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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第8章 餞別
132/261

「娘を返せ」

「あの者は、まだるのか」


 男の険しい声が部屋の中に響き渡る。


 ここは屋敷の1階にあるダイニングルーム。つい先ほど、そそっかしい若衆が「中川会伊東一家総長を名乗る男がカチコミをかけてきました!」と報告を行ったのだが、組長は至って冷静なまま。


 襲撃者が1人きりである旨を己の目で確認すると、食堂へ戻って日常の動作を平然と続けた。


 この日、村雨耀介の昼食はいつもよりちょっと遅め。何でも午前の終わりにかかってきた市役所のお偉方からの電話が長引き、スケジュールが押してしまったのだとか。


 残虐魔王は生活の周期律リズムが崩されることを厭う。ただでさえ昼食の遅延で苛立っていた時にカチコミという緊急事態が加わり、ひどく機嫌が悪くなっていたのだ。


「麻木クンの話を聞く限りじゃ、そうみたいだね。今でこそ落ち着いてるみたいだけど、いつ起爆スイッチを押すか分からない。そうなる前に、殺しちゃった方が良いんじゃない?」


「戯けたことを申すでない。左様な事をすれば、中川との戦が避けられなくなるではないか」


「なっ!? そ、それじゃあ、あのオッサンは伊東一家の総長!? まさかの本人登場ってわけ!?」


「ああ。何度も申したであろう。間違いない。あれは紛れもなく、大原征信。伊東一家の三代目ぞ。総長御自らのご出陣とは、とんだ面倒を持ち込んでくれたものだ」


 ――。


 遡る事、50分前。1998年9月27日、午後1時。


 勢都子夫人の電撃来訪にほのかな動揺が広がりつつあった村雨組に、またしても青天の霹靂といえる出来事が襲いかかった。


 屋敷の門前に、両手にジュラルミンケースを抱えたひげづらの男が突如として現れたのである。


 見るからにカタギではない厳めしい雰囲気を身に纏わせたその人物は、自らを「中川会直参三代目伊東一家総長、大原征信」と名乗った。


 中川会は我らが煌王会の天敵。特に伊東一家は横浜侵攻を狙っているとの情報があったため、村雨組は奴らの動向に目を光らせている真っ只中。


 そんな警戒態勢の中、突如として伊東一家の人間、それもトップたる総長が屋敷の前に姿を見せたのだ。


 若衆たちが浮足立つのも無理はない。「カチコミだ!」と激昂し、各々が武器を手に取った上で、招かれざる客を取り囲む。


 しかし、当の大原は大した抵抗を見せるわけでもなく、一貫して棒立ちの姿勢を続けるのみ。銃口を向けられて「殺すぞ」と脅されても、まったく動ず。荷物で両手が塞がっていたこともあるだろうが、懐中から武器を抜いたりもしない。


 ただ、大原は大きな両眼で屋敷の方をしっかりと見据え、雄叫びのごとく声を張り上げるだけであった。


「出てこい! 村雨耀介! 約束通り、一人で来たぞ! 要求の金も持ってきた! さあ、早く私の娘を返してもらおうか!!」


 この発言から察するに、おそらく両手のジュラルミンケースに入っているのは現金だろう。相当額の札束が詰められているものと思われる。


 問題なのは村雨邸に来た目的。一見すると襲撃の意図は無いようにも考えられるが、三代目伊東一家は中川会でも指折りの武闘派集団とおそれられているだけに、油断は禁物。


 あたかも非武装状態であるかのように見せかけ、こちらの警戒が緩んだタイミングでとんでもない事をしでかすかもしれない。


 そもそも、上述の啖呵も意味が分からない。「娘を返してもらおうか」と奴は叫んだが、これは如何なる意味なのか。


 大原を取り囲んだ村雨組の組員たちも、すっかり対応に困り果てていた。本来ならば立派な“領域侵犯”にあたるので、この場で袋叩きにしてやっても良い事案。


 されども、今回は相手が相手だ。侵入者が巨大組織・中川会の直参を名乗っている以上、迂闊に危害を加えれば大騒動に発展しかねない。それゆえ組員たちは下手な手出しができず、奴を包囲したまま膠着状態になってしまったのだ。


「……」


 微妙な緊迫感の中、1分、2分と時間が流れてゆく。


 庭に出ていた組員のうち、どうにもならない事態を見かねたひとりが食堂にいた村雨組長へ報告に行く。


 慌ただしく駆け込んできた部下に対し、当初は食事の時間を邪魔されたことに不快感を表していた村雨だが、「伊東一家のカチコミ」というフレーズを聞いた瞬間に表情を変え、すぐさま腰を上げる。そして玄関付近を見渡せる2階の窓から状況を観察すると、このように呟いたという。


「あれは日本橋の大原……! されば、何故に単騎ひとりで参った? 兵を率いてはおらぬのか?」


 やはり、村雨も何かの罠である線を疑ったらしい。侵攻の噂が流れる仮想敵組織のトップが自邸に現れたのだ。警戒心を抱くのが普通だろう。


 だが、カチコミにしては随分と様子がおかしい。以前に本庄から聞いたが、三代目伊東一家は構成員200人を数える大所帯だ。そんなところの親分が抗争の際に最前線へ赴くなど考えづらいし、もしそうであったとしても護衛の取り巻きを何人か従えて来るはず。


 この男は強襲を仕掛けてきたわけじゃない――。


 少しでも判断を誤れば、たちまち大戦争になりかねない切迫事案。しばし考え込んだ末、村雨は俺たちにきわめて冷静かつ的確な指示を下した。


「あの者がこれ以上動かぬよう、庭で足止めせよ。ただし、断じて手を出すな。あの者を痛めつけるのは、奴の方からこちらに弾丸タマを放った時。それまで誰も手を出してはならぬ。分かったな?」


 直参構成員の殺害は、直ちに戦争へ直結する。当然の命令だった。


 息巻いていた若衆たちも、組長のお達しとあっては逆らえず。壊れたロボットのごとく「娘を返せ!」と叫び続ける仮想敵の総長に対し、ただただ銃口を向けて威圧するのみ。何とももどかしいが、これが現状で取り得る唯一無二の選択である。


 もどかしいのは、俺もまた同じ。伊東一家はこれから村雨組の脅威になるであろう存在。そこの大将が目の前に、おまけに至極無防備な状態で姿を見せたというのに、首を取れないなんて。


 先制攻撃をやってはいけないロジックは理解できるが、本能的な部分では功名心と戦意の方が明らかに上回っている。それを理性で何とか抑制し、押し止めている有り様だ。


 喧嘩しか取り柄の無い馬鹿な俺にも、我慢のひとつくらいはできる。全ては組長のため。今にも決壊しそうな自制を忠義で補強し、苦しい忍耐をひたすらに続けるしかなかった。


(こりゃあ、しんどいぜ……)


 しかしながら、何もかもが闘争心に支配されていたわけではない。「大原の目的がカチコミでないとすれば、何が為に?」と頭の片隅で考察をする余裕も少しだけあった。


 ふと前方に視線を向ければ、相も変わらず大原は地鳴りのような叫びを上げ続けている。


「条件は全て呑んだぞ!! 娘を返せ!!」


 娘を返せとは。


 一体、どういうことなのだろう。意味はおそらく読んだ字のままと思うが、心当たりが無い。少なくとも、俺自身には伊東一家の総長が村雨組に対し「娘を返せ!!」と鬼の形相で迫る理由が分からなかった。


(娘が俺たちに捕まってると思い込んでる……?)


