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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第7章 そして少年は極道になった
130/252

「ようやく極道の顔になったな、麻木涼平」

 俺が進むべき道を見出した翌日、村雨組は大きな正念場を迎えていた。


 事前の告知通り、組長は名古屋の煌王会本部へ使者を派遣。クーデターで全権を掌握した坊門清史に「挨拶料」の名目で献金を行い、一定の歩み寄りをはかったのだ。


 使者に選ばれたのは、以前から村雨組と連携関係にあった敷島しきしまという中年の男性弁護士である。職業柄交渉事には長けているとのこと。こちらの期待通り、先方との話を上手くまとめて同日中に戻ってきた。


「もしや、あなた。村雨組の下っ端さん?」


 夜の21時を少し過ぎた頃、その敷島に俺は背後から話しかけられる。ちょうど私用の買い物で出かけたコンビニから戻ってきたタイミングであり、屋敷を目指して坂を上る彼とばったり出くわしてしまったらしい。


「そうだけど。あんたは誰だ?」


「誰って、あなた。敷島ですよ。あなた方の顧問弁護士の。ああ、もう。これだから村雨組は面倒だ。情報共有がまるで行われていなかったと見た」


 “シキシマ”なる名前に心当たりは無かったが、“弁護士”という単語の登場に一瞬でピンときた。この人物は名古屋へ遣わされていた、村雨組の代理人。


 思い出してみれば、組長も「例の弁護士は本日の夜に屋敷へ戻ってくる手筈」と言っていた気がする。間違いない。この男がそうだ。


「……ああ、すまん。忘れてた。あんたが弁護士さんだね。組長が首を長くして待ってるよ。案内してやる。ついてきな」


「さっさとお願いしますよ。私だって暇ではないので。まったく、顧問弁護士の顔くらい覚えておけば良いものを。そんなバカで、よくもまあヤクザの仕事が務まりますね」


 ブツブツと文句を言いながら、俺に続いて歩き始める敷島。俺が彼の顔を知らなかったことに不快感をおぼえたのか、最後に露骨な舌打ちが聞こえてきた。面と向かって罵られたことは癇に障るが、組の顧問弁護士の顔と名前を事前に把握していなかったこちらにも問題がある。沸き上がった苛立ちを瞬く間に抑え込み、適当に相槌を打って返した。


「そいつはすまねぇ。勉強不足だった」


 だが、敷島の文句は止まない。俺が下手に出たことで調子付いたのか、奴は背後から次なる愚痴を浴びせてきた。


「はあ……せっかく、君たちの頼みを聞いて遠路はるばる名古屋くんだりまで行ってきたというのに。労いも無しですか。こう見えても長旅で疲れてるんですよ、私は」


「ああ。もちろん、組長はあんた宛てに報酬を用意してるみたいだぜ? たんまりと。難しい役目を成し遂げたんだから、それなりに貰えるんじゃねぇのか?」


「そういう問題じゃない! 報酬は貰って当然です! 私が言いたいのは、労いの態度! 『気持ちを態度で示してくれても良かったんじゃないか』ということです!」


 態度で示せとは。いかなる意味か。具体的には、どんな施しをお望みだというのか。俺が静かに首を傾げていると、敷島は語気を強めて言い放った。


「たとえば出迎え方。私は組の顧問弁護士ですよ? もっと相応しい出迎え方があるでしょうよ。若頭以下、幹部を迎えに寄越すとか。村雨組長が直々に来たっていい話だ。何でまた、君みたいな下っ端を遣わすんだか」


「お、おうおう。そいつは悪かったな。下っ端で。まあ、俺はあんたを迎えに来たわけじゃねぇんだけどな。買い物から帰ったら、偶然あんたに出くわしただけで……」


「そもそも、それがおかしいでしょう! 大体、何で迎えの車を出さないのか。もう1回言いますけど、私は組の顧問弁護士ですよ? 駅まで車で迎えに来るのが普通でしょうが!!」


 敷島の怒りの根本的要因は村雨組が迎えの車を出さなかったこと。つまり、この急傾斜の坂道を徒歩で上らされることをひどく不満に思っているらしい。


 村雨邸へと続く山手町の丘には俺自身も毎回悩まされているだけに、敷島の気持ちはよく分かる。されども、大役を果たした顧問弁護士への礼を尽くせないのには理由があった。逆立ちしてもどうにもならない事情が絡んでいたのだ。


「……すまんが、こっちも色々あってよ。あんたを迎えに行く運転手を組の中から出せなかったんだ」


「はあ!? 出せなかった!?」


「うん。そもそも、組の下っ端連中は知らねぇんだよ。あんたが組長の使いで名古屋に行ったって話を知らせていないんだ」


 敷島を上手く宥められるよう、俺は最大限に穏やかな話し方をするよう努めた。どちらかといえば、やはり「知らせていない」というより「伝えられなかった」と言った方が適切だったか。


 要は情報統制。いずれ事の経緯を組員たちに全て話す必要があるとしても、それは決して現状いまではない。


 そもそも煌王会でクーデターが起きた情報自体、俺と菊川を除いた他の連中には伏せてある。ただでさえ、血気盛んなおとこが集まっている村雨組。名古屋で未曾有の動乱が起きた事実を知れば、確実に浮足立つだろう。重大局面を前に子分たちが暴発する展開を未然に防ぐ、村雨組長なりの予防策だ。


 ゆえに、顧問弁護士の敷島裕二にクーデター派との交渉を任せた件は組の中で周知ができなかった。交渉を終えた敷島が蜻蛉返りで報告に戻ってくる旨もまた然り。


 後者に関しては「弁護士先生が村雨組長と酒を飲む」等、適当な方便で誤魔化しても良かった所だが、それでも勘の鋭い者には察しを付けられてしまう。秘密の保持を徹底するためには、このやり方が最も安全だった。


 敷島には申し訳ないが、分かってもらうしかない。懇々と事情を説明すると、彼は大きなため息をつく。


「……なるほど。そういうことだったんですね。それならそうと、事前に伝えてくれれば良かったのに。てっきり迎えが来るものと思っていたから、駅の前で大幅に時間を無駄にしちゃいましたよ」


 尤も、こういう面倒な御仁は事前説明があったところで結局は文句を言うのだろうが。仕方ないことだと分かっていても、やはり私情が邪魔をしてしまうのが人間のさが。俺の説明では、敷島の苛立を完全消化させるに至らなかった。


 おっちゃんの愚痴に付き合ってやる義理は無い。けれども、ここで下手に機嫌を損ねられて「帰る」と言い出されても困る。


 俺は渋々、彼の言葉に耳を傾けてやった。


「面倒臭い。どうして私がこんな坂道を登らなきゃいけないのか……しつこいようですけど、今日は名古屋に行ってきたんですよ。長旅の疲れが無くても、この傾斜は老体にはきついというのに」


「なるほどな。あんたにとって、この坂を上るのは物凄い重労働ってわけか。毎回いつも、しんどい思いして組まで来てんのか?」


「いいえ。村雨氏のお屋敷へ伺うのは今日が初めてになりますかね。いつもは桜木町の喫茶店でお会いしてますから。まったく。どうして今日に限って。つくづく、面倒なものですよ……」


 懸命に坂道を上りながらも、敷島の悪態は一向に収まらない。屋敷へ直接招まねかれたのはおそらく人目を警戒してのことだろうが、既に弾丸旅行で体力を消耗しきった老体には殊更きついようだ。


「ああ……疲れた……」


 やがて大きく息を切らし始めた敷島。次第に腰も痛み始めたらしく、みるみるうちに背筋が曲がってきた。


 たかが坂を上った程度で大袈裟とも思えたが、冷静に考えれば無理もない現象である。


 この弁護士は今日、名古屋へ行って帰ってきたのだ。新幹線を駆使したとはいえ、単純距離にしておよそ300キロの長距離移動。決して若くはないであろう年齢の男には、かなりハードな強行軍となったことだろう。


 そうした弾丸旅行へ遣わされた挙句に急な坂道を徒歩で上らされたのでは、疲れ果てて当然。むしろ足腰が痛めない方がおかしいといえる。ここまで辛そうな姿を見ると、少しばかり敷島に同情が湧かなくもない。


「おいおい、爺さん。大丈夫かよ!?」


「はあ……大丈夫なわけないでしょう……」


「そんなに歩くのがしんどいなら、タクシーで来りゃ良かったじゃねぇか! 何だって、今日に限って歩いてきたんだ?」


「降りてしまったんですよ……お屋敷の住所をよく確認していなかった私がバカでした。まさか、こんな丘の頂上にあるなんて……」


 聞けば、麓のコンビニのあたりまではタクシーで来たという敷島。村雨邸の所在位置を誤認したが為、このような苦行を強いられる羽目になったとのこと。村雨邸は丘の麓付近にあると勘違いしており、徒歩で難なくたどり着けるものと思っていたようだ。


