豊橋への潜入
村雨邸の庭には、安堵感が広がっていた。
三代目伊東一家との全面対決の危機を回避し、連中との遺恨も無くなった。まだ他に懸念事項は残っているにせよ、束の間の喜びに浸るくらいは許されるかもしれない。
「……まあ。何はともあれ。これにて一件落着ってやつだね。とりあえず伊東とのゴタゴタは片付いたと思って良いわけだよね? “不可侵条約”も結べたわけだし?」
声をかけた菊川に、村雨組長はコクンと頷く。
「うむ。ひとまずは手打ちとなった。大原征信が約束事にどこまで忠実かは存ぜぬが、あの様子では案ずるに及ぶまい。おそらく、三代目伊東一家はもう横浜に討ち入っては来ぬ」
「確かにね。そもそも僕らに対して誠意が無きゃ、指を噛み切ったりなんかしないよね。あれは流石に驚いたけど」
「ああするしかなかったのであろう。さもなくば、大原とて気が治まらんのだ。まったく、昔気質の御仁はこれだから扱いに困る。いつも損得よりも己が情を重んじる。実に愚かなことだ」
「フフッ。そういうキミも似たようなもんだけどね」
からかうように苦笑した若頭。一体、如何なることかと眉間にしわを寄せた組長に対し、彼はどこか皮肉めいた軽口を叩いていった。
「キミだって十分、感情で動く男だよ。昔からずっとね。ドライ振る舞ってるように見えて、実は100パーセント冷徹ってわけでもない。敵の抱えた事情によっては、ある程度の同情を抱くこともある」
「何だと? 敵に同情とは? 私がいつ左様な甘さを見せたというのだ! 思う所を申してみよ!」
「例えば、さっき。君は本来ならば大原さんを脅すこともできた。手打ちと引き換えに『伊東一家の兵をしばらく村雨組に貸せ』ってね」
菊川はなおも続ける。
「知っての通り、いまの村雨組は人手不足だ。伊東一家の兵力があれば今後の戦争が有利になったかもしれないのに。それを敢えてやらなかったのは、キミが大原の親分の心情を少なからず汲んでいたからだ。娘を持つ、同じ父親としてね」
「戯けたことを申すな! 伊東の兵などを借りたところで何になる! 仮にも中川会の直参ともあろう男たちが、我らのような所詮は枝の膝下で戦うわけが無かろう。伊東から兵を借りたとて、その者どもが言うことを聞かずに困るだけだ」
「ああ。確かにそうかもしれない。けど、兵を貸せと言わなくても賠償金を払わせることはできた。気づいてないと思うけど、さっきのキミはヤクザの顔じゃなかったよ。ひとりの父親の顔になってた。気持ちは分かる。大原の娘、たしか名前は恵里……だっけ? その子に絢華ちゃんの姿が重なったんでしょ?」
村雨絢華と大原恵里。この2人の少女には、確かに共通事項がある。どちらも親が極道であったが為に、悲壮かつ惨たらしい運命を背負ってしまったのだ。
前者は父が始めた抗争に巻き込まれて重傷を負い、一生かかっても消えない痕が残った。後者は父の抱えた金銭トラブルがもつれ、結果として誘拐されるに至った。
生まれてくる子を親が選べないのと同様に、子も親を選ぶことができない。親がヤクザであれば「ヤクザの子」という十字架の元で成長し、生きてゆくしかない。村雨父娘の場合は拾い子なので少し事情は変わるが、残虐魔王は確かに娘の運命を憂いていた。
『私が極道であったが故に、あの子には辛き運命を背負わせておるのだ』
絢華の体のことで、以前俺に話してくれたことがあった。詳細は違えど、大原父娘の陥った苦境と根本的には似通っている。菊川の言う通り、やはり村雨が大原に少なからず同情を抱いていても不思議ではない。
極道としての天下獲り、つまりは任侠渡世での成り上がりを目指す動機を「絢華に全てを与えてやりたいから」と堂々と言ってのけるほどに子煩悩かつ娘想いな男であれば、なおさらのことだ。
「馬鹿馬鹿しい。左様なわけがあるか」
「認めたくないなら認めなくていいよ。けど、僕が言いたいのは『100パーセント打算的に振る舞う必要は無い』ってことさ。感情任せに動いたって誰も文句を言わないよ。村雨組の組長はキミなんだから、キミの決めたことにはみんな黙って従う。もちろん、僕もね。泣く子も黙る残虐魔王にも、義理人情に厚い面があっても良いじゃないか」
「お前の言いたいことはそれだけか。真面目な顔で何を申すかと思えば、くだらぬ世迷言を並べおって……! もう良い、好きに言っておれ!!」
饒舌に語り尽くす菊川を途中で遮ると、村雨は踵を返して屋敷へ戻って行ってしまった。その姿を見て、菊川が再びニヤリと笑みを浮かべて呟く。
「図星だな。あれは」
若頭の一言で、組員たちに笑いが起こる。釣られてなるものかと必死で堪えていた俺も、結局は吹き出してしまう。本人には申し訳ないが、実際のところ、あのような村雨組長の姿を見るのはその時が初めてだった。
指と引き換えに手打ちを申し出た大原総長に対し、賠償金や兵力供出を要求しなかったのは、様々な事情を考慮した上での総合的な判断といえる。
だが、そこには村雨なりの温情も少なからず、含まれていたはずだ。家入に搾り取られて金欠状態の三代目伊東一家に更なる出費を要求するのはしのびない。ましてや、これから娘を救出すべく決死の敵陣突撃を敢行しようという時に『我々に人手を貸せ』と頼むのは、いくら何でも酷である。人手が足りないのは、向こうとて同じ。むしろ大原たちの方が状況としてはかなり苦しいはずなのだから。
残虐魔王も人の子。そして、人の親である。自分のせいで愛娘を危険に巻き込んでしまった大原の苦悩と後悔には、大いに共感をおぼえたと思う。菊川も指摘した通り、むしろ同情しない方がおかしかった。
そもそも今回の交渉で得るべきものを村雨耀介はきちんと得ている。文句をつける余地は、何ひとつとして無いではないか。
伊東一家は村雨組の領地を侵略しない――。
当の総長の口から確約が得られただけでも、大きな収穫であったと思う。この“不可侵条約”のおかげで、俺たちが昨日まで抱えていた懸案事項がひとつ無くなった。背後を気にせず、煌王会のクーデタ―に立ち向かうことが出来るのだ。
「ま、何はともあれ。結果オーライだね」
その場に居る全員に向けられた菊川の言葉に、俺はひとまず賛同しておいた。村雨耀介にあのような一面があったことは少し意外だが、それはそれで良い。ここぞという場面で情に絆されたりしなければ、俺たち配下の人間が不安を抱く必要も無いだろう。
(ああ、何とか片付いたか……)
そう考えた瞬間、身体中の疲れという疲れが一気に心へと襲いかかってきた。実際には数時間しか計消していないはずなのに、どういうわけか数日を不眠不休で過ごしたような気分である。
冷静に考えれば、俺はとんでもない事をやり遂げた。体に爆弾を巻き付けた男と対峙し、どうにか宥めて起爆を未然に防ぎ、なおかつ後先考えずに彼を斬ろうとした戦闘狂の暴挙まで食い止めているのだ。疲労が蓄積されて当然ではないか。
ここは一旦、休息を取るべき。だが、自室を目指して急いで廊下を歩いていると、俺は意外な顔と出くわした。
日高だ。
「あ……あれは……奇跡だ……運が良かった……」
相変らず下を向いて何やらブツブツと呟きながら歩いてくる。活動時間が違うせいか、彼と直接遭遇するのは久しぶりだった。スルーしても良いところだが、気になった俺は声をかけてみることに決めた。
「運が良かった? 何がだ?」
「お……大原の爆弾が……爆発しなかったことだ……もしも爆発していたら……この屋敷が吹き飛ぶだけでは……済まなかった……ほ……本当に……ゾッとする……」
つい先ほどまで組長の指示により、大原が持ってきた所持品の分析を行っていたと語る日高。奴がアタッシュケースに詰めていたのが偽札ではなく、ウィスキーの瓶だった点は俺自身、不思議に思っていた。
曰く、衝撃的な分析結果だった。
「あ……あの瓶の中に入っていたのは……酒じゃない……油だ……成分的には……ガソリンに近いと思う……」
「ガソリン!?」
「そうだ……爆弾と一緒に持っていれば……爆発した時の威力が……桁違いに跳ね上がる……」
なんと、大原総長が爆弾ベルトと共に携行していたのはガソリン入りのウィスキーの瓶。起爆時の被害を少しでも大きくする思惑があったと推測される。
