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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第8章 餞別
136/252

呉越同舟

「やっと着いたか……」


 列車から降りると、俺たちは蒸し暑さに包み込まれた。


 駅特有の熱気というか、独特の空気感だろうか。プラットホームの温度計は28℃を指している。これでは殆ど真夏と変わらない。彼岸を過ぎた9月末にしては珍しい暑さだが、横浜とは違い、この地域の気候では当たり前のことらしい。


 ここは豊橋市。


 人口35万人を有する愛知県南部の都市で、海と山に囲まれた自然豊かな街だ。吉田城や石巻山といった緑あふれる観光名所だけでなく工業も盛んで、市内を流れる豊川や三河湾を用いた水運で古より栄えてきたといわれる。


 平成より遡って約500年前の室町時代には、既に東西を結ぶ交通の要衝として、時の権力者に目をつけられていたのだとか。街として発展し始めたのが幕末以降である横浜や川崎とは、歴史の重みが違う。


 そんな豊橋に降り立った目的は、断じて観光などではない。村雨組の今後を左右する、とある密命を俺たちは帯びているのだ。


 両腕を上方へ伸ばして新幹線の移動疲れを解きほぐしていると、沖野が言った。


「気合い入れろよ、麻木ィ。この役目をしくじったら横浜へは戻れねぇぞ。全身全霊、命がけで務め上げるんだ」


「ああ。言われなくてもわかってる」


「このまま家入の思い通りにさせるのは癪だ。何としても大原の娘を救い出す。必ずな」


「ああ……」


 やはり沖野は心得違いをしている。新横浜駅から豊橋駅まで、計1時間47分の大移動の最中に誤りに気づいてくれたらと淡い期待を込めたが、残念ながらそれには至らなかったようである。


 今回、俺たちが豊橋で果たすべき役目は情報収集。


 家入組の本拠地であるこの街で、家入行雄に関する調査を行うことだ。勿論、普通の情報ではいけない。奴の弱みを握るに足る、とびきり大きなネタを取って来いというのが村雨組長のご命令だ。


 情報と言っても大から小まで、沢山ある。その中から家入の弱みとなり得る材料を見つけ出すのは至難の業。どう考えても容易に進むはずが無い。


 本来ならばここで俺と沖野の二手に分かれて調査を行えば少しは早く進むのだろうが、生憎沖野の頭には大原恵里の救出という謎のミッションが何故かインプットされている。奴は村雨の発した命令を勝手に解釈し、組長の真意が救出作戦にあると頑なに思い込んでいるのだ。


 ただでさえ沖野とは衝突が絶えず、性格的に反りがまったく合わないのに、こんな様では非常に厄介だった。


「いま、大原たち三代目伊東一家も豊橋ここへ向かっているはずだ。それより早く娘を見つけて救い出せば、村雨組は大原に恩を売ることが出来る。『助けてやった見返りとして兵隊を貸せ』と持ち掛ければ、横浜の抗争が一気に片付くぞ」


 沖野には申し訳ないが、俺は出来の悪い夢物語としか思えなかった。そもそも村雨組と伊東一家では代紋どころか、格が違う。仮に救出作戦が上手くいったところで、大原は村雨のためには動かないはず。中川会の直参が煌王会の三次団体に助力するなど、有り得るべくも無かろうに。


 だが、それをどんなに淡々と伝えたところで「いいや。違う」の一点張りで沖野は譲らない。馬の耳に念仏とは、まさにこのこと。先が思いやられて仕方がなかった。


「……あのさぁ、もし仮に大原の娘を助けるとして。どうやって救い出すつもりだ? そいつがどこに閉じ込められてるかも分からねぇ状況なんだぞ?」


「分からねぇなら調べれば良い。家入の若衆の一人をとっ捕まえて、死なない程度に痛めつけて吐かせるんだよ。簡単な話だろう」


「とっ捕まえるってあんた、そんなことしたら騒ぎになるだろ? 俺はともかく、あんたは村雨組の若頭補佐だ。向こうにも顔が割れてると思うが?」


「そうだなあ。なら、敵さんへの拷問はお前がやれば良い。俺の役目は人質の監禁場所へ踏み込む時の露払いってことで」


 無茶苦茶だ。この沖野一誠という男は、得物の刀を振りまわして格好よく戦うことしか考えていない。彼の後ろについて改札口へ続く階段をのぼりながら、俺は思わずため息をついてしまった。


「はあ……」


 村雨組長の真意の程はさておき、俺に沖野を同行させた理由は何となく分かった。これは組長が俺に課した試練であり、ゆくゆくは彼の養子として村雨組の継承者になるための試験のようなもの。後先考えない戦闘狂の刀バカ、沖野と敢えて行動を共にさせることで、俺の器量を鍛えて経験を積ませようというのだ。


 厄介者の手綱を引いて、しっかりとコントロールすること。これは極道のみならず、ありとあらゆる分野のリーダーに求められる必須の技術である。


 教育が目的ならばもっと他の機会もあったろうにと首を傾げつつも、俺は現実を受け入れるしかなかった。文句を言ったところで、もう自分は豊橋へ来てしまったのだから。沖野を抑制しつつ、如何に情報取集を進めるか。これからのことを考えていくしかない。


「おい、麻木ィ。お前は豊橋へ来るのは初めてか?」


「ああ。初めてだよ」


「そうか。だったら、こいつを渡しといてやる」


 沖野に渡されたのは1枚の小冊子。表紙には『豊橋観光ガイドマップ』と書いてある。見たところ、街の地理を事細かに記した地図のようだ。


「お、おう。こりゃあ、どうも」


「7ページ目を開いてみろ。ちょうど真ん中ら辺にあるひろこうって通り、そこは豊橋で一番の歓楽街なんだが、3丁目に家入組の事務所がある」


「ええっと、広小路通り3丁目のケーキ屋と喫茶店の前にある建物? これが家入組の事務所だってのか?」


「そうだ」


 沖野は大きく頷いた。そのビルは表向き「家入興産」という屋号を掲げているらしいが、黒いレンガ造りの威圧的な外観からしてヤクザの事務所だとすぐに分かるという。沖野自身も村雨の使いで何度か訪れたことがあるそうだ。


「地上4階建てて、地下には武器庫と拷問部屋がある。まあ、おそらくは家入の事務所だろうな。大原のお嬢ちゃんが捕まってるのは」


「確かに地下室って時点でアレだよな。人を閉じ込めておくにはちょうど良い。けど、まだそこにいるって決まったわけじゃないだろ?」


「いいや。絶対にそうだ。家入行雄ってジジイは昔から単純だからよ。拉致だの誘拐だので人を監禁するがある時は、必ず事務所の地下室を使うはずだ」


 根拠薄弱にも程がある、沖野の見解。家入が間抜けなのは俺自身も認める所だが、だからと言って当たりをつけてしまうのは尚早だろうに。しかしながら、俺が「それは単なる決めつけだ」と苦言を呈そうとした時には、沖野は既に次の行動に映っていた。


「よし! そうと決まりゃあさっそく作戦開始だ。麻木ィ、お前はとりあえず、いま教えた家入組の事務所近くを探ってみろ。何かわかるかもしれねぇぞ」


 だから、今回の仕事は救出作戦ではないというのに。完全にその気になってしまっている沖野を前に、俺は困惑するしかなかった。一体、どうやって接していけば良いのやら。


(もう、こいつは放っておくしかねぇか……)


 沖野は沖野で自由に動かせて、俺は粛々と情報収集にあたるべきか。しかし、それでは沖野に好き放題させてしまうことになる。豊橋市内で奴に勝手を許せば、家入組の組員とばったり遭遇して斬殺した、なんて展開になりかねない。


 豊橋は現状村雨組の敵である家入組の領地。すなわち、立派な敵地なのである。向こう側の兵隊との接触は極力控えるのが無難というものだろう。


 そこで、俺は一計を案じた。


「……わかった。じゃあ、さっそく調べてくるわ。あんたは宿の手配でもしといてくれ。宿が決まったら、俺が戻るまでのんびりくつろいでるといいさ」


 沖野には出来るだけホテルへ居てもらい、豊橋で動き回るのは俺ひとりだけにする――。


 俺だけが動き回る格好になるのはどうも癪に障るが、これは最善の選択。下手に沖野街をうろつかれてトラブルに発展するよりは、この方が良い。絶対に、良いに決まっている。



「そうかい。んじゃ、俺はホテルを取ってるわ。そこの『ホテルアカシア』でいいよなあ? 近いんだし」


「ああ。別にどこでも良いよ。停まれれば」


「とりあえず、俺はここじゃあ“田中たなか”って名前を使わせてもらう。戻ったら、フロントで“田中”の部屋はどこだと聞けば良い。案内してくれるはずだ」


「ああ? どうして“田中”なんだ?」


 首を傾げた俺に、沖野は言った。


「敵地のど真ん中で、本名を使う奴がいるかよ。馬鹿野郎が。そんなことも分からねぇのか? 麻木ィ? お前はまだまだガキだな。半人前、いや、それにすら及んでない」


「いちいちうるせぇ野郎だな……」


 どうにも沖野と上手くやれる気がしない。彼は俺のすること成すことに毎回ケチをつけてくるため、同じ空間に居るだけで不愉快だ。円滑なコミュニケーションをはかる余地が、沖野との間にはまるで無いのである。


 俺が奴を「刀バカ」と見下しているように、沖野もまた、俺のことを「青くさいガキ」と見下しているのだろう。


 程よく互いに歩み寄りができれば幸いだが、俺たちは歩み寄ったところで駄目な気がする。根本的に反りが合わず、人間関係を始める以前のところでいがみ合っているのだから。


 普段は対立関係にある2人が、同じ目的、あるいは同じ敵を倒すために一時的な共闘関係を結ぶ――。


 これを俺に実践させるためにこそ、村雨組長は沖野と一緒に行くよう命じたのだと思う。組長には申し訳ないが、俺に出来るとは考えられなかった。冒頭からこんなにも険悪で、その上任務に関する認識自体が異なっているとなれば、良い関係を築けるはずが無い。


 ましてや、沖野は生粋の戦闘狂だ。何をしでかすか分からない不安感が、奴の体からはオーラのごとく常につきまとっていた。


「おら、さっさと行って来い! ま、どうせお前には何も調べられねぇだろうがな! 成果ゼロで帰ってくる無様な姿が目に浮かぶぜ! せいぜい頑張れな? 麻木ィ」


「黙れ」


 ホテルへと向かった沖野の姿を見送り、俺は豊橋駅を後にする。東口から出ると大きなロータリーが広がっていて、バスやタクシーが何台も行き交っていた。時刻は午後7時を過ぎており、ちょうど退勤ラッシュの終わりと重なる時間帯。人通りは多かった。


 屋根のかかったバス発着場を抜けると、夜空には無数の星が見えた。旅先ということも手伝ってか、俺の瞳には普段いつもより何処か美しく映った。


 横浜から豊橋、距離にすれば270kmくらいしか離れておらず、見える星空もまったく同じはずなのに。とても不思議な気分であった。


 だが、それよりも俺の目を引いたものがある。駅東口から続く歩道を歩いて、県道143号線沿いへ出た時だ。


 見慣れぬ形状をした列車が、ガタゴトと音を立てて地を這うように通り過ぎていった。


(あれは……?)


