貸元たる条件
残暑が少し落ち着いてくるにつれて、村雨組を取り巻く状況はみるみる悪化していった。
まず最初に火の手が上がったのは野毛。相電キグナスでの銃撃事件から3日後、野毛町2丁目の雑居ビルにトラックが突っ込み、炎上。瞬く間に建物全体を焼き尽くす大火災となった。ダンプを運転していたのは若い男で、車内に数本の酒瓶があったことから、鎮火後は警察に身柄を拘束された。
【横浜でビル火災 飲酒運転のトラック突っ込む】
【白昼堂々の大惨事 5人死亡 7人重軽傷】
【酩酊ドライバーの蛮行 またしても】
【進まぬ法改正「飲んだら乗るな」徹底されず 】
新聞の一面にはそんな見出しが躍り、論調は一気に過熱化。この出来事について報じるメディアのコメンテーターたちは皆口々に飲酒運転という行為の非道さを糾弾し、依然として罰則強化に踏み切れない政治家の不作為をなじった。
酒酔い運転の運転者によって引き起こされた、痛ましい交通事故。この惨劇を目にした誰もがそう思ったことだろう。だが、実際には少し違う。報道では殆ど扱われなかった事実があるのだ。
それは、焼け落ちたビルが村雨組の所有だったということ。
かつて大鷲会の領地であった野毛は藤島の死後、村雨組領に編入された。街の新たな支配者となった村雨組長は、この地で商売を営む事業者たちに服属を要求。自らに従う証として土地と建物の権利を供出し、みかじめ料を納めるよう迫ったのである。
カタギ連中は当初こそ難色を示すも、やがて残虐魔王の凄みに恐れをなして次々と降伏。そうして奪い取った権利証を楯に、これから新しいシマの開拓に乗り出していかんと決意を固めていた矢先の出来事であった。
「こりゃあ、とんだ先制攻撃だぜ。狗魔の連中に先手を打たれたんだよ。あいつらの仕業に決まっている。もう、他には考えられねぇ」
「村雨組への宣戦布告ってわけか……」
屋敷の中がため息で満ちあふれてゆく。実際、逮捕されたのは陳邦広なる中国籍の男で、少し前まで中華街で働いていたという人物。横浜中華街は狗魔の巣窟と化しているらしく、無関係とは思えなかった。
「いや、でもニュースで観たけどよ。その陳って野郎は取り調べで容疑を認めてるって話だろ? 単純に仕事のストレスから飲んじまったと。警察だって、ただの飲酒運転と思ってるみてぇだし」
「そんなのは前もって供述の仕方を練習しとけば、何とでもなるさ。俺たちにとって大事なのは『中華街の人間がシマで事故を起こした』こと。口実としちゃあ十分じゃねぇか」
「冗談だろ? このまま抗争になっちまうのか? 狗魔と。たしかに陳は中華街の料理屋へ食材を卸す業者だったって話だけど、それだけで中国マフィアの手先と決めつけんのは……」
「マフィアのメンバーは俺らと違って、殆どの奴は正業を持ってるからな。そいつがたまたまトラックドライバーを表の顔にしてたってだけだろ。何にしたって、こないだ組長が襲われたんだ。ここで報復をやらなきゃ組の看板に傷がつく。遅かれ早かれ、狗魔とは戦争になるところだった。ちょっとばかし早まったと思えばいい」
戦端をひらくことに前向きな者と、そうでない者。今後の対処方針をめぐる組員たちの反応は、完全に真っ二つに割れていた。それもそのはず。狗魔という組織は俺の想像以上に規模が大きかったのだ。
兵数、6千人。
教えてくれた菊川の話によると、これでも日本だけの数字であるという。中国福建省を根拠地とし、アメリカやイギリス、欧州諸国、遠い所ではブラジルにまで構成員を送り込んでいるのだとか。
「奴らの歴史は古くてね。辛亥革命の直前くらいに産声を上げて、国の混乱に乗じて瞬く間に勢力を全土へ拡大してった。第二次大戦が終わる頃には、既に海外にも進出していたみたいだよ。で、その日本支部が横浜にあるってわけ」
菊川曰くチャイナタウン、つまりは中華街のある街には必ず狗魔が勢力を張っているらしい。とすれば、横浜の他に思い浮かぶのは神戸と長崎。地理には殆ど明るくない俺だが、いずれも幼少の頃に家族旅行で1度訪れている街だったのだ。
話を横浜に戻すと、狗魔による突然の宣戦布告は大鷲会の解散と絡んでいた。つい先月まで中華街の周囲を仕切っていた大鷲会が事実上消滅したことで、一気に勢いづいたのだという。
「藤島茂夫は村雨組だけじゃなくて狗魔やヒョンムルみたいな海外組織の動きにも目を光らせていたからね。おかげで中国人たちは今までずっと中華街に押し込められてたようなものだった。だから相当、鬱憤が溜まってるんじゃないかな。くれぐれも気をつけることだ」
「言われなくても分かってるよ。俺らがノコノコ中華街へ近づこうもんなら、襲われるかもしれねぇってことくらいな……あれ? もしかして……その狗魔とかいう連中も、俺の父さんを恨んでたりするのか?」
