逆転の金百貫
それから15分ほどしてやって来た開化研の医療スタッフに恵里を託した後、俺たちはタクシーを拾って山手町へと戻る。
坊門組の兵隊に屋敷を取り囲まれた挙句、村雨組長が敵勢相手に大暴れして皆殺しにしてしまったと聞いた。それが事実であれば、村雨組始まって以来の一大事。未曾有の危機といって良い。
一体どうしたものかと思いながら恐る恐る付近へと近づいてみると、案の定、現場は惨たらしい状態だった。
「うわあ。想像以上だな」
思わず声が出てしまうほど、地面が真っ赤に染まっている。きっとこれは無数に横たわる亡骸たちから、あふれ出た鮮血だろう。どの死体も正確に急所を潰されており、中には頭部がグチャグチャに損壊しているものや、片方の腕が完全にもげているものも見受けられる。
全ては一騎当千の残虐魔王、村雨組長がやったこと。ひと目見ただけですぐに分かった。同時に、俺たちが取り返しのつかない罪業を背負ってしまったことを嫌でも認識させられた。
「……まずいことになったな」
「ああ。まさかとは思ったが、これで村雨組は煌王会本家を敵に回しちまったことになる。現会長代行の組を潰したんだ。そう遠くないうちに赤文字が出される」
「赤文字?」
「問罪表のことだよ。俺たちの世界でいう、宣戦布告。『これからお前を抗争で叩き潰す』ってのを宣言するのさ」
問罪表自体は見たことがあるが、その時は横浜大鷲会から発せられたもの。送り主が構成員総数約2万を誇る煌王会全体になるなど、想像もできない。想像したくもなかった。
「なあ、沖野さん。これからどうなるんだ?」
「分かんねぇ。組長のお考え次第だ。しかし、あの人にも先行きが見えているのかどうか……」
このまま屋外で不安がっていても、何も始まらない。黙々と死体を片付ける作業者の傍らを通り抜け、俺たちはひとまず屋敷の中へと入った。
「お帰りなさいませ。沖野の兄貴」
「おう。とりあえず、状況を教えてくれ。俺たちが出てる間に何があったのか。どうしてあんな血みどろになっちまったのかをな」
「昨日の真夜中、本家の連中が突然攻めてきたんですよ。『女将様をこちらに引き渡せ!』って。もう、訳が分からないですよ」
組員曰く、それからしばらく睨み合いが続いたそうだが、坊門組の兵が屋敷の外壁に向けて威嚇発砲を行ったのをきっかけに膠着が崩れた。忽ち乱闘に発展し、一時は坊門組が屋敷の中に侵入しかけたという。
「なるほどな。だから門がちょっと壊れてたのか」
深夜という時間帯もあって、村雨邸を守る兵数は少ない。多勢に無勢で次第に追い込まれた時、群がる敵を一気にまとめて押し返す男が現れた。我らが村雨組長である。
「組長は最初は屋敷の中に居たんですけど、俺たちが苦戦してるのを見かねたんでしょう。中から飛び出してきて、門前にいた奴らを蹴散らしてくれました」
「んで、全員を殺しちまったと?」
「はい。本当にあっという間でした。組長は得物を使わず、素手で、おまけにたったひとりで、100人くらいいた敵を瞬く間に倒しちまったんですからね。いやあ、本当に見事な戦いぶりでしたよ」
「へへっ。そいつはあの人らしいな」
感心してる場合じゃないだろと沖野たちにツッコミを浴びせたくなったが、既にやってしまったことは仕方が無い。沖野は勿論、その組員も、村雨のとった行動については何ら批判的な感想を抱いてはいなかった。
「組長は俺たちと女将様を守るために、敢えて泥を被られたんです。あの場で組長が起ち上ってくれなかったら、俺たちは今ごろどうなっていたか」
「だよなあ。けど、何で本家の奴らは女将様を狙って現れたんだ? 名古屋へ連れ戻す意図があったとしても、そんな100人単位で来ることか?」
「分かりません。そもそもどうして女将様は村雨組においでになったんでしょう。女将様ご自身は『横浜見物がしたくなった』って言ってましたけど」
「うーん。何か別の理由がありそうだよな……」
下っ端連中たちの間でも疑問が広がっているようだ。昨日の勢都子夫人の突然の来訪といい、今回の包囲事件といい、非常に衝撃的かつ不可解な出来事がこうも立て続けに起きては理解が追い付かない。不安感と懸念が広がるのは当然の至りだ。
「……まあ、俺たちは組長を信じてついて行くしかねぇだろうよ。何があってもな」
「そ、そうですよね」
彼らが盲信的に主君に忠を尽くすタイプの極道で、本当に助かった。仮にあの場で「麻木ィ、お前は何か知らされてねぇか?」と問い質されたら確実にボロを出していた。そろそろ誤魔化すのも難しくなりつつある。
「沖野の兄貴、上で組長がお待ちです」
「おう。ご苦労だったな」
微妙な緊張感に包まれている村雨邸。その廊下を静かに通って、俺たちは組長の部屋へと向かう。
邸内で出くわした組員の誰もが、村雨の行動を全面的に支持していた。本家に睨まれるという史上最大の危機に直面する結果を招いたが、とりあえず勢都子夫人の安全は守られたのだから良いだろうという考えだ。単純というか浅慮というか。少し馬鹿げている気もしなくもないが、このような事態において組織内で動揺が広がり団結力を失うよりはずっとマシだ。
ただし、組の全員が同じ考えを抱いていたわけではない。少なからず反感や批判的な感想が生まれるのは無論のこと。
辿り着いた組長室には、先客がいた。
「まったく! 何ということをしてくれたんだ! 本家の人間、それも会長代行の坊門組に手を出して、あまつさえ殺してしまうなんて……キミは正気なのか!?」
若頭の菊川塔一郎である。彼は村雨の大暴れの後処理を全て引き受けていたようで、ちょうど先ほど屋敷に戻ってきた模様。警察当局への根回しから近隣住民の口封じまで、一連の騒乱を完全に片付けるための内容は多岐にわたる。疲れが顔に出ているのが分かった。
だが、それよりも若頭にとっては、村雨組が本家の怒りを買ってしまった展開が断じて許せない模様。今までの外交努力を全て水の泡にした村雨に対し、物凄い剣幕でまくし立てていた。
「どうして殺しちゃったんだよ!? キミが洪家の殺人拳の使い手だからって、少しくらい手加減は出来たはずだぞ!? キミが坊門組を手にかけたせいで、何もかもがパーだ! もう誓紙を出した所で意味は無くなったぞ! 敷島弁護士を名古屋に派遣した甲斐も無くなった! これからどうするつもりなんだ!!」
向かい側に座る村雨組長の胸ぐらを掴み、鬼の形相で睨みつけた菊川。一方の組長は至って平然としている。腹心の部下に猛烈に抗議されてもなお、普段の表情をまるで崩そうとしない。
「……」
むしろ、お前は何故にそこまで昂っているのかと不思議がるような表情だ。これには若頭も黙っていられず、忽ち両目を見開いて食ってかかった。
「おい! 何とか言ったらどうだ!? 朋友!!」
すると、ここでようやく組長が口をひらく。
「喚くな。菊川。騒々しい。過ぎ去ったことを悔やんでも今更取り返せぬ。これから如何に動くかが肝要であろう」
「な、何を言ってんだよ! 自分でやったくせに! どうしてそんなに他人事でいられるんだ!? 信じられない奴だな、キミは!!」
「他人事とは思うておらぬ。あの場でああする他に女将様をお守りする手は無かった。我らで匿った以上、遅かれ早かれ坊門には睨まれたのだ。それが少しばかり早まっただけであろう」
