描かれた青写真
翌朝。
俺は部屋の戸をノックする音で目を覚ます。誰が来たかと思って開けてみると、扉の前には4人の組員が詰めかけていた。
「ああ? こんな朝っぱらから、どうした?」
「どうした、じゃねーよ。クソガキが! お前、俺らの仕事増やしといて何を平気で眠ってやがる。お前のおかげで昨日は夜通し作業する羽目になったんだぞ。礼のひとつくらい言ったらどうだ!」
昨晩ヒョンムルの死体処理を押し付けられた組員たちが、俺に文句を言いにきたらしい。皆、なかなかに苛立っている。死体を片付けるのにどれほどの手間がかかるのかは分からない。けれども、連中は全員目元に隈をつくっていたことから相当な労力が費やされたと思われる。
ここは形だけでも、感謝の辞を述べておくか。
「……ああ。そいつは、どうも。俺のために、わざわざ。恩に着るぜ。ありがとな」
「てめぇ、何だ! その口の聞き方は!!」
こちらの態度が癇に障ったのか。居並ぶ組員の1人が激昂し、俺に向かって拳を握り固める。即座にもう片方の手が出てきて、グイッと胸倉を掴まれた。流石は極道。下っ端ほど気性が荒い。
ならば、こちらも臨戦態勢だ。
「ああ? いきなり何しやがる。放せよ。俺と喧嘩しようってのか? だったら相手が悪いぜ」
「んだとゴラァ!!」
「お前ごときが、俺相手に殴り合いを挑んでも勝てねぇって言ってんだよ。分かったら、さっさと手を放しやがれ。この三下野郎」
「てめぇ……調子に乗りやがって!!」
その刹那、組員の拳が飛んできた。だが、俺は左手で受け止める。怒りに任せて放ったにしては随分と遅い。これでは防いでくださいと言っているようなものだ。
「なっ!?」
「おいおい、だいぶ軟弱なパンチだなぁ……チンピラさんよ。これが本気の一発とは。極道が聞いて呆れるぜ」
組員の拳を掴んだ左手に、俺は強い力を込める。
「なっ!? 放しやがれ……!」
「嫌だね。これで喧嘩の大義名分が立った。組長からは止めとけって言われてるが、もう我慢ならねぇ。先に手を出してきたのはお前らの方だ。徹底的に痛めつけてやるよ」
そう言うと、俺は左手に更なる力を込めてゆく。相手の関節を圧迫した瞬間、パキパキと不気味な音が鳴り響いた。だが、俺は止めない。
「痛っ! いたたたっ!」
「おう。このままじゃあ、お前の拳。使い物に
ならなくなっちまうなあ。どうする? 俺に今ここで土下座するんだったら、潰さないでやってもいいぜ? 詫び入れろや。床に頭をついて」
「う、うるせぇ! ぶっ殺すぞ! 誰がてめぇなんかに土下座するか!ここで頭を下げるのは麻木、てめぇの方だ!」
「ぶっ殺す? おうおう、これはたまげた。この状況で、どうやって俺を『ぶっ殺す』ってんだ? 強がるなよ。まあ、とりあえず5つ数えてやるから。さっさと土下座しやがれ。んじゃ、いくぞ。5、4、3、2……」
組員を睨んで勝ち誇るように言い放った後、冷たいカウントダウンを始めた俺。
昨日の余韻が尾を引いていたのか。矢鱈と気が昂っていた。自分で言うのもおかしな話だが、このような場面での俺は加減が無くなる。相手を屈服させるまで、とことん追い込んでしまう。
当然、向こうも簡単に折れたりはしない。下っ端ながらも極道としての意地とプライドがあるのだ。ここで少年相手に負けては格好が付かないのだろう。掴まれた右手を何とか解放しようと、全力で抵抗し始めた。
「くそっ……! 放しやがれ……!」
「へぇー。そんなに土下座したくないんだ。じゃあ、約束通り潰してやるか? お前の手を。全部の指が折れちまっても知らねぇぜ? だって、お前が悪いんだから。俺に喧嘩を売った、お前自身がな」
「は、放せっ……!」
組長には後で適当に弁明をすれば済むだろう。俺から手を出したわけではない。「殴られそうになって咄嗟に相手の拳を受け止めただけ」と“正当防衛”を主張すれば、いちおう理屈は通るはず。恐怖が浮かんだ若衆の顔を見てニヤリと笑い、俺は一気に力を込める。
ところが、その時。
「やめろ!」
急に大声が割り込んできた。あまりにも大きな音量だったので、俺は思わず手の動きを止める。驚きつつ周囲を見渡すと、声の主は意外な人物だった。
「ああ? お前は……?」
「その手を放してやってくれ。頼む」
睨み合う俺たちの間に割って入ってくる、茶髪ロン毛の男。昨晩、正門前で門番を務めていた組員だ。先ほどの怒りは何処へやら。至って落ち着いた表情だった。彼は俺の肩を軽くポンと叩くと、やがてその場にゆっくりと膝を下ろした。
「土下座して欲しいなら、代わりに俺がしてやる……これでいいか? お前の言う通り、地面に頭をつけたぞ? だから、そいつの手を放してやってくれ。早く」
「何のつもりだよ」
「手を潰されれば、そいつは喧嘩が出来なくなる。つまりは戦力にならなくなるということだ。この重大な局面で、組の戦力が削がれるのを黙って見ているわけにはいかん。それだけだ」
まさか本当に土下座をされるとは。
同輩の身代わりとはいえ、こうもあっさりと低姿勢になられては対応に困る。俺としてはあくまでも拳を潰してやるつもりでいた。
目下の者を相手に首を垂れるなど、極道のすることではない。絶対にプライドが許さないはず。にもかかわらず、この男はどうして頭を地に着けたのか。
戸惑ったのは俺だけではない。他の奴らも大いに動揺していた。無論、俺に指を折られかけていた組員も同じである。
「おい、沼沢! 止せよ!」
「どうしてお前!? こんなガキ相手に!?」
「おい、頭を上げろよ! 俺の代わりにお前がそんなことする必要は無いだろ! 頭を上げろ! 上げろって!」
口々に制止の台詞を放つ3人。皆、茶髪ロン毛の組員がしたことに納得がいっていない様子だった。
しかし、それでも沼沢なる男は土下座をやめない。一心不乱に額を床に押し当て続け、ついには「踏みたかったら頭を踏め」とまで言い放った。どうしてここまでするのか。なおも困惑する俺をよそに、同輩たちは沼沢の振る舞いを非難し始める。
「沼沢……お前、自分が何してるか分かってんのか? 俺たちは麻木涼平を殴りに来たんだろうが!」
「気が狂ったのか!? ああ!?」
「極道が簡単に頭下げちゃあ終わりじゃねぇか! 何を考えてやがるんだ、てめぇは!」
だが、そんな彼らを沼沢は一言で黙らせた。
「黙っとけ!!!!」
俺も思わず背筋に雷が走るほどの、とてつもない声量。騒いでいた他の3人もこれには静まり返るしかなかった。
「……大声出して悪かった。けど、麻木。どうかこれで収めては貰えねぇか? 侠としてのお願いだ。本当に頼む。な?」
「へ、へぇ~、そうやって簡単に土下座しちまうんだな。拍子抜けだぜ。沼沢さん、だっけか。あんたにプライドは無いのかよ。ヤクザとしての矜持ってやつは」
「あるに決まってるだろ。俺は、目の前で仲間が傷つくのを黙って見てるほど弱腰じゃねぇ。仲間助けるためなら、何だってする。それが俺の矜持だ」
いやいや、その理屈は短絡的すぎる。「何だってする」のであれば、俺に殴りかかってでも止めれば良いものを。何故にそこで安易な土下座へと繋がってしまうのか。俺にはさっぱり理解できなかった。
「はあ? 何だよ。それってつまり、俺に喧嘩で勝つ自信が無いだけじゃねぇのか? 沼沢さんよ」
「確かに。違うと言えば偽になるな。実際、お前は強い。あのヒョンムルをたったひとりでいなしちまうほどの化け物だ。少なくとも、ここにいる俺たち4人は敵わないだろう」
「だったら、ただのビビりじゃねぇか!」
「どうとでも言ってくれて構わない。俺は賢明な判断をしたまでだぜ。ここでお前とやり合えば、確実に全員が病院送りだ。そうなりゃ暫く戦線離脱。ただでさえ兵隊が足りねぇって時に、組に迷惑をかけちまう。それだけは何としても避けたいんだ。村雨組の一員としてな」
だからこそ、ここで己が土下座をすることによって全てを丸く収めようというわけか。抗議の意思はひとまず水に流し、ひたすら低姿勢に出て俺の怒りを鎮める。
