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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第8章 餞別
134/252

任侠人、大原征信

 思わず、声が出てしまった。


「うわっ。マジかよ」


 屋敷の門前に連なったいかつい男たちが、村雨組の若衆連中と怒声の応酬を繰り広げている。見たところ三代目伊東一家の兵隊だと直ぐに分かる。察するに横浜へ出かけたきり戻らない大原の身を案じ、奪還しに来たか。


 一体、奴らはどれくらい詰めかけているのだろう。目視で数える限りでは50人前後。いや、それ以上か。少なく見積もって60人は下らない頭数と思えた。


(こりゃあ流石に数が多すぎる……!)


 てっきり10~15人程度と踏んでいたので、大いに面食らってしまった俺。対する村雨組も防備まもりを固めてはいるが、数の上では圧倒的に不利な状況だ。


「……うーん、なかなかまずいね。この人数で一斉に攻め込まれたら僕らに勝ち目は無いよ。どうすればいいのか」


「えっ? 聞こえねぇ。もう1回、頼むわ」


「この人数で一斉に攻め込まれたら僕らに勝ち目は無いって言ったんだよ! まあ、仕方ないか」


 雑音のせいで菊川の声が上手く聞こえず、ついつい言い直しを求めてしまった。それもそのはず、無数の男たちが怒号を飛ばし合う状況は恐ろしいほどの喧騒で、とても小声で話し合いができる状況ではない。


『俺たちの親分を何処へやったんだ!?』


『黙れ! そっちから先に来たんだろうが!!』


『お前ら、伊東とやり合おうってのか!?』


『望むところだ馬鹿野郎!!』


 口々の罵倒の句を放つ伊東一家の兵隊たちに臆さず、面と向かって罵り返す村雨組の番兵。多勢に無勢で少しだけ押し負けているようにも思えたが、あれだけの人数を相手に気迫で立ち向かえる胆力は見事なものと思う。


 それはさておき、俺は後頭部を強くかきむしった。この局面を如何いかに乗り切れば良いものか。


 三代目伊東一家の所業は紛れもなくカチコミ。けれども、下手にやり返せば戦争へ直結する。俺たちがあちらの構成員を1人でも殺害した瞬間、中川会との全面抗争が勃発してしまうのだ。村雨組長がそれを望んでいないことは語るに及ばず。


 ただでさえ煌王会クーデターへの対処で忙しいのに、これ以上厄介事を増やすなどもっての外。ゆえに俺は何とか知恵を絞りたかった。


 決して戦争ではない、穏便な落としどころを見つけるために。


「うーん、まずいね。彼らも延々と怒鳴り合いを続けるってことにもならないだろうし。このままだと、いずれ銃撃戦ドンパチが始まっちゃうよ」


 双方とも、相手方に銃を撃てば未曾有の事態に繋がる旨を頭では認識済みなのか。現時点でこそ互いに自制心が保たれている。だが、それが果たして何時いつまで持つことやら。


 菊川もひどく警戒心を露にしていた。彼が指摘した通り、村雨側と伊東一家側のどちらも強い興奮状態にある。


「なるほど。どっちかが引き金を引けば、その時点で戦争勃発ってわけか。こいつはマジで笑えねぇ状況だな」


「ああ。早く何とかしないと。冗談抜きで」


「いったん静めてみるか。菊川さん、あんた拳銃ハジキは持ってるか? 何でもいい。とりあえず、空に向けて撃ってくれ。そしたらひとまずは静かになると思うから」


 チンピラたちの罵倒合戦の声よりも馬鹿でかい発砲音を響かせることによって、たとえ一瞬でも彼らを竦ませて鎮静化させようというわけだ。


 俺の提案に、菊川は苦笑しながら頷いた。


「せいぜい気休め程度にしかならない、一時的な応急措置だと思うけどね。それでもやんないよりはマシか。了解。やってみるよ」


 とは言いつつも結局は意見具申を容れた若頭は腰のホルスターへと手を伸ばす。だが、その直後。俺はあることに気づいた。


(あれ、そういえば……?)


 ふと脳裏をよぎったのは、状況に関する細やかな発見。村雨邸の門前に殺到する大原総長の子分達のことだ。


「あ、悪い。撃つのはちょっと待ってくれ」


「はあ!?」


 今まさに威嚇発砲を行おうとベレッタM92を抜いていた菊川をすぐさま制止し、俺はざっくりと状況観察に入る。


 やはり気づいた通り。伊東一家の兵隊たちは全員、村雨邸の敷地内へ侵入していない。屋敷の前に押し寄せてはいるものの皆門前で止まり、誰一人として邸内へ踏み入ろうとしていないのだ。


(村雨邸ここを攻撃するつもりは無いのか……?)


 もしやとは思ったが、どうやらその可能性は高いらしい。門前で防備を固める村雨組の若衆連中も、伊東の兵たちにしてみれば本来なら数の優位で正面突破できる容易い相手のはず。それを敢えてやらないということは、相手方にも何か事情があると考えるのが良いだろう。


 迂闊に手を出せば、忽ち大戦争になる――。


 能力的には可能であるはずの突入作戦を決行しない理由と言えば、それくらいしか浮かばない。全面抗争への発展を躊躇っているのは向こう側とて同じ。俺たちは現在、共通の条件下にいる。ならばこの都合を利用せずして事態打開の道は無い。


「おいおい! 今更、何なんだよ! 撃つというのはキミのアイディアだろ? どうして止めた? 撃つなら早く撃たないと、本当にまずいよ?」


 怪訝な顔で文句を言う菊川に、俺は言った。


「ごめん。ちょっと確かめたいことがあってよ」


「確かめたいこと!?」


「ああ。けど、もうそいつは確かめ終わった。撃ってくれて構わねぇぜ。早いとこ、頼むわ。あんたの言う通り、長引かせるとヤバそうなんでな」


 事前確認は既に完了した。この騒ぎを一時的に鎮静化した後で、如何なるすべを用いれば良いのか。俺の頭の中では工程を図式化したフローチャートまで組み終わっている。


 行うべきは調停。一滴の血も流さずに、この場を穏やかな形で収めること。俺は心の準備を整え、静かに深呼吸をした。


「ったく、何を考えてるんだか!!!」


 ――カチッ。


 俺が決意を固めた隣にて、菊川は舌打ちと共に強く吐き捨てる。そうしてトリガーに指がかけられる。次の瞬間、鼓膜が疼いた。


 ――ズガァァァン!


 火薬の息吹を上げた9mm口径と、それに連なる凄まじい咆哮のごとき銃声。例によって爆音だ。男たちの怒号合戦などは、銃火の叫びによって簡単にかき消されてしまう。


「……」


 効果てきめん。辺りは波を打ったようにしんと静まり返った。興奮して騒いでいたチンピラ達が、突如として鳴り響いた銃声に驚いて固まっている。いきり立っていたのが嘘のように、敵味方ともどもすっかり大人しくなっているではないか。


「お前たち、ちょっと落ち着こうか。そうやって騒いでたんじゃあ何も始まらない。ご近所さんにも迷惑だし」


 撃ち終わった拳銃を懐へ仕舞いながら、菊川は居並ぶ組員たちを見据えて淡々と諭した。皆、呆然としている。突然の銃声でハッと我に返り、こちらを凝視している者が殆どだった。


 突然の展開に言葉を失っていたのは、敵方もまた同じ。「乱闘寸前の状況を威嚇発砲で鎮静化する」という俺の策は見事的中。ここまで想定通りに進んでいる。


 あとは向こうが対話に乗ってくれることを信じるのみ。意を決して、俺は三代目伊東一家の兵たちに語りかけたのだった。


「おたくさんらが何をしに来たのかは分かってる。大原の親分さんを連れ戻しに来たんだよな? ああ。大丈夫だ。あの人は生きてる。ピンピンしてるよ」


 しかし、その言葉は届かなかった。


『ああ!? 何をほざいてやがる!?』


『だったらここへ連れてこいやあッ!!』


『ふざけたこと言ってんじゃねぇ! ガキが!』


 こちらの言うことが信じられないのか。あるいは敵側の交渉には端から一切応じない構えで来たのか。俺が投げかけたアプローチはあっさりと一蹴され、口々に怒声が上がる。


 先刻よりも数倍増しの勢いで、俺個人を標的にした罵倒の句が次々と飛んでくる始末。せっかく静かになったのに、これでは元の木阿弥。言葉の選び方がまずかったようだ。


(やばい、ミスった……!)


