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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第7章 そして少年は極道になった
126/252

煌王会動乱

 六代目が撃たれた――。


 あまりにも思いがけない報せである。しかも、撃った人間は煌王会の者だという。にわかには信じられず、俺は混乱した。けれども、この状況で電話番が冗談を言っているとは思えない。


 顔を見る限り、100パーセント真実。


 そもそも軽口を叩くこと自体が有り得ない。業務中の居眠りという最大級の失態を演じた上に「本家で謀反が起こった」という不謹慎なジョークを言い放ったのでは、後で折檻を受けるどころでは済まされないだろう。


 結論はひとつ。たった今、彼が電話にて伝え聞いた話は現在進行形で起こっている“現実”なのだ。実に受け入れ難い。されど、受け入れるしかなかった。


(これは……ヤバいことになった……!)


 事の重大さを悟った俺が愕然とする一方、村雨は電話番に真顔で質問を浴びせた。


「おい。谷尾よ。いかなることだ? 『六代目が煌王会の人間に撃たれた』と申したが。一体、向こうで何が起こったというのだ?」


「じ、実はですね……ろ、ろ、六代目が……」


 電話番のフルネームは谷尾たにおというらしい。彼も彼で頭の整理が付いていないようだった。告げられた事実が大きすぎて理解が追い付かなくなっている、といった方が適切か。


 人は誰しも物事を受容するキャパシティーが最初から決まっていて、それを超えると思考回路が決壊を起こして動けなくなってしまうもの。谷尾の場合、一種のパニック状態に陥っているようにも見えた。己の不手際で暴君を怒らせてしまい戦慄した挙句、衝撃的な報せを受けて更に震え上がったのだ。硬直するのも当然といえば当然である。


 されど、組長は待ってくれない。部下の精神状態などお構いなしに、その冷徹な眼光は一刻も早い返答を要求していた。どうして黙っているのだ、さっさと答えよと言わんばかりに睨みつける村雨。


「……」


 こうも強く無言の圧力をかけられては、谷尾とて何時いつまでもあたふたしていられない。焦ったように必死で呼吸を整えると、やがて彼は震える声でゆっくりと説明を始めた。


「きょ、今日の昼過ぎ。長島六代目は本家若頭の日下部くさかべ平蔵へいぞう組長と一緒に、名古屋の高級レストランへお食事に出かけたそうなんです……そこへ拳銃を持った男がカチコミかけてきて……」


「撃たれたと申すか」


「は、はい! 撃たれた時、六代目は腹に何発か当たったようですけど、奇跡的に何とか急所を外れてて。だけど、病院へ担ぎ込まれるまでの出血が多すぎたせいで、まだ会長の意識は戻ってないとのことで……あと、一緒に居た日下部若頭は弾が頭に当たって即死だったって……!」


「なんと。日下部卿までやられたとは。これはまずいな。まずいとしか言いようが無い」


 煌王会六代目襲撃事件。村雨組長の言葉を借りるまでもなく、まさしく最悪の凶報だった。


 幸いにも事件発生時にレストランは貸し切り状態になっており、他の一般客で巻き添えを食った者はゼロ。店で働く従業員を除いてカタギの目撃者もいないようで、現状で秘密保持は徹底されているとのこと。


 だが、問題は「煌王会六代目が被弾し意識不明の重体に陥った」という事実だ。これが極道社会において如何いかほどの意味を持つのか、考えただけで恐ろしい。


 眉間にしわを寄せながら、村雨はさらに問う。


「……して? 撃ったしゅにんは煌王会の者であると申したが、誰が斯様な真似をしたというのだ?」


「古牧組長だそうです。長野松本貸元の、直系『古牧こまきぐみ』の古牧こまきいわお組長」


「なっ、何!? 古牧の伯父上が!?」


「え、ええ。さっき聞いた話によると、古牧組長ご自身による犯行だったとか。その場に居合わせた女将おかみさまが、そう証言されてます。さっきの電話に出たのは女将さんご本人ですから、たぶん間違いありません」


 古牧組なる組織の詳細について知識は殆ど無いが、名前と組事務所の所在地だけは辛うじて知っていた俺。実は先日、笛吹と家入の会話を立ち聞きした際にチラッと登場した単語なのだ。


 長野県松本市に所領を持つ煌王会の直系団体で、組員は100人前後の中規模所帯。たしか現在は縄張りの線引きをめぐって中川会の枝組織と小競り合いを起こしていたはず。そこへ伊東一家が中川会サイドの助っ人として近々参戦する、という話だったか。何となく心の中に残っていた。


 それはさておき、村雨がわざわざ「伯父上」と敬称で呼ぶからには、古牧との間に浅からぬ縁があったということ。おそらくは渡世の親戚関係。村雨の親分たる斯波一家総長、清原武彦の兄弟分にあたる人物だろうか。


 もちろん俺自身に面識は無いが、村雨曰く古牧巌という男はたいへん謹厳実直な侠客であるらしい。わかりやすく言えば昔気質の武闘派、子分達からも慕われる心優しい親分。謀反を起こす程の野心家にはとても見えない。それだけ今回の話は村雨にとっては信じられない報せのようで、ひどく困惑していた。つい先ほどまでとは違い、明らかな驚愕の色が見て取れる。


「か、考えられぬ……まさか、あの伯父上が謀反に走るなど……間違いはないのか!? 真に間違いはないのだな!?」


「えっ、ええ! さっきも言いましたが、電話に出たのは女将様ですから! 間違いは無いと思います! たぶん!」


「ううむ……なんということだ……」


 部下の言葉に、呆然と視線を宙に泳がせた村雨。このような彼の姿を見るのは初めてだった。会長が謀反で倒れただけに留まらず、その実行犯が知己の者であるという報せ。流石の残虐魔王も衝撃を受けずにはいられないのだろう。


 ちなみに「女将様」とは任侠渡世における専門用語で、組長および総長ないしは会長といった親分の配偶者を目下の者が敬う呼び方。組によっては「あねさん」または「姐御あねご」と呼んでいるところもあるようだが、煌王会の会長夫人の肩書き名としては「女将様」が正解だった。


 会長の奥様が直に電話応対を行ったということは、それだけ現状の煌王会本家御殿が揺れに揺れているということ。


 常時数人は詰めているはずの電話番さえ離席せねばならないほどの、きわめて慌ただしい喧騒状態。総本部で何か緊急事態が起きたことは確実だ。謀反が起きた可能性は大いに高かった。


「……女将様の勘違いであれば笑えるのだがな。生憎、そうではないようだ。ことここにいたって戯言を申しても仕方ない。我々は我々の、成すべきを成すとしよう」


「ど、どうされるのですか? 女将様からは会長が撃たれたってことしか言われませんでしたが……?」


「しばらくは様子を見る。ここで迂闊に動いては危うい。明日の名古屋行きは取り止めだ。菊川にも左様に伝えておけ」


「ははーっ! 承知しました!」


 情勢を見定めるまでの間は、横浜に留まることを決めた村雨。実に理性的な判断だと思った。もしも謀反に家入が絡んでいた場合、組長が所領を離れた隙を内応する笛吹に突かれるかもしれない。招集命令が出ていない以上、下手な動きをしないのが賢明だ。


 また、ついでに村雨はこんな厳命も下していた。


「良いか? 此度の件は他言無用だ。私と涼平、それからお前の3名に限った秘密とする。菊川を含めて、他の者には一切漏らすな。来るべき時が来れば私の口から伝えるゆえ。断じて口を滑らすでないぞ。分かったな?」


「はっ! はい! もちろん! 分かっております!」


「万に一つ軽々しく話を漏らすようなことがあれば……その時は命は無いものと思え。 お前が秘密を守りさえすれば、先ほどの居眠りは不問に付してやる。この機会、活かすも殺すもお前次第だ。よくよく考えて動くが良い」


「はい!!」


 是非はともかくとして、腹心の菊川にさえ話を伝えないとは。少し意外だったが、秘密保持を徹底するというならそれくらいが丁度良いのだろう。情報とはドミノ倒しのごとく瞬間的に伝播してゆくもの。うっかり組全体をパニックに陥れないためにも、現状では情報を伏せておくのが妥当だ。


「……ただでさえ、我が配下には頭に血が上りやすい者が多い。上方かみがたで謀反が起きたと分かれば、すぐにでも飛んで行って古牧の伯父上を討つと言い出しかねん。そうなっては困るのだ。しかと情勢を見極めるまではな」


 村雨の考えに、谷尾も深々と頷く。


「たしかに。まったくですよ。余計なことしてくれちゃって。ただでさえ横浜こっちが忙しいって時に、本家で騒ぎが起きるなんて考えもしませんでした。何を狂ったんでしょうね、古牧は」


