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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第8章 餞別
158/261

「それでも、この狂った世界を征くのか」

「菊川ぁぁぁぁぁぁぁーッ!!」


 怒号を上げつつ、全力疾走。


「ふふっ、おいでよ」


 菊川は余裕の表情で待ち受ける。その声、表情、すべてが憎い。奴のを命を刈り取るべく、全体重を込めた一撃で殴りかかった。


「この野郎ッ!!!」


「甘いな」


 ――ガシッ。


 しかし、渾身の拳は空を切るだけに終わる。


「くそっ!!」


「ふははははっ!!」


 菊川は愉快そうに笑いながら、素早く後ろへ後退。そのまま距離を取っては、右手に握ったドスをくるりと回し、逆手持ちに切り替えていた。


「昂ってるねぇ。感情にとらわれた攻撃じゃあ、この僕を仕留めることなんて出来ないぞ?」


「ほざけ!」


 俺は走り出して勢いをつけ、さらにもう一度、菊川を殴ろうとする。


「ふんっ……無駄だって言ってるだろう?」


 だが、やはり避けられてしまう。まるで俺の動きを読んでいるかのようだ。


「何度やっても同じだよ」


「黙れ……!」


 今度は背後に回り込まれ、背中をドスで縦一文字に斬られる。


「うぎゃあっ!?」


「お前じゃ僕に勝てないんだよ。身の程を知れ。愚か者が」


「抜かせぇぇぇッ!!」


 痛みに耐えて体勢を立て直すと、すぐさま反撃に転じる俺。


 ――ブンッ!


 だが、それも容易く回避される。菊川は再び俺の背後に回ると、ドスを横薙ぎにして斬りかかってきた。


「がああぁッ!?」


「はははっ!!どうだい!? 少しは効いたかな!?」


 右肩が切り裂かれ、そこから鮮血が噴き出した。強烈な熱を帯びた傷口が痛む。俺は歯噛みしながら、すぐ後ろに立っていた菊川の腹めがけて蹴りを放つ。


「ぐおっ!?」


 やっと当たった。


「はあっ……!」


 よろめく菊川に対して、俺は間髪入れずに追撃。続けて左のフックをお見舞いする。


「うぐっ……!」


 菊川の顔が大きく歪んだ。俺は構わずに連続でパンチを叩き込む。


「オラァッ! 喰らえっ!」


「ぐうっ! がはっ!」


 菊川はガードしようと試みるが、間に合わない。俺は右ストレートを顔面にぶちかました。


「はっ! どうだ!」


「くぅ……負けるかぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 菊川は短刀を放り出し、両手で俺の腕を掴んできた。そして、強引に押し倒そうとしてくる。


「おらあぁッ!!」


「ぐおっ……! は、離せッ!!」


 俺は必死に抵抗するが、負傷状況の差もあってか引き剥がせない。菊川が徐々に力を強めてゆく。このままでは腕が折れそうだ。


(マズい……。何とかしないと)


 イチかバチか、俺は菊川に頭突きを見舞った。


 ――ゴツンッ!


 鈍い音が響く。


「がはあっ!?」


 菊川の力が緩み、手が離れた。チャンスだ。俺は奴から離れて立ち上がる。


「痛いなあ……このガキが!」


 額を押さえている菊川がこちらを見据えてきた。その瞳には怒りの炎が宿っている。


「調子に乗るなあああ!」


 菊川は大声で叫ぶと同時に、こちらへ向かって突進し、俺の顔面にストレートを浴びせた。


 ――ドンッ!


「くっ……」


 脳全体が揺さぶられるほどの衝撃が俺を襲う。鼻が痛む。出血したのか、生暖かい感触があった。


「麻木涼平! お前だけは僕の手で仕留める!!」


 続いて、奴はアッパーカットで追い打ちをかけようとしてきた。俺は咄嵯に身を屈めて避ける。直後に、俺の後頭部の上を奴の手が通過していった。


「ちっ……」


「食らえッ!!」


 俺は菊川に反撃を放つ。拳は奴の顔面を正確にとらえた。


 ――ゴスッ!


