戦闘中毒者
荒ぶる殺気と共に向けられた銃口。俺の気持ちが張りつめている所為か、吹きすさぶ風の音が平常時より際立って聞こえる。
(さて。どうすっかな……)
ゆっくりと考えている余裕は無い。
大きな四角形の柱を挟んだ向かい側にいるのは、家入と笛吹。潜伏が露見してしまったのだ。笛吹は拳銃を構えてこちらを睨んでいる。引き金には指が掛けられ、今にも発射されそうな勢い。月明かりに照らされた視線がおどろおどろしかった。
「おい! どこの誰だか知らねぇが、いつまで隠れてやがる! さっさと出てきやがれってんだよ! 聞こえてんのか? ああ!?」
笛吹の怒号が空気を裂く。 だいぶ興奮していらしい。所々で声が上擦ってしまっていた。もちろん、出て来いと言われて素直にノコノコ姿をあらわず馬鹿はいない。向こうは俺の正体に気付いていないようなので、ひとまず黙殺と静観を選ばせてもらう。
明るい場所から、暗い場所は見えづらい。そんな物理法則のおかげで命拾いした。ほんの束の間ではあるが、事態打開の策を思案する時間的猶予が生まれる。決して無駄にはできない好機だ。
幸いにも、こうした場面における俺の洞察力は鋭い。
(まず、敵は2人……)
家入は護衛を付けずにここへやって来た。片や笛吹にも取り巻きが同道している気配は無し。とすれば、自ずと結果は見えてくる。家入と笛吹、両名を倒してしまえば無事解決。最も、倒す方法があればの話だが。
(ハジキを持ってんのは笛吹だけ……なのか?)
柱の陰から覗き見た限りでは、敵方の武器は笛吹が右手に握る回転式拳銃のみ。家入はおそらく丸腰。いわゆる推測の域を出ないが、そちらには一応仮定付けるに至った根拠がある。ホテルを出て行く際、奴は子分とこんな会話をしていたのだ。
『組長、道具は持っておられますか?』
『いや。持ってねぇ。途中、職質に遭ったら厄介なんでな。心配するな。俺を襲う度胸のある奴は今の横浜にいやしない』
『へへっ。たしかに』
かなりの余裕と自信に満ちあふれている様子。道中で襲われる危険性よりも先日の曙町銃乱射事件以来、確実に増えたであろう当局の警邏活動と出くわすリスクを恐れているのだろうが、何にせよ家入が非武装なのは助かった。笛吹の銃を無力化すれば、後はどうにでもなる。
(とりあえず、笛吹から銃を奪う方法か……)
だが、敵は待ってくれなかった。暗闇による相手の視界不順を巧みに突く戦術を俺が考え始めた、ちょうどその瞬間。耳をつんざく轟音が目の前で響き渡る。
――ズゴォォォォン!!
何が起きたというのか。頭が付いて行かない。
「っ!?」
溢れ出そうになる声を必死で押さえ込んでいる時、数秒遅れでようやく事態を認識できた。
なんと、正面にいる笛吹が発砲。その弾丸が柱に当たったようだ。銃声の爆裂に加えて、固い物同士がぶつかり合って抉れる音。驚天動地を刺すには十分だった。
(マジかよ……)
まさか、このタイミングで撃つとは。考えてもいない出来事だった。俗に云う威嚇発砲。爆音と衝撃でこちらを怯ませ、精神的に揺さぶりをかける魂胆か。拳銃の口径が大きい故、破壊力も比例して大きくなる。当たっていれば、ほぼ間違いなく戦闘不能。柱という遮蔽物があったことに、俺は心から感謝した。
一方、あちらは何やら揉めているようだ。
「おいおい、慶久。何も本当に撃たなくたって良いだろ。こんな所で、人に聞かれたらどうする。もっと冷静になれ」
「俺は至って冷静だぜ? 闇に潜んだ敵をあぶり出すには、こうするのがいちばん手っ取り早い! そいつをやったまでだ! 大叔父さんの方こそ、危機感が足りてねぇんじゃないのか?」
「そういう問題じゃねぇ。銃声を人に聞かれたらどうすんだって言ってんだよ。ここは一見、人通りの少ねぇ場所だが、たまにポリ公のパトロールが……」
「黙って見てな! ここで立ち聞きしてたってこたぁ、さっきの話も全部丸ごと聞かれたことになる! どこの奴かは知らねぇが、ここで息の根止めて口塞ぐ以外に道は無いんだよ! 肚を決めろや!」
銃声を聞きつけた警察がやって来るのが、よっぽど怖いのだろう。大甥にバッサリ諭されて尚も何か言いたげな家入だったものの、やがてひどく不服そうな顔を浮かべて押し黙った。理屈としては笛吹の方が勝っている。いかなる場面であろうと秘密保持は徹底しなくてはならない。
「……」
銃声の余韻が薄まりゆくにつれて、先ほどとは違った緊張感が辺りを支配する。気を激しく昂らせている笛吹。ここに潜伏者がいた事実が奴を焦らせるのか、落ち着きを失いつつあるのは一目瞭然。殺意が柱越しにはっきりと伝わってきた。
「おーい! そこに隠れてる奴よ、いつまで我慢を続ける気だ? いま素直に出てくりゃあ楽に一発で殺してやるぜ? どうせ村雨組の下っ端なんだろ? なあ? どうあがいたって逃げられねぇぞ!」
挑発の声が聞こえる。こちらが村雨の回し者であることは既に悟られていた。なるほど、思ったよりも察しの良い男のようだ。てっきり、通りすがりのカタギと誤認しているものと思っていたけれども。
俺は無視を決め込む。
「だからよ……出て来いって言ってんだろうが!! いい加減にしやがれ!! そんなにひでぇやり方でぶっ殺されてぇのか!? ああ!?」
直後に続いたのは、2発目の銃撃だった。
(また撃ちやがったか!)
今度も柱が大きな盾となって遮り、弾は俺の体へ当たることは無い。触ってみた際の質感からして、材質はたぶんコンクリート。大口径のマグナム弾でさえ容易に貫通したりはしないはず。しかしながら、銃声は相変わらず五月蝿い。弾丸によって柱の表面が少しずつ削られる音も妙に不安を煽る。
「そうかよ……そうやってずっと隠れてるつもりかよ……だったら、こいつはどうだ? ああ? こいつを食らっても未だかくれんぼを続けられたら大したもんだ!!」
すると、お次は丸い物体が飛んできた。
(ん? 何だ……?)
暗闇ゆえにはっきりとは見えなかったが、真っ黒な表面に無数の溝が罫線状に入っていて、見た目は非常にいびつ。大きさとしては果実の檸檬とほぼ同じ。色以外で違う点を挙げるとすれば、球体の上部に何やら栓のようなものが付いているくらいか。
(何かの瓶……? いや、違う……!)
瓶にしては栓の形が細長すぎる。あれでは中の液体がこぼれてしまう。だとすると、一体何だろうか。笛吹は俺に向かって、何を投げつけてきたというのか。飛んでくる楕円形の物体の素性をめぐり、頭の中で堂々巡りの考察が短い間に繰り広げられる。若干の既視感はあるものの、いまいち具体的な名称を思い出せない。
やがて、柱のすぐ側にボトッと落ちる。そしてそのまま、俺の足元へ軽快な音を立てて転がってきた。
「……」
近くで見ると、実に禍々しい形状をした黒色の物体。地面に差し込んだ街灯の光に照らされた瞬間、背筋を物凄い戦慄が駆け抜ける。
(ま、まさか……!?)
正体が分かった。小型のプラスチック爆弾だ。
上部に挿さった栓らしきものは、いわゆる安全ピン。使用時以外で内部の火薬が爆発しないよう押し込めておくための機構で、逆に使用時にはこれを抜くことで起爆装置となる。ピンを抜いて、すぐさま敵へ投擲。そうすることによって弾は爆発、破片が飛び散って対象者を殺傷するのだ。
中2の頃、何気なく読んだミリタリー系雑誌に詳細が載っていた。ようやく思い出した。今、自分の足元にある物はあの日写真で見た「軍用投擲兵器」と非常にそっくりだ。細かな違いはあれど、ほぼ同じと言って良いだろう。
ただ、問題は使われる対象が他でもない、俺自身であるということ。戦慄の冷気が引くと同時に、今度は決して尋常ならぬ焦燥、そして恐怖が身体中を包み込んでゆく。終わった。完全に想定外だ。よもや、よりにもよって爆弾を投げつけられるとは。
向こうから、笛吹の高笑いが聞こえてくる。
「あーはっはっはっ! どうだ!? そいつはもう隠れられねぇよなあ!? 柱もろともお前をドカンだ! 逃げるしかねぇよなあ!? 出てくるしかねぇよなあああああ!!」
隠れ場所へ爆弾を投げ込めば、その爆風から逃れるために潜伏者は必ず回避行動を起こす。そうして姿を現わした瞬間を待ち構えて射殺――。
実にあの男らしい、巧妙なあぶり出し作戦だ。敵ながらあっぱれ。俺は思わず苦笑してしまった。いやいや、感心している場合ではない。すぐ半歩先まで転がってきていた不気味な球体。こいつをどうにかしてやる術を考えなくては。
さもなくば、俺は爆発の餌食となる。木っ端微塵に吹き飛んでしまう。威力が具体的に如何ほどかは存ぜぬが、国家間の戦争の現場でも使われる代物だ。生易しい結果にはならないはず。思い返してみれば、かつて読んだ文献には「1回の使用で装甲車を戦闘不能にする」と記してあったっけ。
(うわ……食らったら俺、バラバラじゃん……)
目前に迫った破滅的な未来。されど、事態を打開する術は見つからなかった。爆風を避けて左右どちらかへ飛び出せば、笛吹の銃撃が待っている。かと言って向こうへ投げ返そうにも、拾い上げて手に持った瞬間に爆発したらと思うと躊躇いが生まれる。気づけば、俺は何もできなくなっていた。回避にも動けず、反撃も果たせず、ただ唇を噛んで立ち尽くしていたのだった。
「おうおう! 大爆発で消し飛んじまえ! お前は消し炭! 真っ黒焦げになっちまえってんだ!そいつが嫌ならツラを出しやがれ! ま、その瞬間に俺が撃っちまうんだけどな! ひゃははははっ!」
「慶久、血迷ったのか!? こんな所で爆弾投げやがって! 爆発したら、俺たちも只じゃ済まんぞ! 分かっているのか!? ああ!?」
「大したことねぇだろ~。せいぜい柱が吹っ飛ぶだけだ。そうカリカリすんなって。大叔父さん」
「馬鹿め! 柱が崩れれば建物全体が崩れる!」
そんな会話が聞こえてきたが、もはや気にも留まらない。立ちはだかる現実があまりにも大きすぎて、他の一切を気にする余裕が無くなっていたといえば適切か。脳裏をよぎる“死”の1文字。受け入れようにも受け入れられず、心の整理をつけ難い。当然である。ほんの僅かな間に最期の覚悟ができる人間など、この世にはいないのだから。
人間、死ぬ間際には愛する者のことが頭に浮かぶといわれるが、俺の脳内を支配していたのはそういった感傷的なモーションではなかった。ましてや悲しいだとか怖いとか、ネガティブな類の情念でもない。
ただ、いかにしてこの状況をやり過ごすか。たったこれだけを考えていた。明確な“死”に追いつかれても尚、未だ俺は諦めきれずにいたのだ。身も蓋も無い云い方をするならば、生きることへの執着。心の何処かで、どうにかなると思っていたのだった。
(こんな所で終われるかよ……!)