「おい。お前ごときが伯父上の名を軽々しく呼ぶでない。我らにとっては恩ある御方なのだ。もし謀反の話が本当であるとすれば、いずれ私の手で討ち取ることになるだろうがな」


「し、失礼いたしましたっ!」


 おっと危ない。呼び捨てにしてはいけない相手だったとは。このやり取りを聞いていなければ、俺も危うく「古牧の野郎」などと呼んでしまうところだった。たとえ相手が謀反人になり下がろうとも、村雨は最後まで旧恩を忘れないつもりらしい。


 ならば俺は「古牧さん」とでも呼べば良かろうか。谷尾には悪いが、転ばぬ先の杖で助かった。


「す、すみません! 古牧の伯父貴、でした! お、俺としたことが、ついうっかり……」


「まったく。谷尾、お前はつくづく軽い男であるな。考えてから口を開くということを知らぬのか。困ったものだな。もっと、しっかりせよ」


「ほんと、すんません! いや、でも。まさか古牧の伯父貴が会長を撃つなんて。そんなことする人には思えませんよね、“古牧”は誰に操られて……あっ!」


 その刹那、谷尾の顔面は真っ青になる。叱られたばかりだというのに早速同じ過ちを繰り返してしまった。おそらく彼にしてみれば「うっかり」だったのだろうが、今更そのようなことは関係ない。いかなる過程であろうと、残虐魔王にとっては結果が全て。谷尾に待っていたのは、尋常ならぬ凄みだった。


「……谷尾よ。私に同じことを二度言わせる気か」


「も、申し訳ございません!!」


「何故、私の言ったことを守らぬのだ? 何故、お前は同じ轍を踏んだ? おまけに我が目の前で。弁明があるなら、申してみよ」


「気が緩んでました! すんません!」


 ここで谷尾に出来る足掻きと言えば、必死で平謝りして許しを乞うことくらい。しかしながら、残虐魔王は甘くない。わなわなと全身を震わせながら慄く怠惰な電話番に、村雨組長は冷たく言い放つ。


「要は『気が緩んでいた』とやらのせいで、私の言葉が頭に入らなかったというわけか。ならば、先ほどの命令もお前の頭には入っておらぬのだな」


「つ、つ、次からはきちんと肝に銘じて……」


「もう良い。お前のごとき愚か者は我が配下に要らぬ。己の心得違いをあの世にて省みるが良い。さらばだ」


 その手には、いつの間にか拳銃が握られていた。


 ――ズガァァァァァン!


 けたたましい轟音と共に放たれた銃弾は一直線に谷尾の頭部を貫き、彼の命を奪い去る。ほんの数秒にも満たぬ短い間の出来事だった。


(殺しちまったか……でも、仕方ねぇわな)


 俺は静かに目を閉じる。まさか本当に撃つとは思わなかったので少し驚いてしまったが、組長の行動は納得できた。


 主君の命令を聞いたそばから「うっかり」忘れるような男に、秘密を守り通せるわけがない。その場では厳守を約束したとしても後になって「うっかり」口を滑らせてしまうのが関の山。惨い結果にはなってしまったが、秘密保持を断固として貫くためには致し方ない。組の今後を大きく左右する機密情報ならば尚更だ。


 コクンコクンと何度か頷きながら、俺はゆっくりと瞼を開く。すると、目の前には意外な光景が広がっていた。


 村雨の銃口が俺の方を向いていたのだ。


「……えっ?」


「涼平。お前のことは信ずるに足る男だと思っておるが。もし、ここで聞いた話を他言するようなことがあればその時は容赦せぬ。お前と言えども、命を以て償ってもらう。分かっておろうな」


「へへっ! 分かってるさ! ハジキなんか向けられなくたって。俺、こう見えても口はカタいんだぜ? 安心しな。絶対に言わねぇ。ああ、しつこく聞いてくる奴いれば、そいつをぶっ殺してでも秘密は守るつもりだ。何なら……」


「そこまでせずとも良い。ただ、私の口から皆に話すまでの間、お前は口を閉じておくこと。それだけだ。他に申すことは無い」


 まばたきもしないどころか軽い笑みさえ浮かべて堂々としていた俺の反応を見て、村雨が何を思ったのかは分からない。ただ、こちらを信用してくれたことだけは確実。その証拠に組長は右手の拳銃を下げる。どこか満足気な様子でもあった。


「さて。だいぶ刻を食ってしまったが、気を取り直して夕飯へ参るか。お前も腹が減ったであろう。手間を取らせて悪かったな」


「いやいや。大丈夫だよ。腹持ちは良い方だから。ちょうど今空いてきたところだ」


「うむ。では、参ろうぞ」


 いつになく足取りが早い村雨。血の海になった床の惨状には目もくれず、すたすたと連絡室を出て行った。取り残されぬよう、俺も慌ててついていく。さほど広くもない部屋で死体と二人きりになるのは御免だ。


「……」


 食堂までの道中、村雨は戻ってきた沢田なる組員に連絡室の片づけを命じた。谷尾とペアで業務に当たっていた、もうひとりの電話番である。


 あくまでも「仕事をおそろかにしていた挙句、組長に無礼をはたらいたから無礼討ちした」との筋書きで谷尾粛清の次第を告げると、沢田は血相を変えて戦慄した。相方が殺された件についてではない。相方に全てを任せてコンビニへ出かけていた自分自身もまた、電話番の仕事をおそろかにしていた罪人に当たるからだ。


「くっ、組長! すいませんでした! 俺、どうしても腹が減っちまったもんで……! 軽い食事を買いに行っておりました……! 以後、気をつけます。絶対に、絶対に気をつけますから!!」


「左様か。ならば、行動で示せ。己の非を認めて省みる気が真にあるなら、すぐにでも部屋の掃除に取り掛かるが良い。さすれば、此度ばかりは水に流してやろうぞ」


「はい! 直ちに!」


「谷尾の亡骸むくろは適当に始末しておけ。きっと臓物は傷んでおらぬゆえ、然るべき処置を施せば取り出して使えるはずだ」


 組長の言葉に、沢田は早速連絡室へすっ飛んで行く。人間の遺体の処理にどれほどの手間暇を要するかは存ぜぬが、おそらく沢田は何ら文句を言わず完璧な仕事をやり遂げるはす。自らが招いた失態を大目に見てもらえるとなれば、彼に手を抜く選択肢は無い。ましてや「どうして谷尾を殺したのですか!?」と抗弁される心配も皆無。その辺りは、村雨組長の脅しの上手さが光っていると思う。


(でも、これからどうすんだろ)


 村雨が組員を粛清することは今に始まった話ではなく、俺が来る前からも日常茶飯事だったらしいので道義的問題は生じない。むしろ組長の意に沿わぬことすれば命は無いという緊張感が広まり、緩みつつあった雰囲気が引き締まるので組織にとっては好都合ともいえよう。


 問題は、兵隊が1人減ってしまったこと。今は抗争の真っ只中。徒党を組んで迫りくる巨大な敵を前に、少しでも頭数を欲していたところだ。出来損ないの組員の粛清を行うにしては、非常にタイミングが悪かった。秘密保持のためにやむを得ない側面も確かにあったと思う。しかしながら、ここで兵数を1人減らしてしまったことは後で必ず組にとってマイナスに作用するだろう。どうにも懸念は拭えなかった。


(俺が谷尾の分まで暴れるしかねぇか……)


 考えたところで仕方がない。不安な気持ちに蓋をするかのごとく、俺は村雨に連れられていったダイニングルームにて夕食に舌鼓を打った。献立は和食。秋刀魚の塩焼きに鶏骨スープという組み合わせは少々風変わりに感じたが、組お抱えの一流料理人が作る品はやっぱり美味い。


 自然と、食べていて幸せな気持ちになれる。上質な食事というものには、どうやら人間の心を優しく解きほぐす効果があるようだ。


「ああ。これ、うめぇわ……何杯でもいける」


「左様か。私としては、少し味が薄い気がしなくもないのだがな。まあ、久々の料理だ。これで良しとしてやるか」


 されど、いかなる気分転換も所詮は一時的な戯れ程度にしかならない。至高の料理に箸をつけていようと、俺たちが交わす話のテーマは自然とシリアスかつ重苦しいものとなる。煌王会本家で起きた謀反劇をどう見るか。村雨からこの話題が振られるのに、さして時間は要さなかった。


「……しかし、驚いたな。よもや古牧の伯父上が謀反に及ばれるとは。とても信じられん。伯父上が六代目の身内贔屓やりかたに煮え湯を飲まされていることは存じておったが、よりにもよって謀反とは。一体、何があの御方を突き動かしたのやら」


