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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第8章 餞別
152/261

最凶の男

 薄暗い部屋の中で、ゆっくりと目を開いた。


(ん……?)


 覚醒とまどろみの中で、俺は記憶を辿る。あれからどうなったのか。確か本庄組の山崎に一瞬の隙を突かれて敗北し、スタンガンを胸に押し当てられて気絶。そのまま奴に連れ攫われてしまったような――。


「そうだッ!!」


 事の経緯を思い出し、思わず声が出る。ということはすなわち、いま俺がいるのは山崎によって連行された軟禁先。気を失っている間に無理やり押し込められたのであろう。


 しかしながら、分からない。


 ここは一体どこか。ひじ掛け付きの椅子に腕と脚を縛り付けられているので拘束部屋だとは察しが付くが、それにしてはいまいち「らしくない」。牢獄というよりは普通の部屋のようで、普通どころか見渡す限り高級感が漂っているのだ。


 当たり前の如く大きな窓があって、至る所に金の装飾が施された古めかしい空間。天井に吊るされている照明はシャンデリアだ。なるほど。部屋が薄暗いのはこのためか。異様さも含めて、さながら子供の頃に家族旅行で訪れたホテルのスウィートルームである。壁には西洋風の絵画も飾られているではないか。


(ここは……どこだ……!?)


 戸惑いながら首を傾げた俺。すると、不意にドアが開いて足音が近づいてきた。


「おう。目を覚ましたようだな。麻木」


 見慣れた顔と、聞き慣れた声。決して忘れるわけがない。忌々しさを燃やしながら、俺は憎しみの込められた声でその男の名を読んだ。


「山崎!」


 中川会直参「本庄組」若頭、山崎吉人。先ほど俺を殺し屋と共に奇襲し、スタンガンで昏倒させてここまで連行してきた張本人だ。さっそくのお出ましか。


 できることなら即座にぶん殴ってボコボコにしてやりたいところだったが、あいにく両腕は椅子に拘束されていて動かない。自由になるのは首から上だけ。強く睨みつけ、啖呵を切るのが精一杯だった。


「この野郎、さっきはよくもやってくれたな。俺にこんな舐めた真似しやがって。おい、さっさと縄を外せや。でねぇと、ぶっ殺すぞ。クズ野郎」


「まあまあ、そうカッカするな。来たばっかりじゃないか。とは言え、お前をここに運んで来てから既に6時間は立ってるがなぁ。ずいぶんと遅いお目覚めだなあ。麻木よ」


「テメェ……!」


 6時間が経過したということは、三島へと向かう村雨組の先遣隊には加われなかったということ。もう沖野らは現地に向かってしまっている頃だろう。「臆病風に吹かれてすっぽかした」と笑われているか、あるいは詰られているか。ああ、こんなことさえ無ければ俺は今頃、彼らと共に戦地へ向かっていたものを。俺は心の中で地団駄を踏んだ。


(クソッ、畜生め!)


 返す刀で再び山崎を睨みつけた俺。奴は相も変わらずヘラヘラと笑みを浮かべている。憎ったらしい、キツネのような細い目と面長の顔。


 敵意と殺意を増幅させた俺をさらに煽るかのように、山崎は言い放った。


「何だ? 俺を殺したいってか? だよなあ。そう思われて当然だよなあ。何せ、お前には予定があったんだし」


「……そう思うならさっさと縄を外しやがれ。ゲスが」


「おっと、そいつは無理な要望だなあ。何故なら、俺は命令に従ってお前を拘束しているのだから。お俺一人の意思で動いてるなら思いやりと気まぐれでお前を解放することもできたんだがなあ。ごめんな? 麻木」


 別に慈悲をかけてもらおうなんざ考えていない。ただ、この状況で出来得る最大限の強がりを見せただけだだ。ヤクザは舐められたら最後。村雨組長から教えられた絶対にして最大の人生教訓である。


 俺が中川会に拉致されたことを組は把握しているのだろうか。三島行きの旅団に合流せず、挙げ句屋敷からも姿を消した時点で何らかの異変には気づいていると思う。後は、芹沢が察しを付けてくれるかどうか。沖野や菊川はともかく、俺が役割を放って逃げ出すような男でないことは芹沢が一番よく分かっている。臆病者であれば、あんな大舞台を演じたりはしない。芹沢はそれを間近で見ていたのだ。


(こっからは芹沢の動き次第ってことか……)


 彼が比較的早期に緊急事態の発生に勘付き、助けを寄越してくれることを願うしかない。なるだけ心を強く持つよう努めて待つとしよう。目の前にいる悪辣な男と対峙しながら。


「……山崎さんよ。あんた、自分のしてることが分かってんのか? 俺は煌王会の直系、村雨組の人間。それも、もうじき組長の養子になるって身だ。そんな人間を拉致るってことは、村雨組に喧嘩売ってんのも同じことだぜ? ああ?」


「そりゃあもちろん。分かっているともさ。お前の拉致を俺に命じたお方は、それを承知の上で命令をくだしたんだ」


「本庄組は煌王会とドンパチやろうってのか?」


「ああ。そのつもりでいる」


 本庄組どころか、その上位団体にあたる中川会ぐるみで起こした事だったとは。山崎がハッタリを述べている可能性も否定しきれないものの、彼は組の代紋を迂闊に使う人間ではない。俺は忽ち、二倍増しの困惑と衝撃に取られてしまう。


(ってことは、中川会が俺を拉致ったのか!?)


 どういうことだ。まったく訳が分からない。何故にそのようなことをされねばならないのか、心当たりがまるで無い。ただ単に親父が中川会に所属していたというだけなのに。他の接点を挙げれば、直参本庄組へのひと月ほどの居候。たったそれだけなのに。


 理解が追い付かず、呆然とする俺。そんな心の中は瞬く間に見抜かれ、山崎には嘲るような笑みを向けられてしまう。


「よっぽど焦ってるみてぇだなあ……っていうか、何なんだよ。さっきから村雨だの、煌王だの、組織の名前ちらつかせてやがって。お前らしくも無い」


 すかさず、俺は一喝した。


「黙れ!!」


 だが、本心はと言えば完全に山崎の言う通りだった。図星である。絵に描いたような動揺を見せていた。


 拉致・軟禁されるという今までに経験したことの無いイレギュラーな事態と、その加害者が山崎吉人という曲がりなりにも親交を深めていた人物である冷酷な事実。おまけに彼の背後にいる黒幕は中川会――。


 動揺しない方がおかしいであろう。


「どうしてこんな真似をする? 中川会が俺に何の用があるってんだ?」


 ひとまず気を鎮めて冷静になり、動機を問うてみた。ここで取り乱すのは時間の無駄。そればかりか相手に付け入る隙を与えてしまうからだ。


「……」


「何をニヤニヤ笑ってやがる。答えろよ!」


「……ふふっ」


「答えろッ!!」


 ああ。いけない。落ち着いていようと心に決めたはずが、さっそく荒ぶってしまった。こんな様では山崎の思う壺。会話の主導権を向こうに握られてしまうだけだというのに。


「何が可笑しいんだ。山崎」


「いやあ、すまん。お前も哀れなもんだなと思ってな」


「哀れだと?」


「そうだ」


 コクンと頷いた後、山崎は俺を見下ろす。


「その体に流れる血と遺伝子のせいで、自分の歩む道を自分自身の手で決められない。そいつを哀れと呼ばずして何と呼ぶんだ。麻木涼平。同情しちまうよ。父親が、あの川崎の獅子だったばっかりになあ……」


 何の話をしているのか。親父と、俺を拉致した理由との間に、一体どんな関係があるというのだ。顔面に唾でも吐きかけてやろうかと、俺は山崎に対して猛然と食ってかかろうとした。


