俺を睨んだ村雨組長は、どこか満足げだった。
村雨組での生活が始まって、ちょうど1週間後。1998年5月28日。部屋のベッドで寝ていた俺は、無機質な動作音によって起こされた。
――ピピッ、ピピッ、ピピッ!
枕元に置かれたトランシーバーが、鳴ったらしい。眠い目をこすりながら、俺は応答のスイッチを押した。
「はい?」
「早く来て」
かつて、少年鑑別所で過ごした経験のおかげだろうか。早起きが苦手ではなかった。それゆえ、早朝からの呼び出しにも応えられるのである。昨日の夜、秋元からは連絡用のトランシーバーを受け取っていた。
病院で言うところのナースコールのような物で、主に絢華が用を聞かせたい時、それで目下の者を呼び出すとのことだ。
「了解。すぐ行く」
着替えて、顔を洗った俺は鏡を見る。
剃り上げた眉毛に、マッキンキンに染めた金髪。とんでもない威圧感がつきまとう風貌であるが、ヤクザの家で働くのだから、むしろこれくらいの方が良いかもしれない。そんな事を考えながら身支度を整え、俺は絢華の部屋を訪ねる。
ノックをして入室すると、彼女は既にベッドで上体を起こしつつあった。
「遅い」
「はあ。これでも、早く来た方なんだけどな」
「1分以内。そう秋元に教わらなかった?」
ここに来るまでの間、俺は秋元からみっちり召し使いとしてのイロハを仕込まれていた。
下半身が不自由な絢華の介護は勿論、掃除の作法、洗濯の仕方、そして基本的な料理に至るまで、1つ1つを習得していく。料理に関しては、村雨邸に専属のコックがいるそうなので不要ではないかとも思った。
しかし、知識は武器。習っておいて損なことは何ひとつ無い。それまで家事は全て母親や妹に丸投げしていたために戸惑う事も多かったが、秋元の丁寧な教え方もあってか、殆どそつなくこなせるようになった。
「歯を磨きたい。洗面所へ連れてって」
そう言われ、絢華の体を持ち上げて車椅子に乗せる。
「今さらだけどさ。お前、ちょっと痩せすぎじゃね? ちゃんと飯、食ってるか?」
「いちおうは。少食だけど」
「もうちょい肉付きがあった方が女は魅力的だぜ」
「余計なお世話」
明らかに適当な返事だった。7日間で少しは心を開いてくれたものだと思っていたが、全然そんな事はないようだ。
(まあ、もう少しかかるか……)
そうしていると、秋元がやって来た。ベッドメイクは彼女の仕事なのだ。シーツの伸ばし方から布団の畳み方、そして枕や周りの物の位置の整え方まで、すべての動作がテキパキとしている。
家事初心者の俺が足元にも及ばぬのは、言うまでもない。だが、これは「婿でもない男に寝具を触られたくない」という絢華のこだわりにも似た要望から来ている。俺が任されることは今後も無いだろう。
やがて、ひと通り片づけた秋元は絢華に問うた。
「お嬢様。朝食のご用意ができておりますが、いかがなさいますか?」
「ここに持ってきて」
「かしこまりました」
俺には1つ、気になる事があった。
「なあ、ずっと思ってたんだけどさ。どうして、いっつも部屋で食うんだ?」
「あなたには関係の無いことよ。ほら、さっさと行きなさい!!」
かなり強めに叱責を浴びせられ、俺たちは部屋を後にする。歩いている途中、秋元がこんな事を言い出した。
「お嬢様と組長は、とても仲が悪いのです……と言っても、お嬢様が一方的に嫌っているだけなのですが」
大きなため息を挟むと、俺の反応を待たずに彼女は言葉を続ける。
「組長はお嬢様のために色々な人間を招いたり、お部屋で退屈されないように何でも買い与えたり、どうにか近づこうと努力されておられるのです。でも、どうにも上手くいかなくて……」
秋元曰く、村雨は娘の傲慢ぶりを咎めもしなければ叱ることもしないそうだ。それどころか時に思わぬ無理難題が飛び出す娘の要求に出来る限り応えようと、全力を尽くして奔走しているのだという。これは少し、意外だった。
「へぇー。天下の残虐魔王も娘の前では非力ってわけか」
「からかわないで。真剣に話しているのですから。あと、口の利き方!」
俺は苦笑いする。
「ふふっ、悪い悪い」
「はあ。何度言ったら分かるのやら。もう、あなたに敬語は無理みたいですね」
ここへ来て秋元から口調を注意されるのは、今回を含めて既に10回を超えている。最初の方こそ思いっきり怒鳴られたりもしたが、次第に言い方には諦めの色が見て取れるようになった。
