親の心を子は知らず
ひとまず、この場は収まった。
一時はどうなることかと思ったが、村雨組長の機転と行動により最悪の事態は免れた。組長が俺の求めに応じて庭まで出てきてくれていなかったら、今ごろ山手町で爆炎が上がっていたと思う。
何から何まで、感謝するしかなかった。俺の独力だけでは収められない修羅場だったことは言うまでも無い。
そんな村雨組長といえば、ひどく難しい顔をしていた。緊急事態が落ち着いてひと安心、といった気分ではないようだ。本当の面倒はこれから待ち受けているのだから、当然といえば当然だ。
拳銃を背広の懐へ仕舞い込んだ後、組長は若頭に言い付ける。
「地下室に閉じ込めておけ。ただし、此度は相手が相手だ。いたずらに痛めつけたりせぬよう皆に言い聞かせよ」
「了解。で、しばらくは閉じ込めておくとして、その後はどうする? さすがに処刑するってわけにもいかないでしょ?」
「あの者の沙汰は追って考える。奴が申しておったことも少し気になるゆえ。後ほど、私が直に話を聞いてみるとしよう」
「うん。それがいいかもね」
彼らが話していたのは、捕虜となった大原総長の扱いについてだった。本人も言っていた通り、大原征信は中川会の直参幹部。迂闊に殺したりすれば、中川が黙ってはいないだろう。ゆえに当面は丁重に扱わねばならない。拷問するなどもっての外で、暴行を加えることも憚られる。
ただ、大原総長が村雨組の領地を侵した事実に代わりは無い。中川会の金代紋を着けたまま、シマへ土足で踏み入ったのだ。
元より大原に襲撃の意思は無かったようだが、爆弾を用いて俺たちを恫喝した時点で立派な敵対行為。それをタダで赦せば、極道としての村雨組のメンツが失墜しかねない。横浜を支配する武闘派組織としての体面を保つためにも、大原からは何らかの“落とし前”をとる必要があった。
(難しいところだな……)
屋敷の中へと戻った後、俺はこの状況がいかに複雑なものであるかを再認識した。
勿論、知りたい情報は多々ある。けれども、あまり尋問に時間をかけてはいられない。大原をあまり長く拘束し続けてはいられない、と言った方が正確であろうか。
菊川は後頭部を掻きむしっていた。
「時間の問題だろうね。伊東一家の兵隊が大原総長を取り返しに来るのは。村雨邸へ来ることを組の人間に伝えてたら尚更に危ない」
親分が外出先で消息を絶てば、何か現地にて不測の事態が起きたと考えるのが普通。極道ないしは伊東一家に限らず、それが人間としての当たり前の思考だ。俺たちに与えられた時間は少なかった。
いま、懸念すべきは三代目伊東一家の襲撃。総長である大原を救出するべく、やがて組一丸となって村雨組領へ攻め込んでくる可能性も考えられる。
横浜に出かける前、大原が部下たちに何と言い残したのかは不明だが、それでも総長の身に何かあれば連中は黙っていないだろう。決して油断できなかった。
(野郎を人質に取るのは正しい判断か……?)
真っ先に浮かんだのは、拘束した大原の身柄を交渉の駒として用いる戦略。横浜に来れば大原を殺してしまうぞと恫喝し、伊東一家の動きを封じるのだ。
ただ、それには色々とリスクが付きまとう。「おたくの総長を人質に取らせてもらった」旨を伊東一家に伝えれば、それは即ち彼らへの開戦宣言。その通達を行った時点で、伊東一家との間には抗争が勃発するのである。
伊東を敵に回すことは中川会と戦うことでもあるため、戦線が瞬く間に拡大しかねない。また、これまた厄介なことに村雨組には現在、大原総長の娘を誘拐した嫌疑もかかっている。
攫った娘を餌に総長を誘き出して捕縛し、伊東一家へ降伏を要求した――。
これでは村雨組の渡世での評判が地に落ちる。誘拐の件が事実でないにせよ、真相を知らぬ者にはこのような構図として認識されるはず。ゆえに、あくまでも最終手段。余程の局面でない限り、人質作戦は使うに使えないであろうと俺は睨んだ。
では、村雨組は如何に動けば良いものか。今後の方針を決めようにも、現時点では情報が不足している。兎にも角にも、まずは判断材料を集めることから始めねばなるまい。
ただ、当の大原に俺たちの事情聴取に応じてくれる気配はゼロ。組長の指示通り地下室へ連行したは良いが、組員たちは戸惑っていた。
「このオッサン、どうする? さっきから黙秘を決め込んじゃってるけど。“いつものやつ”をやるわけにもいかねぇしなあ」
「だよなあ。中川の直参ってのが、また……」
「やばい。困ったなあ」
ボヤく彼らの口から出た“いつものやつ”とは、虜囚から情報を引き出すために行う拷問のこと。相手にジワジワと痛みを与えて肉体と精神の両方から責め苦を施す、村雨組長直伝の殺人フルコースだ。
ただし、それを受けた人間は最終的には出血多量で確実に死亡する。よって今回みたく迂闊に殺せない相手には、決して使えない手段なのだ。
事情聴取を行おうにも拷問は使えず、かと言ってこのまま何もせず放っておくのも気が引ける。悩んだ末に組員たちが取った行動といえば、動けない状態にした大原をサンドバッグのごとくタコ殴りにすることであった。
(いやいや! まずいだろ!)
たまたま地下室の様子を見に行った際、ちょうどその場面と出くわしてしまった。組長曰くみだりに痛めつけてはならないとの命令だったのに、何をやっているのか。俺は慌てて止めに入る。
「おい、その辺にしとけよ! 組長の命令を忘れたのか? こいつを下手にボコったら後で面倒な事になるぞ!」
「うるせぇ! 止めるんじゃねぇ!」
すると、地面に引き倒された大原が言った。
「はあ……はあ……お前たち、もう終わりか……? いまのパンチ、痛くもかゆくもないな……拳に気合いが乗っ取らん……!」
さんざん殴られて顔の至る所に痣や腫れをつくっておきながら、瞳だけは野獣のごとくギラギラと輝いている。これは何とも見上げた根性である。伊達に中川会で武闘派と呼ばれているわけではないようだ。
武器を奪われ、縄でグルグル巻きに縛り上げられ、手足の自由を奪われたその姿は、まさに屈辱的な虜囚の姿。そんな状態に陥ってもなお、大原は極道としての威風と矜持を失わずにいる。敵ながら、俺はいささかの畏敬の念を抱いてしまった。
だが、怒りに身を任せた若衆は違う。
「お前、こんだけ殴ってやったのに何をヘラヘラ笑ってんだよ。気持ち悪いな。おちょくるのもいい加減にしろや、このクソ野郎!!」
「ぶはあっ!?」
――バキッ。
鈍い音が響いた。大原の態度に激昂した組員が、その左頬めがけて蹴りを見舞ったのである。見るからに強烈な一撃だった。しかし、大原のは瞬きひとつしない。表情も、まるで変わっていないではないか。
「どうした……? この程度か……? 蹴りの基本さえも知らねぇなんざ、村雨組ってのも、異名の割に大したこたぁねぇようだな……!」
「んだとゴラァ! この野郎、もっと痛い目に遭いてぇのか! そっちがその気なら、ひと晩中箱ボコにしてやるぞ!」
「やってみろ……できねぇくせに……!」
「抜かしてんじゃねぇ!!」
猛然と大原に襲いかかり、倒れた顔面を靴の裏で何度も踏みつける若衆。1人が始めると、他の連中も次々と進み出てきて暴行に加わり始める。文字通り、集団リンチが始まってしまった。
頭を踏みつけ、腹を蹴り、髪の毛を掴んで体を起こし、顔面を何度も殴る。四肢をナイフで切断する、あるいはハンマーで潰すといった拷問ができないからといって、これは流石に度を超えている。あまりやり過ぎれば死んでしまう。
俺は再び止めに入った。
「いい加減にしやがれ! 死んじまうぞ!」
だが、連中は一切聞く耳を持たず。大原を痛めつけることに夢中になっているせいで、俺の言葉がまるで聞こえていないのか。振り向くことも無く標的を取り囲み、際限のない暴行を続ける始末だ。
(こいつら……馬鹿なのかよ……!)
組長の命令を忘れたのか。もしくは、目の前にいる人物が中川会の直参であることを忘れたのか。一心不乱に大原を殴り続ける挙動には、さながら首輪の外れた番犬そのもの。
正常な思考など、彼らは既に失っている。目の前の男が憎い。その事実だけが最大級に増幅し、判断機能が停止してしまっているようにも見えた。
「おらっ! どうだ! 痛ぇか! 他所の代紋ぶら下げて、俺たち村雨組のシマへ来たらどうなるか! その身にたっぷりと教え込んでやるよ!」
「ぶはあっ……!? うぐっ……!? 殺すなら、さっさと殺せ……! どうせもう、恵里とは二度と会えないんだ……なら、早く死なせてくれ……! 殺せ……!」
「そうかよ! なら、後悔するなよ!!」
大原を殴る若衆の勢いが、一段と激しくなる。彼らとて、ついさっきまでは「殺してはいけない」と話していたのに、何故にこうも簡単にタガ外れてしまうのか。このままでは本当にまずい。殴る、蹴るの単調な攻撃でも、長時間に渡って続ければ命が危うくなる。ここで大原が死ねば、村雨組と伊東一家の抗争勃発は決定的。厄介事が、またひとつ増えてしまう。
俺は大きなため息をつく。
(こいつらを殴ってでも止めるか……)
組員たちとの諍いは可能な限り避けたいが、最悪の事態を阻止するためには仕方ない判断。割り切って、覚悟を決めるしかない。
しかし、それには及ばなかった。
「止めよ!!!」
大きな声が地下室に響き渡ると同時に、薄暗い空間に人影が現れる。オレンジ色の裸電球に照らされた男の顔。それは、村雨組長だった。
主君の姿を目にした瞬間、ぴたりと動きを止めて我に返ったように大人しくなった若衆連中。彼らはここでようやく思い出したと見える。「みだりに痛めつけてはならぬ」という残虐魔王の下知を。
「……」
青ざめてゆく部下たちに、村雨はゆっくりと近づく。連中がしでかしたことは立派な命令違反。それなりの懲罰が下されて当然の場面といえよう。やってしまった事の重大さを悟ったのか、その場に居た4人の組員はわなわなと震え出す。どんな罰が与えられるのやら。俺もまた、ゴクリと唾を呑み込んだ。
しかし、予想した内容は現実にならなかった。
「……もう、気は済んだであろう」
「え、えっ?」
彼らを咎めるわけでもなければ、はっきりと糾弾することもしなかった村雨組長。その口から次に飛び出たのは、思いがけない言葉であった。
「お前たちの気持ちはよく分かっておる。組の領地を侵した者を許せぬ思いは、私とて同じぞ。なれど、ここは堪えてくれ。この御仁の命を絶てば、我らに明日は無いのだ。頼む」
「いや……!? 組長、その……俺らは……」
「大義であったな。後は私に任せよ」
非難するどころか、あまつさえ軽く頭を下げてしまった村雨。その光景には皆が呆気に取られた。かくいう俺も理解不能だ。てっきり、己の命令に背いた部下たちに激怒するものと思っていたのだ。いや、そうなって当然である。何事においても厳格な残虐魔王にしては、ずいぶんと寛容ではないか。
(どういうこった……?)