 交渉の切り口をつくるには如何にすれば良かったか、正解は分からない。そもそも俺に交渉術の才など無いのだから。


 事前の算段が崩れてしまった。まさかこうも早くシミュレーションを外れた事態に陥るとは。横目で睨む菊川のきつい視線を受けて、俺は苦虫を嚙み潰す心地になった。


 だが、ちょうどその時。


「おい! お前ら、退きやがれ!!」


 密集した人混みを掻き分け、ひとりの男が現れた。その人物は三代目伊東一家の代紋バッジを着けている。40代手前くらいの風貌と命令口調からして、あちら側の幹部クラスか。


 召している背広にも何処か高級感が漂う。やがて荒れ狂う群衆の最前列まで進み出ると、男は大声を上げた。


「てめぇら、静かにしろやあッ!!!」


 やはり、このチンピラ達は彼の部下か。地鳴りにも似た一喝を受けて、敵方の兵隊たちの興奮はみるみるうちに収まり、大人しくなっていった。あれほどの人数の大騒ぎを一瞬で沈めただけあって、音量は流石に大きい。なかなかの迫力だった。


「……」


 ふと気づけばこちらと視線が合っている。俺の対話に応じてくれるというのか。期待と不安が半々ずつ沸き起こる中、目の前に立った男がゆっくりと口を開く。


「すまねぇな。みっともねぇとこ見せちまって」


 軽い前置きを挟んだ後、男は言った。


「俺は中川会が直参、三代目伊東一家の堀内ほりうちだ。あんちゃんの言う通り、俺らはドンパチ仕掛けに来たわけじゃねぇ。うちの親分を返して貰いに来た。ただ、それだけだ」


 何という僥倖であろうか。話の分かる奴が、ここでようやくのお出まし。交渉の余地は、どうやらまだ残っているようだ。


 この目の前に立つ大柄な人物と上手く話をつけられれば、伊東一家との抗争は回避できるかもしれない。わざわざ語るまでも無く、今が村雨組の正念場。何としても妥結へ持って行かねば。


 まずは軽く深呼吸をして気持ちを引き締め直す。そして、いよいよ本番。堀内と名乗った男に対し、俺は話を始める。


「お、おう。その言葉を待ってたぜ。俺は村雨組の麻木涼平ってモンだ。おたくの総長さんは、今ちょうど屋敷の中に居る。さっきも言った通り、至って元気で……」


 これからを左右する交渉の全てを背負っているせいか、自然と緊張が声に表れてしまい口調がたどたどしくなる。


 いけない。こんな様では舐められる。対話折衝における最大のタブーは相手に「こいつはやり込める」と思わせてしまうこと。ただでさえ俺と堀内では貫禄が違うというのに、途中で文言に詰まっては更に不利だ。


 どうにか調子を立て直そうとするも、意識すればするほど却って緊張を呼び込んでしまい思考が混乱する。だが、それよりもっと俺の邪魔をしたのは背後から聞こえる雑音だった。


「麻木、テメェ!! どういう了見で村雨組おれらの代表を気取ってやがるんだよ!! 偉くなったつもりか!? ああ!?」


 村雨の若衆たちだ。どうも俺が交渉人を引き受けることが気に入らないらしく、彼らは露骨な嫌悪感を示してくる。


(うるせぇなあ……だったら自分でやれよ……)


 奴らが頭に血を昇らせて事態を更に悪化させかねないから、代わりに俺が向こうとナシをつけてやろうというのに。ここは、むしろ感謝するのが普通ではないのか。


 苛立ちのあまり、軽く舌打ちをしてしまった俺。すると背中越しに思いもよらぬ音が聞こえた。


 ――バキッ!


 一体、これは何の音か。いや、大方は察しが付く。人が人を殴った音だ。直後に「うぐあっ!?」という押し潰れた声と砂埃が舞う音までが加えて聞こえたので、誰かが誰かを殴り、殴られた者がその衝撃で地面に倒されたと予想できる。


 妙な予感をおぼえて振り返ると、拳を握り固めていたのはなんと菊川だった。そして、その近くに小太りの組員が転がされている。


 菊川が部下を殴った。光景だけで判断するなら、そんな構図になるだろうか。だが、どうして。彼が鉄拳を振るうに至った理由がまったく分からない。


 心の中で首を傾げていると、若頭が言葉を放った。彼は倒れている部下を冷たい目で見据えつつ、低い声で浴びせかける。


「黙っててよ。今、麻木クンが話をするところじゃないか。邪魔立ては無用だ」


「……カ、カシラ!?」


「おい。聞こえなかったのか。口を閉じていろと言ったんだ。次、余計なことをしたら殺すから」


 いつになく強烈な言葉を伴い、部下を折檻した菊川。このやり取りを見る限り、倒れている組員は先ほど俺に野次を飛ばした男。その行為に腹を立てた菊川が鉄拳制裁を行ったというわけか。


「わ、わかりました。カシラ。すみませんで……ぐへぇっ!?」


 またしても打撃音が飛ぶ。今度は仰向けに倒れた組員の顔面を菊川が爪先で勢いよく蹴り上げたのだ。


「……ッ」


 強かに蹴られたまま大の字に宙を向き、小太りの組員は意識を失う。かなりの力が込められたのだろう。歯も何本か折れているように見受けられる。


「キミの言葉は信用ならない。どうせ、この後も騒ぐんでしょ。野次を飛ばして大事な交渉の邪魔をするくらいなら、しばらく気絶しててよ」


 そう表情を変えずに言ってのけた若頭の姿に、そこに居た他の組員は皆おそれ慄いていた。まさかここまでやるとは。村雨組のみならず、向こう側の堀内をはじめとする伊東一家の面々も驚き固まってしまっていた。


(そりゃ、そういうリアクションになるわな……)


 かくいう俺自身も、少々引いていた。交渉に専念できるよう邪魔者を制してくれたことは有り難く思うが、これはいささかやり過ぎではないのか。そもそも菊川が若衆の前で俺の肩を持つこと自体、あまりにも新鮮すぎて不気味さすら感じる。


「ほら、麻木クン。何をボサッと立ってるのさ。どうぞ。さっきの話を続けなよ。せっかく環境を整えてあげたんだからさぁ」


「そうかいそうかい。あんたにしちゃあ、ひどく珍しいこったな。どういう風の吹き回しなんだか」


「当然さ。僕はキミに全てを託してるんだから。不本意な行為も止むを得ないよ。さあ、ほら。早く。話を続けてくれよ」


 まるでお前のためにやったんだと言われているかのよう。恩着せがましくも嫌味な声色に怒りがこみ上げてきたが、ここは我慢のしどころ。感情をグッと腹の底へ押し込んでおいた。


「……」


 片や、堀内は額にうっすらと冷や汗をかいてこちらを見ていた。俺が再び正面を向き直ると、彼は軽く咳払いをして対話を再開する。



「……ええっと。兄ちゃんも分かっての通り、俺たちの目的はうちの親分を連れて帰ることだけだ。それが済んだらとっとと退散する。約束だ」


「約束? マジでそれだけなんだな?」


「ああ」


 大きく頷いた後、堀内は俺に頭を下げる。


「そちらが親分の身柄をこちらへ引き渡し次第、俺たちは何も言わずに立ち去る。横浜からもすぐに出て行く。村雨との遺恨もここで断ち切る。だから、早いとこ大原の親分を返してくれ。頼むからよ」


 横浜からの無条件撤退――。


 現時点において最も好ましい話が出てきた。


 確かに、そうなれば村雨組にとっては良い事ずくめ。中川会を敵に回した大抗争を戦わずに済むし、何より伊東一家との敵対関係をここで終わらせることができるなら大助かりだ。狗魔、ヒョンムル、大鷲会笛吹派という村雨組包囲網を形成する敵のひとつが消えるのだから。


 ただ、どうにも引っかかる。仮にも中川会直参という誇り高き存在であろう伊東一家が、格下の村雨組相手にかくも譲歩を見せるとは些か信じ難い。無論、極道が頭を垂れたからには、上述の提案は本当なのだろう。


 しかし、それでも俺はすんなり受け入れることが出来なかった。一種の罠ではないのか。都合の良い提案の背景に、何かしらあちらにとって美味い打算が隠されているのではないか。


 そもそも50対1000と数の上でも伊東一家が圧倒的優位なのに、どうしてここまでへりくだる必要があるのか。


(向こうも村雨との抗争は不本意なのか……?)


 やはり伊東一家にとっても村雨組と事を構えたくない事情がある、そう俺は直感した。現時点では推論の域を出ないが、抗争勃発を避けるだけの理由を抱えているらしい。


 兎に角、ここは少し探りを入れてみるとしよう。


「おう。頭を上げてくれや。堀内さんとやら。あんたの提案、俺たちとしても文句は無い。いいぜ。早いとこ、東京へ連れ帰りゃ良いさ」


「ほ、本当か! 親分を返してくれるのか! よ、良かった! 助かる! 大いに助かる! いやあ、ありがたい。実にありがたい。恩に着るぞ!!」


「あんまり長居されても困るってのもあるが、こっちとしても伊東一家おたくとのドンパチは避けたいんでな。このまま手打ちになるんなら、それに越したことはねぇのさ。何しろ、戦争が嫌なのはお互い様のようだしなあ?」


「それは……まあ、そうだな……」


 堀内は言葉を濁した。頷くわけでもなければ、かと言って首を横に振るわけでもない曖昧な答え方。


 俺の中で直感が確信へと変わる。これは間違いなく、何かある。苦笑の色を孕んだ堀内の顔つきを見れば明らかだ。もしかすれば先ほど大原総長が話していた以上の、きわめて深刻かつ切迫した事態が三代目伊東一家を取り巻いているのかもしれない。


(なるほど。こいつは気になってきたぜ)


