中川会、動く
その後、俺は中川会総本部を出ることに成功した。屋外まで抜けると、陽はすっかり沈んでいた。空にはオリオン座が輝いている。
これでひとまず安心。だが、まだ気は抜けない。
(早く横浜に戻らねぇと……)
現在地は赤坂と言っていた。信濃町駅から電車を乗り継いで横浜駅まで戻ろうかとも考えたが、あいにく俺は全身が真っ赤に染まっている。先ほどの戦闘で返り血を浴びてしまったのだろう。そんな状態で飛び込めば、確実に警官に職質を食らう。無謀な行動は避けねばならなかった。
かといって、タクシーを使うにしても所持金は無いに等しい。ならば、残された道はひとつしかなかった。俺は意を決すると向かい側の路地にあった公衆電話ボックスに入った。携帯電話の普及により、すっかり絶滅しつつある代物である。
――プルルルル。
俺は迷わず、ある番号にかけることにした。
『はい。もしもし。村雨でございます』
「よう。俺だ。麻木涼平だ」
『麻木!? テメェ、今どこに居やがる!? 三島行きをすっぽかしやがったな!』
接続先は横浜の村雨邸。電話に出た下っ端組員は俺が先発部隊への参加をサボったことに激怒していたが、今はそんなことを話している暇は無い。事情を話して迎えを寄越してもらうことにした。
「悪いが、ちょっと迎えに来てくれ。場所は、えーっと、赤坂だ」
『何だとぉ! どうしてそんな場所に!? ふざけてんのか?』
「いいから、頼むわ。急いでいるんでね。中川会に追われてるんだよ」
一方的に告げると、俺は受話器を切る。迎えに来てくれるかは分からないが“中川に追われてる”の一言で空気を察してくれたと思う。あとは適当な場所に隠れてやり過ごすだけだ。
(それにしても……)
ふと、俺は先程まで自分が囚われていた屋敷に目をやる。連行されてくるときには気づかなかったが、かなり立派な西洋館である。
木造3階建てで左右対称のポーチを持ち、回廊で結ぶ中央にテラスを配し、左右のポーチにも同様の機構を持っている。ここが関東最大の暴力団「中川会」の本拠地なのかと思うと、首を傾げたくなってしまう。
何と言えば良いのやら、とにかく美しいのだ。まるで小学生の時分に訪れた、北海道の某観光名所のよう。いや、それを模して建てられたのではないかと疑いたくなるほどの荘厳さだ。
(あれ、でもあの建物は2階建てだったよな……)
そんな下らぬ物思いはさておき、おっれは必死で潜伏を続ける。先刻に伝えた位置情報に程近い路地裏に身を潜める。途中、頭の中で中川恒元の底知れぬ狂気を孕んだニヤケ面が浮かんで吐き気を催したが、必死でかき消す。実に気持ち悪い男だった。あの狂人の元から逃げられたことは本当に良かったと思う。
「……」
天は俺に味方してくれている。やがて数分も経たぬうちに、1台のセダン車がこちらに向かって走ってくるのが見えた。村雨組の車である。
「おい。麻木。どういうことだ? どうして三島行きをすっぽかしたんだよ。それにお前、赤坂にいるってことは、まさか中川会と……」
「ご想像の通りだ。話せば長くなるがな」
運転手は沼沢。異変に気付いた芹沢の命令でここまで車を走らせてきたという。とはいえ彼も敵の領地のド真ん中で長居はしたくないらしく、後部座席に乗り込むなり即座にアクセルを踏んで車を発進させた。
「麻木。ちゃんと説
なかった? それに、どうしてここにいるんだ? 詳しく話してもらおうか」
「ああ。出発までにちょっと時間があったから、食い物でも買おうと思って外へ出たら、その、中川会のヒットマンに出くわして。そのまま拉致られたんだよ」
「拉致られた? 組の屋敷の近くでか?」
「そうだ。おかげでこのザマだ。あんたにも迷惑かけることになっちまってよ」
俺は沼沢に連行されて以降の経緯を話した。勿論、中川から勧誘を受けたくだりは抜きにして。それを含めてしまうと色々と面倒な事になりそうな予感がしたのである。
