表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第8章 餞別
150/261

俺のケジメ、長すぎた夏の終わりに

 先に仕掛けたのは俺だった。一直線に駆け寄り、ナイフを突き刺す。しかし笛吹はそれをひらりとかわした。さらにそのままこちらへ詰め寄ってくる。俺は身体を回転させてナイフを振るい、牽制する。だがそれも当たらなかった。そうしているうちに距離を縮められてしまった。まずい位置だ。


「うっ!」


 うっかり肩を切られたか。血が出ている。だが、これくらいは負傷のうちに入らない。まだ戦えるとも。


「おらよっ!」


 続けてナイフを振るおうとするが、今度は蹴りを入れられてしまう。脇腹に強い衝撃を受けた。思わずよろめく。


 そしてその隙を狙いすまされたかのように、顔めがけてナイフを振り下ろされる。間一髪避けたが、頬から出血してしまった。エフェドリンとやらのおかげで反応速度も上がっているのか。なかなか手強い。


 なれど、俺も生憎、このようなところで負けるわけにはいかない。必ず勝つ。勝ってやるんだ。俺は心の中で叫びながらナイフを構えた。


 そうして走り込み、笛吹に一撃を浴びせる。


「ぐああっ!」


「すまねぇな、ナイフは俺も大得意なもんでね」


「この野郎……」


 すぐさま身を切り返して反撃を放ってくる笛吹。対して、俺も刺突で応じる。何回か打ち合った後に一旦距離を取り、相手の様子を伺う。


 すると笛吹の方から突進してきた。速い動きだ。一気に距離を詰められて懐に入られる。ここで決めるつもりらしい。


 ナイフを持つ手に力がこもっているように見えた。よし、今なら勝てるかもしれない。そう思ってこちらも力を込めて走り出す。


 そのまま勢いよく飛び上がり、空中で回転しながらナイフを振り下ろす。すると刃先が見事に命中したらしく、確かな感触を得た。やったぞ。これで仕留めることができたはずだ。そう確信したが。


(おいおい、マジかよ……)


 信じられないことが起きた。なんと奴はまだ動いているのだ。しかも腹部に深く突き刺さっていたはずのナイフを抜き取ってまでいるではないか。そんな馬鹿な話があるのか? 普通だったら致命傷を負っていて当然だろうに。何が起きたのだ。


「残念だったな、麻木涼平」


「テメェ……驚いたぜ。痛みってもんがねぇのかよ」


「この程度の傷で死ぬと思ったか? どうってことないんだよ!!」


 奴の耐久力は化け物か。おそらくは薬物の効で全身の痛覚がほぼほぼ麻痺しているのだろう。俺は奴に問うた。


「キモいんだよ、シャブ中め。つーか、お前。さっきの注射は何だ? かなりヤバい薬に見えたが? 自分の命と引き換えにでも俺を倒すってのか?」


「ああ。そうだとも。俺はそのつもりで来た。ここでお前を殺し、血祭りに上げる。でねぇと腹の虫が治まらねぇんだよ! 9年間、復讐に燃え続けた俺の腹がァァァ!」


「はっ、そうかよ。俺も似たようなもんだけどな……」


 笛吹を必ずこの場で仕留める。勿論、命に代えてでも。覚悟を固めたからこそ、組長に無理を言ってまでこの作戦を敢行するに至ったのだ。今さら死ぬ事などは恐れていない。恐れていたら、戦いが戦いでなくなってしまう。


 俺はすぐさま後方へ下がり、一度体勢を立て直すことに決めた。されども単に下がったところでどうしようもないので、戦場を変えることにした。


 この工場は広い。現在の遮蔽物だらけのエリアよりも、もっと広い場所の方が戦いやすいと思ったのだ。地の利は双方とも確保しているわけではないが、狡猾な笛吹に逃げ隠れする寸暇を与えては俺が不利になる。




 奴もそれについて来ているようだ。そして全力疾走の後、広い場所へと出た。そこは工場の機械が並ぶエリアである。


「ここなら存分に暴れられそうだな」


「ああ。その通りだぜ。ここで決着をつけてやるよ」


 俺はナイフを構えて戦闘態勢に入る。対する笛吹もまたナイフを構える。両者睨み合いながら構えの姿勢を保ったまま、しばらくの間沈黙が流れた。


 先に動いたのは俺の方からだ。


 ナイフを振るい、斬りかかる。


 だがそれはあっさりと避けられてしまう。


 続いて左脚を狙ってきた。それをかわそうとした時、強烈な痛みが走った。思わず声が出る。しまった、やられた。しかしながら、俺は怯むことなく攻め続ける。ところが皮肉にも攻撃は全てかわされてしまい、逆にカウンターを食らう始末である。


「どうしたぁ? もう終わりなのかよ、クソガキが!」


「うるせぇよ!」


 さらに攻撃を繰り出すが、それも当たらなかった。どういうわけだ。俺の攻撃は虚しく空を切ってばかり。このままではまずい。どうにかして奴の動きを止めなければ。


 俺は隙を見て奴の背後に回り込み、ナイフを突き刺すように繰り出した。だがそれが当たることはなかった。気づかれてしまったのだ。何という反応の速さだ。


「馬鹿め、背後を狙ったつもりだろうが、そうはいかん!」


 奴は素早く振り返ると、ナイフを振るってきた。咄嵯にナイフで防いだものの、体勢的に力の差がありすぎたために押し切られそうになった。このままでは押し返される。ゆえに俺はやむを得ず、バックステップで後ろへと下がる。そこに運良く石ころが転がっていたので、思いっきり蹴って笛吹に放った。


 ――ゴツッ。


「こ、このガキ!」


 石ころは奴の額に直撃する。目眩ましには十分だ。俺はそこで開いた空白を狙って一気に突進すると、奴の腹にめがけてナイフを突き刺す。


(……よし。やったか……え? あれ?)