 だが、ちょうどその時。


「おう、山崎。お喋りが過ぎるで。あんまり要らんこと話すなや」


 部屋に男が入ってきた。入室の瞬間、山崎が深々と一礼する。奴の主君、本庄利政である。


 ああ、やはりここへ現れたか。名前を尋ねる無駄な問答をしなくて済むので、知っている顔が出てきたのは都合が良い。俺は即座にぶつけた。


「よう。2ヵ月ぶりだな、本庄さん。これはあんたの差し金か? そこにいる若頭はそういう風に言ったぜ?」


「せやな」


「どうしてこんな事を? 俺は少なくとも、あんたは父さんと同じく信用のおける大人だと思ってたが?」


 声色と視線で怒りを表現した俺の気迫を前にしても、本庄は眉ひとつ動かさずに答えるだけ。


「信用も何も。わしは極道やさかい。命令を受けたら、その命令の通りに動くのみや」


「ほんの一瞬だけでもあんたを良い人だと思った俺がバカみてぇだぜ。なあ、早く俺を解放してくれよ。俺には行く所があったんだよ」


 だが、その言葉で顔色が変わった。


「せやから命令やった言うとるやろ! 同じことナンボも言わすな、このボケ! わしかて、お前相手にこない強引な手は使いたなかったんや!」


 声を荒げた本庄。彼としても不本意な行動だったというわけか。眼鏡越しに見えた瞳の動きからして演技をしている素振りでもなさそうだが、まだ信用はできない。真意を知るまでは。そして、彼らの裏にいる本当の命令者、すなわち黒幕が誰なのかを突き止めるまでは。


「命令? なら、あんたに俺を拉致るよう命じた輩がいるってことだよな? 誰だ、そいつは?」


 少し嫌な予感はするものの、察しはついている。本庄組を手駒として使うことのできる存在といえば限られてくるだろう。されどもこの見当が当たっていれば、それはとんでもないビッグネームだ。


 言うまでも無く、俺がこれまでに敵対した人間の中で最大の相手となろう。そんな奴が糸を引いていたとなれば更なる戦慄と衝撃は避けられないが、現に俺は拉致されてしまっている。


 その事実がある限り、向き合うしかない。


「……」


「恐れ多くて言えねぇってか。なら、こっちから言い当ててやろうか? 俺にこんな舐めた真似をはたらいた、ゴミクズ野郎の名前を!」


 じっと俯いて黙り込んだ本庄に返答を急かし、俺は挑発的な台詞を放った。するとみるみるうちに蠍の顔が青ざめて「な、何ちゅう物の言いようや!」と上ずった声が返ってきた。


(なるほどな)


 俺は確信を得た。あの本庄がこんなにも慌てるということは、やはりあの人物しか考えられない。尤も、俺自身は名前を耳にしたことしかなかったのだが――。


 そんな時、不意にドアが開く音がした。


「ほう。なかなかに勘の鋭い子だ。挙げ句、わがはいに向かってそのような言い草ができるとは。度胸も含めて父親譲りか。見事なものだな」


 重苦しい低い声と共に現れたのは見知らぬ男だった。年齢は50代半ばくらいだろうか。金の糸による刺繍が縫われた奇妙な黒いスーツに身を包み、白髪交じりの黒髪を七三分けに整えている。


 どういうわけか、顔が白い。化粧でも施しているのかと思うほどに色白だ。それでいて眼光は鋭く、口元には立派な髭が蓄えられている。とてつもない威厳に満ちた風貌の持ち主だった。


(な、何だ……この男は……!?)


 服装については既視感がある。幼い時分、読み聞かせてもらったとある西洋の御伽草子の挿絵に描かれていた“伯爵”のそれと、どことなく似ている。傍から見れば「欧州貴族のコスプレをしたおっさん」と形容できよう。


 しかしながら、滑稽さは微塵も感じられない。逆に、こちらの動きが思わず止まってしまうほどの風格が漂っている。俺はひと目で圧倒された。初対面にもかかわらず気圧されるのは、村雨耀介と出会った時以来か。


 そんな男は部屋に入るなり、本庄の隣へと歩み寄っていく。


「か、会長……」


 本庄はすっかり怯えている。隣に控える山崎も同様。普段の彼らからは想像もできない、さながら蛇に睨まれた蛙のごとき縮こまり方だった。


「どういうことだね、本庄? 我輩はあくまでも『連れて来い』としか言っていなかったはずだが。何故、この子は椅子に縛り付けられているのかね?」


「そ、それはですねぇ……つまり、その、会長の安全のためですわ。このガキが万が一、ここで暴れたりしたら、会長の身に危害が及ぶ思うて……」


「余計な心配だ。せっかくの対面の日だというのに、無粋なことをしてくれるな。早く縄を解いてやれ」


「いや、しかし……」


 男が本庄を睨みつける。


「どうした。あるじの言うことが聞けないのかね?」


 男の眉間にしわが寄る。眼光から発せられるのは凄まじい貫禄だ。重低音の声質も相まって、その場にいた者全員を凍り付かせるだけの迫力があった。


「す、すんませんでした! 即座すぐに解きますさかい、ちょっと待っとってください!」


「さっさとしたまえ。我輩に恥をかかせる気か。お前の品の無さには毎度のこと、うんざりさせられるな」


「は、ははあ……」


 慌てた本庄は山崎に命じ、俺の両腕両脚をグルグル巻きに拘束していたロープをナイフで切らせた。久しぶりに手足が自由になる。しかし、長らく縛られていた余韻か、少しの痺れが巻き起こっていた。


 直後には立ち上がれず、動きも悪い。その場で四苦八苦する俺に、男は口調を若干穏やかにして声をかけてきた。


「手荒な事をしてすまなかったね。手足が痛むだろう。ずっと押さえつけられていたのだから、無理もない。しばらく動かさない方が良いな。固まった血流が心臓に流れ込んでは危ない」


 俺の身体を気遣ってくれるようだ。ならば薬や手当てを施してくれるのかと思ったら、そうではないらしい。変わらず、淡々と話を続けてきた。


「今日が初めましてになるな。君と会える日を心待ちにしていたよ。麻木涼平君」


 名前を知っているのか。一瞬だけ困惑したが、そんなものは本庄から報告を受ければどうにだってなるのでくだらぬ疑問だ。気持ちを切り換え、俺は男に応じる。


「……ああ。初めて会うな」


 痛みと緊張の中、その言葉を返すのがやっとだった。


「我輩が誰だか、分かるか?」


「あんた、中川会の会長さんだろ。違ってたら申し訳ねぇけど」


「ご名答だ」


 フッと微笑んだ後、男は自らの名を名乗る。


「我輩は中川なかがわ恒元つねもと。この東京にて中川会の三代目を仕切っている。よろしくな」


 中川会三代目会長、中川恒元。これまでニュースや新聞、それから会話の内でしか登場しなかった名前である。やはり、この男が出て来たか。俺の予想としては、一応当たっていた。


 右手を差し出されるも、俺は構わず尋ねる。


「悪いけど、あんたと握手をする気にはなれねぇな。さっきはそちらさんの子分に痛い目に遭わされたんだ。まずはその理由を聞かせてもらわねぇとなあ?」


「無理やり連れて来られた事を怒っているのか。それについてはこの通り、申し訳ない。本庄には後できつく叱っておこう」


「おい! 頭下げて済む問題じゃねぇだろ! どうして俺をここに連れてくる必要があったのかって聞いてんだよ!」


 ただ湧き上がる怒りのまま、目の前の男にぶつけた俺。すると横で見ていた本庄が「涼平!」と怒鳴った。会長を相手に無礼だとでも言いたいのか。


「ああ? 何? 文句でもあんの?」


「ちったぁ口の利き方に気ぃつけぇや。おどれ、自分が誰と喋っとんのか分かってへんのか? 中川会の三代目やで? あんまり舐めた口を利くようなら、いくら涼平かて容赦せぇへんで」


「そんな脅し、ちっとも怖くねぇよ。大体、俺は煌王会だぜ。中川の会長が何だってんだよ。口の利き方とやらに気を付ける義理なんか無い」


「な、何やと!」


 なおも強気で振る舞う俺の態度に本庄は激昂し、殴りかかろうと拳を握り固めた。だが、それを片手で制止する者がいた。


「止めろ」


 恒元である。


「か、会長!」


「この少年の言うことも一理ある。確かに、今の時点で彼は中川の人間じゃない。無理にかしずかせ

 ようと思う方がおかしいだろう」


「せやけどそれじゃあ……」


「大体にして、本庄。全てはお前が招いたことだ。お前が己の部下に手荒な事をさせなければ、この少年が気を悪くすることも無かった。そのように怒る暇があるなら、彼に詫びでも入れたらどうだ?」


