合格の理由
部屋の中に、ひとり残された俺。
(やっちまった……)
ところが、後味の悪さは不思議と感じない。女の子に嫌な思いをさせ、心を痛めてしまった時に覚える、あの独特の“苦み”に似た感覚は全く無い。そればかりか、絢華は去り際に笑顔を浮かべていた。涙にまみれた表情の中に、ほんの少しだけ見えたのである。
(たしか、ありがとうって……)
そんな事を考えていると、ドアが開いた。
「入りますよ」
「ええっと、あんたは……」
やって来たのは、先ほど「殺します!!」と俺に迫った中年女であった。しかし、肝心の名前が思い出せない。絢華との会話の中で、自然と頭の中から消えてしまったのだろう。俺は、必死で記憶を辿る。
(アキヤマでもないし……タケモトでもないし……)
あと少しの所で思い出せない。いっそのこと、「殺しますおばさん」とでも、呼んでやろうか。そんな程度の低いジョークが頭をよぎった瞬間、中年女はため息と共に静かに正解を告げた。
「……秋元です」
思わず、目を丸くした。
「あ、ああ! 秋元さん、ね!」
俺の脳内を見透かしたのか。秋元と名乗った女は、呆れたように薄ら笑いを浮かべた。
「私の名前を忘れていたのでしょう? まあ、最近の子はファミコン脳で記憶力がありませんからね。無理もないかしら」
小馬鹿にするような物言いには若干、腹が立った。だが、これで彼女を「殺しますおばさん」と呼ばずに済む。妙なあだ名を使う必要が無くなった上、敢えてこちらから名前を聞いてやる手間が省けたのだ。良しとしてやろうではないか。
「なあ、どうして分かったんだ? 俺があんたの名前を忘れてるって」
「目を見れば分かりますよ。あなたはつくづく、顔に出やすい」
「そりゃ、結構なこったな……」
昔から、この手の言い方をされるのが苦手だ。やんわりと皮肉を交えて返事をした俺。すると、秋元から返ってきたのは思いもよらぬ言葉であった。
「合格です」
意味が分からず、聞き返してしまう。
「は?」
その時の俺の目は、見るからに怪訝なものだったと思う。しかし全く気にすることなく、秋元は話を切り出す。
「あなたをお嬢様の側においても、問題ないということです。言葉遣いと振る舞いには、多少の難がありますけどね。では早速……」
「おいおい、ちょっと待てよ」
「何です?」
俺は秋元にまっすぐ、問うた。
「さっきのお嬢さんとのやり取り、聞いてたのか?」
「はい。聞いていましたよ。その上で、合格です」
「マジかよ……」
思えば、かなりキツい当たり方をしてしまった。相手の胸倉を掴んで怒声を浴びせるという行為は、これから“召し使い”になる人間に相応しい振る舞いではない。それらを考慮した上で合格というのが、ほとほと信じられなかった。
「信じられませんか」
「ああ。あんたがさっきの会話、聞いてたって言うならな」
秋元は言った。
「あなたを合格にした理由は1つ。絢華お嬢様に、ああやって強くモノを言えたからです。今まで、何人も家庭教師やらヘルパーやらを雇いました。でも、皆どうしてもお嬢様への遠慮がありましてね。組長の威光もあるのでしょう。お嬢様が強きに出れば、大抵の人間は臆して話も出来なくなってしまうのですよ。もちろん組の人間も」
「それで、強くモノが言えた俺を合格にしたってわけか?」
「はい。お部屋を出てきたお嬢様は、どこかスッキリとしたお顔をされていましたからね。御父上の名前を振りかざしても怯まない、対等な目線で向き合ってくれる存在と久々に出会えたからでしょうか」
「……なるほどな」
実際の所、俺が絢華に「言いつけたければ言いつけろ」と応じたのは、気持ちが投げやりになっていたからだ。村雨と関わった時点で、いつ死んでも良いと思っていた。だからこそ、あのように危険な大口を叩いたのである。
それがまさか、評価されるとは――。
意外な結果に拍子抜けする間もなく、秋元は俺に指示を飛ばして来た。