それは村雨邸へやって来た彼が決死の覚悟を固めていた何よりの証左である。どうせ死ぬなら1人でも多くの人間を道連れに、なおかつ横浜の街を焼き尽くしてから死のうと考えていたのだろう。
「も……もしも爆発していたら……村雨組と大原だけの問題ではなかった……少なくとも……山手町一帯は壊滅していただろう……」
任侠道を地で往く大原征信ほどの男が、ここまで狂った作戦を思いついてしまったのだ。極道の抗争に関係のない一般人を巻き込んで死なせるなど、普段の大原ならば絶対に許さないことのはず、それほど「娘を人質に取られている」との事実が、あの男をおかしくしたのだった。
(マジかよ……)
日高と別れた後、俺は改めて家入への怒りが強くなった。あの男だけは何としても倒さねばならない。
そんな思いを沸々と燃やしながらも、俺はひとまず自室へと向かう。
今はとにかく、少し休みたい。気の抜けた体に鞭を打ちながら、俺は自室へ向かって歩き始める。一刻も早くベッドに横たわり、心身の疲れを回復させるために。
しかし、そうは問屋が卸さなかった。またしても俺は意外な人物と遭遇してしまった。不意に、背後から呼び止められたのだ。
「ねぇ、そこの若い衆。ちょっと良いかい」
びっくりして振り返ると、そこに立っていたのは妙齢の女性。勢都子夫人だった。
「ん? 何だい?」
「今から、ちょっと買い物に出たいんだけど。付き合ってもらえるかしら。あたしは横浜に詳しくないから、案内してもらえると助かるわ」
「いや、それは駄目だって……」
何を言い出すかと思えば。午前中、菊川が釘を刺したばかりだというのに、もう忘れてしまったのか。大原たち三代目伊東一家の対処にかまけて忘れていたが、この人物の存在も村雨組にとっては別の意味で厄介事であった。
「ちょっと出歩くくらいなら良いじゃないのよ」
「いや、ちょっとだろうが駄目なものは駄目だ。煌王会の連中に悟られたらまずい。狗魔とか、ヒョンムルとか、他にも横浜にはヤバいのがいるし」
「そんなの、あんたたちがきちんとあたしを護衛すれば済む話でしょ? 別に坊門だって追って来てやしないさ。そこまで暇じゃないと思うわよ? ほら、早く。出かけるから! 支度なさい!」
「いいや。無理な頼みだ。あんたを屋敷から出して、もしものことがあったら、うちの組長がとばっちりを食らうんでな。悪いけど、行かせるわけにはいかねぇわ。早いとこ部屋へ戻ってくれ」
その瞬間、勢都子夫人の顔色が変わった。
「ああ? あんた、いま何て言った?」
目つきが鋭くなり、声色が低くなる。その急変を視認した俺が「しまった!」と息を呑むのに時間はかからなかった。
出来るだけ穏便に事を済ませようとワードとイントネーションには気を付けたつもりが、怒らせてしまった。俺が気を配るべきは、そこではなかったようだ。
「何よ、あんた。あたしの身の安全じゃなくて、村雨の立場を心配してるってわけ?」
もっと言い方を選べば良かった。表現がまずかった。先ほどの俺の台詞では、勢都子夫人より村雨組長の方を優先しているように聞こえてしまうではないか。
長島勢都子は会長夫人。煌王会の中では「女将様」と呼ばれる、曲がりなりにも偉い立場の人物。現状は三次団体の組長でしかない村雨より、はるかに格上の人物なのだ。
(あっ、ミスった……!)
訂正しようにも後の祭り。勢都子夫人は憤慨している。ここで迂闊な言い訳を繰り出せば、火に油を注ぐ展開に陥りかねない。
俺は己の国語力の不足を嘆いた。こんな事なら、もっと義務教育の期間中に上手な言葉の使い方を習得しておくべきだった。そうすれば、誰とでも円滑なコミュニケーションが可能になったというものを。
さて、どうするか。謝罪しなければいけないことは確かだが、それを何処に持っていくかも悩ましい。
覚悟を決め、俺は勢都子夫人と向き直った。
「……いや、そういうわけじゃねぇ。もちろんあんたがいちばん上だ。けど、もうちょっと周りのことも考えてほしい。さっき若頭も言った通り、あんたの命はあんただけのものじゃないんだから」
「はあ? 何よ、それ。結局はあたしより周りの人間の都合が大事って言ってるじゃないの。ほんと失礼ね、あなた。何様のつもり?」
「わ、悪い。ただ俺は、あんたに死なないでほしいっていうか、命を大事にしてほしいだけなんだ」
「余計なお世話よ。あたしの命をどう使うかは、あたし自身が決めること。あなたには関係ない」
このような場面で上手いこと言えない自分が嫌になる。何を言ってもけんもほろろに跳ね返され、俺の説得はまったく意味を成さなかった。
長島勢都子という女は思った以上にしぶとい。一度己の口から吐いた言葉は、周りがどんなに諌めようとも実行しようとする。それが例え危険な結果を招くものであろうと、彼女にはお構い無し。誰が止めたところで、結局はやってしまうのだろう。
いっそこの老婆を部屋で縛っといた方が良いとさえ、思ええてくる。
無論、煌王会の女将相手に乱暴なことは出来ないのだが。こちらが思わず極端な手段に出たくなるほど、勢都子夫人は頑固だった。
「あたしが行くと言ったら行くんだよ! 口答えする暇があったら、早く準備をしなさい!」
「いや、それは駄目だ」
「何で駄目なのよ。あたしが外へ出たら危ないってのは、あなた達の理屈でしょ? 護衛の人数を増やせば良いだけの話よ!」
「そんなに外へ出たいのかよ……」
頑固というよりは、単なるわがままか。むしろ我が強すぎるくらいでないと極道の姐さんは務まらぬのだろう。されども、直に接する身からすれば迷惑千万。
察するに、勢都子夫人としては「外へ出ること」よりも、「目の前の小僧を言い負かして服従させること」の方が重要になってしまっていると見た。
体面やら自尊心やらの問題もあるので気持ちは分かるが、できれば村雨組側の事情も理解してほしいのが本音。俺はすっかり、参ってしまった。
(いい加減にしてくれよ……マジで……!)
しかし、生憎、目の前の女は一歩も引く気配が無い。挙げ句の果てには、話とはまったく関係の無い部分を突いてくる始末だ。
「大体、何なのよ。その口の聞き方は。あたしを誰だと思っているの? ずいぶんとナメた態度を取ってくれるじゃない」
「それは……いや、その……」
「呆れたわね。ろくに敬語も使えないなんて。これだから最近の若い衆は嫌なのよ。あーあ、期待はずれだわ。やっぱり村雨も他のとこと同じだったか。村雨なら、もう少し子分をキチッと躾ていると思ったけど」
「……」
目上の相手に対して無作法なのは今に始まった話ではない。やはり、そろそろ敬語ないしは礼儀作法のイロハを学ぶべき時なのか。あまりにも手痛い指摘に、俺は返す言葉も無かった。
以降、勢都子夫人の講釈は数十分ほど続いた。
どちらかといえば、講釈を垂れるというよりは一方的な説教、あるいは八つ当たりに近いか。彼女は自分本位な主張を矢継ぎ早にぶつけてきた。俺が低姿勢であらざるを得ないのを良いことに、屈辱的な罵倒の言葉までが飛んでくる。
単に俺個人を罵るだけなら未だしも「あなたのところの組長はどういう教育をしてんだ」だの、「子分がバカなら親分もバカ」だの、批判の矛先は村雨にも及んだ。
当然、俺は腸が煮えくりかえる思いだった。しかしながら今回は場面が場面だ。親分を侮辱されたとはいえ、相手はその親分のそのまた親分にあたる人物。
ここで下手に食ってかかるのは得策に非ず――。
俗に云う、我慢のしどころというやつか。それからも勢都子の剣幕は収まらず、ガミガミと長きに渡って廊下で詰られ続けたが、俺はただ歯を食いしばって堪えていたのだった。
「あたしに楯突いた度胸だけは認めてあげるわ。ガキのくせに大したものよ。だけど、あんまり調子に乗らないことね。そうやってイキッてると、いつか必ず痛い目に遭う日が来るから」
「ああ。肝に銘じとくわ……」
「だーかーら、敬語を使いなさいって言ったでしょ! 人の話をちゃんと聞いてたの!? まったく!!」
最後にとびきり大きな叱責を浴びせると、勢都子夫人は踵を返す。そして、すたすたと来た道を戻って行く。
(諦めてくれたのか……?)
