家入の思惑
俺は、目の前の光景がにわかには信じられなかった。
笛吹慶久。旧横浜大鷲会本部長にして、村雨組が全力で行方を追っている賞金首。自ら死を偽装して組織の内紛を誘発し、主君たる藤島茂夫を殺害、街の覇権を握ろうとした食わせ者である。
そんな男がどうしてここにいるのか。まったくもって理解不能な状況だが、事実としてある以上は受け止めざるを得ない。
「ん? アサギリョウヘイ? 誰だい、そりゃ」
「かつて俺に辛苦の屈辱を与えた、憎き川崎の獅子の倅だよ。大叔父さんも知ってるだろ」
「川崎の獅子って……ああ、中川会にいた麻木光寿のことか! こらまた、随分と懐かしい名が出たもんだな」
「おう。あいつのガキが今、村雨組で小姓をやってんだ。麻木涼平。野郎をブチ殺すまで俺は終わらねぇぞ」
会話を聞く限り、家入とは随分と仲の良い間柄にあるようだ。片方は“慶久”と名前で呼び、もう片方は“大叔父さん”と、世間一般では少し珍しい呼称を用いている。
両者が互いに協力関係にあることは一目瞭然。ただ、家入にとって笛吹の存在は単なる手駒だけに留まらないらしい。どうにも口調に親しみが込められてるのだ。眼差しも完全に穏やか。
(もしかして、こいつら親戚同士か……!?)
思い返してみれば以前、笛吹は気になる言葉を残していた。自分には煌王会の中に頼れる存在がいると。そして、その人物とは系譜上「大叔父」と呼べる関係なのだと。当時の俺は一般常識というものが悉く欠けていたので詳細な定義こそ知らないが、村雨邸での生活を続けていればざっくりとは分かる。
笛吹にとって、家入は祖父あるいは祖母の弟。村雨や菊川が家父長制組織の仕組みゆえに家入を「大叔父」と敬っているのとは違い、謂わば本当の親戚筋というわけだ。
考えてみると納得がいく。利害関係の一致・不一致にかかわらず、親族であれば家入が笛吹に手を差し伸べてやる動機は一応成り立つ。家入行雄という男が時として打算よりも情に流される甘い人物なのかはさておき、少なくとも身内に対する思い入れのようなものは持ち合わせていることだろう。
(家入と笛吹は協力関係にあったのかよ……)
はっきりと見えてきた。家入は完全にクロだ。先ほどのチョウ総督なる人物との接触といい、不可解な和平協定案の提案といい、黒い思惑があるのは明白。村雨組を陥れようと動いている。
とりあえず、ここは写真を撮っておいた。日没まで時間的猶予が無い。ペン型カメラにフラッシュの機能は付いていないため、暗くなってしまえば用を成さなくなるのだ。家入と笛吹。ちょうど横向きで談笑する光景でシャッターを切った。
ただ、問題は彼らの思惑。一体、何を企んでいるのか。これに尽きる。むき出しの鉄筋コンクリートの柱に隠れて様子をうかがっていた俺に、不穏な感情が沼のごとく湧き上がってくる。不気味な野心が露になりつつある家入は勿論、「麻木涼平への復讐」という笛吹の台詞も気になって仕方がない。
見れば、笛吹は途方もない怒りを全身に滾らせている。激情を昂らせた大甥を家入がどうにか窘めようと試みるも、落ち着く気配はまるで皆無。
「いや、まあ……お前の気持ちは分かるけどよ。あんまりムキになっちゃあいけねぇ。ここはひとつ慎重に動いた方がいい。いくら死人のふりしてるったって、キャバクラで銃乱射すんのは流石にやり過ぎじゃねぇか」
「何を今さらビビってんだ。全部、中国人の仕業ってことになってんだろ? 問題なんてありゃしねぇよ。大叔父さんだって、村雨のシノギが削がれるのは美味いはずだぜ?」
「たしかにそうだが、俺だって横浜を灰にしたいわけじゃない。村雨が潰れた後の街を仕切るのは俺たちなんだ。復讐心に逸るのもいいが、少しはその辺のことも考えてくれ。頼むからよ」
「そいつぁ、無理な相談だな。復讐を二の次にはできねぇ。でなけりゃ、わざわざ死人になった意味が無い。これからも暴れさせてもらうぜ。たっぷりとな」
ため息と共に後頭部をかきむしった家入。仕方なしといった調子でタバコに火をつけると、煙を一気に吸い込み、ほんの束の間の余韻に浸る。実にダウナーな動作だった。何を考えていたのか、俺には容易に分かった。
どうやら今日までの笛吹の行動は、家入にとって必ずしも想定の範囲内ではなかったらしい。むしろ、近頃は好ましくない方向へ傾いているものと思われる。
いまの笛吹を突き動かしているのは、麻木光寿に対して沸々と煮えたぎる大きな復讐心。物事を捉える視野はその一点だけに集中し、他の事情がまるで見えていない。協力者としても、大叔父としても、そんな人間の扱いに困るのは想像に難くないだろう。
(家入の思惑通りに動いてるわけじゃない……)
先日の曙町での銃乱射が笛吹による犯行だった件もさることながら、俺にとっては少し意外な事実であった。笛吹は家入の完全なる手駒として、操り人形のごとく暗躍していたものと思っていた。しかし、実際には違う。家入の中で笛吹は制御の効かない、実にリスキーな存在となっているようだった。