「たぶんだけど、誰かに唆されたんだと思うぜ? もともと野心に駆られるタイプでもなかったんだろ? その、古牧さんは。誰かが会長を撃つように仕向けたんだよ」


「うむ。私も同じことを考えておった。伯父上のご気性からして、単独ひとりで事を起こしたとは考えられぬ。必ず裏で糸を引いた者がおる。まあ、それが誰であるか、だいたい目星は付いておるがな」


 奇遇なことに俺自身も予想が済んでいた。六代目体制へのフラストレーションを溜め込んだ古牧を言葉巧みに煽り、会長暗殺を教唆した首謀者。記憶のページをめくらずとも、顔と名前は瞬く間に出てくる。よく見知った男である。


「……家入行雄。きっとあの野郎が唆したんだろうな。古牧さんを。そうとしか考えられねぇわ」


「うむ」


 やはり、村雨もまた同じことを考えていた。


「家入には六代目を討つ動機がある。奴は中国人と結託しての企みを我らに暴かれ、尻に火がついて焦っておるゆえ。おそらくは我らに密告される前に会長を殺し、先手を打ったのであろう。古牧の伯父上を利用してな」


 襲撃事件は家入が愛知へ戻ってから5日後に起こっている。謀反の駒として古牧を抱き込み、実行に至らせるよう嗾けるだけの時間的余裕は十分用意されているといえよう。


 兎にも角にも口が達者で、とりわけ他者ひとを煽って己の意のままに操る術には長けている家入のこと。きっと古牧にも有ること無いことをあれこれ吹き込んだのだろう。


 さしずめ「六代目はお前の組を潰そうとしている。このままではお前の大切な子分たちが路頭に迷うぞ」などと揺さぶりをかけ、今まで抑え込まれていた古牧の激情を爆発させたか。小賢しく振る舞う家入の姿が目に浮かぶ。あの男にしてやられてしまった。六代目が凶弾に倒れたとなっては、家入の動きをハッタリにて止めるすべは最早使えない。俺たちにとって、とてつもなく大きな痛手であった。


「算段が崩れちまったってわけか……家入の煌王会乗っ取り計画をチクらねぇ代わりに、野郎に取引を持ちかけることだってできたのに……クソッ!」


「うむ。たしかにそうなるな。ただ、決定打を失ったのは奴とて同じだ。家入には、お前から受けた狼藉を六代目に上奏し村雨組われらを潰すという手があった。それが此度の一件で水泡に帰してしまったわけだ。状況としては五分五分に戻ったところか。尤も、こちらが数で劣っている事実に変わりは無いがな」


「会長を頼れなくなったのがお互い様ってだけで、こっちが不利なのは相変わらずってことか……いや、待てよ? むしろ俺たちの方がヤバくねぇか? 会長が倒れちまったとなりゃ、直系に上がる話だってパーになるかもしれねぇし……」


「ああ、そちらについては案ずるな。貸元の叙任にまつわる儀式は予定通り行われるはずだ。儀式の場に会長が居らずとも、それなりの地位にある御仁が代わりを務めるゆえ。つつがなく挙行されるであろう」


 煌王会においては会長が何らかの理由で人事不省に陥った場合、事前に定めた継承者が「会長代行」として職務を一時代行する習わしがある。その会長が死亡した後も、正式な跡目が決まるまでは代行の下で組織運営が行われるのだとか。


 村雨の話だと六代目体制の臨時代行者は若頭の日下部平蔵と決まっていたそうだが、銃撃に巻き込まれた日下部は既にこの世に居ない。


 会長が職務続行不能でなおかつ継承者も不在の場合、誰を中心に組織をまとめてゆくのか。


 日本の内閣総理大臣やアメリカの大統領でもあるまいし、継承順位が定められているわけではない。先刻、村雨組長が「まずい」と顔をしかめた理由が改めて分かった。この有り様では混乱必至。跡目をめぐって組織が内紛に発展する可能性すら考えられるのだ。


「これから、どうなるんだ? 会長代行を立てるったって、若頭も死んじまったわけだし……?」


「私の見立てだと、当面は女将様が組を仕切ることになるはず。あくまでも急場しのぎの体制にはなるであろうが、六代目が戻るまではそれでやっていくしかあるまい」


「女将様って、さっき谷尾の電話に出た会長の奥さんか。大丈夫なのか? だいぶパニックになってたみてぇだけど。あんなので組を引っ張っていけるのか?」


「まあ、無理だろうな」


 俺の問いに大きくため息をついた後、村雨は言った。


「この国の歴史上、極道の頭目に女性が立った例は幾らでもある。されどもあの御夫人には無理だ。今までの振る舞いを見ておると、あまりに優柔不断すぎる。おそらく女将様に決定権は渡されない。今後は残った“じょうしゅう”による合議で組を動かしてゆくものと思う。つくづく情けない話であるがな」


 村雨組長が最も懸念していたのは、この重大局面を前に煌王会が組織としての機能を失ってしまうこと。


 会長夫人を名目上のトップに据えて辛うじて体裁を維持したとしても、意思決定を幹部たちによる合議で行うのでは必ずや綻びが生じる。その綻びを中川会ら他組織に突かれ、全国各地のシマを失う事態になれば煌王会はおしまいだ。


 ちなみに“議定衆”というのは煌王会の最高幹部会に出席する権利を持った直系組長たちの通称であり、日下部若頭の他には坊門ぼうもん清史きよし舎弟頭、庭野にわの建一けんいち総本部長、そして片桐かたぎり禎省さだみ若頭補佐などが名を連ねる。彼らの他に18名いるというメンバーの中には舎弟頭補佐を務める家入行雄も含まれており、村雨組を取り巻く情勢は決して明るいものとは言えなかった。


 幸いにも家入は幹部たちの中でも末席に当たり、以前より発言力は然程大きくはなかったためただちに先行きが不安視される状況にはあらずと村雨は語る。しかし、問題は今後の家入の増長。


 合議の場で他の上級幹部たちが睨み合う中、奴は水面下で着々と力を蓄えていくだろう。あの男は中国マフィアと密かに手を結んでいる。連中の力を借りて戦備を整えた家入が、いずれ来る跡目争いで大きく前進するようなことがあれば、村雨組にとってとてつもない脅威となるのだ。


 一刻も早い対処が急がれる事態であることは言うまでもない。ただ、現状でこちらに打てる手は限り少なかった。


「当座は名古屋の動きに深く気を配るとしよう。本日中にも幾人かの密偵を向こうへ送り、状況は逐一報告させる。我らも戦の支度にかからねば。決戦の日は、思ったよりも遠くないかもしれん」


「決戦ってのは、家入と戦うことか?」


「そうだ。奴と直接雌雄を決するは数年しばらく後と思っておったが、此度の謀反の所為で打算が狂った。斯様に大それたことを起こした以上、家入は本気ということだ。必ず我らを潰しにかかってくるであろう。涼平。お前も気を引き締めておけ」


「わかったよ……」


 静寂に戻った食堂の空気が重苦しい。


 とんだ急展開だ。こんな事が起こるなんて、誰が想像していただろうか。長期決戦を見込んだ計算が狂ったのは俺も同じ。てっきり家入とは村雨組が直系に昇格した後、横浜の敵を片付けてからじっくりと戦うことになるものと思っていた。


 けれども、事が起きてしまったからには仕方ない。これからどう動くべきかは分からないが、少なくとも俺には戦う力がある。せっかく俺に期待をかけてくれた村雨組長のためにも、死力を尽くして報いねばならない。そうでなくては、任侠渡世を歩むなど夢のまた夢。極道として生きてゆくことを決めた俺の中には、既に強靭な覚悟ができあがっていた。


「……で、俺はどうすればいいの? 誰かを殺して来いっていうなら、さっそく行ってくるけど?」


「そうだな。まあ、しばらくは焦らずじっとしておれ。来るべき時に備え、活力を養っておくのだ。機会が来ればすぐに声をかけるゆえ」


「うん。了解。あんたはどうすんの? 名古屋へ行くのは取り止めにするんだろ?」


 俺が尋ねると、村雨は大きく頷いた。


「左様。しばしの間は横浜にて様子を窺う。笛吹の行方も未だ掴めておらぬ上に、中国人や韓国人までが動き始めておる。伊東一家の出方も気がかりだ。連中やつらが手を携えておる限り、村雨組われらは袋の鼠も同じ。迂闊には動けぬ」


「だよな。まさに『村雨組包囲網』ってやつか。ほんと、厄介だな。横浜にいる敵には、ほぼ全員家入の息がかかってるだろうし」


「ほほう。『村雨組包囲網』とは。これまた随分と面白い例えであるな。うむ、確かにお前の申す通りだ。すべてが家入の意のままに動いておるとなれば、家入を倒さぬことに戦は終わらぬ。困ったことになったものだな」


