さらば愛しき人よ
1998年12月11日。
俺は東京都港区赤坂の路上にいた。目の前に鎮座するフランス風の洋館をじっと見つめ、去来する様々な想いを胸の奥へそっとしまい込む。未練は無い。あれからひと晩を明かし、少しは心の微熱も下がった頃である。
(……よし。行くか)
意思を固め、俺は敷地内へと入ってゆく。そう。そこは関東最大の暴力団「中川会」の総本部であった。建物の中に入った俺を守衛の男たちがぐるりと取り囲む。
「おい、止まれ。ここを何処だと思ってやがる。中川会の……」
「ああ。知ってる。とりあえず、会長に伝えてくれや。『麻木涼平が来てやった』ってな」
「何だと?麻木だと?」
互いに顔を見合わせる男たち。“麻木”というワードを聞いた瞬間、顔色が明らかに変わった。
「……ついて来い」
そのうちの1人がどういうわけか俺の顔写真を持っており、いわゆる本人確認は即座に完了した模様。俺は組員について門をくぐる。そして無駄にただっ広い庭を通って屋敷の中へと入った。
「ふーん。改めて来てみたら、意外とお洒落な雰囲気だな」
「おい。無駄口を叩くな。お前はお客様ではないんだ」
「はいはい」
軽く注意をい促されつつも、俺は堂々とした足取りで歩き、組員の後をついてゆく。そのまま階段をつたって会長室へと向かった。
「失礼します! 会長、麻木涼平を連れてきました!」
「うん。待ってたよ。入りたまえ」
ドアを開ける前、声高らかに挨拶をする守衛係。室内には一人の老人がいた。白髪交じりの七三分けに髭、そして顔にはうっすらと白い化粧。着ているは中世ヨーロッパ様式のスーツ。相も変わらず悪趣味な装いであるが、間違いない。
この男こそが中川恒元。中川会の会長であり、東日本のヤクザ社会において事実上の頂点に君臨する男だ。
「よく来たね。さあ、こっちに来て座りなさい」
「うっす。どうも」
俺は言われるままに会長執務室のソファに腰掛ける。身の程を弁えない俺の振る舞いに護衛役の組員たちが気色ばんだが、それで特に臆することも無い。恒元は机を挟んで対面側に座った。
「それで。今日は何用かな? まぁ大体予想がつくけど」
やや嬉しそうに問うてきた恒元に、俺は一言で答えた。
「あんたに頼みがあってきた」
「ほう?」
意外だとばかりに目を丸くする恒元。その反応は当然だろう。俺の放った返事は彼が望んでいたものとは少し異なるものであっただろうから。
「……何だね? 頼みとは。我輩に出来ることであれば、何でも叶えよう」
「村雨組、それから煌王会と手打ちにしてもらえねぇかな。タダでとは言わない。良さげな“手土産”を持ってきた」
「ほうほう。それはまた、楽しみだね」
こちらの目を見てゴクリと唾を呑み込んだ恒元。その露骨な仕草に気持ち悪さをおぼえながらも、俺は言った。
「ああ。あんたの組織、中川会に入らせてくれよ」
俺の言葉を聞いた恒元はにんまりと微笑んだ。
「大歓迎だよ。涼平。我輩は君の口からその言葉が聞けるのを心待ちにしていた。是非とも入ってくれ。我輩のものになりたまえ」
またしても飛び出してきた。恒元のいやらしい台詞。我輩のものになりたまえ、だなんて。この男は変態か。不快感と嫌悪感で頭がクラクラとしそうになりながらも、俺は何とか堪えて目の前の権力者と向き合う。
「しっかし、驚いたな。あれだけ嫌がってた君がこうもすんなり受け入れてくれるなんて。正直なところ、我輩は君を手に入れるのに煌王会との戦争まで想定していたが……どういう風の吹き回しだね?」
「村雨組を追い出されちまったんでな。どうやら俺の居場所はもうここしか無いらしい。そんなことより、俺があんたのものになれば煌王会とは戦争しないんだよな」
「ああ、それは勿論。約束しよう。煌王会および村雨組とは本日をもって手打ちとする!」
勢いよく宣言した恒元。彼は近くに控える配下の組員に対し、紙とペンを持ってくるよう指示を出した。さっそく各組織に書状をまわし、先日の“要望書”の項目が達成されたことにより戦争が回避された事実を周知するという。
これでとりあえず一安心だ。安堵のため息をつく俺。すると、恒元はこちらをジッと見ていた。
「本当に良いのかね?」
「何がだよ」
「我輩が書状をしたためれば、その瞬間から後戻りは出来なくなるぞ。村雨組に未練は無いのか?」
「おいおい。今さら、何を言ってんだよ。あったらこんなとこ来ねぇよ」
俺の言葉にコクンと頷いた恒元。彼なりに思うところがあるようだが、問題は無い。この期に及んで気遣いなど無用だ。むしろ、これで良かったのだ。中川会に入るべく、ここまでやってきたのだから。
