心は揺れる
中川会に入れ――。
いくら迷いなど有りはしないと心を繕ったつもりでも、この誘いが俺に与えた動揺はやっぱり大きかった。勧誘の元が「中川会」というだけなら容易に突っぱねられる。けれども、そこに「かつて亡き父が身を置いていた組織」との一文が加わるといけない。どういうわけか、モヤモヤとした思いが湧き起こってしまうのだ。
7月に初めて話を持ちかけられた時には決してそうはならなかったのに、どうしてだろう。麻木光寿という男が成し遂げた事績の一端、凶暴な韓国マフィアをわずか数日で壊滅に追い込んだ話を聞かされたこともあるか。父が数々の伝説をつくった場所で俺自身も力を試してみたい、そんな願望も次第に脳裏をよぎり始める。
最も重んじるべきは想い人との約束。もちろん、それは分かっている。ただ、心の奥底には微かながらも確かな揺らめきがあった。この気持ちを“葛藤”などと呼んで良いのかは不明だが、少なくともすぐに割り切ることはできない。
『前に会った時より、顔つきが似てきた』
本庄から賜った言葉も、ますます火に油を注ぐ。たぶん本人は何の気なしにかけたのだろうが、あの指摘は俺にとって新たな重圧を与えるのに十分だった。日常におけるあらゆる場面で、一騎当千の極道として名を馳せていた父の姿が頻繁にちらつくようになったのである。
こんな時、父さんならどうするか。父さんなら何と考えるか。選択肢を伴う出来事と遭遇するたびに、ふとそういった視点で思考が展開される。いちおう書いておくが、俺自身の意思とはまったく無関係。自然と川崎の獅子の姿が頭に浮かぶ。以前より淡くも抱いていた憧れが少しずつ表面化し、俺という人間に目に見える形で影響を及ぼしつつあった。
「……きっと、父さんなら俺と違って迷わず村雨組に入ることを選ぶんだろうな。惚れた女のために」
使用人部屋の鏡を覗き込んだ瞬間、そんな独り言がボソッと漏れる。本庄の指摘する通り、やはり容姿に関してはどこか面影があるのかもしれない。されど、中身が違いすぎる。腕っぷしから頭脳、器量の善し悪しや覚悟のすわり方まで、俺と親父ではきっと雲泥の差。比べるべくもない問題だ。
偉大なる男の影に憧れるあまり、一度は固めたはずの決意が揺らごうとしている。本来なら考える余地も無い話であるにもかかわらず、迷いが捨てきれない。すべては俺の中で燻ぶり続けている弱さと甘さが引き起こしたこと。とにかく、自分が情けなかった。
しかしながら、そのように暗澹たる気分で過ごしていても日常は絶え間なく流れ続けるもの。本庄との再会から数えて4度目の朝、組長の部屋に呼び出された。
「しばしの間、留守にして悪かった。火急の用ができたものでな……して、涼平。あの男は何を申しておった? めぼしい話はあったか?」
「あ、うん。いくつか初耳なのがあったぜ」
村雨は報告を求めている。いつになく興味深そうな眼差しだ。聞いてきた話が果たして彼の云う“めぼしい話”とやらに当たるのかは分からないが、ここは包み隠さずあるがままを伝えるのが最善だろう。
ちなみに村雨は当初の予定が3日ほど延びて、横浜へ戻れずにいたらしい。何でも北陸方面への挨拶回りに際して突発的な事案が発生し、対処に迫られていたのだとか。
それはそれで気にはなるが、ひとまずこちらの話を切り出した。
「まず、斯波一家がだいぶ弱りきってるってさ。幹部の殆どがブチ込まれて、ほぼ虫の息に近いんだと。だから、横浜へは攻めてこないかもしれねぇって」
「うーむ……たしかに清原は近頃、本家での立場を悪くしておるとの噂は聞いておった。まさか、それほどまでとは……では、斯波一家は最早我らの敵にならぬというわけか?」
「ああ。少なくとも本庄はそう考えてるみたいだぜ。どうやって手に入れた情報かは分かんねぇけど。まあ、そいつが確かなら当面の敵は中川会の伊東一家だな。斯波と違って伊東は戦争する気満々みたいだし。何か、焦ってるっぽいぜ」
「焦っている……? 伊東一家がか?」
本庄から聞いた話の次第としては、伊東も伊東で中川会本家から裏切りを疑われて窮地に立っており、その潔白を証明するために横浜侵攻を急いでいるとのこと。先ほどとは違い背後関係が比較的複雑であるため、説明がやや難しかった。
「煌王会の直系組長が伊東のシマに来てて、そいつと会ってるところを写真に撮られちまったらしい。で、中川の会長は伊東一家が煌王会に寝返ろうとしてんじゃないかって疑ったわけさ」
「寝返りを企んでいない証に奪ってこいと命じたのが、よりにもよって我が所領とはな。中川も随分と酷な沙汰を下してくれる。煌王の領地というなら、別に横浜でなくとも構わぬであろうに。それこそ今の信州や新潟であれば、容易く攻め落とせるものを」
