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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第8章 餞別
154/252

16歳

 1998年12月8日。


 この日、俺は16歳の誕生日を迎えた。


 極道の息子として生まれた男が、ついにここまでやって来た。自分で言うのもおかしな話だが、よく生きて来られたと思う。


 育ちにしてはそこそこ恵まれていた方だ。親父が謎の死を遂げてからというもの、母と妹と三人暮らしだった。裕福ではなかったが、俺より悲惨な奴を沢山知っている。母は朝早くから夜遅くまで働き詰めで、家事もすべて自分でやらなければならなかった。だが、当時の俺はそんなことに不満を抱いたことはなかったし、むしろ一人でいる時間が多かったので楽なくらいだと思っていた。


 それでも小3でグレて典型的な不良少年に堕ちた。喧嘩に明け暮れた日々を送り、中学2年の時には煙草を覚えていた。酒も飲んだ。ドラッグも少々嗜んだが、あまり美味しくは無かったのですぐに飽きた。当然のように補導され、何度も警察の厄介になった。母も妹も半ば諦めていたというか、中学を出る時点で将来は極道者になることがある程度は決定付けられていたように思う。


 追い出されるように実家を飛び出し、流れ着いた横浜。そこで紆余曲折を経て村雨耀介と出会った。彼の率いる村雨組で働くようになり、最愛の人とも出会えた。それまで暴れることしか能の無い狂犬だった俺が、ようやく人間らしい人間に慣れたような気がする。


 自分がおかしい人間だと認める所は俺にもある。何の躊躇も無く人を殺せるのだ。それも何人も。殺しに関しては一切罪悪感を感じない。ただ「殺す」という“行為”をはたらいただけという感覚があるだけだ。割り切れなくては人を殺すなんてできないだろう。そういう意味において、俺はやはり普通ではないのかもしれない。


「おう、涼平。おはようさん。そういやあ、お前。今日は誕生日だったなあ。おめでとう」


 昼過ぎ、屋敷内で顔を合わせた芹沢に祝福の言葉を貰った。


 昨日から天地がひっくり返るくらいに多忙だというのに、彼はいつも通りのスーツ姿。ネクタイにはきちんとアイロンがかけられていて、ソフトモヒカンの髪もワックスで整えられている。身だしなみには人一倍気を遣っているのだろう。


「ありがとう。面と向かって言われると何だか恥ずかしいわ。俺、親にも誕生日を忘れてたくらいだからよ」


「ははっ。まあ、そう言うなや。今日は一年で一度の記念日なんだ。16歳になったんだろ? 一日くらいは肩の力を抜いて過ごしたって良いんじゃねぇか?」


 中川会とのゴタゴタは続いているものの、あまり気にしなくて良いと芹沢に言われた。俺自身はしばらく大人しくしていれば問題ないという。中川恒元の要求を如何にして突っぱねるかは不明だが、お言葉に甘えて今日くらいはリラックスして過ごしてみようか。


「ああ。そうだな。そうさせてもらうわ」


 あとで上手い飯を食わせてやるという芹沢の言葉に期待感をおぼえながら、俺は屋敷の中を歩く。


 すると、何やら連絡室が騒がしい。数人の若衆たちが電話機の前に張り付き、次々にかかってくる電話の対応に追われているようだった。


『……ああ。はい。すんません。でも、その件については組長の意向ですので。どうか、ご理解くださいますよう』


『組長の指示なしでは俺達も動けなくて……』


『どうかご容赦を。本当にすみません。何卒』


 一体、どういった用件で話し込んでいるのか。電話番の組員たちは全員渋い顔をしている。大方の察しはつく。きっと俺の件。本家から「麻木涼平を引き渡せ!」としつこくせっつかれているのだろう。


 俺にも多少は罪悪感がある。俺が村雨組にいるせいでこんな事態に陥っているのだから。


 そんな時、背後から菊川が話しかけてきた。


「やあやあ。麻木クン」


 意外だった。芹沢から聞いた話では、昨日に名古屋から戻る途上で三島市に入り、現地の武装勢力とナシをつけるとのことだった。聞けばそちらが難なく片付いために戻ってきたという。村雨組が億単位のカネを“身代金”として支払い副市長も解放されたようである。


「それは置いといて、この電話が何の電話か、分かるかい?」


「本家からだろ。俺を中川会に渡せっていう……」


「違うよ。他の直系組織からだ」


 まさか、他の組織からの苦情電話だったとは。


 午前中の間に、中川会の動きは日本各地に及んでいた。煌王会のシマにちょっかいを出し、手を出してくるよう仕向ける。全面抗争の大義名分を得るための挑発行動だ。


 中川恒元は実に手回しの速い男である。昨日の今日でここまで組織を動かせるのだ。やはりあれは尋常ならざる敵と見て良いだろう。


「……思ったより中川も早かったな」


「僕としては今すぐにでもキミを中川会に引き渡してやりたいんだけどね。そうすれば議定衆の先輩方からあーだこーだと文句を言われなくて済むし、何より本家の不興を買わなくて済む。それでも引き渡さないのは、どうしてだと思う?」


「組長の言い付けがあるからだろ」


「うん。それもそうだが、現時点でキミ自身が村雨組にとって有益な存在だからだ」


 大きなため息をついた後、菊川は後頭部を強くかきむしりながら言った。


「勉強はできない癖して、腕っぷしだけは天才的だからね。キミは。悔しいけど麻木クンほどの人材を失うことは今のウチにとっては痛手なんだよね」


 確かに、俺は横浜で跋扈する中国マフィアとヒョンムルをほぼ一人で壊滅に追い込んでいる。他の組員では成し得ぬ所業であったことは若頭自信が認めている。我ながらに己が組にとって重要な戦力になっているとの自負も持っている。


 ただし、菊川の褒め言葉には続きがあった。


「だけど、このままじゃ拉致があかない。そこで僕は考えたんだ。キミ自身に決めてもらおうってね」


「何をだよ」


「このまま中川会の連中に引き渡されるか、それともこの場に留まるかをさ」


 今の俺には本当につらい質問だ。答えは最初から既に決まっているようなものだが、あまりにも答えにくい。


 ここで俺が居座ると言えば、それはすなわち煌王会本家の意思に反することになってしまう。そうなれば、村雨組は煌王会から追われかねない。多くの者が血と汗を流して得た幹部の地位が一瞬で無に帰す。芹沢には気にするなと言われたものの、個人的な感情としては村雨組の今後が気が気でなかった。


 つまり、自分の所為で組が最悪の事態に陥ることだけは何としても避けたかったのだ。


「よく分からねぇや。組長との約束もある。俺はこのままずっと村雨組に居たい。だけど、俺のせいで皆に迷惑をかけちまうのは嫌だ。せっかくの掴んだ大出世なのに、無駄になっちまうなんて」


「で? 結局はどうしたいんだ? 大人しく出て行くのか、意地を張り通してここに留まり続けるのか」


「うーん」


 数十秒の間を貰い、俺は放出されかけた苦汁を喉の奥へと飲み込みなおし、現時点での答えを返した。


「……ここに居させてもらう。俺の居場所はもう、村雨組にしかないと思っている」


「村雨組にしか居場所が無い? それは何故だ?」


「組長、村雨耀介の下で生きていくって決めたから」


 いま思えば大いに稚拙で抽象的、口調としてもかなりたどたどしい返答であった。それに対して、何を思ったのか。菊川は呆れたように鼻を鳴らした後、語気を強めて問うてきた。


「自分の所為で抗争になるかもしれないんだぞ? それでも居るというんだな?」


「ああ」


「分かった」


 すると、おもむろに背広の内側に手を突っ込んだかと思うと何やらまさぐり始めた若頭。次の刹那、そこから取り出された物体に俺は息をのまされる。拳銃だ。


(えっ!?)