そうすれば乱闘沙汰を未然に防げるし、仲間が麻木涼平に拳を潰されずに済む。抗争の真っ最中に村雨組の戦力が削がれる、という事態も回避できる。
なるほど。あらゆる状況を広い視野で加味して考えれば、なかなかに適切な判断といえよう。沼沢の土下座は、あくまでも自分や周囲が被る損失を現状で一番小さくできる最善の手段。思慮が深いというか、小賢しいというか。
(こりゃ、やられたな……)
沼沢が土下座をしたにもかかわらず尚も組員への暴行を続けたとなれば、それは流石に“正当防衛”の範疇を超えてしまう。組長への弁明も通らなくなってしまう。あの人が最終的にどのような沙汰を下すかは分からないが、ただひとつ確かなのは、この場においては沼沢が一枚上手ということ。不本意ながらも、俺は掴んでいた拳をゆっくりと放した。
「……おらよ」
「おう。素直に聞いてくれて感謝するぜ」
俺が要求に応じたことを音で確かめると、沼沢は静かに立ち上がった。一方、俺の拘束から解放された男は右手をもう片方の手で擦りながら、あからさまに痛がってみせる。明らかに大袈裟なリアクションだったが、他の仲間2名が同調した。
彼らは再び、憤慨しながら文句を言い始める。俺にではなく、沼沢に対してだ。
「おい、沼沢。こんなんで済ませんのかよ!? いくら組のためだからって。これ以上、麻木をつけ上がらせたらまずいだろ!? 絶対に良くねぇって」
「そうだよ。そもそも、俺たちは麻木に一言物申しに来たんだぜ!? こいつ、俺らに徹夜で作業させといて礼のひとつも言わねぇから。それが何だって……お前が土下座してんだ、沼沢!? こんなことしたら、これから麻木はますます増長しやがるぞ。それでもいいのか!? ああ!?」
「この際だから言っとくけどなあ、俺はもう我慢の限界をとっくに超えてんだ! 組長のお気に入りだか何だか知らねぇが、好き放題暴れて組に迷惑ばかりかけやがって……! どうして、こんなガキのために俺たちが惨めな思いしなきゃいけねぇんだ! おかしいだろ!」
男たちの口からは、激情に駆られた言葉が堰を切ったように飛び出してくる。いずれも俺への途方もない憎悪で埋め尽くされていた。実に腹立たしい光景であったが、各々にいちいち言い返すのも疲れるだけ。ここは黙って沼沢の反応を見守ることにした。
「うん。お前たちの気持ちは分かるよ。俺だって、大嫌いだもん。麻木のことは。正直、こんなガキは1日も早くブチ殺して山に埋めてやりてぇよ。お前たちと同じさ」
「だったら、どうして……!?」
「決まってるだろ。組のためだ」
「はあ!?」
組のため――。
沼沢の短い返答に顔をしかめる3人。単純明快で歯切れは良いが、このように抽象的な説明で納得する者などいない。ましてや、気性の荒い極道ならば尚のこと。「生意気なガキをのさばらせることが何故に組のためなんだ」とばかりに、組員たちは一層いきり立つ。火に油を注いだかの如く、険悪な空気感に包まれてしまった。
「……」
しかし、そこに続いた沼沢の理由付けは、実に具体的かつロジカルなもの。怒り狂う同輩たちを落ち着いて宥めるべく、彼はひと呼吸を挟んだ後に語り始めたのだった。
「確かに麻木涼平の存在は不快だ。けど、村雨組にとっては必要なんだ。このクソみてぇな戦況を挽回するための、貴重な戦力としてな。こんな逸材はそう見つかるものじゃねぇぞ」
「貴重な戦力? 麻木が?」
「ああ。そうだ。お前らだって、見たろ。こいつが韓国人と戦った現場を。麻木に殺された死体はどれも木っ端微塵だったのに、麻木自身は怪我ひとつ負ってねぇ。そりゃあとどのつまり、あのヒョンムルを相手に一方的な戦いをして勝ったってことだ。韓国人どもがどんだけ強いかは、お前らだって知ってるはずだぜ」
「うう、たしかに……それを言われちまったら……」
仲間たちの反応を見て、沼沢は大きく頷く。
「だよなあ。連中をひとりで相手に出来る奴なんざ、滅多にいねぇぞ。村雨組じゃあ組長と菊川のカシラくらいのもんだ。まだまだ粗削りな部分はあるだろうが、麻木涼平は既に最強の域に達しつつある。このまま場数を踏んでいけば、いずれ組長と肩を並べるくらいにはなるだろう」
「……いやいや。そりゃあ大袈裟だ。いくら才能があるからって、組長と同レベルまで行くわけがない。麻木が桁外れに強いことは俺たちも認めるが、あの人と肩を並べるなんてのは流石に……」
「何だって大袈裟なものか。こいつは銃弾だって避けちまうんだぞ? その時点で互角以上じゃねぇかよ。現場には薬莢がいくつも転がってた。おそらくは麻木に向けて撃ったもんだろう。知っての通り、ヒョンムルは全員が射撃のプロだ。奴らが狙いを外したってことは、麻木の動きが恐ろしいほどに俊敏だった何よりの証。そうは思わねぇか?」
俺自身に銃弾を避けた記憶は無いが、敵の発砲自体はあったのかもしれない。想い起こしてみれば戦闘中、男たちの雄叫びに紛れて「プシュッ!」という音が明らかに聞こえていた。冷静に考察するならば、あれが拳銃の発射音だった可能性はきわめて高い。サイレンサーが付いていたために、通常の銃声ではなくああいう軽い音になったのだと推測される。
どうやら知らぬ間に、俺はとんでもない離れ業をやってのけていたようだ。沼沢の話によると現場に落ちていた拳銃の金属薬莢は1つや2つではなく、いくつも転がっていたとのこと。
戦闘本能に任せて暴れまわっているうちに、たまたま銃弾の軌道射線から俺の体が外れたか。あるいは、ヒョンムルの連中が暗闇での射撃に不慣れだったのか。詳しいことは不明。ただ、俺が銃弾を「避けた」という事実に変わりは無い。偶然のタイミングが重なった奇跡の産物とはいえ、俺は結果を素直に己の誉れとして受け取ることにした。
その一方、組員たちは納得がいっていない様子だった。俺の腕前を証明する事実が事実として存在するものの、感情的に容認できないといったところか。
「……」
「化け物なんだよ。こいつは」
「いや、それは分かった。けど、だからって横暴なのは見過ごせねぇぞ。目上の人間に敬意が無いのも癇に障る。そんな奴と一緒に戦おうって気にはならねぇな」
「俺らがどう思おうと、麻木涼平は村雨組にとっては大きな戦力。これからの抗争で絶対に必要な存在だ。組長がそう考えてる限り、俺たちに口を挟む余地は無い。ここは組のためを思って、一旦は受け入れようや。な? お前たちの不満は俺が代わりに受け止めるからさ」
苦々しくも俺を認めた沼沢の言葉に、連中も沈黙するしかなかった。
さてさて。こちらとしてはどのような反応を見せれば良いものか。予期せぬお褒めの言葉を賜ったわけだが、ここで鼻の下を長くしてはいけない。賛辞だろうと罵詈雑言だろうと、取るに足らない相手の言葉ひとつで一喜一憂するのはたまらなく不格好に感じるのだ。
よって、俺が選んだ手段はたったひとつ。無言で部屋のドアを閉め、奴らとの対話を多少強引にでも終わらせてやったのだった。
(……まともに話す必要も無ぇか)
そもそも俺は沼沢たちに用は無い上に、向こうの用事に付き合ってやる義務も無い。馬鹿真面目に話を聞けば聞くだけ精神的疲労は溜まるのだから、もうこの辺で区切りをつけるのが正解といえよう。
しかしながら、向こうは違った。昨晩の抗議以外にも、もうひとつ用件を抱えて来ていたらしい。
閉まったドア越しに、沼沢は声を上げた。
「ああ、そうそう! 麻木。組長がお前をお呼びだぜ。『昨日の出来事について聞かせよ』とか何とか言っておられた! たぶん、お叱りを受けるんじゃないか? 韓国人どもの死体を始末すんのには馬鹿でかい大金がかかったわけだし? 組にとっちゃあ手痛い出費だったんだ。怒られて当然だよなあ」
「……」
「早く向かった方がいいぜ? 組長がとにかくせっかちで待たされることを嫌うのは、お前も知ってるよなあ? 麻木。どういう罰が待ってるかは知らねぇが、せいぜい頑張れ。ま、ひとつだけ助言すんなら『自分の都合の喧嘩で組に迷惑をかけんじゃねぇ』ってこった。これからは気を付けるんだぞ。じゃあな」
