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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第7章 そして少年は極道になった
129/252

獅子の形代

 村雨によると、俺を組へ正式加入させるのは12月7日。その日、絢華との婚約と並行し俺に組盃を与える儀式を執り行うのだという。


「12月7日って、俺の誕生日の前日だな」


「左様。お前がよわい16を迎える前夜だ。光寿公も、私も、16の時分に任侠渡世へ足を踏み入れたゆえ、お前にはひとつ早い齢で盃を呑んでもらう。それが如何なる意味か、分かるな?」


「……ちょっとオーバーかもしれねぇけど。父さんとあんたを超えるヤクザになって欲しいってか? 」


「うむ。その通りだ」


 当てずっぽうで答えたら、まさかの的中。俺は己の勘に慄然とした。最近、良くも悪くも現実が予感と一致する。その確率があまりにも高すぎて、自分は何かに取り憑かれているのかと疑ってしまうほど。予感を外して損失を被るよりは、全然ましなのだが。


 また、それと同程度に驚いたのは村雨組長が俺の誕生日を覚えてくれていたこと。数か月前、組へ来る際に生年月日を教えたきりで、直近では話題にも上っていなかった。さすがは村雨耀介。なかなかの記憶力だ。昨日か一昨日に調べ直したのかもしれないが、それはそれで嬉しい。


(……ま、いいや。ひとまず、今は関係ねぇか)


 自分の事情で目を細めている場合ではない。日取りに込めた思いを語る組長の話に、真剣に耳を傾けなければ。


「涼平よ。以前にも申したが、お前ならばいずれ川崎の獅子を超えられる。あの御方が辿りつけなかった所へも昇れるであろう。無論、私のことをも超えてゆける」


「父さんはともかくだけど……あんたのことも超えるって、いくら何でも買いかぶりすぎじゃねぇか? 俺、まだ極道になってもいねぇんだぞ?」


「極道となる前なればこそだ。盃を呑む前から、左様なまでに輝きを放つわらべを私は見たことが無い。お前が大きく化けるという見立ては、私の確信なのだ。自信を持つが良い」


「ほ、褒めてくれるのはありがてぇが……」


 川崎の獅子より少し若い15歳のうちに盃を呑むことで、俺に亡き父を超える極道へ成長してほしいという村雨。


 されども、いまいち実感が湧かない。どうにも過剰な持ち上げられ方をしている気が否めなかったのだ。組長が俺を買っている事実は既に認識済みで、高く評価されているなと感じるのも今に始まった話ではない。それ自体は非常に光栄なことだし、名誉として誇れる。


 しかし、一方で近頃は些か度が過ぎてしまっているようにも思えた。俺のことを持て囃すばかりか、亡き親父と比較して「追いつけ、追い越せ」と発破をかけられる始末。


 死んだ親父は伝説の男。たかだか俺がどれだけ努力したところで、一生かかっても肩を並べられる気がしないというのに。


(俺に父さんを超えさせて、どうすんだか……)


 根本にあるのは組長なりの愛情表現と思ったが、村雨自身の自己満足も少なからず含まれているはず。「伝説の男を超えた極道を育てる」という行為に、何の面白味を感じているのやら。真意が分からず、俺は困惑した。心の中でため息が漏れた。


 勿論、組長の前で実際に息をついたりはしない。感想を悟られぬよう気を付けながら、俺は再び静かな聞き役に徹した。


「いずれ川崎の獅子を超えると確信が持てるゆえ、娘を安堵して託すこともできる。お前ならば、これから先に何があっても絢華を守ってゆける。私がいなくなった後も変わらず、だ。お前はあの子の未来を預けるに相応しい」


「あ、ああ。そいつはどうも。けど、あんたが今すぐ死ぬわけじゃないだろ? 縁起でもねぇ話だが」


「無論だ。この私に敗北は有り得ぬ。如何なる強者が敵にまわろうと、必ずや討ち取ってくれる。なれど、大きな戦の前には斯様にして己が身罷った後の身の振り方を決めておくものだ。さすれば、後顧の憂いを絶って戦場へ行ける」


「要は、覚悟の問題ってわけか……」


 命を懸けた戦いを前に愛娘の身請け先を決めておくとは、何とも村雨らしい。彼にしてみれば、そうしておくことで心置きなく事の対処に当たれるのだろう。ただ、安易に死なれては絢華が悲しむ。娘のためにも是が非でも抗争に勝ち、生き抜いてもらいたいところ。決死の覚悟を決めている男には、少々野暮な要望だが。


「もし仮にあんたが死んだら、俺が絢華を守っていくってことだな……だったら、俺は死ねないな。何が何でも、生きて帰んなきゃならねぇ。そういうことだよな?」


「そういうことだ。此度、お前に与える役目は『死ぬ覚悟で戦うこと』に非ず。『生き抜く決意を固めて戦うこと』である。それをゆめゆめ。忘れるでないぞ。ゆえに、敢えて今のうちから絢華と夫婦めおととなってもらうのだ」


「なるほどな。じゃあ、言ってしまえば枷みてぇなもんか。絢華のために生きて帰らなきゃならねぇって枷がありゃ、俺も無駄死にができなくなるからな。まあ、覚えとくぜ。元より俺に死ぬつもりは無いがな……」


「うむ。その覚悟でおれ。お前が命を捧げるべきは組ではない。絢華だ。お前ならば、きっと私の代わりが務まろう。いや、あの子にとっては私が側にいるよりも良いやもしれぬ」


 決してそんなことは無いはず。村雨組長は絢華のかけがえのない家族。むしろ、俺よりもよほど尊い存在であるといえよう。娘が己を慈しんでくれていることは事実なのだから、自分もそれを枷にして生きる生き抜く決意とやらを固めれば良いのに。


 実に簡単な話。思わず、そう言いたくなってしまった。だが、俺の無粋なツッコミは口に出す前にかき消される。村雨が繰り出してきた次なるテーマが、俺の心を少なからず騒がせるものだったのだ。


