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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第8章 餞別
155/252

居場所

 桜木町のキャバクラを中川会本庄組が襲撃したという、決定的な事実。だが、これは一連の膠着状態を打破する鍵にはなり得なかった。


「本家は『決して反撃するな』との仰せだ。中川会と全面戦争になるのが、よっぽど嫌らしい」


 翌朝。俺から報告を受けた菊川はすぐさま名古屋へ連絡を入れ、対応を乞うた。しかし、返ってきたのはなるだけ穏便に済ませよとの一点張り。煌王会本家の弱腰さが改めて浮き彫りになった形だ。


「まあ、そりゃそうだろうね。女将様の気持ちは分かるよ。誰だって、たかが殺し屋くずれのガキ一人の為に戦争なんかしたくないだろ……」


 事務室内のソファで煙草を吹かす菊川の皮肉たっぷりの言葉を聞きながら、俺は目の前に置かれたコーヒーを口に含む。


 香ばしい香りと共に苦味が広がるも、心労の方が勝っているせいか、美味さを感じられない。


 菊川の言うことはごもっともだ。「殺し屋くずれ」という俺の人物評はともかく、現在中川会が煌王会に突きつけている要求はあまりにもおかしい。少年一人の身柄と東西大戦争など、釣り合うはずも無いのだ。


「じゃあ、村雨組としては動かないのか? 報復かえしは無し?」


「ああ。本家がそう言ってんだ。こちらからは手出しできないよ。」


「おいおい、それでいいのかよ……! こちとらシマが荒らされてんだぞ!?」


 思わず声を荒げてしまう。本庄組の連中は絶対に殺す。昨日に命からがら屋敷へ帰り着いてからの間、俺はずっとこのことばかり考えていた。村雨組の面子を守る為なのは勿論、俺をさんざんコケにした本庄利政に一発ぶちかましてやりたい。そうしなくては極道に非ずだろう。菊川とて、それは分かっているはずなのに……。


「だから本家の命令に逆らえってのか? そんなことをすれば村雨組うちは潰される! ただでさえキミのせいで風当たりが冷たくなってんだぞ!? 少しは頭を使って考えてみろよ!」


 俺の言葉に苛立ったのか、菊川も怒声を返す。


「……すまない。感情的になった」


「ああ、こっちこそ」


「だが、いま本庄組と揉めることはできないんだ。それは分かってくれ。」


 俺は舌打ちをした。昨日の件は未だに自分の中で燻ぶり続けている。戦争を始めるお墨付きさえ貰えたら、今すぐにでも五反田へ飛んで行って憎き本庄利政の首を獲ってくるというのに。このような待機命令は実に不本意きわまりない。


(でも、村雨組の立場もあるよな……)


 菊川から大まかな話は聞いている。俺、麻木涼平を狙った中川会の挑発的侵食は横浜のみならず日本各地で発生しており、貸元たちは対応に苦慮していると。


 わざとらしく中川会の名前を出して煌王のシマ内で麻薬や違法物品を売ったり、中川の代紋をぶら下げて女を犯したり、はたまたシマ内で堂々と酒を呑んだりと、中川恒元の命を受けたとも思われる男たちは本当にやりたい放題。しかも、いずれも明確な武力攻撃ではなく、陰湿な嫌がらせに終始しているので質が悪い。すべては煽るだけ煽って煌王会側に開戦の火ぶたを切らせ「我々はあくまでも反撃しただけだ」と戦争開戦後に自分たちの行為を正当化しようとする中川恒元の狙いだ。


 昨晩の本庄の行動こそ、そんな恒元の意思からはみ出したものであるが、他の大多数の中川会系組織の動向は挑発に留まっている。ゆえに大それた反撃は向こうに口実を与えてしまうだけだった。


「はあ……困ったもんだよ。おかげでうちへの苦情は鳴り止まない。ついには村雨組を破門にするよう本家に願い出る組も現れてるらしい」


「えっ、マジで?」


「うん。幸いにも女将様は取り合っていない。けど、さっき神戸の松下まつしたぐみたちばな二代目からファックスが届いたよ。『さっさと麻木涼平って小僧を中川へ引き渡し、全てを丸く収めろ』ってね」


 二代目松下組は聞いたことがある。煌王会では村雨よりも先んじて直系昇格を果たした、神戸の武闘派組織。先般のクーデタ―鎮圧では村雨組長率いる討伐軍とは別に動き、首謀者の坊門らを捕らえる功績を挙げたのだとか。


 武功を称えられたたちばな威吉いきち組長は、先月の臨時人事で煌王会の若頭補佐に就任している。そんな急成長の実力者から直々に警告文が届いたとなっては、村雨組は軽んじるわけにはいかない。結局は村雨からの言伝があるので俺を引き渡さないようだが、留守を預かる菊川は頭を悩ませていた。主君の命令と外交関係の間で、板挟みになっている。


「どうすりゃ良いんだろうね……アメリカにいる朋友に伺いを立てても、ただ『他所の声は突っぱねよ』の一点張りだし。たぶん、あいつは絢華ちゃんのことで頭がいっぱいになってるんだよ」


「そういや、絢華は今どんな具合なんだ? めっきリ音沙汰が無くなっちまったけど、元気にしてんのか?」


「特に問題は無いらしいよ。ただ、現地で風邪をこじらせちゃったみたいで。それでお付きの者が狼狽えて、大袈裟な報告になったってわけ」


「そうだったのか……」


 ただの風邪だったのならそれに越したことは無いが、村雨組長は当分の間、日本へは帰ってこない見通しという。残虐魔王は子煩悩な御仁だ。愛娘が完全に回復して元気に動き回れる状態になるまで、現地で付きっきりで支えてやるようだ。


「……娘のことも良いけど、少しは組のことも頭の片隅に入れてほしいよね。読んで字のごとく、未曾有の危機なんだから。僕の居ぬ間に拾って来た、麻木涼平っていうガキのせいで」


 そんな菊川若頭に、俺は尋ねたいことがあった。


「あんた。昨日はどうして来なかったんだ?」


「どうしても外せない急用ができたんだよ。連絡が遅れたことは申し訳ない」


「急用ができたって、何なんだよ。おかげで昨日は大変だったんだぜ? 俺一人で女の相手をしなくちゃならねぇわ、本庄が攻めてくるわ」


「キミの方こそ、何だよ。その言い方は。まるで僕が居たら何も起こらなかったみたいじゃないか。他力本願は村雨耀介が嫌うことのひとつだぞ」


 そうではない。ただ、あの場に菊川が居たら、彼は如何なる対処をして場を凌いだのか。気になっただけだ。俺としては更なる文句をぶつけてやりたかったが、口論に発展しては面倒なので止めておいた。


「で、どうだった? 初めての女遊びは? 楽しかったかい?」


「楽しめるわけねぇだろ。あんたと違って、キャバクラ通いは性に合わねぇみたいだな。俺は」


「あははっ、まあそう言ってくれるな。めげずに来週辺りも行ってみると良い。慣れたら面白いもんだぞ」


「けっ、誰が行くかよ。こんな状況だってのに。あんたが一番分かってるはずだぜ」


 嬢たちには申し訳ないが、暫くの間は桜木町へ行くのを控えさせてもらうとしよう。第二、第三の襲撃が無いとも限らないのだ。「違いないね」と苦笑する菊川を尻目に、俺は若頭の部屋を出た。


 さて。この局面でどう動くべきか。足りない頭を捻って考えてみる。中川恒元は麻木涼平を決して諦めないだろう。俺を中川会へ引き入れるまで、執拗に調略を続けてくるはずだ。


「はあ……ったく、ダリィなあ……」


 少し投げやり気味な心情の所為か、何ともダウナーな独り言が飛び出した。その次の瞬間。


「おい! 怠いのはこっちの方だよ! 馬鹿野郎が!」


 数人の組員たちが、俺の前に立ち塞がった。


「ああ、何だ? テメェら」


「お前のせいで村雨組うちもだいぶ割を食ってるもんでなあ、文句のひとつくらい言わなきゃ気が済まねぇんだよ! このクソガキ!」


「ほう? 言ってみやがれ」


 すると、真ん中に立つ男が怒声を吐く。


「中川の連中がうろついてるおかげで、歓楽街からのアガリが減ってんだ。ただでさえこないだまでの抗争の減少分を回復できてねぇってのに……どうしてくれんだよ!!」


 回収の減少を俺一人のせいにしたいわけか。しかし、こちらにも言い分はある。八つ当たりの標的にされるなど堪ったものではない。


「知らねぇよ。テメェらの仕事が悪いせいだろ」


「黙れ! 誰のせいでこうなったと思ってる!? お前が中川と揉めたのが根本の原因だろうがッ!」


「ははっ。文句があるなら中川の変態野郎に言ってほしいね。テメェらも一度、あのジジイに掘られてくるといいぜ」


「ふざけんな!! シマの管理もやったことねぇ癖して調子に乗ってんじゃねぇ! 舐めた口きいてるとぶっ殺すぞ!!」


 俺の言葉に、組員たちはますますいきり立っている。こうなってしまっては、最早宥めようが無い。ああ。そうだ。久々にやってやるか。組長からは止められていたけど、その組長も今は不在。


「やってみやがれ。やれるもんならな」


「こ、この野郎!!」


 若衆たちが激昂するより前、俺は先手を打った。取り囲む男どもの内の1人を瞬間的に組み倒し、そのまま仲間の方へと投げ飛ばしたのだ。


「ぐあっ……」


「いっ……痛ぇえ……」


 彼らが怯んだ隙を見て、俺はいちばん近くにいた男の顔面を思い切り蹴り上げる。


「うぎゃあっ!」


「ああ? どうした? この程度か? なっさけねぇなあ。それでも男かよ」


「こ、この……」


「まあ、良いや。今日は鬱憤が溜まってたんだ。久々に暴れさせてもらうわ。お前らに“立場”ってモンを教えてやるよ。何せ俺はもうじき村雨組の跡目になるんだからなぁ!」


 ――バキッ。


 男の顎を蹴りで砕いた。


「がはっ……」


「次はテメェだ。歯を食い縛っとけ」


「ひっ、ひぃいいっ」


 続いて、怯えて動けなくなっている若い奴の股間を容赦なく蹴り飛ばす。その一撃で彼は完全に動かなくなったが、まあ良いだろう。残りは数十秒もかからず、俺は全員を戦闘不能に追い込んでしまった。


「この程度でヤクザとか。笑わせんなよ。クソどもが。いいか? この俺が次の組長、要はテメェらの親分なんだよ。いい加減に理解しろや。クソが!」


 倒れた連中にさらに追い打ちをかけ、ボコボコ殴っていると、その中の1人が泡を吹き始めた。よく見ると白目を剥いているではないか。


(あっ、やばい……)


 死なれても困るので、俺はそっと場を立ち去った。久々に組員を相手に暴れた気がする。長らく我慢していた鬱憤に加えて、思い通りにならない最近の苛立ちが暴力に加算された。


 次の跡目だと自ら名乗ったのは勢いもあるが、若衆連中に示しをつけておくためでもある。また、個人的な意図も含まれていた。


 俺はあくまでも村雨組の人間だ。これまでも、これからも――。


 敢えて口に出すことで、己自身に言い聞かせていたのかもしれない。


「……」


 それから暫くの間、何事も無かったように過ごしていた俺。午後を少し過ぎた頃だったか。芹沢が声をかけて来た。


「よう。涼平。お前、若衆たちと揉めたんだって?」


「……ああ。ムカついたから。別に大したことじゃねぇよ」


「まったく。お前が居ると飽きねぇな。次から次へと火種を作りやがる。そろそろどうにかしねぇとなあ」


 あの件は芹沢の耳にも入っていたか。しかしながら、彼はいつもと同じく飄々とした様子でこちらに近づいてくる。どうせこの人は笑い飛ばすだけか。


 そう思った、次の瞬間。


 ――バゴッ。


 俺は芹沢に殴られた。


「うぐうっ!?」


 ほぼ全体重が乗っていたと思う。物凄い力だ。強烈な痛みが顔全体に広がり、その上、頭がクラクラと揺れ動く。困惑と驚きを持って向きなおると、舎弟頭は静かに言った。


「……今回だけ1発で済ましてやっただけ温情と思え。以後、組の中での狼藉は許さん。分ったな?」


 芹沢なりに俺に対して罰を与えに来た模様。少し遅れて理解が追い付いてくる。それにしても凄まじい威力だ。これが“鬼の芹沢”とやらの本領なのか。ここで無視する事など出来ない。堪らず、俺は素直に返事をした。