俺に当たり散らしたことで気が済んだか。真意の程は分からぬので何とも言えないが、玄関とは別の方向へ行ったので直ちに彼女が外へ出ることは無いようだ。
要らぬお説教を賜ったことはつくづく不本意はであったものの、あのまま女将を外に出してしまっては取り返しのつかぬ顛末を招いたことだろう。
大きなトラブルにならなかったことに胸を撫で下ろしつつ、俺は全身の力がみるみる抜けてゆくのを感じた。
「ふう……面倒くせぇ婆さんだぜ……」
ため息と一緒に愚痴が漏れてしまった俺。すると、またしても背後から不意に声をかけられた。
「おいおい、思ったことが声に出てるよ? 女将への悪口を呟くのは感心しないなあ? 麻木クンよ」
振り返ると、そこにいたのは菊川塔一郎。壁に片手で寄りかかりながら、いつになくニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべて視線を送ってきている。
奴の接近に俺はまるで気づくことが出来なかった。よもや、先ほどの会話を立ち聞きされたか。
「いつからそこに?」
「つい30分くらい前から。たまたま通りかかったんだよ。僕だって暇じゃあないんだから」
悪い予感とは当たるもの。俺が勢都子夫人にどやされている間、ずっと柱の影から眺めていたというわけらしい。恥ずかしさと腹立たしさで俺の両頬は紅潮した。
「なるほどな。ってこたぁ、さっきのを立ち聞きしてやがったってか。まったく趣味の悪りぃ野郎だぜ」
「別に良いじゃん。聞いたって。たまたま遭遇したものは仕方ないんだから。そんなことより、さっきはキミ。よくぞ我慢したねぇ。大したものだ。堪え性の無いキミのことだから、ヒヤヒヤしながら見てたけど。あの言われ方でよく耐えた。成長したもんだよ」
「ちっ、嫌みかよ……」
舌打ちで返した俺に、若頭は上機嫌で言った。
「嫌みじゃないさ。本音だよ。少し前までのキミでは考えられなかったことだったからね。キミもようやく『空気を読む』という術を覚えたらしい。ヤクザには必須の技術だからね。くれぐれも忘れないように」
菊川が言うと皮肉にしか聞こえないが、彼なりに俺の成長ぶりを評価してくれているらしい。我慢を覚えたことは俺自身も認める変化。ここはありがたく賛辞を受け取っておくとしよう。
「ああ。ありがとよ。お褒め頂き光栄だ。あの婆さん相手にケンカしてもマイナスの方がデカいからな。損得で考えりゃ当然のことだわな」
「それが分かるようになったのなら、尚更キミは成長したってことだ。何があったのかは知らないけど。ただ、女将様の仰ることも一理ある」
「一理ある? おいおい、あんたも、婆さんが外に出て歩いても村雨組がボディーガードすりゃあ問題ねぇって思うのか?」
「違う違う」
菊川は首を大きく横に振った。
「キミの振る舞いだよ。麻木クン。村雨組にきてだいぶ経つんだし、そろそろ礼儀というものを覚えなきゃ駄目だ」
「あんたもそれを言うのかよ……」
「見過ごせないからね。百歩譲って僕や組長に対してならまだしも、女将様に向かってあれは無い。いくら何でも無作法すぎる。場合によっちゃあ命取りだよ」
一転して説教くさい口調となった菊川に、俺はため息をつく。今さら如何に変われというのか。
生まれてこの方、言葉遣いを褒められた試しが無い。誰に対しても常に自分なりの口調で接してきた。そんな俺が正しい振る舞いを身に付けるなど、当時は不可能であると思っていた。
「……なあ、菊川さんよ。俺にはよく分からねぇわ。敬語ってのはそんなに大事なもんなのか?」
「奇妙なことを言うねぇ、キミは。大事に決まってるじゃないか。敬語が使えない奴は出世できないよ。この世界は上に気に入られてナンボなんだから」
「はあ? 本当にそうか? 最終的にゃあ腕っぷしが強いやつが勝つんじゃねぇの? 組長みてぇによ」
「勝ち負けで言えばね。だけど、それと出世できるかできないかは別の話だ。いくら喧嘩上手でも世渡りが下手なら意味がない。そういう奴はせいぜい使い勝手の良い駒として一生を終えるのが関の山さ」
どんなに強くても出世できない者はいる――。
妙な生々しさを孕んでいた。彼の実体験に基づいているのか、はたまた彼の知っている人物で実力に見合わぬ不遇を強いられている者がいるのか。まるで「そういう奴を自分は何人も知っているんだぞ」と言わんばかりに、菊川の語りは俺に対して強烈な圧をかけたのだった。
俺自身も分かってはいた。いつまでも、こんな無頼な言動を続けていてはいけないのだということを。
礼儀やモラル、マナーやしきたりといった縛りが煩わしくて裏社会へ逃げ込んだのに、まさかここでも洗練された振る舞いを求められるとは。むしろ若頭曰く、任侠渡世の方がカタギ社会の何倍、何十倍も
作法を磨くことが重要になるというではないか。
話を聞くだけでも鬱陶しく、且つ面倒臭く感じてくる。けれども必要というなら身に付けねばなるまい。それが自分自身の為であり、ひいては組織の品位と名誉を保つことにも繋がるのであろうから。
「最初から全てを完ぺきにこなせた人はいないからね。渡世を生きるうちに段々と覚えていけばいい。キミが学ぶべきことは他にもある。言葉遣いや所作以外にも、法律や政治経済、科学や医学まで幅広い知識を得て貰いたいね」
「はあ!? 知識だと!? おいおい、知識ってことは、まさか俺に勉強をしろって言ってんのか!?」
「うん。今までの言動を見る限り、キミはからっきしの無学みたいだからね。さっきも話した通り、この世界は腕っぷしだけじゃ上には行けない。知識こそが最大の武器。生涯勉強だよ」
「はあ。今さら勉強なんかしたところで、俺は何も覚えられねぇと思うが……? 日本海と太平洋の位置を間違えたくらいの馬鹿だぞ、俺は……?」
かつての苦々しい体験が蘇る。小3の頃にグレ始めた俺は学校の勉強というものをまともに修めた記憶が無い。義務教育の期間中、授業はサボることが当たり前。たまに出席しても、居眠りするか、教師を暴力で黙らせて漫画を読むかの二択だった。
それゆえ当時の俺の学力は小学校低学年レベル。改めて勉強をやり直すとなれば、相当前まで遡らねばならない有り様だろう。考えてみると、実に気が遠くなりそうな話だ。
だが、顔をしかめた俺の肩を菊川はポンと叩く。「そんなに悲観することも無いでしょうに」と言った後、若頭は言葉を続けた。
「前から思ってたけどさ。麻木クン、地頭は良いよね? 学校の授業をまともにやってなかったわりには分数とか、確率とか、その辺りの計算を何となく理解してるみたいだし。だから、ちゃんと取り組めば中学生レベルまでは案外早く追いつけると思うよ」
「買いかぶり過ぎだ。俺の馬鹿具合を舐めてもらっちゃ困る。計算とかは少し分かるが、他が駄目だ。漢字だって殆ど書けねぇし、英語なんかアルファベットも危ういくらいだぜ」
「覚えれば何とかなるでしょ。キミは記憶力が良いんだし。少なくとも国語的なセンスはあると思うよ。それが無かったら、さっき女将様に『あんたの命はあんただけのものじゃない』だなんて、気の利いた台詞は吐けないよ。言い方はともかく、それは麻木クンに才能と素養がある何よりの証左さ」
「そういうもんかねぇ。こちとら実感が無いけど」
初めて受けた評価に、俺はひどく戸惑ってしまった。
曰く「地頭が良い」というのは、俺の今までの様々な場面における振る舞いから導き出した、客観的な推察であるらしい。
菊川と共にいたシーンの中で、一体どこでそんなやり取りがあったのやら。あれこれ振り返ってみたが、いまいちピンと来ない。むしろ彼には散々「キミ、そんな事も知らないの?」と冷たい嘲笑を受けてきたと思うのだが。