「絢華とは正式に夫婦となるわけだが、お前はいかに思うておる? お前自身に異存は無いか?」


「い、いや。そんなのは、無いぞ……」


 ここで否定を投げる選択肢など、俺に浮かぶはずも無い。


 聞けば2年後に俺が18歳へ達した頃合いを見て、正式に入籍して夫婦にさせるのだという。18歳といえば日本において男子が妻を娶れる最低年齢。それまでの2年間は形式だけの、仮初めの夫婦関係を過ごすこととなる。今冬に行うのは、いずれ来る正式な結婚に先駆けた儀式であると村雨は語る。


「まずは12月、お前は私の養子となってもらう。そして再来年までの2年間、絢華のいいなずけとして過ごすのだ」


「い、許婚って……?」


「夫婦になることが約束された仲ということだ。お前の場合は再来年、齢18になった折だ。我らが世界に表社会の法は関わり無いが、絢華の結婚は公にも認められたものとしたいゆえ。多々不服はあるだろうが、2年堪えてくれ」


「いやいや。不服なんか無いって。あいつと結ばれるんなら、何年でも待ってやる。イイナズケだろうがイイズナゲだろうが、呼び方は何だって良いよ。っていうか、そんなことより……」


 詳しい事情はよく分からないが、愛しの想い人と一緒になれるのなら形は何だって構わない。俺は一生かかっても、絢華と添い遂げる。どんな想定外が降りかかろうとも数か月前の決意が揺らいだりはしないのだから。


 言ってしまっては申し訳ないが、こちらにしてみれば何を今更という話。それ以上に、俺にはひとつ気になる点があった。


「……さっき、俺が組に入った後の立場は実子じっしかくとやらになるって言ったよな? 俺があんたの子になるって。それって、とどのつまり。俺が“麻木涼平”から“村雨涼平”になるってことか?」


 俺が投げかけた問いに、組長は大きく頷いた。


「ああ。そういうことになるな」


「ええっ……!」


「ん? いかがしたのだ?」


 事前に認識していた内容と、少し違う。その差異に俺は困惑を隠せなかった。“実子格”とは単に組の中での肩書きに過ぎないと思っていたが、どうやらそれ以上の変化が起こる見通し。


 立場だけでなくうじまで村雨姓に変えさせるというから、おそらく手続きは法的効力も備わる公的なものだろう。


 絢華との結婚も、俺が彼女を「嫁に貰う」のではなく、俺が彼女の元へ「婿として入る」という形。名実ともに、俺は村雨耀介の息子として生まれ変わるのだ。


 無論、簡単に承服できる話ではない。村雨は少し不思議そうな目でこちらを見てきたが、それでも直ぐには受け入れ難い。


 俺にとっては、あまりにも大きすぎた。


「いや。何て言うか、その……」


「どこか腑に落ちぬ点でもあるのか? 確かに表の法が絡んだ話ゆえ、お前には少し分かりづらかろうが」


「あ、そういうことじゃなくて」


「では、何だというのだ? まさか絢華との婚姻に今更、不服を申したいわけではあるまいな?」


 そうではない。本人の気迫を前にすれば上手く言葉に変換できないが、俺の中で引っかかっている事項はたったひとつ。名字が変わることだ。己の名字が「麻木」ではなくなることが、俺が村雨に明るい返事を返せずにいる唯一の要因であった。


 名誉とまではいかないが、俺は己の名前が「麻木涼平」であることに誇りのようなものを感じていたのだ。任侠渡世において金字塔を打ち立てた伝説の男、麻木光寿の息子である自分に。


 そんなアイデンティティーの拠り所となっていたのが、父と同じ麻木の姓。だからこそ、俺にとって姓の変更はそれが失われることに他ならない。


 大袈裟かつ感傷的な表現であることは百も承知だが、まさしく己が己でなくなるようなもの。快諾を即答するなど、出来るわけがなかった。


「申し訳ないけど、ちょっと考えさせてくれ。名字が変わっちまうってなると、俺も流石に悩んじまうよ。俺ひとりじゃ決められねぇ。母さんにも話してみねぇと……」


 ところが、そんな俺に対する村雨の言葉は思いのほか淡白であった。


「くだらんな」


 容赦のない痛烈な冷笑。お前の感情など所詮はどうでも良いと浴びせられるがごとく、軽く一蹴されてしまった。だが、こちらも簡単には引き下がれない。一生にかかわる問題だ。ここは遠慮せず、気持ちをぶつけさせてもらう。


「く、くだらねぇだと……!? そんな言い方しなくたって良いだろ。別に俺は、絢華との結婚を渋ってるわけじゃねぇんだ。名字が変わっちまうのが嫌なだけだ。他には何も……」


 しかし、村雨の方が数枚上手であった。途中で詰まった俺の言葉を遮り、さらなる指摘を浴びせてくる。


「それがくだらぬと申しておるのだ。たかが名字、改めたところでお前自身には何の変化も及ばぬではないか」


「いや、たかがって……名字だぞ。そいつが変わる前と後じゃ、だいぶ違うだろ。少なくとも、自分らしさは失われちまう」


「ほう。では、お前の自分らしさとやらは名字が変わったくらいで容易く崩れるほどに脆いものなのか? もしそうなら、お前はとんだ軟弱者ということになるな。私に言わせれば、だいぶ情けない話であるが」


「ううっ……!」


 俺が恐れているのは、「麻木」姓でなくなるという一点。「麻木」姓を失えば、偉大だった父と自分との親子関係を示すあかしが消えてしまうのではないかと思っていたのだ。


 伝説の男の息子である証――。


 それだけが自分らしさだとすれば、村雨の言う通り俺はとんだ軟弱者だ。何せ、“自分らしさ”であるにもかかわらず“自分”の力のみで構成された要素は何ひとつ無いのだから。名字という親から与えられた賜り物にすがって生きる、あまりにも情けない男。極道社会の先輩方からすれば、そんな人間はお笑いぐさだろう。


 村雨の指摘はごもっとも。痛い所をピンポイントで突かれ、俺は何も言い返せなかった。一方、村雨の言葉は止まない。こちらがたじろいでいる間に、次なる矢が飛んできた。


「涼平。先ほど名字が変わることによって『自分らしさが失われる』と申したが、それはお前の都合でしかない。絢華のことは考えたか? お前の理屈で言うならば、絢華もまた改姓によって自分らしさを失うことになるのだぞ?」


