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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第8章 餞別
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凄まじき戦い

 芹沢の蹴りが飛ぶ。即座に両腕をクロスさせて受け止めた張だが、その運動エネルギーは鎮めきれずに背後へ吹っ飛んでしまう。猛牛の突進のような一撃であった。


「ぐううっ! 貴様、素人ではないな」


「どうだい? 日本の空手は。松濤館空手黒帯の実力を侮ってもらっちゃ困るぜ!!」


 お次は左右の正拳を連続して浴びせ、勢いに任せた猛攻を仕掛ける芹沢。張がバランスを崩した所で好機とばかりに跳躍し、空中で一回転した後に踵落としを決める。


「オラァァァーッ!」


 雄叫びが工場内にこだまする。芹沢の渾身の一撃は相手の肉をとらえ、続いて快音が響き渡る。張の左肩に命中したようである。


(な、なんて力だ……)


 食らった衝撃があまりにも大きかったせいか。たった一撃で張の肩関節は外れてしまった模様。古武術の有段者ということは以前から知っていたが、まさかこれほどまでに芹沢が猛者であるとは思わなかった。俺は感嘆せずにはいられない。見ているだけで、その戦いぶりに心を奪われてしまいそうだ。


「何をよそ見をしてるんだ!」


 おっと。いけない。俺は俺で戦いを抱えていたことをすっかり忘れていた。絡みついていた男をようやく振り払うと、俺は次々に襲ってくるヒョンムルの兵たちを相手に応戦する。


 その間にも、張と芹沢の対峙は続いていた。


「……」


 脱臼で痛んでいるであろう左肩を押さえながら、張は目の前の男を睨みつける。まさか己が日本人を相手に不覚を取るとは考えもしなかったはずだ。奴の瞳には驚きと同時に、怒りの色も滲んでいた。


「……俺に一撃を浴びせる日本人がいるとはな。この国もまだまだ奥が深い。少々、見くびっていたようだ」


 そう気を吐くと、張は担いでいた体をゆっくりと側に降ろす。笛吹慶久。俺が繰り出した奇襲攻撃で怯み、事実上の戦闘不能状態に追い込まれていた。


「ちょ、張さん……こいつは……村雨組の芹沢か……?」


「誰であろうと構いはしない。全力で潰すだけだ。すまんが、笛吹さん。しばらく待ってくれ。こいつでも打って痛みを凌いでな」


「エ、エフェドリン……? へへっ、助かるぜ……!」


 張に何やら太い注射器のような筒を渡され、笛吹は這い這いの体で近くに身を潜める。あれは何だろう。痛みを中和する薬剤らしいが、見たことも聞いたこともない代物だ。合法的な製品ではないとひと目でわかる。


 俺は笛吹を追いかけようとするが、またしてもヒョンムルに阻まれてしまう。本当にしつこい奴らだ。利害関係の一致ゆえに笛吹と手を組んでいるのだろうが、これではまるであの男の私兵ではないか。


「麻木涼平! 同胞たちの恨み! 必ず仕留める!」


「ったく、いい加減にしてくれよ。韓国語でペラペラ喋られても分かんねーっつうの。けど、何を言ってるかは大体察しがつくぜ? あれだろ? 要するに、俺の父さんのことが憎いんだろ?」


「息の根を止めてやるぞー! 麻木涼平!!」


「おうおう。勇ましいねぇ。まったくぅ……」


 銃火器の弾薬は尽きたのか。韓国人たちの得物はアーミーナイフや朝鮮刀、金属バット、鉄パイプなどの近接武器が中心になってきた。こちらとしては、やり方はいつもと何ら変わらない。相手の攻撃を見切り、隙を突いて武器を奪い、返り討ちにするだけだ。