 経緯の程は不明だが、大原は誤解を抱いていると見るべきか。何らかの事情で自らの元から消えた娘が、村雨組に捕らわれている。あるいは、村雨が娘をさらったと事実誤認をしているか。「金は持ってきた」と言っているあたり、たぶん後者だろう。


 大原は村雨組に娘を誘拐されたと思い込み、解放してもらうべく身代金を持参して横浜を訪れた――。


 それが現時点で導き出せる最大限の考察だった。


 勿論、村雨組が大原の娘を誘拐したとは思っていない。もしかしたら俺が知らないだけで、極秘の作戦が水面下にて行われていたのかもしれないが、仮にそうなら幾ばかりかの兆候があるはず。ここ数日、村雨耀介の屋敷に誰かが監禁されている気配は感じられなかった。


 いちおう村雨組では傘下の闇金で借金漬けになった人間を“奴隷”として扱き使っているが、彼らを閉じ込める建物は市内の別の場所に建っている。ゆえに地下の拷問室を除き、人を監禁できるに足るスペースは屋敷内に存在しないのだ。


 その拷問室も、確か武器商人のタカハシを処刑したのを最後に使われていなかった気がするのだが。


 よって村雨邸にて、女を監禁している事実は無い。俺は屋敷の間取りをひと通り頭に入れているので、自信をもって断言できることだ。


(っていうか、娘ってどういう奴だよ……)


 ひとえに娘と云っても、幼い女の子から絢華のような年頃の少女、成人を迎えた若い女性まで、考えられる年齢は様々で幅広い。


 若い女ならば時折屋敷で見かけることもあるが、いずれもシマの歓楽街で働くキャバ嬢やホステス達。その中に大原の娘とやらがいるとは考えづらい。前述の通り、彼女たちは屋敷に監禁されているのではなく、自分の意思で自由に出入りできる身なのだ。


 三代目伊東一家総長の大原征信という男は、明らかに誤解をしている。どういうわけか村雨組に娘を誘拐されたと思い込み、解放を求めるべく現れた。最早、そうとしか考えられない。


 であるならば、いかに対処するのが正しいか。それは誤解だと説明して帰ってもらうのが常道かつ一番安全だが、あいにく穏やかな説得ができる状況にあらず。庭に立つ大原は見るからに冷静さを失っているではないか。


 大原の憤怒と激情は既に沸点を超えているようで、自分を取り囲む村雨の組員たちと罵詈雑言の応酬を繰り広げていた。


「おいてめぇら、何をボサッとしてやがる! 突っ立ってねぇで、さっさと組長に『娘を返せ』と伝えやがれ! さもねぇと、取り返しがつかねぇことになるぞ!!」


「うるせぇんだよ、この野郎。さっきからギャーギャー騒ぎやがって。中川会の直参だか何だか知らねぇがな、組長は貴様ごときに会うほど暇じゃねぇんだよ。回れ右して、大人しく帰るこったな」


「ふざけるなぁッ!! 俺は村雨に呼び出されたから来たんだ!! 『お前の娘は我が屋敷にて預かっている』と!! だから、てめぇらの要求通り1000万の現ナマ持ってやったんだ!! おい、俺の娘は、恵里はどこだ!! さっさと返しやがれぇぇぇぇぇぇーっ!!」


 いかん。大原は完全に興奮しきっており、今さら尋常が話ができるとは思えない。顔は真っ赤で、両目の辺りには血管が浮き出ている。こうなった人間を落ち着かせる術は無い事を俺は痛いほどに知っている。


 先ほどまでは至って冷静だったのに、一体どうしたのだろう。昭和の任侠映画さながらに古風な名乗りを上げた数分前の姿とは、まったく別人のようになってしまった。


 興奮による激情に駆られている所為で、心拍数が急激に速くなったのか。よく見れば大原は息を切らしている。次第に足元がぐらつき、肩で大きく息をし始めた。


「はあ……はあ……俺の娘を……恵里を返せ……早く返せ……! さもなくば、ここにいる全員……皆殺しにするぞ……!」


 両方の瞳は焦点を失い、みるみるうちに虚ろとなってゆく。「村雨組おれたちがお前の娘を誘拐したとでもいうのか?」と問う組員の声にも、息をゼェゼェと言わせながら「娘を……返せ……!」と言い放つのみ。


 これでは埒が明かない。大原は既に正常な思考と理性を失っている。説得はおろか、普通の会話すらもおぼつかぬ状態である。俺たちの方から何を話しかけても、まともな言葉が返ってくることは無い。それどころか、この状態で火に油を注げば、奴が予想もつかない行動に出る可能性も考えられる。


 判断力に狂いが生じた人間は、恐ろしく厄介だ。かくいう俺自身も興奮で行動の抑制タガが外れることは多々あるので、それがいかに危険であるかは身をもって知っている。


(こりゃ、まずいな……)


 どうにかして落ち着かせなくては。そう思った矢先、周囲にどよめきが起こった。ハッと我に返って前歩を見やると、そこにあったのは案の定の光景だった。


「早く娘を解放しろ……! さもねぇと……こいつをドカンだ……! だから、早く……早く恵里を連れてきやがれぇぇぇぇぇっ!! 」


 両手に提げたジュラルミンケースを下ろし、それまで閉じていた背広の前ボタンを開けていた大原。ジャケットに隠されていた彼の腹部にベルトのように巻かれていたのは、幾つもの茶色い円筒。俺はかつて、それをとあるテレビドラマで見たことがあった。


(あ、あれは……!?)


 爆弾ベルト。フィクションで描かれる立てこもり事件等において、犯人が己の要求を通す最終手段として用いる小道具だ。


 架空の物語の世界では何度となく目にした代物だが、こうして本物をお目にかかるのは勿論初めてだ。形状からして、あれはダイナマイトか。


 無数の束となって巻かれているので、誘爆による破壊力は絶大なものとなる。起爆されようものなら、ここにいる全員は元より屋敷にいる村雨組長、さらにはこの山手町の周辺区域もろとも粉々に吹き飛んでしまう。


 俺の背筋を寒気が走り抜ける。


 爆発だけは、何としても防がなくては。だが、間の悪いことに、ベルトの起爆装置とおぼしき物体は大原の手に握られていた。おまけに、その黒いスイッチには既に親指が掛けられているではないか。


「お、お前!? 何しやがる!?」


「ここを押せば……押せば、その瞬間、何もかもが木っ端微塵だ。そいつが嫌なら、早く恵里を連れてこい……! 1000万の現金と交換だ……!」


「落ち着け! 早まるんじゃねぇ!」


「うるさい! 俺はよぉ……恵里のいない世界に未練なんざありゃしねぇんだ!! お前らに恵里を殺されるくらいなら、ここで全てを終わらせてやるよ!!」


 必死で宥める組員を叫びで振り払い、大原はスイッチに掛けた親指を押し込もうとする。まずい。この男は本気だ。そう思った瞬間、俺の身体は自然と動いていた。


「ちょっと待ってくれ!!」


 直感的な行動だった。辺りはしんと静まり返る。


 自分でも少し驚くほどの声を出してしまったせいだろうか。大原は勿論、そこに居た誰もが刹那的に言葉を失う。それまで玄関の隅で沈黙を保っていた俺が突然に言葉を発したため、周囲の組員たちがギョッとした眼差しでこちらを見る。


「……」


 少し恥ずかしさもあったが、そんなことを気にしている場合ではない。若衆の群れをかき分けるように、俺は必死で前へ前へと進み出て、大原の前に立った。


「……なんだ。お前は」


「俺は、何つーか、その、たまたまここにいた“部外者”みてぇなモンだ。あんた、たしか大原さんだったな。ちょっと、話を聞かせてくれないか? あんたの娘を村雨組が攫ったって言ってだけど、そいつはどういうことなんだ?」


「はあ!? さっきから何度も言っているだろう!! 同じ説明を2度もさせるな!!」


「いやあ、悪い悪い。俺、さっきまで居なかったもんでよ。事情を詳しく聞いてねぇんだわ。だから、もう1回聞かせてくれ。頼む」


 ここでクールダウンさせなければ、全てが終わる。無い知恵を絞って必死で言葉を紡ぎ出しながら、どうにか伊東一家総長との対話を試みた俺。


 真正面から「ふざけるな! そもそも何故に“部外者”が出てくる!?」と怒声を浴びせられたが、大原の指は起爆スイッチから離れている。ひとまずは上手くいった。このまま適当な会話で奴の意識を反らし、隙を見て装置を奪い取りたい。


 この場において、敢えて“部外者”を名乗ったのにはちゃんとした理由もある。敵意をむき出しに睨みつける大原に、俺は冷静に語りかけた。


「そりゃあ、もちろん。“部外者”だからだよ。俺は村雨の組員じゃねぇ。だからこそ、何つーか、どっちつかずの立場であんたと話ができると思うんだ。なあ、その爆弾をドカンとやる前に聞かせてくれないか? 何があったのか」