足元の禍々しい黒珠を見やる。立ちすくむ俺を嘲笑うかのごとく、差し込む光に照らされて不気味な輝きを放っていた。まるで「どうした? 僕が怖いのか?」と言わんばかりに。そんな小癪なプラスチック爆弾相手に何も出来ない己自身が本当に情けなく、切なく思えてきた。
もうすぐ、爆発してしまうことだろう。刻々と迫りくる“その時”を前に、虚しい諦観の念が体内でジワジワと広がり始める。
タイマーの付いた時限式の爆弾ではないから、俺に残された猶予があと如何ほどかは不明。爆発のはじまり、すなわち最期の瞬間を今か今かと震えて待ち続けるだけ。
ああ。もう俺は終わりなのか。出来ることなら、敵方に一矢報いてやりたかった。どうせ死ぬなら、奴らに一泡吹かせてから死にたかった――。
しかしながら、それから起こった出来事は俺の予想をだいぶ外れたものだった。
爆発しなかったのだ。
(えっ……!? どうしてだ……!?)
どういうわけか、いつまで経っても起爆しない。こっちへ飛んできてから、既に時間が経っているはずなのに。元の形状を留めたまま、俺の足元に転がっているではないか。
何故かは知らないが、いちおう助かったらしい。爆発しないなら、しないに越したことは無いというもの。されども非常識の度合いが過ぎる現象というか、道理では説明のつかないことが起きている。流石に目を疑ってしまう。
もしや、恐怖のあまり幻覚でも視ているのか。あるいは、死後の世界へ来てしまったか。
にわかには信じられない光景だ。ゆえに一先ず頬をつねってみたが、鈍い痛みをおぼえるのみ。何のことは無い。俺がいる世界は現実だし、俺はまだ生きている。とすれば、考えられるのは爆薬の不調か。
だが、改めて足元に視線を移した時。俺は己が助かった理由に気付く。考えていたよりも、物凄く単純で分かりやすい。拍子抜けするような答えだった。
(あっ……!)
そもそも最初から起爆状態になかった。先ほど、笛吹は安全ピンを抜かずにそのまま投げたらしい。これでは爆発するはずもない。どうやら宵闇に紛れ、大事な点に気付けなかったようだ。途端に全身から力が抜ける。起こりもしない爆発に足を竦ませていた自分が、ひどく馬鹿らしく間抜けに思えてきた。
しかし、相手の意図は何だろう。一撃必殺の武器たるプラスチック爆弾を敢えて起爆させずに投げつける理由が、俺にはいまいち分からなかった。
現在地はマンションの建設現場。家入の言葉の通り、こんな狭い空間で爆薬を使えば大惨事を招く。敵を殺すのみならず使用者までもが爆風で大ダメージを受ける。柱が崩れ、建物もたちまち倒壊。破滅的な結果をもたらしてしまう。たった単騎の標的を仕留めるにしては、ずいぶんと代償が大きすぎる攻撃方法といえよう。
(隠れてる俺を柱の外へ誘き寄せるため……)
笛吹の目的は潜伏者のあぶり出し。そう考えれば合点がいく。暗がりの中では細かい部分は見えづらく、飛んできた爆弾の安全ピンが抜けていないという事実にも気づきにくい。
元来、誰もが身の危険が迫ったら反射的に回避行動をとってしまうもの。いちいち詳細を確認している余裕など有りはしない。そんな人間の習性を利用した、爆発しない爆弾による陽動作戦。笛吹にしてみれば、出てきたところを撃てば良い。実に賢いやり方だと思った。
ただ、少し引っかかる点がある。作戦に本物を使った点だ。挑発を仕掛けるだけならば、空き缶や空き瓶、石ころといったダミーを用いても十分に事足りるはず。いや、むしろ偽物の方が良い。本物を投げてしまえば万に一つ敵が陽動に乗らなかった場合、敵に武器を与えてしまうことに繋がりかねないのだ。
足が竦んでいただけにせよ、結果として俺は笛吹の陽動に乗らず潜伏場所に留まり、奴のプラスチックをまんまと入手するに至った。下劣な死人にとって、これは由々しき想定外の事態であろう。
けれども、何かがおかしかった。
「ああ? おいおい、何で爆発しねぇんだよ! どういうこった! ありゃあ不良品か? 冗談じゃねぇよ! せっかく大枚はたいて買ったのによ!」
「し、知らねぇよ! 俺に言われたって!」
「おい! さっさと爆発しやがれってんだ! 出来損ないの爆弾め! ふざけんじゃねぇぞこの野郎!」
爆風に怯えてか尻餅をついてしまった家入の隣で、笛吹が怒りに肩を震わせている。恐怖に顔を引きつらせる大叔父の姿には目もくれず、激しい勢いで悪態をがなり立てる始末。
爆弾という無機質な物体を相手に「ふざけんじゃねぇぞ」などと罵る滑稽ぶりはさておき、笛吹の態度にはどうも違和感があった。ぼんやりとしてはいるが、とても見過ごすことのできない点である。
(もしかして、爆発すると思っている……!?)
奴としては、そもそも最初から爆発させる気で投げていたというのか。完全に安全ピンを抜いたつもりでいる。俺が陽動に乗らなかったことではなく、プラスチック爆弾がいつまで経っても起爆しないことを悔やんでいるように見えた。
笛吹とて、ここで爆発を起こすリスクを知らないわけではないだろうに。使えば自分の命も危い、そんな諸刃の剣を使ったにしては言動が軽すぎる。一体、何故だろうか。危険など端から承知の上か。あるいは死ぬ覚悟ができているのか。
だが、考えてみれば実におかしな話だった。そもそも目的は潜入者のあぶり出し。たかだか索敵のために捨て身の攻撃を行うこと自体、理に適っていないのだ。
奴が投げたのは紛れも無く本物。爆発させたら取り返しがつかないのは言うまでもない。起爆させぬつもりで投げたのなら、一応は陽動作戦と云える。されども先刻の発言からして、奴が爆発させる気であったことは明白。頭が狂ってしまった旨さえも疑われる、実に愚かな判断であったといえるだろう。
(笛吹は正気を失っているのか……!?)
断定できたわけではない。だが、この仮説を補強し得る材料は沢山見受けられる。つり上がった眉に、ニタッと開かれた口元。そして顔面が薄ら笑いをたたえる中でも、不気味に据わった両方の瞳。もちろん、外見的要素だけではない。突拍子もなく大声を上げたり、いきなり笑い出したり。挙句の果てには、危険を危険とまともに認識できていなかったり。
麻木涼平への復讐。この一点だけに全ての意識が集中し、気が振れてしまったのか。仮にそうだとするならば、笛吹慶久という男は思っていたよりもずっと単純だ。いつか俺が奴の目の前に姿を現わしたら、その時は更なる狂気に駆られることだろう。
今まさに、笛吹は俺のすぐ近くにいる。柱を隔てた数メートル先で、顔も分からぬ潜伏者を相手に怒声を浴びせ続けている。その潜伏者こそ、俺だ。俺こそが奴の憎き仇敵、麻木涼平なのである。一体、何の因縁と呼べるのやら。されども、利用できる手は全て使うのが俺のモットーだ。
(……やってみる価値はありそうだな)
反撃の切り札が頭に浮かんだ。上手くいくかどうかは分からない。そもそも己の予想が当たっているのかどうかも見通せない。
だが、このまま何もせず黙っていることは不可能。俺の潜伏はとっくに失敗していて、家入と笛吹には存在を悟られている。奴らを倒さないことには、ここを脱出するきっかけすら掴めないのだ。もう、やるしかない。
現状、敵方の認識は「柱の陰に潜伏者が隠れている」という事実のみ。正体が麻木涼平であることを奴らは知らない。そして何よりも、笛吹慶久は狂気に染まりつつある――。
なかなかに良い条件が揃っているではないか。他に道は無し。既に覚悟は決まっている。わずかな可能性に全てを賭け、俺は颯爽と声を上げたのだった。
「……あはははっ! さっきから聞いてりゃあ、マジでどうしようもねぇな。お前らは。クッソ笑えるぜ。そんなんで、よく今まで極道が務まってきたなあ!」
その瞬間、柱越しに伝わってくる空気感が急変する。冷たさが肌で分かるほどに殺気が増していた。
「ま、まさか……その声は……!?」
「ああ。そうさ」
ゴクリと唾を呑み、俺は一呼吸の寸暇を挟む。ここまで来たら、後戻りはできない。いや、戻る気など最初から毛頭ない。堂々と名乗ってやろう。
「お察しの通り。俺は麻木涼平だ。てめぇが今、血眼になって追っかけてる奴だよ」
「なっ……!?」
「どうした? びっくりしすぎて言葉が出ねぇか?てめぇが出てこいって言ったから、わざわざ出てきてやったんだよ! 歓迎くらいして欲しいもんだなあ。ええ? 笛吹さんよ」
ずいぶんと挑発的で憎たらしい文言が口をついて出てきた。だが、俺の中では些か加減をした方だ。奴のせいで先ほどは死ぬ思いをさせられたのである。まだまだ言い足りないくらいだ。
これでも、あの男を沸騰させるには十分だった。
「麻木ィィィィィィィィィィ!!」
怒髪天をついた笛吹。計算通りである。
一方の俺はといえば、柱に隠れたまま動かない。せっかく頑丈な遮蔽物があるのだ。敢えて姿を見せてやる必要も無いだろう。笛吹とは市立病院にて1度、拳を交えている。ゆえに俺のことは声だけで分かるようだ。こちらも好都合。
俺が「心の中で」ほくそ笑んでいると、笛吹の地鳴りにも近い大音声が連続で飛んできた。本来は無視しても良い所だが、ひとまず応じてみる。
「コラァーッ! 麻木ぃーっ! どうしてお前が!? いつからそこに隠れていやがったんだぁ!?」
「はあ? いつからって、てめぇらがこの廃墟へ来た時からだが? 何を寝ぼけてやがる。さっきは爆弾まで投げてきたじゃねぇか。ピンは抜けてなかったけどな。下手くそかよ。へへっ」
「うるせぇ!!」
「あれだろ? 立ち聞きしてる奴がいるのには気づいたけど、まさかそいつが憎き麻木涼平だとは思わなかったんだよなあ?」
今度はできるだけ煽りの疑問形を添えてみた。最後を疑問形で止めることによって、相手の心を深く抉ってやれるのだ。まさしく効果覿面。笛吹が再び激情を滾らせるのに、大して時間はかからなかった。