 家入が古牧を操って日下部若頭を射殺し、長島会長に重傷を負わせて昏睡状態に致らしめた――。


 俺たちが推理した事件の構図が正しければ、これは家入組長による立派なクーデタ―。家入に煌王会次期会長の座を狙う野心があることは、先日の立ち聞きで確認済み。村雨組に弱みを握られたと思い込んで焦ったのか。あるいは以前より古牧を巻き込んで事を起こす計画があったのか。真相は本人のみぞ知る所であり、定かではない。


 ただひとつ、はっきりとしていることは煌王会直系「古牧組」組長、古牧巌が討伐の対象になったということ。動機が何であれ、背後に誰がいようと、彼のやったことは反逆罪だ。これより下される沙汰は、おそらく古牧組および組長古牧巌の討滅処分。主君に向けて引き金をひいた大罪人として組長のみならず、配下の組員たち全員が粛清されるのである。


 古牧組は直系団体で傘下には幾つかの三次、四次団体を抱えていることから、連座して処刑される若衆は百人規模にのぼるはず。何の咎も無い彼らが親分の都合で殺されるとは、何とも悲惨というか痛ましい。


 だが、悲痛な心情にあるのは村雨組長とて同じことだろう。前述の通り、村雨にとって古牧は駆け出し時に世話を焼いてもらった旧恩人。そんな恩ある叔父貴分が今回、謀反人に成り下がったのだ。組長の無念さを思えば、俺も同情せずにはいられなかった。


「その……古牧さんは、これからどうなるんだ? やっぱり、殺されちゃうのかな……?」


「唆されたとはいえ、謀反を起こしたのだ。粛清されるは当然であろう。致し方ない話ぞ。唆した者は白を切り通し、罪を逃れるだろうがな」


「そ、そっか……なんか、辛いな……」


「気に留めるな。それが渡世の摂理というものだ。いちいち気にしていたのでは、極道などやっていけぬぞ。私はとっくに腹を決めておる。今後、伯父上に討滅の沙汰が下された暁には村雨組われらが先陣を切って信濃へ攻め込み、謀反人を討ち取る所存。迷いなど無い」


 少しばかり慰めの言葉をかけて差し上げるつもりが、逆に諭されてしまった俺。やがて来る古牧組討伐の役目が回ってくるかどうかはさておき、村雨には強固なポリシーがあった。


「良いか? 涼平。この世界で生きるということは、時に全ての私情をめっして動かねばならぬということだ。渡世での決断に情は無用。さもなくば、真に守るべきものを失う。よく覚えておくが良い」


 こちらを真っ直ぐに見据えた村雨の視線に、一切の揺らぎは無かった。その瞳の奥に浮かぶのは確固たる覚悟と信念。きっと今まで数多くの非情な決断を下してきたのだろう。血まみれの所業に手を汚し続けるのも、すべては組と領地、そして何よりは最愛の一人娘を守るため。


 覇道を突き進む中で背負った多くの業も、「残虐魔王」などという恐怖の通り名も、村雨耀介は己に必要なものと割り切っている。この男のすることに躊躇いなど存在しない。存在するわけもない。ほんの一瞬でも愚問を投げた俺が、ひどく馬鹿らしく思えてきてしまう。


 俺自身はと言えば、まだまだ肚の据わりが足りない。人の命を奪う行為に最早逡巡は無いが、それでも時たま甘い私情を挟んでしまうことがある。少しでも村雨組長に近づけるよう、努力を続けなくては。きっと何年かかっても、追い付けはしないのだろうが。


 そう思いながら、俺は静かに返事をかえしたのだった。


「……ああ。わかったよ……」


 食事が終わると、俺は執務室へと戻る村雨と別れて玄関の方へ歩き出した。歩き出すと言っても来た道を戻り、角を2つほど曲がるだけである。


 俺が玄関に向かう理由は、たったひとつ。コンビニへ買い物に出るためだ。


 どういうわけか、急に炭酸飲料が飲みたくなっていた。理由は特に無い。ビールや他の如何なる飲み物とも違う、あの独特な喉触りを体が欲していた。こういう欲求を世間では「無性に」と形容するのかもしれない。少し大袈裟な表現ではあるが。


(ちょっくら、行ってくるか……)


 村雨組屋敷の建っている山手町番地は富裕層が邸宅を構える高級住宅街ではあるものの、交通や買い物にまつわる事情はきわめて悪い。


 最寄りのバス停まで歩いて最低15分もかかる上に、コンビニに至っては倍の時間を要する不便さ。おまけに店は坂を全て下りきった丘の麓にあるため、徒歩で買い物へ赴く際には行き帰りで急傾斜を昇降せねばならない苦行がもれなく付いてくる。


 何故にここまで便が悪いかといえば、それはひとえに山手町の住人が公共交通を使わないからであろう。大抵の場合、彼らは自宅に呼び付けたタクシーだのハイヤーだので優雅に移動する。滅多な理由が無い限り、彼らが徒歩で出かけることは有り得ない。村雨組とて同じである。


 元より山手は金持ちの街。同地にバス停やコンビニが少ない横浜市の都市計画は、そうした地域柄の影響を大いに受けてしまっていると個人的には思う。


 本音を言えば、軽い買い物へ行くのに毎回急な坂道を歩かねばならないのは非常に面倒だ。村雨邸には車が何台も停まっているが、たがが俺ごときの私用外出のために使うのは申し訳ない。おまけに当時の俺は免許を持っていないので、使えるとしてもどうしようも出来ない。よって、俺には歩く以外の選択肢が無いのであった。


(ったく……面倒くせぇなあ……)


 そんなことを考えながらも、ひたすらに廊下を歩いてゆく俺。すると、1つめの角を曲がったところで灯りの付いた部屋にさしかかった。先ほど一悶着あった例の「連絡室」だ。ふとドアに目をやると、こんな貼り紙がしてあった。


【清掃中につき 入室禁止】


 思い出した。ここはつい1時間ほど前、谷尾なる組員の射殺現場となった部屋だ。どうやら奴の死体除去も含めた“掃除”が行われているらしい。


 たかが亡骸を外へ運び出すだけで随分と時間がかかるのだなと首を傾げたが、思えばあの時、室内の床には被弾した谷尾の血液が飛び散っていた。あれも含めて“掃除”するとなれば、作業が長期化して当然だ。妙な納得感をおぼえ、俺は何の気なしに部屋を通り過ぎようとした。だが、その時。


 ――プルルルルッ! プルルルルッ!


 電話の音が聞こえた。一定の等間隔リズムを刻んで喧しく鳴り響くコール音。以前から感じていた事ではあるが、村雨邸における電話機のベルの音量は矢鱈と大きく、近くで聞けば少し鼓膜が痛くなってしまうほど。こんな爆音の中で居眠りを続けられた谷尾が信じられない。あれはあれで一種の才能だったのではないか。


「……」


 思い出し笑いに頬を緩ませながらも通り過ぎようとした俺だったが、ここでひとつの違和感に気づく。


 誰も受話器を取らないのだ。おかげでコール音は鳴りっぱなし。ご存じの通り、村雨邸の電話番は数回以内に出る決まりだ。一体、どうしたのだろうか。沢田は何をしているのやら。相棒が職務怠慢で処刑されたばかりだというのに、彼と同じ轍を踏んでしまおうというのか。


 死んだ谷尾に続いて沢田までもが寝息を立てていたら、とんだお笑い草だ。不思議な予感をおぼえた俺は部屋の扉を開ける。


 すると、中には誰もいなかった。


(あれ……? どこへ行きやがったんだ……?)


 電話番の行き先は不明。おそらく沢田は清掃作業の途中にあって死体の後処理に出ていると思われるが、代わりの者の姿が見えないとは。


 思わず、ため息をついてしまった。いくら掃除中といえども電話は平常時いつも通りにかかってくるのだから、退室するなら他の組員の1人や2人に代わりを頼めば良いのに。連絡不徹底というか、何というか。またもや垣間見えてしまった下っ端組員たちの怠慢ぶりに、俺は開いた口が塞がらなかった。


 電話は変わらず鳴り続ける。おそらく向こうの発話者は痺れを切らしていることだろう。何故、誰も出ないのか。俺がその立場にあればきっと苛立ちさえ感じてしまう。


(俺以外には居ない……か。ったく、仕方ねぇ)


 ふと廊下を左右に見回してみても、組員たちの姿は見えない。何の偶然か。近くを通りかかる者の気配も無し。本当はすぐにでも買い物に出たかったが、やむを得ない。軽い舌打ちで留飲を下げた後、俺は受話器を取った。


「はい。こちら村雨組」


「もしもし? ああ、やっとお出になりましたねぇ。随分と時間のかかったこと。ウンコにでも行かれてたんですかァ? 待ちくたびれましたよ。まったくもう」


「すまん。で、おたくさんは誰だ」


わたくしぃ? ああ、私は煌王会本家の者です。ちょっとお伝えしたいことがあって電話したんですが。村雨組長に、代わっていただけますか?」


 電話の受け答え時のマニュアルなど呼んだことも無く、もちろんマナーや礼儀作法も知らないので些かぶっきらぼうな応接になってしまった。


 そんな俺に少々嫌味たらしく村雨への取次ぎを求めてきた声の主は、自らを煌王会本家の者と名乗った。聞けば、本家御殿にて事務作業にあたっている下っ端構成員という。声の質感からして歳は40代くらい、やけに抑揚のついた口調だった。だいぶ特徴的な喋り方だ。


(ん? 前にどこかで聞いたような……?)