 豊橋鉄道、東田あずまだ本線ほんせん。通称『豊橋市内線』。市内を走る路面電車である。ちょうどその年、駅前の停留場の移設に伴う路線延長が行われたばかりということで、豊橋市民の足として機能しているらしい。


 路面電車を見かけるのは初めてだった。川崎や横浜、東京の五反田には走っていない。それゆえに自然と目を惹かれてしまう。幼少の頃に図鑑でしか見たことが無かった、一般道を走る列車。物珍しさからか、しばらくの間ジッと見つめていたと思う。


 このようなものを見ると、自分は今まさに見知らぬ街へ足を踏み入れたのだと実感できる。まさに旅の醍醐味といえよう。


 しかし、このままのんびりとしているわけにもいかない。俺の仕事は調査活動。時間を無駄にしないためにも、さっそく行動に出なくては。


(とりあえず夜の街へ行ってみるか……)


 遊びに行くのではない。この豊橋を仕切るヤクザ、家入組が幅を利かせているであろう歓楽街へ赴き、何かしらの手がかりを掴もうと思ったのだ。実際に己の脚で歩いて聞き込みを行えば、情報のひとつくらいは出てこよう。単なる経験則だが、そんな気がしていた。


 とりあえず駅前大通りを横断して北へ渡り、県道388号沿いの歩道を真っ直ぐ進む。確か、家入組の事務所のある歓楽街、広小路はこの先にあったはず。気を引き締めて歩みを進めた。


 それにしても、客引きが多い。


『こんばんは~! お客さん、ご飯食べて行かれませんかぁ~? 今なら90分飲み放題ですよ~!』


『ハイボールに焼き鳥はいかがですかぁ~?』


『唐揚げ全品半額です! お得ですよ!』


『お酒のおつまみ一品サービスしてます! 安いですよ! 安く飲むなら是非とも当店へお越しくださいませ!』


 通りを歩くだけでも店員に左右を囲まれ、口々に宣伝文句を浴びせられる有り様だ。ここの具体的な住所を言えば広小路1丁目。いわゆるピンク街ではなく、普通の居酒屋や料理店などが並ぶ飲み屋街だ。


 ここまで熱烈かつ執拗なキャッチは見たことが無い。五反田のポン引きの方が、まだ少し穏やかに見えるくらいである。「何が何でも客を呼べ!」と言い付けられているのか、彼らの様子からはどこか必死さも伝わってきた。


「お兄さん、どこへ飲むかは決まってますか?」


「……いや。別に。決めてねぇけど」


 ついうっかりしている合間に、宣伝チラシを持った客引き男にロックオンされてしまった俺。その者はちょうど20代前半くらいの若い男で、ワックスで逆立てた茶髪にピアスという今どきな風貌をしていた。


 放しかけられても無視すれば良かったのだが、俺が素直に答えてしまったのが運の尽き、次の瞬間、猛烈な営業トークが始まってしまった。


「だったら、うちへいらっしゃいませんか! 基本は洋風居酒屋ですが、何でも作れますよ! 豊橋名物のめしでんがくなんかもお出しできますよ~!」


「えっ? ナメクジ田楽?」


「ナメクジじゃなくて、菜飯田楽です! 大根の葉っぱの炊き込みご飯と一緒に味噌田楽を食べるんです! 美味しいですよ~!」


 よく分からない料理の名前が出てきた。菜飯田楽とは、一体何か。当然、俺は食べたことも無ければ、聞いたことも無い。


 だが、あいにく興味は湧かなかった。店員の言う「大根の葉っぱの炊き込みご飯」と聞いた時点で、期待度は急降下。俺は野菜が苦手なのだ。わざわざ金を払ってまで、そんなものを食する気分にはなれない。その店員には悪いが、黙って押し退けて通ろうとした。


(いや、待てよ……?)


 されども無性に腹が減っている。思えば横浜を出て以来、俺は何も食べていなかった。この日の昼食ですら伊東一家とのドタバタ劇が発生した所為で、満足には食べられていなかったのだ。


 これから家入組の本拠地ヘ足を進めるにあたり、まずは何かしら食事を済ませておいた方が良いかもしれない。腹が減っては戦は出来ぬ。というより、所詮人間は空腹には勝てない生き物である。


「……俺、大根の葉っぱなんざ食いたかねぇんだが。

 あんたのとこの店にはそれ以外のメニューもあるんだな?」


「はい! もちろん! 洋風居酒屋ですから、ありますよ~!」


 郷土料理などはれっきとした和食であり、どこをどう捉えても洋風ではなかろうに。と、思わずツッコミを入れたくなったが、ここは店員の宣伝を買うことにした。腹も減っているので、調査に先立って食事を摂るとしよう。


「わかった。じゃあ、案内してくれや」


「あざます!!」


 軽薄な客引きの男に連れられていった件の店は、24時間営業のサウナ屋の隣にあった。『居酒屋 とりあい』。洋風居酒屋にしてはこれまた奇妙なネーミングだが、どうも特製のフライドチキンを売りにしている店とのこと。


(なるほど。だから、鶏を愛するってわけか)


 引き戸を開けて入ると、店内は香ばしい匂いであふれ返っていた。なかなかの人気店のようで、席は8割近く埋まっている。


「いらっしゃいませ! 1名様ですか?」


「ああ。1人だよ」


「では、こちらへどうぞ」


 俺が案内されたのはカウンターの一番奥。ホールから厨房の中が見渡せるような造りになっており、俺が座った時には店主らしき人物が鍋でスープを煮込んでいる最中だった。


 やがて、グラスに注がれた水と共に店員が注文を取りに来る。今度は若い女だった。


「ご注文は何になさいますか?」


「じゃあ、鶏のから揚げを。飲み物はコーラで」


「かしこまりました。お酒じゃなくてよろしいですか? 鶏のから揚げでしたら、ビールもしくはハイボールが2割引ですよ?」


「いいよ。この後、用事あるし」


 アルコールを断ったのは、自分が未成年者だからではない。ここで迂闊に酒を飲んでしまっては、この後の行動に障りが出ると思ったのだ。今更ながら、豊橋ここは敵地。ほろ酔い気分で思考力が鈍ろうものなら、あらぬ事態を招く恐れがあるのだ。


「かしこまりました。少々、お待ちくださいませ」


「ああ」


 注文を取り終えた店員が厨房へ去ると、俺は静かに周囲を見渡してみる。目的はただ一つ、状況観察だ。店内に家入組の人間がいれば、酒席でのやり取りを傍受できるだろう。


 人間、酔っ払った時には本音が出るもの。酒に酔った家入組の組員たちが、勢いで組の機密情報でもうっかり喋ってはくれまいか――。


 淡い期待を込めて、俺は店内にぐるりと視線を配ってみる。だが、現実はそう簡単に行くものではない。この『居酒屋 とりあい』の中には家入組組員はおろか、ヤクザっぽい見た目の厳つい人物すら1人も居ない。当てが外れたようだ。


(まあ、地道に調べていくしかねぇよな……)


 気を取り直し、俺は程なくして運ばれてきたコーラをひと口啜り飲む。乾いた喉に染み渡る甘さが心地よい。やはり、蒸し暑い気候の中では冷たい炭酸飲料がとてつもなく美味しく感じるようだ。


「……これは美味い。染みる」


 いけない。ついつい、思っていたことが口に出てしまったではないか。以前より抱える俺の悪い癖だ。


 すると、隣に居た客が不意に話しかけてきた。


「お兄さん、この街に来るのは初めてかい?」


 ハッと我に返って声の聞こえた左隣に慌てて視線を送る。そこにいたのは白髪頭の高年男性。口元には白い髭を生やし、室内だというのにハンチング帽を被っている。いわゆる遊び人風な服装で、小太りの体形が特徴的な老爺であった。


「えっ……ああ、うん」


「やっぱりか。いや、さっきからどうにもキョロキョロしてるもんだからさぁ、他所の街から来た人だと思ったんだよ。どこから来たんだい?」


「と、東京から」


「そうかそうか。いやあ、ここの料理は美味しいよ。良い店を選んだねぇ、お兄さん。特に油淋鶏。あれは絶品だ。豊橋じゃあ右に出る店は無い」


 初対面だというのに、やけに上機嫌で話を展開してくる。口調もどこか馴れ馴れしく、思わず警戒心を抱いてしまうほどに距離を詰めてきた。


「豊橋へは仕事で? それとも旅行で来たのかい?」


「仕事みてぇなもんだな」


「仕事ってぇのは、土建業?」


「いいや。違うな。まあ、何つーか、会社員みてぇなもんだわな。あんまり詳しくは言えねぇんだけど」


 どういう意図か、仕事の内容まで尋ねてきた老人。念のため俺の素性は伏せておいた。何故に数ある職業の中から土建を名指ししたのだろうか。理由が分からない。


「そうかい。土建じゃねぇのか。なら、良かった」


 俺が土建業に従事していたら、何だというのか。見たところ怪しい人間ではなさそうだが、万が一のこともある。老爺が敵のスパイである可能性も踏まえ、念のため警戒心は高く設定しておこう。


 当然、この爺さんと余計な会話は禁物だ。俺が村雨組の人間である事実を悟られたら、確実に面倒な展開が巻き起こってしまう。


 よって俺は敢えてそれ以上は何も述べず、ここで会話を打ち切ろうとした。自分でも、至極賢明で妥当な判断だと思う。


「……」


 だが、老爺は違った。俺の意思に反して、頼んでもいないのに更なる言葉を繰り出してきたのだった。


「お兄さんが知ってるかは分からんが、この街には少し、厄介なルールがあってね。豊橋で仕事をしようってんなら、そのルールには出来る限り従った方が良い」


 ルールとは何だろう。首都圏を外れた地方都市には、東京に無い独特のしきたりや慣習があることは何となく知っている。この街にも、それがあるというのか。


 別にカタギの仕事に就いているわけではないにせよ、参考までに聞いてみたくもなった。だが、このまま無駄にお喋りを続けてボロが出てもまずい。親切心ゆえのご教示かもしれないが、俺に問い返す選択は生まれない。


 ただ、静かにコクンと頷き、無言の相槌を打ってやるだけ。さすればこの会話は割と早くに終わるだろうと踏んだ。


「……」


 しかしながら、あろうことか老爺は話すのを止めない。


「昔のことわざでさぁ、“郷に入っては郷に従え”っていうだろ。あれは本当なんだよ。豊橋で金を稼ぐ以上、どうしても避けて通れない道がある。お兄さんが何の仕事をしてるのかは分からないけど、本当に気を付けるべきやな。下手すりゃ、命を獲られる」


「命を獲られる? そいつは何の話だ?」


「知らないのか。だったら、覚えといた方がええ。悪いことは言わんから、これだけは絶対に気をつけといてくれ。“奴ら”には逆らうな。土建業じゃない限りは、連中とかち合うことも無いと思うけど、とにかく逆らわないことだ」


「はあ? “奴ら”って、誰のことだ?」


 それ以上の会話を拡大させないつもりでいたものの、あまりにも真剣な面持ちで語り掛けてくる老爺に、ついつい聞き返してしまった俺。一体、先ほどから何を論じているのだろうか。


「名前を出すのも憚られるような連中だよ。“奴ら”は豊橋の闇、いや、恥の象徴みてぇなもんだから……」


 その時だった。


「おいコラァ、オーナーは居るか!?」


 引き戸を勢いよくガラガラと開け、2人組の男らが店内へ入ってきた。


 1人は金髪のオールバックで、もう1人は黒髪のモヒカン頭。両者揃って派手な柄の背広を着ており、見るからにカタギではなさそうな風貌だ。よく見ると、金髪の男は両手に銀色のメリケンサックを装着しているではないか。


(えっ? まさか、こいつら……?)


 一体、何をしに来たのか。入って早々に怒声を放った時点で、男たちがこの店に対して、何か好ましからざる所業を働きに来たことは言うまでもない。場の空気感が、みるみるうちに張り詰めていった。


 ふと左隣の老爺に視線をやると、彼はジッと下を向いていた。とてつもなく、苦々しい表情。そんな彼が軽い舌打ちと共に「来やがった……言ったそばから……」と呟いたように聞こえたのは、俺の気のせいだろうか。


 突如として店に現れた2人のチンピラ。連中の正体については、ここが豊橋市、そして広小路であることから何となく察しがついている。


 だが、俺が推測を確定させる前に、彼らの立つ入り口のレジ付近では既に激しいやり取りが始まっていた。


「あ、あのぅ……? 今日はどういうご用件で……?」


「とぼけんじゃねぇよ! オーナーさんよぉ、いつまで経っても今月分のショバ代を持って来ねぇってのはどういうことだ!」


「す、すみません! 今月は店の売り上げが落ちておりまして……」


「関係ねぇよ、そんな事情は! テメェの店の経営状況なんざ知ったことじゃねぇんだよ! 広小路ここで商売をやる以上は、俺たちにショバ代を納める! それがこの街の掟なんだよ!」


 いきり立つ金髪の男に対して、ただただ平謝りするばかりの店主。彼らが揉めている原因は、要するに金銭問題である。チンピラたちの所属する組に対して『居酒屋 鶏愛』がショバ代を納めなかったこと、それで連中は怒り狂っている模様だ。


「も、申し訳ございません……あ、明日には、明日には必ず納めますから! 必ず、必ずお納めいたしますから……!」


「駄目だ。今すぐ払え」


「い、今でございますか!?」


「そうだ。期限はとっくに過ぎてんだ。これ以上待たせようだなんて虫が良すぎる。払えねぇってんなら、今すぐ2丁目の金融屋で現金を用意してもらう。あと1時間以内だ! 早くしろ!」


 かなり無茶苦茶な要求ではないか。まさにヤクザである。男が言った“2丁目の金融屋”というのは、おそらく連中の息のかかった闇金だろう。


 組傘下の闇金から金を借りさせることで、ショバ代と借金、二重の徴収を行おうという腹積もり。そうして借金の利息をどんどん膨らませ、この店から未来永劫にわたって搾取を続ける気でいるものと思われる。


(あくどい奴らだぜ……)