「あ、ああ。分かった」


「涼平。男の拳ってぇのは自分の為に使うんじゃねぇ。自分より弱い人間を守るために使うんだ。お前はゆくゆくは組の跡目になるんだ。それくらいのこと、きちっと弁えて貰わなきゃ困る」


「うん」


「己の子分をいじめる奴に人は付いて来ねぇぞ。組の動かし方ってのはどういうもんか、お前は兄貴の下でさんざ勉強してきたはずだろ。よく思い出せ」


 実を申せばあまり記憶が無い。村雨組長の下に付いていた頃は毎日がドンパチの連続で、組織運営学や帝王学、君主論などは勉強する余裕が無かった。見て学ぼうにも、村雨耀介は専ら恐怖政治だった。俺は俺で、村雨のやり方を踏襲したつもりだったのだが――。


 ここで下手な口答えは止めておこう。


「ごめん。気を付けるよ」


「周りの人間を暴力で変えようとするな。お前自身が変わっていくんだ。そうすりゃ自ずと、目指す親分の理想像ってものが見えてくるぞ」


「あ、ああ」


「まあ、その辺は俺がこれから色々と教えてやらなくちゃならんな。お前は16歳になったばかり。まだ若い。もっと沢山、勉強しなくちゃいけねぇ」


 俺が学ぶべきことは何なのか。いまいち見当がつかない。それでも首を傾げたりはせず、とりあえず芹沢に同調しておいた俺。その態度は正解だったようで、説教はここでいったん区切りがついた。


「よし。それじゃあ、飯を食いに行くぞ」


「飯を?」


「おう。とびっきり美味いのを食わせてやる。ついて来い」


 もう昼食は済ませたのだが、どういうわけか食事に連れて行ってくれるという芹沢。雰囲気的に断れる気はしない。俺は止む無くついて行くことに。


「なあ? どこに行くんだ?」


「ちょっとかかるぞ」


 屋敷を出た後はタクシーを拾い、山手町から横浜駅前へと移動する。駅の近くの繁華街といえば南幸。俺にとっては何とも思い出深い場所。その一角、古びた雑居ビルの最上階に目的の店はあった。


【鉄板厨房 ハラダ】


 店に入ると、香ばしい匂いが漂っていた。


 横浜でも有名な高級鉄板焼き屋だけあって、店内の至る所が豪勢だ。見るからに輸入物らしい革張りのソファやテーブルが配置されており、照明にも気を遣っているのか、薄暗い感じで落ち着いた雰囲気がある。


 芹沢に促され、俺は正面のカウンター席に座る。店主らしき初老の男性がメニュー表を渡してくれた。値段を見て少し驚いた。1万円以上するコースもあるようだ。


「んじゃ、ハラダさん。俺は今日もお任せで」


「はいよ。いつものね」


 値段を見ずに注文を済ませた舎弟頭。“いつもの”で会話が通ってしまうあたり、この店には相当通い詰めていると分かる。


「こいつ、うちの新入りでね。なかなか見込みのあるヤツなんだ。美味いもんを見繕ってやってよ」


「そりゃあ、たらふく食わせてやらねぇとなあ」


「頼むわ」


 芹沢は俺の分まで料理を注文してくれた。勿論、献立は“お任せ”である。このような時には黙っているのが一番。お品書きにあった「オマール海老のパエリヤ」が少し気になったが、敢えて何も言わずに出されたものを食べようと決めた。


「涼平。この店はうちの組の御用達でね。兄貴も昔から足しげく通ってる名店中の名店だ。今日は俺の奢りだ。好きなだけ食っていいぞ」


「お、おう。それじゃあ遠慮なく」


「美味いものは鉄板焼きと相場が決まってるんだ。何せ、兄貴に初めて食わせてもらった料理メシなんだからな……」


 注文を受けた店主が鉄板に油を塗り始める中、しみじみと語る芹沢。そこから彼の昔話が始まった。時系列としては、当時から20年ほど前に遡る。


「俺は横須賀の育ちでな。中1の時にグレて以来、街中で暴れまわってたんだ。あの頃は学校も親もポリ公も、周りの大人という大人を全て憎んで、ただひたすら悪さに明け暮れていたっけなぁ……」


 そう語る芹沢の目つきは鋭く、その顔からは壮絶な過去を乗り越えてきた証のような凄味を感じた。


「警察にも何度もパクられて少年院送りになったけどそれでもまだ懲りねぇで、出た後も喧嘩相手を探し求めて誰彼構わず喧嘩吹っかけてたもんさ」


「おお、そいつはたまげたぜ。まさに狂犬じゃねぇか。俺もあんたのこと言えねぇけど」


「ははっ。んで、ある晩のことさ。あんまり暴れすぎたもんだから、俺は地元を仕切ってる組の人間に目を付けられてな。数人がかりで襲われたんだよ」


 夜、路上を何気なく歩いているところを不意打ちされた当時の芹沢暁少年。横須賀でも指折りのワルとして悪名を轟かせていた彼も、本職相手には叶わず。多勢に無勢ということもあり、瞬く間にボコボコにされてしまったそうな。


「もう、絵に描いたような半殺しだったな。あれは。それまで無敗だったのがサンドバッグみてぇにタコ殴りにされたんだ。あの晩、俺は生まれて初めて己の非力さってもんを悟ったよ」


 話す途中で芹沢はそっとワイシャツの袖を捲って見せた。そこには爛れた火傷の痕が痛々しく残っていた。当時、暴行を受けた際、オイルをかけられた上にライターの火で炙られた時のものだというから驚きだ。


「うっわ……えっぐいなあ……」


「こんだけの傷を負わされた上に、相手は短刀ドスを出してきやがってよ。『もう駄目だ。このまま俺は殺されるんだ』って本気で覚悟したよ。でも、マジでギリギリのとことで俺を助けてくれた人がいたんだ」


「それが村雨組長かい?」


「いや、違う」


 大きく首を横に振った後、芹沢は意外な名前を答えた。


「藤島茂夫。横浜大鷲会の会長だった」


「えっ!? ってことは……」


「ああ。そうさ。俺は元々、大鷲会の人間だ」


 なんと、驚愕の事実を告げられた。芹沢暁はかつて横浜大鷲会に所属していたというのだ。確かに村雨耀介よりも年上というよわいを考えれば不自然なことではないが、よりにもよってあの爺さんの盃を呑んでいたとは。半ば信じ難かった。


「その時、藤島は組同士の外交で横須賀に来ててな。話を終えた帰り際に繁華街でボコられてる俺を見つけて、助けてくれたってわけだ」


 集団リンチで殺されかけていた芹沢少年を助け出した後、藤島は彼に「坊主、お前さんさえ良ければうちで男を磨いてみねぇかい?」とありがちな勧誘を行ったそうだ。家にも学校にも行くあての無かった芹沢は二つ返事で了承。以降、藤島に横浜へ連れて行かれ、彼の極道人生が始まった。


 しかし――。


「藤島の爺様は兎角任侠道を重んじる人でな。俺みたいなガキを拾ってくれたことには感謝してるが、あの考え方にはついていけなかった。あそこには10年くらい居たんだが、気付いたら孤立しててな。藤島ともうまくいかなくなったよ」


 横浜大鷲会がいかに古臭い組織であったかは、俺も笛吹の件で嫌というほどに知っている。彼らが青春時代を過ごした1970年代の時点で、ハマの英雄の信条は既に若者にとってひどく窮屈なものとなっていたのだろう。型に嵌まった古風な任侠精神を押し付ける藤島に芹沢は猛反発し、やがては組の言い付けを無視した勝手な行動をとるようになり、ついには藤島から破門を言い渡されたという。


 破門ってのは渡世からの追放だ。『お前はヤクザの世界から出て行け』ってことだ。俺はカタギの社会で居場所を見つけられなくて逃げるように裏社会へ飛び込んだのに、結局そこでも居場所を作れなかった。それが悔しくて悔しくて、ヤケになって大暴れしたよ」


「そんで、その後はどうなったんだ?」


「自暴自棄になるあまり、俺は藤島に仕返ししてやろうって思い至ってな。あの爺様がこの世でいちばん嫌う覚醒剤シャブに手を出した。俺自身が吸ったんじゃねぇ。そいつを大鷲会のシマでばら撒いて、藤島に一泡吹かせてやろうって考えたのさ。ほんと、止せば良いのにな」


「マジかよ……」


 だが、そんな芹沢少年の浅慮は老練な任侠者によってとっくに見抜かれており、計略は失敗に終わった。覚醒剤は横浜の埠頭に密輸する以前の段階で大鷲会に押さえられ、軒並み廃棄。芹沢自身も激怒した藤沢によって本気で命を狙われ、彼の放つ刺客から逃げ回る羽目になってしまう。


「お笑い草だよな。生きる糧を見つけるつもりで極道の世界に飛び込んだってのに、そいつが原因でかえって自分の首を絞めちまったんだから」


 言うまでも無い、どん底の日々。大鷲会の殺し屋に追われて身も心も疲れ果て、芹沢は次第にこの世の全てに対して絶望感を抱くようになってゆく。だが、そんな暮らしの中で、思わぬ光明が差し込んでくる。


 村雨耀介との出会いだった。


「あれは忘れもしねぇ、平成元年の6月21日。横浜から逃げ出した〇〇で飲んだくれてた時だ。あの時は俺もヤケがまわっててな、全てにムカついて、あらゆることに投げやりになってた。そんな中で俺は兄貴、村雨耀介と出会ったんだ……」


「どういう出会いだったんだ?」


「出会いの形としちゃあ最悪なもんだったぜ。俺が浴びるように酒を飲んで、くだを巻いてた場末のスナックに、兄貴が地回りに現れたんだよ。べろんべろんに酔っ払ってたんだが、よく覚えてる」


 客として芹沢が偶然飲んでいた店に、時所属していた斯波一家の組員として、みかじめの回収にやって来た村雨。2人は忽ち喧嘩になったという。


「きっかけは兄貴が俺の足を踏んだとか踏まねぇとか、兄貴の態度のデカさが気に入らねぇとか何とか、実に些細なもんだった。イラついてたのもあって、俺はむしゃくしゃするまま兄貴に殴りかかったのさ」


「それで、どうなったんだ?」


「瞬殺だった。俺の完敗。ほんと、赤ん坊扱いだ。攻撃の一挙手一投足が全て読まれて、性格にカウンターを叩き込んでくるんだ。それでいて『手加減してやった方なのだがな』なんて言うもんだから、マジで背筋が凍ったぜ。何つーかもう、涙が出たよ」


 極道として曲がりなりにもキャリアを積み、喧嘩の腕を上げていたはずの自分。それがあっという間に叩き潰されたのだ。自信を崩されただけでなく、村雨の振るう暴力は圧倒的な恐怖と絶望感を芹沢に植え付けた。


 悔しい、怖い、死にたくない――。


 拳で嬲られる痛みの中で3つの感情がグチャグチャに織り交ざり、気付けば子供のように大粒の涙を流していたという芹沢暁。


 だが、その涙がどういうわけか当時の錆びついた心を洗い流した。彼は苦笑し、自嘲気味で語った。


「まさに“憑き物が落ちた”っつうかな。ああいうのを。俺を完膚なきまでに叩きのめした村雨耀介の実力、そいつは俺を絶望させただけじゃなく、ある種の希望を与えたんだ」


「希望?」


「おうよ。包み隠さず言っちまえば『この世にはこんなにすげぇ奴がいるんだ。この人についてけば、この先きっとどうにかなる』ってな。他力本願もいい所だけどよ。あはははっ」


