運転する運転手を殺害しての車両乗っ取り。
だが、これも難しそうである。
何故なら護送車には防弾ガラスが使用されており、外からの銃撃はほぼ不可能だからだ。あとは爆弾を使っての作戦が頭に浮かんだが、車に爆弾を仕掛ける術が無いので撤回せざるを得なかった。
俺は悩みに悩んだ末、恒元に相談することにした。またしても彼の寝床へ呼ばれる日がまわってきたのだ。何の皮肉か、とても短いスパンで。
「……まあ、そう簡単にはいかんだろうな。成功すればこの国の犯罪史上最大の暗殺事件となろう」
俺はベッドの上であぐらをかき、恒元の話を黙って聞いていた。恒元はいつものようにパイプタバコを吹かしている。「君もどうだね」と勧められたが、同じものを吸いたくはなかったので断った。
「かくなる上は市議会の議事堂での決行だ。あそこならば大きな盾に囲まれることも無いだろう。証言を行う清原の姿を傍聴席の市民に見せつけるのが主旨のひとつだからな」
「じゃあ、その傍聴席ってところからそいつに向かって銃をぶっ放せば良いのか?」
「ああ。ただし、傍聴席へ続く入口ではボディーチェックが行われるはずだ。そこをすり抜けるために工夫をせねばなるまい」
金属探知機に引っ掛からぬよう、拳銃はプラスチック製のものを使用すること。さらには、衣服に隠す形で所持すること。
ボディチェックの対策として、恒元に教えられたのはそれくらいだった。
「後は君のセンスに任せよう」
何とも投げやりな助言であったが、とりあえずは動き始める俺。
(どうすれば良いんだ……?)
まずは武器を揃える。平野経由で闇商人とコンタクトを取り、金属探知機には引っ掛からないという拳銃を入手する。
「……これはプラスチック製のリボルバー。弾丸は計6発入っているが連射はしないことだ。熱くなったら銃身が変形してしまう」
「ああ。分かったよ」
平野に礼を言って、俺はアタッシュケースを受け取る。射撃の腕に絶対の自信があるわけではないが、6発装填されているなら事を成すのは容易かろう。そのうち1発がこめかみや眉間などの急所に当たれば良いのだから。
その他、作戦に必要な物品も全て恒元が手配してくれた。俺はそれらを用意した後、いよいよ清原武彦を殺すための準備を進めていくことになる。
清原を確実に仕留めるべく、俺は本人の顔写真を何度も繰り返し目に焼き付けた。
写真の中の男は、センター分けの黒髪に眼鏡をかけており、口元には立派な髭を蓄えている。年齢は50代後半といったところだろうか。いかにも権威主義的な見た目をしており、銭ゲバのヤクザの親分という形容詞がぴったり似合いそうな容貌だ。
その顔を見た瞬間、ひと目で思った。
ああ。村雨組長がこいつを嫌うのも無理はないなと。
見るからに、私欲のために他者を平気で売り飛ばしそうな雰囲気を醸し出している。そいつとは直接的に面識があるわけではない。ただ、感覚でそのように思っただけだ。
組織改革に伴う時代の波についていけず、坊門のクーデターに巻き込まれた挙げ句、捨て駒として切り捨てられた哀れな男。
少しばかり同情する気持もあったが、敵であることに代わりはない。俺は清原を殺すと改めて決意した。村雨組への恩返しと、罪滅ぼしのために。
清原の顔写真を眺めながら、奴が横浜までどうやって護送されるのか、その一点についてしばらく考えを巡らせていた。清原が乗った護送車は市警本部から横浜地検支部を経由して横浜市議会へ向かう。
清原の身柄は神奈川県警の横須賀署から横浜市議会へ護送されるの
清原の顔写真を眺めながら、奴をどのタイミングで射殺すれば良いものか、その一点についてしばらく考えを巡らせていた。無論、議会で証言をさせてはならない。奴の口から“”村雨組”の3文字が飛び出す前に勝負を決するのだ。
横浜市議会の議事堂見取り図も入手したが、果たしてどこから狙撃を行えば良いのやら、平野曰く俺が受け取ったコルト・パイソンは非金属製とはいえども距離は申し分なく、きちんと狙えば当たるのだとお墨付きをもらっている。