 先方の要求を何も言わず呑んで直ちに大原総長をここへ連れてきて、解放し、伊東一家の皆様方にさっさとお帰り頂くという手もある。


 しかし、それでは疑問点は残ったままだ。伊東一家の横浜来襲には、ほぼ間違いなく家入行雄が絡んでいる。いずれ奴と雌雄を決することとなる今後の為にも、情報は得られるときにしっかりと得ておかねば。


 その所為で交渉が長引いても、問題はあるまい。俺は堀内の話を深く掘り下げてみることにした。


「なあ。堀内さんよぉ。あんたのところの親分は、横浜に単騎ひとりでカチコミかけてきた理由を『娘を取り返すため』だと言ってた。聞けば、大原親分の娘さんが誰かに誘拐されたんだとか。そいつは本当なのか?」


「……本当だ。お嬢は6日前から姿が見えなくてな。近隣の何処を探しても見つからねぇって時に、身代金を要求する電話がかかってきた。額は1000万。けど、犯人は村雨組じゃない。電話口で村雨さんの名前を騙ってもいねぇ」


「ああ? どういうこった?」


 俺は耳を疑った。もしそうであるならば、何故に大原は村雨邸を単独で襲撃したのか。娘を攫った犯人が村雨耀介であると思い込む理由に説明が付かなくなるではないか。


 その辺の矛盾を指摘すると、堀内はゆっくりと何度も頷く。そして、力の抜けた声で呟いたのだった。


「だろうな……親分はそう言うだろうな……」


 申し訳ないが、返答こたえになっていない。「親分はそう言うだろうな」とは如何なる意味か。大原の行動における矛盾点が消えるよう、明快な説明を求めたいところだ。


「おいおい、堀内さん。さっきから何をわけの分からねぇことを。もっと分かるように喋ってくれや」


「ああ。こいつはすまねぇ。要は、うちの親分は言わされたってことだよ。『娘を攫ったのは村雨組』ってていで動くよう強要されてた。だから、あんたらの屋敷にひとりでカチコミまでかけてしまった」


「強要されてた? 誰に? 誘拐の犯人か?」


「そうだ」


 聞けば、全ては真犯人からの要求だったという。


 誘拐は村雨組の仕業ということにして、その領地たる横浜へ“恵里の救出”を名目に武力侵攻しろ――。


 それこそが大原の元へかかってきた電話の真相であったと、堀内は語る。犯人が自らを村雨耀介と名乗った件も、 身代金として現金1000万円を用意しろと迫った件も、何もかもが嘘。それらは「村雨組に対してそのように言え」と真犯人が恫喝込みで求めてきたものであったらしい。


「その要求に従わなきゃ、お嬢の命は無いって脅されてよ。仕方なかったんだ。だから、親分も、やりたくてやったわけじゃねぇんだ。残虐魔王のいる横浜を攻めるなんざ、そもそも親分の本望じゃなかった。どうか信じてくれ。本当に」


「はあ!? 何じゃ、そりゃ……!?」


 堀内の話を聞いた俺は絶句した。


 荒唐無稽な作り話と疑ったわけでもなければ、真正面に受け止めて愕然としたわけでもあらず。ただ純粋に「にわかには信じられなかった」のである。語られた内容が想像のはるか上を行き過ぎていて、理解が追い付かなかったと書けば良かろうか。


 これらの弁を真実と仮定するなら、あらゆる見方が変わってくる。俺たちがどんなに説得しても頑なに思い込みを崩さず、終始一貫して「テメェらが恵里を誘拐したんだろうが!」と叫び続けていた大原の振る舞い。すべては他者に強要され、謂わば台詞を述べていたも同然だったということになる。


(あれが演技だったっていうのか……!?)


 無論、堀内の言葉をそのまま鵜呑みにしたりはしない。内に秘めた打算を隠さんがために、適当な絵空事をでっち上げている可能性も無いとは言い切れないからだ。


 しかしながら、偽りを述べている気配は目の前の極道には感じられない。彼の両方の瞳も真っ直ぐにこちらを見据え、一寸もずれる雰囲気がない。それどころか、やがて堀内は思わぬ行動に出てきた。


「おっ、おい。あんた、いきなり何を……」


「信じてくれッ!! さっきも言った通り、俺たち伊東一家に戦争を始めようって気は無いんだ! 何もかも、あの男から強要されたことだったんだ!」


 なんと、堀内はその場で突如として膝をついたのである。困惑する俺にはお構いなしに土下座で懇願し、後ろに居並ぶ弟分たちに諫止されるも一切気にせず。あまりに必死そうな様子であった。


「おいおい。頭を上げろや」


「この通りだ! 今回の件は水に流してくれ!」


「とりあえず落ち着け。別に、俺らだって戦争を望んでるわけじゃねぇよ。戦わなくて良いなら、それに越したことは無い」


「手打ちにしてほしい。親分が村雨邸ここへひとりで来たのだって、俺たちを残虐魔王とのドンパチに巻き込まない為で……」


 誘拐犯が提示した人質解放の条件は「三代目伊東一家が横浜へ攻め込み、村雨耀介を討ち取ること」だったと語る堀内。その要求に従えば、伊東一家は村雨組と抗争状態に突入してしまう。数の上では伊東側が優位であるものの、村雨組は超武闘派組織。戦火を交えれば多大な犠牲が出て、伊東一家は取り返しのつかない損害を被ることになる。


 だからこそ、大原総長は単独ひとりで動くことを選んだのだ。爆弾ベルトを巻いて村雨邸へ押しかけ、村雨耀介を含めた全構成員の前で起爆し、自らの命と引き換えに村雨組を壊滅させる。


 そうすれば命を散らすのは己ひとりだけで済み、伊東一家が村雨組相手に戦争をする必要も無い。村雨を滅ぼしたということで犯人の要求も満たせるため、恵里も解放される。かかる犠牲を最小限にとどめられる、最善の手段というわけだ。


 とはいえ、大原にとっては苦肉の策であったことは言うまでも無い。それでも子分達を死なせないため、究極の行動に迷わず出てしまうあたりが何とも彼らしいと感じた。“日本橋の任侠人”との異名も決して伊達ではないらしい。


「そうか。たしかに男気を感じるぜ」


 一応、道理は通っている。ロジックとしても不自然ではない。ただ、そうなると一方で新たな疑問点も浮かんでくる。


「堀内さん、あんたらはどうしてここに? 親分さんはあんたらを村雨組おれらと戦わせねぇために単独で出かけてったんだろ? あんたらがここへ来ちまったら、親分さんの行動が無駄になっちまうだろうが」


「そりゃあ、決まってるだろ。親分をお止めするためだよ。たかが俺たちごときのために、親分を死なせるわけにはいかない」


 腰にダイナマイトの束を巻き付けて出て行った親分の後を追い、日本橋から横浜へやって来た堀内たち三代目伊東一家の面々。大原からは「行くのは俺だけで良い。お前たちは絶対に来るな」と釘を刺されていたものの、やはり大人しくしているわけにはいかず。命令に背き、大原を連れ戻しに来てしまったのだという。


「葛藤したな。俺たちにとっちゃあ、親分の言い付けを破るなんざこれが生まれて初めてだからよ」


 ゆっくりと頭を上げ、そうしみじみと語る堀内の表情は複雑な色をしていた。ふと辺りを見渡せば他の伊東一家構成員たちも同様の顔つきだ。


 主君の命令は絶対。その主君の命を救うためとはいえ、極道社会の“掟”を破ることには躊躇いが生まれて当然であろう。愚直なまでに任侠道を重んじる気風の伊東一家ならば尚更だ。さんざん思い悩んだ所為で出発が遅れたという堀内の心情も、かなり理解できる。


「大原の親分さんに追いついたとして、どうするつもりだった? あんたらが説得したところで曲がるもんじゃねぇだろ? あの人の、いや、男の覚悟ってやつは」


「ああ。言われてみりゃあそうかもしれねぇな。けど、何つーか。自然と身体が動いちまったのさ。自分でもよく分かんねぇが」


 既に覚悟を決めた主君の後を追いかけたところで、何になるというのか。彼らとて自問自答したことだろう。自分の行動が結局は無意味だと悟っていたのかもしれない。


 それでも己を抑えることができなかった見るべきか。死にゆく親分を前にして何もせずにじっとしているなど、堀内らには出来なかった。大原征信というおとこに心酔し全身全霊で慕う、仁義の忠臣たちには。


 屋敷の前に詰めかけた伊東一家の面々に、俺は少なからぬシンパシーを感じた。ちょっと前までは理解さえもできなかったであろうに、不思議なものだ。これも心境の変化とやらか。


「……なるほどな。まあ、安心しろや。大原の親分さんは死んじゃいない。多少の乱闘沙汰はあったが、至って元気だ。ピンピンしてるよ。見ての通り、村雨邸ここで爆発も起きてねぇしな」


「ほんとか! じゃあ、早いとこ親分に会わせてくれや! 殺気も言った通りだ。うちの親分の身柄を引き取り次第、俺たちは黙って退散するからよ」


「いいぜ。けど、その前に聞きたいことがある」


「な、何だ」


 このまま淡々と交渉を妥結させても良い所。だが、やはり俺の中では堀内をおよび三代目伊東一家に対して、とある不明点が燻ぶり続けている。それを解決せずして先へは進めなかった。