「くたばれぇぇぇ!」


「悪いな。そんな攻撃、当たらねぇんだよ」


 ――ドガッ。


 ひとり、またひとりと倒していき、ガスマスク集団もだいぶ数が減ってくる。途中から怖気づいて腰が引けていた中国マフィアと違い、ヒョンムルは情勢が不利になっても戦意が高止まりしている。敵ながらにそこは見事なものだ。仲間がやられても、その怒りと悲しみをエネルギーに換えて猛反撃してくる。すべては麻木光寿へのルサンチマンがそうさせているのだろうか。


 けれども、俺には効果の無いこと。1人1人、確実かつ大胆に息の根を止めさせてもらう。こちらとしても負けるわけにはいかないのだ。


(さっさと片付けさせてもらうぜ……)


 ぶんどったマチェットを手に、一閃。鋭い音が空を切った刹那、俺は瞬く間に2人の首筋を切り裂いた。血飛沫が飛び散り、そいつは力なく倒れる。


「……残り3人か」


 そう呟くと、前方からまたもや2人の男影が突進してきた。なるほど。今度は左右からの挟み撃ちとは。しかし、その程度の攻撃など俺には通用しない。


 片方の攻撃をかわしつつ、もう片方の奴にも反撃を加える。


 ――ブシャアァァ!


 するとそいつもすぐに血を噴き出し、倒れ込んだ。残るはあと1人だけか。しかし、姿が見えない。どこへ行ったのか。


(そうか。俺の……)


 背後に気配を感じる。一か八かの賭けで後ろに回り込み、奇襲を仕掛ける策に出たのか。野生の勘で、その男が持っている得物はナイフだと分かる。


「終わりだッ!」


 男は勢いよく突き刺してくる。それを間一髪かわすと、俺は男の腹めがけてカウンターの刃を突き出した。肉が抉れる音がして、男がその場に崩れ落ちる。これで最後だ。


(終わったのか……?)


 辺りを見渡せば、敵の死体が転がっている。少しやり過ぎたかもしれない。これではまるで虐殺ではないか。


 あまりにも一方的な展開だった。相手が本職のヤクザすらも手を焼く在日コリアン系暗殺集団、ヒョンムルであることをすっかり忘れていた。忘れてしまうほどに、俺はその場において無双状態にあったのだろう。


 死体を見てみると、皆一様にガスマスクを装着している。名前どころか、素顔も分からない連中ばかりだ。今となってはどうでも良いが、こんな薄気味悪い奴らを相手に喧嘩をしていたとは。何だか笑えてきてしまう。撃退できた自分に拍手を捧げたい。


 過去に親父と何があろうが、親父にどんな罪があろうが、俺にとっては全く関わりの無いこと。俺はただ、目の前にいる敵を叩き潰すだけだ。


 これまでも。そして、これからも。


 血にまみれた決意を今一度固め直し、俺は芹沢たちの方に視線を移す。そこでは一進一退、互いに手に汗握る攻防が続いていた。


「なかなかやるねぇ! 張さんよぉ! さっきのエルボー、ありゃあ相当な鍛え方をしてないと出せない技だろ?」


「八極拳だ。日本の空手などよりも強烈だぞ」


「ほう。カンフーか。面白くなってきやがったぜ!」


 八極拳なる大陸伝統の古武術を操る張覇龍と、空手を極めた芹沢暁。徒手空拳同士での戦いで互いに燃えているのか、双方とも銃を使うことを忘れ、純粋な技の出し合いに終始していた。物凄い迫力だ。


(こりゃあヤバいな……)


 俺なんかが手を出す隙も余裕も無いほどの殴り合い。芹沢が繰り出す打撃を張が肘で受け止め、返しの技を放って間合いを開かせる。洗練された2人の挙動は、さながら美しい演武のようでもあった。


 そもそも、芹沢はどうしてここにいるのか。


 3ヵ月前、里中と斯波一家の奸計に嵌まり、東京で逮捕されたのではなかったか。獄に繋がれた人間がどのようにして出獄の機会を得るのかは知らないが、何らかの特別な理由があったものと思われる。