「黙れ!! 見え透いた嘘をつくな!! どうせお前も村雨の人間なんだろ! 俺をここに1人で呼び出して騙し討ちにする、最初からそういう腹積もりだな! もういい、すべてを灰にしてやる!」


「ば、爆発させたらあんたも終わりだぜ!? その、恵里とかいう娘さんにだって二度と会えなくなる。あんただって、それは嫌だろ!? まだ娘さんが殺されたって決まったわけでもねぇのに」


「ううっ……!?」


 俺の言葉に、大原は一瞬だけたじろいだ。その動揺の隙に起爆装置を奪うべく体術を仕掛けようとも思ったが、未だ装置は大原の右手にしっかりと握られている。蹴りを入れて強引に手から離そうにも、勢い余ってスイッチが押されてしまったらまずい。


 こうした局面においては、一か八かの賭けに出るよりも無難な道を選んだ方が賢明。短期的な決着を諦めた俺は、引き続き対話を試みることにした。


「なあ、大原さん。ちょっと聞きたいんだけど。あんたの娘さんって、今年でいくつになるんだ?っけ」


「10歳だ! それがどうしたというんだ!」


「信じて貰えねぇかもしれないが、俺はこの屋敷に下働きで住まわせてもらっててよ。けっこう長いこと住んでるけど、村雨邸ここに10歳くらいの女の子が居るのは見たことねぇなあ……でも、あんたは屋敷の中に娘が閉じ込められてると思ってる。そいつは誰かから聞いた情報なのか?」


「聞いたも何も、貴様らが電話を寄越してきたんだろうが!! この屋敷に娘を預かっていると!! 今さらとぼけた事を言うなぁッ!!」


 またしても激昂されてしまったが、興味深い情報が聞けた。大原に「ああ。すまん」と軽く詫びを入れつつ、俺は引き出した情報を瞬く間に整理する。


(村雨組が電話を入れた……?)


 これは首を傾げるしかなかった。娘が村雨組に監禁されているという情報を大原に伝えたのは、他でもない村雨組だというのだ。


 あまりに信じ難いのだが、大原の表情は真剣そのもの。彼が冗談の類を述べているとは思えない。


 だが、俺としてはまったく心当たりが無い。伊東一家の動きを何とか無力化できないものか、たしかに皆々で頭を悩ませてはいた。されども総長の娘を拉致して人質に取るなどという話は一度も聞こえてこなかった。第一に抗争のための人質ならば、わざわざ相手方に身代金を要求したりはしないだろう。


 真偽の程を判断しようにも、今のままでは情報が足りなすぎる。ここは一度、あらゆる先入観を捨ててフラットな見地に立たなくては。俺は更なる探りを入れようと試みた。


「その電話、いつ頃にかかってきたんだ?」


「先週の水曜日だッ!! とぼけるのもいい加減にしやがれ!! てめぇらの親分が直接俺の携帯にかけてきたんだろうがぁ!!」


「えっ? うちの組長が?」


「知らねぇとは言わせねぇぞ!! あれは忘れもしねぇ、憎たらしい声だった!! てめぇらがどんだけシラばっくれようとなぁ、俺の耳ははっきりと覚えてんだよッ!!」


 村雨組長がじかに連絡を入れてきたと語る大原。電話の主が、自らの名前を「村雨耀介」と名乗ったとの話である。


 その人物は大原総長の一人娘、恵里を誘拐したと宣言。無事に返してほしければ身代金として1000万円を払うよう、大原に脅しをかけてきたという。


(いや、まさか。そんなことは……)


 村雨耀介の名を騙った、別人の犯行である。瞬く間にそう直感した。親しい相手だからと庇うわけではないが、そもそも我らが組長に営利誘拐をはたらく理由が無い。


 いまの村雨組はカネに困っていない。大鷲会を壊滅に追いやって横浜全土を完全掌握したことで新たなシノギが次々と転がり込み、億単位の利益さえも見込める状況にあったのだ。そんな中で、わざわざ仮想敵の娘を身代金目的で誘拐するリスクを冒すとは考えにくい。


 総長の娘が攫われれば、伊東一家は確実に激昂し横浜に攻め込んでくる。ただでさえヒョンムルや狗魔との抗争で人手が足りないのに、伊東一家とも争う展開になろうものなら状況はさらに悪化。どんどん苦しくなってゆく。


 当時の村雨組にとって、1000万円などはビジネスのやり方次第で容易に作り出せる額。そんな“はした金”を手に入れるために、手強い仮想敵の尻尾を敢えて踏むような真似に出るとは到底思えなかった。


 さて、この見解を大原にどう伝えるか。


 先ほどより若干落ち着いてきたとはいえ、彼の怒りのボルテージ自体は未だ昂ったまま。迂闊に刺激すれば大原は再び沸騰し、爆弾ベルトの起爆スイッチに押してしまうだろう。


 何とかして、激情に燃えた大原を宥めなくては。こういった時に巧みな話術でも使えれば上手く事が運ぶのだろうが、残念ながら俺にそのような心得は無い。ひたすら話を引き延ばして時間を稼ぎ、相手の自然鎮火を待つのが精一杯。


(ひとまず、詳しい経緯でも聞いてみるか……)


 あらゆる未来が懸かった正念場。俺は意を決して、憎しみに狂った目でこちらを睨みつける大原に問いを投げようとした。


 だが、ちょうどその時。


「おい! さっきから黙ってりゃあ、適当な事ばっか言いやがって! 中川の総長さんよぉ。あんた、村雨組うちを舐めてんじゃねぇのか? ああ?」


 背後から、ひどく挑発的な声が聞こえた。


「……どういう意味だ」


 瞳を大きく開き、声の聞こえた方に視線を移す大原総長。俺がハッとして後ろを振り返ると、発言の主はすぐに分かった。その男は白鞘の日本刀を抜き放ち、刃先を水平に順手持ちで構えている。


 沖野だ。


(うわっ、余計な事を……!?)


 恐ろしく嫌な予感しかしない。背筋には稲妻のような寒気が走る。そんな俺をよそに、刀をちらつかせながら沖野は大原に言った。


「なあ、さっきあんた。俺らに自分とこの娘さんを拉致られたって言ってたけど。証拠でもあんのか? うちの組長を犯人呼ばわりするからには、それなりの証拠が揃ってんだろうなあ? おお? 見せてみろや。今ここで」


「ああ!? さっきも言っただろうがぁ!! てめぇらの親分が電話を寄越してきたんだよ!! 俺の娘を預かったと!! だから、俺は恵里を貸してもらいに来た!! それだけの話だッ!!」


「物証を出せって言ってんだよ! うちを犯人呼ばわりするだけの、具体的な物証を! あんたの話なんかアテになるかよ。少しは考えてから物喋れや。ヘタレ総長」


「この野郎、もういっぺん言ってみろ!!」


 だいぶ屈辱的な煽りを受け、大音声を張り上げた大原総長。目元には再び血管が浮き上がり、起爆装置を握る手にも心なしか力が込められているように見える。


(まずい!)