「知識と思考は違うってことさ。現状、キミは殆ど無知無学に等しいが思考の軸はしっかりしてる。そっちが頑強である限り、覚えた知識はすぐに使いこなせるからね。真面目に勉強さえすれば、麻木クンは瞬く間に博学なインテリになれる」
「おいおい、本当かよ? いくら何でもそんなに上手くいくわけが無い。勉強しようったって、そもそも教科書に書いてる漢字すら読めねぇと思うが……?」
「僕の人間観察眼を舐めてもらっては困るな。教科書の漢字が読めないなら、まずはその漢字を勉強すれば良い。千里の道も一歩から。あれこれ理由を作って自分の可能性に蓋をし続けるのは勿体ないよ。とりあえず、IQテストでもやってみれば良い。そしたら少しは自分を信じられるようになる」
依然として信じ難い。まさか、己にそのような能力が秘められているなんて。そもそも菊川塔一郎の人間観察力とやらが如何ほどのものかも怪しいし、適当な褒め言葉を並べ立てて俺を小馬鹿にしている可能性も捨てきれない。
耳の痛い忠告のついでに称賛の辞を寄越してきた若頭。彼の思惑が何たるかは、いまいち釈然としないこと。されど、論より証拠。正否の程を自分の頭で決めるには判断材料が必要だ。
(後でやってみるか。IQテストってやつを……)
それはさておき、ここで俺に話しかけてきた目的は説教だけではないらしい。数分前から続く戸惑いが抜けきらない俺に、菊川はようやく本題を告げた。
「組長が呼んでるよ。部屋に来いって」
「はあ!? 早く言ってくれよ……!」
まさか、彼がそのような伝言を預かっていたとは。礼儀作法や勉強云々の説教よりも、そちらの方が重要ではないか。いや、重要に決まっている。
定刻より5分前に着いても「遅いぞ」と文句を言う、常人をはるかかに超えてせっかちな村雨組長のこと。遅れればお叱りを受けるだろう。というか、今までの菊川とのやり取りのせいでだいぶ時間をロスしてしまっている。
これは、最早廊下で話を続けている場合ではない。
「なんか急いでる感じだったよ? 何があったのかは分からないけど。早く行った方が良いんじゃない?」
「うるせぇ! だったら、最初からそれだけ伝えやがれってんだ!!」
嫌味っぽく笑った菊川にツッコミを浴びせつつ、俺は一目散に走り出した。目指すは2階。組長の部屋。滑り込んだ直後に繰り出す弁明を考えながら、ただ猛烈に廊下を駆け抜けたのだった。
「遅いぞ、涼平!! 今まで何をしておった!!」
例によって、俺の悪い予感は当たってしまう。入室するなり村雨組長の怒声が響き渡る。可能な限り早く辿り着くよう頑張ったが、その努力は報われなかったようだ。
「わ、悪い。ちょっと話してて……」
「言い訳は要らぬ! 早うそこへ座れ!!」
菊川の件を率直に伝えようと試みるも、けんもほろろにあしらわれてしまった俺。やはり村雨耀介はせっかちだ。どんなに急いで来たところで、結局は「遅い」と怒られてしまう。
これは最早いつものことだが、今回ばかりは俺の方に非がある。村雨が機嫌を悪くするのは無理もないこと。心の中で菊川を呪いつつ、俺は己の遅延を平謝りするばかりだった。
「……ともあれ、揃ったか。これで私も本題を切り出せる。此度はお前たちに頼みたき儀があってな」
お前たち――。
実は、この場に居たのは俺と組長だけではない。隣の座布団には野獣のごとき男が座っている。その彼は俺の方へちらりと視線を移すと、不満そうに言葉を放った。
「分かりませんねぇ、組長。頼み事なら俺だけで十分だってのに。何でこいつまで。こんなガキは必要ないと思いますが」
「決まっておろう。お前ひとりに任せるには荷が重き務めゆえ、涼平を供に付けると申しておるのだ。私の決めたことに不満でもあるのか? 沖野よ」
「いえいえ。別に不満なんてものは、ござんせん」
そう。俺の隣にいたのは沖野一誠。我らが村雨組の若頭補佐で、橿原鬼神流なる古剣術の使い手だ。先ほど伊東一家の大軍勢が押し寄せてきた時は姿が見えなかったが、何処へ行っていたのだろうか。
それはともかくとして、重要なのは沖野も俺と同様、村雨組長の呼び出しを受けていたということ。組長の言葉から察するに、俺たちには何かしらの重大任務が与えられる模様。
(うわあ……マジかよ……)
俺は密かに、げんなりとしてしまった。
沖野と行動を共にしなければならないなんて。先日の笛吹派掃討作戦は奴の抜け駆けで終わっている。それにより、無鉄砲な若頭補佐に俺を同行させて“我慢”やら“協調性”やらを学ばせるという話は一度白紙に戻ったと思っていたが、このタイミングで再び出てこようとは。
とはいえ、極道の基本は滅私奉公。それが如何に不本意であろうと、主君の望みとあらば黙って従う他ない。あからさまに嫌悪感を向けてくる沖野を睨んだ後、俺は組長に尋ねた。
「話を戻そうか。何だ? 俺たちに頼みってのは?」
「うむ。まずは用命から申し伝えるが……」
一体、俺たちは何をさせられるのか。先日の仕切り直しということで「笛吹の首を獲って参れ!」とでも言われるのだろうか。そうならそうと功名心に胸が躍るが、現場で沖野が暴走しないか心配ではある。
少し身構えた俺に、村雨は告げた。
「……お前たちはこれより豊橋へ行け。あの街で幾らか探りを入れ、情報を集めて参るのだ。憎き家入の弱みとなる、とっておきのものをな」
意外というか、想定外というか。まったく考えもしていなかった命令だった。てっきり2人でカチコミをかけてくるよう命じられるものと思っていたので、そうならなかったことに俺は少しだけ安堵する。
(良かった……情報を集めてくるだけか……)
だが、これはこれで難易度が高い。分かりやすく云えば敵地への潜入任務。家入のシマである豊橋へと潜り込み、あの男にまつわる情報収集にあたれというご命令だ。
家入を直接殴った俺は勿論、沖野も村雨組の幹部ということで向こうに面は割れているはず。ゆえに現地で目立つ動きはできず、ひっそりとした隠密行動が俺たちに求められるのだ。俺はともかく、沖野にそんな小賢しい真似ができるとは到底思えなかった。
さらに今回は「家入の弱みとなる情報を集める」との条件付き。家入組に悟られぬよう豊橋へ潜り込むこと自体も大変だというのに、その上で諜報活動も行うとなると難易度はさらに跳ね上がる。いくらお膝元といえど、俺たちにとって目ぼしい情報がその辺に転がっているはずも無い。万事都合よく進むなど絶対に有り得ず、悪戦苦闘することは最初から分かりきっている。
俺は慌てて、村雨に質問を投げた。
「とっておきの情報? 具体的にどういうのが欲しいんだ? 情報といっても範囲は色々広いと思うけど」
「何でも構わぬ。家入のことであれば。ただし、まだ表には知られておらぬ内容に限るぞ。既に広く知られた話を今さら掴んでも、どうにもならぬゆえ」
「うーん。何でもって言われると逆に難しいな……」
抽象的な問題に苦慮する俺に、淡々と命令を申し付けてくる村雨組長。するとその時、それまでは隣にて黙って話を聞くだけだった沖野が不意に口を開く。
「別に難しいことじゃねぇだろ。家入の野郎は腹黒い野郎だ。探せばアラの1つや2つ、すぐ見つかるだろうぜ」
「ええっ!?」
「ああ? 何を寝ぼけたツラしてやがる。『ええっ!?』じゃねぇだろ。組長が俺たちに“行け”とお命じくださったんだ。俺たちは黙って従うまでよ」
ひどく不愉快そうな顔でこちらを覗き込んだ沖野だが、俺が『ええっ!?』と困惑してしまったのには理由がある。村雨のハイレベルな要求を疑問ひとつ呈さず受諾しようとする若頭補佐の考えは勿論、彼の反応そのものにも違和感が浮かんだのだ。
(いま、家入のことを“家入の野郎”って……!?)