「そうやってキミはいつも後先考えずに動くんだよな。そして、いつも僕に尻拭いをさせる。ガキの頃からまるで変わらない……少しは頭脳を使うってことを覚えろ! 馬鹿野郎!!」
これまた辛辣な言葉が飛んだ。菊川がここまで感情的になることも珍しいが、彼の口から面と向かって村雨を罵る台詞が聞こえるのも同様。いや、もしかすると初めてかもしれない。
普段は組長のする事、成す事に意見せず、ただ薄ら笑いを浮かべて従うだけの菊川。以前、「朋友が決めた事には従うまでさ。後始末は僕が引き受ける」とも語っていた。そんな忠実なる若頭も今回の一件だけは流石に腹に据えかねたというわけか。
「菊川よ、組の安寧を思うお前の気持ちは分かる。なれども坊門とはいずれ事を構えるつもりでおったのだ」
「それがそもそもおかしいんだよ! キミはいつもすぐに戦争をしたがる。誰かと揉めずにはいられない性質なのか!? 今回だってそうだ。さっさと誓紙を書いて、長いものには巻かれる選択肢だってあったはずなのに」
「何を申す。戦は極道の宿命であろう」
「ふざけるなッ!!」
戦は極道の宿命――。
その言葉で心の中の何かがぷつりと切れたのか、菊川は再び村雨の胸ぐらを掴んで更に激昂した。
「少しは部下の都合も考えろと言ってるんだ! 勇み足で突っ走ってキミと僕だけ死ぬならそれでいい! だが、僕らを慕って付いてきた奴らまで道連れにするのは違うだろ! もっと命を大事にしてくれ! 頼むから!!」
そう言うと、菊川は荒々しく部屋を出て行く。
「退け! 沖野!」
「カ、カシラ、どちらへ!?」
「頭を冷やしてくる! もうやってられるか!」
彼なりに思うところがあるのだろうが、この態度はいただけない。せめてもう少し話を聞いたとて良いものを。
沖野が制止するのも全く聞かず、菊川は廊下へと去ってしまう。もう彼がこの部屋へ戻ってくることはないようだ。外で頭を冷やすと言っていたが、いくらばかりかかるものか想像もつかない。勿論、組のナンバー2である菊川が中座したからといってここで議論を停滞させるのは時間の無駄。
「……まったく。困った奴よ。昔から熱くなるとすぐにあの有り様だ。まるで成長しておらぬ」
気を取り直し、村雨組長は話を再開した。
「お前たち。来たか。話は既に聞いておる。大儀であったな。よくぞ大原公のご息女を救い出してくれた。これで伊東に恩を売ることができよう」
「へへっ。勿体ないお言葉、痛み入ります。この沖野一誠、組長のご命令とあらば例え火の中、水の中、どこへでも行って来やすぜ!」
「して? お前たちは豊橋にて如何なる話を得たのか? 一から十まで、ありのまま聞かせよ」
「へい」
こういう時、俺は口下手だから困る。説明というものがまるでうまくできないのだ。雄弁な奴が羨ましい。
傍らで口ごもっている俺とは対照的に大きいのは 豊橋にて遭遇した出来事を村雨にとても詳しく、なおかつ明快に説明した。俺たちが豊橋にて遭遇した出来事といえば大から小まで色々とあるが、ざっくりとした分類が可能だ。
家入組の“シノギ”の場面を目撃したこと、滞在中に堀内率いる伊東一家の精鋭部隊が豊橋へ討ち入ってきたこと、そして家入組の若頭である富田を捕縛し、彼から重要情報を引き出せたこと――。
「……というわけです。富田は事故に見せかけて始末しておきましたんで、問題ありませんよ」
「左様か。大した心がけだな、沖野。お前にしては随分と小賢しい手を選んだではないか」
「ヘヘッ。久々に知恵を使いました。こう見えても、ただの刀バカじゃありませんぜ」
一応俺もただ黙っているだけでなく、不器用なりに説明を付け加えておく。旧大鷲会本部の会長室にて、金庫に謎の金塊らしき物体を見つけたこと。沖野の報告にひと区切りついた頃に、その件を話してみたのだ。
「あれはたぶん金の述べ棒かな。でも、おかしいんだよ。すっげえ高そうな金庫に入ってたのに、扉は開いたままだった」
「ほう。開いたままとは。何とも解せぬ状況だな……」
敵のアジトにあった、謎の金塊たち。一瞬は興味深そうな反応を見せた村雨だが、彼が食いついたのは沖野の話の方。
あいつは俺よりも何倍も説明上手なだけに、ここで差が開いてしまうのも無理はないこと。尤も、競い合っているわけではないので別に構わないのだが。
「此度の家入の動きに、笛吹が如何ほど絡んでおるのかが気になるな。その辺りを詳しく聞かせよ」
「へぇ。もちろん。奴ら、だいぶ深い仲のようですぜ……」
家入組の背後に笛吹がいることは村雨も既知の通り。だが、よもや連中の行動の主体が家入ではなく笛吹であったとは想像もしていなかったようで、沖野がその件を伝えるや否や瞬く間に目を丸くしていた。
「なんと。それでは、家入は大甥のために伊東一家にあのような挑発をしたというのか!?」
「ええ。あのジジイ、どういうわけか笛吹の野郎をえらく可愛がってるんです。頼みを聞いて、わざわざ手の込んだヤラシイ策略を伊東に仕掛けるくらいですからね。ありゃ相当ですよ」
「うーむ。家入には実子がおらぬゆえ、笛吹のに情を注いでおるのか。しかし、奴にとって笛吹は姉の孫、親戚といえども少し遠いと聞く。甥ならまだしも、大甥に対して斯様に入れ込むのはいささか不可思議だな」
「俺が調べた情報によりゃあ笛吹の両親、つまり家入の甥夫婦は野郎が5歳の時に火事で死んでますからね。笛吹の祖母ちゃん、すなわち家入の姉もその時一緒に。だから家入にとって笛吹慶久はたった一人残された大事な親族、ってことなんじゃないですかね」
笛吹にそのような過去があったとは、全くもって初耳だった。だが、仮にそうだとしても不自然さは残る。 富田曰く、家入は笛吹のために組の金庫から金を供出しただけでなく、自らのポケットマネーをはたいて奴の陰謀に協力しているというではないか。
煌王会の中でも指折りの吝嗇者として名高いと聞いていた家入が、相手が可愛い大甥とはいえそのような大盤振る舞いをするのだろうか。 村雨組長は首を傾げる。
「あの御仁は決して善意で動いたりはせぬ。何人に対しても、行動には必ず見返りを求める。欲得を満たすだけの旨味をな」
「だったら、家入が笛吹を助けてんのも、それなりの報酬を笛吹に貰ってるからってことですかい?」
「うむ。あるいは、後々に大きな利益を見込んでおるのか。何にせよ家入はタダでは動かぬ。己が郎党にさえ、あわよくば金を搾り取ろうとしたくらいだ」
かつて家入組が中川会系の末端組織と抗争になった折、豊橋広小路の事務所が襲撃を受け、若頭の富田が敵に捕縛されてしまったことがあった。およそ3日後に家入組は敵勢力と交戦し、富田を見事奪還したのだが、その時に家入は富田に「救出にかかった費用は全てお前が負担しろ」と迫ったそうな。村雨によれば、富田は家入を庇って負傷し、捕らわれの身になったとのこと。忠義を尽くした子分に対して、まったく信じられない振る舞いではないか。
「家入行雄とは、左様な男なのだ」
もはや単にケチというレベルではない、あまりに卑小な人間性。腹心の富田に対してそれだ。他の下っ端連中にはもっと横暴に振る舞っていることと思う。もしかしたら笛吹の件が起きる前から、家入は富田以下子分たちに愛想を尽かされていたのかもしれない。
(やっぱり、見返り無しじゃ動かねぇか……)
家入は大甥に金を湯水のごとく使わせるだけでなく、ゆくゆくは新しい戸籍を与えて別人に生まれ変わらせ、事が全て片付いたら自らの組に跡目として迎え入れるつもりのようである。