「うーん、どうかな。川崎の獅子が中国人と戦争した話は聞かなかったから、さほど深刻な因縁は無いと思うよ……けど、うちの組長にはある。横浜へ来る前、いろいろと揉めたもんでさ……まあ、話せば長くなるから、あんまりうまく言えないんだけど。気を引き締めるに越したことは無いよ。一筋縄で勝てる相手じゃないから」
「……ああ。そうするよ」
やれやれといった調子で苦笑いを浮かべる俺。菊川と別れた後、雪崩のような脱力感が押し寄せてきた。一瞬だけホッとしかけたのも束の間、よもや村雨に対して格段の遺恨を抱えている組織だったとは。途中でお茶を濁した若頭の口ぶりからして、何度か手痛い目に遭わされた経験があるのだろう。容易に察しがついた。
思えば、あの時の村雨の様子には少しばかり違和感があった気がする。女殺し屋から「狗魔」の2文字を聞いた瞬間、明らかなる動揺の色が垣間見えたのだ。
普段はきわめて冷静沈着、平時・戦時を問わず如何なる事態を前にしても常にどっしりと構えている男が、刹那的といえど落ち着きを欠いた。それだけで脅威の重大さが分かる。かつて中国人との間に何があったのかは知らないが、危機が迫っていることは明白だ。
(厄介な敵のご登場ってわけか……)
どうやら、気の抜けない日々はもうしばらく続きそうだ。これからを思うと不安ばかりがこみ上げてくる。俺に出来る働きといえば、組長の命令の赴くまま暴れるのみ。いつ出撃の指令が下っても困らぬよう身体を鍛えつつ、状況の打開を微力ながら神頼みするしかなかった。
だが、よからぬ出来事は続く。暗殺未遂騒動から4日後、村雨の元にさらなる衝撃の報せが飛び込んできた。
「曙町が襲われただと!? 」
「え、ええ。なんでも、アメリカ製のサブマシンガンをぶっ放したらしいです。死人もけっこう出たって話で……」
次に起きてしまったのは、なんとテロ事件。組が新たにシマとして獲得した曙町のキャバクラに軽機関銃を携えた男が現れ、およそ30秒間にわたって乱射。店内にいた嬢や黒服、それから客の計7名を射殺し、11名に重傷を負わせたのである。
「撃った者の行方は? まさか、取り逃がしたのではあるまいな!?」
「も、申し訳ございません! 店に組の人間がいなかったもので……それに、その店には防犯カメラが無かったんです。警察も犯人を追ってますが、果たしてどこまで尻尾を掴めるか……」
「愚か者め! 何としても捕縛せよ! 当局より早く、我らの手で身柄を押さえるのだ。これ以上、敵に後れをとることは許さんぞ。分かっておろうな?」
「しょ、承知いたしました!」
檄を飛ばされ、若衆たちは必死で犯人確保に動き出す。いつになく厳しい言葉を放った組長だが、無理もない。
相電キグナスでの一件以来、カタギが巻き添えを食らう事案が立て続けに発生している。曲がりなりにも「街の用心棒」としてみかじめ料を取っている建前上、このまま第四、第五の惨劇が繰り返されては組の評判に傷がついてしまう。
また、暴追運動の動きも気になるところ。暴追のみならず、市民運動は時として大きな世論を形成する。そんな大衆の声に、よくもわるくも流されがちなのが公僕組織。現状でこそ賄賂で手懐けている警察も、世論においてヤクザ排除の機運が高まったとなれば話は別。そのうち本格的な弾圧に乗り出してくるはず。
9月時点で、その年に起きた暴力団絡みの抗争事件に巻き込まれて死んだ市民の数は30人を突破。横浜新聞の報道によると、これは過去最高の数字らしい。組員たちも頭を抱えていた。
「うーん。そろそろヤバいんじゃねぇの。こないだの大鷲会の内輪揉めで流れ弾に当たった数も含まれてるみてぇだけど、こんなにカタギを死なせちまうなんてよ」
「そういやあ先週の暴追デモ、和泉義孝が来てたぜ。あの野郎、どうも選挙に立候補する気らしい。『いまの政治が暴力団を野放しにするなら、私が代わって彼らを撃滅する!』とか言ってやがった」
「マジかよ。いま出たら、けっこう票が集まっちまうぞ? 下手すりゃ当選するかもしれねぇ。市長選って、たしか11月だったよな?」
「いや。和泉が目指してるのは来年の知事選だ。県知事は県警の指揮権を持ってて、権限が絶大だからな。万が一あいつが知事になったら、俺たちは終わりよ。一斉捜査でぶっ潰されちまう。ここは是が非でも、現職の岡沢に勝ってもらうしか道は無い」
暴力団排除を声高に訴える人権派の弁護士が、神奈川県知事選への出馬を表明したとの話題。その人物はこれまで何度も暴追運動のデモ活動に足を運んでおり、市民からの人気はすこぶる高い。過去には組関係者が起こした事件の賠償請求の原告代理人を務めていることから、村雨とも因縁があるようだ。
