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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第8章 餞別
156/252

愛と真意と殺戮劇と

 どれくらい、時間が経ったのやら。途中で眠りに落ちてしまった俺は、窓から差し込む陽光で目覚める。外はすっかり新たな一日が始まっていた。


「麻木さん。起きてください。朝ですよ」


 俺の隣では、裸のままエレナが横になっている。彼女は俺の腕を抱き枕にして、穏やかな表情を浮かべていた。その腕から伝わる体温が心地良い。


「ん、ああ……。おはよう、エレナさん」


「はい、おはようございます。これから朝ごはんを作ろうと思うんですけど。麻木さんも食べますよね?」


「もちろん」


「じゃあ、用意しますね」


 エレナは俺の腕から手を離すと、ベッドから降りて立ち上がる。


「なあ、エレナさん」


「なんですか」


「あんたは今日、予定あんのか。良かったらこのままゆっくりしないか?」


「ごめんなさい。今日は大学の講義があるんですよね。午前中から、出かけなきゃいけなくて……」


 ばつの悪い笑みを浮かべるエレナ。朝食後に“第2回戦”を楽しもうかと思ったが、残念ながら叶わぬようだ。彼女は医大生。学生の本文は文字通り学業だ。仕方あるまい。


「そっか……」


 朝が来れば、誰しもが夜のたかぶりを鎮めて現実も向き合わねばならない。それは俺とて同じこと。ふと、己が置かれた状況について冷静に考察をめぐらせてみた。


(……若頭にはいつ連絡したら良いんだ?)


 俺がこのような状況に陥っている旨を菊川は存じているのか。仮に知らぬとすれば、一刻も早く伝えなければならない。けれどもこちらから連絡するのは危険が伴うので、向こうで手を回してくれると有り難いのだが。


 とにかく、朝の準備を整えよう。エレナが娘への授乳と身支度を済ませてキッチンに立つ間、俺も軽くシャワーを浴びて髭を剃り、外出用の服に着替えることにした。


 昨夜はエレナと激しく交わったせいで、互いの体液で汚れたシーツが洗濯機の中で回っている。よくよく考えると、とんだ破廉恥なことをしたものだ。俺が戻ってくると、エレナは朝食を完成させていた。


「どうぞ。召し上がれ。こんなのしかありませんが……」


 食卓に並べられたのは、トースト、ベーコンエッグ、サラダ、コーヒー。洋風のラインナップだ。


「いや、十分だよ。ありがたく頂くぜ」


「どうぞご遠慮なく。じゃあ、私もいただきまーす!」


 エレナも自分の席に着き、食事を始める。まずはトースターでこんがりと焼いたパンを口に運び、する。


「うん。美味いな」


「ふふ、ありがとうございます」


 村雨邸では朝になるとどういうわけかピータンのお粥や細長い揚げパンなどがメインに出されていたので、こうしてごくありふれた食パンを頬張るのは久しぶりだ。


 エレナが作ってくれた料理はどれも美味かった。見た目も味も良いとは、やはりスペックが高い。素養もあるし、家事全般が得意なのだろう。そんな彼女と一夜を共にしたと考えるだけで胸が高まる。勿論、絢華への罪悪感もあったのだけど――。


 朝食後。エレナが食器を洗っている最中、俺はリビングのソファーに座ってテレビを見ながら寛いでいた。彼女の後ろ姿を見つめながら、俺は煙草を吹かす。


「そういえば、麻木さん」


「何だい?」


「私が大学に行ってる間、あなたはこの部屋に居てください。出歩かない方が良いと思います。外で張ってるかも分かりませんから」


「ああ、そうだった……」


 彼女の話では、村雨組の組員たちが近隣をうろついているとのことだった。標的マトは間違いなく俺。きっと執念深く探している。迂闊に外へ出ようものなら忽ち捕縛されてしまう。しかし、別の恐れもある。


「……なあ、エレナさん。もしかしたら、俺があんたの元に匿われてるって、既に気付かれてるかも」


「まあ、一昨日、店からあなたを連れ出すところを他のキャストたちに見られてるわけですからね。今朝までに調べが及んでてもおかしくはありませんね」


「ああ。まだここが特定されてないだけで、情報は掴まれちまってるのかも。そうなりゃバレるのも時間の問題だぜ」


 さて。どうするか。俺とエレナが一緒にいる事実は、遅かれ早かれ露呈する。仮にそうなればエレナにも危害が及ぶ。それは嫌だ。迷惑がかかることだけは避けたかった。ならば――。


 俺は意を決して、エレナにひとつの提案を持ちかける。


「俺も大学に行くよ」


「えっ?」


 水道の水を止めて、エレナは驚いた顔で振り向いた。


「俺も大学に行く。一緒に行動すりゃあ、万が一の時もあんたを守れる。俺の居所を吐かせるためにあんたが捕まるってことも無いだろ」


「でも、それじゃあ……」


「大丈夫。こう見えても俺は強い。喧嘩じゃ負けなしなんだよ」


 無敗神話などはとっくに崩れている。本当に“負けなし”なのであれば、そもそも昨晩に怪我をしてエレナの家に逃げ込んでくることも起こらなかったはず。自己主張の可笑しさには気づいているが、俺はそれでも彼女を守りたかった。


「それに、あんたと一緒に居たいんだ。駄目か……?」


「……」


 エレナは黙ったまま俯き、少しだけ思案するような表情を浮かべる。そして、小さく溜め息をつくと口を開いた。


「仕方ありませんね……。ではお願いします。一緒に行動しましょう。私もなるべく周囲に気を配りますけど、くれぐれも油断はしないでくださいね」


「おう」


 エレナからの了承を得ることができた。これでひとまずは安心である。エレナが大学の講義を受けている間は、学内の適当な所に潜んで身を隠す。図書館であれば部外者でも立ち入りが可能らしいので、そこで他の学生の中にでも紛れれば良いだろう。


「そうと決まれば早速行こうぜ」


「はい。行きましょう」


 エレナもまた、表情に決意の色が浮かんでいた。やがて洗い物を終えてショルダーバッグを手に取ると、ベッドで眠るミクに優しい声をかける。


「ミク。行ってくるね」


 すやすやと眠る赤ん坊の顔。眺めているだけで癒されそうだ。必ずここへ戻ってくるという決意表明も兼ねて、俺も「行ってくるぜ」と挨拶しておく。そして、彼女と共に部屋を出た。


 俺たちは最寄りの駅まで歩く。道中、エレナは周囲をきょろきょろと見回して警戒する。


 その横で、俺は彼女を見守る。


「……今のところ、それらしい人はいませんね。大丈夫っぽいです」


「あんたが言うと安心するぜ」


 マンションを出て数分歩いたところで桜木町駅が見えてきた。それだけなのに、物凄く長い時間がかかったような気がする。緊張感というものはこれだから厄介だ。


 改札口を通り、電車に乗り込む。通勤ラッシュは過ぎた時間帯なので車内は空いていた。座席に腰掛け、横浜駅に到着するまでしばらく待つ。


「……」


 特に会話は無い。昨夜の出来事が嘘みたいに思える。気持ちが張り詰めているせいか、エレナも俺も口を開かなかった。


 窓の外を流れる景色を眺めていると、ふとエレナが俺の方を見た。視線が合う。


「……昨日はごめんなさい。あなたのことを“リョウくん”なんて呼んでしまって」


「別に気にしちゃいないさ。むしろそっちの方が嬉しいくらいだ」


「つい、そう呼んでしまったんです」


「それって、俺があんたの死んだ弟さんに重なって見えるからか?」


 エレナはコクンと小さく頷いた。


「やっぱりそうなのか」


「……はい。昨日はあなたが私の弟の生まれ変わりだったらいいのに、弟だったら……リョウジだったら良いのにとずっと思ってました」


「マジかよ。そんなに似てるのか」


 身の丈以上に強がろうとする性格の他、実は目元なども少し面影があるのだという。その亮治リョウジとかいう彼女の弟がこの世を去ったのは5歳の時。地上げのヤクザに見せしめに殺されたと言っていた。昔話の想像以上の波乱さもさることながら、俺の顔がそんな幼児の面影を孕んでいようとは。何だか少し複雑だ。未だかつて童顔などと揶揄されたことは無かったのに。むしろ大人びてるだの、老け顔だのと揶揄われてきた方である。