沖野は今回の煌王会クーデタ―の件を知らない。その軽率ぶりを憂いた組長と若頭の判断で、敢えて知らせずにおくこととなっていた。にもかかわらず、何故にここで家入を口汚い呼称で呼んだのか。家入の村雨組に対する奸計を知らない以上、ここは普段どおりに“家入の大叔父貴”と呼ぶのが正解ではないのか。
もしや沖野も組長から事の真相を聞かされるに至ったか。しかし、この局面で敢えてそうするメリットは何処にも無い。名古屋の情勢は依然として先行き不透明である以上、今は情報統制を貫き続けた方が良いというのに。
意味が分からずぽかんとしていると、村雨が言った。
「うむ。心強い言葉であるな、沖野。よろしゅう頼むぞ。涼平と2人して、見事やり遂げて参れ!」
「任せてください。必ずや期待に応えてみせますんで。いくら俺たちにとっての大叔父貴分だろうと、他人様の娘を誘拐するクズは許しちゃおけねぇ。ここが村雨組の侠気の見せ場ですね」
自信満々に言ってのけた沖野の姿に俺の戸惑いはますます強まってゆく。奴はクーデターの件を聞かされているのか、いないのか。仮に前者だとすれば、こんな無鉄砲な戦闘狂を情報共有に咥える村雨組長の気が知れない。
「オラッ、麻木! 何をボサッとしてやがる! そうと決まりゃあ、さっさと出発だ! ついてきやがれ!」
「えっ……?」
結局のところ、このまま豊橋へと行かされる運命のようだ。沖野に肩を掴まれた瞬間、俺は即座に村雨の方を見る。助け舟を寄越してくれと、さながら哀願する眼差しで。
「……」
すると、村雨は俺の淡い期待に応えて、優しい台詞を発してくれる。
「……涼平。案ぜずとも良い」
されども、その後で続いて出た言葉は違う。組長が俺に語った内容は、数秒前に期待していたそれとはまったくかけ離れたものだった。
「何の事は無い。己の思った通りの働きをしてくれば良い。ただ、何故に沖野と共に行かせるか、その意味だけは履き違えてくれるなよ? 分かったな?」
なるほど。よく分かった。
どうやら、これは組長が俺に課す“試練”の模様。向こう見ずで手の付けられない暴れん坊の供をして敵地へ乗り込み、帯同者が迂闊な行動に出ぬよう見張りつつ、本題の情報収集を行うという高難度の任務。それを果たし、ゆくゆくは村雨の名を継ぐ者としての貫禄を見せつけよと組長は俺に暗示しているのか。
本題自体も内容が曖昧で釈然とせず、どのような情報を持ちかえれば組長が喜ぶものかいまいち見当がつかない。きっと、これも“試練”のうちなのだろう。
何をすれば良いかを自分の頭で考え、方法や手段なども自分で起案・推考し、計画を練って、実行へと移す――。
プロセスを含めて、全てが村雨の評価対象になると見た。おまけに今回は面倒な相方がいるので始末が悪い。これならば単独潜入の方が未だマシであったが、反りの合わぬ厄介者の手綱を上手く握ることもまた、極道に必要な資質なのかもしれない。
少しの不服さを抱えつつも、俺は了解の返事をおくる。
「ああ、分かったよ」
「うむ。期日は設けぬ。いつまでかかっても良い。お前が己で良しと思うまで、存分に調べて参れ。頼んだぞ」
「お、おう」
尤も、この場で反論や抗議を行ったところで何もならず、むしろ村雨の不興を買って立場が悪化するだけなのだが。
しかしながら、あまりにもシビアすぎる命令だ。調査に〆切は無いと村雨は明言してくれたが、それまあくまで建前。クーデター派からは4日後までに誓紙を提出するよう迫られているので、無期限でタラタラと調査を行うわけにはいかず。遅くとも明後日、9月29日までには横浜へ戻る必要がある。それまでに村雨が求めているであろう情報、すなわち家入の弱みを得られるかは実際のところ微妙だ。
けれども、やるしかない。渋々、俺は沖野と共に部屋を出た。
退室後、廊下を歩きながら、粗野な若頭補佐は俺に声をかけてくる。奴の視線は金色の懐中時計に向いていた。
「ええっと、いまちょうど午後4時か。麻木、今からテメェに支度の時間をやる。4時15分までに旅支度を整えて、玄関前に来い。遅れたら殺す」
「15分だけかよ。ずいぶん短いな」
「黙れ。午後5時11分発の新幹線に乗るんだ。テメェごときの都合で乗り過ごすわけにはいかねぇんだよ。ほら、分かったらさっさと行って来い!」
新横浜駅から豊橋へと向かう新幹線の切符は既に組が手配済みらしく、駅の窓口で取り置き分を受け取ればオーケーとのこと。
(5分で旅支度を終えろとか……無理だろ……)
相手は沖野一誠。そもそも俺に対して気配りをしてくれる人物ではない。無茶苦茶な時間設定ではあるが、財布と着替えを取って戻ってくる分には楽勝だ。
組からは調査にかかる費用を見越した札束が支給されているそうなので、豊橋滞在で足りない物があれば現地で買い足せば済む話。そもそも向こうに居るのは長く見積もって3日ほどのため、あまり大がかりな用意は必要ない。
ただ、支度へとかかる前に、俺にはどうも気になることがあった。解決せずには先へ進めない、とても重要な疑問。俺は沖野へ率直に問うた。
「なあ。今回の件、あんたは何処まで知ってんだ?」
「は、どういう意味だよ」
「何処まで知らされてるのか、と聞いた方が良いか。正直に教えてくれ。あんたは家入のことで組長から詳しい話を聞かされたのか?」
沖野はクーデターの件を村雨から聞き及んだか――。
その辺りの正否をはっきりとさせておいた方が良いと思ったのだ。俺が思うに若頭補佐の回答はおそらく“イエス”であろう。
しかし、万が一そうでなかった場合に備えて俺なりの保険をかけておきたかったのだ。沖野が情報共有の有無を明確にしておけば、奴に誤って余計なことを喋ってしまう心配をせずに済む。
食い入るような目で、俺は沖野の答えを待った。
「……」
「んだよ、ジロジロ見つめやがって。そりゃあ、お前。決まってんだろ。さっき組長から話は聞いたさ」
やはり案の定、俺の見立ては正しかったか。思った通り、質問の答えは“イエス”なのか。
だが、そう確信した直後。沖野の口から饒舌気味に語られた内容は、俺の予想を色々な意味で外れたものだった。
「家入行雄、あのジジイはとんだ食わせ者だ。テメェの目的を果たすために関係のない子供を誘拐するなんざ、ありゃあ鬼畜の所業だぜ。さっき話を聞いてて腹が立った。早く刀でぶった切ってやりてぇよ」
一体、何と判断すれば良いのやら。思いのほか漠然とした言葉が返ってきてしまった。クーデターの件を聞かされたのか、否か。無論、これだけでは甲乙つけがたい。できるだけ核心に触れぬよう気をつけながら、俺は質問を続ける。