奴にそこまで施した先に見込む利益とは、一体何だろうか。とても気になって仕方が無かった。
本来であれば そこまで調べてくれば良かったのだろうが、今回は途中で帰投命令が出たので やむを得ず 中断せざるを得なかった。 ゆえに村雨 組長も情報の不足を責めることはなく、俺たちが持ち帰った情報で満足していた。 それどころか、むしろ俺に対しては褒める言葉をかけてきたのだった。
「見事な働きであったぞ。涼平。慣れぬ土地で難しい役目を任されながら、実に賢く動いてくれた。おかげで助かった。恩に着る」
「俺は何も……っていうか、あんまり情報を取ってこれなかったわけだし。期待に応えられなくて悪かった」
「いいや。お前は私の期待に見事応えてくれた。我が意を汲み取り、大原公のご息女の所在を掴んで参ったのだ。これを褒めてやらずして何とするか。ようやったな、涼平」
ということはつまり、今回の豊橋派遣の本懐は 大原恵里の救出にあったということか。
「おいおい……言ってくれれば良かったのに……」
一度は耳を疑ったが、結局は沖野の言う通り。 ほら見ろとばかりにニヤニヤ笑う若頭補佐をよそに、村雨は言った。
「悪く思うな。此度、豊橋へと遣わしたのはお前を鍛える目的もあったのだ」
「鍛える? それってあれか? 『言葉の裏に隠された真意を読み取って動く』ってやつか? 」
「左様。極道としては実に肝要なことだ」
村雨も沖野とまったく同じ台詞を吐いた。他にも反りが合わない人間と敢えて組ませることで協調性を育む云々の目的もあったようたが、一番それ。俺に主君の心中を推し量ることを覚えさせるが為、ただその為だけに豊橋へ行かせたというのだ。
「大原公のご息女の身柄を我が方で押さえておきたいと思うたのは確かであるが。それにも十分お前は期待通りの働きをしてくれた。改めて、大儀であったな。涼平」
「お、おう……」
褒められたのは嬉しいが、それ以上に何だか 出し抜かれたというか、いいように使われたような気分だ。 全く不愉快に感じなかったかといえば、決してそうではない。 けれども ここで 目くじらを立てて良いことなど一つもない。 貴重な時間を俺のために割いてくれたのだとありがたく思い、とりあえずは自分の気持ちに力強く蓋をしておくと しよう。
俺が密かに気持ちを切り替えると、組長は次なるテーマを切り出す。それは村雨組の今後の動向、戦略展開についての話であった。
「お前たちが来るより先んじて菊川に伝えたのだがな。我らは誓紙を書かぬと決めた」
「と、言うと?」
「村雨組が坊門に忠誠を誓うことは無い。金輪際、坊門には従わぬというわけだ」
確かに、屋敷前にあのような骸の山を築いてしまったのだ。今さら誓紙を書いたところで関係が修復できるべくも無い。俺も沖野も自然と納得した。
「なるほどな。まあ、坊門組の連中を皆殺しにしちまったわけだし。当然っちゃ当然か。良いと思うぞ」
「俺も麻木ィと同意見ですわ。こうなったからには、行くところまでとことん行ってやりますよ。組長についていきますぜ」
俺たちの同意を受け、 村雨は頷いた。
「うむ」
しかし、問題なのは今後の具体策。かくして俺たち村雨組は煌王会本家を敵に回すことになってしまったわけだが、いかに立ち向かえば良いのやら。そこが皆目検討もつかない。55人対20,000人なので物量差は圧倒的どころか天文学的。まともにやり合ったところで勝ち目があるはずも無い。勝てないどどころか「どうやって犠牲を小さくして生き残るか」を考えた方が良い具合だ。
無論、村雨耀介に「逃げる」もしくは「退く」選択肢などは存在しない。如何に敵が強大であろうと果敢に挑み、刺し違えてでも倒す。その基本視線はここへ来ても揺るがぬらしい。
「そんで、これからどうするんで? とりあえず俺が名古屋へ乗り込んで坊門を含めた貸元連中の首を獲って参りましょうか?」
「後ほど考える。此度は少し長い目で見る必要がありそうだ」
村雨にしては少々呆気ない返事のようにも聞こえたが、こんな未曾有の事態を前に長期的な戦略をすぐさま立てられる者などいるわけが無い。組長本人が「長い目で」と言っている以上、彼はまだ捨て鉢になっていないのだろう。もう、組長に全てを託すしかない。
八割の不安と二割の希望を織り交ぜ、俺と沖野は村雨の言葉に同意を示す。ただ、一方で沖野は最後にこんな疑問を呈していた。
「あの、ひとつお聞きしたいんですけど。本家で何があったんですかい? 何故、坊門組は女将様は捕まえようとしたんです? 皆、不安がってますぜ? もしかして俺たちは最初から……」
「沖野よ。まだ知らずとも良い。それは然るべき時に必ず話すゆえ、今は何も申さず私に従うてくれ」
「……分かりやした」
一寸の振れも無い村雨の真っ直ぐな視線を受け、何かを悟ったのか。沖野は半ば諦めたかのように理解を示したのであった。
「沖野。すまぬが、席を外せ。これより涼平に暫し言って聞かせることがある。2人のみで話したいのだ」
「へ、へい」
唇をきつく噛みしめながら、静かに部屋を出て行く若頭補佐。一連の動作は非常に遅く、さながらスロー映像を観ている心地であった。しかし、俺の方を見て舌打ちをするようなことも無かったので、沖野なりに受け入れたと見て良いだろう。
「涼平。先ほど少し気になったのだが」
「何だ?」
室外に出た男の気配が完全に消えた後、村雨が俺に投げてきた話の趣旨は少し意外なものであった。
「お前が鶴見で見つけたという金塊の話だ」
「えっ? キンカイって、金の延べ棒のこと?」
「左様。その金塊を見つけたという場所が如何なるところで、見つけた量は如何ほどか。その時の状況を詳しく教えよ。出来る限り、詳しくな」
「あ、ああ。うん」
先述の金塊の話をもう一度ご所望とは。あまり興味を示さなかったものと思っていたので、ここでの要求に驚いた。
(あれを手に入れて、売って金にするつもりか……?)
大鷲会を倒して以降、多くのシノギに恵まれている村雨組は経済的に決して苦しくなどないが、軍資金は1円でも多い方が良いに決まっている。途方もない戦争を前にした状況であれば猶更だ、
「ええっと、まずは見つけた場所だけど。たぶんあれは会長の部屋だな。死んだ藤島の爺さんの部屋だと思う。で、そこの会長の机の後ろに金庫があって、そん中に入ってたんだよ」
「先ほど、お前は金庫の戸が開いておったと申したな。ということはすなわち、鍵はかかっていなかったのだな?」
「ああ。俺もびっくりしたぜ。あんなにぎっしり延べ棒が詰まってんのに、開けっ放しなんだからよ」
「ううむ、ますます不可思議だな。その金塊は藤島のものか? それとも笛吹のものか?」
俺は答えに窮した。延べ棒の所有者を断定するに足る情報を持ち帰っていなかったからだ。
状況から考えれば笛吹のものだが、その仮説を前提にして考えるとひとつの矛盾が生じる。大事そうに金庫の中にしまってあったにもかかわらず、俺たちの襲撃から逃れる際、延べ棒を1本も外へ持ち出していなかった点だ。
純金はかなり重たいのだと、以前にテレビで観たことがある。短時間で全てを運び出すことは無理だろう。しかし、それでも1本くらいは手に取れたはず。せっかくの金塊を置き去りにせねばならないだけの理由が笛吹に生じていたと考えるべきだ。
(なら、あの延べ棒は藤島のものか?)