「うぶっ……! この野郎ぉ……」


 菊川は怯んで後ずさりしたが、すぐに持ち直して、俺の顎を目掛けて鋭い一撃を放ってくる。


「おらぁッ!!」


「ぐっ……!」


 ギリギリのところでかわしたが、奴の拳がかすったせいでバランスが崩れる。


「トドメだっ!!」


 菊川は俺の首を両手で掴み、締め上げようとした。無論、同じ手には乗らない。俺は奴の手首を掴み、物凄い折ってやろうとする。


「がっ!?」


 菊川は苦痛に顔をしかめた。だが、それでもなお、俺の首から手を離さない。それどころか、ますます強く絞めつけてくる。


「……自分の腕力がいちばん秀でていると思ったら大間違いだぞ?」


「くっ……」


「ははっ!!」


 菊川は不敵に笑うと、左手一本で俺を持ち上げた。そして、そのままの勢いで俺を投げ飛ばす。


「オラアアッ!!」


「がっ!?」


 ここは屋上。下手をすれば柵を越えて落下しかねない。それほどに凄まじい勢いだった。


 幸いにも俺の体は柵の手前で減速し、床に叩きつけられた。背中を強く打ったことで呼吸が出来なくなる。俺は石畳に倒れ込んだ。


「げほっ……ごほッ……!」


 咳き込んでいるうちにも、菊川は容赦なく襲いかかってくる。


「無様な姿だな、麻木涼平……!」


 奴は馬乗りになり、何度も俺の顔面を殴りつけた。


「どうだっ!! 痛いだろ!」


「ぐああっ!?」


「泣けっ!! 喚け!! 慄け!! この半端野郎がぁっ!! 朋友の隣に立つべきはお前なんかじゃない! この僕だ! 菊川塔一郎だぁぁぁーッ!!」


「うぐっ!? ぐえっ!?」


 踏まれ、蹴られ、殴られるたびに口から血が流れる。次第に意識が遠退き始めた。


「……」


「おい? もう終わりか? 胆力が無い奴だな。この程度で村雨組の跡目になろうとしたのか。笑わせるよ」


「くそっ……」


 俺は気を失いそうになりながらも懸命に目を開き、菊川を睨みつける。奴はそんな俺を見て嘲笑を浮かべていた。


「ふんっ……ド素人め。どんなに頑張ってもお前は僕には勝てない。何でか分かるか?」


「うるせぇ!」


「僕とお前じゃ生まれた時から違うんだよ! 何もかもが! 身のほどを知れ、クズ野郎!!」


 生まれながらの極道を名乗れるほどお前は強くない、と罵りながら、何度も俺を踏みつける菊川。周囲の組員たちは加勢するでもなく、呆然とこちらの様子を注視している。“決闘”に手出しは無用だと、何となく察したのだろうか。


「黙れ……テメェなんかに負けてたまるかよ……」


「ああ? 負けて当然だろ。お前と僕では覚悟が違うんだよ。極道としての覚悟が!!」


 ――バスッ。


 思いきり腹に蹴りを入れた菊川。俺は堪らず吐血する。悶え苦しむ様を見て、菊川は勝ち誇るように言った。


「誰であろうが、殺すときは殺す。それがヤクザだ。僕はこれまで何人もの人間を殺してきた。その中には目をかけた弟分や掘れた女、世話になった恩人も沢山含まれている。朋友のためなら誰だって殺せる!!」


「だから、俺は覚悟が足りねぇってのか……?」


「そうだ。ヤった女一人殺されたくらいで取り乱すようじゃ、お前に極道の世界は向いてない!」


「……舐めるな」


 さらなる蹴りを浴びせようとした菊川の脚を掴み、俺は奴の動きを止める。


「ほう……!? まだそんな元気が残っていたとはな」


「……俺だってヤクザの端くれだ。テメェほどの経験値は無いが、それでも目の前の敵を殺すことはできる」


「はっ! とんだ強がりを! 結局、お前は自分の身が可愛いだけなんだ! お前がやっているのは朋友の権威を借りて、誰かを痛めつけるだけ。口じゃあ忠義者ぶっているが、所詮な単なる虎の威を借る狐だ!!」