「ゴキブリみてぇにコソコソ動き回りやがってぇ! 今度こそお前を終わらせてやる! 父親の分まで、俺が舐めた苦汁と辛酸を全てその身体に刻み込んでやる! 覚悟しやがれぇぇぇぇ!!」
「おいおい。会話になってねぇぞ? ふふっ、まあ。いいや。どうせ、てめぇの知能なんざ虫ケラ以下だ。爆弾もまともに投げられねぇようなゴミカスだもんな。認めたらどうだ?」
「ほざくなっ!! 掴まされたのが粗悪品だっただけのことだ! 今度という今度はぜってぇ、外しはしない! 必ずお前を仕留めてやる!!」
「だーかーら、そもそもピンが抜けてなかったってんだよ! あんなんで爆発するわけもねぇだろうが。馬鹿かよ。ちゃんと脳みそ詰まってんのか? ああ?」
売り言葉に買い言葉。丁丁発止のやり取りが続く。痛いところをピンポイントで突いてやる俺に対し、笛吹物凄い剣幕で「殺す」だの「やってやる」だのと返してくる。奴の感情など、とっくに沸点を超えていた。
柱に身を隠しているため顔をうかがい知ることはできないが、おそらくは張眉怒目、頭からは湯気が立っていたことと思う。それほどの剣幕だった。
「うるせぇぇ! ガキが偉そうな口を聞くな! そうやってイキってられるのも今のうちだぞ! この世に生まれてきたことを後悔させてやる! 覚悟しろ! 首洗って待っとけ!」
「そうかよ。なら、いいぜ? 来るなら来いよ。ずっと俺を殺したかったんだろ? ほら。さっさと撃て。てめぇのような能無しに俺が撃てれば、の話だがな」
「侮るんじゃねぇ! 言われなくても頭を撃ちぬいてやる! 麻木光寿! お前は殺す! 必ず殺す! たっぷり痛めつけた後で……」
「おいおい。何を抜かしてやがる。俺の名前は麻木涼平。光寿は父さんだ。怒りでぶっ飛んじまったのかよ。少しは頭冷やせや。阿呆野郎」
親父の幻影を見ているのか。あるいは単に間違えただけなのか。どちらにせよ激情に駆られ我を忘れている者には、冷淡に皮肉を交えて返すのが一番。敢えてわざとらしく、鼻で笑ってやった。
それに対する笛吹のリアクションは言うまでもない。俺の嫌味が火に油を注ぎ、絵に描いたようなオーバーヒート。無論、凄まじい勢いだ。辺りに大音声が響き渡る。
「黙れぇぇぇぇぇぇぇ! 麻木ィィィィィィ!」
「うっせーなあ。ちゃんと日本語喋れや。てめぇらはどんだけ間抜けなんだよ。武器もまともに扱えねぇし。“大叔父貴”の方は、ずっと尾行されてんのにまったく気づきもしねぇ無能だしよ」
「抜かせぇぇ! 何もかもお前を殺せば済む話だ! 何度も俺を馬鹿にしやがって! 楽に終わらせてもらえるとは思うなよ! 間抜けはお前の方だぁぁ!」
まるで胸の奥底で溜まりに溜まったフラストレーションが、ここへ来て一気に爆発しているかのよう。今までに抱え込んだ怒りの大きさが分かる。よっぽど俺と親父のことが憎いのだろう。怨念を言葉の矢に代え、全身に浴びせられている感覚だ。
だが、案ずることは無い。こちらも計算通り。むしろ、こうなってもらわなくては意味が無い。ますます理性が失われてゆく笛吹の反応に、俺はニヤリとほくそ笑んだのだった。
(よし。いいぞ)
笛吹の勢いは抑えることを知らず、挑発的な態度を続ける俺を前にますます激しくなる。
地鳴りにも似た絶叫を何度も繰り返したため、奴の声は次第に少しずつ掠れが見え始めた。極度の興奮に居続けることで心拍数が上がるのか、やがては呼吸も乱れてくる。精神だけではない。肉体的にも明らかな異変が表れ始めているようだ。
その頃は知らなかったが、怒りという感情には「沸点」を超えてしばらく上昇した先に「臨界点」というものがあって、そこに到達するとあらゆる抑制機能が外れ、完全に正気を失って暴走状態に陥るらしい。
心理学の嗜みなど無い当時の俺も、一応は分かっていた。怒りは人間を狂わせ、時に錯乱へと導くことを。正気を失くした人間はきわめて猪突猛進の傾向が強く、周りが見えなくなってしまうことを。そして、そんな人間を倒すのは己が冷静であれば簡単だということを。
怒りを煽るだけ煽って笛吹を錯乱状態に至らせ、無謀な攻撃を仕掛けてきた隙を突いて倒す――。
これこそが俺の反撃計画。ピンを外さずに爆弾を投げた辺りから、奴が麻木涼平への憎しみで正常な判断能力を失っていることは察していたのだ。
さっきも書いたが、利用できるものは全て利用する。これこそが俺のポリシー。目論見通り、笛吹は更なる怒りを燃やして臨界点へ近づいてくれた。後は、最後の仕上げを施すだけ。
ひと呼吸挟むと、俺は奴を思いっきり盛大に煽ってやった。
「いつまでギャーギャー騒いでんだよ! そうやってわめく余力があんなら、さっさとかかって来いってんだ! お前、所詮は口だけのヘタレか? ああ?」
内容は短くて単純、けれども強烈に鋭い罵倒文句。この期に及んで容赦などあったものではない。既に終わりは見えている。ここまで来たら、一気に振りぬいてやるのみだ。
「情けねぇ男だな! 爆発しない爆弾を投げることしかできねぇなんてよ! 笛吹慶久、てめぇはどうしようもねぇ弱虫だ。分かったか。このウジ虫野郎!」
「んだとゴラァァァァァァァァ!!」
駄目押しの一言により、奴の中で何かが切れた。“切れた”というよりは“外れた”といった感覚に近いか。そんな爆発的な激情は、禍々しい怨嗟の礫となって俺に襲いかかる。瞬く間もない神速の行動だった。
「死ねぇぇぇっ! 麻木!」
拳銃のトリガーが引かれ、放たれた銃弾が俺を襲う。無論、笛吹との間には頑丈なコンクリート製の柱が立っている。ゆえに弾丸は鉄壁の前に跳ね返され、俺に当たることは無い。回避成功だ。
(1発目……)
しかし、笛吹は間髪入れずに再び銃弾を放つ。今度は連続して引き金を動かしたようで、銃声の爆音も大きかった。
銃弾は柱に遮られ、俺の身体には擦らぬどころか届くこともままならない。またまた回避成功だ。
(2発目、3発目……)
跳弾した後、マグナムの鉛玉がどこへ飛んでいったのかは分からない。わずかにカチンという鈍い音がしたので、銃弾が柱の内側へ食い込まなかったことは確かなのだが。
そんなことを考える間もなく、次なる銃声が耳をつんざく。
――ズガァァァァァァン!
4発目の発砲。結果は、もはや語るに及ばず。麻木涼平めがけてまっすぐに飛んできた弾丸は強固な遮蔽物に阻まれ、役割を果たすことができない。柱の向こうで地面に金属片が落ちる軽快な音が聞こえた。
回避成功。スローモーションのごとくゆっくりと見えた一連の出来事も、笛吹にとっては早業だった。寸暇を挟まずに計4回、次々とトリガーを引いて銃撃を連発したのだ。標的との間を隔てる遮蔽物の存在も、きっと奴には眼中にないのだろう。
理由は簡単。眼中に入れることが出来なくなっているからだ。麻木涼平の前には柱があるから、このまま撃っても意味が無い。そう考察して「撃たない」という判断をすること自体、完全に正気を失った今の笛吹には不可能なのだ。
「くそぉっ! 何で当たらねぇんだ!」
俺の睨んだ通り。先刻の煽りがきっかけで笛吹は臨界点に達し、正常な判断能力を喪失。一種の錯乱状態に陥っている。落ち着け、と必死で宥める大叔父の声も耳には届かぬよう。ただ闇雲に拳銃の引き金をガチャガチャと動かし続ける始末だ。
(あれは、撃ち尽くしたな)
この時を待っていた。リボルバー拳銃の装弾数はきっかり6発。最初の威嚇発砲で2発撃ってしまい、残りは4発。その4発をちょうどさっき撃ち終え、シリンダーが空っぽになったところと見た。
行くなら今だ。敵は相変わらず弾を切らした銃のトリガーを引き続け、弾倉の状態にすら気づいていないご様子。不意討ちを仕掛けるにはもってこいだ。覚悟を決めた俺は柱の陰から右斜め前方に進むと、雄叫びを上げてフルパワーで駆け出した。
こういう時の俺は加減というものを知らない。己の脚に任せて全速前進。まばたきをする間もなく、笛吹のすぐ眼前に一瞬で到達してしまう。やることといえば、ただひとつ。拳を握り固め、奴の顔面めがけて渾身の一撃を叩き込む。
「もらったぁぁぁぁぁぁ!」
――ドガッ。
力任せで振り切った運動エネルギーに助走の勢いが加わり、威力は数倍増し。相手の肉がグニャリと潰れる気持ちいい快感が、一気に右手を走り抜けた。
「うぐぉっ!?」
0.001秒ほど遅れて聞こえる鈍い囀り。言うまでもなくクリーンヒットだ。
月明かりの差し込む比較的明るい場所に立つ笛吹にとって、それまで俺の潜んでいた前方は真っ暗闇。よもや敵が飛び出してくるとは、夢にも思わなかったことだろう。
当然、回避の猶予は一切ない。俺のストレートパンチをもろに食らう格好となり、笛吹はそのまま背後へ崩れ落ちた。
残る敵は1人。
そっと視線を移すと、家入はひどく慄いた目をしつつも背広の懐に手を突っ込んでいた。
なるほど。流石はベテランの域に達するまで極道を張り続けていただけのことはある。長年の経験ゆえか、家入は身の危険を感じたら即座に武器を抜くことが習慣化している模様。きっと、普段の癖で拳銃を取り出そうとしたのだと思う。
もちろん、ジャケットの内ポケットから銃が出てくることは無い。奴は武器をホテルに置いてきたのだ。携行を勧める部下の懸念を慢心により一蹴して。ここへ丸腰で来たことが、家入行雄にとって運の尽き。あからさまに「しまった」と焦る顔になったが、もう遅い。なりふり構わず、俺は右脚を高く宙に振り上げた。
「おらよ」
蹴りが顎の中央あたりに命中する。骨が砕ける感覚がつま先を伝ったことから、完全に命中したのだ分かった。この蹴りによって家入が死のうと、カセットテープさえ回収できれば良い。
「うああああっ」
情けない声を上げて背後へ倒れ込む家入。蹴られた痛みと背中を打った衝撃、二重の苦痛で激しく悶える男に、俺はさらなる一撃を叩き込む。
「大人しく寝とけよ」
「ぐほっ!?」
仰向けの体勢になった奴の腹を思いっきり、片足で踏みつけてやったのだ。鳩尾付近は人間の急所。そこを圧迫されて平気な者など、いるわけがない。ましてや家入のような小柄のジジイであれば猶更だ。