 ヤクザが街を仕切る常套手段だ。村雨組も横浜で似たようなことをやっているので、特に嫌悪感の類いは湧かない。ただただギャーギャー騒ぐ男たちの五月蝿さに眉をひそめ、顔をしかめるだけであった。


「あーあ、うるせぇなあ。ああいう会話は外でやれってんだよ。やかましくて仕方ねぇぜ」


 すると、左隣の老爺に制された。


「シーッ! 声が大きい! 逆らわない方が良いって、さっき言ったばかりだろ……!」


 どうやら、爺さん先ほど言った“奴ら”とは、このチンピラたちのことらしい。連中が誰であるかは、もはやとっくに検討がついていた。老爺に小声で耳打ちして、俺は答え合わせを試みる。


「こいつら、家入いえいりぐみだよな?」


「……そうだ。よく知ってるなあ」


「いや、まあ。その、何つーか、東京でもけっこう有名な名前だもん。豊橋の家入組って」


 所々を濁しながら語る俺に、老爺は言った。


「東京で、どう有名なのかは知らんが。奴らはこの街の負の権化だ。東海でいちばんケチで小ズルいヤクザ、それが家入組なのさ」


 唾棄するがごとく吐き捨てた面持ちの苦々しさからして、だいぶ家入組のことを嫌っているのが見て取れる。ヤクザを慕うカタギなど、一部を除いてこの世には存在しないだろうが。それでも、かなり輪をかけた嫌い様だった。


家入組やつらはこの街の二次産業、つまりは建設や土木、工場関係なんかを軒並み牛耳っててな。何をするにも家入の顔色を窺わなきゃ、この街では飯を食っていけねぇんだよ」


「そりゃ面倒臭いな」


「役所と結託して、もうやりたい放題だ。見ての通り、奴らの力はこういう飲み屋街にも及んでてな。広小路界隈は、もうだいぶ前から家入組にみかじめ納めてる。そいつを納めなきゃ、店を潰されちまうんだ」


「なるほど。いかにもヤクザって感じだな」


 他にも前述の高利貸しから公共事業への介入、労働者の賃金のピンハネまで、家入組は法律の抜け穴を巧みに突いたやり方で日夜荒稼ぎしているという。


 もちろん、連中の活動内容には麻薬の密売や強要・恐喝、娼館の経営など、立派な犯罪行為も数多く含まれる。家入組の組員は大通りで堂々と車を奪い、時には通りすがりの女性を襲って乱暴することも多々あると話した老爺。


 まさか、これほどまでに豊橋という街が荒れているとは思わなかった。完全に想像の斜め上を行っている。謂うなれば、一種の無法地帯ではないか。


「おいおい、やべぇな。そんなに力を持ってんのかよ、家入組って……」


「残念ながら、この街では家入の存在は絶対なんだ。家入行雄。あの男自身が、この街の“法”であり、“正義”だと考えて良いかもしれん」


「そんなにかよ!?」


「信じられないなら、試しに家入組のチンピラと揉め事を起こして110番してみれば良い。やって来た警官は、きっとあんたの方を捕まえるぞ。豊橋署の人間は大半が家入組に買収されちまってるからなあ。腐敗どころのレベルじゃない。この街の新聞社も然りだ」


 俺は言葉が出なかった。村雨組でさえ、警察組織を完全には買収しきれていないというのに。何故、家入組はかくも大きな力を有するに至ったのだろうか。


 村雨の話では、家入はシノギがあまり上手ではなく、煌王会本家に納める上納金も然程多い額に非ずとのことだったが。俺は不思議で仕方なかった。


 ただ、老爺の話を聞いていると、次第にからくりが見えてくる。


 例えるならば、他人の褌で相撲を取るような話。豊橋での権勢の獲得に、家入行雄本人の力は何ら作用していないというのだ。


「兄ちゃんが知ってるかどうかは分からんが、名古屋には煌王会っていうデカい組がある。家入はそこの傘下で、会長のお気に入りだと」


「それで皆、家入に遠慮してるわけか……?」


「ああ。警察や役所を買収する金も、実際には煌王会の会長が出してるってのが専らの噂だ」


 なるほど。それならば合点が行く。煌王会ほどの巨大組織となれば、一地方都市の警察署に鼻薬を効かせるなど造作もないだろう。実際、煌王会は愛知県警や名古屋地検と密かに結託しているとの疑惑報道も出ているくらいだ。煌王会の長島会長が、自らの囲碁の相手として寵愛する家入のために豊橋署へ便宜をはかったと考えるのが妥当だろうか。


 ただ、そんな大恩ある長島会長に対し、今回、家入はクーデターへの加担という形で弓を引いてしまっている。坊門の謀反に参画した真意や動機は存ぜぬものの、俺は奴が愚かとしか思えなかった。所詮はどうだって良い話だが。


(……ともかく、家入組は想像以上に厄介だな)


 所詮は取るに足らぬ小者が仕切る組だと舐めていたら、実際にはとんだ強敵であった。家入行雄本人の器量の程はさておき、少なくとも豊橋では誰も逆らうことの出来ない、絶対的な力を家入組は持っているのだ。


 しみじみと話に聞き入る俺に、老爺は言った。


「兄ちゃんが豊橋ここにどのくらい居るかは知らん。兄ちゃんの事情に深く立ち入るつもりも無い。だが、これだけは忘れんでくれ。この街で家入組を敵に回してはいけない。あんな風になりたくなければ、な……」


 彼が指を差した方を見ると、そこにはあまりにも無惨な光景が広がっていた。


(うわっ……ありゃひでぇな……!)


 ボコボコに殴られた店主が、入り口近くの床に転がっている。おそらくはメリケンサックを着けた金髪の男にやられたのだろう。顔は醜く歪み、すっかり痣だらけになっている。鼻が赤黒く変色し、歯も何本か折れて床に散らばっているようだった。


 大の字にダウンした店主の顔を踏みつけながら、金髪の若い組員は高らかに言い放つ。


「どうだ? 身をもって思い知ったろ? 俺たち家入組を甘く見た罰だ。もし次、ショバ代が遅れるようなことがあれば、その時は店に火をつけてやる。今日の痛みを忘れねぇこったな。ヘタレ野郎」


「っ……!」


「この街は俺たちのものだ。何か文句でもあるのか? ああ?」


「い、いえ……何も……」


 今さら反抗する気力は、もうこの店主には残っていない様子。完全に屈服した彼の眼差しを見て、2人のチンピラは満足そうに店を出て行ったのだった。


(ショバ代、どうすんだろ?)


 店主に支払いのあてがあるとは思えないため、やっぱり家入組傘下の闇金から借りて用意することになるのだろう。払えそうで払えない額を吹っ掛け、最終的に自分達から借金をするよう仕向ける、ヤクザにはよくありがちな誘導術。これに『居酒屋 鶏愛』の店主はまんまと嵌まってしまった。何から何まで、あの横暴なる男たちの思う壺になってしまったということだ。


 なんとまあ、胸糞悪い話であろうか。しかし、俺はあの2人の組員らが間違ったことをしたとは思わない。彼らは彼らで、仕事を果たしたまで。組のため、組長のため、極道として当然のシノギをやり遂げたに過ぎないのだ。極道自体の存在を悪とされたらそれまでだが、彼らには彼らの信念があろう。尤も、俺は正義の味方ではないので、この問題に怒りを覚える必要も特には無いのだが。


 それから俺は何事も無かったかのように食事を続けると、持ち金の中から勘定を済ませて店を出た。


 食事中も隣の老爺からはあれこれ話を聞けたが、家入行雄および家入組に関するテーマでは他に目新しいものは無かった。家入組が豊橋の中では思いのほか強大で、尚且つ絶対的な存在であること以外に、有力な情報は得られなかった。


 ただ、俺の心に妙に引っかかったのは「家入組は街のすべてを掌握している」とのくだり。それが事実ならば、今後の行動予定を少し変えなくてはならない。食後は広小路3丁目の組事務所を視察しようと思っていたが、迂闊に近づくのは危険かもしれない。ここは一旦宿へ引き揚げて態勢を建て直し、明日以降、慎重に動くべきだろうか。


(うーん、そこら辺で家入の目が光ってるのか……)


 急に不安になってきた。気にし続けても仕方がないので、とりあえず駅の方へ戻る。大通りは避け、出来るだけ小道を選んで進んでゆく。


 ただ、運命というものはいつも不思議で、考えていることが時たま具現と化してしまったりする。俺の場合は嫌な予感、悪い未来予知に限って当たるから始末に負えない。


 四方に警戒心を張り巡らせながらキョロキョロと周囲を見渡した瞬間、俺は思わぬ光景と出くわした。


 さっきの若い組員だ。後ろには舎弟もついている。


「えっ? もしもし? ああ、いま終わったところ」


 よもや心配していた傍から遭遇するとは。驚くと同時に、俺は慌てて電柱の影身を隠す。おそらく奴は俺の素性を知らないだろうが、可能な限り見つからない方が良いに決まっている。


 舎弟たちを背に、件の若い男は携帯電話を片手に何やら上機嫌で話している。


「これからもう1件だけ仕事を片付けたら、すぐに戻るから。俺、今夜は晩飯はいらない。チビどもは寝かしといてくれ。それじゃ」


 聞こえてきた単語のひとつひとつから推察するに、たぶん電話の相手は妻だろう。居酒屋の経営者相手に威張り散らしていた先刻とは打って変わり、とても優しく、穏やかな声色であった。


 男は薬局のところで左折し、すたすたと歩いてゆく。仕事と言っていたが、どこへ向かうのだろう。家入組の事務所とは全く違う方向だ。気になったので密かに後をつけてみる。


 それから10メートルほど進むと、男はふと立ち止まった。ざっと見たところ4階建ての赤い煉瓦造りのビル。建物の左縁には大きな看板が取り付けられており、白い看板筆文字で『ふぐ・日本料理 小松屋』と書いてある。


 屋号からして飲食店だということはすぐに分かった。先ほどの居酒屋と同様、地回りに来たのか。どうにも市内の事業者の大半を勢力下においているらしい家入組、ここでは一体どんな横暴をはたらくのやら。


(めるか……いや、やめておこう)


 そもそも俺は正義の味方ではないのだ。たまたま遭遇したから尾行してきただけで、この者たちの悪事を成敗する義務など何処にも無い。ましてや飲食店からの搾取は村雨組も横浜で行っている、ヤクザにとってはごくごく自然な行為。この場で妙な正義感を燃やす方がおかしいといえよう。


 俺は偶然向かい側にあった月極駐車場へと身を隠し、彼らの様子を冷静に観察することにした。立ち聞きされているとも露知らず、男たちは至って自然な声量で話し始める。


「兄貴、ここの店は先々月からショバ代を払ってませんぜ。今日のところはビシッとやっちゃいましょう」


「ああ。そうだな。俺たち家入組を侮ったらどういう目に遭うか、たっぷりと教えてやろうじゃねぇか」


 案の定、やっぱり地回りだったか。滞納分を回収するだけでなく「血祭りに上げてやるよ」と若い組員は息巻いている。両手には先ほど着けてはいなかったメリケンサックを着け、まさに準備万端だった。


「んじゃ、行くぞ。地獄を見せてやる」


 そう鼻息を荒くして彼らが中へ踏み込もうとした時。引き戸がガラガラと開き、少々太り気味の男が店から出てきた。


「おやめなさい。その必要はありません。まったく、これだから頭の足りない三下さんたちは困りますよ」


 見るからに高級そうな背広に身を包んだその人物は、店へ押し入ろうとした組員たちを片手で制して止める。ぱっと見た限りでは大手企業に勤めるサラリーマンのような容姿だが、その雰囲気には独特の威圧感が乗っている。


 よりにもよって三下と蔑んで呼ばれた2人の男は、その男の突然の登場に驚いていた。姿を見た瞬間、ビクッと畏縮しているようだった。


「カ、カシラ!? どうしてここに!?」


 ヤクザ用語において“カシラ”というのは若頭を表す。であるならば、この太った中年男が家入組の若頭ということか。


 よくよく考えてみれば、声にも聞き覚えがある。数秒ほどの間隔ラグで記憶が蘇ってきた。4日前、村雨邸にかかってきた総本部からの電話。慇懃な口調といい、やけに甲高い声色といい、あの時に電話口から聞こえてきた声にそっくりだ。いや、完全に一致している。


(家入組の若頭……名前は富田とみただったか……?)


