「悪いやつだよ、お前は」
「で、どうやって片付けんだ? 富田の死体」
「俺に良い考えがある」
任しておけと笑って見せた沖野。一体、どんな術があるというのか。俺はひどく気になった。無論、悪い意味で。短気で単細胞な“刀バカ”の沖野のこと、どうせろくでもない浅知恵が浮かんだものと思ったのだ。
ただ、かくいう俺もこれといった案はいまいち思いつかない。このまま無駄に時間を浪費しても困るので、いちおう聞いといてやる。
「……話してもらおうか」
「ああ。いいぜ。んじゃ、まずは手始めに。こいつに酒を飲ませるんだよ。そこにあるエレクトリカル・シャインで良いだろ。こっちに寄越せ」
「ああ? これか? ほらよ」
何をするつもりなのか。首を傾げつつも、俺はテーブルの上に置いてあった高度数ウォッカの瓶を沖野に手渡す。
「おう。んじゃ、さっそく飲ませるか。麻木ィ、こいつの口を開けさせとけ。途中で閉じるんじゃねぇぞ……」
そう言うと、沖野は瓶の蓋を外すと富田の口の中にボトルを強引に突っ込み、中の酒を注ぎ入れ始めた。富田はすっかり動かなくなっている。意識を失ったばかりか呼吸も絶えているようで、医学的に生きているのか死んでいるのか、まるで分からない状態だ。
「……ようし。こんだけ飲ませりゃ十分だろ」
この行為に何の意味があるのか。指示されるまま力の抜けた富田の口を手でこじ開けていた俺だが、どうにも疑問が拭えなかった。
「なあ? どうして酒を?」
「そりゃあ、お前。決まってんだろ。このオッサンに酔っ払ってもらうためだよ。その方が都合が良いからなあ」
注ぎ終えた酒の瓶を片付けながら、沖野は言った。
「富田は酔った勢いで高所から転落して死んだことにする。このホテルで酒をしこたま飲んで、ベロベロになった末に非常階段から足を滑らせてな」
なるほど。だから酒を飲ませるのか。
沖野の見立てでは富田は未だ完全に死んでいないらしく、臓器の機能は辛うじて残っている模様。そのため無理やりにでも体内に酒を流し込めば肝臓にアルコールが蓄積され、後に発見される彼の亡骸は酒臭くなる。その状況で一定の高さから落ちれば「酔った勢いで転落死した」という死因の偽装工作が容易に成立するわけだ。
何故に富田が仮死状態である旨を悟ったかといえば、沖野はかねてより人体の構造に精通していたのだという。曰く、橿原鬼神流の修行では人間の脈の測り方なども学ぶそうである。
「富田は呼吸が止まっちゃいるが、辛うじて脈は動いてやがる。だからトドメを刺すって意味でも高い所から落とした方が良いんだよ」
「へぇ。手首を触っただけで分かるなんてな。恐れ入ったぜ。あんたは単なる刀バカじゃなかったってわけか」
「うるせぇよ」
ともかく、知恵を授けてくれるのは有り難い。俺は沖野の指示で富田の体を担ぐと部屋を出て、廊下から非常階段に出て上階へと昇った。非常階段を歩いて移動する際中、泥酔により足がもつれて転落したように見せかければ良いのだ。ゆえに屋上まで行く必要は無い。
「その巨体を担いで運ぶにゃあ屋上まで行くのは重労働すぎんだろ。踊り場で構わない。手すりから身を乗り出した瞬間にバランスを崩した設定にする」
「了解したぜ。富田、たぶん100キロ近くあるだろ。この巨体を担いで屋上まで行かなくて済むってなると助かる。それにしても意外だな。まさか、あんたが俺を気遣ってくれるなんざ」
「気遣ったわけじゃねぇ。踊り場から落とした方が状況的に自然に見えるだけのこった。ほら、無駄口叩いてねぇでさっさと落としちまえ! 人目に付くとまずいだろうが!」
沖野に急かされ、俺は背中に担いだ巨躯を放り投げる。富田はフェンスを飛び越えて真っ逆さまに落ちていった。
ずっしりとした重さから解放され、わずかに足腰が安らぐ。だが、そんな余韻に浸る間もなく物凄い音が響く。大きな体が地面に叩きつけられた瞬間の衝撃は、考えていたよりもずっと激しかった。
――ドンッ!!!