 おっと、いけない。今は記憶の引き出しを開けている時ではなかった。目の前の作業に集中しなくては。ただでさえ無作法な俺の応対だ。本家から連絡を寄越してきた者を電話で待たせたとなれば、後で組長の不興を買ってしまう。俺は慌てて返答を投げた。


「ああ。悪い。ちょっと今、組長は席を外してて。用件があるなら、代わりに俺が聞いておくわ」


「そうなんですかァ? うーん。困りましたねぇ。村雨組長に直接伝えろって、うちの組……いや、女将様からのご指示なのですよ。何分くらいで戻って来られますか?」


「分かんねぇ。どれくらいになるかは」


 村雨は2階の執務室に居る。


 本来ならば組長の部屋に内線で転送をかけるところだが、あいにく執務室の電話機が故障中。連絡室からわざわざ村雨組長の元へ走るのも面倒に感じたので、俺は適当に理由を付けて「組長に不在」ということにした。伝言であれば、後で正確に話せば用足りるだろう。何ら不足は無いはずだ。


「いや、でもねェ……あなたみたいな、ろくに敬語も使えないチンピラに伝言を任せたところで、ちゃんと伝わるか不安でして……」


「ああ。そいつはすまなかったな。こういう口の聞き方しかできねぇのは、生まれつきだ。そんなに心配しなくたって、大丈夫だよ。ちゃんと伝えるから。俺、こう見えても記憶力は良い方だからよ」


「こう見えてって、あなたねェ……電話から顔は見えないじゃないですか。何をおっしゃってるの……? あなたの容姿なんか知りませんよ。バカなんですか?」


「あはは。そいつは失敬したぜ」


 目の前でツラを合わせている状況であれば確実に一発拳をお見舞いしていたが、ここは我慢のしどころ。瞬間的に沸き上がった怒りをグッと堪えつつ、俺は笑い飛ばして返した。


「いやァ。ますます不安になってきましたよ。あなたに話したところで、ちゃんと伝わるわけが無い。あなたみたいなアホは簡単な雑用仕事さえまともにこなせないでしょうから。事実、さっきのあなたはなかなか電話に出なかった」


「そりゃあ……面目ねぇわな……」


 腹立たしい嫌味を浴びせられるも、俺は懸命に怒りを抑え込んだ。俺にしてはだいぶ耐えた方だと思う。無駄な諍いを起こすなと組長に説教を受けて以来、人知れず続けてきた俺の精神的努力がようやく実を結んできたか。我ながら目覚ましい成長だと思う。


 それはさておき、本家連絡係との単調なやりとりはしばらく続いた。いくつか嫌味を受け流した後、向こうが折れる形でやっと話に応じた。


「まあ、いいや。どうせ後から書状をまわすんですしィ? あなたの口から組長に伝わらなかったとしても、問題はありませんよね。んじゃ、お伝えしますわ。メモとか大丈夫ですか?」


「ああ。いいぜ」


 ここにメモ用紙とペンは無い。ゆえに俺は電話機本体側面の“録音”のボタンを押し、受話器スピーカー部分から聞こえてくる声に耳を傾けた。


ずは要旨からお話します。六代目が撃たれました。きょうの午後3時20分頃、名古屋市の仏料理フレンチレストラン『サン・ロシェル』にて日下部のカシラと会食中、カシラが突然として拳銃を抜いて六代目を撃ったんです」


「えっ? ちょっと、待ってくれよ。カシラって、日下部って人のことだよな。その日下部さんが撃ったってことか?」


「はい。信じられない話だとは思いますが、きょうの昼下がりに事実として起こったことです。幸いにも銃弾タマは急所を外れて、全てが貫通。六代目は辛うじて一命を取りとめました。ただ、意識はまだ戻られておりません。病院に運び込むまでが遅れて、心肺蘇生に手間取ったせいです」


「はあ……!?」


 ひどく困惑すると共に、俺は自分の耳を疑った。「六代目が撃たれた」という報せにではない。電話口から聞こえてきた「撃ったのは日下部若頭」との部分にである。


 これは、いかなることか。先ほど聞かされた話とは違う。煌王会六代目会長、長島勝久が銃撃を受けたという点では共通しているが、会長夫人の話によれば「撃ったのは古牧組組長の古牧巌」とのことだったではないか。


(どういうことだ……!?)


 明らかなる話の相違。俺はただただ、戸惑う他なかった。もしや先ほどの報告は誤報なのか。しかしながら、事件発生時に夫人は現場に居合わせて一部始終を見ていたというので一概に誤りとも言い切れない。


 正誤は後ほど村雨に吟味してもらうとして、今はとにかく情報を得ることが第一。食い違いを指摘したくなる気持ちを堪え、俺は引き続き話を聞いたのだった。


「……続けてくれ。で、本当なのか? 長島会長が若頭の日下部さんに撃たれたってのは。本当に、間違いは無いんだな?」


「ええ。だから、言ってるじゃないですか。間違いは無いって。目撃したカタギの店員が何人も証言してます。既に警察サツの捜査も入ってて、もうすぐ報道も出ることでしょうね。明日の朝のニュースをお楽しみに。ふふふっ」


「いや、楽しめるニュースじゃないだろ……まあ、ともかく。それはおいといて。どうして日下部さんは会長を撃ったんだ? 若頭が親分を撃つなんざ聞いたことが無いぜ?」


「聞いたことが無いのは私も同じですよ。何せ、前代未聞の事件ですからね。日本最大の暴力団、煌王会のお家騒動。関西のみならず、国中の裏社会に激震が走るでしょうなあ。ああ、なんと嘆かわしいことか」


 大袈裟気味に嘆息をこぼした後、連絡係は続けた。


「動機は分かりません。何故なら六代目を撃った直後、日下部は射殺されちゃいましたからね。護衛で付いていた信州貸元、古牧組長に。だから真相は闇の中です。何故に日下部はあのような凶行に走ったのか。今となっては知る術もありません」


「そうか……長島会長を撃ったのは日下部さんで、その日下部さんは会長の護衛の古牧さんに殺されたと? この理解で間違いはねぇか?」


「ええ。間違いはございませんとも。古牧組長は煌王会の中でも一二を争う、早撃ちのスペシャリストですからね。日下部が凶行を起こすや否や、瞬間的に銃を抜いて奴を倒したんですわァ。まあ、欲を言えば古牧組長には日下部が引き金をひく前に撃っていただきたかったんですが。仕方ないですね」


 これまた、先ほど聞かされた話と違う。当初会長銃撃の犯人とされていた古牧組長は、あくまでも護衛役であって襲撃犯ではないというのだ。凶行に及んだ日下部若頭に向けて即座に発砲、頭を撃ち抜いて射殺したのだとか。この点だけは不思議にも共通している。


(えっ? どっちが本当なんだ?)