「分かった。まあ、君が何故に中川会へ来たのかは大体察しが付く。村雨組への恩義が捨てきれないのだろう? 自分が出て行くことが、村雨耀介を守ることになると」
「……別に」
「その真摯さは嫌いではない。これからは我輩のために役立ててくれ。中川会の一員としてね」
「あ、ああ」
少し気の抜けた返事を投げた俺。恒元の指摘は図星というか、心の内を完全に見抜かれてしまっていた。
俺自身、村雨組には未練タラタラだ。あんなことが怒らなければ東京へ来るなどまっぴら御免。いくらカネを積まれてもお断り申し上げたかった。まだまだ、ずっと横浜に、村雨耀介の下に居たかったのに。
しかし、俺は中川会を選んだ。自分の所為で村雨組が潰されてしまうくらいなら、下劣なホモ会長のもとで生きていく道を選ぶことにした。
尤も、理由は他にもある。中川会はかつて親父が身を置いていた組織だったからだ。
「では、涼平。早速だが、儀式といこうか」
「盃の儀式? ああ。ヤクザになるためのやつか」
「そうだ。しかし、中川会の流儀は他所とは少し違う。“盃”ではなく“起請”と呼んでいてね。どこぞの組のように直垂装束を着ることも無ければ、仰々しく掛け軸を飾ったりすることも無い。ただ酒を呑むだけだ。ついてきたまえ」
「ああ」
俺は恒元についていく。会長室を出て廊下を進み、階段を下りて1階の部屋へ。そこは集団で食事を摂るダイニングルームのような空間であり、長机と椅子が置かれている。室内には既に背広姿の男たちが集まっていて、いずれも気怠そうな態度で腰かけている。恒元曰く、全員が中川会の直参組長にして幹部だという。
「君のために、近くに居た者を急ぎ呼び集めたのだ。彼らには立会人になってもらう」
「立会人?」
「君が誓いを立てて“誇り高き男”の一員となる、その瞬間に立ち会ってもらうのだ」
何のことだかよく分からないが、俺は言われた通り空いている席に腰かける。ふと辺りを見渡してみると、そこにいたのは厳つそうな面々ばかり。中川会の幹部陣だけあって相応の貫禄と雰囲気を醸し出している。
その中に俺は大原征信を見つけた。以前、横浜に押しかけて来た三代目伊東一家の総長だ。そういえば彼女の娘の恵里は未だ横浜に囚われていた気がする。
けれども俺が中川会入りすることで、村雨組は彼女を親元へ返さざるを得なくなるだろう。まあ、それはどうでも良い。問題なのは入り口から向かってすぐの席に腰かける人物だ。
(……あ、やっぱり居たか)
本庄組組長、本庄利政。かつては親父の兄弟分だった人物で、短い間ではあるものの俺のことも世話してくれた。けれども今は違う。山崎の一件もあって因縁の相手。“恩人”がいとも容易く“仇敵”に変わってしまうとは。まったく。これだから裏社会はシビアでいけない。
そんな奴は俺と目が合うや否や、大きく舌打ちをした。
「何をジロジロ見とんねん、気持ちの悪い」
「見てねぇよ」
「口の利き方がなっとらんのは相変わらずやな。せやけど、ここに居るっちゅうことは中川の代紋に屈したっちゅうことや。あんまり調子に乗ったらあかんで!」
俺の態度が気に食わなかったのか、机を叩いて声を荒げた本庄。周囲の組長たちは彼を制止するも効果は無い。五反田の蠍は俺への恨みで頭がいっぱいになっているようだった。
「おいおい、止さねぇか。本庄。会長の前だぞ?」
「せやから何やねん。会長の前やったら尚更あないな態度を許したらあかんやろ」
「けど、あいつは俺達とは違って……」
「何や、桜井の兄弟。あのガキの肩持つんかい。あんたらしゅうもない」
すると、本庄のはす向かいに座る男が口を開いた。もじゃもじゃに伸びた顎髭にスキンヘッドで大柄な体躯という、まさしく“いかにも”な容姿の男だった。
「まあ、本庄の言うことにも一理あると思うぜ。いくら会長の部屋子だからって新入りが図に乗りすぎんのは見過ごせん。直参の盃を交わすわけでもねぇってのに。なあ、お前さんもそう思うだろ? 大原よ」
髭もじゃ男に同意を求められた大原総長だが、彼は首を横に振った。
「いいえ。自分はそうは思いませんな、眞行路補佐。これから彼は会長付き、いわば会長の親衛隊となるのです。我らとは別格でしょう」
「別格だ? ただのガキだろうが。俺はそもそも執事局って仕組み自体が解せねぇんだよ」
「それを言い出しては元も子もありませんぞ」
次第に言い合いがヒートアップして場の空気が熱を帯び始めた、その時。恒元が大声をあげた。