村雨の意図が分からず、ぽかんとしていた俺。
だが、この態度の真意は彼の次なる言動ですぐに理解できた。組員たちを後ろに下がらせた村雨であったが、やがてぐったりとしている捕虜の前に自ら立つと、実に大胆な挙に出る。
赤く腫れ上がった大原の顎を掴み、村雨は強引に己の方を向かせた。そして、強い口調で言い放ったのだった。
「大原公、配下の者が狼藉をはたらいたようだ。なれど、これは我が所領へ土足で踏み入ったことへの報い。悪う思わないで頂きたい」
なるほど。村雨が先ほど大原を痛めつけた組員たちを叱りもしなかったのは、単に寛容さゆえのことではない。村雨自身も、大原が袋叩きにされることを心の何処かで望んでいたのだ。だからこそ、感謝の台詞と共に軽く頭まで下げた。村雨の気性を考えれば、自然と合点がいく振る舞いであろう。
(そういうことだったのか……)
大原への乱暴狼藉の度合いが激しくなったタイミングで姿を現わしたのも、村雨にとっては偶然に非ず。最初から地下室の物陰で全てを見ていた末の必然だったと仮定付けるならば、あらゆることに説明がつく。
外交上の問題があるとはいえ、このまま大原に対して何もケジメをつけなかったのでは体面に傷がつく。それゆえ組員たちの個人感情に任せた暴行をある程度許容することで、一応の落とし前とする。
多少の危害を加えたところで、結果として殺さなければ問題は無いはず。タコ殴りに遭った大原には申し訳ないが、何と賢いやり方だろうか。俺は深く納得し、心の中で何度も大きく頷いていた。
一方、本人はどこか不満げな様子であった。
「何だよ……殺してくれねぇのか……がっかりだぜ。俺は、このまま殴り殺されても良かったのになぁ……」
暴行を受けたことに対してではない。袋叩きが途中で終わり、自らの命が絶たれずに済んだことをひどく不満に思っているような物言いだ。やはり庭で啖呵を切った通り、もはや大原に死を恐れる心など存在しないのか。
「大原公。ここに居わす間、貴殿には生きていてもらわねば困る。死んでも構わぬが、それはこの屋敷を出た後にして頂きたいな」
「おいおい、村雨よぉ……俺はあんたのシマに土足で踏み込んだ外敵だぜ? それも、あんたの屋敷のど真ん中に。そんな野郎を生かしておいたんじゃ、あんたの組の看板に傷がつくんじゃねぇのかい……?」
「貴殿は左様なまでにして、死にたいのか」
「ああ。死にたいね。というか、生きてる理由なんか俺にはもう無いんだよ」
死にたい――。
大原の言葉は相も変わらず。徹底的に殴られたことが原因で両方の瞼が腫れ上がっている所為もあろうが、彼の瞳は完全に虚ろになってしまっている。そのように考える理由は、やはり娘のことだろう。
口では「娘を返せ」と連呼していた大原であるが、実際のところは最初から希望など抱いてなかったのかもしれない。その恵里なる息女は既にこの世のものではないと横浜を訪れる前の時点で確信しており、それでも村雨邸へ殴り込んだのは娘の居ない世界に居続けないため、すなわち、死ぬためだったもと考えられる。
そんな大原に、村雨は問うた。
「いい加減、話してはくれまいか? 貴殿とご息女の身に何があったのかを。話したところでどうなるというわけでもないが、事と次第によっては我らにご助力できることがあるやもしれぬゆえ」
その問いかけに、大原は当初沈黙を貫いていた。
しかし、村雨が彼に注ぎ込んだ視線の迫力があまりにも強すぎて、やがて観念したかのように口を開く。これ以上は黙秘しても意味が無いと踏んだと思われる。
「……事の発端は、先週の月曜日だ」
先週の月曜日といえば、9月21日。具体的な日数を用いて遡るならば、6日前ということになるか。
あらぬ疑いをかけられた挙句に屋敷へ踏み込まれた以上、こちらには事実関係を知る権利がある。何故、大原は村雨組を誘拐犯だと決めつけたのか。俺も村雨も、そして後ろに控える組員たちも、伊東一家総長の口から続く言葉に食い入って耳を傾ける。
「……あれはたしか夜の、公共放送で首都圏向けのニュースが始まる時間帯だったかな。俺のところに1本の電話がかかってきたんだ。電話の主は村雨耀介、テメェだ」
「ほう。それで?」
「やっぱりとぼけるんだな。俺が電話に出るなり、テメェはこう言いやがったじゃねぇか。『大原征信、お前の娘を誘拐した。返して欲しければ、これから俺が言うことに従え』と」
「左様か」
繰り返しになるが村雨組長には一切の心当たりが無い。よってその電話の主とやらは、おそらく村雨の名を騙る奸賊だろう。何らかの悪しき陰謀を企て、それを形にするが為に残虐魔王を利用したのである。
しかしながら、一方の大原総長は未だに思い込みを解いていない。どういう理屈か、依然として村雨耀介が誘拐犯であるという仮説を前提に話している。
(普通、声を聞けば別人だって気づくだろ……)
つくづく厄介だ。されども、最早こちらにはどうしようも出来ない。俺は首を傾げつつ、村雨と大原のやり取りに再び聞き耳を立てていった。
「その日、ご息女は帰っておられなかった?」
「ああ。ちょうど、その日は学校が午前授業でな。いつまで待っても帰らねぇもんで、おかしいなと思ったよ」
「うむ」
大原総長の令嬢、大原恵里は小学3年生。当時9歳の女の子である。父親の大原曰く、彼女の性格を端的に言い表すならば「好奇心旺盛でお転婆」という。
たしかに9歳といえば小学生の中で最も活発さが目立つ時期であり、やんちゃ精神が男女ともに芽生え始めるのが一般的。恵里とかいうご令嬢も例外ではなく、学校が終わると宿題もせずに毎日暗くなるまで外遊びに駆け回っていたとのこと。
男の子に混じって鬼ごっこやかくれんぼ、プロレスごっこなどに興じ、毎回のごとく服を泥だらけにして帰ってくるので、大原総長はひどく手を焼かされる。「少しは女の子らしくしろ!」と真面目に叱りつけてもまったく改善せず、むしろ恵里の腕白少女ぶりは日に日に激しくなる一方だった。
「恵里の腕白ぶりには手を焼かされたよ。あの子を心配する俺の親心なんざ、ちっとも省みようとしねぇんだからな。親の心、子知らずってやつだ」
学校が終わればまっすぐ家に帰らず、公園に寄って友達と遊んでくるのが恵里の日常。いつも帰りが遅い娘のこと、大原総長も「きっと今回も何処かで遊んでいるのだろう」と思い、当初はあまり深刻には考えていなかったと語る。
「だけど、陽が落ちても恵里は帰らねぇ。いつもなら午後の6時には腹を空かせて帰ってくるはずなのに、その日は6時を過ぎても帰ってこなかった。嫌な予感が背中を走ったよ」
「確かにな。そのくらいの年齢の子供が、日没を迎えてもなお帰らぬというのは不自然だ。何かあったと考えるのが普通であろうな」
「おお。テメェもそう思うよなあ。考えてみりゃ、そもそもおかしいんだ。その日の学校は午前授業で給食は無い。昼から飯を食ってねぇ腹ペコの状態で、9歳のガキが午後の間ずっと外遊びを続けるなんざ不可能だ。いま思えば、もっと早く気づけば良かったよ。とんだ不覚を晒しちまった」
「過ぎたことを悔やんでも仕方あるまい。肝要なのは、これから如何にしてご息女を取り戻すかだ。して? 異変を悟った後、貴殿は辺りを探されたのか?」
眉間にしわを寄せ、大原は答える。
「チッ、いちいち腹立つ言い方をしやがるなあテメェは……探したに決まってんだろ! 組の者を使って、恵里が行きそうな場所は手当たり次第に探したよ!!」
だが、三代目伊東一家の全力を尽くしての懸命な捜索にもかかわらず、娘が見つかることは無かった。
恵里の遊び場である公園や河川敷、空き地は勿論、いつも一緒に遊んでいる友人の父母にまで声をかけるも、所在が分かる手がかりは皆無。唯一得られたのは、最後に恵里と会ったという男友達の「彼女とは午後3時くらいに公園前で別れた」という断片的な証言のみ。それ以降、有力な目撃情報は出てこなかったという。
(ってことは、攫われたのは3時よりも後……?)