思わず真下に視線を落とすと、そこには想像を絶する光景が広がっていた。
(けっこうグロいな……)
宵闇と同化するアスファルトの上に、真っ赤な肉片がいくつも散らばっている。それはさながらスイカ割りで破壊された西瓜の果実のようで、脳天から地面に激突した結果、富田の頭部がぐちゃぐちゃに損壊したのだと直ぐに分かった。思いのほか、血もかなり散らばっている。察するに、体重のせいで落下速度が増したのだろう。
そもそも何故にこのような真似をするのかと言えば、それは単に富田の死因を隠すためである。
村雨組長からも厳命されている通り、俺たちが豊橋に居る事実が明るみに出てはいけない。家入との外交問題に発展してしまうからだ。無論、奴の部下を手にかけるなどもっての外。家入に付け入る隙を与えぬよう、可能な限り隠密行動をとらねばならなかった。
俺たちにとって、富田との接触はあくまでも偶発的かつ想定外の出来事。秘密保持の観点から考えても、元よりあの男を生きて帰すなど有り得ない。口封じのために殺害し、問題になりづらい手段にて死体を処理する。これは一種の既定路線と言えた。
ただ、そうなった時に困るのが具体的な方法。人目に付かぬよう富田の死体をホテルの外へ運ぶのは勿論、ほぼ全域が家入組の支配下にある豊橋の街中にて処理を行うのは難しい。
そこで沖野が思いついたのが、前述のプランであった。富田を「酔いつぶれて動けなくなった人」に見せかけて非常階段まで連れて行き、踊り場から落とす。
さすれば発見者は富田が泥酔により高所から転落死したと思うだろうし、後頭部座礁により仮死状態であった沖野をにトドメを刺し、本当の意味で死に致らしめることが出来よう。おまけに落下時、頭部がグチャグチャになるので俺が暴行を加えた痕も目立ちにくい。まさしく良いことずくめであった。
「これで大丈夫かな。バレねぇかな」
「バレる? フフッ、んなことたぁ心配しなくていいよ。さっきの音を聴く限りじゃ相当強い力で地面に叩きつけられてる。誰が見たって転落死と思うはずさ」
「あ、でも。さっきは腹にも蹴りが当たったんだよな。もしも腹に傷が残ってたとしたら……」
「心配しすぎだっつーの。殴られた痕があったところで、どうせ伊東一家の仕業と思われるだろうよ。村雨組がここに居ることは本部以外、誰も知らねぇんだから。ビビってんじゃねぇよ。麻木ィ」
現在、豊橋には伊東一家が攻勢を仕掛けてきている。万が一、家入組が富田の真の死因に勘付いたとしても、その場合は伊東一家の襲撃を受けたとして報復を行うはず。今回ばかりは本当に運が良い。この好ましき状況をもたらしてくれた天恵には、本当に感謝するしかなかった。
夜が明ければ富田の死体がは通行人に見つかる。家入組も忽ち大騒ぎになるだろうが、その時はその時だ。今はとりあえず沖野のアイディアに全てを賭けてみるとしよう。いや、賭けてみようではないか。
(とりあえず、次に進むか……)
部屋に戻った後、俺は備え付けの受話器を手に取った。
「ちょっと電話をかける。静かにしといてくれ」
「電話? 誰にだ?」
「堀内っていう伊東一家の若頭だよ。さっき話したろ。情報交換のために携帯の番号もらったって」
豊橋にいる間、伊東一家とは実質的に手を結ぶことになっていた。共闘関係というよりは単なる情報交換、こちらに何か発見があったら連絡をするだけの取り決めを交わしたに過ぎないのだが。
「そういやあ。そうだったな。一応言っとくけどよ、麻木ィ。くれぐれも余計なことを喋るんじゃねぇぞ?重要事項は絶対に漏らすな」
「分かってるよ」
「いいか? 伊東一家は中川会の直参ってのを忘れるなよ。これからどうなるかは分からんが、奴らは現在、俺たちの敵なんだ。気を許すな」
「だから、分かってるっつーの」
それでも今後のためにも、ここでひとまず報告を入れておくのが良かろう。勿論、ここでの架電は俺が担う。下手に因縁をこじらせてはいけないので、沖野には傍らにて待機していてもらう。
『もしもし?』
「よう、堀内さん。村雨組の麻木涼平だ」
『おお! 兄ちゃんか!』
通話が始まると、数時間ぶりに耳にする堀内の声にはどこか切迫感があった。挨拶がてらに事情を聞いてみると、どうやら彼らは警察に追われているらしく、車での移動中のようだった。
『警察の追尾が思ったよりもしつこかったんでな。一旦、豊橋を出て浜松の辺りまで逃げてきたところだ。やっぱ兄ちゃんの言った通りだったぜ。あの街の警察は家入組に買われてる』
俺と別れた後、堀内ら伊東一家の面々は総長令嬢を探して豊橋市内を捜索したものの全く見つからず、迎撃に出た家入組の組員と遭遇して銃撃戦になったりした模様。それを語る声は若干の哀しみを孕んでいた。
『おかげでこっちは数が減っちまったよ。来た時は8人くらい居たんだがな、今は俺を含めて5人だ。1人は家入の兵隊に撃たれて、もう2人は警察にパクられちまった』