「ただの弁護士なら、どうとでもなるんだけどな。奴の父は元総理で現政権与党にも大きな影響力を持ってる大御所だ。迂闊に殺せば国が黙ってない。ら、うちの組長も直接手が出せずにいるんだと思う」
「ああ。和泉の背後には、首相経験者の親父と現政権与党がいる。きっと知事選に出たら与党の全面的なバックアップを受けて、ほんの余裕で勝っちまうんだろうなあ」
「そうなったら俺たち、お先真っ暗じゃん。ただでさえシノギの雲行きが怪しくなり始めてるってのに。あー! 嫌だねぇ! それもこれも全て、麻木がいるせいだ。あいつが村雨組に来てから、何もかもが上手くいかなくなった。とんだ疫病神だよ」
「麻木も麻木で、親父はあの伝説の川崎の獅子なんだろ? まったく。どうして嫌な奴ってのは、どいつもこいつも親の七光りを使うんだか……」
舌打ち混じりに吐き捨て、去って行く組員たち。最後の最後で俺に矛先が向いたのはきわめて心外だが、彼らが愚痴をこぼす心情自体は理解できる。暴追運動の盛り上がりもさることながら、〇〇町の火災に端を発する一連の抗争事案は、その時点で村雨組の懐具合に大きく影響を及ぼしていたのだ。
【横浜で銃撃事件相次ぐ 暴力団抗争か】
【市民悲痛「巻き込まないで」ヤクザはいらない】
こうした見出しから始まる強烈な記事で、新聞が横浜の著しい治安悪化を書き立てた所為か。市内の歓楽街に繰り出す客の数は以前より確実に減少へ傾いている。事件のあった〇〇町や〇〇町だけではなく、桜木町や関内といった本領所ですら閑古鳥が鳴く有り様。
皆、危険な目に遭うことを恐れているのだろう。街を取り巻く環境の変化を考えれば自然な流れだ。
けれども、支配地からの搾取が収入源の半分を占める極道にとっては由々しき事態。みかじめ料を安定して取り続けるためにはシマが活気にあふれていることが必須で、そうでなくては飯の食い上げ。もはや冷静に状況を注視していられる局面ではない。抗争に勝ち抜くためにも、街の客足をすぐにでも回復させなければならなかった。
(でも、その抗争が原因なんだよな……)
実に悩ましい問題である。包囲網のごとく連なった敵を早期に片づけて街に活気を戻すのが理想的な解決方法だが、それを成すためには軍資金という形で沢山の金が要るから始末に負えない。
ちなみに村雨組は人身売買や娼館経営、麻薬取引など、みかじめ料に依らぬシノギも一応有してはいるが、全体を賄える額には未だ至らず。戦いに完全勝利できるだけの安定した軍資金を確保するとなると、結局は歓楽街を当てにするしかなかった。
カタギが犠牲になる凄惨な事件を敢えて起こせば、街に人が寄り付かなくなって村雨組は経済的に干上がる――。
誰が絵図を描いたのかは知らないが、まんまとしてやられてしまった。明らかにピンポイントで狙われている。前述の事件で村雨組に死傷者が出ていないのも、おそらくは敵の計算の内。縄張りの中で火の手を上げ続けて挑発し、村雨組が“報復”として全面戦争の口火を切るよう仕向けたいのだろう。
先に開戦に踏み切ったのは村雨組であり、あくまで自分達は正当防衛として応じただけ。そんな形で、敵は俺たちを攻め滅ぼす大義名分を得ようとしているものと思われる。
狗魔があの女殺し屋を遣わせた理由も、何となく察しが付く。村雨組長が討たれ、抗争に発展した暁には「頭のおかしい少女による勝手な犯行であり、自分達とは何の関係も無い。にもかかわらず村雨組は中華街へ攻め込んできた!」とでも言い張る段取りだったのか。最も、彼女が土壇場にて雇い主の名を明かしてしまったことで連中の目論見はひとまず崩れたわけだが。
(たしかに。こりゃあ、侮れねぇわ……)
若頭の言う通り、とても一筋縄で勝てる相手ではなさそうだ。やり方が辛辣すぎる。そのうえ日本だけで6千人ともいわれる圧倒的大兵力を有しているのだから、長い戦いになることは間違い無し。
おまけに敵は彼らだけなく、笛吹率いる大鷲会残党勢力や韓国系のヒョンムル、さらには同じく煌王会の斯波一家と完全な四面楚歌状態。まったくもって先が見通せない。村雨組の中に暗澹たる空気が漂っていくのも当然である。
組長や菊川を除けば、誰もが漠然とした不安に心を強ばらせていたと思う。一方、俺個人はというと至って平常通り。けれども決して楽観視していたわけではなく、ただ単に先のことを考える行為を一切止めただけ。
『人生、所詮はなるようにしかならない』