 どうにか興奮を鎮めようと思っていた時に、何という横槍だろうか。これではまるで逆効果。逆効果どころか、俺の説得は振り出しに戻り、大原は先ほどよりも一段と怒り狂ってしまったではないか。


 沖野が思慮の浅い単細胞な男であることは知っていたが、よもやこの局面で余計な手出しをしてくるとは。嘉瀬といい、里中といい、村雨組にはおかしな幹部が多いようだ。


 思わず舌打ちする俺を尻目に、沖野は大原に次なる啖呵を切っていった。


「回れ右して帰った方が身のためだぜ? 大原さん。村雨組うちが武闘派中の武闘派だってことは、あんたも知ってんだろ? 中川の直参だろうが関係ねぇ。抗争になりゃあ、日本橋が全て焼け落ちるまで戦ってやるよ。村雨の代紋を甘く見てもらっちゃ困る」


「その必要は無い!! てめぇらが恵里を返さねぇってんなら、ここで爆弾をドカンとやって終わりだ!! 最初からその覚悟で来てんだよ!!」


「へぇ~! 覚悟ねぇ~! なら、さっさとやれや! その爆弾を起爆させてみやがれ! 娘のいない世界に未練はねぇんだろ? ああ? やれよ! やってみせろよ! 出来るもんなら、なぁ!」


 刀を大原に向けたまま、高笑いする沖野。その言動に対し、相手の怒りが更に強まったのは言うまでもない。キリキリと音が聞こえるほどの強さで歯噛みし、心の中で地団駄を踏んでいるのが分かる。


 そんな伊東一家総長の目を見て、何を思ったのか。左手で握る刀を上段に構え直し、沖野は言い放った。


「どうした? 押さないのか? ったく、情けねぇ男だな! 所詮は口だけかよ! あんたの言う、覚悟とやらは何処へ行ったんだ? そんなヘタレぶりで、よくもまあ総長なんかが務まるもんだ! 呆れててモノも言えないぜ!」


貴様きさまァ! この俺を侮辱するかぁーっ!!」


「おおっ! いいねぇ、その顔! その表情! おれのことが憎いなら、スイッチを押してもらって構わねぇぜ? けどなあ! その前に俺があんたを叩き斬る。あんたの指が起爆装置へ伸びる前に、その不細工な顔を地面に落としてやるよ」


「何だと!? 笑わせるな!! そんな距離から、どうやって俺を斬るってんだ!!」


 すると、沖野がニヤリと笑った。


「斬れるんだよなあ、それが! 1秒もありゃあ、容易いぜ! 俺は橿原かしはら鬼神きしんりゅうの免許皆伝者だ。これくらいの踏み込みなんざ朝飯前よ。指がスイッチにかかる、その前にあんたの首を斬り落としてやる」


 見たところ数メートルは離れているであろう直線距離を一気に詰め、大原に斬撃を叩き込んでやるとしたり顔で豪語する若頭補佐。橿原鬼神流なる武術の流派は聞いた事が無く、ましてや沖野一誠の剣の腕前など知る由も無い。


 そんな人間離れしたことができるのかと俺は耳を疑った。以前に組員たちが「沖野の兄貴は刀の達人」と話している所に遭遇した事があるので、あながち無理でもないのかもしれない。


 しかしながら、ここで大原を殺してはいけない。すっかり忘れかけていたが、彼は中川会の直参。横浜で大原が命を落とすようなことがあれば、それは中川会全体を敵に回した戦争の勃発を意味する。


 沖野の剣の技が如何ほどかなど、どうでも良い。爆発を防いだところで、大原が死んでは意味が無いのだ。兎にも角にも、この場を収めなくては。


 ふと我に返って前方を見やると、既に若頭補佐は攻撃の準備が整っていた。両脚を大きく開き、今にも踏み込みをかけようとする体勢。


(これはヤバい!)


 すぐさま制止に動こうとした俺だったが、周囲がそれを許してはくれなかった。本当に「殺す」気迫で刀を構えた沖野の姿に気持ちが昂ったのか、その場に居た組員たちがワーワーと一斉に騒ぎ出したのだ。


「おおっ! 流石です、沖野の兄貴!」


「こんな奴、さっさと殺しちゃいましょう!」


「俺たち村雨組に喧嘩を売った罰だ! 中川会の犬め、あの世でたっぷりと後悔しやがれ!」


「沖野の兄貴、こんな奴は首を落とすだけじゃあ生ぬるい! 八つ裂きにしちゃってくださいよ!」


 歓声ともいうべき弟分たちの反応を背に、沖野は満足気に微笑みを浮かべる。そして身震いする大原に対し、勝ち誇ったように言葉を浴びせた。


「遺言があるなら聞いとくぜ? ヘタレ総長さん。その爆弾が本物にせよ、おもちゃにせよ、あんたは死ぬ運命だ。あんたは村雨のシマに土足で踏み入った挙句、何の証拠も無しにうちの組長を誘拐犯呼ばわりしたんだ。生きて帰れるわけねぇよなあ? ああ?」


 これを受けた大原は、もはや言葉を発さなかった。憤怒と憎悪を全身に溜め込み過ぎて、もう返す台詞を放つ余力さえも無くなっていたのだろう。


 何かしら言い返す代わりに、大原が見せた行動は実にシンプルなものだった。真っ赤に血走った目で俺たちを睨みながら、一度は離していた起爆装置のボタンへと、再び指を伸ばす。


 その動作は俺の目には不思議とゆっくりで、かつ不気味なスローモーション映像のごとく移った。


「……恵里、すまん。馬鹿な父を許してくれ」


 聞こえるか聞こえないかくらいの、虚ろな声で呟いた大原。その瞬間、沖野は猛然と斬りかかるべく片脚を上げた。


(ま、まずい……!)


 このままでは全てが終わる。爆弾が作動するのが先か、あるいは沖野の剣が大原を仕留める方が先か。どちらになったとて、村雨組の破滅という結果は同じこと。


 なりふり構ってなど、いられない。思考が追い付くよりも早く、俺は行動に出る。


 気づいた時には、体の奥底から叫んでいた。


「ちょっと待った!!!!」


 自分でも驚愕するくらいの大声が出てしまったのは、もはや語るに及ばず。声帯が瞬く間に枯れて喉を痛めてしまうことなどは気にも留めず、尋常ならぬ声量で大音声を放っていた。


 先ほどの伊東一家総長の激情に任せた叫びよりも、村雨組若頭補佐の計算高い煽り文句よりも、はるかに大きく響き渡った声。


 その場に居る誰もが、一瞬で静まり返った。


「……」


 案の定、喉がジンジンと痛む。けれども効果覿面。大原は起爆装置を押していないし、沖野は斬撃を仕掛けていない。何とか間に合ったようだ。


(いけねぇ。マジで喉が痛いわ……)


 村雨の若衆たちがぽかんとする中、俺は再び大原の前に歩み出る。声の掠れは2回ほどの咳払いでどうにか落ち着いた。あとは、この静寂を存分に活かすのみ。


 軽く呼吸を整えた後、俺は言った。


「大原さん。早まっちゃ駄目だって。本当に。娘と永遠に会えなくなるぞ? まだ、死んだと決まったわけじゃないのに。あんただって、諦めてるわけじゃないだろ?」


 すると、大原は肩で息を切らしながら低い声で答える。


「無論だ……諦めてなんかはいねぇ。諦められるものか……! 俺はあいつの、恵里の親だ……何があろうと、絶対に恵里を助け出す……絶対にな」


 良かった。短いとはいえ静寂の間を挟んだ事で我に返ったか、少しずつ落ち着きを取り戻しているようである。


「そいつを聞いて安心したぜ。改めて聞くけど、村雨組が自分の娘を誘拐したと。あんたはそう思ってるわけだな?」


「ああ……テメェんとこの親分が直接電話をかけてきやがったんだからな。あれは間違いねぇ……村雨耀介だ……!!」


「うちの組長が、直接電話を?」


「そうだ!!!!」


 今度は大原の声が響き渡った。先ほどの俺より少し小さいくらいの、これまた凄まじい迫力だった。


 わざわざ、たじろいだりはしない。代わりに俺の頭にはひとつの確信がよぎる。要は「大原征信は偽りを述べていない」ということ。奴は己の体験したままを語っている。瞳の色が、それをはっきりと証明していた。


 真相のところは分からない。たぶん、違うと思う。それでも大原は電話の主が横浜の残虐魔王だと信じている。いや、この場合は「思い込んでいる」と書いた方が適当か。


 だとするなら、俺が明らかにすべきことはひとつ。何故、大原はそんな思い込みを抱くに至ったか。理由が分かれば、自ずと真相も見えてくるはずだ。


 俺は少し、工夫を凝らした質問を投げた。


「大原さん。ちょっと思い出してほしいんだけど。その電話がかかってきたのって、具体的にいつ頃だ? 日付と詳しい時間を教えてくれ」


「……一昨日おととい。夜の10時だ」


 一昨日といえばといえば25日。その日はたしか、村雨組長はずっと屋敷の中に居たはず。煌王会総本部で起きたクーデターへの対処方針決定に頭を悩ませ、当初の外出の予定を全て延期にしていたらしいのだ。