だが、そう断言するにも根拠薄弱。それにもしもあれが藤島の個人資産であったならば、笛吹が会長室を占拠した時点でとっくに売り払われて現金化されていることだろう。移動もせず、現金化もせず、金庫の中で律儀に全て保存し続けていた理由。藤島所有説を軸にすると、それが分からなくなってくるのだ。
「……どうだろうな。どっちの持ち物かは今のところさっぱりだ。延べ棒を延べ棒のまま取っておいたってことには、やっぱそれなりの理由があると思うけど」
「左様か。では、何か変わったところは無かったか? 何でも良い。目を引くような著しい特徴があれば申してみよ。些細な事でも構わぬぞ。思い出すが良い」
「うーん」
またまた返答に困った俺。特徴という特徴といえば「ぎっちり隙間なく詰められていた」ことくらいで、他に違和感をおぼえる要素は無かった。金塊の形は綺麗な台形の立体。前にテレビドラマで観た小道具と非常にそっくりだ。だが、それは金塊の普遍的な形状であって、特筆すべき点ではないのだろう。俺が見た金延べ棒は、いずれもありふれた形だった。
俺は自分の説明力の無さを憂いた。こんな時、相手をすぐさま納得させられるだけの言葉を短時間で組垂れられれば良いのだが。
「悪い。特に変わった点は無かったわ。延べ棒には番号が振ってあったし、形も前にテレビで観た時と同じで、見るからに普通って感じよ」
「ん? 番号?」
「ああ。金塊に6ケタの番号が振ってあってな。『703451』みてぇに、細かい番号だ。いやあ、前にドラマで観た延べ棒とまんま同じだったもんだから、びっくりしたぜ。延べ棒って本当にあったんだな。すっげえ金ピカで眩しかった。生で見る本物は違うもんだな」
情報の不足を誤魔化すかのように、取るに足らない事項を付け加えて話す俺。村雨の怒りを買わないか心配だったが、下手に口ごもるよりかはマシだと思った。
ただ、当の村雨といえば、とても険しい表情をしている。されども決して怒っているわけではない。何かについて深く考え込むような顔。俺の話を聞いて、村雨はどんな感想を抱いたのやら。うっかり不興を買ってしまったかと心配になり、やがては俺まで沈黙してしまう。
「……」
静寂の空気に、俺が一抹の気まずさを覚えたとき。穏やかな声色によって、不意に沈黙は破られる。口を開いたのは村雨組長だった。
「……なるほど。そういうことであったか」
「ひぇっ?」
急速に募り上げた不安感のせいか、思わず情けない声で反応してしまう俺。しかし、村雨は表情を変えず、あろうことか俺を褒め称えた。
「涼平。よくぞ見落とさなんだな。大したものぞ。お前の観察眼のおかげで、その金塊の正体が分かった」
「マ、マジか!?」
驚いた。自分が何気なく発した一言が、実態の解明に繋がってしまうとは。話を聞くに、俺が見付けた金塊の「表面に6ケタの番号が刻印されていた」という特徴が大きなヒントになったようである。
「涼平。お前の記憶が軒並み正しければ、その金塊はおそらく略取品だ。銀行より盗まれたか、あるいは力ずくで奪われたと見るべきであろう」
「マジかよ。いや、でもどうしてそれが分かるんだ? ただ延べ棒に番号が振ってあったってだけだろ?」
「そこだ。金塊に数字の刻印があったということ自体、それすなわち銀行で保管されていた事実を示す。この国の法において、金塊に番号を彫るのは銀行での預かり品だけなのだ」
「そ、そうだったのか……!」
初めて知り得る情報である。村雨曰く、件の金塊が保管されていた銀行の法人名も大方察しがつくという。
「涼平。お前が見たという金塊の番号、あれを今一度申してみよ」
「えっ? 違ってたらゴメンだけど、たぶん『723451』だった気がする。いや、きっとそうだ。昔から数字を覚えるのは得意なんだよ」
「ほう。『703451』か。であれば、海道銀行の名古屋栄支店と見て間違い無かろう。なるほど。大筋が読めてきたぞ。思いのほか、面白いことになってきたな」
論拠としては金塊の保管番号が『7』から始まるのは愛知を中心に岐阜、静岡、三重、神奈川の5県に支店を展開する地方銀行『海道銀行』であり、次の『034』という数字は同社の名古屋栄支店の店番を表していると村雨は語る。
頭の中を整理して考えるなら、俺が見た黄金の延べ棒は『海道銀行・名古屋栄支店で保管されていた51番目のインゴット』ということになる。金庫の中には、他にもゴロゴロと入っていたのだろう。
(そいつを笛吹が盗んだってことか……?)
笛吹慶久のような悪党であれば、金塊強奪も平気でやってのけよう。だが、それではまたもや矛盾が生じる。アジトにて大事に隠し持っていた金塊を置いて逃げた理由に、適切な説明が見当たらないのだ。
リスクを覚悟で苦労して奪い取った戦利品ならば、肌身離さず持っているはず。緊急事態だったゆえに全てを持ち去ることが難しくとも、1本くらいは手に取って行くだろうに。
ましてや、中には盗品が入っているのに金庫の戸を開けっ放しにする意図が不明。扉を閉じてこそ、金庫は大切な中身を守るという真価を発揮する。にもかかわらず、笛吹がそれをしなかったのは一体どうしてか。
(あの延べ棒は大事な物じゃなかった……?)
発想を逆転させるなら、自然とそうなる。しかし、俺の頭では以降の推理展開に限界があった。ここは村雨組長が読めたという大筋とやらを聞いてみようではないか。
「組長、教えてくれ。あの金ピカが何だってんだ?」
「お前は今年の6月に起きた出来事を覚えておるか。新聞を読んでおれば気づくであろうが、海道銀行の例の支店が襲われたのだ」
「悪い。読んでなかった」
村雨の話でようやく思い出したほどに俺の中ではおぼろげであったが、事件は確かに起きていた。
遡ること6月22日、月曜日。午前10時40分頃、名古屋市栄区にある『海道銀行・名古屋栄支店』に自動小銃で武装した7人組の男が押し入り、行員3名を射殺。拘束した支店長を人質に倉庫室を開けさせ、中に保管されていた5億円相当の金塊を奪い逃走した。
白昼堂々の銀行強盗で3名の犠牲者を出し、さらには厳重に保管されていたはずの金塊が容易く奪取されたという衝撃度の高さから世間は震撼。犯人グループがアサルトライフルを所持した重武装だったという点も含めて、戦後類を見ない凶悪犯罪として大きな騒ぎになっていたのだ。
新聞やテレビの報道などにまったく興味のない俺はすっかり忘れていたが、思い返してみればそんな事を言っていた気がする。確か連日報道特番が組まれ、事件の続報が逐一伝えられていたっけ。
しかしながら、その後の顛末がどうもピンと来ない。
「……ああ。そういやあ、テレビで毎日のようにやってたよな。あれ? 犯人ってもう捕まったんだっけ?」
「いや。まだだ。捕まえるどころか、容疑者の身元情報すらも断定するに至ってはおらぬと聞く。3ヵ月ほど経ったが依然として足取りも掴めぬらしい。愛知の県警のみならず、東京の警視庁までもが出張って捜査に加わっておるが未だ手がかりは無いようだな」
「そんなにかよ」
村雨がその手の筋から得た情報によると、現状では犯人に繋がる手がかりは髪の毛1本も掴めていないという有り様だとか。
「あ、思い出したぜ。確か、犯人は全員が顔をガスマスクで隠して手袋してたんだろ? だから髪の毛も指紋も残ってねぇと」
「そうだ。ゆえに、この国の警察もお手上げというわけだ」
「ほー。手の込んだことをするもんだよなあ」
現場の秘匿工作および逃走経路の確保から事件後の潜伏まで、あらゆる面で巧妙な捜査対策を打っている犯人グループ。銃規制の厳しい日本においてライフル銃を揃えている時点でお察しなのだが、彼らは全員がヤクザか。警察機関の全力を挙げた捜査にもかかわらず何故か「手がかりひとつ掴めない」というのは、犯人たちと警察上層部との間で何かしらの裏取引が交わされているからなのか。
日頃、タブロイド誌を読み過ぎている所為か、気づけばそんな憶測が頭をもたげてしまう。ここまで発展させては、憶測というより、もはや邪推でしかないのだが。
さて。ここらで話を戻そう。
「……で、その犯人が笛吹だってのか?」
「今の時点では確証が無いゆえ、まだ言い切れん。だが、何らかの形で彼奴が関わっておると見て間違いあるまい。そうでなくば、本来は銀行の倉庫にあるはずの金塊が何故鶴見にあったのか。説明がつかぬ」