どこかで知り合った誰かの座右の銘か、あるいは自分で導き出した悟りの境地か。はっきりとは覚えていない。しかし、この短い格言じみた一文が当時の俺を支え、やがては心の軸となっていたことは事実。瞬く間に毎日が過ぎてゆく。
そんな中、屋敷に家入がやってきた。今回もまた、事前連絡は一切無し。またしても来客用の応接室に全ての組員が集められる。
「おう! やらかしてるみてぇだな。さては直系に上がるってんで功を急いでんのか? ああ? ま、何であれ俺はお前らの力になってやるよ。若手を助けるのは年寄りの役目なんだし。ははははっ!」
「わざわざお越しくださり、ありがとうございます。家入の大叔父貴。そう仰って頂けると、とても心強いです」
「ああ。聞いてるぜ? 韓国人と揉めたに飽き足らず、今度は中国マフィアまで敵にまわしたそうじゃねぇか。やっぱり血の気が多いんだな。お前のとこの組長さんは。伊達に『残虐魔王』って呼ばれてるわけじゃねぇようだ」
「お、お詳しいのですね……さすがは大叔父貴。お耳が早い」
嫌味っぽい言い方が鼻につく。偉ぶった態度も相変わらずで、またしても来客用のソファーへ寝転ぶように座っている。給仕係が淹れた冷たいほうじ茶をぐいっと飲み干すと、今度は懐からわざとらしくタバコを取り出して見せる。どうやら、「これに火をつけてくれ」という無言のアピールのようだ。
せっかく家入組の随行がいるのだから、わざわざこちらにやらせる必要も無いだろうに。傍らで眉間にしわを寄せた俺とは対照的に、菊川は嫌な顔ひとつせず淡々とライターを手に取った。
「……へへっ! 悪いな」
「いえいえ」
「生憎、火を切らしてたもんでよ。どうも昨日からジッポーの調子がよかねぇんだ。うーん、おかしいなあ。オイルは入ってるはずなのに」
「そ、そうだったのですか」
多くの敵を抱える村雨組にとって、煌王会による戦略支援は喉から手が出るほど欲しい〇〇。それを引き出すためなら、いかに胡散臭くて尊大なオッサンだろうと手を尽くしてもてなす他ない。
ヒョンムルの件で手痛い目に遭わされているにもかかわらず、菊川は終始平身低頭して向かい合い、家入の下らぬ自慢話にも真摯に耳を傾けていた。大人の対応というか、何というか。建前ではあるにせよ、ああまで本心を隠した腹芸ができるとは見事なもの。
本音では、家入の真意を問い質したくてたまらなかったはず。「どうしてあの武器商人を紹介したのか? おかげで我々は韓国人と事を構える羽目になった」と。自分が彼の立場であれば、確実にそう尋ねていたと思う。
(これが“大人の対応”ってやつか……)
恭しく相槌を打ち続ける菊川の姿に、俺は心の中で最大級の称賛を贈ったのだった。
「ところで、村雨は今日も留守かい? さっきから姿が見えねぇんだけど」
「申し訳ございません。ちょっと朝から出かけておりまして」
「お? どこへ行ったってんだ?」
「駅前の内科へ行ってます。昨晩に食べた鯛の天ぷらが当たったみたいで。もうそろそろ戻る頃だとは思うのですが……」
勿論、これは真っ赤な嘘。家入と会いたくないがために予め打ち合わせしてあった方便である。実際のところ組長は屋敷内に居た。前回同様、隣の部屋で息をひそめて待機。菊川と家入の会話に耳をすませている。
(食あたりか……)
おそらくは組員からの意見具申によるもの。なかなかに個性的なアイディアだろう。しかしながら、面会を拒む言い訳としてはいささか出来が悪い気もしなくはない。
そもそも想像が困難。食中毒を起こす村雨組長の姿が、まるで浮かばないのだ。あれほどの怪人物が、軽微な体調不良で寝込むわけがない。ここは「大叔父貴の来訪直前に散歩へ出かけたきり戻って来ない」という体にでもしておけば、不自然な形にならず済んだものを。
豪快なツッコミを浴びせてやりたくなった俺だが、失笑を我慢するだけに止めておく。一方、客人の反応は意外だった。
「あはははっ! そうかい! さすがの村雨も腹痛にゃ敵わねぇってことか! こりゃあ傑作だぜ! やっぱ、あいつも人間なんだな! はははっ!」
「え、ええ……」
「気ぃつけろって伝えとけや。俺もしょっちゅう腹を下すが、天ぷらで当たったこたぁ1度も無ぇ。徳川家康じゃあるまいし。あれで当たるからにゃ、かなり胃腸が弱ってるってことだ。ここんところ、あいつは激務続きなんだろ? それじゃあ無理もねぇや」
どういうわけか、家入はすんなりと受け入れた。ある程度は疑いの目を向けられるだろうと踏んでいたが、まさかの杞憂。俺を含めて、そこにいた村雨組の者は皆拍子の抜けた顔をしていた。最も、言い訳を看破されるよりはずっと良いのだが。
「あ、ありがとうございます。たしかに大叔父貴の仰る通り、ここ最近の村雨は多忙をきわめています。9月に入ってからは、特に。あまり寝てもいないようで……」