「……ってなわけだ。だから、俺が今こうして生きているのは奇跡みたいなもんさ。危うく殺されてた」
「嘘だろ?」
「嘘なもんか。たかが冗談ひとつのためにケガなんかするかよ。こう見えても、俺は脇腹を刺されてるんだぜ。ほら。傷になってるだろ」
山崎との戦闘で負った痛々しい出血痕をバックミラー越しに見せつけようとした俺だが、それよりも早く沼沢が首を大きく横に振る。
「違う。そう意味じゃなくてよ。とんでもないことをしでかしてくれたなって話だ!!」
「ん?」
「だってよ、お前。さっきの話が本当なら向こうの人間を殺したことになるんだぜ? それも、関東最大の中川会の直参で若頭やってた奴を」
「いやいや。あれは仕方なかったいうか。あそこで殺らなきゃ、こっちが殺られてた。それに中川会っつっても大丈夫だろ。俺達の上は煌王会なわけだし」
あくまで飄々と答えた俺に、沼沢は声を荒げた。
「いっちょ前に火種作ってんじゃねぇよ、馬鹿野郎が!!」
その言葉を聞いてハッとさせられる。ああ、そうだった。上が煌王会だから大丈夫という話ではない。一歩間違えば煌王会と中川会、西と東の全面戦争になりかねない局面ではないか。
「……」
「でも、まあ。仕方なかったんだろ。向こうが殺す気でかかってきたんなら。過ぎたことを嘆いたって仕方がねぇ。大事なのはこれからどうするかだ」
「……ありがとよ」
「勘違いすんな。別にフォローなんかしちゃいない。組のことを第一に考えるなら、お前はその場で殺されておくべきだったんだ。そしたら抗争のきっかけを作らずに済んだ。俺としてもお前とオサラバできて一石二鳥だった」
車が県境を越えて横浜に入った瞬間、沼沢は吐き捨てるように呟く。
「まったく。横浜のゴタゴタが片付いたと思ったら、また新しい問題かよ。ヒーローなのか、トラブルメーカーなのか分からねぇ野郎だな、お前は」
いたたまれない心情が極まっていたので、嫌味を言ってくれるだけでも有り難かった。曰く、芹沢と菊川は俺の身に「何かあった」ことに勘付いて、日没の時点で動き始めていたという。麻木涼平は与えられた仕事を放棄する人間ではないと信じられているようで、ほのかに嬉しく思えてくる。
「だいぶ心配してたぜ、舎弟頭は。お前が時間になっても現れねぇもんだから、沖野の兄貴たちを送り出してすぐに近くを捜し始めて、聞き込みまでやってた」
「そうか。やっぱあの人には頭が上がらないぜ。若頭は何て言ってた?」
「最初は心配してる風でも無かったけど、山手の住人から『男同士で揉めてる声が聞こえた』って報告が入った途端に血相を変えてな。組の守りを固めろって俺達に檄を飛ばしてた。カシラらしいぜ」
「まあ。確かにな」
俺が何者かに拉致されたことを悟り、その時点で外部からの襲撃を察知して戦闘態勢を整えるとは。菊川塔一郎という男の有能さがうかがえる。曲がりなりにも村雨耀介の下で長らく副官を務めてきただけの実力はあろうか。
「けど、いま村雨組は主力が出払っちまってるからな。カチコミかけられたところでシマを守り切れるかは分からねぇ。人手は常にギリギリなんだ」
「あれ? 斯波の連中を何人か引き入れたんじゃなかったか?」
「具体的に行動を起こしていないだけで、あいつらも跳ねっ返りと変わらん。基本は言うことを聞かない。状況次第で向こうに寝返るかもしれねぇし、戦力としちゃあそもそも問題外。だから、麻木。お前には抜けてもらっちゃ困るんだよ」
「お、おう……」
何だかんだ言って、沼沢も俺のことを頼りにしてくれているのだ。未だ風当たりは冷たいけれども少なからず信用が生まれている。ならばそれに応えるべく力を尽くさなくては。
むず痒さと新たな決意に身を震わせながら、俺は横浜へと続く首都高速の道中を過ごしていたのだった。