「そいつは……何つうか、気の毒な話だな」
『まあ、あいつらも覚悟の上だったろうさ。俺たちの稼業を続けてりゃあ、辿る末路は結局のところ2つ。死ぬか、豚箱にぶち込まれるかだ。皆、大原親分のために働いてるんだ。悔いはねぇよ』
「う、うん」
大原恵里は豊橋ではなく、横浜に居る――。
この事実を堀内たちは知らない。知っていたならば、豊橋の地で犠牲者を出すことも無かったはず。過ぎたことを悔やんでも仕方がないので俺としては割り切るだけだが、何ともばつの悪さが拭えなかった。
『で、兄ちゃんの成果は? わざわざ電話を寄越してきたからには、何かしら俺たちに報告してぇことがあるんだろ?』
「おう。お察しの通りだ……」
さて、これより何と説明したものか。俺は次の台詞に悩んだ。というのも、俺の中でひとつの考えが浮かんでいたのだ。
沖野にも釘を刺された通り、村雨組側の内情を洗いざらい吐露する気は無い。報告に尾鰭をつけて余計なことを付け加えるなど、もっての外だ。かと言って今さら「特に無い」とは言えない。慎重に言葉を選びつつ、出来るだけ誠実な対応を試みる必要がある。
悩みに悩んだ末、俺は意を決して話を切り出した。
「……実はさっき、家入組の若頭の富田を生け捕りにしてよ。いろいろと吐かせたんだ」
『何だと!?』
「そしたら興味深いことが分かった」
俺は電話の向こうの富田に、先ほど知ったばかりの情報を淡々と語ってゆく。主たる内容は大原恵里誘拐事件の経緯だ。誘拐を計画・実行した犯人は家入だが、奴の背後にいる笛吹慶久なる人物が黒幕であったという事実。
話の核心にも等しいとある部分を隠し、その上で順を追って堀内に説明していった。口調にたどたどしさが表れ出ないよう、かなり気を使っていたと思う。電話機に10円玉を投入する左手には自然と力が込められてしまった。
『なっ!? どういうこった。それじゃあ家入の野郎は、その笛吹とかいう親戚の小坊主のためにお嬢を攫ったってのか!?』
「ああ。吐かせるのに苦労したぜ。でも、申し訳ねぇ。あんたの所のお嬢さんがどこに捕まってるかまでは聞き出せなかった。そいつを喋る前に、富田は逃げちまってよ」
『逃げただと……?』
「一瞬の隙を突かれた。どこへ行ったのか分からねぇ。いやあ、惜しい所だったぜ。捕まえた時は酔っ払ってたから上手いこと情報を引き出せるかと思ったんだが」
富野は納得してくれたか。何とも気がかりであった。
『……』
しかし、それから数秒ほどの間を挟んだ後にやって来た堀内の反応は思いのほか芳しいものであった。
『……そちらの事情はひとまず分かった。何はともあれ、俺たちのために動いてくれたんだな。恩に着るぜ。家入の野郎、絶対に許さねぇ』
語った話は全くの出鱈目であるが、富田を捕らえておきながら逃がしてしまったことに文句を言われると思っていた。少しくらいは罵倒されることも覚悟していた。完全に想定外の反応だ。
「あんたらの期待に沿えず申し訳ない」
『いや。もう良いんだ。お嬢の居場所を富田に訊いてくれただけでも有り難い。村雨組には感謝してるよ』
「お、おう」
互いにいくつか些末な報告を交わし合った後、俺たちは通話を終了した。律儀にも電話をかけてやる義務などは無かったが、万が一の事態に備えて定期連絡は怠れない。むしろ伊東一家側の現状を知ることが出来ただけでも大きな収穫であろう。
(連中、今は豊橋に居ないのか……)
先ほどの打算が狂わないか、少し心配だった。堀内たちが浜松まで一時退避した具体的な時刻は存ぜぬが、内容によってはパラドックスが生じる。富田が転落死した時刻に伊東一家が豊橋市内に居なかったとなれば、それに関する責任の一切を彼らに擦り付けることが出来なくなるのだ。
あくまでも死因において他殺の線を疑われた場合の話だが、どうにも懸念は拭えない。選択肢が狭まったというか、逃げ道をひとつ絶たれたように思えてならなかった。
受話器を置いた後、俺はその旨を沖野に漏らしてみる。こみ上げる不安感が口調で表面化する俺とは対照的に、若頭補佐は至って冷静そのものであった。
「別に心配することは無いだろ。さっきの音はテメェも聞いたよな? あれは間違いなく、脳みそがぶっ潰れた音だ。顔に傷なんか残っちゃいねぇよ。顔ごと消えてんだから」
「いや、でも胸とか腹に痣があったら……」
「心配しすぎだ。仮に他殺と疑われたところで、俺たちの仕業と決めつける要素が何処にあるってんだ? 見た目の割に細かい野郎だな。テメェは」
肝の小さい男だと笑い飛ばされたが、俺の懸念は我ながらに“ごもっとも”であると思う。富田の体や衣服には俺と沖野の指紋がベタベタ付いているわけだし、それを解析されたら一瞬で正体が判明するのではないか。沖野はどうだか知らないが、俺は川崎で不良をやっていた頃に何度も警察の世話になっていて、既に指紋は採集済み。愛知と神奈川でデータの共有が行われようものなら、瞬く間に足が付いてしまう。