「Taisez-vous!」
突如として響き渡った大音声。全員が一瞬で静まり返った。例によってフランス語であるが、何となく意味は分かる。おそらく「黙れ」とでも言ったのだろう。恒元も恒元で凄まじい貫禄であった。
「……」
全員を静かに睨みつけた後、恒元は威厳たっぷりの声で語り始める。
「諸君らの意見など求めてはいない。文句があるなら出て行ってくれて構わんぞ。ただ、その場合には代紋と所領を返上してもらうがな。改めて言っておくが、ここにいる麻木涼平は我輩が自らの手で拾い上げた子だ。この意味が分かるな?」
つい寸前までいきり立っていた本庄も、感情的になるあまり立ち上がった“眞行路補佐”なる髭もじゃ男も、恒元に脅されてみるみるうちに大人しくなった。
「……」
「ふんっ」
ただし、髭もじゃ男だけはあからさまに鼻息を鳴らして着席していたのだが。
「何か我輩に言いたいことがあるのかね? 眞行路」
「いえ、別に」
「理事長補佐の役職を解かれたいのか? 無体をはたらくことは許さんぞ」
「へぇへぇ。ご無礼を致しました。会長」
彼は最後まで不服そうな顔を浮かべていた。この眞行路なる男、会長への反抗心が燻ぶっているようだ。ここで露骨に嫌味っぽく振る舞うくらいだ。日頃より舐めた態度を取っているのだろう。一方の恒元も、今のところは何かしらの利益があって彼を野放しにしている具合か。
(なるほど。これが中川会ってところか……)
俺の観察評はさておき、恒元は気を取り直して再び口を開いた。
「では、早速始めるとしよう。この度、諸君らに紹介するのはこちらの彼、麻木涼平だ。歳は16。知っている者もいるだろうが、彼の父はあの麻木光寿。彼も父に劣らず、この若さで既に獅子のごとき貫録を醸し出している。特に目元がそっくりだ。これよりは会長付き執事局として、我輩の下で直に働いてもらうこととなる!」
そう恒元が宣言した後、全員の視線が一斉に俺へと注がれる。背筋がゾクッとしたが、ここで気後れしたらおしまいだ。少しでも臆そうものならこの中川会という組織において未来永劫舐められ続ける。それは避けたかった。
「よう。今日から世話になるぜ。豚野郎ども」
ゆえに、かなり強気な台詞が飛び出してしまった。言い訳をさせてもらえば完全なる若気の至り。強気というより、もはや狂気と呼んでも等しい言葉だった。
「んだとゴラァ!」
「誰に向かってほざいとんじゃ、この野郎! 成り上がりのガキがァ!!」
「もういっぺん言うてみィ! おお!?」
「テメェ、舐めやがって!!」
そこに居並ぶ直参たちは一斉に激昂する。大原総長ですら眉をひそめていた。けれど、その時の俺にはその言葉しか吐けなかった。義務教育の間に礼節を学ばなかった俺だ。それ相応の振る舞いなんて出来るわけが無い。別に怒ってもらって構わない。ああ、いっそのこと拳銃を取り出して俺を撃ち殺してくれれば良かったのに。
「はっはっはっ! いいね! それでこそ我輩が見込んだ男。度胸は十分だ。その物言いも父親とよく似ている。これからが楽しみだ」
恒元だけは笑っていた。擁護してくれたのは有り難い。ただ、父の話を持ち出してきたのは少しばかり余計に感じたのだが。
「涼平。我らが中川会は修羅の集団だ。君はこれより業の道をひた走る。この世の理から外れた、血にまみれた地獄へと続く道だ」
「ああ」
「お前にとって主とは、お前自身の家族や友人、愛する者や信仰、そして住まう国よりも大きな意味を持つことになる。我輩が『殺せ』と命じたら、お前は殺さねばならぬ。その手で刃を握るのだ」
「分かってるって」
殺して来いも何も、俺に家族や友人はいない。愛する者ともつい前日に別離したばかりだ。もう俺には何ひとつとして残っていない。すぐ近くまで迫っている修羅の道を除いては。特に深くは考えず、俺は頷き続けるだけであった。
「お前が刀を持つのはどちらの手だ?」
「刀を持つ手って、そりゃあ利き手は右だけど」
「よし。ならば右手を出せ」
言われるがまま、俺は右手を差し出した。すると恒元は机の上にあった短刀を持ち、鞘から抜く。何をするのかと思って一瞬だけ背筋をこわばらせていると、「少しチクッとするぞ」と前置きされ、掌を刃先で軽く突かれた。
(えっ……?)
そこからは血が溢れ出る。恒元は俺の手を掴み、机の上に置かれていた紙の上に滴り落ちてくる血液をポタポタと垂らす。どういうわけか、その紙には何やら女神らしき絵が描かれている。
(何の意味なんだ、これ……!?)