身を案じてくれていたのは、芹沢もまた同じ。
「おいおい……大丈夫かよ……ケガしてるじゃねぇか……」
深夜近くになって横浜・山手町の村雨邸へ戻ると、真っ青な顔で出迎えた。返り血で全身を染めていたので無理もない。一連の出来事で負った傷といえば腹部の裂傷だけだが、全体的に見れば重傷者も同然らしい。
すぐに屋敷内へ通され、芹沢自らの手で処置を施してくれた。
「慣れねぇ手つきで悪いな。こないだまで、こういう役目はスギハラの担当だったんだが、ああいうことになっちまって……」
「ああ。それなんだけど」
「……何となく想像はついてる」
村雨組御用達の武器商人、ジョセフ・ブライアン・スギハラは中川会によって殺された。「東京にてチーマー相手に無断で武器を密売した」との理由だったが、どこまで信憑性があるのかは分からない。もしかすると、村雨組を挑発するために中川恒元がでっち上げた口実かもしれない。少なくとも組にとってスギハラが必要不可欠な存在だったのは事実。彼が欠けた影響は思いのほか大きいようだ。
「奴が消えてから、道具の手配にモタついててな。沼沢たちに持たせる銃だって、やっとのことで確保したようなもんだ。コルトパイソンなんざ漫画でしか役に立たねぇってのに。困ったもんだぜ」
これまではスギハラが元アメリカ軍人のコネを生かし、米軍基地からの横流し品を優先的に確保してくれていた。それが途絶えたとなれば、村雨組は今後、自力で武器の調達を行ってゆく他ない。購入路を押さえることから始めねばならないというらしく、険しい道のりが予想された。
「ああ、そうだ。銃で思い出したんだが、こいつ。中川会の本部から持ってきたぜ」
俺はポケットから拳銃を取り出し、芹沢に見せる。恒元が送り込んだ刺客との戦いで敵から奪い取ったもの。いわば戦利品とも形容できようか。
「ほう。トカレフか。なるほどな。中川会らしいぜ。俺が見るに、こいつは日本で作られたコピーだ」
「分かるのか?」
「ああ。ロシア製の銃を真似て、日本でクズ鉄から組み上げたもんだ。その証拠にフレームの動きが悪い。使い捨てることを前提に作られた消耗品ってわけだな」
芹沢曰く、中川会が使う銃は殆どが密造銃とのこと。銃の密売だけではなく製造までをシノギとして確立しているのだとか。
なるほど。それならば恒元がスギハラを殺す動機は成立する。彼が東京で高性能な武器を売り捌いていたとすれば、それは中川会のビジネスを妨害したことになるからだ。消費者が粗悪品よりも多少値が張っても高性能なものを求める心理は、裏社会とて同じ。でっちあげでない可能性も高くなってきた。
「ともかく、涼平。良い土産を持って帰って来てくれたな。おかげで閃いたぜ」
「マジかよ。閃いた? 何が?」
「これくらいのハジキなら、うちのシマの中でも作れるってことだ。ちょっと待ってな」
おもむろに立ち上がると、芹沢は部屋の隅にあった黒電話を手に取った。そしてダイヤルを回し、どこかへ繋ごうとしている。
「ああ、もしもし。俺だ。芹沢だ。あんたのところの工場、ちょっと借りられねぇか? ……いいだろ。1週間くらい。報酬は弾むからよ。なあ?」
どうやら、さっそく行動に移したようだ。中川会を真似て拳銃を自前で密造するつもりらしい。さすれば密輸入および購入のコストがかからずに済む。安定した大量生産に導くのは決して簡単なことではないが、幸いにも村雨組には日高健次郎という優秀な技術者がいる。彼に音頭を取ってもらえば、いずれ必ず軌道に乗せられるだろう。
電話を切った後、芹沢は上機嫌で言った。
「とりあえずコルト45口径の模造品を作ろうと思う。中川会がロシアなら、こっちはアメ公の銃を真似るってわけだ。あれなら威力も高い」
「前に組長が持ってたやつか。上手くいくと良いな」