「不毛な話ですよね。だって、あなたはリョウちゃんじゃないから……」


「ああ。そりゃそうさ。俺の名前は麻木涼平。それ以上でも、それ以下でもねぇ」


 けれどもエレナの気持ちも分かる。過去の傷とはなかなか癒えるものではない。失った肉親に少しでも似ついた者が目の前に現れたら、その形代として精神的に縋り、救いを求めてしまうことは誰にだって起こり得るのだ。


「あんたの過去に比べりゃ小さなもんかもしれねぇが、俺も親父がガキの頃に死んでるからな」


「今でも会いたいって思います?」


「たまにな。だから、もしもそっくりな顔をした野郎が目の前に現れたら、平気じゃいられねぇかもしれん」


「……そうですよね」


 少し目線を落としながら、彼女は微笑んだ。作り笑いだ。今となってはどうしようもないことだが、もしも仮に、俺がエレナの弟であったなら、姉のために惨劇を生き延びるということができただろうか。少なくとも、俺は無理だと思った。運命とは時に、あまりにも残酷な結果を人間にもたらしたりする。

 しかし、直後に上を向いたエレナの表情は明るかった。


「あの日、一人だけ生き残ってしまった自分を何度も責めました。パパやママが、リョウくんがいない世界で生きていたって、何になるのかって。でも、今は違います。生きてて良かったって思えます。何故だか、分かりますか?」


「うーん。分かんねぇな」


「あなたと出会えたから」


 頬にえくぼを作りながら、エレナは言った。


「生きていたから、麻木さんに出会えた。わずか一夜だけでも、弟が私の元に戻ってきたような気がした。これからもきっと、この先も、私が生きる理由には、あなたが必要なんです」


「え、それって……」


「だから、麻木さん。私を置いて死なないでくださいね」


 エレナは再び笑っていた。なるほど。彼女が俺にこうまでの施しを与えてくれる理由が分かった。


 エレナにとって、俺はリョウジの代わり。俺と接することで亡き弟の面影を感じ、再会した気分に浸っているのだ。なればこそ、昨晩は俺の上に跨りながら何度も『リョウくん、リョウくん』と呼び、涙を流していたのだろう。


「……」


 どんな顔をして、どんな反応を見せたら良いのやら。電車に乗るより前に俺の中で渦巻いていた複雑さは、さらに強まった。恋人なら未だしも、あろうことか幼くして殺された弟の代わりとは――。


 まあ、俺のことを一応は大切に思ってくれるのならば良いだろう。元より恋愛に発展させてはならない関係だ。エレナが弟に対して抱く愛情の異様さはともかく、俺を必要としてくれるならば応えてやろうではないか。こちらとしても、今は彼女のことが必要なのだから。


「……ああ、ありがとな。ところでエレナさん。大学の図書館なら隠れられるって言ってたけど、そこはどういう場所なんだい?」


 俺は緩やかに話題を変えた。


「けっこう大きめの図書館ですよ。閲覧室とか自習スペースとかがあって、一般書コーナーもあって。もちろん学生も多いんですけど、一般の方もよく勉強したり調べ物をしたりしていますね。もうすぐ冬休みのシーズンですけど、小学生も来たりしますよ」


「それじゃあ本も多そうだな。俺、図書館なんか行ったことねぇから分かんないけど」


「もちろん多いです。私は医学部ですから、読むのは専ら医学関係の本ですけど」


 漫画もそれなりに置いているというので時間は潰せそうだ。インテリたちが集まる大学という空間ゆえに、あまり居心地は良くなさそうだが。ともかく、そんなこんなで電車に揺られること27分。根岸線と京急本線を乗り継ぎ、目的地の駅に到着した。改札を出て駅を出るなり、俺たちは左右を見回す。


「それらしいのはいねぇな」


「でも、油断しないでください。誰が見てるか分かりませんから」


「ああ。分かってるさ」


 時刻は午前10時前といったところか。こちらの駅はキャンパスのちょうど目の前に立地しており、駅の出入口からは文学部の校舎が見える。人通りもそこそこある。横浜市金沢区福浦3丁目、横浜よこはま公立こうりつ大学だいがく医学部だ。


 エレナのすぐ後ろを行く形で、俺はゆっくりと歩を進めた。


「へぇ……ここが大学って所か……」


「そうですね。毎年、数多くの医者を輩出しています。国内でも有名な方なんじゃないですかね」


「なるほどな。まあ、俺には縁もゆかりも場所だろうな」


「そんなことも無いと思いますよ。麻木さんだって大学に行く未来があるかもしれない」


 非現実的な未来の話はさておき、駅から歩いておよそ5分のところにそのキャンパスはあった。周りにはコンビニや喫茶店があり、学生向けの運動場もあるようだ。そして、そのすぐ近くにエレナの通う福浦校舎がある。小高い丘の上に建物があって、校舎丸ごと医学部に使われている。


「さて、そろそろ行きましょう」


「ああ」


 俺とエレナは正門から敷地内に足を踏み入れる。


 入ってすぐのところに守衛所があった。警備員は2名おり、それぞれ受付用の窓口に座っている。エレナは正面から堂々と入ろうとするが、俺は念のため少し離れたところで立ち止まり、様子を見ることにした。受付窓越しに事務員らしき女性が顔を出す。


「エレナちゃん! おはよう!」


「おはようございます。今日は従弟と一緒なんですけど、見学しても大丈夫ですか?」


「いいわよ。どうぞどうぞ」


「ありがとうございます」


 エレナは鞄の中から学生証を取り出し、提示する。なるほど。入り口で守衛に身分証明を見せねば中へ入れない仕組みか。部外者の出入りが許されているとはいえ、一応は防犯体制が整えられているようだ。

「はい。どうも。えっと、そちらのお兄ちゃんのお名前は?」


「麻木涼平」


「エレナちゃんの従弟だったわよね。高校生かしら?」


「まあ、そんなとこかな」


 本当は違うのだが、ここはエレナに従い役柄を演じておこう。「将来は横浜公大医学部の受験を考えている高校1年生」という体にしておけば、俺の実年齢を鑑みても不自然ではあるまい。学校での人間関係がうまくいっておらず、今日は平日であるものの気晴らしに従姉の大学へ見学に来たということにしておいた。


「学校をサボすのは感心しないけど、たまの気晴らしなら大丈夫でしょう。進路を決める助けになると良いわね。ごゆっくり」


 余裕で誤魔化せた。守衛所を潜り、俺達はいよいよキャンパス内へと進んでゆく。


 やがてエレナの後に続いて緑の広場まで来た。あちらこちらにベンチが置かれていて、学生たちが読書をしたり、談笑したりしている。12月という寒い時期ではあるものの、屋外は彼らにとって憩いの場所であるようだ。


「それじゃあ麻木さん。私は講義に行ってきます。あちらに見えるのが図書館です」


「おいおい。マジかよ……」


 エレナが指差した方向にあった建造物を見て、俺は度肝を抜いた。想像していたよりも、かなり大きかったのだ。赤レンガ造りで、とても荘厳な印象を受ける。それだけでひとつの校舎と呼んでも差し支えないくらい。初めて見るせいかその迫力に俺は圧倒されてしまう。


「あれが図書館なのか? スゲェな……」


「ふふん。なかなかでしょう。蔵書数も多くて、学生にも人気ですよ」


「そりゃ大したもんだ。見た目もすっげえ立派な感じだな。東京駅とか港の倉庫みたいだ」


「でも、内部はめちゃめちゃ新しいんですよ。エレベーターまであって。何せ一昨年に建て替えが完了したばかりですからね」


 興味深い情報を得た。本を読む前に、外観と内部構造をぶらりと見て回るのも面白いかもしれない。意外と退屈しなさそうだ。


「では、15時になったら迎えに来ますので。それまで麻木さんは図書館ここに居てくださいね。くれぐれも外へ出ないように」


「あははっ。分かってるって。じゃあな」


 エレナと別れた後、俺はひとりで図書館へ向かった。


 館内に入ると、まず最初に吹き抜け構造になっている二階部分が目に入る。フロアの中央には螺旋階段があり、そこを上ると四階へ行けるようだ。まだ午前中だというのに既に学生たちでごった返している。大学の図書館とはここまでに賑わいを見せるものなのか。たまげたものだ。


 俺はとりあえず中へと進んでみる。


「うおっ……これはまた凄いな」


 思わず声が出てしまった。まるで雑木林の如く、無数の書架が並んでいたのだ。さっそく本のご登場か。どれもこれも専門的な書籍ばかりで、医学関係のものだけでなく、哲学や心理学、物理学、中には全般外国語で記された洋書も置いてあるようだ。