「ははっ。そいつは凡ミスだな。住所を最後まで読めば分かるだろうに。弁護士ともあろうインテリさんが無様なもんだわ」


「や、やかましい……! そんなことより、早く私を案内しなさいよ……!」


「笑えるぜ」


 冗談っぽく小馬鹿にしてやった結果か、怒りに顔をひきつらせた敷島。されど、俺もそこまで鬼畜ではない。疲れきった老爺の歩行スピードにこのまま付き合い続けるのも、ひどく億劫に思える。


(仕方ねぇ。やってやるか)


 数メートルほど進んだ所にて、俺は脳内で浮かんだ内容を実行に移す。敷島に背を向けた状態で、ゆっくりとしゃがみ込んだ。


「ほらよ」


「は……!? これはどういう……!?」


「いや、どういうも何も。見りゃ分かんだろ。あんたを屋敷まで背負ってやるってことだよ。ほら、さっさと乗りやがれ」


 俗に云う“おんぶ”。


 決して優しさ故の行動に非ず。体力の消耗により歩くことが困難になった男のペースに延々と合わせていても埒が明かない、ゆえにここは自分が抱え込んでしまった方が良いと判断したのだ。そうすれば早く屋敷に着くし、早く組長に敷島を目通しさせられる。あらゆる状況を加味した上でくだした最も合理的な選択、つまりは最適解だった。


 よもや、ここで俺がこのような行動に出るとは思ってもいなかったのだろう。敷島はしばらくの間、目を丸くしたまま呆然と固まっていた。


「……」


「ん? どうした? 早く乗れよ。何をもったいぶってんだ」


「い、いや……この私が、君のような下っ端の背中に乗るなど……」


 己プライドが許さない、とでも言いたかったのか。確かに先ほど彼は俺を口汚く罵った。慇懃かつ嫌味たらしい表現で侮蔑した。そんな相手の背中を借りるなど、まったくもっておかしな話だ。道理に合う、合わないどころの問題ではない。まっとうな思考を持った人間であれば、あまりに屈辱的すぎて顔から火が出てしまいそうなシチュエーションだと思う。


「……」


 それから数秒から数十秒ほどの間、敷島は唇を嚙みしめて逡巡していた。だが、身体中を襲う疲労感と腰の痛みには勝てなかったのか。結局、彼は悩み抜いた末に俺の申し出を受け入れた。


「……では、失礼しますね」


「おうよ」


 俺に背負われる瞬間の敷島がどんな顔をしていたのかは、ちょうどお互い前を向いていたために見られない。けれども、きっとひどく滑稽な表情だったに違いない。見下した人間の手を借りなければならない羞恥心と敗北感。ふたつの苦い現実を前に、老弁護士は頬を紅潮させていたことだろう。


 その所為か、屋敷へ着くまでの道程にて、敷島は自ら口を開くことをせず終始無言を保ち続けた。


 気まずい空気感ではあったが、こちらとて特に振る話題も無いのでそれはそれで良い。会話が途切れた代わりに、俺は頭の中で己の行動を振り返る。


(まさか、この俺が人助けをしちまうとは……)


 歩き疲れた老人を背負って目的地へ連れてゆくなど、俺にしては考えられないほど珍しい行動だった。少なくとも、以前の自分であれば絶対に取り得なかったと思う。


 率先して介助を申し出るなどもっての外、求められたところで「自分で歩け」の捨て台詞と共に一蹴するのが関の山。そんな俺が、どうして柄にもない善行を積むに至ったか。


 答えは、とても分かりやすい。ひとえに組長の為だ。


 名古屋で行われた交渉の結果を少しでも早く、村雨耀介に伝えたい。そうすることによって、彼が今後に向けて正しい判断をする助けとなりたい――。


 いずれも純粋な願望であった。村雨組長の利益に繋がることを見込んだからこそ、老人を“おんぶ”するという格好の悪い行動に走ってしまったのだ。


 そうまでして誰かに尽くすということも、かつての俺には考えられなかったこと。絢華ならともかく、村雨に対して慕情は無い。いずれ主君になる人物として畏敬と畏怖を半々ずつ抱いてはいたものの、それは任侠渡世にありがちな「男が男に惚れる」といった類の思念では決してなかったはずだ。


 にもかかわらず、どうして俺は変わってしまったのか。他の誰よりも村雨耀介の利益を第一に考えて動くようになったのは、一体いつの頃からだろうか。


(村雨組へ戻って来た時……ではないよな)


 たぶん、もう少し後のような気がする。何であれ、わずか数分で正解が導き出せる問題ではない。すたすた歩きながら自問自答を繰り返している間に、俺たちは屋敷の正門前へ到着してしまった。


 その日、正門前で番を務めていたのは例によって沼沢。坂を上ってきたこちらの姿を見て、彼は仰天した。


「おっ、おい! ? 麻木!?」


 驚かれるのも無理もない。何を隠そう、俺が文字通り背負っているのは村雨組の顧問弁護士、敷島裕二その人なのだから。組にとっての最重要人物を年端もいかぬ小僧が“おんぶ”して帰ってきたのだ。おったまげて当然である。


 されど、向こうのリアクションに付き合っている余裕などない。ここは手短に説明を済ませ、さっさと通らせてもらおう。


「コンビニから帰る途中で会ったんだ。敷島さんが組長に用事があるっていうもんだから、ついでにおんぶしてきたってわけさ」


「どうして、敷島先生を背負って……!?」


「なんか、足が痛くて歩けなくなっちまったらしいんだよ。この弁護士さん。捻挫でもしたんじゃねぇかな。急な坂だから、しょうがねぇわな」


 瞬間的に思いついた適当な方便を並べる俺。沼沢は未だ理解が追い付いていないようで、口をあんぐりと開けて突っ立ったまま。


「……」


 すると、俺に背負われていた敷島がここでようやく口を開いた。


「いやあ、麓でタクシーから降りたところで転んで足を挫いてしまいまして。歩けなくなっていたんですよ。そしたら、運良くこのチンピラ君と出くわしたというわけでして」


「……おぶわれてきたってわけですかい?」


「ええ。つまり、そういうことです。優しい若者に助けられましたよ。さすがは村雨組、教育が下っ端にも行き届いているようだ」


 俺に“おんぶ”されている間に、気力と体力を少しは回復させたのか。敷島の息切れは収まり、すっかり平静さを取り戻している。彼はそれから言葉巧みに即席の説明を繰り広げ、沼沢を納得させてしまった。


「いやあ、この歳になると足腰が弱くなっていけませんなあ! 私としたことが、己の体力を過信しておりましたよ。とんだ不覚でした」


「先生がご無事で良かったです。ところで、こんな遅くにどういったご用事で? おまけに、先生が村雨邸ここへ訪ねて来られるなんて。珍しいですね」


「組長が私に折り入ってお話があると。何でも、急用だそうで。私の事務所も営業時間はとっくに過ぎておりますが、駆け付けてきたというわけです」


「そ、そうですか。組長なら居られますよ。とりあえず、ここではなんですし中へお入りください。茶を用意させますので」


 流石は弁護士。トークのテクニックが並大抵の人間より、はるかに高い。戸惑っている相手の隙を突くかのごとく、一気に畳み掛けてしまう。あの村雨耀介に顧問として雇われるだけあって、弁護士としての腕前も伊達ではないと見た。ただの偏屈爺かと思いきや、なかなかの切れ者のようだ。


「ありがとうございます。それじゃ、お邪魔します……あっ、痛てて。申し訳ありませんが、沼沢さん。肩を貸していただけませんか?」


「ああっ、もちろんです! どうぞ!」


「助かります」


 丘の麓で転倒して足を挫いたとの設定のため、痛がる演技も忘れなかった敷島。事前に打ち合わせたわけでもないにかかわらず、俺の繰り出した方便に見事に合わせてくれた。


「おう。それじゃあ、降ろすぞ。弁護士さん」


「はい。ご苦労様でした」


 機転の良さに感服しながら、俺は腰を低くする。俺の背中から降りた敷島は沼沢に支えられながら、今一度こちらに視線を移した。


 なかなか良い乗り心地でしたよ、チンピラ君。ついでに君の名前を聞かせてもらいましょうか。どうせすぐに忘れるでしょうが、いちおう聞いておきたい」


「俺は涼平ってんだ。麻木涼平。わざわざ名乗ってやったからには、覚えといてもらいてぇもんだな。そう遠くないうちに、この組で成り上がる男の名前だからよ」


「ほほっ、そうでしたか。であれば、頭の片隅にでも置いておいてあげるとしましょう。再び会える日を楽しみにしていますよ、チンピラ……いや、麻木涼平君。では、またいずれ」