 俺自身もチンピラだのゴミ虫だのと散々に罵倒されたので、よく覚えている。己の記憶の答え合わせをするがごとく、俺は連中の会話にじっと耳を傾けてみる。


「カタギの皆様を相手に、みだりに暴力を振るってはいけないといつも言っているでしょう。馬鹿なんですか? 杉村さん」


「でも、富田の若頭カシラ。この店はショバ代を……」


「それなら私が回収しておきましたよ。あなたたちが来る、1時間くらい前からね。少しばかり、骨の折れる交渉ではありましたが」


 俺の勘は正しかった。突如現れた肥満体の中年男、富田は家入組の若頭。杉村なるくだんの若い組員たちを指揮・監督する立場にあるようだ。


 話を聞くに、こちらの『ふぐ・日本料理 小松屋』からの滞納金回収は既に富田が済ませてしまったらしい。それも杉村たちが鶏愛で行ったバイオレンスな手段ではなく、終始説得のみで事を治めたというから驚きだ。


 極道渡世における交渉では、すなわち脅しや恐喝といった強引な手段が用いられることが殆ど。その例に漏れず、富田も小松屋の店主に対して、何かしらの脅迫を行ったと考えて間違い無かろう。一体、どのような

 ネタで揺さぶりをかけたのやら。然程興味は湧かないが、かなり陰湿なやり方であったことは想像に難くない。


「いいですか? 極道だからって、何もかも暴力で解決して良いわけではありませんよ? ましてやカタギの皆様を恐怖で支配しようなどもっての外。カタギあっての極道。それをゆめゆめ忘れないことです」


「わ、分かりました。肝に銘じます。富田の若頭」


「まあ、あなたのような暴れることしか能の悪いチンピラには馬の耳に念仏でしょうけど。組長に迷惑だけはかけないでくださいね。いま、あのお方は大事な時期なのです。くれぐれも、足を引っ張らないように」


「はい……」


 懇々と説教を受けた杉村は、がくんと項垂れていた。


 富田は口調こそ丁寧語を使用しているものの、所々に強烈な嫌味や皮肉が散りばめられ、かなり癇に障る言い方だ。それは中学の時分、俺に説諭という名の講釈を延々と垂れてきた教師によく似ている。ああいう態度が人をイラつかせるのだろう。同じ若頭でも菊川とはまた一味違った憎たらしさに、俺は無性に腹が立ってきた。


 だが、ここで殴りかかってはいけない。いま果たすべき役目は情報収集であり、乱闘沙汰になっては今後の展開がかなり面倒くさくなってしまうのだから。


 4日前に電話で罵られた際の嫌な記憶が再び脳裏をよぎるも、どうにか堪えた俺。拳を固く握りしめ、再び会話に耳を傾け続けたのだった。


「建前の任侠道を振りかざして暴れてれば良しという前時代的な考えは、さっさと捨ててください。これからの時代はマネーゲームなんですよ。お分かり?」


「は、はあ……」


「効率的にお金を稼げなくては意味が無いということです。暴力込みで脅して搾り取るより、友好的な関係を築いていった方が後々のリターンは大きくなるでしょ。それくらい自分で考えつきなさいよ」


「はい、すんません……俺、馬鹿なもんで……」


 相も変わらず淡々と説教を垂れる富田。杉村なる男に学が無いことを詰り、何故に簡単な計算も出来ないのかと叱咤を浴びせていた。


(ただ単に自分が頭良いアピールしたいだけか……)


 マネーゲームだのリターンだのと先ほどから富田は小難しいカタカナ言葉を並べているものの、どうにも空虚だ。話の核心がまったく見えてこなかった。「これからは暴力だけでは駄目だ」という言い分は確かに正しいのかもしれないが、ならば具体的にどうすれば良いか、そこがまったく語られない。


 底の浅い知識で上辺だけを取り繕った自称インテリ、いわゆる“意識高い系”にはこのような輩が多い気がする。物事の本質も理解していないくせに他者を見下し、貶し、優越感という名の悦に浸る。自分本位でしか世界を見ていないのだ。


 俺は目の前の若手組員が哀れで仕方なかった。富田の独り善がりな説教は、いつまで続くことやら。その後も苦しそうに顔をしかめる杉村に同情していると、一方で、耳寄りな情報も聞こえてきた。


「組長は今週の金曜日には豊橋に戻られます。祝賀会の準備は出来ていますか? 我々が新たな一歩を踏み出す時ですからね、不手際があってはいけませんよ?」


「もちろんです。準備万端です」


「だったら良いのですが。んじゃ、後はよろしくお願いしますね。松葉町に寄って帰りますから、事務所の守備は任せましたよ」


 組長は今週の金曜日には豊橋に戻られます――。


 どこから戻ってくるのかは存ぜぬが、少なくとも現時点では家入は豊橋に居ないということか。その後に続いた“祝賀会”が何を意味するのかも釈然としないが、俺は煌王会クーデター成就の件だと予想した。


 坊門一党に与して煌王会の中枢を掌握し、全権を乗っ取った。坊門は組織傘下の全組織に対して誓紙の提出を要求し、このままいけば多くの組が自陣営の軍門に降り、名実ともに煌王会はクーデター派のものとなろう。「今週の金曜日」とはカレンダーにおいて10月2日を指す。坊門が突きつけた誓紙の提出期限と一致している。


(なるほどな……)


 話を戻すが、家入が現在豊橋に不在なのであればこれから大いに動きやすくなる。家入組の人間で俺の顔を知るのは家入行雄だけなのだ。あの時、鶴見の廃墟で遭遇した時、奴に顔写真を撮られてはいないはず。ゆえに麻木涼平の人相に関して家入組で情報共有は実施されていないと考えて妥当であろう。人目を気にせず動き回れることは、とても有り難かった。


 さて。これよりは如何に行動すれば良かろうか。俺が思案に暮れていると、杉村の舌打ちが聞こえた。


「ちょっと遊んで帰る帰る」と言い残し、すたすたと歩いて行った富田の背が見えなくなるや否や、態度が元に戻る。先ほどまでとは打って変わって、激しく不満を漏らしていた。


「富田の若頭カシラ、あの様子じゃあ絶対にホテヘルへ行くだろ。良いご身分だよなあ。俺たちが必死でシノギに走り回ってるってのに……ったく! 何なんだよ、あの野郎! セン公みてぇな説教垂れやがって! うぜぇったらありゃしねぇよ!」


 それに対して舎弟は「やめましょうよ」と窘めるが、杉村の勢いは止まらない。普段から若頭に対して不満を抱いているようで、次から次へと愚痴や悪口が飛び出てくる始末だ。


「大体にして、俺の何がいけねぇんだよ。ヤクザの本分は喧嘩の強さだろうが! カネを稼ぐことなんざ二の次だろ! 納得いかねぇよ!!」


「杉村の兄貴、どうかもう、その辺で。若頭カシラには若頭のお考えがあってのことですから。組長だって同じお考えで……」


「それがそもそも解せねぇんだよ! あの人の頭の中にはカネしか無い! 俺たちのことは商売道具くらいにしか考えてない!」


「ま、まあ、確かに無理がありますよね。株だの不動産だのと言われても、俺たちは皆中卒ですから。暴れるくらいしかできなくて当然です」


 やり取りを聞いている分には、彼の不満の矛先は家入組長にも向いている模様。敢えてここでは全てを書かないでおくが、だいぶ酷い言い様だった。


 家入組という組織の実態が何となく見えてきた気がする。家入行雄に人望が無いのは勿論、若頭の富田をはじめ執行部と現場との間に少なからぬ溝が生じてしまっている。前者はインテリ集団を気取ってはいるが、後者は決してそうではないギャップ。尤も、部下たちを思うままに育成できていない時点で家入自身もインテリに非ずなのだろうが。ともかく、そこからひとつの事実が浮かび上がってくる。


 家入組の組員たちは組長のことを嫌っている――。


 少なくとも、下っ端連中からの支持は少ないと見て間違いなかろう。暴力団に限らず、加盟者のリーダーへの忠誠心が低ければ低いほど、その集団の結束力は薄まるもの。ほんの僅かな外圧により、いとも簡単に瓦解してしまうものだ。


 彼らが煌王会クーデタ―の件をどう思っているのかは知らないが、少なくとも家入のやること全てに必ずしも協力的ではないと思われる。だとすれば、そのあたりの不協和音に乗じて家入組を切り崩せたりはできないものか。


(運よく村雨組こっちに寝返らせたりは……?)


 無論、簡単な話ではないが、可能性はゼロではない。少なくとも今後に関して明るい兆しが見えてきた。ならば、実際に彼らを懐柔するにはいかなるアプローチが適切か。


 それを考え始めると悩ましいが、付け込む余地は大いにあろう。俺はすぐさま知恵を絞って脳内でシミュレーションを試みる。


 すると、今度は何の偶然やら。連中の口から、またしても思わぬワードが飛び出した。


「なあ、そういやあ伊東の奴らは横浜へ攻め込んだのか? 村雨組を倒すために伊東を使うって組長は言ってたけど、そんなの本当に上手くいくのか?」


「どうでしょうねえ。動かすと言っても、相手は中川会系列ですから。そもそも俺たちのために動いてくれる理由があるとは思えませんが」


「その辺も組長は俺たちにまったく情報を寄越さないんだもんな。何を考えてやがるのか。二言目には『秘密事項だ』って言うけど、教えてくれたって良いじゃねぇか」


「まったくです。現時点で村雨組と揉める必要性も分かりませんし。あそこは伊豆、斯波の傘下でしょ。何で豊橋の俺たちが首を突っ込まなきゃいけないのか」


 俺が驚いた理由は、たったひとつ。杉村の口から家入組長に対する更なる不満が語られたことではない。伊東一家を横浜に侵攻させる方法を杉村たちが知らなかった点だ。


(これはどういうことだ……!?)


 大原恵里の誘拐について、彼らは家入から伝えられていないのだろうか。そもそも家入が村雨組と事を構えている件についても詳しい理由が分からないといった様子。


「元々村雨組とは仲が良かっただろ。あいつらが直系に上がるってんで、うちの組長が本家の使者に選ばれたんだよな。貸元叙任の」


「ええ。でも、何故か最近になって組長は『村雨を潰す!』って言い出したんですよね。確か、あそこの部屋住みのチンピラに殴られたとか、何とかで」


「それも怪しい話だけどな。あの人のことだ。どうせ酔っ払って転んで顔を怪我しただけなんだろ。マジで止めてほしいぜ。あやふやな理由で戦争を起こすのは」


「ほんとですよ。実際に戦うのは俺たちなんですから。残虐魔王の組とやり合うなんて正気の沙汰じゃないってのに」


 俺が家入を暴行した話についても、特に信じてはいないのか。家入組の中で組長に対する不信感は思いのほか高いと見た。


 杉村たちはすっかり気が滅入っているようだった。家入に対する不信感からか、自分たちの状況をひどく憂いている。人間、誰しも詳しい理由を告げられぬまま戦地へ向かうなど堪ったものではないだろう。相手が強敵ならば尚更だ。


「はあ。俺たちの代わりに伊東一家が村雨と戦ってくれるなら、良いんですけどね。そう上手く事が運ぶわけないですよね」


「そりゃそうさ。だって、伊東一家あいつらには横浜を攻める理由が無いんだから。そもそも何で伊東一家なんだ? 村雨とは何の脈絡も接点も無いはずだろ?」


「ですよねえ」


 このやり取りから察するに、どうやら家入と伊東一家ならびに大原総長との関係自体、家入組の中では全く情報共有が行われていないらしい。家入が日本橋を訪れたことは愚か、大原の借金を肩代わりして貸しをつくったことすらも存じていないのか。


(じゃあ、こいつらは誘拐の件も知らない……!?)