 感情を押し殺し、ただひたすらに、尚且つ愚直なまでに主君へ仕える。それこそがヤクザとしての在るべき姿と菊川は語る。まるで感情のまま動く俺を否定するかのように。


 しかし――。


「……負けるかよ」


「ああ?」


「負けてたまるかよッ!!」


 渾身の力を振り絞り、俺は菊川の体をひっくり返した。


「なっ、何ィ!?」


 仰向けに倒れ込んだ奴の上に乗り、俺はマウントポジションを取る。俺を否定する菊川塔一郎に拳で応え、拳を持って否定するために。


「おらぁッ!!」


「ぐうっ!?」


 俺は菊川の顔面を何度も殴った。


「がっ!? ぐっ!? こ、このガキが!」


「誰が何と言おうが関係ねぇ。俺は俺の信じた道を進むだけだッ!!」


「ぐうっ……!」


 俺は殴る手を止めない。


「誰が何と言おうが関係ねぇ! 俺は自分の好きなように動く! そして気に入らねぇ奴を殺す!」


 ――ドスッ、ボゴッ ドンッ!


「がはっ!?」


 菊川は俺に殴られ続け、完全に怯んでいた。ここまで圧倒する力があったのかと驚愕し、衝撃に打ち震えているようだった。そんな奴を何度も、何度も殴りながら、俺は啖呵を切る。


 自分自身を宣言するかのように。


「誰の言いなりにもならねぇ! 仕える相手も、殺す相手も、生きる理由も、全て自分で決める! 俺の道は俺が決めるんだ! 手始めに菊川塔一郎、まずはテメェだ! 俺自身のために、ここでテメェを殺す!!」


 それこそが、俺の極道としての在り方。決して深く考えていたわけではないにせよ、そんなことが頭の中では渦巻いていた。まずは手始めに、俺自身の殺意に従って菊川を殺す。負けてなるものか。再び、拳を握る。


「死ねぇぇぇ! 菊川ーッ!!」


 振り上げた右手で、俺は菊川の顔面を思いきりぶん殴った。


「ぐっ!?」


 そのまま連打を浴びさせる。


「ぐああっ!?」


 菊川は苦悶の表情を浮かべた。だが、即座に両手で俺を突き飛ばして立ち上がる。この状況で馬乗り姿勢を解除できるとは、流石は村雨組長の右腕であろう。


(こいつ……まだやるか……!?)


 吹っ飛ばされた体を懸命に起こし、菊川を見据えた俺。両者ともに肩で大きく息をして、少なからず血を流している。いつまで戦えるか、そんなことはどうでも良い。


 ただ、戦うだけ。


「麻木涼平……お前はつくづく気に入らないガキだ。いっぱしに極道の哲学を語るな。反吐が出る」


「うるせぇ……テメェがどう思うが関係ねぇ……俺は俺の生きたいように生きる。それが俺のニンキョウドウってやつだ」


「くだらんな。任侠道なんか、今の時代じゃ足枷にしかならない。さしずめお前は意味を理解してないんだろうけど、この世界では任侠道に囚われた人間から淘汰されるのがお決まりさ」