「ぐあああああっ!!」
一段と大きな悲鳴が上がった。暫しの間、怯んで動けなくなるのは当然の摂理。その隙に俺は奴の背広のポケットをまさぐる。目当ての物は思いの外、早く入手できた。
「おうおう。こいつは俺が貰っておくぜ。いや、貰うなんてヌルいことしないで壊しちまえば良いのか。そうすりゃ、あんたの企みは全て潰れる。残念だったな。アホな大叔父さんよ」
「う、ううっ……」
真っ赤に腫れ上がった顎を両手で押さえながら、憎々しげな目で俺を睨みつける家入。奪い取られたカセットが俺の手で真っ二つに折られると、息を絶え絶えにしながらも凄みを利かせてきた。
「てめぇ……俺にこんな真似をしてタダで済むと思うのか? ああ? 言っておくがな。俺は煌王会の大幹部だぞ……!? 分かってんのか、この野郎!!」
非常に不格好な体勢でありながらも、奴は瞳の奥には爛々とした炎を燃やしていた。その射抜くような眼差しは流石と言わざるを得ない。
謂わば、腐っても鯛。曲がりなりにも、煌王会で舎弟頭補佐の座に昇りつめただけのプライドはある。俺のような三下に容易く侮られてはメンツが立たぬというわけか。
「おい! 聞いてんのかコラッ! てめぇはたしか、さっき村雨の屋敷にいたガキだな。へっ、そうか。親分に言われて俺をつけてきたってか! そういうことだろうと思ったぜ!」
「ほう? もし仮に俺が村雨の命令であんたを尾行してたとして、あんたはどうすんだ? 煌王会のお偉いさんに告げ口すんのか? いじめられっ子みてぇに?」
「黙れ!! てめぇごときが煌王の名を軽々しく口にするな。こうなった以上、てめぇは組ごと終わらせてやる。俺は大幹部だ。村雨みてぇにちっぽけな組、その気になりゃあ一瞬で……」
「あー。はいはい。やっぱ、上に告げ口するんだな。んじゃ、俺らも俺らでタレコミさせてもらうわ。こちとら、とっておきのネタがあんだよ。『直系組長の家入行雄が中国のマフィアとグルになってる』っていう、最高の飯の種がな」
その瞬間、家入の顔色が変わった。
「なっ、何だと!?」
明らかに動揺が生じている。予め踏んでいた想定の裏をかかれた際に巻き起こる、精神的余裕の崩壊。一対一の勝負事、特に互いに相手の読み合う心理戦などでは忽ち命取りになる現象だ。どんなに小さな変化であれ、俺は見逃さない。見逃すわけが無い。
(家入……なかなか分かりやすい野郎だ……)
こいつは、崩せる。すぐさま確信を得た。好機と分かっていて攻勢をかけぬ者はいない。少しばかり弄んでやろう。後は、こちらの都合の良い展開へ持っていくだけだ。
「家入さんよぉ。あんた、ずいぶんと賢いやり方を考えたもんだなあ? たしか、会話の録音テープを継ぎ接ぎして、さも村雨組が会長の意思に背いたかのように見せかけるんだっけ?」
「何を言ってる……さっぱり分からねぇ……」
「とぼけても無駄だっつーの。さっきの会話、全部録音させて貰ったぜ。村雨組に出した手打ちの案が偽物ってことも。聞かれてねぇとでも思ったか? あれを煌王会の会長が聞いたら、どうなるかねぇ。立派な裏切りだもんな。あんた、破門どころじゃ済まねぇんじゃね?」
「う、うるせぇ! さっきから何を抜かしてやがるんだ! 馬鹿げた妄想を語るな! ろ、六代目は聡明なお方だ……! ガキが作った与太話を信じて俺を切り捨てるわけが無い……! そうだ! そうに決まっている!」
口では勇ましい言葉の数々を並べているものの、家入の狼狽ぶりは次第に酷くなってきた。言葉の節々には震えが加わり、声量も心なしか小さくなっている。自分は煌王会の大幹部であると威勢よく啖呵を切った数分前とは雲泥の差。どこから見ても分かる変化だ。
戦いの主導権を完全に握った。俺は攻め手を緩めない。
「中国のマフィアと組んで村雨組を潰して、横浜のシマはあんたら家入組が獲る。で、中国人の分け前は鶴見と山下町? だったよな? ケチなもんだなあ。そんなんでよくもまあ、向こうのボスが納得したもんだ」
「知るか! そんな話をした覚えは無い!」
「横浜を手に入れた後はシノギで稼いだ大金で兵隊かき集めて、煌王会でクーデター起こして自分が七代目に就くって腹積もりか。なるほどなるほど。こいつを知らされたら、煌王会の会長は何て思うかねぇ。反応が楽しみだぜ」
家入から返答は帰ってこなかった。敵に弱みを握られている。そんな己の置かれた立場をようやく理解し、呆然自失に陥ったのだろう。苦し紛れの否定すらできない始末である。
実を言うと、俺は先刻の家入と笛吹の会話を録音していない。携行するペン型カメラに録画および録音の機能は無く、あくまでも居並ぶ両者の姿を写真に収めたのみ。これは、ハッタリというやつだ。家入にボロを出させ、動きを封じるための心理的作戦だった。
企みの全てを記録した証拠を押さえられている以上、迂闊に動くことは不可能――。
そう暗に悟らせることこそ、作戦の本懐といえよう。すっかり沈黙してしまった家入の反応を見る限り、どうやら上手くいったようだ。
奴は完全に進退窮まっている。切り札たるカセットテープはつい先刻、俺の手によって破壊された。「三次団体の小姓に暴行された」件を訴え出ようにも、先述の謀反の証拠が出てしまえばそれどころではなくなる。村雨組を潰す以前に、自分が煌王会を追われてしまうのだ。
どちらが不利か。もはや一目瞭然だろう。俺の策にまんまと引っかかり、完全に追い詰められた家入組長。残された選択肢は決して多くは無い。さて、どう出てくるか。窮鼠猫を噛む展開に警戒しながら、俺は固唾を飲んで奴の動きを見張る。
「……」
やがて数十秒の間を置いた後。苦虫を噛み潰したような面持ちで、家入は淡々と話を繰り出してきた。
「……お前、たしか名前は麻木涼平と言ったな。さっきの動きは見事だったよ。恐れ入った。煽りに煽って慶久に無駄弾を使わせ、拳銃の弾が無くなった隙を突いて一気に畳み掛けるとは。大したもんだ。お前ほどの喧嘩上手は家入組にも居ねぇぜ……」
「ははっ。いきなり何を言い出しやがる。俺を褒めるのは勝手だが、録音は渡さねぇぞ。生憎、おだてられていい気になるほど単純じゃねぇんだ。あんたと違ってな」
「ああ、その強気な態度もいい……ますます気に入った。お前さん、俺の組に来ねぇか? 幹部にしてやるぞ。いや、若頭に据えてやってもいい。煌王会直系家入組。どうだ? なかなかの出世話だろ? このまま村雨の所でやってくより、お前のためになると思うが……?」
なるほど。そう来たか。俺を家入組にスカウトする話を提示し、引き換えに証拠音源を提出させようとする腹積もり。魂胆は見え透いている。
勿論、俺が乗ってやるわけが無い。このような安っぽい買収工作でいとも簡単にコロコロと転がるようでは、極道など務まらないだろう。言われるがまま音源を差し出した所で、約束は反故にされて全てを握り潰されるのが関の山。そもそも音源自体、存在しないのだが。
(間抜けな話だぜ…‥)
考えてみれば、最初から信じる余地など何処にも見当たらないではないか。家入ほど器の小さな男が、自分を殴り倒した少年に目をかけるはずもないというのに。
馬鹿馬鹿しい。こんな話、誰がまともに取り合うのだろう。切羽詰まっているとはいえ、あまりにも滑稽。こみ上げる失笑を堪えきることができなかった。
「あはははっ! 俺を家入組の若頭に就けるだと? バカも休み休み言いやがれってんだ! てめぇがそんなデカい侠だとは思えねぇ。騙し討ちにしようったって、そうはいかねぇぞ?」
「いいや。俺は本気だ。お前がさっきの音源をこちらに渡してくれるというなら、俺は必ず交換条件を守ろう。必ずだ」
大きく頷いた後、家入は続ける。
「立ち聞きしてたんなら分かると思うが、俺はもうすぐ煌王会を手に入れる男だ。『煌王会七代目、家入行雄』。この名が天下に響き渡るのも、そう遠くはないだろう。だったら、今のうちに取り入っておくのが正解じゃないのか? 損か得かで考えてみろ。分かるかい?」
「えっ。七代目って。なら、あんた。さっきの話を認めるってことか。中国人と組んで煌王会の今の体制を倒そうとしてるって話、やっぱりあれは本当だったのかよ」
「……あ、ああ。本当だって。全て、お前の聞いた通りだ。狗魔の日本支部は皆、俺の思う通りに動く。横浜を獲ったら本国から増援が来ることになっててよ。そいつを使えば六代目……いや、長島なんか一瞬で木っ端微塵。そうすりゃ俺が七代目さ。どうだ? すげえ話だろ?」
些か、想定外であった。まさか己の謀反計画をあっさり認めてしまうとは。いくら土壇場で破滅を免れるための方便といえど、ここまでペラペラと吐き出されては逆に拍子抜けだ。
要は「現段階で寝返っておけば家入組の若頭の座が手に入り、次期煌王会会長の“身内”としてお前の未来は明るいものとなる」と。そう言いたいのだろう。まったく、開いた口が塞がらない。一体、この男はどれだけボロを出せば気が済むのだろう。
(とりあえず、家入の企みは暴けたな……)
思わぬ形で本人から証言が取れた。録音のレコーダーを携行していなかったことが悔やまれる。ハッタリではなく本当に録音できていれば、すぐにでも煌王会上層部へ提出して失脚させられたものを。思わず舌打ちしたくなるのを我慢しつつ、俺は家入に問い返した。
「そうだな。考えてみりゃあ、たしかにすげえ話だわな。でも、あんたが七代目の椅子に座ったとして。そっから先はどうすんだ? 中国人だって、いくら何でも横浜だけじゃ満足しねぇだろ。もっと大きな見返りを求めてくると思うが、そこら辺は考えてるのか?」
「もちろん。考えてるさ。狗魔のアホ共は使い捨ての駒。俺が煌王会を獲るためのな。用が済んだら、その時点で切り捨てるに限る。横浜のシマも返してもらう。金輪際、おさらばだ」