 だが、その仮説には穴がある。


 家入組の実働部隊たる組員が大原恵里の誘拐を知らないのだとすれば、一体誰が彼女を攫ったのだという話になる。今回の誘拐事件が家入組の仕業であることは事実。相反する2つの事実によって生じた矛盾を解消するだけの考察が、どうにも俺には浮かばなかった。


 性格から考えて、家入組長本人は自ら動いたりはしまい。一方で、家入の最側近かつ腹心の部下であろう富田にはれっきとしたアリバイがある。恵里が日本橋から姿を消したとされる日、富田は名古屋の煌王会総本部で臨時の電話番をこなしていたはずなのだ。残すは組員たちだが、言動から見て彼らがやったとは考えづらい。


 家入は如何にして、大原恵里の誘拐に成功したのか――。


 このような考察は奥が深い。容易に答えが導き出せたりはしないので、考え出せば考え出すほどに頭が熱くなり、治まらなくなってしまう。


 ついつい、周囲を気にせず思考に耽ってしまったりもする。その時も例外ではなく、ふと気づけば杉村たちは移動を開始していた。


「あーあー、面倒くせぇなあ。まったく。次から次へと心配事と厄介事ばっかりで嫌になるぜ。“例の計画”だって雲を掴むような話だし」


「坊門組長に乗せられたとしか思えませんよねぇ、あれは。今のところは上手くいってるみたいですけど、万が一、六代目が目を覚ますようなことがあれば……?」


「そうなったら全てが終わりだ。良くて絶縁、下手すりゃ全員処刑されるぞ。そうならないために坊門組長がいま手を打ってるけど、どれだけ効果があるのやら」


「入る組を間違えたかもしれませんね、俺たちは。どうして家入行雄なんかと盃を……いや、でも去年まではまだ良かったですよね。シナチクどもとつるみ始めてから、組長はどんどんおかしくなっていった……」


 苦々しくため息を吐き捨てた舎弟と共に、杉村は『ふぐ・日本料理 小松屋』の前から離れていった。最後に彼らが話していた“例の計画”とは、たぶんきっと煌王会クーデターを指す。まさか、それについても家入は組員たちの支持を得られていないとは。あの男の予想を超えた人望の無さに、俺は思わず苦笑するしかなかった。


 家入のことだ。「坊門組長に乗せられた」という線は、ほぼ間違いないのだろう。鶴見の廃墟で俺から暴行を受け、怒り心頭で横浜から愛知へ返ってきた日あたりに坊門から謀反の話を持ち掛けられ、後先考えずに乗ってしまったものと考えられる。


 ただ、一方でいまいちピンと来ないものがある。後半、舎弟が口にした“シナチク”なる単語の意味だ。心当たりを探ってみたが、適当な答えと結びつかなかった。


(シナチクって支那竹メンマのことだろ……)


 他に何があるというのか。だが、無論食品のことではないはず。舎弟は「シナチクども」と言っていたので、この場合はきっと人名を表すと思う。誰かの渾名か。いや、複数形なので何かしらの集団と見るか。


 だが、いずれにせよラーメンではお馴染みのトッピング具材で形容される組織、あるいは集団が想起されない。“シナチク”とは家入組の中でしか通じない隠語であることはほぼ間違い無いが、その正体がまったく見当もつかなかった。


 さて、メンマは置いておいて、俺はこれより如何に動けば良いのやら。立ち聞きを終えた俺は次なる行動に悩む。


 連中の話によると家入行雄は豊橋に不在のようだが、この事実を俺はどう捉えるのが適切か。俺の顔を知る人間が居ないのであれば動きやすいが、油断は禁物だ。


(とりあえず、あいつらの後をつけてみるか……)


 杉村たちは事務所へ戻ると言っていた気がする。そう思って元来た道へ踵を返した、次の瞬間。


 俺は、不意に背後から声をかけられた。


「こんばんは。ここで何をしてるの?」


 まずい。見つかったか。どうやら考え事に夢中になっていたせいで、近寄ってくる人の気配を察知し損ねたらしい。完全に不覚だ。


 ギョッとして振り返ると、そこに居たのは予想外の人物だった。青みがかった黒い制帽に制服を着用している。


「……なっ!?」


「どうも。こんばんは。本官、豊橋署の駅前交番の者です。お兄さん、ここじゃあ見かけない顔だね」


 そう。警察官である。夜間の警邏パトロール中だったのか、そいつは片手に懐中電灯を光らせていた。


 何ということだろう。家入組の人間でなかったのは幸いしたが、よりにもよって制服警官に遭遇してしまうとは。


 川崎に住んでいた中坊の頃から、俺は所謂“お巡りさん”には何度となく辛酸を舐めさせられてきた。深夜、街をうろついている最中に見つかって補導されたり、路上での喫煙や飲酒を見咎められたり、他校生とのストリートファイトに水を差されたりと兎にも角も良い思い出が無い。ヤクザの見習いをやっている今となっては、尚更遭遇したくはない相手だ。


 ふと、先ほどの会話が脳裏をよぎる。思い返せば、先刻に居酒屋で隣り合った客はこんな事を言っていた気がする。


『この街の警察官の大半は家入組に買収されとる』


 要するに、豊橋署員の殆どが家入行雄の手先に成り下がっているということ。村雨組が神奈川県警に鼻薬を効かせているのと同様に、家入もまた警察を賄賂で手懐けているのだろう。


 そうなれば当然、迂闊な言動は出来ない。「横浜から来た村雨組の関係者」という素性が露見すれば、忽ち家入組に連絡が及ぶ。そうなっては潜入調査どころの話ではなくなってくる。


「ん? お兄さん、どうして黙ってるの? 質問に答えてよ。あなたはどこから来たの? 何でそこに立ってるの?」


 何としても、この場を上手くやり過ごさなくては。突然の職務質問を躱すべく、俺は頭をフル回転させて返答を繰り出した。


「……いやあ、まさか職質されるとは思ってなくてよぉ。パニクっちまったんだわ。わりぃ悪ぃ。お察しの通り、俺はこの街の人間じゃねぇ。観光客だ」


「観光客?」


 訝し気にこちらへ視線を注ぐ警官。彼に限らず、ポリ公の仕事は相手を疑うこと。ジロジロと見られるのは不愉快だが、ここは我慢のしどころだ。


「観光客? うーん、それにしては随分と軽装じゃないか。旅行鞄とか、荷物を持ってないみたいだけど?」


「ホテルに置いてきた。腹が減ったんで、飯を食おうと思って出歩いてたところなんだよ」


「へぇー。どこのホテル?」


「えっと、『ホテルアカシア』ってとこ。豊橋駅の」


 我ながら、絶妙な塩梅で答えを返せたと思う。宿の名前を正直に答えてしまったのは失点だが、俺は豊橋の地理については殆ど無知なので止むを得ない。下手に適当な名前を述べて怪しまれるより、こちらの方がずっと安全である。


「なるほど。アカシアに泊まってるのねぇ。あそこの大浴場には行ったかな? 源泉かけ流しの天然温泉だから、旅の疲れがすぐに取れるよ?」


「よく分かんねぇな。初めて泊まるホテルだし」


「そっか。けっこうオススメなんだけどね」


 警察官が職質で投げてくる雑談に関しては、必要最低限の返事をするに止めておく。決して乗ったりしてはならない。これは川崎で何度もポリ公に追い回されてきた俺が、己の苦い経験から学んだ鉄則だ。


 連中のやり方はつくづく姑息なもので、対象者から是が非でもボロを引き出そうとする。雑談と見せかけて相手の油断を誘い、ほんのわずかな言質を見逃さず、揺さぶりをかけてくる。迂闊に話に乗ってしまえば、気づいた時には手錠をかけられているケースがほとんどだ。


「いや。興味ねぇかも。温泉とか、そういうのには」


「そっかあ。それは勿体ないなあ」


 ひとつの話題を長引かせず、相手に掘り下げる余地を与えぬよう出来るだけ早くに打ち切る――。


 これが最も無難である。そんな俺の職質対策を悟ったのか、否か。警官の男は次なる質問に話を切り替えてきた。


「ねぇねぇ、お兄さん。さっきは観光で来たって言ってたけど。どこから来たの?」


 無論、馬鹿正直に『横浜』と答えては色々とリスクが伴う。かと言って『川崎』と答えるのも気が引ける。どこの地名を出せば良いやら、俺は2秒ほど悩んだ末に土壇場で思い出した街を繰り出す。


「東京だ」


 逆に言えば、それしか思いつかなかった。勿論、相手は職質に慣れた警察官。その一言で納得してくれるはずも無い。


「東京? 東京のどこ?」


「五反田」


「五反田? 五反田って、ソープとかピンサロとかが沢山ある街だよね? お兄さんはそんなところに住んでるの?」


「ああ。住んでるぜ。確かにエロい店も多いわな。散歩してても、そういう姉ちゃんをよく見かける。特に興味はねぇが」


 五反田は俺が東京において唯一、詳しい地理情報を知っている地域だ。日本有数の歓楽街あるいは風俗街として知られる同地の悪名は、遠く離れた愛知の豊橋にまで響いているらしい。


 そんなところで暮らす人が居るのかとますます訝しげな顔をされたが、五反田にも他の街と同様、人の住む家々が建っている。事実、俺はあの街で2ヵ月ほど生活していたのだから。


「五反田か。ま、まあ……言われてみれば、たしかにお兄さんはそういう見た目だもんね……いかにも五反田って感じの……」


 いざとなったら俺の知っている五反田のとあるマンションの所在地を挙げてやろうと身構えていたが、どうにもその必要は無いらしい。『そういう見た目だもんね』と少々腹立たしい言葉を付け加えてはきたが、一応は納得してくれたようだ。相手は制服警官。『おい、俺がどういう見た目だって?』と揚げ足を取らないでおこう。


(早いとこ、トンズラさせてもらうか)


 しかしながら、そうは問屋が卸さなかった。少しだけ安堵したのも束の間、目の前の警官が奇妙なことを申し入れてきたのだ。


「お兄さん、ちょっと腕を見せてもらって良いかな」


「腕だと?」


「うん。服の袖を捲るだけで良いから、頼むよ」


 腕を見せろとは、如何なる理由か。俺には意味が分からなかった。それを見て、何を判断しようというのだろう。


(注射の痕でも調べる気か……?)


 俺を薬物中毒者だとでも疑っているのか。だとすればきわめて心外だ。先ほどの受け答えは理路整然としていたはずだし、特に滑舌が悪かった自覚も無い。


 けれども「どうしてだ?」と問うても警官は「良いから。早く」と急かすのみ。ここは言う通りにしなくては、先へは進めないのだろう。俺は渋々、着ていた上着を脱いでタンクトップ一枚になった。


「ほらよ」


「ん? ああ。刺青は無い、か……うん。よく分かった。ありがとう。君が筋者でないことは確認できたよ」


 その瞬間、俺は心の中で激しくツッコミを浴びせる。


(そっちかよ!!)


 予想外だった。警官が気にしたのは違法薬物使用に伴う注射の痕ではなく、暴力団関係者の証である二の腕の刺青。つまりは俺がヤクザであるか否かを確認したかったらしい。


 少しばかり戸惑いはしたが、結果として署への同行を求められずに済んだのは不幸中の幸いだ。脱がされた服を再び身に纏いながら、俺はホッと胸を撫で下ろす。いつの間にか、心臓の鼓動は自然と高鳴っていた。


(けど、どうして俺がヤクザだと思ったんだ……?)


 ふと気にはなったが、迂闊に訊き返すのは止めておく。何度も書くが、職質は長引かせないに限る。質問の真意が何であれ、警官の懸念事項が晴れたのなればそれで良し。後は早々に立ち去るのみだ。


「いやあ、お兄さん。時間を取らせて済まなかったね。行って良いよ。ただし、この近くからは出来るだけ早く離れるんだ。銃を持ったヤクザたちが沢山出没してるらしいからね。連中の抗争ドンパチに巻き込まれたら大変だ」


「へぇ。そいつは物騒だな」


「東京の組織が豊橋に攻め込んできたとか何とかで。おかげで僕らは特別警戒に駆り出されちゃって、本当に迷惑な話だよ。『東京のヤクザは見つけ次第、捕まえろ』とか言われてさぁ、まったく……」


 ため息と共に愚痴をこぼしながら、その警官は去って行く。彼が俺をヤクザと疑った理由についてはいまいち釈然としないが、一方でそれ以上に気になるワードがあった。


『東京の組織』


 曰く、銃で武装して豊橋へ攻め込んできているとのこと。少し記憶を巻き戻せば、先刻の家入組の奴らも似たような話をしていたような気がする。


 東京にある暴力団と言われて、真っ先に思い当たるのは中川会。知っての通り、中川会は巨大組織だ。幾つもの二次団体を直参として傘下に置いている。その中で、家入組が治める豊橋へ攻め込む理由を抱えた組となれば、ひとつしかない。


(三代目伊東一家……ま、まさか!?)


 思わず声を上げそうになってしまった俺。慌てて両手で口を抑え、何とか堪えた。しかし、衝撃は測り知れない。衝撃というよりは、純粋な驚き。本当の意味で「まさか」と思っていた憶測が、あらぬ形で現実となってしまった格好だ。


 家入組に誘拐された大原恵里を実力で取り戻すべく、三代目伊東一家の戦闘部隊が豊橋へ侵攻した――。


 それこそが、俺が導き出した仮説である。その線で考えるならば、先刻の制服警官が俺に身体検査を強要し刺青の有無=ヤクザか否かを確かめた理由にも説明が付く。


 五反田は東京、つまりは中川会の領地。そこに住んでいると俺が答えたことで「もしかしてこいつは中川会系のヤクザなのでは?」と、警官が懸念を抱いたのだろう。普通の人間ならば特に気にはされないところだが、あいにく俺の容姿は暴力団関係者のそれだ。筋肉質な長身に金髪という厳つい風貌を目の当たりにすれば、たとえ警官でなくともヤクザあるいはチンピラと誤認されるのが自然である。


 ただ、五反田は三代目伊東一家のシマではない。伊東の本拠地は日本橋であり、五反田はそことライバル関係にある本庄組の所領だ。おそらく、あの警官は同じ中川会ということで一括りに考えているのだろう。実際のところは違うのだが、所詮は下働きに動員される身分の低いの制服警官、組織犯罪に関する詳しい事情など知らなくて当然だ。


(あのポリ公も家入組のために動いているのか……?)