「えっ? 家入が伊東一家の総長さんの娘を誘拐して、全ての罪を村雨組におっ被せた。あんたはそれを組長から聞かされたってのか?」
「ああ。何だよ、テメェ。俺を除け者にしようったってそうはいかねぇぞ! さっきあの場に居なかったのは便所に行ってたからで、イモ引いて逃げたわけじゃねぇんだ! 勘違いすんなよ、クソガキが!!」
「そ、そうかよ……」
ちょっと分かりづらいが、その返答を数回にわたって反芻してようやく理解するに至った。
沖野一誠はクーデターの件を知らない。奴が聞かされていたのは、あくまでも大原恵里誘拐の真相のみ。よって、前述における正解は“ノー”。俺の杞憂であったというわけだ。
(ったく、ビビらせやがって……)
軽く胸を撫で下ろす俺。しかし、考えてみれば当然のことである。
喧嘩のことしか頭に無い沖野のような人間に秘密を教えるなど、危険以外の何物でもない。教えてしまったら最後、沖野は何処かでうっかり口を滑らせてしまうだろう。組の為に沈黙を守る概念など、後先を考えず刀を抜いてしまう男には元より存在しないはずだから。
「おい、麻木ィ。何が言いてぇんだ!?」
「いや。別に。ただ聞いてみただけだよ。さっき、あんたの顔が見えなかったもんでな。それなのにどうして伊東一家のカチコミの黒幕が家入だと知ったのかと思ってよ」
「なっ!? ふざけるな! 俺が居なかったのは、たまたまその時腹を壊して便所に行ってたからだ! 二度も言わせんじゃねぇ!! ぶった斬るぞ!!」
聞けば、昼に食べた饅頭が当たったとのこと。いずれにせよ取り越し苦労で何よりだ。激昂して白鞘刀の柄に手をかけた沖野を俺は軽くあしらう。
「はいはい。わかったよ」
沖野一誠という男が馬鹿で助かった。大抵、かまをかけた後は繕うのが大変だ。こちらとて賢さには自信が無い。下手に怪しまれて勘ぐられたりすれば、ぼろを出してしまう危険性も必然的に高まる。
幸いなことに、今のところ俺を訝しんでいる気配は皆無。奴にあるのは「麻木涼平に小馬鹿にされた」との思い込みだけ。直情的な男は良くも悪くも裏表がないため、思っていることが顔に出やすい。
たまたま恵まれた運の良さに感謝しつつ、それから俺は沖野から続く怒声を適当に捌いてゆく。先輩風を吹かせて威張りたいのか、あるいは単なるイライラの発散か。次第に内容が説教じみたものへと変わってゆくが、俺は気にせず聞き流すだけ。
ただ、その中には奇妙なものもあった。
「麻木! いいか? 今回のお役目、真の目的は家入を探ることじゃない。家入が豊橋に監禁してる大原の娘を救出することだ! 組長も口では言わなかったが、本当はそれをお望みなんだよ!」
「そうかねぇ……」
「そうに決まってるだろうが! 人間には誰しも本音と建前ってもんがある! 親分が詳細を語らずとも、その建前の中に秘められた本音を汲み取って動くのが子分の役目なんだよ!! よく覚えておきやがれ!!」
「ほう。あんたはそう思うのかよ。よく分かんねぇけど。まあ、参考程度に覚えとくわ。どうもありがとよ」
表面上の言葉とは裏腹に、俺は心の中で冷ややかに笑っていた。
(おいおい、そんなわけがねぇだろ……)
豊橋潜入の真の目的が大原恵里の救出だなんて、何処を如何に捻じ曲げて受け取ればそのような解釈に繋がるのだろう。不思議で仕方がない。
ヤクザの世界においては、確かに子分が親分の意を汲んで動くことは多々ある。
例えば抗争発声時、親分が具体的に「あの男を殺せ」と命令しなくても「あの男を何とかしろ」と言ったら、指示を受けた子分は“何とかしろ”= 殺害命令だと解釈し、自らの意思でヒットマンを用意するなり鉄砲玉になるなりして対応するのだ。本庄組に居候していた時、山崎から聞かされている。
しかし、それと今回の件とはまったく別の話だ。村雨組長は「調べて参れ」としか言っていないのだし、勝手に動いてはまずいのではないか。
そもそも大原恵里を救い出すのは三代目伊東一家のすることであって、俺たち村雨組には何ら関係のない話。不必要なことに費やしている暇など、俺たちには無いのだ。そもそも恵里の監禁場所が豊橋市内にあるかどうかも不明なので、もはや救出する以前の問題だ。
だが、若頭補佐は違った。滑稽なことに俺たちが恵里を救い出すことこそが主目的であると信じて、まったく疑わないようである。
「俺たちが大原の娘を救い出せば伊東一家に恩を売ることができる。救出の見返りに、村雨組のドンパチに協力させるんだよ。横浜の敵を一網打尽にするためにな!」
「おいおい、曲がりなりにも相手は中川の直参だぜ? 俺たちごときのために動くとは思えねぇが……?」
「動くだろ。経験上、あの手のオヤジは情に流されるタイプだ。つけ込めば都合の良い手駒として使える。だから、何としても娘を救出するぞ! 麻木、テメェも根性を見せやがれ!!」
「馬鹿かよ……」
この様子では先が思いやられる。現地で沖野が良からぬことをしでかさないか、ますます不安になってきた。彼のような手合いは勝手な思い込みで猪突猛進するので質が悪い。
「オラッ! 無駄口を叩いてねぇで、さっさと準備をしてこい! さっそく首を刎ねられてぇのか!?」
懸念要素しかないが、この男をうまくコントロールすることも課題のうち。それをクリアせずして将来的に村雨の名を継ぐことなど叶わない。
なおも自分本位な説教を続けようとする沖野に構わず、俺は自室へと向かい、旅の支度を整えた。荷物は想像以上に小さくて不安になるほどだったが、2泊3日くらいなら着替えと護身具くらいで十分だろう。
「おい、遅ぇぞ! 何分無駄にしやがった!?」
「7分しか経ってねぇだろ、うるせぇな。あと3分も残ってる。テメェは簡単な算数もできねぇのかよ」
「んだとゴラァ!?」
「せっかちなのは組長だけで十分だよ。ボケが」
俺の挑発に沖野は右肩に担いでいた白鞘刀を左手に持ち替え、もう片方の手で柄を握りしめた。
これは抜刀の準備段階。「すぐにお前を斬ってやるぞ」という威嚇で、銃で例えるなら銃口を突きつける行為に相当する。
「えっ、何? やんの?」
「俺はいつだって良い。やろうと思えば、いつ、どこであろうとお前をぶった斬れる。橿原鬼神流を侮るなよ。居合で橿原の右に出る剣術など無い。刀を抜かせりゃ地上最強ってことだ。お前なんざ、ほんの1秒で……」
「あー。はいはい。分かった分かった。要は俺を殺したいんだな? 別にこっちだって良いぜ。かかってこいよ。テメェにそれができればの話だがな」
その瞬間、柄を握る沖野の一瞬だけ動いた。
(き、来たッ!)