「マジかよ。でも、そしたら戦争になるんじゃねぇの? 煌王会と中国マフィアが。真正面から」
「ああ。なるだろうな。全面戦争に。だが、俺の知ったことじゃない。その時の俺は七代目。煌王会の支配者だ。戦争の心配は下の連中がするこった。親分を守るために、死力を尽くして戦う。極道としては至極当然の理屈だよなあ」
思いの外、身勝手な答えが返ってきた。自分の都合で始めた戦争の災禍を省みず、あまつさえ下の者に丸投げしようという傲慢ぶり。
当時の俺に帝王学の何たるかは分からぬが、上に立つ者が持つべき心構えくらいは知っているつもりだった。かつて、亡き父が組事務所で同輩たちと語らっている光景を見たことがある。たしか「子のために命を懸ける。それが親に成せる唯一の業」などと、親父は言っていたっけ。記憶はひどく曖昧なのだが。
それでも、はっきりと断言できる。家入は巨大組織の頭首を張るべき器ではない。狭量どころか人間性自体が非常に小さい。奴がトップに立てば、煌王会は忽ち崩壊してしまう。日本国内だけでなく中国本土にも大多数の兵力を備える狗魔と真正面でぶつかるリスクをまったく勘案できていない点からして、そもそも浅慮の度が過ぎる。
このような人物の下についたところで、どんな未来が待っているというのか。たとえ本心からの誘いであったとしても願い下げだ。
「さて、麻木。お前には、その支配者の側に座る資格がある……俺と一緒に煌王会を統べるに相応しいということだ。腕力は十分、度胸も申し分ない。おまけに父親は、あの伝説の川崎の獅子。血筋としても最高だ。実に素晴らしい逸材じゃないか……」
まだまだ、俺をおだてるつもりの家入。ついには親父の名まで出てきた。奴ごときに麻木光寿を語られたくはない。一体、何様のつもりなのか。非常に腹立たしいが、とりあえず聞いてやる。
「麻木、どうだ? 俺の所へ来ないか? いま、家入組には若頭がいない……こないだ下手打って死んじまったからな。ちょうど慶久のために敢えて空席にしといたが、ここはお前に変更だ……お前は慶久よりも強い。俺は強くて腹の据わった若者が大好きなんだよ」
「へへっ、気持ち悪いこと言いやがって。じゃあ、あれか。ここで俺が録音のテープを渡したら、あんたは俺を家入組の跡目にしてくれると」
「そうだとも! さっきも言った通り、俺はもうじき煌王会の会長だ。そうなりゃお前は玉突き的に家入組の二代目を継げる。こいつがどういうことか分かるか? その若さで煌王会の貸元になれるんだぞ! とんでもない出世だよなあ? 断る手は無ぇよなあ? ほら、早く俺に録音を渡してくれ。な?」
あなたの方こそ、言っていることの意味が分かっているのかと問いたい。大体にして15、6歳の直系組長などが認められるはずも無い。煌王会は旧来の年功序列の風潮が未だ強く残る組織。村雨耀介の30歳での貸元就任でさえ、異例中の異例事として内外に波紋を呼んだくらいだ。その場しのぎで絵空事を並べるにしても、もう少しまともな物があるだろうに。またしても失笑がこみ上げてきてしまった。
「へぇー。あんたの後を継いで、煌王会の直系組長かぁ……けっこう大きく出たもんだな」
「おうよ! 家入組を継げば同時に豊橋貸元だ。あそこはいい街だぞぉ? 名古屋にも近いし、美味いシノギがそこら中にゴロゴロ転がってる」
「そうかい。ま、与太話としちゃあ大したもんだ。おめでたい話だと思うぜ……その程度で俺を騙せると本気で思ってる、あんたの頭もな」
「ああ?」
俺の答えは最初から決まっている。もはや言うにも及ばないと思ったが、いちおう明確な形で示しておく。
「お断りだ。馬鹿野郎」
ここまで付き合ってやったのだ。少しくらい相手の心を抉っておかねば気が済まない。まさか快諾してくれるとでも思ったか。こちらの返事に大きく目を丸く開いた家入の反応を一瞥した後、俺は言葉を続ける。
「笑えるぜ。誰が好き好んで、てめぇみたいな奴の下に付くってんだ? 罰ゲームかよ。尾行には気づかないわ、喧嘩も弱いわ。挙げ句の果てには自分から秘密をペラペラ喋っちまう能無しが。てめぇなんか、所詮は親分の器じゃねぇんだよ。せいぜい三下のチンピラふぜいがお似合いだ」
「ほう。言ってくれるじゃねぇか。では、素直に録音を渡す気は無いということか。残念だな。少しは聞き分けのある野郎だと思ったが、とんだ見当違いみてぇだなあ」
「ヘッ、負け惜しみか! どうとでも言いやがれ! 何にしたって、てめぇはもう終わりだ。帰ったら即、煌王会の本部に洗いざらい報告させてもらうわ」
相手の弱みを握っている。そのハッタリが看破されない限り、こちらの圧倒的優勢は変わらない。さらなるダメージを与える意味でも、揺さぶりをかけておかなくては。俺はズボンの後ろ側をわざとらしくさする動作をしてみせた。
「ああ、そうそう!テープは今もまわってるからな。さっき、てめぇが自分で裏切りを認めたのだって全部録音されてる。諦めるこったな!」
「そ、そうか。じゃあ、全てを聞かれちまったってわけか。そいつは困ったな。どうしたものかね」
「もう終わりなんだよ、てめぇは。まあ、どうしても六代目にチクられたくねぇってんなら考えてやる。その代わり、今から俺の言うことを全て呑んでもらうがな。まず手始めに……」
「終わりなのはお前の方だよ。麻木涼平」
次の瞬間、家入の目元に不気味な光が宿り始める。
「ちっとも気づいてねぇんだな。これだから、最近のガキは困るぜ。すぐひとつのことに夢中になって視野狭窄を引き起こす。こいつぁ、テレビゲームの流行の弊害ってやつか? おお?」
あわや破滅の危機が目前に迫った土壇場で、敵を甘言にて調略する買収工作。その頼みの綱が不首尾に終わったというのに、家入の表情はどういうわけか穏やか。口角がみるみるうちに上がり、薄ら笑いが奴の顔面を支配してゆく。敢えて言ってしまえば、この反応は一体、何か。俺には理解できなかった。
「はあ!? この期に及んで何を言ってやがる。てめぇ、自分の立場が分かってんのか!? ボケるのも大概にしとけや」
「ボケるの何も、俺は事実を指摘したまでだ。ほらほら。いいのかな。そうやって前だけ見てて。少しは、後ろも見てみるんだな」
「ああ……!?」
俺の注意を背後に逸らさせ、その隙で脱出行動に転じるつもりなのか。ここで逃げられてはたまったものではない。家入には、まだ用があるのだ。「六代目に秘密をチクられたくなければ付いて来い」と脅し、そのまま村雨邸へ連れ帰る。そうして家入を拉致することこそ、俺のハッタリの最終目的であるというのに。
「……トンズラこく気なら、考え直した方がいいぜ。もっと痛い目に遭わせてやる。二度と自力じゃ歩けねぇ体にしてやろうか。大幹部さんよ」
「何だよ。せっかく教えてやったのに。人の善意を無視しやがって。まあ、いいさ。できるもんなら、自分でどうにかしてみるこった。頭蓋骨に穴を開けられたくなかったらな」
「ごちゃごちゃうるせぇよ! 大体、何だってんだよ。寝そべってるてめぇが、どうやって俺の頭を……」
その時だった。不意に背後を妙な気配が襲う。
(……えっ?)
全身に突き刺さる、容赦のないひんやりとした殺気。さながら凍てつく衝撃波のようで、体中の鳥肌が一気に逆立つのが分かる。これは只事ではない。俺の後ろに得体の知れぬ“何か”が迫っている。
(ま、まさか……!?)
“何か”の正体を俺は瞬時に悟った。しかし、時既に遅し。
――ズガァァァァァァン!
轟音が放たれる。間一髪、上半身を右によじって直撃を回避した俺。本当にギリギリのタイミングだった。あと0.001秒でも遅ければ、頭骨が粉々に砕けていたことだろう。己の危険予知能力の高さに救われたと思う。
「くっ……!」
けれども、衝撃を耳で味わってしまった代償は想像以上に高くついた。左耳周辺で不快な金属音が騒めきを立てている。それまで聞こえていたものが一転して途切れた。金属音に邪魔をされ、鼓膜の奥深くヘ届かないといった具合か。
これは俗に云う、耳鳴りというやつだ。特に思索せずとも、原因は分かっている。
とても不愉快な感覚に顔をしかめる俺を嘲笑うかのごとく、背後に立っていた男がボソッと吐き捨てる。
「チッ、外したか! どんだけ運が良いガキなんだよ。面倒くせぇったらありゃしねぇよ……!」
ゆっくりと振り返ると、そこに居たのは笛吹慶久だった。右手にはコルト・パイソンが握られている。
なるほど。大体の事情は読めた。どうやら笛吹は密かに我が背後を取り、後頭部に向けて銃弾を放った模様。それを俺が第六感で予知し、寸前のところで回避に成功したのだった。
家入は時間稼ぎをしていたわけか。殴り倒された大甥が起き上がり、体力を回復させて俺を狙うまでの巧妙な時間稼ぎ。だからこそ、下らぬ与太話を延々と続けたのだろう。まんまと引っかかってしまった自分が情けない。
一方、獲物を仕留め損なった狩人よろしく、笛吹もまた悔しさにまみれていた。弾が当たらなかった点もさることながら、極限まで近づいての発砲が避けられた事実もひどく奴を驚かせたようだ。
無論、愕然としているのは笛吹だけではない。俺を挟んだ向かい側にいる家入も、よろよろと起き上がりつつ、想定外の結果に肩を震わせていた。
「う、嘘だろ……躱しやがった……」
そんな老人に笛吹は言った。
「大叔父さん。駄目だわ。こいつにハジキは当たらねぇ。何だか知らねぇけど避けやがるもん。撃つタイミングが計れない」
「じゃ、じゃあどうすんだ!? 銃が効かねぇなら、どうやってこのガキをぶっ倒すってんだよ!?」
「心配すんな。今度は確実に倒す。確実に息の根を止めてやるよ。喉を一文字に切り裂いてな」
流れるような動きでこちらを睨み、笛吹が気勢を吐く。そしてリボルバーを腰のベルトにしまうと、懐から短刀を取り出して鞘を抜いた。今度の得物は剣。俺を接近戦で仕留めようというのか。
(くそっ……来やがった……!)