 情報が錯綜し、俺の頭は混乱した。先刻は俺が直接聞いたわけではないので何とも言えないが、こちらの伝達は何ともリアリティーがあって生々しい。こちらの方が正しいとすると、あの話は何だったのか。考えれば考えるほどに、分からなくなってくる。


「し、信じられねぇ……若頭が、会長を……」


「信じられんのも無理ありません。誰もが予想だにしなかった出来事ですからね。けど、これは何度も言うように『事実』なのです。受け入れてもらうしかない」


「いや。『事実』だとしてもよ……どうして若頭が会長を撃たなきゃいけないんだ。跡目を狙ってたから? それとも、何かしらの恨みがあったとか?」


「さあ。どうだか。問い詰めようにも日下部は死んじまいましたからね。しかし、ひとつだけはっきりしていることがあります。ここ最近で分かったことなのですが……」


 数秒の間を挟んだ後、衝撃的な言葉が続いてきた。


「日下部平蔵は中川会と内通していた節があります。奴が中川むこうのお偉方と会っているのを見かけた者がいまして」


 なんということか。よりにもよって、敵との内通疑惑とは。詳しく話を聞いてみると、大阪道頓堀にある直系「日下部組」事務所付近で前月から不穏な人影が目撃されていたという。


眞行寺しんぎょうじ政虎まさとら。中川会の理事長で、事実上のナンバー2にあたる男です。その眞行寺が頻繁に道頓堀を訪れていたようでしてね。道頓堀は日下部のシマ。ただの偶然とは思えませんよ」


「じゃあ、あれか? 日下部さんは中川と示し合わせて会長を撃ち、煌王会を裏切ったってことか?」


「ええ。少なくとも我々はそう睨んでます」


 もちろん、中川会の人間が道頓堀に居たというだけで安易に日下部の裏切りを決めつけることは適切ではない。どうにも、早計の度合いが過ぎる気がしなくもなかった。


「……で。これからどうすんだ? もし日下部を唆して長島会長を殺しかけたのが中川会って話が本当なら、そう遠くないうちに戦争になるんだよな? 中川会と」


「そうなりますかね。主君の首を獲られて黙ってるなんざ、ヤクザのすることじゃありませんから。いずれ中川には、それ相応の代償を払っていただくことになりますかなァ。報復かえしは徹底的にやりますよ。その時は、あなたがた村雨組にも存分に働いてもらいますから。どうぞよしなに」


「いやー、ちょっと考えすぎじゃねぇかなあ。仮に日下部さんが会長を撃った話が事実だとしても、裏で中川会が糸を引いてたなんて……もうちょっと調べてみるべきなんじゃないの? 下手すりゃ東と西の大戦争になっちまうかもしれねぇ話だし?」


 すると、電話の向こうの態度が変わった。


「考えすぎってことはないでしょう! 日下部は煌王会われわれの敵、中川会のナンバー2と密かに会ってたんですよ? 裏切りを唆す以外に何の目的があるって言うんですか! 現にこうして日下部は会長を殺そうと謀った

 。これを教唆と呼ばずして何と呼ぶんです? ええ!?」


「いや、そうじゃなくて。中川会が日下部を唆した証拠は無いだろって言ってんの。まともな証拠も無しに戦争を仕掛けたら、とんでもねぇことになるぜ。ムキになる前に、少しは落ち着いて……」


「黙りなさい!! 『敵の幹部と密かに会っていた』。これだけでも立派な内通でしょうが!! 何を言ってるんですか、あなたは。あなたの方こそ、もっと考えてから喋りなさい」


 連絡係の口調が急に激しくなり、怒声を浴びせられてしまった。この手の人間には、最早何を言ったところで無駄だ。完全に思い込みに凝り固まっている。会長が身内に撃たれた前代未聞の暗殺未遂事件で憤怒に逸る心情も分かるが、こういう時こそ慎重に物事を見極めるべきではないか。俺は思わず、ため息が口に漏れてしまった。


「はあ……ちょっと、これは……」


「何ですか!? 何か文句でもあるんですか!?」


「いや。別に。ただ、俺には理解できねぇと思って」


「理解ができないなら黙っていなさい! だいたい、これは本家の決定事項なんですよ。あなたごときが口を出す問題ではありません! あなたの役目は、いま伝えた話をそのまま組長にも伝えるだけ。余計なことは考えなくて良い! まったく。私だって暇じゃないというのに。無駄な時間を取らせるんじゃありませんよ!」


 この男は村雨組以外の傘下組織にも電話をかけてまわっているようで、まだ他にも予定が沢山残っているとのこと。それゆえ、話を即座に呑み込まない俺の態度が不快で仕方がないようだ。


「これだから、チンピラは嫌いですよ。物分かりが悪い上に理解力に乏しい。あなたみたいな阿呆と話す時間は無駄です。だから、話したくなかったんだ。そろそろ切りますよ? いいですね?」


「ああ。分かった分かった。こちらこそ、手間を取らせて悪かったな。早々に切ってくれや。どうも聞いてた話と違うから、引っかかったんだが。あんた相手に聞いても意味ねぇか。あとは自分で考えるわ。じゃあな」


「ちょっと待ちなさい! 何ですか? 聞いてた話と違うって。私のと何が違うんです?」


「何が違うって、そのまんまの意味だよ。実はさっき、俺たちはあんたよりも前に話を聞いてたもんでな。あんたの話が、そっちと随分と食い違ったから『あれ?』って思ったんだ。けど、最早どうでもいいだろ。女将様とやらの話は間違いだったってことで」


 すると、次の瞬間。連絡係の口調に、再び変化が訪れた。今度は激昂ではない。だいぶ穏やかなトーンへの鎮静化だった。


「お待ちなさい。詳しく、聞かせてもらえませんか? ええっと、その……私よりも先に来たたという報告について。もしかして、女将様があなた方に電話をかけたのですか……?」


「ああ。そうだ。ちょっくら、本家に用があったからな。1時間くらい前、そっちに電話をかけたんだよ。そしたら会長の奥さんって人が出たらしくて」


「なるほど? 続けてください?」


 ここへ来て意外な食いつきを示した連絡係。何故だかは分からないが「1時間ほど前に会長夫人が電話にて伝えたこと」について、かなり詳細な話を聞きたがっている。少し面倒ではあるが、せっかくの機会だ。話の食い違いを指摘してやろうではないか。


 俺はそのまま、先刻に聞いた話を詳しく教えてやった。


「……というわけだ。だから、てっきり俺たちは会長を撃ったのが古牧さんだと思ってた。古牧さんが会長を撃って大ケガを負わせ、一緒にいた日下部のカシラを殺したもんだと」


「ほう。それを先ほど、女将様が電話であなた方に話したというわけですね?」


「ああ。そうだよ」


 こちらの説明に黙って耳を傾けていた男は、俺が話し終わると嘆息を漏らす。その際、軽く舌打ちにも似た音が聞こえたような気がした。


「まったく、困ったことを……これは早々に、手を打たないといけないみたいですね……」


「ん? 何だって?」


「いいえ、こっちの話です。何でもありません。とにかく、教えてくれてありがとうございました。おかげで助かったというものです」


「いや。助かったじゃなくて。どうなんだ? 本当のとこは。誰が長島会長を撃ったんだ? 教えてくれや。先刻と今、どっちの話が正解なんだよ」


 俺が知りたいのは会長暗殺の真実。家入の煽りで六代目体制への怨嗟を爆発させた古牧による犯行か。それとも、中川会と結託した日下部若頭による裏切りなのか。どちらも十分に想像できるゆえに、気になって仕方がなかった。


「ああ? どうなんだ? どっちが正解なのか! 黙ってねぇで答えろや!」


「ええっと……まあ……」


 さっさと済ませれば良いものを。どういうわけか曖昧な言葉でお茶を濁し続ける連絡係。しかし、明快な返答を強く求めた俺の勢いを受けて、ついに観念したのか。やがて消え入りそうな声量で小さく答えを吐いたのだった。


「……今、私が話した方が正解です」


「おう? ってこたぁ、若頭の日下部さんが会長を撃ったってことになるのか?」


「ええ。さっきも言ったじゃないですか。あれは紛れも無い『事実』だって。間違いありません。本当です」


 だったら、どうしてここまで返答に時間を要したのか。不思議に思ってしまったが、そちらは別に大した問題ではない。問うべきことは他にある。俺は次なる質問を放った。


「そうかよ。じゃあ、さっきの女将様とやらが電話でした話は何だ? あれは全部、作り話の与太だってのか? 旦那が撃たれて意識不明って状況で冗談を言うたぁ思えないんだが」


「あれは与太っていうか……女将様の病気のようなものです。病気っていうか、一時的な発作というか……」


「はあ? どういうこった?」


 語気を強めた俺の問いかけに、男はやや言いにくそうな躊躇いを含ませつつ、ゆっくりと答えを語った。


「……女将様は気が動転しておられるのですよ。さっきも言いましたでしょう。六代目が撃たれた現場に、女将様も居合わせておられたと。最愛の夫が銃撃を受ける光景を間近で見てしまったのです。パニックを起こすのも当然。どうか、察してください」


 つまりは日下部若頭によって長島会長が目の前で撃たれ、そのショックで記憶違いを引き起こしたということか。もしそうであれば、夫人が「犯人は古牧」と言ったのも頷ける。現場にて立っている人間で銃を持っている者と言えば、最終的には古牧組長を除いて他に居なくなるからだ。


 しかしながら、これは医学的に有り得る現象なのだろうか。どうにも釈然としない。もしかしたら俺が知らないだけなのかもしれないが、いまいち理解が追い付かなかった。とはいえ、ここで確かめる術は無し。下手に問い質し続けてもこちらが知識を持っていない分、長電話となるだけだ。