心の中で首を傾げていると、やがて恒元は俺の手を掴んだまま絵を拾い上げ、机の上にあった蝋燭で火をつけた。
「これを両手で持て」
「は? いや、でも火がついて……?」
「いいから持て。そして我輩の言葉を繰り返せ。フランス語だ」
手で持ったら火傷するだろうに。何をやらせるつもりなのか。意味のある行為とは思えない。されども雰囲気的に避けて通ることは難しそうなので。俺は不満に思いつつも恒元の命令通り、燃え盛る紙を両手で抱えるように持った。
(あれ? 意外と熱くないぞ……?)
やや呆気に取られているうちに、中川恒元の“詠唱”が始まる。
『ジュ・ジュール・ドゥ・スイヴル・ル・デスタン』
フランス語だが、無学な俺にも聞き取りやすいよう敢えてゆっくりと発音してくれる。
「ええっと、ジュ・ジュール・ドゥ・スイヴル・ル・デスタン……」
恒元は続ける。
『シ・ジュ・デゾべ・オ・パロール・ドゥ・モン・メートル』
「……シ・ジュ・デゾべ……オ・パロール・ドゥ・モン・メートル……」
『モン・アーム・セラ・ブリュレ・オン・アンフェール、コムス・サン』
「モン・アーム・セラ・ブリュレ・オン・アンフェール、コムス・サン」
それが終わるや否や、恒元はにっこりと微笑んで「よく言えた」と俺を頭を撫でる。一連の呪文じみた台詞は日本語に訳せば『宿命に従うことを固く誓います。主の言葉に背くことがあれば、この魂が地獄で焼かれんことを。この聖人のように』なのだが、この時はまったく分からなかった。
(何だったんだ……今のは……)
そうしているうちに、恒元は白い皿を持ってくる。そして俺の手前まで持ってくると、燃え続ける紙をそこに落とすよう指示した。
「だいぶ灰になったな。しばし待て」
「えっ?」
「よし。このグラスの酒を飲み干せ」
皿の上で灰になった紙切れ。なんと、恒元はそれをグラスの中に注いだ赤ワインに入れたのである。要は灰を体の中に取り込めということ。またしても抵抗感があったが、やらなくては先へは進めまい。仕方なく、俺は言われた通りに飲み干す。
「……苦い」
飲み終えると、恒元は壁の方を指差した。
「では、このグラスを叩き割れ」
「割っちまっていいのか?」
「構わん」
これもこれで意味不明だが、俺はワインを飲み終えたばかりのグラスを思いっきり壁に向かって放り投げ、粉々に叩き割った。
――ガシャン!
破壊音が響いた瞬間、恒元が全員を見渡して言う。
「諸君。こちらが我々の新しい同志、麻木涼平だ。彼のように才能のある、誠実な若者が同志に加わったことを喜ばしく思う。今日よりよろしく頼むぞ!」
それに対し、一同は無言で頭を下げる。
『……』
どうやらこれにて終了の様子。俺の“起請の儀式”とやらは上手くいったようだ。
「で? 俺は何をすればいいんだ?」
まだ何の説明も受けていない。というか、儀式を行ったからといって特に何かが起きたわけでもない。気持ちの上でも少しの変化も感じられないのだ。
「仕事については、こちらの才原から教わると良い。報酬も彼から受け取りたまえ」
すると、部屋の隅で控えていた男がのそっと俺の前に近づいてくる。
「……平野泰朝だ」
恒元に次いで不思議な形状のスーツを着込んだ平野なる男は、そっと左手を差し出してくる。握手すれば良いのか。俺もまた左手を差し出し、彼と軽く手を握り合った。
「……」
「……」
そのまましばらく沈黙が続く。互いに何も語らない時間が続いた後、やがて彼は俺の手を解放し、こう告げてきた。
「……ついてこい」
それだけ言い残すと、平野は踵を返して部屋から出て行く。俺は慌ててその後を追った。廊下に出て少し歩いたところで、彼は立ち止まって振り返る。
「今日からお前が暮らす部屋だ」
案内されたのはいくつもの二段ベッドが置かれた大部屋。“部屋”というよりは“合宿所”のような空間と形容した方が良かろうか。
「家が決まるまではここで寝泊まりしてもらう」
「あ……ああ……」
とりあえず一番近くの寝台に持ってきた荷物を置く。すると平野は俺の背後に回り、いきなり肩を掴んできた。
「えっ?」
「これからお前の身体検査を行う」
「は?」
「何か武器を持ち込んでいては困るのでな。服を脱いで全裸になれ」
いやいやいや。いくらなんでも唐突すぎる。
「はあ!?」
「脱げ」
武器なんか持ち込んでいないというのに。必要があったとしても、軽くボディーチェックを行うくらいで良いだろうに。この流れは前にもあったような気がする。初めて横浜の村雨邸を訪れた日のこと。絢華のお付きの給仕長に服を脱がされ、素っ裸にされて調べられたのだった。
(……懐かしいな)