沖野が平然としていられるのが不思議で仕方なかった。冷静さを保っているというよりは、事実を事実として認識していない様子。事の重大さが分かっていないのは明白だ。彼が先刻の通話で気にしていたことと言えば、まったくの別件だった。
「それよりもなあ、麻木ィ。さっきはどうして出鱈目を言ったんだ? 大原の娘について、お前は例の堀内って野郎に『居場所を知らない』と説明したろ。何故に隠すんだ?」
「何故って。大事な情報は伏せるよう言ったのはあんただろ。別に、言う必要が無いと判断したから言わなかった。ただ、それだけだ」
「あれは伝えといても良かったんじゃねぇのか? いや、伝えるべきだった。そうすりゃ伊東一家に恩を売ることが出来た。何をやってんだよ! テメェは!」
沖野の言い分もわかる。確かに、あの場面で正直に話していれば堀内の歓心を買うこともできただろう。俺たちが得た情報を基に堀内が拠点に急襲をかけて恵里を救出すれば、それは村雨組の協力によって成し得たことに他ならない。大原総長は我らが村雨組長に感謝し、沖野の思い描くヴィジョンも現実味を帯びてこよう。
されども、俺には俺で考えがあった。
「そうカッカしなさんな。恩を売るにしたって、他のやり方がある。そう考えたから敢えて伝えなかったんだよ」
「他のやり方!? どんなやり方だッ!」
「単純な話だろ」
やや興奮気味に詰め寄ってきた沖野に、俺は続ける。
「大原恵里を村雨組の手で助け出す。そうすりゃ向こうに恩を売れるどころか、完全に貸しができる。違うか?」
偶然にも恵里の監禁場所は村雨の所領たる横浜市内に在った。ならば、その偶然をみすみす見逃す手などあるまい。
横浜へ帰って組長に一連の情報を伝え、すぐさま作戦部隊を編成し、鶴見の旧大鷲会本部跡へ殴り込みをかける。斯様にして救出した恵里の身柄を手土産に伊東一家へと赴けば、猛烈なる感謝と歓待をもって出迎えられること間違いない。
その先、伊東への貸しを如何に用いるかは今後の交渉次第だ。「見返りに俺たちの抗争に協力しろ」とまでは言えずとも、それなりに太いパイプを持つことが出来よう。中川会内には既に直参本庄組組長の本庄利政という同盟相手がいるが、味方は少しでも多い方が良い。群雄割拠、弱肉強食の極道社会にて勝ち上がるためには、各方面にコネクションを作っておくに越したことはないのだ。
自分でも、だいぶリアリティーの伴う青写真を描いたつもりである。一連の構想説いて聞かせるや否や、憤っていた沖野はすぐに落ち着いた。
「なるほどな。だから、伝えなかったってわけか。考えてみりゃあ鶴見は横浜、村雨組のシマだ。余所者の伊東一家にズカズカと踏み入らせるより、俺らの手でやっちまった方が理に適ってる」
「ああ。そういうことだ。さっき富田の言った話が全て真実で、俺たちが大原の娘を上手く助け出せりゃの話だがな」
沖野の表情がみるみるうちに綻んでゆく。つい数秒前までは肩を怒らせていたというのに、まったくこの男の情緒はどうなっているのやら。さしずめ、俺が自分と同じプランを抱いていたと分かって安堵し、仄かに喜んでいるのだろう。
俺はあくまでも己の考えを述べただけ。そもそもこれは本題に非ず。家入行雄の弱みを見つけるという本題を調べる過程で、たまたま遭遇した副産物だ。本題はこれから改めて調査をし直さなくてはならない。
とはいえ、無意味な口論を続けずとも良いのは非常に助かる。後に続いてきた沖野の言葉は、適当に流しておいた。
「お前のことを見直したわ。麻木ィ。間抜けそうに見えて、それなりに知恵を働かせてたんだよな。新入りの癖に大したもんだぜ」
「ああ。そいつはどうも。お褒め頂き感謝するぜ」
「だが、これから俺たちが救出を実行に移すまでどれくらい時間がかかる? すぐさま横浜へ飛んで帰ったところで、最低でも半日は見積もらにゃならん。人質の安全を最優先に考えるなら、さっき正直に伊東一家に伝えた方が早く事が運ぶんじゃねぇのか?」
「関係ねぇだろ。大切なのは『村雨組が大原の娘を救出しに行った』って事実だけだ。人質の生き死になんざ、どうだって良い。そりゃあ、生きてた方が大原のオッサンも喜ぶだろうけど」
所詮、村雨耀介の利益には直接関与しない話。たとえ大原恵里が既にこの世の者でなかったとしても、俺たちが彼女を助けに向かうことで伊東一家への貸しができる。それさえ達成できれば、後は全て取るに足らない些末事。
真っ先に考えるべきは、最終的に村雨組長が得をするか否か。それが俺の唯一無二の判断基準だ。なればこそ、わざわざ村雨の手で恵里を助けようという案を起こしたのである。
そんな真意を言語化して伝えてみると、沖野は笑みを浮かべた。
「はははっ。悪いやつだよ、お前は。その年齢でそこまでドライになれるのは大したもんだ。ますます見直したぜ」