 出来るなら、今すぐにでも詳しい経緯を問うてみたい。けれども芹沢は戦いの真っ最中。ここで下手に話しかけようものなら、その殺気に俺が呑まれてしまいそうだ。


 すると、そんな時。ちょうど運良く戦いに空白が生じた時、芹沢が不意に俺に対して話しかけてきたではないか。


「よう、涼平。久しぶりだな」


 初夏以来の再会である。少し緊張しつつも、俺はそれに反応した。


「あ、ああ。久しぶり」


「あの時はお前を守ってやれなくてすまなかった。里中の野郎が仕掛けたトラップに気づかなかったばっかりに、とんだ無駄足を踏む羽目になっちまった」


「お、俺は別に。それよりもあんた、どうしてここに来てくれたんだ? 警察サツにパクられちまったって聞いてたが……?」


「ちょっと、色々あってな。ブタ箱から出して貰えたんだわ。まあ、その話は後でゆっくり、だな」


 答えを知るのはお預けになりそうだ。


 偶然の連鎖で開いた間合いを保ちつつ、芹沢と張は互いに睨み合う。ふとこちらに視線をやった後、張は嘲るように言い放った。


「まだまだ本気を出していないようだな、日本人!」


 片や、芹沢も余裕の笑みで応じる。


「そいつはお互い様じゃねぇのか? お前さんもだいぶ手を抜いているように見える。もっと本気で来てくれや」


 双方とも流派の構えをとり、空気が熱を孕む。ここまで来て互いに引きはしないだろう。利害というよりは、意地をかけたぶつかり合い、殴り合いだ。


「貴様のように熱のある日本人は久しぶりだ。俺も男だ。狗魔総督の立場を忘れて、拳での語らいに興じてみるのも悪くはない」


「素手での戦いをご所望ってわけか。まあ、いいぜ。お前さんを倒すのに銃は無作法だよな」


「覚悟はいいか? 日本人」


「おいおい、名前で呼んでくれよ。俺は芹沢。芹沢暁ってんだ……」


 相も変わらず名前で呼ぼうとしない張に、芹沢は苦笑いした。これまでヤクザとして幾多もの修羅場を潜り抜けてきたであろう彼だが、喧嘩を純粋に楽しむなどということがあるのか。いや、以前、舎弟頭は俺の野蛮な振る舞いを諫めていたような。


 結局のところ、芹沢も極道。強い奴と本気で相まみえる喧嘩はやぶさかではないのだろう。本質は俺と同じらしい。


 俺自身も似たような経験は何度もしてきた。他に効率の良いやり方があると頭では分かっているものの、いざ全力で戦える喧嘩を目の前にしてみると体が疼く。血が滾って仕方が無い。戦う方を選んでしまうのだ。


 この件における主語を男という生き物全体に広げるわけではないが、例外は少ないと思う。誰も彼もが本能のままに動いてしまう。そして血と汗が流れる。


 張覇龍の使う八極拳とは如何なるものか。にわか程度の知識しかない。確か自分からは派手に動かず、向かって来た相手の攻撃をいなして的確なカウンターを叩き込むことを極意としていた覚えがある。おそらく、張はマフィアの人間なので古武術をそのまま使ったりはしないはず。何らかのアレンジを加えていると考えて間違いない。そうなれば厄介だ。芹沢の松濤館空手が何処まで通じるものか、懸念の色が強まってくる。


 芹沢も戦闘のプロフェッショナルだ。不利な状況に置かれてもなお、徒手空拳にこだわることは無かろう。それを言ってしまえば張とて同じだが、両者の戦いは何が起きてもおかしくない緊張感に満ちていた。


「日本人。俺は貴様の首を3分でへし折ってみせる自信がある。降伏するなら今のうちだぞ、どうする?」


「そっくりそのまま言葉を返すわ。俺も自信があるんだよなあ、お前さんを瞬殺するのに。ものの1分で片を付けてやるよ」


「大した虚勢だな」


「お前さんこそ」


 まず、最初に仕掛けたのは芹沢だった。


「ハアァァァッ!」


 裂帛の気合いと共に繰り出された鋭い正拳突きが、一瞬前まで張覇龍がいた空間を貫く。しかしそこにはすでに彼の姿はなく、瞬きするよりも短い間に張は芹沢の背後にまわりこんでいた。