「なあ、慶久。ちょっとは動きを控えてくれよ。俺が繕ってやれることにも限度ってもんがあるんだぞ? こないだの一件を狗魔のせいってことにするために、どれだけの手間がかかったと思ってる? 身代わりの中国人を用意するのだって……」
「おお! そいつは済まなかったな! 苦労をかけちまったようだ。けど、中国マフィアだって村雨組のシマを狙ってんだろ。だから、村雨のシマである曙町のキャバにドンパチ仕掛けた。十分に自然な動機だろ。誰も分かっちゃいねぇよ」
「そうじゃなくて。狗魔がどう出るのかって話だよ。やってもいねぇ襲撃を自分たちの仕業ってことにされたんだ。愉快に思うはずが無い。少しは俺の立場も考えてくれ」
「あー、そうだった! そういえば大叔父さん、中国人と組んでるんだったよな。だから、奴らの顔色を窺わなきゃならんと。いやあ~、すっかり忘れてたわ!」
俺が自分の推理を書き直す間も無く、新しい情報が次から次へと出てくる。
何より驚いたのは笛吹の暴れ様だ。市立病院で行方をくらまして以降は動向を掴めなかったが、よもやこれほどまでに暴れまわっていたとは。死人であれば法律上は身元情報が存在しないため、警察の目をすり抜けて派手に動ける。まさに笛吹の最大の強みであったといえよう。
村雨組へ直接攻撃を仕掛けず、その所領にて殺戮行為を繰り広げたのは、おそらく俺たちを這うように追いつめるため。カタギが多数犠牲になる残忍な事件が起きて歓楽街に人が寄り付かなくなろうものなら、そこからのみかじめ料を糧とするヤクザにとっては飯の食い上げ。シマが渇けばシノギが渇く。敵を兵糧攻めにするにはあまりに効果的な戦略だ。
『すぐには終わらせない。じっくりと時間をかけて痛みを与え続け、さんざん苦しめた後でひと思いに倒してやる』
笛吹のサディスティックで卑しい性格が全面的に表れ出ている。極道が抗争に先立って敵の領地を荒らしておく行為、いわゆる“刈田”はよく聞く話であるが、いきなりカタギの殺傷を行うあたりが何とも笛吹らしい。
とはいえ、このまま一般人に死者が出続ければ桜木町や伊勢崎町どころか横浜全体の評判が下がる。そもそも横浜から人が去ってしまうのだ。仮にそうなれば、計画段階の公共事業などは軒並み中断。あらゆる利権が失われかねない。村雨組排除後の横浜を支配しようと目論んでいる家入にとって、それだけは何としても避けたいのだろう。だからこそ、加減を知らぬ大甥の所業を少々迷惑に思っているのである。
驚くべき点は、もうひとつだけあった。
(家入が手を組んでるのは、狗魔……!?)
ヒョンムルではなかったのか。これまた事前の推理と違う。会話から漏れ聞こえてきた情報を正解と位置付けるならば、先ほどホテルで見かけた集団は中国人ということになる。
だとすると、埠頭で遭遇した在日コリアンたちは一体何が目的だったのだろう。タカハシなる武器商人を間に挟んだ家入組の依頼により、村雨組に不意討ちを仕掛けてきたものと思っていたのだが――。
訳が分からず、ただただ混乱する俺。けれども、考えてみれば確かに予兆らしきものがあった。下っ端構成員による母国語の声調が異なっていたのだ。先日、埠頭で激闘を繰り広げたヒョンムルたちの発した言語は破裂音が多め。一方、チョウ総督の手下らしき男がうっかり発した母国語は殆どが拗音。
これらは韓国語と中国語の微妙なイントネーションの違いであり、語学に全くもって疎かったあの頃の俺でも明確に「違う」と直感することができた。また、チョウ総督の発言にはこんなものがあった。
『おい。外ではリーベンの言葉を使えと、いつも言ってるだろ。何度言えば分かるんだよ。馬鹿者が』
実は、この“リーベン”とは中国語で“日本”という意味。要は中国人であることを関係者以外に悟られぬよう、屋外では日本語で話せとチョウ総督は命令していたのだ。
学を積んだ人が聞けば瞬時に気付くのだろうが、兎角無学であった当時は単に聞き流すだけ。そんな自分が日本語以外の言語を嗜むようになるのは、もう少し年齢を重ねた後のこと。話せば長くなってしまうので、また今後にとっておくとしよう。
さて、家入が狗魔と結託しているとの新事実に接した俺であるが、頭の中では次第に詳細な図解が完成しつつあった。一連の抗争にまつわる人物の利害関係が整理されてゆく。
家入は笛吹とは実の親戚関係にあり、笛吹の目論む「麻木涼平への復讐」とやらには若干否定的であるものの、基本的には笛吹の味方として彼を支えるべく動いている。親戚ゆえの真心なのか、利害関係を度外視しているようにも見えた。
一方、狗魔に対してはあくまでもビジネス上の協力相手といった関係のようだ。家入組の組員はにこやかな笑顔を浮かべていたが、片や狗魔側のチョウ総督は家入を然程信頼してはいないようだった。それでも手を切らないのは、きっと関係を続けることでもたらされる利益を多く見込んでのこと。現に組員は「我々と組んでいれば莫大な実入りを手にできる!」などと語っていた。具体的に何を指しているのかは今のところ不明なのだが。
(狗魔と組んで煌王会を乗っ取る気か……!?)