 何ということだろう。刺したつもりが、俺の方が刺されている。それどころか、笛吹の腹部には刺さってすらいなかった。おかしい。俺の方が速かった、そう思っていたのに。


「ううう……ぐぅ……」


 どうやら先手を打たれていたようだ。


「ヒャーッヒャッヒャッ! 残念だったなあ、麻木涼平! 俺を仕留めきれなかったことを後悔しな! お前は死ぬんだよ!! 俺の手でなァ!!」


 完全に油断していた。この男は思った以上に強いと改めて感じさせられる。愚かなことだ。こんなところで負けるわけにはいかない。勝つのは俺だ。ここで奴を滅多刺しにしなくてはならない。


 屈せず、俺は再び突撃する。


 例によって躱された。しかしながら、今度ばかりは一撃を与えることができていたようだ。ナイフの刃には血がベッタリとついている。これを見舞うのに、だいぶ苦労した。やはり笛吹は強敵だ。とても侮っていい敵ではない。


「その程度の攻撃で俺にダメージを与えたつもりか?」


 余裕な笑みを浮かべる笛吹。


 くそっ、舐められたものだぜ。すぐにでもぶっ殺してやりたいところだが、ナイフの扱い方に関しては奴の方が上手い。下手に攻めたら返り討ちに遭ってしまうだろう。ここは慎重にいこう。


 俺の攻撃は奴にはまったく届いていない。すぐにどうにかせねばと焦る気持ちもあるが、残念ながら戦闘の経験値は向こうの方が上。手に攻めたら返り討ちに遭ってしまうだろう。ここは慎重にいこう。


「俺を仕留めるんじゃなかったのか? どうしたんだよ?」


「うるせぇ。黙ってろ」


「おらよ。間抜けなガキは斬っちまうのが一番だ」


 挑発交じりの攻撃を放ってくるとは。いちいち腹が立つ男。俺は舌打ちをしながらカウンターを繰り出す。すると、今度は奴の方から仕掛けてきた。俺は受け流すようにして回避すると、そのまま反撃をする。


 ――キーン!


「くっ……またか……」


「甘いんだよ」


 俺の攻撃はまたしても受け止められた。だが、今回はそれだけではなかった。奴はこちらに向かって蹴りを放ってきたのだ。腹部に直撃を食らい、吹き飛ばされた。


 自然と苦悶の声が漏れ出てしまう。


「もっと本気を出したらどうだ? 麻木涼平」


「うるせぇ!」


 俺はすぐさま立ち上がり、間合いを詰め込む。そしてナイフを振り下ろす。


 だが、これも簡単に避けられてしまう。ならばとナイフを逆手に持ち換え、渾身の右拳を顔面めがけて放つ。


「おいおい。それで攻撃のつもりか? 遅いったらありゃしねぇ!!」


 避けられてしまった。しかもそのせいでバランスが崩れてしまい、よろめいてしまう。そこに強烈なキックが飛んできた。俺は思わず後ろに倒れ込んでしまう。


「痛ぇな……クソが……」


「どうした? もう終わりか?」


「ほざきやがれ!」


 瞬時に立ち上がって笛吹へ切り込む。だがそれもまた容易く受け止められてしまった。そしてナイフによる斬撃が飛んでくる。こちらも全力で応戦するが、飛んできた刃を凌ぐだけ。どうしてこの男はここまで速いのか。ドラッグによる作用か、もしくは単純な俺達への恨みを戦闘エネルギーに変換しているのか。


 いずれにせよ、このままでは勝てそうにもない。どうにかして突破口を見出さなくては。


「おい、麻木ィ!」


「なんだ?」


「お前、本当に麻木光寿の息子かよ。父親と違って攻撃にぜんぜん気合いが乗ってねぇなあ! 笑えるぜ」


 挑発のつもりか。俺を煽って冷静さを失わせ、突っ込んできたところをひと思いに討ち取る策略だろう。まったく、どこまでも卑怯な男である。


「ああ、そうかよ。俺と父さんは違う……」


「ははは、そりゃ傑作だ! 少しは父親みてぇに楽しんでみるこったな! 何せ、これがお前の冥途の土産になっちまうんだからなぁ!」


 楽しむ――。


 ああ。そうか。忘れていた。喧嘩は本来、楽しむもの。生きるか死ぬかの状態にあって命のやり取りをする殺し合いが、俺はたまらなく好きだったのだ。親父、つまりは川崎の獅子がどうだったかは分からないが、少なくとも俺は喧嘩が好きだ。殺し合いが好きだ。


(そうか。思い出したぜ)


 逆手にあったナイフを順手に戻し、俺は思考を整え直す。どうやら本来の自分を見失っていたようである。俺は生来の喧嘩好きにして戦闘狂。


 その本性に回帰してみるとしよう。


「いくぞっ! 笛吹!」


 俺の少しばかりの変化を視認し、何かを悟ったのか。笛吹は大きく目を見開き、走って来た。まるで、俺と親父を同一視しているかのごとく。


「望むところだァァァァァァァーッ!」


 猛烈に加速した俺と笛吹。互いにナイフを携え、勢いのままぶつかり合う。刃と刃が激しく火花を散らす。目の前に相手に「どうやって勝つか」ではなく「どうやって殺すか」。俺は勿論のこと、あちらさんも負けるわけにはいかない。闘志が全身にみなぎっていた。


 ――キーン!


「くそっ、相変わらずしぶてぇ野郎だ……」


「やるようになったじゃねぇかァ! 麻木涼平!」


 笛吹は先ほどよりもテンションが高い。薬物を使用して傷の痛みを中和しただけでなく、精神を爆発的に高揚させたか。こんなシャブ中に負けてなるものか。己の心に是が非でも火をつけ、死に物狂いで刃を振るう。


 やがては鍔迫り合いに持ち込む。敵の刃が顔面の寸前まで接近する中、俺は奴に言った。言わずにはいられないことがあった。


「笛吹。テメェはただの負け犬だ」


「んだと!?」


「賢く立ち回ってるつもりかもしれねぇが、結局は自分のヘタレを他人様のせいにしてるだけだ! そんで、自分もまた誰かに利用されてることに気づいてねぇ! ダサくて惨めな負け犬なんだよ、テメェは!!」


「こ、この野郎ォォォォォォォォォォォォォォ」


 笛吹に火が付いた。怒り狂った彼は競り合う刃を押し返し、俺の胸を横一文字に切り裂く。斬撃を受けた焼かれるような痛みが体を襲う中、俺にもスイッチが入る。


(来たぜ……!)