「だろうなあ。あんだけ多くの敵をまとめて相手にしてるんだからなあ。その上、各方面への挨拶回りまでやらなきゃならねぇときている。体に不調が来るのも当然だぜ。忙しいのは分かるが、休む時にはきちっと休んどかなきゃな。身が持たねぇぞ」
「はい。帰ったら、村雨に伝えておきます。大叔父貴も気にかけてくださっているって。ちゃんと寝るように、僕がいくら言っても聞きませんから。大叔父貴のお言葉とあれば、あいつも素直に従うでしょう」
「そうか? まあ、別にいいや。本当は今日、村雨にゃあ大事な話があったんだが。本人が居ねぇとなりゃ仕方ねぇ。菊川、お前に話しとくわ」
2本目のタバコを深く吸い込んだ後、家入は若頭の目をまっすぐに見据えて言った。
「……村雨組が抱えてる抗争だけどな。六代目は1日も早い終結をお待ちだ。今の泥沼が続けば誰も得しねぇ。仮に村雨が勝ったとしても、街が荒れ放題なってたんじゃあ取るもんも取れん。暴追運動の煽りで、いずれ警察も取り締まりを強めてくるだろうしよ」
抗争の早期決着――。
曰く、煌王会上層部に苛立ちの色が見え始めているらしい。
長島会長は元来、村雨組を直系に引き上げることで大きな力をつけさせ、自らの忠実な“駒”として現体制打倒を目論む煌王会内の不穏分子に対抗する計画だった。ところが、その村雨が事前の想定よりも多くの敵を外部につくってしまったため、計画に狂いが生じているという。
「大鷲会の生き残りだけならまだしも、中川会や韓国人、おまけに中国マフィアまで敵にまわしたっていうじゃねぇか。そんな有り様でお前らが斯波一家と満足に喧嘩ができるたぁ思えねぇ。内憂外患。外の患と戦いながら、内の憂を処理することはできねぇんだよ」
「つまり、可能な限り早く抗争を切り上げて、斯波一家との対決に専念せよということですか?」
「そうだ。だから、さっさと横浜を全て押さえちまえって。聞いた話によりゃ、半分も仕切れてねぇらしいな。まったく。何をチンタラやってんだか」
かなりきつい言い方である。されど、家入の指摘も一理ある。村雨組に見込まれる役割は、あくまでも反体制派の牽制。それを成すべく貸元の地位を与えられるのだ。何時までも他の事に手間を割いていたとあっては、期待はずれもいいところ。六代目が憤慨するのも頷ける。
村雨組の現状は多勢に無勢。相手が誰であれ、そんな状況下で本来の力など発揮できるはずがない。長島の親分から見れば「いつまでも無駄な血と汗を流してないで、斯波一家との戦いに備えて力を蓄えろ!」と、思わず叫びたくなるほどの体たらくといえようか。
しかしながら、俺たちにも言い分はある。こちら側の思いをまとめて代弁するかのごとく、菊川は懸命に返事を投げ返した。
「……申し訳ございません。よもや、ここまで敵を増やしてしまうとは思ってもいませんでした。ヒョンムルはともかく、狗魔は大鷲会が消えた空白を狙って動き出した節があります。遅かれ早かれ、奴らとは戦争になっていたと」
「だから、どうしたってんだよ。まとめて叩き潰しゃあ済む話だろうが」
「叩き潰そうにも兵隊が足りないのです。喧嘩は数。大叔父貴もご存じでしょう。正攻法で小が大を打ち破ることはできない。今の村雨組が全ての敵に勝つためには、じっくりと時間をかけたそれなりの作戦が必要なんです。本家のご加勢を頂けるのなら、事は単純に……」
「はあ? 自分がモタついてんのは、六代目が増援を寄越さない所為だって言いてぇのか? 御託を並べてんじゃねぇ! 馬鹿野郎! てめぇで始めた抗争くらい、てめぇでケリをつけやがれ!」
駄目だ。反論が通じない。理路整然とした説明で組の窮状を訴えた菊川だが、家入は感情的に一蹴。けんもほろろに話を遮って、歩み寄る素振りは微塵も無し。オブラートで包んだ言い方が却って気に障ったのか。さらに激しく怒鳴り散らしてくる始末だ。
「作戦を立てなきゃ勝てねぇってんなら、そいつをさっさと実行に移せば良いだろ! 甘ったれるな! 大体、てめぇらには気合いが足りねぇんだよ! 六代目のために身も心も尽くそうって気概が!!」
いやいや、違う。勝つための作戦には時間を要する、そう菊川は述べているのだ。精神論で片が付く問題ではない。気合いやら気概やらでどうにかなるなら、最初から俺たちも苦労などしないというものを。これだから頑固なオッサンは困る。
菊川がロジカルかつ柔らかく主張を届けようとしているのに対し、一方的にがなり立てるだけの家入は相変わらず。時折テーブルを手で思いっきり叩いていたことから、彼には相当な苛立ちが募っているのだと窺えた。
(これ以上、話しても無駄じゃねぇか……?)