盟約者が狗魔であるならば、その仮説も真実味を帯びてくる。世界各国に支部を置き、日本だけでも千人単位の兵を有する巨大中国マフィア。たかだか自警団規模のヒョンムルとは違い、煌王会とも十分に渡り合える。
ただ、もし仮にそうであった場合、狗魔側にとってのメリットが不明。金か、土地か、あるいは利権か。日本最大のヤクザ組織と正面から事を構えるのだから、かなり大きな報酬が確約されぬことには話に乗れないはず。
何にしたって、現状のままでは考察を深めようにも情報が足りない。求めている答えを聞ける保証は何処にも無いが、今は少しでも手がかりが欲しいところ。
期待と期待を半々ずつ抱え、俺は再び家入と笛吹の会話に聞き耳を立ててみた。
「大叔父さんさぁ、現状で中国人とはどこまで話が進んでんの? 結局のところ、奴らは俺たちの兵隊として動いてくれるわけ?」
「さっき向こうの日本支部のトップ、張覇龍総督と会って詳細を詰めてきたところだ。大体は納得している。村雨を潰した後、奴らには横浜の半分を差し出すことに決まった。手始めに山下町と鶴見を与えてな」
「はあー。随分と気前のいい条件だな。半分もくれてやるなんて。どうせ使い捨ての駒なんだから、そこまで大盤振る舞いする必要なんて無いと思うが。たかだがマフィアごときに」
「いやいや。そういうわけにはいかない。日本ではジリ貧になっちゃあいるが、本場の狗魔は曲がりなりにも大陸最大のマフィアだ。敵にまわせば相当厄介。だから、俺が煌王の七代目に座るまでは、どうにか友好を保っておきたいんだよ。慶久。分かってくれ」
そう笛吹を宥めたものの、家入も家入で大いに不本意なご様子。奴の本音を推測するならば「びた一文、向こうに渡したくはない」。横浜の権益は自分達で独占したいのだろう。ビジネスパートナーに選ぶには、狗魔は少々コストがかかりすぎたらしい。2人とも、不満が顔に表れ出ている。
(だったら、組まなきゃいいのに)
しかしながら、これではっきりした。家入が菊川に提案した和平条約案は真っ赤な出鱈目。数時間前、家入は鶴見に関して「伊東一家に差し出す」と言っていた。そこを狗魔に与えてしまえば折り合いがつかなくなる。子供にでも分かる理屈だ。
やはり、あれは村雨組を油断させるべく家入が仕組んだ罠だったか。和平交渉を始める条件として、村雨組は横浜市内での活動を5日間停止するという項目があった。要は、体の良い武装解除。その5日間で狗魔に攻勢をかけさせ、俺たちを壊滅に追いやる。さしずめ、そんなところか。
早期和平こそ長島会長のご意思であると何度も強調した理由は明白。すべては、村雨組に一刻も早く話を呑ませるため。家入は明後日までに回答を寄越せと言っていたが、察するに狗魔との間で何らかの取り決めがあるのだろう。
明後日といえば1998年9月23日。ちょうど世間で云う秋彼岸の中日にあたる暦だ。俗には「秋分の日」などと呼ばれ、いちおう国民の祝日とされている。何故、家入たちがそこを期日としたのかはいまいち不明なのだが。
狗魔と組んで村雨組を潰し、横浜の利権を確保する。そして財力を蓄えた後で煌王会の現体制に謀反を起こし、長島を倒して自身が跡目に就く――。
家入の最終目標は煌王会七代目会長の椅子。そのための基盤固めこそが横浜奪取であり、そんな大叔父の陰謀計画に笛吹は嬉々として乗っかっている。「麻木涼平への復讐」という、自身の大願を成就させるため。互いに互いを利用し合っていた。
ただ、一方で疑問は残っている。もしも村雨がニセの和平案を受け入れない場合、どうするつもりなのか。
そもそも和平案自体が架空の産物であるため、長島会長の上意は存在しない。たとえ話を蹴って継戦を選んだところで、何ら問題は生じないのである。むしろ、咎めを受けるのは上意を捏造した家入の方。会長の名を騙った責を問われ、かなり厳しい処分を受けるはず。
しかし、これについては少し意外な対策法が用意されていた。柱の陰から注視する俺の存在にはまるで気づかず、家入が懐から取り出したのは何やら長方形の物体。
「こいつには村雨組の菊川っていう若頭の声が吹き込んである。もし、奴らが俺たちの意に沿わねぇ動きをした時には、こいつを加工して音声を作る。村雨組が六代目のご意思に背いて勝手に戦争を終わらせようとしてる、っていう“証拠”の音声をな」