しかし、確実に殺す必要がある。「弾丸が致命傷には至りませんでした」という顛末になっては困る。ゆえにできれば急所を狙いたいものである。如何にすれば、急所を狙えるものか。
俺は議事堂の見取り図をジッと眺めた。
一般人が入れるのは2階の傍聴席。そこから1階の演壇を狙って発砲すれば良いのだが、果たして俺の射撃は当たるのだろうか。どうにも不安だった。
(試し撃ちでもしておくか……)
煮詰まった末に、俺は恒元に頼んで中川会所有の射撃練習場に案内してもらうことにした。到着するなり、さっそく拳銃を手に取ってみる。
「本番と同じコルトパイソン、357マグナム、2インチだ。無論、素材も同じである。使い方は分かるかね?」
「ああ。本で読んだ。大丈夫だ」
俺は練習用の的に向けて拳銃を構えた。
以前、とある漫画の登場人物がやっていた撃ち方を模倣してみる。まずは片手で構えた。銃口の向きは人差し指と中指を伸ばした状態で固定して照準を合わせるようだ。
「左手を添えると安定するぞ」
恒元の助言を受けて、俺は言われた通り左手を添えてみる。すると、先ほどよりも身体の重心を安定させることができた。恒元のアドバイスはなかなか役に立つ。ヤクザなら誰しも銃器の扱いには慣れていようが、恒元の場合はどうにも実践的というか、非常に分かりやすかった。
「そう。それで良い。後は引き金を引くだけ。撃鉄が落ちるまでな」
「ああ」
俺は目を閉じて集中力を高めた。そして、引き金をひく。
――ズガァァァァン!
弾丸は標的の中心部分を射抜いた。
「ほう、これは驚いた。まさか一発で命中させるとは。やはり君には武人としての素養があるようだね」
「そうかな? よく分かんねぇけど」
「我輩のアドバイスのおかげでもあるな。君には引き金をひく際の躊躇いというものが一切無い。これは実に素晴らしいことだ。戦場では躊躇った人間から命を落とす。これから銃を握ることも多かろうが、決して忘れてくれるなよ」
とても生々しい助言だと思った。まるで彼自身が何度もドンパチの場に出ているような。鉄火場における生の空気感を知っていなければ出てこない言葉ともいえよう。
「とりあえず覚えておくぜ。あんたも経験あるのか?」
「まあね。それについては後々に語るとしよう」
「うっ……」
俺の口を塞ぐように、恒元はそこでも無理やりキスをしてきた。
(またかよ……)
かなりげんなりとする。何せ、この日だけでもう4回目だったのだ。恒元は以降もしばらく俺のことを肉体的に愛撫し、食べ物をむさぼるがごとく欲望を俺にぶつけて来た。実に気持ち悪い。あまりにも不快すぎる。けれど、拒絶するわけにもいかず。
「……」
「さて。今日はこのくらいにしておこう。クリスマスだからね。あまり欲に忠実になり過ぎるのも無粋だろう。今宵は我輩は妻と過ごすから、君は自由にすると良い。それではな」
車で中川会の総本部まで戻ってくると、恒元はそのまま本宅へ帰ってしまった。汚された唇を必死で拭いながら、俺はふと暦を確認する。1998年12月24日。
ああ。すっかり忘れていた。今日は世間的にいえばクリスマスだったな。
そう思うと、途端に気分が落ち込んでくる。
聖夜を幸せに過ごしたことなど、俺にはあったのだろうか。せいぜい8歳かそのくらいまでで、それから先は決まっていつも寂しくケーキを食べていた気がする。その度にサンタからプレゼントを貰えたら良かったのにと、そんな子供じみた願望を抱いたこともあった。グレてからは微塵も思わなくなったけれど。
(はあ……本当なら絢華と……)
今も村雨組に留まっていたのなら、きっと叶っていたであろう願い。考えたところで不毛なのは分かっている。それでも冬の寒さとこみ上げる切なさが心を青白く染めてゆくのである。
俺は慌てて首を横に振って邪念を振り払った。いけない。今は清原を仕留めることに集中しなくては。
結局、目の前の仕事のことを考えて寂寥感を誤魔化した。辛くなかったかと問われれば、素直に頷かざるを得ない。クリスマスの夜は本当にしんどかった。