しかし、家入は煌王会本家からの使い。彼の声は言うなれば長島会長の声でもある。ゆえに、何としても理解を得ねばならなかった。ここで物別れに終わるようでは未来は無い。絶望的な局面を打開するためにも、どうにか増援の約束を取り付けたいところ。
若頭は、粘り強く話を続ける。
「この前にいらした時。大叔父貴は仰ってましたよね? 戦争になったら本家が助けてくれるって。まさか、お忘れになったのですか?」
「そいつはてめぇの勘違いだ」
「勘違い? 僕の?」
「おう! 俺が言ったのは、あくまでも斯波一家と戦争になった時の話だからよ! 斯波一家討伐は六代目のご意思。だから、村雨組が斯波と本格的にやり合うとなりゃあその時は本家がケツを持つ! 何も、村雨が外部と勝手に始めた喧嘩まで助けるとは言ってねぇ! 人の話は、よ~く最後まで聞きやがれ。このボンクラ野郎!」
二枚舌のようで二枚舌でない。ずいぶんとクレバーな話法。わずかに開いていたロジックの穴を生かし、実にうまく誤魔化されてしまった。菊川は絶句していた。たぶん、俺を含めてあの場に居た誰もが言葉を失う他なかったと思う。
「……」
「わかったら、さっさと気持ちを切り替えて考えるこったな。この泥沼の抗争を終わらせる方法を。一応言っておくと、六代目は今月中の決着を考えておられる。そいつを過ぎれば、てめぇらは破門。煌王会に役立たずは要らねぇんだよ」
尋常ならぬ悲壮感が、一気に俺たちを包み込んでゆく。何より絶望的だったのは家入のみならず、長島会長までもが無謀な精神論でモノを言っているという事実。現場の事情をまるで汲み取ろうとせず、ただ己の都合だけで判断を行っている。あまりにも理不尽だ。
親分が白といえば、黒いものでも白くなる。そうした絶対的なトップダウンによって成り立っているのが極道社会。ここは従うしかないのか。けれども、残り10日少々で全てを終わらせる方法などあるわけがなかった。
「あの。大叔父貴でしたら、どうされますか」
「ああ!? てめぇ、この期に及んでまだ文句があるってのか!? 分かってると思うが、俺の言葉は六代目の言葉だ。俺に背くってこたぁ六代目の上意に……」
「分かっています。ただ、家入の大叔父貴。あなたのお考えをお聞きしたくて」
「俺の考えだと?」
大きく頷いて、菊川は続ける。
「ええ。未熟な僕に、どうかご教示願います。もしも大叔父貴が我々と同じ立場であったならば、いかにして状況を打開されるのか。いかなる策を用いて、戦争を終わらせて勝利をつかみ取るのか。もはや僕には思い浮かばないのです」
「はあ? 何を言ってやがる」
「お願いします! 僕は若頭として、組長を……ここまで付いてきてくれた弟分たちを死んでも守る責務があるのです。家入の大叔父貴。どうか、知恵をお貸しください! この通りッ!!」
意地も威厳もあったものではない。静かに立ち上がり、部下たちの前で深々と頭を垂れた菊川。このような姿は初めて見た。常に飄々としていて慇懃無礼、人を食った言動の多い普段の様子からは想像もできぬほどに神妙な面持ちである。
「カ、カシラ……」
若頭がここまでしているのだ。その場に居た組員たちも呆然と突っ立っているわけにはいかない。皆、兄貴分に倣って次々と頭を下げてゆく。中には嗚咽とともにすすり泣き、涙ぐむ者も見受けられた。
不本意ではあるが、ひとまず俺も空気を読んで頭を下げておく。何故、こんな頑固オヤジを相手にへりくだって頼み込まねばならないのか。嫌な気は確かにする。菊川の必死の懇願はさしずめ「演技」だろうが、やらないよりはずっと良い。ここは彼の振る舞いに合わせるのが正解だ。
「ケッ、情けねぇこと抜かしやがって! 頭を上げろや。見苦しいぞ。いつまでそうやってるつもりだ」
家入の舌打ちが室内に響き渡る。所謂泣き落としが通じる相手でないことは、容易に想像がつく。おそらくは「そんなのは自分で考えやがれ! 甘ったれるな!」などと、冷淡に言い放たれるのが関の山。だが、それでもやるしかない。組の命運が大きく左右される。簡単に引き下がれるわけがない。
「おい。ガキみてぇに無様晒すんじゃねぇ。いい加減、頭を上げろや……上げろってんだよ!!」
「……」
「はあー。情けねぇなあ。てめぇらは。普段はあんだけ一人前に調子こいてるくせして、いざ苦境に立たされたら簡単に縋りついてくるのな。そんなんで貸元が務まるかよ! 少しは根性を見せろや! あー。そもそも直系昇格は、てめぇらにゃ荷が重すぎたのかもな……」
だが、しばしの沈黙の間を挟んだ後。荒っぽい語気に反して家入の口から飛び出したのは、少し意外な言葉であった。
「……けど、まあ。俺にも村雨を推薦した者としての責任がある。知恵を貸してやれねぇことも無い」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ。こんなみっともねぇ展開になることもあろうかと、用意してあったんだよ。それなりの策ってやつをな」
一体、どんな策があるというのだろう。ひどく気になる。いくら煌王会の舎弟頭補佐を務めるほどの人物といえど、この複雑に絡み合った横浜の戦乱をわずかな間に収めることは不可能だと思うのだが。
(いや、まさか援軍を送るとか言わねぇよな?)