悪いやつだよ、お前は――。
褒め言葉として受け取っておくとしよう。中学生の頃から俺は自他ともに認める“ワル”と思っていたが、それとはまた少し意味が違うらしい。こちらの方が度合いが強いというか、より本格的に“悪”ということなのだろう。
直後に沖野がニンマリとした顔で握手を求めてきたのは不思議だったが、ひとまず応じてやる。疲労が溜まってきていたので、この場で奴と無駄に口喧嘩を繰り広げる気など無かった。
「まだまだ青臭くて、気に入らねぇところはあるけどよ。少なくとも素質はある。今日を通して、テメェの思考回路が正常であることは分かった」
「正常? それってどういう意味……ああ、いや。そう思ってもらえるなら何よりだ」
「足りねぇ部分についちゃあ、これから励むこったな。俺をがっかりさせるんじゃねぇぞ。テメェには期待してるからよ」
「お、おう」
それからすぐに、沖野は俺を酒席へ連れて行った。「ホテルアカシア」の最上階にあるラウンジで一緒に飲まないかというのである。無論、俺は気が進まないが、沖野はすっかり上機嫌になってしまっている。不機嫌に当たり散らされるのも厄介だが、これはこれで困ってしまう。半ば強引に店へ移動させられる途中、戸惑いを隠せずにはいられなかった。
当然、席に着いてからも対応には苦慮した。
「さあて。お前は何を飲む? 今晩は俺の奢りだ。何でも好きなものを飲んでいいぞ。勘定は気にすんな」
「じゃあ、適当にサイダーでも」
「はあ? サイダー? 何故に酒を飲まない?」
「ここは敵地のド真ん中だ。酔っ払ったらまずい。あんたと違って俺は酒豪じゃないんでな。酒をかっ食らってフラフラしてる状態で敵に襲われでもしたら、上手く戦える自信が無い。俺は遠慮しておくぜ」
本当は沖野と一緒に酒を飲むのが、たまらなく嫌だっただけだ。何故か急に距離を詰めてきたとはいえ、このように軽薄な奴と一緒に飲む酒が美味しいはずがない。
急ごしらえの方便を駆使して何とか断ると、沖野はあっさりと引き下がる。店名こそ出せないものの、そこがソフトドリンクを出す店で本当に助かった。沖野と同じく純米大吟醸でも出された日には、とんだ苦痛を抱え込む羽目になっていただろう。
ただし、その代わり奴の自慢げな昔話を延々と聞かされ続ける羽目になってしまった。
「俺が橿原鬼神流の免許皆伝に至ったのはテメェと同じ15歳の時だ。ガキの頃から、ずっと剣の稽古ばっかりやらされててよぉ。おかげで若くして達人レベルになっちまったってわけさ。」
「へぇー。そうかい。そいつは良かったな。けど、戦国時代なら未だしも、平成の世じゃあ剣術で飯は食えないんじゃねぇのか?」
「で、生きる糧に困ってた時に出会ったのが村雨耀介だ。俺がヤクザになったのは『刀で人を斬れるから』ってのもあるが、一番は組長に恩を返すためだ。あの頃、人生のどん詰まりに居た俺を拾ってくれた恩を返すために、俺は剣を振るい続けているのさ」
「そらまた、ご立派なことで。組長とは長い付き合いなんだな」
要は付き合いの長さを自慢したいのだけなのだろう。俺と同じ15歳で古流剣術の位階を取得したくだりを強調する時点で、お察しだ。
「俺はなぁ~村雨耀介に恩があるんだよ~。一生かかっても返しきれねぇほどのデカい恩だ。きっとこの先、あの人にずっとついていくんだろうなあ~」
グラスに注がれた酒を空にした後、しみじみと語る沖野。
彼が美味そうに飲んでいるのは“阮年”なる愛知三河地方の地酒。ラウンジの店主曰く豊橋では広く親しまれているようで、きりっとした口あたりと優しい甘さが見事に同居した風味が特徴という。店側には「お連れ様も一杯どうですか?」と勧められたが、俺は最後まで断った。
嫌いな奴と飲む酒など、まっぴら御免である。
「いやあ~、豊橋ってのは良い街だなあ! 飯も美味いし、酒も美味い! 次に来るなら観光で来てぇぜ! なあ、麻木ィ!」
「ああ。そうだな。いい街だな」
仏頂面で相槌を打つ俺にはまったくお構いなしで、沖野は同じく豊橋名物らしい“ちくわ”を肴に酒を食らい続ける。やがて、彼は4杯目のグラスを飲み干すと、高らかに言い放ったのだった。
「豊橋は本当に良い街だぜ。あーあ、ここが敵地じゃなかったらなあ! 願わくば、豊橋を俺たちのシマにできねぇもんかなあ! はーはっはっはっ!」
おいおい。何を口走っているのか。俺たちが村雨の人間である事実は、徹底して伏せねばならないというのに。「壁に耳あり障子に目あり」の概念を沖野は存ぜぬのだろうか。具体的に村雨組の3文字こそ出していないものの、かなり危うい言動だ。
(こいつ、ヤバいな……)
第一に、酔っ払うのが速すぎる。先刻は奴を酒豪と持ち上げたが、実際には俺の方がアルコールに強そうだ。
酒に吞まれるだけならば未だしも、その結果、尋常ならぬ失敗を起こされては堪ったものではない。これだから、酒でタガが外れる人間は嫌いなのだ。酔った勢いのままに高笑いする沖野を前に、俺はただただ呆れ、周囲に家入組の目が無いかを気にかけ、そして彼が