「もしも大原の親分さんが爆弾をドカンとやってここを吹き飛ばしたとして、その後はどうするつもりだったんだ? 村雨組が滅んだところで、あんたらは煌王会に喧嘩を売ったことになる。どっち道、でかい抗争になったんじゃねぇのか?」


 村雨組は煌王会の三次団体。そこに攻撃を仕掛けるということは、即ち煌王会全体への宣戦布告を意味する。いくら残虐魔王との戦いを回避したところで、その後で伊東一家は煌王会からの猛烈な報復に遭うのだ。


 自分の都合で可愛い子分たちを死なせたくなかったと先ほど大原は語っていたが、どんなやり方にせよ村雨組に手を出せば結局は同じこと。遅かれ早かれ、伊東一家は抗争の炎の中へ巻き込まれる運命だ。


「っていうか、あんたらは近々長野へ行くんじゃなかったか? そこで煌王会とドンパチやるって話だったろ。村雨組おれらと喧嘩しなくたって、どうせあんたらは煌王会とぶつかってた。なのに『伊東一家を戦争に巻き込みたくない』って言うのは、辻褄が合わなくねぇか?」


「ち、違う! 親分は俺たちが村雨組と戦うことを憂いておられたんだ! 村雨耀介の渾名は残虐魔王。抗争で敵対した人間には背筋も凍るような惨い攻撃を仕掛けるってことで有名じゃねぇか! 生きたまま内臓を抉り出したり、火あぶりにして見せしめの死体を作ったり……!だから、うちの親分は俺たちが村雨組と戦わなくて済むよう慮って……!」


「そうかい。なら、あんたらの親分さんは村雨組のことを本気で怖がっていたわけだな? 煌王会全体を敵に回して戦争するより、桁違いに恐ろしいと?」


「ああ! その通りだ!」


 まさか、そんな事情があったとは。流石にこれは意表を突いた。敵に対する村雨組の無慈悲ぶりは俺も何となく知っていたので、残虐魔王を恐れる心情自体は理解できるのだが。


(伊東一家は村雨組にビビってたってわけか……)


 今日の今日まで連中の横浜侵攻に戦々恐々としていた俺たちだったが、実際のところはむしろ真逆であった。大原総長および三代目伊東一家にとって、村雨は可能な限り戦いたくない相手。他者の強要が無ければ、わざわざこのんで領地へ攻め入ることもしないだろう。


 大いに存外というか、拍子抜けというか。思わずため息がこぼれてしまう。そんな俺に、堀内は言った。


あんちゃんは知らねぇと思うが、うちはついこないだまで横浜を攻めることになってたんだよ。中川の会長に命令されてな。その時は背筋が震えたよ。いくらペナルティとはいえ、残虐魔王を相手に戦うなんざ正気の沙汰じゃない。行き先が長野へ変わってホッとしてたところだ」


 あの伊東一家が、抗争で極悪非道な戦い方をする村雨組を恐れていたという事実。


 されども当の村雨組もまた、伊東一家と戦うことを憂い恐れていた。厭戦の理由はきわめて単純。一千騎の兵力を持つ伊東一家と正面から戦えば、圧倒的な数に押し潰されてしまうと思ったからだ。


 村雨組と伊東一家。この両組織は、運命の歯車さえ狂わなければ刃を交える展開は無かっただろう。互いが互いを恐れ、手出しを躊躇うことによって戦争は防がれる。世間一般では「抑止力」と呼ばれているこの概念を俺はこの時、初めて悟ったのだった。


 そんな「抑止力」を取り払い、伊東に村雨を攻めさせるべく実行されたのが今回の総長令嬢誘拐事件。先ほど目星をつけた俺の中の犯人像が変わることは無い。詳しい事情を聞くにつれて、確信がますます強まった。


(もう、あいつしか考えられねぇだろ……)


 まるで伊東一家に村雨組を攻め滅ぼして欲しいといわんばかりの犯行動機。堀内を話し続けていると、その容疑者に関してさらに面白い情報が得られた。


伊東一家おれたちが横浜へ攻め込んでも、煌王会としては報復を行わないって言われたんだ。そればかりか、これから俺たちが長野へ出かける戦争も背後から密かにバックアップできるって」


「へぇ? どうやって?」


「自分は煌王会の意思決定に関与できる立場なんだとさ。煌王会が組織としてどう動くか、そいつを決める場において大きな発言権を持っているんだと」


「ほうほう」


 煌王会の意思決定に関与できる立場――。


 誘拐犯は伊東一家に対し、自らの地位をそのように語ったという。聞けば、その人物が大原に語った内容は実に巧妙なものであった。


 伊東一家が横浜へ侵攻した時点で村雨組には破門処分を下し、組織から追放。煌王会とは無関係ということにして、やがて伊東との抗争で村雨が滅んだとしても「あれは既に組織を追い出しているから」ということで、煌王会としては伊東および中川会に報復を行わない。破門処分を下す口実としては、村雨組が伊東一家総長の娘を誘拐したことを槍玉に挙げる算段だと話したのだか。


 長野の件も同様に当該組織を破門に処すことで、煌王会はノータッチ。さすれば伊東一家は戦いを優位に進めることができ、うまくいけば楽に勝てる。


(なるほどな……)


 誘拐犯の要求を呑んで村雨を滅ぼせば、娘は無事に生きて帰ってくるし、中川会に課せられた長野での抗争も上手くいく。


 大原総長は娘と子分たちが幸せであればそれで良いという御仁。たとえ己の死を代償にした悪魔の取引であろうと、結果として家族の利益となるならば受け入れてしまうはず。


 そうした根っからの任侠人たる大原のしょうぶんを犯人は事前に熟知していたことと思う。だからこそ、その弱さに付け入る巧妙なやり方を考えついたのだ。


 気性や価値観を知るくらいには大原と接触があり、なおかつ煌王会の組織運営に関与できる人物。ここまで来れば、それが誰なのかは最早言わずもがな。俺は堀内に対し、率直に問うた。


「家入行雄。そいつが今回の真犯人だな?」


「……」


 おそらくは名前を隠すというのも要求に含まれていたのか。堀内は当初、口をつぐんで何も言おうとしなかった。しかし、否定するには既に限界点を超えていると判断したのか。やがて観念したように、軽く頷いたのだった。


「……ああ。そうだ。煌王会の家入だ。あの野郎が真犯人だよ。うちのお嬢を誘拐して、その罪をあんたらに着せた最低最悪の鬼畜男さ」


「やっぱりな」


 これでようやくはっきりした。あの男が今回の事件を引き起こした動機は、ひとえに村雨組を叩き潰すため。その奸計を成すべく、本来はまったく関係が無いはずの大原総長の御令嬢を攫うという挙に出たのだ。


(ったく、嫌な野郎だぜ……!)


 ひと目見た時から気に食わない男だったが、まさかここまで姑息な手段を使ってくるとは。勝つためには方法を選ばないのが極道の基本だが、俺はあの老人の図々しさに反吐が出る思いだった。


「よりにもよって誘拐か。まあ、あのジジイの考えそうなことだ。尤も、おたくの総長さんとさっき話した時は家入のことを妙に庇ってたが、あれは要するに芝居だったってことだな?」


「ああ。お嬢を誘拐したのはあくまでも村雨組ってことにするのが、家入のクソの要求だったからな。親分も従わざるを得なかっただろうよ」


「そうかい。妙だとは感じてたんだよ。やたらと家入のことを持ちあげるもんでな。てっきり、家入に金でも借りてるのかと思ったぜ」


「いや、金を借りてるのは事実だ」


 如何なることか。再び話を掘り下げてみると、浮かび上がってきたのは思いのほか生々しい事情であった。


 聞けば、家入が伊東一家へ接触してきたのは今年の7月。半ば強引に近い、きわめて一方的な出会い方だったという。


「うちの組が投資した事業が焦げ付いてな。補填するために急遽、大金が必要だったんだ。期限までに補填できなきゃ、傘下のフロントが軒並み潰れて伊東一家は破産するも同然になってた」


「そこまでは聞いてるぜ。カネの調達に困ってた時に家入が突然現れて、あんたらにタダで2億を差し出したんだな?」


「ああ。何の脈絡も無く、いきなり現れやがってな。しかし、タダではない。奴は俺たちの支払いを勝手に建て替えた。で、その見返りにあれこれ無茶な要求をしてくるようになったんだ」


 窮地に立つ伊東一家の姿を予期していたかのように、突如として日本橋へ姿を見せた家入行雄。当初こそ訝しんだ大原総長も、結果的にはこの建て替え話に乗ってしまう。カネの調達が間に合わなければ、伊東一家は破滅を迎える。まさしく「藁をも縋る思い」だったといえようか。


 しかし、家入が大原に突きつけた代償はあまりにも大きかった。当初は無償で建て替えるという話だったにもかかわらず、次々と無理難題をふっかけられたというのだ。


「家入組と敵対する豊橋の市議会議員を殺せだの、仕入れた覚醒剤シャブを日本橋で保管させろだの、そりゃあもう酷かったよ。けど、きわめつけは『煌王会へ寝返れ』って言われたことだった。もちろん断ったが、その所為で会長からは内通者の疑いをかけられちまった」