 最後に何を思ったのだろうか。俺の顔を覗き見て軽い笑みを浮かべた後、敷島弁護士は門をくぐって屋敷の中へと入っていった。


(ったく、もっと感謝しやがれっての……)


 せっかく坂の頂上まで運んでやったのだから、形式だけでも感謝の辞を述べて欲しいところ。頭を下げもせず立ち去った敷島に、俺は些かの不快感をおぼえた。きっと、彼はなおも俺を見下し続けていたのだろう。痛々しくも大見得を切った、取るに足らない極道もどきのチンピラとして。


 けれども、敢えて呼び止めて追及するような真似はしない。俺には他にも片付けるべき課題が残っていた。


 戻ってきた、沼沢への対処である。


「おいおい、麻木。説明してくれよ。何でお前が敷島先生と一緒だったんだ? お前さんは知らねぇだろうが、敷島先生はうちの組の顧問弁護士で……」


「ああ。さっき本人から聞いたから、知ってるよ。で、その顧問弁護士さんが組長に用事があったから俺が連れてきてやった。それだけだ」


「いや、そうじゃなくて。どうしてお前が連れてきたんだって話だよ。そもそも、組長に用事って何だ? こっちは何も伝えられてないぞ?」


「さあな。それについちゃあ内緒だとよ。さっきおんぶしてる時に聞いたんだが、教えてくれなかった。弁護士ってのは、口が堅いらしい」


 眉間にしわを寄せ、少し食い気味に問うてきた沼沢。明らかに俺たちの行動を訝しんでいるのが分かる。もっと上手い誤魔化し方が他にあったかもしれないが、生憎その時は聞かされていない体を装うことで精一杯だった。たじろぐ素振りを見せず、淡々と受け答えが出来ただけでも上首尾といえよう。


「おい、本当に何も聞いてないのか?」


「ああ。聞いてねぇな」


「ちぇっ。またしても守秘義務かよ」


 弁護士には依頼人との情報を外部から徹底して守り通す義務があり、名うての法律家として評判の敷島も例外ではない。日頃から村雨が敷島と話した内容は組員たちに明かされないことが多いらしく、沼沢は不満を募らせているようだった。


「組長も少しは俺たちを信用しても良いのになあ。話を漏らしたりなんかしねぇってのに。だいたいにして敷島先生、うちの組長と何を話すんだろ? まさか、暴追運動の件か?」


「知らねぇなあ。俺には見当がつかねぇ。ただ、組長の気持ちも分かるぜ。木幡の野郎のこともあったわけだし。今まさに組の正念場って時に、組長が神経質になるのはむしろ当然だ」


「しょ、正念場……!? いや、まあ。たしかに。そうだけどよ。せめて敷島先生が来るって話だけでも、事前に伝えといてもらいたかったなあ」


 うっかり余計な口を滑らせたかと肝を冷やしたが、幸いにも沼沢は別件と勘違いしてくれた。そのため、何とか気取られずに済んだ。けれども、これ以上無駄に話を続ければどこかでボロが出そうな気がする。相手の追究が本格化しないうちに、そそくさと退散するのが無難である。


「あんたの気持ちは分かるけど。組長には組長の考えってものがあるんだろ。そいつはどうにもならねぇよ。残念だがな」


「はあー。何つーか。もうちょい、あの人には俺たちを頼ってもらいてぇんだ。そうでなくちゃ、何のために俺たちがいるんだか分からねぇだろ……」


「仕方ねぇさ」


 イライラ任せに短髪の後頭部を強くかきむしった沼沢の横を通り過ぎ、俺は真っ直ぐ屋敷の中へと入ってゆく。すれ違いざまに沼沢の舌打ちが聞こえた気がしたが、敢えて聞こえないふりを通した。


 ここで無駄に反応すれば諍いが起こる。さすれば、沼沢は忽ち真相に勘付いてしまうだろう。「他の者には暫し伏せておく」と組長が言った以上、何としても秘匿を徹底しなくては。村雨に迷惑をかけないためにも、多少の私情は堪えるのが正解だ。


(ここは我慢のしどころってやつだな……)


 ただ、一方で沼沢の気持ちも分かる。おそらく彼だけではなく、同じ思いを募らせている組員は他にも存在するだろう。


 秘密保持のため情報を伏せるということは、その者の情報漏洩を懸念しているも同然。つまり、信用していないということだ。


 笛吹により送り込まれた内通者スパイとして木幡和也に暗躍を許してしまっただけあって、組織統制の引き締めに力を注ぎたい組長の方針は理解できる。いたずらに若衆たちを動揺させたくないとの配慮にも、大方同意できる。


 けれども、事情が何であれ「お前には教えない」と言われれば少なからず不服を抱くのが人間という生き物。村雨耀介を主君と仰ぐ忠誠心は皆強いだけに、行き過ぎれば却って組の統制を乱す要因になると俺は思った。


 自分の知らない所で何やら重大な話が動いていることに、沼沢は確かに気づいている。それが煌王会の動乱だろうと暴追運動だろうと、情報が自分の元へ全く降りてこない点を彼は不満に思っている。少なくとも、沼沢の瞳からはモヤモヤとした怒りのようなものが垣間見えた。規模は現時点でこそ小さいが、このまま蓄積を続ければいずれ取り返しのつかぬルサンチマンへと昇華してしまう。


 己を差し置いて麻木涼平が村雨と情報を共有していた事実を知れば、沼沢は確実に激昂する。要らぬ喧嘩沙汰を避けるためにも、奴を含めた一般組員たちとの接し方には当面の間、注意しなくては。


 どうにか気を付けようと心に決め、その晩はとりあえず床に就いたのだった。


「……」


 心配事は、まだ他にもある。敷島は名古屋でどのような交渉を展開してきたのか。坊門に敵対の意思は無いと思わせることができたのだろうか。組長室にて今まさに行われている結果報告が、気になって仕方がない。


 現段階での中立維持を提案したのは俺だ。ゆえに、失敗すれば面目を失ってしまう。村雨の不興を買うだけなら未だしも、事態悪化を招いた張本人として責任を問われる可能性もある。


(やべぇなあ……)


 先ほど移動中に敷島から聞いておけば良かったと思ったが、もはや後の祭り。組長室の前で聞き耳を立てるわけにもいかないので、俺に出来ることと言えば吉報を祈るのみ。


 敷島は曲がりなりにも交渉のプロ。期待外れの結果をもたらしたりはしないはず。ゆえに彼が帰った後で、安心して組長室へ聞きに行けば良いだろう。そう思って、俺はひとまず体を休めることにする。


 ただ、人間の体とは不思議なもので、風呂を終えて布団に入ると瞼が重い。瞬く間に眠気が襲ってくるのだ。


 ほんの一時的の仮眠を取るつもりが、睡魔に身を委ねて意識が遠のいていった俺。気づけば窓からはうっすらと陽光が差し込んでいて、世界は朝を迎えていた。


「うわっ! 寝過ごした!」


 跳ね起きると共に、思わず叫び声がこぼれる。慌てて時計を確認すると、午前5時12分。やってしまった。結果報告どころか、皆が眠りに就いている時間帯ではないか。


 とりあえず、部屋を出る。


 敷島はとっくに帰っているだろうから結果を聞きに行っても問題は無いはず。だが、肝心の組長がまだ寝ている可能性がある。いや、午前5時台では大半の人間が床に就いているだろう。


(朝飯の時間帯にでも出直すか)


 ここはやはり朝飯の時間帯にでも出直すべきか。そう思ったが、既に目は冴えてしまっている。


 ゆえに二度寝をする気にもなれない。少し早いが、ここは適当に外を歩いて時間を潰すとしよう。外の天気は文句なしの快晴。散歩をするには丁度良い空模様だ。


 通用口を目指し、廊下を歩き始める俺。すると、1階の曲がり角に差し掛かったところで窓から奇妙なものが見えた。


 中庭に、誰かがいる。


(えっ。何やってんだ……?)