おっといけない。村雨組で過ごしていた頃の思い出が蘇ってしまった。今はそんな場合ではない。平野の言う通りに従い、検査に応じてやらなくては。
「分かったよ。ほら、さっさと済ませてくれ」
流石に肛門の中までは調べられなかったが、平野の調べはかなり執拗だった。全身くまなくボディタッチされた挙句、口の中を開けろとまで言われたのは驚きだった。
(……まあ、いいか)
別に減るものじゃないし。とはいえ、これでようやく俺のことを少しは信用してくれたらしい。俺に着衣を許した後、平野がこちらに向き直る。
「改めて自己紹介をさせてもらうが、俺はこの中川会で執事局の局長を任されている。今日からお前には俺と同じく執事局に入ってもらう。役職は『執事局次長助勤』。次長の下に付いて見習いから始めてもらう」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。助勤? っていうか、そもそも執事局って何だ?」
「一言でいえば会長の護衛と身の回りのお世話。ボディーガードと秘書を組み合わせたような部署だ」
“執事局”のネーミングは何とも恒元らしい。だいぶ昔に観たアニメで“執事”なる立場の人間が登場していたのだ。あれに護衛の仕事も合わせ、常に会長に付き従って動くのが平野たち執事局の役割のようである。
「さっきも言った通り、俺たちは会長付きの“親衛隊”だ。身辺警護のみならず会長直属の武力として戦うこともある。問題ないだろうな?」
「ああ。その辺は大丈夫だ。俺、喧嘩なら負けたことが無いからよ」
「そうではない。会長の側に立つに恥ずかしくない振る舞いが出来るのかという意味だ。先ほどの様子を見ていると、少しばかりの教育が必要のようだな」
「いや、まあ……そこは……」
平野曰く荒事はそれなりに多いとのことだが、荒事でしか活躍できないようでは駄目だという。日頃の礼儀作法から立ち振る舞い、銃の抜き方に至るまで、全てに磨きをかけるよう言われた。
「……そう言われてもよ、今まで意識したことも無かったんだ。何から始めれば良いのか」
「それは自分で考えろ。人に頼るな」
「教えてくれても良いだろう?頼むよ」
「甘えるな!まずはそのふざけた口の聞き方を何とかしろ!」
平野の叱咤に、思わず首をすくめる。しかしどうすればいいものか……。
「……分かった。努力するよ」
「努力するだけでは駄目だ。必ず成すのだ。お前はもう極道なんだ。ここから先は、嫌でも大人になってもらわねばな。子供の皮を一日も早く捨てろ」
「……」
こうして俺は、改めて極道の道へと進むことになった。とはいえ、いきなり全ての教養を身につけるのは無理があるというものだ。しばらくは平野に付いて回って、仕事を覚えることから始める流れなった。
日常の雑務はそれなりにできる。村雨邸では部屋住みをしていたわけだし、本庄組では雑用係としてこき使われていたので「やれ」と言われたことは大抵こなせる。掃除からお茶汲み、洗車に至るまで、その日から一週間で俺に申し渡された仕事は殆んどが平凡なもの。
(執事局って殆んど部屋住みと変わらねぇだろ……)
そんな疑問が首をもたげてくる。平野の話だと、次長助勤の身ではその程度という。慣れてきたら会長の秘書職にも付かせてもらえるようだが、今はまだその時ではないとのこと。
「……ああ。そうかよ。寂しいもんだね、次長助勤ってのは。ところで次長は誰なんだ? 俺の上に次長がいるはずだろ?」
「先月、殺された。会長を庇ってな」
「……なるほど」
平野はそれ以上語らなかった。つまりそういうことだ。会長の護衛という役柄上、俺の上役になるはずだった人間は殉職してしまったらしい。
(俺もせいぜい頑張ってみるか……)
また、雑用仕事を始めてから数日経った頃、平野からこんな話を聞かされた。“執事局”に身を置く人間が持つ、もうひとつの側面について。俺に対する忠告だという。
「この組織における執事の仕事は会長の仰せに従うこと。ごくたまに、夜のお相手をする時もある」
「夜のお相手? ま、まさか……!?」
「想像の通りだ」
俺は絶句した。この中川会総本部に暮らす恒元の寝室にて「夜間警護」を行うこと、それこそが執事局の人間に与えられた最大かつ最上級の仕事であると。無論、「夜間警護」などは単なる建前だ。
「会長のお好みはよく分からん。お前のような美しい少年から俺のような無骨者まで、広く囲っていらっしゃるからな。そう遠くないうちにお前にも“夜間警護”のお呼びがかかるだろう」
「冗談じゃねえよ。俺にはそんな趣味は無いぜ」
「我々の意思などは関係ない。ただ、会長の仰せのままに。お前はそう誓いを立てたはずだ」
誓いを立てた――。
そう言われて、俺は思わずハッとする。
(まさか……!)