 俺の考えは確かに独善的だったかもしれない。結婚に伴う名字の変更で精神的苦痛が生じるというなら、相手側もまた同じ。


 一般的に、結婚において名字が変わるのは主に女性。父との繋がりを尊ぶ俺と同様、自らの姓に思い入れのある者は多いはず。きっと、世の女性たちの多くが喪失感を忍んで泣く泣く改姓に同意していることだろう。


 これを自分たちの話に置き換えて考えると、要は俺と絢華。どちらが名字を変えるかという問題だ。


 俺が改姓を拒んで絢華にそれを求めた場合、彼女は現在の「村雨」姓を捨てて「麻木絢華」とならざるを得なくなる。愛する父の名字から離れる時、絢華はどんな思いを味わうだろうか。その辺りの視点が俺には悉く欠如していた。頭上から冷水を浴びせられた心地であった。


「あ、いや。それは……」


「もっとも、我が娘は賢いゆえ。左様な些末事を気にしてはおらぬだろうがな。お前と違い、あの子はたかが名字を己の誇りと思ったりはせん。真の自分らしさとは、己の力のみで掴み得るものであろう」


「……」


 己の考えの身勝手さを嗜められ、俺は返す言葉が無い。絢華のことを持ち出されては反論しようにも上手く反論し難い。組長の論理は明快に筋道が通っているが、こちらは単なる感情論。一方的に言い負かされるのは当然の至り。


 そんな村雨による説諭はさらに続く。


「涼平よ。私はお前に御父上を超えてもらいたいのだ。いつまでも麻木のうじを名乗っおっては、獅子の倅という鎖から抜け出せぬぞこれはお前自身が己の脚で歩き出す、良いきっかけになるであろう」


「たしかに、そうだけど。俺と父さんとの繋がりが消えちまうのは嫌だな」


「案ずるな。親子の絆は左様なことで消えたりはせぬ。名字が異なっていようとも、お前には光寿公の血が流れておる。それはこれから一生涯、決して変わらぬ」


 名字が変わっても本人同士の間に絆が存在する限り、家族である事実が消えたりはしない――。


 ざっくり要約するならば、そんなところか。血の繋がりが無いにもかかわらず絢華と強固な親子関係を築いている組長が言うのだから、そこそこ大きな説得力がある。


 だが、それでも俺は納得することができなかった。心の中で生じたモヤモヤとした不安感に、ケリをつけることができなかったのだ。


「まだ煮え切らぬようだな。涼平。この期に及んで何を迷うておる? 麻木の氏を捨てることがそこまで嫌か?」


「……悪い。すぐには返事できねぇわ」


「左様か」


 俺は村雨から視線を下方に逸らした。殺気を強めて睨みつけられても、そればかりはどうしようもない。俺の名字が「麻木」から「村雨」へ変わることは既に組長の中では決定事項で、今更考え直してはくれない模様。元々頑固な人なので望むべくも無いのだが。


(俺が“麻木涼平”じゃなくなるのか……)


 異論を申し立てて組長に考えを変えてもらおう、そう思ったわけではない。自分の中で受け入れるのに時間を要する、ただそれだけだった。


 試練と呼ばれる出来事には、大きく分けて2つの種類がある。ひとつは自分の力で乗り越えられる壁で、ひたむきに努力を尽くせば大抵はどうにかなったりする。


 だが、もうひとつが厄介だ。そちらはいかに解決に努めようが二進も三進もいかず、自力では絶対に乗り越えることが出来ない。どうあがいても結局は不可抗力によって押し流され、気づけば誰もが逆らえぬ絶望の渦に巻き込まれているもの。


 後者にとって有効な唯一無二の解決策は、ただ何もせず受け入れること。嘆く、抗うといった行為に及ばず、生まれつき自分はそういう運命にあるのだと諦観する。そして、降りかかる苦難をひたすら耐え抜くしかない。


 今まで己を構成してきた名字が変わるという衝撃と、どこか寂しい喪失感。申し訳ないが、俺がそれらを受け入れるには時間が必要だった。


「……」


 じっと俯いたまま、絵に描いたような沈黙を見せた俺。この態度が不興を買い、激昂されて殴られることは覚悟の上だった。しかし、その数秒後に組長が見せたのは意外な反応だった。


 少し長いため息の後、村雨耀介は言った。


「分かった。私とて鬼ではない。お前が左様なまでに思い悩むというなら、無理強いはせぬ。この話は、今一度考え直すとしよう」


「えっ……?」


「師走まで、あと3ヵ月ある。それまでお前には時をくれてやろう。じっくり考え、どちらが己にとって良い道なのかを決めればいい」


 何ということか。思いもしなかった譲歩の言葉に俺は耳を疑う。ただ考える時間をくれるわけではない。曰く、結論次第では俺を養子にとることを諦めるという。


「もし16の齢を迎える前夜になってもお前の気が変わっていなかったら、その際は私も折れてやる。絢華はお前の嫁とし、お前は麻木のままでおるが良い」


「……いいのか?」


「申したであろう。私とて鬼ではないと。お前が麻木の氏に抱くこだわりは、しかと伝わった。それを無理に捨てさせたところで、後味が悪くなるだけだ」


 口調からして渋々といった感じではあったが、時間が貰えるならばそれに越したことは無い。大いに呆れ返ったような組長の表情に一抹の罪悪感を覚えつつも、俺は安堵した。


 こちらの最終結論など、初めから決まっていること。俺は今後も“麻木涼平”のままでいる。ここで“村雨涼平”になるなど有り得ない。やっぱり、それだけは頑なに譲れなかった。


 あと3ヵ月の間に、断るための方便を何かしら考えれば良い。言葉の使い方に長けているわけでもないので、残虐魔王の機嫌を損ねず尚且つ己の主張を通す術などぐには思い浮かばない。しかし、あと3ヵ月もあるのだ。考え続けていれば、何かしら適当な文言に辿り着くはず。そう思い、俺は心の中でほくそ笑んだ。


 ところが、そんな楽観も束の間。こちらの考えていたことを瞬時に察したのか、村雨はすかさず言い放つ。


「いちおう申しておくが、涼平。私はこれまで配下の者への命令を曲げたことは一度たりとも無い。ひとたび言い付けた主命は必ず守らせ、従わせてきた。それを初めて曲げさせることが何を意味するか、分かっておろうな?」