 俺はひとまず、納得した旨の返事をおくった。


「ああ。分かったよ。そういうことだったんだな。何だか知らねぇけど、とりあえず『お大事に』って伝えといてくれや。女将さんに」


 すると、俺の言葉を受けた連絡係は安心したように明るい声を寄越してきた。心なしか、ホッと胸を撫で下ろしたようにも思える。


「ええ。そう伝えておきます。分かっていただけたようで、何よりです。会長を撃ったのは日下部、これが正解ですからね」


「おう」


「もう一度、言います。撃ったのは日下部で、古牧組長はあくまでも主君に手をかけた裏切り者を始末しただけです。いいですね? 分かっていただけましたね?」


「おう。分かったって」


 何度も、分かったと言っているのに。何故、ここまで念を押すのだろう。執拗な確認を繰り返してきた連絡係の態度には違和感をおぼえたが、ここで下手に追及しても埒が明かないのは既知の通り。


 俺は適当に受け流すと、会話が終わりに近づくのをひたすらに待った。


「……以上のこと、村雨組長によろしくお伝えください。お願いしますよ。お願いしましたからね。では、これにて」


「あっ、ちょっと待ってくれ。最後に一つだけ、聞いてもいいかな?」


「何でしょ」


「あんたの名前。教えて貰っていいかな?」


 胡散臭さが拭いきれなかったので、とりあえず相手の名前を聞いておくことにした俺。この場を他の組員に見られたら「知ってどうするのか」というツッコミが浴びせられそうだが、俺には考えがあった。


「私の名前ですか。富田とみたです。富田とみた雅彦まさひこ


「おお。さんきゅ。富田さん、さっきはすまなかったな。アホみてぇなことを言っちまって。俺の名前は……」


「いいです。名乗らなくて。どうせ三次団体えだのチンピラでしょ。あなたみたいな人は、すぐに死ぬんですから。覚えたところで、何の価値もメリットもありません」


 おっと。これは手厳しい言い方をされてしまった。明日から迂闊な戦死をしないようそれはそれで頑張るとして、俺は富田に問いを投げ続けた。知っておきたいことは、まだあったのだ。


「富田さんはたしか、煌王会の本家で働いてるんだったよな? いつも、電話番をやってるのか?」


「うーん。“働いてる”という言い方が適切なのかは分かりませんが、たしかに私は奉公衆ほうこうしゅうですから本家直属ですよ。電話番は今日が初めてです。それが何だと言うのですか」


「あ、いや。別に。ちょっと気になってさ。無駄な時間をとらせて悪かったな。んじゃ、切るぜ」


「ちょっと。待ちなさ……」


 俺は受話器を本体に戻す。まだ会話の途中ではあったものの、こちらが行うべき確認事項にはひと通り答えが付いた。これだけ聞き出せば上出来であろう。後は2階へ上がって村雨に報告を行うのみ。会話自体の録音も済んでいる。口で聞かせるより、音源を聞いてもらう方が早いかもしれない。


(あとは、組長がどう判断するかだな……)


 富田は怪しすぎる。説明および話術としては具体的な光景と現場が頭に浮かぶほど上手かったが、問題は後半。話の食い違いを指摘された瞬間、声色に明らかな動揺が浮かんだのだ。間違いなく、奴は何か重大な秘密を隠している。必死で取り繕おうと念を押す態度が、胡散臭さにより一層の拍車をかけていたように思える。


「おい、麻木! そこで何してやがる!」


 ちょうど、沢田が戻ってきた。谷尾の死体処理を片付けてきたようで、ワイシャツの上に羽織った作業着には多量の血痕が付着していた。左手にはなにやらモップらしき細長い棒をを持っている。どうやら、これより“清掃”の本番を行うと見た。


「ここは組の連絡室だ。てめぇごときが勝手に入るんじゃねぇ! ぶっ殺すぞ、この野郎! おら、さっさと出て行きやがれ。今から床にワックスをかけるんだよ」


「はいはい。失礼失礼。言われなくたって、出てってやるよ。ああああ、そうそう。さっき本家から電話があったんだよ。部屋に誰も居なかったから、俺が代わりに出といてやったぜ」


「なっ!? 何だと!?」


 一度は水平に構えたモップを床に落とし、沢田は驚愕の声を上げた。ふと彼の顔を見れば、表情も一変しているではないか。


 理由は単純。電話番を任されているにもかかわらず長時間離席したことを組長に知られれば、命が危うい。わなわなと唇を震わせている反応から察するに、沢田が戦慄しているのは明白だ。今になって恐れ慄くくらいなら、最初から代理を立てるなり対策を打っておけば良かったのに。俺は滑稽で仕方がなかった。


「あ、麻木……本家は……その、何て言ってたんだ……? どんな連絡を……よ、寄越してきたんだ?」


「教えねーよ。バーカ。今から俺が直接組長のところへ報告に行く。お前は指を咥えて見てるんだな。せいぜい、殺されねぇように上手い言い訳を考えておくんだな。それじゃ」


「おっ、おい! 待て! 待ってくれ! 待ってくれよーっ!」


 どんなに懇願されたところで、教えるわけが無い。必死で呼び止める沢田の声を完全に聞き流し、俺は振り向くことなく組長の部屋へと向かう。いつも威張り散らしている沢田の姿を見ているだけに「いい気味だ」と素直に思った。


 ここで敢えて教えてやることで彼と良好な関係を築くきっかけを作る手も浮かんだが、もちろん俺は選ばなかった。この程度で仲良くなれるとは到底思えない。必要事項を知り得た瞬間、沢田は掌を返して俺を足蹴にするだろう。大人など、所詮はそういうものだ。幼年期より何度も味わってきた屈辱的な経験のせいで、俺の他者を見る目は人一倍に研ぎ澄まされていた。


「……ったく。うぜぇったらありゃしない」


 不意に怒り任せの独り言が飛び出してしまったが、今すべきことは苛立ちで拳を握り固めることではない。村雨組長に正確な情報伝達を行うことだ。気持ちを切り替え、俺は執務室の戸を叩く。運が良いことに、村雨は在室中だった。


「むう? 涼平、どうしたのだ? 斯様な刻限に。何か、相談事でもありそうな面構えだな」


「相談事っつーか。あんたの耳に入れときたいことがあんだわ」


「ほう。聞かせてもらおうではないか」


「今しがた、本家から電話があってな……」


 俺は村雨に対し、先ほど電話にて聞いた全てをありのまま話した。


 富田と名乗る者から電話がかかってきたこと。彼曰く、会長を撃った本当の犯人は日下部若頭だということ。そして1時間前の会長夫人の話は、パニック状態にあったゆえの間違いであること――。


 途中で中身を省いたりせずに順を追って説明したため、予想以上に時間がかかってしまったと思う。しかし、それでも構わなかった。


「……その富田って奴が言うには長島会長を撃ったのは日下部さんらしいんだよ、若頭の。で、その若頭を撃ち殺したのが会長のボディーガードだった古牧さんだと」


「では、古牧の伯父上は謀反の下手人ではなかったと? そう申しておったのだな?」


「ああ。富田の話を信じる限りではな。何でも日下部は中川会とつるんでるとか言ってたぜ。まだはっきりとした確証は無いみてぇだけど……」


「なんと。あの日下部卿が内応とはな」


 説明を詳細にすればするほど話は長くなるが、全ては組の今後のため。村雨に適切な判断をしてもらうためだ。無論、俺は一切の労を厭わない。厭わしく思うわけがない。


「……なるほど。そうであったか」


 話を聞いた村雨は、大まかな概要を把握したのか。ゆっくりと頷いて見せる。ところが、次に言葉が続いて出てくるまでは早かった。とても意外なものであった。


「偽りであろう。富田なる者が申したことは、全て。そうとしか思えぬ。お前がいかに思ったかは、知らぬがな」


 何故に出鱈目だと断言できたのか。話し終えてから数秒も経たぬうちの反応だったので、俺は思わず戸惑ってしまった。


「えっ!?」


 もちろん、村雨とて何の根拠も無しに結論を出したわけに非ず。組長が言い切るからには、れっきとした理由がある。俺が改めて尋ねるまでもなく、淡々と語り始めた村雨。それは、大いに納得のいくものであった。


「私も何度か本家へ足を運んだことがあるゆえ、奉公衆どもの顔と名前はひと通り覚えておる。中に“富田”なる男は居なかった。おそらく、その者は誰かが差し向けた手先ぞ。村雨組われらを陥れんと謀る者のな」


「マ、マジかよ……!?」


「ああ。断言して良い。そして、その“富田”とやらを差し向けた者にも心当たりがある。家入だ。奴の組にて若頭を務める男の名は、たしか富田雅彦であったか。どうだ。お前が聞き出した名前とも一致するであろう」


「う、うん……」


 見事なまでの記憶力。俺は脱帽するしかなかった。


 思い返してみれば、俺にも引っかかるものがあった。件の富田の声を電話口で始めて聴いた瞬間、心の中で何かがピンと来たのだ。「ん? 前にどこかで聞いたような……?」と己の記憶を疑っていた。


 あれは正しかった。5日前、俺は富田の声を確かに耳にしている。場所は尾瀬島地区のインターコンチネンタル・ホテル横浜1階のロビー。家入行雄と、こんな会話を繰り広げていたような気がする。


『……んじゃ、中華街の段取りは確認できたことだし。俺はちょっと出てくるかな。軽く飯でも食ってくるよ。ひとりで行くから、ついてこなくていいぞ。ここで待っとけ』


『承知しました。では組長、お気をつけて』


『おう』


 あの時、家入は傍らに立つ平べったい顔の組員を“富田”と呼んでいたのだ。まさか、あれが家入組の若頭だったとは。奴の印象が薄い所為か、特徴的な声以外はすっかり忘れていた。容姿としても、かなり地味な背の低い男だったか。


(マジか……!)