「あ、それなんだけど。会長の命令は、あくまで『どこでも良いから煌王会のシマをひとつ奪え』だって。本庄が言ってた」
「左様か。ならば、ますます解せぬな。伊東の当代は大原征信。あの御仁であれば我らと真正面から戦えばどうなるか、よく知っていると思うのだが」
本拠地である東京・日本橋から見て横浜が地理的に近いからではとも思ったが、事はそんなに単純でもない。
いくら伊東一家が数で勝っているとはいえ、相手は残虐魔王の率いる村雨組だ。下っ端組員ひとりあたりの戦闘力を双方同じに見積もったとしても、村雨組長を敵にまわす以上、自陣営に甚大な犠牲が出ることは必至。抗争に勝てたところで、組が壊滅的な打撃を被ってしまうだろう。
また、かねてより横浜侵攻を計画していた大原総長であるが、それは他組織の助勢が前提の話。今回、伊東一家は寝返りの嫌疑を生んだ罰として、単独で煌王会領へ攻め込まねばならない。他の直参に支援を求めることは禁じられているという。
そうした状況下で、わざわざ厄介な強敵を標的に定める利点が何処にあるのか。よくよく考えてみれば、たしかに疑問だ。侵攻先に選択の余地があるというなら、もっと煌王会の中でも崩しやすい所を狙うはず。伊東一家が横浜にこだわる理由が分からなかった。
「うーん、やっぱり横浜のシノギが欲しいから? 大金に目が眩んで、下手すりゃ組が潰れるかもしれねぇってリスクを割り切ってるとか?」
「いや、有り得ぬ。大原はあれでいて臆病な男だ。『命あっての物種』という慣用句を何より重んじるほどにな。仮に奴が新たな金脈を欲しているとして、かように危ない橋を自ら渡ろうとするとは思えぬのだ」
「そっか……俺は会ったこと無いんだけど……」
「何にせよ、横浜を侵す者はこの手で首を刎ねてやる。相手が誰であれ、私のやり方に変わりはない。お前もそのつもりでいることだな。これからは今以上に忙しくなるゆえ、覚悟を決めておけ」
敵方の事情に色々と腑に落ちない点は見られるものの、あれこれ考えたところで今まさに斯波一家が攻めて来ようとしている事実に変わりはない。俺たちは俺たちで、迎え撃つ準備を進めておくのが肝要だろう。心なしか、組長の言葉がいつもより頼もしく聞こえた。
「涼平。他には何か、聞いてこなかったか?」
「うーん。特には。そんなに長い時間、喋ってたわけじゃないんだよな。あとはケーキとコーヒーを奢ってもらって解散。ああ、あんたに『渡せ』って言われてた手紙。あれはちゃんと渡してきたぜ」
将来の中川会入りを誘われた、などとは口が裂けても言えやしない。いくら断ったとはいえ、そういう話を持ち掛けられたこと自体が組長の機嫌を損ねてしまうのだ。不興を買っては一巻の終わり。ここは伏せておくのが正解である。
「……」
報告は以上で足りていただろうか。静かに頷いた村雨の仕草に、俺は自分の戦果を省みた。十分といえば十分な気もするし、足りないと言われれば足りない。客観的な評価を貰わないと、自分では何とも言い難い。
もっと情報を引き出して帰って来ても良かったとかもしれないが、あれ以上となると流石に向こうもタダでは教えてくれなかったはず。対価として、村雨組の内情を要求されたことは容易に想像できる。余計な話をペラペラと口走らなかった分、とりあえず無難に成し遂げられたのではないか。
ただ、村雨の反応は意外にもあっさりとしていた。
「……分かった。ご苦労であったな」
「えっ?」
「私とて、あの男と何度も会うのは興が乗らん。よくぞ代わりを務めてくれた。見事であった。恩に着るぞ」
どうにかお許しが出たようである。しかし、退室しようとすると呼び止められた。
「待て」
「ん? どうかしたか?」
「これより出かけるのだが、涼平。お前も来い。勉強になるかどうかは分からぬが、お前に見せておきたいものがあるゆえ」
俺を伴っての外出とは。一体、どこへ連れて行ってくれるのだろう。驚きと期待、それから少なからぬ不安が3つ同時に巻き起こってきて、何ともいえない表情で応じてまう。けれども、断るわけにはいかない。
「えっ!? ……ああ、別にいいけど」
「よし。では、しばし付き合ってもらうぞ。15分後に車を出す。急ぎ支度をせよ」
「分かったよ」
行き先がとても気になる。軽い野暮用との話だったが、まるで見当がつかない。わざわざ俺を同行させるということは、それなりの理由があるはず。よからぬものでなければ良いのだが。
(もしかして、誰かを殺りに行くとか……?)