耳の痛みは消えないが、ここは応じるしかない。俺もポケットから武器を出す。護身用としてナイフを持ってきて正解だった。短刀に対してどこまで渡り合えるか未知数ではあるものの、丸腰で対処を迫られるよりはましだ。
「死ねやあっ! 麻木ィィ!」
「くっ!」
宵闇に紛れ、目にもとまらぬ速さで攻撃を仕掛けてくる笛吹。腕のひと振りひと振りに怨念が込められていて、逆手持ちの刃筋もきわめて頑強だ。
一方、俺の方はといえば耳鳴りというハンデを負っている。人間の身体とは不思議なもので、聴覚神経に異常を来せば忽ち三半規管全体が影響を受け、バランス感覚を失ってしまう。周囲が暗い所為か、どこに何があるのか分からない。振り下ろされる銀色の閃光を運に任せて避け、時に右手の刃で受け止めるのが精一杯だった。
「おい麻木ィ、どうしたぁ? 何故に反撃をしない? さては、さっきのでビビッちまったのか? ああ?」
「うるせぇ! てめぇごときが……」
「なんだよ。ナイフがぜんぜん届いてねぇじゃねぇかよ。こいつは拍子抜けだ。こんなレベルじゃあ、俺に勝てるわけねぇよなぁぁぁぁ!」
笛吹の攻撃が一段と激しさを増した。心なしか、動きも今まで以上に速くなっている。単に俺が手負いということもあろうが、それを抜きにしても恐ろしい俊敏さだ。俺の剣撃は悉く避けられ、刃先を近づけることすら叶わぬ始末。ここまで苦戦するのは初めてだった。
(くそっ、耳が……耳さえどうにかなりゃ……)
全力を引き出せない己の身体が嘆かわしい。調練の戦闘能力に麻木涼平への憎悪が加わり、笛吹は一種のチートモード。このような不完全状態で長く太刀打ちできるわけもない。やがて、俺は襲い来る刃を受けきれず左頬を切られてしまった。
鋭い痛みが走る。瞬時に身体を逸らしたので、傷は至って浅い。されども、出血量は予想以上に多い。敵の短刀が赤く染まるのが見えた。
「クソッ、なかなかやるじゃねぇか……!」
「おっとぉ。闇雲に振ったって当たらねぇぜ? ナイフの使い方くらい覚えような? ガキが」
「舐めるなぁっ!!」
笛吹の猛攻は止まない。明らかにこちらの方が劣勢だと分かる状況である。しかし、俺に焦りは生じなかった。恐ろしいだの怖いだの、マイナスな感情は一切無し。むしろ、どこかこの局面を楽しんでいる自分がいた。
殺意をむき出しに容赦なくフルパワーで襲いかかる敵と、互いの命を懸けた一対一の勝負ができる楽しさ。まさに喜びとも言っていいかもしれない。沸き立つ高揚感と快感に、俺の口元は自然と緩んでいた。
「おいっ! お前……どうして笑ってやがる……!? 自分の置かれた状況が分かってねぇようだなぁ! おお!?」
「へへっ! なんか、楽しいんだよ。こういうの。ほら、もっと全力で来いよ。じゃねぇと、楽しくない!」
「ふざけやがって! この戦闘狂が!」
「戦闘狂ねぇ……ふふっ、いいじゃん! 最高の誉め言葉だ……!」
ただでさえ追い込まれているのに、これ以上相手を刺激してどうなるというのか。常人からすれば、実に馬鹿げた行為に思われるだろう。
しかし、俺にとってはまったく逆。敵が全力で襲いかかってくる状況にこそ闘志が燃えるのだ。体の中からアドレナリンが一気に放出される最高に心地よい感覚。片耳のダメージが次第に薄れてくる。いや、快感により中和されたと言った方が正しいか。
気がつくと、自分でも驚くほどに力が漲っていた。もはや、勝ち負けなんか関係ない。命を張った戦いをするという行為自体が、たまらなく楽しくて幸せだ。そう心から思える俺は笛吹のご指摘の通り、、生粋の喧嘩好きなのだろう。というより、戦闘狂。
快楽に身を委ねた俺の手は、先刻よりもはるかに力強くナイフを握っていた。動き自体も軽やかになり、敵の攻撃をかわすことが容易になる。
(乗ってきた……よし、ここだッ!!)
気分が最高潮に上がった事実を自覚した瞬間、ひと思いに刃を振りぬく。笛吹の左腕が当たった。
――グシャァァァッ!
真っ赤な鮮血が飛ぶ。二の腕を縦一文字に切り裂かれる格好となった笛吹は、たまらず苦悶の声を上げた。
「うあああああっ!」
「さっきのお返しだよ。痛いか? 痛いよなあ! いいぜ? もっとやってやる。こんなもんじゃ終わらねぇけどな!」
笛吹から繰り出される反撃の刃をがっちりと受け止めた後、押し返す勢いで2度目の攻撃を加える。今度は奴の利き腕を切り刻んでやった。
「ぐはあっ! クソガキがああああ!」
「おっと! 危ねぇっ!」
「うぐあっ! こ、この野郎……!」
腕を切られる痛みで理性を失い、短刀を闇雲に振って薙ぎ払う笛吹。もちろん、戦闘のアドレナリンでチート状態にある俺に当たるわけが無い。後方に身を反らして回避するや否や、奴の腹部に思いっきりナイフを突き刺した。
引き抜いた刀身は真っ赤に染まり、ポタポタと血が滴り落ちている。予想以上に深く刺さってしまったようだ。
「おう、どうした? もう終わりか? 俺を殺すんじゃなかったのか? ああ? 笛吹さんよ。ブチ殺そうとした相手に返り討ちにされたんじゃあ、世話ねぇなあ。ダサすぎるぜ」
「はあ……はあ……黙れ……黙れッ!!」
「ああ? 何だよ。この俺に負けて、悔しいってか? はっきりと言ってみろ、負け犬野郎」
「うるせぇっ!! はあ……殺されるのは……お前の方だ……自分の体を……よく見てみろ……お前も、もうじき、あの世行きだ!!」
どういうわけか、腹部がジンジンと痛む。まさかと思い慌てて視線を下方に移すと、悪い予感の通り。俺の左脇腹が横方向に切り裂かれていた。着ていたジャージの繊維が裂かれ、こちらもまた血が滴り落ちているではないか。
「へっ……! やりやがったな……!」
「さっきので俺の命を獲ったつもりになってるかもしれねぇがなあ……痛くも痒くも無かったそ。命を獲られるのは、お前の方だ! 麻木涼平! 次こそ親父の元へ送ってやる!」
「そうかよ。やってみやがれ! やれるもんならな! 腹を切られたくらいで俺が死ぬかよ。今度こそ、てめぇを本当の死人にしてやる! 覚悟しやがれ!」
「ほう……その割には威勢がさっきより落ちてるみたいだけどなぁ……?」
笛吹の言う通り、腹のダメージはそれなりにあった。奴が痛みを堪えて何とか立っているのと同様に、こちらも決して平気なわけではない。先ほどまでは興奮によるハイテンション状態で透明化されていた痛みが、荒波のごとく一気に押し寄せてきた。出血量もおびただしい。このまま戦いを続ければ、命の危険も伴うだろう。
しかし、それでも俺は止められない。止めることができなくなっていたのだ。
たとえ死ぬことになろうとも、最後まで戦いの中にいたい。先ほど全身を駆け抜けた気持ち良さの、もっと先を味わってみたい。
そんな欲求が心を支配していた。言うまでもなく、異様な状態にあったと思う。さながらドラッグを貪る麻薬中毒者のよう。シャブ中がクスリの接種に快楽を見出すのと同様に、俺は戦いのスリルに無上の快楽を見てしまったのだ。
(こいつは癖になる……止められねぇ……)
尋常ならぬ痛みを悦びでかき消し、俺は笛吹と再び対峙する。奴も奴で相当消耗しているようで、大きく肩で息を切らしているのが分かった。先ほどの腹部への刺突攻撃がだいぶ効いたらしい。刃渡り15センチのナイフの根本まで刺さったのだ。当然といえば当然といえよう。
「ほら。来いよ……いつまでそうやってるつもりだ? 痛くて体が動けねぇかあ? 麻木涼平……」
「抜かせ。そうやって笑ってられんのも今のうちだぜ……? そちらさんこそ、けっこう辛そうだなあ。痛くて動けないってか?」
「うるせえガキだあ……いいさ。来ないってんなら、こっちから行かせてもらうぜ……」
「いいぜ。来いよ。今度は一撃で終わらせてやる……楽しませてくれよ。クソ野郎!」
しかし、運命というものは無慈悲なもの。俺たちに勝負を決めさせてはくれなかった。不意に、外から機械音が聞こえる。聞こえるどころか、次第にこちらへ迫ってくるではないか。
(この音は……ま、まさか? 警察か!?)
パトカーのサイレンだった。一体、誰が通報したのだろう。右耳を伝う音の聞こえ具合からして、明らかにここへ向かってきている。興奮がみるみるうちに解け、代わりに別の緊張が押し寄せた。このままではまずい。このままここにいては、捕まってしまうのだ。
「ちくしょぉぉ! 誰が警察を呼びやがったぁぁ! くそったれが! せっかくいい所だったのによぉぉ!」
「たぶん、通行人の誰かが呼んだんだろ……あんだけチャカをバカスカ撃ちゃあ、誰だって気づく……とりあえず、落ち着け。慶久。逃げるぞ。お前はともかく、俺まで捕まったらまずい」
「くそぉっ! とんだ水入りだ! 呼んだのは誰だぁ!? 誰が呼びやがったぁ!? 絶対に許さねぇぇぇぇーっ!!」
「いいから。早く。こっちへ来い。話は後で聞いてやるから。ほら、早くこっちへ来るんだよ」
「ああっ! クソがぁっ!」
サイレンが次第に間近へ迫ってくる中、家入はわめき散らす大甥を強引に行かせる。そして最後に俺の方を見据えると、強い口調で問うてきた。
「麻木。もう一度、聞く。さっきのテープを渡す気は無いか? 今なら、まだ大目に見てやるぞ。俺に蹴りを入れたことも水に流してやるが。どうする?」
呆れた。この期に及んで、未だ証拠隠滅に執着しているとは。おまけに俺のハッタリをハッタリとも気づかず、丸ごと信じきっている。返す答えはひとつしかない。
「へへっ! 嫌なこった! あれは煌王会のお偉いさん宛てに送らせてもらうぜ。せいぜい、首を洗って待ってるんだな。七代目さん」
「なっ……本気で言ってやがるのか!? 六代目がお前ごときの言葉を信じると思うのか!?」
「そんなの、やってみなくちゃ分かんねーじゃん。何だ? 送らないでほしいって顔してるなあ、あんた。もしかして、ビビってやがるのか? ダセぇなあ! 煌王会の大幹部が聞いて呆れるぜ!」
「愚か者が……ど、どうなっても知らんぞ!!」
最後まで俺を睨みつけながら、家入は後ずさりしてその場を離れていった。声に若干の震えが混じっており、実に滑稽であった。おそらくは奴なりに精一杯、虚勢を張ってみせたのだろう。家入が本当は何を考えていたのか。もはや考えずとも分かる。
(俺も逃げねぇとな……)
さて、そうこうしているうちにパトカーは目と鼻の先にまで近づいている。喧しく響いていたサイレンの轟音がぴたっと鳴り止むと、俺の背筋は凍った。やはり、この場所が彼らの目的地だったのだ。
先ほど家入が読んだ通り、通行人の誰かが通報したものと思われる。「廃墟で銃声が聞こえた」と。警察が出動するには十分すぎる内容だ。人通りの少ない場所と高を括っていたのは間違いだった。よもや、警察が来るとは考えもしなかった。戦闘に耽るあまり周囲が見えなくなっていたのは、俺も同じのようだ。
(やっちまったな)