 その時間に組長は電話機を取っていない、と所謂“アリバイ”を主張しようと思ったものの、当てが外れてしまった。俺は当該時刻における村雨の行動を知らない。おそらくは組長室にいたと思うが、何をしていたかまでは把握できていないのだ。


(だったら……)


 村雨所有の電話機は現在故障中なので、外部への電話を行うには1階の連絡室まで降りる必要がある。よって、ちょうどその時間帯に連絡室で村雨の姿を見た者はいないか、組員たちに問うてみるべきか。


 しかし、俺の当てはまたしても外れた。


「おい! さっきから適当な事ばっか言いやがって! 与太こくのもいい加減にしろや! 村雨組うちが何したってのか!? ああ!?」


「村雨の代紋の名を軽々しく口にしやがって! どこの誰だろうと容赦しねぇぞ、この野郎!!」


「伊東一家は村雨組と戦争がしてぇのか? そんなにお望みなら、やってやろうじゃねぇか! まずは大原、手始めにお前を殺す!!」


「麻木、テメェは敵の肩を持つのか!? どこまでも疫病神なガキだぜ、テメェは!! 他所よその代紋ぶら下げてシマへ土足で踏み入った奴の話を聞く義理は無いんだよ! さっさとそのオッサンを殺しやがれ!!」


 せっかく静かになったと思っていたのに、組員たちが再び騒ぎ出したのだ。俺が大原との間に割って入ったのが相当気に食わないらしい。「殺せ! 殺せ!」と怒気にまみれた大合唱が巻き起こる始末。


 そんな彼らの様子を見て、沖野はほくそ笑んだ。


「おうおう、皆の言う通りだ。この大原さんとやらは村雨組の領地を侵したんだ。それも中川会直参伊東一家っていう敵の金バッジをぶら下げてよぉ! 生きて帰しちゃ、村雨組の看板に傷がつくってもんだ! 皆、そう思うよなぁ!?」


 沖野は相変わらず上段斬りの構えを取り続けており、今にも大原へ飛び掛かろうという姿勢を崩していない。どうやら、この男にとって主君からの言い付けなどは二の次らしい。好きに暴れられれば、喧嘩が出来ればそれで良いという認識か。


 実にどうしようもない戦闘中毒者だ。だが、そんな若頭補佐の煽り文句を聞くや否や、組員たちもみるみるうちに沸き立ってゆく。


 まずい。このままでは抑制のタガが壊れ、連中は大原を取り囲んで袋叩きにしてしまうだろう。奴の腰に巻かれた爆弾がはずみで起爆する恐れだってある。


 後を引く喉の痛みゆえに少し躊躇われたが、やむを得ない。俺は意を決して再び腹に力を入れた。


「黙ってろ!!!!」


 持ち得る全力を捻り出した大音声による一喝。自分でも畏縮するほどの迫力が伴われたことは言うまでも無く、騒いでいた奴らは瞬く間に静まり返る。


「……」


 ただ、沖野だけは違った。


「何だよ、お前。バカみてぇに真面目なツラしやがって。どこぞのセン公かと見間違えるぜ」


 大声を張り上げた俺を小馬鹿にして、鼻で笑ってくる若頭補佐。別にどうとでも言ってくれて構わない。俺はあくまでも、己の考えを貫くだけだ。


「こいつは中川会の直参だ。殺せば中川全体を敵にまわしちまう。あんたもそれくらいは分かるだろ、沖野さんよ」


「へっ! 敵にまわすから何だってんだよ。戦争に勝てば良いだけの話だ。伊東だろうが、中川だろうが、俺がまとめて輪切りにしてやるぜ」


「そういう問題じゃねぇだろ」


「だったらどういう問題なんだよ。麻木、結局はお前、大原を殺して中川と戦争になんのが怖いだけだろ? こないだヒョンムルの奴らを単騎で血祭りに上げた割にはずいぶんと度胸タマが小せぇもんだなあ!」


 いささか屈辱的な言葉を受けたが大して気に留めず、俺はきっぱりと言った。


「このオッサンは殺しちゃいけないって、さっき組長も言ってただろ。あんたも聞いたはずだ」


「組長の命令なら、お前さんは無条件に従うのかい? そいつが極道の理に反することでも?」


「ああ。もちろん。どんなことだって従うしかない。そいつがニンキョウセイシンってやつだからよ」


「何が任侠精神だ……大した修羅場もくぐってねぇくせに、デカい口叩いてんじゃねぇぞ! 青臭いガキがァッ!!」


 俺の台詞がひどく気に入らなかったのか、絵に描いたような激昂を見せた沖野。怒声を張り上げた後、奴は両手に握った刀を大きく振り下ろす。


 決して視認できない、恐ろしく速い縦の一閃。気づいた時には、刃先が俺のすぐ目の前まで到達していた。


「……寸止めかよ」


「ビビッて瞼を閉じなかったことは褒めてやるよ、麻木涼平。今すぐ、そこを退け! さもねぇと、大原の首を落とす前にテメェの両目を刀でえぐり出すことになるぜ!」


「そうかい。なら、さっさとやれよ。脳天から真っ二つにされようが、眼球めだまを潰されようが、俺はここを退く気はねぇ。大原総長を殺してぇなら、まずは俺を殺るこったな。キチガイ野郎」


「言ってくれるじゃねぇか、クソガキ。橿原鬼神流の免許皆伝者を舐めて貰っちゃ困る。そっちがその気なら、やってやろうじゃねぇか!」


 刀の柄を握る沖野の手に力が入ったのか、眉間まであと1~3ミリというところで迫った刃先が妖しく光る。


 無論、俺はまったく動じず。このような恫喝で心が揺らぐほど、脆い精神構造ではないのだ。たとえ沖野が脅し文句を実行に移し、奴の刀の餌食になり果てようとも、俺は吐いた言葉を取り消したりはしない。


 己の命を引き換えにしてでも、ここで大原を殺させたりはしない。そんな決意を表すかの如く、俺は無言で沖野を睨み続けた。


「ほら、さっさと退けよ……退けって言ってんだ!! このヤクザもどきが!!」


 そんな揺さぶりが何になるのか。俺には一切の怯みも無かった。足を竦ませたり、背筋を震わせたりもしない。沖野の前に仁王立ちする俺の両脚はしっかりと地面に着いて体を支え、背筋はぴんと伸ばしたまま微動だにしない。


 ただ、俺は真正面を向いて沖野と対峙していた。守ると決めた信念を守り、己を貫き通すがごとく。


「テメェ、そんなに死に急ぐか!? ああ!?」


「……」


「そこを退かねえならぶった斬るって言ってんだよ!! さっさと退きやがれ!! 本当に殺すぞ!!」


「……」


 もはや奴に対しては言葉など要らない。何を言われようとも、無言の気迫で報いるのみ。沖野に静かな殺気を浴びせながら、俺は心の中で軽々と呟いていたのだった。


(自分を曲げてでも長生きしたかねぇよ……)


 だが、そんな時。不意に背後から叫びが上がる。鼓膜を強かに突き刺すような、耳障りな声だった。


「お前たち、何の茶番をやってるんだ!!」


 びくっとして振り返ると、そこには再び顔を真っ赤にした伊東一家総長の姿があった。思わず背筋に悪寒が走る。大原が声を張り上げたからではない。奴の右手の親指が、またしても起爆スイッチに伸びていたからだ。


 しまった。沖野との戦いに夢中になるあまり、ここに大原という未だ厄介な存在がいることを忘れていた。


 大原の指はスイッチの表面に触れている。そのまま押し込めばリモート式の装置が作動、腰に巻かれた爆弾が瞬く間に爆発しそうである。これはまずい。沖野より、こちらの方がはるかに危険ではないか。どうにか、止めなくては。


 俺は懸命に言葉を探し、大原へと放った。


「ま、待て。待ってくれ。大原さん、マジで早まっちゃ駄目だ。まだ話を聞いてる途中だったろ」


「途中で投げ出したのはそっちだ! お前らの魂胆はよく分かったぜ。要はお前ら、恵里を殺しちまったんだろ。返す人質がいねぇから、そうやって見え透いた茶番劇で、俺の目を誤魔化そうと……」


「そうじゃない! っていうか、最初からあんたの娘さんはここにゃあ居ねぇんだよ! それを説明してたところじゃねぇか!」


「ここには居ない? なら、他の場所へ移したってことか? どこへ行ったんだ! 俺の娘は、恵里はどこへやった!? 答えろ!!!!」


 答えようにも、大原の娘を誘拐したのは村雨組の仕業ではないというのに。その思い込みを何とかして解こうと思ったが、結局は話がこじれてしまった。実に歯痒いというか、もどかしいものである。


「いや、だから、あんたの娘さんは」


「そうやって言葉に詰まるのが何よりの証拠! やっぱりお前たちが犯人だったんだな! 恵里を攫い、慰み者にした末に殺した! 許さねぇ! 死んでも許さねぇぞぉぉぉーっ!!!!」


 だから、違うというのに。これでは一向に分かってもらえる気がしない。元より沸点を超えて冷静さを失っている相手を説得することが、至難の業なのだが。一体、どうすれば良いのだろう。


(ここは、やっぱり……!)