「……話を戻しますけど、とにかくお嬢様は組長と上手くいっていないのです。だから、食事も別々にとられる」
「でもよ。そんなの正面から話してみればいいじゃねぇか。親父さんの方から『たまには一緒に飯を食おう』なんつって」
「お嬢様があんな身体になって、組長も心を痛めておられるのです。それに組長は『あの出来事の責任の一端は自分にある』と仰られてます。自分が始めた抗争に、娘を巻き込んでしまったと。そういう事情を考えると、私はどうしてもおふたりの関係に口を挟む気にはなれないのですよ」
身体障害の有無にかかわらず、年頃の娘との距離感や接し方に悩むのは父親の宿命。少し前に民放のホームドラマで目の当たりにした光景のままだ。そこはヤクザもカタギも古今東西、共通しているようだ。
一方で、俺には思う所もあった。
「絢華は組長のこと、ほんとはそんなに嫌ってねぇんじゃないかな」
「どうしてそう思うのです?」
「あいつが親父さんのことを悪く言うのを見たことがねぇんだ。それに、初めてここへ来た日。絢華は俺に『お父様を悪く言うのは許さない!』って、キレたじゃん。本当に嫌ってるなら、そんな台詞は出ねぇと思うんだよ」
こちらの指摘に、共感する部分があったのか。秋元は大きく頷いた。
「……ああ。言われてみれば、確かにそうかもしれませんね」
「だろ?」
「ちょっと私も考えてみることにします。ありがとうございますね。それでは、朝ご飯にしましょうか。お嬢様には私がお持ちしますから、あなたも適当に済ませてください」
そう言うと、秋元は何処かへ行ってしまった。
さて、俺は朝食。適当にと言われたが、それはいかなる意味なのだろう。いつも食事は、キッチンにて用意された料理の残りから皿にとって、腹に詰め込むだけ。作法も何も、あったものではない。おまけに村雨邸で毎回出される朝食は、一般的な家庭のそれよりどこか変わっている印象を受けていた。
ピータンを散らした粥や砂糖のまったくかかっていない細長い揚げパンなどが主食で、汁物は鍋に鶏肉がゴロゴロ入った味の濃いスープばかり。味噌汁は殆ど登場しない。
そして飲み物は何故か、豆乳。これには組長の食生活における好みが反映されているのかもしれないが、どうにも珍しいと言わざるを得ない。ましてや朝から揚げパンを食する習慣など無い俺にとっては、とても受け入れ難かった、
「はあ……どうせ、今日も粥だろうな」
独り言を呟きながら台所へ向かうと、初老の料理長が俺を見て言った。
「ああ、君。組長がお呼びだよ」
「俺を?」
「うん。何でも、朝食を共にしたいそうだ」
村雨が俺を呼んでいる――。
どうも嫌な予感のする話であるが、無下に断るわけにもいかない。俺は駆け足で、母屋のダイニングルームへと向かった。
「遅かったな。何をしていた?」
食堂を占有する長いテーブルの中央に、どっかりと鎮座した村雨。威圧的な目元は相変わらず。1週間が経っても、未だ慣れやしない。
「秋元さんと喋ってた」
「何を話した?」
「お嬢さんのことを」
村雨の質問は細かいと言うよりは、しつこい。
舎弟頭の芹沢からは「組長を相手に下手な誤魔化しは通じない」と釘を刺されていたので一応正直に答えてやるのだが、胸が締め付けられそうな気持ちになる。少しでもおかしな事を言おうものなら、その瞬間に殺されてしまいそうな雰囲気があるのだ。
(はあ。早く飯を食わせてくれよ……)
緊張が隠しきれない俺だったが、村雨は思ったよりも会話を落ち着けた。
「なるほど。あれはつくづく、気の強い子だからな。手のかかる事もあるだろうが、根気強く面倒を見てやってくれ」
「あ、ああ」
「よし。それでは朝飯としよう」
村雨は俺に座るように促す。見れば、こちら側の席に膳がワンセット用意されている。主食は例によってピータンの粥なのだが、メイン・ディッシュが焼き魚だ。何の魚かは分からないが、少しはまともなのが出てきた。されど、美味そうではない。
(仕方ねぇ。食うか)
箸を手に取った組長に続き、俺も黙々と食べ始めた。昼や晩ではごく一般的な和食・洋食が献立に並ぶのだが、どういうわけか朝だけは和洋のどちらとも言えぬ独特なメニュー。当然、俺の口には合わないのだが、ここで暮らす以上は慣れるしかないだろう。
ちなみにこれを作った料理長は昔、中国で修業をしていた経験があるとか。帰国後は銀座の有名店で働いていたものの、トラブルに巻き込まれたところを村雨が手を差し伸べ、そのまま組で働くようになったと秋元から聞かされた。