 それが誰なのかは即座に分かった。村雨だ。


 窓から姿を覗かせた村雨組長は、中庭にて剣を振るっていた。握られているのはかたな。それも木刀や模造の類ではなく、真剣である。本物の日本刀を片手に上段の構えから素振りに励んでいるようだった。


 てっきり寝ているものと思ったが、まさかこんな形で出くわそうとは。俺はすぐさま近くの扉を開け、中庭へ飛び出る。


 駆け寄ってきた俺に気づくや否や、村雨は目を丸くさせた。


「おお、珍しいではないか。かような刻限に」


「あ、あんたこそ。ずいぶんと早いお目覚めなんだな。中庭ここにいるとは思わなかったから、驚いちまったぜ」


「いつものことだ。お前に見られるのは今日が初めてだがな」


 村雨曰く、これは彼の日課らしい。毎朝太陽の昇る前に起床し、中庭にて武芸の稽古に励んでいるのだとか。腕立て伏せに始まり、上体起こしや片手倒立、真剣を使った素振りをそれぞれ500回ずつ行うという。


「そうして最後に朝風呂へ浸かるまでがひとつの流れだ。お前も共にやってみぬか? 体を動かした後では朝飯あさげが美味いぞ」


「いや、俺は毎晩寝る前にやってるよ。そうすることで、よく眠れるっていうか……」


「左様か。まあ、良い。鍛錬を欠かさぬことで己を律することが出来る。如何なる時も続けることが肝要ぞ」


「う、うん……」


 春夏秋冬、暑い日も寒い日も、雨の降る日も風の吹く日も、このルーティンを欠かした日は1日たりとも無いという村雨組長。一方、俺はといえば就寝前のトレーニングを日課としているものの、日によってはサボってしまう夜もある。事実、昨晩は疲労を言い訳に早々と休んでしまっている。


 たとえどんなに組の仕事が忙しくとも、睡眠時間を削ってでも修練を行う村雨とは、回数も含めて雲泥の差だ。「続けることが肝要」と語る彼を前に、ただただ俺はばつの悪さに苦笑するしかなかった。


「ところで、涼平。お前の用向きは何だ? かように朝早くから私を訪ねてきたのだ。何か、用があったのであろう?」


「あ、ああ。それなんだが……」


 話題を変えられるなら、さっさと変えてしまった方が良い。ひと呼吸分の間を置いて、俺は懸案の質問を繰り出した。


「……あの弁護士の爺さん、たしか敷島さんだったっけ? あの人は名古屋で上手く話しをつけてこられたのか?」


 それに対する村雨の返答は、実にあっさりとしたものだった。


「うむ。無論である。敷島は当代随一のやり手だ。此度も、私の想像以上の働きをしてくれた」


「と、言うと……?」


「上手く運んだということだ」


 上手く運んだ――。


 この言葉に自然と胸が撫で下ろされた。どうなるものかと一晩中気が気でなかったから、張りつめた緊張感から解き放たれる気分だ。しかし、安堵するのはまだ早い。もっと話の詳細を問わなくては。


「上手くいったんだな。それなら、ひと安心だ。けど、坊門は俺たちのことをどう思ったんだろう? 村雨組は自分の味方につくと思い込んだのかな?」


「ああ。現時点では左様に思っておるようだ。いくら『挨拶料』と名目を飾ったところで、金を包んだのだ。味方になると勘違いを抱かぬ方がおかしいであろう」


「じゃあ、坊門が見せた反応は完全に俺たちの思惑通りだったってことだな。良かったぜ」


「されども、勘違いしておったのは奴らだけではなかったらしい。我らもまた、とんだ思い込みを抱いておったようだ」


 どういうことか。俺が問い返すと、村雨はため息交じりに答えた。


「……名古屋へ送り込んだ我らの物見は、謀反一党に捕らわれてなどいなかった。私が敷島を遣わした時点では、まだ坊門は村雨組こちらの動きに気づいていなかったということだ」


 敷島がが持ち帰った話によると、密偵の組員は名古屋のホテルに隠れ潜んでいたとのこと。諜報活動中に体調不良を引き起こし、村雨への連絡をついつい怠ってしまったとのことであった。


「だいぶひどい熱が出ておったようだ。胃痛にうなされ、動くこともままならなかったと申しておった」


「そんな、アホな……」


「人の体というものは往々にして思い通りにはならぬ。彼奴あやつとて、不本意な結果だったのだ。止むを得まい」


「偵察任務で潜入した時に限って体調を崩しちまうなんて……まあ、今さら責めても仕方ねぇか」


 問題はその密偵の体調管理の杜撰さでもなければ、運の悪さでもない。「坊門は村雨組が謀反に気づいたと思っている」と、俺たちが誤った思い込みを抱いてしまった点だ。


 敷島が煌王会本部を訪れた際、クーデター派の面々はひどく慌てふためいていたという。「村雨組にバレたのか!?」と、絵に描いたような狼狽を見せる者もいる始末だったとか。


 密偵が消息を絶ったことを警戒して先手を打ったつもりが、思わぬ結果であった。完全に想定外だ。


「じゃあ、敷島さんを名古屋むこうに送ったせいで、却って連中を警戒させちまったってわけか?」


「ああ。そういう顛末になるな」


「マジかよ。裏目に出ちまったか……」


 逆に言えば、ここで敷島を送らなければ睨まれることも無かった。組長の早とちりも一因であるとはいえ、元はと言えば俺が献策した作戦。俺は己の思慮の甘さを悔やまずにはいられない。こんな結果を招いてしまうとは。


 ただ、村雨も太鼓判を押す通り、敷島裕二は敏腕の弁護士として名高い男。相手の詰問をのらりくらりとかわし、返り討ちにするくらいの話術は心得ていた。


「謀反の兵たちに囲まれ、かなり執拗な追及を受けたそうだがな。しかし、敷島は村雨組こちらの情報を一切漏らさず、逆に向こうの内情に探りを入れてやったそうだ」


「すげぇな。でも、大丈夫だったのか? あの爺さん。囲まれてタコ殴りにされたりとか、こっちの動きを探るために拷問されたりとか、危険な目には遭わなかったのか?」


「それについては何も申していなかったゆえ、そらく直接手は出されなかったのであろうな。手を出されぬどころか、むしろ坊門からはもてなしを受けたと聞いた」


「もてなし……だと!?」


 意味が分からず、俺は戸惑った。


 話によれば、敷島が煌王会本部を訪ねた際、会長執務室に陣取っていたクーデター派の直系組長は計4名。家入行雄(煌王会舎弟頭補佐)、庭野建一(煌王会総本部長)、片桐禎省(煌王会若頭補佐)、そして首謀者たる坊門清史(煌王会舎弟頭)という顔ぶれである。


 このうち家入は村雨組が自分達のクーデターに気づいたことを確信し、村雨の即時排除を主張。村雨耀介の破門処分および組の取り潰しを坊門に進言する。ちなみに前述の「バレたのか!?」という狼狽を見せたのは家入であり、自身の手勢と共に敷島を詰問したのもまた彼である。


 ところが、坊門はこれを却下。「村雨ほどの武闘派を味方につければ最強の戦力となる」として、金一封を手土産に訪れた使者の敷島を歓迎。あろうことか「自分達のやったことは体制打倒のためのクーデターだ」と認め、その上で味方に取り込むべく懐柔をはかってきたというのだ。


「さしずめ、坊門はかように考えたのであろうな。『村雨耀介は此度の一件が謀反であると気いており、自分たちに賛同している。賛同の意を形で表すために献金を行った』のだと」


「おいおい。さすがに物の見方が楽観的すぎやしねぇか? もし本当にそう考えたんだとしたら、その坊門って野郎はだいぶ甘ちゃんだぜ? いくら何でも間抜けすぎる」


「されど、実際に坊門は敷島に自らの手のうちを全て明かしておる。会長を撃った下手人が、本当は日下部卿ではなく古牧の伯父上であるということも含めてな。お前の申す通り、あの御仁は間抜けである。いや、そもそも間抜けでなければ謀反など起こすまいに」


「……」


 おそらくは、やって来た使者が現金を持参していたことで気を緩めたのだろうか。反乱を起こした直後で突如として擦り寄ってくる者があれば、たしかに「こいつは自分の味方になろうとしている」と勘違いしなくもない。坊門清史なる人物の知能指数はさておき、物事の流れとしては大いに有り得る現象だ。クーデターにより組織の実権を事実上掌握したことで、すっかり有頂天になっている線も考えられる。


(一応、上手くいったのか……!?)