銀色のカセットテープだった。
話の内容からして数時間前に村雨邸を訪れた際、密かに録音していたものらしい。思えば菊川との会談時、家入には妙な動作があったような気がする。背広の内側に何度も右手を突っ込み、もぞもぞと擦るような動き。さらに言えば、カチッという音も数回聞こえた。特に気にも留めず、聞き流していたが、まさかあれはレコーダーの録音開始スイッチを押す音だったとは。
完全に想定外。とんだ不覚だ。気づけなかった己の観察力不足が悔やまれてならない。そうして歯噛みする俺を嘲笑うかのごとく、家入の話はなおも続いた。
「俺の傘下には芸能プロもいてな。豊橋にスタジオを持ってるんだ。そこにはミキサーやら何やら色んな機材があるから、テープに吹き込まれた音声を切り貼りするなんざ朝飯前だ。2日もありゃあ十分だろ。村雨組の菊川が抗争を止めたいって話を俺に持ちかけた“証拠”をこしらえるにはなぁ」
いくら偽造されたものにせよ、具体的な物証は仮説を事実に変える。無茶苦茶な与太話であろうと忽ち信憑性が生まれてしまう。
今回の横浜をめぐる争乱に関して、長島会長は村雨組に何としても抗争を勝ち抜いて欲しいと願っている。選ぶべき道は継戦の一択。そんな会長の上意を無視し、村雨組は勝手に停戦をはかろうとした――。
そうした既成事実が音声テープの改変によって作り上げられてしまうのだ。加工のクオリティーがどの程度かは見当もつかないが、おそらくは前述の和平条約を村雨の発案ということにし、そのための仲介を菊川が家入に頼んだように見せかけるのだろう。
家入は煌王会本家の幹部で、片や村雨は三次団体の組長に過ぎない。主張が食い違った場合、受け容れられるのは言うまでもなく前者である。おまけに口が達者な家入のこと。弁舌巧みに六代目を言いくるめ、村雨の釈明はけんもほろろに無視されてしまうものと思われる。
煌王会において会長の上意に背くことは重罪。偽造テープが提出されれば、村雨組は間違いなく取り潰しの沙汰に遭う。中国マフィアと一戦交える前に終わってしまう。そんな狡猾な罠を家入は万が一の時の保険として用意していたのだった。
一杯食わされたというか、完全にしてやられたというか。俺は思わず拳を力強く握りしめた。危うく目の前の柱を蹴りそうになったが、寸でのところで堪える。不用意に音を立ててはいけないのだ。潜伏を悟られてしまう。
(クソったれが……)
笛吹はといえば、笑いで腹をよじっていた。
「ははっ! さすがは大叔父さん! 上手いこと考えたもんだなあ! そうなったらそうなったで、わざわざ中国人に頼るまでもなく村雨はおしまいってわけか! なかなか傑作だ。けど、大丈夫なのか? そんな重要なカセットテープを迂闊に持ち歩いて。早く安全なところにしまった方が良い気がするけど?」
「ああ。そうだな。もちろん、良かあねぇ。だが生憎、家入組の連中には抜けてる奴が多くてな。預かり物をうっかり紛失するなんてこたぁ日常茶飯事だ。電車の網棚に鞄ごと忘れるなんてのもしょっちゅうある。だから、俺が肌身離さず持ってるのさ。そっちの方が、よっぽど安全だからな」
「なるほど。まあ、村雨の始末は大叔父さんに任せるけどさあ。麻木は俺にやらせてもらうぜ? 組が潰れようと関係ねぇ。時間をかけて、たっぷりと痛めつけてからトドメを刺してやる。この俺の手で。いいな?」
「好きにすると良い。その麻木って奴に関しては俺の知ったことじゃないからな。大体、お前がどうしてそんなに執着してるのかも分からん。単なる子供ひとり、やろうと思えばいつだってやれるだろうに。復讐心ってのは面倒なもんだよ」
思ってみれば、たしかに不思議なものだ。何故に笛吹慶久はここまで俺を恨み、猛烈なる殺意を向けてくるのだろう。
我が父、麻木光寿が笛吹にとって憎むべき仇敵であることは理解できる。おそらくは親父の存命中に何かしらの遺恨が生じたのだろう。ヤクザ渡世に身を置く限り、そういった憎しみの連鎖からは逃れられない。憎み、憎まれ、殺し、殺されるのが極道社会の常だ。
されど、俺として奴に恨まれる謂れは無い。親父は既に故人。憎き相手は鬼籍に入っているため、燻ぶらせた憤怒を晴らすにはその息子を殺すしかないというわけか。あるいは、ただ単純に麻木涼平という存在が気に入らないだけなのか。