要は俺と同じ、外部からのスカウトである。やって来た事情は違えど同じ環境で働く仲間として、俺は素直に組長のリクエストに付き合わされるコックに心の中で労いの辞を贈った。
その後、半分ほど食べ終えたところで村雨が声をかけてくる。
「1週間を過ごしてみて、どうだ?」
俺は口をナプキンで拭いてから、膝に手を置いてへそを彼に向ける。
「慣れない事ばっかりだけど、まあ、ボチボチやってるよ。まさか自分が、こんなデカい家で暮らすことになるとは思ってもいなかったから」
「さようか。絢華とは打ち解けたか?」
「いや、まだだけど……まあ、そのうち」
まさか、このような事を訊かれるとは思っていなかった。それゆえ少し、たどたどしい答え方になってしまった。すると、これに不満を覚えたのか。村雨はひどく真剣で威厳のある面持ちになって、俺に言った。
「涼平。お前は、どうして自分がここで働くことになったのか。分かっていないようだな」
その一言で、場の雰囲気は一気に重くなる。
当時の俺は、ヤクザの事情にさほど詳しくなかった。村雨耀介という男の存在も、ただ「怖い親分」くらいにしか理解していなかった。そんな無知な俺にも伝わってくる、射抜くような眼差しの迫力。
おそらく今まで、幾度となく修羅場を潜ってきたのだろう。そのような人間には、大きな風格という物が自然と備わるものだ。
(ここで負けるわけには……)
しかし不思議なことに、そんな感情になった。目の前にいるのは泣く子も黙る、村雨組長なのである。普通に考えれば“張り合う”という選択肢は生まれないはずなのだが、この時の俺は違った。
気づいた時には、反論の言葉を浴びせていたのだ。
「だったら、何だってんだ。逆に言わせてもらうけどさ、あんたこそ自分の娘の悩みが何から何まで分かってんのかよ」
「何だと?」
こちらを睨む村雨の眉間に、グッとしわが寄った。だが、俺は続ける。
「あんた、自分が娘に嫌われてるって思ってるようだけど。残念ながらそれは違うぜ? あいつは本心じゃ、誰よりも親父さんが大好きなんだ。逆に言えば、あいつの中にはあんたしかいない。だから、他の連中には頑なに心を開かねぇ。違うか?」
「……考えたことも無かった」
「もうちょっと真剣に向き合ってやるべきなんじゃねぇの? 俺みてぇな新参の召し使いが1週間で気づくことに、今の今まで気づかなかったとか……何やってんだよ。あんた、それでも父親かよ!」
ついつい感情的になり、語気が強まってしまった。いま振り返ってみれば、ずいぶんと命知らずが過ぎる言動である。しかし、特に言い過ぎたとは思わない。むしろ、言い足りないとさえ思った。
「おい、ガキ! 言葉が過ぎるぞ!」
「テメェ、どの口でモノ言ってやがる? 組長に向かって!」
近くにいた護衛の若衆たちは一斉に俺へ詰め寄った。この屋敷における俺の立場は一使用人でしかないのだから、あくまで当然の流れである。しかし、村雨の反応は違った。
「言わせてやれ」
すっかり図に乗った言動を戒められると思っていたので、拍子抜けする。猛烈な怒りを買うことすら覚悟の上だっただけに、意表を突いた穏やかな反応は対処に困ってしまう。
勿論、戸惑うのは取り巻きの連中も同じであった。
「ですが、組長。こいつは……」
「構わぬ! 聞きたかった言葉である。それでこそ、この者を拾い上げた甲斐があったというものだ。お前たちは控えておれ」
「し、失礼いたしました」
幼くして父親を亡くした俺にとって、父親がどれだけ大切な存在なのかは痛いほどに分かる。また、つい2か月前に俺を勘当した母親の顔も脳裏に浮かんだ。成長する過程において見るべき親の背中が無い、きちんと向き合ってもらえない虚しさは、誰よりも知っている自負があった。
「フッ……そうか。それでこそ、お前を迎え入れた甲斐があったというものだな」
村雨は言い返すわけでもなく、どちらかと言えば満足したような表情をしていた。いきり立つ若衆たちを下がらせた彼に、俺は真意を問うてみる。
「どういうことだ?」
「いや、何でもない。とにかく、お前の仕事は絢華の世話だ。しっかりと励むように」
そう答えを返す頃には、いつもの険しい目つきに戻っていた村雨。箸が食器にぶつかる音と咀嚼の音だけが聞こえている中で、時間だけが静かに過ぎてゆくのだった。