「ああ。聞いたぜ。当の大原さんは家入のことを悪くは言ってなかったがな。カネの建て替える見返りを求められたって話も、あんたの口から今はじめて知ったし」


「そいつはたぶん芝居だよ。迂闊な真似をすれば人質に取られてるお嬢の身が危うい。あんたらに何て言ったのかは知らんが、親分は家入のことが憎くて憎くて仕方ねぇんだ。何遍ブチ殺しても、殺したりねぇくらいに」


「憎むのは当たり前だわな。大事な娘を攫われちまったんだから。人の親なら、誰だってそう思うはずさ」


 恵里が姿を消したのは9月21日。エスカレートする家入の見返り要求にどう対処していこうか、大原総長たちが頭を悩ませていた矢先のことだったと堀内は語る。


「その日のうちに電話をかけてきやがったんだよ。家入の野郎は。『お前の娘は預かった。借金のカタを差し押さえたようなもんだから悪く思うなよ』と……!!」


「えっ、電話で家入だって名乗ったのか?」


「そうだ!! 誘拐犯のくせにふざけた野郎だ!! あのジジイは調子に乗ってやがるんだよ!!」


 自らの素性を被害者に明かしてしまう誘拐犯がいたとは驚きだが、あの家入行雄ならば有り得る話。自分が相手に対して圧倒的優位な立場にいることで慢心し、すっかり気持ちが大きくなったのだろう。


 勝ち誇るように笑う家入のニヤケづらが頭に浮かび、俺は全身に虫唾が走る。とりあえず、空想の中で一度奴を殺しておいた。


「……で、横浜へ攻め込めって言われたわけだな? 娘を返して欲しければ伊東一家が村雨組に戦争を仕掛けろと?」


「そうだ!!!」


 堀内も怒りに震えていた。拳をかたく握り固め、目の周りにはくっきりと筋を浮かべている。顔面おもては既に阿修羅のごとき形相になっており、その大きな図体も相まって恐ろしい迫力が醸し出されていた。


 彼の背後に立つ他の組員たちもまた、同様の激情に打ちひしがれている。今回の誘拐劇は彼らにとって相当耐え難い屈辱を与えたようだ。


(当然だよな……)


 思えば大原も怒り狂っていた。家入から押し付けられた設定を果たすための演技も含まれるだろうが、あれは彼なりの叫びであったと俺は思う。


 悲壮、屈辱、憤怒、あらゆるやり場のない感情がごちゃ混ぜになった末の発露。狂おしく怒鳴り散らすことによって、自らの奥底で溜まりに溜まったものを発散させていたのではなかろうか。


『もういい!! ここで蜂の巣にされるくらいなら、自ら派手に死に花を咲かせてやる!! 死んで恵里に詫びなくちゃならねぇしなあ……こんな駄目親父で……花嫁姿まで見届けるって言ったのに、先にあの世へ行くことになっちまって……!!』


 この長台詞を吐き捨てたとき、きっと大原の中にはやりきれぬ感情が渦巻いていたのであろう。正気を失っているかと思ったが、それは違う。


 憎き誘拐犯の要求に従うなど冗談ではない。けれども、虚飾の役回りを演じきらなければ娘の命が無い。なればこそ渋々と家入の言いなりになる自分への怒りと、娘と死に別れる悲しみ。他にも幾つかの名前の無い感情が、あの瞬間の大原を支配していたのだ。


 それらをぶつけた相手は、他でもなく村雨組長。不本意な設定と役回りに閉じ込められた中では、彼にぶつけることくらいしかすべが無かったのだろう。


(同情しちまうぜ……)


 少し感傷的な気分に陥った、いまは物思いに耽っている時ではない。急ぎ思考を切り替えねば。


 ここまでの堀内とのやり取りで、だいぶ大筋が読めてきている。抗争に発展するものと警戒していたが、戦いを避けたいのは向こうも一緒。戦端が開かれてしまうことを未然に防ぐ余地は、まだ大いに残っているのだ。


 ここで提案すべき話は、ひとつしか無い。


「なあ、堀内さん。あんたさえ良ければここらで手打ちにしねぇか? 手打ちと言っても、まだ始まってもいねぇんだが。大原の親分さんの身柄ガラはそっちに返す。だから……」


 されど、返ってきたのは思いもよらぬ台詞だった。


「それはありがたい。しかし、ケジメが必要だ」


「えっ? ケジメ?」


 コクンと頷いた堀内。やがて平伏した体勢からゆっくりと起き上がり、彼は俺を見据えて言葉を繋いだ。


「ああ。そうだよ。ケジメだよ。家入の野郎に脅されてたとはいえ、俺たちはあんたらのシマへ土足で踏み入ったんだ。三代目伊東一家として、あんたらには何らかの償いをしなきゃ筋が通らねぇ」


 大原を返して貰うのと引き換えに、俺たちに対して代償を払うというわけか。


 いやいや。落とし前など必要ない。俺たちとしてはこのまま無条件で大原を引き渡し、因縁や遺恨をすべて断ち切って手打ちを結ぶ準備が出来ているというのに。


 だが、それを伝えても堀内は折れなかった。


あんちゃん、冗談言っちゃいけねぇよ。俺たちのやったことは立派な領域侵犯。親分も、俺たち若衆も、あんたらに対しては罪があるんだ。そいつを償わねぇことにゃ、先へは進めない」


「償いなら受け取ってるぜ。さっき、あんたは俺に頭を下げてくれたじゃねぇか。その誠意だけで十分だ。そっちの親分さんのことだって、別に気にしちゃいねぇし。あれは仕方のないことだろ」


「申し訳ないが、あんたがどう思うかの問題じゃない。極道として正しいか、正しくないかの問題なんだ。俺たちは罪を犯した。だから、それに対して落とし前を着ける。分かってくれ」


「何だよ、それ……」


 俺には意味が分からなかった。犯した罪を償うと言っているが、具体的に如何なるやり方で償うというのか。よもや警察に自首するわけでもあるまい。極道がそんな事をすれば、とんだお笑い草だ。


(俺たちには何の被害も出てねぇってのに……)


 ひどく困惑していると、不意に背後から肩をポンと叩かれた。菊川だった。


「受け止めてあげようじゃないか。麻木クン。せっかく償いをしてくれるっていうんだからさぁ、貰えるものは貰っておかなきゃ損だよ」


 今までの間、ずっと黙っていた若頭が急に口を開いた。どうやら彼としては、堀内の言う落とし前を受け取る気満々の模様。「そんなもん要らねぇだろ」と言うと、真顔で反論された。


「駄目だね。そこの堀内って人が言ってる通り、今回の伊東一家がやったことは重い。一歩間違えれば戦争になってたかもしれない、きわめて危険な行為だったんだ。きちんと代償を払って貰わないと」


「いや、確かにそうかもしれねぇけど。こっちは何の被害も受けてないだろ? 大原さんの爆弾は爆発しなかったわけだし、怪我人が出たわけでもねぇんだし」


「つくづく甘い男だな、キミは。被った損害の問題じゃない。こういうのに対して何もしないと、後々で村雨組が舐められるんだよ。きっちりと落とし前をつけとかなきゃ。命と引き換えにでもね。それに、さぁ……」


 厳しい表情の菊川は、視線を俺から堀内へと移す。


「……納得しないでしょ、この人たちも。自分でしでかした罪に、何らかのケジメを取らないことには。極道としての名が廃るってやつだね」


 損害額云々の話ではなく、体面の問題ということか。しかしながら、大原が爆弾を持ち込んだ件に関しては、さっき彼か村雨の下っ端たちにボコボコに殴られたことで落とし前がついているはず。その辺りは菊川自身も見ているだろうに。


(まだ足りねぇってのか……?)