平野は言った。
「あの起誓の儀式で、お前がフランス語で復唱したのは『宿命に従うことを固く誓います』という文言だ」
「えっ……!」
「お前は中川恒元に魂を売ったのだ。もはや『拒む』もしくは『従わざる』という余地など無い。受け入れろ。さもなくば、身が滅ぶだけのこと」
俺としては「絶望」の二文字しかたとえようがない。だいたい何故俺なのだ。他にも若い男なんて山程いるはずなのに。
(父さんの生き写しだってことか……)
親父と恒元会長の関係を想像し、さらなる絶望感がこみ上げてくる。というか、吐き気が巻き起こる。
村雨組のためを思って取った選択は、最悪中の最悪、俺を地獄のどん底へ叩き落とすものだった。あんな気色の悪いフランスかぶれ男に尻を掘られるなど、誰が引き受けるものか。だが、俺に断る選択肢はもう残っていない。それこそが中川会に入るという道を選んでしまった俺の宿命なのだから。
「……会長ってホモなのか?」
「男色の趣味をお持ちというだけで、厳密には同性愛者ではない。フランス人の奥方様との間にはお嬢様もおられる」
「つまりは両刀使いってことか……」
「いずれにせよ、お前自身がこの道を選んでしまったのだ。早くに覚悟を決めた方が良い。今後のためにもな」
俺は改めて実感する。俺はもう極道の世界に入り込んでしまったのだ。俺の未来は、全てにおいて中川恒元という男の掌の上でしかないらしい。あまりにも非情な現実を前に改めて言葉を失う俺の肩をポンと叩き、平野は言った。
「気を落とすな。実を申せば執事局は中川会の中ではいちばんの出世コースでもある。会長のお気に入りになれば、俺のように直参の組長と同等の禄を頂けたりもする」
「……あんたも掘られたのか?」
「逃れられぬ宿命があるということだ」
平野の口調は、妙に重苦しいものを感じさせた。俺よりも遥かに年上のくせして、まるで自分の運命を受け入れるのに苦しんでいるような声だった。無理もないだろうな。
「もし仮に、会長に気に入られなかったとしても、執事局にいる限りは食いっぱぐれることはあるまい。会長付きの次長助勤ともなれば尚更だ。心配はいらん」
「いや、だけど……」
「まあ、まずは。会長の側に立っても恥ずかしくない振る舞い。これをしっかり身につけろ。それがお前の最初の関門ってやつだ」
そう言い残すと、平野は去っていった。俺はまだ納得できなかった。ただでさえ心が折れそうだっていうのに、さらに会長の趣味にも付き合わねばならないとは。おまけに平野は「立ち振舞いを改めろ」という。
(……ふざけやがって)
俺は己の選択を初めて後悔した。安易な気持ちで来たわけではないが、思っていたものとまったく違う。尻を掘られるのが仕事だなんて、まったくもって馬鹿馬鹿しい。
これについて不平不満をこぼそうにも、俺の悩みを聞いてくれそうな者は見当たらない。
執事局には俺の他にも何人かの次長助勤が居るものの、誰も彼もが何を考えているのか分からなそうな奴ばかり。「こいつ、生粋のそっち系なんじゃねぇの?」と疑わしい輩も少なくなく、大部屋で寝ていると不気味なニヤケ面でこちらを見つめてくる始末。不愉快で仕方がなかった。
(慣れるしかないのか……?)
考えてみれば、村雨組に居た頃は本当に良かった。毎日のごとく上等な飯を食わせてくれたし、狭いとはいえ個室まで用意してくれたのだから。周辺の人間との軋轢こそ絶えなかったが、今となっては懐かしくてしょうがない。あの頃へ戻りたい。戻れないが。
「……」
俺は今日もまた、自室でひとり溜息をつく。何度繰り返したか分からない。けれども、またひとつ。昨日も一日中、こうやって過ごしていた。溜め息をつくことでしか自分を保てないからだ。何をしても虚無感がよぎる。最悪だ。
(……俺、何やってんだろ)
例年なら少しは心の踊る師走だというのに。気持ちは沈んだまま。俺に与えられた仕事はといえば、専らお茶汲みと部屋の掃除、それに屋敷に会長宛に届いたお歳暮の仕分けくらいなもの。それもこれも、退屈で刺激に事欠いている。自分は本当にヤクザになったのかと疑いたくなるくらい。
気づけばカレンダーも12月の第3週を迎えていた。
そんなある時、俺はテレビのニュースが少し気になった。暴力団関連の報道を伝える夜の帯番組だ。
『反社会勢力の完全追放を目指す横浜市の和泉義孝市長は本日、市役所で会見を開き、伊橋進前市長の暴力団との癒着疑惑について、年明けに召集される市議会の公聴会に証人を召喚することを明らかにしました』
横浜市長の和泉が断行する市政改革、中でも行政機構と暴力団との癒着根絶にまつわる話題。ちょうど思い悩んでいたところで横浜の件が出てくるとは何ともタイムリーな。されども最早横浜とは関係ない。古巣に何があろうと、もう俺の知ったことではないのだから。