 まさか、ここで俺を射殺するつもりか。曲がりなりにも俺を褒めたたえた先刻の台詞とは矛盾するも、一方で厄介者を始末する必要性も菊川にとっては残っているはず。さながらスローモーションの如くゆっくりとした菊川の動作が、実におどろおどろしく不気味に映る。


「……」


 しかし、取り出したベレッタM92Fを片手に彼が折れにかけた言葉は、その挙動とは裏腹に穏やかなものだった。


「その答えが聞けて良かったよ。もしもキミが『組を出て行く』なんて世迷言を抜かそうものなら、この銃で即座に射殺していたところだった。危ない危ない」


「はあ?」


「いいか。キミはこの組に、村雨耀介にとって、なくてはならない男なんだ。村雨の名の下で男を磨いていくと決めたんだろ? だったらそれを貫き通せ。この先、何があってもな」


 俺の覚悟を問うための質問だった、そう考えて良いのだろうか。


 少なくとも俺は答えを曲げるつもりはないし、元より一度決めたことを翻す選択は性に合わない。何が何でも村雨組に居続けてやる、若頭のおかげでその思いがより一層強まったような気がした。


「ああ。分かってる」


「これから村雨組は未曾有の混乱に巻き込まれることになるんだ。他でもない、キミのせいでね。当事者が弱気でいられちゃ困るんだよ。もっと意思を強く持て。そうでなくては村雨耀介の右腕は務まらないよ。絢華ちゃんのことも、ずっと守っていきたいんだろ?」


 菊川の眼差しが、俺の背中を力強く押してくれた。そんな気がしていた。


「ありがとう」


「礼を言われる筋合いはない。若頭として当然のことを言ったまでだ」


「はいよ」


「ああ、それと麻木クン。キミは勘違いしているようだけど、僕はキミのことを嫌ってはいない。むしろ、最近では好意すら抱いていると言っても良い」


 急に何を言い出すのか。突如として変わった会話の方向性に、俺は目を丸くした。これはまたどういう風の吹き回しなのやら。


「僕はね、キミのような人間を待っていたんだ。村雨耀介の跡を継ぐだけの立場を負わせられる、そんな逸材をね」


 誕生日だからと俺のことをおだてているのだろうか。いや、待てよ。それならば「誕生日おめでとう」と最初に言ってくるはず――。


「キミが朋友の盃を呑んで実子格として組に入った後、しばらくしたらキミは“若頭”になるそうだ。組の継承者だからね。当然っちゃ当然だろう」


「そうなのか? 初めて聞いたぜ。でも、それならあんたと芹沢さんはどうなるんだ?」


「僕ら2人は独立さ。『芹沢組』と『菊川組』、それぞれ煌王会の直系団体として一本立ちさせることになっている」


 そんな手筈が定められていたとは。俺の入院中に決まったことのようで、俺としてはまるで知らなかった。というより、知ろうとする余裕が無かった。


 ただし、思い出してみれば見舞いに来た村雨組長が軽く話題に上げていた気がする。村雨組の直系昇格に伴い、菊川と芹沢と沖野がもそれぞれ己の組を旗揚げする準備に奔走している、と。自分には関連性が薄いこととしてすっかり忘れていた。


「そっか。良かったんじゃねぇか」


「ん、良かった? 何が?」


「俺が村雨組の跡目になったら、あんたらが飼い殺しになっちまうだろ。そうなったら俺としてもやりづらいからさ。村雨から独立するんなら、俺としても気が楽かも」


「ほう……」


 チッ、と菊川の舌打ちが聞こえような気がする。おっと、いけない。何かしら失礼なことを言ってしまったか。思ったことをそのまま口に出してしまうのは昔からの困った癖だ。適切な言い回しは他にあったような気がするも、既に遅い。


「あ、すまん」


「……いや。良いんだ。全ては朋友が決めたことだからね。除け者にされるのも仕方のないことだ」


 そう言った後、含みを残して菊川は続けた。


「ただ、キミには大いに不満なところがある。それは自覚の足りなさだ。僕の代わりに村雨耀介の隣……」


 すると、前方から数名の男が近づいてくる。ヒラの組員たちだ。菊川の台詞は彼らの発した声によって中断を余儀なくされた。


「おい! ここに居やがったか! 麻木!」


「テメェのせいでうちの組は破滅だ! どうしてくれるんだゴラァ!!」


「お前、中川会にヘッドハンティングされてるんだろ? だったら今すぐにここを出て東京に行け。いつまでも居られると困るんだよ、この厄介者が!」


 どうやら中川恒元とのいざこざの件で、俺に文句を言いに来たようだ。差し詰め、午前中に苦情電話の対応をさせられていた連中か。皆、顔を真っ赤にして怒っている。


「まあ、キミたちの言う通りだよね。今回の件は麻木クンが悪い。とんだトラブルメーカーだよ」


「カシラもそう思われますよね?」


「けど、組長はあくまでも麻木クンを庇うって言ってるんだ。暫くはアメリカから抗争の指揮を執ると。僕らはあくまでもそれに従おうじゃないか」


「カ、カシラ……」


 村雨耀介の決定に余計な口出しは無用だと言わんばかりに、怒り狂う若衆たちを懇々と諭した菊川。ヒートアップしていた彼らも組のナンバー2を前にしては強気な言動ができず、肩をすぼめてすごすごと去って行く。実に有難いフォローだった。


「どうも。助かったぜ」


「当然だよ。朋友から聞いてると思うけど、皆の不満の受け皿になりつつも最終的に意見をまとめ上げるのが僕の役目さ。縁の下の力持ちってやつ」


「う、うん」


 坊門組が村雨邸を包囲し、クーデター派との全面対決が避けられなくなった折も、菊川はただひとり“受け皿”とやらに徹していた。このような腹芸は俺にはできない。暴れることしか能が無い体とあっては、いつも感情のままに振る舞ってばかり。むしろ影の立役者よりも正面をきって武功を立てた方が格好がつくように思える。


 されども、こうして目立たぬ部分で奔走して組織内の潤滑油的な役割を果たすのも重要だし、それはそれで尊い役回りであろう。いずれは自分も菊川のような働きをしても良いのではないか、おれには自然とそう思えるようになっていた。


 勿論、恥ずかしいので口には出さないのだが。


「彼らの言葉は気にしなくて良いよ。皆、ああ見えて麻木クンのことを大事に思っているんだから」


「だと良いんだがな。俺にはよく分からんが。っていうか、さっきあんた何を言おうとしたんだ?」


「いや、またの機会にしておくよ。今日は君の誕生日だろ? あんまりマイナスなことを言い立てるのも気がひけるからさぁ」


 これはたまげた。菊川にも誕生日を祝ってもらえるとは。


「確か、16歳になるんだったよね。おめでとう。キミは風貌が大人びてるから、あんまり年相応には見えないんだけど」


「余計なお世話だよ。馬鹿野郎」


 ともかく、祝福の言葉を貰えたのは素直に嬉しい。相手が何かとぶつかることの多い菊川というのがどうにもむず痒いが、嬉しくないわけではない。見た目はさておき、こうして“おめでとう”と言葉をかけられて喜んでしまう時点で、俺もまだまだ子供なのかもしれない。


 なお、本音を言えば組長と絢華とも同じ時間を過ごしたかった。どんな形式であれ誕生日を祝って欲しかった。予定であれば今日にも盃と婚約の儀式を執り行うはずだったのだから――。


 そんな俺の心情を悟ってか、悟らずか。菊川は不意に頬を緩めると、少し意外な提案を持ちかけてきたのだった。


「なあ、麻木クン。今夜あたり夜の店に繰り出してみないかい? 気晴らしにはもってこいだぞ」


「は。どうして」


「だって。もうじきキミはヤクザになるんだ。夜遊びのひとつくらいは覚えておかなきゃ恥だろう。僕に任せておけ。良い店を知っている」


 菊川が行きつけのキャバクラに誘ってくれるらしい。昭和から続く“キャバレー”に接待型飲食店の“クラブ”が融合した店で、俗に云う夜の娯楽施設だ。露出度の高いきびやかな衣装を身に着けた女性従業員キャストが接客し、会話や飲み物の提供を行う。


 豪華なインテリアやカウンターバー、個室ブースを備えているのが一般的で、客は酒と共に女との会話を楽しむ。ただし、娼館ではないので性行為は無し。店によっては体を触った時点で即退店になるところもあるようだが――。


「うちのシマにある店はどこもおさわりOKだよ。僕が経営者と“談判”して、ルールを変えてもらったのさ。女の子の胸を揉もうが、その場で性行為コトを致そうが誰も文句を言わない」