 家入組が街の警察を買収している噂が事実なら、今回の件で豊橋署は家入組に味方をすることになる。家入の肩を持ち、豊橋へ侵入してきた三代目伊東一家を捕らえるのだ。


 大原総長以下伊東一家の面々にとって、今の情勢がかなり不利なものであることは間違いない。差し詰め「東京から来たヤクザは見つけ次第逮捕しろ」と、全ての警官に命令が伝えられているのだろう。そんな状況下で娘の捜索が満足に行えるはずも無い。おまけに、警察だけでなく家入組の目も街中に光っている。どう考えても恵里の救出など出来ない。絶対に不可能だ。


 この事実を大原総長は知っているのか。先ほどの警官の『攻め込んできた』という過去形の言い方から察するに、もう既に彼らは豊橋に居るのだろう。万が一に知らないまま来ているとずれば、警察の取り締まりと家入組の反撃で三代目伊東一家は大打撃を被る。


 大原たちが豊橋へ攻め入った事実を知れば、家入行雄はほぼ確実に人質を殺す。いや、もう殺されているかもしれない。伊東一家の侵攻を知っていて、なおかつ息のかかった警察署にその情報を伝達済みとあらば、殺されていないと考える方がおかしかった。


(マジかよ……何ちゅう速さだ……)


 あまりの急展開に、俺の頭はパンク寸前だった。伊東一家がその日のうちに行動を起こしたことは勿論、その来襲を家入組が即座に察知したこともまた、俺の中では驚愕しかない。


 何もかもが、予想外の速さで動いている。こんなにも目まぐるしく動く情勢の中で、これから俺には何が出来るというのか。


 一旦、頭の中を整理してみた。


 まずは、大原恵里の誘拐の件。これについては俺のすべきことではないので、ここで頭を悩ませずとも良い話。大原総長にはかなり気の毒な展開になったが、もはやどうすることもできまい。


 次に、豊橋での情報収集。こちらが本題である。伊東と家入の抗争を気にせず、やはりあくまでも俺たちは粛々と調査を進めるべきところ。


 しかし、先ほどのポリ公が『特別警戒』と口に漏らしていた通り、今の豊橋市内は警戒が厳重になっている。そうした中では動きづらいだろう。家入組にとっては伊東一家同様、村雨組もまた敵対関係にある。素性が露見すれば、警察が一気に俺たちを捕まえに来る。

 よって、それを避けるためには慎重に動くのが正解。警察と家入組、両方の目を気にしながら、コソコソと水面下を動き回るのだ。大いに面倒であるが、これは村雨組長より与えられた大仕事。やり遂げるしかなかった。


 考えるべきは、今後の行動。


 予定通り広小路の組事務所をこの目で見ておきたい気持ちもあったが、情勢が情勢なだけに延期を選んだ。ここは一度、宿へ戻ろう。宿へと戻って沖野に一連の件を説明し、明日以降の計画を練り上げねば。尤も、説明したところであの刀バカは大原恵里の救出に固執するのだろうが。


 いつの間にか、あらゆることが厄介になってきた。何故に、天は地上の人々に面倒事ばかりを与えるのか。後頭部を強くかきむしりながら、俺は駅前へと歩を進めてゆく。


(ダリぃなあ……まったく……)


 が、その途中。俺は予想外のものと出くわした。


 件の『ふぐ・日本料理 小松屋』に踵を返し、飯田線の線路沿いの道路を駅へ向かってまっすぐ歩いていた時。あれは確か、ちょうどレンタカー事業所の前だったと思う。


 1人の男が集団で暴行されていた。周囲をぐるりを取り囲まれ、殴る、蹴ると散々なリンチを受けているではないか。


「ぶはあっ! やめ、やめてくれぇぇェ!」


 少し近づいて行ってみると、袋叩きに遭う背広の男は見知った顔である。そう、先ほど飲食店へ地回りをかけていた若いチンピラ、家入組の杉村だ。


「この野郎、いい加減に吐いたらどうなんだ? テメェらはお嬢を何処へ隠したんだよ!? どこへ閉じ込めてるんだ!?」


「お、俺は何も知らない……!」


 そんな彼を取り囲む連中の顔にも、俺は見覚えがある。この日の午後、横浜の村雨邸で嫌というほど焼き付いた顔。


 三代目伊東一家の男たちだった。


「しらばっくれんじゃねぇ! テメェんとこの親分が言ってきたんだろうが! うちのお嬢を誘拐したと!!」


「だから、知らねぇって……」


「この野郎、まだとぼける気かよ!?」


「ほ、本当に知らないんだ! 信じてくれッ!!」


 言葉の断片からすぐに分かった。伊東の連中は杉村の身柄を捕縛し、拷問を行っているのだ。目的は大原恵里の居処を吐かせるため。


 杉村は両腕を左右から2人がかりで押さえつけられ、もう1人の組員に顔面をサンドバッグのごとく殴られていた。やがて地面にうつ伏せで這いつくばると、そこへ他の者たちが一斉に襲いかかり、交互に腹部めがけて蹴りを叩き込んでゆく。


 集団リンチとは、まさにこの光景。絵に描いたような、あまりにも苛烈な暴力であった。


(なかなかエグいなあ……)


 杉村に襲いかかる伊東一家の面々の数は、ざっと見る限り7人ほど。そんな彼らから少し距離を取り、線路と道路を隔てるフェンスに寄りかかっている人物がいた。一心不乱にリンチを続ける部下たちを眺め、静かに煙草を吸っている。


 無論、俺は彼の顔と名前を知っていた。それは三代目伊東一家の若頭、堀内だった。


「おう。お前ら、一旦中止」


 そんな彼が号令をかけると、杉村を痛めつける組員たちの動きがぴたりと止まる。顔中に傷と痣をつくってすっかり虫の息となった杉村の髪を掴み、堀内は低い声で問いかけた。


「うちのお嬢をどこへやった?」


「し、知らねぇって……」


 前髪を掴まれているにもかかわらず、全力で首を振って否定する杉村。だが、堀内はなおも続けた。


「知らねぇわけがねぇだろ。テメェんとこの親分、家入行雄が直に電話をしてきたんだからな。『おたくの娘を預かった』と」


「で、電話? 組長がそんなことを言ったのか?」


「とぼけんじゃねぇよ。クズ野郎が。これでもまだ知らねぇって言い張るなら、大したものだぜ。ほらよ」


 ――ジュウッ!


 堀内は杉村の額に、それまで吸っていた煙草の火を押し付ける。俗に云う“根性焼き”。あれをやられて耐えられる者などいるはずもない。


 杉村は悲鳴を上げて、背後に仰け反った。


「あああっ! 熱いいいいいい!」


 だが、それでも堀内は止めない。放すどころか煙草をつまむ指先にますます力を込め、先端が軽く曲がってしまうほどに杉村の額へ火を押し当て続ける。


「ああああ! 熱い! やめ、止めてくれぇぇぇ!」


「止めてほしかったら喋れや。うちのお嬢、大原恵里はどこに居るんだ? さっさと吐かねぇと、今度は眼球めだまに根性焼き食らわすぞコラ」


「し、知らない! 俺は本当に知らないんだ!!」


「そうかよ。そんなに目を焼かれてぇんだな。んじゃ、お望み通りやってやるよ。後悔するんじゃねぇぞ」


 堀内は部下に命じて杉村の顔を固定させると、彼の左目の瞼を自らの指で強制的に開かせる。


「やめっ! 止めてくれぇぇぇ! 俺たちは本当に何も知らないんだ! そもそも家入組うちの組長は、俺たち下っ端に大事な話を伝えちゃくれねぇんだよ! だから、誘拐なんて言われても、何のことかさっぱりだ!」


「そんなわけがあるかよ」


「止めてくれ! 目だけは! 頼むから目だけは……」


 ――ジュウウウウウウッ!


 懇願も虚しく、瞼をこじ開けられた杉村の左目には煙草の火が押し当てられる。


「あああああああ! 痛ぇぇぇぇぇぇぇ!」


 眼球が焼ける音は思いのほか大きく聴こえ、少し離れた所に潜む俺の耳にも正確に届いた。少々不謹慎な形容かもしれないが、あれは生卵がフライパンの上で焼け焦げる時に生じる音にそっくりだった。まさに「目玉焼き」だ。


「うわあああ! 熱い! 熱い! ああああああああ!」


 悲鳴を上げて悶え苦しむ杉村には一切お構いなしで、堀内は煙草をぐいぐいと眼球の中へ押し込んでゆく。


「おう、若造。止めてほしかったら吐け。うちのお嬢は何処だ? 家入組はうちのお嬢をどこに監禁してんだ? ああ?」


「うわあああ! 目があああ! 焼けるうぅぅぅぅ!」


「騒いでねぇで答えろよ。テメェは日本語もろくに分からねぇのかよ。呆れるぜ。ほら、早く言わねぇと目玉が溶けて無くなっちまうぜ?」


「ああああああああッ!!」


 それから程なくして、杉村はがっくりとその場にうつ伏せに倒れ込み、動かなくなった。


「何だぁ? 痛みで気絶したのか? 情けねぇ奴だなぁ。おい、起きろ! まだ質問は終わってないんだよ!」


 まだまだ続けるつもりの模様。堀内は倒れた杉村の腹を思いっきり蹴ると、強引に起き上がらせる。しかし、依然として杉村はがっくりと項垂れたまま。意識を取り戻す気配が無い。


「おいおい、どうした! 起きろってんだよ!!」


「……」


 頬を殴っても、揺さぶっても、覚醒する兆候さえ見せない杉村。見かねた組員の1人が、そっと彼の首元に手を当てる。


 すると、思わぬ事実が告げられた。


「……堀内のカシラ。こいつ、死んでますぜ」


「何? 死んだ?」


「ええ。脈が止まってますもん。おそらく、さっきの根性焼きで発狂ショック死しやがったんでしょう。こりゃあ駄目ですわ」


 眼球を火で炙られる痛みが凄まじすぎるあまり、杉村は死んでしまった模様。そういえば以前、何処の局だったかの医療系バラエティー番組で論じていた気がする。人にはそれぞれ痛みを感じる限度というものがあり、それを超えれば忽ち意識を喪失、心臓が動かなくなって死に至るのだと。


(なるほど……初めて見たぜ……)


 そんな過去のテレビの記憶はさておき、俺は状況を簡単に整理し直す。


 堀内率いる三代目伊東一家の男ら計8名が、家入組組員の杉村を路上で暴行していた。リンチという名の拷問であり、彼らの発言から察するに、主旨は大原恵里の監禁場所の特定。それを突き止めるべく、たまたま身柄を押さえた杉村を痛めつけていたのだろう。


 堀内たちが如何なる手段をもって豊橋へ来たのかは分からない。されども、これだけははっきりとしている。それは彼らが横浜の村雨邸から日本橋へ戻った後、大原の宣言通り「恵里を助ける」ため、大挙して家入組の本拠地たる豊橋市へ押しかけたということだ。


 ただ、俺は仄かに違和感を抱いた。電柱の陰からざっと見た限りでは、堀内たちは8人しかいない。今日、村雨組へ集まった伊東一家の兵たちは軽く見積もって50人以上はいたはず。どうにも少ないのだ。


 少数精鋭で来たのか、あるいは何かしらの事情で他の連中と逸れているのか。どちらにせよ、その場に大原総長の姿が見えないことも気になる。


(トラブルでもあったのか……?)


 そう考えた、次の瞬間。堀内の声が響いた。


「おい! そこに居るのは誰だ!?」


 しまった。連中に見つかったようだ。俺は隠密行動はやっぱり苦手である。上手く身を隠したつもりでも、いつも最後には発覚してしまう。気の緩みが慢心を招くのか、もしくは最初から完全に隠匿しきれていないのか。まだまだ改善の余地があるらしい。


「聞いてんのか!? そこに隠れてるのは分かってんだよ! さっさと出てきやがれ! さもなくば撃つぞ!!」


 ふと前方を見やると、堀内はサイレンサー付きの拳銃を右手に握っている。ここで撃たれては堪ったものではない。俺は慌てて電柱から身を出した。


「……よお。堀内さん」


「お、お前は! 村雨組に居たガキじゃねぇか!」


「ああ。横浜じゃあどうも。まさか、あんたらと豊橋ここでも会うとは思わなかったぜ。意外と早く来たんだな」


 先ほどの一部始終を見聞きしていた俺に、堀内は「どうして村雨組が豊橋に居るんだ?」と驚愕の表情で問うてきた。


 さて、ここでは如何に答えるのが適切か。村雨組長が明確に命令していない以上、大原恵里の救出を手伝いに来たと言ってしまうのは道義的にまずい。


 しかしながら、包み隠さず「家入行雄の調査に来た」と答えてもそれはそれで問題が生じる。煌王会クーデターの件は村雨組でも一部だけの秘密であり、それを伊東の連中に悟られてはならないのだ。


(やばい、説明がめちゃくちゃムズいぞ……!)