村雨組というワードを口に出さないかを不安に思うしかなかった。
「……」
そこからの時間は、実に長く感じた気がする。
ラウンジの閉店ギリギリまで飲み続けて酔い潰れた沖野を背負い、奴の吐息を悪臭を嗅がされながら自室へと戻った。勿論、富田と違って、こちらの男は非常階段から投げ落としたりしない。部屋へ戻るなり、2つあるシングルベッドのうちのひとつに寝かせてやるだけ。
よもや、ここまで酔っ払うとは思わなかった。とりあえず朝まで待とう。しかし、仮眠をとろうにも沖野のいびきが五月蝿くて眠れない。部屋が別であれば良かった。宿代をケチって1部屋しかチェックインしなかった沖野を恨みつつ、環境の悪さにひたすらに耐えて朝がくるのを待つしかなかった。
しかしながら、時計の針というものは実に不思議な性質を持つ。心地よく感じるときほど進みが速く、逆に不愉快あるいは苦痛に感じているときにはひどく遅い。俺にとってはその日も例外ではなく、なかなか朝が来ない。
いびきの爆音に耐えながらじっと目を閉じ、自分の中では1時間ほど経ったと思ったら、実際には10分しか経っておらず愕然とする。その流れが延々と繰り返されたが、やがて俺は限界を迎える。午前5時12分。朝とも夜とも言い難い、実に微妙な時間帯だった。
(外の空気に当たってくるか……)
もう眠りに就くのは諦めた。ゆえに、きっと今日は寝不足になる。後になって押し寄せてくるであろう睡魔を抑え込むためにも、缶コーヒーの1杯も飲んでおいた方が良いだろう。ホテルを出た駅前にあったコンビニにでも行こうと思い、俺は部屋の外へ出た。
されど、エレベーターで1階に降りたところで俺の足は止まる。止まらざるを得なかった。どういうわけか、ロビーに人だかりができていたのである。
早朝だというのに、ぱっと見た限り20人上は集まっている。一体、何があったのだろう。不可思議に思いつつも、わずかに嫌な予感も胸をよぎる。まさしく恐る恐るといった具合に状況を静観していると、程なくして事の真相が分かり、俺は戦慄した。
「あれは自殺? 屋上から飛び降りたんか?」
「いや。このホテルに屋上は無いはずや。おそらくは非常階段から飛び降りたんやろな。もしくは、足を滑らせたか」
「朝っぱらから、どえりゃーもんを見てもうたわ。頭が完全に潰れとったで。この辺の人やろうか?」
「分からんな。何せ、顔がグチャグチャになっとったからのぅ。背広を着とったから、たぶんサラリーマンやと思うわ」
宿泊客とみられる男性2人組の話し声を立ち聞いて、一気に凍りいつた俺。最後まで聞かずとも、すぐに分かった。彼らが話しているのは富田のこと。先ほど俺たちが転落死させた家入組若頭、富田の死体について語り合っているのである。
(もう見つかっちまってたか……)
多くの人が行き交う駅前なので当然といえば当然だが、死体が発見されて騒ぎになるのはもっと後になると思っていた。新幹線の停車駅を有する街といえども、豊橋は東京や横浜ほど大きくはない。夜間の人通りも決して多くなかろうと踏んでいたのだ。
しかし、俺の見通しは甘かった。話を聞いた限り、富田の死体は1時間前に偶然近くを通りかかったホテル職員により発見され、現場には既に警察や消防も来ているという。
大体の事情が分かると、俺は即座に踵を返した。
これ以上、ここに留まるのは得策ではないと判断したからだ。ましてや、いまホテルの外へ出るなどもっての他。警察当局は飛び降り自殺の線で捜査しているようだが、やはり念のためだ。この街の法執行機関は家入組と癒着している。リターンの少ないリスクは取らないに限るだろう。
駅前のコンビニにて缶コーヒーを買うことを断念し、俺は大人しく部屋へと戻る。室内では相も変わらず、沖野がいびきをかいている。気持ちよさそうに寝息を立て、子供の用に穏やかな表情で夢の中だ。よもや、富田の死体が既に人目に付いてしまっているとは思ってもおるまい。まったくもって、馬鹿な奴である。
(……さて。これからどうやって時間を潰すか)
叩いても、揺すっても、沖野は一向に起きる気配が無い。ここで暇を解消する手段と言えば、テレビをつけるくらいしか思い浮かばなかった。
ため息と共にテレビをつけると、画面に移ったのは公共放送局のニュースキャスター。どうやら早朝の報道番組を放送しているようだ。日頃よりニュース番組を視聴する趣味は無いが、この時間帯では何処の局も似たような番組構成であろう。止む無く、俺はブラウン管に目と耳を向けた。
『……次のニュースです。今月20日、愛知県豊橋市内の路上で覚醒剤を所持していた疑いで逮捕された男が、今年6月に名古屋市で発生した金塊強奪事件への関与をほのめかす供述をしていることが分かりました』