村雨の推理はおそらく正しかろう。だが、今一つ論拠が足りない。笛吹が事件に関わったことを決定付け、なおかつあの金塊の持ち主が笛吹だと断言するには、どうにも物足りない気がしてならなかった。
ひとまず、今できる範囲内で推理を進めてみる。
「犯人は7人って言ってたよな。笛吹以外に、あと6人いたってことか。家入組の手を借りたとか……?」
「家入まで絡んでいるとなれば、少し事情は変わってこよう。家入行雄は金稼ぎの術に長けた男。奴の手にかかれば、金塊は疾うに札束は現金へと換えられておるであろうな」
「奪った延べ棒を延べ棒のままとっておく理由が無いってわけか……」
せっかく奪った金塊をいつまでも現金化せず、金庫の中で保管しておいたのは何故か。 盗品を現金化できないだけの切実な理由が、笛吹たちにあったと考えるべきだろう。
「うーん、何だろ。たとえば売り払う途中で足がつくのをビビったとか?」
「それは無い。家入の人脈を使えば、絶対安全かつ確実な方法で金塊を現金に換えられる。笛吹ほど悪知恵が働く男であれば、犯行に及ぶ前の時点でその辺りの手筈は整えておろう」
「だよなあ……」
あれこれと考察を巡らせた俺だが、やはり具体的な仮説は見出せなかった。金塊を奪った犯人が笛吹であると決定付けるだけの推理は、俺の頭では難しい。それは具体的な情報も少ない 村雨組長もまた然り。村雨も村雨で、不可解さに眉を潜めていた。
しばらく2人して頭を悩ませ、それからおよそ20分ほどディスカッションを交わした。しかし、答えは出ない。こんな場面に限って時間は早く進んでしまうのだから、人の世とはつくづく数奇なものである。
そもそも金塊の件は然程重要ではない、一種の副題のようなもの。組長には、他に思案しなくてはならない本題がある。これ以上こうして時間を浪費するわけにはいかないようだった。
「涼平。すまぬが、使いを頼まれてくれるか?」
「……ああ。いいぜ」
使いっ走りの買い物との名目で、 沖野同様俺にも席を外してくれという意味かと思った。しかし、組長が俺に告げた指示の内容は、かなり意表をついたものだった。
「これより鶴見へと向かい、件の金塊を回収して参れ。実際に私の目で見てみたくなった」
延べ棒を取ってこい――。
要は、そういうことだ。あれだけ推理を膨らませてしまったのだから興味が向くのは当然の至り。しかしながら、俺には懸念があった。
「取ってくるのは構わねぇけど、大丈夫なのか? さっきのあんたの読みが確かなら、あの延べ棒は強盗の証拠品ってことにならねぇか? そいつをうっかり持ってたら、俺たちが疑われちまうんじゃ……?」
「案ずるな。その辺りの対策は私の方で打っておくゆえ。今は兎に角、情報が欲しいのだ。家入だけでなく、坊門一派をどうにか切り崩す糸口となり得る情報がな」
一体どんな対策を打つのかは不明であるが、俺に命令を伝える村雨組長はいつになく早口だ。声色こそ変わっていないものの、その裏では確かな変化が起こっている。具体的な言葉を当てはめるなら「切迫感」の3文字が最も適切だろうか。非常に珍しいことだ。いや、俺が組に来てから初めてだ。
ああ。この人は本当に困っている。そう即座に直感した時、気づけば俺の体は動き始めていた。
「……うん。急いで取ってくるよ」
「ああ。沖野を伴って行くが良い。金塊を全て回収したらば、開化研へ持って行け。技術屋どもに調べさせるのだ。私も後ほどそこで合流する。頼んだぞ」
「分かった。任せてくれ」
立ち上がり、組長の執務室を足早に出た俺。沖野とは1階へと向かう階段の踊り場にて再会した。
「あ、ここに居たのか。ちょうど良かった。組長から使いを頼まれちまった。一緒に来てくれ」
「よし。行くか」
部屋の前で立ち聞きをしていたわけでもなかろうに、自然と話が早い。いつもなら「何で俺が」と感情のまま俺に反発をみせるだろうに。 歩きながらその理由を尋ねると、帰ってきたのは実に彼らしい言葉であった。
「よく分かんねぇけど、今がだいぶヤバい状況だってのは俺にも分かる。組長のためだ。自分の感情なんざ、気にしてる時じゃねぇだろ」
改めて書いておくが、沖野一誠はクーデターの件を知らない。知らされていないのだ。組長が俺を金塊回収に向かわせる理由は勿論、坊門組の強襲や勢都子夫人の亡命、その他、現在俺と村雨と菊川の3人のみで共有している秘密事項は、まったく打ち明けられていない。
起きている事の真相を知らなくても平気なのかと思ったが、俺が問うより先に沖野は「理由は後から聞けばいい。 笑い話としてな!」と豪快に言ってのけた。
これまた、彼らしい答えだ。 村雨組長を心から信頼し、己の全ての運命を委ねる気でいる。
「……ああ。そうだよな。組長の決めたことに間違いは無い。俺たちはただ、信じて突き進むだけなんだよな」
「何を当たり前のことを抜かしてやがる。麻木ィ。そいつが極道ってもんだろうが。ほら、余計なこと喋ってねぇで、さっさと行くぞ! !」
屋敷を飛び出した俺と沖野は颯爽と風を切り、今度は組所有のワゴン車にて鶴見へと向かって果たすべきを果たす。
笛吹の舎弟連中、あるいは隷下のチンピラの残党に襲われて戦闘となる展開もある程度は予想していたが、鶴見の旧大鷲会本部跡は既に元の廃墟へ逆戻り。もぬけの殻になっていた。
「油断すんなよ、麻木ィ。どこに誰が潜んでるか知れたもんじゃねぇんだからな」
「ああ。分かってるさ」
兵隊の多くは既に逃げ去った模様。 笛吹の気配も無い。仮に何人か残っていたところで、今さら俺たちが戻って来たところで襲ってこないだろう。そんな勇気のある輩は存在しないはず。
と、思っていた。だが、運命とは可笑しなもので、時として予想もつかぬ出来事に遭遇したりする。この時も例外ではなかった。まさしく案の定の事態が発生してしまう。
「テメェらぁーッ! 死ねぇぇぇぇ!!」
大きな斧を片手に携えた男が、獣のごとき奇声を上げてこちらへかかってきたのである。一体、どこに隠れていたのか。両目は殺意に満ち、俺たちを仕留める気満々でいる。
(や、やべぇ! 反応が間に合わねぇ……!)
だが、その男が俺の間近へ迫ることは無かった。俺が身構えるよりも早いタイミングで、既に沖野は刀を抜いていたのだ。
――シュッ。
何かが斬れる音がした。同時に、男の体から首が落ちる。わざわざ文字に起こすまでもなく、ほんの一瞬のうちの出来事であった。
「ほらな? だから言ったろ? 油断すんなって」
「……今の、めちゃくちゃ速かったな」
「そうか? 俺にしてみりゃ少し遅い方だったぜ。あんな雑魚を相手に本気を出すことも無い」
倒れて死体と化した敵の衣服で刃に付いた血を拭い落とし、沖野は刀を鞘に納める。その所作はさながら侍。まるで時代劇の一場面を観ているかのようで、非常に洗練されていて美しかった。
「……」
「橿原鬼神流は地上最強の居合剣術だ。抜刀の速さにおいて右に出る流派は無い。このくらい、朝飯前よ」
「……すげぇな。たまげたもんだぜ」
「ま、組長には敵わなかったけどな。俺があの人と初めて会った日には一方的だったよ。あっという間に素手で倒されちまった。ハハハッ!」
古武術の免許皆伝者である沖野をいとも簡単に撃破しまったという村雨組長。その強さもさることながら、 組長が沖野とどんな出会い方をしたのかが気になる。けれども、ここで雑談に花を咲かせていてはまたしても油断が生じる。昔話は、また後でゆっくり聞かせてもらうとしよう。
「よし。会長室はここだ」
「ほう? 随分と悪趣味な部屋だなあ。ま、いいや。さっさと運び出そうぜ。その金の延べ棒とやらを」
純金のインゴットはとても重く、とても金庫ごと持って帰るわけにはいかない。ゆえに俺たちは金庫から延べ棒を取り出し、たまたま近くに置いてあった台車に乗せて外へ運ぶことに決めた。本当に運が良い。金庫の中身が数時間の空白を経てもなお無事であった点はもちろん、よもやこれから運ぼうと思った矢先に、すぐ近くで運搬用の台車を見つけてしまうなんて。
自分の身に、こんな奇跡が起きようとは。あまりにも間の良い偶然に少し首を傾げつつも、俺は沖野と共に作業へかかった。