菊川の訴えをあれだけ却下し続けたのだ。ここへ来て急に翻意したとなれば、さすがに人が悪すぎる。「やっぱりお前の言う通りだ」とは来ないことを予想しつつ、俺は次なる説明を待った。
「ええっと。それって、どういう策です……?」
「手打ちにするんだよ。村雨組と中川会伊東一家、ヒョンムル、狗魔。これらの間で横浜を均等に分け合っていく、いわば“平和条約”みてぇなのを結ぶんだ。簡単な話さ」
これまた、思いがけない話が飛び出してしまったものだ。いかにして抗争に勝つかを論じている時に、言うに事欠いて“平和条約”とは。
さすがの菊川も呆気に取られていた。また俺は勿論のこと、村雨の若衆たちの中にも想像していた者は1人もいなかったらしく、瞬く間にざわめきが起こる。そもそも、どうやって手打ちへ持っていくというのか。妙策か愚策かはさておき、その辺りを家入がどのように考えているかが気になった。
「えっ……? 仮に停戦を持ちかけるとして、奴らが乗ってくれますかね? まだ直接戦火を交えていない伊東一家なら容易いですが、狗魔の戦意は昂ってるはずですよ。ヒョンムルに至っては、向こうに死人も出ていますし……」
「大丈夫だ。家入組が仲介してやる。ここだけの話、昔から大陸にはコネがあってよ。狗魔とは何度か一緒にシノギをやったことがある。韓国人だって、俺が話せばきっと分かってくれるだろう」
「そ、そうなのですか?」
「おうよ。なあに、あんまり深く考えるな。村雨組は今から言ういくつかの条件を守ってくれりゃあ良い。まとめて書いてきたからよ。とりあえず、読んでみてくれや」
本当は村雨個人に渡すつもりだったと前置きした上で、家入は何やら白い紙切れを差し出してくる。例によって文字が小さくて俺の立ち位置からは非常に見えづらかったが、菊川が軽く声に出してくれたので助かった。
「……旧大鷲会の支配地域のうち、村雨組は鶴見区全域と山下町を放棄……山下町は狗魔に、鶴見は中川会伊東一家のものとする……ですか。なるほどなるほど。で、後はヒョンムルには詫び料として1億円を支払い、今後の横浜市内における全ての在日コリアンの権利を保証する……か」
シマと賠償金。家入が持ちかけた和平案において、村雨組が払う代償はこの2つ。
しかも前者は未だ実質的に村雨の支配が進んでいなかった地域であり、領土の割譲は有って無いようなもの。先日の港における戦闘で構成員を殺してしまったヒョンムルに対しての詫び料だけで、すべての抗争に落とし前がつく。かなり村雨側に有利な内容だった。
「おう。鶴見は前々から伊東一家が欲しがってた場所で、山下町は中華街に近い。それらを気前よく差し出しゃあ連中も納得するだろ。おまけに、この条約は未来永劫続くものだから、結んじまえば横浜では金輪際抗争が起こらなくなる。こんな旨みのある話は他に無ぇぞぉ。菊川よぉ」
「仰る通りです。しかし、よろしいのですか? ヒョンムルには詫び料を払うだけで……しかも、たった1億だなんて……」
「いいんだよ。奴らが欲しがってるのはシマじゃねぇ。大金と身の安全。ヒョンムルってのは元々、在日の同志を守る自警団として結成されたんだから。横浜に住むコリアンが穏やかに暮らせるようにならば、文句は出ねぇだろうよ」
村雨組、伊東一家、ヒョンムル、狗魔。この4組織の間で締結する恒久的平和条約によって、横浜における泥沼抗争に終止符を打つと語る家入。大鷲会の残党に関しては、和平成立後に4組織が共同で掃討にあたることで決着をはかるという。
「法律上は死んだことになってる男だからなぁ。生かしといたら、それこそ何をするか分かったもんじゃねぇ。奴の存在が脅威なのは村雨だけじゃなくて、狗魔やヒョンムルにとっても同じことだ。皆、喜んで協力するはずだぜ」
「たしかにそうですけど……そもそも手打ちを持ちかけること自体、上手くいくんですか? あの狗魔が山下町だけで満足するとは到底思えないのですが……」
「大丈夫だよ。きっちり話をつけるから。俺を信じて、全てを任せてくれりゃあ良い。ほら。さっきも言ったろ。若手を助けるのは年寄りの役目って。この俺が必ず力になってやるぜ」
そういう問題ではない。敵方を和平交渉の席に着かせるには、明らかに条件が不足しているだろうに。
どうにも見通しが甘い気がする。家入の打算は、全体的に「~してくれるだろう」といった希望的観測が大半を占めていて、万が一交渉が決裂した際のリスクヘッジがどこにも見当たらないのだ。こちらは組の取り潰しが懸かっている。それゆえ慎重な決断が求められた。