(まあ、俺には訳が分からなそうだな……)


 高校に行っていないどころか義務教育すらも殆ど放棄していた無学な頭で理解できそうにない。暫し館内を見学させてもらい、その後は漫画本のコーナーにでも行くとしよう。


「あれ。学外のご見学者様ですか?」


「えっ、ああ……」


「もしよろしければ3階に行ってみてください。横浜の歴史を総合的に学べるブースがありますよ。市の新しい試みで、図書館と博物館を融合させた知の拠点を作ったのです。是非とも」


 職員らしき女性にやや熱烈気味に勧められた。そんな施設もあるのか。暇潰しがてら、せっかくだから行ってみるとするか。


「まあ、気が向いたら行ってみるわ」


「どうぞどうぞ。楽しんでいってくださいね」


 親切丁寧に教えてくれた女性に礼を言い、俺はさっそく3階のブースへと向かった。階段を上り、廊下を突き進むとそこには『横浜の歴史』と題されたコーナーがあった。なるほど。確かに博物館のような雰囲気を感じる。


(やっぱ俺には難しいわ……)


 展示されていた資料を眺めてみたものの、正直なところあまり面白くなかった。そもそも俺自身、歴史は得意じゃない。「横浜市博物館の別館としても機能している」などと言われても、そもそもそちらへ行ったことが無いので分からないのだ。ましてや、興味も有りはしない。


 ただ、その中で目を引く展示があった。


『現在、“横浜”と呼ばれている地域は1180年に源頼朝が六浦津(金沢区)を鎌倉幕府の交易港と定めたことでその歩みが始まりました。1239年には時の権力者、北条泰時が周辺地域の開拓を行ったことで、人と物の行き交いがより活発になっていきます』


『それから江戸時代に至るまで、横浜は長らく物流の拠点である宿場町として栄えていました。周囲には新田開発にとって拓かれた水田が多く広がり、とてものどかな雰囲気を醸し出していたといいます。しかし、時代が幕末に進むと、そんな横浜に大きな転機が訪れます。1853年、アメリカのペリー提督率いる黒船の来航です』


『黒船来航がきっかけで翌1854年に日米和親条約が締結され、続いて1858年の五か国条約で米・英・仏・蘭・露の公使館と貿易港ができると、横浜は一気に外国人であふれかえり、国際情緒あふれる先進貿易都市へと変貌しました。現在の中区に外国人居留地作られるや否や、周辺地域は麻薬と売春の巣窟と化していくことになります』


『風紀の乱れを憂いた幕府は諸外国とかけ合って港の閉鎖を試みますが、まったく相手にされませんでした。そんな状況に憤慨する一部の日本の武士たちは横浜で手当たり次第に外国人を襲撃、殺傷。いわゆるじょう運動が高まりを見せ、治安が急速に悪化しました』


『やがて明治時代を迎えて日本が列強の仲間入りを果たすと外国人居留地は解体されましたが、長きにわたって持ち込まれた弊害はなかなか消えるものではなく、麻薬の汚染はその後も街を蝕み続けました。明治維新から100年以上が経過した現代、平成の世にあってもなお、横浜は違法薬物と完全に縁を切れていないのです』


きたる新時代、21世紀を前にして、このままで良いのでしょうか? 決して良いはずはありません。古き悪しき風潮を断ち切り、誰もが安心して暮らせる新しい横浜をつくるために、私たちには何ができるのか。一緒に考えてまいりましょう』


 平安時代末期から現在に至るまで、横浜の歴史をざっくりと説明したビデオ展示。どうやら横浜の治安が悪いのは今に始まったことではないらしく、幕末の頃には既に麻薬が蔓延していたらしい。


 本来ならばそういったものを取り締まるべき奉行所の同心や明治政府の役人・警官たちでさえも裏ではこっそりと阿片アヘンなどの薬物を嗜み、外国人と組んで悪事を働いていたというのだから呆れたものだ。


 気骨ある善良な政治家の主導で昭和初期に大規模な取り締まりが行われ、一旦は街の浄化に成功するも、太平洋戦争の敗戦後にやって来た占領軍の将兵たちが再び麻薬を持ち込んだことで汚染状態に逆戻り。もはや戦前以上に血生臭い場所となってしまった。



(そっか……昔から、ろくでもない町だったんだな)


 ヤクザが跋扈するより以前に犯罪の温床地帯だった横浜市。世界有数の国際貿易都市として名高い一方、不法行為が後を絶たない“日本最悪の街”と揶揄される現状はいまなお続く。


 そうした悪弊を大鷲会の藤島は少しでも変えようとしていたのだろうか。彼が麻薬を心の底から憎み、嫌っていたのは、長年にわたって外国人に蹂躙されてきた横浜の歴史的背景を嘆いていたからなのだろうか。今となっては尋ねる術は無いが、あの爺さんならばきっとそうだったと思う。


『これからの横浜の街を作るのは、他でもありません。あなた方、未来ある学生諸君です。横浜のためにできることを考え、善良な市民として良心に従って行動に移してくれることを期待します』


 映像の最後にはこんなメッセージが流れた。発言の主は横浜市長の和泉義孝。どうやらこの展示自体が和泉市長の肝煎りで作られたものらしく、元々は単純に貿易港としての歴史を紹介するだけだったのが、和泉の市長就任後すぐに変更されたのだと先ほどの女性職員が語った。


「短期間で展示を作り替えないといけないもんだから、本当に大変でしたよ。市長は強引なんですよ。『横浜から暴力団を完全に追放する』って公約を何が何でも実現しようとしている」


「ああ、そうなんだ……」


「でもまあ、ヤクザを根絶やしにしてくれるのは有り難いです。特に村雨組。あれが滅んでくれたら横浜市民はもっと安心して暮らせるでしょう」


「へえ……」


 どうりでプロパガンダ色が強かったわけだ。とても気まずかったが何とかやり過ごして1階へ降りた。村雨があくどいシノギで市民を搾取しているのは事実なので、怨嗟の声が聞こえてくるのも無理はなかろう。俺自身、とても悩ましい問題だなと思った。村雨組の跡目に収まったら、そういう奴らをどうやって黙らせるかを考えていかなくてはならない。


(っていうか、俺は跡目を継げるのか……?)


 ふと現実が頭をよぎる。将来のことを想像するよりも、この先どうするかを考えなくては。沖野たちの誤解をといて和解に漕ぎ着けない限り、村雨組には戻れない。俺に将来なんて無いのだから。


 ただ、それには暫しの時間がかかりそうだ。エレナに厄介になりつつ時を稼ぎ、ほとぼりが冷めるのを待つ。あるいは組長や若頭がどうにかしてくれるのを待つ。悔しいが、俺には「待つ」しかできないようだ。気が抜けない展開はまだまだ続くのだろう――。


 途方もない煩わしさに、またしてもため息がこぼれた、その時。不意に館内放送が鳴った。


『緊急連絡。講義棟3階にて異様事案発生、付近の学生および職員はただちに避難、現場には近づかないでください。繰り返します……!』


「えっ?」


 アナウンスの内容に耳を疑う。思わずじっとしてはいられず、展示室の窓から外を見た。


「おいおい、何だよあれは!」


 思わず声が出る。いつの間にかキャンパス内は異様な光景に包まれていた。図書館の正面にある校舎から、次々と学生や教員たちが逃げ出してくる。誰も彼もが軽いパニックを起こしているのか、一目散に走っている。中には顔面を恐怖で歪ませている者もいた。


(何が起きたってんだ……!?)


 明らかに事件が起こっている。校舎の中で何か重大な出来事が発生しているのだ。そうでなくては人が恐慌状態で逃げ惑ったりはしない。


 確か講義棟にはエレナが居たはず。彼女が出席する授業は何階で行われているのか俺は存じていない。どうにも嫌な予感が首をもたげてくる。よもやエレナに危険が迫ったのではあるまいか。最悪の可能性も考えられる。


(俺を狙って村雨組のカチコミか!?)