しかし、そうはいかなかった。引き続き、画面の中のアナウンサーの声が妙に響く。
『和泉市長はこの証人について、具体的な名前と肩書を明らかにはしなかったものの「横浜に巣食う全ての犯罪組織を一掃するまたとない機会になる」と述べ、一部週刊誌で報じられた伊橋前市長と指定暴力団煌王会系村雨組との関係について詳しく知っている人物であることを匂わせています』
ああ。どうしてだろう。村雨組と俺とはもうまったく関係が切れているというのに。村雨耀介は俺のことを憎んでいるだろうし、菊川は勿論、沖野以下、他の組員たちも麻木涼平には恨んでも恨みきれぬほどの怨嗟が渦巻いているはず。特に、俺に裏切られた絢華の心情を思えば、とてもやるせない気分に駆られて仕方が無い。
できることなら、彼女らの前で土下座をして詫びたい。許されることだとは到底思っていないのだが。
(何か、すっごい苦しくなってきた……)
そう思った時。何と間の悪いことであろうか。不意に近寄ってきた平野が、俺の肩をポンと叩いた。
「麻木。会長がお呼びだ。風呂と着替えをして別宅へ行け」
ああ。恐れていたことが、ついにやってきてしまった。俺が初めて“夜間警護”に回される日だ。
「……分かった。すぐに向かうよ」
「決して逆らうな。ただ、仰せのままに。だが、気をしっかりと持て」
「ああ。心配要らないって」
「それと、念のために言っておく」
平野は俺の顔を見据え、真剣な口調で言った。
「会長のお楽しみの最中、お前は完全なる人形でいろ。どんなことをされようとも受け入れ、絶対に拒むな。じっと耐えるんだ。いいな? それがお前の生き延びる道だ」
要はされるがままになれということ。改めて言いたいが、俺にそう言う趣味は無い。恒元が「来い」と言うのでやむなく応じるだけである。ひどく絶望的な気持ちに陥りながらも、俺は言われた通りに身支度を整え、恒元の待つ別宅の寝室のドアを叩いた。
「おう。来たね。入りなさい」
ドアを開けると、天蓋付きのベッドの上で、恒元は既に全裸になっていた。ニヤニヤと笑いながら俺を手招きする。嫌だ。実に嫌だ。けれど、もうここまで来たら行くしかない。
「……」
俺は無言で従う。そして言われるままに支給された浴衣を脱ぎ捨て、恒元の前に大人しく立った。
「ほほう。なかなか鍛えられているじゃないか。これなら一晩退屈はしなさそうだな。さあ、始めよう。おいで」
そうして、まずはベッドの上に寝転ぶよう命じられる。
「もっと近くに。私に身体を寄せろ。触れ合うくらいがちょうど良い。それから目を閉じろ。我輩の命令に従うのだ。分かったな?」
「うん……」
俺はゆっくりとベッドに横たわり、そのまま瞼を閉じた。すると、すぐに恒元は俺に覆い被さり、唇を重ねてきた。
(……!)
俺は一瞬、ビクッと反応した。だが、やがて口の中に舌を入れられ、舐め回されても、じっと堪えた。
そうしている間にも、恒元は俺の胸を撫で回す。乳首も指先で摘まれている。それでも俺は声を出すまいと、必死に歯を食い縛った。
「んふぅ……う……っ!」
しかし、身体の奥底から湧き上がる得体の知れない感覚は止まらない。人生最悪の心地だ。恒元の手は俺の股間にまで伸びてくる。
「う……う……う……っ」
俺は身を捩らせ、悶えた。
「どうだ。気持ちが良いか?」
耳許で囁かれる問い掛け。正直なところ、答えたくも無かった。しかし、答えなくては駄目だろう。俺は意を決してコクンと頷く。
すると恒元は頬を緩める。玩具を買い与えられた子供のごとく、中川会の会長は舞い上がっていた。
「いいね。流石は我輩の見込んだ男。普段はさながら獅子のように逞しくとも、こうしてベッドの上では子犬のようだ。今夜はたっぷりと可愛がってやるぞ。さあ、身も心も我輩のものになれ……」
そう言って、再び俺の口を唇塞ぐ。
(……っ)
俺は目を閉じる。そうやって、ひたすら時が過ぎるのを待つ。この屈辱の時間さえ過ぎ去れば、また元の退屈な生活に戻ることができる。そう信じて、ひたすら耐え続けるしかなかった。
時期は冬至の直前ゆえに日の出は遅い。その所為もあってか、朝が来るまでの時間が、物凄く長く感じられた。
「……よし。今日はこれで終わりにしてやろう。風呂に入ってこい」
やがて、ようやく会長は満足してくれたようで、俺の口から自分のそれを離す。
「……」
「口の中はすすいできた方が良いな。いや、本音を言えばそのままにしてもらいたいが。はははっ」
高笑いする会長を尻目に、俺は起き上がり、そそくさと浴室に向かった。脱衣所でシャワーを浴びる。温かい湯が俺の身体を流れ落ちていく。
「……」
俺は頭を抱え、溜め息をついた。
(どうしてこんなことに……)