 国語力を試される場面は本当に困る。悩みに悩んだ末、俺は頭の中にて必死に言葉を紡ぎながら、堀内に返答を試みた。


「ちょいと豊橋に野暮用ができちまってよ。夕方の新幹線に飛び乗ったんだ。こんな所で会うなんざ驚きだぜ」


「野暮用? 何だそりゃ?」


「詳しいことは言えねぇが、大した用じゃねぇよ。組長に行けって言われたんだ。まあ、おつかいみてぇなもんだな」


「そうか……」


 堀内はそれ以上の質問をしてこなかった。


 我ながら、なかなか上手い言い回しが出来たと思う。全てを打ち明けたわけではないにせよ、俺の用いた“野暮用”という表現は奴を納得させるのに十分であった。


 明確に「大原恵里の救出に来た」とは一言も言っていない。けれども“野暮用”という含みのある語句を用いれば、さもそれが目的であるかのように堀内らを勘違いさせることができると踏んだのだ。


 俺のねらいは見事に的中し、堀内は大きく頷く。どこかしみじみと感じ入るような顔つきだった。


「……すまねぇな。迷惑かけちまって。恩に着るぞ」


「おう。だけど、俺たちはあくまでもコッソリ動くから。俺たちの存在を家入組に悟られねぇようにしてくれや。頼むぜ」


「もちろんだ。気をつけよう」


 勿論、ここでも具体的な詳細は明言せず。連中を助けるとは言っていないし、こちらの目的を明かしてもいない。しかしながら、堀内が見事に勘違いしてくれたおかげで上手くいきそうだ。


 危険地帯で動く以上、伊東一家とはなるだけ友好的でいる方が良いに決まっている。マクロな視点で見れば、村雨組と伊東は家入行雄という共通の敵を相手にする、謂わば同志でもあるのだから。


三代目伊東一家あんたらはいつ頃豊橋へ来たんだ?」


「つい2時間くらい前だ。けど、見ての通り、この街は警察が特別警戒を敷いてる真っ只中だ。来て早々、奴らに勘付かれちまったらしい。お嬢が無事だと良いが……」


 既に殺されている可能性の方が高いと思ったが、ここで敢えてそのような指摘をする必要も無い。うっかり逆上させれば面倒な事になる。かける言葉には迷ったが、希望を持たせる言い方をしておいた。


「きっと大丈夫さ。家入の野郎も、そう簡単に人質を殺したりはしねぇはずだ。中川の直参を敵に回して正面から戦争をやるだけの度胸は無ぇよ、あいつには」


「だと良いがな。まあ、どんな結果になっていようと、必ずお嬢は俺たちの手に取り戻す。全員、そのつもりで来たんだ。それが極道としての意地ってやつさ」


「お、おう」


 左手の治療のため東京で待機している大原総長もまた、同様の覚悟を固めていると語った堀内。少しばかり気まずい空気感になってしまったので、俺は即座に話題を変える。


「この街に来たのは8人か? 横浜での話を聞いてる分にゃあ、組の総力を挙げて豊橋へ殴り込むと思ってたが?」


「事情が変わったんだ。本庄組がどうにも不穏な動きを見せやがったんで、兵隊の主力は日本橋に残してきたんだよ」


「本庄組……?」


「ああ、すまねぇ。本庄組ってのは伊東うちと同じく中川の直参だよ。うちの親分とは昔から犬猿の仲でな、しょっちゅう噛みついてきやがるんだ」


 中川会内において三代目伊東一家と本庄組がライバル関係にある事実は既に知っている。俺が戸惑ったのはそこではなく、この局面で本庄組が日本橋侵攻の構えを見せているとの話であった。


 堀内曰く、この日の午後3時頃から本庄組傘下のチーマー集団が日本橋で暴れ始めたという。ちょうど伊東一家総長の大原が日本橋を離れ、横浜に居る時間帯と重なる。確かに、きな臭さを感じずにはいられない事象だ。


「今日の昼過ぎ、品川のホワイト・スタリオンズってチームが日本橋に姿を見せやがった。そいつらは本庄組が下働きに使ってる連中だ。偶然にしちゃあ、あまりにタイミングが良すぎる」


「それってつまり、お嬢さんの誘拐に本庄組が一枚噛んでるってことか……?」


「ああ。この局面での攻勢だからな。そう考えねぇ方が不自然だ。少なくとも、本庄の野郎は三代目伊東一家おれたちが豊橋へ主力を差し向けて日本橋の守りが手薄になることに気づいていやがる」


 もしくは、伊東が豊橋へ大軍勢を送り込めぬよう牽制する意図があるのか。いずれにせよ本庄組は家入と何らかの繋がりがある、と堀内は踏んでいるようだった。


「煌王会系列のお前らは知らんだろうが、本庄組の組長は狡賢い野郎だ。『五反田のサソリ』って呼ばれてるくらいのな。もしかすると、今回のお嬢の誘拐も、あのクソ関西人が家入と結託して仕組んだことか……」


 家入が伊東一家に接近した目的が奸計だったとすれば、堀内の仮説にも説得力が生まれる。伊東一家に煌王会との内通疑惑が浮上して破滅へ追い込まれれば、結果として得をするのは伊東と火花を散らす本庄組だからだ。伊東一家および大原総長が消えれば、本庄利政は中川会幹部昇進という念願を叶えることができるのだ。


 しかし、俺に言わせてみればその可能性はゼロに近かった。本庄は村雨耀介と密かに盟約を結んでいる。そんな本庄が、村雨組にとって敵である家入行雄と手を結ぶはずが無いだろう。


(いや、でもあのオッサンは手段を選ばねぇから……)


 サソリの異名を持つ狡猾な男だけに、何を考えているかは結局のところ推定不能。一度結んだ約定に関しては意外と律儀なのかもしれないし、やはり水面下で村雨組にとって不利益となる暗躍をしているのかもしれない。


 俺の憶測だけでは仮説など出やしないので、これ以上の考察は止めておいた。横浜へ帰ったら組長に話してみようと思い、堀内には適当に言葉を投げておく。


「家入のことだからな。その、本庄ナントカっていうあんたらの敵と繋がっててもおかしくはない。中川会の事情は、よく分かんねぇけどな」


「確実に繋がっているのだろうな。本庄利政は己の利益のためならば平気で組織を裏切る男だ。煌王会とコソコソ内通してるのだって、実際には伊東うちじゃなくて本庄の方だと思う、俺たちは奴に濡れ衣を着せられたんだよ」


「う、うん。あんたの話を聞いてる限り、すっげえ狡賢い奴なんだって分かるよ。そういうタイプは厄介だよな、ほんと」


 本当は話を聞いているだけでなく、実際に五反田のサソリと2ヵ月ほど生活を共にしているので、奴のやり方や性格なども大体は理解しているのだが。


 ともかく、堀内は村雨組と本庄組の密かな同盟関係を知らない。それに勘づいている様子も特には見られない。


(良かった……)


 俺は、心の中で安堵の息をついた。本庄との同盟を知られてはならない。もしも悟られようものなら、大原総長の来訪に際して村雨が本庄に連絡を入れ、日本橋への侵攻を後押ししたと思われかねない。起きている出来事のみを追って考えるなら、そのように仮定付けるのがむしろ自然な流れ。


 俺と同じく洞察力は鈍感なのか、幸いにも堀内たちは村雨による密告を疑っていない。大原恵里の救出作戦に俺たちが助勢しに来たとの勘違いが、彼らをそう思わせているのだろう。


 何であれ、たとえ仮初めでも三代目伊東一家と友好的で居られるならばそれに越したことは無い。俺たちは俺たちで家入行雄の調査に集中でき、警戒対象を家入組と当局だけに絞れるからだ。


 ここはひとまず、話を合わせておくとしよう。「俺たちもお嬢さんを探してやる」とは決して言わず、その筋書きで堀内に思い込みを続けさせるのである。


 さすれば、彼らは味方でいてくれよう。


「で? おたくらのお嬢さんがどこに閉じ込められてるか、何かしら進展はあったのか? さっきの話を聞いた限りじゃあ、手がかりは掴めてなさそうだが……?」


「ああ。ご想像の通りさ。この街に来てからあれこれ調べてはいるが、誰も情報を吐かねぇんだ。そこに転がってる下っ端で3人目だよ。俺たちが“尋問”をかけたのは」


「なるほどな」


 高速道路を利用して豊橋市に入って以来、家入組の組員とおぼしき人物を手当たり次第に捕らえ、凄惨な拷問を施しているという堀内たち。


 襲撃の件を家入組に察知されたのは、おそらくその所為ではなかろうか。


 よく見れば彼らは、ジャケットの胸元に「三代目伊東一家」の代紋を象ったバッジを着けている。そんな格好でローラー作戦みたく襲撃と路上での暴行・拷問を繰り返したのでは、伊東の組看板を自ら名乗っているようなもの。早々と気づかれてしまって当然だ。


(こいつら、アホかよ……)


 堀内たちが代紋バッジを外さないのもまた、極道としての意地ってやつなのだろう。こんな時くらい外せば良いのにと盛大なツッコミを浴びせてやりたくなったが、気分を害してもいけないのでどうにか思い留まった。


「……そうか。下っ端3人を問い詰めても全員口を割らなかったってなると、本当に知らねぇのかもな。誘拐の話を親分から聞かされていないのかも」


「お嬢の誘拐は、家入組の中でも一部の人間だけのシークレットになってるってことか?」


「ああ。おそらくはそうだ」


 村雨組も現状、クーデタ―の件を組長と俺、菊川の3人だけの秘密にしているのだ。同様のことが他の組で行われていたとしても何ら不自然ではない。


「だとすると、まだ俺たちがその情報を知ってる奴と出くわせていないってことになるな。ちくしょう、運が悪いぜ。今までの3人はハズレだったってのか」


「ハズレだな。誘拐の情報を知らなかったって意味では。だけど、これから先は手当たり次第にとっ捕まえて吐かせるやり方はもう止めた方が良い。家入組もだいぶ警戒してる。警察だって出張ってるわけだし」


「じゃあ、どうすりゃあ良いんだ? 家入本人を捕まえようにも、奴は今豊橋に居ねぇって話だぞ……?」


 少し焦ったように尋ねる堀内に、俺は答えを返した。


「いや。本人じゃなくても良い。組のナンバー2の若頭だ。いくら何でも、さすがに若頭くらいには情報を降ろしてるだろ」


「おお、若頭か! うん。確かにその手があったな」


 ついつい村雨組の基準で仮説を出してしまったが、可能性はきわめて高かった。たとえ家入が下っ端連中を信用していないとしても、腹心かつ最側近の若頭ならば情報共有を行えるはず。


 先刻の杉村との会話を立ち聞きした限りでは、富田は家入のことを慕っている様子だった。それが建前だとしても、一定の信頼関係は築いていると見て間違い無かろう。


 けれども、問題は奴の所在。富田がどこに潜んでいるのかが分からない。尋問対象を1人に確定できたのは良いが、そこから先の動きが見通せなかった。


「なあ、堀内さん。家入の若頭がどこへ行ったか、そのチンピラは何か言ってたか?」


「すまん。聞き出す前に殺しちまった。でも、たぶんこの街のどこかには必ずいるはずなんだ。手分けして探せばきっと見つかる」


「そうだなあ。んじゃ、俺は街の中を動き回って探してみるよ。あんたらはどこかで待ち伏せをかけてみてくれ。俺は家入組に顔が割れてないみてぇだし、その方が都合が良い」


「そうだな。じゃあ、広小路の事務所前を張り込んでみるか……? いや、でもそれだと気付かれちまうな。そもそも俺たちが広小路へ容易に近づけるとは思えねぇし」


 富田の行き先についてはいまいちピンとくるものが無く、皆目見当もつかない。先ほど、もっと杉村との会話を聞き漏らさずにいるべきであったと反省した。


 だが、後悔はしない。何故なら、俺の仕事は大原恵里の救出ではないのだから。この会話はあくまでも堀内らに勘違いを指せ続けるための芝居、見せかけに過ぎなかった。


(でも、まあ……気にはなるな)