「俺たち、ついてるよなあ。麻木ィ。どうやって運ぶか悩んだ瞬間に台車と出くわすなんてよぉ」
「それは俺も思ったわ。でも、どうして台車が会長室に? 確かにさっき来たときもあったけど……」
「延べ棒を運ぶために決まってんだろ。そんなもん。ま、台車をここまで持って来ておきながら、どうして笛吹が金塊を運ばないままでいたのかは謎だけどな」
「だよなあ。あれ? よく見たら、この台車。けっこう綺麗だな。新品か? 傷や汚れがぜんぜん付いてねぇ。おかしいな。この会長室にあるのは軒並み古いものばっかなのに」
よく見たら持ち手の部分に某ホームセンターの商品タグがぶら下がっている。何故に台車だけが新品なのか。ひどく気になったが、わずかに浮かび上がった疑問は作業によって中断された。思いのほか、金塊な重量感があったのだ。
これは落とせば大変だ。床なら未だしも、うっかり足に落とそうものなら骨にヒビが入ってしまいそうな重さである。いけない。間違っても良からぬ場所へ落下させぬよう、最新の注意を払わなくては。
(……まあ、いいや。後で考えよう)
まるで煉瓦を扱うかのようにひとつひとつ両手で抱えて、俺は金庫の中からインゴットを取り出しては台車へと移す。表面にある刻印も、先ほど視認した通り。いずれも『7』から始まる6ケタだ。これが今年6月の海道銀行襲撃事件で奪われた、証拠品の金塊なのか。
無論、世間を騒がせた重大事件に絡んだ物に手を触れるのは生まれて初めて。それどころか、金塊を触ること自体が初体験である。微妙な緊張感に身を引き締めながら黙々と作業に励んだ。
「……ふう。これで全部か。すっげえ重さだわ。こりゃ。30個なのに何キロあるんだ?」
「たぶん100キロは軽く超えてるわな。バンで来て正解だったぜ。ほら、さっさと行くぞ。麻木ィ。モタモタすんな」
沖野に促され、俺は台車のハンドルを持つ。屋敷の入り口付近に停めたワゴン車に着くまでの間、俺が台車を押して沖野が護衛役をそれぞれ分担した。
二度あることは三度ある。道中、俺たちは何度か敵の襲撃を受けた。屋敷内に潜んでいたチンピラたちが隙を見ては飛びかかってきた。
「うぉぉぉぉぁっ!!」
「遅い。俺には止まって見えるぜ」
――ザクッ。
例によって、皆沖野に一刀両断されてゆく。当然の結果だ。いかに戦意だけが高かろうと、居合剣術を極めた熟練者に勝てるはずもない。
敵が現れては沖野に斬られ、一閃を受けて鮮血が飛び散る。そしてまた新しい敵が現れ、またまた沖野に斬られ、輪切りになった胴体が床にゴロゴロと転がる。その単調ながらに刺激的な光景が、延々と繰り返されるかに思えた。
しかし、俺たちが1階の昇降口付近へ近づいた時。行く手を塞ぐかのごとく現れた若い男が、奇妙なことを口走った。
「テメェら、中国人か!? そいつを運び出した後は俺たちは用済みだってのか!? ふざけるな! 分け前を寄越す約束だったろ!!」
その男は拳銃を抜くと、血走った目で俺たちに向かって叫んだ。
「だから異国の連中は信用ならねぇってんだ! 日本人を舐めるなよ! 死ねやぁぁぁぁぁぁーッ!」
おっと危ない。ここで銃を持った男に出くわそうとは、予想もしていなかった。
しかし、沖野はあくまでも冷静だった。
「はあっ!」
――グシャッ。
ほんのコンマ数秒の間に刀を抜くや否や、神速で突進をかけ、立ちはだかる男を文字通り真っ二つに切り裂いたのだ。
「ったく。脅かし程度にもならなかったぜ。ハジキを撃つなら、ギャーギャー騒ぐ前にさっさと撃たねぇとなあ。あれじゃあ隙がありすぎる。だよな? 麻木ィ」
「お、おう……」
しばらく茫然と突っ立った後、俺は我に帰る。ぼんやりしていたのは沖野の剣技に見とれてしまったからではない。男が叫んだ台詞が、どういうわけか頭の中で反響していたのだ。
(あいつ、俺たちを中国人って言った……?)
何を根拠にそのような思い込みを抱いたのか、もう殺してしまったので理由は分からない。それ以上は考えようもないし、確かめようも無いことだった。
「おい、麻木ィ! 何やってる! 早く行くぞ!」
大きな声で急かされ、慌てて沖野に追い付く。ワゴン車の前まで来ると、俺たちは落ち着いて金塊をワゴン車へ移し替える。一応、台車も持って帰ることに決めた。「どうして台車を?」と沖野には笑われたが、何とも云えぬ胸騒ぎがしていたのだ。
「この台車、絶対に何かあるわ。向こうに着いたら調べてもらおう。もしかしたら、何かの手がかりになるかもしれねぇからよ」
「ヘヘッ、大袈裟だな。別に俺は構わねぇが」
「どこで買ったんだろう。タグに載ってるホームセンターといえば、関内駅の近くだよな」
すぐには答えの出ない考察に頭を捻りながら、俺は沖野の運転する車に揺られてゆく。鶴見から開科研までは首都高と国道を通って20分ほど。この移動時間が、やけに長く感じられた。
しかしながら、いざ開科研に着いたところで出来ることは殆ど無い。白衣姿の研究者連中に金塊の鑑定を依頼するも、すぐに結果が出るわけではない。
俺たちが回収したインゴット30本が6月の事件で奪取されたものと同一であるか否かなど、実際の管理表と照らし合わせねば分からないのだ。その肝心のデータは開化研には無かった。
「で、その番号を書いた表みてぇなのは何処へ行けば手に入るんだ?」
「銀行に直接お問い合わせいただくか、もしくは警察に求めるか。何にせよ、こちらにはありません」
「おいおい、それじゃあ何もできねぇじゃん」
代表者の言葉で後頭部を掻きむしった俺。提示された2案は前者も後者も可能性が無い。問い合わせたところで銀行は教えてくれないだろうし、警察との協力などは気軽に出来るものではない。それこそ、多額の賄賂を手土産に話を持ちかけねばなるまい。
(仕方ねぇ。とりあえず、組長に連絡してみるか)
手詰まり感に大きなため息が出そうになった俺だが、不意に背後から肩をポンと叩く者が現れた。
「あ……麻木……お前たち、着いてたのか……」
ボソボソと呟くような低い声。明らかな聞き覚えがある。日高健次郎だ。
「日高さん!? あんた、どうしてここに?」
「く……組長に……言われて来た……お前たちが……運んでくる……金塊を……解析しろと……そのためのデータも……こちらで預かっている……」
聞けば、開科研で俺たちと合流してインゴットを調べるよう命じられて来たのだとか。彼の手には表に『極秘』と黒文字で書かれた小冊子が握られている。
「それが例のデータか?」
「あ……ああ……そうだ……あまり……大きな声では……言えないが……組長が警察から……さっき手に入れたばかりなんだ……」
「マジで?」
「あ……ああ……よく分からないが……県警本部長の……ツテを使ったらしい……大したコネクションをお持ちだ……あの人は……」
俺が鶴見へ向かって仕事を果たすまでの間、警察の上層部に掛け合ってデータの横流しを頼んでいた村雨組長。日高の見立てでは相当額の贈賄を対価として持ちかけたとか。神奈川県警の腐敗ぶりも去ることながら、まだ不確かな情報のためにここまでする村雨の行動力に脱帽だ。
「む……村雨組が……煌王会の……本家と……揉めてるって話は……さっき俺も聞いた……もう……なりふり構ってなんか……いられないんだろ……少しでも……希望が見出せるなら……1億の支出も……組長にとっては……安いらしい……」
「い、1億も払ったってのか!?」
何という恐ろしい数字。俺は腰が抜けそうだった。
「と……当然だ……神奈川県警本部長の……力を借りて……愛知県警から……データを貰うんだからな……」
「なるほどな。藁にも縋る思いってやつだな。まさに」
「お……おお……お前は……見た目の割に……そんな難しい言葉を……知ってるんだな……思ったよりも……賢い奴だ……見直したぞ……麻木……」
すると、隣で聞いていた沖野がそこへ割り込んできた。
「そういうお前は見た目以上にお喋りなんだなあ! 日高ァ! お前のことも見直したぜぇ。年下のガキ相手だとよくしゃべるんだなあ」
「お……俺だって……これくらいは……喋る……」
「んなこたぁどうだって良いんだよ。さっさと仕事を始めやがれ、根暗野郎。組長に大役を任されたからって調子こいてんじゃねぇぞ」
「う……うるさい……あっちへ行っていろ……」