 主君の言葉に本庄は押し黙った。不服そうな様子ではあれど、相手が相手だけに反論できないようである。いい気味だ。


「……」


 俺は視線を正面に移す。こちらをじっと見つめる恒元に対し、敵意を込めた眼差しをぶつける。俺から言わせれば、この男が全ての元凶だ。こいつが命令を出さなければ、俺は強制連行されることも無かったのだから。友好的に右手を差し出せるわけがない。


「……まあ、如何に取り繕ってもこちらに非があるな。もっと穏やかなやり方をとるべきだった。今更何を言っても言い訳にしかならないが」


「そう思うなら、早くここから俺を帰してくれよ。俺には行く所があるんだよ」


「おっと、思った以上に怖い顔をするんだな。目元は完全に父親そのもの。改めて言うが大したものだ。その歳で既に完成された極道の風格を纏っている」


「何を寝ぼけたことほざいてやがる。さっさと俺をここから出せってんだよ。聞いてんのか、コスプレ野郎」


 俺と握手することを諦め、恒元は苦笑した。


「いやはや。手厳しいな。弁解させてもらうが、我輩としては『コスプレ』とやらに興じているつもりはない。これは我輩のれっきとしたヴェトモン・デコントラセ、“平常着”なのだから」


「知るか。そんなこと」


「母がフランス人でね。おかげで昔から自然とあの国のカルチュール、“文化”に惹き寄せられる。今では衣食住のすべてがフランス一色さ」


「けっ、日本の極道がフランスかぶれかよ。クソダセェな」


 すると、恒元は高笑いした。


「あはははっ。君の父親にも同じことを言われたな。今から7年前、直参組長への昇格を断られた晩にね」


 それはまた初耳である。今は亡き麻木光寿に、そのような過去があったなんて。一騎当千の猛者だったならば当然のごとく若くして大出世を遂げていてもおかしくはないのだが、かつて本庄から聞かされた話曰く「直参への最年少昇格を目前にこの世を去った」とのこと。その理由がまさか、自分から辞退であったとは。経緯がとても気になる。


 いや、深く尋ねるのは止めておこう。今はそれについて論じている時ではないのだ。一刻も早くここを抜け出し、三島へ向かった沖野たちと合流しなくては。


「……悪いけど興味ねぇな。それが何だってんだよ。ただ単に、あんたの下で直々に働くのを父さんが嫌がったってだけの話だろ」


 仮に俺が親父の立場であっても、まっぴら御免だ。顔に白粉を塗りたくって、会話の節々に気味の悪いフランス語が出てくる異様な男の盃を呑むなんて。そもそもこの人物がヤクザの親分、それも西の煌王会と並ぶ日本有数の巨大暴力団のトップである事実自体、にわかには信じ難いくらいだ。


(こんな野郎が中川会の会長とか……嘘だろ……)


 衝撃というか、失望というか。気づけば俺は愕然という反応の中にあった。関東最大の組織の首領というだけあって、もっと昔気質な大親分のような男を想像していたのだ。銭ゲバな煌王会の長島勝久六代目も大概だったが、こちらはあまりに理解の範疇を越えている。彼を見る目には自然と軽蔑の色が含まれてしまう。


「いい加減にせぇや、涼平! 会長に向かって!!」


 またしても本庄が激昂してきたが、先ほどと同様、恒元に制止される。今度は「お前は黙っていろ。これ以上、彼との話を邪魔をするなら殺す」とかなり強い表現が用いられた。


 そうまでして中川が俺としたい“話”とは何なのか。大体の想像は着いているが、聞かずにはいられない。この際だから核心部分を突いておこう。


「あんた、俺を中川会に入れようってのか?」


 投げやり気味な問いに対し、恒元は大きく頷いた。


「Oui」


 意味は分からないが、フランス語で「ああ。そうだよ」とでも言ったのだろう。ふざけた男だ。このタイミングでフランス語か。本人にその気は無いにせよ、俺には煽られているようにしか受け取られなかった。


 俺は縛られていた椅子から腰を上げる。もう既に拘束は解かれているのだ。いつまでも大人しくしていることも無いだろう。


 こちらの挙動に恒元は苦笑した。


「そうか。ならば仕方がないな。では、君がここに留まりたくなるような話を先に提示してみるとしよう」


「は?」


「ジョセフ・ブライアン・スギハラ。君はこの名前に聞き覚えがあるはずだ。無いとは言わせんぞ」


 刹那、背筋に電流が走った。


(えっ?)


 どうしてここであの男の名前が出てくるのか。俺の中では瞬く間に見当がついた。動揺を悟られまいと必死で自意識を保ち、不敵な笑みを浮かべる恒元に問いかける。


「……そりゃあ知ってるさ。あんたと同じく外国にかぶれた、いけ好かねぇ野郎だった。まさか、あいつは中川会あんたらが殺したのか?」


「ああ。名前を出しただけでよく気が付いたな。その通り。奴を始末したのは、我々だ。小蠅のように動き回っていたものでね。不愉快で仕方が無かった」


 中川会の領域内で勝手に武器を売りつける等のシマ荒らしが発覚したため、捕らえて凄惨な拷問で痛めつけた末に殺害。死体を横浜市内の河川に投げ棄てたという。


 だが、彼はあくまでも外部の協力者。笛吹一派との内通疑惑が浮上したためマトにかけることになったが、正式な組員ではないので村雨組への事前通告などは必要ないし、わざわざ明かすことでも無い。


 何故、敢えてこの場で伝えてきたのか。


「例のスギハラなる男について、君はこのように思っているはずだ。『あいつのせいで笛吹に情報が漏れた』と。けれども真相は違う」


「ああ?」


「漏らしたのは彼ではない。我々、中川会だ」


「なっ……!?」


 衝撃で全身が凍り付く。しかし、合点が行った。


 あの日、俺が鋳物工場に向かう旨を笛吹および中国マフィアに漏らしたのは本庄だったのだ。口八丁で俺から話を引き出し、何らかのコネで情報を流した。そして、その背後で糸を引いていたのはここにいる中川恒元会長。それこそが、あの大乱闘の裏で進んでいた事実関係の全容だ。


「……俺を嵌めたのか。どうしてそんなことを?」


 何か言いたげな本庄を制し、恒元は答えた。


「君の実力を試すためさ。これから、中川会へ迎え入れるにあたってね。君は見事期待に応えてくれたよ。

 おかげで長年の目の上の瘤だった大鷲会が片付いた。そして村雨組に恩を売ることもできた。一石二鳥だ」


 中川会によってすべて仕組まれ、その手の上で踊らされていたというわけか。俺は思わず「ふざけるな!」と叫んだが、恒元の表情は相変わらず。人を食ったような笑みを見せている。


(くそっ、殴りてぇ……!)


 今すぐに飛び掛かってボコボコにしてやるのも良いが、ひとつ気になることがある。恒元が口にした「恩を売る」という言葉。それは一体、どういう意味なのか。


 俺には、心当たりが浮かんだ。


「おい、村雨組うちの舎弟頭はあんたが娑婆に出したんだよな? ご丁寧にどうも。その理由ってのはあれか? ブタ箱から出すのに力を貸す見返りに俺をそっちに差し出すよう、村雨耀介に交換条件を持ちかけるためか?」


「その通り。やはり君は勘がいいな。これからの中川会を背負って立つ若い人材として、ますます手元に欲しくなったよ」


「誰が行くか。あんた、筋金入りのゲス野郎だな」


「恩の押し貸しも作法のひとつ。ヤクザとはそういうものではないのかね。まあ、当の村雨からは突っぱねられてしまったが」


 そう言うと、恒元は懐から一枚の書状を取り出した。訝しみながらも視線を落としてみる。明らかに上等そうな和紙製の便箋で、どこかで見た覚えがあった。


「読んでみたまえ。村雨はだいぶ君にご執心のようだ」


 宛名には「本庄利政殿」とある。このような古風な文章表現を行う者といえば、一人しか考えられない。村雨組長だ。


 ーーー


 宛 本庄利政殿


 初夏の候いかがふりに負ふや。


 先とて給へしきみよりのご提案なれどいなびたてまつらまほしく存ず。涼平が数か月の間、きみの下に暮らせるよしは知れり。きみが涼平にいと気を許せるおり養子にせばや」考へおらるることも知れり。されど涼平はいづれ我が息子となる者。おいそれとやるよしにはいかぬなり。