 女好きの菊川らしい台詞である。その店にはかねてより常連として通っているらしく、今までに相当の金額を注ぎ込んでいる模様。単に保護料を取って支配するだけでなく、事業に客として貢献をするのがヤクザの礼儀だと菊川は語る。


「あんた、ただ女遊びがしてぇだけなんじゃねぇの」


「まあ、それもあるんだけどね。キャバクラは大人にとって社交の場でもある。日夜いろんな情報が集まってくるから人脈を作るにはもってこいの場所だぞ。勉強だと思って。今夜は僕に奢らせてくれ。ね?」


「……」


 誕生会を開催してくれる相手がいるわけでもないので、ちょうど今夜は暇だった。女を囲んで酒を飲むことに興味は無いが、軽い暇つぶしくらいにはなるだろう。「憂さを晴らすにはボインが一番」と豪語する菊川の下品な笑みはさておき、俺は誘いに乗ることにした。


 菊川が通い詰めているというのが桜木町の『ネオ・ロマンサー』という店。なかなか洒落たネーミングではないか。


 そんなわけで向かった初めてのキャバクラ。菊川は事務仕事が残っているらしく「後で合流するから先に遊んでてよ」とのこと。


(一人で行くのかよ……)


 少し気圧され気味ではあったが、何事も経験だ。そうしなくては見識を深められない。緊張で下がりつつあったテンションのまま、俺はドアを開けた。


「いらっしゃいましー! おひとり様ですね。ご指名とかありますかぁ?」


 出迎えたのは明るい茶髪の女店員。俺より年上だろうか? ギャルっぽい雰囲気だが顔立ちはかなり整っている方だと思う。胸元が大きく開いたドレスに身を包み、短いスカートからは太腿が見え隠れしていた。


「いや、俺、今日が初めてだからさ。指名とかそういうのがよく分かんねぇんだわ」


「かしこまりましたぁ。なら、とりあえずフリーってことですね。こちらへどうぞ!」


 笑顔で返事をくれた彼女は席まで案内してくれた。店内を見回すと、他のテーブルではおっさんがあからさまに女の子の胸を揉んでいる。おさわりで別料金を取られるのだろうか。ともあれ、結局はこの店のルールに従うしかないのだが。


「俺、菊川塔一郎って人の紹介で来たんだけど」


「ああ! 菊川様ですねぇ! いつも大変お世話になっておりますぅ~! あの方のご紹介ってことは、お兄さんは村雨組の方ですか?」


「まあ、そんなところかな」


「菊川様からは先ほど連絡を頂いておりますよ~」


 曰く、うちの組の若い奴が店に来るだろうから好きなだけ遊ばせてやってくれとのこと。支払いは全て自分の口座につけてくれとの太っ腹ぶり。恩を着せられ、後々で何か無理難題を押し付けられやしないか、少しばかり不安になってくる。


「どうぞこちらへ~! フリーってことでしたが、菊川様のご紹介なんで。うちのナンバーワンの子を連れてきますね」


「あ、うん」


 それから5分後。1人の女が俺の脇に座った。


「はじめまして。サユミといいます。よろしくお願いしますね!」


 艶のある黒髪を肩口までのセミロングにした女だ。年齢は20代前半といったところか。整った目鼻立ちに白い肌。ぱっちりとした大きな瞳が印象的だ。身長は160センチ後半くらいと女性にしては高く、スタイルも抜群である。胸元の谷間に視線を奪われそうになるが、それを誤魔化すように、俺は慌てて自己紹介した。


「えっと、俺は麻木涼平だ。よろしくな」


「麻木涼平! かっこいいお名前! じゃーあ、親しみを込めてリョウヘイ君って呼んじゃおっかな?」


「あ、おう」


「ふふ、照れてる。かわいい」


 俺のことは事前に菊川から電話で知らされていたものと思われる。年下だということでいきなり距離を詰めて来た。初対面で親しみも何もあったものじゃない。女慣れしていない俺を弄ばれているかのようで、少しムッとした。だが、このような馴れ馴れしさもまた夜の店の特徴なのだろう。


「あたし、こういうお店に初めて来る子には色々と教えたくなるの。今夜は楽しみましょうね?」


「あ、うん」


「なにそれぇ。表情が硬いよぉ? もっと肩の力を抜いてよいんだよ~」


「あ、あぁ……」


 いきなりのハイテンションで面食らったが、郷に入っては郷に従え。これもキャバクラの流儀だと思って割り切るしかあるまい。お言葉に甘えて、楽しむとしよう。


「リョウヘイ君ってヤクザなんだよね? その歳で極道なのもかっこいい。ねぇねぇ、普段どんなことしてるの?」


「組の仕事を手伝ってる。デカい声じゃあ言えないが、ドンパチの助っ人とか」


「そうなんだぁ! 村雨は強い組だからね。ああいう武闘派で働くのって大変じゃない?」


「大変と思ったことは無いよ。むしろ俺には合ってる」


 組に来てから9か月。常人の思考で論ずれば“大変”の2文字では片付けられぬほどの修羅場をくぐってきた。任侠渡世には様々な因果が付きまとっている。


 現に、こうして予定とは違う誕生日の夜を過ごすことになっているのだから。その道を選んだのは他でもない俺自身だが、考えればどこか虚しい気持ちにもなってくる。


「おっ、頼もしいねぇ! さっすが菊川先生が目青かけてる期待のニューフェイスだけのことはあるよ」


「……」


「あ、また黙っちゃう。緊張してんのかなあ。もうちょっとリラックスしようよ。ほら、お姉さんのオッパイ触ってみる?」


「は!?」


 いきなり何を言い出すのか。思わず素っ頓狂な声で聞き返してしまった。


「あれ、菊川先生から何も聞いてないの? ラ・シーニュはおさわりOKだよ?」


「いや、聞いてはいるけど……」


「別に減るもんじゃないから、遠慮なく揉んでくれて構わないのにぃ。あ、もしかしてお兄さんは童貞? 女の子と付き合ったこともない感じ?」


 そういう経験自体はある。とはいえ、絢華ただ一人だけだ。経験のうちに入れて良いのかと疑わしいほどに衝動的な出来事だった。


「あ、図星みたいだねぇ。お顔が真っ赤っかだもん。かーわいいっ!」


「違うって。あんた、からかってんのか?」


「あー怒ったぁ。ごめんごめーん! でも、そういう反応されると、ますますいじめたくなってきちゃうかも~」


「あんたなぁ……」


 呆れたような溜息をついた俺だが、サユミと名乗った女は悪びれた様子もなく笑っていた。如何なる場面においても、俺は昔から負けず嫌いだ。すぐに挑発に乗ってしまうのは変わらぬ悪癖。16歳を迎えた今宵とて、まるで成長が無い。「なにくそ!」という気持ちに押され、気付くとウブな右手が伸びていた。


「ほら、あんたの言う通りにしてやったぜ。童貞じゃあるまいし。これで満足か?」


「きゃー! 大胆っ! 初めて会ったばかりの子にこんなことをするなんて! このヘンタイ! ケダモノぉ~!」


「お、おい。いきなり騒ぐなよ」


 俺の手が美雪の大きな乳房に触れた瞬間、彼女はわざとらしく悲鳴を上げた。どうやら演技をしているらしいと気づいた俺は、途端に恥ずかしくなり、慌てて手を引っ込めようとしたのだが――。


「待ってよぉ」


 そうは問屋が卸さなかった。俺の手首を力強く掴み、彼女はそのまま自分の胸に押し付けたのである。柔らかさと温かさが同時に伝わってきた。


「おい、何をしてるんだよ」


「何って、見ての通りだけど。せっかくだしサービスしちゃおっかなーって思って」


「馬鹿野郎。他の客もいるんだぞ」


「いいじゃん。見せつけてやりましょ」


 周囲を見渡せば、確かに他の客たちも俺と同様の行為に及んでいる。とはいえ羞恥心もあった。俺は手を引っ込めようと力を入れるが、美雪はぐいっと掴んでなかなか離してくれない。