俺の背筋にゾクッと電流が流れる。まんまと斬られてなるものか。沖野がこのまま抜刀すれば、即座に上体を後方へ反らして回避行動をとるつもりだった。
しかし、それ以上に刀が抜かれることはなかった。謂わば寸止め。こちらを驚かせるためのパフォーマンスだったか。
沖野は笑った。
「ふん。ビビりやがったな、麻木。俺の勝ちだぜ」
「ああ? おい、どういうことだ? 一歩手前で止めやがって。抜いてねぇのに何をほざいてやがる? 笑わせんな」
「抜く前に勝負が決まったってことだよ! お前がビビッてのけぞるより、俺が手を動かす方が早かった。寸止めせずに抜いてりゃ、お前は首を刎ねられてた。成す術もなくな」
「へへっ! そんなんで自分が勝ったって思ってるわけか。ダセェなあ、あんた。ガキの理屈かよ。喧嘩に勝ち負けのルールなんて無いんだよ」
本音を言えば、この勝負は沖野の勝ちだと思った。指摘された通り、奴の挙動の方が俺よりも若干に早かった。沖野の攻撃モーションを予測できなかった俺のミスであり、戦術的敗北であった。
しかし、負けを認めるのはあくまでも己の中だけに止めておく。ここで「参りました」と頭を下げるなど、まっぴら御免。それが男としての矜持というやつだ。
俺にも、意地がある。
「はあ? ルールなんて無い? お前こそ、何を言ってやがるんだ。ガキの理屈をこねてるのはお前の方……」
「こういうことだよ!!」
――ドンッ。
またしても沖野が言い終わらないうちに、俺は奴の台詞を遮る。ただし、今回は先刻とは違う。きわめて実力的な行動が伴われていた。
「うおっ!?」
俺が繰り出したのは体当たり。文字通り、奴の間合いへ一瞬で飛び込み、胸元めがけて全身でぶつかったのだ。流石に、この奇襲は予測していなかったのか。驚きの声を上げるや否や、俺のショルダータックルをまともに食らった若頭補佐はそのまま後ろに尻餅をついた。
「どうだい? 沖野さんよ。これが喧嘩の正しいやり方ってやつだぜ? 予測しきれなかったあんたの負けじゃねぇのか? ああ?」
「この野郎……ふざけた真似しやがって!!」
怒声を上げた沖野は、再び柄を握り締める。やはりそう来るか。俺は即座にバックステップで奴との距離をひらく。同じ失敗は繰り返さない。
「……」
十分な間合いを確保して臨戦態勢をとる俺と、納刀状態の白鞘を構えてこちらを睨む沖野。しばしの間、膠着状態が続いた。対峙したまま流れる、ピリピリと張りつめた時間。
たとえ沖野が神速で斬り込んできたとして、俺は難なく躱してやるつもりでいた。一方の沖野は逆のことを考えていたであろう。俺は勿論、向こうも己の勝利を確信していることは奴の発する闘気で分かった。
しかし、結局のところ、俺たちがそれ以上の対決をすることは無かった。どういうつもりか、先に沖野が突如として構えを解いたのである。
「……止めた。今はこんなことしてる場合じゃねぇ」
「ああ? 来ねぇのか? さてはビビりやがったか?」
「新幹線の時間が迫ってんだよ! 馬鹿野郎!!」
なるほど。言われてみれば、確かにそうだ。対決を中断する理由として用いるにはうってつけの言葉だった。
白鞘の柄から手を放した沖野を睨みつつ、やれやれといった調子で俺はため息をつく。組の手配した切符が無駄になれば、後々で村雨組長のお叱りを受ける。ゆえにここは止む無く一時休戦とするが、燃え上がった因縁は簡単に消えはしない。
いずれ遅かれ早かれ、沖野とは雌雄を決するだろう。そんな未来がこの時の俺にははっきりと見えていた。
「んじゃ、駅に行こうか。車、待たせてあんのか?」
「ああ。お前のせいで時間を食っちまったがな。言っておくが、麻木ィ。これで済んだと思うなよ。豊橋の件が片付いたら、必ずお前をぶった斬る。首を洗って待っていやがれ……!」
「おうおう。そいつは面白ぇや。俺も楽しみにしてるぜ。沖野さんよ。テメェの顔面にヒビを入れる日を。待ち遠しくて仕方ねぇぜ」
「相変わらず舐めたガキだ。橿原鬼神流に勝てる奴など、この世界じゃあ誰一人として居ないというのに……お前はもう、この手で首を刎ねなきゃ気が済まなくなってきた。俺は絶対に認めねぇぞ。お前ごときが、この組の跡目だなんて!」
どうやら村雨の養子となる件も、奴の耳には入っていたらしい。俺への風当たりが強まるので出来るだけ黙っていて欲しかったが、こうなってしまった以上は最早どうでも良い。誰であろうと向かい来る敵は全力で倒し、目標へと突き進むだけだ。
今回の豊橋への潜入命令も、その後訪れるかもしれない沖野との決闘も、何かも甘んじて受け入れてやる。それが絢華と一緒になるために、必要な試練と云うならば。いつになく俺は闘志を燃やしていた。
(かかってこいよ……クソ野郎どもが……)
そんな異様に昂った精神状態の中では、まともな思考回路などはたらくわけが無い。目の前に居る男はこれから待ち受ける潜入ミッションにおける相棒役となる存在だというのに、信頼関係などまるで無く、あまつさえ殺意すらもこみ上げてくる有り様。
無論、俺とて馬鹿ではないので直ちに沖野に襲いかかったりはしない。けれども真っ当なコミュニケーションが取れるはずも無く、奴とは冷たい緊張に彩られた距離感を保つだけ。
「……」
車で新横浜駅へと向かう移動中も、駅で切符を受け取る間も、改札口を抜けて待合室にて待機する間も、沖野とは会話という会話が一切発生しない。
気まずい。とにかく、気まずかった。長い沈黙の後で
やっと言葉が交わされるかと思えば、すぐさま罵り合いに発展する始末。
「おい。麻木ィ。便所とかは今のうちに行っとけよ? 新横浜駅から豊橋までは2時間はかかるんだ。テメェが途中でクソを漏らしても、ケツを拭いてくれる人間なんざ誰も居やしねぇんだからな。何だったら、おむつでも履いたらどうだ? ああ?」
「俺の心配するより、まずは自分の心配をしやがれってんだ。テメェの長い刀、そのまま持ってって良いのかよ。警察に見つかったら捕まっちまうじゃねぇか。袋に入れるだけじゃあどう考えても隠し足りねぇと思うが」
「ふんっ! お前ごときに心配されるまでもない! 俺は他所へ出かける時にゃいつもこうやって刀を運んでるが、警察に見咎められたことなんざ一度も無いぜ? これでも十分、隠してるつもりだけどなあ。足りねぇってんなら、他にどういう携行方法があるってんだ? 答えてみろ!」
「あるだろうがよ! 野球のバットのケースに入れるとか、ゴルフのバッグに入れるとか! 釣り竿のケースに入れたって良いだろ。そんなことも思いつかねぇのかよ! テメェの知能はチンパンジー以下だな。いっちょ前に侍ごっこしてんじゃねぇよ、偽物野郎が!」
売り言葉に買い言葉。いま振り返ってみても、かなり激しい罵倒の句を履いてしまったと思う。俺たちの口論はそれから数分ほど続いたが、お互いにいちゃもん同然のロジックを用いているので決着などつくはずもない。
ふと時計を見やると、午後5時。新幹線の出発時刻まで、あと11分ほどあるではないか。このまま沖野の隣に居ても疲れが溜まるだけなので、俺は待合室を出る。売店で何かしら買い物をして、時間を潰そうと思ったのだ。
舌打ち混じりに席を立った俺に沖野が「テメェ、逃げんのか!?」と挑発を浴びせてきたが、他の客もいる手前、これ以上の喧嘩はできない。スルーしておいた。
そのままホーム構内にある『KIYOMASA』という奇妙なネーミングの小売店舗へ向かった俺は、とりあえず陳列棚を覗き込んでみる。
まず買うべきは飲料水。それが無くては道中で喉が渇く。ここはいつも通り、サイダーでも買っておくとしよう。
この売店では当然駅弁も売られているのだが、買う気分にはならない。というよりも、これから食事をしようと思えなかったのだ。いがみ合う関係にある男の隣で食べる飯など美味くもない。それならば多少、空腹を堪えた方が良いに決まっている。この頃から、俺は食事という行為に若干のこだわりがあった。
およそ2時間、食事もできないとなれば暇が生まれる。何かしら時間を潰す手段が必要となってくる。当時は携帯ゲーム機などは未だ一般的では無かったので、当然俺は持っていない。やはり「本を読む」という行為が正解だろう。俺は書籍の棚へ視線を移してみる。
週刊誌、文庫本、漫画などに並んで興味を引くものがあった。それは一冊のクイズ雑誌。『インテリジェンス・クエスチョン』なるタイトルで、頭を使う数々の問題が並んだ本だ。
普段は見向きもしないクイズの本などに、俺が目を奪われた理由はただ一つ。その雑誌の表紙にあった「最新版・IQ測定テスト」という記述だ。俺はそれを手に取り、食い入るように見つめてしまった。
(これでIQが分かるのか……!?)