 咄嵯に振り返る芹沢だったが、時既に遅し。強烈な回し蹴りが側頭部を捉えていた。


 ――バスッ。


「うぐっ……!?」


 普通の人間ならこれだけでノックアウト、いや、命を絶たれてもおかしくはない痛恨の一撃。だが、鬼の舎弟頭は懸命に両足で踏ん張っていた。恐るべき耐久力だ。


 されど、敵は甘くない。よろめいた芹沢が体勢を立て直すより早く、追撃の掌底が胸板を撃ち抜く。彼の肋骨が肋骨が軋みを上げ、肺の中にあった空気が全て吐き出されてゆくのが分かった。離れたところからでも十分に視認できた。


(せ、芹沢さん!)


 図らずも膝をつかされた芹沢に容赦なく放たれるのは、張による容赦のない連続攻撃だ。


「どうだ! これぞ我が秘伝の八極拳の力だ!!」


 芹沢は必死で躱すも、そのうちの一発が腹部を捉えたのを皮切りに動きが鈍る。突き出される貫手が顎先を正確に打ち抜き、流れるような動作で繰り出される上段蹴りがこめかみを打ち据える。そしてトドメとばかりに撃ち込まれた肘鉄が鳩尾にめり込んだ。


「ガ……ハッ……」


 だが、芹沢は一瞬苦痛に顔を歪めるだけですぐに身を持ち直し、お返しとばかりに張の顔面に拳を叩き込む。左のフックだ。


 ――バキッ!


 その威力は言うまでもなく強烈で、張はたまらず芹沢から距離を取って離れる。奴の歯が何本か折れ、地面に散らばる様が印象的だった。


「はあ……はあ……なかなかやるな、日本人……」


「おいおい、つれないねぇ……俺の名前は芹沢だぜ? 芹沢って呼んでくれたって良いじゃねぇか。張さんよ……」


「うるさい……もうすぐ殺される死ぬ奴の名前など、覚える値打ちも無い……」


 両者ともに地面に膝を付く。互いに相当なダメージを負っている。しかし、瞳に燃える闘志は決して弱まりはしない。ただ、目の前の相手を拳で殺す。それだけが漢の意思を搔き立てているようだった。傍から見ているだけで背筋がゾクッとする展開である。


(す、すげぇな。これが真の漢の戦いってやつか)


 俺はただただ圧倒されることしかできない。そんな中、先に起き上がったのは芹沢だった。


「……ここで負けるわけにはいかねぇんだよ」


 無論、続いて張も体を起こす。


「ほう。頑張るねぇ……だったら、俺も少しは意地を見せねぇとな。日本人ごときに負けたら本国に帰れん」


 赤く腫れあがった右頬などは気にもせず、一直線に芹沢を睨みつける張。先ほどの左フックが決して効いていないわけではない。顔面を抉られる痛みを帳消しにしてしまうほどに、勝利への執念は凄まじいのだ。


「奇遇だな、張。俺も同じことを考えてたぜ。負けた面を晒しておめおめと帰るなんざ、男の恥だ。天地がひっくり返っても御免だぜ。組の皆に顔向けできねぇ」


「敗北の言い訳を考える必要は無いぞ。何故なら、貴様は今からこの俺に殺されるのだからな」


「ずいぶんと大きく出たな。自分テメェに自信があるのはけっこうだ。けど、今度ばかりは俺も甘くはねぇぜ……負けれ泣きっ面を見るのはお前さんの方だ!!」


 盛大に啖呵を切って見せた芹沢。しかしながら、彼自身はきっと分かっている。己の操る松濤館空手が、朝の八極拳には僅差で及ばぬことを。


 以前、テレビで観たことがある。空手の真髄は一撃必殺。拳や掌、あるいは蹴りでの打撃を神速で見舞い、相手を一撃で倒すことに重きを置いている。一方で、中国発祥の八極拳は相手との長期戦を想定しており、自らの間合いを徹底して防御、制空権に入ってきた敵の攻めを転じて反撃を繰り出す型が特徴だ。つい先刻、先手必勝を狙って放った芹沢の正拳がいなされてしまったことを鑑みれば道理だろう。この戦いは、長引けば長引くほどに芹沢の不利となるのだ。