 全身に力が湧き立つのを肌にて感じる。そうだ。これだ。この感覚だ。純粋で爆発的な戦闘欲求。戦いのみを快楽とし、相手を残忍に屠ることだけを是とする思考に脳全体が作り変えられる。


 言うまでも無く、俺の本能である。強烈な戦意は痛みによってしか生まれない。なればこそ、奴を怒らせてわざと斬られてやったのだ。


「うおおおおおおおおお!」


 本能のままに叫び、笛吹に襲いかかる。当然、奴からは神速の反撃が飛んでくるが、タガの外れた俺には通じない。軒並み躱してやる。


「クソが!」


 俺の動きが急に速くなり、挙げ句、己の攻撃が当たらなくなったことに笛吹は苛立っていた。いい気味だ。


 ――ザクッ。


 わずかな隙を突いて鮮やかなる速さでナイフを突き刺す。刹那、間欠泉の如く血が噴き出る。笛吹が苦悶の表情を浮かべた。


「ぎゃああッ!?」


 奴の左胸を刃が抉る。思ったよりも肉にめり込んでおり、笛吹の傷は深いようだ。


「おう。これで終わりじゃねぇぞ」


「何だとォ!?」


「心臓、抉り出してやるよ」


 刺さった得物の柄を握り、そのまま横向きに力を加える。刃を心臓にまで到達させて一気に勝負をつけようと考えたのだ。


 しかし、刃は動かない。骨が邪魔をしている。そこで俺にも隙が生まれてしまい、笛吹の右手に襲われ、ナイフで左胸付近を刺された。


「ちっ」


 舌打ちを放つや否や、俺は思考を切り換えてナイフを引き抜く。勝負どころは決してひとつじゃない。奴の命を奪うやり方はまだ他に沢山ある。


 この際だから、嬲り殺しにしてやろう。


「死ね」


「ぐううっ!? このガキがァァァ!」


 今度は腹にナイフを刺す。当然、奴からも反撃が飛んできて、俺も腹部を刺された。だが、そこで終わったりはしない。


 ――グシャッ。


 ナイフを握り、刃で時計回りに肉を抉った。噴き上がる鮮血で手元が真っ赤に染まる。笛吹は猛烈な痛みに襲われ、悲鳴を上げる。


「あぎゃァァッ!」


 すると、奴も俺と同じことをする。俺の腹に刺さったナイフをぐるりと回したのだ。今までに経験したことの無い痛みが腹部を焼き付けるが、俺は情けない声など上げない。上げてなるものか。


 俺はすぐさま反撃に転じる。


「殺す」


「うぐおおおッ」


 今度は首元を刺した。笛吹の左の首筋にナイフを突き立てる。顔を苦痛に歪ませた後、笛吹もまた俺の首を刃で刺そうと仕掛けてくる。


 だが、俺はそれを寸前で食い止める。


「刺さるかよ。馬鹿野郎が」


「うううッ!?」


「息の根、止めてやる! トドメだ! 笛吹!」


 刺さった刃を思いっきり抉り、文字通り奴の首を刎ねようとした俺。しかし、直前になって俺の手が止まる。どうしてだ。どうして、手が動かない。


「ちっ、出血かよ……」


 そう言えば、以前、人間は血を流しすぎたらまずいと聞いたことがある。残虐行為にかまけてすっかり忘れていたが、俺も俺で相当量の血を流していた。


 それによって両手に生じた刹那的な痺れのせいで、わずかに動きが止まってしまった俺。相手にとっては隙となり、バックステップによる後退を許してしまう。


 勝負を決めきれず、俺はそのまま片膝をついた。


「はあ……動けよ……動けってんだよ……!」


 思い通りにならない体がもどかしい。というか、口惜しい。あと少しで笛吹を殺せたというものを。こんな所で動けなくなってどうするのか。手足の痺れを気合いで打ち消そうと必死で抗った。だが、どうにか動きを持ち直した時には既に奴との間には距離が離れていた。


 一方で、笛吹も重傷だった。


「うぐあっ……ううっ……」


 溢れ出る血が地面に滴り落ちて一種の水たまりをつくり、大きく肩で息をしている。のろのろと後ろに引き下がるのがやっとの状態だ。


 両者とも戦闘不能の状況に陥った。ふと横に視線を移すと、芹沢が心配そうな顔をしてこちらを見ている。俺が負けるとでも思っているのか。


(んだよ……負けねぇっつうの……)


 その時、笛吹が動いていた。ふと俺が目を離していた間に、背広の内側から注射器を取り出して右の首筋に打ったのだ。


「くっ……くううっ……うああああっ……」


 あれが先ほども口に出していたエフェドリンという代物か。如何ほどの効果があるかは医学に疎い俺には未知数。されど、笛吹は立ち上がった。中の薬液を全て注ぎ終えると、よろめきながらも体勢を立て直す。しまった。みすみす回復の余裕を与えたか。


「こんな短けぇ間に2本も打ったんだ……俺は遅かれ早かれ死ぬだろうよ。だが、お前を道連れにして死ねるなら本望だ……一緒に地獄へ落ちようじゃねぇか。麻木涼平」


 全力で全身を鼓舞し、俺は気合いで辛くも立ち上がる。どんな時も意地だけは負けずにやって来た。死に物狂いで気を吐いた。


「うるせぇ。死ぬのはテメェだけだ。キチガイ野郎。俺は何が何でも生きて帰る。ここでテメェをブチ殺してな」


「強がってんじゃねぇぞ、ガキが。ふらつくほどに血を流してるじゃねぇか」


「その台詞、そのまんまそっちに返してやるよ」


「黙れ」


 笛吹は言った。


「麻木涼平……俺は命に代えてでもお前を地獄に連れて行く。そうでもしなきゃ、意味がねぇだろうがァ。世話になった藤島の親父を殺して、家入のクソに媚を売って“死人”にまでなった意味がよォ!」