うまく闇に身を紛れ込ませて、俺はどうにか現場を脱出する。腹部の傷は思いのほか深いものでは無く、大通りまで逃げ延びた時には既に血が止まっていた。左耳の耳鳴りも次第に和らいでくる。聴こえづらさは騒音による一過性のものであったらしく、山手町へ辿り着くまでに全快した。
「お、おい! お前、どうした? その傷!?」
「ちょっと色々あってな」
「色々って、腹を裂かれてんじゃねぇか! どこのモンにやられた? 狗魔か? ヒョンムルか? 大鷲会の残党か?」
「別にどこでもねぇよ。ちょっとした喧嘩さ。とりあえず、救急箱を貸してくれや。大したケガじゃねぇから」
屋敷に着くと、門番の組員に血相を変えて驚かれた。いくら止血済みとはいえ、腹のあたりが真っ赤に染まっていたのだから無理もない。俺としては軽く絆創膏を張るくらいで良いかと思ったが、きちんと手当を受けるよう言われた。スギハラに医術の心得があるらしい。
「おやおや~! 見た目の割には大ケガじゃないねぇ~! まあ、とりあえず消毒をさせてよね! 念のために!」
「悪いな。手間かけさせちまって。それにしても、あんたにケガの手当てができるとは意外だったぜ。スギハラさん」
「昔、ユー・エスのアーミィに居た時には衛生兵をやってたからね~! ドクターのライセンスは持ってないけど、治療もできるよ~!」
「そうだったのか。助かるぜ」
屋敷1階の医務室らしき部屋に連れていかれた後、軽く処置をしてもらう。処置と言っても、軽い切り傷なので消毒を終えた後は軽く軟膏のようなものを塗っておしまい。縫合の必要も無いという。大袈裟なことをされずに済むのは有り難かった。
「はい。できた。明日になったら、またおいでね~! 経過を診てあげるよ~!」
「ああ。どうもな」
「ところで、喧嘩って言ってたけど。どういうファイティングだったわけ? リョウヘイほどのお腹を切り裂くなんて。相手はなかなかにパワフルだったんじゃない?」
「いやいや。そこまですげぇ奴じゃねぇよ。こっちが油断してただけっていうか。テンションが上がって周りが見えなくなってる時に、ドスでざっくりいかれちまった」
すると、スギハラは言った。
「でも、傷は浅いよ~! それって切られる時、即座にお腹をよじって芯を外した証だからね~! 前から思ってたけど、リョウヘイ。君はなかなかファイトの素質があるよ! このままトレーニングを続ければ、いつか最強になれるよ~!」
思わぬ形で称賛の言葉を貰ったが、あまり実感が湧かない。俺としては、スギハラのいう緊急回避を行った自覚は無い。ただ本能のまま反射的に体が動いただけ。意識して避けたわけではなかったのだ。
(まあ、いいや。ともあれ何とかなったんだし)
命からがら村雨邸に戻った後、俺は組長や若頭に事の次第をすべて報告した。当初こそ耳を傾けていた菊川であるが、廃墟で遭遇した一件を聞くや否や吃驚仰天。血相を変えて飛び上がった。
「なっ!? 家入の大叔父貴を殴った!? 」
「ああ。他にどうしようもねぇ状況だったからな。やむを得ずって流れだ。もちろん、殺しちゃいねぇよ。せいぜい、顔に蹴りを……」
「何てことしてくれたんだぁぁぁぁーっ!」
菊川の鉄拳が飛ぶ。まったく予期していなった一撃であり、避けることは不可能。殴打をまともに食らう形となった俺は、殴られた勢いのまま体勢を崩す。組長室の畳に寝転がってしまった。
「な、何しやがる……痛ぇじゃねぇか……」
「キミこそ何をしてんだぁっ! お、大叔父貴をっ! 大叔父貴にそんな真似をするなんてぇぇぇっ! 自分が何をしたか分かっているのか!」
「うん……まあ、たしかに良いことじゃなかったろうよ? けど、あいつは俺らを嵌めようとしてたんだぜ? 笛吹の野郎とつるんで。手打ちの件だって真っ赤な嘘だったわけだし」
「そういう問題じゃないっ!!」
俺の釈明を大声で遮った後、菊川は眉間に深いしわを寄せる。
「いいか? 家入の大叔父貴は直系組長だ。舎弟頭補佐という幹部の地位まで持ってる。そんな立場の人間に危害を加えるってことは煌王会全体に弓を引くのと同じなんだっ! それを分かってて、やったというのか?」
「……ああ。他に成す術が浮かばなかったからな。本当は家入を拉致ってくるつもりだったよ。んで、あいつの口から全てを洗いざらい吐かせる。身柄を押さえちまえば、もう好き勝手されることも無くなるだろうし」
「な、なんて馬鹿なことを……そんな浅知恵で物事が前に進むわけないだろっ! それでも村雨組が本家の幹部に危害を加えたという事実は変わらない! 六代目に知れたら、即座に破門だ! 何を考えてんだっ!」
「いやいや。その時は『企みを暴くためには仕方なかった』とでも言えば良いだろ。家入の裏切りを阻止できるんだ。むしろ、褒められると思うけどなあ。結果オーライってやつだ。煌王の会長だって話せば分かると思うぜ」
菊川の言い分も理解できる。俺自身、短慮な行動であったことは百も承知だ。 動機は何であれ、俺がやったのは煌王会直系組長への暴行。煌王会全体に喧嘩を売ったとみなされて当然だろう。そこに申し開きの余地は無い。
やはり、あの場で家入行雄を拘束できなかったことは大きな誤算にして痛恨の失敗。
身柄さえあれば、奴が煌王会への謀反計画を自白した音声テープを作ることができた。証言を拒むなら拷問でも何でもすれば良い。とにかく家入本人を手元に留め置いておけば、村雨組は手に入れることが叶ったのだ。家入組長がクーデターを画策している」という、決定的証拠を。
もはや後の祭りとなってしまったが、悔やんでも悔やみきれない。家入に対する暴行の咎も、奴による謀反計画の証拠を提出できれば、ある程度どうにかなったかもしれないというのに。
菊川が半狂乱で大きく動揺する一方、俺はただ無上の口惜しさに唇を噛んでいた。それからも若頭は「愚かな判断」だの「知恵が足りない」だのと激しく俺をなじってきたが、説教が頭に入ってくる状態ではない。
「だいたいキミは考えが甘いんだよ! 結果的に大きな手柄を立てれば、その過程で何をしても不問に付される? そんな無理が通るのは村雨組だけだ! そもそも六代目がどんな性分か知らないだろ?」
「……ああ。知らねぇな」
「兎にも角にも組織の規律には厳しい人でね。特に長幼の序列、言ってしまえば組同士の上下関係には神経質なくらいに厳格だ。そいつを弁えない振る舞いが少しでもあれば、たとえ抗争の功労者であっても容赦なく処分される。そういう人なんだよ!! 長島勝久という人は!!」
「へぇー。そうなのか。 初めて知ったぜ。けど、納得いかねぇわな。結果として今の体制が守られるんだから、その途中で多少のルール違反があっても良いだろうに。何が駄目なんだか」
残念ながら、六代目はそのように考えていないということなのだろう。リザルトよりもプロセスを重んじる。たとえ主君が非合理的な姿勢でいようとも、臣下は文句を言わず追従するだけ。極道社会における掟とは、受け入れ難い理不尽を受け入れることなのかもしれない。
大きな嘆息が、自然と俺の口から漏れた。その仕草が菊川の怒りに更なる油を注いだのか、彼は一層強い口調でまくし立ててきた。
「どうしてキミがそんな顔をするんだ。ため息をつきたいのはこっちの方だよ! キミのせいで、何もかもが振り出しに戻ってしまった! 村雨組の直系昇格はおろか、いま抱えてる抗争だって……! 今後、煌王会にいられるかどうかも危ういんだぞ。どう責任を取ってくれるんだ!?」
「いや、まあ。とりあえず家入の企みを阻止すれば、どうにかなるはずだ。長島会長が俺らの言い分を聞いてくれる可能性だって、ゼロではないはず」
「だーかーら! ゼロなんだってば! あの人が規律を乱した者に優しいわけが無い! この前だって、古牧の組長が謹慎処分を食らったばっかりだし! 中川の侵略を退けた功労者だってのに……! あー、もう! 僕らは終わりだ!!」
そう言い放った後、菊川は頭をぐしゃぐしゃに搔きむしって深くうなだれた。俺としてはまだ反論する気でいたのだが、すっかり意気消沈してしまった若頭の様子を見るなり躊躇が生まれる。
やがて、菊川の両目には涙の滴が浮かんできた。
「ああ、これからどうすれば良いんだ……煌王会を破門されちゃったら、僕たちは……!」
ずいぶんと大袈裟な反応だと一度は心の中で笑った。けれども、声を殺してむせび泣く菊川の姿を見ていると、何だかとても申し訳ないことをした気分になってくる。俺の行動で、将来に暗い影を落としてしまったか。不意に、喉の奥から苦くて酸っぱいものがこみ上げてきた。喩えようの無い罪悪感だ。
「……」
だが、村雨組長は違った。
「落ち着け、菊川。わめくでない。今、泣き乱して何になるというのだ。赤子のごとき振る舞いは止めよ」
感情を発露させるばかりの若頭を冷静に窘めた後、それまでの腕組みの体勢を解いて煙草に火をつける村雨。
何とも彼らしいというか、村雨ならではの反応だと思った。このように緊迫した場面においても冷静さを保ち、一歩引いた視点から物事を俯瞰できるとは。殆どの人間であれば焦燥感が先行し、取り乱してしまうところだろうに。村雨の強心臓ぶりには、いつも感嘆させられる。
「……涼平。ひとつ聞かせてくれ。お前は家入と対峙した折、奴に『笛吹と交わした会話は全て録音させてもらった』と申したのだな?」
「ああ。ハッタリだけどな。家入の野郎、まるっきり信じてやがったぜ。あいつは最後まで、存在しないテープを俺から奪おうとしてきたからな」
「ほう……それは間違いないか? 真に、大叔父上はお前のハッタリを信じたというのだな?」
「うん。間違いねぇよ」
俺の言葉に、組長は表情ひとつ変えずに頷く。
「左様か……ううむ……」
そして再び咥えた古銘柄の香を深々と吸い込み、しばしの余韻に浸る。張りつめた沈黙に吞み込まれ、俺は少なからず気まずさを覚えてしまった。今も昔も、大人がつくり出すこういう空気感は実に苦手だ。妙な胸騒ぎがしてくるのだ。
もしや、とんだ軽挙妄動をしてくれたと厳しいお叱りが飛んでくるのか。灰皿で煙草の火を消した後、キリッとこちらを注視した村雨の挙動に、俺は一抹の不安と恐怖を覚える。
ところが、わずか一呼吸分の間を挟み、村雨の口から出てきた言葉はかなり意外なものだった。
「涼平、大義であった。見事なものだ。よくぞ、大叔父上をたぶらかしてくれたな。礼を言う」
「えっ……ええ!?」
「おかげで暫くは大叔父上の策謀を封じることができようぞ。こちらに弱みを握られていると錯覚した以上、あの御仁とて目立った動きは見せるまい」
自分は褒められている。言い回しが古風すぎるせいで、そう気づくのにやや時間がかかった。村雨曰く、俺から受けた乱暴狼藉を家入が長島会長に訴え出る可能性は皆無に等しいという。