 まさに希望に“すがる”という行為であるが、そのように平伏すくらいしか当時の彼には自分を保つ術が無かったのだろう。自分よりも強い者の影に隠れる、弱肉強食の裏社会においてはむしろ自然な選択なのかもしれない。俺はそれからも細かに相槌を打ち、芹沢の話に耳を傾けた。


「俺は泣きながら、村雨耀介に『あんたの弟分にしてくれ』って頼んだよ。歳も6つ下だってのにな。

 そしたら兄貴は何を思ったか、ボコボコにした俺を飯に連れてってくれたんだ」


「あ、もしかしその時の料理ってのが……?」


「おうよ。鉄板焼きさ。なあ、原田さん」


 原田と呼ばれた店主は芹沢の問いかけにコクンと頷き、少々不愛想な眼差しを崩さぬまま淡々と言葉を発した。


「あの時は俺も伊豆で修行中の身だったからね。焼けるのもせいぜいステーキだけだったけど、あんたら2人は美味そうに食ってたな。そういやあ芹沢さん、あんたはボロボロ涙を流してたっけ?」


「へへっ。言ってくれるなよ。そりゃあ、久方ぶりにあったかいものを腹に入れたんだ。涙くらい出るさ」


「そう考えると感慨深いもんだな。あの日から“村雨組”が始まったって考えるとよ」


 この原田なる店主、横浜に来る以前は三島市の料理店で働いていた模様。やがて村雨が横浜へやって来て大鷲会から桜木町を奪取した折、ちょうど独立を考えていたこともあって、村雨の誘いに乗る形でこの街に店を出したのだとか。


(組長たちとはかなり古い馴染みなんだな……)


 言うまでも無く、彼は若き日の村雨や芹沢の姿を知る数少ない人物だ。芹沢が村雨の舎弟になった経緯もさることながら、村雨耀介は駆け出しの頃にはどんな男だったのか。とても気になった。


「あの日、俺は原田さんの焼いたステーキを兄貴に食わせてもらいながら、あれこれ身の上を聞かされた。兄貴も兄貴で相当な修羅場を潜って来られたんだと分かってな。俺はますます惚れたよ」


「そんじょそこらの苦労話とは違ったってことか?」


「ああ。違うね。そもそも村雨の兄貴は男としての格が違うんだ。あの人は生まれながらに、極道として生きる宿命を背負っていたんだ」


 芹沢をして別格とまで言わしめた村雨組長の半生。それはやはり、俺の想像を絶するものなのだろうか。「生まれながらに」というからには、やはり俺と同じくヤクザ二世か。いや、俺などと同列に語ってはあまりにも恐れ多かろう。ふとそんなことを考えていると、芹沢はさらに続けた。


「身の上話を聞いてますます村雨耀介って男に惚れた俺は、その場で『俺の兄貴になってくれ』と改めて頼み込んだ。あの頃の俺は全てがギリギリだったからな。誰か、俺より強い人間に縋るしか、生きる道は無かったのかもしれん……」


「で、組長は何て言ったんだ?」


「最初は困惑してたさ。冷静に考えりゃあふざけた頼みにも程があるからな。でも、最終的には俺の気持ちを尊重してくれたよ。『お前がそこまで申すのなら……』と、兄貴は俺を自分の舎弟にしてくれたのさ」


 横浜で居場所を失くして流浪の身となり、漂着するがごとく辿り着いた伊豆で村雨耀介に出会った芹沢。彼が受けた刺激は決して小さなものでは無く、その瞬間から彼の人生は大きく変わることになる。


「俺は兄貴の下で男を磨いた。兄貴は極道としての生き方はもちろん、人としての在り方をも教えてくれてな。何より、26年間半端者でしかなかった俺に“矜持”ってものを叩き込んでくれた。そのお陰で俺は今こうして極道としてやっていけてるんだ」


 歳が6つも下の人間を兄貴と読んで敬い、渡世のイロハを師事するのは不思議な話だ。しかし、極道の世界における上下関係というのはそういうものらしい。俺にとってその感覚はまだ理解できないが、芹沢暁は間違いなく村雨耀介という存在に救われ、今もなお尊敬しているのだ。


「村雨耀介という男の存在なくして、今の自分は無い。俺は心からそう思ってるよ。お前だってそうだろ、涼平?」


「ああ。勿論だ。組長に拾われたから今がある。その恩を忘れたことはねぇよ」


 こちらの言葉に微笑みを見せると、芹沢はしみじみと言った。


「だからよ。これから一緒に守っていこうじゃねぇか。村雨組っていう、俺たちにとって最高の居場所をな」


 俺も芹沢も経緯は違えど、思いは同じ。ふたりとも村雨耀介によって人間にしてもらったようなものだ。永遠という時間を見積もっても返しきれないほどの感謝が村雨にある。


 やがて料理の出来上がりと共に酒が注がれると、俺は舎弟頭とグラスを交わした。


「乾杯。涼平の誕生日と、村雨組のこれからに」


「……ああ」


 今、こうして呑気に酒を楽しんでいる時でないことは分かっている。状況が状況だ。されども自然と不安や焦りは感じなかった。むしろ、心地よさすら覚えていた。芹沢と同様、村雨組という“居場所”に全幅の信頼と安心感を覚えていたのかもしれない――。


 それから目の前の皿に並んだ料理は、やはり芹沢の思い出の味だった。


「牛ひれ肉のステーキ。10年前もこいつを兄貴に食わせてもらったんだよな。あの時は食ったこともねえくらい柔らかい肉に感動したもんだぜ。懐かしいなぁ、原田さん」


「そうかい。まあ、オイスターソースとごま油を使えだなんて、そんな注文をしてくるのは昔も今もおたくの親分くらいだよ。少なくとも普通に日本人の舌には合わないと思うが」


「いやいや、美味いよ。それに、あの時よりずっと美味い」


 芹沢はそう言って笑ったが、店主は複雑な表情のまま小さく首を傾げた。この少しばかり変わった風味が村雨組長にとっては幼少時から馴染んだ味付けらしく、この店で食事を摂る時には必ず原田にそう調理するよう申し付けているのだとか。俺も食べてみたが、確かに特殊な舌触りだ。少なくとも一般的な洋食店で出されるステーキのそれではない。だが、かと言って不味いというわけでもない。


 俺は肉を口に運びつつ、芹沢の話に耳を傾ける。


「このステーキを食うと、当時のことを思い出す。あの時の俺は本当に未熟で、何もできなかったからな。自分が情けなくて仕方がなかった」


「今は違うのか?」


「ああ、違ぇな。少なくとも、兄貴の左腕を名乗れるくらいの力はついた」


 芹沢が左腕ならば右腕は誰なのか。その答えは、若頭の菊川塔一郎だと舎弟頭は語る。俺は前々から思っていた率直な疑問をぶつけてみた。


「なあ。若頭と舎弟頭ってどっちが偉いんだ?立場で考えりゃ、あんたの方が上だよな?」


 すると彼は意外そうな顔をした後、「おう」と呟いて苦笑いを浮かべた。


「そりゃそうだが、実質的に現場を仕切ってるのは塔一郎だよ。そもそも、兄貴とはアイツの方が長いからな」


「ああ、前に幼馴染みとか何とか言ってたっけ」


「子供の頃から一緒だったらしい。だから、兄貴と2人して塔一郎も今までさんざ泥の水を啜って来てる。俺の苦労話なんか一瞬で霞んじまうほどにな」


 芹沢はそこで言葉を切ると、やや自嘲気味な調子で続けた。


「だからこそ、俺は実力って意味じゃあ塔一郎には及ばないと思ってる。兄貴と同じく俺より歳が下だが、大いに尊敬してる。元々、俺は喧嘩で暴れるくらいしか能が無い男だ。叶うわけもねぇよ」


 “塔一郎”などと読んでいるからには表向きでこそ兄弟分同然に接しているのだろうが、実質的には両者は格が違うのであり、芹沢本人もそれをよく分かっている。兎角、芹沢は己の立ち位置というものを常に認識し、与えられた役目を全力でこなす男だその点に関しては俺も大いに共感できる。


「涼平。今日はたらふく食べてくれ。遠慮せず、飲みたいものを呑んでくれても構わねぇぜ」


「ごちそうさん」


 それからも次々と料理が焼かれてゆく。上質な肉料理からヒラメのムニエル、貝のバター焼き、それからお好み焼き海の幸、山の幸がが目の前で豪快に調理される様は圧巻だ。中でも驚いたのはフランベ。火柱が立つと同時に、俺は思わず声を上げてしまった。


「おおっ、すげぇ……」


 西洋料理では頻繁に用いられる高等テクニックなのだが、こうして間近で拝むのは初めてだ。こんな店には親父にも連れてきてもらったことが無い。


 当然、どれもこれもが美味かった。あらゆる食材が選び抜かれていて、質も高い。原田は一流の料理人で、客が注文した料理は、鉄板で焼けるものならひと通り作れるという。先ほど気になったオマール海老のパエリアも食べてみようと思ったが、あいにく俺の腹は満杯になってしまった。


(まあ、次の機会でも良いよな……)


 こうして麻木涼平の小さな誕生日会は無事に締めくくられ、帰り際、芹沢は原田に代金を支払うべく財布を取り出したが、即座に制止された。


「いいよ。今日は俺のおごりだ」


「でもよぉ、原田さん。悪いじゃねぇか」


「気にするなって。これは俺のプレゼントだと思ってくれればいい。その代わり、また遊びに来てくれよな。そこの兄ちゃんを連れて」


 不意に原田の視線が俺の方に向く。


「兄ちゃん、名前は?」


「麻木涼平」


「そうか。じゃあ、麻木君。いつか君が組の連中をこの店で御馳走してやってくれよ。君は良い目をしてる。それこそ、昔の村雨耀介にそっくりだ」


「ああ。分かったよ。そうなれるよう、頑張るぜ」


 村雨組長と肩を並べる日など来ないだろうが、俺にも見込みがあるということなのだろう。褒めてられて悪い気はしない。形ばかりの麗句であろうと一応は受け取っておいた。


「んじゃ、原田さん。近い内にまた来るよ」


 大満足で店を出た俺。芹沢には「いつかお前に奢ってもらう日が来ると良いな」と冗談めいたことを言われた。彼からもそれなりに期待はかけられている。裏切るわけにはいかない。応えられるようこれからも全力を尽くしていかなくては。決意を新たにするしかなかった。


「ああ、ちょっとコンビニに寄ってくか。涼平、お前もどうだい?」


「うん。付き合うぜ」


 満腹感ゆえに便意を催したのだろうか。ふと芹沢はコンビニにてトイレを借りたいと言い出した。俺たちは午後の桜木町を歩きながら、他愛もない会話を交わす。


「前から気になってたんだけど。組長の喋り方って何つーか、その……戦国武将みたいだよな。昔からそうだったのか?」


「そうだな。俺と出会った頃からあんな感じだ。あの時は確か兄貴は20歳くらいだったと思うが、ずっと変わってない」


「マジかよ」


 だが、その時。俺たちの会話は不意に中断される。前方から背広姿の男たちが近寄ってきたのだ。


(あ、あれは……!?)