空白の時間に、何が起きたというのか。さながら神隠しにでも遭ったかのごとく忽然と姿を消してしまった愛娘。大原総長の嫌な予感が強まったのは、もはや言うまでも無いだろう。極道ゆえに警察を頼るわけにもいかず、彼の中では切迫した不安だけが悶々と高まってゆく。
そんな時、彼の元へかかってきたのが前述の電話。娘の失踪を知ってからおそよ3時間後、午後9時00分に届いた犯行声明だった。
「こういう世界で長く生きてるとよぉ、野生の勘っつうのかな。第六感みてぇのが無駄に働いちまって。けっこう当たるんだよ。悪い予感に限って、よく当たっちまう」
「なるほど。まさかと思った矢先に案の定、“私”から『娘を攫った』と犯行声明が届いたというわけか。フッ。奇妙であるな。貴殿にしてみれば、嫌な予感が現実のものとなってしまったのだからな。ご同情いたそう」
「テメェ!! この期に及んで、まだ俺をおちょくろうってのか! そちらさんこそ、いい加減正直に教えてくれや! テメェら、恵里をどこへやりやがった! 俺の娘をどこへやったんだ!!」
「落ち着かれよ、大原公。先ほどから何度も申し上げている通り、私は此度の件に何ら関わっておらぬ。なればこそ、かようにして話を伺うておるのではないか」
瞬間的に激昂した大原を宥めつつ、村雨が問う。
「その電話で“私”は貴殿に如何なる要求を申したのだ? 正確にいえば“私”ではないのだが」
殺気立ったまま、大原は答える。
「とぼけてんじゃねぇ!! カネを要求してきたんだろうがぁ!! 娘の身代金として1000万円、持ってこいと!!」
「1000万円? それは真か?」
「そうだ!! だから俺は横浜くんだりまで来てやったんだ!! 全部テメェの口から出た言葉だ!! 忘れたとは言わせねぇぞゴラァァァ!!」
身代金として1000万円の現金を持参し、単独で横浜山手町の村雨邸まで持って来い――。
それが誘拐犯からの要求だった模様。大原が護衛を連れていなかった点を不可解に思っていたが、ようやく腑に落ちた。「約束を違えれば娘を殺す」と釘を刺されている状況であれば、たとえ怪しくとも従う他ない。大原としても苦しい決断だったことだろう。
ただ、それでも分からないことが未だひとつだけあった。俺の中で浮かんだ疑問を先回りするかのごとく、村雨は更に尋ねた。
「本日は9月27日ぞ。貴殿の元に件の電話を入ってから、6日ほど空いておるではないか。これも“私”が指定したのか?」
「本日は9月27日ぞ。貴殿の元に件の電話を入ってから、6日ほど空いておるではないか。これも“私”が指定したのか?」
「いや、違う。そいつは俺の都合だ。うちの組は金欠でよ。1000万円をかき集めるのに手間がかかったんだ。随分と足元を見た額を突きつけてくれたもんだなぁ、村雨よぉ」
「知らんな」
これは少し意外だった。三代目伊東一家にとっては、1000万円はかなり手痛い出費のご様子。普段はどの程度のシノギを抱えているかは分からないが、近頃は億単位の金を動かすようになった村雨組に比べると然程儲かってはいないらしい。
若衆たちが、ヒソヒソ声で話していた。
「おい、聞いたか? たかが1000万を集めんのに『手間がかかった』だってよ。伊東一家って意外とショボいんだな」
「だって日本橋だろ。あそこら辺は土建屋を入れる余地も無いし、やれるのはせいぜい地回りくらいだと思う。儲からなくて当然だ」
「いやいや、東京のヤクザなんか所詮はそんなもんさ。横浜が潤いすぎてるだけであって。村雨組を基準に考えたら、可哀想だよ」
だいぶ小声で話していたつもりのようだが、彼らの無駄話は丸聞こえ。その一部が気に障ってしまったのか、大原は凄まじい剣幕でまくし立てた。
「ショボくて悪かったなあ、このチンピラども!! テメェらに何ていわれようが構わねぇ、俺は娘を取り返しに来た!! ただそれだけだッ!!」
すると、不意に拷問部屋の入り口付近で扉の開く音が聞こえる。程なくして革靴の音をコツコツと響かせ、地下室内に1人の男が近づいてきた。
菊川だった。
「大原総長、あんたはとんだ食わせ者だね。さっきアタッシュケースの中身を調べさせてもらったんだけど、現金なんか入ってないじゃん。中身はお酒の瓶。偽札ですらなかったよ」
「ああ!?」
大原は若頭の方を二度見した。
「どういうことだ!? 俺はちゃんと1000万の現ナマを詰め込んできたぞ!? まさかテメェ、すり替えやがったのか……!?」
「すり替えたりなんかしないよ。アタッシュケースの中にあったのは角瓶に入ったウィスキー。どういうつもりなんだか」
「この野郎……身代金だけせしめて、恵里は返さねぇって算段か!! ったく、どこまでも卑劣な野郎だァ!!!」
どういうことか。
出発の時点では現金を詰めていたと主張する大原総長だが、先ほど菊川が確認した際には何故か別の物が入っていたという。菊川曰く、角瓶入りのウィスキーとのこと。意図がまったく見えてこない。
やはり、大原は戦争の口実をつくるために来たのだろうか。もしそうであれば、必ずしも本物の現金を持参する必要は無いからだ。せいぜい偽札、鞄の中には古新聞紙を詰めてくるくらいで丁度良い。
(いや、でもどうして酒が入ってた……?)
よもや本当に菊川がすり替えたのではと思ったが、この状況でそんな悪戯を仕掛けるほど彼も子供ではないはず。だとすると、答えはひとつ。大原が最初から身代金など持って来てなどいなかったということだ。
苦笑いしながら、菊川は言った。
「まさかあのウィスキーに身代金と同額の価値があるなんて、そんなことは無いよね? 大原さん。まあ、そもそも僕らはお金を要求してないから、別にどうだっていいけどさ」
「ふざけるな! テメェがこっそりすり替えたんだろ! 与太話こいてねぇで、俺の金を返しやがれ!!!」
「だーかーら、すり替えてないって。さっきから与太話を展開してるのはあなたの方でしょ、大原さん」
よもや中身が偽物だとは思わなかったので、俺は困惑を隠しきれない。一方で村雨は至って冷静だった。表情を一切変えず「やはりそうか」と言わんばかりの冷たい眼差し。心なしか、呆れているようにも見えた。尤も、この場において大騒ぎしていたのは大原だけだったのだが。
そんな伊東一家総長を嘲笑し、村雨組の組員たちは口々に罵り始める。すると、菊川が彼らを制した。
「キミたち。ちょっと、外してくれ。これは大事な話だからね。水を差されると困るんだよ。僕が良いって言うまで、部屋の外で待っててくれ」
「いや、でも……!」
「大丈夫。組長には僕が付いてるから。大原総長と2人きりにさせたりはしないよ。キミたちが心配することは、何ひとつ無い。それとも、あれかい? 僕の命令に従えないとでも?」
口調こそ平凡なものだったが、その台詞自体は立派な恫喝。にこやかでありつつも目だけは笑っていない冷徹な表情も相まって、組員たちが畏縮しないわけが無い。「す、すいませんでした~!」と、連中は逃げるように地下室を出て行った。
「……ささ、邪魔者は居なくなったことだし、気を取り直して。さっきまでの話を続けてくれよ。おふたりさん」
菊川から視線を受け取ると、村雨は無言でコクンと頷く。そして再び伊東一家総長の方へ向き直ると、深々と頭を下げたのだった。
「大原公。我が郎党がご無礼を致した。面目次第もござらぬ。あの者たちの主として、お詫び申し上げる。どうかお気を悪くされぬよう」
その仕草に、大原は露骨な舌打ちで返した。
「ケッ! やっぱ噂通りだな村雨組は! 親分の躾も行き届いてねぇと見た。ま、仕方ねぇわな! 目的の為なら人様の娘を平気で誘拐する、ゲスな親分なんだからよぉ!!」
「左様な疑いをかけられる覚えは無いが、その誤解が解けるよう我らとしては誠心誠意努めると致そう」
「よく言うぜ! 俺が持ってきた身代金だけネコババしようとしてるくせに!! このイカサマ野郎が!!」
その言葉を受けた残虐魔王は、何を思った事だろうか。特に言葉を返したりもせず、ただジッと黙っていた。
娘を誘拐した犯人という、身に覚えの無い嫌疑に基づく罵りの句。極道は何より名誉を重んじる生き物。普通なら即座に激昂して斬りかかる、あるいはその場で射殺しても良い場面である。いや、カタギであっても決して容認し難い暴言のはずであろうに。
(うーん、流石に今回は相手が悪いか……)
大原征信は中川会の直参。迂闊に殺してはいけない相手であることは、百も承知。普段、敵対者には絶対に容赦しないはずの村雨耀介がこんなにも姿勢を低くするとは些か予想外だったが、やはり相手の立場ゆえに止むを得ないのかもしれない。
大原率いる伊東一家とは元より一戦を交えるつもりでいたが、まだ開戦に至っていない段階で敵方の総長を殺してしまうのはあまりにもまずい。そうなれば「村雨組から手を出した」ということになってしまい、戦争を終わらせるのが難しくなってしまう。
眉ひとつ動かさぬ無表情を保っている村雨だが、内心では悔しさに歯噛みしているといったところか。
ところが、その直後。組長に変化が起こった。
「……ッ!?」
目の前にいた大原が、瞬く間に驚きの顔を見せる。なんと、背広の内側に突っ込んでいた村雨の右手に、黒漆拵えの短刀が握られていたのだ。
懐から取り出した道具の鞘をゆっくりと抜き、順手持ちで水平に構えた村雨。地下室の照明を反射し、その銀色の刃が妖しく光る。一体、何をするつもりなのか。まさか事ここに至って、大原総長を殺害するつもりか。俺は思わず、ドキッとする。
(おいおい! そりゃ、気持ちは分かるけど……)
さんざん罵られて鬱憤が溜まっていることは理解できるが、実際に殺してしまえば今までの忍耐が無駄となる。だが、村雨組長に限ってそのような軽挙妄動を目先の感情に逸ってやらかすとは思えない。
とはいえ、極道が短刀を抜く理由が目の前の相手を刺殺する以外では思い浮かばないのもまた事実。何故、組長はここで刀を取り出したのか。まったく分からなかった。
「……」
固唾をのんで見守るしかない俺と菊川をよそに、露出させた刀身と共に沈黙を保つ村雨耀介。そんな彼に、大原は言い放った。
「おうおう! ようやく俺を殺す気になったか! 殺すしかねぇよなあ! ここで俺を殺さなきゃ、口封じが出来ねぇよなあ! 村雨よぉ!」
すると、村雨は静かに言葉を返す。
「大原公。今一度、お尋ね申す。ご息女を攫い、死に至らしめたのが、この村雨耀介であると。貴殿は真にそうお思いか?」
今更、この人は何を問うているのか。そんなのは当たり前だと言わんばかりに、伊東一家総長は大きく頷く。
「ああ! さっきから何回も言っているだろ! 村雨耀介! テメェしか考えられねぇんだよ! テメェ以外に誰がいるってんだ!? ああ!?」
「左様か。私としては、まるで身に覚えの無いことなのだが。信じて頂けぬようだな」
「オラッ! 御託はいいから、さっさと殺せよ! 速く俺を恵里の元へ送って詫びさせてくれ! こんな親父ですまなかったってなあ! ほら? 殺るんだろ? だったら早くしろ! 殺れよッ!!」
「まだご息女は生きておいでかもしれぬというのに。まったく、困った御方だ。こうなれば、私の“覚悟”をお見せするしかあるまい。貴殿のそれに比べれば、だいぶ安い代物であろうが……」
言い終わるや否や、村雨は右手の短刀を頭上に振り上げた。何をする気か。俺の中で沸々と積み重なっていた懸念が、一気に緊張へと変わる。
(ええっ!? マジで殺す気!?)