そう言い終わると、沼沢たちの気配は自然と遠ざかっていく。おそらくは俺の部屋の前から去っていったものと思われる。
「……」
現時点にて考え得る、最大級の嫌味。当然、俺のはらわたは煮えくり返った。一体、何様のつもりなのか。革靴の音を響かせて廊下を歩く沼沢たちを背後から襲撃してやりたい、そんな衝動すらもこみ上げてくる。
されど、いま真剣に考えるべきはそこではない。昨晩の俺の行動に憤慨しているという組長に、これからどうやって弁明するかだ。
(いや、でもあれは……仕方ないだろ……)
丁寧な説明で納得してもらう他に術は無い。襲われた時点で、戦闘に発展することは避けられなかったのだ。あの場面では応戦する以外に何の選択肢があったというのか。自分の取った行動は、何ら間違ってはいなかったはずだ。
意を決して部屋を出て、少しだけ重たさが残る足取りで2階へと向かう俺。福富町で小泉をボコボコにしてしまった時と同様、入った瞬間に怒声を浴びせられるかもしれない。そう考えると、身体が竦んでしまいそうにもなる。だが、おののいているだけでは先へ進めない。
軽く一言挨拶を申した後、俺は執務室の扉を恐る恐る静かに開けたのだった。
「……呼んだ?」
「遅かったな。私としてはだいぶ前に使いを出したつもりであったが、随分と時を要したものだな。まったく。どこで油を売っておったのだ」
「あ、いや。それは……」
「言わずとも良い。さしずめ、沼沢らと揉めたのであろう。彼奴の気持ちも分かってやれ。夜を徹してお前の喧嘩の後始末をしたというに、当のお前からは労いひとつ無かったのだ。文句を言いたくなるのも必定ではないか」
入室早々縮こまる俺に、村雨組長は言った。
「良いか? 涼平。我らの稼業は人との関わり。人心を掴まずしてやってはいけぬ。己のために汗を流した者に謝辞ひとつ申せぬようでは、誰がお前に心を許すというのだ。もっと礼節を覚えよ。さもなくば、いずれ後に悔やむ日が来るぞ」
厳しい所を突かれた。完全なまでに正論だ。
軽く釈明をさせてもらうと、俺が沼沢たちへまともに「ありがとう」も言わなかったのは、ただ単にタイミングの問題。昨晩は帰宅後すぐに入浴を経て眠りに落ちてしまったため、伝えようにも伝えられなかった。
しかし、仮に感謝の心が少しでもあったなら、沼沢らの死体処理作業が終わるまで起きて待っていれば良い話。あるいは、自分も作業を手伝いに行けば良かったのだ。伝え忘れていただけというのは下らぬ言い訳に過ぎない。
理解の追い付かぬ部分はあれど、村雨の説諭は大方ごもっとも。俺はひどくばつの悪い思いがした。
「……ああ、あんたの言う通りだな。俺がいけなかったよ。俺が一言でも礼を言ってりゃあ、あいつらとは揉めずに済んだはずだよな。反省するよ」
「それだけではない。お前はいずれ、己の組を持つのだ。そうなった時、人の心を掴めぬ男に如何ほどの兵が付き従う? よくよく考えれば自ずと分かることぞ」
「う、うん」
「涼平。今のうちに、しかと学んでおくのだ。『人を動かす』とは何か、『人の上に立つ』とは何かをな。いずれも拳は用いぬ。亡きお前の御父上はそうしたことにおいて類い稀なる才覚をお持ちであった。同じ獅子の血が流れておる以上、きっとお前にも素質はある。時間をかければ答えは見つかろう。決して“努力”を怠るでないぞ。良いな?」
生粋の武闘派として名高い村雨耀介にしては、かなり彼らしくない言葉だ。
それが真っ先に浮かんだ俺の感想であった。
努力を怠るなと言われたものの、未だ理解はできない。自分が組を持つ立場になる将来像もさることながら、極道社会で暴力に依らぬ人心掌握術が必要という点にいまいち実感が湧かなかった。
「涼平。私はお前に期待をかけておる。お前であれば、いずれ御父上をも超える大きな侠となろう。左様に思うからこそ、もっと己を磨けと申すのだ」
「う、うん……」
「如何ほどに強い者であろうと、人の上に立つに相応しい器が無ければ飯は食えぬ。それが我らの世界。渡世は決して単純ではない。己の力に酔いしれるあまり、己の力に溺れて非業な最期を遂げる者も多い。お前にはそうなってもらいたくはないのだ。分かるな?」
「うん」
良薬は口に苦し。それからも“人の和”だの“主君の徳”だのと難しい言葉を並べ立てたお説教は数分ほど続き、俺はすっかり萎えてしまった。
けれども、黙って素直に耳を傾ける姿勢だけは一応見せていた。ここで嫌な顔ひとつ浮かべようものなら即座に殺される。また、俺のためを思ってくれているという気持ちも伝わっていた。
ゆえに俺は淡々と小言が繰り出される間、背筋を正してひたすらに話を受け止めるしかなかったのだった。
一方で、こちらにも言うべきことがある。言うべきことというよりかは「弁明すべきこと」と表現した方が適切か。
話がひと段落した頃合いを見計らって、俺は思い切って切り出してみる。
「あの……昨日、俺がぶっ倒した連中の死体を始末すんのに結構なカネがかかったって聞いたけど。あれは、何つうか、やむを得なかったっていうか……」
「ん? 死体の始末? 特に金はかかっておらぬぞ。せいぜい工場の職人たちに夜食を振る舞った程度だ」
「え、えっ!」
聞いていた情報と違う。てっきり死体処理と現場の清掃に〇〇円もの出費が発生し、組長がおかんむりとの話ではなかったのか。ところが、いざ対面してみると村雨は至って平然としている。
清掃に関しても水を撒いて血痕を洗い落とす程度で済んだようで、大した手間もかからなかったというではないか。
「△△町の鉄工所は我らのために無償で動く。あそこの社長は私に幾らかの借りがあるのだ。昨日は溶鉱炉を使わせてもらった。人の亡骸は埋めるより、溶かした方が確実ゆえ」
「そ、そうなのか……」
さては沼沢の奴、俺を畏縮させるために適当な世迷言を言い放ったか。無駄に怖気づいていた自分が馬鹿らしい。不安が収まった途端に今度は腹立たしさがこみ上げてくる。当然、怒りの矛先は沼沢にも向いた。
(あの野郎……俺をコケにしやがって……)
しかし、村雨の手前大っぴらな仕返しはできない。膨大なコストこそ生じなかったものの、俺のために沼沢たちが汗を流した事実に変わりは無いのだ。
「昨晩のお前は確かに見事な戦いぶりであった。ただ、お前の後始末で方々に走り回った者たちがおることは忘れるな。決して己だけの手柄と思わぬよう。私の申すことの意味が分かるな? 涼平?」
「……ああ。もちろん。要は『感謝の気持ちを持て』ってんだろ。沼沢たちに。言われなくたって分かってるよ」
「分かっておるならば結構。繰り返しになるが、我らの世界で最も肝要なるは人を動かすこと。武勲を独占する者に人は付いてこぬ。如何に振る舞えば人心を巧みに掴めるか、今のうちから学んでおけ」
沼沢の件は確かに腹立たしいが、組長の言葉に沿って考えるならば順当な結果といえる。夜を徹して作業にあたり、遠く離れた□□町まで車を出したにもかかわらず報酬はゼロ。おまけにきっかけを作った俺からは感謝の台詞すら無かったのだ。苛立つのも当然である。
「組長がおかんむりだ」などと敢えて大袈裟な伝聞をすることで俺をビビらせたのは、先刻の諍いも含め、沼沢にとってはせめてもの報復だったというわけか。そう考えれば納得できる。
力ある者が力なき者を武威にて従え、恐怖で支配する。それ以外に一体何の方法があるというのか。実際問題、村雨組だって絶対支配を敷いているというのに。残虐魔王が組と領地を恐怖で牛耳る姿を日頃より間近で目にしているだけあって、相反する主張には納得がいかない。
そんな俺も「時間をかければ答えは見つかる」と村雨は語ったが、いかに高尚な悟りをひらくに至ったところで現実は同じだろう。やはり、最後は力のある者が勝つ。人を動かし、人の上に立つ者とは結局、暴力に長けた者でしかない。
この時は、そうとしか考えられなかった。