 自分ではできる限り論理的な主張を展開したつもりだが、受け容れてはもらえない。冷徹な若頭が更に指摘したのは、予想外の点だった。


「確かに大原さん個人からはケジメを取ったさ。けど、この人たちが払うべき代償は未だ貰ってないんじゃないの? 『中川会直参、三代目伊東一家の構成員64名が煌王会のシマである横浜へ侵入した』件に関しては」


 なるほど。そう来たか。その部分を突かれては、俺としても反論の余地が無い。連中が集団で煌王会領を侵犯したのは事実。任侠渡世においては、戦争を仕掛けたにも等しい危険行為といえよう。渋々ながら、俺は引き下がるしかなかった。


「まあ、キミの考えてることは分かるけどさぁ。ここは皆さん方のケジメを受け止めてやろうじゃないか、麻木クン」


 俺としては別に落とし前などは何とでも良く、伊東一家には一秒でも早く横浜を立ち去ってもらいたかった。さっさと大原総長の身柄を伊東一家側へと引き渡して、この問題に決着をつけたいと思っていたのだ。


 本来ならば敵であるはずの伊東一家がシマ内に居ること自体が問題だ。ヤクザの抗争にに限らず、いざこざの火種というものは、いつも思わぬところから生まれたりする。リスクの原因要素は、なるだけ早いうちに取り払っておきたかった。


「第一に、落とし前をつけたいって言い出したのは彼らなんだし。おとこの決意に水を差すもんじゃないよ」


「ああ。分かったよ……」


 俺を横目で説き伏せた後、菊川は堀内に声をかけた。


「で? あなたはどういうケジメをつけてくれるわけ? 小指? 賠償金? うーん、できれば後者が良いなあ。チンピラの小指なんか、今どき貰ったところでスープの具材にもならないから」


 質問に対し、堀内は一瞬だけ言葉に詰まる。されど、その一瞬のうちに騒ぎが起きた。菊川の煽るような口調が癇に障ったのか、堀内の背後で控えていた部下たちが一斉に怒声を上げたのだ。


『ああ!? んだとゴラァ!!』


『テメェ、うちのカシラに向かって!!』


 ようやく気付いた。この堀内なる男は三代目伊東一家にて若頭を務めているらしい。他の連中が敬う眼差しを向けているのも道理だ。大原征信の懐刀として、主君の命を救うべくここまで来たというわけか。


 そんな大柄な若頭は、瞬間湯沸かし器のごとくいきり立った部下たちをあっという間に鎮めてみせた、


めねぇかッ!!!」


 雷鳴にも等しい一喝。堀内の厳つい容姿から醸し出される貫禄も相まって、なかなかの迫力だ。一方、伊東の組員たちが完全に大人しくなった頃合いを見計らい、菊川は今一度問いかける。


「僕らに賠償金を払ってくれるのかな?」


 すると、堀内は首を横に振った。


「いや。申し訳ないが、あんたらにカネを払う余力は無い。家入の野郎にさんざん絞り取られたせいで、今の伊東一家はかんぴんも同然なんだよ」


 これまた随分と聞き慣れぬ表現が飛び出した。けれども、とあるドラマを観たおかげで意味は知っている。“素寒貧”とは即ち「金が無い」ということ。彼らが金欠なのは何となく予想が付いていた。では、如何にして村雨組に償いを行うというのか。


 やはり、ここは指を詰める流れだろうか。そう思った俺だが、数秒の間を置いた後に堀内が菊川に提示した内容は、またしても想像の斜め上を行っていた。


「……俺の左手でどうだ」


「ひ、左手?」


「ああ。左手だ。そいつを切って、あんたらにやるよ」


 自身の左手首から上を切断し、それを村雨組に献上することで今回の落とし前をつけるという堀内。流石にこれは考えてもいなかった。まさか、左手とは。だが、彼の目は本気そのもの。決して冗談を言っている風でもない。


「ああ、何を言い出すかと思えば。言うに事欠いて自分の左手とは。そんなものを貰って、僕らが得をするとでも思ってるの?」


「分かってるさ。一銭の価値も無いってことは。けど、それが俺に出来る唯一無二の償いなんだ。あんたは小指じゃ満足しないだろうから、左手ごと差し出してやるってだけの話よ」


「いや、それは例え話でしょ。あくまでも僕らが欲しいのは賠償金だっていう。何で本気で捉えるのやら」


 菊川も困惑を隠しきれていないようだった。俺は勿論、村雨組の若衆たちにも驚きの色が広がる。当然、伊東一家の連中は若頭の口から飛び出した衝撃発言に大きく動揺していた。


『カシラ、本気で言ってるんですか!?』


『冗談は止めてくださいよ! そんなのシャレになりませんぜ! どうして左手なんか!?』


『左手を落としちまったら、これから……』


 だが、堀内の決意はまったく揺らいでいない模様。慌てて諫止する部下たちを逆に窘めると、こちらを見据えて堂々と言い放った。


「中川会が直参、三代目伊東一家若頭、堀内ほりうちまさる。これから俺の左手を切り落とし、そいつをあんたらに納めてケジメとする! どうか受け取ってくれや!」


 何ということだろう。顔が本気だ。どうやら、彼は本当に“切る”らしい。既に堀内は懐から短刀ドスを取り出し、刃を抜いているではないか。背広の上を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲り始めている。


「ちょ、ちょっと! 何をする気だ!?」


「見りゃ分かんだろ。手首をねるんだよ。さっきも言ったが、うちには金が無いんだ。この俺の手首があんたらへの賠償金の代わりってことさ」


「なっ……!?」


 呆気に取られ、絶句した菊川。「小指じゃ足りない」というのは元を辿れば彼が吐いた言葉だが、小指よりも大きな部位を切って渡せという意味では断じてない。皆、すっかり困り果ててしまった。


(おいおい、切り落としたら死ぬだろ……)


 確か、手首には血管が集中していたはず。損傷すれば大量出血を引き起こして命が危うくなる。中学2年の理科の授業では、おそらくそんなことを言っていたような気がする。


 もしや、堀内は自害つもりなのか。口では左手などと言っているが、彼が本当に差し出そうとしているのは命。ここで手首を切り落とすことで死に自らを死に致らしめ、その行為をもって今回のケジメとする腹積もりなのだろうか。


「おい! お前ら! 俺の手首を押さえてくれ! 自力じゃあ力が入んねぇからよう! 誰か頼むわ!」


 後ろに並び立つ部下たちに声を放つ堀内。しかし、呼びかけられた組員たちは誰一人として返事をしなかった。当然だ。兄貴分の自害の補助、昔風に謂えば“介錯”などを好んで買って出る者などいない。いるわけが無い。


「おいおい! どうした! 何をボーッと突っ立ってんだよ! 誰でも良いから、早く俺の左手を押さえてくれや!」


「……」


「聞いてんのか、この野郎ッ!! 早く押さえろって言ってんだよ!! テメェら、俺の命令に背くってのか!? ああ!?」


「……」


 堀内に声を荒げられてもなお、黙りこくったまま動こうとしない男たち。そのうち1人が、やがて消え入るような声でボソッと呟いた。


『……俺たちには、できません』


 いくら尊敬する若頭の命令だろうと、決して従うことが出来ない。皆、拒絶と諫止の意思を全身に表していた。人間としては至極当たり前の反応であろう。


 だが、それを受けた堀内は激しく舌打ちをする。


「ああ。そうかよ。出来ねぇってのかよ。この期に及んでりやがったか。情けねぇ野郎どもだ。連れて来るんじゃなかったぜ、まったく」


 部下たちの反対を無視し、とっくに抜き放っている短刀の刃を左手首に押し当てた伊東一家の若頭。やはり、彼は本当にやると見た。もはや、止めても無駄か。


 俺も今さら口を挟んだりはしない。先刻に菊川が言った通り、おとこの覚悟に水を差すのは無粋に思えるからだ。煌王会および村雨組に対して領域侵犯をはたらいた三代目伊東一家の罪、これを親分の代わりに背負って、堀内若頭はひとり死のうというのだ。その大した決意を見届けてやろうではないか。


 腑に落ちたがごとく何とも思わなくなった俺と、ぽかんとする菊川と村雨組の若衆たち、そしてすっかり放心状態に陥った伊東一家の連中が見つめる中、堀内は短刀の柄を握る右手に力を込める。


 男の叫びが、辺り一帯に轟いた。


「これで手打ちだ! 見届けやがれーっ!!」


 だが、その瞬間。それをかき消す程の大音声が響き渡る。己の左手首を切り落とそうとする堀内の動作は、刃が肉を裂く寸前で押し止められた。


「それには及ばぬ!!!」


 庭にいた誰もが思わずギョッとして竦み上がる、さながら稲妻のごとき野太い声。誰が来たかはすぐに分かった。


 村雨組長だ。


「貴様ごときの体を切り落して何になるというのだ! 左様な代物、貰ったとて手打ちになどならぬわ! 頭を冷やせ、この愚か者!」


 その迫力と威圧感の凄まじさに、流石の堀内も呆気に取られているようだ。無理もない。同じ屋根の下で長らく一緒に暮らしている俺でさえ、未だに恐怖を覚えずにはいられないくらいだ。


「自害など無用。道具を捨てよ」


「は、はい……」


 残虐魔王に促され、右手の短刀を素直に地面へ置いた堀内。肩をすぼめ、みるみるうちに大人しくなってしまった。


 しかし、まさかここで村雨が出てくるとは思わなかった。堀内のケジメを止めたことが果たして善意だったのか、そうでなかったのかは分からない。だが、ひとつだけ確かなのは、ここで自害を諫めた村雨組長には彼なりの確固たる考えがあるということ。堀内は死ななくて良いと断言できるだけの理由が、村雨の中にはあるのだろう。


 その証拠に、組長の隣には思わぬ人物が立っていた。これはまた、どういう風の吹き回しなのやら。


「堀内、すまねぇ!」


 言い終わるや否や、がっくりと膝を着いた子分のもとへ駆け寄っていく髭面の大旦那。そう。それは中川会の直参にして三代目伊東一家総長、大原征信その人であった。


「お、親分!?」


「すまねぇなぁ、堀内……俺のせいで……駄目な親分のせいで迷惑かけちまって……すまねぇ……すまねぇ……!」


 堀内を両腕で抱きしめる大原総長。彼の瞳からは大粒の涙が流れており、顔つきも先ほどよりだいぶ柔らかくなったように見える。子分に労いをかけて力強く抱擁する姿は、さながら実の息子に対して接する優しい父親のようだ。


 堀内は当初こそ何が何だか分からず、ひどく混乱しているようだった。しかし、しばらく経って大方の事実関係を悟ったのか、安心したように嗚咽を始める。


「い、いえいえ……よ、良かったです……親分がご無事で……何よりです……ホッとしました……」


 大原は殺されておらず、無事に解放された――。


 この事実を認識した瞬間、今まで張りつめていた緊張の糸が一気に解けたのか。安堵感に包まれた姿で堀内は感涙にむせんでいた。


 一方、俺たちは困惑したまま。まるで取り残されてしまったかのごとく、俺も菊川も、他の組員たちも、口をあんぐりと開けて、ただぼんやり佇んでいたと思う。


(何があったんだ……?)