 もしや中川会の兵隊かと思ったが、すぐに違うと分かる。男たちの醸し出す雰囲気がヤクザのそれとは違うのだ。おまけに制服姿の警官もいるではないか。


 間違いない。あれは司法当局の人間だ。どうしてここに。まったくもって嫌な予感が漂っている。こんな時に限って俺の第六感は見事的中してしまうから始末に終えない。彼らは俺と芹沢の行く手を阻むようにぐるりと取り囲み、きわめて挑発的な視線を送ってくる。


 何か用でもあるのかと連中に対応しようとした俺を片手で制し、芹沢が身構えながら声をかける。


「……何だ。あんたらは」


 すると、集団の真ん中に立つ男が言った。


「初めましてだな。東京地検次席検事の卿野きょうの邦義くによしだ。お前が芹沢暁か」


「次席だと? 地検のお偉いさんが何の用かい」


「芹沢暁。刑事訴訟法第96条に基づき、逃走の容疑で貴様を逮捕する!」


「なっ……」


 芹沢の顔に驚愕の色が浮かんだ。一方、俺にとっては何を言っているかが分からない。そもそもこの男は何者だ? “卿野きょうの”なる名字は以前どこかで同姓の者と会ったような気がするが、次席検事とは。何故、芹沢を逮捕しようというのか。訳が分からず、俺は混乱した。


(逮捕? どうして……?)


 愕然とする俺を尻目に、卿野次席検事は芹沢に詰め寄る。懐から何やら真っ白い書状を取り出した。あれは俺も何度か見たことがある、逮捕状だ。


「ご覧の通り令状も出ている。そちらの世界で呼ばれるところの『フダ』だ。さあ、大人しく一緒に来てもらおうか」


「おいおい。ちょっと待ってくれよ。逃走の疑い? 何の事だか分からねぇや。俺は釈放されたはずだぜ?」


「あれは釈放ではない。保釈だ。芹沢、貴様は裁判所の定めた条件を破って東京都内から神奈川県へ移動した。これにより貴様の保釈は取り消しになったのだ」


「はあ!? そ、そんなの聞いてねぇぞ! あの件は不起訴になったんじゃ……」


 腰を抜かしそうな勢いで驚く芹沢。しかし、卿野は容赦なく彼を睨みつけ、威圧しながらにじり寄ってゆく。


「問答無用。この国の法に『知らぬ、存ぜぬ』は通用しない。神妙にお縄を頂戴しろ」


 逃亡の容疑とは。保釈取り消しとは。一体、どういうことなのか。まったくもって話が呑み込めない。未だ追い付かぬ思考を強引に引っ叩き、俺は慌てて両者の間に割って入る。


「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」


「何だ。小僧。邪魔をするなら貴様も逮捕するぞ」


「ううっ……」


 その場にいた警官たちが、俺へ向けて一斉に拳銃を向けた。 彼らの目は本気。半端なヤクザ者とは違い、撃つことに微塵も躊躇いを感じていないと分かる。是が非でも芹沢を捕らえるつもりのようだ。これは困った。どうすれば良いのか。


「……お前ら。中川会の差し金か」


「何の話だ?」


「中川会の会長にカネで買われて動いてんのかって聞いてんだよ! ここで芹沢さんをとっ捕まえて、村雨組を弱らせるために! どうなんだ!? 答えろッ!!」


 気付かぬうちに感情的な台詞が出ていた。けれども冷静さを欠いた俺の短期的な推論は、卿野によってあっけなく一蹴されてしまう。


「口を慎め。小僧。何を根拠にそんなことをほざいている。私は検察官、法の正義の執行者だ。その職務を侮辱するというなら容赦はしないぞ」


「ああ? どう容赦しねぇってんだ?」


「侮辱罪の現行犯で逮捕する。微罪だが、既に前科前歴が山ほどある貴様が裁きの場に出されれば、厳罰が下ることは間違い無いだろうな。麻木涼平」


 驚いた。卿野は俺の名前を知っている。“芹沢が連れて歩いている少年”ということで、事前に情報を得て来たのか。あるいは中川会からの教唆があったのか。どちらにせよ一瞬だけ怯んでしまうには十分だった。


「……」


 いやいや。いけない。こんなのに屈してなるものか。ここで舎弟頭を助けねば、男が廃る。何としてもこの連中から芹沢を守り切らねば。


「お前らの好きにはさせねぇ。芹沢さんを逮捕なんてさせるかよ」


「ほう? 侮辱罪に加えて公務執行妨害罪、それから逃走幇助罪も付け加えられたいか? どんどん罪が重くなってしまうな」


「知るかよ。こっちにだって覚悟はあるんだ」


「どういう覚悟だ? 参考までに聞いてみようじゃないか。貴様の汚い腕に手錠をかける前にな」


 俺がお前ら全員をぶっ倒してやる。俺は見ての通り喧嘩が強い。正義の味方気取りの役人なんかより、ずっと。相手が多かろうが、拳銃ハジキを持っていようが、構うことではない。全員をまとめて血祭りに上げ、俺達の前に立ちはだかったことを後悔させてやる。さあ、かかってこい――。


 とでも啖呵を切られれば、どれほど痛快だっただろうか。残念ながら、俺にその選択は出来なかった。他でもなく隣で静かに立っていた芹沢が、俺を未然に制止したのである。


「涼平。もういい。お前は黙っていろ」


「えっ、芹沢さん……? で、でも」


「心配すんな。大丈夫だ。俺のことは気にするな。こいつは俺自身の問題だ。俺の手で、落とし前をつけなくちゃなんねぇ」


 俺を苦笑いで窘めた後、芹沢は卿野に向き直る。そして大半の諦観と僅かな強気を織り交ぜた表情を浮かべ、意志を固めたように言葉を発したのだった。


「卿野次席検事とやら。わざわざ横浜くんだりまでご苦労さん。誰の指図で来たかは知らねぇが、令状フダが出てるなら仕方ない。ほら、好きにしろよ。煮るなり焼くなり、逮捕するなり、ご自由にどーぞ」


 芹沢はゆっくりと両手首を差し出す。それを目の当たりにした卿野はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。


「いや、どうして……!」


 そう心の声が漏れた時には、もう遅かった。


「午後3時43分。芹沢暁。逃走および保釈条件違反の疑いで逮捕する」


 卿野は芹沢に手錠を掛けていた。


「ああ、涼平。ごめんな。こんなザマで。皆によろしく伝えといてくれや。それから、兄貴にも。『すんませんでした』って代わりに詫びといてくれや。頼んだぞ」


「そ、そんな……」


「良い男になれよ。俺の代わりに村雨組の未来を託す。兄貴のことも、お嬢のこともな」


 それだけ言い残すと、芹沢は卿野次席検事に「さっさと歩け」と促され、配下の武装警官たちに連行されていった。俺はただ、黙って見送るだけ。見送ることしか出来ない。


(何で、こんなことに……)


 しばらく呆然とその場に立ちつくしていた俺だったが、やがてひとつの結論が浮かぶ。


 これは中川会の仕掛けたことだ。中川会の会長、中川恒元が俺の件で村雨組を揺さぶろうと、何らかのコネクションを使って東京地検と警察を動かしたのだ。きっとそうだ。そうに決まっている。


 怒りに燃えた俺の頭の中には、瞬く間に報復の2文字が浮かんだ。これから赤坂の中川会総本部へカチコミをかけ、恒元以下、首脳陣を滅多殺しにしてやるのだ。


 だが、そうしたところで何になる。もしかしたら恒元は激昂した俺が討ち込みに来ることを予め想定していて、防御線を張っているかもしれない。行けば前回同様、まんまと捕獲される可能性だってある。あのコスプレ化粧男の思う壺となる展開だけは許し難かったので、俺は懸命に衝動を堪えて自分を抑制する。


 程なくして、電話ボックスへと向かった。消化しきれぬ苛立ちを抱えたまま、受話器を手に取ってコインを投入し、プッシュボタンを押す。


 かけた番号は、山手町の村雨邸だった。


『はい。こちら、村雨でございます』


「もしもし。俺だ。麻木だ」


『ああ? 麻木? どうしたんだよ。芹沢の叔父貴と一緒に飯を食いに行ったんじゃねぇのか。何でテメェが電話を』


 例によって、出たのは沼沢。いちいち説明をしなくてはいけない手間に不快感を覚えながらも、俺はなるだけ簡略に用件を述べる。


「緊急連絡だ。若頭に代わってくれや」


『カシラに?』


「早くしてくれ」


 俺の口調から何かただならぬものを察したのか、沼沢は「分かった。ちょっと待ってろ」と言い残すと、素直に電話を交換してくれる。数秒ほど保留の音が聞こえた後、菊川が電話に登場した。


『やあ、麻木クン。どうしたんだい? 緊急の連絡って言ってたけど、何か問題でも……』


「起きたことから先に言う。芹沢さんがパクられた」


『何だって!?』


 驚いて声を裏返す菊川に、俺は続けて説明する。


「さっき東京地検の卿野って野郎が来てな。芹沢さんに手錠を掛けて連れてっちまった。逃走の容疑だの、ホシャクジョウケンがどうだの、よく分からねぇ口実を並べていやがった」


『そ、それは本当かい!?』


「この状況で冗談ジョークなんて言うかよ。どうすれば良いのか分かんなくて、あんたに電話したんだ。知恵を貸してくれよ」


『……』


 絶句する菊川の反応から察する限り、彼もまた俺と同じ思いでいることだろう。このタイミングで、何故に芹沢が再び逮捕されてしまったのか――。


 考えていることも、俺とまるで同じだった。


『……おそらく、中川会の陰謀だろうね。村雨組を動揺させるための。あの会長なら考えそうだ』


「あんたもそう思うかよ」


『そうとしか考えられないよ。中川会は政府とズブズブだからね。会長が個人的な目的のために当局を動かすくらい、容易でしょ」


 俺は思わず舌打ちをする。今回、敵があまりにもやり手かつ、凶悪すぎる。左腕とも云うべき腹心の部下である芹沢の身柄を押さえて人質にとった上で、麻木涼平を寄越せと村雨耀介を恫喝するつもりのようだ。


 菊川曰くそもそも2ヵ月前の芹沢の突然の出獄も、中川会がこうなることを見越した上でが糸を引いていたのかもしれないという。


「保釈条件違反で逮捕ってのが腑に落ちない。本来なら保証金を没収されるだけで、直ちに身柄拘束はされないはずなんだけど」


 明らかに異様な動き方をしている当局。挙げ句、起訴した上での保釈なのか、それとも不起訴での釈放なのかを出獄時に芹沢本人へ伝えていなかった点から考えるに、完全に中川会の言いなりになっていると思って間違いなかろう。


『まったく、いくら賄賂を貰ったのやら』


「おいおい。ちょっと待ってくれよ。賄賂なら、うちだって相当な額を贈ってるんじゃないのか?」


『それはあくまでも神奈川県警と横浜地検の話ね。東京や他の道府県は関係無いよ。尤も、神奈川の方もそろそろやばくなってきたところだけど』


「ん? どういうことだ?」


 大きなため息をついた後、菊川は語った。


『新しく市長に就任した和泉いずみ義孝よしたか。あれが、なかなかの厄介者でね。神奈川から極道を一掃しようと大胆な行動に出る気でいるらしい』


 そういえば俺の療養中、テレビのニュースで横浜市政の話題が伝えられていたっけ。任期満了に伴い実施された市長選において、暴力団などの反社会的勢力の一掃を公約に掲げる弁護士の和泉義孝が当選し、新知事に就任。村雨組の推した現職を得票数で大きく引き離す圧勝であり、これで勢いづいた和泉は民意の強い支持を受け、市役所改革を柱にした公的機関の“浄化”に乗り出す方針という。


『キミも知ってる通り、市役所や横浜の公営企業は村雨組との賄賂で腐りきってるからね。そうした上層部を悉く刷新して、まったく新しい組織に作り替えようというのさ。僕らを潰すためにね』


「じゃ、じゃあ、これからは警察や役所に鼻薬を効かせられなくなるってことか……?」


『そう考えた方が良いだろう。残念だけど』


 俺が居ない間、そんな窮地に陥っていたとは。幸いにも現時点で県警上層部とのコネはまだ切れていないようだが、来年の知事選で暴力団追放を掲げる候補者が当選してしまえば話は別。今回の和泉市長勝利の勢いに乗り、民意に押されて反・村雨の人間が出てくる可能性は大いに高い菊川は語る。