 流石に有り得ないと信じたい。ここには多くのカタギの者がいるのだ。仮にそうなら奴らの正気を疑ってしまう。


 されども、尋常ならざることを平気でやってのけるのが村雨組。残虐魔王の薫陶を受けた連中だ。目的のためならテロ行為だって辞さないかもしれない。


 図書館から出るなと言われているが、エレナの安否が気がかりだ。とにかく、行ってみなければ。俺は駆け足で階段を下り、ごちゃ混ぜになって逃げる人混みを掻き分けて講義棟へと入っていった。


(頼む。無事でいてくれ……)


『講義棟』とは、大学の講義が行われる建物群の総称だ。学生や職員らが通う本館と、その別館である『実習教室』と呼ばれる建物が幾つもある。別館は様々な研究室に使われていて、事が起きている2号館は主に医療系の授業に使われているらしい。


 そしてエレナが受けているのは恐らく『医学科』の実習科目であろう。彼女は医学部の学生なのだから。


 階段を駆け上り、騒ぎの起きている方を目指して走る。廊下の先には黒いスーツを着た男たちが4人ほどたむろしており、全員、ニヤリと不敵な笑みを浮かべている。


(や、やっぱり……!)


 悪い予感は当たった。奴らは村雨組の組員。昨晩、沖野と共に俺を襲撃した連中だ。


「おう、来やがったか! 麻木!」


 気色の悪い表情で襲いかかってくる男たち。俺は左手を前に突き出す。


「クソどもが、退けやあ!!」


 叫び声を上げながら突進する。まずは一番手前にいた男の顔を掴み、壁に叩きつけた。男は後頭部を強く打ち付け、そのまま動かなくなる。残りの男たちは一斉に銃を抜き放った。


「蜂の巣になれや、麻木ッ!!」


 拳銃を構え、彼らは次々と発砲する。だが、弾の軌道が見え見えだ。俺は難なく避ける。弾丸は明後日の方向に飛び去って行った。そこで生じた隙に乗じて、間合いを詰めさせてもらう。


 ――ドガッ。


 男の顔面に膝蹴りを入れる。鼻血を出しながら倒れる仲間を見て、残る2人は顔を見合わせていた。まさか自分達の攻撃が全く通用しないなんて思ってもいなかったんだろう。つくづく間抜けだ。奴らが呆然としている内に、俺は懐に入り込み、そして相手の顎に向けて掌底を放つ。もう片方の左手は反対側に居た1人の喉を正拳で突く。いずれも急所を正確に攻撃した。あっという間に制圧完了だ。


「お前らじゃ相手にならねえよ。出直してこい」


 吐き捨てるように言い放つ。そして俺は床に転がっている拳銃を拾い上げ、構える。講義室の中に居る男の正体は既に察しがついている。若頭補佐だ。あの男が自らの手勢を率いて大学を襲撃したのだろう。無関係なカタギを巻き込む・巻き込まない以前に、警察に介入されるリスクは考えなかったのか。まったく、何もかもがイカれた野郎だ。


(早くあいつを何とかしないと、エレナさんが……)


 拾ったコルトガバメントをしっかりと構え、俺は室内に踏み込もうとする。しかしながら、左手がドアの手すりを掴みかけたところで自然と動きが止まる。


 血生臭い。血の臭いがやけに鼻を突いてくるのだ。

 またしても嫌な予感を覚えつつ、ゆっくりと扉を開く。


 視界に入ってきた光景は、例によって予想通りのものだった。衝撃というか、息を吞んでしまう。


「ええっ……!?」


 沢山の人間が死んでいた。床が真っ赤に染まり、半ば水たまりと化していて、そこに大量の返り血を浴びた沖野一誠の姿があった。


 悪趣味にも、ワイシャツの上から古めかしい籠手こてを両腕に付けている。手に嵌めているのは弓掛ゆがけ。手袋の代わりか。


「……」


 周囲には数十人の男女の骸が転がっており、見るもひどい有り様だ。中には腕や手足を切り落とされ、バラバラになった者もいる。白髪の男性やミニスカート姿の若い女、それからセーターを着た青年。いずれも死体へと変わり果てている。


 つい少し前までは生きていたという事実の名残りなのか、恐怖に歪んだ表情のまま白目を剥いて絶命している奴もいた。


 荒れに荒らされた講義室の中で、やがて俺はエレナの姿を見つけた。彼女だけはまだ生きていて、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらも懸命に逃げようとしている。しかし沖野の日本刀が彼女の首筋に突きつけられて、動けなくなっていた。


「お、麻木ィ……やっぱり来たな。遅かったじゃねぇか。待ちわびたぜぇ」


 沖野がこちらを見てニヤリと笑う。彼の身体にはおびただしい量の血液が付着していた。日本刀にもべっとりと血がこびりついており、刃先からはポタポタと赤い雫が垂れ落ちている。


「テメェ……!!」


 怒りが湧いた。今すぐにでも殴り倒してやりたい気分だ。


 されど、ここで冷静さを失うわけにはいかない。今はエレナを助けることが最優先事項だ。そう自分に言い聞かせ、なんとか激情を抑え込む。


「おい、銃を捨ててそこに跪けや。この女の命が惜しかったらなァ!」


 沖野が愉快そうな声で言い放つ。涙声でエレナが叫んだ。


「麻木さん、来ちゃ駄目です! 逃げてください!!」


 俺は歯噛みしながら、拳銃を握る手に力を込める。


「クソ野郎が……」


「はははッ! その表情だよ! 俺が見たかったのはなぁ!」


 沖野は実に嬉しそうだ。


「お前が来るのがあんまり遅いからよ、無駄に人を斬っちまった。この女、なかなかお前の居所を吐かねぇんだ。薄情なもんだよなァ、大事な先生や同級生や次々と輪切りにされてくってのによぉ!」


 麻木涼平を探し出すためにエレナを脅した沖野。たったそれだけで大量殺人に走るとは。やはりこの男はぶっ飛んでいる。


「おい、姉ちゃん。言っとくけどな。こいつらが死んだのはお前さんのせいだぜ? さっさと麻木ィの居所を吐いてさえいれば、みーんな死なずに済んだんだよ」


「……っ!?」


 嗚咽の中、エレナは俯く。これが沖野一誠のやり方か。流石にもう我慢ならなくなり、俺は白鞘刀を自慢げに振り回す若頭補佐を一喝した。


「黙りやがれ。殺人鬼が」


「おいおい。何をイラついてんだ? お前だって同じ穴のムジナのくせに」


「関係ねぇ人間まで巻き込むなんざ、とんだゲス野郎だな。ほんの一瞬でもあんたに気を許した俺が馬鹿だったぜ」


「けっ、偽善者カマトトぶってんじゃねぇよ。俺たちはヤクザだ。目的のためには他人の血肉を食らい、利用する。それの何がいけねぇってんだ? ああ? お前も組長から教わったろうが、このガキ!」


 確かに、村雨組長からは何度か言われたことがある。生きるために他者を食らうことこそが極道の本分であると。つまり、何か事を成さんとする際には手段を選ぶなということ。綺麗事など必要ない。それは俺も重々承知だ。むしろ、共感している。


 だが、今回ばかりは気に食わなかった。他の連中などどうでも良い。エレナに刃を向けたこと。ただ、それだけが許せない。一万歩譲ったとしても、俺には受け入れられない。


(よくもエレナさんを……)


 憎しみのこもった視線を沖野に突き刺す。当の本人はおかまいなしで余裕たっぷり。むしろ、こちらの動きを見て楽しんでいるようでもあった。


「まあ、いいや。とりあえずよォ、この女の命が惜しけりゃ土下座しろ。俺に詫びを入れるんだ。『昨日は殴って申し訳ありませんでした』ってな」


「うるせぇ。誰がするか。どうせその後は殺すんだろ。中川のスパイって汚名をおっかぶせて、エレナさんともどもな。テメェはそういう奴だ」


「なら、今すぐこの女の首を刎ねてやろうか?」


 直後、沖野は白鞘の刀を振り上げて構える。エレナの表情が死の恐怖で蒼白した。けれども分はこちらにある。


「おい、沖野。刀を捨てやがれ。銃を持ってんのが分からねぇのか」


「銃を持ってるから何だってんだよ。女を斬る前に俺を撃つってか? 馬鹿にすんじゃねぇよ。俺は橿原鬼神流の免許皆伝者だ。俺の剣は弾丸の速さなんて比にもならん。やってみやがれ。テメェにやれるもんならな!」


 ――ズガァァン!


 俺は即座に発砲する。


 銃声の爆音が鳴り響き、鉛玉が一直線に沖野の身体へと向かっていく。


 しかしながら、奴はなんとそれを素早く刀で斬ってみせた。驚愕した俺は立て続けに引き金を引くが、いずれも同様に斬られる始末。何て野郎だ。


(バケモノかよ……!)