ゆえに組長の云う“努力”とやらに励む気には到底なれず、むしろまっぴらごめんとさえ思っていた。けれども、村雨耀介の御前で余計な口答えは無用。反抗は死に直結しかねない。よって俺は気持ちをグッと堪え、最大限に穏やかな声をつくって素直な反応を見せるしかなかった。
「……ああ。分かったよ」
「うむ。私はお前に期待をかけておる。お前ならば、いずれ御父上をも超える侠に化けるであろう。左様に思うからこそ、お前には精進してもらいたいのだ。ああ、話が長くなったな。適当に座るが良い」
こちらの返事に満足したのか、村雨は着座を促す。少し時間を食ってしまったが、本題はここから。組長には幾つか俺に対して聞きたいことがある、それが今回の呼び出しの主旨だったはず。
俺が腰を下ろすのを待った後、村雨は問いを始めた。
「涼平。話は沼沢より聞き及んでおる。昨晩、韓国人どもの夜討ちに遭ったそうだな。それについて詳しく聞かせよ。敵の数は如何ほどであった? お前は如何にして奴らと戦った?」
「10人くらいは居たかな。連中の武器は鉈みてぇな長い刃物と、サイレンサーが付いたピストル。本気で俺を殺すつもりだったぜ。まあ、連中から奪った鉈で皆殺しにしてやったけど」
「では、韓国人はお前のみを標的に仕掛けてきたというわけか……なるほどな。して、奴らはお前に何か口を開いたか? 聞いた話などはあるか……? あれば包み隠さず、聞いたままを申してみよ」
「うん。敵の部隊長っぽい野郎が最後に出てきたんだけど、そいつが結構色んなことを喋ったんだよ。ヒョンムルの奴ら、どうにも家入とは組んでねぇみたいだぞ。あとは中国のマフィアとも仲が悪いらしい」
丸ごと話せば手間がかかるが、ここは迂闊に省略や要約をせずに順を追って説明した方が良いだろう。食い入るように尋ねる村雨に、俺は昨日の出来事を事細かに語った。
「……というわけだ。そいつにとっては死に際の遺言みてぇなもんだから、たぶん間違いは無いと思う」
「左様か。しかし、意外だな。この街に韓国人が現れたは、狗魔を追ってのことだったとは。私はてっきり、奴らもまた家入に手懐けられておるものと思っていた。それがまさか、手懐けるどころか明確に敵とみなされておったとは」
「ああ、そうだな。ヒョンムルにとって、日本人は軒並み敵なんだろうぜ。自分たちのシマを脅かす、憎き敵。んで、その中でも特に憎まれてるのが俺と俺の父さんってわけだ」
「うーむ。奴らが御父上を的にかけるは致し方ないとしても、倅のお前にまで恨みが向くのは些か酷であるな。だが、所詮は物の道理の分かる者たちではない。理屈が通じぬ以上、こちらは迎え撃つ備えを固めておくしかあるまい」
俺が背負わされている業の不条理さに、村雨組長も少なからぬ同情を見せてくれた。
今後、村雨組は横浜の覇権をめぐりヒョンムルとも様々な場面で争うことになるだろうが、奴らの矛先は真っ先に俺へ向けられるはず。何となく不安は残るものの、とりあえず昨日ほどの戦闘能力を発揮できれば大丈夫だろう。こちらには、残虐魔王の加護もある。
村雨が「麻木涼平の引き渡しを交換条件にヒョンムルと手打ちを結ぶ」という愚断に至らない限り、自分はきっと大丈夫だ。そう心の中で頷きながら、俺は組長に問いを返した。
「ところで煌王会の方は、今朝までに何か動きはあったか? 家入の野郎はどうしてる?」
「ああ。それについては現在、探りを入れておる真っ最中だ。先ほど、名古屋へ物見を遣わした。夕刻までには報告が来るであろうな」
「そっか……」
名古屋方面の情勢は非常に気がかりだった。状況から察するに、今回の銃撃事件はおそらく家入によるクーデター。わざわざ家入組の若頭を使って偽の電話連絡を入れさせたあたり、ほぼ間違いないだろう。
俺たちの推測が当たっているとすれば、家入は近日中に兵を挙げるはず。会長が不在となった政治的空白の混乱に乗じ、中国マフィアと組んで本部を乗っ取るのだ。そうなれば最早、家入行雄の天下。村雨組が日の目を見ることはなくなるだろう。直系昇格が破談になるどころの騒ぎではない。組の破滅を避けるためにも、それだけは何としても阻止せねばならなかった。
「けどよ……これから、どうすんだ? 家入組のバックには中国人が付いてる。煌王会乗っ取りを止めるったって、村雨組だけじゃ流石に頭数が足りないような……」
「そうだな。無論、我らだけでは無理だ。ゆえに家入と対峙する暁には他の組の手も借りねばな。尤も、我らの出る幕は思いの外無いやもしれぬが」
「と、いうと?」
「我らが動くまでもなく、幹部同士の戦で謀反は鎮められるということだ。お前も知っての通り、議定衆は殆どが六代目の子飼い。恩ある主君を討たれかけて黙っているはずがない」
なるほど。考えてみれば、実に分かりやすい構図だった。
総本部長の庭野建一や若頭補佐の片桐禎省など、現在の煌王会最高幹部陣は殆どが桜琳一家出身者で固められている。桜琳一家は長島会長の古巣であり、今回の事件で死亡した若頭、日下部平蔵もまた同じ。
庭野や片桐は長島恩顧の侠客であり、彼らにとって会長暗殺をはかった者は仇敵。実行犯の古牧は当然として、後ろで糸を引いたと謀反人を許すはずが無い。ましてや、その謀反人が会長の居ぬ間を狙って天下獲りに動き出そうとしたならば、何が何でも阻止するはず。
村雨曰く、大半が“桜琳派”である煌王会議衆の中にあって、家入行雄は数少ない例外の1人という。ゆえにいざ抗争となれば、多数の直系組織が家入の敵にまわる。日本にいる狗魔の総数は、ざっと3千名弱。よって長島恩顧の直系組長が束になってかかれば、家入組と合わせて容易に叩き潰せるだろう。
(俺たちが出る幕は無いか……)
だが、本当の問題は家入を鎮圧した後に待ち受けている。険しい表情を保ったまま、村雨は言った。
「これを機に大陸の狗魔が一気に動き出すやもしれん。中国人にとって、家入は日本侵攻のための単なる足掛かりに過ぎぬゆえ」
「……じゃあ、家入の企みを打ち破った後、今度は煌王会が中国と戦争になっちまうかもしれねぇってことか……?」
「ああ。あまり考えたくはないがな」
在日コリアンから生まれたヒョンムルと違い、狗魔は日本だけの組織ではない。中国本土には数万規模の兵力を持った総本部がおり、これらが本腰を入れて動き出してくると厄介だ。
張覇龍率いる横浜の狗魔は、ほぼ確実に総本部の意を受けて動いている。村雨組が抗争に勝って張たちを退けたとしても、本国から送り込まれる戦闘部隊と延々に戦い続けることとなる。きっとその時は煌王会全体が戦いに加わるのだろうが、相手は世界各地に勢力を持つ超巨大組織。まともな戦いが出来るかすらも危うく思える。
(家入の野郎……)
そもそも、あの老人は事の重大さを分かっているのだろうか。己の野望実現のために凶悪な中国マフィアを手懐けたつもりかもしれないが、ゆくゆくは連中が自らに牙をむいて襲いかかってくるのだ。
家入にとっては、煌王会の跡目を奪えればそれで良いのか。その後で煌王会が中国と戦争状態に陥る危険性を考えてはいないのか。
俺が立ち聞きした笛吹との会話から考察する限り「どうにかなる」と軽く考えているようだが、本当にそのように思っているのか。もしそうだとしたら、家入行雄という男はあまりにも短慮が過ぎる。とんだ間抜けとしか言い様がない。
「これから俺たちはどう動けばいいんだ……?」
「家入が何処まで煌王会を掌握しておるのか、それによって我らが採るべき道も変わってこような。連絡室に腹心を送り込んだくらいだ。私が思うに、奴は既に組織の中枢を押さえたと見て間違い無かろう」
「マジかよ……だったら、早々に動き出さねぇとヤバいよな。これ以上、奴に好き勝手をさせちまう前に」
「ああ。だが、現時点では情報が足りぬ。向こうの動きを見定めるまでは、迂闊な行動は避けた方が良い。ここは物見の報告を待つとしようではないか」
お先真っ暗とは言いきれないが、村雨組の前途に不穏な暗雲が漂っていることは間違いなかった。
ともあれ、今の俺たちに出来ることといえば情報を集めること。まずは、村雨が名古屋へ差し向けたという密偵からの報告を待つ。それを聞かないことには何も始まらない。今後の戦略を立てるには、確たる判断材料が必要不可欠だった。