村雨の放った「勉強」のワードから察するに、敢えて凄惨なやり取りを見せることで俺に経験値を積ませようというのか。それについては病院前での大鷲会との一戦で既に体験済みな気もしなくもないが、得た経験値は多ければ多いほど人は成長できる。
仮にそうだとするならば、俺にも何かしらの形で戦闘への参加が求められる。乱闘沙汰を前にして傍観者に徹するなど不可能。ある程度、心の準備を整えておかなくては。久々の組長との外出を前に、緊張と興奮で胸が高鳴ったのは言わずもがな。
ところが、いざ車に乗ってみると向かった先は事前の想像を大いに外れた場所。呆気に取られ、思わず目が丸くなってしまう。
「着いたぞ」
「はあっ!? え、ここって……?」
相電キグナス百貨店――。
横浜駅西口に隣接した相模電鉄の所有する駅ビルで、規模は地下3階・地上5階にもおよぶ大型商業施設だ。「百貨店」と名が付いているものの実態はショッピングセンターに近く、若者をメインターゲットにした店が中の大半を占める。
経営元としても特にレディースファッションや化粧品の販売に力を入れているらしく、流行の最先端を追ったトレンドアイテムが各階にずらりと並ぶ。横浜に住む若い女性たちの間でも「キグナスへ行けば大抵の物が揃う」と評判で、広く支持されているのだとか。
俺自身も横浜へ来て最初の頃に何度か足を踏み入れたことがある。けれども、あまり居心地の良い空間ではなかった。これまで美容や服飾とは一切無縁で生きてきた男に、コスメやらアパレルと言われても目眩を催すだけだ。あまりにも場違いすぎる。
勿論、それについては村雨耀介とて同じはず。こんな所に何の用があるというのか。駅前のロータリーで車が停まった瞬間、俺は思わず彼の方を二度見した。言ってしまうのも憚られるが、あなたにとっては不似合いな場所だろうに。
しかし、村雨は颯爽と扉を開けて降車する。
「店は開いているようだな。よし、参るとしよう。用が済み次第連絡を寄越すゆえ、無線の届く範囲で待て。目安としては16時頃になるか」
「承知いたしました。あ、もしあれでしたら俺もご一緒しましょうか? 麻木以外に荷物持ちがいた方が便利でしょう。大鷲会の残党がうろついてる可能性だってありますし……」
「構わぬ。私と涼平だけで十分だ。お前は車を守っておれ。それに万に一つ事が起こった時、すぐに車をまわせなくては逃げるのに手間取るであろう。少しは考えよ」
「す、すんません! 失礼いたしました! それじゃあ、組長。どうかお気をつけて。何かあったら呼んでください。すぐに駆け付けますんで」
運転手に告げた指示の内容から察するに、今から見積もって大体2時間は滞在するつもりのようだ。また、ここに来ての俺の役目は荷物持ち。ただでさえ苦手な場所だというのに、面倒な仕事まで加わるとは。まったくもって、気乗りしなかった。
絢華へのプレゼントでも調達するのか。それならば前向きになれるが、先ほどの組長が放った「勉強」というワードからして可能性は低そう。差し詰め、煌王会幹部連中への贈答品を買いに来たところと思われる。
(ったく……だったら1人で来いってんだよ……)
極道社会において外交努力は必須。他所の親分と親睦を深めることも、成り上がるためには欠かせない。今後、俺が極道としてやっていくために処世術なども学ばせようというのか。
なるほど。もし、そうだとしたら一応「勉強」にはなる。理屈としても筋が通っている。デパートで買い物をするのは慣れていないが、ここは村雨組長による有り難い教育だと思って行くしかない。重い体に鞭を打ち、俺も続いて車を降りた。
「……で、何を買うかは決まってるのか?」
「ああ。既に支払いもすませてある」
「じゃあ、受け取るだけってことだな。えっ? でも、さっき16時までって……それにしちゃあ随分と長くねぇか?」
「別に長くはない。いつものことだ」
何を買おうとしているのやら。いまいちピンと来ない。俺は首を傾げながらも、置いていかれぬよう村雨の後ろを足早についてゆく。2本のエスカレーターを経てやって来たのは、一風変わった店だった。
【生糸の三浦】
他のテナントとは見るからに一線を画した、和風で落ち着いた佇まいの店。真白な漆喰の壁や太い縦格子の入った連子窓など、武家屋敷を彷彿とさせる外観が何とも特徴的だ。