 知ったことか。奴の因縁などどうでも良い。わざわざ耳を傾けてやる価値など有りはしない。俺は笛吹を殺す。必ずや、ここで命を絶ってやる。そしてここから生きて絢華の元へ帰る。


 それだけだ。


「笛吹、どんなにあがいたところでお前は俺に勝てねぇぜ」


「ああ?」


「テメェと俺じゃ、背負ってるものが違うんだよ」


 目の前の男が今までにどんな道を辿って来たのか。それは俺には分からないし、興味は無い。けれども戦う理由だけは譲れない。生きて帰ることを前提に戦うのと、予め死ぬことが分かった上で戦うのでは違うと思った。勝利への執念という点では前者の方が勝るだろう。正直なところ、負ける気がしなかった。


 俺もまた、奴と同様に物語がある。この日、この場所へ至るまでの過程だ。とても華々しいものではないが、そこで得たものだけは失いたくない。


 おかしいな。死ぬ覚悟を決めて、別れの手紙まで書いてきたはずなのに。やっぱり俺は未練がましい半端者だった。結局のところ、決意を固めきれていなかったか。


 しかし、それは同時に武器にもなる。今、この場においては確実にそう言える。生還への執着と執念、それだけが最後の砦だ。


「……必ず勝つ」


 そう呟き、俺は再び前へ進み出る。体力的にあまり長い時間は戦っていられないだろう。次の瞬間、全身全霊を懸け、突撃を敢行した。


 対する笛吹も突っ込んでくる。あちらもこの一戦をもって俺を仕留める気でいるようだ。またしても鍔迫り合いになった。


 そのまま力任せに押し込もうとしたが、相手もなかなかの力持ちであるらしい。膠着状態になったところで後ろへ飛び退く。すかさず懐に潜り込んだ。


「うおおおぉぉ!」


 全力で刺突を放つ。だが、躱された。


「!?」


 いや違う。これは誘い込まれたのだ。


(マ、マジか……!?)


 気づいた時にはもう遅い。目の前にはナイフを突き立てようとしている男の姿があった。咄嵯に身を屈め、奴の攻撃を避けることに成功する。


「くっ!」


 しかし完全に避けきることは叶わなかったらしく、頬から血が流れてきた。俺は間髪入れずに回し蹴りを叩き込む。


 ところがその攻撃すら受け止められてしまった。掴まれた足を引っ張られバランスを崩す。何とか体勢を立て直そうとするも、今度は腹に強い衝撃を受けてしまう。


 だが、俺は負けない。自由な右足で笛吹に蹴りを入れ、そのパワーを利用して起き上がる。しかし、笛吹も屈強だ。三度みたび、俺に襲いかかって来た。


「死ねやーッ、麻木!」


 笛吹の斬撃をナイフで受け止め、俺もまた反撃を放つ。


「うるああぁぁ!!」


 渾身の力で押し返した。さすがの笛吹もこれには耐えきれないだろうと思ったのだが、なんと奴は両足を軸にして衝撃を抑制し、再び向かってきたではないか。


「まだまだァ!こんなもんでは終わらねぇぜェ!!」


「ちっ、しぶとい野郎だぜ……」


 刃と刃がぶつかる。薄暗い場内を火花が照らす。


「どうしたァ、麻木ィ? そんな程度なのか?」


「黙れよ……テメェこそ息上がってんじゃねえのか? やっぱり人を見る目が無いんだな。そんなオツムだから家入に出し抜かれるんだよ」


「抜かせッ!!」


 何度も互いの身体を切りつけ合った。


「ぐぅ……クソッタレが……さっさと倒れろや……」


「麻木……お前だけは必ず地獄に連れて行く!」


 2人とも既に満身創痍の状態であり、立っているだけでもやっとだった。あと一撃でも食らったなら戦闘不能になるであろうことは目に見えていた。


「うおおおおおおお!!」


「うらあああああああ!!!」


 右肩を切られ、右胸を切られ、左頬を切られた。されど、こちらも負けてはいない。してやられた以上の刺突を笛吹に浴びせた。


 やがて左の瞼の上を切られ、鮮血で片方の視界が塞がる。それでも屈してなるものか。負けない。絶対に退かない。ただ、笛吹慶久をこの場で殺すために。


「負けるかよぉぉぉ!」


 俺は笛吹の額をざっくりと切った。


「うぐがああっ!」


 奴は完全に怯んだ。今がチャンス。この好機を逃す手などは無く、俺は笛吹の命を完全に絶つべく、ナイフを振り上げて渾身の攻撃を敢行した。


「くたばれぇぇぇ! 笛吹ぃぃぃ!」


 だが、俺の斬撃が笛吹に届くことは無かった。直前で手が止まる。いや、止まらざるを得なかった。


「ううっ……テ、テメェ……」


 なんと、笛吹が突き出したナイフが得物を持つ俺の右腕を貫いていたのだ。痛みのあまり、思わずナイフを落とす。刃は腕に突き刺さったまま抜けなかったため、笛吹もまた武器を喪失した。俺も慌てて腕の刃を引き抜く。


 しかしながら、部は奴にある。


「甘いんだよ! 麻木涼平!」


 ――ボガッ。


「ぐあっ」


 全力を込めた笛吹のパンチを顔面に貰った。勢いは絶大で、俺は片膝をつく。何という破壊力か。起死回生の奇策に打って出た奴の優位だ。


 しかし、負けてなるものか。どうにか体勢を保持し、痛みを堪え、懸命に構えを取る。そして、笛吹の顔面に出来得る限りの力で打撃を叩き込んだ。


 ――ドガッ。


「ぶはあっ!」


「負けるかよ……負けるわけにはいかねぇんだよっ!!」


 それから俺と笛吹は殴り合いにもつれ込んだ。前述の通り、互いに重傷を負っている。出血量も著しい。いつ死んでもおかしくはない、読んで字のごとくの大ケガである。冷静に考えれば立っていること自体が奇跡であろう。