 少し前までは俺たちとの対話すら拒否していた大原。外へ連れ出せるという雰囲気ではなかった。そんな頑固者を村雨組長は如何にして説得したというのやら。


 俺なりの邪推をはたらかせるに、おそらくは「その目で見て確かめてみよ」とでも言ったのだろう。


 当初、子分たちが来たことを大原は信じようとしなかった。あの状態からどうやってこの場へ連行してきたかは存ぜぬが、百聞は一見にしかずってやつか。


 総長の無事を確認した三代目伊東一家の男たちは、すっかり安堵の世界に浸ってしまっている。そんな彼らを村雨が現実へグイッと引き戻す。


「大原公、これでお分かりいただけたか? 我らには一寸の邪心も無いということを。ご覧のとおり、貴殿の郎党方には危害を加えておらぬ。それは村雨組われらが三代目伊東一家への敵意を持たぬ、何よりの証ぞ」


「あ、ああ……分かったよ……」


「まったく、貴殿は人騒がせな御仁だな。家入の奸計に踊らされたとはいえ、我が館に押し入り我らを脅すとは。久方ぶりに肝を冷やしたわ」


 ばつの悪そうな顔をする大原を睨みつつ、苦笑する村雨。察するに組長も今回の事件の真相を知ったらしい。俺が堀内の話に耳を傾けている間、村雨は大原の口から自白を引き出したと思われる。


 思えば俺と菊川が地下室を出る際、大原はあと少しで喋りそうな雰囲気であった。ただし、俺の経験上、あの手の人間は要旨を口に出すのに時間を要する。


 実際、少なく見積もって30分くらいは経過していたと思うので、その間にひたすら尋問を続けていた村雨耀介の粘り強さは至極見事なもの。残虐魔王の大きな器量に俺は改めて畏敬を強めるしかなかった。


 なお、少しの間しみじみと感嘆していた俺を尻目に、当の村雨は大原総長と淡々と話を続けていった。


「さて、大原公。これからどうなさるおつもりか? 横浜への討ち込みが失敗したと家入に知れれば、あの男はご息女を始末するやもしれぬ。それだけは何としても避けなくてはなるまい?」


「……言われなくたって分かってるさ。もともと俺が蒔いちまった種だから、俺自身の手で片付けなきゃならねぇ。お前さんが心配することじゃあねぇさ」


「片付けるとは? 如何にしておやりになる?」


「簡単な話だ」


 軽く息をついた後、大原は答えた。


「これから豊橋へ乗り込む。三代目伊東一家の総力を挙げて、家入組にカチコミをかけてやるんだ」


「なんと……!」


 豊橋へ侵攻し、恵里を救い出す――。


 大原にとっては、もはやそれしかないらしい。しかしながら、あまりにも極端。思いのほか大胆かつ単純明快な内容に、村雨は目を丸くしていた。


 この返答に驚いたのは、傍で聞いていた俺もまた同じ。無謀というか迂闊というか、何とも稚拙じみているように感じたのだ。日本橋の任侠人とて苦しい選択だったのだろうが、これでは猿知恵にも等しい。


(上手くいくとは思えない……!)


 いまは御令嬢を人質に取られている状況。伊東一家が下手に行動を起こせば、家入は即座に人質を殺害するはず。人質の安全が保証できない以上、浅はかな作戦としか考えられなかった。


「いや、確かに豊橋は家入の所領であるが。そもそもご息女が豊橋の何処に閉じ込められておいでか、当たりはついておるのか?」


 村雨の問いに、大原は低い声で答えた。


「見当もつかねぇな。けど、家入の野郎の事務所の住所なら知ってるぜ。他にも家入組傘下の枝組織えだの事務所とかも、位置は把握してる。だから手分けして、そこへ一斉に踏み込めば良い。必ず、どこかに恵里は居るはずだ」


「万に一つ見つからなければ、その時は如何になされるつもりだ? 伊東一家が仕掛けてきたと知れれば、家入はきっとご息女を手に掛けるぞ?」


「そんなの、やってみなくちゃ分からんだろ。一か八かの可能性に賭けるんだよ。ああ、最初からそうすりゃ良かったぜ。そしたら、お前さんにこうやって迷惑をかけることも無かったわけだし」


 どう考えても無謀すぎる話。俺は大原総長の正気を疑ってしまった。もしや、恵里は既に家入に殺されたと思い込んで自暴自棄を起こしているのか。


 大原の声色には疲れの色が感じ取れる。そこに含まれるのは、どこか哀しい諦めの観念。娘の生存を絶望視して捨て鉢になっている可能性はきわめて高いと見た。


「……私には軽率としか思えぬがな。その策ではご息女が危険だ。まだ生死の程は定かではないというのに、何故左様な道を選ばれる?」


「そりゃあ、決まってるだろ。そうする以外に方法が無いからだよ。家入のクソに言われた、伊東一家うちが村雨組を攻め落とす期限は明後日まで。モタモタしてられねぇよ」


「やはり、ご息女は既に家入の手にかかったとお思いか。そう判断されるは時期尚早なるぞ、大原公! まだ希望を捨ててはならぬ!」


「うるせぇよ」


 真剣な面持ちで苦言を呈する村雨に対し、少し感情的に食って掛かった大原。まさしく図星を突かれたと言わんばかりの表情。悔しさに満ちた声色で、彼は言葉を続けた。


「……今日、ここへ来る前、家入に電話を入れたんだ。これから横浜へカチコミをかけるが、その前に恵里の声を聞かせろってな。恵里が無事である証拠を見せろ、そうでなくちゃテメェの要求にゃあ従えねぇと申し入れた」


「家入は何と?」


「野郎、俺を鼻で笑いやがったよ。俺が村雨耀介の首を獲るのが先だと。で、電話はすぐに切られちまった。そこから何回かけ直してもつながらねぇ……!」


「左様か。されど、まだ家入がご息女を殺したと決まったわけではなかろう? 希望を捨てるにはまだ早い。少し、冷静になられよ。大原公」


 だが、頑固な任侠人は首を横へ大きく振るばかりであった。


「いいや……もう駄目だ。恵里は死んでる。生きてるなら、家入はあの時、俺との電話に出してただろ。あそこで電話を代わらなかったのは、もうとっくの前に殺しちまってたからだ。間違いない」


 予想の通り。大原総長は、悲観的な考えにすっかり囚われてしまっている。娘の生存を完全に諦め、その弔い合戦とばかりに家入の本拠地たる豊橋へ討ち入ろうと考えているのだ。


 本人には至極申し訳ないが、ため息が出てくる。『一か八かの可能性に賭ける』というなら、希望的観測に基づいた判断をすれば良いのに。何故に悪い方へ考えてしまうのだろう。


 ただ、大原の心情も一応は理解できる。


 これまで家入からは散々に搾取を受け、挙句の果てに大切な娘まで持って行かれたのだ。思考と判断能力に狂いが生じて当然であろう。大原とて、所詮は人の子にして人の親なのだ。彼は憔悴の眼差しで宙を見上げ、ぼんやりと突っ立っている。


 そんな伊東一家総長に、村雨は声をかける。


「大原公、ひとまずこれを召し上がられよ。少しはご気分が落ち着くやもしれぬ。いかがかな?」


 直後に差し出したのは輸入物の煙草。わざわざ大陸から取り寄せているという高級品で、いつも組長が好んで吸っている品だ。


「ああ。貰っとくわ」


 虚ろな声で箱から1本取り出すと、それを静かに口元へと運んでいった大原。このような場面にあっては、先に勧めた方が点火してやるのが礼儀らしい。

 これまた愛用のライターで、村雨は火をつけた。


「……」


 辺り一帯、しんと静まり返った。息を深く吸い込む音と、体の中に入れた香を空気中へ戻す音だけが聞こえてくる。


 普段からの癖なのか、大原の喫煙は至って静かだ。極道者には度々見受けられる吐息の荒々しさが一切無い。色々と切羽詰まって気分転換のために行う吸う時ほど、皆勢いよく鼻から煙を出しているのに。


 普段の佇まいが上品な人は自然と喫煙の所作も美しいのだろうか。余談であるが、村雨組長や菊川も実に流麗な煙草の吸い方をする。場面を問わず常に立ち振る舞いや身だしなみに気を付けられるあたりに、彼らのカリスマ性が如実にあらわれているのだと思う。


 高価な紙巻を吸いながら、大原は何を考えたのだろう。しばらく煙草の韻に浸った後、彼は呟いた。


「……何をするにも、まずはこの場のケジメをつけねぇとな。かけちまった迷惑には責任を取らなきゃならん」


 すると、何を思ったか。おもむろに左手を口元へ持って行った大原は小指をピンと伸ばして唇でくわえる。そして第二関節の辺りまで、口の中へ押し込んだではないか。


(えっ? あれは……?)