『僕らは横浜で無茶をしすぎた。そのツケがまわってきたのかもしれないね。今や民意は完全に極道を敵対視しているよ』


 様々な利権を狙った公共事業への不当介入や、市場を暴力で牛耳っての搾取など、これまでの行いが仇となってしまったのだ。もはや従来のシノギのやり方は通用しない。村雨組は大きな岐路に立たされている。


「その和泉ナントカって野郎を市長の座から降ろす手立ては無いのか?」


『無い無い。支持率も70パーセント越えだし、あの男の父親は総理経験者の大物代議士で、兄もまた現職の国会議員だ。和泉家は日本屈指の名門一族なんだ。そう簡単に太刀打ちできる相手じゃない。それに……』


「何だよ?」


『仮に和泉を失脚させたところで、別の人間が立候補してくるだけだよ。おそらく和泉の背後には中川会がいる。先月の市長選で僕らが敗けたのも、きっと中川会が強固に和泉を支えていたからだ』


 表向きは暴力団の追放を掲げておきながら、結局は裏で暴力団を頼っている言行不一致。道義的な議論はさておき、中川会がバックについている限り、和泉がどんなに悪辣な政治を行なったとしても、俺たちは迂闊に手出しができない。下手に動けば、状況はどんどん危うくなる一方なのだ。


「はあ。もう駄目じゃねぇか……」


『まだ希望はある。来年の知事選で僕らの推す候補者が勝ちさえすれば。それまでに何としても和泉の弱みを握って、世論の支持率を引っ繰り返すんだ』


「できるのか?」


『できなくたって、やるしかない。僕らにとっては死活問題なんだから。何としても利権を守り切る』


 この国の役人とは不思議なもので、提示した賄賂や見返りの額によってコロコロと態度が変わる。所詮、彼らの頭の中にあるのは公に奉仕する精神などではなく、単なる利益追求のみ。結局のところはカネで動いてしまうのだ。


 中川会が関東の公務員たちをどこまで懐柔しているかは定かではないが、少なくとも政府の奥深くに影響力を浸透させているとみて間違いない模様。そんな状況下で、再び囚われの身となってしまった芹沢を如何にして救出するか。無論、決して簡単な話ではなかった。


『芹沢のあにさんのことは、とりあえずシキシマ先生に相談する。組長にも国際電話で話しておかないと。まずはそれからだな……』


「んで、これから俺はどうすりゃいい?」


『ひとまず屋敷に帰って来てくれ。もしかしたら中川の人間に出くわすかもしれないから、できるだけ早くね』


 俺としては今すぐにでも行動を起こしたい気持ちはあったが、芹沢が逮捕されてしまった以上、もはやできることは無いのだろう。あとは弁護士先生の手に任せ、然るべき時を待つ。それしかないのだと直感的に悟った。


(……仕方ない。今日のところは帰るか)


 がっくりと肩を落としながら、俺は山手町へと戻った。


 これからに備えて、帰ったら即座に休みたい。まだ陽の出ている時間帯ではあるものの、今日のところはさっさと眠ってしまいたい気分だった。


 されど、そうは問屋が卸さない。瓦屋根の門前、一人の男が鬼の形相で鎮座しているではないか。おまけにそいつは白鞘刀を肩に担いでいる。


 若頭補佐の沖野一誠だ。


 一体、どうしたというのか。周りには取り巻きの舎弟たちだろうか、組員が何人か控えている。嫌な予感をおぼえつつも神妙な顔で近づいていった俺に、沖野はいきなり怒声を浴びせた。


「テメェ! 中川と組んで芹沢の兄貴をめやがったな! この裏切り者が!」


「はあ? 何を言って……」


「とぼけんじゃねぇ!!」


 鞘から剣を抜き放ち、俺の喉元に突きつけた沖野。あとほんの数ミリで首を切り裂いてしまいそうな位置にまで刃が接近していた。


 何をいきなりと動揺しながらも、俺はあくまでも冷静に対応しようとする。


「……三島から戻って早々、随分な言いがかりだな。沖野さんよ。俺は中川会と組んでなんかいねぇぞ」


「だったらこの写真は何だってんだよ! こいつを前にしても未だにシラを切り通そうってのか!?」


 もう一方の左手で懐をまさぐり、怒髪天の若頭補佐は俺に一枚の写真を見せつけてきた。


(えっ、これって……)


 覚えのある光景。それは3ヶ月前、伊勢佐木長者町のホテルの1階カフェラウンジにて本庄利政と会食をした際の写真である。誰が撮ったのかは分からない。されども、ひとつだけ断言できるのは俺は向こう側のスパイではないという事実。これは紛れもなく、村雨組長に頼まれて本庄と会いに行った時のものである。


 写真の中の俺は、どういうわけか本庄を前に笑みを浮かべている。おそらくは奴のくだらぬ冗談を聞いた時に出た“苦笑い”だろうが、目が細まっている事実に変わりはない。悪意ある受け取り方をされようものなら「五反田の蠍と仲良さげに談笑している」との図式が完成してしまう。


 実に厄介な一枚だ。写真は光景こそ写せど情報は写してくれない。内通者にあらずと主張するなら、それ相応の弁解をせねば。


 俺は必死で説明を試みた。


「いや、その……写真に写ってる男には組長の使いで会ったんだ。ちょっとしたものを渡して来てくれって頼まれてよ」


「組長の使いだと? どんな用事があったってんだ?」


「それは……」


 返答に窮してしまう。村雨耀介と本庄利政の個人的な同盟関係については口外が固く禁じられている。常識の上で考えるなら本庄および中川会が俺に危害を加えた時点で関係は破綻しているのだが、それについて村雨組長から言質は貰っていない。ゆえに「2人の間で書状のやり取りがあった」などとは答えられなかったのだ。


 当然、しどろもどろな態度は返事として不適切。沖野の怒りを買ってしまう。奴は沸騰する湯のごとく激昂した。


「適当なこと言ってんじゃねぇぞ、このクソガキが! 組長が中川会と手を組むわけねぇだろうがぁ!!」


 直後、沖野は水平に構えていた刀を真上に振り上げる。俺は慌てて躱したものの、やはり相手は古流剣術の達人。刃が顔面を軽く掠め、頬から血を流してしまった。


「ぐうっ……! ちょ、ちょっと待ってくれよ。誤解だ! 大体、そこに映ってる人間が中川会の奴だって誰から聞いたんだよ!?」


「この期に及んで与太こいたって無駄だ。もう、調べはとっくについてんだからな。テメェを尾行した小泉から事の子細は全て聞かせてもらった。まさか、よりにもよってあの悪名高き五反田の蠍とつるんでたとはな!」


「はあ……?」


 なんと、俺はあの日、密かに尾行を受けていたというのだ。小泉こいずみとは俺がキャバクラで揉めてボコボコにした下っ端若衆。あの件では組長からキツくお叱りを受けたのでよく覚えている。


 曰く、俺のことを「怪しい」と感じた小泉が村雨邸を出たところからそっと後をつけ、伊勢佐木長者町で本庄と密会する模様に遭遇。俺が中川会本庄組と内通しているものだと疑い、証拠写真を秘密裏に撮影し、今日に至るまで隠し持っていたという。


 写真に写る茶髪サングラスの男の名が本庄利政であると、小泉は何故に気づいたのか。普通ならば知らないはずである。違和感を覚えた俺だったが、すぐに合点が行く。


 あの日、本庄は自らの素性を大声で名乗っていたのだ。極秘の会談を終えた帰り際、コーヒーを飲む、飲まないのは無しになった時だ。突如として奴は財布から札束を取り出し、高らかに豪語していた。


『何や? わしに奢られる茶は飲まれへん言うんか? ご一同、わしを誰や思うとんねん。中川会が直参、本庄組の本庄利政やぞ。わしに一度出した札の束を引っ込めろ言うんか? ははっ、そいつはなかなかええ度胸じゃのぅ。おお!?』


 その場にいた他の客全員分の会計を持つと言い、困惑する者に対して露骨な脅迫を行ったのだ。当時、俺はとんだ見栄っ張りだと呆れた反面、少なからぬ違和感を覚えていた。


 暗殺の危険を恐れていかなる時も慎重に動くことを是とする本庄が、何故に自らの素性を大声で言いふらしていたのかと。


 もしや、全てはこうなることを見越しての振る舞いか。俺が村雨邸から何者かに尾行されているだろうと踏み、その尾行者に「麻木涼平が中川会の直参組長と2人きりで会っている場面」をまざまざと見せつける。


 前述の通り、村雨と本庄の同盟は俺以外に知る者がいない。よって、密会の現場を目撃した村雨組の組員は、麻木が本庄に内通している疑いがあると危機感を抱き、組の中で告発を行う。


 さすれば風潮を受けた者たちは俺のことを異端視するようになり、俺は次第に村雨組内で立場を失い、やがては中川会に行くしか無くなる――。


 全てを計算し尽くした、五反田の蠍による恐るべき計略。麻木涼平を必ずや手に入れるために、敢えてわざとらしく愚かな猿芝居を打っていたらしい。俺は歯噛みしつつ、心の中で本庄への恨み言を吐いた。


(ほ、本庄の野郎……)


 あいつのせいでますます苦境に立たされる。全ては陰謀だと声高に叫びたいが、あいにく俺は反論する余裕を持たない。筋道立てて話したところで信じてもらえる根拠が何ひとつ無かった。


 沖野の怒りは鎮まるどころか、どんどん火に油が注がれてゆく。これはまずい。俺に対して明確な殺意が向けられ始めていた。


「麻木ィ……よくも俺たちを裏切ってくれたな。お前のことを一瞬でも“良い奴”と思った俺が馬鹿だったぜ。テメェのせいでどんだけの人間が血反吐吐いたと思ってんだ!? ああ!?


「沖野さん。話を聞いてくれ。俺は中川会のスパイなんかじゃない」


「うるせぇ! 三島行きをすっぽかしたに飽き足らず、自作自演の襲撃事件、挙げ句の果てには警察サツに舎弟頭をパクらせるなんてなぁ……もう、テメェは我慢ならねぇ。今、ここで殺す!!」


 沖野は俺を殺す気だ。


「ちょっと待ってくれ! 落ち着け! あんたは勘違いをしている!」


「黙れ! 言い訳なんぞ聞きたかねぇんだよ!」


 俺の声は届かない。沖野は腰を沈め、八相の構えを取る。全身全霊の力で刀を振り下ろし、脳天ごと叩き割るつもりだ。待てと言われて止まる相手なら、そもそも極道などやっていない。


 俺が止む無く構えを取るよりも先に、激怒した剣豪は容赦のなき攻撃を仕掛けてきたのだった。


「真っ二つにしてやらぁァァァ! 麻木ィーッ!!」


 刀はおろか、ろくな武器を持っておらず、完全な丸腰状態の俺。この距離では逃げることも避けることも叶うまい。一刀両断される覚悟を決めるしかなかった。だが、ここで終わるわけにはいかない。


「うおぉっ!」


 強い意志と共に、俺は拳を固める。


「オラアアーッ!」


 沖野の刀が振り下ろされる瞬間、俺は思い切り右ストレートを放つ。村雨組長に教わった、一撃必殺の打突技。ほうけん。刃が俺の身体を縦一文字に両断する前に、渾身の一撃を奴の顔面に見舞おうという魂胆であった。


 俺の目論見もくろみは当たった。


 ――バキッ。


 鈍い音が響く。肉がめり込む感触が右手に伝わる。全身全霊を懸けて放った俺のストレートは標的に命中し、沖野は顔面を衝撃で歪ませている。


「ぐおおっ!?」


 一か八かの賭けは成功した。


 かに、見えた。直後に俺は違和感に気づく。


(……えっ?)