 それでも、俺に退く気は無かった。ここで笛吹を倒して、必ずや生きて帰る。そして、愛する女の元へ戻るのだ。


 拳が奴の顔面を抉り、俺もまた拳によって顔面を抉られる。男の本能がむき出しになった熾烈な殴り合い。如何ほどの時間、それを続けたかは、分からない。時間の感覚も目的も次第に薄れてくる。ただこの男を殺したい。それだけが思考を支配していた。


「あああああああああっ」


 しかし、深手を負った体がいつまでも持つわけがない。俺と笛吹、同時に限界が訪れたようだ。もはや立ち上がることすら叶わない。地面に倒れ伏し、呼吸するだけで精一杯だった。だが、俺はまだ諦めていない。ここで死ぬ訳にはいかない。俺は生きる。


「ぜぇっ、はぁっ、はあっ……麻木ぃ……もう、終わりか?」


「ぜぇーっ、ぜぇーっ……はっ? 何言ってんだテメェ……」


「お前を殺さなきゃ、俺の復讐は終わらない……ここで死んでもらうぜ!」


 よろよろと立ち上がる笛吹。何という凄まじい耐久力か。ここまでやられてもなお、立ち上がる気力を維持しているとは。化け物じみた奴の姿を見て、俺は驚愕と感嘆に吞み込まれる。


 一体、どこまでの気力を残しているというのか。奴の身体を突き動かしているのは、俺と親父への怨念だ。まったく、面倒な男だ。


 俺も立ち上がった。


「……決着をつけようじゃねぇか。クズ野郎」


 その後も激しい攻防が続いた。


「おらあッ!! くたばれ麻木ぃィ!!」


「そんな攻撃が俺に効くかあああ!!」


 互いの体を傷つけ、抉り、潰しながら戦い続ける。そしてついに決着の時が来た。先に膝をついたのは俺の方だった。


「ハハッ! 勝負あったなァ! トドメだァァァーッ!」


 狂ったように笑いながら走り込んでくる笛吹。一方で俺は再び立ち上がるのが遅れた。笛吹に隙を与えてしまう。


「死ねやァァァァァーッ!!!」


 ここで俺に出来る反撃の術は、何か。必死で頭を回転させるも思いつかない。このままでは、やられる。防御、あるいは退避に徹するか。いや、それが出来るかは分からない。もう俺は俊敏に動くことすら難しい出血量なのだから。


 動けないし、抗えない。ここに立ちつくすしか出来ないことを悟り、俺の中で不吉な二文字が頭をよぎる。敗北。まさに、万事休すか。


(……いや、待てよ)


 ひとつ策が閃いた。ここから動けないというのなら、動かずに放てる技を繰り出せば良い。そんな一筋の光明のごとき術を俺には僅かながらに持っていた。


 ほうけん


 ここへ来る前、村雨組長から伝授された技だ。あれならばその場に直立不動の状態でも放てる。むしろ、その方が威力が増す。勿論、俺は素人同然なので、残虐魔王ほどの威力が出せるかは分からない。それでも何もしないよりはましだ。一打逆転をやってのけるには、それしかなかった。


 これに全てを懸ける。瞬時に気合いを入れた俺は、拳を握り固める。そして全力をもって突き出した。


「食らえええええええええっ!」


 ――グシャッ。


 何かが、潰れる音がした。俺の突き出した拳は向かってくる笛吹の腹に深くめり込んでいた。感触も確かにあった。


「ぐっ……ぐほおっ!?」


 低い呻き声を上げ、笛吹はその場に倒れ込む。決まったようだ。


(う、上手くいったのか……?)


 自分でもよく分からない。村雨組長の話では、弾丸と同じ威力を持つ技とのことで、熟練者が使えば一撃で相手の命を押し潰すほどの効果を持っているのだとか実際のところ、笛吹は倒れている。まだ息はあるが、致命傷にも等しきところまで体力を削り取ったことはすぐに分かる。口からは大量の血を噴き出し、大の字に宙を向いているではないか。


「げほっ……げほっ……俺の、負けのようだな……」


 いいや、そんなことはどうでも良い。今は技の成功だの失敗だのを気にしている時ではない。俺はすぐさま呼吸を整え直すと、近くにあった拳銃を手に取り、倒した敵の元へ向かった。


「……ああ。お前の負けだよ。笛吹」


「さ、さっさと殺せ。もうこの世に未練なんざ無い。結局、俺は勝てなかった。まさか、親子二代に渡って敗北を喫するなんてな。10年近くも復讐に身を捧げたってのに」


「知るかよ。テメェが選んだ道だろうが。まあ、んなことは俺には関係ねぇよ。せいぜいあの世で後悔しとけ」


 そう言うと、俺は拳銃の安全装置を解除する。自動式なのでガチャリとあからさまな音が出る。なかなか良い音だ。どうして先ほどはこれを使わなかったのだろう。持ち主のヒョンムル構成員が亡骸となり、手から放れてすぐそこに落ちていたというのに。


 きっと、それだけ笛吹との戦いで周囲が見えなくなってしまっていたのだろう。まったくもって俺の悪い癖だ。ともあれ勝てて良かった。


 トリガーに指をかけ、銃口を向ける。すると、笛吹がゆっくりと口を開く。この期に及んで命乞いかと思いきや、語られたのは意外な言葉だった。


「麻木涼平。お前は極道には向いてねぇぞォ」


「ああ? どういう意味だ」


「お前は父親に似て生粋の戦闘狂だ。今だって、わざわざ俺を倒す必要は無いのに喧嘩に興じやがった。俺が自滅すんのを待てばよいだけなのによ。そんな風じゃあ、いつか足元を掬われるぜ。この世界はそんなに甘くない。だからあの時、俺は言ったんだ。止めた方が良いって……」


「うるせぇよ」


 ――ズガァァァン!


 俺は引き金をひいた。


 ――ズガァァァァン! ズガァァァン!