 いけない、いけない。仕事に私情は禁物だ。件の御令嬢がどうなろうと、所詮は知ったことではないのだ。まだ生きていようが、既に殺されていようが、どっちだって構わない。そんな些末事は放っておいて、俺はただ粛々と本来の仕事に力を注いだ方が良い。いや、絶対にそうするべきだ。


 以降も「富田を探してみる」だの「やっぱり駅前の飲み屋街周辺が怪しい」だの適当な台詞を並べ立て続けた後、俺は程よい所で打ち合わせを終了した。中身の無い会話をこのまま延々と続けたとで、ただ虚無感に苛まれるだけだと考えたのである。


「とりあえず、行動に移ろうぜ。俺は最初に駅前から探りを入れてみる。んで、家入組の若頭が見つかったら、あんたらに連絡するってことで」


「わかった。ありがとうな。兄ちゃん。俺たちのために、ここまで付き合ってくれるなんて。ええっと、連絡先だったよな……よし、この番号を使ってくれ。俺の携帯だ。兄ちゃんの携帯は?」


「悪い。携帯、持ってねぇんだ。何かあったら公衆電話からかけるよ。若頭の姿を見つけ次第、あんたに電話を入れるぜ」


「おう。頼むわ」


 堀内からは彼の携帯電話の番号を紙切れに書いて渡されたが、どうせ使うことも無いだろう。勿論、目の前で捨てるような真似はしない。ここは丁重にポケットへ仕舞い込んでおく。また、「お嬢さんを助け出してやる」とは最後まで言わないままであった。


 一抹のばつの悪さは付きまとうが、特に間違ったことをしている実感は湧き上がって来ない。そのまま俺は堀内たちに別れを告げ、駅の方へ歩いて行こうとした。


 だが、その直後に呼び止められた。


「あっ、ちょっと待った!!」


「何だ?」


「名前を聞いてなかったな。兄ちゃんの名前を」


「俺の名前だと?」


 それならば横浜の村雨邸で相対した折、名乗りを上げたはずだが。ほんの数時間しか経っていないのに、もう忘れてしまったのだろうか。尤も、俺が覚えてもらうに値しない安っぽい人間なのかもしれないが。


「麻木涼平」


「ああ。そうだった。麻木涼平な。覚えておくぜ。んじゃ、これからよろしくな。麻木……えっ? ちょっと待てよ? 麻木って、そう言えば……?」


「どうしたよ。俺の名前が何だってんだよ」


「あ、いや。こっちの話だ。言われてみれば、昔、中川会に麻木っていう凄い奴がいたもんでよ。心なしか、顔もお前さんにそっくりだぜ」


 なるほど。親父の話か。俺の顔と「麻木」という姓を再確認し、いまは亡き川崎の獅子の幻影が堀内の胸によぎったらしい。


 堀内の年代は知る由も無いが、同じく中川会所属の極道であるならば麻木光寿のことを知っていて当然だ。またしても聞こえてきた父の話。以前までと違い、今回は少しうんざりしないでもなかった。


 だが、特に気色ばんだりはしない。


「そうかい。ま、俺には関係の無い話だな。んじゃ」


 こみ上がる様々な胸に押し止め、俺は線路沿いの道をまっすぐに歩いて行った。俺は俺の道を行くと決めたのだ。川崎の獅子と似ていようが似ていまいが、もはや気にするべくもないことだった。


(父さんは父さん、俺は俺だ……!)


 例によって訪れるもどかしさを抱えながら、俺はひとまず宿所へと向かってゆく。その名は『ホテルアカシア』。豊橋駅の複合施設『カルミナ』に直結したホテルで、駅から一番近いだけあってサービスはかなり良いらしい。


 そこを豊橋における活動拠点として押さえた沖野だが、客室はちゃんと2部屋分取ったのだろうか。あの男と相部屋だけは御免だ。仮にそうなったら居心地どころの問題ではなくなる。奴の横暴さで俺の安眠が阻害されることだけは避けたかった。


 とはいえ、『ホテルアカシア』の宿代は安くないので、滞在に係る費用を考えれば1部屋でも致し方なし。文句は言えないのだが。


「あのさぁ。俺、“田中”って奴の連れなんだけど」


 駅ビルを経由でホテルへと直行した俺は、フロントの受付嬢に声をかける。沖野がきちんと予約を行っているなら、出発前に伝えられた“田中”なる偽名でチェックインされているはず。手続きの不備が無いことを祈るしかなかった。


「こんばんは。“田中”様ですか? ええっと、それは“田中一誠”様でしょうか?」


「あ、ああ。たぶん、そうだわ」


「たぶん?」


「あ、ううん、何でもねぇ。こっちの話だ。そういやあ沖……いや、高橋の奴、一誠いっせいって名前だったな。忘れてたぜ。へへっ」


 危うく素性を怪しまれかけたが、何とか作り笑いで誤魔化した。ここで「たぶん」はまずかろう。偽名を使うのであれば、下の名前まできちんと聞いておくべきだったと己を後悔した。


「……わかりました。田中一誠様でございましたら、12階の6号室です」


「どうも」


 最後まで視線が訝し気ではあったが、何とか通して貰えた。このホテルは13階建てのため、最上階よりひとつ下の階ということになる。それならば景色も良さそうだ。“田中”改め沖野が押さえた部屋は案の定1部屋だけだったが、我慢するしかあるまい。


 俺には、それ以上に見過ごせぬ点があった。


 奴のフルネームは沖野一誠。いくら名字を“田中”に変えたとて、下の名前を変えていないのでは効果は半減する。本名のままなのでは、偽名を用いた意味すらも揺らいでしまうではないか。


 その辺りは何とも沖野らしい。アホだ。やはり、あの男は俺が思った以上に単細胞で間の抜けたヤクザなのかもしれない。


(あんな奴と一緒でこれから大丈夫なのかよ……)


 先が思いやられるというか、つくづく不安に思えてくる。


 そうした不満を抱えながらも真っ白いロビーを進み、エレベーターに乗った俺。気は乗らないが、仕事は仕事。命じられた以上、やり遂げるしかない。


「……」


 ゴンドラの中には俺ひとりだけ。静かな空間において考えることといえば、今後の動きをどうするか、件の刀バカとどうやって上手くやっていくかといった、極めて難しい内容ばかり。悩めば悩むほどに思考が絡まり、煮詰まった挙げ句に答えが出なくなってしまうのが俺の悪い癖。容易に解決策を見出だせぬ厄介事を前に、やがては頭が痛くなってきてしまった。


『5階です』


 不意にゴンドラの上昇が止まる。どうやら、その階でエレベーターに乗る客がいるようだ。機械的な女声のアナウンスの後、扉がゆっくりと開く。


 1人の客が入ってきた。黒色の背広を着た小太りな男だった。携帯を耳に当てて、何やら上機嫌に話している。


「ああ、はい! ちょうど今、ホテルのレストランで中華を食べたところなんですがね。美味かったですよ~!」


 何の話題を繰り広げているのだろう。その『ホテルアカシア』の5階に中華料理店が入ってることはロビーの案内表示で知っていたが、食後に誰かと話したくなるほどの美味なのか。


 だが、それ以上に俺には気になることがあった。乗り込んできた男の声には、明らかな聞き覚えがある。携帯で誰かと話しながら最上階の13階のボタンを押した、その男。


 横顔がちらりと見えた瞬間、俺に衝撃が走る。


(こいつは!)


 富田だ。煌王会直系、家入組若頭の富田。間違いない。先ほど大橋通1丁目の路上で遭遇した男の特徴と、完全に一致しているではないか。完全に富田本人だ。


 何故、こんな所にいるのだろう。ひどく困惑と混乱に見回れながらも、俺は必死で頭の中を整理する。


 そういえば、あの時、富田と一緒に居たチンピラの杉村はこんなことを言っていた気がする。大橋通1丁目の路上にて、確かに聞こえた。


『富田の若頭カシラ、あの様子じゃあ絶対にホテヘルへ行くだろ。良いご身分だよなあ。俺たちが必死でシノギに走り回ってるってのに』


 “ホテヘル”というのは派遣型風俗のことで、自分で取ったホテルの一室に娼婦を派遣してもらう娼館のサービスである。“ホテヘル”の利用客といえばラブホテルを用いるのが普通と思っていたが、このような宿に女を呼ぶ奴がいたとは。


「いやあ~、前祝いですよ~! 我々がこれから天下を取る、前祝い! えっ? いやいや、上手くいくに決まってるじゃあありませんか! 大丈夫ですよ~!」


 前祝いとは、一体何のことやら。そもそも酒が入っているのか、かなりテンションが高い。そもそも他の客と乗り合わせたエレベーターの中にいるという事実を忘れているのだろう。


 傍らで立ち聞きしている者がいるのに、何故かくも大声で話し続けられるのか。やがて彼の口からは、思いもよらぬワードが飛び出した。


「例のお客様ですけど、まだ豊橋に置いとくんですか? 私は別に構いませんが。火種にしかならないんじゃないですかねぇ……現に伊東一家はカチコミをかけてきてるわけですし……? 」


 例のお客様、火種、伊東一家――、


 良からぬ内容であることは一目瞭然。もしや、大原恵里の誘拐について話しているのか。“例のお客様”という不自然な言い回しからして、誰かを隠して呼んでいるとすぐに分かった。


 こんな時、俺の勘はいつも当たる。案の定といえば相応しいのかは分からないが、やがて富田は決定的な台詞を吐いた。


「……わかりました。なるようにしかなりませんよね。あなたの仰せのままに致しますよ、組長」


 通話を切り、富田は携帯をポケットへ仕舞い込む。間違いない。こちらの相手は家入だ。富田は主君の家入と何らかの計画について打ち合わせを行っているのだ。


 まさか、こんなところで遭遇するとは夢にも思わなかった。おそらく豊橋市内に居るものと踏んでいたが、想像以上に近いところで見つけてしまったではないか。元来、俺としては奴の捜索などはする気が無かったのに。いちおう「協力する」ような素振りは見せたが、あれはあくまでも建前。富田探しは堀内たちに任せ、自分は本来の任務に集中しようと思っていたのに。


(どうする……?)


 伊東の連中には富田を見つけたら連絡すると言っていたので、俺には約束を果たす義務が生じている。このままホテル1階ロビーの公衆電話へと向かい、堀内から貰った番号へかけれは良かろう。


 しかしながら、どうにも物足りない気がした。本来そうではないはずなのに、エレベーターで富田を見つけたという事実が俺にとっては大きな幸運のように思えたのだ。


 言い換えるならば、降って湧いたチャンス。


 俺の目的は大原恵里の救出ではない。だが、ここで富田を捕らえることはプラスにこそなれど、決してマイナスにはならないだろう。家入組若頭である富田を捕らえて尋問を行えば、本題の情報収集も一気に進むはず。


 富田は家入にまつわる情報を持っていると見て間違いない。組のナンバー2なのだ。何かしらの機密を把握していて当然である。


(よし、やってやるか……!)


 上手くいくか、見通しはまったく不透明。千載一遇の機会にして、一か八かの賭けとなろう。されども、ここで腰を引いてしまうのは非常に勿体ない。


 さらに運が良いことに、エレベーターの中に他の乗客はいない。ここが勝負どころだ。今を生かさずして何とするか。


 即座に覚悟と決意を固めた俺は、掌をギュっと握りしめて拳をつくる。9階、10階、11階とゴンドラが上昇を続ける中、ただひたすらにその時を待っていた。


『12階です』


 到着を告げる機械的な音声が聞こえるや否や、俺はすぐさま行動に出る。扉付近に居た富田の背後から、間髪入れずに組み付いてやったのだ。


「うぐっ……!? うぐあああッ……!!」


 俗に云うスリーパーホールド。敵の首に左腕を回し、もう一方の右腕の肘を掴み、手で後頭部を押してそのまま絞め上げる、プロレスや総合格闘技ではお馴染みの技だ。


 富田のもがき苦しむ声が聞こえたが、俺は止めない。このまま奴の呼吸を圧迫し続けて酸欠状態に陥らせ、失神させてやるのだ。


「ああッ!……誰か……おっ、お助け……!」


 やがて小さな断末魔と共に意識を失い、糸の切れた操り人形のごとく動かなくなった富田。奴の体を抱え上げると、俺は颯爽とエレベーターを降りてゆく。

家入組若頭の富田を拉致し、情報を吐かせる――。涼平の急ごしらえ奇策が、果たして吉と出るか、凶と出るか? 次回、新たな展開!


涼平は「大根が苦手」と好き嫌いしてますが、筆者自身は菜飯田楽が大好物です。八丁味噌にからしを乗せて食べると超絶に美味。是非ともお試しあれ。

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