「っ……!」


「先ほどの実子格の話もまた、私にしてみればお前への命令だったつもりだ。当のお前はそう受け取らなかったようだが。まあ、せいぜい賢い判断をするが良い。私は楽しみにしておるぞ」


 釘を刺されてしまった。村雨の瞳から発せられた鋭い視線の迫力に、俺はただただ畏縮するしかない。村雨が身に纏う殺気のオーラには、やはり人を竦み上がらせるほどのインパクトがあるようだ。久々に、背筋が凍る思いがした。


 要するに、この組長は「断ったら只じゃ済まさない」と言いたいのだろう。譲歩を示唆した先ほどの台詞とは裏腹に、彼の本心は俺を「村雨」姓にすることを諦めていない。何が何でも、俺を我が子にしたいようだ。後腐れの残る選択はしたくないなどと言っておきながら、結局は脅迫という悪辣な手段に出てきた残虐魔王。少し腹立たしかったが、ここであからさまな反発を示したら殺されるので止めておいた。


(はあ……弱ったぜ……)


 村雨組への実子格としての加入に異存は無い。ましてや、絢華との結婚が不服なわけではない。俺の名字が「麻木」でなくなる。ただ、それだけがたまらなく嫌だったのだ。


「今日のところは下がって良いぞ。何か仕事があれば再び呼びつけるゆえ、それまでは屋敷におれ。あと、養子の話は誰にも漏らすな。無論、菊川には断じて伏せておくように」


「ああ。分かったよ」


 気まずい空気感のまま、俺は部屋の外へ出る。


「……あっ!」


「やあ、けっこう長い話をしたみたいだね。この僕を差し置いて。ま、いいんだけど。除け者にされるのは今日が初めてじゃないから」


 そこにいたのは、なんと菊川だった。


 組長室の向かい側にあった壁によりかかり、妙な薄ら笑いを浮かべてこちらを見ている。もしや、聞かれてしまったか。全てを聞かれてしまったとしたら、菊川にとって面白い内容ではなかったはずだ。


「……あんた、さっきの立ち聞きしてたのかよ」


「まあね。聞こえてきちゃったから、仕方なく耳を傾けてた。耳を塞ぐわけにもいかないじゃん。せっかく、聞こえてきたんだし」


 最初から立ち聞きするつもりでいたのだから、ここで「聞こえてきちゃった」という言い方は不適切だろう。そんなツッコミはさておき、ニヤケ面の菊川は俺に続けた。


「キミ、実子格として組に入るんだって? なかなかの出世コースだよ? 実子格ってのは。いずれ若頭である僕と並んで、この組の跡目候補になるんだから。おまけに組長の娘婿になれるんだから、盤石じゃないか。おめでとう」


「いや。別に。その話、俺は断ろうと思ってるし。いくら出世できるったって、名字が変わっちまうのは嫌だし」


「へぇー。断るんだ。もったいない。僕だったら、迷わず快諾するけどなあ。ま、どうでも良いや。決めるのはキミ自身なんだし……そんなことより、あの話はどうなったっけ? 結局、キミの案は通っちゃうのかな?」


 やはり、快くは思っていないようだ。俺に最大級の嫌味をぶつけた後、菊川の話題は他へと移った。彼の言う「あの話」とは、煌王会クーデターをめぐる対処について。組織の中枢掌握した坊門一派に対し、現時点でどのようなアプローチを行うのかという問題である。


 ただ、そちらについては既に組長が結論を出している。ひとまず坊門たちに対しては“挨拶料”との名目で献金を行うものの、それ以上の親和的接触は行わないとする俺の案が採用されたのだ。


「今の段階で金を贈れば、坊門は間違いなく俺たちを味方だって思い込むだろ。すぐさま潰しにかかったりはしないはずだ」


「ふーん。そういうもんかねぇ。交渉は弁護士がやるって話だったけど、果たして話はまとまるのか。坊門って人は甘くないからねぇ」


 人事を尽くして天命を待つ。その弁護士がどれだけ交渉上手かにもよるが、結局のところは運次第。やはり、後は祈り続けるしかないようである。少しでも、良い報告がもたらされることを。


 組の今後を大きく左右する重大な交渉を部外者に任せねばならないとは、何とも奇妙な話だ。しかし、それが現時点での最善策。事態打開のためには致し方なしと組長が判断したならば、黙って従うまで。俺に異論を挟む余地は無い。


 だが、若頭は違った。


「……本当に信用できるのかねぇ。その弁護士先生は。カタギなんて、所詮はカネ次第でどうにも転がっちゃうでしょ。特に士業の人間は嫌いだ。大金を積まれれば、途端に掌を返す連中ばっか。嫌だね。まったく」


 組長室を出てしばらく廊下を歩いた後、俺の隣で吐き捨てるように呟いたのだ。村雨の前では最終的に「分かったよ」と同意していたが、あれは表面的なものだったか。俺の予想した通り。菊川の本心は大いなる不満で溢れていた。


「そもそも順序が間違ってるでしょ。クーデターの件を組の皆には伏せてるのに、どうして部外者に情報を漏らすんだろ。弁護士の守秘義務とやらがどれほどのもんかねぇ。ヤクザの意思の強さに比べりゃ、たかが知れてると思うけど」


 廊下を歩きながら、ブツブツと呟き続ける菊川。敢えて周囲に聞こえるように言っているのか、なかなかの声量だった。


(この期に及んで何を言ってんだか……)


 組長の前では我慢するしかなかった不服の意が、愚痴という形で溢れ出てきているかのようだった。菊川の気持ちも少しは分かるが、既に決まったこと。文句を言ったところで、今更どうなるものでもない。


 特に反応を示すことはせず、俺は無言でその場を立ち去ろうとした。しかし、そうはいかなかった。


「部外者といえば麻木クンも同じだよね。まだ正式に盃を貰ってるわけでもない、立場的にはカタギと同じなのに。どうして組長に意見できるんだか。僕には理解が難しいよ」


 ふと呟きの中で俺の名前が聞こえた。構わないでおこうと決め込んでいたが、どうにも気になってしまう。自然と俺の両足は止まる。菊川はそれを見逃さず、更なる台詞が続いてきた。