 できるだけその手段は用いたくないと思っていたが、もはや俺の手だけには負えないので、止むを得ない。ため息をつきたくなる気持ちをグッと堪えつつ、俺はひとつの策に打って出た。


「……わかったよ。なら、組長を呼んでくる」


 その言葉に周囲がどよめく。当然の反応である。大原もまた、若干に困惑した様子であった。


「ああ!?」


「うちの組長に出てきてもらうって言ったんだよ。その方が、あんたも良いだろ。直接話を聞けるんだからよ」


 この件の“当事者”たる村雨耀介にお出ましいただき、彼自身の口から潔白を証明してもらう。いまの知識でたとえるならば、まさに証人の出廷。実に単純かつ分かりやすいやり方だ。


「おい、麻木。何を考えてる!? この程度の些末事に組長のお手を煩わせるつもりか!? こんな野郎、今すぐ斬っちまえば済む話だ。お呼びする必要など無い」


「黙ってろ」


 沖野の言いたいことは分かる。けれども、この場を穏便に乗り切るためにはそうするしかない。「村雨組長から身代金要求の電話を受けた」と大原が主張する以上、村雨に対して直に真否を正す必要もあるのだ。


 常人をはるかに凌駕する空気感を纏う残虐魔王が登場すれば、さすがの大原総長とて畏縮するかもしれない。そんな期待感も、あることにはあったのだが。


 難色を示した沖野を一蹴し、俺は大原に向き直った。


「うちの組長が、あんたのところに『娘を攫った』と電話をかけた。そいつは本当なんだな? 大原さんよ」


「ああ! さっきからそう言っているだろう! あれは忘れもしない、憎たらしい言い方だったぜ! 『早くカネを持って来ねぇと危ないぜ。お前の娘が俺の部下に“あんなこと”や“こんなこと”をされるかもしれねぇ』と……! この俺を見くびりやがって! 若造の癖に!」


「そ、そうか。なるほどな。よく分かったよ。まあ、待ってろや。今すぐ組長を連れて来てやるから。それまでは大人しくしといてくれよ。頼むわ」


 この会話を経て、俺は完全に確信した。


(例の電話の主は村雨組長じゃない……!)


 大原が受けたという脅迫の句に、残虐魔王の印象をまったく感じないのだ。第一に口調が全然違う。村雨耀介がヤクザにありがちな、べらんめえ言葉を使わないのは、俺も既知の通り。


 どういうわけか時代錯誤にも程がある武家言葉を日常的に使い続ける村雨耀介が、重要な電話とはいえ、急にチンピラ風になるとは思い難い。目上の相手である勢都子夫人の前ですら、戦国武将さながらに振る舞ったくらいだ。きっとどんな場面でも普段の己を通すことと思う。


『早くカネを持って来ねぇと危ないぜ。お前の娘が俺の部下に“あんなこと”や“こんなこと”をされるかもしれねぇぜ』


 この台詞を村雨組長の口調で言い換えるなら、こんな具合に修正を施せば良かろうか。


『早うにカネを持って来ねば、貴殿のご息女の御身が危ぶまれるぞ。我が郎党どもの手籠めとなるやもしれぬ』


 変換の模範解答こそ分からないが、所々に古風な単語が並んでしまうはず。何故にああいう喋り方なのかは未だに釈然としないものの、俺はこの数か月で村雨耀介という男についてだいぶ理解が進んでいた。


 さて、話を戻そう。伊東一家総長の娘を誘拐した犯人が村雨組長でないことを悟った俺だが、当の大原は依然として思い込みを続けている。

 今のままでは、どんなに懇々と説明を試みたところで徒労に終わってしまう。やはり、ここは本人にご登場いただくのが確実だ。村雨の生の声を聞けば、さすがの大原も別人であると気付くだろう。


(この場を乗り切るには、これしかない……!)


 あとは村雨にどうやって話を通すか。俺がすぐさま頭をまわし始めると、大原は言った。


「おい! 連れて来るなら、さっさとしろ 5分だけ待ってやる。それまでに村雨をここに呼んで来なけりゃ、そん時はこの爆弾を起爆させる! 言っとくが、俺に死の恐怖なんてものは無いぞ! 恵里の居ない世界に未練なんざありゃしないんだ!」


 5分とは。何をもってその長さを選んだかは不明だが、タイムリミットしてはまあまあである。屋敷の中を走り、組長を説得して戻ってくるには少し足りない気もするが、そこは己の脚力と話術を信じるしかない。


「……わかったよ」


 再び起爆スイッチを握りしめた大原に皆がどよめく中、俺は組員たちの波をかき分けて屋内へ戻った。


 認識が正しければ、組長は1階つきあたりの食堂にてランチの最中であるはず。俺の居ぬ間に沖野が大原を殺害したりしないことを祈りながら食堂を目指し、ひたすらに足を動かした。


(間に合ってくれ……!)


 俺がダイニングルームの大広間へ駆け込んだ時、奥の壁掛け時計の指し示す時刻は午後1時50分。「カチコミだ!」との第一報から、50分も経過してしまったことに俺は少し驚いた。


「どうした、涼平。左様に血相を変えおって」


 驚きの目をしていたのは、テーブルに着く村雨組長もまた同じ。彼の食事は既に終わり、食後の余韻のひと時を楽しんでいたようである。卓上には愛飲の中国茶の他、火の付いたタバコまで見えるではないか。


(ったく、呑気なもんだぜ!)


 おっといけない。今は私情の苛立ちを覚えている時に非ず。一刻も早く残虐魔王を庭へ連れて行き、大原総長の誤解をといて奴の激昂を鎮めてやらねば。


「……組長。ちょっと、厄介なことになって」


「何だ?」


 深呼吸を挟んだ後、俺は今までの流れの全てを説明する。できるだけ簡潔に且つ順を追って話したため、理解は思いのほか早い。大陸輸入のタバコに火を付け、深々と吸い込んだ後、村雨耀介は苦々しい面持ちで呟いた。


「あの者は、まだるのか」


 組長の認識では、大原総長は既に追い返されたものと思っていたらしい。「娘を返せ」という謎の主張もさることながら、奴が腰に爆弾付きのベルトを巻いているためにこちら側の対応が難しいことも、村雨にとっては些か想定外であったようだ。


 横に座った菊川が、問いかける。


「麻木クンの話を聞く限りじゃ、そうみたいだね。今でこそ落ち着いてるみたいだけど、いつ起爆スイッチを押すか分からない。そうなる前に、殺しちゃった方が良いんじゃない?」