 きみが我と我が家を支へむとせることにはいと喜べり。我はそれに大いなる恩義を感じたり。されどそれとこれとは別の物語なり。我自身はきみの申しいで受け入るるつもりはあらず何よりも涼平自身がその案に賛同したらず。


 官に手を回して芹沢暁いで獄さすることときめかずべし。芹沢につかばこなたにいくらにも助けめどあれば余計なる手いだしは無用なり。さればその見返りに涼平をおこせといふはあまりにも不相応なる物語ならむ。


 涼平はいま修行中の身なり。ゆくすゑの夢やはか追ひ求むる中にみづから見つけねびたり。彼奴にとりてみづからの確立とは父の影、乗り越ゆることにあり。かつて父のありし中川会に行きしところで、おのれのごとくは生きられぬで負ふ。中川の盃を呑むことは彼にとらば、望ましからぬものとなれり。


 そのため、養子の申しいでを断固としいなびたてまつらばやと思ふ。


 助けはかたじけなきものにはあれど、それが涼平の生き方に対する代償となるべからず。我らは共に困難を乗り越え、支へ合ふことに絆を深め、かたみのねび助け合ふがやむごとなしと考へたり。


 本庄殿には我らの決断を心得たまへらるることを願へり。涼平の思ひいつき、息子と共に歩みゆく道を選ばばやと思へり。


 何卒、ご心得いただき、我らの選みを尊重したまへらるるやう願ひ申し上ぐ。


 敬具


 村雨耀介


 ーーー


 典型的な古文で何と書いてあるか分からない。こんなものは、ほぼほぼ外国語と同じ。中学の国語の古典など悉く放棄していた俺に読めるわけが無い。


「……何て書いてあんだよ」


「まあ、読めんだろうな。平たくと言えば『涼平を中川会にはやるわけにはいかない』と。こちらで手を回して芹沢を釈放させてくれることは有り難いが、見返りに涼平を寄越せと云うなら話は違う。余計なお世話だ、とな」


 思い出した。この手紙は今年の夏、伊勢佐木長者町のホテルで本庄と会った折に村雨から渡すよう命じられていたものだ。まさか、あの時点で俺を獲得するべく中川会が動いていたなんて。まったくもって気が付かなかった話だ。水面下で繰り広げられていた戦いに、俺は全身の鳥肌が立つ感覚がした。


「村雨も強情な男だ。当局の役人に手を回しておたくの舎弟頭を牢から出してやると言ったのに、けんもほろろに断った。組織の利を一番に考えるならば悪い話ではないというものを」


「そんなのはあんたらが一方的に押し付けたことだろ。こっちは頼んでもいねぇってのに。話の進め方がセコいんだよ」


「だが、現に芹沢暁は釈放されている。我々は村雨に対して“貸し”を作ったわけだ。経緯はどうあれ恩を返すのが筋だろう」


 だから俺が中川会に行くというのか。冗談じゃない。恒元らのやり方には心底反吐が出る。こんな奴の下に着くなど、俺の身体が受け付けない。どんなに高い報酬を積まれたところで願い下げた。村雨組長が拒絶の意思を強く示してくれたのは本当に有り難かった。


「フッ、嫌だね。誰が呑むかよ。そんなの」


「村雨には“罪”もあるのだがな。あの男は我らが直参、三代目伊東一家の大原の娘を助けてくれたわけだが、何故か早期に返そうとしない。理由も無く横浜に留め置き、大原の目を欺き続けている」


「はあ? そりゃ、あの娘が弱ってたから横浜の病院でしばらく休んでもらってるだけだぜ? それのどこがいけないってんだよ……」


「治療ならば東京の病院でもできるだろう。何故に横浜でなくてはならん。それは村雨に邪心があるからだ。恵里を人質として扱い、伊東一家との政治的な駆け引きに使おうとする邪悪な企てがな」


 下衆の勘繰りだ、と言いたかったが、残念ながらそれはまったくの事実。恵里の身柄をすぐに返さなかったのは、名古屋へ遠征に赴いている間、伊東一家に背後から攻め込まれぬための担保にするためだ。不可侵条約を確実にするために利用させてもらったのは確かである。だが、そこを見抜かれてしまうとは。現在までに大原総長ご本人は横浜で治療を行うことに納得しているらしいのに。


「大原が許しても我輩が許さん。恵里の名付け親は、この中川恒元だからな。あの子は赤ん坊の時から可愛がってきた。実の娘にも等しい存在だ。それを下らぬ駆け引きに利用するとは我輩に対して喧嘩を売っているも同然。村雨には報いを受けてもらわねばな」


 その報いとやらが俺を引き渡すことか。理屈としては合理性はあるものの、恒元が言うとどうしても大義名分に欠ける。麻木涼平を奪い取るための口実として都合よく恵里の件を持ち出しているようにしか思えないからだ。


「だから何だってんだよ。関係ねぇだろうが。ああ。くだらねぇ。もうこれ以上、付き合ってられねぇわ。帰らせてもらうぜ」


「待ちたまえ」


「止めても無駄だぜ。殺されてでも出て行ってやる。もう、あんたと同じ空気を吸いたかねぇんだわ」


 立ち上がり、部屋の出口を目指して歩き出した俺。すると、恒元が思わぬことを口走った。


「おや? いいのかね? 三島がどうなっても?」


 どういうことか。


「おい、それって何処の話……」


「斯波一家の残党どもに手を焼いているのだろう? 実は、彼らを焚き付けているのは何を隠そう、この我輩なのだよ。彼らにはあと一年は戦えるだけの札束を握らせている。抗争は、もっと長引くと思うぞ」


「ふ、ふざけやがって!!」


 ここへ来る前、山崎が言っていたのはこれのことか。全ては村雨組を苦しめんとする中川会の謀略。会長の中川恒元が裏で糸を引いていたのだ。


「そういえば先ほど、村雨組の先発隊が三島に入ったそうだね。彼らは三島市〇〇丁目のホテルに滞在しているとか……涼平君。我輩の言葉の意味が分かるな?」


「くそったれが」


 つまり、恒元の意向ひとつで敵武装勢力が沖野たちの拠点を不意討ちできる。恒元はこちらの動向を完全に把握しており、情報を斯波の残党たちとも共有している。要は村雨組は首根っこを掴まれたも同然なのである。


「おい、副市長を誘拐させたのもあんたの仕業か?」


「それは彼らの独断だ。我輩は政治家には危害を加えない主義なのでね。こちらにしてはとんだ僥倖であるが」


「ふざけたことしやがって。村雨組はテメェごときの罠でどうにかなるほど脆くはねぇんだよ。どんな敵が相手だろうと、必ずぶっ潰してやる」


「強がりだな。まあ、良い。このまま立ち話を続けるのも疲れるから、ここらでティータイムといかないか。茶を菓子を用意させた。どうだね?」


 穏やかな口調であるものの、意味としては完全なる脅迫だ。三島の件は奴のハッタリかもしれないが、そうでないと否定はしきれない。難しいところである。


(……ここは従っておくしかねぇか)


 俺は止む無く、同意した。自らの執務室でゆっくり話をしようと恒元は言う。この化粧男と卓を挟んで語らうなんて反吐が出る思いだが、情勢が不確定な以上は止むを得ない。隙を見て逃げ出せば良い。三島の件は、沖野たちに何とか持ち堪えて貰おう。


「さあ。行こうか。君とは話がしたかったんだ」


「俺は願い下げだけどな」


「そう言ってくれるな。君が我輩の盃を呑んでくれるよう、誠意は尽くすつもりだ。悪いようにはせんよ」


 だが、ここで本庄が急に口を開いた。


「ちょ、ちょっと待ってくださいや。会長!」


「何だね」


「りょ、涼平にはわしの盃を呑まして本庄組に入れることになっとったやないですか。こ、こりゃあ話が違うんと思いますが……?」


 夏以来、五反田の蠍がしきりに「わしの子にならへんか」と持ち掛けてきた理由がようやく分かった。あれは麻木涼平の獲得を目指す中川恒元のお墨付きを得た上での勧誘だったのだ。本庄利政の盃を下賜し、本庄組に入れる。それこそが俺を中川会に入れんとする恒元の思惑だったようである。しかし――。