 そんな彼にとって、最初の一撃こそ最も効果のある一撃であり、その後の攻撃は張に対して殆ど意味が無い。ゆえに、やるなら一発で仕留めねばならない。それが芹沢に残された勝利への唯一の道であった。


「おおおおおおおおーッ!」


 地鳴りのような雄叫びを上げ、芹沢は猛烈に驀進する。今度は正面ではなく、側面を狙ってのハイキック。並大抵の男なら反応すら出来ずに意識を奪われてしまうだろう。事実、それは常人相手ならば必殺の一撃と言ってもいいものだった。


 しかし、今回ばかりは相手が悪い。


「ふっ。見事な蹴りだ! だが、この俺には遅い!!」


 張はその攻撃をいとも容易くかわすと同時に、カウンターとして裏拳を放つ。


 ――シュッ。


 高速カッターのごとき一撃であったが、芹沢とて歴戦の猛者。首を捻ることで回避に成功する。


「くそっ……」


 あからさまに舌打ちをしながら、バックステップを踏む芹沢。すると間髪入れずに、張の追撃からの掌打が放たれた。


 それを避けるために大きく後ろへ跳ぶが、惜しくも間に合わない。後方への回避行動でどうにか衝撃を殺すが、完全に殺しきることは叶わずに食らってしまった。


 ――ガスッ。


「ぐっ!」


 芹沢は数メートル後退させられ、再び間合いが開く。今度もまた奇襲は失敗。張に軍配が上がった。


「どうした日本人? もう終わりか?」


「抜かせ……!」


 挑発的な笑みを浮かべて見せる張に対し、芹沢は不敵な表情を作って答える。しかしその額には汗が滲んでおり、先ほどよりも余裕が無くなっていることが明確に分かる。ここから如何にして戦うか。俺は固唾を飲んで見守るしかなかった。


「元気がなくなってるみたいだな、日本人。全身で息を切らしてるぞ。その程度のパワーで俺に挑もうなどお里が知れる」


「うるせえ……つい昨日まで牢屋に入ってたからよ、ちっとばかしブランクがあるだけだ……」


「敗北の言い訳はそれだけか? もっと聞いてやっても良いぞ?」


「やかましい。スタミナが無くなって来た時は、その時なりの戦い方をすりゃ良いだけだ。お前さんの攻略法も、何となく分かってきたからよ」


 それでも声がかすれ気味だ。強がりか、または虚勢か。あくまでも意地をひかない芹沢の返答に張は目を丸くした。


「ほう、攻略法だと? 何とまあ見苦しい振る舞いよ。この期に及んで、どうやって俺を倒すというのだ?」


「つべこべ言ってねぇで、かかってこいよ。そしたら分かる」


 懸命に呼吸を整え、再び構えを取った芹沢を張が露骨に嘲笑する。何度やっても同じだとばかりに。自信と誇りに満ちあふれる中国人の武術家は隙が無かった。


「貴様、よほど死にたいらしいな。いいだろう! この張覇龍の拳をもって殺してやる!!」


 気勢を上げて突進し、張は芹沢に襲いかかった。同時に彼の周囲で空気が渦を巻き始める。大気が熱を帯び、陽炎のように揺らめいていた。


「奥義、虎撲!」


 技名らしき叫びと共に張が繰り出したのは、目にも止まらぬ速さの連続打撃であった。


「ハァァァーッ!!」


「うおおっ!?」


 反射的にガードを固めた芹沢だったが、張の攻撃を防ぐことは叶わなかった。彼が放つ打突は防御の隙間を縫うように芹沢の顔面に当たり、直撃を受けた箇所が赤く腫れ上がっていく。まるで暴風雨のような猛攻の前に、芹沢は瞬く間に追い込まれていく――。