 こちらの勘違いに向こうの勘違いが重なった結果ではあれど、クーデター派に見せかけの恭順を示すという当初の目的はひとまず達成できた。俺たちの即時討伐を声高に叫ぶ家入を坊門は一蹴したというから、直ちに組が潰される心配は無さそうだ。


 ただ、村雨の憂いは消えていなかった。


「坊門をたぶらかすことには成功した。だが、奴から事の真相を全て聞かされてしまった以上、このままでは村雨組われらもまた謀反の一味という話になってしまう」


 事変の詳細情報を掴んだにもかかわらず何も成さなかったのでは、結果として謀反を容認したことになる。当事者の口から「これはクーデターだよ」と認める言葉が出た瞬間から、俺たちには行動的義務が生じるのだ。それはすなわち、六代目体制の護持をかけて坊門一派と対決する義務。村雨組が重い役目を背負ってしまったことに、俺は数秒遅れで気づいたのであった。


 また、坊門とて聖人君子ではない。今回の一件はクーデターであると打ち明けたからには、何としても村雨組を味方に引き入れるべく動いてくるだろう。これから連中が強引な手段に出てこないという保証は、何処にも有りはしないのだ。油断など出来るはずが無かった。


「……これから色々と大変になるな。あれ、そういやあ坊門からは『味方に付け』って言われたんだろ? 敷島さんは何て答えたんだ? まさか、形だけでも『わかりました』なんて答えてねぇだろうな!?」


「当たり前だ。敷島は弁護士ぞ。迂闊に言質を取られることの危うさくらい、心得ておるわ。最後の最後まで、こちらの立場は明らかにしなかったそうだ。いかなる質問にも、全て『一度横浜へ持ち帰って組長に伺いを立てなくては』と返したと」


「ああー。良かった。奴らには、あくまでも思い込ませるだけだ。味方だと思い込ませるだけ。間違っても、こっちからスタンスを明らかにしちゃならねぇ。ほんのちょっと口を滑らせただけで命取りになるぞ。マジで」


「申さずとも分かっておる」


 今後「クーデター派に味方する」ことを明言してはいけないが、連中の敵にまわることを悟られてもいけない。坊門たちの目を欺きつつ、水面下で反乱鎮圧の準備を進める必要がある。


 しかし、一方で時間的な余裕はあまり無いようだった。


「坊門からはせいを出すよう迫られておる。村雨組が奴に忠誠を誓ってゆくことを書面にして示せということだ。期限は来月の2日。あと1週間後までに送らなければ、坊門は我らを敵とみなすそうだ」


「マ、マジかよ……」


「敷島が私宛ての書状を預かってきた。尤も、坊門は煌王会傘下の全組織に従属を求める書状を送り付けたようだが」


 “どっちつかず”の曖昧な姿勢を対外的に維持し続けることでクーデター派の監視を誤魔化す作戦は、さほど長くは使えないらしい。回答期限に定めた10月2日までに誓紙を書かなければ、敵とみなして討伐の対象にすると坊門は宣言している。


「どうするつもりだ? その誓紙とやらを出しちまったら、俺たちは完全に坊門の一味になっちまうんだろ? かと言って、出さないなら出さないで潰されちまうだろうし」


「思案のしどころだな。涼平、これより7時を過ぎたら私の部屋へ来い。なかなか面白い物を見せてやろうぞ」


「8時……? あ、ああ。分かったよ」


 それとなく含みを残すと、首にかけたタオルで汗を拭いながら村雨は屋敷の中へと戻っていった。組長の言う面白い物とは、一体何だろうか。状況が状況であるだけにとても気になった。もともと村雨は冗談を好む人ではないため、ふざけた内容でないことだけは確かだ。


 あれこれ考えても仕方がない。俺はそれから屋敷の周囲をぶらぶら歩いて時間を潰すと、定刻通りに組長室の戸を叩いた。


「涼平か。入るが良い」


 いつものように襖を開けると、そこには着替えと身支度を済ませた残虐魔王の姿があった。先ほどまでは乱れていた髪もすっかり整っていることから、察するに朝の入浴を済ませた後と思われる。


「……で、何だ? 俺に見せたい面白い物って」


「これだ」


 村雨が俺に差し出したのは1枚の封筒。そこには見覚えのある筆文字で「通達」と書いてあり、中にはタイプライターらしきもので打たれた明朝体の活字の並ぶ手紙が入っている。


「えっ!? こいつは……!?」


 俺は内容へ視線を落としていって、すぐに差し出し主に気が付く。それは今回の動乱の首謀者、坊門清史によってしたためられたものだった。


 ーーー


 煌王会諸君に次ぐ


 平成十年九月二十三日、名古屋市栄町二丁目のラ・ロシェルにて催された長島勝久親分との会食の席上で、若頭の日下部平蔵が懐に所持していた拳銃を突如発砲、長島親分に計六発の銃弾を浴びせ、重傷を負わしめた。


 長島親分は現在、名古屋市中央病院集中治療室に入院し、なおも意識が戻らぬ状況に在らせられる。また、会長の隣に居られた勢都子女将は眼前にて行われた惨劇にひどく心を痛め、精神疾患を発症し、同病院精神科病棟へ入院された。


 日下部については、その邪心を察して急ぎ現場へ駆け付けた煌王会若中の古牧厳が討ち取り、既に誅を下されている。


 この度の日下部の挙動は親分および煌王会に対する重大な反逆行為であり、万死に値する謀反である。したがって、日下部平蔵ならびに河内貸元の日下部組は九月二十三日付で絶縁処分とした。よって、以降、諸君には理由の如何を問わず日下部組との「縁組・客分・交友・商談・使用」等の儀をかたく禁ずる。


 なお、日下部が嘆かわしくもこのような軽挙妄動に出た背景には、関東に根城を置く中川会の教唆があったことが確認されている。


 本年三月から八月にかけて、日下部は長島親分に断り無く東京都へ赴き、中川会の中川恒元会長と接触。中川会長に煌王会の内情および組織機密を漏洩し、見返りに多額の金銭を受け取っていた。


 そうした中で、次第に日下部には長島親分および煌王会への逆心が芽生え始め、そこに付け込んだ中川会長から長島親分の暗殺を持ちかけられ、日下部はこれを受諾。中川会への移籍と最高幹部の地位を用意することを交換条件に、浅ましくも長島親分暗殺を実行に移したのである。


 この度の事件は、主君から受けた御恩を忘れ、醜い虚栄心と出世欲に目が眩んだ日下部平蔵の暴挙であることは言うまでもない。しかし、日下部を言葉巧みに煽り、謀反の引き金を引かせた中川会にも罪の一端がある。


 従って、煌王会は九月二十四日、この未曾有の事態に際して以下の内容を決定した。


 一、日下部の身内および関係者の追討


 一、中川会に対する責任追及


 これらを速やかに成すためには、組織全体が強く結束し、一枚岩になって前へ進んでゆくことが欠かせない。よって、長島親分が戻られるまでの間、舎弟頭の坊門清史が会長代行に就任し、臨時で政務を執り行うことと相成った。こちらの代行職は本来であれば会長夫人が務めるものであるが、前述の通り勢都子女将は心神を喪失し尋常な判断力を欠いた状態に在らせられる。それゆえ不肖坊門が、勢都子女将に代わってやむ無く代行職に就いたことを了承されたし。


 なお、この代行体制発足に伴い、九月二十四日に臨時の組織人事を行った。詳細は以下の通りである。


 一、坊門清史舎弟頭が会長代行を拝命


 一、古牧厳若中を議定衆列席


 一、清原武彦若中を議定衆列席


 一、藤野昭治舎弟を議定衆列席


 一、樋浦正高舎弟を議定衆列席


 一、苅田稔舎弟を議定衆列席


 一、日下部平蔵元若頭を絶縁処分


 一、奉公衆五十二名を破門処分


 今回の事件に於いて、古牧厳は謀反人である日下部平蔵を真っ先に討ち取るという武功を挙げた。


 また、清原武彦、藤野昭治、樋浦正高は錯乱状態に陥った勢都子女将を保護し、病院まで護衛し連れてゆく働きをした。


 苅田稔については謀反を起こした日下部の所領を迅速に制圧、日下部組事務所を接収することで第二の惨事を防いだ。


 古牧、清原、藤野、樋浦、苅田の五名を議定衆に加えることは、いずれも功績に報いた恩賞である。


 一方、坂本源太郎をはじめとする奉公衆全員については九月二十四日付で破門とした。会長に付き従い、身辺をお守りする役目を負っていたにもかかわらず、それを果たせなかったことへの当然の罰である。


 上記人事に関しては思うところのある者も居るだろうが、不服を抱かず同意してもらいたい。


 繰り返しになるが、この度の事件は煌王会始まって以来、前代未聞の出来事である。仮にも組織の次席にある若頭が外部の教唆を受けた末に主君の暗殺をはかるなど、任侠渡世に於いても滅多にないことであろう。明治に旗揚げした煌王会の長い歴史に重大な汚点を残した、取り返しのつかぬ恥ともいえる事件だ。この不始末を二度と繰り返さぬよう、我々は今一度組織の結束を確かめ合い、一枚岩になってゆかねばならない。


 中川が日下部の懐柔に成功していた以上、煌王会には他にも干渉を受けた者が存在する可能性を疑う必要がある。身内に疑いの目を向けることは心苦しいが、組織始まって以来の危機的状況のため、断腸の思いで調べを進めなくてはならない。


 煌王の代紋を掲げる全ての諸君に通達する。十月二日までに、組織への逆心が無いことを約束した誓紙を提出せよ。組織に改めて忠誠を誓い、臨時の大権をお預かりした不肖坊門のもとで一致団結してゆく意思を表明せよ。