「ああ。そうかい。なら、任侠道じゃなくて……そうだな、単なるマイ・ルールってことで」


 その返答を受けて大いにイラついたのか、菊川は瞬間湯沸し器のごとく激昂した。


「こ……この半端者がぁぁぁ!」


 見るからに満身創痍な様子にもかかわらず、全力で突進してきた菊川。俺も奴に向かって走る。三度、俺たちはぶつかり合った。


「くたばれっ! 麻木ッ!!」


「菊川ーッ!!」


 ――バキッ。


 ほぼ同時に当たった。俺と菊川、互いの拳が同じタイミングで顔面をとらえたのだ。それぞれ頬にめり込んでいる。


「ぐはあっ!?」


「ぐうう……!」


 思わず、俺は膝をつく。だが、立ち上がる。目の前の男を倒す、たったそれだけのために。


「うおおおっ!!」


「はあああっ!!」


 ――ガッ。


 俺の拳と菊川の拳がぶつかる。蹴りと蹴りが交差する。どちらも退くことなく、ひたすらに打ち合い、潰し合う。


 ただ、互いの全てを否定するために。


「どうしてだ! どうしてエレナさんを殺した!? それだけじゃない、芹沢のオッサンを謀ったのも……」


「必要だったからだ! 僕の思惑を遂げるべく、あいつらには踏み台になってもらった! それだけのことだぁぁぁ!」


「ふざけるな!!」


 殴打による死闘の中で、砲撃戦のごとく言葉も交わす。やがて俺たちは間合いをとり、互いに一発ずつ突きを繰り出した。決して引けない、少しでも引いた方が負けの真っ向勝負。冬だというのに、俺たちを包み込む風が熱気を帯びているのが分かった。


 ――バキッ。


「テメェは必ず殺す! こいつはエレナさんの分、そして芹沢のオッサンの分だッ! 菊川ぁぁーッ!!」


 ――ゴンッ!


「僕が朋友を想う気持ちが分からないのか!? 朋友を守るためならどんなことだってできる! たとえ非情と言われようとなぁ!」


「知ったことかそんなもん! エレナさんのかたき、絶対に許さねぇ! この野郎!!」


 ――ドスッ。


「ぐっ!? 負けるかぁぁぁぁ!」


 ――ガンッ!


「があっ!? まだだぁぁぁ!」


 ――ドガッ!


 俺の渾身の拳を腹に受け、菊川塔一郎は怯んだ。俺はすかさず追撃を見舞う。闘志を燃やし、一気に直進する。


「ぐふっ!?」


「おらああああああ!!!」


 奴の胸板を殴り、鳩尾へ前蹴りをお見舞いする。既に歪みきった顔面めがけて猛攻撃を仕掛けた。


「ぐおっ!?」


「終わりだぁぁぁぁ!」


 俺は菊川の頬を打ち抜いた。


「ぶはあっ……」


 奴の体が崩れるように後方へ倒れる。俺の勝ちだ。あちらの拳打をまともに食らいながらも、俺は菊川塔一郎に競り勝ったのだ。


(勝った……勝ったんだ……!)


 エレナや芹沢のためにも、絶対に負けられない戦いだった。だからこそ、勝てたことに大きな喜びを感じる。同時に、これで全てが解決するわけではないことも理解していた。しかし、勝ちは勝ち。


 大の字に転がった若頭にトドメを刺すべく、俺はゆっくりと歩き出す。


「俺の勝ちみてぇだな、菊川さんよ。何か言い残すことはあるか? 聞いといてやるぜ」


「……さっさと殺せ。この期に及んで無様な真似なんかできるか」


「へぇ、随分と潔いんだな」


「当たり前だ。そうでなくては村雨耀介の側にはいられないし、あちらの言葉で“ボンヨウ”などと呼べん。常に覚悟を携帯しているようなもんだよ」


 菊川は倒れ込んだまま、俺を睨みつけた。その表情には薄く笑みが感じ取られたというか、心なしか俺を嘲笑しているようにも見えた。だが、この際そんなことは関係ない。宣言の通り。俺自身の生き方を貫くために、奴を殺すだけだ。


 俺は傍らに落ちていた菊川の短刀を拾い上げる。


「おいっ! 麻木! やめろ!」


「道具を捨てろ! さもなくば撃つぞ!!」


「撃たれたくなかったらそこで動くな!」


 それまで黙って見守っていた男たちが堰を切ったように騒ぎ始め、俺に銃を向ける。無論、奴らの意思など関係ない。俺は菊川を殺す。ただ、それだけだ。


「……お前たち! 銃を下ろせ!」


「カ、若頭カシラ!?」


「聞こえなかったのか。銃を下ろせと言ったんだ。僕の覚悟に水を差さないでくれ、頼む」


 震える声で菊川が組員たちを制する。彼の顔からは先ほどまでの狂気は消え失せており、今は冷静な面持ちで俺を見据えている。この期に及んで、なお命乞いをしないのは流石であった。ヤクザとしての誇りがそうさせるのか、あるいは単にええかっこしいなだけなのかは分からないが。いずれにせよ、俺はこの男を殺すしかないのだ。


(エレナさん……それから、芹沢のオッサンの仇だ……)