ちょうど外を出歩いているであろうカップルたち、温かい空間の中で鍋を囲んで七面鳥を食べている家族など、世間一般のカタギ連中の暮らしぶりがどうしても脳裏で華やかに感じられてしまうからだ。
ヤクザになるということは、そういった普通の幸せが手に入らなくなることも請け合いなのに。今さら俺は何を煩悩に苛まれているのだろう。俺の未熟さが腹立たしかった。
平野からは「今日くらいは街に出てみたらどうだ」と誘われたが、適当な理由を付けて固辞した。歌舞伎町や渋谷、そしてお膝元の赤坂など、東京の繁華街への興味は確かにある。それでも現地に行ってしまえば虚しくなりそうだったので止めておいたのだ。
しかし、清原を始末した後はその虚しさからも解放されるのだ。村雨組への借りを返し、完全に決別して過去を吹っ切れる。世話になった人への恩義や、恋仲にあった女への未練がましい愛情をさっぱり忘れられるだろう。
(……あと少しの辛抱だ)
決行までの日が、とても長く感じられた。単なる比喩表現以上に、そこに至るまでの俺はまさに辛抱に辛抱を重ねることを余儀なくされた。歳末だけあって下っ端ヤクザとしてのお役目も多忙を極め、また人手が足りていないせいもあって、与えられた仕事をこなすことで精一杯だったのもある。
勿論、他にも大変なことはあった。廊下で出くわした本庄に「よう! 古巣を裏切ってノコノコ生き延びよった気持ちはどうや?」などと言われたり、俺の身体を気に入った恒元に相も変わらず夜な夜な関係を求められたり、と尋常ならぬ苦労があった。おそらく、それまで生きてきた中で最もしんどい期間で会ったと思う。
「会長、あんたも飽きねぇな。今日は大晦日だぞ」
「いいではないか。減るものでもないのだし」
「そういう問題じゃねえんだよ。少しは休ませてくれってんだ。俺の身体が持たねぇよ」
「情けない事を言うな。もしかすれば、最後となるかもしれないのだから……」
なるほど。俺が任務に失敗し、何らかの形で生きて戻れなくなる顛末を心配しているのか。俺の身を案じてくれるのは有り難いが、肉体に執着されていると考えると複雑で、嫌悪感すらこみ上げてくる。
されども俺はもう中川会の人間。そこの会長は中川恒元であり、彼こそが自分の主君であるのだから。拒絶する事など許されない。
「分かったよ。あんたは意外と心配性なんだな」
「我輩は君のことを気に入っている。だから失いたくないのだよ」
「へいへい。ありがたいこった」
この男は俺を好いているというより、単に欲望のぶつけ先を求めているだけのようだ。何せ、これまで俺個人に対して肯定する評価を一度も口にしていないのである。技量は褒めても人間性は褒めない。専ら同じような言葉を寄越すだけ。いつも変わらない。もしかしたら村雨耀介と同じく、麻木光寿の幻影を重ねているだけなのではないか。
(まだ俺は俺として見られてないってわけか……)
認めてもらうためには力を示す必要があるだろ。何としても清原暗殺を成功させなくては―――。
そんなこんなで我慢と不本意の日々を続けること、およそ2週間。ついにその日がやって来た。
1999年1月15日。
前々日に定例会が開会を迎えたばかりの横浜市議会で公聴会が開かれた。和泉市長が保釈されたばかりの清原を証人として召喚し、伊橋前市長との癒着について証言させようとしている。
俺はそこに乱入し、多くの傍観者がいる前で清原を殺す。
それだけの話なのだが、難儀な点がいくつかある。いざ勇んで現場へ足を運んでみると、思わぬ計算違いもあった。
(おいおい……マジかよ……)
午後2時43分。見物にやってきた市民の人混みに紛れて市役所内に入った俺は、思わず目を疑った。
入り口付近では事前の想定通りに傍聴希望者のボディーチェックを行っていたのだが、金属探知機をかけるに飽き足らず、なんと警護担当者による手荷物検査まで行われていたのである。
検査の目的はただひとつ。拳銃や日本刀といった物騒なものを携えてくる輩が居ないか、厳戒態勢を敷いているのだ。あちらもあちらで襲撃が来ることは想定済みというわけか。