大柄で長身の沖野と、低身長で猫背の日高。今のやり取りから、平時の2人の関係性が何となく分かった気がした。常日頃より、沖野は対人恐怖症気味な日高をからかって遊んでいるのだろう。両者の年齢は思いのほか近いのと見た。日高の方が、少しばかりオッサンに見えるのは気のせいか。
余談はさておき、日高の今回の役目は警察提供データとの照合だけに留まらず、回収したインゴットが本当に純金であるか否かの確認を行うらしい。開科研の技術職スタッフと協力して商品価値の鑑定までやるというので、日高の職人としての腕が大いに光ることになろう。
彼の作業を邪魔をしては悪い。小学生の悪ガキのごとく日高に絡む沖野は放っておいて、俺は建物の4階へとエレベーターで昇ってゆく。
そこにあるのはメディカルスペース。午前中に預けた恵里が、今どのような容態でいるのか。とても気になったのだ。
消毒液の匂いで満ちた重苦しい空間の中に1人の少女が寝っ転がっている 真っ白いベッドの上に、真っ白なシーツ、そして真っ白の掛け布団。
大原恵里だ 彼女は俺たちと別れた後、この開化研のビルへ連れて来られた。左手には点滴の管が繋がっていて、すやすやと寝息を立てて夢の中にいる。現在の容態はどうなのだろうか。
医師らしき白衣の男に聞いてみた。
「なあ、ちょっといいか?」
「どうしました」
「あの娘は今、どんな容態だ?」
「きわめて良好ですよ。解熱剤を服用したので熱は下がってて、今はその影響で眠っています。目立った怪我もありませんでしたし。明日には元気になると思われますよ」
医師からの報告を聞いて、俺は心から安堵した。無事で本当に良かった。彼女は大人の都合に付き合わされた被害者なのだ。たとえ父親の大原総長に非があったとしても、彼女自身に罪は無い。どうかこのまま元気になって父親の事へ帰ってくれればと思う。
いや、それはまだ先の話になるかもしれない。伊東一家との関係性を考慮すれば、恵里の身柄は今後の外交交渉のためのカードとして使うのが適当。
そういえば先ほど説明を聞かされたばかりではないか。その説明に、俺も納得したはずではなかったのか。
まったく。自分は一体何をやっているのだろう。「大人の抗争に振り回された哀れな少女」と恵里のことは割れんでおきながら、一方で俺自身もまた彼女を政争の駒として利用することを何ら悪と思っていないのだから。もはやダブルスタンダードどころの話ではない。とんだ自己矛盾ではないか。
止むを得ない話だが、ばつの悪さは残る。心の中で ため息をついていると、白衣の男が俺に問うてきた。
「彼女の親御さんには連絡を取られたのですか?」
「いや。まだだ」
「恐れながら。早く呼ばれた方がよろしいかと存じますよ。あの子はずっと怖い思いをしていたんです。心のケアが必要ということは、あなたにも分かるでしょう」
確かにそうだ。恵里の精神状態を真っ先に思いやるなら、一刻も早く大原総長に引き渡さねばならない。親の元に帰り、少しずつ元気を取り戻して行くのがいちばん良い。良いに決まっている。
だが、やはり今はその時ではない。おまけに現在の村雨組に伊東一家との外交交渉をやっている余裕など、有りはしない。
感傷的な葛藤に苛まれつつも、俺は首を横に振るしかなかった。
「……うーん。その辺の連絡は組長に聞いてみないと。俺一人の判断じゃあ何もできないわ」
「でしたら、すぐにでも組長に裁可を仰いでください。これ以上あの子を辛い目に遭わせるべきじゃない。家に帰してあげるべきです」
「ああ。伝えとくわ」
形ばかりの返事を投げて、俺は病室を出た。
つい数ヵ月前までの俺であれば、ここですぐさま公衆電話から組に連絡を入れて恵里の解放を組長に願い出るるだろう。
だが、今の俺はそれをやらない。 ここで恵里を大原総長に引き渡すことが村雨組の利益に悖ることを理解しているからだ。
ふと気づかぬ間に随分と腹黒くて計算高い思考を持つようになった俺。哀れな少女を前にしてもなお、基本的な発想の軸は揺るがない。何もかもが村雨最優先になっている。
(ったく、嫌な奴になったな……俺も)
そう己を総括した矢先、強烈な眠気が襲ってきた。
廊下の壁掛け時計に目をやると 午後2時30分。いつの間にやら時刻は昼を超えて、午後に差し掛かっていたか。思えばこの日は昼飯どころか朝飯もろくに食べていない。おまけに疲れのせいで体が重い。瞼が重くなるのも無理はないか。
少しばかり休んだって良いはず。そう思った俺は、廊下に置かれていたベンチに腰掛ける。腰を下ろした瞬間、じんわりと瞼が下がってくる。ああ、これは寝落ちというやつだ。どうにか意識を保とうと頑張った俺 だが、やはり人間、生理現象には勝てない。
そのまま俺は眠りの中へ落ちていった。
「……」
どれくらい、時間が経った頃だろうか。廊下のベンチ 眠りに耽る俺の体を強く揺さぶり、声を浴びせて起床へと誘う者がいた。
「涼平、起きよ! 涼平!」
誰だろう。少しずつ意識が覚醒し。まぶたが開く。それと同時に、うっすらとしていた視界が徐々に戻ってくる。視線の先にいたのは村雨だった。
「えっ、組長? どうして……?」
「お前こそどうしたのだ。かような所で寝息を立ておって。幾度も揺さぶったとて起きぬゆえ、何事かと思うたぞ」
突如として側に立っていた残虐魔王の姿に俺は驚いたが、熟睡にかまけてすっかり忘れてしまっていた。そういえば。村雨組長は後で合流すると言っていたのだ。
「あ、ああ……悪い。寝ちゃってた」
「疲れておったのか。まあ構わぬ。私はこれから出かけるところだ。お前もついて参れ」
「う、うん」
スタスタと歩き始める残虐魔王に、俺は眠い目をこすりながらついて行く。どこへ出かけるのだろう。行き先が非常に気になった
「開科研はもう良いのか? ここでのあんたの用事は済んだのか?」
「うむ。例の金塊だが、やはり盗品であった。あれは紛れもなく6月に名古屋で奪われたものだ」
「なっ!? マジかよ……!?」
「問題はあれを何故笛吹が持っておったかだ。まあ、大方の察しはついておるがな。これより赴くはその答え合わせも兼ねてのところ。お前も心しておくが良い」
例によって具体的な場所は明かしてくれなかった村雨組長。開科研のビル前に停めていた車に乗り込むと、そのまま運転手に発進を命じる。車は首都高を経由し、県境を越えて行く。
疲れもあってかぼんやりと窓の外を見ていた俺だが、県境を超えた瞬間にハッとする。東京だ。この車は東京へ向かっているのだ。
「えっ、東京!? どうして……!?」
「そこに目的があるゆえ。案ずるな。既に“手回し”は済んでおる。おかげで少しばかり時間は食わされたがな」
東京が中川会のお膝元であることは既知の通り。煌王会の人間である俺たちが軽々しく足を踏み入れて良い地域ではない。だが、何ら心配は無用だと村雨組長は言う。前もって“手回し”は施しており、直ちに政治問題に発展することは何一つ無いのだと。俺には想像が付かなかった。
(東京で何をする気なんだ……!?)
村雨が“手回し”とやらを行った相手が密約者の本庄利政、ないしは伊東の大原総長であることはすぐに分かった。もしや、村雨は彼らを通じて中川会に寝返るつもりなのか。
考えてみれば十分に現実味のある選択だ。かねてより親交のある本庄なら勿論の事、大原総長にも見込みはある。「あなたの娘を救出した対価」として仲介を頼めば、義理堅い性格の大原であれば引き受けざるを得ないからだ。
確かに午前中の坊門組との一件により、村雨組の煌王会での立場は非常に危うくなった。組織追放はおろか、下手をすれば組ごと総がかりで潰されかねない状況だ。そんな中、今の俺たちが縋る相手はひとつ。西の煌王会と同等の勢力を持つ関東の巨大暴力団、中川会だ。
中川会に寝返ることで、坊門ら煌王会が迂闊に横浜へ手出しできない状況をつくる――。
戦略としては こんなところか。しかし、当の中川会側が俺たちの寝返りをすんなり受け入れてくれるのだろうか。大いに疑問だった。話によれば 中川会の三代目会長 中川裕恒は とても 金や利権にがめつい性格という。彼の元へ何らかの手土産を持ち込まねば、俺たちを受け入れてくれことは決して無いだろう。
(どうするつもりなんだ……?)