 装填されていただけの弾丸を放ち、いずれも頭部に叩き込んでやる。まるであざ笑うかのような死に際の言葉。それを遮るように銃弾を浴びせ、俺は笛吹慶久の命を絶った。


「テメェごときに心配されるまでもねぇさ。俺は俺の道を行く。誰が相手だろうとぶっ殺してやるよ」


 空になった銃身を投げつけ、啖呵を切った。それは本当の意味で“死人”になった笛吹に対してのみならず、これより待ち構える俺自身の運命に向けて放つ言葉でもあったと思う。


 長い戦いが、ようやく終わった。だが、本番はこれらだ。そんな複雑な思いに浸りながら、ぼんやりとその場に佇んでいた。


 そこへ、背後から近寄ってくる者があった。芹沢だ。


「ケジメをつけたな。見事なもんだったぞ。涼平」


 舎弟頭は俺の戦いぶりを褒め称え、少し見ぬうちに腕と度胸を上げたものだと賛辞を贈ってきた。こうしてまともに話すのは3ヵ月ぶりだ。講評はいい。他にも芹沢には尋ねたいことがあった。


 俺は、率直に質問を投げてみた。


「あんた、どうやってここへ来たんだ? あの時、俺を追いかけて入った東京で警察サツにパクられたって聞いたけど? ニュースでもやってたぜ」


「心配かけたようだな。まずは謝らせてくれ。あの時は本当に申し訳なかった。必ずお嬢の元へ連れてってやるって言っときながら、里中の罠に嵌まっちまった……でも、運良く釈放された。この埋め合わせは必ずするからよ」


「あ、ああ。けど、どんな手を使ってブタ箱を出たんだ? 東京の警察に村雨組の賄賂は通じねぇはずだろ?」


 芹沢の逮捕は元村雨組若頭代行、里中さとなか研一けんいちによって仕組まれたもの。舎弟頭が銃器を所持したまま東京へ足を踏み入れる旨を警視庁の管轄署にタレ込み、警戒を張らせて逮捕させたのだ。


 東京は中川会の縄張り。ゆえに村雨組、ひいては煌王会の力では芹沢を助けることができず、今後の司法判断を待つしかないという話だった。組長も金銭での解決を諦め、弁護士のシキシマと打ち合わせを始めていたような。それを如何なるトリックをもって救い出したというのか。


 その問いに対し、芹沢が口にした答えは予想外のものだった。


「中川会だよ。中川会が俺をブタ箱から出すよう、東京地検の上層部とナシをつけてくれたんだ」


「えっ? 中川会? どうして……?」


「詳しいことは俺にも分からん。けど、俺をこの場所まで運んできた人間によれば『一種の捕虜交換』だと言っていた。中川会で捕らえてた里中の身柄ガラを地検に渡すのを条件に、俺を釈放させたらしい」


 すなわち、単なる賄賂とは違った裏工作。いわゆる司法取引というやつだ。そんなことができるのかと俺は驚いたが、聞くところによるとこれは日本の裏社会においてごくごく普通に横行している話らしい。中川会は警視庁および東京地検の主導者側と浅からぬパイプを築いており、芹沢はその恩恵にあずかったというわけだ。


 しかし、ここでひとつ疑問が生じる。東西で睨み合う煌王会傘下の人間である芹沢をどうして、中川が助ける必要があるのか。その利点メリットは何なのか。


「正直なところ、俺も何が何だか分かってねぇんだ。昨日、いきなり房を出されて中川の本部に引き渡されてよ。『お前の組の麻木涼平ってやつの助っ人に行って来い』って言われて、よく分からんままここに来させられた。そしたら、お前が笛吹たちと戦ってたもんだからよ……」


「なあ、あんたをここに連れて来たのは中川会の人間だよな? それって誰だ?」


「山崎とかいう男だ。直参、本庄組若頭の」


「マジかよ。山崎さんが」


 確かに本庄とは山崎若頭をここに派遣することで合意が成っていた。しかし、まさか村雨組の芹沢を連れて来ようとは驚きだ。俺の反応を見て、芹沢は首を傾げながら「知り合いか?」と尋ねてくる。


「ああ。五反田に隠れてる時には世話んなった」


 現在、山崎率いる本庄組の軍勢は手筈通り工場の外で待機しているという。やはり有能な集団である。帰り際、軽く挨拶しておくとするか。


「……そうか。あの時は苦労をかけたな。俺の力不足が招いたことだ。お前ばかりか、組長にもとんだとばっちりを与えてしまった」


「いいや。俺のことはいんだよ。元々、俺が里中を襲っちまったのがいけなかったんだし」


 麻木涼平の現状については、芹沢は全て聞き及んでいるという。自分と離れ離れになった後、東京にて本庄組の居候になっていたこと。横浜へ帰った後、横浜大鷲会と抗争状態に突入したこと。村雨組の直系昇格が決まった矢先、煌王会でクーデターが発生したこと。そしてすべてにケリをつけるべく、俺と村雨耀介は一世一代の大勝負に出たこと――。


 いずれも芹沢が獄に囚われている最中に起こった出来事だ。彼は己の不在を心から嘆いていた。組の緊急事態を前に組長の側に居られなかった事実を心から悔やんでいた。


 彼が3ヵ月も不在を余儀なくされた原因を作ったのは俺なので、少しばつの悪い気分にさせられた。ただ、生じてしまった空白期間を憂いて涙まで流す芹沢の姿からは、ヤクザとしてあるべき姿を学ばされたような気がした。