「……」


 かに、見えた。


 次の瞬間。一方的に殴られ続ける芹沢の口元が二ヤリと緩む。何故に笑うのかと思うや否や、彼は完全に勝者の顔をしていた。


「……ふっ、そこか」


 そんな台詞が聞こえた直後。予想だにしない出来事が起こった。


「おらよ」


「なっ、何だとぉ!?」


 ――ドサッ。


 ほんのコンマ数秒の間に、両者の体勢が一変する。連発して放たれる打撃が弱まる一定の間隔を見計らい、なんと芹沢がスライディングを敢行、張を転倒させたのだ。


 そこから彼は倒れた張の脚を即座に掴み、自らの脚と絡ませて極める。俗に云うところのプロレス技、「足4の字固め」だ。物凄い力で締め上げていることが両者の表情から分かった。


「うぐああああああッ!」


「どうだっ! これでもう動けねぇだろ!」


 激痛で苦悶の声を上げる張に対し、さらにさらに脚を絞り上げてゆく芹沢。言うまでもなく形勢逆転だ。やがて背広の内側から拳銃を取り出すと、芹沢は張に突きつけた。


「お前さんの敗因は自分テメェの技を過信したことだ。突きの威力は確かにすごかったが、足元がお留守になってるのに気づけてねぇ。ひとつの型に囚われてちゃ喧嘩は勝てないんだよ」


「ち、畜生め……!」


「もうじき両膝の関節が破壊される。どうすることもできんぞ。俺の勝ちだ」


 程なくして辺りに鈍い音が響き渡る。


 ――ゴキッ。


 それは骨が折れる音。宣告の通り、張の膝関節が崩壊したようである。だが、張は痛みに顔を引き攣らせながらも、態度は強気のままだった。


「うぐっ……があ……お……俺は日本人に負けたりはしない……たとえ両脚を折られようが、諦めない限り負けではないのだッ!」


 彼は根っからの武人なのだろう。拳での立ち合いに敗れたとはいえ、気迫だけは力を失っていない。怒髪天を突いた後、張は懐に手を突っ込む。


「貴様も道連れだッ! 日本人!!」


 しかし、その手が懐から引き抜かれることは無かった。寸前になって芹沢が得物のトリガーをひいたのだ。黒のトカレフTT33から発射されたボトルネック弾は、張の額に真っ赤な穴を開けた。


「……」


「往生際の悪い奴め。拳で勝負しようって言ったのはそちらさんじゃねぇかよ。無粋なこったな」


 下半身の自由を奪われてもなお、芹沢との勝負を諦めなかった張。おそらくは懐から手りゅう弾を取り出して起爆させ、芹沢ごと巻き込んで爆風で自決するつもりだったのだろう。それを予測した舎弟頭が先手を撃ったというわけだ。


 最期まで負けん気の強い人物だった。張覇龍の命を拳銃で絶った後、芹沢は脚を解いて立ち上がり、亡骸を見下ろす。遅れて出た言葉には、相手への最低限の礼が込められていた。


「まあ、打撃は大したもんだった。俺も久々に肝を冷やしたぜ。いずれ冥界そっちで会ったら、また戦おう。それまでに名前、覚えててくれ。な? 張覇龍さんよ」


 “鬼の芹沢”による凄まじき戦い。目の前で繰り広げられた圧倒的な光景に、俺はただただ立ちつくすだけであった。恐怖や驚愕の類いではなく、極道として重んずべき事柄を衝撃をもって教え込まれた、そんな気分だったと思う。