偶然にも、豊橋にまつわるニュースだ。妙に気になったので、俺は音量を上げて画面を深く注視してみる。
『男は事件について「あれは俺が仲間と一緒にやった」と供述を始めており、警察は供述の信ぴょう性も含めて慎重に捜査を行う方針とのことです』
世間を騒がせた強盗事件の犯人が別件で逮捕されたかもしれないという、何とも不思議なニュースであった。
3ヵ月前、名古屋市中区のローカルバンク「海道銀行」本店が襲われ、貸金庫にあった金塊が奪われる事件が発生していた。銀行を襲ったのは拳銃や自動小銃などで武装した12名の男たちで、彼らは正面入り口から入って銃を乱射し、店内を制圧。偶然居合わせた客を人質に取り、行員に貸金庫へ案内させ、約5億円相当の金塊を奪取し逃走した。その際、人質にされていた行員が4人死亡している。
白昼堂々自動小銃を携行しての大胆な犯行や、金塊の確保から脱出に至るまでの手際の良さ、それから人質殺害を躊躇わない残虐性などから世間を震撼させ、連日連夜テレビで大きく報道されていた事件だ。
発生直後から愛知県警は懸命な捜査を行うも、犯人は未だ捕まらず。警察が総力を挙げても容疑者の割り出しどころか、逃走時の足取りさえも掴めない点もまた世間の関心を集め「戦後最悪の銀行強盗事件」もしくは「皇銀事件の再来」などと見出しをつけて報じるマスメディアもあった。
かなりテレビで騒がれた事件だったので、俺も何となく覚えている。その犯人が、ついに捕まったというのか。
銀行強盗は難易度がきわめて高い重大犯罪。それを成功させてのけた人間が、覚醒剤の所持などというチンケな理由でこうもあっさり捕まってしまうものなのか。ニュースによれば「男の供述の裏付けは今のところ取れていない」とのことだが、俺は目を奪われずにはいられなかった。
(もし本当だとしたら、すっげえニュースだぞ。これ)
ちょうど、その時。沖野の声が聞こえた。ベッドの上でガーガーと寝息を立てていた沖野が、テレビの音でついに目を覚ましたらしい。
「うるせぇなあ……静かに寝かせろってんだよ……って、あれ? ここはどこだ? 俺、どうして部屋に戻ってんだ? 店で飲んでたんじゃねぇのか!?」
見るからに戸惑っている沖野。察するに、飲んでいる途中で記憶を失くしてしまったか。
「よう。あんた、酔い潰れてたから俺が部屋に運んだんだよ。ったく。世話をかけさせやがって」
「お、俺が酔い潰れただと!?」
「ああ。ひどいもんだったぜ。でも、あんたは見た目の割に律儀な野郎なんだな。ベロンベロンに酔っ払ってても勘定だけはきっちり払うなんて。尊敬するぜ」
「そ、そうだったのか……!」
己の置かれた状況が吞み込めず、困惑を隠せない様子の沖野。自分が酔い潰れて寝てしまったという事実にも、いまいち納得がいかないらしい。
(さては、自分は酒が強いと思ってやがるな……)
しかしながら、事実は事実。頭を苛む痛みによって、嫌でも認めざるを得ないようだ。側頭部を押さえて顔をしかめつつ、俺に施しを要求してくる。
「すまんが、麻木ィ。水をくれ」
「水?」
「このホテルなら、冷蔵庫に入ってるはずだ。泊まりの客は自由に飲んでいいミネラルウォーターがな。早く取ってくれ。頭が痛くて敵わん」
「ああ。分かったよ」
どうして自分がという思いもあったが、ここで動かなければ後が面倒。俺は止む無く、部屋備え付けの冷蔵庫からペットボトルを取り出して沖野に渡した。
「ほらよ」
「おお。助かる」
ペットボトルの蓋を勢いよく開けて水を口の中に流し込み、軽快な音を立てて飲んだ沖野。やがて半分くらいまで飲み終わると、大きく息をついた。
「ぷはぁ~、こりゃあ生き返るぜ!」
「なあ。今日はどうする? 横浜に帰るまで、まだ豊橋で……」
「悪いが話は後だ。もうひと眠りさせてもらう。何にしたって、二日酔いじゃ上手く動けないからな。すまんな」
俺の話を遮り、再び布団に潜ってしまった沖野。
(おいおい! ふざけるなよ……!)
今後の動きを沖野と打ち合わせようと思ったが、叶わなかった。この男は状況が分かっていないのか。俺たちに、悠長に構えている時間など何処にも無いというのに。敵地に居ながら酒を浴びるように飲んで泥酔した点も含めて、あまりにも自覚を欠いている。組長から与えられた仕事を何だと思っているのか。俺は、込み上がる腹立たしさを抑えるので精一杯だった。
「ああ。こりゃあ、ここに置き去りにするしかないかもな。いざとなったら、俺ひとりだけで動くか。どうせクソの役にも立たなそうだし!」
敢えて沖野に聞こえるように、少し大きめの声で放った独り言。しかし、奴が跳ね起きて俺に抗議することは無かった。再び布団にくるまってから1分も経っていないというのに、既に大いびきをかいている。
(駄目だ。こりゃ)
そう思って、俺が大きな舌打ちをした瞬間。偶然にも、室内に奇妙な電子音が響いた。
――ピピッ! ピピッ! ピピッ!