 左腕に焼けるような痛みが走っている。なんと、沖野の刃が皮膚の表面をざっくりと切り取っていたのだ。


「なっ……!?」


 俺のパンチが命中する直前、沖野の手元が僅かにブレたのだろう。腕が丸ごと切り落とされる展開だけは避けられた。しかしながら、凄まじいダメージだ。裂傷としてはかなり酷い具合。


 傷を自覚した瞬間、猛烈な激痛が駆け抜けてゆく。


「ぐああああっ!」


 自然と声が漏れた。これが秘伝の殺人剣術、橿原鬼神流の強さか。沖野一誠という男の底知れぬ戦闘力の引き出しを開けてしまったような心地だった。


 ただ、一方の沖野も決して平静を保っている様子ではない。先ほどの全力の崩拳を正面で受けてしまったか、鼻と口からおびただしい量の血を噴き出している。歯も何本か折れているのが分かった。


「はあ……はあ……このガキがァ……斬られる寸前に拳を打ち込んで刃の軌道を逸らすたぁ、見事なもんだぜ。だが、今ので左腕は使いものにならなくなっちまったようだな」


「うるせぇ……あんたの方こそ、酷い有り様だな」


「俺は同じ手にゃ二度と乗らねぇぞ。今度こそ、テメェをぶった斬ってやる。身の程を知りやがれ!」


 再び構えを取る沖野。彼の云う通り、奇襲戦術はもう使えない。おまけに左腕の負傷もある。このまままともにやり合えば、こちらの方が確実に不利だろう。


(ど、どうする……!?)


 おまけに、向こうには手勢がいる。沖野の舎弟たちだ。彼らも兄貴分と同様に俺に対して猛烈な殺意を向け、各々が得物を手に取っている。ナイフ、金属バット、木刀などなど。


 7人の組員の中で、見たところ銃を持っている者は居ない。されども全員を相手にするのは困難だ。沖野ほど戦闘力は高くないとはいえ、集団でかかって来られたらあっという間に囲まれるのがオチだ。


 悔しいが、ここで取るべき道はひとつ。敵方に銃を持った人間が居ない点に着目した俺は、颯爽と行動に移す。後先考えず、また振り向かなかった。


「あっ、おい!」


「逃げるな! この野郎!」


「追えーッ! 絶対に逃がすな!!」


 逃げるが勝ち。ここで俺が選んだ方策とは、現場からの緊急離脱であった。格好良く形容するならば戦略的撤退、身もふたもなく言えばトンズラだ。


「待てやあッ! 麻木ィ!!」


 沖野の怒声が背中から聞こえる。死に物狂いで追いかけてきているのが、足音で伝わってきた。だとしても、俺は全速力で走り続ける。


 ここで終わりたくない。ただ、それだけを願って。


(こんな展開、前にもあったな……)


 思い返せば、あの時は芹沢が俺を逃がしてくれたのだっけ。おかげで舎弟頭はとんだ災難に見舞われる羽目になったのだが。逃げるという行為は時に思っているよりも難しいものだ。


 屋敷から続く坂を全て駆け下りたところで、背後の足音は響いてこなくなった。沖野たちが追跡を諦めたのだと分かる。俺はひと安心したものの移動は止めない。


 今のうちに逃走距離を稼いでおきたかったのだ。


 幸運にも財布はポケットの中に入っているが、タクシーを拾えるほどのクレジットは無い。そのため逃走手段は徒歩に限定される。地区から地区を越えて桜木町、駅前通りと必死で走り抜けていた。


 考えていたことと言えば、何故にこんなことになってしまったのか、ただそれだけである。


 与えられた役割こなしていただけなのに。急転直下の出来事で、ここまで惨めな思いをさせられる自分が情けなく、物凄く腹立たしかった。


 全ては中川会と本庄利政。あいつらのせいだ。そして、裏で糸を引いている中川会三代目会長、中川恒元。俺は奴を心底憎んだ。


 いずれ必ず、一発ぶちかましてやりたい。俺に舐めた真似をしてくれた報いを受けさせる。そうでなくては気が収まらなかった。


 さて。どれほど走り続けた頃だろうか。繁華街を少し外れた裏路地にて、俺はそっと足を止める。


 呼吸は完全に乱れ、両脚とも棒のように硬直して言うことを効かない。頭の中で見積もって5キロは突っ走ってきたので、全身が疲れ果てている。怪我のこともある。今こそベッドに身を委ねて休みたい気分だ。しかし、ここで都合よく休憩ができる場所など見つかるわけがない。


(……いや。待てよ?)


 ハッとして電柱の住所表示に目をやる俺。そこはつい昨晩、訪れたばかりの地域。桜木町に程近い住宅街である。


 ああ、思い出した。ここになら束の間ながらも安堵の息がつける空間があった。当の家主に受け入れて貰えるかは分からないが、前日には「また何かあったら来て」と言葉を貰っていることだし、行くだけ行ってみても良いのではないか。


 またしても僅かな希望に懸けるつもりで、俺はそこへとできる限り足を急いだ。


「えっ? 麻木さん、どうしたんですか!?」


 神は俺を見放さなかった。幸運にもエレナは在宅だった。ドアを開けるなり、彼女は立っていた俺の姿を見て驚く。昨日の今日で2度目のご来訪だ。びっくりされて当然である。


「やあ、エレナさん。ちょっとな……」


「その怪我、どうしたんですか? 兎に角、上がってください! いま、手当ての準備をしますから!」


 助かった。ひとまずの安堵感に身を委ね、俺はエレナの玄関へと上がる。左腕の裂傷は出血こそ治まっているが、今にも化膿してしまいそうな状態だった。


「うわあ、これは酷い。何があったんですか? すぐに消毒しないと……」


 そう言ってエレナはリビングへ消える。しばらくすると救急箱を持った彼女が現れる。間一髪、傷口が膿むことは避けられた。手際よく包帯を巻きながら、エレナは問う。


「何があったかは大体想像がつきます。誰かに襲われたんですよね?」


「ああ。組で、ちょっと揉めてな」


「まったく無茶なことを……」


 ため息をつくエレナ。大学にて医学を学ぶ彼女にとって、俺のような存在はさぞかし呆れた人間に思えるはずだ。今日も今日とて血を流しながやって来たのだから。「もっと命を大切にしてください!」と叱咤されてもおかしくはない雰囲気である。


「……」


 だが、彼女は何も言わなかった。普段、キャバ嬢として組関係の事情は理解しているのか。既に荒事が板に付いてしまっている俺に、もはや何を言っても無駄と思ったのだろう。あるいは些かの同情があったか。


 兎角、彼女は黙って処置を施してくれた。包帯を巻く彼女の顔を見ると、まるで自分のことのように辛そうな表情をしていた。それがまた忍びないというか、申し訳なかった。


「ありがとな。エレナさん」


「いえ……でも、気をつけて下さいよ? 次からは私じゃなくてちゃんとしたお医者さんに行くことをお勧めします」


「あはは。気を付けるよ」


 エレナが具体的な事情を訊いて来なかったのは本当に有り難かった。説明する手間が省けるし、何より数時間前の悔しい出来事を脳内で再現しなくて済むからである。エレナから例によって痛み止め用にとグラスに注がれたウォッカを一口飲みながら、俺は重い息を吐いた。


「ふう……」


「当分はお酒を飲んでから寝た方が良いかもしれませんね。傷口はしばらく痛みますから。組でマリファナやモルヒネが手に入るなら、それを使うべきです」


「そりゃあ流石に大袈裟じゃねぇか?」


「大袈裟なもんですか。麻酔も使わずに針で縫ったんですから。普通の人なら、さっきの時点で泣いて大暴れしてもおかしくはないレベルの痛みだったと思いますよ」


 どうやら俺は常人よりも痛みに強いらしい。エレナ曰く、成人男性でも意識を失うほどの激痛だったそうだ。まぁ確かにあの時、一瞬だけ視界が真っ白になった気がしたが。


「まあ、これでとりあえずは大丈夫でしょう。あとはなるべく腕を動かさないようにして安静にしていれば、いずれ良くなります」


「分かった。ありがとさん」


「喧嘩はしばらく避けてください……と言っても、無駄ですよね?」


「あ、ああ」


 おあいにくさま、俺はまた近いうちに乱闘戦を繰り広げる羽目になりそうだ。きっと今ごろ沖野は血眼になって俺の行方を追っていよう。あの雰囲気からして、奴は俺の首を獲る気満々でいた。ああいう手合いは執念深い。是が非でも再戦を挑んでくるだろう。


(ったく。困ったなあ……)


 沖野の誤解は解けそうにない。さてさて、これからどう動くべきか。


 奴が俺を襲った件を菊川は知っているのか。ここは仲裁をお願いしたいところである。芹沢がパクられてしまった現状において、頭に血が上りやすい若頭補佐を諌止できるのは若頭しかいないのだ。菊川は同盟関係のことら知らない。それでも俺が中川会の内通者でないことは十分に理解してくれていると思うから。


「なあ、エレナさん。ちょっと電話を借りても良いか? 連絡したいところがあるんだ」


「はい。どうぞ。あ、お酒のお代わりを注いでおきましょうか? まだ1杯しか飲めてないようなので」


「ああ。頼むわ」


 こうして俺はエレナに許可を貰い、プッシュホンの受話器を手に取る。かけた番号は、もちろん村雨邸。菊川に現在の状況を説明し、助けに入ってもらうため――。


 と考えていたが、コール音が数回ほど鳴ったところで俺は受話器を置いた。


「えっ? 電話、しないんですか?」


 不思議そうに尋ねるエレナに、俺は苦笑しながら答える。


「ああ。ちょっと色々あってな」


 電話をかけたところで、菊川に直接繋がるはずは無い。沖野の息のかかった電話番が出てしまえば、あの手この手で居所を特定されてしまう恐れがあると判断したのだ。確か村雨組の連絡室には、受電の逆探知を行う設備があったと思う。


(……今は止めとくか)


 しばらくは村雨邸から離れてほとぼりを冷まし、適当な頃合いを見計らって菊川に直接仲裁を頼む方法を探すとしよう。それが何より賢明だ。当面は戻れなくなる村雨邸に寂しさを覚えながら、俺は受話器から離れた。


「……今夜、泊まって行かれます?」


「えっ」


「その様子じゃあ、帰る所が無いんですよね? 差し出がましい話で大変恐縮ですけど」


 エレナから思わぬ提案が飛び出した。肩を落とした俺のいたたまれぬ雰囲気を見て、気を遣わせてしまったか。勿論、容れるわけにはいかない。有り難い申し出ではあるが、今の俺は追われる身だ。そんな人間と一緒にいれば彼女も危うくなる。


 俺は首を大きく横に振った。


「いや、いいよ。そこまで世話になるつもりはない」


「私、これでもお医者さんの卵ですよ。怪我人を放っておくわけにはいきません。遠慮しないでください」


「そういう問題じゃない。あんたも何となくお察しとは思うが、俺はいま組に追われる身なんだ。巻き添えを食わせるわけにはいかねぇよ。それに俺も一応、男だからさ……」


「私、風俗嬢ですよ? 男の人を泊めることに慣れていないとでも?」


 冗談っぽく微笑むエレナ。彼女の言う通り、彼女は夜の蝶として客の家に上がり込んだり、逆に家に招待されることだってあるだろう。しかし、俺の場合は違う。


「い、いや……。でも、駄目だよ。やっぱり。悪いし」


「ふぅん。私のことが嫌いなんですか?」


「そ、それは……」


 エレナはキャバ嬢であると同時に医大生でもある。彼女の立場上、患者である俺を放置することは出来ないのかもしれない。それでも、俺は彼女に迷惑をかけたくなかった。


 だが、玄関へと向かう俺の前に仁王立ちして行く手を塞いだ後、エレナはつんとした声で言った。


「このまま帰る気ですか? たぶん、あなたはここを出たら10分も持たないと思いますよ」


「どういう意味だよ」


「さっき窓の外を見てたんですけど、スーツを着た人たちが何名かうろついてました。全員、お店で見たことのある顔です。村雨組の人間ですね」


「なっ!? マジかよ……」


 なんとまあ。俺が酔っぱらっている間にそんなことになっていたのか。やっぱり、ヤクザの人探し能力は尋常ではない。まさか沖野たちがここまで早く包囲網を狭めてくるとは思わなかった。