 これが真の漢の喧嘩の作法か。俺とは色々な意味で別格すぎて参考にすらならないが、思想や概念としてはとても勉強になる。胸の中に深く刻み込まれた。


 当然のことながら、4の字固めは空手の技ではない。プロレス、引いては柔術に源流を持つ関節技だ。このまま立ち技を主体として戦い続けるのが不利と判断し、芹沢が咄嗟の選択で変則に引き込んだということだ。その決断力の高さには唸るしかない。俺が同じ立場であった場合、同じ思考が出来たか。正直なところ怪しい。俺は背筋を振るわせつつ、勝利を勝ち取った傷だらけ、痣だらけの芹沢に敬意を込めて一礼した。


 久々に会った芹沢暁の姿は、半年前と何ら変わらなかった。心強く、頼もしく、そして勇ましい背中のまま。暫く牢獄に繋がれていたために体がなまっているようなことを口にしていたが、俺から見ていて衰えは殆ど感じない動きだった。昨日の今日で出獄したばかりで、何故にああまで動けるのだろう。


(っていうか、何で急に出てこられたんだ……?)


 先ほどの感想も含めて、芹沢と直接話してみたい。圧巻の名勝負に興奮した余韻が冷めやらぬ中、俺は声をかけようとゆっくり近づいてゆく。まさかここで会えるとは思わなかったが、再会できたら詫びたいこともあったのだから。


 しかし、それは果たされなかった。背後で息を潜めていた恐るべき気配を俺は、すっかり忘れていた。瞬時に飛んできた斬撃に寸でのところで気づき、慌てて躱す。


「ちいっ!」


 笛吹だった。状況は既に察した。芹沢と張、それから俺とヒョンムルの連中が熱戦を演じている間、物陰に隠れて体力を回復させていたらしい。


 奴も奴で傷はそれなりに負っているものの、怪我を気にもしないほどに動きが俊敏。こんな短時間で回復するとは、つい先刻は張に身体を担がれるくらいに弱っていたのに、全く不可思議だ。薬物でも打ったか。


 近くにあったナイフを拾い、俺は反撃に転じる。それを笛吹が余裕の面構えでブロックし、短刀同士での鍔迫り合いに持ち込まれる。刃と刃が擦れる音が、緊迫感の中で響いた。


「俺が死んだとでも思ったか、麻木涼平! お前はこの手で必ず殺す! お前を殺すまで俺は死ぬわけにはいかねぇんだよ!」


「けっ、相変わらず面倒臭ぇ野郎だぜ……!」


 どうやら、笛吹慶久とは俺自身が決着をつけねばならないようである。


 芹沢が言った。


「涼平。その男との因縁は俺も聞いてるぞ。お前も男だ。全力で向かってくる相手には、全力で応えてやれ! そいつがこの世界の礼儀ってやつだ!」


 ああ。言われなくたって、やってやるとも。因縁なんざ、どうだって良い。笛吹慶久の存在は鬱陶しくて邪魔だ。この先の人生に絡んでこられると迷惑千万。よってその脅威を排除するためにこそ、俺は戦う。


 笛吹慶久を殺す、ただそれだけのために。


「……んじゃ、見ててくれや。芹沢さん。俺がこいつを始末して、因縁とやらにケジメをつけるところを。手出しは無用だ。そんなに時間は取らせねぇからよ」


「おう! 存分に戦ってこい!」


 芹沢の声に背中を押される形で、鍔迫り合いの体勢を脱してナイフを振り上げた俺。笛吹には回避されたが、その斬撃には並々ならぬ気迫がこもっていると自分でもわかる。


 大丈夫だ。俺は必ず勝つ。この戦いにけりをつけて、未来を切り開いてやる。


「お望み通り、相手してやるよ。笛吹。ここらで決着をつけようじゃねぇか!」


「うおおおおっ、地獄に送ってやる! 麻木涼平!」


「こっちの台詞だよ。馬鹿野郎が」


 互いの存在を懸けた文字通り“殺し合い”。どちらかが命を落とすことでしか決着しない炎の泥沼だ。ああ。やってやるとも。この男を殺せば、すべてが終わるというのなら。


 俺は人生最大の戦いへと足を踏み出した。

深手を負いながらも、未来のためには避けて通れぬ道。涼平は勝てるのか?

次回、笛吹との最終決戦!

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