(今は動けねぇってことか……)
クーデタ―という重大な局面を前にしているにもかかわらず、すぐに行動を起こすことのできない歯痒さ。やり場のない気持ちを抱えたまま、俺は組長の部屋を後にする。残りの一日にて成した事といえば、自室にて時折身体を鍛えつつジッと夜を待つくらい。少しでも事態が好転するよう、強く祈りながら。
「……」
ところが、それから2日後。
村雨組長の意を受けて名古屋へ潜入したという密偵の報告に、俺たちは困惑することになる。あれこれ膨らませた想像と異なり、起きていた事実は想像の少し斜め上をゆくものであったのだ。
「……おう。今日は早かったな、涼平。先ほど名古屋より暗号が届いた。どうやら、家入ひとりの謀反ではないとのことだ」
昼過ぎ頃に組長室へ呼ばれて行ってみると、そこにいた村雨組長はひどく渋い顔をしていた。ファクシミリの印刷と思われる白い紙を手に、眉間に深いしわを寄せている。
「えっ、どういうことだ? それってつまり、家入以外にも関わってる人間がいたってことか?」
「ま、そんなところだね。ざっくり言えば今回の事件、犯人は長島会長の側近全員だ。家入の大叔父貴だけじゃない。というか、あの人は片棒を担いでるに過ぎないみたいだよ」
俺の問いに対し、村雨に代わって返答を投げたのは菊川。この日はひと足早く、彼も呼び出しを受けていたようだ。
「いやあ、まさかこんな事が起こるなんて。予想もしていなかったよ。昨日の夜、組長から話を聞いた時には進退窮まった大叔父貴が暴走したものと思ったけど。これだけ手の込んだクーデタ―ってなると、だいぶ前から計画されていたと見るべきだよね。やっぱり」
畳の上に敷かれた座布団に胡坐をかき、菊川は苦笑する。彼の隣にもう1枚の座布団があったので、俺は静かに腰を下ろす。前置きは不要。俺にも詳細の説明が欲しい。
「何があったんだ? 詳しく聞かせてくれないか?」
「ええっと、順を追って説明するとね……」
またしても菊川が返答した。村雨組長は腕組みして黙ったままで、言葉を発する気配も無い。ジッと目を閉じていたので、何やら熟慮に耽っていることは直ぐに分かった。おそらくは今後の動きについてあれこれ思案していたのだろう。
そんな組長に代わり、若頭は淡々と語り始める。
「昨日の昼過ぎ、名古屋へ行ってる村雨組の調査員から報告が上がってきたんだ。彼は錦星の総本部へ忍び込んであれこれ嗅ぎまわっているうちに、とある会話を聞いてしまったらしいんだよ」
「とある会話?」
「うん。総本部の一室に会長側近が集まって、話し込んでいたらしいんだ。で、そこにいた1人がこんなことを言ったと。『古牧は予想通りに動いてくれた。これで煌王会は俺たちのものになった』って」
「はあ!? 誰が、そんなことを!?」
思わず仰天した俺に、菊川は続ける。
「発言の主は坊門清史。煌王会の舎弟頭で、直系『坊門組』組長。死んだ日下部若頭に次いで実質的なナンバー3にあたる人だ。たぶん、キミは知らないと思うけど」
「うん……知らねぇなあ……で、その坊門って野郎が事件の首謀者だと? 古牧さんを唆して、長島会長を撃たせた真犯人?」
「ああ。調査員が立ち聞きしたっていう話によればね。その部屋には他にも煌王会の幹部がいて、みんな坊門の言葉に同調してたって話だ。中には『邪魔な日下部が消えてすっきりした』って爆笑する人間もいたとか」
「なっ……マジかよ……」
あくまでも調査員が見聞きした内容であり、その者の憶測も少なからず含まれているだろう。現時点では物的証拠も皆無。だが、それでも信憑性はきわめて高いように思えた。話の中身がだいぶ生々しく、詳細までかなり詳しく調べが及んでいたいたのだ。
曰く、密談の場に居た煌王会の幹部は計4名。前述の坊門に家入、他には総本部長で直系「庭野組」組長の庭野建一、そして若頭補佐で直系「三代目桜琳一家」総長の片桐禎省。いずれも、煌王会の六代目体制において会長の最側近と呼ばれる面々であった。
聞けば、その4名の話し合いを仕切っていたのが坊門だという。
「この暗号文を読む限り、坊門組長がクーデターの中心人物であることは間違い無いだろうね。坊門組長は『やっぱりワシの言った通りになったやろ? 後は全て任しとっておくんなはれ』とか言ってたらしいし」
「ああ、たしかに。聞くからにリーダーって感じだな。計画を立てて実行に移したリーダーでなきゃ、そんなことは言えない。だよな」
「うん。他にも、坊門が他のメンツに『お前らはワシの船に乗ったんや。途中で降りることは許さへんで』と高らかに言い放つ一幕もあったって」
「うわっ、まさに首謀者の台詞じゃねぇか。それ」
他にも坊門は今後の組織運営や人事について、我が物顔であれこれ指図していたとのこと。まるで自分が会長になったかのごとき尊大な姿勢を前に、家入たちが若干辟易する様子も見られたとか。
ただ、こちらが注目すべき問題はそこではない。要はクーデターの首謀者が家入ではなかったということだ。
村雨組に弱みを握られたと思い込み、追いつめられた家入が中国マフィアの兵力を背景に事を起こしたものと思っていた。
だが、実際には違った。
真の首謀者は舎弟頭の坊門で、家入は計画に乗っかっていただけ。調査員の報告によれば、奴はむしろ嫌々ながらに参加している節すら感じられるというではないか。事前の想像とかなりかけ離れていた
「麻木クン。キミが家入の企みを暴いてから、今回の事件が起こるまでおおよそ2日弱だ。坊門の計画をどの時点で聞き及んだのかは知らないけど、察するに家入は焦ったんだろうね。村雨組が六代目に告げ口すれば自分は確実に破滅する、だからその前に六代目を亡き者にできるなら都合が良かったんだよ。たとえ、それが他人が描いた絵図であろうと」
「だろうな。おまけに、自分の手は汚さずに済む。『古牧さんを唆して会長を撃たせたのはあくまでも坊門で、自分は脅されて乗っただけだ』と。計画が失敗したら、そういう言い訳もできるわけだ。あの爺の考えそうなことなことだぜ」
一方で不可解な点もあった。坊門が企てたクーデターに、どういうわけか庭野と片桐が加わっている。この2人はどちらも二代目桜琳一家の出身で、長島にとっては腹心ともいうべき子飼いの部下たち。
長島による引き立てで最高幹部の地位に就いた、まさに長島恩顧と呼んでも差し支えない存在であるはず。それが何故、恩ある主君を討つ計画に加担しているのか。彼らの意図が分からない。
「うーん。何だろ。坊門に弱みを握られて、渋々計画に加わったとか? 菊川さん、あんたは奴らの魂胆をどう思う?」
「見当もつかないなあ。というか、信じられない。僕が知る限り、庭野総本部長も片桐若頭補佐も筋金入りの長島派だからね。あの2人が会長に弓を引くなんて、考えられない。仮に弱みを握られてクーデターに参加せざるを得なくなったとしたら、自ら死を選ぶと思うよ」
しかし、現に庭野と片桐は計画への参加を選んでいる。謀反の成就を嬉々として語る坊門の傍らで、にこやかに相槌を打っていたというではないか。
あらゆる感情論を抜きにして考察を行うならば、結論はたったひとつ。庭野と片桐も坊門および家入の側、つまり敵側にまわってしまったのだ。それが何を意味するかは、もはや深く考えずとも知れたこと。
ここで、村雨が長い沈黙を破った。
「……坊門組と家入組のみならず、庭野の庭野組と片桐の三代目桜琳一家までもが謀反に加わった。つまり、我らの打算が崩れたということだ」
その言葉に、俺と菊川は大きく頷き合う。村雨組長の語った通り、起きてしまったのはあまりにもイレギュラーな事態。
家入が起こした反乱に対し、会長与党である庭野および片桐が立ち向かってこれを鎮圧する―。
そのように見通していた俺たちだが、結果は全くの逆。本来ならば会長を守るべき立場の庭野と片桐が、あろうことか反乱軍に参加しているのだ。坊門組と家入組に庭野組と三代目桜琳一家までが加わったことで、兵力は大きく膨れ上がった。