 誓紙に於いては、以下の四つを明文するように。


 一、外部組織と友好的接触が無いこと


 一、煌王の代紋を重んじること


 一、これより先、何があっても坊門清史会長代行に従うこと


 一、万が一長島勝久親分が身罷られて組織の跡目を決める必要が発生した場合、坊門会長代行を七代目として支持すること


 これらの条項が盛り込まれていない文面は、誓紙としては一切認めない。なお、残念ながら十月二日までに誓紙が提出されなかった場合は、その組を中川会との内通者と断定、処罰の対象とする。


 今回、この書状は長島親分から直接盃を受けていない者にも送付している。これは末端に至るまで、改めて組織の結束を問い直すためである。ゆえに、この書状が届いた組は速やかに誓紙の提出を行うこと。


 諸君らの義侠心に期待する。


 平成十年九月二十五日

 六代目煌王会 会長代行 坊門清史


 ーーー


 諸君だの不肖だの俺にとってはあまり馴染みのないワードが多く、文面も非常に古めかしく読みづらい。されど、書いてある内容自体は何となく理解できた。


 会長暗殺未遂の罪を日下部若頭になすり付け、あまつさえどさくさに紛れた権力掌握を正当化しようとする欺瞞に満ちた文章。これを書いている坊門の忌々しいニヤケ面が目に浮かぶ。俺自身は面識こそ無いものの、きっと絵に描いたような間抜け顔だろう。そうに決まっている。


 現状が緊急事態であることを異様なまでに強調し、それにかこつけて自分への忠誠を誓わせようとする傲慢さ。読み終わるまでに、俺は腹立たしさの沸騰を堪えることができなかった。


「なんだよ、これ。くっそムカつくな。何が『前代未聞』だ。全部、自分テメェが仕組んだことだってのによ」


「幹部たちが同心して会長を嵌めるなど、かような謀反は前例が無い。その点では、確かに煌王会始まって以来の出来事であろうな」


 書状には、真の実行犯である古牧巌を議定衆入り、つまりは幹部に昇進させたと書いてあった。また、それに並んで斯波一家の清原武彦総長ほか4名が幹部昇進を果たしている。


 これはかねてより犯人として名が挙がっていた古牧は勿論、清原たちまでもが最初からクーデター派に与していたことを意味する。既知の通り、斯波一家は村雨組の上部団体にあたる組織。だからと言って村雨組が彼らに同調しなければならない義務は無いものの、世間的な風当たりは冷たくなる。やや難しい立場に立たされてしまった。


「清原が此度こたびの謀反に同心するのは納得がいく。奴は今の体制に決して少なからぬ不満を抱えておったゆえ」


「うん。たしか、そんな話だったよな」


 先日に本庄から聞いた話では、清原は現六代目体制で煮え湯を飲まされているとのことだった。隣接する桜琳一家から領地の侵食を受けるも長島会長の“身内贔屓”で何もできず、悶々とした日々を過ごしていたとのこと。


 兄貴分にあたる古牧組長と同様、清原は現体制に強い不満を抱いているのだ。彼が斯波一家を挙げて謀反に加担する動機は大いにある。村雨は、もありなんといった表情を浮かべていた。


「清原め、ずいぶんと思いきった行動に出たものだな。尤も今の状況では遅かれ早かれ、奴は六代目に弓を引いていただろうが」


「その辺の事情はよく分かんねぇけど、何にせよ俺たちは斯波一家とも本格的に揉めるってことだよな。斯波とドンパチやるのは直系に上がってからだと思ってたけど、そうはいかねぇみたいだな」


「頃合いが少し早まったに過ぎぬ。坊門の謀反が起こらなくとも、我らが横浜貸元となれば清原は遅かれ早かれ必ず戦を仕掛けてくるはず。いま斯波一家を潰しておけば、後々の面倒が軽くて済む。何ら問題は無い」


 元より斯波一家とは事を構える予定だったのだ。多少の想定外はあれど、俺たちの基本的戦略は変わらない。立ちはだかる相手は誰であろうと潰す、それが武闘派村雨組のやり方だ。無論、一筋縄ではいかないだろうが。


「横浜に抗争を抱えながら、煌王会のお偉方のゴタゴタまで片付けなくちゃならねぇなんて。直系に昇格するってのも楽じゃないな」


「うむ。そうだな。しかし、どちらかと申せば謀反を鎮めた後の方が大変かもしれぬ。坊門のせいで、煌王会は厄介な敵をつくってしまった」


「厄介な敵……?」


「書状を今一度、よく読んでみよ」


 村雨に促され、俺は再び通達文に視線を落としてゆく。坊門のせいで煌王会がつくってしまった厄介な敵とは、果たして誰のことか。その答えはわりと早くに見つかった。思わず、素っ頓狂な声が出てしまう。


「ああっ! そういうことか! いやいや、これはマジでヤバいだろ! 中川会に喧嘩を売ってるようなもんじゃねぇか!」


「左様。何を血迷ったのかは分からぬが、これで煌王会は関東の虎の穴を踏んだことになる」


 書状の中にあったのは、今回の長島会長暗殺が中川会の陰謀によるものであるという文面。もちろん濡れ衣だが、不名誉な名指しを受けた党の中川会は確実に激怒するだろう。


 おまけに通達文は煌王会の代紋玉印が捺された公式なものだから、そこに書いてあることはそのまま煌王会の意思とみなされる。「坊門個人の見解だった」と言い訳することは道義的に不可能。坊門を打倒して謀反を鎮撫した後で、煌王会は更なる敵と戦う羽目になる。関東との戦争だ。


 ただでさえ家入のせいで中国マフィアとの火種を抱えているというのに、ここで新たな因縁も生まれてしまうとは。煌王会の先が思いやられて仕方がない。中国人との二正面戦争になったら、煌王会はひとたまりも無い。組織が瞬く間にガタガタになってしまう。


「坊門って野郎は正気でこんなのを書いたのか!? シャブでも打って書いたんじゃねぇのか……!?」


 戦争という大きすぎるリスクを抱えてまで、坊門が中川会に罪をなすり付けた理由は何か。俺にはさっぱり見当もつかなかったが、村雨はひとつの推測を得ていた。


「私が思うに、坊門は“共通の敵”をつくりたかったのであろうな。会長代行となった己に人心を集め、組織を短い間でまとめ上げるために」


「はあ? 皆をまとめるための手段が、中川会との戦争だってのかよ……?」


 ひどく困惑した俺に、村雨組長は大きく頷いた。


「左様。つまりはそういうことだ。中川会とのいくさをきっかけに組織の結束を高め、己を中心に一致団結させる。そして、ゆくゆくは戦の混乱に乗じて煌王会七代目の椅子に座る腹積もりなのだろうな」


「いや、だとしても相手が悪すぎるだろ。中川会なんて。たとえ計算通りに跡目の座を手に入れたとしても、中川会との戦争に負けて煌王会が潰されちまったら意味がねぇだろうよ」


「中川には勝てると踏んでおるのだろう。坊門は。実際、単純な兵の数では煌王会の方が少し上回っておるゆえ。戦は始めてみないと分からぬことが多いのだがな」


「そうかもしれねぇけどさ、これはいくらなんでも無謀すぎるぜ。俺には坊門がトチ狂ったとしか思えねぇよ……」


 後々の戦争に必ず勝つ自信があるのか、ただ単に後先の事を何も考えていなかったのか、あるいは土壇場で戦争を回避する秘策を持っているのか。坊門の真意は不明だ。


 何にせよ、もし戦争になれば前線で命を散らすのは末端の組員たち。坊門は執務室の玉座にふんぞり返っていれば良いのだから何とも気楽なものだ。中国マフィアと安易に結託した家入にも言えることだが、どうにも戦争のリスクを軽く考えている気がする。俺は強烈な嫌悪感を抱いてしまった。


 ただ、相手のチョイスこそ間違っているものの、坊門の戦略自体は非常に賢くて効率的なものであるという。


「憎むべき“共通の敵”をつくり上げ、それを討つための旗印に自らが立つ。さすれば坊門のように信望なき者であっても自ずと人が付いてくる」


「まあ、確かに言われてみれば……」


「むしろ今の坊門が煌王会を掌握するには、それしかなかったのだ。せいぜい千葉の緋田組あたりにしておけば良かったと思うがが、やはり相手は大きいに限る」


 大きければ大きいほど、戦いを通じて組織の結束は強固になってゆくのだと村雨は語る。なるほど。確かに的を得た推察である。


 中学時代にクラスどころか学校中から後ろ指を指された経験を持つ俺としては、痛いほどに理解できるロジックだった。あの時は「学校一の暴力少年・麻木涼平」という共通の敵を前に、全校生徒が謎の結束感で連帯していた気がする。それもまた、集団心理が作用した結果であったというわけか。奴らが連帯したところで、大して俺の敵ではなかったのだが。