ここで口車に乗ってどうするのか。村雨の口から飛び出た“覚悟”の2文字が表す行為とは如何か、恐ろしく不安でならなかった。ふと視線を移すと、俺の横に立つ菊川もまたひどく心配そうな面持ちだった。
口車に乗り、迂闊な行為に出てはならない。どうにか制止せんと、菊川は組長へ慌てて声をかける。
「あっ、ちょっと……!」
だが、その声が耳に入る前に行為は実行へと移された。瞬きをする暇も無い、ほんの一瞬のうちの出来事。村雨の頭上で構えられた短刀の刃が、振り下ろされたのだ。
――ザクッ。
何かが切断される音が聞こえた。しかしながら、人間の肉が斬られる際のそれとは、少しだけ違って聞こえる。
「……えっ?」
意思とは関係なく、声がこぼれ出てしまった俺。恐る恐る前方へ視線を凝らしてみると、大原は至ってピンピンとしている。刀傷は無論のこと、刃で斬りつけられたような気配は見当たらない。
では、村雨は何を斬ったのやら。しばしの間よく分からずにいたが、やがては状況の把握が追い付いてくる。大原の足元に散らばった残骸を視認するや否や、俺は驚いた。
(……ど、どうして!?)
斬られたのは、大原の体ではない。奴をグルグル巻きに縛り付けていたロープである。どうやら村雨組長は取り出した短刀で縄を斬り、大原の身体拘束を解いてやったようだ。
しかし、理由が分からない。拘束を解くことはそれ即ち、対象者の行動の自由を認めるということに他ならない。
俺たちにとって、大原総長は侵入者。そんな人物を自由にさせてしまって、果たして良いのだろうか。いや、良いはずが無い。
唖然とする俺を尻目に、菊川が問うた。
「ちょ、ちょっと! 組長! な、何をやってるの!? せっかく縄で縛り上げたのに……そいつは敵の……」
「うむ。構わぬ。これが私の“覚悟”ぞ」
何の事は無いといった顔で短刀を鞘へと戻した村雨耀介。そんな彼に、やや困惑気味に大原が質問をぶつける。
「おい。こりゃあ、どういう風の吹き回しだ? 俺を殺すんじゃなかったのか?」
「申したであろう。貴殿には、私の“覚悟”をお見せするしかあるまいと」
「いやいや、何を言ってるんだか。ちっとも分からねえよ。俺の縄を解くのが、お前さんの“覚悟”だってのか?」
村雨は大きく頷いた。
「左様。貴殿にはこれより、我が館を検めて頂く。我らがご息女を誘拐した事実は無いということをご自身の目で、とくと確かめて頂こうではないか」
「なっ……何だとぉ!?」
思いもよらぬ言葉が飛び出した。要は、屋敷内の捜索。大原総長に屋敷の中を自由に探させ、村雨組が大原恵里を監禁していない旨をその目で確かめて貰おうというのだ。
本来は仮想的である人物、それも敵対行為を堂々と働いた輩を野放しにするなど、決して有り得ないこと。しかし、村雨は状況を打開するにはこの選択しか無いと考えているようだった。「娘が村雨邸に監禁されている」という大原の思い込みを解き、同時に「村雨は誘拐犯ではない」と大原に信じてもらうためには。
当然、それには様々な懸念が持ち上がる。組織の中枢部分で敵を自由に行動させるという前代未聞の決断における、安全保障上の懸念だ。菊川が、村雨に慌てて歩み寄った。
「ほ、本当に良いのか!? この人に屋敷の中を調べさせるなんて!? ぼ、僕にはキミが正気とは思えないよ……!?」
「案ずることは無い。大原公に見られて困るものなど、我が館にはひとつも抱えておらぬゆえ」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
今まで見たことが無いくらいに、渋い顔をする菊川。そんな彼に続いて、当の大原も村雨に言った。
「その兄ちゃんの言う通りだぜ、村雨。テメェ、俺が中川の直参だってことを忘れてやがるのか?その俺が煌王会系の村雨組で好き放題にやることの意味が、テメェには分かってんのか? ああ?」
「無論、分かっておる。左様な前例など今の今までひとつも無いであろう。なれど、そうしなくては貴殿には納得してもらえぬ。ならばやるしかあるまい。先ほども申したはずだ。それが私の“覚悟”だと」
「そうかい。なら、心ゆくまでたっぷりと調べさせてもらうぜ! 娘を探すついでに村雨組の秘密を色々と知っちまうかもしれねぇが、それでも良いって言うんだな?」
「構わぬ。好きになさるが良い」
あっさりと承諾した村雨組長。その思い切った決断の裏に潜む打算が何なのか、俺には想像もつかなかった。おそらく、打算など何ひとつ無いのだろう。大原総長に対して誠意を見せ、潔白だと確信して貰う。それが為だけに、村雨は躊躇せずに大原の捜索を許したのだと思う。
(本当に、そうするしかねぇのか……)
不安と感服が半々ずつに込み上がり、俺の表情はひどく複雑なものとなっていたことだろう。一方、村雨組長は早々と次の行動へと移る。懸念を訴える菊川を差し置き、室外で待機していた組員たちを呼び付け、迅速に淡々と指示を下す。
「大原公にこの館をご案内いたせ。分かっておると思うが、断じて無礼をはたらくでないぞ? もしこの屋敷の中で大原公の身に何かあれば、その時はお前たちの命は無いものと思え」
若頭同様に困惑と反発の色を隠せない組員たちも、残虐魔王の気迫を前にしては何も言えず。まさに渋々といった調子で、凡庸な若衆は了解の意を表明するしかなかった。
「……分かりました」
さて。かくして自らの目で村雨邸の中を捜索できることになった大原だが、そもそも恵里は居ないのだから見つかるはずもない。
無駄な時間を費やしてしまうことにはなるが、口頭でいくら「居ない」と説明しても分かってもらえない以上、最善の選択といえよう。
勿論、捜索の結果は娘を必死で探す父親にとって満足できるものではない。屋敷の何処を探しても見つからず、部屋という部屋を覗いても気配さえ感じられない有り様。当然である。こちらは何度も「居ない」と説明していたのだ。奴が一方的に「居る」と盲信し、その前提のもとで血眼になっていただけのことだ。
1時間半にも及んだ捜索の後、俺たちの元へ戻ってきた大原総長。大きく、肩で息をしていた。その両目からは怒りというより、どこか焦りにも似た情念が感じられる。
「ど、どうして居ねぇんだ!? 恵里はどこへ行ったんだ!? この屋敷の中には居ねぇってことかよ!?」
だから、あれほど言ったというのに。ため息を吐き捨てたい気持ちはあったが、俺はどうにか堪えた。
代わりに、村雨が声をかける。
「いかがであったか、大原公。やはり私の申した通り、この館にご息女は居られなかったであろう。お分かりいただけたかな」
「テ、テメェ! 恵里を何処へ隠しやがった!? この屋敷に居ねぇなら、どこへ行ったんだ!? どこへ行ったんだ!? 答えろッ!! 答えやがれッ!!!!」
「落ち着かれよ。何処にも隠してなど居らぬ。村雨組はこの件に一切の関りは無いのだ」
「み、見え透いた言い訳を並べやがって……!」
それでもなお、引き下がらない大原。見つからなかったという結果もさることながら、捜索の全過程で案内という名の監視が付いていたことにも不満を抱いたようだ。
しかしながら、俺たちは出来ることは全てやっている。邸内の捜索許可は最大限の誠意を尽くした対応であったはずだ。満足のいく結果であろうとなかろうと、最早ご理解賜る他ない。
「言い訳などしておらぬ。そもそも我々は貴殿のご息女を攫っていない。何卒、お分かり頂きたい」
「うるせぇ!! 正直に答えねぇとブチ殺すぞ!! 娘を何処へやったんだよ……!? 恵里は……俺の娘は……何処に……」
操り糸の切れた人形のごとく、大原はその場にへなへなと座り込んだ。体の力が完全に抜けているのが分かった。
「テメェら……やっぱり、恵里を殺したのか?」
「殺してなどおらぬ。何を仰られる」
「殺したから、この屋敷には居ねぇんだろ……? どうりで探しても見つからないわけだぜ……!」
「そうではないと申しておろう!」
依然として事実誤認が解けていない大原総長。見ている俺も流石に疲れてきた。これ以上、如何に説得を行えば良いものか。
「……」
大原は何もかもに絶望したかのように暫く床に突っ伏していたが、やがて狂気をむき出しにした目で立ち上がる。ほんの一瞬のうちの出来事。気づいた時には、彼は村雨組長の胸倉を掴んでいた。
「テメェは恵里を殺したんだろう!? 既に亡骸は燃やしちまって灰になってるから、この屋敷には居ねぇ! 俺の前にも出せねぇ! そうなんだろ!? おお!?」
怒声が室内に響き渡る。組長から離れろと菊川がすかさず拳銃を抜くが、当の村雨はまったく動じていない。至って冷静なままであった。
「殺しておらぬ。そもそも、私は貴殿のご息女にお会いしたことさえ無いのだがな」
「だったらどこに居るんだ!! 隠してねぇで、今すぐ連れてきやがれッ!! 早くッ!!」
「ご息女の居所は存じ上げぬ。我らは誘拐の件に一切のかかわりが無いゆえ。これだけ申し上げても、まだ信じて頂けぬか?」
「当たり前だ! 人様を罠に嵌めたゲス野郎の言葉なんざ、誰が信じるってんだッ!!」
それに対し、村雨は呟くように言葉を放つ。
「左様か」
ここではどのように動くのが正解か。青二才の俺は、すっかり困り果ててしまった。横で大原に向けて銃を構えていた菊川も、きっと同じ心境だったことと思う。
「……」
もはや徒労感さえも漂ってきた現場に、しばしの静寂が流れる。氷のように硬直し、張りつめた沈黙の間。
それを破ったのは、村雨の挙動だった。
「……私の言葉には一寸の曇りもござらぬのだがな。信じて頂けぬというのなら、もはや止むを得まい。大原公、この銃で私を射殺されるがよろしい」
「ああ!?」
背広の内側から自動式拳銃を取り出したかと思うと、村雨は力強くスライドを引っ張る。そしてあろうことか、銃身を大原に手渡したではないか。その光景に、俺は目を疑う。
(おいおい! 何やってんだ!)