「いや。お前の組には入れん。涼平は我輩が直々に、一人前のヤクザに育てることとする」


「なっ!?」


「気が変わった。この子の顔を見ていたら、そうしたくなったのだよ。許せ」


 事前の約束をあろうことか気まぐれ同然で反故にされ、不服の意を全力で表す本庄。子供みたく地団駄を踏む光景は、何というか、いい気味だ。口には出さないがざまあみろと言ってやりたくなった。


「せやけど、それはあんまりですわ……」


 抗議しようとすると本庄だが、未遂に終わった。


「我輩の決めたことだ。邪魔をするな」


 語気を強めた恒元に、鋭い眼差しを浴びせられたのだ。かなり理不尽な決定とはいえども、会長には逆らえない。みるみるうちに畏縮して肩をすぼめながら、干からびて弱った蠍のごとく本庄は去っていった。


「さあ。気を取り直して、我々は茶会といこうか」


 恒元会長に連れられ、俺はやむなく廊下へ出た。廊下は例によってただっ広く、赤い絨毯が敷き詰められている。そして至る所に磁器の壺、銅像、西洋甲冑といった品々が並ぶ。廊下に調度品を置くのは暴力団特有なのだろうが、ここは全てが西洋の名品ばかり。いずれもフランス由来のものだろう。何となく察しがついた。


「あのさ、ここってもしかして中川会の総本部か?」


「その通り。赤坂では御所の次に大きい西洋館だ。コロニアルスタイルの建築は、もはや東京ではここしか残っていない。君は今、重要文化財の中に居るようなものだ。心して歩きたまえ。ふふふっ」


 上機嫌に語る恒元会長。自慢話をされているようで、何だか腹が立ってきた。けれども今は我慢の時だ。


「この館は我輩が建てさせたものでね。川の三代目を継いだ時に建てた。父が使っていた旧総本部があまりにも日本じみていて、古臭かったからな。我慢ならなかったのだよ」


「よく分かんねぇけど、ここは日本なんだから日本じみてるのは当然じゃねぇの?」


「だとしても、我輩の性には合わなかった。この国の伝統とやらは好きじゃない。おまけにヤクザとくれば猫も杓子も伝統墨守、明治の頃から進歩が無いからいけない」


 そう言っている割には恒元自身も古い人間のような気がする。“伝統墨守”なる古めかしい言い回しをしている点も然り。着ているものも、住んでいる家も、ただフランス式というだけで十分に古典的ではないか。


(このオッサン、ただ単に日本が嫌いなだけだろ)


 日本人なのに日本が嫌いというのも珍しい。そういえば、さっき自分はフランス民族との混血児であるとか何とか言っていたような。少し気になったが、敢えて突っ込まずに会話を受け流した。


「涼平君。知っているかね? フランス革命でブルボン朝が崩れた原因は、当時の王党どもが常備軍を失ったことにある。彼らは遊びに現を抜かし、兵を育て養うことを疎かにした。その結果、民衆が蜂起した際に抵抗する術を失い、革命軍に踏み潰されてしまったのだ」


「知らねぇな。フランス革命ねぇ……教科書に載ってたような気もするけど、あいにく俺は勉強熱心じゃなかったんで。それが何だってんだよ、西洋かぶれ野郎」


「大衆の支配は力によってのみ成される。それはヤクザも同じだ。純粋な力によってこそ、人は服従する。力なき者に、人を統べることはできない。よく覚えておきたまえ」


 恒元は俺を見下ろしながら得意げに語っていたが、こちらとしては何を偉そうにと思っただけである。フランス革命が起きた理由だの、支配がどうのだの、いきなりそんな話を聞かされても反応に困るだけだ。


「私が中川会三代目の座に就いた折、真っ先に命じたのが総本部の建て替えであった。莫大なカネのかかることだ。勿論、反対する者も多かった。ゆえに我輩は異を唱える輩を全員消した」


「殺したのか?」


「ああ。手始めに幹部を一人ずつ拷問にかけてな。その次は構成員を、さらに次はその家族を、一人ずつ殺していった。先代から仕えてきた者も容赦なく粛清したよ。ふっ、あれは実に愉快だった。血を流し悲鳴を上げながら死んでいく者の姿は最高の余興だよ」


「悪趣味な野郎だな。まあ、俺も殺しは嫌いじゃないけど」


 俺の反応に、恒元は指をパチンと鳴らして笑みを浮かべた。


「そうだ。それでいいんだ。やはり君は素質がある。そうでなくてはならん。人の生き血こそが極道にとっては最高の快楽であり、存在意味そのものなのだから。君の父親も、今の君と同じ顔をしていたよ」


「ちっ、あんたまでそれを言うかよ。どいつもこいつも、何処へ行っても父さんのことを持ち出してきやがる。飽き飽きするぜ」


「それだけ君の父親が偉大だったということだ。あの男は極道としてのあるべき姿をよく分かっていた。無論、君自身も年若い割にはそれを理解している」


 人の生き血をすすることこそがヤクザの本質――。


 親父の話が出たのはつくづく心外だし、中川恒元という男の人間性も未だいけ好かなく思っている。けれど、その言葉には心底共感を覚える。力なき者は淘汰されて当然。ブルボン朝とやらが力を蓄えることを放棄したが為に倒されたのだとしたら、アウトローな人間たちにとっても同じことが言えよう。


 立場や肩書きだけでは、他者を統べることはできない。そいつを屈服させるだけの力、すなわち暴力を振るって、初めて「支配」という行為が成るのだ。実に的を得た話であろう。


「……なるほど、よく覚えておくぜ」


 そんな話をしているうちに、俺は恒元の部屋に辿り着いた。施設2階にある「会長執務室」。先ほど俺が軟禁されていた部屋もそれなりに豪華だったが、執務室は桁違いだった。


「だいぶ金がかかってるみたいだな」


「ああ。絨毯から壁紙、カーテンに至るまで全てが最高級品だ。これくらいしなくては威儀を整えられまい。さあ、くつろいでくれ。自分の家に帰ったと思ってくれて構わないよ」


「こんなところでくつろげるかよ……」


 会長の机の隣には大きな長テーブルが配置され、そこには既に紅茶と菓子が用意されている。恒元に促され、俺は手前の椅子に腰を掛ける。それもまた猫脚の家具で、見るからに高級品だと分かる。


(ったく。何でこんなことしなきゃいけないんだ……)


 ティーポットから湯を注ぎ、恒元は俺に紅茶を淹れる。俺としては非常に最悪な形ではあるが、茶会が始まった。無論、俺は飲まず食わずを貫かせてもらう。敵の出した飲食物を口に入れることは気が引けるし、あまりにも迂闊だ。


「どうしたのかね? 毒など入ってはいないぞ?」


「要らねぇよ。あんたの言葉は信用できねぇ。仮に毒が入って無かったとしても、体が受け付けねぇだろうな。腹を下すのが関の山だぜ。ゲス野郎が」


「くくっ、ずいぶんな言いようだな」


 苦い笑みを浮かべつつ、恒元はテーブルの上にあった紅茶をひと口啜る。自分が先に飲んで見せることで「これは無毒だ」というアピールか。まったくもってくだらない。


「……美味い! 茶葉はやはりヌワラエリヤに限る。この清々しい香りは一度味わうとやめられなくなるぞ」


 わざとらしく感想を言い立てる恒元に、俺は辛辣に返す。


「勝手に飲んでろよ。見え透いた芝居しやがって」


「そんなに毒が怖いのか? ご覧の通り、ひと欠片も入ってはいないというのに。茶に毒を盛るなど本庄くらいしかやらんぞ」


「だーかーら、要らねぇって」


「では、ビスケットはいかがかな? こういう場では欠かせないだろう」


 恒元は皿の上に山盛りの菓子を指差す。俺にティータイムを楽しむ余裕など有りはしない。そもそもビスケットだろうと何だろうと、中川恒元の振る舞うものを腹に入れること自体が嫌だ。


「……」


 悪趣味なフランスかぶれ野郎に、俺は沈黙で応じた。ところが、恒元はこちらの拒絶を意に介さず。頼んでもいないのに無駄な蘊蓄を披露してくる始末だった。


「知っているかね? フランスでは紅茶は元来女性の飲み物だったのだよ。18世紀、コーヒーハウスに入れなかった女性たちが集まり、茶の香りを楽しむイベントを開いたことで国中に喫茶の文化が広がった。同じ紅茶でも、イギリスのそれとは扱いが違うのだ」