「安心してください。麻木さんが私の家にいることは勘付かれてませんから」


「……どうしてそう言いきれんだよ」


「視線を見れば分かります。あの人たちは明らかに別の方向に目星をつけていました。医大ではメンタリズムも学びますから。人が考えていることは大体見当がつくんですよ。そして、大体の場合、よく当たる」


「……」


 ならば、いま俺が考えていることも見抜かれてしまっているわけか。本当はこの部屋から出ず、しばらく身を潜めていたいという願いを。実を申せば、この日の俺にはもはや外を走り回れる体力が残っていなかった。


 俺は今日、沖野たちに見つからないよう山手町の坂道を駆け通って桜木町まで辿り着いたところで限界を迎えた。疲労感が半端ではない。できることなら、エレナの部屋でこのまま寝転がって眠ってしまいたいと考えている始末である。


(……仕方ねえ。ここは甘えるしかないな)


 結局、俺は彼女の提案を受け入れた。


「すまない。ちょっとだけ厄介になっても良いか?」


「はい。ゆっくりしていってください」


 エレナは笑顔で答えてくれた。


「じゃあ、麻木さん。今夜はそこのベッドに寝てください。私はミクの隣で寝ますから」


「ミクの隣って、あんた。床で寝る気かよ!?」


「ぜんぜん大丈夫ですよ」


 エレナが指差した先にはベビーベッドの隣に座椅子があった。確かにあれを水平にして横になれば、固いフローリングの上に直に身体を預けるよりかは幾分かマシかもしれないが、俺としては納得がいかなかった。


「いや、良いよ。俺が床で寝る。あんたがベッドで寝てくれ」


「駄目ですよ。怪我人は大人しくしていてください」


「怪我人だからって甘えちゃいられないだろ。女を床に寝せるなんざ男のすることじゃねぇ」


「あら。格好いいこと言うんですね」


 エレナはくすっと笑った。


「でも、その優しさを自分にも向けてあげないと、そのうち身を滅ぼしてかしまいますよ?」


「……えっ?」


 如何なる意味か。一瞬だけ、かなり真面目な表情になったような気がする。俺は思わず聞き返した。


「いえ、なんでもありません。ささ、麻木さんはお酒でも飲んでください。酔えるだけ酔って痛み止め代わりにしないと今夜は眠れませんから!」


「あ、ああ……」


 エレナが注ぎ直したウォッカを飲みながら、ついつい考えてしまった。


(……この女はどこまで知っている?)


 その可能性は否定できない。エレナがどこまで事情を知っているかは分からないが、少なくとも彼女がただの親切な女性でないことは確かだ。言ってしまえば、相当なる“お節介焼き”であろう。彼女の対応からは打算こそ感じられないが、何か強固な信念じみた思考のようなものが垣間見えてならなかった。俺としては有り難いのでそのまま受け取っておくが。


「麻木さん、お腹は空いてませんか? 何か作りますよ。私もちょうど夕飯はまだでしたし」


 こちらが邪推を繰り広げている間に、エレナは台所に立っていた。


「ああ。空いてる。頼むわ」


「了解です。ちょっと待っててくださいね。あなたのお口に合うかどうかは分かりませんが……」


 数分後、彼女がテーブルの上に並べたのは肉野菜炒めだった。白米と味噌汁も付いている。何てことはない、普通の家庭料理。日頃より村雨邸でコックの作る献立ばかりを食べていた俺にとっては少し地味にも感じられる。だが、腹が減っている今は何を見てもよだれが滴る。いやいや、俺の舌が愚かにも肥えすぎているだけで、普通に美味しいと思う。


「どうぞ、召し上がってください」


「いただきます」


 俺は箸を手に取り、まずは味噌汁を口に含んだ。温かい赤味噌の液体を喉の奥へ流し込むと、胃の中がぽかぽかしてきて、なんだかとても落ち着いた気分になる。


 続いて、俺は皿の上に置かれた一口サイズの肉を摘み、口の中に放り込んだ。味付けは醤油ベースだろうか。ご飯が欲しくなる。噛むたびに旨味成分が溢れ出てきて、非常に美味しかった。


 こんなものは久々に食べた。何と形容すれば良いのやら、作り手の心が込もっている。単なる味覚だけでなく、口いっぱいに優しさが広がるような心地であった。


「うん。めちゃくちゃうめぇよ」


「それは良かったです」


 エレナは嬉しそうに微笑んでいた。


「麻木さんのお好みに合ってるようで安心しました」


「あんたは食わないのか?」


「じゃあ、私もいただきます」


 俺が食べ始めてから1分も経たないうちに、彼女は自分の分の食事に手をつけ始めた。やはり、誰かと食事を共にするという行為は楽しいものだ。しかもそれが可愛い女の子であれば尚更である。


 村雨邸で厳ついヤクザたちと膝を付き合わせるのが当たり前だった俺にとって、これはまたとない癒し。安息の時間であることは言うまでもなかった。



「……ごちそうさん。美味かったよ。こんなに美味い飯は、その……久々に食った気がする」


「ちょっとぉ! どうしたんですか、麻木さん!」


「えっ」


「泣いてるんですか?」


 俺は耳を疑った。恐る恐る左頬に指を当ててみると、水の滴が垂れている。確かに涙を流していたいたのだった。


「……あぁ、すまん。ちょっと目にゴミが入っただけだ」


 何故に涙が出るか。自分でもよく分からなかった。きっと疲れ目だろう。俺は誤魔化すように手の甲で目を擦ったのだが、それでも目頭は熱いまま。心のどこかで安堵している自分がいることには気付いていた。


(この場所に心が落ち着いてるってことか……)


 これまで俺が身を置いてきた場所は、いずれも安息とは程遠い戦場じみた環境だった。南幸にあったアルビオンのアジトから始まり、村雨邸、五反田の本庄組事務所など、ほっと息がつける空間は一つとして無かった。俺のことを利用し、あるいは妬んで命を狙う輩が跋扈する所ばかり。


 だからこうして落ち着けること自体が奇跡に近いのだ。


 加えて、エレナが作ってくれたこの飯だ。これが不味いわけがない。彼女の人柄を考慮すれば、自然と心は和らぎ、身体はリラックスして、思わず感情が揺さぶられてしまったに違いない。


「……こんな気持ちになるのは久しぶりだ。何つーか、その……心の底から落ち着けるっていうか。ありがとう」


「いえいえ。麻木さんが喜んでくれたなら、それで充分ですよ。私は当たり前のことをしただです」


「俺、この街に……横浜に来てから、ずっと戦いの連続だったからさ。こうやって一瞬だけでも現実を忘れられることが、嬉しくて嬉しくて、たまんねぇのかも」


「大変だったんですね」


 気づくと、俺はエレナに身の上話を語り始めていた。


「俺、生まれは川崎なんだけど、死んだ親父に似てガキの頃から乱暴者でな。小3で本格的にグレてからは悪さばっかりしてた。そんなドラ息子に愛想を尽かして、母親は中学を出た時点で俺を家から追い出した。で、俺は流れるように横浜へ来て、いつの間にか親父の背中を追っかけてヤクザもどきをやってるってわけさ」


「なるほど。麻木さんも苦労されたんですね。まだ私よりずっとお若いのに」


「苦労したって自覚は無いさ。いつも好き放題に暴れてきただけだからな。だが、その結果がこのザマだ。俺はただ、親父の影を超えようとしただけなのにな……」


 俺の父は“川崎の獅子”こと麻木光寿。それを超え男になれと発破をかけられ、今日まで熾烈な戦いに身を投じてきた。数えきれぬほどの人間を殺した。裏社会で噂が出回るくらいの伝説的な死闘劇を演じたりもした。俺なりに精一杯やったつもりだ。


 これから先の未来は明るいと思っていた。しかし、待っていたのはとんだ計算違い。獅子の幻影を引きずる中川恒元に目をつけられ、尊敬する芹沢を再び投獄させてしまった挙げ句、内通を疑われて組を追われる事態に陥った。


 どこで道を間違えたというのか。何を誤ったがゆえに、こんな思いをしているのか。悔しくて仕方なかった。


「……俺としちゃあ、ようやく居場所を見つけたと思ったんだが。あっけないもんだな。簡単に失くしちまうなんてよ」


 それまで俺の話を黙って聞いていたエレナ。夜の仕事をしているだけあって聞き手に徹することには慣れている模様。やがて彼女は悲しげな表情を浮かべながら、ティッシュ箱を差し出してきた。


「これで涙を拭いて下さい」


「悪い」


 俺は素直に受け取って鼻をかむ。女の部屋に上がっておきながら泣きっ面を拝ませるとは。恥ずかしいところを見せてしまったようだ。ただ、よくよく考えてみれば涙があふれるという現象自体も久方ぶりだ。だいぶ長いこと経験していなかった。もしかすると数年以来か。ならば、自分を抑えられぬのもわけないことだ。


「麻木さん」


「ん?」


「麻木さんは、今、生きてて楽しいですか?」


「いきなり何だよ。そりゃあ、楽しくないに決まってんだろ。この状況のどこを楽しいと思えば……」


 すると、エレナは言った。


「今、ここにいることはどう思っています?」


「えっ」


「今、この部屋に私と一緒にいることです。どう思ってますか?」


 質問の意図がよく分からなかったが、とりあえず正直に答えることにする。


「どう思うかだって?」


「はい」


「……楽しいよ。心が落ち着いてるよ。あんたは良い女だと思う。親切にしてくれるし、料理の腕もあるし、何より俺の話を黙って聞いてくれた」


「楽しいですか?」


 俺はコクンと頷く。


「ああ。そこだけを切り取れば」


 すると、エレナはにこやかに、なおかつ、優しい目を浮かべながら言った。


「じゃあ、生きてて楽しいって思いましょうよ。全体を見れば不幸でも、ほんの1ヶ所でも楽しいって思える部分があるから、それでも十分に幸せだと思うんです。人生の良し悪しは大きさじゃなくて、中身。そうは考えられませんか?」


「……だよな」


 俺は思わず苦笑してしまった。彼女の言葉には妙な説得力があったからだ。まるで姉が弟に対して語るかのような温もりのある姿勢と言葉遣い。胸の奥に、気づけばスッと入ってきていた。


「そう思わないと、私も生きてなんかいられませんから……」


「えっ?」


「私の話です。気にしないでください」


 エレナは意味深なことを言って微笑んだ。何かを我慢しているような口ぶりである。


(……この人も色々あるのかな)


 俺としては興味を抱かずにはいられなかった。今の会話の流れからして、彼女が自ら語りたがっているようには到底見えない。されども、つい尋ねてしまう。


「なあ、あんたが良ければ、もっと色々話してくれないか? あんたがどんな人生を歩んできたかとか……家族の話だとか。興味があるんだ」


「私の身の上話でいいんですか」


「ああ。聞かせてくれ。頼む」


 先程の彼女の言葉が、とても深い説得力を内包していた理由。それはエレナ自身が今までに歩んだ人生にあると思ったのだ。もしかしたら、自分と同じような過去を持っているかもと思ったのだ。


「……麻木さん、さっきご自分に親はいないって言ってましたよね?」


「ああ。言ったな」


「実は、私もなんです」


 少し俯きながら、エレナは言った。


「昨日、子供の頃に家が地上げに遭ったって話したじゃないですか。あれは今から11年前、私が小学生の時でした。私の両親は殺されたんです。関西系のヤクザに。ひどい追い込みをかけられて、まだ5歳だった私の弟も巻き添えに」


「えっ……!?」


「それからは親戚の家を転々とする日々でした。そこではいつも一人ぼっちで、ずっと孤独で寂しい思いをしてました。もう二度と肉親と会えない。そんな絶望感を味わったまま、ずっと過ごしてきました」