「戯けたことを申すでない。左様な事をすれば、中川との戦が避けられなくなるではないか」


「なっ!? そ、それじゃあ、あのオッサンは伊東一家の総長!? まさかの本人登場ってわけ!?」


「ああ。何度も申したであろう。間違いない。あれは紛れもなく、大原征信。伊東一家の三代目ぞ。総長御自らのご出陣とは、とんだ面倒を持ち込んでくれたものだ」


 深いため息をついた村雨。俺たちの取るべき道がひとつしかないことは、彼もすぐに察したようだ。


「ああ。止むを得まい。私が行って、直に話をするとしよう。さすれば、あの者とて納得するのであろう」


「あ、ああ! 頼むぜ! あんたに来てもらうしか、マジで方法は無いんだ!」


「いささか面倒だがな」


 まさに渋々といった様子で立ち上がり、村雨は廊下へと歩き出す。優雅なティータイムの途中だっただろうに、彼が重い腰を上げてくれたことには感謝するしかない。


 俺も急いで、組長の後ろをついてゆく。慌てた様子で菊川もついてきた。


「ちょっと麻木クン、何を考えてるんだ!? 相手は腰に爆弾を巻いてるんだろ!? そんな危ない奴に組長を近づけるなんて……!?」


「分かってるさ。普通なら有り得ないってことくらいは。でも、こうしなきゃ収まらねぇんだ」


 大原が腰に巻いてきた爆弾はおそらくダイナマイト。起爆すれば、被害は庭だけに留まらない。村雨邸全体はおろか近隣の一般住宅を含めた広大な範囲に爆風が及び、山手町が悉く灰燼に帰してしまう。


「……そうか。そうだよね。何処へ逃げても、無駄だってことか。嫌だなあ、こういう状況は。選択肢が、最初から限定されてるなんて」


「俺も同感だぜ」


 ひどく当惑していた菊川も、やがては状況を呑み込み、受け入れたようである。若頭の理解が早くて助かった。


 そんな小声で繰り広げた俺たちの会話が、聞こえていたのか。もう少しで玄関という所で、村雨は吐き捨てるように言い放つ。


「我が館をおかし、そのうえ私にかような労を強いるとは。大原め。決して許さぬ!」


 組長の右手には拳銃が握られていた。


 領域侵犯をはたらいたとはいえ、相手は中川会の直参。いたずらに危害を加えてはいけない点は村雨とて重々承知していたはず。それでも銃を取り出し、実弾を込めねば気が済まなかったのだろう。屋敷へ侵入し、せっかくの食事に水を差された怒りを鎮めるためには。


 また、大原に手を出してはいけないという事実もまた、残虐魔王の苛立ちを誘引したものと思われる。敵対者が目の前に立っているのに、撃つに撃てない。ヤクザであれば、もどかしさに歯噛みして当然だ。


「……では、参るぞ。私が相手をするゆえ、お前たちの助勢は無用。一歩下がって見ておれ。ゆめゆめ分かっておると思うが、手を出してはならぬぞ。良いな?」


「ああ。もちろん」


 俺と菊川に釘を刺した後、村雨は勢いよく玄関の扉を開ける。そして、高らかに声を放ったのだった。


「遅うなって申し訳ない。我こそが村雨耀介である!そちらは中川会が直参、三代目伊東一家を仕切られる大原征信総長とお見受け致した! 私に用があるとは何のことか? なんなりとお聞きしようではないか!」


「なっ!? てめぇが村雨か! 俺の娘を何処へやったんだ!? 恵里を返せ!! 返せぇぇぇーっ!!」


 さっそく怒声で応じた大原。彼が沖野に斬殺されていなかった点には安堵を覚えたが、状況自体は何ら進展していない。


 5分の猶予を挟んでも、大原の興奮は収まっていないようである。俺が目を離した間に何があったのか、奴の顔はますます赤くなっている。おそらくは沖野あるいは下っ端連中が、何か余計な事を言ったのだろう。


 これを宥めるには骨が折れそうだ。俺は村雨組長への申し訳なさに心を痛めつつ、彼の話術に最後の希望を託すしかなかった。


(組長と誘拐犯は別人だと気付いてくれ……)


 しかし、現実とはつくづく思い通りにはならないもの。村雨と大原の会話は、出だしの時点で想像以上に険悪であった。


「大原公。事の次第は、かいつまんで聞いておる。貴殿のご息女が攫われたそうだな。して、貴殿は娘を攫った下手人が私であると心得違いをされておられるとか。だが、あいにく私に左様な心当たりは無い」


「黙れ!! 身代金をせびる電話をかけといて、今さら何をとぼけてやがる!! てめぇしか考えられねぇだろうが!!」


「電話をかけた覚えも無い。貴殿とかようにして言葉を交わすは、今日が初めてではないか」


「うるせぇ!! 犯人はてめぇだ!!」


「信じていただけぬか」


 取り付く島もないとは、まさにこの事。誘拐犯が村雨組長であると頑なに主張し続ける大原は、如何なる方向から説得を試みてもまるで変わらない。歩み寄りを見せる気配すら感じられないのだ。


 一体、何が大原をそのように思い込ませるのか。どうして、村雨耀介の名を騙った黒幕の犯行声明をそっくりそのまま信じてしまうのか。俺はひどく困り果ててしまった。


 困惑していたのは、当の村雨組長もまた同じ。彼の場合は「困る」というよりは「苛立つ」に近いようだった。村雨の眉間に深い皺が寄る。


「……」


 しかしながら、ここで対話を放棄すれば更に面倒な事に発展してしまう。村雨は粘り強く、そして根気強く、大原との折衝を続けていった。


「愚かにも我が名を騙るらちものより、貴殿は電話を受けたそうだが。そやつが紛れもなくこの私であると疑う理由は何か? それをお尋ねしたい」


「ああ!? てめぇが電話口で名乗ったんだろうが!! 自分は村雨組の組長で、お前の娘を預かったと!! 返してほしければ身代金を持って、単独ひとりで横浜山手町の屋敷まで来いと!! 忘れたとは言わせねぇぞゴラァ!!!!」


「では、その電話にて貴殿が聞いた声と、今かようにして話す私の声は同じか? 私が思うに、貴殿の娘を攫った者は村雨組に濡れ衣を着せ……」


「もういい!! 黙れ!! 御託はけっこうだ!! てめぇがそうやってシラを切るってんなら、こっちにも覚悟がある!! 俺はなぁ、最初から村雨邸ここで散るつもりなんだよッ!!」


 村雨の説諭を途中で遮り、大原は激しく啖呵を切った。彼は右手に握りしめていたリモコンを前方に突き出し、こちらに対して見せつけるように構える。


 だが、村雨は至って冷静なままだった。


「なるほど。爆弾か。しかし、交渉の道具とするには火薬の量が過分だ。これでは我らだけでなく、山手町一体までをも灰にしてしまう。尤も、貴殿にその気があればの話だが」


「んだと!? てめぇ、俺に出来ねぇと思うのかよ!? 舐めんじゃねぇ!! 俺はなぁ、娘のためだけに生きてきたんだ! 恵里がいたから、クソみてぇなヤクザ渡世を25年も張ってきた!! だから、恵里が……あいつが居ねぇ人生になんざ価値は無い! てめぇらもろとも、ダイナマイトで全て吹き飛ばしてやる!!」


「捨て鉢が過ぎるな。まだ、ご息女が命を落としたと決まったわけでは無かろう。それに、自ら死を選ぶにしても関わりの無い者まで道連れにするのは、貴殿とて本意ではないはずだ。愚直な任侠道を長年にわたり貫き通してきた貴殿が、最後の最後でその生き様に自ら泥を付けられるとは、何とも口惜しきことぞ」


「う、うるせぇ!! 人の娘を殺したくせに、偉そうに講釈垂れてんじゃねぇぞ、この成り上がりのゴミクズ野郎が!! 」


 やはり歩み寄ってはくれない大原。早まってはならないという救いの言葉を撥ねつけたばかりか、最大級の侮辱を投げて寄越した。


 その捨て台詞に憤りを覚えたのか、村雨組長の隣に立っていた菊川が「さっきから、言わせておけば……!」と食ってかかろうとする。だが、それを片手で制し、村雨はなおも対話を続ける。


「大原公、私は爆弾の業火に焼かれるのを恐れて申しておるのではない。貴殿ほどの侠客おとこを犬死にさせとうない、ただそれだけだ」


「い、犬死にだと!?」


「左様。貴殿がここで命を散らしたところで、その死には何の値打ちも生まれぬ。奸計を弄する黒幕にまんまと騙され、思う壺となって死んだ間抜けな男として永遠に御名が刻まれるだろう。貴殿はそれでも良いとお考えなのか?」