坊門が如何なるプランを思い描いているかは不明だが、おそらく近いうちに奴は煌王会の乗っ取りを行うはず。飾り物の会長代行に六代目の夫人を立て、長島が人事不省なのを良いことに組織を我が物同然に牛耳り始めるだろう。
村雨組にとって最大の不幸は、そうして官軍となった坊門グループに家入が加わっていること。奴は村雨組を深く恨み、あわよくば潰そうと企んでいる。そんな家入が坊門の側に従っている限り、これから何が起こるかは最早明白。
また、問題はもうひとつあった。
一連の情報を村雨組にもたらした件の密偵と、昨晩から連絡が取れなくなっているというのだ。前述の報告が届いたのを最後に、こちら側からの呼び出しにも出ないという。
ヤクザの世界に限らず「敵地に送り込んだスパイが消息を絶った」という事実から考察して導き出せる選択肢的可能性は、大きく分けて3つ。
潜入に失敗して敵に捕らわれたか、殺されたか。もしくはこちらの情報と引き換えに敵側へ寝返ったか。
村雨もかなり深刻に捉えていた。
「その者は忠義者だったゆえ、簡単に寝返ることは無いだろうが。捕らわれた末に拷問を受けたのならば話は別。誰しも、身体の痛みに打ち克つことは出来ぬ。心を折られれば、すぐに誘惑に乗ってしまうものだ」
「いや。だけど、まだ敵に捕まったって決まったわけじゃ……? ただ単に連絡を忘れてるだけかもしれねぇだろ?」
「彼奴に限ってそれは無い。既に、半日も音沙汰が無いのだ。何らかの理由で敵の手に落ちたと見るのが妥当であろう。すなわち、我らの動きが向こうに勘付かれたということだ」
村雨組にクーデターを看破された――。
そう思った坊門たちは全力で村雨組を潰しにかかってくるだろう。現状、奴らはおそらく組織の人事権を掌握している。ゆえに村雨組を破門処分を下すなど、今の坊門にとっては造作もないことだ。会長も若頭も不在の状況では、坊門を止める者など誰ひとりいない。クーデター派の中には家入もいる。連中の敵意が俺たちに剥くのは、もはや時間の問題といえよう。
震える声で、菊川が村雨に問うた。
「組長、どうする? このままだと僕らは貸元の件が白紙に戻るどころか、煌王会を追い出される可能性だってある。本当にまずいよ? 今の状況」
「うむ。無いとは言えぬな。少なくとも、煌王の代紋を失うことだけは避けたいものだ。そこで中川会に攻め込まれでもしたら、我らはひとたまりもない」
やはり先行きは見通せない。家入が坊門に讒訴すれば、村雨組は煌王会を破門となる。組長も若頭もそうなることを何よりも懸念しているようだった。しかし、解決策が全く無いわけでもないらしい。
「ちょっと僕に思うところがあってさ。坊門って、そんなに村雨組を疎ましがってるってわけでもないと思うんだよ。庭野と片桐も然り。どっちかって言えば、けっこう良く思われてるっていうか……」
「ほう? どういうことだ、菊川?」
「取り入る隙はあるってことさ。家入は問題外だけど、坊門と庭野と片桐。この3人はどうにかなるかも。僕なりに、確信があってね」
曰く、本家最高幹部会で村雨組の直系昇格の賛否が議論された折、坊門と庭野、片桐の3名が明確な賛意を示したというのだ。とりわけ片桐に至っては、自らが村雨の推薦人になっても良いと述べたほど。
よって家入を除いたこの3名を上手く懐柔すれば、直ちに村雨組が煌王会を追われる展開は避けられる。そう菊川は考えているようだった。
「家入は明確に僕らを嫌ってるけど、坊門たちは違う。だから、取り入る隙は十分にあると思う。早いうちに坊門に接触をはかって、村雨組はきっとあなた方の役に立つと頭を下げる。そうすれば、少なくとも破門は免れるんじゃないかな。上手くいけば、直系昇格だって」
「謀反人に恭順を示せと申すか!?」
「だって、しょうがないじゃん。薄々キミも気づいてると思うけど、今は坊門たちが官軍なんだから。クーデターが成功してしまった以上、彼らが煌王会の正義なんだよ。悔しいけど、ここで下手に逆らっても勝ち目は無いに等しいよ」
「……」
若頭の言葉に難色を示した組長。
菊川発案の策が現時点で最善にして最大の有効打であることは、俺も認めるしかない。ここで坊門たちと全面対決する構えを見せたところで、人事権を行使されてあっさり破門になるのが関の山だ。
しかし、一方で村雨の気持ちも分かる。坊門たちに媚を売って頭を下げるということは即ち、彼らの謀反を容認してしまうことになるのだ。村雨とて、決して「謀反人に屈したくない」という個人感情のみに基づいて反対しているのではない。ひとつ、あまりにも大きな理由があった。
「菊川よ、六代目は討死なさったわけではない。まだ生きておられる。もし六代目が目を覚まされたら、その時は何とするつもりだ? 我らは謀反人の一味に成り下がってしまうのだぞ?」
「それは分かってるとも。けど、何発も撃たれて昏睡状態っていうじゃん。長島会長の年齢から考えて、今から蘇生するとは到底思えない。もう目を覚ますことは無いと思うよ」
「それは天に誓えるか? 天に誓って『六代目が息を吹き返すことは断じてない』と、言いきれるのか?」
「いや、そんなこと言われたって……僕はお医者さんじゃないわけだし。断言はできないよ。僕はあくまでも、 現状で打てる手は打っておくべきって言ってるだけじゃないか……」
村雨と菊川の議論は平行線を辿ったまま、噛み合うことなく以降も淡々と続いてゆく。両者とも言い分にれっきとした論拠があって、どちらも正しい。しかしながら、現時点における可能性の大小で考えるならば、やはり俺は菊川の意見を支持せざるを得なかった。理由は、とても単純明快。
(坊門が会長にとどめを刺すかもしれない……)
会長暗殺を狙った坊門にとって、今回の結果は文句なしで満足できるものではなかったはず。本来ならば若頭と同じく会長も確実に息の根を止め、臨時代行体制などというまどろっこしい手は踏まずにさっさと煌王会七代目の座を手に入れたかったことだろう。
坊門にしてみれば、奇跡的に死を免れた六代目は邪魔以外の何物でもない。大量出血による心停止から昏睡状態に陥り、現在は名古屋市内の病院に入院しているという長島会長。そんな会長を坊門がそのまま生かしておく保証は何処にも無い。煌王会内の足固めを済ませた後、頃合いを見計らって病院に居る長島の殺害に動くものと思われる。
そうなったら、坊門一派の天下はほぼ盤石になる。「六代目が目を覚ましたら……」などという村雨の希望的観測は、一切通用しなくなる。最悪の事態に陥る前に、やはり早い段階で手を打っておくのが妥当であろう。菊川としても、己の主張に大いなる自信を抱いていた。
「坊門が長島を殺す可能性だってある。いや、そうなるのは時間の問題さ。キミの気持ちは分かるが、ここは最大限にリスクの少ない道を選ぶべきじゃないかい? 組長?」
「いや。だとしても、ここで迂闊に坊門に尻尾を振るのも迂闊であろう。ここはしばし様子を窺う。坊門たちに恭順を示すは、他の組の出方を見極めてからでも遅くはあるまいに」
「遅いよ! ここは真っ先に態度を表明して、村雨組は坊門清史を全面的に支持するってことを内外に見せつけるんだよ! そうでなきゃ、評価は得られない。早いとこ覚悟を決めてくれ」
「それが迂闊だと申しておる。煌王会は坊門たちだけではない。奴らに他の組が全て靡くとは限らぬではないか。早計な判断は身を滅ぼすぞ」
戦争の勝敗を分かつものは、結局のところ数。
より多くの人間を従えた方が勝ち、そうでない方が負ける。「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉に沿って結論を導き出すなら、官軍と賊軍の立ち位置など数次第でいとも簡単に逆転してしまうということだ。
いま焦って坊門の味方に付いたところで、このまま彼の絶対的優位が続くとは限らない。現時点で坊門が謀反を起こした事実を掴んだのは、おそらく村雨組だけ。情報操作の結果、若頭の日下部が中川会と謀って会長を撃ったという説が広まっていることだろう。