まるで自分が自分ではない何かに変じてしまっているかのような心地だった。男の体を受け入れるなど、考えたことも無かった。地獄のような時間の後で、ただ体を伝う温かい湯の感触に心を溶かす。
そうでもしなければ、俺は発狂してしまいそうだった。
「……」
「ずいぶんと長くかかったな。具合でも悪かったのか?」
「いや。別に」
「そうか。真冬とはいえ長湯は体に毒だぞ。気を付けたまえ」
陽光の差し込んでやや明るくなった部屋の中で、恒元はガウンに袖を通していた。
「昨晩はなかなか良い思いをさせてもらったよ、涼平。君は実に素晴らしい。これからもずっと、私と一緒に寝てほしいものだ。いや、でも『ずっと』は駄目だ。アリーシャが嫉妬する」
「アリーシャ?」
「我輩の妻だ。あれもなかなか良い体をしていてね。ああ、今度、アリーシャを交えて3人で……ってのはどうかな? 彼女は私の5つ下だが若い娘にも負けん活力を持っている。君さえ良ければ是非とも本宅へ招こう」
ホモセックスの次はフランス人の熟女を加えてのプレイか。冗談ではない。俺は首を横に振る。
「それはちょっと」
「何故だ? まさか私の申し出を拒むというのかね?」
「あ、いや、その……そういうわけじゃなくて……」
「冗談だよ。アリーシャとて尻の軽い女ではない。夫以外の男に股を許すようではそもそも極道の妻など務まらんだろう」
笑えない洒落だ。危うく、心臓が口から飛び出てしまうかと思った。こういう品の無い話も含めて恒元はフランス流を貫いているのだろうか。
(両刀使いの変態クソジジイめ……)
用が済んだのなら、さっさとここから帰してほしいものである。俺は黙ったまま、憮然として視線を泳がせた。その様子が恒元の気に障ったようで、彼は少し不機嫌そうに言葉を詰めてきたのだった。
「どうした? なぜ何も言わない?」
「えっと、その……」
「我輩に不満でもあるのか?」
「いやいや! そんなことは!」
ムッとした様子で近づいてくる恒元。
「……だとしたら、何故にそのような顔をする?」
「……なんでもない」
「ふん。言いたいことがあるのであれば、はっきりと言え」
「いや、だから……」
俺が重ねて否定しようとしたその時、恒元は俺の身体をグイっと掴んでベッドに押し倒す。
「うわっ!」
そして強引に唇を重ねてきた。
(くそっ、またかよ! 風呂に入ったばかりなのに……!)
俺はビクッと反応し、思わず身体を動かそうとした。しかし、すぐに恒元に両手を押さえつけられてしまった。
「んんっ……んぅっ……!」
俺は必死にもがく。けれど、恒元は俺を離そうとしない。舌を絡めてくる。嫌だ。気持ち悪い。死にたくなるほど不快である。
「ううっ、うぅっ!」
俺は抵抗を続ける。しかし、恒元は構わず俺を貪り続けた。
(もう、やめてくれ……)
やがて、ようやく恒元は俺を解放してくれた。俺は呼吸を整えながら恒元を見上げる。
「可愛いな。涼平。食べてしまいたいほどだ」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「ずっと側に置いておきたい。だが、我輩には分かる。お前にはまだ未練があると」
「み、未練……?」
恒元の言っている意味が分からない。
「そうだ。我輩がいくら尽くしても、結局のところ、お前の心はここに無いのだ。そうだろう?」
「……」
「我輩がどれほどの愛をぶつけても、お前は決して答えてはくれない。それはお前の心の中で、常に違う誰かが住んでいるからだ」
困惑して沈黙する俺に、恒元はなおも続ける。
「村雨組に戻りたいのだろう? さしずめ、組長の娘と男女の仲にでもあったか。中川会へ来たのも、その娘の幸せを一番に考えたが為である。違うか?」
「……」
図星だ。頭にあることを全て言われてしまった。俺は、返答に窮するばかり。
「何度も言うが、我輩はお前が欲しい。ゆえにこの際、お前の中にある未練を全て断ち切ってやろうと思う。そうでもしなくては、お前の心は我輩に向いてはくれないのだから」
「……せ、戦争でもする気か? 横浜に攻め込んで、村雨組を滅ぼすってのか?」
「そんなことはしない。約束したではないか。横浜には手を出さんと」
「なら、どうやって……?」
恐る恐る尋ねた俺に、恒元が放ったのは思いも寄らぬ答えだった。
「涼平。お前に最後の奉仕をさせてやろう。村雨耀介と、その娘に対してな」
最後の奉仕――。
どういう意味か。例によって想像もつかない。ただ、ひとつ言えたのは、中川恒元は俺の全てを見透かしていたという事実。考えていることを丸ごと先読みされてしまったような気分。この男には一切の偽りが通用しない。
ただ、仰せのままに。
もはや俺には従うことしかできないらしい。
村雨組に別れを告げ、中川会の門を叩いた涼平。しかし、彼にはまだ心残りが。
次回、いよいよ最終章へ!!