「おいおい……」


「ねぇ、リョウヘイ君。B指名とシャンパンちょうだいよ。そしたら離したげる」


「何だそりゃ?」


 キャバクラに来るのは初めてなので、サービスのシステムがさほど分からない。俺は言われるがまま、サユミの要求を承諾した。どうせ今夜の代金は菊川持ちなのだし、仮に馬鹿高い金が発生したところで俺には屁の河童だ。


「んじゃ、B指名とシャンパン。やってやるよ」


「ありがとぉ~! ラベルは何にする?」


「あんたに任せる。適当に飲ませてくれよ。よく分かんねぇし」


「さっすがリョウヘイ君、男前~!」


 他人の金で飲んでいるのに男前もクソも無いだろう。美雪もそれは分かっていようが、敢えて指摘したりしない。客の男を全力で楽しませる、それが夜の蝶たちの役目。きっと心の中では初心者の俺を小馬鹿にして笑っているのかも。まあ、俺もその点をわざわざ指摘したりはしないのだけど。


 それから程なくして俺のテーブルには真っ黒なボトルが2本も置かれた。1本は俺が注文したもの。もう1つは美雪が選んだものだ。


「へぇ、これがキャバクラの酒なのか」


「うんうん。ちなみにあたしも久々に飲むんだけどね」


「えっ?」


「ドン・ペリニヨンのブラック。ごちそうさまです」


 口調からして、この店で一番高い酒だということが何となく分かった。なるほど。まんまとしてやられたか。客を色仕掛けおだてて高額商品を買わせる手口。そうでなくては嬢たちも事実上のセクシー・キャバクラなどはやっていられないのであろう。尤も、支払いは俺じゃないので痛くも痒くもないのだが。


「じゃあ乾杯しましょ。あたしたちの出会いを祝して」


「ああ」


 チンッ、というグラスの音と共に、俺たちは酒を一気に飲み干す。喉の奥に強烈な刺激を感じた。これが大人の味というものか。酒自体は中学の頃から飲んでいるけれど、スーパーやコンビニで買った缶ビールを飲むのとは訳が違う。高級品だけあって味わいに深みがある。


「おお、意外と美味いな。この酒」


「でしょう? ほら、せっかくナンバーワンの女の子と一緒なんだから、もっと美味しそうに飲んでよぉ」


「ああ、そうだな」


「ふふん。素直な子は嫌いじゃないよ」


 美雪は得意げな表情を浮かべると、再び俺の手を胸元へと引き寄せた。そして、ゆっくりと撫でるように触らせてくる。その感触は柔らかく、それでいて張りがあって、いつまでも触っていたくなるような不思議な魅力があった。


「ねぇ、お姉さんのおっぱい、柔らかい?」


「柔らかい……な!」


「正直だなあ。まーたお顔が真っ赤っかだよ? 可愛いねぇ」


「うっさいなあ」


 俺は何をやっているのだろう。心に決めた絢華という想い人がいるのに。彼女と誕生日の夜を一緒に過ごせなかったとて、それが言い訳になるわけでもない。冷静に考えれば、だいぶ罪深いことをやっている。


「あれれ、怒っちゃった? ごめんごめん。でも、そんなところがまた可愛くて好きなんだよねぇ」


「いや、べ、別に怒ってるわけじゃ。酔いが回っただけだ」


「むぅ、ちょっとムキになってる感じかなぁ。じゃあさ、リョウヘイ君の恥ずかしいとこ、見せてもらおうか?」


 美雪の顔つきが変わった。余裕たっぷりな態度に加えて、彼女の所作にどこか艶めかしさのようなものが滲み出てきた。


 おいおい。流れが急展開すぎる。いや、確かに他のテーブルではおっさんたちが次々に“本番”に及んでいるけど。ここってそんな店だったのか。誘導ががあまりにも露骨だ。露骨すぎる。


(なるほど。どうりで菊川のお気に入りなわけだ)


 切羽詰まりながらも心の中で苦笑した俺に、美雪はぐいっと顔を近づけてくる。


「だってさ、リョウヘイ君は極道さんなんでしょ。だったら、こういうことにも慣れてるはずだよね?」


「おい、何を……」


「うん。私に見せて欲しいんだ。リョウヘイ君がどんな風に女を抱くのか知りたいの」


「マ、マジかよ」


 思わず声が裏返ってしまった。美雪は俺の動揺を楽しむかのように、ニンマリと頬を緩めている。


「ほら~、早く脱いでよぉ。それとも、脱がされたいの?」


「い、いや、そういうわけでは」


「ならいいじゃん。はい、脱ぎ脱ぎしようね~」


 酒のせいもあってか完全にペースに乗せられ、どうすることもできない俺。もたついている間に美雪は俺の正面にしゃがみ込み、履いていたズボンに手をかけている。


(うわっ、こいつ本気かよ……!)


 どうすればいいんだ。それまで頭の中にあった煩悩が一斉に押し寄せてきて、脳内は沸騰寸前。今にも気絶してしまいそうなほどに熱を帯びている。もう、なるようになるしかないのか――。


 だが、その時だった。


「お前は何をやっているんだ!!」


 不意に大声が聞こえた。ふと顔を上げると、店の奥で支配人らしき男が顔を真っ赤にして怒っている。よく見るとキャストの女の子が説教を受けているようだった。どうやら遅刻をしてしまったらしい。


「すみません……」


 女の子は申し訳なさそうにしている。ちょうど今しがた出勤してきたばかりのようで、まだ私服姿だ。家から全速力で職場まで駆け込んできたのだろう。額には汗が浮かんでいるではないか。


「おい、エレナ! お前これで何度目だよ。いつになったら遅刻癖が治るんだ」


「ごめんなさい……」


「トロい奴め! さっさと着替えて来い!」


 エレナと呼ばれた女は慌ててレストルームへ走ってゆく。支配人の怒り方からして遅刻常習犯であるらしく、このような事が過去にも何度か起きていたのだと分かる。美雪は眉をひそめていた。


「はあ……またあの子、遅刻してるよ。ほんっと意識低すぎ」


 しかし、そのおかげで俺はズボンを脱がされずに済んだ。少し気分が萎えたのか、美雪はソファにどっかりと腰を下ろしてタバコを吹かしている。


 ここは話題を変えねば。


「普段からああいう感じなのか?」


「ああいう感じも何も。あたしたちのお荷物よ。ドジすぎてミスばっかりやらかしてるわ。挙げ句、酒も飲めない。それでいてヘラヘラ笑って誤魔化してばかりだし。くっそムカつくわ。あの子、何でキャバ嬢やってんだろ」


 美雪曰く、彼女はいわゆる“アホの子”ということだが、決してそのようには見えなかった。


 身長は170センチ前後ほどで、女性にしてはわりと長身。丁寧に切り揃えられたワインレッドのショートヘアが特徴的な、どこか肉感的で色っぽい雰囲気を放つ女であった。


(ん……ちょっと待てよ?)


 俺は気づいた。以前、どこかで見たことのある女だということに。おまけに「エレナ」という名前。デジャヴだ。確実に会ったことがある。


「あっ! そうか……!」


 思い出した。彼女の名前は英零那エレナ。5か月前、村雨邸の食堂で偶然顔を合わせていた女だ。確か木幡和也に頼まれて電話番を務めており、それで失礼な対応をしてしまったと俺に詫びに来ていたっけ。あの時はとても丁寧かつ礼儀正しい淑女のように見えたので、とてもドジっ子という印象は受けなかったのだが。


(あいつが働いてる店ってここだったんだ……)


 まさかこんなところで再会するとは思わなかった。しかし、ここで声をかけるわけにもいかない。もう既に俺のテーブルには美雪が着いてしまっているわけだし。


「ちょっと、リョウヘイ君。聞いてる?」


「あっ、ごめん。ボーッとしてた」


 まさかあたしを差し置いてあの子を見てたんじゃないでしょーね!? 英零那なんかうちじゃランク外よ。何をやらせても駄目なんだから。トロいし鈍臭いし、すぐ泣くし、バカだし。それに……」


 美雪が何か言っているが、俺はほとんど聞き流していた。わざわざ愚痴を受け止めてやる義務など無い。適当に相槌だけを打って返事をするだけ。あまり心地よいものではなかったが、先ほどの色仕掛けの続きが行われないだけあって未だ良かった。


(それにしても菊川の奴。遅いな。何やってんだ)


 ――ズガァァァン!!!!