されど、遅かれ早かれ真相はすぐに露呈する。いずれ何処からか情報が洩れ、会長を撃った真犯人および今回の一件が坊門によるクーデターである事実が瞬く間に知れ渡るはず。
その時、他の系列組織はどう動くか。坊門のクーデタ―を認めて勝ち馬に乗るか、あるいはこれに反発して全面対決を決意するか。
どちらの方が有利かは一概には断言できない。現時点でこそ官軍となっている坊門たちも、情報操作の効果が薄れるまでに煌王会を完全掌握できるとは限らないのだ。
「いや、でもね? 組長。ヤクザってのは皆、長い者に巻かれたい連中ばっかりだよね? 坊門に付く直系組長は多いと思うけど」
「ああ。だが、坊門を快く思わぬ者も多いであろうな。一時的に官軍になったとはいえ、所詮は謀反人。必ずしも前途が明るいとは言えぬ」
「そうかな……? 今の六代目のやり方には不満が溜まってたんだし、そうした反主流派を上手く糾合すれば簡単に煌王会を掌握できると思うよ? 斯波一家だって確実に坊門側に付くだろうし……」
「斯波が坊門の味方をするならば、なおさら私は坊門に与することはできん。それにもし万に一つ六代目が目を覚ましたら、形勢は一気に変わるぞ。迂闊な判断は無用。ここは暫し様子を窺う」
村雨の反論は確かに的を得ていた。恐怖と不安に駆られて坊門に降ったところで、このまま彼が煌王会内の足場を固めきれずに少数派となり、結果として賊軍に転落してしまっては元も子もない。長島会長が意識を取り戻す可能性もゼロではないため、現時点での立場表明はリスキーでしかない。
坊門に恭順を示すのも情勢次第では選択肢に入れるとして、とりあえずは冷静に事態を静観する――。
歩み寄りを示した村雨による、こちらの折衷案で良いような気がした。だが、菊川はどういうわけか早期の坊門支持にこだわっていた。
「いやいや。駄目だよ。早い方が良いに決まってる。善は急げ。真っ先に支持を表明するからこそ、相手方の評価を得られるんだよ? どうしてそれが分からないの?」
「判断を急ぎすぎれば、却って取り返しのつかぬ結果を招くこともある。先ほどより、そう申しておろうが。お前の方こそ、何故に分からぬのだ。それが分からぬお前ではあるまい、菊川」
「僕が言ってるのはそういうことじゃなくって……今の坊門たちは煌王会の人事権を握ってる。家入に言われて、坊門が村雨組の取り潰しを決定してからじゃ遅いってことだよ……そうなる前に、早いとこすり寄っておかなきゃ」
平行線を辿るとは、まさにこの事。それからも2人は互いの意見をぶつけ合っていたが、妥結点に落ち着く気配はまったく見えず。ついには1時間が経過してしまった。かなり白熱した討議が続いたと思う。
俺が見た限り、菊川はどこか「怯えている」ようでもあった。組の行く末を心から案じているがゆえ、坊門清史という勝ち馬に飛び乗ることで安泰な道を往きたいと願ったのだろう。心情としては非常に理解できる。未曾有の事態を前にすれば誰しも思考が硬直してしまうものだ。
どれくらい、主張の応酬が続いた後か。不意に俺の方へ話が振られた。
「お前はどう思うのだ、涼平? 今ここで坊門に頭を下げるは時期尚早だと思わぬか?」
「えっ……いやあ、それは……」
「遠慮は要らぬ。お前の考えが聞きたい。浮かんだままを申してみよ。私と異なる話でも構わんぞ」
見解を述べよとの御命令。当時、俺はこうした場面が本当に苦手であった。不得意なのは格上の大人に配慮した言葉選びではない。的外れなことを言って相手を唖然とさせてしまうのが不安で、頭の中で上手く内容がまとまらないのだ。
「うん……何つーか、俺が思うのは……」
いつになく口ごもっていると、菊川の横槍が飛んできた。
「どうした? それじゃあ何を言ってるか、まるで分かんないだろ。もっとはっきり喋れよ。まさか、キミ。さっきのディスカッションを聞いてなかったわけじゃないよね?」
「き、聞いてたさ! 今のは口がまわんなかっただけだ!」
「へぇー。それじゃあ、気を取り直して聞かせてもらおうじゃないの。お手並み拝見と行こうか。麻木涼平クンが、この難しいテーマにどんな結論を出すのか」
「……ああ」
若頭の機嫌は少し悪い。己の考えを理解して貰えぬ現状にイライラとしている様子が、彼の表情からは見て取れる。食い気味で迫られたのは鬱陶しかったが、菊川に悪気はない。軽く受け流し俺は話すのを再開した。
「……俺も坊門にはある程度、今のうちからすり寄っておくべきだとは思う。これから先、何が起こるか分からねぇ。どう転んでも良いように保険をかけておくんだ。万が一の時のためにな」
「だよねぇ! キミもそう思うよねぇ! このまま傍観に徹すれば、いずれタイミングを失う!
リスクヘッジを早期に行うのは生き方の大原則だよ! 僕と同意見で良かったよ、麻木クン」
「だけど、すり寄りすぎんのも良くない。その坊門って人の天下が、いつまでも続くとは限らねぇからな。向こうに頭を下げんのは、あくまで見せかけだ。あちらさんを応援するふりをして、俺たちが味方だと思い込ませるんだ」
「は……?」
微笑みから一転、怪訝な顔に変化した菊川。俺の言ったことが理解できなかったのだろう。軽く舌打ちも聞こえてしまった。そんな若頭を尻目に、村雨は俺に問いかける。
「つまり坊門には、形ばかりの恭順を見せるということだな? 現時点では、奴に従属する素振りだけを見せると?」
「ああ。そうだ」
「なかなか面白い発想だな、涼平。では、仮にお前の言う通りに手を打つとして。如何なる術をもって坊門を惑わすというのだ? 何か策はあるのだな?」
「もちろん、あるぜ。と言っても、わりと基本的なやつだけど」
さすがの俺も、急場しのぎに適当な案を表明したりはしない。思いついたのは数秒前であるものの、話をさらに展開させられるだけの具体策を準備している。猿知恵と一蹴されたらそれまでだが、ここは運に賭けてみる。軽く深呼吸した後、俺はゆっくりと口を開いた。
「とりあえず坊門に幾らかの現金を贈るんだよ。そこそこの額を。そしたら、きっと向こうは俺たちが頭を下げてきたって思い込むだろ。確実にな」
「たしかに、そうすれば坊門は村雨組が恭順の意を示したものと受け取ろう。なれど、傍から見れば村雨が坊門の謀反を容認したと映るのではないか。そうなってはまずいのだぞ」
「うん。だから、あくまで金を贈る名目は『村雨組の直系昇格にむけた挨拶料』ってことにするんだ。ほら、最近やってんだろ? いろんな組に。それを坊門にも出すんだよ。そしたら、立場的には坊門に従ったことにはならない」
「ほう……!」
このタイミングで幾らかの献金を行えば、坊門は村雨組が自分に対して敵意を抱いていないだろうと考え、安堵する。
だが、それは直近の村雨が他の組に配っている『挨拶料』であり、『クーデターを支持した上での資金提供』ではない。熨斗紙に包む金額を前者と同じにしておけば、いざという時の言い訳も立つ。村雨の言う見せかけの恭順を形で示すには、まさにぴったりではないか。
村雨は大きく頷いた。
「妙案だ。さすれば、周囲に怪しまれることも無かろう。坊門への挨拶も未だ済んでいなかったところだ。やってみる値打ちはある。うむ、お前にしては随分と良い知恵をはたらかせたものだな。でかしたぞ、涼平。見事である」
「へへっ。どうも」
「では、さっそく支度にかかるとしよう。明日にでも名古屋へ使者を遣わし、坊門へ金を届けさせる。私が直に筆を執った書状でも添えれば、奴らとて納得するであろう。何ら、難しい事は無い。どうか? お前もそれで良いか?」
ふと、組長の視線が菊川の方へ向く。同意を求められた若頭は、少しの間を挟んだ後で静かに首を縦に振った。
「……ああ。いいよ。すぐに行動を起こしてくれるんだったら、それに越したことはない。もし良かったら、名古屋へは僕が行こうか? 坊門組には個人的な人脈もあるし、任せてくれるんだったら僕が話をつけてきても良いけど?」