 意味の分からぬ行動に戸惑っていると、大原の表情が変わる。急に両目が大きく開かれ、それまでのぼんやりとした顔つきにみるみる力が宿ってゆく。


 その直後だった。


「うぐぅああああああッ!!」


 ――ゴキッ。


 物凄い音が鳴る。あれは手羽先のから揚げの軟骨部分を噛み切った際に出る自然音と、かなり近かったと思う。俺は目と耳を疑うしかなかった。


(うわっ、マジかよ!)


 大原総長が、己の小指を食いちぎっていたのだ。


 彼の左手は噴き出た血しぶきで真っ赤に染まり、第二関節部分で切断された小指は総長の口に咥えられたまま。


 決してパフォーマンスや手品、芸事の類ではない。これは紛れもなく本当の行動だ。本当に、大原の左手の小指は切断されている。


 もはや予想外どころではない驚愕の光景に、俺の頭が瞬く間に真っ白になってゆく。この場面で何故に突然指をしゃぶりはじめたのかと困惑したが、よもやここで極道の古風な流儀である“指詰め”を行うとは。


「お、親分!」


 壮絶な行為に出た主君を前に、堀内はわなわなと背筋を震わせる。声にも若干の震えが混じっている。混乱と動揺と悲嘆、この3つが同時に押し寄せているのだとすぐに見て取れた。


 そんな子分を尻目に、大原は口の中に含んだ小指をプッと吐き出す。あふれ出る鮮血に混じって、彼の小指が地面に落ちて転がった。


 黄土っぽい色からしてケチャップのかかったウインナーソーセージにも見えるが、それは確かに人間の指だ。つい数秒前まで、大原征信の体の一部であったものだ。間違いない。


「……」


 おそらくは想像を絶する痛みであったはずだ。断指の苦しさに表情を歪め、悶えながら、やがて大原はゆっくりと言葉を発する。


「……俺のケジメだ。ゆ、指を詰めてやった。いま、三代目伊東一家うちにはカネが無いんでな。こいつをもって手打ちにしてぇ。何もかも収めて貰えるとありがてぇんだが」


 本来、その“指詰め”には短刀あるいは包丁などを用いるのではないのか。ちょうど堀内が包丁を持っているのだから、それを拝借すれば良いのに。「自分の歯で自分の指を食いちぎって“指詰め”とする」という行為が衝撃的すぎて、俺は理解することができなかった。


 当然ながら、こうした展開に遭遇するのは初めてである。まさか大原がここまでやるとは。伊達に「日本橋の任侠人」の異名をぶら下げているわけではないことは分かったが、愚かな挙動にしか思えなかった。


 この件に関する落とし前なら、先ほど付けられているというのに。人にでき得る最大級の自傷行為を行わずとも済んだ話なのに。何故、そうまでして任侠精神に忠実であろうとするのか。まったくもって分からない。


(馬鹿すぎるだろ……)


 それが正直な感想だった。


 もちろん、驚愕していたのは俺だけに非ず。我らが村雨組長も、菊川も、こちら側の組員たちも、そして向こうの若衆たちも、突如として行われた大原の“指詰め”に言葉を失っていた。


 村雨に関しては愕然とするというより、どちらかといえば困惑している顔であった。彼の言いたいことは分かる。そもそも大原が指を詰める必要など有りはしないのだ。すべては家入行雄に謀られたことで、本当に断罪すべきは奴であろうに。


 されども、先ほど菊川も話していた通り、やはり極道にとって最も大切なのは体面である。要らないものであろうが、詰められた指の受け取りを拒否することは任侠精神に悖る。そんなことをすれば、それはそれで組の看板に傷がつくのだ。


 静かに大きく頷いて見せた後、村雨は地面に落ちた大原の小指を拾い上げる。そして、穏やかな言葉で応じるのだった。


「良かろう。これにて三代目伊東一家とは手打ちにいたそう。貴殿の誠意は、この村雨耀介がしかと受け取ったぞ」


「あ、ありがてぇ……堀内たちが俺を追いかけてお前さんのシマへ踏み込んじまったことも、これで許してくれんのか……?」


「当然だ。此度の一件について、村雨組が三代目伊東一家にこれ以上の責任を問うことは無い。代わりにあなた方も我らの所領を金輪際侵さぬことをお約束願いたい。お約束頂けるならば、喜んですべてを水に流すとしよう」


「ああ……約束する。俺たちは二度と横浜へ攻め込んだりしねぇよ。明日も、明後日も、これから先も未来永劫、ずっとだ……安心しな」


 血の止まらない左手を押さえながら、大原は村雨へ微笑んで見せる。その後、彼はゆっくりと膝をつき、俺たちに深々と頭を下げた。


「改めて、詫びさせてくれ……村雨耀介、お前さんにはとんだ迷惑をかけちまった……この通りだ。許してくれ……」


 出血と痛みで最早それどころではないであろうに、最後の最後で土下座して詫びた大原。彼ひとりだけに頭を垂れさせるわけにはいかんと、後ろに控える堀内ら子分たちも慌てて次々と親分に倣う。


 屋敷の前にごった返すスーツ姿の男たち60人が、皆一様に跪いて頭を下げているのだ。不思議でありながら、圧巻の景色であった。


 大原や堀内と違い、他の伊東一家構成員の中には色々と思う所のある者もいるはず。ここで村雨組に対して詫びることを良しとしない男だっているはずだ。にもかかわらず、己を押し殺して黙々と主君に同調する。これを漢気と呼ばずして何と呼ぶか。


 目の前に並ぶ名も知らぬ男たちもまた、大原征信に負けずとも劣らない任侠人であると俺は感じたのだった。


「親分、大丈夫ですか?」


「ああ。心配要らねぇよ。ほんのこれっぽっち、痛くも痒くもねぇ」


「早く止血をしないと! すぐに医者を手配します!」


「も、問題ねぇっての。こんなのはしばらく押さえてりゃあすぐに止まる。なあに、大したケガにもならねぇさ」


 やがて小指を失った左手を部下たちに気遣われながら、大原総長は帰って行った。


 彼らの背中を笑う者など、村雨組には1人もいない。先ほど個人感情から暴行を加えた組員たちでさえ、ただただ無言の敬意を示しているようであった。ケジメの為に指を自ら食いちぎって寄越す人間などそう出会えるものではなかろうから、当然といえば当然だったのだが。


 伊東の連中が去った後、俺は頭の中を整理する。


 現在、村雨組は四方を敵に囲まれている。横浜中華街の狗魔、コリアンタウンのヒョンムル、それから水面下で暗躍する元大鷲会の笛吹慶久だ。


 伊東一家による侵攻の可能性が消え、さらには笛吹の率いる兵がほぼ壊滅した今、俺たちが実質的に戦う相手は狗魔とヒョンムル。


 いずれも兵力的には村雨組の倍以上。組織の性格も極道とは違うので凶悪かつ残忍な攻撃を仕掛けてくる、きわめて厄介な相手だ。


 唯一、現状に救いがあるとすれば、狗魔とヒョンムルが連携していないという点。むしろ互いに睨み合い、敵対している可能性すらも感じられる。この辺りの事実が今後の事態を打開する鍵になるかは不明だが、2対1で押し潰される心配が無いのは幸いだ。


(狗魔とヒョンムルを焚き付けのは家入だ……!)


 勿論、敵は横浜の奴らだけではない。その“村雨組包囲網”を作った張本人たる家入が加担した、煌王会のクーデタ―。ゆくゆくはこれに立ち向かわねばならないのだ。


 勢都子夫人が村雨邸へ逃げ込んだ以上、反乱の鎮圧は俺たちの義務となってしまった。よってゆくゆくは何らかのアクションを起こすことなろうが、如何にすれば良いのやら。現在、煌王会の全権を掌握している坊門一派の備える兵数は圧倒的。村雨組とは桁違いなのは言うまでもなく、連中を相手にして戦うのは横浜を完全制圧するよりもきついはず。


 せめて俺たちにもクーデター派と互角に戦えるだけの兵力があれば事情は違うが、所詮は叶わぬ願い。自分たちだけで対処するしか道はない。


 先行きを思えば、自然とため息がこぼれてくる。


「ああー。どうすりゃ良いんだか」


 一難去って、また一難。いや、そもそも俺たちはまだ何ひとつ前進してなどいなかった。会長代行となった坊門への誓紙の提出期限が迫る中、不意に訪れた別件を片付けたに過ぎないのだ。


 不透明すぎる先行きに、頭が痛くなるばかりだった。

明らかになった家入の陰謀。狡猾な老爺の矛先は村雨組だけでなく、中川会の三代目伊東一家にも。次回、物語は意外な展開を見せる……!?

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