「今後、中川と揉める可能性が出て来たわけだ。備えは固めておかねぇとな。やってやろうじゃないか」
現在、組に残っている未使用のコルトガバメントM1911を分解し、パーツごとに構造を把握した上で模造品を製作する。そうして集まったコピー部品の数々を組み立てれば自ずと銃が出来上がる。日高に命令して来週には取り掛かるという。
「問題は中川会がいつこっちに仕掛けてくるか、だな。そればっかりは何とも言えん。向こうの出方次第か」
「悪いな。俺のせいで」
「気にすんな。涼平のせいじゃねぇ。これから組の跡目になろうっていうお前が、こんな目に遭わされたんだ。何かしらの報復をしなくちゃ組としてメンツが立たんだろう」
ただし、自力での報復は難しい。俺達はいま、三島市でのゴタゴタを抱えているからだ。よってまずは煌王会本家にこの一件を報告し、判断を仰ぐと語った芹沢。本家を通じて中川会に抗議し、詫びと賠償を引き出すのが現段階では理想的だが、本家がどこまで動いてくれるかは実のところ未知数だ。
先だっての坊門の乱にて、煌王会は中川会に対して重大な“借り”を作ってしまっているからである。それに――。
「……逃げる時、俺は向こうの人間を殺しちまってる」
中川会にとっては圧倒的な恫喝材料だ。外交での決着がはかられることになった場合、連中はそこを巧みに突いてくるだろう。一歩間違えば全面戦争になりかねない。
「ああ。それも聞いたぜ。だからといって、このまま黙って引き下がるわけにもいかんだろ」
「そうだな。何とかするしかないな……」
「ああ。大丈夫だ。いざとなりゃあ、こっちにだって切り札はある。『大原恵里の身柄』。あれをちらつかせたら流石の中川恒元も強気には出られないはずだ」
最終手段は人質戦略。中川会と事を構える展開を想定したからこそ、村雨は恵里を大原へ返さなかったのだ。万が一の保険にと用意しておいた策が、本当に頼みの綱となる日が来ようとは。何の因果か、任侠渡世の虚しい現実を笑うしかなかった。
「そういやあ、恵里はいまどんな様子だ?」
「塔一郎から聞いた分じゃあ年相応に元気いっぱいだって話だぜ。体力はとっくに回復してるらしい」
「親父んとこに帰りたいってグズったりしてねぇのか?」
「それがよ、驚いちまうくらいに大人しいらしいんだ。ガキなりに自分の立場ってもんを理解してんのかもな」
冷静に考えてみれば、だいぶサドな会話を繰り広げている。つい先日は救出したばかりの少女を今では“人質”として無体に扱っているのだから。芹沢と話していた俺は、不意に物凄い罪悪感に襲われる。一応、こんな自分でも情のひとつやふたつはある。
それは芹沢も同じだったようで、彼は自嘲気味に吐き捨てた。
「まったく、ヤクザの風上にも置けねぇよな。俺はよ。任侠者を自ら名乗ったことは無ぇが、年端もいかん子供を政治的な駒として使わなきゃならんとはなあ……」
どれもこれも中川恒元のせいだ。あいつの弄した奸計のせいでこんなことになっている。奴にはいずれ必ず落とし前を着けてやる。いや、痛い目に遭わせてやる。強い怒りと復讐心が身をもたげる中、俺にはふと気になる事柄があった。
「あれ? そういやあよ、あの会長にはフランス人が入ってんのか? どうにも日本語がおかしかったぜ?」
「日仏の混血って話は聞いたことがあるぜ。どうも野郎の母親がフランス人らしい。一時期は母の祖国に住んでたこともあるって噂だ」
「ケッ、何だよ。あいつは花の都育ちかよ。筋者のくせに随分と洒落てるもんだよな」
「俺が聞いた話じゃ、父親の中川会初代がフランスの女を犯した時に生まれたらしい。“妾の子”ってことでガキの頃から苦労してきたとか。あくまでも噂だがな」
赤坂の屋敷で相対した際には洗練された高貴な振る舞いが非常に印象的で、とても卑しい育ちをしたようには感じられなかった。されどもヤクザの大半は他者に誇れぬ出自をしているものだと芹沢は語る。だとすると、やはり中川会長もそうなのだろうか。