「とりあえず、これに着替えなさい。その服装では、まともな仕事になりませんからね」
秋元が俺に差し出したのは、スラックスと白いシャツに黒の革靴。どれもサイズがピッタリだった。
「……ここで着替えるのか?」
「ええ。これは、あなたが何か怪しいものを隠し持っていないかを調べる『身体検査』でもありますから。さあ、つべこべ言わずに着替えなさい!」
促されたので、やむなく服を脱ぎ始める。本来であれば着替える間だけでも、部屋を出て行ってもらいたかったが、そうもいかないようだ。履いてきたデニムを脱ぎ、脚を晒した俺に秋元が言った。
「刺青はまだ、入れていないのですね」
「ああ。昨日、スカウトされたばかりだからな。それまでは自分がヤクザになるなんて、考えもしなかった」
「そうですか。でも、出来るだけ入れないに限りますかね。決して良いものではないですよ。あれは……」
秋元は何か言いたげだったが、それ以上は口をつぐんだ。
「ん?」
「いえ、何でもありません。ほら、手を止めないで!」
少しの恥ずかしさを覚えながらも、着替え終わった俺。いざ、これからお世話係としての仕事が始まらんとするところだが、1つだけ気になる事があった。
「なあ、秋元さんよ。さっき『合格』って言ったよな? もしも『不合格』だったら、どうするつもりだったんだ?」
「殺してました」
「またかよ……」
「正確に言えば、私ではなく村雨組長ですが」
苦笑いしながら、俺は問うた。
「ずっと気になってたんだけどさ。その、組長さんって、そんなに怖い人なの? たしかに雰囲気とかは、見るからに大物って感じがしたけど」
「ええ。怖いというよりかは、凄い方ですね。今年で30歳になられますが、あの若さで軍隊のような組織を率いておられます。年功序列が基本の極道社会においては、非常に珍しい事だと思いますね」
そう言われても、いまいち凄さが伝わってこなかった。
高坂が怯えていたように、敵対者を酷いやり方で殺したり、カタギの人間をも平気で手にかける残虐さを持っているという事なのだろうか。最も、その現場に遭遇していないので断言はできかねるが。
「言っておきますが、この横浜に『村雨耀介』の名前を知らない人間はいませんからね」
秋元はそう語ったが、高坂のトラブルに巻き込まれるまで俺は知らなかった。
そもそも、当時はニュースや新聞の類を全く見ていなかった。ゆえに暴力団関連の情報などは全く頭に無かったし、知らない。だからこそ「お父様に言いつける」などという脅され方をしても、通用しなかっただろう。
バカとハサミは使いようとは、よく言ったものだ。
「……まあ、やばい人なんだな」
「そうですよ。あと、さっきも言いましたけど。その口の利き方は止めなさい。ここでで働く以上は、ちゃんとした敬語を使うこと。いいわね?」
「はいはい。分かったよ」
「やり直し。『分かりました、秋元さん』と言いなさい」
まるで、口うるさい中学教師のごとく振る舞う秋元。
「分かりました、秋元、さん」
「よろしい。改めて自己紹介をさせてもらいますが、私は秋元絹江。この家の召し使いの監督を任されております……と言っても今は色々と事情があって、私しかおりませんけど」
少し古風な喋り方をするが、思ったよりも頼りがいのある女性のようだ。最初の印象こそ高圧的で、堅い女だと思ったが、こちらが礼をわきまえて接すれば丁寧にあれこれ教えてくれそうだ。
「よ、よろしくおねがいします。秋元さん」
「素直でよろしい。それじゃあ早速、始めましょうか。まずは、洗濯物の畳み方から。一緒にお嬢様の身の周りの事も教えるから、しっかりと覚えておくこと」
「分かりました」
敬語に慣れるまでには時間がかかりそうだが、とにかく教えられた事をしっかりと頭に叩き込み、1つずつ着実に覚えねばならない。
木漏れ日が差し込んだ村雨邸。俺の新しい生活が、始まろうとしていた。