 拾い上げた短刀を逆手持ちに構え、俺はボロボロになった若頭の上に跨る。


「残念だったな、菊川さんよ。あんたじゃ、俺には及ばなかったみてぇだ。結局のところ、最後は意思の強い奴が勝つってことだな」


「ふっ、知った風な口を。お前はただの我儘な子供だ。一生その姿勢で居続けられるほど極道の世界は甘くないってことだけ覚えておくとい」


「黙れ。負け惜しみほざいてんじゃねぇや、ボケが」


 俺が菊川を殺すのは、他の誰のためでもない。俺自身のためだ。俺の中の信条に従って、奴を殺す。一寸の迷いも無かった。


「あばよ。若頭」


 逆手に構えた短刀を大きく振り上げ、殺意を奴に向ける。ほんの一瞬だけ若頭の顔が恐怖に歪んだように見えたが、知ったことではない。意を決して、菊川の心臓めがけて刃を突き立てる。だが、その時――。


「……えっ?」


 刃は菊川の身体には刺さらなかった。


 寸前のところで、邪魔が入ったのだ。


「うぎゃあああっ!」


 苦悶に満ちた悲鳴を上げた声の主は、沼沢だった。なんと奴は俺が菊川の心臓を指そうとした瞬間、刃と若頭との間に滑り込み、うつ伏せの体勢で割って入ったのだ。そして、敬愛する兄貴分の代わりに背中を刺されたのだった。


「ぬ、沼沢!?」


 驚愕の声を上げる菊川。他の組員たちも同様だ。


「沼沢さん!」


「沼沢の兄貴!」


「兄貴、どうして!」


 俺に背中、それも心臓付近へと続くであろう部分をざっくりと刺され、沼沢はすっかり虫の息。背中の傷口からは大量に血を噴き出し、辺りを真っ赤に染めてゆく。それでも強がってみせるかのように、彼は大きく息を吐きながら言った。


「はあ……間に合って良かったぜ……若頭カシラ……」


「ぬ、沼沢! どうしてそんなことを!?」


「カシラの方こそ……どうして逃げねぇんですか……こういう手筈じゃなかったでしょ……本来は……」


「ううっ!?」


 菊川は大いに動揺していた。やがて跨る俺を突き飛ばし、必死で弟分を介抱する。


「大丈夫か! しっかりしろ!」


「げほっ……若頭が……本当に殺されちまうと思ったら……つい体が動いちまって……」


「馬鹿野郎! もう喋るな! おい! 誰か医者を呼んでこい! 早く!」


 必死で止血を試みる菊川に促されて、組員たちは階下に走ってゆく。しかし、沼沢の手は直後にだらりと落ちる。俺の目から見ても分かる。事切れてしまったようだ。


「ちくしょうめ……畜生め!!!」


 冷たくなった弟分の身体に縋り付き、おんおん泣き喚く菊川若頭。他の連中もこちらへやって来ては膝を落とし、その場で悲嘆の涙に暮れる。


(何だよこれ……どういう状況なんだよ……)


 俺は目の前に広がる光景を呆然と眺めることしかできなかった。先ほどまで死闘を繰り広げていた相手は今、悲しみに打ちひしがれている。どう見ても演技には見えない。


(そんなに泣くことかよ……)


 首を傾げた瞬間、菊川が俺に叫んだ。


「何てことしてくれたんだ、麻木涼平! こっちはお前を殺すつもりは……殺すつもりなんか無かったんだ!! ただお前を捕らえて、中川会へ引き渡せればそれで良かったんだ!!」


「は、はあ!?」


「よくも沼沢を……沼沢をってくれたな! もう容赦は要らん! お前たち、かかれーッ!!」


 組員たちが一斉に立ち上がり、俺に向かって突進してくる。


『うおおおお!!』


 何のことかよく分からないが、ここで取るべき行動はひとつ。


「ああ。来いよ。相手してやっから」


 俺は強く舌打ちをすると、床に転がっていた鉄パイプを掴み取り、向かってくる男たちを迎撃した。


 正面にいた男を蹴り飛ばす。続けて背後の男に肘鉄砲を食らわせ、また別の男を殴りつける。もう俺に遠慮の二文字は無い。


 迎撃の意図は“倒す”ではなく“殺す”こと。敵の命を奪うだけの攻撃を次々に見舞うと、瞬く間に数は減っていった。武闘派村雨組の栄光は何処へやら。苛立ちゆえにタガが外れてチートモードに戻った俺の前では、どんな敵も敵ではない。