「野郎、あんな簡単に部下を……それも直参の組長を殺しちまったんだぜ? たまげたわ。何を考えてるかも分からんし」
「それくらいぶっ飛んでないと天下は獲れんさ。父親からの世襲とはいえ、兄の二代目と熾烈な家督争いの末に今の地位にいる男だ。目的の為に手段を選ばん強かさは当然持ってるだろうな」
強欲と剛腕を存分に振るい、関東の裏社会を長きにわたって統べてきたという中川恒元。二代目会長だった兄から簒奪した現在の地位に座ったのが1977年とのことで、実に現時点まで21年に渡る長期政権を築いてきたのが分かる。中川会は言うまでも無く恒元の代で全盛の版図を拡げており、関東のみならず東日本最大の暴力団に大成長する結果となった。
「俺も何度か中川恒元に会ったことがあるが、あの化粧男は尋常な神経の持ち主じゃない。ナポレオンもびっくりの恐ろしい戦略家だ。用心に越したことは無いぞ」
「ああ。分かってるさ」
芹沢の言う通り、中川恒元は危険だ。彼の表情が一瞬だけ曇ったように見えた。それが何を意味しているのかは深く尋ねなかったが、察するに、若い頃に何らかのトラウマじみた出来事を経験しているのだろう。
“恐ろしい戦略家”というフレーズが妙に引っかかる。鬼の芹沢にここまで言わしめるとはよっぽどのことだ。かつて村雨耀介も何度か手を焼かされたといた中川恒元の狂気に満ちた瞳を思い出しながら、俺は自ずと両手を震わせる自分に気が付いていた。
「……よし。これで手当ては終わりだ。傷もそこまで深くなかったし、医者に診てもらう必要も無いだろ」
「ああ。どうも」
「今日は早く寝ろよな。過ぎたことは過ぎたことだ。組同士の外交問題は俺たちに任せてもらって良い」
実に心強い言葉である。実に心強い言葉である。俺は感謝の念を抱いた。芹沢暁という男は、本当に頼り甲斐のある舎弟頭だ。
「すまん。恩に着る」
「気にするなって言ったろ。うちの組にとって、涼平は大事な存在なんだからよ。もちろん俺にとってもな」
「ああ。ありがとう」
「おうよ」
こうして芹沢と別れた後、自室へと向かう俺。深夜という時間帯もさることながら、主力が三島への先遣に出払っている状況だ。村雨邸の中は人気が少ない。しかしながら、例によって俺はある男と出くわしてしまう。それは若頭の菊川だった。
「おやおやぁ、これはこれは。組の用事をすっぽかして東京で遊んでいた麻木涼平クンじゃないかぁ。ご機嫌はいかがかなぁ?」
「別に遊んでたわけじゃねぇよ。拉致されてたのはあんたも知ってんだろ。相変わらず嫌味な奴だな」
会話を続けても時間の無駄だ。芹沢とは違い。菊川は俺のことを快く思っていない。言動の節々には毛嫌いしている気配すらも感じられる。俺も俺で、この男が大嫌いだ。おかげでついつい喧嘩腰になってしまう。
しかしながら、先日の笛吹との乱闘を片付けて以降は少しだけ評価が変化しているような気がしていた。「またしても面倒事を持ち込んでくれたね」とは言われたが、皮肉の後に更なる言葉が続く。かなり意外な台詞であった。
「ま、よくぞ生きて帰ってきたって話だよね」
「はあ?」
「あの中川会に捕まって、総本部まで連れて行かれながら、よく自分一人の力で帰ってきたよね。流石は朋友が認めた喧嘩上手だよ。事実なら大したもんだ」
「いや、だから嘘なんかついてないっての……」
菊川は首を大きく横に振る。
「信じてるよ。僕も。三島に行くのをサボる口実にそんなケガなんかするわけが無いからね。兎に角、気を付けてくれ、キミにはこれから沢山貢献して貰わないと困るんだから。頼りにしてるよ」
何というか、意外な反応だった。前々から何かにつけて俺のことを見下してくる菊川だ、その口から、比較的肯定的な言葉が飛び出そうとは。