「気に入らないな。たかだか麻木クンの意見ひとつで、組長がコロッと動いてしまうなんて……あれでは問題の先送りだ。まったく、解決にならない」


 彼としてはあくまで独り言のつもりで吐いた言葉なのだろうが、鼓膜を伝ってしまったからにはこちらも応じざるを得ない。気けば、俺は背後を振り返っていた。


「ああ? 何か言ったか?」


「ああー。聞こえちゃったかー。なら、はっきり言わせてもらうよ……麻木クン、僕はキミが気に入らない! 大して頭も良くない癖して、さぞ自分が知恵者であるかのように振る舞う態度は目に余る! 図に乗らないでもらいたいね。少しは立場を弁えてくれ」


「さっきのは、意見を求められたから俺なりの答えを返しただけだ。別に自分が賢いだなんて少しも思っちゃいねぇよ。俺は、自分の馬鹿さ加減を自覚してる。嫌って程にな。あんたに腹を立てられる謂れは無い」


「そうか。馬鹿だって自覚はあるのか。なら、良かった。けど、これだけは忘れるなよ。麻木涼平。組長の相談役はキミじゃない! この僕だ! それはキミが組長の実子格とやらになっても変わらない!痛い目に遭いたくなかったら、肝に銘じておくことだね」


 組長室から離れた途端、突如として激情を爆発させてきた菊川。先刻までに、かなりの鬱憤を溜め込んでいたのだろう。噴火の瞬間を迎えた火山のごとく、俺への恨み言が次から次へと溢れ出てきた。どうやら、村雨の前では相当な我慢をしていたものと思われる。


 無論、俺にしてみれば理不尽きわまりない。インテリを気取ったおぼえも無ければ、己の知恵に自信を抱いたおぼえも無い。ましてや組長の相談役のポストになど、座れるはずもないというのに。一体、この男は俺に何を見ているのか。


 尋常ならぬ怒りがこみ上げてきた。


(この野郎……言わせておけば好き放題に……)


 だが、応戦を続ける気にはなれなかった。ここで言い返したところで体力を無駄にするだけ。あちらには本物の知恵がある分、屁理屈をこねるテクニックも並大抵ではないだろう。延々と続く口喧嘩に疲れるのがオチ。俺は敢えて、菊川を相手にするのを止めておいた。無言のまま、廊下を歩いてゆく。


 すると、彼は背後からこんなことを言ってきた。


「気に入らないな。本当、気に入らないよ。古牧の伯父貴の件について、キミが僕より先に報告を受けていたなんて。組長も組長だよ。麻木クンなんかに相談したところで、何の解決にもならないってのにね」


「……」


「僕には分からないよ。キミみたいに無知で無学な奴が、どうして組長に重用されてるのか。さっきのだってそう。あんなのはアイディアでも何でもない。問題を先送りにしただけだ。ああいうどっちつかずな態度が、任侠渡世じゃ一番嫌われるのに。キミが思ってるほど、ヤクザの世界は甘くないんだよ」


「……」


 何を言われたところで、いちいち気にする必要も無し。決定した組の方針に不服があったならば、つい先ほど組長に異議を申し立てれば良かったものを。何故、今更あれこれ騒ぎ立てるだろう。単なる負け惜しみにしか聞こえなかった。


 先刻、俺が具申した意見は中途半端で未熟な点に満ちていたと菊川は言う。だが、問題があったならば組長が即座に指摘していたはずだし、そもそも採用に至らないだろう。


 あれこれ理屈を並べ立ててはいるが、結局は自分の意見が退けられたことが悔しいだけ。そう思うと菊川が少し哀れというか、滑稽にさえ見えてくる。


(こういう手合いはスルーが一番だな……)


 引き続き、俺は沈黙を貫いてその場を去ろうと歩き続ける。しかしながら、菊川はそれでも諦めない。なおも俺の後を追いかけては、執拗に嫌味を浴びせてきた。少し前にも似たような出来事に遭遇した気がするが、この日はやけにしつこかった。


「クーデターだろうと何だろうと、坊門に従う奴は案外多いだろうよ。あの人は色々と顔が広いからね。煌王会が坊門グループの手に落ちるのも、時間の問題だよ。そうなった時、村雨組は大丈夫かなぁ? 良かったのかなぁ、僕の言う通り、今のうちに坊門支持を表明しておかなくて?」


「……」


「坊門との交渉が失敗したら、それは間違いなくキミの所為だよ。麻木クン。キミが余計なことを言って組長を惑わさなきゃ、坊門からは睨まれずに済んだかもしれないのに。まったく。これだから、僕は早熟なガキが嫌いなんだよ。時流を読むということがまるで分かってない」


「……」


 まだ坊門たちが敵に回ったと決まったわけでもないのに、何を言っているのやら。そこまでして俺を貶めたいのか。


 このような男に構っている暇など無い。背中越しに連続して浴びせられる不快な言葉を何とか振り切ろうと、俺は移動の速度を少し上げた。しかしながら、やはり菊川は諦めない。最大限の早歩きをしたつもりが、気づいた時には追い付かれて行く手を塞がれてしまった。


「なんだよ」


「麻木クン。キミはどうして自分が気に入られてるのか、考えたことはあるか? 何の特技も学識も持ってない、喧嘩で暴れることしか能が無いキミが、どうして組長の側に置かれて挙句の果てには養子になるなんて話が飛び出したか……よくよく考えたら、すっごい不思議な話だとは思わないか……? ねぇ、麻木クン」


「さあな。理由がどうあれ、俺の知ったことじゃねぇよ。あの人にとって必要だと思われてるから、俺は側に置かれてる。何だか分かんねーけど。理由なんかそんなもんで良いと思うぜ。深く考えたこともねぇよ」


「ほお? 必要とは! ぷぷぷっ! ふはははははっ! 言うに事欠いてそれか……キミ、本気で自分が価値ある人間だって思ってる? 自分が今の村雨組に本当に必要な人間って? もしそうなら、とんだ自意識過剰だよ? それとも、おバカさん?」


 わざとらしく高笑いした菊川。俺の痛い所を正確に突き、嘲りながら煽ってくる。この男の所望は、俺との喧嘩か。わざわざ子供じみた通せんぼをしてまで、何を成したいというのか。