 だから何だよ。興味は無いし、そもそも聞く価値も無い。流石に腹が立ってきたので俺はぶっきらぼうに言い放った。


「知るかよ。クソみてぇな知識をひけらかすことほど痛々しい仕草は無いぜ。俺は飲まねぇし、食わねぇ。何度も言わせんな。馬鹿野郎が」


「ふむ……我輩に向かってそのような口を利く男は初めてだな。まあ、良い。喉が渇いたら飲めば良いし、腹が減ったら食えば良い。さっきも言ったように、毒なんか入っていないのだから。好きにお上がりなさい」


 舌打ちをしながら、俺は宙を見上げる。ここに連れて来られてから、既に6時間。空腹感をおぼえていないかと訊かれれば、決してそんなことは無い。されども中川に御馳走になる筋合いは無い。隙を見て逃げ出し、村雨邸に戻ってからたらふく食わせてもらえば済む話である。


 苛立ちと煩わしさを抱えながら、後頭部をかきむしって湧き上がる激情を中和させるしかなかった。



「涼平君。何度も言うようだがな」


「……」


 無視してやったが、恒元は気にせず言葉を続ける。


「君は中川会に入るべきだ。それが全ての人間にとって最もベストな選択なのだ。君さえ決断してくれれば、余計な血が流れずに済む」


「……村雨組にドンパチを仕掛けようってのか?」


「ノンノン。村雨組だけではない。煌王会だよ」


「ああ?」


 それってすなわち、煌王会全体に戦争を仕掛けようというのか。たかが俺をごときのために何故そこまでする。中川サイドの大義名分としては「坊門の乱のケジメ」。先日、中川会は坊門によって勝手に名前を使われた挙句、恒元の名を愚弄されている。その落とし前をつけねばメンツが立たぬということだろう。だが、それは解決済みであったはずだが。


「おいおい。坊門って野郎はそっちに引き渡したはずだろ」


「申し訳ないが、その程度で矛を収めるわけにはいかんのだよ。我々も極道だ。代紋を汚された代償はしっかり払わせねばなるまい」


「その代償が俺だと? いやいや。どう考えたって、釣り合わねぇだろうよ。こんなガキの身柄ひとつで戦争を収めるなんざ。大体、あれは坊門が勝手に……」


「ならば君は戦争を望むというのかね?」


 恒元が急に鋭い視線を向けてきた。


「君が中川会に来てくれさえすれば、我輩としても今回の一件は喜んでトレーヴ、手打ちにしよう。自分一人の我慢で全てが片付くんだ。大事な人間のことを思えば、断る選択肢は無いはずだが?」


 ここにきて急に脅しをかけてきた中川恒元。中川会に来なければ横浜どころか、煌王会全体に対して攻め込むぞと揺さぶっている。彼の云う俺にとっての“大事な人間”とは村雨組長、あるいは絢華のことだろう。この男、かなり用意周到だ。事前に俺のことを念入りに調べているものと考えられる。


 如何なる脅しをかけられようとも俺の意思は変わらない。断固拒否だ。中川会と煌王会では構成員の数が違う。兵力的に、前者は後者に敵わないだろう。それを踏まえれば単なるハッタリだとすぐに分かる。


(大体、俺ごときの為に戦争なんか……)


 出来るわけが無い。さて、ここからどうやって断ろうか。そんなことを考えていると、恒元は言った。


中川会こちらに来てくれれば、君にも最高の待遇を用意してやろう。組を与えてやっても良い。そうだ、麻木組の二代目を継ぐというのはどうだ?」


「父さんの組を再興させるってかよ。冗談だろ」


「冗談ではない。本気で言っている。他にも、家と女と贅沢な暮らし、望むものをひと通りくれてやるぞ」


「買いかぶり過ぎだ」


 欲で釣ろうとは愚かなことだ。男の決意がその程度の誘惑で揺らぐとでも思っているのか。もしそう思っているとしたら、俺は「こんな奴が中川会の会長だったなんて……」と軽蔑の色をさらに強めなくてはならない。何というか、あまりにも浅ましい。浅ましすぎる。前々から抱いていた印象とは大きく異なり、中川恒元は、軽薄さが服を着て歩いているような男だった。


 そもそも俺ごときがいきなり組長になれるわけがない。16歳でその地位に座ったとあらば、もちろんこの国の任侠渡世が始まって以来の異例。他の連中が納得しないだろう。


 自然と大きなため息がこぼれてしまった。


「はあ……あんた、よくもまあそんな出鱈目をいけしゃあしゃあと抜かせるよな。大したもんだよ」


「出鱈目ではないのだがな。信じては貰えないか?」


「信じるも何も、中川会に行く気は無い。どうして中川の連中は俺にそこまで執着するんだよ。あんたも、本庄も。マジでキモいぜ」


 いい加減にうんざりしてきた。自分の行く道くらい、自分の手で決めさせてくれ。奴らがどんな思いを抱えているかだなんて俺の知ったことではない。俺は俺、親父は親父だ。


 そう激しく思い、苛立ちを募らせた末の「マジでキモいぜ」という痛烈な台詞。少し度が過ぎたかとも思ったが、別に構いはしない。ここで恒元に激昂される結果になろうとも、それはそれで良い。


 どんな手を使われようとも返り討ちにしてやる。それに、奴に従うくらいならば死んだ方がマシだ。中川恒元は俺が出会った中で最も下劣な男であった。


「……まあ、君の気持ちも分かる。だがね。我輩としても簡単には諦めきれんのだよ」


 当の恒元は俺の言葉に激怒するわけでもなく、穏やかさを保ったまま。これは予想外だ。激昂のまま発砲されるくらいは考えていたのだが。


「我輩が君を中川会に欲しいと思うのは、単に君が麻木光寿の息子だからではない。君の腕っぷしと実力に心底ほれ込んでいるからだよ」


「腕っぷし? 俺が実際に戦ってるとこを見てもいねぇくせに。笑わせんな」


「いいや。その目を見ただけで分かる。君は百年に一人の逸材……いや、それを超える存在だと。我輩は組織に新しい風を吹かせたいのだよ」


 有望な若手を数多く抱え込むことで血の入れ替えを行い、旧態依然とした組織を刷新する――。


 それこそがねらいであると中川恒元は語った。聞けば、俺以外にも何人かの若手株を既に取り込んでいるのだとか。皆、齢も俺と同じか少し上かの年代。中でも俺は群を抜いた素質を持っていると褒め称えられたが、知ったことではない。


「君が知っているかどうかは分からんが、中川会は我輩で三代目を数える。父と兄から引き継いだ組織で、他所に比べれば歴史も浅い。しかし、どうにも気風がレジーム、旧体制じみていてね。そろそろ改革をやらねばと思っていたところなのだよ」


「知るか」


「本庄を30代で直参に就けたのもその一環だった。だが、あいつは考えが保守的すぎて面白くない。己の利権のことしか頭にない。年齢を除けば、伝統墨守の老人たちとすることは同じ。挙げ句、近頃は直参に据えてやった恩を忘れ、小銭稼ぎにうつつを抜かしている。嘆かわしい限りだ」


 ゆえに若者を多く集めたいのか。恒元の問題意識は分からなくもないが、やるなら身内でやれば良い話。既に煌王会村雨組への加入が決まっている俺を巻き込まないでもらいたいものだ。


「あんな男に君をやるわけにはいかない。願わくば、君は我輩の手で自ら育てたいものだ」


 だから、俺は中川会には行かないと何遍いえば分かってくれるのか。そろそろ我慢の限界に近付いてきた。今すぐにも殴りかかりたい衝動を抑え、俺は恒元を強かに睨みつけた。


「うるせぇよ」


 そして、すぐに言葉を続ける。


「他にも集まってるんだろ? なら、そいつらに頼めよ。中川会の事情なんか俺には関係ねぇんだよ」


「中川会に来たまえ。涼平君。さすればきっと良い人生を歩めよう」


「お断りだ」


 話し合いを続けたところで無駄だ。俺は恒元に拒絶の意思を改めて通告すると、ぶっきらぼうに席を立った。


「良いのかね? ここで大人しく我輩の言うことに従わねば、これから何が起こるか分からんぞ?」


「はいはい。言ってろ。カス野郎。殺したいならいつでもかかってこい。俺は帰らせてもらうぜ」


 その時、恒元の身体が動いた。俺の背後へ回り込んだかと思うと、腕をグッと掴んで羽交い絞めにしてくる。


「おっ、おい! 何しやがる……!」


 とても強い力だ。我武者羅に振りほどこうとするが、まったくもって振りほどけない。言いようのない困惑と、恐れにも似た刹那的な感情。必死でもがく俺の耳元で、恒元は囁いた。


「我輩のものになれ。麻木涼平。君を愛したいのだ」


 低く、獣のように野性的な声色。次の瞬間、恒元は俺の首筋に顔を押し当て、ペロペロと舌を這わせてきた。まるで愛玩動物を可愛がるように優しく舐め回される。


「んっ……ううっ……」


 思わず吐息のような悲鳴が漏れてしまう。背骨に沿ってゾクッとした感覚が走り抜ける。抵抗する意思とは裏腹に、下半身の奥深くから沸々と湧き上がるものがあった。


(こ、こいつ……!?)