 個人的な経験談はさておき、今の村雨組は大きな正念場を迎えている。これからの動きは他の組の出方を窺いつつ判断するとのことだが、坊門に靡く者は今後どんどん増えるというのが村雨組長の見解だった。


 近頃は衰退傾向にあるものの煌王会では一応老舗の名門所帯として通っている斯波一家が、クーデター派に与したという事実。これが非常に大きかった


 俺は村雨に問う。


「もし仮に、会長襲撃が本当は坊門の仕業だって情報が広まったとしても。その坊門を斯波一家が支持するってなったら『右にならえ』で後に続く奴も多いんじゃねぇのか? ただでさえ、長島会長のやり方を快く思ってなかった連中も多いわけだし……?」


「ああ。そうなる可能性は大いにあるな。少なくとも、斯波の傘下組織は村雨組われらを除き全てが坊門側に付くであろう。議定衆の中にも、いずれ坊門の肩を持つ御仁が現れるやもしれぬ」


「先行きは読めねぇってことか……」


 浜松市長選への不法介入が明るみに出て以来、斯波一家は大量の逮捕者が出て崩壊寸前。されど、腐っても鯛。どんなに組が傾こうとも「草創期から煌王会を支えた名門」のネームバリューは残る。


 斯波一家そのものに兵は居らずとも、去就を決めかねている他の直系組長を靡かせるくらいは容易いだろう。斯波に倣って坊門に与する者は、今後確実に現れるはず。


 坊門に付く者が増える。それは即ち、クーデター派が戦力を拡充してしまうことを意味する。


 組織内の覇権闘争において勝敗を分かつ要素は、個人の強さや頭脳ではない。ましてや正義などでは絶対に無い。


 結局のところ、かずである。少しでも多くの人間を味方につけた方が勝ち、それができなかった方が敗れるのだ。


「寄らば大樹の陰」のことわざが示す通り、権力者に縋りたがるのが人の習性。とりわけ関西の極道は、その傾向がきわめて強い。たとえ会長襲撃事件の“真相”を知ったとしても、坊門の勢力が強大であれば人々は逆らえない。むしろ、勝ち馬に乗ろうとすり寄ってゆく。


 坊門一党がこのまま支持者を取り込み続けて戦力を増やし、煌王会において多数派となれば、きっと誰もが坊門に従わざるを得なくなる。そうなった時、坊門の暴挙に異議を唱えてクーデター鎮圧を主張する者が、果たして何人残るだろうか。


 謀反を起こした事実が露見する前に、味方を増やして煌王会内の地盤固めを行い圧倒的な数の優位を形成する。これこそが坊門のねらいだ。

 ゆえに、奴は組織の人心を自らに集めようと急いでいるのである。「六代目が撃たれたのは中川会の謀略」という途方もない与太話を吹聴しているのも、共通の敵をつくって組織を結束させるため。


 悔しいが、現状はすべてが坊門たちの思惑通りに動いている。クーデターが早期に鎮圧されると踏んだ俺たちの予測は見事に外れ、前途に暗雲が漂ってしまった。


 取り出した煙草に火を付け、村雨は言った。


村雨組われらの正念場だ。ここで選択を誤れば、直系への昇格どころか組の存在そのものが消える。いかに手を打てば良いものか。何か、坊門を抑える切り札があれば……」


 乱を起こした坊門に、味方をするか否か。情勢を考えれば前者を選んだ方が良いに決まっている。荒波の中で生き残るためには、常に勝ち馬に乗り続けることが最も重要だからだ。その辺りは村雨も重々承知しているはずだ。


 それでも彼がクーデターの討伐を考えるのは、斯波一家に同調したくないからといった感情的な問題ではない。現在は人事不省にある長島会長が、今後息を吹き返す可能性が少なからず残っているためだ。長島が目を覚まして事の次第を全て知った瞬間、坊門一派は賊軍へと転落してしまう。勝機を泥船に乗ることの恐ろしさを村雨は知っている。だからこそ、あくまでも坊門との対決を志向しているのである。


 だが、俺には懸念があった。


「……もしかしたら、だけどさ。会長がこのまま永遠に目を覚まさないって可能性も考えられるんじゃないかな」


「何故にそう思うのだ?」


「息を吹き返す前に、坊門が会長を殺すかもしれねぇから。だって、会長に目覚められたら全てがパーなんだろ、坊門は。俺が坊門だったら、絶対にそうするぜ。死んだのは病院側のミスってことにしてさ」


「うむ……無きにしも非ず、だな。しかし、坊門にその気があれば、既に奴は六代目を手にかけているはず。六代目に目覚められたらまずいのなら、もっと早うに命を奪っているはずなのだ」


 それを敢えてやらずに昏睡状態のまま生かしているということは、会長を迂闊に殺せない何らかの事情が坊門にあるということ――。


 村雨の推理だ。その事情とやらが果たして何なのかは俺には皆目見当もつかないが、少なくとも今までに長島の息の根を止めるチャンスが坊門一党にはいくらでもあったはず。そもそも、今回の会長暗殺は何故に“未遂”で終わっているのか。根本的に疑問に思えてくる。


「ふと思ったんだけどさ。古牧さんはどうして、会長にトドメを刺さなかったんだろ? 若頭の日下部さんは頭を撃って確実に殺してるのに、どうして会長は胸を何発か撃つだけで終わったんだ?」


「確かにな。意識不明の重傷とはいえ、中途半端に生かしておく理由が分からぬ。坊門たちにとって、謀反の目的が六代目体制の打倒にあるならば尚更だ」


「もしかして、連中の本当のねらいは会長じゃなくて若頭の方だったのかも。古牧さんは若頭

 だけを撃ちに行ったはずが、そこに何かの手違いで会長も居て、結果として巻き添えを食わしちまったと……いや、でもそれじゃあ坊門たちが煌王会を乗っ取った理由に説明がつかねぇか……」


「ああ。そうだな」


 頭の中でいくつかの考察が浮かびかけたが、いずれも根拠薄弱。論理もすぐに破綻してしまい、俺は仮説の展開を途中で諦めた。冷静に考えれば連中の本来の目的が誰だったかなどは、所詮どうでも良い些末事なのだ。何であれ、会長が銃弾を浴びて昏睡状態に陥り、その隙を突いて坊門清史が煌王会の実権を掌握した事実に変わりは無い。


 いま考えるべきは、今後の身の振り方。ただ、それだけである。


「……これから、どうするんだ? この手紙を読む限りじゃあ、来週までに結論を出さなきゃいけねぇみたいだけど?」


「ううむ。どうしたものか。ひとまずは他の組の様子を窺うとしよう。私としては謀反人の軍門に降る気は更々無いが、趨勢によってはやむを得ぬかもしれぬ。だが、できる限り坊門の謀反は我が手で鎮めたいと思うておる」


「そっか。そのためにも、まずは横浜の抗争をどうにかしねぇとな。笛吹のクソ野郎に、韓国のヒョンムル、中国の狗魔。ああ、そういやあ中川会の伊東一家も攻めてくるって言ってたっけ。敵が多いけど、地道にやってくしかねぇわな」


「まさに四面楚歌だ。連中を一か所に集め、一網打尽に叩き潰す術でもあれば容易いのだが。まあ、戯言ぞ。左様に美味い上策などあるわけもない」


 いくつもの敵に囲まれている上に、重大な決断まで迫られている村雨組。俯瞰して考えれば笑ってしまうくらいに絶望的な状況だが、決して未来の全てを悲観するには及ばない。必ず、どこかに突破口が存在すると思っていた。状況を打開して活路を見出すための道筋が、いずれ開ける。そう、強く信じていた。


「組長。俺に出来ることがあったら、何でも言ってくれ。俺はあんたの命令なら誰でも殺すし、どんな危ない橋も渡ってくる。あんたの息子としてな」


「ああ。私も元よりそのつもりだ。仕事があればその都度伝えるゆえ、いつでも動けるよう体は温めておくが良い。鍛錬を怠るでないぞ」


「もちろん。分かってるさ」


「涼平、これより先は私もお前も綱渡りぞ。かように面白い展開はそうあるものではない。せいぜい、楽しんで参ろうではないか」


 面白くなってきた。明らかに危険な状況であるにもかかわらず、笑みを浮かべてしまうのは男の闘争本能ゆえのことか。俺が微笑んでいたのと同様に、村雨組長もまた頬を緩めていた。決して明るい希望など無いが、綱渡りを楽しむくらいの余裕はある。どこか上機嫌なまま、俺は組長の部屋を後にした。


 すると、引き戸の前の廊下に思わぬ人物が立っていた。


「綱渡りかあ。キミと組長は何故だか面白がってるみたいだけど、僕にはそう思えないよ。少なくとも、僕は崖っぷちの状況を面白がることなんかできやしない。麻木クンみたいな馬鹿じゃあるまいし」