 無論、ここで安い挑発に乗ったりはしない。だいぶ離れたとはいえ、廊下の延長線上には組長室がある。殴り合いに発展すれば即座に気付かれ、後々が面倒になってしまう。


 だが、このまま言われっ放しでいるのも不愉快。そろそろ我慢の限界だ。いい加減にどいてもらいたい。目の前に立ちはだかる若頭を睨み、俺は冷静に言葉を返した。


「……何が言いてぇんだ? そんなに俺と喧嘩がしてぇなら、受けて立つぜ? 今から場所を変えてやろうじゃねぇか。とことん、な」


「あはははっ。別にそういうつもりで言ったんじゃないよ。ただ、キミはまだ気付いてないみたいだから。教えてあげようと思ってさ。キミが組長の側に置かれている、本当の理由ってやつを」


「はあ? 本当の理由だと?」


 俺の反応に、菊川は不敵な笑みを浮かべる。


「おお、食いついたねぇ! それでこそ煽ってやった甲斐があったというものだ。やっぱ、キミ自身も気になってるんだ。大した力も能も無いガキのくせに、どうして自分なんかが重用されてるのか! この際だから、教えてあげるよ」


「ご親切にどうも。俺としちゃあ、理由なんてものに興味は無いんだけどな。参考までに聞いといてやる。おら、言ってみやがれ」


「言葉に表すなら、実に単純な理由だよ」


 何だというのか。ニヤニヤと頬を緩ませながら、こちらの様子をうかがっている若頭。本当の理由とやらを聞いて俺がどのようなリアクションをとるか、おそらくは妙な期待を抱いているのだろう。実に腹立たしい男だ。


「……どうした? もったいぶってねぇで、さっさと言ったらどうだ。そうやって焦らすからには、よっぽど大した理由なんだろうな? 菊川さんよ」


「ほうほう。『興味ない』って言ってたわりには、けっこう気になるみたいだね。まあ、いいさ。教えてやる」


 ひと息分の間を置いた後、菊川は軽快に言い放った。


「組長から過剰な引き立てを受ける、本当の理由……それは麻木クン。キミが麻木光寿の息子だからだよ」


「はあ? それだけか?」


「うん。ただ、それだけだ。他に特別な理由は無いよ。言ってしまえば、それしか価値が無いってことだ」


 麻木光寿の息子だから――。


 村雨耀介にとって、俺の親父は因縁のある人物。唯一超えることができなかった、圧倒的な壁ともいえる存在だったとの話。同時に親父のおかげで命拾いした過去もあるらしく、俺の世話を焼くことはその恩を返す意味も含んでいるのだと前に話していた。


 俺にしてみれば、何を今更といった感じ。この程度のことはとっくに自覚している。期待外れというか、拍子抜けだ。よほど衝撃的な内容が飛んでくるものと身構えたが、まったくそうではなかった。既に何度も聞かされた話。俺は失笑をこらえることが出来なかった。


「ははっ! 何だよ、それ。父さんが伝説の川崎の獅子だからひいされてるって、そう言いてぇわけか。悪いけど、そんなのはとっくに知ってんだよ! 何かにつけて比べられるし。こちとら聞き飽きてるぜ」


「ふーん。そうやって捉えるんだ。ああ、これだから困るよ。頭の悪い子供は。何でも良い方にしか受け取らないからね。嫌味や皮肉がまったく通じない……僕が言ってるのは、キミ自身の値打ちの話さ。組長はキミに『麻木光寿の息子』以外の価値を見出してないってことだよ」


 呆れたように返す菊川によると、村雨組長は俺をひとかどの人間として扱っていないのだという。謂わば、今は亡き川崎の獅子の“かたしろ”。麻木光寿の姿を俺に重ね合わせ、俺と接する時にはいつも光寿と対面しているつもりで振る舞っているのだとか。


 これには過去の因縁が大きくかかわっていると、若頭は吐いて捨てた。


「村雨耀介の強さには天性の素質があってね。ほんの4、5歳くらいの時から喧嘩は負け知らずだったと聞く。僕自身、彼が負けた姿は1回しか見ていない。それがキミのパパ、麻木光寿との喧嘩だ。言っちゃあ悪いけど、あれは完敗だったよ。手も足も出なかった。組長も、あの時の敗北を未だに引きずっている」


「前に聞いた気がするなあ、その話。で? それが俺を特別扱いする理由と何の関係があんだ? 全く別の話としか、思えねぇけど」


「まだ分からないか……要するに、組長は過去の鬱憤を晴らしてるのさ。自分が唯一勝てなかった相手を近くに置いて、手先として使うことでね。もっとも川崎の獅子本人は既に死んでいるから、息子であるキミを代わりとして扱ってるってわけ。なかなか面白いロジックだろ」


「はあ? 何だよ、それ」


 動じずにいようと努めたが、俺は困惑を隠しきれない。つまり村雨は亡き麻木光寿にぶつけられなかった雪辱を発散させるべく、獅子の幻影を持つ俺を配下として側に置いているということになる。


 菊川曰く、組長が強引なまでに俺を養子に取ろうとするのは征服欲のあらわれらしい。勝てなかった男の息子を自分の実子として扱い、自分と同じ「村雨」姓に改めさせる。これにより、亡き麻木光寿本人を支配下に置いたも同然の充足感を得ることができるのだとか。


「なっ……!? く、組長が俺を側に置いてるのは……死んだ父さんにったつもりになるためだってのか!?」


「だろうね。前に組長自身がそう言ってたよ」


 もしも本当なら、組長の所業は俺を復讐の形代としてつけ狙う笛吹と何ら変わらない。無論、俺は強い衝撃を受けてしまった。


(そ、そんな……マジかよ……)


 受けた衝撃を態度に出さぬよう、堪えるだけでも精一杯だった。当然だ。多少の色眼鏡はあれど、組長は俺の力量を認めているからこそ自分を側に置いてくれているものと思っていた。


 極道としてだけではなく、愛娘の未来を託すに相応しい男としての信頼感があると思っていた。それがまさか、過去の憂さ晴らしだったとは。


 菊川の言葉は続く。


「何か重大なトラブルがあった時、組長が僕らを差し置いて真っ先にキミに相談するのは何故だと思う? ……麻木光寿だったらどう判断するか、それを常に考えてるからさ。麻木光寿の存在は組長にとって、超えられなかった壁であると同時に目標でもあったからね。無理もない」