 いやいや。嫌だ。絶対に嫌だ。冗談じゃない。俺はありったけの力を込めて恒元の腕を振りほどき、羽交い絞めから逃れる。


「いきなり何しやがるんだ!! この変態野郎ッ!」


「おやおや? 満更でもないと思ったが?」


「ふざけんじゃねぇ! 舐めた真似してるとぶっ殺すぞ!」


 恐ろしく気持ちが悪かった。生理的に受け付けないというのはこういうことなのだろう。胸糞が悪いとはまさにこのことだ。


「ふざけているわけじゃない。我輩は本気だよ。君のような男を見ると、愛してやりたくなるんだ」


 恒元はこれ見よがしに白い歯を見せて笑う。どう考えても正気とは思えない。きっと頭の中に何か致命的な欠陥があるに違いない。


「狂ってやがるな」


「そうかもしれないね。我輩は自分のことを異常だと自覚しているつもりだ。だが、君の父親は素直だったぞ」


「ああ?」


「麻木光寿は我輩の求めに何度も応じてくれた。それはもう、幾度となく寝床を共にしたものだ。君が生まれてからだって……」


 何て話だ。もう、それ以上は聞きたくなかった。俺は全力で恒元を遮る。


「黙れ!」


 おぞましい。全身を冷や汗が伝う。想像しただけで寒気が走る。この中川恒元がどういう男なのか、一瞬で分かった。今まで遭遇した相手の中でも桁違いに恐ろしい。村雨耀介のそれとは違った怖さだ。初対面でこんなことを……。いや、今はそんなことはどうでもいい。俺にすべきことは、ここから逃げ出すこと。ただそれだけだ。


「君も、試しに我輩と寝てみるかね?」


「うるせえ!!」


 咄嗟に背を向け、出口に向かって駆け出した俺。後ろから恒元が発砲してくるものと思ったが、彼は「待ちたまえ!」と声をかけるだけで攻撃は起こさず。とんだ見掛け倒しだ。無視して通り過ぎる。


 この男が村雨組を相手に戦争を仕掛けられるはずがない。関東最大組織の首領とあらば、残虐魔王の強さは十分に知っているはず。それに、俺自身も大きすぎるほどの力を示した。


 中川会なんて、怖くはない。どんな手を使ってきたところで余裕で跳ね返してやろう。心に決め、俺は颯爽と部屋を出て行く。


(こんな部屋、さっさとトンズラだ……)


 会長室を出た後、廊下を真っ直ぐに歩く。無論、この中川会の総本部には土地勘が無い。されども鶴見の某アジトのように入り組んではいないため、意外と分かりやすかった。ものの10分ほどで出口が見えてくる。


 しかし、安堵感も束の間。俺の背筋に寒気が走る。


(……おいおい。何だよ、これ)


 吹き抜けになっている玄関大広間に、スーツに身を包んだ多くの男たちがごった返していたのである。一体、何人いるのか。目視では数え切れぬほどに集まっていた。


 そのうちの一人は知っている男。山崎だった。


「無事にここから出られると思ったのか? 涼平。会長の顔に泥を塗った奴をみすみす生きて帰すわけないだろうが」


 なるほど。恒元の差し金か。されども途中で足止めを試みる者者が現れることは予想の範囲内だ。ここまで数が多いとは思わなかったが、予定通り蹴散らしてやる。


「おい山崎。さっさと、どけや。さもねぇと殺すぞ」


「お前の方こそ、さっさと回れ右をしろ。今すぐ引き返して会長に詫びを入れるなら許してやる」


 この者たちを倒さねば、先へは進めない。横浜に帰ることができない。わずかに舌打ちを響かせた後、俺は階段を飛び降りて男たちに襲いかかった。


 立ちはだかるは無数の中川会の兵隊。先手必勝だ。


「うおおおおッ!」


 まずは1人を殴り倒す。隣にいた別の男が鉄パイプを振りかぶって殴りかかってきたところを左腕で受け止め、そのまま左手で男の首根っこを掴み、力任せに投げ飛ばした。


 ――ドンッ。


 男は背中から壁に激突して気絶したようだ。


「死ねぇぇぇっ! このガキがぁ!」


 また別のの男がナイフを持って斬りつけてきた。右手で握っていた鉄パイプで斬撃をいなす。金属同士がぶつかり合う火花が飛び散った刹那、敵の顔に動揺が生まれる。


 なるほど。この男は喧嘩に慣れていない。緊急事態ということで急遽集められた総本部詰めの下っ端構成員か。差し詰め、他の連中も似たようなものだろう。


 相手が怯んだ隙を突き、俺は鉄パイプの連撃を見舞う。いずれも全体重を乗せた渾身の一打。


「ごばぁっ!? ぎゃふぅっ!!」


 やがて頭部がグシャグシャに潰れ、男は倒れて動かなくなった。やっぱり雑魚だ。あとはまとめてやらせてもらう。


「おい、誰だ! 次に死にてぇ野郎は!?」


 啖呵を切ってもなお、俺に襲いかかってきた敵たち。3人目、4人目。次々と敵を薙ぎ倒し、そのたびに血飛沫が上がる。


 気が付くと俺が来ていたジャケットには返り血がどっぷりと付着していた。


(血の匂いは癖になるぜ……)


 5人目を倒したところで、相手も少し怯んだのか、組員たちはいったん距離を取って体勢を立て直そうとした。だが、逃すつもりはない。


 俺は全速力で猛追し、いちばん手前にいた男の腹に強烈な蹴りをお見舞いした。


「げぼぉッ……!!?」


 彼はその一発だけで床に転がった。もう立ち上がれないだろう。


「ガキがぁ……調子に乗るなああああっ!」


 おっと、これは驚いた。拳銃を構えた男がいるではないか。ここは中川会総本部だというのに。壁や床を弾痕で傷つけてしまうのはお構いなしなのか。尤も、既に高級そうな絨毯が血で真っ赤に汚れてしまっているわけだが。


 ――ズガァァン!


 銃声が鳴り響くと同時に、トカレフの弾丸が飛んでくる。俺はタイミングを読んでそれを避けると、一瞬のうちに相手の懐に飛び込んで鉄パイプ一撃を食らわせた。奴はあっけなく崩れ落ちる。


 9人目、10人目と次々に襲いくる敵をなぎ倒す。もはや雑魚どもでは相手にならなかった。


 気づけば、立っている敵はいなくなっていた。床に倒れている者も含めれば100人近くいただろうか。大方、息絶えてしまっているのか。皆ぴくりとも動かない。


(まあ、いいや。あとはここから出るだけだ……)


 そう思った矢先だった。


「なかなかやるな。涼平」


 山崎だ。ああ、忘れていた。奴がまだ残っていたのだった。この勢いで一緒に片付けてやろうか。


「俺の邪魔をするならテメェも殺す! 山崎! 死ねェッ!!!」


 俺は猛然と駆け出し、跳躍して空中から渾身の一撃を放った。


 ――シュッ。


 しかし、俺が振り下ろした打撃は空を切るだけ。避けられたのだ。やはり中川会随一のアサシンだけあって流石に手強いか。


「おうおう。どこを狙ってやがる?」


 気づかぬうちに背後に回り込んでいた山崎が、ナイフを突き立ててくる。咄嵯に身を捻ったたものの、脇腹を掠めてしまった。焼けるような痛みが走る。


「ぐっ……」


 それでもまだ動かせる。大丈夫だ。


 俺はお返しに蹴りを叩き込んだ。


「ぐほおっ!」


 山崎が吹っ飛ぶ。よし、いいダメージが入ったはずだ。追い討ちをかけるべく、俺は奴を追った。


「食らえッ!! 山崎!!」


 再び跳び上がり、身体全体の力を乗せて鉄パイプによる一閃を放つ。


「くそっ、間に合わん……」


 山崎は起き上がるなり横に跳んで避けようとしたものの、反応が遅れている。


 ――ゴオォォン!