 流石は村雨耀介の絶対的な側近にして忠臣で、街中では“鬼の芹沢”と呼ばれた男だけのことはある。俺は彼への尊敬の度合いが一段階高まってゆくのを感じた。


「今、組長は名古屋に行ってるよ。煌王会を乗っ取ろうとした坊門っていうクソ野郎をぶっ倒しに。きっと上手くいったはずだぜ」


「ああ。聞いている。あのお方のことだ。きっと勝ち戦になったことだろう。昔から、喧嘩じゃ負け知らずだったからな」


「そういやあ、あんたと組長は長い付き合いだったよな。若頭も含めて。後で昔話でも聞かせてくれよ。あの人がガキの頃どんなだったか、気になるぜ」


「おう。話せば長くなるがな」


 ちょうど、その時だった。


 不意に視界が揺らいだ。目で見ている景色全体がぐるぐると回転するような感覚。何だ、これは。とても立っていられないではないか。


「ううっ……」


「おいっ、涼平! どうした!?」


「……」


 俺はそのまま地面にうつ伏せで倒れた。何が起きたのかは、数秒遅れで理解した。なるほど。血を流し過ぎたことによるノックダウンか。戦っている時はテンションとアドレナリンで誤魔化していたものの、ついに臨界地点を迎えてしまったようだ。


「……」


「おい、しっかりしろ! 涼平! 涼平ッ!!!」


 まともに言葉を発することができないまま、俺の意識は生温かい闇の中へと落ちてゆく。ああ、もはやこれまでか。けど、不思議と後悔は無い。本懐を遂げ、守るべきものを守れたのだ。悔いなどはあるわけがなかった。


(絢華の帰る場所を……守れたんだ……)


 目覚めたのはベッドの上だった。消毒液の臭いが充満する、真っ白で無機質な空間の中、ぽつんと置かれた寝台。俺はそこに寝転がされていた。


「あっ、ここは開科研……痛ててッ!」


 起き上がろうとすると全身が痛みに襲われる。どうやら俺は落命する寸前のところで病院に担ぎ込まれ、どうにかこの世に留まれたようだ。


 ああ。俺は生きている。それがたまらず嬉しかった。命を繋いだことはもちろん、愛する女の元へ戻れる。それが俺にとっては一番の喜びだったかもしれない。


 医師によると、俺は5日ぶりの覚醒とのこと。出血や負傷の深刻さに加えて極度の疲労も重なり、通常の人間であれば生きている方がおかしい状態だったという。「長生きしたければ無茶な戦い方は止めた方が良い」と、担当の医師には軽い苦言を呈されてしまった。


 翌日、病室に村雨がやってきた。包帯やガーゼで全身を覆われ、見るも痛々しい姿になった俺に、組長はため息をついた。


「まったく。心配をかけさせおって」


「ああ、悪いな。起き上がれなくて。しばらくは寝たきりだって医者に言われたよ。だいぶ血を流しすぎたみたいだって。でも、トウセキ? それはしなくて済むって話だよ。よく分かんねぇけど」


「透析を受けずとも生きてゆける体でいられたのは、輸血が間に合うたゆえぞ。あと少しで絢華の二の舞になるところだったのだ。手早く医者を呼んでくれた芹沢に礼を申しておけ」


「う、うん……」


 村雨曰く、本庄組の山崎も俺に応急処置を施してくれた模様。確かにあの時は本当にまずいと思った。どうにか助けてくれた2人は感謝してもしきれない。


「なあ、ところでだけど。名古屋の件はどうなったんだ? 上手く片付いたのか?」


「うむ。万事、上手く運んだぞ」


 10月3日、勢都子夫人の下知を受けた村雨率いる鎮圧部隊が名古屋の煌王会本部を急襲。立てこもってい坊門らクーデター派と全面衝突した。


 結果は、士気と練度、それから数に勝る鎮圧部隊の圧勝。元よりクーデター派は混成部隊であり、坊門組の壊滅と庭野組と三代目桜琳一家の離反も相まって大きく数を減らしていたことも相まって、あっという間に決着がついてしまった。村雨らは同日深夜には総本部の支配権を回復し、坊門清史による一連の謀反は無事に討伐されたという。


「なるほど。一件落着ってわけか……それで、坊門たちはどうなったんだ? 落とし前はつけられたのか?」


「当然である」


 クーデタ―の首謀者たる坊門は、当初、攻め込んできた鎮圧部隊と自ら銃を取って戦うも、やがて劣勢を挽回できないと知るや否や逃亡。煌王会会長の証である玉印を持ち去り、行方をくらましてしまう。


 ただ、村雨たちの総力を挙げた捜索の前には非力なことで、翌々日に隣町の雑居ビルに隠れているところを発見、拘束される。


「坊門は愚かな男だ。あれは『申し訳ありませんでした』と頭を下げ、持ち去っていた玉印の返上と引き換えに自らの助命を求めてきおった。見苦しいことよ」


「でも、その要求は通らなかった?」


「ああ。拷問の上、中川に引き渡してやったわ。本利であれば煌王会で沙汰を決するべきところであるが、事前の取り決めがあるゆえ。止むを得なかった」


 坊門は煌王会における大罪人であると同時に、中川会側から見ても討つべき敵。先方の中川恒元会長の名を汚しただけでなく、謀反の方便として勝手に用い、あまつさえ宣戦布告の一歩手前まで進めたのだ。実際に戦火を交える意図が無かったとはいえ、中川会からすれば断じて許しがたい暴挙だ。


 東京へ身柄を引き渡されたという坊門が、これからどんな目に遭わされるか。それは言わずとも想像がつくだろう。目先の欲に狂った謀反人の哀れな末路、自業自得である。


「そうか……あ、そういえば、クーデターを起こした連中の中には古牧組長もいたな。あんたが昔、世話になったっていう。その人も殺されちまったのか?」


 問いかけに、村雨は大きく首を横に振った。


「ご自害なされた。自らの命を代償に、己についてきた郎党どもの助命を嘆願する書き置きを残してな。根っからの武人、古牧巌らしい死に様であった」


「そ、そっか……」


「仕方あるまい。謀反に加担し、六代目に引き金をひいた時点で、既にあの者の命運は尽きておったのだ。だが、せめて男らしゅう死に花を裂かせることができた。それだけでも良いではないか。のぅ?」


 俺は頷くしかなかった。古牧巌という人物に対して、俺は会ったことも無ければ顔を見たことも無い。しかしながら、村雨の話を聞いている限りでは、昔気質で皆に慕われる気のいい親分のような気がしてならなかった。今回の謀反も、不遇に喘ぐ古牧組の子分たちを救済するために加わったことと聞いていた。そのような境遇の者が、今回のクーデタ―騒動、“坊門の乱”ではごまんといるであろう。