 突如、銃声が響いた。店内が騒然となり、客たちが悲鳴を上げる。一体何事だろうか。


「きゃああぁあ!!」


「おいおいおい! マジかよ! あいつら、拳銃持ってるぞ!」


「うわあああ! やべぇぞこれ!」


「逃げろぉぉ!」


 辺りは瞬く間に大パニックに包まれる。口をあんぐりと開けて硬直する美雪をよそに、俺は音がした方向に恐る恐る目をやる。耳がつんざくほどの轟音を放ったのはスーツに身を包んだ10人前後の男たち。


 彼らはいずれも厳つい風貌をしており、手にはそれぞれ銃器を携行している。


「おう、騒ぐな。麻木涼平はどこや!」


 リーダーらしき男が、どういうわけか俺の名を叫ぶ。不意に体がビクッと反応する。しかしながら、その男は知っている顔だった。


(あ、あいつは……!)


 中川会直参本庄組組長、本庄利政。


 どうして奴がここにいるのか。俺には理解できなかった。一昨日、俺を殺そうとしてた挙句に中川恒元に撃たれ、死んだはずではなかったのか――。


 恐怖に慄いた一般客たちは次々と店から逃げ出していき、ホールの人気は瞬く間に少なくなる。そんな中、俺を見つけるや否や、本庄は憎悪と怒りに満ちた声を放った。


「ここにったか、涼平。おどれ、よくもうちの山崎を殺してくれたのぅ! ケジメ取らせてもらうで!!」


 よく見たら本庄は右手に拳銃を構えている傍ら、もう一方の左手で杖をついている。あれは前腕部支持型杖ロフストランドクラッチと呼ばれる歩行補助器具で、腕に装着して使うものだ。中学時代、足を負傷した同じクラスのテニス部の女子が使っているのを見たことがある。


 それはさておき、大体の事情を察した。一昨日の銃撃で本庄は死んでいなかったのだ。されども歩行に支障を来すほどの怪我を負い、あのような道具を用いているものと考えられる。


 数秒遅れで事態を呑み込み、俺は本庄に言った。


「あんた、なかなか生命力があるんだな。てっきり撃ち殺されたもんだと思ってたぜ。しぶとい野郎め」


「わしが用心深い男っちゅうんはおどれも知っとるやろ。昨日かて防弾チョッキ着とったおかげで助かった。せやけど、あばらが何本かイカレてもうたわ」


「おうおう。そいつは気の毒なこったな」


「おどれのせいじゃ、ボケ!!」


 杖の先を激しく地面に叩きつけ、本庄が怒声を放つ。彼の右手にあった銃口が俺の方を向いていた。


「会長には『手を出すな』て言われとるけど、もうわしは収まりがつかへんのや。おどれはこの手で殺す。わしの恩を仇で返した報いを受けてもらう」


 なるほど。俺の首を獲りに来たというわけか。まあいい。返り討ちにするまでのこと。


「ちょっとリョウヘイ君! 危ないよ!」


 美雪が慌てて止めに入る。だが、俺は彼女を制止した。


「下がってろ」


 俺は美雪を遠ざけると、臨戦態勢を取る。とはいえ武器は何ひとつ持っていない丸腰の状態。大丈夫だ。拳銃の弾丸くらい、難なく避けられる。


「あんたもしつこいなあ、本庄さんよ。痛い目に遭ったのにまだ懲りてねぇ。でも、ちょうど良かった。これで好きなだけボコれる」


「そないな口が聞けるのも今のうちやで、クソガキが。おどれは楽には殺さへん。八つ裂きにして、内臓を抉り出して、この世に生まれてきたことを後悔させたるわ!」


 昨日の晩から中川会は日本各地の煌王会領で挑発を繰り返している。構成員たちに煌王のシマで騒ぎを起こさせ、地回りの若衆が駆けつけてきたところで退散するのだとか。全ては「煌王会の方から手を出した」という抗争開戦の大義名分を得るための策略。横浜も例外ではなかったようだ。


「あんたこそ後悔すんなよ? ここで俺に引き金をひけば会長の命令に背くことになるんじゃねぇの? 煌王会に手を出させてドンパチを始める算段も崩れちまう」


「んなもん、後々でいくらでも理由を付けられる。『はずみの流れ弾が当たってもうた』とでも言やあ、それ以上の追及なんざ誰も出来へん。それに、おどれは煌王会の人間ちゃうやろ」


「ああ?」


「聞いたで。まだ村雨組の盃を正式に吞んでないんやってなあ!」


 だから、ここで麻木涼平を殺しても政治的な問題は生じない――。


 そういう理屈らしい。


「悪いけど、ここであんたに殺されてやるほど俺は弱くないんだが」


「おどれはうちの山崎を殺しよったんや。山崎はわしの大事な右腕やったんやぞ。その落とし前はキッチリ付けてもらわなあかん。みっちゃんの倅やろうが何やろうが、もはやこの際どうでもええ。覚悟しぃや!」


「知るかよ。ボケが」


 冷たい緊張感が流れる。さて、どうやって本庄たちを倒すか。敵は9人。全員の顔に見覚えがある。本庄組の組員たちだ。若頭を殺され、皆怒りに燃えた目をしている。おまけに銃を携行しているとあっては多勢に無勢もいいところ。こちらが圧倒的に不利だ。


 俺は思案に暮れた。


(とりあえず誰か一人の銃を奪うか……)


 間合いを詰めるまでの間、いかにして被弾を回避するか。やはり勘に頼って弾丸の軌道を読むしかないだろう。結局のところ戦いは運任せだ。


 そう考えた矢先、本庄が言った。


「涼平。おとなしゅう投降せい。せやったら無駄な血ぃ流さへんで済むで」


「はっ。冗談だろ。誰がお前の言うことなんか……」


「こいつを見ても強気でおれるんか? おお?」


 どういう意味か。俺が首を傾げる間もなく、本庄は組員に顎で指図をする。親分の命令で進み出たのは、前波清春。無論、五反田で居候をしている時に世話になったのでこの男も知っている。


 だが、奴の動作を見て、俺は凍り付いた。


「なっ……!?」


 なんと、前波はキャストの女を拘束していたのだ。歯後から羽交い絞めにし、こめかみに銃を突きつけている。人質を取ったつもりか。


「おう、前波。離すんやないで?」


「へい。親分」


 涙目になって怯える女に、本庄は不敵な笑みを浮かべた。


「嬢ちゃん、よう見とき。これがヤクザのやり方や」


「すまんのぅ、嬢ちゃん。ちぃとばかし体借りるで。しばらくわしらの役に立ってくれや。なあ?」


「や、やめてください……」


「じゃかあしい! わしらの人質になれ言うとんのや!」


「ひっ!」


 本庄が一喝すると、彼女は身を縮こまらせた。俺とて人のことは言えないが、この男は極道の中でもかなり気性が荒い方だと思う。表面上こそ穏やかかつ理性的にに振る舞ってはいるものの、意に沿わぬことが起きれば傍若無人な本性を露にするのだ。


「おう、涼平。両手をあげてこっちに来い。せやったらこの女の命は助けたるさかい」


「ちっ。卑怯だぞ」


「あ? 卑怯? 何を今さら甘っちょろいこと言うとんのや。わしらは極道やで。これがわしのやり方やて、おどれも五反田に住んどった時に学んだやろ」


「ああ。そうだったな……」


 俺を睨み、本庄は高圧的に問うてきた。


「ほな、どないするんや? 己を犠牲に女を助けるか、それともつまらん意地張って無関係なカタギ死なせるか。早う選べや!!」


「……」


 俺は押し黙った。とはいえ、答えは決まっている。


(別に、女が殺されても俺には関係ない……)


 最愛の女なら未だしも、相手はつい先ほど出会ったばかりのキャバ嬢だ。どうなろうと俺の知ったことではないのだ。本庄の安い人質戦略で揺さぶられてたまるか。


 されども見殺しにするのも気が引ける。仕方ない。劣勢を覆すついでに助けてやるとしよう。


「そうか。なら、やってみろや」


「何やと?」


「やれるもんならやってみろ。そう言ったんだ。あんたの方こそ、組の事情にカタギを巻き込んで殺すだけの度胸があるってのかよ」


「小賢しいガキや。わしを舐めおってからに!」


 本庄は激昂し、前波に目配せして引き金をひかせようとする。だが、当の前波は指を動かさない。よもや実際に人質を殺害する展開になろうとは想像してもいなかったのか、戸惑いを隠せずにいる。


「何しとんねん! 早う殺さんかい!!」


「はっ、はい」


 本庄に一喝され、ようやくトリガーに指をかけた前波。そこでほんの僅かに生まれた隙を俺は見逃さない。見逃すわけが無かった。


(……今だ!)