一体、何の音か。思わず背筋に衝撃が走る俺。電子音は鳴り止まず、何度も繰り返される。聞き慣れぬ音にひどく戸惑った俺だが、やがてそれは携帯電話の着信音であると気付いた。
鳴っていたのは、沖野の携帯。ベッドの脇の机に放置されたまま、けたたましく着信を告げている。
「おい、沖野さん。鳴ってるよ! 携帯が鳴ってる!」
「ぐがぁ……ぐがぁ……」
「起きろよ! あんたの携帯が鳴ってるんだよ!」
「ぐがぁ……ごごぉ……」
駄目だ。全く起きない。一方、携帯は相変わらず鳴り続けている。こんな時間に着信を寄越すということは、何かしらの急用があるのだろう。組からの緊急連絡だったらいけないので、俺は仕方なく端末を手に取り、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『お、沖野の兄貴……と思ったら、テメェは麻木!? おい! 何でテメェが兄貴の携帯を使ってやがるんだ!』
電話の主は沼沢。やはり案の定、組からの電話だった。てっきり沖野が出ると思っていたようで、酷く驚いている。面倒だが、ここは説明してやらねばなるまい。
「沖野さんは寝てるよ。酔っ払ってな」
『何!? 酔っ払ったてことは、飲んだのか!?』
「ああ。この街の地酒をしこたま飲んでたぜ。呑気なもんだよなあ。でっけえいびきをかきやがってよ」
『ま、まずいな。今すぐに兄貴を起こせ!』
声の色から察するに、だいぶ焦っている様子の沼沢。一体、何がどうしたのか。沖野の酒癖の悪さを知っていて、このまま放っておくと何かしら取り返しのつかない事態を招く可能性があるとでもいうのか。沼沢が妙に声を震わせる理由が分からなかった。
「おいおい。どうした? 何をそんなに……」
『いいから! 早く沖野の兄貴を起こせ! そして兄貴に電話を代われ! これは緊急事態なんだよ!!』
緊急事態――。
やはり、そうであったか。胸騒ぎをおぼえた通りだ。むしろ、そうでなくてはこんな朝早くから電話を寄越したりはしないだろう。沼沢の狼狽ぶりから分かるように、これはよほどの事が起きたと考えて間違い無かろう。
俺はあくまでも冷静に、なおかつ穏やかに応じた。
「わかった。けど、深く寝入っちまってて。起きるにはちょっとばかり時間がかかるかもしれねぇ。何が起きたんだ? 急ぎの用なら、俺が代わりに伝えておくぜ?」
『じゃ、じゃあ、今すぐ横浜に戻ってくれ! 1秒でも早く! 冗談抜きで、まずいことになっちまったんだ!』
「何があった?」
『屋敷が囲まれてるんだ! 『女将様を渡せ』って、煌王会の本家の兵隊に! ああ、もう、何が何だか分からねぇよ!!」
沼沢から伝えられた情報を整理し、心の中で復唱してみる。
(煌王会の本家が『女将様を引き渡せ』と……?)
それはすなわち、勢都子夫人が横浜の村雨邸に滞在している事実が煌王会本家=坊門らクーデター派に露見したことを示している。
「……ちくしょう。思ったより、早かったな」
『ん? いま、何て?』
「いいや。何でもねぇ。こっちの話だ。とりあえず、沖野さんを起こして伝言するわ。出来るだけ早く横浜に戻るから、組長にもよろしく伝えといてくれ」
『あ、ああ! 分かった!』
電話を切った後、俺はため息をつく。
勢都子夫人の所在が、坊門たちに悟られてしまった。煌王会本家の情報力は侮れぬ。ゆえに遅かれ早かれこうなっていただろうが、あまりにも早い。俺の想定の10倍くらいは早い急展開である。おまけに坊門達は、既に村雨邸に兵を差し向けてきているというのではないか。
(これから、どうなっちまうんだ……?)
ともかく。今は沖野を起こして、その事実を伝えなくては。何をするにも、先ずはそこからだ。
「なあ、沖野さん。起きてくれ」
「ぐがぁ……ぐがぁ……ぐがぁ……」
「いま、横浜からあんたの携帯に電話があってよ。組がカチコミを受けてるそうだ。まずいことになったって」
「ぐがぁ……ええっ? おい、今、何と言った? カチコミを受けただと? それは本当か?」
偶然か。あるいは、ヤクザとしての血が作用した本能的な現象か。先ほどは如何に揺さぶろうとびくともしなかったというのに。「カチコミ」の一言を口に出した瞬間、沖野は飛び起きた。
実に奇妙な男であるが、今は好都合だ。先ほど沼沢から受けた通達をそのまま伝えさせてもらおうではないか。
「ああ。何故だか分からんが、煌王会本家の連中が村雨の屋敷を取り囲んでいるらしい。だから、今すぐに戻れって、組長が」
恐れていたことが、あまりにも早々に現実と化してしまった緊急事態。そんな時だというのに、俺は自分でも驚くほどに冷静さを保ったままだった。
村雨組を襲う想定外。一体、どこで坊門一派に気づかれたのか? この事態を前に、村雨耀介はどんな決断を下すのか?
次回、緊迫の心理戦が始まる!!