そもそもIQとはインテリジェンス・クォウシェントの略で、和語に置き換えれば「知能指数」を表すワード。学識や経験値などとは無関係に、その人自身の純粋な思考力を測る数値であり、この数字が大きくいほど知能が高く、数字が小さいほど知能が低いということになる。
菊川曰く、俺はきっとIQが高いとのことだった。
義務教育に伴う勉強を9年間殆ど放棄してきた結果の無知・無学ぶりとは裏腹に、地頭自体は人より優れたものを持っていると若頭は語っていた。俺自身、心当たりはまるで無い。どうせ今回も若頭の揶揄いだろうと、半信半疑どころか完全に疑って見ている。
されど、物は試し。どうせ暇を持て余す羽目になるのなら、ここはひとつ挑戦してみようと思ったのだ。本に記載されている回答時間も「45分」とあるので、到着時刻までに十分おさまるはず。
件のクイズ雑誌とサイダー、それから普段より愛読している週刊誌の代金を支払い、俺は売店を後にした。
ちょうどその瞬間、場内アナウンスが流れる。俺たちが乗車予定の新幹線が入って来るようだ。
「お? 何だよ、麻木ィ。逃げてなかったのか? へへっ、こりゃあ意外だな。怖くなってトンズラこいたのかと思ってたぜ」
「うるせぇ。テメェこそ、怖気づいたんじゃないのかよ。豊橋へ行くのは俺ひとりで十分だ。帰って寝とけや。戦闘狂さんよ」
嫌味を浴びせてくる沖野に嫌味を返し、程なくして入構してきた列車に俺は黙って乗り込んでゆく。一体、何年ぶりの新幹線であろうか。ほんの幼い頃、家族で大阪旅行へ出かけて以来と思った。
「ああ? テメェの隣かよ……うぜぇなあ!」
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ。クソガキが」
例によって、俺と沖野の座る座席は同じ2人掛けのボックス。席を手配した人間にひどく腹が立った。ここは敢えて離れた席にして欲しかったところなのに。
渋々腰を下ろすと、俺は黙って車窓を見つめる。「窓の近くだと乗り物酔いするから」などという謎の理由で、何故か沖野は通路側を選んだのだ。普通は逆だろうとツッコミを入れながらも、ここは何も言わず座っておく。
『新大阪行き、まもなく発射いたします』
車内放送の男性アナウンスが聞こえた後、やがて列車はゆっくりと進み始める。どんどん加速して駅を出ると、やがて窓からは横浜の街が見える。日が傾いた午後の空に照らされ、いつも見慣れた光景が何処か切なく、尚且つ懐かしく感じられた。
考えてみれば、実に不思議なものだ。3ヵ月前に横浜から東京へ逃げ出した時と違い、俺の心は晴れ晴れとしている。それは村雨組の命運を背負った使命感ゆえのゆえのことだろうか。とにかく逃げたい、死にたくないと思っていたあの頃とは対照的に、いまは「村雨のために死んでやる」とさえ胸に帯びているではないか。
心情の変化とは、実に不思議なもの。半年も経っていないのに、俺はどうしてここまで変わったのだろうか。そのきっかけが何なのかと尋ねられたら、多くの答えが浮かぶ。おそらくどれもが正解だろう。7月末に横浜の村雨組に戻ってから経験した出来事のひとつ一つが、俺を良くも悪くも変えてしまったのだ。気づけば、俺は極道の色に完全に染まり切っていた。
(人生ってのは、分かんねぇもんだぜ……)
おっといけない。いまは思い出に浸っている時ではない。これから大事な任務が控えているというのに、感傷的な気持ちになっては行動に障りが出る。
気分転換の為にも、先ほど購入したばかりのIQ測定テストに挑戦してみようか。隣の沖野が居眠りを始めたのを目と耳で確認すると、俺はビニール袋の中から雑誌を取り出し、座席の備え付けテーブルの上で開いた。
いくつもの説明が、種類ごとにまとまって並んでいる。文章や数列を読み解く問題、図形を使った問題、会話文らしき文章の空白を当てはめる問題など、兎に角多種多様。これは思った以上に、なかなか難しそうだ。
『とある会社員が上司に札束を渡されました。【これでも使って美味い物でも食え】。彼は大喜びし、上司から貰ったお金を手に早速料理店へ向かいました。さて、この会社員が食べた料理は次のうちどれでしょう?』
回答は予め提示されている選択肢の中から、ひとつを選ぶ方式。この場合は『A.すき焼き B.馬刺し C.もつ鍋』の3択。
これはいわゆる、なぞなぞ。答えは文章の中に隠されている。これを読み解くことで思考力を試すという主旨らしい。
俺は悩みに悩んだ結果、Cの『もつ鍋』を選んだ。
最初はBかと思った。上記の問題文における上司の台詞の「美味い」の部分が「うま = 馬」に変換できると睨んだのだ。
けれども、知能指数を試すテストである以上はそんなに甘い内容では無いはず。回答者を不正解へと導く罠である可能性が捨てきれなかったので、俺は己の思考を疑う。今一度、問題文を読み返してみる。
【これでも使って美味い物でも食え】
一見すると、何の変哲もない単純な文章。やはり「美味い」から「馬」を導き出せば良いのではとも思ったが、とりあえず見方を変えてみる。俺は平仮名に変換してみた。
【これでもつかってうまいものでもくえ】
【これでもつかって】
【もつかって】
その瞬間、俺にひらめきが浮かんだ。
【モツ買って】
よって、答えはCである。
なるほど。こういうことだったか。随分と出題方法を捻った設問だと感じる。小学生の頃に遊んだなぞなぞとは勝手が違う。これでは皆、間違えてしまうだろう。俺は思わず、心の中で唸ってしまった。
(難しい……)
他にもテストには奇妙な仕掛けが沢山あった。『マッチ棒を動かして図形を作れ』という問題では課題の図形を上から見ただけでは分からないようになっていたり、会話文の空白を埋める項ではそもそも会話として成立していなかったりと、あまりにも複雑。
すべてを解き終わるのに、俺は指定時間のギリギリまでかかってしまった。ここまで頭を捻らせたのは、いつ以来か。少なくとも学校のテストは小3の春以来いつも逃げていたので、どこかノスタルジックな気分であった。
解き終えた俺は、さっそく答え合わせをしてみる。k勿論、全問正解など期待できるべくもない。所々でミスもある。しかし、成績としてはさほど悪くも無かった。
(57問中、52問正解。これって、どうなんだ?)
5問しか不正解が無かったのだから、そこそこ良い方なのではないか。結果、俺の測定結果はIQ136。
この数値が高い方なのか、低い方なのかは正直なところ分からなかった。思考をフル回転させすぎたせいで一種の目眩じみた症状が起こり、本に書かれていた他の事には興味が向かなくなってしまったのである。人間にとってIQの最大値がいくつあるのか、あるいは結果から見た考察の項目などは読まず、俺はクラクラとする頭を抱えたまま、そのまま眠りに落ちてしまったのだった。
(IQ136か……まあ、いいや……)
菊川の言葉自体、俺は真に受けていなかった。極道にとって一番大切なものは、やはり戦闘力だろう。知力などがあったところで、結局は腕っぷしの強い奴に捻り倒されてしまうのがオチ。
今後とも自分は喧嘩の腕だけを磨いてゆけば良い。この時は、本気でそう思っていた。そう思い込む以外、考える余地は無かったといえば適切だろうか。
「おい、起きろ! いつまで寝てんだ!」
「……ふぁ?」
「豊橋へ着いたぞ!!」
暫くの間、眠ってしまったようだ。俺を叩き起こしたのは沖野。先に眠りに落ちていたはずなのに、よくもまあ定刻通りに起きられたものだ。
「さっさと降りる支度をしろ! クソガキが!!」
このまま乗っていれば、列車は豊橋駅を通り過ぎて三河安城、名古屋へと向かってしまう。俺はハッと我に返り、慌てて準備をしたのだった。