 前波をはじめ、本庄組の組員たちは狼狽えている。そこへ飛び掛かって1人を倒し、拳銃を奪い取る。喧嘩の必勝戦略を実行するには、まさにちょうど良い間であった。


 俺はすぐさま大勢を整える。加速しようと踏み込む用意をする。だが、突進することは無かった。


 そこへ想定外の乱入者が現れたのである。


 ――プシュウウウ!


 けたたましく噴射される煙。消化器を手に現れたのはエレナだった。けたたましく噴射される煙。消化器を手に現れたのは、なんとエレナだった。


「な、なんや!?」


 突然の出来事に本庄は呆気に取られている。それは俺も同様。何と言うか、言葉が出なかった。


「おい、あんた……!」


「麻木さん、鼻と口を塞いでください!」


 おそらくは着替えを終えて待機室から出て来たところ、このような事態に遭遇したのだろう。煌びやかなドレス姿でありつつも、エレナは決死の表情で身を投げ出し、本庄組の組員たちに向けて勢いよく消化剤を浴びせかける。たちまち彼らの視界は遮られ、咳き込み始めた。


「くそっ、前が見えへん! どないなっとんのや!」


 組員たちも口々に苦悶の声を上げる。


「こ、これは!?」


「げほっ! や、ヤバいぞ!」


「消化器かよっ! クソが!」


「やべえよ、親分! 目に染みて痛てぇ!」


 その隙にエレナは人質に取られていた女の子を救出し、俺がいる所まで走ってきた。白粉が舞う中であそこまで俊敏に動けるとは。彼女の行動力に圧倒された。


「おどれら、落ち着きぃや! こんなんただの目くらましや! とりあえず吸わんように口ぃ塞げや!」


 苛立ちながら子分たちに檄を飛ばす本庄。しかし、白粉による霧が全て晴れた頃には件の嬢は救出され、安全は確保されている。本庄の目論見は失敗に終わった。


「おい、姉ちゃん……余計なことしよって。ワレ、何を晒すんじゃ! おお!?」


 怒れる五反田の蠍に対し、エレナはあくまで毅然と対応する。


「あなた達こそ、どういうつもりですか!? こんなひどい事を!」


「おどれには関係あらへん。わしと涼平の問題や。引っ込んどれや、クソアマ!」


「この子、泣いてるじゃないですか」


「へっ。知らんわ。泣こうが喚こうが関係あらへんカタギなんざ所詮は極道の食い物や。食い物でしか無いんや!」


 それでも臆せず前に進み出ると、エレナは本庄に向けて言い放った。


「警察、呼ばせてもらいましたから。あと、もうすぐ村雨組の人たちも来るんじゃないですか。あなた達、もう終わりですよ」


「何やと……?」


 すると、前波が本庄に耳打ちした。


「親分。まずいのでは?」


「何がやねん」


「村雨組はともかく、警察サツを敵に回すのは。この街の当局は村雨の味方ですよ。来たら、俺たち捕まっちまいます」


「くっ……」


 確かに前波の指摘の通りだ。横浜は本庄組のシマではないので、決して賄賂で手懐けているわけではない。本庄の表情は曇った。


 そこへさらに駄目を押すようにエレナが言う。


「帰った方が良いんじゃないですか? 今のうちに帰れば、逃げるくらいは出来ると思いますが。どうです?」


 事実上の撤退勧告。目的を果たすことを諦め、大人しく帰れと最後通告を行ったのだ。エレナは筋者のが怖くないのか。荒ぶる厳つい本庄を相手にここまで啖呵を切れるとは。やはり只者ではないようだ。


「帰れやと? おどれ、このわしを誰や思うとんねん! カタギの女ふぜいが極道を舐めとったらあかんぞゴラァ!!」


「知りません。私、ヤクザなんかちっとも怖くないですから。どんな脅しをされようと、どんな目に遭わされようが、絶対に屈しませんから!」


「ほう……大した強がりや。なら、これやったらどないやのぅ。その度胸がいつまで持つか、見物やわ」


 そう言って、本庄は拳銃をエレナに向ける。ついでに俺の方を見やり「ええんか? おどれのせいでこのアマの顔面に風穴が開くで?」と笑った。


「きゃあっ!!」


 悲鳴を上げる他の嬢たち。だが、当のエレナは凛とした表情を崩さない。俺は反射的に飛び出しそうになるも、例によって彼女に制止された。


「大丈夫。麻木さんは動かないで」


「おいおい……」


 嬢に銃口を向ける本庄を睨み付け、エレナは毅然とした態度で言う。


「そんなもの出して脅したところで無駄です。撃たれたとしても、あなたには絶対に屈さない」


「けっ、減らず口を……分かった。そないに撃たれたいやったら撃ったるわ。ブチ殺したろうやないかい!」


 引き金にかけられた指がひかれようとする。しかし、エレナは沈黙。その場に静止したままぴくりとも動こうとしない。本庄は本当に発砲する気だ。そして、その銃口は他でもない、エレナの方を向いている。


(まずい……!)


 何を思ったか、発射の瞬間。俺は自然と身体が動いていた。


 無意識のうちに俺はエレナを庇うようにして彼女を横へと押し倒していたのだ。物凄い轟音の銃声と共に、転倒の衝撃が体に加えられる。こんなことをするのは初めてだった。


 ――グシャッ。


「ううっ!」


 弾丸が左腕を掠め、猛烈な痛みと共に肉が抉れる感覚がした。ああ。いけない。16歳を迎えて初めての負傷だ。一昨日、怪我をしたばかりだというのに。俺は何をやっているのだろう。


「あっ、麻木さん!?」


 起きた事の次第がすぐには呑み込めなかったのだろう。エレナは暫し呆然としていた。されども理解が追い付いてくると、目を大きく見開いて、青ざめた様子で俺のことを凝視している。まったく、困った女だ。彼女のせいで、余計な傷を負ってしまったではないか。


「へへっ、大丈夫だよ」


「いや、でも。血が……」


「これくらい、どうってことねぇっての」


 一方、撃った本庄は鼻で笑っていた。


「ふんっ。つまらん真似しおってからに。今度はおんどれを弾いたるわ」


「……」


「わしはがっかりやで、涼平。何のかかわりも無い女を庇ってケガするなんざ、極道の風上にも置けんわ。渡世じゃ余計な情は命取りになるっちゅうことやなあ、この青二才が!」


 俺だって分かっている。先刻の自分の行動は、極道としては至極愚かであるという事実が。それでも見て見ぬふりは出来なかった。目の前で殺されたら寝覚めが悪かったというか、何と言うか。つくづく己の甘さが悔やまれてならない。


「まぁえぇ。これからおどれを五反田に連れ帰って、たっぷり痛めつけたるさかいのぅ。覚悟せぇや!」


「くっ……」


 その時、サイレンが鳴り響いた。


「なっ!?」


 驚愕に顔を歪ませる本庄。どうやら先ほどエレナの連絡によって呼ばれた警官隊が近づいてきたようである。まさか本当パトカーが来るとは思っていなかったらしく、通報がハッタリでなかったことに本庄は舌打ちしていた。


「ちっ、警察サツか……この女、ほんまに呼んどったのかい」


「親分、逃げましょう。ここに居たらまずいです。捕まっちまいます」


「分かっとるわ! ボケ!」


 前波に諭され、杖を突きながらすごすごと逃げてゆく本庄。去り際に「後で覚えとけや!」と凄みを利かせていた。執念深い蠍のことだ。第二、第三の襲撃はきっとあるだろう。


「待てよ、この野郎……」


 逃げ去った本庄たちを追って俺も外へ出る。しかし、最早それどころではなかった。傷口から血が止まらない。焼けるような痛みと指先の痺れ。おかげで走ろうにも力が入らない。その場でガクッと膝をついてしまう。