頼りにしてるよ――。
驚愕を隠せなかった。普段の俺ならば、ここで意味を尋ねてしまうところである。されども今は違う。俺は本日、壮絶な死線を潜り抜けてきているのだ。心身ともに疲弊しきっているため、これ以上余計な会話を続けるなんて御免だ。
「ああ。分かったよ。じゃ、俺もう行くぜ」
「そうそうあの会長には気を付けた方が良いよ。あれはヤバい。見た目はただのフランスオタクだけど、中は蛇みたいに狡猾だから。紅茶とビスケットを食べなかったのは正解だったかもね」
忘れていた。そういえば恒元には飲み物と菓子を振る舞われたが、俺はひと口も腹の中に入れなかったのだった。だが、その話を誰かにしたっけ。芹沢に対しても「出されたものには口を付けなかった」としか言っていなかったはずだが。もしかしたらどこかで話題に出したかもしれないので、どうにも記憶が曖昧だ。
(まあ、いいか……)
あまりにも疲れていたので、俺は早々に会話を切り上げる。別に大した問題ではないため、詳しいことは後で考えれば良い。適当に相槌を打ち、俺は自室へと急いだ。
「それじゃあね、麻木クン」
「おう」
「できるだけ穏やかに過ごせるといいね。ただでさえ忙しい時期だ。僕としても、余計な厄介事を持ち込まれると困るわけだし」
最後の最後で嫌味が来た。軽く受け流し、その晩は眠りに就いた。勿論、穏やかに過ごしたいものだ。事が起こらない越したことは無い。それは麻木涼平のみならず、全人類共通の願いなのではなかろうか。そう思わぬ人など居ないだろう。
束の間の安息に身を委ねた、ちょうど翌日である。一体、何の因果だろうか。俺が考えた通りにはならなかった。
18時30分。事前に許可を得て借りた村雨邸の庭先で、今後に備えて稽古に励んでいた時だったと思う。若頭と共に出かけていたはずの芹沢が、血相を変えて駆け込んできた。
「涼平! 大変だーッ!!」
「おいおい。どうしたんだよ。そんな声出して」
嫌な予感を覚えつつ、俺は額の汗を拭う。
「はあ……はあ……さ、さっき連絡が……」
「まずは落ち着けよ。息が上がってるじゃねぇか。いつも余裕ぶってるあんたにしちゃあ珍しいわな」
「な、な……中川会が……こんなものを」
半ばグロッキー状態になりながらも、芹沢は一枚の紙切れを差し出してきた。そこには、達筆な楷書体で何やら長文が書かれている。曰く、本日に煌王会の全直系組織に向けて送付されたものだという。
「なんだこりゃあ!?」
俺は思わず目を見開く。俺は思わず目を見開く。そこに書かれていた文章は、極めて衝撃的な内容であった。
ーーー
<要望状>
親愛なる長島勢都子様
ご無沙汰いたしております。私は中川会三代目の中川恒元と申します。まず最初に、貴女様のお力になれるかどうか判断いたしますため、この書状をお送りいたしました。何卒、お時間をいただき、真摯にお読みいただけますようお願い申し上げます。
まず、貴社の素晴らしい営業部の主人公である北村ともみ様の存在は、我々エクレール社にとって大変興味深いものとなっております。北村様の凄腕と実績は業界内で知れ渡っており、我々はその才能をいただけるなら、何より幸運と感じております。
まず、貴会が横浜貸元の村雨組に出入りしている麻木涼平君の存在は、我々中川会にとって大変興味深いものとなっております。涼平君の渡世におけるご活躍は関東に於きましても強く知れ渡っており、我々はその才能をいただけるなら、何より幸運と感じております。
ところが非常に残念な事ながら、この話を貴会の長島勝久会長に持ちかけるより前に、貴会の舎弟頭だった坊門清史氏が謀反を起こし、長島会長の御身を危うくする惨事を招いてしまいました。それだけだったら良かったのですが、こともあろうに坊門氏は、私、中川恒元の名前を勝手に持ち出し、煌王会を攻撃銭とする企てを弄していたといういわれのない嫌疑をかけ、その上で私のことを討つとまで予告してきました。