そんな考察を頭の中で繰り広げているうちに、いつの間にか外は夕焼け空に変わっている。車も目的地へと着いた 車を降りた瞬間俺は驚いた。考え事に夢中になっているせいで気づかなかったが、その場所は俺を一度足を踏み入れたことのある。なんともデジャブ感が漂う場所であったのだ。
「おいおい、ここは浅草……だよな?」
「左様。雷門一丁目であったかな。お前にとっては懐かしかろう。先々月以来ではないか」
「あ、ああ。懐かしいわ……」
浅草寺から歩いて5分、高級料亭『馬橋』。
7月に村雨と本庄が初めて会った店である。確かここは浅草の老舗暴力団『関東岸根組』のシマ内にある謂わば極道の中立国で、利害関係の異なる者同士が秘密裏かつ平和的に交渉を行うのにうってつけのスポットだったか。
その辺の事情は2ヶ月前に本庄組長からレクチャーを受けているので、頭に入っている。そんな『馬橋』に来たということは、やはり今から会うのは中川会の人間か。しかし、どこか妙だ。中川に降るのであれば、同組織の本拠地の赤坂へと直接赴けば良かろうに。何故、このような緩衝地帯にて密談の席を設けるのか。
俺には組長の意図がよく分からなかった。ともかく、今はついて行くしかない。
「入るぞ。涼平。一応申しておくが、ここは関東岸根組の所領。中川でも煌王でもない組だ。迂闊な騒ぎを起こせば……」
「分かってるよ。その辺は前に本庄さんから聞いてる。俺だって馬鹿じゃない。時と場所くらい弁えられるさ」
「左様か。ならば、良いのだがな」
村雨に軽く釘を刺された後、俺は店の敷地内へと入って行く。最後に来てからまだ2ヶ月しか経っていないというのに、不思議とノスタルジーが込み上げてくる。それだけ今に至るまで俺が過ごした時間が濃密だったという証左か。
白漆喰の外壁と赤提灯が特徴的な玄関を開けると、ロビーで待っていたのは予想通りの人物だった。
「おう、待っとったで! 村雨はん!」
中川会直参『本庄組』組長、本庄利政。俺が彼と会うのはおよそ3週間ぶり。伊勢佐木長者町のホテルで一緒に茶を飲んで以来だった。
「遅れてすまない。例の客人は来ておるか?」
「首を長くして待っとるで。あんたが来るのがやけに遅かったさかい、しびれを切らしてもうたわ。今、すき焼き食うとるとこや。馬橋の名物やしのぅ。普段は食われへん分、舌鼓を打っとこうと思ったんとちゃうか」
「よろしい。しびれを切らして帰ってさえいなければ、いくらでも話をつけられるゆえ。此度は貴殿にも骨を折らせたな。恩に着るぞ、本庄公」
「ええねん。ワシとあんたの仲やないか。それに、今回はこっちも得させてもろたし。会長に話を通すんはちぃとばかり苦労したけど、大原の阿呆をビビらすことができただけでもワシにとっちゃあ収穫や。ほんま、おおきにやで」
再会の余韻に浸ることなく、すぐさま 実務的な会話を繰り広げる村雨と本庄。 一体何の話をしているのかは分からないが俺は とりあえず 黙って聞いておくだけ 余計な口を挟むことはしない。
今回の件で本庄が得た利益とは、具体的には何だろうか。会話の内容から察するに、昨日夕方に日本橋でチーマーの暴動が起きた件にはおそらく村雨が関わっている。「伊東一家の精鋭が豊橋へ行ったために本拠地が手薄になっている」と、村雨が本庄にリークしたように思われる。そして密告を受けた本庄が傘下のチーマー集団を使い、大原を脅かすために日本橋で騒ぎを誘発した。そう考えるのが妥当であろう。
ただ、日本橋の暴動の件は、本庄にとってそこまでの旨味は無いはず。せいぜい中川会におけるライバル、大原総長への嫌がらせになったくらい。「こっちも得させてもろたし」と目を細める以上、やはり金銭面での恩恵が発生していなければ不自然だ。
(本庄と村雨はどんな取引をしたんだ……?)
疑問に首を傾げていると、やがて本庄は背後で控えていた俺にも話しかけてきた。
「おう。涼平も来とったんか。しばらく会わへんうちに、ますます逞しゅうなったのぅ。調子はどうや? 村雨はんの跡取りに収まったて聞いたけど」
「あ、ああ。ぼちぼちやってるよ」
「そうかぁ。それなら良かったわ。ほんまのことを言えば、ワシの子になって欲しかったけどのぅ。宿命じみたもんもあるんやし」
その話は前に断ったはずだ。今更ここでまた蒸し返す必要は無いものを。 少し冗談ぽい口調ではあったが、その場に緊張感が走る。
「……」
軽く咳払いをして、村雨が言った。
「参るぞ。涼平」
助け舟を出してくれてありがたかった。本庄は饒舌な関西人。このまま彼のペースに飲まれた日には、延々とくだらない話が続くところであった。本庄も本庄だ。村雨本人がいるところで、敢えて引き抜きの話を蒸し返さなくたって良いだろう。
強く文句を言ってやりたいところだったが口には出さず、俺は逃げるように先頭を歩く村雨の背中について行った。
「……誰と会うんだ? 中川の会長さんか?」
「いや。違う。中川の三代目とお会いするならばかような所ではなく、赤坂へ赴かねばなるまい」
「だよな。そうと思ったぜ。で、これから会うのは誰なんだ? 勿体ぶらねぇで教えてくれよ」
「この襖を開ければ分かる」
部屋のすぐ前まで来た時、村雨は俺に改めて注意を施した。曰く、これから行われる会談の最中、何があっても黙っていろとのことだった。余計な口は挟まず、ただ村雨の後ろに座っていれば良いというのだ。
「出来る限り正座の姿勢を取れ。行儀よくしておるのだぞ。たとえそこでどんな話が交わされても、だ」
「分かったよ」
俺にだってその程度のことはできる。このような極秘 会談の席に同席させてもらうのだ。最低限の振る舞い方ぐらい心得ている。どうして当たり前のことを村雨がここで再確認してきたのか。俺には少し理解しがたかった。
「……では。入るとしよう。本庄公、頼む」
「おう」
村雨の一声で、本城が襖に手をかける。彼が勢いよく引き戸を開けると、座敷の中には見覚えのない2人の中年男性の姿があった。
「連れてきましたで、お二方! おたくらの三次団体、横浜は『村雨組』の村雨耀介組長ですわ」
運命の悪戯が、あるいは偶然の一致か。俺たちが案内されたのは2ヶ月前とまったく同じ奥座敷。
その少し広い和風空間の中央で、2人の男が並んで食事を摂っている。クチャクチャと汚ならしく音を立てて咀嚼する彼らはいずれも背広姿。見るからに高級そうなスーツを羽織っている。
入り口側から見て左に座っている七三分けの男は少し若く、よく見たら40代後半といった顔つき。部屋に入ってきた俺たちをジロリと見つめ、会釈も挨拶もせずに無言で視線を注いでくる。
一方、右側の男はそれよりも歳上に見えた。たぶん50代には差し掛かっているだろう。恰幅の良い体格に角刈りの頭髪という風貌。隣の人物は一流企業の重役にも見えなくもないが、こちらはいかにもヤクザといった容姿である。彼もまた、俺たちの入室を静かに眺めていた。
「……」
この男たちは誰か。すぐにでも村雨に問いたい気分であったが、黙っているよう言われたばかりなので口を慎んでおく。
代わりに説明をしてくれたのは、本庄だった。
「村雨はん。お望み通り、ここにお呼びしたで。右におわすは煌王会総本部長にして伊勢志摩貸元、庭野組の庭野建一組長。そして左におわすは同じく若頭補佐にして浜松貸元、三代目桜琳一家の片桐禎省総長や」
「うむ。大儀であった。後は私が応接つかまつるゆえ、貴殿はもう良いぞ」
「いやいや。ワシもこの部屋におるわ。今回は中川会の会長の仲立ちさかい、ワシには見届ける役目があるんや」
「左様か。ならば好きに致せ。言うておくが手出し口出しは一切無用ぞ。これは本来であれば煌王会の内々の話ゆえ」
大人たちの会話を黙って聞いていた俺だが頭の中には確かな衝撃が駆け抜けていた。いや、衝撃というより驚愕の方が大きいだろうか。 稲妻のごとき電撃が背筋を駆け抜けていくのがわかる。
(おいおい! こいつらって、確か……!?)
直系「庭野組」組長の庭野建一と、同じく「三代目桜琳一家」総長の片桐禎省。間違いない。この2人は坊門清史と結託し、今回のクーデターを起こした張本人である。
そんな奴らとどうしてここで会うのだろう。まさか村雨組長は彼らに降伏するつもりなのか いや 降伏はしないまでも彼らに取り入って組の破滅を回避する、何らかの策があるのだろうか。何にせよ、意図が分からない。分かる由も無い。
村雨が俺に黙っていろと言った理由が分かった。
何も聞かず、これから目の前で起こることをただ己の目で見て学べ――。
それが村雨の命令なのだ。
「では、始めるとするか」
軽く一声呟くと、庭瀬及び片桐の前に座った村雨組長。それを後ろで見つめながら、俺もその場に腰をおろす。
これからこの部屋で行われることに、全く想像が追いつかない。生暖かくも冷たい緊張感の中で、俺はその場の光景をただ視覚に捉えることしかできなかった。
本庄が呼び出したのは、なんと謀反の首謀者! 最高幹部の庭瀬と片桐と対峙し、村雨組長はどう出るか?
次回、すべてを懸けた極秘交渉が始まる……!