 しかし、それによって沖野の注意が俺に惹き付けられた隙に、エレナは這う這うの体で逃げ出し、こちらへと非難してくる。コルトガバメントの装弾を全て撃ち尽くす時には、彼女は沖野から完全に距離を取り、人質状態を自ら脱していた。


「あ、麻木さん……」


「もう大丈夫だ。俺が守ってやるから」


「は、はい……」


 床に溜まった血で着ている服を真っ赤に染め、顔も汗と涙でぐっしょり濡らしながらも、エレナは至って無傷。見たところ怪我はしていないようだ。問いかけにもきちんと反応で着ている。やはり、母は強し。彼女は芯のある女性だ。


 ホッと胸を撫で下ろした後、俺は空になった銃を捨てて再び沖野を睨んだ。


「まさか拳銃ハジキの弾丸を全て斬っちまうなんて。お前のことを見くびっていたぜ」


「言ったろう。俺の剣術は銃弾より速いんだよ。45口径だか何だか知らんが、そんな豆鉄砲じゃ俺は殺れねぇぞ。麻木ィ。どうする? 今度は丸腰で俺と戦おうってのか?」


「チッ……」


 おあいにくさま、こちらには得物が無い。拳銃は先ほど撃ち尽くしてしまった上に、ナイフの類はポケットに入っていない。


 一応、外で気絶している若頭補佐付きの組員たちが武器を持っているが、廊下へ取りに行っている余裕などは無い。その間にエレナが斬られてしまっては困るのだ。


(くそっ、どうすれば良い……!?)


 何かしら、沖野の日本刀に対抗できる武器は無いか。代わりになるものを探して、俺は必死で教室内を見渡した。


 すると、ある物が目に飛び込んでくる。それは教員の座るパイプ椅子だった。


 今は斬殺体となっている白髪の教授が用いていたものだろう。襲撃を受けた際に取り乱したのか、ちょうど俺の足元に転がっていた。


 以前、テレビのプロレス中継で観たことがある。レスラーがパイプ椅子を凶器として用い、相手を痛めつける反則攻撃を。あの要領で使えば、少しは武器の代わりになるのかもしれない。


 直感でひらめいた俺は、椅子をひょいと拾い上げて折り畳み、両手で構えた。


「おお? 何だそりゃ? そんなガラクタで俺と戦う気か?」


「ああそうだ。これであんたを殴り殺してやる」


「はぁ? お笑いかよ。パイプ椅子で刀に勝とうなんざふざげてるぜ。それともあれか? この女の首を斬り落とされるくらいなら、ひたすら時間稼ぎに徹して自分が斬られようって腹積もりか?」


「どうとでも言え。惚れた女のために死ねるなら本望さ」


 こちらの返事に沖野は失笑した。


「啖呵の切り方だけはいっちょ前みてぇだなァ……だがよォ、世の中はそんなに甘かねぇんだ。どうあがいたって、勝てねぇ時は勝てねぇ。大人しく負けを認めた方が良い時だってある。今回の場合、その方が楽に死ねると思うんだがな」


 しかし、俺は一切動じない。沖野一誠が無敵の剣豪だろうと何だろうと、立ち向かうしかない。奴は自らの腕に絶対の自信を持っている。自他ともに認める使い手であり、おそらく手強い奴だろう。それでも戦わねばならない時が、この世の中にはあるのだ。守るべきを守るために。


「……その言葉、そっくりそのままお返しするぜ」


「ああ?」


「勝てないのはテメェだって言ってんだよ、このクソ野郎!!」


 叫び声を放つや否や、俺は急ごしらえの得物を構えて全速力で突進する。


「うおおおおおおーッ!」


 しかし、沖野は冷静にこちらの動きを読んでおり、すぐさま剣で薙ぎ払いを放った。刃先はパイプ椅子に当たり、上部分がすっぱりと切断される。流石は日本刀、凄まじい切れ味だ。


「ぐううっ!」


 せっかく手にした武器をあっけなく失うことになった俺だが、それでも諦めない。すかさず2撃目が来ないうちに、沖野の腹部を狙って崩拳を放つ。


「無駄だ! 昨日と同じ手など通じんッ!」


 しかし、沖野はバックステップで素早く飛び退いてこちらの攻撃を回避した。俺は彼を追撃し、続けて3連続でパンチを放つが、いずれも空振りに終わる。


「チイッ!」


「甘いんだよ! 青二才が!」


 日本刀を高く構える動作が見える。沖野は俺の動作を完全に見切った後、流れるようなモーションで反撃の一閃を打ち込んできた。刀の切っ先が俺の顔面に迫ってくる。


(しまった! 間合いを詰められた!)


 ――ザシュッ!


 間一髪で回避行動を取るも、額に鋭い痛みが走る。それと同時に、おびただしい量の血が噴き出す。視界が半分赤く染まった。


「ぐっ……」


 気合いで痛みに耐えたので怯みはしなかったが、後退するので精一杯。どうにか沖野から距離を取り、体勢を整える。だが、その時は既に額からの出血は顔を伝って床にまで滴り落ちていた。


「リョウくんっ!」


 エレナが悲鳴を上げる。俺は思わず叫んだ。


「エレナさん、逃げろ!!」


「で、でも……それじゃ亮……麻木さんが……!」


「良いから逃げろ! ここに居られると足手まといだ! 早く行けーッ!!」


 彼女はビクっと身体を震わせた。俺の声を聞いて、ようやく正気に返ったらしい。それからエレナは慌てて教室から走り去っていった。


「はははははっ!! 馬鹿めが。命知らずにも程があるぜ。今更逃がしたりはしない。女の首は俺の刀で必ず斬り落としてやる」


 獲物を追う狩人のごとく、沖野は彼女の後ろ姿を追っていく。奴は俺のことを無視してエレナを追いかけてゆく。


「おい待てよ! テメェの相手はこの俺だ!」


 傷の痛みを押し殺しながら叫ぶが、俺の動きは止まる。両足に痺れが出てしまったのだ。古傷の後遺症だ。こんな時に、まったく間の悪い事この上ない。


(くそったれが……)


 必死で足を引きずって動くが、思うように前へ進まない。このままでは終わりだ。俺は喉全体を使って、ありったけの声で叫んだ。


「エレナさん、逃げろォォォォォォォーッ!!!」


 頼むから逃げてくれ。俺と関わったばっかりに、死なせてしまうなんて。それだけは嫌だ。まっぴら御免だ。俺は太ももを強く何度も叩いて感覚を戻すと、遅れをひどく悔やんで教室を出た。


「……っ!?」


 だが、そこで俺が目にした光景は実に意外なものだった。


 エレナは斬られていない。とある男に庇われる形で、至ってピンピンしている。一方で沖野はと言えば、女との間に入ったその人物を前にしてすっかり刀を落としている。


(ど、どうしてここに……?)


 そこにいたスーツ姿の男の姿に、俺は驚いた。


「カ、若頭カシラ……!?」


 村雨組若頭、菊川塔一郎。どういうわけか、彼は自らを盾にしてエレナを守っていたのだ。右手に拳銃を握り締め、沖野と対峙していた。しかも、もう片方の空いた手でエレナの肩を抱き寄せており、その姿はまるでヨーロッパの御伽話に登場する騎士のようだった。


「これはどういうことだ? 沖野クン。大学を襲うなんて聞いてないが?」


「か、カシラ……申し訳ございません。俺としたことが、つい……」


「誤って済む問題じゃない。こんなことをしでかして。タダでは済まんぞ」


 冷たい表情の若頭を前にして、沖野は恐縮しながら刀を床に置いた。あまりにも急すぎる展開に、思考がまったく付いて行かない。訳が分からず、混乱する俺。


(どうなってる……!? 何で菊川が……!?)