 たちまち組員たちを片付け、俺は菊川の前に立つ。彼の表情は絶望と焦燥に満ち溢れ、小刻みに震えている。そんな若頭に俺は問うた。


「どういうことだ、さっきの?」


「お、お前を殺すつもりは無かった。お前を中川会に連行できれば、それだけで良かった。なのに、お前は……」


「よく言うぜ。他人様の女を殺したくせに」


「殺してなんかいない!!」


 大きく首を横に振った菊川。彼は震える手で無線機を取り出すと、スイッチを入れた。


「お、沖野クン」


『……こちら沖野。どうしました?』


「た、戦いが終わった。彼女に代わってくれ。まだそこにいるだろう」


『分かりましたぜ』


 妙な予感が脳裏をよぎる。数秒後、スピーカーから聞こえてきた声に、俺は耳を疑った。


『……あの、菊川さん。もう終わったんですか? リョウ君は、いえ、麻木さんは無事なんですか? 無事に、中川会へ送り届けられたんですか?』


 エレナの声だった。彼女は、殺されてなどいなかった。生きていた。


(……おいおい。マジかよ)


 呆然自失となる俺に対し、トランシーバーの電源を切った菊川が憎しみを込めた目で言う。


「彼女には見返りと引き換えに殺されたふりをしてもらったんだ。お前をキレさせるためにね」


「どうしてそんな真似を。俺との一騎打ちをご所望だったわけか?」


「ああ。そうだ。中川へ引き渡す前に、お前をボコボコに殴りたかった。ただ、体で分からせてやれればそれで良かったんだ。なのに、お前は余計なことを……」


「そっちが勝手にやったことだろ。馬鹿野郎が」


 菊川の狙いは、麻木涼平の嬲り殺しではなかった――。


 その事実は近くに落ちていた弾丸から証明された。菊川のベレッタM92F拳銃から発射されたもので、よく見ると通常とは異なり青みがかった色合いをしている。以前、雑誌で見たことがある。暴徒鎮圧用のゴム弾。通常の銃弾とは違い、相手を殺さずに捕らえることが主目的の非殺傷型兵器だ。それでも発砲時にはいつもと変わらぬ銃声が鳴り響く。ゆえに俺は気づかなかったのだ。


(どうりで何か柔らかいと思ったぜ……)


 菊川のねらいとしては、こうだ。


 彼が俺のことを水面下では非常に疎ましく思っていたのは本当であり、村雨組を取り巻く情勢のためにも折を見て中川会へ引き渡す算段を立てていた。だが、その前に俺と一対一で勝負をし、ボコボコにする。これまで溜めに溜め込んだ妬みと鬱憤を俺を痛めつけることで晴らそうと考えていたのだ。


 そのためにエレナを脅し、沖野の凶刃にかかって殺されたふりの演技をさせることによって俺をキレさせ、殺意をむき出しにして本気でかかってくるよう仕向けた。結果として彼の読みは的中し、俺は激情のおかげでチートモードに陥った。


 そこからしばらくの間は命がけの喧嘩を楽しもうとした菊川だが、思わぬ誤算が生じた。当の俺自身が、菊川の想像をうわまわる戦闘力を見せてしまったことである。


「僕の手にかかれば5分で大人しくなると思っていた。だが、お前はまるで怯まなかった! 何度殴っても蹴飛ばしても立ち上がる! それどころか、ますます怒り狂って襲いかかってくる!」


 菊川は恐怖に慄いていた。先ほども、まさか本当に若頭である自分を討ちに来るとは考えてもいなかったのだろう。だからこそ、俺が刃を突き立てようとした時には驚愕の色を見せていたのだ。