ご存じの通り、坊門氏の謀反は貴会の勇気ある方々によって早期に鎮圧されています。ですが、私としては坊門氏の行為を許すことができません。渡世の常識を鑑みても、人様の名前をあげつらって貶めるなどということは決してあってはならないはず。当然、坊門氏についてはこちらで然るべき制裁を加えました。身柄を速やかに引き渡して頂いたことについては、とても有り難く存じております。
しかしながら、それで全て終わりというわけには参りません。少なくとも坊門氏の行動は、私の名前と評判を著しく貶めただけでなく、中川会全体の利益を失墜させ、多大な損害をもたらしました。これは到底看過できるものではなく、私たちは貴会に対し、相応の賠償を求めるものとします。
従って、中川会は本日をもって煌王会に、以下の要求をさせて頂きます。
一、賠償金支払い
貴会が我々中川会に与えた損害に対し、三百億円の賠償金を支払っていただくことを求めます。我々の利益回復のためには、このような適切な補償が必要不可欠です。
一、長島六代目の引退と跡目相続者の指名
煌王会の現執行部には改革が必要です。これは子供の目から見ても分かることでしょう。明治より続く煌王会の腐った体質が、坊門清史氏のような不忠者を生み出してしまったのですから。
よって、たいへん畏れ多い話ではありますが、長島六代目には引退して頂くことが必要と判断いたしました。不肖、中川恒元が直接指名した人物に跡目盃を呑ませ、貴社の経営を刷新していただくことを要請いたします。
一、麻木涼平君の移籍
貴会村雨組から涼平君を引き抜くことをお認めください。涼平君の父はかつて中川会の禄を食んでいた男であり、彼の血筋と家柄を考えれば、元より縁もゆかりもない横浜ごときの組よりも此方で育てた方が将来のためになるはずです。
また、私は涼平君がこの渡世に調和をもたらす百年に一人の逸材であると確信しています。彼の若輩ながらに優れた器量を我々の組織で活かすことができれば、さらなる発展が期待できることでしょう。
これらの要求を全て容れていただく必要はございません。いずれかひとつを叶えてくだされば、その時点で煌王会とは手打ち、和平協定を締結いたしましょう。
来る十二月十五日までに回答を頂けなかった場合、我々は迅速かつ適切なる手段に出ることを予告いたします。それが何なのか、聡明なご夫人である貴女様にはお分かりですよね。私といたしましても、戦争は本意ではありません。どうかご理解ください。
貴会には重大な決断を迫られていることを理解していただきたく、この要求に対して真摯に向き合っていただきますよう、強くお願い申し上げます。
平成十年十二月七日
中川会三代目 中川恒元
ーーー
中川会から煌王会への“要望状”だった。、300億円の現金を支払うか、長島六代目を引退させるか、もしくは麻木涼平を引き渡すか。そのいずれかが達成されなかった場合、後日正式に宣戦布告を行うというのだ。
「な、何つう無茶苦茶な要求だ……おかしいだろ。300億と会長の引退? 釣り合うわけが無い!」
「いや、むしろ交渉の余地すら与えていないところがミソだろうな。仮に涼平を中川に引き渡したところで煌王会にとっては痛くも痒くも無い。あの男は是が非でも涼平を手に入れようって腹積もりだ」
「そんな……どうして俺にそこまで執着するんだよ……」
現在の煌王会は弱体化している。坊門の乱で奉公衆の大半が殺され、武門の主力を担っていた古牧組や井上一家などの多くの直系組織が取り潰された。挙げ句、後任の若頭は未だ決まらず。庭野総本部長や片桐若頭補佐は警察に逮捕され、最高幹部陣はガラ空き状態にも等しい。勢都子夫人が六代目代行として急場しのぎで組織を切り盛りしている有り様だ。