「で、どうするよ? 村雨組はこの手打ちの条件、呑んでくれるのか?」
「……僕の一存では決められません。とりあえず、この紙はお預かりいたします。村雨が戻り次第、話を伝えます。それから吟味の上、追ってご連絡いたしますので」
「そうかい。だったら、明後日までに頼むぜ? 交渉を始めるなら、なるだけ早いに越したこたぁねぇんだ。分かったな?」
「もちろん承知しております」
回答のタイムリミットは2日間。随分と短いが、家入の言う通り交渉は早期に行った方が成就しやすいのかもしれない。狗魔が村雨領内への進撃を開始している以上、このまま何もせずにいれば街の被害は増える一方。戦火の拡大を防ぐためにも、やはり手打ちの判断は急ぐべきか。なお、家入によると彼の和平案は既に長島会長の承諾を得ているという。
隣室の村雨の様子も気になる。どう思っていることやら。今までの話は、壁越しに全て耳に入っているはず。残虐魔王の辞書に「和平」という文字は存在しないのだろうが、今回ばかりは事情が異なる。煌王会六代目の上意があるとなれば、選択の余地はもう残っていないのではないか。
「まあ。せいぜい考えて決めるこったな。ただ、六代目は早期の平和的解決をお望みだぞ? 横浜の抗争が終わるなら、どんな結果も受け入れると仰っていた。その意味が分かるな? 菊川」
「は、はい……」
「お前らが意地だの体面だのにこだわる必要は、もう無くなったんだよ。分かるよな? 『私情を捨てて、親分に付き従う』。そいつができなきゃ、貸元は務まらねぇ。とにかく良い返事を待ってるぜ? んじゃ、そういうことで」
「……」
それからしばらく取り留めのない話をベラベラと喋った後、家入は満足そうに帰っていった。来客の去った応接室に残されたのは、吸い殻が山盛りになった灰皿。家入が幾本もタバコを消費したことによるものだった。
「はあー。長かった。あの人と話してると、ほんと疲れる。っていうか、大叔父貴ってヘビースモーカーなんだね。なんか独特な銘柄を吸ってるみたいだし。さっきは煙が目に染みたよ……まったく……」
「ええ。けっこう吸ってましたよね。においが独特でした。ところで、カシラ。さっきの申し出、お受けになるので?」
「わかんない。組長が決めることだから。そんなことより、服が臭くなっちゃった。ちょっと着替えてくる。シャワーも浴びたいし」
掃除係の組員に労われながら、菊川も部屋を出て行く。気怠そうな様子がとても印象的だった。彼の語る通り、やはり苦手な臭いを前に長時間も居続けると体力が削られるのだろうか。両脚がもつれている。菊川自身も喫煙者であるはずだが、よほど堪えたようだ。
体力の消耗という点では、俺もまた同じ。家入の滞在中はずっと立ちっ放しだった所為か、ふくらはぎが棒のようだ。ひどく痙攣を起こしてしまっている。こむら返りを起こさぬよう、その場で屈伸運動をしてみた。
(はあ……疲れた……)
かれこれ1時間は立っていたと思う。座ることができた分、菊川の方が少しだけマシではないのか。下らぬ考察が頭の中をよぎる。そもそも、どうして自分や組員たちまでもが応接室に呼ばれたのかが分からない。村雨組長宛てに連絡事があるのなら、彼の代理の菊川と2人だけで話せば用足りるだろうに。
『大袈裟と思われるかもしれねぇけど。俺の話は村雨組の今後にまつわる大事な話だ。下っ端連中にも聞かせといた方が良いだろ。念のためにな』
いちおう前置きを残していた家入だが、後で若頭の口から皆に伝言させれば済む話。直接、話している様を見せたかったのか。仮にそうだとしても、さすがに非合理的すぎる。大人数が押し寄せれば狭い応接室にて、すし詰めになる意味が、いまいち理解できなかった。
そんな時。
「涼平。しばし、良いか」
背後から、不意に声をかけられる。声の主は村雨だった。
「えっ? どうした?」
「お前に話しておきたいことがある。後で、私の部屋へ参れ。誰にも悟られぬようにな。無論、菊川にもだ」
「あっ、ああ……うん。わかったよ」
「頼むぞ」
彼の用件は一瞬で察した。誰にも悟られるなと注文が付いたからには、おそらくは秘密の話。先ほどの家入の訪問に関して、何かしら不審に思った点があるのだろう。
思い返してみれば、前回の家入来訪時にも似たような流れだったような。ともあれ俺は村雨の言い付け通り、周囲に人の目が無いことを確認しつつ2階の和室を尋ねてみた。