「ぐああっ」


 見事、山崎の脳天に直撃した。おそろしい衝撃音が響き渡り、鉄パイプがぐにゃりと曲がる。山崎はそのまま後ろに仰向けになって倒れ、たまたまそこにあった調度品の壺が粉々になり、破片が散乱する。


 勝負あったか。これで山崎も倒した。奴との因縁に決着がついたことを確信した、その直後だった。


「……ガキが……調子に乗るんじゃねぇよ!!」


 突然、山崎が起き上がってきた。驚くべき耐久力だ。鉄パイプが曲がるほどの打撃をもってしても絶命しないとは。頭部からダラダラと血を流しているが、本人は至ってピンピンしている。


 なるほど。回避が間に合わないと判断した瞬間、顎を引いて受けるダメージを少しでも小さくする動作をとったのか。さすがは暗殺と戦闘のプロ。伊達に本庄組で若頭をやってはいないようだ。


「しぶてぇ野郎だぜ……!」


 使い物にならなくなった鉄パイプを投げ棄て、俺は再び攻撃を仕掛けようと突進する。だが、それよりも早く山崎が動いた。どこから取り出したのか、その手にはワイヤーが握られている。


(まさか……!?)


 そのまま手が伸びてきて、気づいたら鉄線で首を強く掴まれていた。しまった。奴の罠に嵌まってしまった。


「ぐっ……うううっ……!」


「どうだ? 逃げられねぇだろ? こいつは地蔵背負いといってなあ、もがけばもがくほどテメェ体重で首が締まる仕組みになってる!」


「ううっ……」


「苦しいよなあ! 今すぐ会長に詫び入れんなら許してやるぞ? どうする? 涼平」


 このまま絞め殺されるのか。首にめり込むワイヤーをどうにか引き剥がそうと必死に抵抗するが、びくともしない。何か、逆転の切り札は無いものか。


「おいおい、そんなに死にたくねえのかよ。だったら俺の言うことを聞けや。素直に中川会に入れば良いんだよ。そうすりゃ村雨なんぞに飼われるより、よっぽどいい暮らしができる!」


 山崎の言葉を受け流しながら、俺はふと思い出す。さっき壺が割れて破片が飛び散った際、そのひとつがポケットに偶然飛び込んできたことを。


 次第に朦朧とする意識の中で、手を伸ばしてみる。あった。触り心地からして、先端部分は鋭く尖っている。


 上手くいけば、ナイフとして使える――。


 一か八かの即席の策。だが、選択の余地は無い。ここでやらねば負ける。


「うるせぇ……俺は……俺はお前らの言いなりなんかならねぇ!!」


「ああ?」


「自分の生き方は……自分自身の手で決める!!」


 ――グシャッ。


 俺は白磁器の破片を右の逆手に掴み、勢いよく山崎の身体に突き立てる。肉が抉れる感触が伝わった。山崎の左脇腹に、しっかりと刺さったようだ。


「ぐううっ!? テメェ!」


 痛みで山崎が怯む。その隙を見逃さない。俺は全身の力を振り絞った。そして――。


「ぐおおおっ!? な、何だと!?」


 馬鹿力で鉄線を引きちぎった。


 俺がワイヤーの力に勝ったことが信じられないのか、山崎は愕然としている。自分でも驚いたが、まあ良いだろう。そのまま彼の背後から体を掴み、後方へ思いっきり投げ飛ばす。


 俗に云う、ジャーマンスープレックスである。


 ――ゴンッ!


 鈍い音とともに、何かが折れる感触が伝わった。山崎の首の骨が折れたようだ。勝負あった。


「あぐうっ……ううっ……」


 全身を痙攣させつつ、山崎は俺を宙を向いている。自分が敗北したことが信じられない様子。時折、俺の方を睨んで、何か言いたげな様子だった。


 なかなか頑丈な男だ。脳幹部を座礁して言語機能を喪失させながらも、これでもまだ生きているとは。


 だが、終わりだ。


「じゃあな。山崎。五反田の時はマジで世話になったよ」


 別れを惜しむ心を微塵程度に残しつつ、俺は近くに落ちていた拳銃を拾い、奴の眉間に向けて引き金をひいた。


 弾丸を受けた山崎は動かなくなる。ようやく絶命したようだった。


「ふう。早いとこ、帰るか……」


 山崎を倒した俺は急いで総本部を脱出しようと試みた。しかし、背後から突如として響いてきた大声によって不意に足が止まる。


「うわああああ! な、何やこれはああッ!!」


 振り返ると、本庄が慟哭している。


「や、山崎! しっかりせい! 山崎ーッ!!」


 額を撃ち抜かれた亡骸に駆け寄り、喚き散らす本庄。なるほど。総本部内にはまだ奴も残っていたか。様子を見に来たところ、この惨状と出くわしてしまったのだろう。


「おどれぇ……よくも山崎を……わしの可愛い子分を……よくもやりおったなあッ!!」


 目を大きく開き、本庄は絶叫する。腹心を殺されたことがよっぽど堪えたようである。まったくいい気味だ。


「意外だな。本庄。あんたにとっちゃ、子分なんざ単なる使い捨ての駒くらいにしか考えてねぇと思ったが」


「じゃかあしい!!!」


「おうおう。ブチギレてるねぇ。次はあんたか。いいぜ。かかってこい。すぐに可愛い若頭のところに送ってやるよ」


 怒り狂った本庄は懐から短刀を抜き放ち、腰だめに構えて俺の元へ走ってくる。愚かなことだ。こちらはトカレフを構えているというのに。


(……まあ、いいや。本庄も殺してやるか)


 五反田で世話になったことへの感謝はあれど、今は状況が状況だ。ここでやらねば、こっちがやられる。村雨組との同盟関係もヒビが入るだろうが、そもそも本庄が俺を拉致した時点で立派な裏切り行為。友好関係など、とっくに終わっている。


 俺は引き金に指をかけた。


 ――ズゴォオン。


 その場に銃声が轟く。


「ぐふっ」


 弾丸を受け、本庄は崩れるように倒れ込んだ。


 しかし、銃弾は俺が放ったものではない。吹き抜けの上階にいた人影を見つけると、背筋が寒くなるのが分かった。


「……」


 拳銃を片手に立っていたのは、なんと中川恒元だった。


「邪魔をするなと言ったはずだぞ。本庄。聞き分けのない部下など不要だ」


 どうやら恒元は俺が引き金をひくよりも前に、こちらめがめて突進する本庄を撃ったようである。仮にも目をかけていた子分であるはずの本庄をあっさり殺した点もさることながら、強烈な疑問符が俺を襲う。


 何故、助けてくれたのか。是が非でも俺を足止めしたかったのではないのか。


「……どういう風の吹き回しだ、こりゃ? 何で俺を助けた? さっきの奴らはあんたが差し向けたんじゃねぇのか?」


 すると、恒元はコクンと頷く。


「ああ。そうだよ。欲を言えば、君をここから返したくはなかったからな。しかし、今ここで無理に引き留めたところで君は止まらんだろう。我々としてもいたずらに兵を失うのは避けたいのでな。帰りたいなら、帰って良いぞ」


「へぇ。帰してくれんのか。驚いたぜ。別の奴を差し向けてくんのかと思ったが。キモいくらい執着してた割には、すんなり諦めるんだな」


「諦めたわけじゃない。一旦は帰ってもらうだけだ。君は、いずれ必ず中川会総本部ここへ戻ってくることになる」


 そう言った後、二ヤリと不敵な笑みを浮かべる。


「さっきの戦いぶりを見て、余計に思いが強まったよ。我輩は君が欲しい。ますます欲しくなった」


 誰が応じてなどやるものか。俺は唾を吐き捨てると、走ってその場を後にした。

中川会三代目会長、中川恒元。関東の極道の頂点に立つ男の強欲さが涼平に牙を剥く。

次回、新たな波乱が……!?

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