しかしながら、組長の動作に躊躇の色は一切無い。驚いて呆気に取られる大原に半ば強引に銃を握らせた村雨は、自身の眉間あたりを指差して言う。
「私の言葉を信じられぬならば、ここを撃たれよ。私とて愛しき娘を持つ父親だ。貴殿のお気持ちはよう分かる。ご息女を亡き者にした大悪人としてこの私を討ち取り、ご無念を晴らされるがよろしい」
「テメェ、本気かよ。死んで償おうってのか」
「そうではない『村雨邸に貴殿のご息女は居らぬ』。その言葉に我が一命を賭すだけだ」
己の命を懸けてまで、大原に信じて貰おうとする村雨。何故にそこまで誠意を見せるのか、その必要があるとしても他に方法は無いものかと俺は困惑した。だが、残虐魔王の眼差しは本気そのもの。こうなっては、もはや部外者が出る幕は無い。これは避けられぬ流れのようだ。
「く、組長!? 何を言ってるんだ!? 何をバカなことを……! 正気を失ってしまったのか……!」
「黙っておれ」
激しく動揺する若頭をたった一言のみで制した後、村雨は大原に冷静な口調で語りかける。
「ご心配めされるな。ここで貴殿が私を殺したとて、後々で我が組から貴殿に報復が及ぶことは無い。煌王会と中川会の戦争にもならぬ」
「へぇー! そうかい! じゃあ、ここでテメェの頭を遠慮なく撃ち抜いても良いってわけだな!」
「ああ」
渡された拳銃を右手に持ち、トリガーに指をかける大原。彼も彼で眼差しに迷いは無い。今にも引き金を動かし、鉛玉を放ってしまいそうな雰囲気だ。
「撃っちまって良いんだな? 村雨よぉ?」
「何を躊躇っておられる。その気があるなら、さっさとなされるがよろしい。遠慮は要らぬぞ」
「そうかい……! なら、撃ってやるよ!!」
大原によって銃口を額へ押し当てられてもまったく揺るがず、逆に真っ直ぐな視線で応じる村雨。思い起こしてみれば、以前にもこういう場面があった気がする。確か村雨組長はその時にもレーザービームのごとき眼光で相手を睨み返していたような。
(この人は相変わらずだ……)
そんな俺の個人的な感想はさておき、我らが村雨組にとって現在の状況は大きな危機。侵入してきた外敵によって親分が撃たれるなど、決してあってはならないこと。もしも大原が引き金をひいてしまえば、組の威信どころか存亡にもかかわる事態だ。
どうして、こうなってしまったのか。虚無感と焦燥感が次々に去来する中、微妙な緊張は淡々とその場を支配しつづける。ただ、恐ろしく長く感じる時間が流れた。
「……」
大原は引き金をひくのか、ひかないのか。その答えは俺が思ったよりも少しだけ早く明らかとなった。
――ドンッ!
引き金は、ひかれた。
だが、音が少し違う。銃弾が放たれた先にあったのは村雨耀介の頭骨ではない。天井だ。発射の瞬間、大原が腕を天井に向けて弾道を逸らしたようだ。よって村雨は無事。被弾はおろか、かすり傷ひとつ負っていない。
自然と安堵がこみ上げてくる。組長が無事で何よりだ。しかし、どうして土壇場で大原は射角を変えたのか。つい数秒前までは、村雨を容赦なく射殺するつもりでいたはずなのに。
「どうなされた? 撃たぬのか?」
表情ひとつ変えずに問うた村雨に大原は答えを投げ寄越す。返ってきたのは、力の抜けた呟きだった。
「……馬鹿言ってんじゃねぇよ。何が『報復が及ぶことは無い』だ。テメェを殺したところで、この屋敷の中にいる下っ端連中に蜂の巣にされちまうだろうが」
どうやら、復讐を恐れてのことだったようだ。大原の懸念は確かにごもっとも。村雨邸には沢山の組員が詰めている。村雨組長が殺されたとなると、彼らは一斉に襲いかかってくるだろう。そうなれば大原は嬲り殺し。無数の銃弾を浴びるのが関の山だ。
いくら前もって本人の口から「仇討ちは無用」と言い含めてあったところで、親分の命を取られて激昂しない子分はいない。もしもここで村雨を殺していれば、おそらく大原は屋敷から生きて出られなかっただろう。
つい先ほどまでは死ぬ覚悟があると息巻いていたくせに、この期に及んで死ぬのが怖くなったか。とんだ拍子抜けだ。少しばかり、俺は呆れてしまった。
しかし、そんな一見すると臆病にも思える行動の意図は別のところにあった。軽い舌打ちを間に置いた後、大原は強く言い放つ。
「ここで俺が拳銃をぶっ放せば、テメェが死ぬ前にどんだけ繕ったところで結局は組同士の戦争になっちまう。俺個人の勝手な都合に三代目伊東一家の人間を巻き込むわけにはいかねぇんだわ」
なるほど。そのような理屈だったか。確かに、拳銃で村雨を射殺すのは爆弾ベルトで屋敷ごと爆破するのとは勝手が違う。
組員共々木っ端微塵に吹き飛ばす後者とは異なり、渡された拳銃にて始末できるのは村雨ひとりだけ。それでは組員が健在であるため、後々で報復戦争が起こることになる。屋敷内にて大原総長を惨殺した後、組を上げて日本橋へ報復に挑む構図だ。
単純な構成員数では伊東一家が圧倒的に優位で、実際に戦争となれば少人数所帯の村雨組など所詮敵ではない。しかし、横浜最強の武闘派を相手にする以上、伊東一家側にも少なからず犠牲は生まれる。
大原が構成員の死を十把一絡げに考えていない点に、俺はかなり好感が持つことができた。「日本橋の任侠人」との異名も伊達ではないらしい。
中川会にもこのような男がいたとは。同じ直参といえども、本庄利政とはえらい違いだ。あの五反田のサソリならば「親のために死ぬんは子の責務やで~!」と、いとも簡単に割り切ってしまうだろうから。
(まあ、爆破しても結局は戦争になるけど……)
そんな些末なツッコミは置いといて、大原の語ったことに感心していたのは村雨もまた同じ。尤も、彼の場合は“褒める”というよりは“失笑する”に近かったのだが。
「ほう。左様であったか。随分と殊勝な心がけだな、大原公よ。して、貴殿は我らの主張を信じてくださるのだろうか?」
「実弾入りの拳銃を渡した度胸は褒めてやる。けど、まだ信じるわけにはいかねぇな。さっきのは何もかも計算ずくだろ。俺がこの場で引き金をひけないことを見通しての行動。大した頭脳だぜ」
苦々しい面持ちで嫌味を吐き捨てた大原。対して、村雨組長はただ鼻で笑っただけ。ゆえに真相のところは分からない。敵に銃を渡すというハイリスクにも程がある行動が本当に打算だったのか、それは本人のみぞ知るといったところだろう。
しかしながら、大原の面持ちは先ほどよりも心なしか柔らかく見える。決して穏やかになったわけではない。それでも般若のごとき面構えをしていた数分前よりは、確実に激情の色が薄れている。
少しは落ち着いたということか。地下室の暗がりで組長の背中越しに奴の様子を観察しながら、俺はそんな考察を得ていたのだった。
一方、村雨はなおも問い続ける。
「大原公。そろそろ信じては頂けまいか? この屋敷に貴殿のご息女は居られぬ。そして、我らがご息女に危害を及ぼしたという事実も無い。先ほどから何度も申し上げている通りだ」
俺としても同意見。流石に、そろそろ納得して欲しかった。銃で撃たせてやったのだ。これ以上、如何なる誠意の尽くし方があろうか。大原の疑心に付き合うのも骨が折れる。本音を言えば、その場にて激しく罵ってやりたい心地だった。
「……村雨の言う通りです。大原さん、どうかご理解くださいませんでしょうか? 村雨組があなたの娘さんを誘拐した事実はありませんし、手にかけた事実もありません。どうか、何卒」
菊川もまた、大原に頼み込む。彼は「全てあなたの思い込みだ!」と直接的に浴びせやりたいところだったのだろうが、だいぶ台詞がオブラートに包まれていた。菊川なりに配慮を試みたものと思われる。
一応、ここでは俺も彼に倣って頭を下げておく。
「……」
だが、そんなこちらの願望とは裏腹に、向こうから返ってきた言葉は大きなため息が出る内容だった。首をあからさまに左右へ振りながら、頑固な任侠人が言う。
「いいや。テメェらは信用できん」
あれだけ“誠意”を尽くしても、まだ駄目だというのか。しぶといを通り越して、最早しつこい。では、どうすれば分かってもらえるのだろう。是非ともご教示願いたい気分だ。俺と菊川は、苦虫を嚙み潰したような表情で互いに顔を見合わせる。俺は勿論、菊川も流石に苛立ちが沸き起こりつつあるようだった。
けれども、村雨だけは違う。依然として目つきは変えず、冷静さも保ったまま。歩み寄りを拒まれても尚諦めず、彼は大原に質問を続けた。
「どうしてもお分かりいただけまいか……うーむ、いささか手強い御仁だな。大原公は何故、左様なまでに我らをお疑いになられる? それをお聞かせくださらぬか?」
「聞かせるも何も、さっきから繰り返し言ってんだろうが。テメェらが犯人としか思えねぇからだよ。もし違うなら、何の目的があってわざわざ『村雨組』の3文字を名乗るってんだよ」
「おそらく我らに誘拐の濡れ衣を着せ、伊東一家と争うよう仕向けたいのであろう。真の黒幕の意図にあたりをつけるとすれば、さしずめそんなところか」