 唖然とする俺をよそに、菊川は側に控えていた男に言った。


「おい、キミ。その刀を拾え」


「はい」


「そいつを持って、表の警官隊に投降しろ。手はず通りにな。分かってるよね?」


 若頭に視線を注がれた男はコクンと頷く。上下ともにボロボロの服装で、頭髪は禿げていた。彼は言われた通りに薄汚れた掌で刀を握ると、逆手持ちに拾い上げたのだった。


「……あの、これで借金はチャラにしてくれるんですよね?」


「ああ。もちろんさ。キミさえ言うことを聞いてくれるなら悪いようにはしない。家族もうちの組が責任をもって面倒を見てゆくと約束しよう」


「ありがとう……ございます……」


 力なく返事をした禿げ頭の男は、刀を持ったまま、とぼとぼと歩いてゆく。俺はそれを無言で、何も考えずに、ただ見送るしかなかった。


「……」


「ああ、麻木クン。それにエレナちゃんも。無事で良かったよ。この度は沖野に思い違いがあったみたいで、本当に怖い思いをさせたね。でも、もう大丈夫だよ。さあ、早いとこ大学ここを出よう」


 それから俺とエレナは菊川の先導で講義棟を出る。外は恐ろしいほどに騒然としており、沢山の警官や救急隊、報道関係者、そして群がる野次馬であふれ返っていた。上空にはヘリコプターも旋回しているのが分かる。


「容疑者を確保! たった今、警官が容疑者の男を確保しました! 年齢は40代後半ほど、やせ形の……」


 テレビ中継のリポーターがけたたましく情報を連呼し、先ほどの禿げ男が警官に取り押さえられている所へ野次馬が殺到。俺たちはその間を縫うように正門近くまで移動した。


「あっ……ああ……!」


「よしよし。もう大丈夫だよ。何も心配することは無い。この事は忘れるんだ。忘れてしまえば、何も恐れることは無いんだから」


 わなわなと震えるエレナの肩を優しく擦って慰める菊川。その一方で、俺には穏やかに言った。


「苦労をかけたね。麻木クン。沖野の奴、なかなか言うことを聞かなくてね。僕がもうちょっと彼を見張っておけば……」


「説明してくれ。こらぁ、どういうことだ?」


 展開の早さに頭が付いていけない。思考回路はもはやショート寸前。あの場面で何故に菊川はエレナを助けたのか。そもそも何故に、彼はこの大学へ来ていたのか。そして、沖野の刀を持って警官隊へ“投降”したあの男は一体何者なのか。全てが理解不能。順を追って、イチから説明して欲しかった。


「説明も何も。単純な話さ。麻木クンを裏切り者だと思い込んだ沖野が暴走して大学へ殴り込みに行ったから、僕は慌てて後を追った。そしたらギリギリのところでエレナちゃんを助けられた……と。ただ、それだけだよ」


「あのハゲのおっさんは何だ? 沖野の代わりに警察サツに捕まったみてぇだが?」


「あれは朋友が用意してた“奴隷”さ。沖野が何か取り返しのつかないことをしてるんじゃないかと思って、念のために連れて来たのさ。そしたら案の定っていうか」


 要するに身代わりの出頭要員だ。元は村雨組傘下の闇金融で借金が溜まり首が回らなくなったギャンブル狂で、借金のカタに身柄を押さえていたのだという。今回、あの男は借金帳消しと妻子の保護と引き換えに出頭を引き受けたのだとか。見た限り沖野は30人前後は殺していたので、死刑判決は確実だろうが。


「身代わりがいたとは初耳だな。でも、村雨組は警察サツを賄賂で飼い慣らしてるんじゃなかったか?」


「賄賂でどうにもならないことだってあるんだよ。これだけの大事件が起きて犯人が捕まらなかったんじゃあ、警察も存続自体が危うくなるからね。あちらさんとは持ちつ持たれつ、ウィンウィンの関係でやっていかないと」


「そうかい。難しいこったな……」


「しばらくニュースは今日のことで持ちきりになるだろうね。何せ、戦後最悪レベルの大量虐殺事件が起きちゃったんだから。まあ、情報の統制もしっかりやってるから。村雨組うちに火の粉がかかることは無いよ」


 軽く笑い飛ばして見せた後、菊川は後頭部を掻きながら言った。


「来るのが遅れて済まなかったね。どうせなら、昨日、沖野から話を聞いた時点で奴をボコボコにして動けなくしておくんだったよ。まさかこういう事態になると思ってもいなかった」


 昨晩、沖野から「麻木涼平が中川会と内通していた!」と報告を受けた際に窘めたという菊川。


 頭に血が上りやすい沖野が説得を容れないのは既知の通り。彼の云う通り、もっと早い段階で“実力行使”に出て貰えれば、こんな惨劇は起きなかったというのに――。


 納得いかない気持ちを抑え、俺は若頭に問うた。


「来てくれたことには感謝するよ。エレナさんを守ってくれてありがとう。ここはどうやって調べたんだ?」


「調べるも何も。ケツを持ってる店の従業員の個人情報は把握してるからね。横浜公大に通ってることも前々から知ってたよ。ヤクザにとって情報とは酸素みたいなものだからね。それが無くてはやっていけない」


「そうかい。あんたはどう思ってるんだ? あんたも沖野に同調して俺が裏切り者だと思うのか?」


「いや。全く思っていない。キミは僕らの仲間だよ。それは揺るぎない事実だ」


 思わず目を丸くした。曰く、本庄とのツー・ショット写真については、俺が村雨組長から極秘の使いを請けていたものと認識しているらしい。菊川は続ける。


「それがどういう用事だったのかについては敢えて聞かないよ。元より朋友は秘密の多い男だ。裏でどんなことをしていようが、僕は朋友の腹心。黙って従うまでさ」


「……感謝するぜ」


「けど、組の連中は違う。キミと本庄の関係について疑う者も少なくない。今回暴走したのは沖野だけだが、下手をすれば大半が奴に加担してもおかしくは無かった。何らかの説明が必要だね」


 何もかも小泉が原因。奴が件の密会写真をばら撒いたことでこうなった。今すぐにでも村雨邸へ飛んで帰って奴を殺してやりたいところだったが、さすれば却って連中を昂らせてしまう。俺の口から弁解をと言われても、俺が中川会の内通者でない事実の証明など、どうやってすれば良いのか。まったく分からない。


 ちなみに世間一般において「〇〇でないことの証明」をする必要など無く、それを強要する行為は“悪魔の証明”と呼ばれているのだが、無学だった当時の俺は知らず。


 ただ、菊川にとりなしを頼むしかなかった。


「任しといてよ。組の皆は僕が説き伏せておくから。それまでキミは開化研に泊まった方が良いかもね。屋敷に居ると、寝込みを襲われるかも分からない」


「ああ、そうか。だったら、しばらくは本部を離れた方が良いかもな……っていうか、そんなにかよ」


「うん。仕方ないね。おまけに君は怪我をしていることだし」


 事をしでかしたのは沖野たちの方だというのに、どうして自分が屋敷を離れなくてはならないのか。納得がいかない部分は会ったものの、俺は渋々従う他なかった。額の傷はざっくりと開いている。止血は済んでいるが大事を取った方が良いのかもしれない。どうせならエレナに治療を頼みたかったが――。


「ああっ……あああ……」


 当の彼女は茫然自失。完全な放心状態だ。まあ、あれだけの惨劇を目の当たりにしたのだ。


 無理もない。


「大丈夫か? エレナさん」


 声を掛けると、彼女は虚ろな目でこちらを見つめて来た。その瞳には涙が溜まっている。


「あ、麻木さん……! 私は一体どうしたら……? 私のせいで、あんなことが……」


「あんたせいじゃない。気に病む必要なんて無いんだ。悪いのは全部、沖野だ。あいつが勝手に勘違いして暴れただけエレナさんは何も悪くない」


「ううっ……でも、このままじゃ麻木さんが……」


 嗚咽するエレナ。俺は彼女の肩を抱き、背中を擦る。


「俺は大丈夫だ。安心してくれ。死んだりしないから」


「涼平さん……」


「そう簡単に殺られるタマじゃねぇよ」


 何とかエレナを宥めようとした。しかし、結局のところ彼女は俯いたまま。その日は元気を取り戻すことは無かった。


 菊川の配慮で自宅まで警護付きで送られることになった彼女の背中を見て、俺は己の無力さを恥じ入ることしかできなかった。


「あの様子じゃあカウンセリングが必要だろうね。可哀想に」


「……沖野の野郎はどうすんだよ。元はと言えば、あいつの暴走じゃねぇか」


「後できつ~く説教しておくよ。しばらくは他の街にでも行っててもらうか」


 是非ともそうしてもらおう。顔を合わせればすぐさま奴を殺してしまいそうな気分だった。あの男とはこれ以上、関わりたくも無い。


「さて。僕は警察のお偉方と話をしてくる。キミもそろそろ現場を離れた方が良いね。分かってると思うけど、ここにはもう近づくなよ? 念のためにね」


 元からそのつもりだ。エレナのためにも、俺はこの大学へ二度と来ないことが一番だ。授業の妨げになってしまう。尤も、あれだけの大事件が起きたのだ、もっとうな講義は当分行えないだろうが。