「……俺と父さんは違うと思うぜ。少なくとも、俺は父さんみたいに賢くはないし強くもない。幻影まぼろしを重ね合わせるにゃあ、ちと不十分だと思うが。ぜんぜん及ばねぇよ」


「ぜんぜん及ばないからこそ、組長は常時いつも言ってるじゃないか。『もっと己を磨け』と。あれはキミ自身の成長を願う言葉じゃない。死んだ川崎の獅子の代わりであるキミが、少しでもそれに近づくよう期待する言葉なんだ。よく考えてみなよ。自分の立ち位置ってやつを」


 麻木涼平が極道としてこのまま成長を続ければ、いずれ父・光寿と寸分変わらぬ人格と腕を持ったミニチュアが出来上がる。


 そうすれば村雨としては、ますます獅子の幻影を見出しやすくなる。非常に都合が良いだろう。かつて己に屈辱を舐めさせた男を自らの軍門に従えるという、彼の野心的欲求を満たすことができるのだから。


 所詮、自分は過去を清算するための道具でしかない――。


 瞬間的に理解したこの事実が、俺の心に容赦なく突き刺さる。どういう原理わけか知らないが、今までに積み上げてきたものが音を立てて一気に崩れゆく光景が脳内で映し出された。


「……」


 愕然としたまま動けない俺に、菊川は更に続ける。


「かくいう僕自身も川崎の獅子にはだいぶ世話を焼いてもらったから、分かるんだよね。組長の気持ちが。何だかんだ言って、キミはパパにめちゃめちゃ似てるもん。目のあたりとか、特に。思考や腕っぷしはまだまだ未熟だけど、喧嘩っ早さは完全に父親譲りだ。まさに生き写し、そう呼んでも過言ではないよ」


「……だろうな。親子なんだし」


「桜木町のクラブでキミと初めて会った時、たぶん組長は驚くと同時に心が躍ったと思うよ。何せ、あの川崎の獅子の忘れ形見が自分の前に現れたんだから! 」


 その上、現れたライオン2世にはヤクザとなる素質が疾うに現れていた。当時の俺はチーマー集団と行動を共にするバリバリの不良少年であり、既に裏世界に片足を突っ込みかけていたのだ。村雨が感激しないわけがない。16歳の時分の敗北を未だに引きずり続けているというなら、なおさらだ。


「そりゃあ、何が何でもキミを組に引き入れたいって思ったことだろうよ! ま、具体的にどういうシチュエーションだったかは知らないけど! その頃、僕はまだ刑務所の中だったからね! はははははははっ!」


 腹を両手で抱えて爆笑した菊川に、俺はまともな反撃をすることが出来ない。彼の語ったことは、理屈としては大いに的を得ていたのだ。


 ヤクザの世界に足を踏み入れてからというもの、何処へ行っても父の影が付いてまわる。過去を知る人間と出会えば、こちらに有無を言わさず「麻木光寿の息子」という前提条件のもとで話が進む。ある者からは晴らしきれなかった恨みをぶつけられ、またある者からは異様な形で執着を向けられる始末。


 村雨組長だけは例外だと思っていたのに、結局は他の連中と同じだった。極道社会に身を置く限り、きっとこの宿命と因果からは逃れられないのだろう。


 ならば、己が成すべきはひとつ。


 深く考えなくとも、自ずと分かることだ。抱腹絶倒する若頭に対し、俺は力を込めて言い放った。


「……超えてやるよ」


「はあ? 何だって?」


「だから、超えてやるって言ったんだ。父さんを。川崎の獅子を。二度も言わせんじゃねぇよ、馬鹿野郎が」


 決意は既に固まっている。いつまでも親父の幻影が付きまとうのなら、俺自身が親父を超えた存在となってその幻影を振り切るまで。実に単純明快な解決方法だ。且つ、自らの境遇に嘆き悲しんだり思い悩んだりするよりもよっぽど建設的で、未来志向だろう。


「超えるって……? ぷぷっ! ふはははははっ! 笑わせないでよ。超えられるわけないじゃん。キミごときが。所詮、キミは麻木光寿の息子でしかないんだよ? どれだけ頑張ったところで、せいぜい父親よりちょっと下のレベルまで到達するのがオチさ。喧嘩の腕だって、たかだか……」


「黙れ」


「……っ!?」


 なおも嘲笑を続ける菊川を一言で制した俺。今思えば、この時の自分は殺気に満ちていた。現状に対する失望、否応なしに背負わされた宿命への怒り、そして自分がこれから歩む道への決意が、気迫となって表面化した結果だと思う。相手がたじろぐのも訳なかった。


「俺を父さんの代わりとして扱いたいなら、好きにしろ。それであんたの気が晴れるってんなら、いくらでも俺に父さんを重ねればいい!」


「お、おお……やっとその気になったか。これでこそ、煽ってやった甲斐があるってもんだ……ぷぷっ」


「俺は俺だ! 俺の道を行かせてもらう!」


 動揺を見せるも何故かニンマリと笑った菊川は一切無視して、俺はなおも言葉を続ける。菊川に啖呵を切っているつもりが、いつの間にか対象が変わっていた。ふと気づけば、廊下を進んだ先の部屋に居る男に対し、俺は高らかに己の生き方を宣言していたのだ。


 一体、何故か。理由は説明が付かない。自分でも不思議に思う現象だが、もうここまで来たら後には引けない。さっきの声量は十分。きっと残虐魔王にも聞こえただろう。


 意を決して、俺は最後まで言い切った。


「たしかに父さんは川崎の獅子だ。その運命に今更抗うなんざ出来やしねぇだろ。だが、俺は俺の道を行かせてもらう! そして、いずれ必ず父さんを超える! 父さんを……いや、麻木光寿よりも大きな男になってやる! だから、その時を楽しみに待ってろ。あんまり長くは待たせねぇさ」


 そう含みを残すと、俺は静かにその場を立ち去る。白い歯を見せてヘラヘラと不敵な笑みを浮かべる菊川を押し退け、階下の自室へと戻っていったのだった。


(言っちまったな……)