そんな状況で中川会に攻め込まれたら、煌王会は一瞬のうちに滅ぼされてしまう。戦争など出来るわけが無い。誰が見ても分かることだ。
かと言って、300億円などという大金を用意する余裕もあるはずがない。一方で未だ昏睡状態にある長島会長を引退させようものなら、煌王会は中川会に屈したことになり、組織としてはおしまいだ。
よって、この中で最も容易い選択肢が麻木涼平の引き渡し。一銭の金も払わず、なおかつ一人の兵も死なせず、穏便に事を治められるのである。
最初から第二項目を選ばざるを得ない要求になっているではないか。考えれば考えるほどに腹立たしい。これが中川会三代目、中川恒元のやり方か。
「チッ、あのクソったれ野郎が……!」
まさかこんな手法に出てくるとは思わなかった。それも俺が横浜へ逃げ帰った翌日に。舌打ちして歯噛みすると、芹沢が言った。
「お前も読んだ通り、中川会は何が何でもお前のことを手に入れようとしている。麻木涼平を渡せば即座に和解に応じてやると言ってんだ」
「煌王会には考えるまでも無いってわけかよ」
「ああ。俺もさっき代行にどやされたよ。『すぐに麻木を捕らえて中川に差し出せ。ガキ一人の身柄で戦争をやらなくて済むなら安いもんだ』ってな」
昨晩の件を報告するため、この日は早朝から名古屋の煌王会総本部へ出かけていたという芹沢たち。件の書状は未明のうちに名古屋へ送り付けられたようで、恒元の手回しの良さがうかがえる。いや、最初からこうなることを予想して動いていたように思えてならなかった。
(しかも、俺は中川の兵を何人か殺している……)
書状においては触れられていなかったが、いずれ脅し文句にされるのも時間の問題。山崎だけではなく他にも沢山殺してしまったのだから。もしも仮に「麻木涼平が中川会直参本庄組の若頭を殺した事実」を大々的に持ち出されれば、その時点であちらに戦争の開戦口実を与えてしまうだろう。
(とにかく、どうにかしないと……)
このままでは煌王会が崩壊しかねない。しかしながら、まんまと中川会に引き渡されるのも嫌だ。俺は村雨組でヤクザ人生を駆け抜けると決めたのだから。
海外にいる村雨組長も、意向は固いようである。
「兄貴には『何があっても涼平を中川会に渡すな』と言われてる。向こうへ発つ前にきつく念を押されたよ」
少し前に本庄と手紙のやり取りをしていたのだ。いずれ中川会が俺を狙って動き始めることも、彼は予め想定していたのだろう。やっぱりあの人は凄い。
「今回のこと、組長には伝えたのか?」
「まだ伝えていない。これから国際電話で伝えるつもりだ。だが、安心しろ。お前のことは絶対に守ってやる。たとえ誰を敵に回そうとな」
中川会は勿論、煌王会から離反することになろうとも不当な要求には断じて応じないと語る芹沢。とても心強い言葉だった。しかし、不安は拭えない。
彼が俺の味方をしてくれたところで、他の者は何と思うだろうか。散々な苦労をしてようやく手に入れた幹部の地位を捨ててまで、たかだか盃を呑む前の少年一人を守るための戦に、如何ほどの人間が協力してくれるのやら。いま三島にいる沖野たちも含めて、組員の動向がとても気がかりだった。
「まずは三島のゴタゴタを終わらせる。いま、塔一郎が現地に入った。早々に斯波の残党どもを片付けて兵を集めてくる段取りだ」
芹沢には気を強く持つように言われた。まさか、16歳の誕生日を間近に控えてこのような急展開に至ってしまうとは。いつも何が起こるか分からないヤクザ社会だが、今回ばかりは己の宿命を呪わずにはいられない心地。
(最悪だ……)
ぼんやりと宙を見上げ、俺は煙草を吸った。
麻木涼平を手にれるためには戦争も否定せず。強欲な中川恒元を前に、村雨組のとるべき道とは一体……?
次回、さらなる衝撃展開!!