(結局、全部が俺のせいってわけだな……)


 無力感に苛まれながら現場を立ち去り、俺は額の傷を治療するべく開化研へと向かった。出血の割にケガの具合は然程ひどくはなく、今回は縫合の必要も無いとのこと。ただし、やっぱり刀で横一文字に切られているので後に続く痛みは思いのほか大きかった、


 包帯を巻いてもらった後、俺は部屋のテレビをつける。ブラウン管に映っていたのは毎日22時から始まるイブニング・ニュース。


 横浜公大で起きた事件について報じられていた。


『きょう正午頃、横浜市金沢区の大学に日本刀を持った男が押し入り、教員と学生あわせて11名を殺傷する事件がありました。警察は殺人と銃刀法違反の疑いで、市内に住む無職の男を現行犯逮捕しました……』


 おっと、これは驚いた。報道機関への“情報統制”により犯人もあくまで例の身代わり奴隷という設定になるとは聞かされていたが、あろうことか死人の数まで少なく報じられるとは。村雨組のコネは想像していたよりもずっと大きい。この分なら厄介な人物が市長になっても大丈夫なのではないかとも思ったが、和泉市長はそうした癒着も悉く潰してくるつもりなのだろう。政治のことはよく分からないが、来年の知事選に懸けるしかないのだろう。


 不穏な情勢と見通せない先行きを自嘲しながら、俺はベッドに横になって瞼を閉じた。


 翌日。


 傷口の経過は良好だったが、念のため1週間ほどは安静にしていろという指示が出た。組に顔を出したりはせず、もちろんエレナに連絡することもなかった。俺とは暫し距離を置いておいた方が彼女の安全にとっては良いだろう。


 そのようにして2日後の昼下がり。俺の元を意外な人物が尋ねてきた。


「やぁ。怪我の方はどうだい?」


 菊川若頭だった。いつもとは通ってスーツをきっちりと着込んでいて、手にはコンビニの袋を持っている。


「ああ、まあまあだよ。まだ痛むけどな」


「そりゃあそうだろうね。早いとこ治して、組に顔を出してくれよ」


「おいおい。暫くはゆっくり休めって医者を通じて俺に言ってきたにはあんただろ」


「あはははっ。そうだったな」


 やや冗談っぽく笑うと、菊川はテーブルの上にビニールを置く。中に入っていたのはおにぎりとサンドイッチとお茶だった。


「差し入れだ。あとで食べなよ」


「おぉ、ありがとう。何か悪ぃな」


「いいよいいよ。怪我人を働かせるなんてできないからね」


「しかし、驚いたな。まさかあんたが俺の見舞いに来るなんて。どういう風の吹き回しだ、こりゃ?」


 考えてみれば不思議なものだ。数ヵ月前に床へ伏せっていた時、菊川は一度たりとも見舞いに現れなかったというのに。それが急にどうしたというのか。


「ちょっとした気紛れさ。なあ、少し外の風に当たらないか? 屋上へ行こう」


「あ、ああ。別にいいけど……?」


 促されるままに立ち上がり、部屋を出る。部屋の外へと出て、エレベーターへと進んで乗り込む。


「……」


 屋上へ着くまでの間、菊川は終始黙ったままだった。


(この人、やけに難しそうな顔をしているな……)


 そんなことを思っているうちに、最上階へ到達する。扉が開いた先には清々しい青空が広がっていた。


「良い天気だな。寒いけど」


「師走だから仕方ないよ。世間じゃ、もうすぐクリスマスだ。麻木クンも今年は絢華ちゃんと過ごせれば良いなと思ったけど……どうかな?」


「へへっ、黙れよ。あんたも知っての通りだろ」


 そう言いながらフェンスに近づくと、菊川は下界を見下ろした。俺もつられて覗き見る。眼下に広がっているのは、横浜の街。そして、その奥にある海。


「なあ。麻木クン。キミは、うちの組をどう思ってるんだい?」


「あ? 何だよ、急に」


「答えてくれ」


 いきなりの質問に戸惑ったが、真面目な表情で問うてくるので答えるしかない。


「そりゃあ、俺にとっては大事な居場所だよ。どこにも行く当てが無かった俺を村雨組長は拾い上げて、ここまで面倒を見てくれたんだ。あの人は俺を人間にしてくれた。その恩は一生かかっても返せねぇと思ってる」


「つまり、組長のためには何でもすると? どんな決断だって厭わないと?」


「勿論だ」


 即答する。俺にとって村雨組の為ならば自分の命など喜んで捨てられる。村雨耀介の利益に叶うならば、何だってやる。それは俺がこの世界で生きていくにあたり、最も大切な信条なのだ。決めたことだ。


「ふぅん……本当にそう思うのかい?」


 だが、菊川の問いはなおも続いた。


「……どういう意味だ?」


「言葉通りの意味だよ。本当にその覚悟があるのかいって聞いてるんだ」


「あるに決まってんだろうが」


 何を馬鹿なことを尋ねるのだろう。だいぶ前から何度も言っているだろうに。俺の忠誠心に揺らぎはない。これまで何よりも村雨組の利を第一に行動してきた。そうでなくては、笛吹やヒョンムル、中国マフィアなどを相手にあのような大乱闘を演じたりはしないというものを。


「そうか……なら、良かったよ……」


 菊川はそう呟くと、くるりと踵を返した。そのまま歩き去ろうとする彼の背中に向かって俺は問いかける。


「お、おい!」


 立ち止まった、刹那。菊川はこちらを振り向いた。その挙動は半ばスロー再生のごとくゆっくりと見え、どういうわけか、俺の瞳には恐ろしく感じられた。


(……えっ?)


 菊川の右手には、拳銃が握られていた。銃口がこちらを向いており、まるで照準を合わせているようだった。


「な、なん……」


 何故、どうして、という言葉が出ない。混乱していた。俺は何も分からなかったのだ。いつの間に銃を手にしていたのか。どうやってそれを隠していたのか。そもそも、なぜ俺に銃口を向けているのか。尋常なく理解に苦しんでいると、菊川は冷たい声色で告げたのだった。


「麻木涼平。キミには村雨組を出て行ってもらう。中川会へ入るんだ」


 やはり、俺にはわけが分からなかった。


「は……!?」

 素っ頓狂な声を返してしまう。それに構わず、菊川は続ける。


「さっき、朋友の為なら何でもすると言ったね。いまキミが中川会へ入ること、それがうちの組と村雨耀介にとっては最善の道なんだ。分かるかい?」


「い、いや、分かんねぇよ! どうして俺が中川に行かなきゃいけねぇんだよ! あんた、言ってたじゃねぇか! ずっと村雨組のために働けって!」


「分かってくれなきゃ困るな。もはや状況が変わったんだよ」


 菊川は冷徹に言い放った。いつもと同じ、落ち着いた声色で。しかし、顔つきには僅かに笑みが浮かんでいる。今の俺には、それが薄気味悪くしか見えなかった。


「麻木クン。キミがうちにいることが村雨組にとって不利益になると判断したんだ。理屈はキミも知っての通り、中川会からの圧力だ。おかげで村雨組うちは本家からの信頼も、他の議定衆からの信用も失っていると言っていい。その原因は他でもない、麻木涼平だ。もう若頭として看過できないんだよ」


「け、けど、組長は……そんな外からの圧力なんざ突っぱねるって話じゃなかったのか……?」


「ああ。朋友はそう言っていたな。しかし、その一方で彼は僕にこんな命令を残してもいた。『もしも判断に迷ったら、組の利を最優先に考えろ』と」


「そいつが俺を引き渡すことだってのか……?」


「そうだね。だから、考えを変えた。僕としても苦渋の選択だったけど」


 菊川は右手に携えた銃の柄を更に強く握り締める。その仕草で、俺は目の前の男には一切の迷いがないのだと悟った。本気で俺に出て行けと言っているのだ。


「じょ、冗談じゃねぇぞ……!」


「どうした? 組長のためには何でもするんじゃなかったのか? 」


「……ッ」


 確かにその通りだ。だが、それとこれとは話が別だ。


「……嫌だ。絶対に出て行くもんか!」


「そうか。それなら仕方ないな」


 菊川は淡々と呟くと、引き金に指をかけた。


「キミをここで殺す。中川会からは『殺すな』とは言われてないからな。むしろ、始末してしまった方が、村雨組があのホモ野郎に屈したことにならなくて済む。一石二鳥だ」


「ほ、本気で言ってるのか……!?」


「勿論さ」


 引き金がひかれた。凄まじい轟音が辺りに響く。ここでまんまと食らってやるほど俺は軟弱ではない。銃口がずっと真正面にあったおかげで、発射のタイミングはほぼ完璧に読めた。俺は弾丸を左に避けて躱す。しかし――。


(ううっ……!?)