「ああ、これでこんなに行列ができてるのか。面倒だねぇ」
「まったくですよ。僕らは新聞記者。武器なんて持っていないというのに」
「和泉市長もナーバスになってるのさ」
継い直前まで拘留中だった暴力団組長が議会の場に出てくるという、地方政治始まって以来の異例事態。ジャーナリストらしき男たちがそんなことを話していた。
聞けば、今回の公聴会の成功の是非で和泉市長の今後が決まるらしい。暴力団の撲滅を訴えるあの御仁にとってはまたとない機会、プロパガンダのパフォーマンスとしては絶好の場なのだ。何か重大事件が起こって良いわけが無い。
「うーん。参ったね。まさかここまで警戒されるとは」
「……何か考えはあるんですか?」
「いや、無い。まぁ何とかなるさ。それより、こういう時は堂々と構えていた方がいい。変にキョロキョロしたり挙動不審になったりすると怪しまれるからね」
「ですよねぇ」
話し込む記者たちを尻目に、俺はこれからすべきことを考える。さて。如何にして手荷物検査を切り抜けるか。
恒元に貰ったプラスチック拳銃は偽装細工を施してボストンバッグの中に入れているのだが、この警戒具合では間違いなく見つかってしまうであろう。
見つかったら即逮捕。銃刀法違反で刑務所行きだ。発砲時に生じる大混乱に乗じて現場から逃げおおせるのが俺のプラン。だからこそあまり目立たぬ黒っぽいフード付きの服を着込んできたというのに。捕まってしまっては元も子も無い。
けれど、銃が持ち込めない以上は他のやり方を考えねばなるまい。どうにかして俺以外の人間に銃を議場内に持ち込ませ、それを後から回収して実行に及ぶとか。
(……駄目だ。そんな時間は無い。現実的じゃねぇな)
俺は腕時計を見た。時刻は午後2時50分。あと10分で公聴会が始まる。
(どうするか……)
今さら計画を中止することなどできない。それは、これまでの2週間を棒に振ることだけは御免だ。恒元は許しはしないだろうし、何より俺のプライドが認める所ではないのだから。
焦りと不安が襲いかかってくる。俺は悩みに悩んで大きく息を吐き捨てた。すると、ふと記憶の片隅にある知識が脳裏をよぎった。
それはかつて村雨組長から教えてもらった知識。拳銃や刃物といった武器の類を使わず、素手のみで相手の命を絶つほどの威力を備えた殺人技。
――崩拳。
一応、俺も繰り出し方自体は組長から習っている。技の使用者によっては弾丸をも超える破壊力を生み出せるという話だった。俺の技量ではまだそこには至っていないが、それでも常人の域を超えた攻撃力を有していることに変わりはない。事実、崩拳で敵を打ち倒したことがある。今回も心臓辺りにぶち当てれば一発で事足りるだろう。
そう。素手で繰り出せる崩拳なら、金属探知機云々で止められることは無い。
俺は覚悟を決めた。拳銃を使わず、素手のみでターゲットを始末する。市議会議事堂の構造は把握済みだ。傍聴席から1階までの高さは3メートルくらい。飛び降りられぬ高度ではない。
(傍聴席から飛び出して、突っ走れば良いか)
上手くいく保証など何処にも有りはしない。
議場における清原と護衛官たちの間には距離がある。それでも相手は訓練に訓練を重ねた要人警護のプロフェッショナルだ。途中で取り押さえられてしまうかもしれないし、成功したとて、その場で捕縛される可能性は高い。いや、むしろ確実に捕まるといって良かろう。
しかし、俺には他に方法が思いつかない。何より、清原を殺して口を永遠に塞げば村雨耀介は救われるのだ。その逆に清原殺害に失敗してしまえば、村雨は破滅。絢華も居場所を奪われてしまうし、俺も恩を返す最後の機会を逃すことになる。
(細かいことは後で考えよう。今は、ただ……)
全身に力を溜めて意を決し、拳銃の入ったバッグを適当な所に隠す。もはや後戻りは出来ない。
それでも、俺は臆さず。
傍聴席へと繋がる群衆の中に身を投じてゆく――。
窮地に立たされた恩人のために、出来ることは何か。たとえ我が身が滅びる結果になろうとも、涼平の決意は固かった……。
激闘と悲哀の第8章、次回ついに完結。