「あっ!? 麻木さん、立てますか?」


 気付くと、そこにはエレナも来ていた。


「……ああ。大丈夫だ」


「ちょっと失礼します」


 エレナは身に着けていた衣装のスカート部分を破くと、血を噴き出し続ける俺の左の二の腕をきつく縛って止血を行った。医術の心得があるのか。とても手際が良かった。


「もうすぐ警察が来ます。あなたもここにいたらまずいです。逃げましょう」


「大丈夫だよ……村雨組は警察サツを……」


「こっちです!」


 当局には鼻薬を効かせているので捕まったところで問題は無い、と言おうとしたのだが、話の途中で強引に遮られてしまった。エレナは少々無理やり俺の腕を自らの肩に掴まらせ、歓楽街の路地裏を通って人気の無い方へ進んでゆく。


「おいおい……どこへ行こうとしてんだ?」


「とりあえず、私の家へ。そこならあのヤクザの人達も知らないはずですし、何より手当てをしなきゃ。急いでください」


「あ、ああ……」


 彼女の言う通りだ。傷が開いてしまったら元も子も無いので、今は大人しく従うしかない。それにしても、細い身体のどこにこんな力があったのだろうか。決して別に重くないわけではないだろうに。もしかすると、エレナも何らかの格闘技を修めた猛者だったりして。


(こいつ、柔道でもやってたのか……?)


 数分後。


 エレナの家は桜木町に程近いアパートの一室にあった。横浜駅前から歩いて十分ほどの場所だ。彼女は二階まで続く階段を俺の身体を担いで上がると、少し息を切らしながら微笑みを見せた。


「もう大丈夫ですよ。ここが私の部屋」


 エレナは部屋のドアを開けると、照明を点けて中に入るよう促した。


「じゃ、邪魔するぜ……」


 玄関から室内に入ると、そこは広々としていて綺麗に片付いていた。床はフローリング、壁は白塗り、天井は木目調と全体的に温かみのある内装である。1Kのようだが、一人暮らしにしてはかなり広い。


「ベッドに座って下さい。今、救急箱を持ってきますから」

「ああ……」


 言われるがまま、俺はシングルサイズのパイプベッドに腰を下ろす。程なくしてエレナが戻ってきた。左手に消毒液の入ったボトルを持ち、右手に包帯やガーゼ、絆創膏などの医療品が入ったポーチを携えている。


「ええっと。傷は出血の割にはあまりひどくはないみたいですけど、応急処置だけでもしておきましょう。ちょっと痛いけど我慢してくださいね」


「ああ、頼むよ」


 俺は左腕を差し出す。すると、エレナはまず俺の上着を脱がし、シャツの袖を捲り上げた。そして、傷口に消毒液を吹き付け、脱脂綿で拭いてから丁寧に治療してくれる。


「どうですか? 染みませんか?」


「いや、平気だ……」


「そう。よかった」


「……」


 とても気まずい。俺は一人暮らしの女の部屋に入るのが初めてということもある。だが、それ以上に、エレナがどこかばつの悪そうな表情をしていた。自分の所為で俺がケガをしてしまったと考えているのだろうか。


「……あんた、エレナさん。だっけ?」


「エレナでいいです」


「じゃあ。エレナ。さっきはありがとな。俺のことを助けてくれて。あんたが来なかったら、今ごろどうなってたか分からねぇぜ」


「そ、そんな。麻木さんこそ!」


 俺は言った。


「あそこであんたを庇ったのは当然のことさ。目の前で殺されそうになってる女一人守れねぇで、何が極道だ。気にしないでくれよ」


 本当は、そんなことは微塵も思っていなかったのだが。軽く青臭い台詞を吐いてやらなくては、エレナも落ち着くまい。実のところエレナを庇ってしまったのは俺の人間的未熟さが表面化した結果なわけだが、敢えて言わないでおこう。


「……すみません」


「まあ、すみませんって思うなら、ああいう無茶な真似はやめるこったな。俺みてぇに気まぐれで助けてくれる奴にいつも遭遇するとは限らねぇんだ」


「は、はい」


「それにしたってあんた、すげえ度胸だったよな。普通はあそこまで出来るもんじゃねぇだろ。本当に凄いよ」


 俺の言葉に少し顔を赤らめながら、エレナは反応を寄越した。


「……相手が関西人だったので」


「関西人? 本庄のことか?」


「はい。子供の頃、家が地上げに遭ったんです。その時に両親を脅していたのが関西弁を使うチンピラだったので」


「そ、そうだったのか」


 以来、関西弁の極道をひどく憎むようになったというエレナ。その地上げ屋が本庄だったかは定かではないが、過去にトラウマがあったというならば、突発的にあのような無謀なる行動に出てしまってもおかしくはない。元より、ヤクザに対しても潜在的な嫌悪感を抱いているのだろう。


「嫌じゃないのか? 何つーか、その、昔、そういうことがあったのに、ヤクザがケツを持ってる夜の店で働くってのは」


「学費を稼ぐためにはやむを得ないことです。それに、ネオ・ロマンサーに限らず、夜の店はどこもその筋の人たちが仕切っています」


「ああ、そっか。ま、そうだよな。ところで学費ってのは大学のことか?」


 俺の問いに、エレナはコクンと頷いた。


「はい。医学部に通っています」


 なるほど。やけに手際が良かったのも道理である。聞けばエレナは福浦3丁目の大学にて女医を目指して勉強中の身であるらしく、今俺に施してくれている応急処置もそこで学んだ知識を基にしている模様。現在21歳で、医師免許は当然未取得だが、すでに医者としてやっていけるのではないかと思うほどに動作が丁寧だった。


「……はい。これで大丈夫です。傷は銃創ではなく単なる擦り傷と火傷だったので、直ちに病院に行かなくても良いと思います。ただ、数日は指先に痺れが出るかもしれないので、どうか安静に過ごしてください」


「分かった。ありがとう」


 エレナは手当てを終えると、俺の腕に包帯を巻いてくれた。俺は礼を言って上着を再び羽織ると、彼女の顔を見つめながら尋ねる。


「しかし、あんた。偉いよな。大学にかかる金を自力で賄うためにキャバクラで働いてるなんて」


「さっきもお話した通り、私の家は子供の頃に一家離散してて。とても親の力を借りられる状態ではなかったので。夜職で稼いだお金と、貰ってる奨学金のお陰で何とかやってます」


「そうか。でも、ああいう店で働くのは大変じゃないか? あそこはただのキャバクラじゃなくて、実のところは風俗みてぇなもんだろ。ヤバい客も多そうだし」


「大変じゃないといえば誤りですね。けど、この不景気で手っ取り早く稼ぐにはああするしかないんです。それに……」


 その時、室内に泣き声が響いた。


「ひぎゃああああああ!」


 一体、何が起きたのか。俺はビクッと硬直する。すると、エレナは即座に立ち上がり、アコーディオンカーテンを開けてその先にあった小さなベッドの方へと向かう。


「ああ、どうしたの? おしめ?」


 そこにいたのは赤ん坊だった。


(えっ……?)