 なんと、菊川がすぐ目前にまで迫って来ていたのだ。拳銃を手にしたまま、まるでボクシングのインファイト戦法のように身体ごと突っ込んでくる。速い。あまりにも速い身のこなしだ。


 俺は咄嵯に前蹴りを浴びせて撃退を試みるも、菊川は倒れない。一切怯むことなく、銃口を再び俺の頭に突きつけていた。


「なっ……!」


「駄目だよ。一発目を避けたからって油断してちゃ。キミの悪い癖だな」


 菊川はそう言うと、再び発砲。


 何とか身をよじって躱した俺だが、バランスを崩してしまう。そこへ菊川は容赦なく飛びかかってきた。俺は間髪入れずに右フックで応戦する。菊川の顔に当たった。手応えあり。


 だが、彼はそれでもなお勢いを止めず、左手を伸ばしてくる。そのまま首を掴まれ、地面に叩きつけられる。と、同時に、万力のような握力で喉頭部分を絞められた。忽ち呼吸が出来なくなる。


「ぐっ……!」


 必死にもがくが、菊川の手を振りほどくことはできない。そうして苦戦しているうちに菊川はまたしても俺の眉間に銃口を押し当ててくる。


「今度は外さないよ。覚悟しろ。麻木涼平」


 今度は体勢的に回避が難しい。というより絶対的に不可能だ。どうする、俺。


(まずい……!)

 ここで何もしなくては射殺されるだけ。全てを懸けるつもりで俺は決死の反撃を放つ。自由が効いていた左膝を突き上げ、菊川の腹部に食い込ませたのだ。


「……っ!?」


 菊川は一瞬、顔を歪めた。


「このっ……!」


 菊川は俺の首から手を離すと、俺の腹を何度も殴ってくる。だが、上半身が自由になったのは好機。俺は痛みを全力で堪えて奴へ頭突きを見舞うと、怯んだ隙に俺は転がるように菊川から離れて距離をとった。若頭はよろめきながらも立ち上がり、相変わらずベレッタM92Fを俺に向けていた。


「小癪な小僧め……お前は必ず殺してやる……‥殺すッ!!」


「お、驚いたもんだな。あの時は何が何でも俺の味方をしてくれるもんだと思っていたが。一昨日の今日で何がお前さんを変えたってんだ?」


「うるさいッ! 朋友の……村雨耀介の隣に立つのは、この僕だけだ! お前のようなポッと出の小僧に株を奪われてたまるか!」


「ああ? 俺に妬いてんのか?」


 跡目の座を奪われたことがそんなに悔しかったか。表面的には俺のことを庇護する素振りをしておきながら、実際のところは疎ましくて、妬ましくてたまらなかったと。そういうことだろう。


「黙れ! お前は僕の前から消えろッ!」


 菊川は喚き散らしながら発砲してきた。いつになく感情的になってはいるものの、例によって恐ろしい射撃の腕だ。咄嗟に首を反らしていなかったら、そのままヘッドショットを食らっていたことだろう。


「麻木涼平……お前は役に立ち過ぎた。朋友と肩を並べるのは僕だというのに。この半年間、ずっとお前のことが憎かった。自分を偽るのが大変だったよ……」


「ほう。なら、裏では俺を殺そうとしてたってことか」


 若頭は大きく頷く。


「そうだ。しかし、お前は悪運の強い男だ。僕が仕掛けた罠には全く嵌まらず、逆に僕を追い詰めようとすらした。まるで僕が何を企んでいるのか知っているかのように」



 だいぶ前から俺を嵌めようとしていた菊川。曰く、家入と笛吹の密会現場を目撃していた折に突如としてトランシーバーが作動した件も、どうやら奴の仕業だったようである。若頭の口から語られる衝撃の告白に俺は困惑と驚愕を隠せなかった。一体、どうしてそこまで。いずれの局面も上手く乗り切れたのだが――。


「そこで僕は考えたんだ。キミを消すにはどうすればいいのかをね……そしたらある時、思いついたんだよ。キミを中川会に売り渡せば良いのだと! あのホモ会長と連絡を取るのは正直なところ抵抗はあったが、背に腹は代えられない!」


「なっ!?」


 やはり、菊川は中川恒元と通じていたというのか。しかし、よくよく考えてみれば不可解な点が幾つかあった。菊川の発言だ。


『そうそうあの会長には気を付けた方が良いよ。あれはヤバい。見た目はただのフランスオタクだけど、中は蛇みたいに狡猾だから。紅茶とビスケットを食べなかったのは正解だったかもね』


 俺が恒元に茶と菓子を出された旨を菊川は何故か知っていた。あの部屋は俺と恒元以外に人は居らず、横浜へ帰った後は芹沢はおろか誰にも話題に出していないというのに。知っているということは即ち、恒元からあの時点で連絡を受けていたとしか考えられまい。


「おい。俺に沖野を差し向けたのもあんたの仕業か?」


「ああ。そうだとも。沖野クンがお前を殺し損ねても、小泉クンがばら撒いた写真のおかげでキミは村雨組で居場所を失くす。尤も、あの日、小泉クンに尾行するよう指示したのは僕なんだけどね。邪魔者には消えてもらった方が良いから。芹沢の兄さんだってそうだ」


「まさか、あの人も……!?」


「そうさ。中川に頼んでね。保釈については向こうの意図するところだったけど、不起訴にしないでくれて助かったよ」


 信じられなかった。奴が俺のことを気に食わないという事実は理解できる。何故なら、出会った時から既に険悪だったから。しかしながら、何故にそこまで。麻木涼平という存在を陥れるためだけに、組の中を引っ掻き回す。その動機がまったく分からなかった。


若頭カシラ。俺にはあんたが分からねぇ。何だかんだ言って、あんたは組のことをいつも真っ先に考える人だった。どんな時もな。そのあんたが、どうして俺を追い出すためだけに……」


「村雨組のために決まっているじゃないか。お前なんか居ない方が朋友は朋友らしくいられるし、何よりこの組にとって最善だ。そのために動いて何が悪いというんだ?」


「あんた個人の感情で動いてるようにしか見えねぇけどな。大体、俺を中川に引き渡すことを組長は許したのか?」


「当然、許しは貰ってないよ。だが、許しなんか要らない。組長のためになるなら、僕は僕の考えたままに動くだけだ!」


 イカレていやがる。若頭の目はまさしく本気だった。完全に俺をここで撃ち滅ぼすつもりでいる。こうなってしまっては戦いは避けられない。殺意を向けてきた相手に説得は不可能。


 少し不本意ではあるものの、俺もやるしかないようだ。


「……仕方ねぇ。元々、あんたとは反りが合わなかったんだ。ここで白黒つけるのも悪くねぇかもな」


「はははっ! 白黒つけたところでお前はもう村雨組には居られない! もうお前の居場所なんか無いんだよ!」


「だとしても、やるさ。でなきゃ俺の腹が収まらねぇ」


 俺個人の問題ではない。芹沢の逮捕も、エレナが巻き込まれた横浜公大の事件も、全ては俺という人間の所為で始まったものだ。麻木涼平が居たからこそ、菊川は裏で暗躍していた。その落とし前をつけずして何が男か。何がヤクザか。個人的なフラストレーションの発散ではない。俺には、やらねばならない戦いだった。


「ここであんたを殺しちまうかもしれねぇ。何か遺言はあるか? 菊川さんよ」


「それはこっちの台詞だけど、お前には話しておくべきことがある」


「ああん?」


 少し笑みを浮かべると、菊川は言った。


「少し昔の話さ。僕が、どうして村雨耀介に執着するのか。お前は知らないだろう」


 何を思ったか。戦いの構えを取った敵が目の前に居るというのに、背広の内側から取り出した煙草に古めかしいライターで火をつけた菊川。


 奴の口から紡ぎ出されたのは、かなり意外な過去の話だった――。

菊川の豹変とまさかの裏切り。彼はどうして涼平を疎むのか?


次回、村雨耀介と菊川の驚愕の過去が明かされる!!

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