どちらにせよ、いい迷惑である。身に覚えの無い因縁で縛られるなどまっぴら御免。子が親の業と向き合い、清算する必要は何処にも存在しないはずだ。音を立てぬよう息をひそめながら、俺はまっすぐ笛吹を睨みつける。
過去の話など、大して関係の無いこと。ただ、奴がこちらに敵対心を燃やしてくるというのなら、こちらもひとりの侠として全力で応じてやるまで。
威勢よく並べた言葉の通り、積年の怒りと恨みを全てぶつけてくれば良い。俺は避けたりしない。だが、殊さらに同情したりもしない。あくまでも正面から受け止め、取るに足らない下らぬ些末事として片づけてやる。ただ、それだけだ。
さながら、笛吹慶久の宣戦布告を改めて受け取った心地であった。もちろん、身を隠しているので奴は俺の存在を知らない。すっかり陽も落ちて暗くなった廃墟の宵闇の中、微妙な空気感が静寂を支配していた。
「……」
すると、何を思ったのか。家入の言葉を受けて暫く黙っていた笛吹がゆっくりと口を開く。先ほどよりも、声の調子は低め。募る激情を抑え込むように語り始めた。
「……人間ってのは嫌な生き物でな。受けた恩義や施しは案外早々と忘れちまうのに、屈辱や仕打ちは永遠に覚えてるもんなのさ……川崎の獅子にだって、色々と世話になった部分はある。大鷲会で居場所を見つけられなかった駆け出しの頃の俺に、処世術ってものをイチから叩き込んでくれたのは他でも無ぇ。麻木光寿だ。あの男には業界のイロハを沢山、教えてもらった。けどなぁ……」
ひと呼吸の間を挟んだ後、笛吹は吐き捨てるように続ける。
「……麻木は俺から、全てを奪いやがったんだ!金も、手柄も、名誉も、何もかもあいつに奪われた! 貪るように全てを奪い尽くして、残されたのは屈辱と癒えない傷だけだ! こんなの、忘れられるわけねぇだろ……!!」
喉の奥から捻り出した、静かでありつつも荒ぶった怨念の言葉。決して大音声を放ったわけでもないのに、思わず鳥肌が立つほどに凄まじい迫力だった。
暗がりの中でよく見えなかったが、たぶん笛吹の顔は般若面のごとく醜く歪んでいたと思う。いや、きっと歪んでいたはずだ。奴が醸し出した凍てつく空気感の中に、俺は復讐に生きる鬼の化身を観た気がした。
「大叔父さんも知ってると思うが、麻木光寿はもうこの世にはいねぇ……だが、息子の涼平が残ってる。あのガキをブチ殺してこそ、俺は過去にケリをつけられるんだ……」
「つまり、殺せなかった親父の代わりに息子の方を殺すってことか? そいつが、お前さんが麻木涼平って奴に執着してる理由なのかい?」
「いや。たしかにそれもあるが、厳密にいえばそうじゃない……俺にとっては麻木の息子も仇だ。そもそもあのガキのせいで俺は屈辱を背負う羽目になったんだ……だから、必ず殺してやる。たっぷりと時間をかけて」
「ほうほう。なるほど」
黙って話を聞いていた家入は、大甥の様子が落ち着くのを見ると再びポケットから煙草を取り出し、ぶっきらぼうに火をつける。そして暫しの煙の余韻に浸った後、笛吹の方を向いて淡々とした口調で言葉をかけたのだった。
「難しいよなあ。過去にケリをつけるってのは。復讐を遂げることで気が晴れるってんなら、俺は応援するし力を貸すぞ? でも、やっぱり人間は前を向かなきゃ生きていけねぇ。俺としては、どうか前を向いて渡世を生きてって欲しいとは思うぜ? お前はまだ31歳だ。これから先、ヤクザ人生は続いてくわけだし」
「何だよ。取って付けたようなアドバイスだな」
「あ、いや。そういうわけじゃねぇんだ。ただ、何と言えば良いのか。俺もこう見えて、若い頃は色々あったからよ。ケリのつけられねぇ過去なんて山ほどあるわけだ。その経験を踏まえてだな……」
「そうか。ありがとな。ま、大叔父さんには感謝してるよ。こうやって機会をくれたわけだし。他にも、あれこれ用意してくれたんだってな。別人になるための戸籍とか、腕利きの闇医者とか。恩に着るぜ」
さてさて。これから俺はどう動けば良いのやら。話の内容から察するに、笛吹はいずれ家入の手引きで生きた人間へ戻る手筈らしい。ただ、その前に死人として最後の大暴れをするとかしないとか。標的は村雨組と、俺。奴にとって、もはや前者はついでのようなものだろう。