偶然、俺も同様のプロファイリングを行っていた。村雨組と三代目伊東一家の抗争勃発を画策し、漁夫の利を狙う人物。その暗躍により大原の娘は誘拐され、犯行声明に村雨の名が騙られたのだ。
問題は大原総長に、それを如何にして分かって貰うか。疑心暗鬼で凝り固まった思考を解きほぐすのは非常に骨が折れるし、かなりの時間を要する。早速、大原からは煽るような言葉が飛んできた。
「おい! 真犯人が他に居るって言いてぇなら、そいつには何のメリットがあって三代目伊東一家と村雨組と揉めさせたいんだよ! 挙げてみろや! その戦争で得する人間の名を! 挙げられるもんならな!」
すると、村雨はコクンと頷く。
「……ああ。1人、私の中に心当たりが居る」
「何だと? 誰だ、そいつは!?」
「貴殿も耳にしたことがあろう名ぞ。まあ、私としては口にするのも憚られる卑しき名であるが」
具体的な名前を出してみろという厄介な質問であるにもかかわらず、既に詳しい人物像まで想像が及んでいた村雨組長。一体どのタイミングで気づいたかは存ぜぬが、ここは是非とも興味深い。「口にするのも憚られる卑しき名」と前置きがされた時点で、ほのかに嫌な予感が脳裏をよぎるのだが。
「勿体ぶらねぇで、早く聞かせろよ! その真犯人とやらの名前を!! さあ、早く言ってみやがれ!!」
「ああ。良かろう。此度の、黒幕の名は……」
回答を急かす大原総長に対して、低い声でゆっくりと明かした村雨。その口から飛び出したフルネームは俺の予想通りのものだった。
「……家入行雄」
その一言で場の空気感が再び張りつめてゆく。聞いた瞬間、何を悟ったのか。気づけば大原総長の顔色が変わっていた。
「なっ、何だと!? 家入って、あの煌王会で舎弟頭補佐をやってる、豊橋の家入行雄さんのことか!?」
「左様。どうやら覚えがあるようだな」
「当たり前だ!!」
落雷でも直撃したかのごとく、大原は忽ち硬直としてしまった。これは単に「知っている」というよりかは、あの男と何かしら「深い過去がある」といった方が正しいのだろう。表情を見ればすぐに分かる。
「そ、そんな……あの家入さんが……!?」
両方の瞳は頻繁に瞬きを繰り返し、頬は引き攣り、口元は言葉が言葉にならず唇をただパクパクとさせるだけ。村雨組長が推理した名前に、大原はとてつもない衝撃を受けているようだった。
家入行雄――。
あの男との間に、どんな事情があるというのか。ただの顔見知り程度では、こうも愕然とするはずがない。すっかり静かになってしまった大原が、ただならぬ過去を抱えているような気がしてならなかった。
また、個人的に論拠が気になるのもある。沈黙した大原と当惑で絶句した菊川を尻目に、俺は迷うことなく村雨に問うた。
「なあ、どうして家入の野郎が犯人だって思うわけ? あんたのことだから、勘頼みとかじゃねぇんだろう?」
「半分は勘だ。なれど、もう半分は私なりの推察に基づいておる。現状において村雨組が伊東一家と争うことで最も得をするのは家入ぞ。あの男は我らに対し明確な悪意を抱いておるゆえ」
村雨組を潰そうと家入が暗躍している件は事実。大甥にあたる笛吹慶久を庇護し、坊門清史が煌王会で起こしたクーデターにまで加わった。そんな家入にとって、村雨組が他所の組織との抗争で崩壊してくれるのは願っても無い僥倖であることは間違いない。
けれども、何故に伊東一家なのだろうか。他組織を横浜へ嗾けるにせよ、数ある組の中から敢えて東京日本橋の伊東一家を選ぶ必要性が分からない。それこそ、地理的には相模原や横須賀あたりの組の方が同じ神奈川県内なので都合が良かろうに。
「おいおい、待てよ。そもそも伊東一家は中川会の命令で横浜へ攻めて来ようとしてたんじゃなかったか? わざわざ家入がドンパチのきっかけを作らなくたって……?」
だが、その時。俺の中で不意に記憶の引き出しが開かれた。脳内で再生されたのは過去の視認映像。ちょうど6日前、横浜港外の廃墟で家入と笛吹の密会を直接傍受した際の発言だった。
『ちょっと俺なりに手を打たせてもらったんだ。伊東が村雨と喧嘩したくなるような手を……クククッ』
気味の悪い笑みを浮かべつつ、得意気に語っていた家入。忙しさにかまけて忘れていたが、奴は確かにそう言っていたのだ。あの小物男が仕組んだ“伊東が村雨と喧嘩したくなるような手”とは、まさか総長の娘を誘拐することだったのか。
にわかには信じられず、驚かずにはいられない。しかしながら、それを真相だと仮定して考えるならば、ありとあらゆる疑問点に説明が付いてしまう。
自らのおぼろげな記憶と照らし合わせながら、俺は確認を求めるがごとく村雨に言葉を投げていった。
「……思い出したぜ。伊東一家が煌王会のシマへ攻め込むって話は、直前になって行き先が横浜から長野へ変更になったんだった。中川会の会長の命令だっけ? でも、家入は横浜への侵略を予定通り実行させようとした」
「うむ。ゆえに奴は大原公のご息女を攫い、我が名を騙って伊東一家へ電話をかけたのだ。『娘の身柄は横浜に在る。返して欲しくば身代金を持って単独で来い』とな」
「んで、何も知らない俺たちに大原さんの命を取らせようとしたわけか。伊東一家は煌王会の外敵。そこのトップが突然現れたとなりゃあ、領域侵犯とみなすのが普通だからな」
村雨は深々と頷く。
「ああ。左様にして、我らに主君の首を獲られた伊東一家の若衆たちは『村雨組が奸計で総長を誘き出し、騙し討ちにした』と思い込む。さすれば、激昂した伊東一家が大原公の報復を名目に横浜へ攻め込むのは必定。家入の思惑通りというわけだ」
ちなみに、俺が家入と笛吹の密会を目撃したのは9月21日。大原恵里が行方不明になったという日付と一致する。
あの日、家入は「手を打たせてもらった」と過去形で語っていた。よって自らは横浜の村雨邸を訪れることでアリバイを作り、誘拐の実行は家入組の組員たちに一任したものと思われる。あれこれ奸計は弄するものの決して自らの手は汚さない、そんな家入の小物ぶりが表れた話といえよう。
家入が伊東一家を焚き付けている――。
その具体的手段こそ分かっていなかったが、すべては会話を立ち聞きした自分自身の口から、村雨組長へ直に報告していたことだった。殆ど忘れてしまっていた俺とは対照的に、村雨は何もかもを覚えていた。己の頭の悪さを自嘲すると共に、組長の驚異的な記憶力には拍手喝采を贈るしかなかった。
(おかげで全てが繋がった…‥)
だが、これらは未だ仮説の域を出ない。あくまでその可能性が高いというだけであって、家入が誘拐犯だと結論付けるに足る確信はゼロ。ましてや決定的証拠などが有るわけでもない。
当然のことながら、俺と村雨の考察には依然として反論の余地が残っている。真っ先に声を上げたのは、他でもない。当の被害者たる大原総長だった。
「テ、テメェら、さっきから何をアホなこと言ってやがるんだ! 家入さんが俺の娘を攫った? そんなことがあるわけねぇだろ!!」
強烈な異議が飛んできた。大原にしてみれば、俺たちの仮説は信憑性の乏しい絵空事。寝言は寝て言えといった類の話らしい。
ただ、俺はそこに妙なひっかかりを覚えた。先ほどより、大原は家入のことを「家入さん」と敬称を加えて呼んでいる。敵対の意思が無い他者をさん付けで呼ぶことは大人の常識であるにせよ、どうにもこちらは響きが違う。家入行雄が大原総長にとって、さぞ親しい相手であるかのように聞こえるのだ。
おまけに「そんなことがあるわけねぇだろ!!」と声を荒げた大原の態度。まるで、家入さんに限って絶対にありえない、家入さんは自分に対してそんな非道をはたらく人じゃない、といわんばかりの物腰。捉え方によっては、どこか庇い立てしているようにも聞こえる。
何か、事情があるのだろうか。そう思って尋ねようとした矢先、大原の方から意外な事実を繰り出してきた。
「家入さんはなぁ……伊東一家が抱えてた借金を肩代わりしてくれた人だぞ……!?そんな人が、何の訳あって俺の娘を攫うってんだ……ああ!? あんまり与太こいてっと承知しねぇぞ、この野郎ッ!!」
曰く、家入行雄は大原総長にとっては“恩人”という扱いらしい。かつて事業投資の失敗で背負った多額の負債を肩代わりし、一括で返済してくれたのだという。
「そ、そうなのか。ちなみにだけどさ、大原さん。その、家入が肩代わりした借金の額って、ざっと幾らぐらいだ?」
「2億だ」
「に、2億!?」
天地がひっくり返るほどの大金ではないか。想像をはるかに超えた馬鹿高さに、俺は腰が抜けそうになってしまった。
よもや家入にそれほどの額をポンと出せるほどの財力があったとは。以前に聞いた話では、家入はべらぼうにシノギが達者というわけではなかったはず。仕切るシマが然程栄えているわけでもない。一体、あの男の何処に億単位の金を自由に使えるだけの余裕があるのか。つくづく、俺は訝しく思えて仕方が無かった。
(本当は野郎の持ち金じゃなかったりして……?)