 余韻が波のように押し寄せてくる。確実に村雨組長の耳にも届いてしまったことだろう。これからの前途を俺自身の手で、危うくしてしまったか。ただでさえシリアスな茨の道だというのに、余計にハードルを高く上げてしまったか。


 されども、俺に後悔は無い。自分という人間を保つには、こうするしかなかったのだ。自分は獅子の形代などではないと残虐魔王に抗弁する、唯一無二の機会であった。ゆえに、己の行動には自然と誇りが持てた。


 また、決意表明の意味合いもあったと思う。


 今まさに始まろうとしている修羅の人生へ向けた、愚かで向こう見ずで無鉄砲、喧嘩の腕しか取り柄が無い少年による確固な意志の表明。少し乱暴なたとえ方をするならば、宣戦布告という単語が最もお似合いだろうか。


 村雨耀介に対してだけではない。これから待ち受けるあらゆる困難と、決して逃れることは出来ない過去の呪縛、そして親父から引き継いでしまった不条理な罪業。そのすべてに「来るなら、かかってこい。全力で相手をしてやる」と気を吐いたのであった。


 なお、結論からいえば俺の言葉は村雨に丸聞こえだったらしい。廊下に響き渡った少年の宣誓を耳にし、どこか満足そうな笑みを浮かべていたという。


 養子入りの話を受けるか、否か。


 一生を左右する質問への答えが導き出された。俺は、俺の道を行かせてもらう。残虐魔王が一度出した命令を翻したりしないのと同様に、俺もまたひとたび吐いた唾を呑み込んだりはしない。瞬く間に決意が固まってゆく。


 数時間後、俺は再び組長室を尋ねた。


「いかがした? まだお前を呼んではおらぬが?」


「あんたに伝えたいことがあって来た。ゆっくり考えろって言われたけど、そんなの必要ねぇわ」


「ほう……?」


 こちらの用件に察しがついたのか、ついていないのか。少し大袈裟気味に目を丸くした村雨組長。胸の動悸が次第に早まるのが分かるが、ここまで来たら後戻りは出来ない。元より戻る気など無い。


 ひんやりとした部屋の空気感が火照った頬を冷やす中、俺はさっそく村雨に告げた。


「あんたの養子になれって話だけど、ありがたく受けさせてもらうことにするわ。せっかくの機会だしな」


「左様か。しかし、どういう風の吹き回しだ? 何故に突然、気が変わった? つい先刻までは酷く渋っておったではないか」


「俺は俺だ。麻木光寿とは違う、俺だけの道を歩んでみたい。ただ、それだけだよ。十分だろ」


 客観的に見れば、随分と頓珍漢な返答の仕方かもしれない。わずか数時間での心変わりの理由を説明するに事足りていたか、俺にはいまいち分からない。


 けれども、幸いなことに村雨組長には一瞬で通じたようだった。またしても啖呵を切るがごとく吐き出したこちらの言葉に、彼は頬を緩める。


「……フフッ。よくぞ申した。それでこそ、私が見込んだ男。お前ならば、いずれ必ず御父上を超える極道となるであろう」


「ああ。超えてやるとも。そう遠くはないうちに、必ず。俺だけの、俺にしかできねぇやり方でな」


「うむ。期待しておるぞ」


 俺だけの道を歩んで親父を超える――。


 そのためにも、ここで枷を外しておく必要があると思うに至ったのだ。「川崎の獅子の倅」の重荷を形で表している、「麻木」姓という枷を。


 俺は俺の道を行くと決めたからには、親父の名前など所詮は重荷でしかない。伝説の男、麻木光寿の息子であることは確かに誇りだ。しかし、俺はそれだけに縋りついて生きてゆくつもりは無い。親父の名前看板に頼らず、自分の手で道をひらいてゆく。だからこそ、先ずはここで麻木の氏を手放さなければならなかった。それこそが以前までの自分と決別して未来へ歩み出すための契機きっかけ、いわば“けじめ”であるといえよう。


「承知した。さすれば徐々に準備を整え、師走に儀式を執り行うとしよう。12月7日。これはお前の誕生日の前日だ。一方で、かつて光寿公が中川会門下の盃を貰って極道となった日でもある。涼平が光寿公を超えるべく歩み始める記念の日とするには、ちょうど良いであろう」


「ああ。いいぜ。12月7日な。楽しみに待っとくわ」


 改めて告知された日取りに、揚々と頷いて返した俺。親父が渡世入りした時の詳しい事情は分からないが、確かに記念日としては最適だ。


 村雨耀介は、俺のことを亡き川崎の獅子の形代としか見ていない。おそらくこれは嘘だ。俺を煽り、俺が亡き親父の縛りから脱しようと奮起するよう仕向けるための与太話。組長室での会話を立ち聞きしていた菊川が、村雨の意を汲んで放ったのだろう。何としても俺を養子にしたい、村雨組長の意思を汲み取って。


 だからこそ、菊川はあの場でニヤニヤと笑っていたのだ。このガキは煽られるまま動いてくれた、とでも思っていたのだろう。結果として大人たちの思惑通りに事が決してしまったのは、少し悔しい。俺を異常なまでに寵愛し、ついには養子に迎えるとさえ言い出した村雨の真意も不明なまま。だが、今後の行動指針が定まったのでとりあえずは良しとすることにしよう。


 俺は俺の道を行く。そして、いずれ亡き麻木光寿を超える伝説の男となる。


 今後の行動だけに留まらず、俺の人生全体を見据えた大きな目標。親父を超えるための旅路で、どんな試練が待ち受けているのかは分からない。しかし、怖さはまるで感じない。未来への恐れや不安は、すべて燃え上がった俺の闘志を前にかきけされようとしていた。


(必ず超えてやる……超えてやるさ……)


 こういう決意表明を世間的には「りっ」と云うのだろう。当時はそのように大層な固有名詞などは知らなかったが、俺の心は確かに一皮むけていたと思う。


 自分が目指すべき極道の姿、そして生き様が、この時から何となく見え始めたような気がする。

生きる指針が決まった涼平。

しかし、その行く手にあるものは……?

彼が思う以上に未来は前途多難。

次回、第7章完結です。

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