 菊川だった。先ほどの村雨との会話を全て聞いていたようで、決意を示した俺をあからさまに嘲笑していた。その瞳の奥には、俺への怒りが燃えている。おそらくは、自分を差し置いて組長室へ呼ばれたことへの嫉妬。


 元よりクーデター派への全面的恭順を主張していた彼とは、そもそも相容れなかったのだ。摩擦が起こるのも無理はない。だが、わざわざ見苦しいやっかみに付き合ってやるほど暇でもない。


 壁にもたれかかった菊川を一瞥し、俺は淡々と言葉を返してゆく。


「立ち聞きしてたのかよ。趣味が悪いな。別に、あんたが何と思おうが構わねぇ。決めるのは組長。どんな命令を言い付けられようと、俺はそれに従って動くまでだ」


「今更忠告しても無駄だろうけど、そういう猪突猛進さは身を滅ぼすよ大人の言うことを盲信して突っ走ったって、幸せになんかなれないというのに。つくづく、キミは馬鹿な子供だよ。せっかくキミには若さがあって未来もひらけているのだから、もっと自分の頭で考えて動けば良いじゃん」


「幸せなんざ要らねぇよ。未来や将来が何だってんだよ。ただ、俺は何があっても村雨耀介についていく。それだけだ。その結果、地獄に堕ちるならむしろ本望ってやつだ。あんたにとやかく言われる筋合いは無い」


「ああ、やっぱりバカだ。バカすぎて救いようが無い。僕は極道の世界で14年生きてきたからわかるけど、結局、この稼業はキミみたいなのが真っ先に死んでいくんだよね。使い捨てにされて、ゴミみたいな末路を辿る。それがお決まりなのさ」


 一体、この若頭は何を述べたいのやら。組に身を置く人間である以上、組長の考えに愚直なまでに従ってゆくのは当然だというのに。組長のために命を捧げると決めた俺の、何が間違っているというのか。菊川は嫌味をぶつけたいだ

 けなのだろうが、こうまで言われ続けては流石に腹が立ってくる。


「ねぇねぇ、麻木クンさぁ。キミは自分の運命について真剣に考えたことはあるかい?」


「さあな。そんなくだらねぇこと、考える余裕も無い。俺は暇じゃねぇんだ。そろそろ、行かせてもらうわ」


「偉大なるヤクザのチルドレンとして生まれたのに、親の跡を継ぐわけでもなく単なる兵卒として村雨組に入った。そして後先考えない戦闘狂の組長に振り回されてた挙句、使い捨ての駒として一生を終える! 惨めだねぇ、まったく!」


 そろそろ我慢の限界だ。出来る限り相手をせず早々と立ち去ろうと思っていたが、言われっ放しでいるのも癪に障る。やがて俺は立ち止まると、背後から嫌味を連発する若頭の方を勢いよく振り返る。そして、痛烈な一言を浴びせた。


「お前、いっぺん黙れよ。殺すぞ」


「ほう!? 何を言い出すかと思えば、若頭である僕に向かって『殺す』とは! これまた、ずいぶんと大きく……」


「お前が若頭だろうが関係ねぇ。村雨耀介の意思が俺の意思。それを邪魔しようってんなら誰であろうと殺す。それだけだ」


「……っ!?」


 口から出た言葉は、思いのほか高圧的だった。想像していたよりもずっと凄みが効いていて、いつになく迫力が伴っていたと思う。


 これにより流石の菊川もみるみるうちに大人しくなるかと思われた。しかし、奴が一瞬たじろいだのも束の間、返ってきたのは意外な反応だった。


「……ははっ! あははははははっ! あーはっはっはっはっ! いいねぇ! いい顔になった! これは傑作だ! 素晴らしいよ、ほんとに!!」


 何故か、腹を抱えて大笑いし始めた菊川。まさに抱腹絶倒。込み上がる感情を抑えることができないのか、やがては笑いながら床に座り込んでしまった。


「てめぇ、何が可笑おかしい? マジで殺してやろうか? ああ?」


「いやいや! そりゃ笑うでしょ! だってほら、ついにキミの顔が変わったんだもん! 面白くて仕方ないよ! あはははははっ!」


「変わっただと?」


 眉間にしわを寄せた俺に、菊川は首を大きく縦に振って応じる。


「ああ。そうさ! ようやく極道の顔になったな、麻木涼平。初めて会った時は青臭いガキだったのに、ここ1ヵ月で一気に脱皮したね。大したものだよ。冗談抜きで!」


 極道の顔になった――。


 笑い転げる若頭曰く、それは内面から滲み出るものだという。つまり俺の人間性における根源的な部分が変化したということか。「脱皮した」という表現が示す通り、皮がむけて大人へと近づいたのだろうか。しかしながら、俺には自覚が無い。自分で自分を振り返ってみても、具体的な変化が見当たらない。


 思わず、俺は菊川に問うてみる。


「……どういうことだよ、俺が極道の顔になったって。あんたは俺の何を見てそう思ったんだ?」


「ふははっ! わかりやすい例を挙げるなら、考え方の変化だろうね。つい先月こないだまでのキミは何を考えるにも自分中心だったが、今は違う。村雨耀介の意思が自分の意思だと堂々と言ってのけた!」


「そりゃあ、確かにそうかもしれねぇが。それが極道らしい思考だとでも言いてぇのか?」

 

 菊川は大きく頷いた。


「極道の基本はめっほうこう。あらゆる私情を捨て去り、命を賭して主君に忠を尽くすことだ。麻木クン、今のキミには私心が無い。物事の判断基準の全てに村雨耀介が絡んでいる。気持ち悪いほどにね」


 最後の一言のせいで、褒められているのか貶されているのか分からない。だが、菊川が俺という人間を認めていることだけは何となく伝わってきた。先ほどまで容赦なくぶつけられた嫌味は、もしかすると俺に対する評価の裏返しなのかもしれない。認めているからこそ、嫉妬の情念が沸き起こるとも考えられよう。


「そうかよ。なら、褒め言葉として有り難く受け取っておくぜ。ま、俺にしてみりゃ自覚は無いんだけどな。自然とそう考えるようになってたっていうか」


「それを『成長』っていうんだよ。とにかく、キミは完全に極道に染まってるよ。主君の言葉を盲信し、操り人形みたいに従い続けるバカな極道の典型例にね。 あーあ! 鬱陶しい! 村雨耀介の露払いは僕だったのに、このままじゃキミにその役目を奪われちゃいそうだ。ほんと、大嫌いだよ。麻木クン」


「好きに言ってろ。変態野郎が」


 思わぬ形で褒められてしまった。ぶっきらぼうな台詞を吐き捨てて菊川に再び背を向けた俺だが、もちろん褒められて悪い気はしない。


「せいぜい早死にしないように頑張りなよ? この世界じゃあ、基本に忠実な奴ほど早死にするのがお決まりだから!」


 去ってゆく背中にそんな言葉が飛んできたが、俺は敢えて反応を示したりはしない。思考をフル回転させ、近頃の自分自身について振り返ることに夢中になっていたのだ。


(確かに、考えてみれば……!)


 気づかなかっただけで、自覚し得る出来事は意外と多かった。例えば、昨晩のこと。歩き疲れた老人を背負って運ぶという柄にもない行為をやってしまった際、俺の中にあったのは「この人に優しくしてあげよう」などといった私心にあらず。


 あの時は、ただ村雨組長の利に繋がればとだけ考えていた。「敷島を早く屋敷に運ぶことで、組長に1秒でも早く情報を届けたい」という純粋な思い。それが、普段の俺ならば絶対に選ばないであろう選択肢を選ぶ決め手となっていたのだ。


 物事の判断基準の全てに村雨耀介が絡んでいる――。


 言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。何かの岐路に立たされた時、俺はもはや自分を基準に考えて決めることが無くなっていた。村雨のためになるか、否か。それが唯一かつ絶対的な指針になっていた。


 その価値観は誰かに強要されたわけでもなければ、自らそうしようと努めたわけでもない。ましてや暴力に依る洗脳を受けてもいない。そんな俺が「成長」というか「変貌」を遂げたのは、ごくごく自然な流れだった。村雨組で過ごす日々の中で、無意識のうちに変化していったのだと思う。


 完全に私情を滅して、誰かのために尽くしたいという心。昨日の夜から上手く名前を付けられずにいたが、ようやく適切な名詞と巡り合えそうだ。


(これはにんきょう……いや、違うか!?)


 俺の中で、何かがひらけたような気がしていた。

生きる指針を導き出し、

悟りをひらいた麻木涼平。


彼が向かう先にあるのは、果たして……?


第7章はこれにて完結となります。

お読みくださった全ての皆様に、

心より御礼申し上げます。


今回が年内最後の更新になります。


第8章は年明け1月4日18時の予定です。


皆様、よいお年をお迎えくださいませ。

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