それはともかくとして、はっきりとしているのは大原が家入犯人説を受け入れられないということ。受け入れぬどころか、並々ならぬ恩義を感じてまでいる。困惑する俺たちに、大原は更に続けた。
「家入さんは俺に手を差し伸べてくれたんだ。何の縁もゆかりも無い、それも代紋が違うってのに『困ってる人は見過ごせねぇ』と。任侠と義理人情を体現したような御方じゃねぇか。その家入さんを悪く言うなんざ、死んでも許さねぇぞ……!?」
聞けば、彼が家入と知り合ったのは前々月という。不動産関連の投資に失敗して借金を背負い、その返済に苦慮していたところに救う神のごとく家入が現れ、肩代わりによる一括返済を申し出てきたのだとか。
土地だの投資だのといった金融知識が皆無な俺でさえ、すぐさま胡散臭いと断言できる話。本人も最初は「どうして煌王会の幹部が?」と疑ったそうだが、人間は窮地に立たされると判断力が著しく鈍化する生き物。藁をも縋る思いで、いきなり降って湧いた家入の提案に乗ってしまったと大原は語る。
気持ちは分かるが、その後がお人好しというか何というか。すっかり呆れ返った仕草で、菊川は大原に痛烈なツッコミを浴びせた。
「あのねぇ、大原さん。いくら何でも能天気すぎるでしょ。困ってる時に都合よく救いの手を差し伸べる人間ほど、何らかの打算を胸に秘めているものですよ。普通は。そこは警戒しなかったんですか?」
「警戒も何も、困ってたのは本当だからな。有難く受け取らせてもらったさ。返済が間に合わなきゃ、うちの傘下のフロントが悉く潰れる運命にあったもんでよ」
「はあー。で? その後になって、家入から見返りは求められなかったんですか? 2億と引き換えに利権の一部を寄越せとか。家入組のために便宜をはかれとか」
「そういうのは無い。ただ、これを機に煌王会へ鞍替えしねぇかって誘いは受けたよ。向こうの幹部のポジションと、祝い金として5億を用意するって言われてな。それについちゃあ、さすがに断ったぜ。いくら美味しい申し出ったって、自分で背負った代紋を捨てるわけにゃいかねぇだろ」
寝返りの件を大原が固辞すると、家入もそれ以上に執拗な勧誘は続けてこなかったという。しかしながら、この出来事は後に政治的な問題へ発展してしまう。
ご存じの通り煌王会と中川会は冷戦関係。そんな仮想敵の人間、それも執行部に与する幹部を自らの勢力圏内に招き入れる行為が糾弾されないわけがない。中川会の現会長が猜疑心と警戒心の強いと中川恒裕氏であるなら、尚更のこと。
忽ち、大原は査問にかけられてしまったという。
「家入さんが日本橋の事務所へ入ってくとこが写真に撮られちまっててな。名無しで送り付けられた写真を見た会長に、煌王との内通を疑われたよ。正直に話して否定したが、会長には『内通してない証を行動で示せ』って言われた」
まさしく懲罰ともいうべき会長の命令で横浜を攻めることになるも、9月に入って行き先が突如長野へ変更。戦支度を整えている最中に恵里の誘拐事件が起きたというわけらしい。
(どう考えても家入の野郎が怪しい……)
大原に借金の肩代わりを申し出て接触したのは、察するに「伊東一家が煌王会と内通している」との風聞を作り上げるため。煌王会の幹部バッジを付けたまま自らの足で日本橋を訪れることで、他の中川会関係者に疑心を抱かせることができる。
家入が日本橋の組事務所へ入って行く模様を何者かに激写されたというのも、おそらくは家入自身の仕業だろう。写真が示すのは“事象”であって“真相”ではない。それでも写真があれば、目にした者の先入観を醸成するには十分事足りてしまう。
すべては、三代目伊東一家が煌王会との内通を疑われるよう仕向けた家入行雄の自作自演。大原総長は、まんまと利用されたのだ。謀られたという事自体にも、まったく気が付かぬまま。
無論、大原本人に家入を疑う心はまるで存在しない。そればかりか、家入が写真に撮られてしまった件は自らの落ち度と考えているようだった。
「家入さんには迷惑をかけちまったよ。まあ、あの写真を撮ったのは本庄だろうよ……あの汚ねぇサソリ野郎は、何かある度に俺に突っかかってきやがるからな……あいつしか考えられねぇ……」
「いや、あなた方の人間関係なんか存じませんよ。大原さん、あなたご自身の脇が甘かったとしか言えない。その辺を家入に利用されたんでしょうね」
「うるせぇなあ!! だから、言ってんだろうが! 家入さんは黒幕なんかじゃねぇって。あの人は困ってた俺を助けてくれた上に、三代目伊東一家の行く末を気にかけて鞍替えの話まで持ちかけてくれたんだ。恩人なんだよ!! 俺にとっては!!」
呆れた。家入を誘拐の犯人と疑わないに飽き足らず、あまつさえ寝返りを勧められたことさえも恩義に感ているとは。その所為で査問にかけられる羽目になったというのに、一体この大原往信という男は何処までお人好しなのやら。
お人好しというか、最早それを通り越して単なる阿呆にも思えてくる。任侠精神だか義理人情だか知らないが、たかだか借金を肩代わりしてもらっただけの男を何故こうも敬い続けるのか。俺には理解できなかった。何の脈絡も無しに渡された2億円をすんなり受け取ってしまう点もまた、然り。藁にも縋る思いだったとは言うが、いくら何でも間が抜けている。愚かの度合いがすぎる。
「……」
そんな大原に、菊川は手厳しい評価をぶつけた。
「ねぇ、大原さん。あなたは本当に極道ですか」
「ああ!? どういう意味だゴラァ!!」
「そのまんまの意味です。そんな思慮の浅さで、よくもまあ25年もヤクザを続けてこられましたね。日本橋の任侠人が聞いて呆れます」
「んだとォ!?」
いかなる時も冷静沈着、常にロジカルかつドライな判断能力を失わない菊川からすれば、伊東一家総長は殊更無能で愚鈍に見えることだろう。容赦ない批判が飛ぶのも無理はない。実に痛烈な物言いだった。
「どう考えたっておかしいでしょ。何の脈絡も無しに突然お金を渡して、その上で寝返りを持ちかけて来るなんて。明らかにあなたを陥れようとしてたと思いますよ。家入は」
「だーかーら、違うって言ってんだろ! 家入さんは善意で俺を助けてくれたんだ! 煌王会へ来ないかって誘いも、近頃の中川が振るわないのを知ってて、伊東一家を泥船から助けようと……」
「あなたじゃあるまいし。ヤクザが何のメリットも無く人助けをするわけないでしょう。家入には、伊東一家を村雨組とぶつけようとする意図があったんです。だから、あなたに近づいた。いい加減に認めたらどうです?」
俺としても菊川とまったく同意見だ。
話を聞くだけでも、家入には大原を嵌めんとする悪意があったと分かる。伊東一家を横浜に侵攻させて憎き村雨組を叩き潰すために、大原がそう決断せざるを得ない状況をつくり上げたのだ。
当初、家入の中では「内通疑惑を疑われた大原が、それを払拭するために横浜へ侵攻する」という筋書きだったものの、中川会が伊東一家の長野派遣を決定したことで計画を急遽変更。確実に伊東一家を横浜にぶつけるべく、大原総長の娘を誘拐するに至ったのだと思う。
百歩譲って奴の本心を見抜けなかったとしても、本来は敵側であるはずの人間が突如として甘い話を持ち掛けてきたら、流石に「怪しい」と警戒するべき。いや、警戒して当然だ。
(どうして気づかねぇんだか……)
ただ単にお人好しなのか。それとも、相手が誰であれ受けた恩義には最大限報いる義理人情とやらを馬鹿真面目に貫き通しているだけなのか。
どちらにしたって、村雨組に累を及ばされては溜まったものではないというもの。そんな俺たちの悶々とした思いとは裏腹に、大原は頑として家入の悪意を認めようとせず「俺にとっては恩人だ!」と半ば盲信的に肩を持ち続ける有り様。
挙げ句の果てには、こんな事を言い放った。
「テメェらこそ、そろそろいい加減にしやがれやいッ! 家入さんに罪を擦り付けようってのか!? そうはいかねぇぞ!! こっちはなァ、最初から分かってんだよ! テメェらが犯人だってことを!!」
駄目だこりゃ。話が振り出しに戻ってしまった。
どんなに根拠を明示して説明を試みたところで、感情論で跳ね返される。苛立ちを通り越して、もはや虚無感すら襲ってきそうだ。大原の思い込みは想像以上に根深いようで、一筋縄では突き崩せない。
大原を説得するには今しばらくの時間がかかると見た。しかしながら、それには大変な根気と粘り強さが要りそうだ。
「いやあ、大原さん。さっきの僕の話を聞いてなかったの? ほんと、そういうところだよ。あなたの主張には根拠が無いじゃん。はっきりとした根拠が」
「うるせぇ! テメェらにだって無いだろ!」
「いいや。あなたはただ、かかってきた電話の内容を鵜呑みにしているだけだ。それで馬鹿の一つ覚えみたいに村雨組が犯人だと連呼してる」
そんな呆れ果てたような若頭の口調に、大原は更なる怒りを滾らせる。だが、ここで村雨がようやく口を挟んだ。
「控えよ。菊川。その辺にしておけ。大原公とてやむにやまれず、かような状況に至ったのだ。過分な咎め立ては無用ぞ。心中をお察しいたせ」
ナイスタイミング。火に油を注ぎ続けてもいけないので、ここで村雨がフォローを入れたのは非常に良い判断だと思った。流石の菊川も組長の言葉とあっては無視するわけにはいかず、渋々ながらに引き下がった。
「……ああ。分かったよ」
さて、これから如何にすれば良いものか。
このまま懇々と説き伏せるのが最善だろうけれど、もはや何を言っても無駄なような気もする。手遅れというか、手詰まり。頭に血が上った頑固者を宥めるだけの文言がいまいち思いつかない。己の語彙力の無さがつくづく嫌になる。
何かしらの有効打を放てれば株が上がるところだが、ここで余計なことを言っても逆効果。俺はただ、根気強くアプローチを続ける組長を無言で見守るだけであった。
「失礼を致したな、大原公。されど貴殿も既に頭では分かっておられるのではないか? この館に自が娘は居ないということを。そして、村雨組が誘拐などしていないということをも」
「んだとォ! そんなわけあるか!!」
「私のことを真に下手人だとお疑いなら、先ほどお渡しした銃で射殺す選択肢もあったはずだ。それを敢えてしなかったのは何故か? 貴殿が私を心から怪しんではおられぬからだ」
そんな言葉を大原総長は正面から一蹴する。
「黙れッ!! 犯人はテメェらしか考えられねぇんだよ! 同じことを何遍も言わせるんじゃねぇ!!」
事前もって想定してあった反応なのか。村雨もここで匙を投げたりはしない。重箱の隅をつつくがごとく、徹底して食らいついていった。
「何故に我らだと疑われる? たかだか、下手人が電話で村雨の名を名乗っただけではないか。黒幕と断ずるには、いささか根拠が薄いと思うが」
「だったら、どうして犯人は村雨組って名乗ったんだよ! 数ある組の中から敢えて村雨を選ぶ理由が無いだろ!」
「先程も申した通り。此度の件における黒幕が、我らと伊東一家をぶつけようと企んでおるからだ。現状、それを最も望んでおるは家入ぞ。貴殿は何故にあの男を庇い立てする? 弱みでも握られたか?」
「ま、まだ言うってのか! この期に及んで家入さんの名を……!」
相も変わらず反発を続ける大原総長。だが、彼は少しだけトーンダウンしてきたようにも感じる。少なくとも、激情のままに荒れ狂っていた先刻の勢いは失われているではないか。
弱みでも握られたか――。