家入は自らの謀反の証拠を村雨組に掴まれたと思っている。そうした状況下で村雨の不利益に繋がる行動をとれば、村雨サイドは報復措置として、証拠の音源を六代目に提出しかねない。ゆえに家入は暫くの間、大人しくせざるを得ない――。
これらはあくまで村雨の推論によるものだが、廃墟における家入の発言や反応を省みる限り、おそらく当たっているだろう。俺が録音の存在を匂わせた瞬間、奴は明らかに動揺していた。瞳の奥に仄かな恐怖が見えた、といえば分かりやすいか。
クーデター計画が六代目の知る所となったら、本当にまずい。それだけは何としても阻止せねばという「焦り」が、以降の家入の振る舞いからはひしひしと伝わってきた。伝える前と後で、はっきりと違う変化。俺が確信を得るには十分だった。
「……ああ。たしかに。こっちに尻尾を掴まれてるってなりゃ、大人しくする他ないわな。少なくとも、表立って何かを仕掛けたりはできないはず」
「うむ。家入行雄は何においても損得勘定でしか動かぬ男ゆえ。目下の者より狼藉を受けた怒りと屈辱は残る。なれど、その件を敢えて大事にするのが奴にとって損か、得か……? 考えなくとも自ずと分かることだ」
村雨組関係者である俺に殴り倒された一件を家入が詮議の場へ持ち出せば、片や村雨組は奴による謀反計画を六代目に打ち明ける。
俺による暴行は紛れも無い事実であるため、村雨組の処分は必至だ。しかし、当の家入本人にも謀反の咎で断罪が及ぶ。上位者への暴力行為と、組織全体を標的にした反乱の企て。どちらの罪が重いかは素人から見ても一目瞭然。いかに家入が小物であろうと、自らの破滅と引き換えにしてまで動いたりはしないはずだろう。とても分かりやすい理屈だった。
ただ、繰り返しになるが、これらの仮説は全て村雨組長の推論によるもの。また「家入は麻木涼平のハッタリを信じている」という、前提条件の上で成り立っている。
当然、異論を唱える余地は多い。ひどく不安げな顔を浮かべながら、菊川が問うた。
「いやいや。組長。いくら何でも、見通しが甘いんじゃないのかい……? 家入の大叔父貴が麻木クンの言葉を100パー鵜呑みにしてる保証は、何処にも無いわけだし……?」
「話を聞いていなかったのか。家入は最後の最後まで涼平から証拠を奪うことに執着したのだぞ。信じておろう。確実にな」
「楽観論は駄目だよ。それにもし仮にあの場で信じたとしても、後になってハッタリだって気づいたら? 僕らはおしまいなんじゃないの? ねぇ、組長」
「うむ。お前の申す通りだ。なればこそ、一縷の光に全てを賭ける他ないのだ。涼平の読み通りにならなくば、それこそ我らは終わりなのだからな」
組長の言葉を噛みしめた菊川は、無言で大きく2回ほど頷く。その顔には苦渋が浮かんでいる。受け入れ難くも、受け入れざるを得ない。あまりに不本意な現実を前に歯噛みしているようだ。
「……」
その現実を作ったのは、他でもない俺自身。程なくして若頭の鋭い眼光はこちらへ向けられた。まさしく鬼の形相。「キミのせいで村雨組は大変なことになった!」と暗に痛罵されている心地だ。
こうなってくると、流石の俺もいつもの調子で軽く流したりはできない。罪悪感が自ずと心の中を占めてくる。されども、ここで「すみませんでした」と己の非を認めるわけにもいかず。ただ、気まずい静寂の中に身を置くしかなかった。
(こりゃあ、やっちまったな……)
菊川が部屋を去った後、俺は村雨に煙草を勧められた。陰鬱な気分を中和するにはニコチンの刺激が一番。村雨なりの心遣いだった。少し憚りながらも、ありがたく頂いておく。
「……あ、火は大丈夫だよ」
「遠慮するでない。ほれ、つけてやろうぞ」
着火道具は自分の物を持っていたが、押し流されるように好意にあずかる俺。差し出された1本を口元へ運ぶ直前、先端を炙ってもらった。村雨が手に持っていたのは、派手な装飾の彫られた銀色のライターだった。
「どうも。それ、けっこう高そうだな。いつも俺が使ってるやつとは違うや。やっぱ、使い勝手も良さそうだし」
「いまは亡き五代目より賜った品だ。たしか、西洋の年代物だと言っていたな」
「えっ……!?」
聞けば村雨が10代の頃、抗争で大きな武勲を立てた際に褒美として下賜されたという。五代目といえば煌王会の前会長。もちろん俺は知る由も無かったが、かなり気前の良い人物であったと村雨は語る。立場や序列にかかわらず、優秀さを結果で示した者は積極的に高位へ取り立てる先見性を持っていたのだとか。
「宋代の太祖のごときお方であった。たとえ末端に属する三下であっても、首級を上げればきちんと恩賞で報いてくれる。ゆえに立場の如何を問わず出世の機会は皆平等に用意されていた」
「へぇ……ってことはよ、たとえば四次団体とかの下っ端でも、手柄さえありゃあ簡単にのし上がれるってわけか。めっちゃいいじゃん」
「ああ。その代わり、成果を出さぬ者には厳しかった。たとえ幹部でも容赦なく追い出されたと聞く」
話から察するに、件の煌王会五代目というのは極端なまでの結果主義者で、信賞必罰はとりわけ徹底していた大親分のようだ。年功序列の風潮が強い煌王会も、五代目が君臨していた時期だけは例外的に組織内の風通しが良かったとのこと。
プロセスよりもリザルトをとことん重視し、人事は年齢や在籍歴ではなく単純な功績によってのみ、決定する。それが組織の統率者として理想的な在り方なのかは分からない。けれど、ひとつだけ確かに言えることがある。
現状の六代目体制に比べたら遥かに良い、ということだ。この辺りの見解は村雨と重なっていた。
「考えてもみよ。極道の生業とは戦うこと。それを主君自ら阻んで何になるというのだ。恐れ多くも、私は今の長島卿のやり方が正しいとは思えぬ。あれではいたずらに組の士気を下げるだけだ」
「だよな。詳しいことは分かんねぇけど。前の会長だったら、家入みてぇな間抜けが幹部の椅子に座ることも有り得なかったんじゃねぇか? たしか、会長の囲碁の相手をして気に入られて出世したんだっけ?」
「ああ。もし五代目がご健在であれば、我らがあの小物を『大叔父上』などと呼ぶことも無かったであろう。所詮、長島卿は己の気に入った者だけを出世させているに過ぎん。組織の近代化など、六代目にとっては単なる方便だ」
先日、本庄から聞いた話によると、煌王会の現体制を固める幹部陣は殆どが経済的なシノギに長けたインテリ揃い。中でも六代目の出身母体たる桜琳一家は破格の地位を与えられており、これは誰の目から見ても分かる身内贔屓だ。
組織の中でフラストレーションが溜まるのは当然であり、優遇される幹部連中を除いて長島勝会長に忠誠を誓う者はほぼ皆無。クーデター未遂事件も今までに何度かあったという。目をかけたはずの家入でさえ謀反を企む有り様だから、長島勝久という男はよっぽど人望が無いのだろう。そもそも頂点に立つべき器量ではないと見た。
村雨が直系組長へ異例の抜擢昇格を果たしたのも、結局のところ「組織に新しい風を吹かすため」などでは決してなく、単に六代目の眼鏡に適ったから。
自身への反感が次第に広まる中、長島にも少なからず焦りがあると思われる。急成長の若手の武闘派に恩を売ることで、少しでも与党組長を増やしておきたいのだろう。尤も、当の村雨は六代目体制を激しく嫌悪しているのだが。
「何にせよ、長島卿は私を買っておられるのだ。乗っておいて損はないだろう。無論、あの御仁のために力を尽くすつもりは毛頭ない。貸元になった後は好きにやらせてもらう」
「だよな……ん? ちょっと待てよ? その長島って人は子分の裏切りを怖がってんだよな? そいつに対処するために、あんたを直系に引き上げると。だったら、家入をぶっ倒しても罰は受けないんじゃねぇの? 家入は裏切りを企んでるわけだし……」
「まあ、六代目次第だな。反乱鎮撫の功よりも、長幼の序に背いたことを咎められるか。あるいは、あのお方にも例外があるか。その時、その場面に立ってみねば分からぬ。先ほどの菊川の言葉は気にするな。あれは少し大袈裟な言い方を用いる癖があるゆえ」
菊川の懸念は的を得ていて、至極真っ当というべきもの。村雨も重々に理解しているはず。それでも彼が「気にするな」と言ったのは、少しでも俺の行動を肯定せんとする優しさだろう。
村雨の本心を正確に読み取ったわけではないが、少なくとも俺はそう感じた。状況が状況なだけに、素直に嬉しかった。
「涼平。これからますます慌ただしくなるが、お前はお前でいれば良い。ただし、選ぶべき道は間違えるでないぞ。そこだけは念頭に置いておくように」
「あ、ああ。もちろん、分かってるよ」
混迷の渦が、俺たちの前に迫っている。一度でも飛び込んでしまえば、すべての雌雄を決するまで抜け出せない。まさしく“呪い”とも謂うべき因果の渦だ。先を思えば不安に駆られる。だが、俺自身が蒔いてしまった種でもある。少しでも事態が好転するよう力を尽くすのが筋。それこそが、俺につけられる「けじめ」といえよう。とにかく気合いを入れるしかなかった。
「手打ちの件は回答に猶予が生まれたとして。調べることが山ほどあるな。たとえば狗魔。まさか、奴らが家入と手を結んでいたとはな……実に驚いた。しかし、狗魔といえば日本だけで数千の兵を抱える大所帯だ。家入ごときと手を組むほどの旨味があるというのか……?」
「うーん。分かんねぇや。家入は煌王会を獲ったら、狗魔を用済みにして手を切るつもりらしいけど。何をエサに奴らを吊ったんだろ。たぶん、シマの半分をやるとでも言ったんじゃねぇかな」
「家入のことだ。耳触りの良い話を並べ立てたに違いない。あとは奴が笛吹と実の親戚であったというのも気になるが、やはり一番は伊東一家の動きだな。家入に何を言われたというのか……まあ、良い。じっくりと探りを入れてみよう。ご苦労であったな。涼平。下がって良いぞ」
「ああ。それじゃ」
その夜、村雨邸の門前は組員たちによる厳戒態勢が敷かれた。こちらに弱みを握られたと思い込んだ家入が証拠物件を奪い取りに来る事態を想定してのことである。村雨組若衆の中には「どうして麻木なんかのために」と実質俺の尻拭いをさせられる仕事内容に不満をこぼす者もいたようだが、組長の命令とあれば淡々と従う。守りを固める兵たちは不眠不休で事にあたると聞いて、俺は少し申し訳ない気持ちになってしまった。
だが、結局のところ家入組の襲撃は無かった。村雨組と懇意にしている情報筋によると、家入行雄は部下を引き連れて当日のうちに所領へ帰ったという。まるで何かに怯えるがごとく、逃げるように横浜を出て行ったとの話である。
もしや、謀反の計画を村雨に知られたと勘違いしたことで恐怖に駆られたか。そう考えた俺だったが、結論としては不正解。
実はこの時、俺も村雨もまったく知らないところで予想だにしない事態が進行しつつあった。横浜のみならず、極道社会全体の構造を大きく変えてしまった歴史的事件。
未曾有の混沌が、すぐそこまで迫っていた。