実に厄介な展開となってしまった。死人ゆえ何をしでかすか分からない笛吹もさることながら、家入の企てた計略も恐ろしい。狡猾な本家幹部が村雨組に突きつけた選択肢は2つ。
抗争の停止か、もしくは継続か。
どちらの道を行こうとも俺たちには災難が待ち受けている。誘導に乗せられず継戦を選んだところで、家入が長島会長に口八丁で出鱈目を吹き込めば同じこと。会長の上意を無視した咎めを受け、村雨組は煌王会を追放される。直系昇格どころの話ではなくなってしまうのだ。
長島会長の意思は、あくまでも抗争継続。横浜を完全制圧することを期待されている。無論、領地の分割などはもっての外。背くことは断じてあってはならない。
とすれば、ここで俺がとるべき行動はひとつ。論理は実に単純明快。相手が奸計を弄するというのなら、その奸計を無効化してやればいい。起案はわりと早かった。
(いっちょ、やってやるか……)
家入を襲ってカセットテープを奪う。笛吹と別れて宿に戻るまでの帰路、単独になった頃合いを狙えば良いだろう。ちょうど日没を迎えて外は真っ暗。背後から飛び掛かって首を絞めれば、きっと上手くいく。
カセットテープだけでなく奴の財布も一緒に拝借して、追い剥ぎの仕業にでも見せかければ良い。仮に素性が露見したとしても、現状の俺は村雨組の人間ではない。ゆえに立場上の問題は生じないはず。
そうと決まれば、あとは心の準備を整えておくのみ。ひとまず静かに深呼吸をして体をほぐす。そして再び柱の陰に隠れ、2人の密談が終わるのを待った。
「……」
されど、なかなか時は来ない。あれからというもの家入と笛吹の話は本筋を外れ、下らぬ雑談に花が咲き始めたのである。家入組が豊橋でケツを持っているラーメン屋が美味いだの、笛吹の潜伏生活が退屈だの、聞こえてくるのはどうでもいい話題ばかり。俺は自然と苛立ちがこみ上げてきてしまった。
時間というものは実に奇妙で、ただ何もせずじっとしていれば経過が異様に遅い。俺自身、元より「待つ」行為が苦手だったのもある。全身が痒く感じられて仕方がなかった。家入と笛吹の日常談義はやけに盛り上がり、ずいぶんと長く話し込んでいたと思う。一体、どれくらい時が経ったか。腕時計を嵌めて来なかったことが悔やまれる。
(ったく……どんだけ待たせんだよ……)
立っているのも辛くなってきた。このままでは足が棒になってしまいそうだったので、音を立てぬよう、慎重にしゃがみ込む。そして再び前方に意識を戻すと、笛吹が家入にこんな話題を振っていた。
「ところで大叔父さん。前から気になってたんだけどさぁ。伊東一家は使えんのか? 横浜に攻め込むとか言っといて、ぜんぜん攻めてこねぇじゃん。その辺、どうなってんの?」
「ああ。なんか中川会の方針が変わったみたいでよ。横浜じゃなくて、長野の方へ行くことになったらしい。相手は古牧組。信州の名門所帯で、煌王の直系でもある」
「はあ!? じゃあ、伊東が横浜に攻め込んでくるって話は白紙に戻ったってことか!? なんだよ~、期待してたのに。狗魔と伊東で村雨組を挟み撃ちするもんだと思ってた」
「そこは仕方ないわな。伊東一家にとって、もともと煌王のシマに攻め込むのは罰ゲームみてぇなもんだったんだ。少しでも弱い相手を選ぶのは当然よ。ましてや残虐魔王なんかと戦いたかねぇさ」
何を話しているのか、俺にはすぐ分かった。どうやら中川会直参伊東一家による横浜侵攻計画が取りやめになったらしい。
大まかな概要は以前に聞いた話の通り。煌王会との内通を疑われた伊東一家の総長は、中川会の会長に潔白を武功にて証明するよう要求された。「煌王会と通じていないなら、煌王会のシマをひとつ奪ってこい」と命じられたのである。
ところが、最近になって伊東一家は侵攻先を横浜から松本へ変えたというのだ。かねてより横浜を狙っていたにもかかわらず、突然の方針転換。家入曰く、村雨組と戦う準備が整わなかったとのこと。中川会の会長も既に承諾済みなのだとか。
(マジかよ……)
まさか横浜に来ないとは。俺自身、その時初めて聞かされた事実。だいぶ前から伊東の侵攻を警戒していたので、家入の話が真実であれば肩の荷が下りる心地がする。来ないなら来ないに越したことは無い。