「……」


 俺は衝撃を受けた。まさか彼女にそんな重い過去があったとは。どこか幸が薄そうな雰囲気だったものの、そこまでの事情を抱えていたとは。辛い過去を思い出させることを迂闊に尋ねてしまった己を責めつつ、俺はそれからもじっとエレナの話に耳を傾け続けた。


「あの日、塾から帰った時に見た光景は未だに脳裏に焼き付いています。忘れるわけがありません。全身をバラバラにされた両親と弟の死体を見たときのことは」


「……」


「だから、私は決めたんです。もう絶対に命を諦めない。目の前で困ってる人には、何が何でも手を差しのべてあげたいって」


 それは小学生の時分、ヤクザからの執拗な地上げ攻撃に苦しむ両親の姿を間近で目撃しつつも非力ゆえに救えなかった彼女の過去に由来している。


 エレナが医者を目指しているのも、昨晩は危険を省みずに俺を助けたのも、そのためだ。


 想定外の妊娠でありながら堕胎という選択をとらず、周囲の反対を押しきって出産。私生児となった我が子を孤児院に預けず、無理をしながらも女手ひとつで育てているのもまた然り。


 命を手放したくない。


 そんな強い思いが、彼女を突き動かしているのだった。


 何だか、俺が今まで抱えていた悩みがとても小さく思えてくる。エレナが背負うものに比べたら、俺の運命などは取るに足らない些末事だろう。彼女の前で軽々しく絶望などという言葉を使うべきではなかったかもしれない。俺の心はまだ上を向かないが、せめて傷を舐め合い、共感してやることくらいはできよう。


「……生きるってのは大変だよな。マジでこの世は難しいよ。俺らみてぇに居場所が無い人間には」


「居場所なら、自分の手で作れば良いと思います。どこに居ようと自分の居る場所が居場所でしょう。私なんか、深く考えたことも無いです。まあ……親戚の家ではぞんざいに扱われてましたから、そういった意味では『居場所が無かった』のかもしれませんけど」


「あ、ああ。でも、そこから努力して大学にまで行ったのはすげぇよ。きっと、努力家ってのはあんたみたいな女のことを言うんだろうよ」


「もう、止めてくださいよ。夢に向かって闇雲に突っ走っただけですから。後先考えないのは私の悪い癖です。おかげでこの歳にして子持ちですし、奨学金やら何やらで借金まみれ。その上、風俗嬢ときてます」


 私なんかお世辞にも立派な女じゃないですよと自嘲気味に笑うエレナだが、俺は彼女のことを立派だと思う。少なくとも、自分より遥かに強く見える。


「そんな風に言うなよ。あんたは凄いと思うぜ。それに、あんたは女としての魅力もあるし……。俺は好きだな。そういう女」


「ふふっ、ありがとうございます」


 酒がまわってきたせいか、俺もいつもよりだいぶ饒舌になっている。このような時は思考もまわる。うっかり、考えなくとも良い余計なことまで頭に浮かべてしまう。


「……それに比べて、俺は情けねぇよ。とんだ人間の屑だ。どうしてヤクザの世界に居るんだろうなあ」


 エレナという立派な女性を前にして、自分がとても情けなく見えた。「命を救うこと」を是とする高潔な女と、殺人を重ねただけの半端者の少年。前者とは比べるべくもないだろうに。


「もう、麻木さん。そんなこと言わないでください。あなただって立派に生きてるじゃないですか」


「どこがだよ。俺なんか、ただの人殺しだ。あんたが憎んでるヤクザと何も……」


 その時だった。エレナが急に立ち上がり、俺が持っていたウォッカのボトルをやや強引にもぎ取る。そして瓶の中の強酒を口に入れると、彼女は思わぬ行動に出た。


 ――チュッ。


 なんと、エレナは俺の口を塞いできたのだ。他でもない。己自身の潤しい唇によって。


(……!?)


 あまりに唐突すぎて、俺は動揺する他なかった。これは紛れない接吻キス。経験自体は絢華としているが、いかんせん久しぶりだ。


「ちょ……おい、何を……!」


 エレナはなおも接吻を止めない。彼女の口内にあったウォッカが俺の中へ全て流し込まれるまで、触れ合いは続いた。スローモーションのごとく流れる、あまりにも衝撃的な時間だった。


「……ぷはあっ、全部を飲んでくれたみたいですね。良かった良かった。もっと酔わなきゃ駄目ですよ」


「あ、あんた。どういうつもりだ?」


「どういうつもりも何も、口を塞がせて貰いました。あんまり愚痴ばっかりこぼしてると良いことが逃げちゃうので。昔、死んだ弟にも同じことを言ってましたね。麻木さんはそっくりです」


 そう言い終えると、軽くウィンクしてみせたエレナ。やや強引に喉の奥へアルコールを流し込まれたせいか、俺は一気に酔いが増した。喉頭部分は勿論のこと、全身が熱くなっている。


「……こんな俺を弟さんと重ねちまって良いのか?」


「だって、似てますもん。ああ、麻木さんが子供っぽいって意味じゃないですよ。大人びてるけどどこかあどけなさが残ってる、そんなところがあの子を思い起こさせるんです」


「そうか……って、おい!? 何やってんだよ!」


 俺が驚愕の声を上げて制止する間もなく、エレナは着ていたセーターを脱ぎ、上半身を露にしていた。胸を押さえつけていたブラジャーまで取り去ってしまっているではないか。


「な、何を……!?」


「ごめんなさいね。ミクにもご飯を上げなきゃ。ちょうど私も胸が張ってきたところなので」


 あっけらかんと説明すると、エレナは少しぐずつき始めたミクを抱き抱え、乳房を口に含ませた。


「おいおい……」


「あ、大丈夫ですよ。さっき私は飲んでないので。それより、向こうを向いてて貰えませんか? ミクが緊張しちゃうので」


「わ、わかったよ……っていうか、何で上を全部脱いでんだ? 女の服のことはよく分かんねぇけど、その……捲るだけでも良いんじゃねぇの? 仮にも男の前だぜ?」


「こうやって上は全部脱いで上げないと、ミクがお乳を飲んでくれないんです。私は大丈夫ですよ。ああいう店で働いてるわけですし、男の人にオッパイを見られることには慣れっこです」


 何の臆面もなく授乳を続けるエレナ。俺のことを信頼してくれているのか、もしくはセクシーキャバクラのキャストという職業柄、感性がぶっ飛んでしまっているのか。どちらにせよ気まずいので、俺は言われた通りに背を向けて座り直した。


(何なんだよ、この状況……)


 そうでもしないと、気が狂ってしまいそうだった。ちょっとの距離を隔てた先に裸の若い女がいるのだ。おかげで俺の下半身は元気いっぱい。


 邪悪な欲求が胸の中で燃え上がる。正直、このまま後ろを振り向いて襲いかかりたいくらいだ。しかし、僅かながらに残った理性で何とか蓋をする。相手はこんな俺に世話を焼いてくれた恩人ともいうべき女性で、しかも乳飲み子を抱える母親。何より、赤ん坊とはいえ、娘さんの見ている前でそういったことをするのは憚られる。


 だが、どうしたものだろう。こんな状況で我慢できるほど俺は強い人間ではない。それに、俺の目の前でエレナは乳房を晒け出しているのだ。昨晩も同じだった。授乳中の彼女の姿を想像すると、どうしても身体の一部が反応してしまう。


 俺は己が性欲の強さと小心さに絶望するしかなかった。結局俺は、この興奮を収めるために右手を使わざるを得ないようだ。


 ――くちゅっ。


 俺はズボン越しに俺自身に触れる。既にそこは自己主張を始めており、膨らむ股間に合わせてパンツはテントを張っていた。


「……」


 いや、いけない。こんなところで致して何になる。そもそも自分で自分を慰める行為自体が恥ずかしいし、みっともない。俺はそっと下半身かは手を離す。

 しかしながら、もはや沸騰寸前である。ああ、どうすれば良い。こんなにも煮詰まった境地に立たされるのは生まれて初めてだ。


 そんな時、背後からエレナの声が聞こえた。


「……ふう、これでOKっと。よしよし、ちゃんと飲めて偉いねぇ~ミクぅ~」


 どうやら終了した模様。満腹になったミクが眠りについたのか、赤ん坊の体をベッドに優しく寝かせる音が鳴った。その瞬間、俺はそっと後ろを振り返ってみる。エレナは、まだ裸だった。


(ううっ……!)


 トップレス状態のエレナの身体が瞳に映り、俺はあまりの美しさに圧倒される。雪のように白く滑らかな肌に、やや大きめの2つの肉丘がツンと上に突き出している。先程まで赤ん坊に吸われていたせいか、桜色をした乳首はピンと張り詰めていた。それでいて肩や二の腕は逞しく、程よい筋肉が付いている。


 綺麗だ。綺麗すぎる。初めて生で目にする女性の裸が、こんなにも美しかったなんて。数ヶ月前に絢華と寝たときは互いに下半身だけ脱いで、上は着たままだった。ゆえに、とてつもなく刺激的だ。


「あ、見ちゃいましたね。もう、エッチな男の子なんだからぁ」


 悪戯っぽく微笑んだエレナ。もう、俺に我慢の二文字など残っていない。目の前にあるのは美しい裸体。その体で我が子に乳をやる光景は、まさしく聖母。いや、聖女、はたまた女神と呼んでも差し支えないものだろう。


 それを俺の手でよごしたい――。


 爆発的な劣情が胸の中で舞い上がった瞬間。俺は真っ直ぐエレナに飛びかかり、それこそ乳児のごとく抱きついていた。


「きゃあ!」


 不意打ちを喰らい、可愛らしい悲鳴を上げるエレナ。そのまま俺は彼女を押し倒す。


「あ、麻木さん!? ちょ、ちょっと待って下さい!」


「すまん。エレナさん。もう駄目みてぇだ。俺も男だからな……!」


「まったくもう……!」


 俺は裸のエレナをきつく抱きしめると、胸にかぶり付いた。生暖かい汁が口の中に染み出てくる。これが母乳というやつか。


「ああんっ!」


 エレナは艶めかしい声を上げ、身を捩らせる。


「あ、麻木さんっ、ダメですってば」


「悪い。ほんとに悪い……」


「もう、赤ちゃんじゃないんだからぁ」


「なら、赤ん坊に戻らせてくれ。今夜だけ……いや、今だけで良いから。エレナさん、俺はあんたが欲しい! あんたを俺だけのものにしたいんだッ! 頼む……!」


 自分でもだいぶ醜く、おぞましい台詞を吐いていると思った。俺の首筋を舐めながら『我輩のものになれ』と言った中川恒元と、何が違うのだろう。されども一度欲に駈られてしまった以上、後戻りはできない。


 酒池肉林が突き上げる本能的な欲求を前にしては、人間性や倫理観などはまったく無力だ。いかなる聖人君子とて、瞬く間に獣へと還る。勿論俺は元から俗物だが、この時はあらゆる思考が停まっていた。


 ただ、ひたすらに肉欲に従うのみ。己自身を保つために。己を取り巻く無情なる運命を刹那的にでも忘れるために。


「……ふふ、仕方ないですね。じゃ、今だけは甘えん坊で泣き虫のリョウくんになって貰おうかな」


「あ、ああ」


「おいで。あの子も同じ名前だった……」


 甘い息を吐くと、エレナは俺の頭を撫でて子供をあやすように抱きしめ返してくる。


 そうして蛍光灯の消えた部屋の中、俺たちは朝まで同じ時間を過ごした。


(……絢華、どうか許してくれ)


 後のことも、先のことも、どうでも良い。俺は全てを忘れたかった。傷ついて現実から逃げ出した身体には、それくらいしか出来なかったのだから。

罪悪感に苛まれながらも、思わぬ形で一線を越えてしまった涼平。それでも苦悩と痛みを抱えた者同士、今は心を寄せ合うしかない……。


次回、衝撃の展開が。

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