「てめぇ、何を言ってやがる……!? 命欲しさに、、こ、この期に及んで俺を脅そうってのか……!? 」


 脅しではない。村雨組長が言っているのは、激情に駆られるがまま死に急いではいけないという一点のみ。


「貴殿のご息女が生きておられるのか、はたまた死んでいるのかは現在いまのところ分からぬ。されど、逆を申せば、ご息女がまだ生きておる可能性も捨てきれぬということだ」


 希望の灯火が全て消えてしまったわけではないにもかかわらず、頭に血を昇らせた行動で命を散らしてしまうのは勿体ない。もし仮にご令嬢が生きていたとして、その時に最愛の父が凄惨なる死を遂げていたら、取り返しのつかない悲しみを招く。同じく娘を持つ親である村雨組長だからこそ言えた、実に慈悲深い言葉だと俺はしみじみ感じた。


(村雨と大原、どっちも人の親だもんな……)


 されど、大原には響かなかった。


「たしかにそうだろうよ! けどなぁ、俺を泣き落とそうってんなら無駄な努力ってもんだ! そんな安っぽい言葉で曲がっちまうほど、男の覚悟は脆かねぇんだよ!!」


 詭弁など受け付けぬといった様子で、激しく吐き捨てた伊東一家総長。心なしか、奴の起爆スイッチを握る右手に更なる力が込められているように見えた。


「落ち着かれよ、大原公。ご息女はまだ生きておいでかもしれぬではないか。何故、左様に死を急がれる」


「やかましい! てめぇの御託に付き合うつもりはねぇ! どうせ恵里の身柄を餌に俺を誘き出して、騙し討ちで首を獲っちまう算段だったんだろ!? その手には乗らねぇぞ!! 卑怯者が!!」


戯言たわごとなり……」


 駄目だ。組長の話がまったく通じていない。大原の指は装置の中央にある黒いボタンに伸びており、今にも作動してしまいそうな状況。若衆たちに、にわかなどよめきが起こる。空気感がますます緊迫してきた。


(いや、マジでヤバいぞ……!)


 大原の表情を見れば、すぐに分かる。これは死へと突き進む人間の顔だ。短絡的な仮説を盲信して思考が麻痺し、激情に駆られて理性を失い、破滅的な道へと向かってゆく人間特有の虚ろな眼差し。大原に躊躇の念など、もはや無いのだろう。起爆スイッチは今にも押されそうだ。


「なんとまあ、愚かなことよ……」


 村雨組長が呆れたように呟く。一方、彼のすぐ近くに立つ菊川は明らかな動揺の色を見せていて、実に対照的な様子であった。


 普通、こうした状況では慌てふためくのが当たり前だろうに。如何なる時も冷静さを失わない残虐魔王の強心臓ぶりは大したものだ。


 そんな村雨に、大原は憎しみのこもった声で問いかける。


「おい、正直に答えろ……! 恵里は今、どこにいる……? 殺したのか? それとも、どこか別の場所で監禁しているのか……?」


「ああ。ここには居らん。その上、私の知る所ではない。先ほどから何度も申しておろうに。信じていただけぬか」


「真面目に答えやがれ!」


 聞く耳持たずとは、まさにこの事。何を言ったところで伊東一家総長を宥めることは叶わないようだ。少しずつ諦観の念が芽生え始めてきたようで、村雨は大きなため息をついた。相手が爆弾ベルトを巻いてさえいなければ「もう、勝手にせい!」と匙を投げてしまっても良い場面である。


 しかし、今は状況が違う。対話の失敗は即ち、この場にいる全員の破滅を意味する。何が何でも、大原に装置を作動させてはならないのだ。


「……」


 束の間の静寂が辺りを包み込む。それが解けると、俺が想定した最悪のイメージが具現と化してしまった。


「そうやって何も答えねぇのが、てめぇの答えか! てめぇは恵里を手にかけた! だから、さっきからのらりくらりと御託を並べてやがるんだ!」


「違うと申しておろう」


「もういい!! ここで蜂の巣にされるくらいなら、自ら派手に死に花を咲かせてやる!! 死んで恵里に詫びなくちゃならねぇしなあ……こんな駄目親父で……花嫁姿まで見届けるって言ったのに、先にあの世へ行くことになっちまって……!!」


 スイッチを握る大原の手に力が入る。直後に聞こえたのは、地面を揺るがすような雄叫びだった。


不肖ふしょう大原征信、渡世をしくじった男の死に様だッ! ! 地獄へ道連れにしてやるよ、村雨ェェェェェェェェェェェ!!!!」


 ――カチッ。


 何かが押し込まれる鈍い音が聞こえた瞬間。ほのかに数秒ほどの間隔ラグを挟んで、凄まじい轟音が響いた。


(……えっ?)


 爆発の音ではなかった。いや、そもそも爆発自体、起きてはいなかったのだ。


 こうして全員が生きていることが何よりの証。村雨や菊川、沖野および村雨組の若衆たちは勿論、大原さえもがピンピンしている。奴の腰に巻かれた爆弾ベルトにも、変化が起こった様子は無い。


 大原は確かに起爆スイッチを押していたはずなのに、土壇場で何が起きたというのか。どうして爆発は起きなかったのか。その答えを導き出すのには、思いのほか時間がかかった。


「よもや本当に起爆させるとは思わなんだぞ。まったく、とんだ手間をかけてくれたものだな。大原公」


「くっ、クソが……!」


 真顔で銃を構えていた村雨組長。その右手に握られた自動式拳銃の筒先からは、ほぼ透明な煙が上がっている。


 先ほどの轟音の正体は銃声。どうやら大原総長が装置を作動させた瞬間、村雨が予め携行していた拳銃で装置を撃ち抜き、破壊したらしい。大原の起爆スイッチは電波信号によって遠隔操作するリモート式になっている。


 要するに、ボタンが押されても電波が発信されなければ爆弾の起爆には至らないということ。その特性を瞬時に察した上で実行した、村雨耀介の瞬間的な行動の結果である。


 銃を抜いてから発砲するまでの動作が、ほんの瞬きをするよりも短い時間の中に行われていた。残虐魔王の神業に俺は感嘆するしかなかった。同時に、自分もかくありたいと憧れを抱いたのであった。


(すげぇ……銃を使うなら俺もあんな風に……)


 そんな個人感情はさておき、この局面は村雨組長の勝利に終わった。


 狂気の伊東一家総長の手から地面に落ちた起爆スイッチは45口径の弾丸を受けて粉々に砕けており、もはや使える状況に非ず。


 即ち、奴の腰に巻かれたダイナマイトの束が爆発する心配は無くなったということ。大原は他に武器らしい武器を携えていなかったようで、ほぼ丸腰。恫喝の切り札を失った相手など、脅威どころか敵ですらない。


 それまで口をあんぐりと開けて呆然としていた若頭が、同様に立ち尽くす部下たちに慌てて指示を飛ばす。


「……キ、キミたち! 何をボサッと立ってるんだ! 今だ! 今のうちだ! その男を捕まえろ! 早く拘束するんだよ!」


 菊川の檄を受けて、連中は次々と我に返ってゆく。


「は、はい! 分かりました!」


 そして彼らは右手首を擦ってうずくまっていた大原総長をめがけて一斉に飛び掛かり、覆いかぶさるようにして地面へ押さえつけた。


「この野郎、取り押さえたぞ!」


「両腕だ! 両腕を後ろに縛れ!」


「おーい、誰か! ロープを持ってきてくれ!」


「大人しくしやがれ! この侵入者め!」


 大原総長の普段の戦闘力が如何ほどかは分からない。だが、それなりの強さを備えた人物であっても手首を痛めた状況で虚を突かれたとあっては、明らかに不利である。


「離せ! おい、触るな! 俺を誰だと思ってやがる! 俺は中川会の直参だぞ! 組織の幹部だぞ! クソったれがあああ!」


 必死の抵抗を見せるも、既に後の祭り。体力的にも多勢に無勢だったか。10人以上の組員たちに取り囲まれ、大原は成す術もなく拘束されてしまったのだった。

「娘を村雨に誘拐された」と主張する中川会直参三代目伊東一家総長、大原征信。その真相やいかに……!?

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