一方、連中を村雨組への当て馬として利用できると踏んでいたのか、笛吹の落胆ぶりは著しかった。しかしながら、家入には何やら秘策があるようだ。
「気を落とすなよ、慶久。確かに伊東一家が攻めてくるって話は立ち消えになった。でも、いずれ連中は横浜にやって来る。必ずな」
「長野の後に横浜を攻めるってことか?」
「いや、長野と横浜。伊東は2つのドンパチを一緒にやるんだよ。もしかすると、横浜の方を先にするかもしれねぇがな。ちょっと俺なりに手を打たせてもらったんだ。伊東が村雨と喧嘩したくなるような手を……クククッ」
不敵な笑みを浮かべた大叔父の姿に、笛吹は首を傾げる。
「えっ? 何だよ、それ。村雨とドンパチやりたくなるようなって。どんな手を打ったっていうんだ?」
「そいつぁ、蓋を開けてからのお楽しみって奴だ。楽しみに見とくといい。遠からずデカい花火が上がるぜ。この横浜で、どーんっとな」
「大叔父さん。勿体ぶらねぇで、教えてくれよ。どんな手を使ったんだ? どうやって伊東を横浜へ?」
「秘密だ」
手の内を明かすようせがむ大甥の懇願にも、とにかく笑ってはぐらかし続ける家入。ニタッと細まった目元と口角の上がり方が最高に気持ち悪かった。よからぬ内容であることは容易に察しが付く。一体、今度はどんな奸計を弄したというのか。
「おいおい! 教えてくれたっていいだろ~! 俺と大叔父さんの仲じゃないか! 頼むって~!」
「はあ。しょうがねぇなあ。そんなにせっつかれたんじゃあ、教えないわけにもいかねぇか。分かったよ。教えてやる。ただし、聞いて驚くなよ? あと、絶対に秘密にするんだぞ?」
「ああ。もちろん」
「実はな……」
その瞬間、家入は声のボリュームを落として笛吹に近づく。そして両手で筒をつくると耳元に寄って何やらヒソヒソ囁く。これは、いわゆる“内緒話”というやつだ。ゆえに俺は内容を聞き取ることができなかった。
(えっ? 何を話してんだ……?)
柱の陰からそわそわする俺。とても気になるが、4メートルほど離れた位置からでは聴取不可能。他に誰もいない廃墟同然の空間とはいえ、吹き込む夜風や外の雑音にも邪魔されてしまう。不本意ではあるが諦める他なかった。
その代わり、話を聞いた笛吹の反応は顔がちょうど月明かりに照らされていたせいか、はっきりと視認することができる。目を丸くした間抜けな表情に次いで表れたのは、少し大袈裟気味なリアクションの台詞であった。
「……ええっ!? そんなことやったのかよ!?」
「しーっ。声が大きい。あんまり騒ぐんじゃねぇよ。絶対に秘密だからな。くれぐれも頼むぞ」
「ああ。分かってるって。いやあ~、それにしても大叔父さん。あんたもなかなかゲスだよな。どんだけエグいことするんだよ。変態かよ。身内ながら恐ろしいわ」
「へへっ。まあ、伊東一家の親分さんにゃあ是が非でも横浜で暴れてもらわなきゃならねぇからよ。これくらいのことはやって当然だわな。あの頑固親分に、選択の余地は無くなったはずだぜ」
ますます気になる。家入から話を聞いた笛吹は苦笑していた。どちらかといえば、引いてしまったような顔。奴自身も相当なサディストかつ変態だと思うのだが、そんな笛吹を閉口させるほどの策があるとは。自慢げに話す家入がさらに気持ち悪く見えてくるのに、大して時間はかからなかった。
何らかの弱みを家入に握られてしまったのか。詳細は皆目見当もつかない。一度は戦備不足を理由に村雨組との対決を断念している、伊東一家の総長。そんな慎重かつ思慮深い人物が再び戦争に傾いてしまったのだ。余程の事情を抱えているとしか思えない。
いずれにしろ、伊東一家との戦いは避けられないらしい。どうにか事が落ち着いてほしいと願ったが、期待は泡と消えた。狗魔と伊東一家、家入に嗾けられた2つの組織がこれから挟み撃ちを仕掛けてくる。そこに笛吹一党とヒョンムルが加わる四面楚歌の様相。
やはり、俺たちを取り巻く状況は変わらない。この泥沼をどうにか抜け出さなければ。兎にも角にも、まずは家入から例のカセットテープを奪い取る必要がある。このままでは罠に嵌まる。奴の思惑は、村雨組から横浜を横取りすることなのだ。
(早くしねぇと……まずいことになる……)
その時だった。俺に、予想外の出来事が起きた。
――ピピッ! ピピッ! ピピッ!