「それには及ばぬ。此度は手隙の者を行かせるゆえ、お前は横浜に居れ。斯様な時に若頭が所領を離れて何とするのだ。せっかくの申し出だが、お前の人脈とやらはまた今度使わせてもらう」
「そっか。分かった。んじゃ、後は組長のやりたいようにやれば良いよ。くれぐれも手紙の文面には気を付けてね? できるだけ向こうに味方だって思わせるよう、世辞なんかも多めに入れて書くんだ。いいね?」
「分かっておる。書状のしたため方くらい、私も心得ておるわ」
きっと、村雨は菊川の言う通りには書かないだろう。あくまでも通常の挨拶状と同様、当たり障りのない文言だけを並べるだろう。先ほど俺が具申したように、坊門にすり寄り過ぎるのも良くない。ここで「村雨組は坊門を支持する」と明確に意思表明してしまえば、クーデターが失敗に終わった場合、連座して賊軍の烙印を押されてしまうからだ。
村雨の選択は実に正しい。名古屋へ派遣する使者に菊川を起用しなかったのは、行った先で彼が独断専行に走ることを防ぐため。
俺が見た限り、菊川はクーデター派への早期恭順を是とする己の考えを曲げていない。全権を委任されて名古屋へ赴けば、彼はきっと坊門たちに過度な媚を売ってくる。会談の場で「僕たちはあなた方を全面的に支持します」と口を滑らせるだろう。
そうなったら、村雨組がクーデター派に与した明確な“証拠”が残ってしまうことになる。先行き不透明な情勢である以上、当面はどっちつかずの中立的立場でいることが無難。現時点では、村雨組が恭順したと坊門たちに思い込ませるだけで良い。そのためにも、決して言質を取られてはならないのだ。
組長の話では、名古屋へは馴染みの弁護士を行かせるらしい。どうして組員を使わないのかと些か疑問に思ったが、これには理由があった。
今回、表向きには「横浜の抗争状況が緊迫しているので組から人手を割けない」と説明する。抗争の対処に手一杯という体を装うのである
そうすれば坊門たちはきっと油断する。横浜にかかりっきりの村雨組が自分達に歯向かってくることは無いだろうと安堵し、自ずと警戒心は削がれる。こちらの話を聞いてくれる確率も大いに上がる。
また、弁護士は話術に優れているので、先方との話を上手くまとめられるはず。また、身分的にはカタギであるため、坊門たちに拘束される心配も少ない。総本部を訪れた弁護士に危害を加えたとあっては、坊門の今後の世間的評判に傷がつくからだ。
考えてみれば、何という巧妙な策略だろうか。事情を聞いてなお渋い顔を崩さない菊川を尻目に、俺は組長に賛辞を贈った。
「驚いたぜ。俺には考えもつかなかった。向こうに警戒されねぇよう、敢えてカタギの人間を使うんだな。あんた、やっぱすげぇよ」
「いや。この程度の策は思いついて当然だ。後は運を天に任せるしかあるまい……菊川、ご苦労であった。下がっても良いぞ。涼平は残れ」
用事は済んだのか、退室を促した村雨。しかし、その対象となったのは菊川だけであり、俺は残留を命じられた。これはどういうことか。当然、若頭は不服そうな声を上げた。
「はあ? どうして、僕だけ?」
「菊川よ、聞こえなかったか。私はお前に下がれと申したのだ。何を迷うておる。さっさと行くが良いぞ」
「いや、そうじゃなくて。何で僕だけ……」
「二度言わせるな!」
菊川の不満は村雨の強い口調でかき消される。流石は残虐魔王。これだけでも十分に凄まじい迫力だ。特に怒声を上げたわけでもなく単に声量を大きくしたに過ぎないが、若頭を恐縮させるには十分だった。
「わ、わかったよ……」
表情では最後まで不服の意を露にしながら、菊川はすごすごと座敷を出て行く。その瞬間に軽い舌打ちの音が聞こえた気がしたが、俺は敢えて気にしなかった。
いちいち心に留めたところで、何が起こるというわけではない。そのような些末事よりも、今は村雨組長と2人きりになった気まずい空間にどう対処するかの方が重要だ。
「……えっと。俺だけを残したってことは、あれだよな? 何か俺に話したい事でもあるのか? 2人だけじゃないとできねぇ話でも」
「まあ、そうだな。この話をするからには、人払いをした方が良かろうと思ったゆえ。菊川には外してもらった。些か、大袈裟だったかもしれぬが」
「で、何だ? 話ってのは?」
「うむ。これより伝えるは、お前の今後について。お前をこれから、我が組で如何に扱ってゆくか。その旨をお前に伝えておこうと思うてな」
これからの俺の処遇について――。
思わずドキッとした。ただでさえ緊張感に竦んでいた胸が、さらに締め付けられる。一体、どんな内容を告げられるというのか。予想もできないだけあって忽ち動悸が早くなる。
(まさか、俺は組を追い出される……!?)
一昨日、悪辣に振る舞ったのがいけなかったか。その可能性は限りなく低いが決してゼロではない。ゆえに、今まさに村雨の口から飛び出さんとしている内容が恐ろしく怖い。いつのまにやら、背筋には寒気が走り抜けてくる。
「良いか。先ずは、要点から申す」
「あ、ああ。うん」
「涼平。この度、お前を……」
思わず息を呑んだ俺に、村雨は淡々と告げた。
「……我が実子格として、正式に組へ迎え入れることと相成った」
「じ、実子格!?」
「左様。要は私の子になるということだ。いずれお前には折を見て、絢華と正式に夫婦となってもらう。これより先は我が子として、組のために存分に働いてくれ」
組長が何を言いたいかはすぐに分かった。要は、俺に絢華と結婚して村雨家に婿入りせよということである。
組への正式加入も、絢華との結婚も、かねてより望んでいたこと。この2つを軸に未来図を思い描いていた俺にとっては、願ったり叶ったりの話。しかし、何故だか頭が混乱する。あまりにも急な話ゆえ、思考が追い付かなかったのだ。
「ん、どうした? あまり嬉しそうではないな」
「あ、いや。別に。その……何ていうか……突然の話だったからさ。嬉しいけど、心の準備ができてなかったっていうか」
「急な報せとなったことはすまぬ。なれど、私もここらで身の回りの整理をつけておきたくてな」
「えっ、整理……?」
このタイミングで行う、組長の身辺整理とは何か。状況が状況なだけに不穏な予感しかしない。もしや、村雨は自分が死んだ時のことを考えているのか。俺は静かに耳を傾け続ける。
「うむ。これより先は以前までの抗争とは質が違う。事と次第によっては、煌王会を丸ごと全て敵に回すことになるやもしれぬ。そこで万に一つ私が命を落とした時、誰が絢華を守ってゆくのか。それを今のうちに決めておく必要がある」
「……んで、俺をご指名ってわけか」
「そうだ。組の中では、涼平。お前以外にはおるまい。今までの成り行きは全て聞いてある。あの子の瞳の中にはお前しかおらぬようだし、他に相応しい者が私には思い浮かばぬ」
「そ、そっか」
何と返事をしたら良いのか一瞬だけ戸惑ったが、ここはひとまず素直に首を縦に振っておいた。
組長の言う通り、いま俺たちが直面しているのは他に類を見ない未曾有の事態。煌王会クーデターという大きな渦の中に、村雨組が否応なしに巻き込まれようとしているのだ。当然、血生臭い展開は避けて通れない。打つ手をひとつでも誤れば、忽ち「破滅」の2文字が牙をむいて襲いかかってくる綱渡りの日々が始まるのである。
村雨に限って命を落とすようなことは無いだろうが、彼は武闘派極道。文字通り決死の覚悟で事に臨もうというわけだ。
自分が死んだ場合の始末を前もってつけておくことで、後事を気にせず戦地へ赴くことができる。
武家社会の名残りを汲む任侠渡世、とりわけ煌王会では事あるごとに行われる習慣らしいが、村雨組長の場合は迫力が違う。
たとえ愛娘に今生の別れを告げることになろうとも、己の矜持を最後まで貫く。そんな覚悟と信念がオーラとなって、全身から醸し出されていた。勿論、俺は感嘆せずにはいられない。不退転の決意を背負った侠の迫力を前に、ただただ圧倒されるばかりであった。