「そりゃそうさ。俺は弱くなんかねぇ。まさか、あんたが本気で殺す気じゃなかったとはな」


「殺す気でなければ途中で短刀を放り出したりするものか!!」


 感情的になって俺を詰る菊川。あたかも被害者ぶってはいるものの、そもそも悪いのはこいつだ。女を傷つけられるような真似をされて平気でいられるわけが無いだろうに。沼沢以下、組員たちの犠牲は菊川が招いたこと。俺はむしろ、最初から最後まで奴に乗せられたようなものだ。


「人を試すようなことをしたあんたが悪い。俺はただ、感情の赴くままに動いただけだ。あんたの掌の上で転がされてな」


 虫唾が走る。堂々と菊川を非難し返した俺であるが、起きてしまったことは起きてしまったこと。取り返しのしようが無い。


 今回、俺は村雨組の組員を殺してしまった。村雨耀介と直接、親子盃を交わした人間を。それも、1人や2人ではない。地面に転がる死体を見て、俺は己のしてしまった事の重大さをまざまざと思い知らされた。


 麻木涼平が、村雨耀介の若衆を殺した――。


 これは変えようのない事実。経緯はどうあれ、それだけは揺るがない。今さら如何に弁解しようが、許してはくれないだろう。


(ああ、俺はもう……)


 村雨組には、いられない。


 結果として菊川の思う壺になってしまった。奴とてこうなることを望んでいたわけではなかろうが。それでもあの村雨耀介が今回の件を知ってもなお、俺を許すとは思えない。俺は過ちを犯した。決して越えてはいけない線を踏み越えた。


 悔しさの所為か。目頭が熱くなってくる。しかし、寸前で堪えた。ただでさえ馬鹿馬鹿しい状況なのに、ここで無様を晒してたまるものか。


 すべてを呑み込み、宙を見上げる。


「……」


 暫くして踵を返した後、俺は静かに言った。


「……組長に伝えといてくれや。『今まで世話になった』と。詫びたところで無駄だろうから、俺からの伝言はそれだけで十分だ」


「こ、これから、どうする気だ?」


「誰があんたに教えるか。俺の行く道は、俺が決める。少なくとも、もう会うことは無いだろうな。この街とも今日限りだ。こんな狂った野郎がウロチョロいる、クソみてぇな街には」


 菊川に背を向け、俺はゆっくりと歩き出す。


 後ろは振り返らない。二度と立ち止まらず、歩みを止めることもしない。


 そう決めた。たとえこの先に待ち受けているものが破滅だとしても。別れを告げるしかない。頭に浮かぶのは絢華の顔。ああ、願わくばあいつのことを抱きしめたかった。けれど、もう叶わぬ願望ねがいである。やはり、俺は襲いかかる運命に抗えなかった。


「待て、麻木涼平」


 背後から声をかけられた。だが、立ち止まらない。格好の悪い泣き顔を見られたくなかったから。


「……狂っているのはこの僕、そしてこの街だけじゃない。極道の世界ってのはもこういうもんだ……お前がこのまま進み続けるというなら、さらに多くの痛みと呪いを引き受ける運命しかないぞ。それでも、この狂った世界をくのか……?」


 ただ、俺は呟くように答えを返した。


「ああ。それが俺の道だからな」


 俺の進むべき道は、生まれた時から決まっている。幸せになんかなれない、決して報われることのない修羅の道。血と、欲と、罪にまみれた世界で、ただひとり進み続けるしかない。それこそが麻木涼平の運命なのだ。


(やっと分かった気がするぜ……)


 それから俺は街を出て、泣いた。振り出してきた冬の冷たい雨に打たれ、声を上げて、ひたすらに。そうでもしなければ己を保つことができなかった。寂しさに別れを告げることができなかったのである。


 雨はやがて雪に変わり、降り積もる。全てを失ったばかりの俺に天が与えたのは、凍えるような粉雪だけ。ああ。上等だ。それで構わない。俺にはそれがお似合いだ。今後一切流すことの無いであろう涙を全て流し終えるまで、暫しの時間を要した。


 やがて俺は立ち上がり、とある場所へと向かっていった。

もう、あの場所へは戻れない。悲壮な決意が心に刺さりながらも、覚悟を決め、未来に向けてゆっくりと歩き出した涼平。彼が目指す先にあるのは……?

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