突如、その場に大きな音が響き渡る。不意に聴覚を伝った電子音。静寂は一瞬で破られた。何の音か。まったく心当たりが無い。ただ、音は己のすぐ近くから発せられている。俺はひどく驚愕した。
「っ!?」
無論、驚いたのは俺だけではない。柱を挟んで前方にいる家入と笛吹も、突然鳴り響いた爆音に不意を突かれてしまったようだ。互いに顔を見合わせ、キョロキョロとせわしなく周囲を見渡しているではないか。
「な、何の音だ!? こいつは何処から……!?」
「わからない。もしかしたら、近いかも……」
――ピピッ! ピピッ! ピピッ!
「どこから鳴ってやがる? 慶久! お前の携帯か? 電源は切っとけってあれほど言っといたろ!」
「俺じゃない。俺、そもそも携帯なんて持ってねぇし。っていうか、大叔父さんこそ。着信が来てるんじゃないの」
「馬鹿野郎! 俺の着メロはこんなに味気なくねぇよ。っていうか、俺でもお前でもねぇってこたぁ、まさか……? ここに誰かいるのか!?」
「たしかに。音は近いぞ……」
――ピピッ! ピピッ! ピピッ!
絶えず鳴り続ける電子音。ドタバタ喜劇さながらのやり取りを繰り広げる家入と笛吹の2人はさておき、一方の俺は非常にまずい事実に気付いていた。無機質な叫びを続ける、件の電子音。その発信源と正体に気付いてしまったのだ。
(……マジか)
音が最も大きく聞こえる場所は、俺のズボンの後ろポケット。俺が村雨との連絡用に持ち歩いていた携帯型無線機が、どういうわけか五月蠅く鳴り響いていた。
無線機と云えども簡易的な代物なので、電波の受信可能範囲は狭い。対象者と同じ建物に居ないと使いものにならないほど。ゆえにここでは本来、鳴らないはず。そもそも鳴らす人間がいないのだ。
――ピピッ! ピピッ! ピピッ!
だが、呼び出し音はこうして鳴っている。一体、何故だろうか。機器の誤作動か。それとも先ほどしゃがみ込んだ際に何らかのスイッチを入れてしまい、ブザーが響き渡るに至ったのか。どちらにしたって、使う予定も無い無線機を持ってきたのは間違いだった。村雨への連絡が必要な折には、どこかの公衆電話を使えば済む話だったのに。
(いや、でも、持ってきた記憶は……!?)
しかし、今は原因究明をしている時ではない。突発的な事態で動揺していた気持ちが次第に落ち着いてくると、自分の置かれた状況のまずさに気付く。静かな空間の中で、何の前触れも無く鳴り響いた大きな音。危機はすぐそこまで迫っていた。
「おい、そこに誰かいるのか?」
「そこに隠れてるってことは。さっきから俺たちの話を聞いてやがったってことだよな! その柱の陰に隠れて。さっさと出てきやがれ!」
どうやら、気付かれてしまったらしい。恐る恐る前方に目を向けると、家入と笛吹は両名ともこちらを真っ直ぐに睨みつけている。音の聞こえる方角から場所を察知したようだ。ああ、そういえば先ほどから鳴りっぱなしだった。俺は慌てて端末をいじって、憎たらしい電子音を止める。
だが、もはや焼け石に水。視線を戻すと、笛吹はこちらに銃を構えていた。
「おい! さっさと出てきやがれってんだよ! 全身を粉々に砕かれてぇのか? ああ?」
口径の大きなオートマチック拳銃。撃鉄は下ろされ、トリガーには指がかけられていて何時でも発射が可能な状態にある。言うまでもなく、銃口が向いているのは俺の方。月明かりに照らされているせいか、恐ろしいほどよく見えた。
(あっ。これ、やべぇわ……!)
荒波のように押し寄せてくる緊迫感。ひんやりと冷たい初秋の夜風が、すっかり熱くなった俺の頬を包み込んでいた。
藤島を尾行した時に続いて、またもや尾行失敗……。
今度ばかりは絶体絶命。涼平は危機をどう乗り切るか?
次回、お見逃しなく。