 わけが分からず戸惑う俺を尻目に、エレナは喚き散らす赤ん坊を必死であやしている。室内に部外者の俺が入ってきたことが恐かったのか。赤ん坊はさらに大声で泣き叫ぶ。


「ひぎゃああっ! ぎゃあああ!」


「おむつ? おむつじゃない? ああ、もしかしてお腹すいたのかな?」


 そんなやり取りを繰り広げた後、エレナはホルターネックドレスをはだけ、何の躊躇いもなく胸を露出した。そして赤ん坊に乳を飲ませたのだった。


「……」


 暫しの間、俺は反応に困った。目の前には乳房を露にした美女がいるのだが、それが赤子を育てている母親だと思うと複雑な気分になる。男としての本能的情欲と人間の基礎倫理、そのふたつのはざまで心が大きく揺さぶられる。


 だが、エレナは何も気にしていないようだ。赤ん坊に母乳を与えるその姿はとても美しく見えた。やがて授乳が終わると、彼女は優しく微笑みながら言う。


「ごめんね、ちょっといい子にしててね」


 突如として見せつけられた想定外の光景を前に麻痺していた思考が、数秒がかりでようやく復活してくる。エレナを取り巻く状況に察しがついてきた。彼女は所謂“未婚の母”で、そこにいる赤ん坊を女手一つで育てているのだ。おまけに、大学に通いながら。


 エレナがキャバ嬢でありながら酒を飲めない理由は、決して彼女が下戸だからではない。幼い赤ん坊を育てる授乳期間中だからこそ、母乳に悪しき影響をおよぼすアルコールを口にできないのだ。


 今までの彼女の見方が嫌が応にも変わってしまう。頭を鈍器で強かに殴られたような心地だ。シングルマザー、医大生、夜の蝶と3つの人生を歩むエレナは、相当な苦労人である。俺なんかより、よっぽど。善良に生きている時点でヤクザもどきとはそもそも比べ物にならなかろう。


「……」


 数秒間、沈黙していた俺にエレナは言った。


「すみません。こんなはしたないところを見せちゃいましたね。ご気分を害してしまったでしょうか」


「いや、別に。そういうことじゃねぇよ。ただ、あんたも大変なんだなって思って」


「そうですか」


「色々あったみたいだけど、頑張ってるよな」


 俺のたどたどしい口調を前に、何かを悟ったのか。エレナはどういうわけか赤ん坊を俺の元に運んでくる。そしてにこやかに言った。


「この子、ミクっていいます。抱いてみます?」


「えっ」


 いきなりの申し出に狼然とする俺。だが、エレナは動じることなく赤ん坊を抱き抱えていた腕を差し出してきた。


「ほら。大丈夫ですよ」


「そ、そうか」


 俺は緊張しながらも赤ん坊を受け取る。まだ生後間もないせいか、思いのほか軽かった。母乳を飲んですっかり機嫌を取り戻したミクは俺の腕の中で不思議そうな顔をしながらこちらを見上げている。


「可愛いでしょう?」


「あ、ああ。そうだな。確かに」


 先ほどは天地がひっくり返る勢いで喚いていたというのに、乳を飲んで以降はめっきり大人しくなったのだから大したものだ。赤ん坊の習性はよく分からない。というか、俺が乳飲み子に接した経験が無い。物心ついた時には妹は既に大きくなっていたし、中学の時分の乳児保育体験もサボタージュを決め込んでいたのだから。


(赤ん坊って思いのほか可愛いんだな……)


 俺はいつの間にか笑顔になっていた。気づけば自然と心が穏やかになってくる。実に不思議な現象である。「可愛いですか?」と尋ねるエレナに対して「ああ、そうだな」と返すと、そのままじっと赤ん坊の顔を見つめる。


「お前、なかなか可愛いな」


 ミクは全力で生きようとしている。全身全霊をかけて泣いて、笑って、呼吸をしている。まるで自らの生命力をアピールするかの如く。その姿が何とも健気に思えてならない。


 それからミクを母親に返すと、彼女は俺が尋ねるより前に、やや苦笑を交えて語った。


「この子は半年前に産みました。好きな人の子だったので、産まないってわけにはいかなくて……」


 だからこそ、あのような店で働きながらも彼女を懸命に育てているのだ。だからこそ、あのような店で働きながらも彼女を懸命に育てているのだ。未婚の母は時として世間から非難の対象となることもある。しかし、俺はそんなことを微塵も感じなかった。むしろ心の底からの称賛をエレナにあげたかった。


「そりゃあ大変だろうけど、でも、凄いな。子育てしながら大学行って医者を目指すなんて」


「はい。大変ですけど、何とかやっていけてます。それに私には夢があるんです。私が味わなかった分まで、この子を幸せにするっていう。それが親としての務めだと思うので」


 エレナは微笑む。そこには確固たる信念があった。信念のある女性は美しい。いかなる職業、身分であろうと、俺にはとても輝いて見える。それだけは昔も今も変わらない。


 荒んでいた心は、いつの間にか穏和になっていた。数ヵ月ぶりの再会であったが、エレナには素晴らしいものを見せてもらった気がする。


 彼女たちのように、俺も地に足を着けて懸命に人生を歩んでいかねば。そう思わされた。


「ありがとな。手当てしてくれた上に、少し休ませてもらって。おかげで俺は元気になったよ」


 俺は礼を言う。すると、エレナは柔和に微笑んだ。


「いいえ。お役に立ててよかったです」


 俺は立ち上がり、玄関へと向かう。だが、その直前で足を止めた。


「そういえば、あんたに言い忘れてたことがある」


「何でしょうか」


「ほら、前にあんたが言ってくれただろ? 俺が昔の自分に似てるって。そのことについてなんだけどさ。あれ、撤回してくれないか」


 エレナは首を傾げる。


「どうして?」


「だってさ、今のあんたの姿見てたら、全然似てるとか思えなくなってきたんだよ。あんたの方がずっと立派だ。だからさ、もう俺のことを過去の自分なんかとなぞらえんのはしてくれ。頼む」


 エレナはしばらく黙り込むと、やがてくすりと笑い出した。


「分かりました。じゃあ、今後はあなたを過去の自分に重ねたりはしませんね。これでよろしいですか?」


「ああ。よろしくな」


「ふふっ、変な人」


 彼女には笑われたが、俺はどうしても言っておきたかった。エレナと麻木涼平では人生の重みが違いすぎる。幼い我が子を抱えながらも真っ当に生きる女性と、自分の意思とは無関係にただ周囲を取り巻く環境に流され続ける男が一緒なわけない。それが、彼女への最低限の“敬意”であるような気がしていた。


「またお店に遊びに来てくださいね。麻木さん。助けてくれたお礼に今度はサービスしてあげますから」


「おう。その時は頼むぜ。その時が来るまで俺が生きていたらの話だけどな」


「生きててくださいよ。うふふっ。あ、そうだ。ちょっと待っててくださいね」


 何かを思い出したように、エレナは奥の部屋へと消えていく。待つこと数十秒。戻ってきた彼女の手には1本のボトルが握られていた。


 ウォッカです。もしも傷が痛んだら、鎮痛剤の代わりに使ってください。強いお酒なので」


「おお、そいつはどうも」


 なんと、わざわざ“痛み止め”まで出してくれるとは。まだ医師免許を持っていないので薬品は渡せないため、これが精一杯だとエレナは語る。いやいや、俺にとっては十分すぎるほどの有り難い施しだ。


「それじゃあ、今夜はおやすみなさい。気をつけて帰ってくださいね」


「ああ。世話になったな」


 俺はエレナに別れを告げると、桜木町近くのアパートを後にした。時刻は21時。夜の闇はすっかり深まっており、空の上ではオリオン座が輝いている。


 山手町への帰り道、俺はぼんやりと物思いに耽る。


(ちゃんと生きていかなきゃな……)


 誕生日としてはあまりにも濃密かつ壮絶な一日になってしまったが、それでも俺自身の手で選んだ運命であることに変わりは無い。極道として生きてゆくことを選び、村雨組という己の居場所を守ろうとした。それゆえにあのような事態が起こったのだ。


 今後、中川会がどう出てくるかは正直なところ見通せない。本庄は勿論、会長の中川恒元は決してあきらめたりはしないだろう。近いうちに、再び襲撃を仕掛けてくるに違いない。


 こんな時、村雨組長が居てくれたら。淡く空虚な理想を述べても仕方が無いので、俺はただ今後のことだけを考えて村雨邸までの帰路を急いだ。桜木町で発生した騒動について菊川に報告をせねばならない。いや、もう知っているか。兎に角、起きたことを伝えよう。そして「どうして来てくれなかったんだよ」と文句のひとつでも言ってやろう。


 尤も、言ったところで過去は戻せやしないのだが。

涼平の16歳の誕生日は、人生史上最悪のものに。進むも修羅、退くもまた修羅。中川会の脅威が刻々と迫る中、果たして居場所を守りぬくことができるのか……!?

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