 今となっては、出来ることは無い。それでも俺は村雨の話に深く耳を傾け、散っていった者たちへ心の中で冥福を祈っていた。


「でも、あんたの戦いが上手くいって良かったよ。確か、ご褒美は直系昇格だったよな? 今回の手柄で大出世できるんだよな?」


「左様。待ちに待った貸元の座が、ようやく手に入る。横浜だけではない。此度、我々は伊豆と豊橋をも手に入れることと相成った」


「マジか!? シマが増えんのか?」


「ああ」


 村雨はしみじみと語った。組織の実権を取り戻した勢都子夫人の采配によって、今回のクーデター派に属した直系組長たちは全員が破門処分を下された。その中には、村雨組の上位組織に当たる四代目斯波一家も含まれている。会長代行に就いた勢都子夫人は斯波を解散させ、その兵と所領を丸ごと引き継がせることで、村雨組を直系昇格させる、そういう意図であった。


 なお、長島会長の意識は未だ戻っていない。ゆえに当面は勢都子夫人が指揮を執ってゆくことになるだろうが、欄が集結したばかりで組織は依然として混沌状態。自らが幹部として体制を強力に支えるつもりだと村雨は語った。


「すげぇな……組が一気にデカくなるのか」


「ああ。これからはさらに忙しくなるぞ。横浜に加えて伊豆半島軒並みと豊橋まで賜ったゆえ」


「あれ? 豊橋も貰えたってことは、家入の野郎も組を潰されたのか?」


「あの者は謀反に加担した上、中国人と結託し六代目の資産を奪ったのだ。破門以外、有り得ぬであろう。尤も、当の家入は行方知れずだがな」


 鎮圧部隊が名古屋に入った段階で、既に逃亡していたという家入。自領の豊橋にも姿は無く、家入組ごと忽然と姿を消してしまったとの話に、俺は耳を疑った。


「ええっ? そんな、神隠しじゃあるまいし……」


「私が思うに、奴はおそらく中国だ」


「向こうに高跳びしちまったってことか?」


「そうではない。狗魔に捕らえられたのだ」


 金塊の件で都合よく利用された挙句、日本支部の総責任者である張覇龍が殺されてしまったのだ。当然、中国本土の狗魔が黙って見ているはずも無く、一連の報復として家入は中国へ連れ去られた、あるいは処刑された可能性が高いと村雨は語る。身から出た錆というか、間抜けで哀れな顛末を思わざるを得なかった。


「家入の野郎。今ごろ、中国でひでぇ目に遭わされてるんだろうなあ。泣きっ面が想像できるぜ……」


「死体が上がっておらぬ以上、我らとしても当面は捜索を続けよう。奴はこの村雨耀介をコケにしたのだ。代償は払って貰わねばなるまい」


「ああ。そうだよな」


 煌王会の手を逃れて中国に捕らえられても、日本に留まって村雨組の手に落ちても、これから奴を待ち受けているのは地獄以外の何物でもない。今まであの老人には散々翻弄され、泡を吹かされてきたのだ。せいせいするというか、いい気味だと言ってやりたくなる心地であった。


「ともあれ、此度はお前のおかげで存分に戦えた。お前が横浜に係る敵を軒並み引きつけてくれたゆえ、我らは背後を気にせず戦えたのだ。恩に着るぞ」


「ううん。俺は何も。当然のことをしただけだぜ」


「主君、いや、“父”として誇りに思うぞ。此度は大儀であった。お前にも何らかの褒美を取らせねばな。暫し、ゆるりと身体を休めよ。いずれまた参る」


 これから“息子”になる俺のことを褒めちぎり、上機嫌に去ってゆく村雨。そのの背中を見送り、俺は改めて自分の成したことの大きさに感涙した。これもまた、俺が生まれてきた意味なのだろう。


 この世に生まれてきて良かった。今なら、心からそう思える。死闘の中の死闘から帰還し、俺はここへ戻ってくることができた。よって俺は村雨組長と絢華の側に、今後ともいられる。それが無上に嬉しく、喜ばしく、微笑ましく、涙で枕が濡れた。


 以降、俺はおよそ2ヵ月の入院生活を強いられた。全身の切り傷に加えて刺し傷、右腕に至っては骨が削れていたのだ。そう簡単に治るものではなく、退院後も暫しは後遺症に悩まされる可能性が高いという。


 だが、それでも苦ではない。アメリカでの手術を終えていよいよ日本へ戻ってくる絢華と再会できる日を思えば、包帯グルグル巻きのミイラ男のような姿で過ごさざるを得ない生活も何とも感じない。ただただ、この上なく幸せだったと思う。


 しかし、一方で少しの不安材料も頭の中にあった。それは村雨組内に、木幡和也に代わる、笛吹の第二の内通者が存在したという事実だ。


 笛吹は俺が立てた策を予め知っていた。それは今回の作戦を知る者からの密告なくして成り立たぬ展開だ。おそらくはスギハラ、あの男が情報を流したのだ。


 また、中川会の動きもどこか気になる。自分たちにとっては利点が乏しいというのに、我らが芹沢舎弟頭を釈放させた真意。これがどうにも理解できなかった。


(新たな火種の匂いがする……)


 戦などに発展しないに越したことは無い。だが、起こり得ないと考えられていた線にいとも容易く分岐してしまうのが任侠渡世の常。今回もきっと何かある。


 まあ、仮にそうなったところで、きっと大丈夫だろう。自分は村雨耀介と共にあるのだ。これからも彼の側で、この世界を生き抜いていけば良い。それこそが俺に示された唯一の生きる道。村雨組だけが、俺の唯一の居場所。ずっと一緒に生きていくのだから。


 この時は、確かにそう思っていた。



笛吹慶久との10年以上に及ぶ因縁にケリを着けた涼平。彼が進む明日は栄光か、あるいは破滅か?


次回、ついに未来を掴む……!?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