 思わず息を呑んだ俺に、村雨は言った。


「はっきりしたな。此度こたびの謀反、裏で糸を引いておったのは家入であると。奴が古牧の伯父上を言葉巧みに操り、六代目への恨みを募らせて事に及ばせた。これが真相であろうしかし、まさか日下部卿に罪を着せるとはな。家入は伯父上を使い捨ての駒にするものと思っておった」


 事件後の古牧の扱いについては、俺も同意見だ。てっきり全ての罪を彼になすりつけた上で切り捨てるだろうと踏んでいた。それがあろうことか、会長の護衛役という筋書きまでつくるとは。


 家入の真意が何であれ、この一件により古牧は「謀反人の日下部平蔵を討った一番手柄」の栄誉を手にすることとなった。現在の古牧は一直系組長に過ぎないが、論功行賞の結果次第では議定衆入り、つまりは幹部への昇進も有り得るという。


 いかに旧恩ある先輩であろうと謀反人となったからには全力で討ちに行く、そんな村雨の覚悟もこれで不発に終わってしまった。


 彼にしてみれば、ここで富田からの報告をわざと鵜呑みにして「古牧の伯父上は謀反人ではなかった!」という仮初めの現実に安堵したりもできたはず。それを敢えてやらなかったということは、村雨耀介の信念が不退転のものである何よりの証左であろう。


 ただ、現時点ではあまりに情勢が不利すぎる。事件の被害者たる日下部若頭は死亡、長島会長は重傷で昏睡状態。一部始終を目撃していた会長夫人はショックで精神錯乱に至り、挙句の果てには店で働いていたカタギたちは既に情報統制で口を塞がれている。警察当局にも幾らの賄賂を贈ったのか、日下部による犯行ということで合意済み。よって、今回の事件について真相を証言できる者は誰一人としていない。


 逆を言うなれば真の謀反人、家入行雄にとっては何もかもが好都合の情勢だ。「してやったり」と、不敵な笑みを浮かべる顔が目に浮かんでしまった。


「これから、どうなるんだ……? 今の状況って、煌王会の天下を家入に獲らせちまったようなもんだろ……?」


「そうだな。全てが奴の思い通りに動いておる、と言う他あるまい。ひとまず我らは様子を見るとしよう。ここで焦って動いても、損をするだけだ。時が来るまで、お前もしかと休んでおけ」


「ああ。了解。その時が来たら、真っ先に名古屋へ飛んでって家入をブチ殺してやるよ。あのクソジジイ、絶対に容赦しねぇ」


「うむ。楽しみにしておるぞ。今日はご苦労であったな、涼平。夜も遅いゆえ、今宵はもう下がって良い」


 いずれ来る反撃の機会に向けて力を蓄えておくことを誓い、俺は組長の部屋を後にした。一旦は事態を静観するという村雨も、やはりこのまま引き下がるつもりは無いようだ。瞳の奥に決意が滲んでいた。きっと同じ思いだろう。


「……」


 自室に向けて廊下を歩きながら、俺は今一度頭の中で状況を整理してみる。


 家入が古牧を唆し、日下部若頭と昼食中だった長島会長を襲撃させた。結果、長島は辛うじて一命を取りとめたものの昏睡状態に陥った。実行犯としての罪は弾丸が頭に当たり死亡した日下部に全て被せ、古牧と家入は上手く逃れた。


 事件後、家入は何らかの手段で本家の連絡室を掌握。自身の息のかかった配下に命じて「日下部若頭の謀反で会長が意識不明の重体となった」旨を各傘下組織に触れ回った。ここで家入組の富田が偽名を名乗らなかったのは、おそらくは余裕のあらわれか。自らの主君によるクーデターが成就した状況に慢心し、彼もまた傲りがあるのだろう。それがいつまで続くか、分かったものではないのだが。


 一報、会長が人事不省に陥ったことで、煌王会では臨時の代行体制が敷かれる運びとなった。


 本来ならば会長代行職を拝命すべき日下部の死亡により、代行職に就いたのは慣例どおり六代目の会長夫人。しかし、夫人では組織を上手くまとめきれないため、当面の間は議定衆による合議制で組織が運営されてゆくと見られる。


 リーダーシップを欠いた話し合いで組織がまとまらないのは、暴力団とて同じこと。合議による臨時体制は必ずや紛糾し、今後の煌王会の停滞は必至。そんな政治的空白の隙を狙うかの如く、家入はこれからますます増長する。


 そして、遠くないうちに家入はきっと実行に移す。中国マフィアと組んだ、煌王会の跡目掌握計画を――。


 もしも家入が煌王会七代目の座に座れば、村雨組は終わりだ。横浜の街は奴のいいようにされてしまう。そうなっては殺された挙句、会長襲撃のスケープゴートに仕立て上げられた日下部若頭も浮かばれない。俺たちは、家入のこれ以上の覇道を何としても阻止せねばならなかった。


(……これから、大変になるな)


 ふと、俺は足を止める。目の前に立ちはだかった敵の大きさゆえか、それとも自分たちが抱え込んだ役目の困難さゆえか。全身にドッと疲れが押し寄せ、力が抜ける感覚に襲われてしまう。俗に云う、疲労感というやつだ。思えば今日一日、とても長かった。


 真面目なことを考えすぎた反動だろう。ひどく喉が渇いている。ああ、そうだった。屋敷近くのコンビニにて売っているサイダーを買いに行く途上であったのだ。ここは自室へ戻っている場合ではない。俺はすぐさま向きを変え、廊下をひた走って玄関から屋外へ出た。


 外の空気は、やや肌寒い。長月も後半に差し掛かり、気温も下がって一気に秋らしさを帯びてくる季節。「暑さも寒さも彼岸まで」という慣用句は、どうやら本当のようだ。シャツの上にスカジャンを羽織るだけでは物足りなくなってくる。


(サイダー、外で飲んだら寒いかな……?)


 そんな他愛もないことを考えながら坂を降り続け、やがて丘の中腹あたりまで差し掛かった時。不意に、後方より気配を感じた。人がこちらへ、ゆっくりと近づいてくる感覚。


 緩みきっていた俺の歩く速度は、いつになく遅い。そのため気配は徐々に大きくなり、次第に革靴らしき足音が確かに聞こえるようになった。


 聞くからに、俺の方へ近づいてくる。


 しかしながら、俺は特に警戒などしてはいなかった。「どうせ近所に住んでる奴だろう」と軽く考え、いずれ自分を追い越して夜道を進んでゆくものと思って、平然と鈍足で歩き続けるだけ。それから10メートルほど進んで馴染みの公園のベンチ付近まで到達し、聞こえてくる足音の数が一気に増えてもお構いなし。まったく気にすることなく、無意識に近い脳内状態で目的地を目指して、ひたすら歩く。


「……」


 だが、その判断が間違っていたと気づいた時。俺は既に危機の中にあった。行く手に立ちふさがっていたのは、だいぶ屈強な大男。視界を宵闇に邪魔されて明瞭には見えないが、他にも何人かが立っているようだった。


「やっと会えたな。麻木涼平」


「えっ?」


「お前個人に恨みは無いが、同志のためだ。死んでもらう。おい、お前ら! やってしまえ!!」


 目の前の男たちは、全員が武器を携帯している。あれは推し測るに、鉈だろうか。ずいぶんと刃渡りが長い。背後にも複数いる事が分かった。


(囲まれてる……!)


 これはまずい。そう思った瞬間、男たちは俺めがけて一斉に飛び掛かってきた。

まさかのクーデタ―発生!

涼平を襲った敵の正体は……?

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