この問いを浴びせられた瞬間、大原の眼差しが変わった。大きく開かれた両眼から突き出す視線が、ほんの僅かに揺らいだのだ。それを俺は確かに把握した。間違いは無い。これは紛れもなく、痛い所を突かれて動揺する人間特有の仕草である。
青二才同然の俺が気づいたのだ。極道として海千山千の人間を相手にしてきた残虐魔王が、気づかぬはずもなかった。
「ほう。その様子では、やはり何かしら抱えておるようだな。声にも震えが目立つのは明らか。分かりやすい御人だ。さしずめ図星というわけか」
「うるせぇ!! んなこたぁねぇ!!」
「左様にして必死で取り繕うのが何よりの証左。やはり貴殿、家入に脅されておるのであろう。その動じ方から察するに、奴には余程の弱みを握られたと見受けられる」
「……」
村雨はさらに揺さぶりをかけてゆく。
「おかしいと思っておったのだ。貴殿ほどの侠客が、何故にあのような稚拙じみた手に出られたのか。日本橋の任侠人は頑固でこそあれ阿呆に非ずと聞いていたが、いまの貴殿は聡明さを欠いておる」
「……おい。だから、何だってんだよ!? 目に入れても痛かねぇ可愛い一人娘を攫われちまったら、そりゃあ誰だってトチ狂うだろよ!!」
「ああ。なれど、貴殿はどうにも不自然だ。誘拐されたご息女を助けに来たというよりは、最初から村雨邸で死すが為に来たと見える。いや、そうとしか考えられぬ。でなくば、爆弾の帯などを巻いたりはせんだろう」
考えてみれば、爆弾ベルトは確かに武器としては行き過ぎかもしれない。絶大な威圧感と破壊力を備えるものの、使えば自分の命は無い。己もろとも相手を吹き飛ばす、部類としては最終兵器ともいうべき諸刃の剣。
(交渉で相手をビビらすにしては大袈裟か……)
娘を返せと迫るだけなら、武器は護身に用いる程度で十分のはず。機関銃や日本刀を担いで来れば済む話だ。身代金を入れたアタッシュケースで両手が塞がっているというなら、拳銃や短刀を懐に忍ばせておけば事足りる。
にもかかわらず、何故に大原は腰にダイナマイトの束を巻いてきたのか。おまけに携行してきた武器らしい武器がそれだけという点も、よくよく考えれば引っかかる。
「ああ!? 言ったはずだぜ!? 娘の居ねぇ世界になんざ未練は無いと!! 恵里を生きて取り戻せねぇんなら、ここでテメェらと一緒に消し炭になってやらァ!! 俺は最初から死ぬ覚悟でここへ来たんだよ!!」
そう啖呵を切った大原総長。だが、村雨は大きく首を横に振る。大原の吐いた“死ぬ覚悟”というフレーズから、 とある可能性が推理されようとしていた。
「違うな。覚悟ではない。大原公、貴殿は最初から死ぬことが目的だったのではないか。我が館へ足を踏み入れ、爆弾を起爆させて我らを道連れに吹き飛ぶ。それこそが、貴殿が村雨邸へ来た目的だったのだ」
「何を言いだすかと思えば、また適当な与太を並べやがって!! 大体、俺は恵里の身柄を取り返しに来たんだぞ!? どういう理由があって、そんなことをしなくちゃならねぇんだ!?」
「決まっておろう。貴殿は家入に脅されておるからだ。ここで村雨もろとも死ななくば、ご息女の命は無いとな」
どういうことか。俺は思わず、菊川と顔を見合わせた。そんなこちらを尻目にも疑問には先回りし、村雨組長は淡々と己の見解を大原に投げかける。
「6日前、貴殿の元に我が名を騙る電話が来たという話だが。これは出鱈目であろう。実際には、貴殿はその電話を受けた時点で相手が家入だと悟っていた」
「はあ!? 何を言ってやがるんだ!?」
当然、怪訝な目をされるも村雨は気に留めない。
「電話の主は貴殿へかように告げた。『お前の娘は預かった。返して欲しくば、これから申す通りにせよ……』と。おそらく、そこで貴殿は横浜へ攻め入り、村雨組を討ち滅ぼすよう要求されたのであろう。誘拐を村雨組の仕業という体にして、その報復を口実にな」
「ハッ! 何を言ってるか、分かんねぇぜ!!」
「だが、その要求に貴殿は躊躇った。いくら娘の命が懸かっているといえども、己の都合で戦を始めて可愛い郎党たちを死なせるわけにはいかぬと」
村雨の推理は実に具体的だった。さながら相手の心を見透かしたかのようで、どこか生々しくも感じる。それを聞いて、大原は何を思ったことだろうか。
「……」
固唾を飲んで見守る俺たちを背に、組長はなおも言葉を続けた。眉間にしわを寄せたまま黙り込んだ大原に対し、次なる言葉の矢が浴びせられる。
「ゆえに貴殿はかような手に出られた。爆弾の帯を巻き付けて我が館へ踏み込み、私への恨みの口上を述べた後で起爆する。さすれば己ひとりの犠牲で済み、戦にはならず、ご息女も無事に帰ってくる。貴殿にとっては良いことずくめだ。自が命を散らすという点を除いてはな」
「だから、さっきから何をグダグダ訳の分かんねぇことを並べてやがるんだ! そんなのはテメェの勝手な妄想だろうがッ!! 俺は身代金を持って恵里を取り返しに来たんだよ!!」
「では、何故貴殿が持ってきた鞄には身代金とやらが入っていなかったのだ? 断っておくが、我らはすり替えておらぬぞ? 貴殿に最初からご息女を取り返す意図が無かっただけではないのか?」
「こっちが黙っとけば好き勝手に……!!」
大原は歯噛みした。その瞳の中に、一度は鎮まったかに見えた激しい憎悪の情念が宿っていたことは言うまでもない。またしても不穏な気配がその場を包み込む。
だが、睨み合う村雨の調子は止まらない。彼が繰り出した「大原には娘を取り返す意図が無かった」という仮説、これにまた驚くべき推理を付け加えてきたのだった。
「実を申せば、既にご存じなのではないか? 大原公。貴殿のご息女は死んでなどおらぬ。まだ生きておられる。それを貴殿は分かっておいでなのではないか? ここを訪れる、だいぶ前からな」
「何を言いやがる。そんなわけねぇだろう!!」
「いや、貴殿は確信しておいでのはずだ。娘がまだこの世に居るということを。思えば先ほど、ご自身で申されたではないか。たしか、あれは先にあの世へ旅立つ不義理をご息女に詫びられたのだな?」
その言葉に大原の表情が変わる。口には出さないが「しまった」というような、悔しさが滲み出た驚きの顔。
だいぶ前のことにはなるが、奴が放った言葉は俺自身も確かに耳で聞いている。あれを聞き流すはずが無い。獣の断末魔とも思わせる雄叫びで、意味以上のインパクトがあったからだ。
『もういい!! ここで蜂の巣にされるくらいなら、自ら派手に死に花を咲かせてやる!! 死んで恵里に詫びなくちゃならねぇしなあ……こんな駄目親父で……花嫁姿まで見届けるって言ったのに、先にあの世へ行くことになっちまって……!!』
先ほど庭で爆弾ベルトを起爆しようとした際、奴が叫んだものである。考えてみれば、完全に村雨組長の指摘する通り。娘が生きているという認識を前提にしなければ、大原はこの台詞を紡ぎ出すことができないのだ。
「う、うるせぇ!! あれはたまたま……」
「左様に動揺しておるのが何よりの証拠。やはり貴殿は家入に言い含められておるな? あの男を庇い立てした先ほどの言葉、差し詰めあれは芝居であろう?」
絵に描いたように取り乱す大原に、村雨はなおも続ける。
「村雨組の本拠地ヘ押し入り、自爆して華々しく散る。それが貴殿にとってはご息女を救い出して、なおかつ伊東一家のご家人方をを無駄死にさせずに済む、唯一無二の術であったのだ」
「……ッ!?」
「是非はともかく、だいぶ進退窮まっておられるようだな。ご同情申し上げる。されど、大原公。貴殿が取るべき道はひとつに非ず。視野を広げれば、自ずと光は見えてくるものだ」
それはまるで、迷い人に導きの手を差し伸べる地蔵菩薩のようであった。口調こそ普段と変わらぬ冷徹なものであるが、その声色には何処か温情が垣間見える。娘を持つ父親としての、村雨なりの優しさだろう。
(結局、何がどうだってんだ?)
伊東一家総長の娘を誘拐したのは誰か。その犯人は大原に対して、一体何を要求したのか。そして、大原は何故に爆弾ベルトを巻いて現れるという早まった行動に出てしまったのか。
真相は本人のみぞ知る所。村雨が如何に行動な推理を並べようと、やはり最後には大原征信御自ら語ってもらうしかない。
「大原公。ご安心めされよ。村雨組は貴殿の味方だ。中川会が直参、三代目伊東一家と刃を交えとうない。ゆえに話してはもらえまいか。貴殿に、ご息女に、何があったのかを」
「ケッ、何が味方だ。寒い冗談だ。そんなに知りてぇのかよ。知ったところで、テメェらに出来ることなんか何も無いってのに」
だが、その時。突如として入り込んできた大きな雑音によって両者の会話は中断される。地下室のドアを勢いよく開け、額に冷や汗を浮かべて駆け寄ってきた1人の男。
それは沼沢だった。
「く、組長、大変です! 緊急事態ですッ!!」
「いかがした?」
「カチコミです! 自分達を『三代目伊東一家』と名乗ってます! そいつら、大原を取り返しに来たと……!」
どうやらタイムアップのようだ。恐れていた最悪の可能性が、こうも早く現実になろうとは。いずれ連中が束になって押し寄せることは想定していたが、さすがに展開が急すぎる。
「随分と早いな。撃ち込まれたか?」
「いえ! 今のところは双方とも膠着状態っていうか……! けど、向こうはけっこう大がかりな武器を揃えてますぜ。睨み合いも、いつまで続くか分かりません」
「左様か。では、すぐに参ると伝えよ。私の読みが正しければ、奴らに戦をする気は無いはず。良いか? くれぐれも、こちらから弾丸を放ってはならぬぞ? これは村雨組の正念場ぞ!」
「ははっ! かしこまりました!!」
沼沢を行かせた後、村雨は俺たちにも指示を飛ばす。
「涼平、菊川。お前たちも行け。私は今しばらく、大原公より伺いたい話があるゆえ。聞いておったと思うが、手出しは無用だ。頼むぞ」
この緊迫した状況で尋問を続ける意味が分からないが、とりあえずここは従っておくべきか。了解の旨の返事を送った後、俺は若頭と共に地下室を出て行く。
ただ、その瞬間に奇妙な光景が見えた。踵を返す際にふと座らされている大原総長が視界に入ったのだが、どうも彼の表情に違和感があるのだ。
(ぜんぜん嬉しそうじゃない……!?)
あちらはあちらで悪い意味の想定外が起きてしまったと言わんばかりの、苦々しい目元と口元。あまつさえ、大原はこんな言葉をボソッと呟いていた。
「来ちまったか。親の心、子知らずだな……」
如何なる意味か。普通、ここは喜びを顔に出す場面だろう。捕らわれの身となった自信を救出するべく子分たちが駆けつけてくれたのだから、歓喜の笑みを浮かべても良いところ。
にもかかわらず、何故に大原は唇をへの字に曲げているのやら。彼の表情の真意が分からない。俺は心理学に疎いので詳細には読めないが、少なくとも伊東一家の組員たちが来たことを喜ばしく思っていないのは確かなようだ。
「ちょっと、麻木クン! 何をボサッとしてんの! 行くよ! 歩くの遅いと置いてっちゃうよ!」
「あ、ああ」
一体、何であろうか。最後は菊川に促され慌てて移動に専念した俺だが、伊東一家総長の意味ありげな反応が気になって仕方が無かった。とにかく現場で状況を把握しないことには何とも言い難いのだが。
しかし、いざ屋敷の玄関前に出て己の目で見たそれは、想像を大きく超えていた。
恐れていた事態が現実に。村雨組は中川会との抗争を回避できるか? 次回、物語が急展開!