屋号も流麗な草書体の筆文字で、こちらも派手なデザインの散りばめられた店舗の多いモール内ではひと際目立って見える。ただ、肝心の文字が読めない。後半の「三浦」はどうにか認識できたのだが、前半部分が不明瞭。
前に訪れた際には存在すら気づかなかった、初めて訪れる店ということもある。そもそも何を扱う所なのか、そこから既に分からない。
「ええっと、なま……いと……?」
「生糸。生糸の三浦。ここは俗に云う呉服屋だ」
呉服屋とは、和服およびそれに用いられる絹織物を商う事業者のこと。日本で「百貨店」と名が付く商業施設には必ず呉服屋が入っており、この国におけるデパートの歴史はすなわち呉服屋の歴史でもあったと村雨は語る。
相電キグナスという若者向けの華やかなショッピングモールの中に、まさかこんなにも古めかしい店があったとは思いもしなかった。しかし、それはこの場所がかつて「高鳥屋」という大正時代から続く高級百貨店であった名残りなのだとか。
経営破綻に陥った高鳥屋を1980年に相模電気鉄道株式会社が買収し現在の名称になった経緯も含めて、いずれも初耳の話ばかり。無知かつ無学な自分を少し恥ずかしく思いつつ、一方で新たな情報を得る楽しさに胸が躍った。
「……へぇ。この街に来てからキグナスは何度か通ってるけど、知らなかったぜ。そんなエピソードがあったなんて。意外に、けっこう歴史が古いんだな」
「左様。これに限らず、いかなるものにも歴史はある。何事も本質を知りたくば歴史を辿ることだ。そうするのとしないのとでは、見えてくる景色がまるで違う。肝に銘じておくことだな」
「う、うん。覚えとくよ。ところで、今日はここで何を買うんだ? やっぱり着物の店っていうからには、あんたの着物を買いに?」
「そうだ」
大きく頷いた村雨。曰く、翌月に迫った貸元叙任の儀式で着用する装束を作らせていたのだという。わざわざ特注品を用意するからには、よほど格式高い着物に違いない。聞けば、その名称も非常に独特だった。
「それは『直垂』といってな。我ら極道にとっての礼装だ。大がかりな儀式を行う際には必ず着ることが定められている。せっかくの機会ゆえ新調しようと思ったのだ」
「ひたたれ……ねぇ。けっこう変わった名前だな。ただ、普通の着物じゃないってことは何となく分かるや。少なくとも、馴染みは無い」
そんな話をしながら2人で店の中へ入ると、白髪の老婆がにこやかに出迎えてくる。
「いらっしゃいませ~。村雨先生、ようこそおいでくださいましたね。お待ちしておりましたよ。さあさあ、中へ」
「できておるか?」
「もちろんですとも。いま、お持ちいたしますね」
やけに恭しく振る舞う老齢の女店主。顔面にくっきりと刻まれたしわの上に化粧を塗りたくっている、おかめみたいな婆さんだった。着物姿で店の奥へ足早に駆けていったことから、実際の歳は見た目より若いのだと分かる。おそらくは60代前半くらいか。容姿相応に年を召していれば、あのように俊敏な動きはできないだろう。
やがて、戻ってきた店主の両手には透明なビニール袋に包まれた品が携えられていた。
「お待たせいたしました。こちらになります。紅桔梗色紋付直垂。ご注文の通り、紋様は月に北斗七星でございます。どうぞ、お確かめくださいませ」
月に北斗七星は村雨組が用いている代紋。俺も何度か屋敷で見たことがあった。中を覗き見た村雨は、その見事な仕上がりに満足気な微笑みを浮かべる。
「うむ。なかなかの出来栄えであるな。流石は三浦。いつも期待以上の仕事をしてくれるものだ」
「いえいえ。勿体ないお言葉でございます」
そう言って再び頭を下げた店主はビニール袋に入った直垂を桐の箱に詰め、見るからに高そうな和紙で包装を行う。熟練された動作のようで、その手つきは非常にテキパキとしている。
「いやはや。9月になりましたけど、まだまだ残暑がきついですね。地球温暖化は本当に困ったものです。夏バテはされてませんか?」
「あまり気にしたことは無いな」
「私なんか最近、食がめっきり細くなってしまっていけませんわ。冷やした素麺以外、まったく喉を通りませんの。やっぱり7月にウナギを食べて、ちゃんと滋養をつけておくべきでした。先生は今年の土用の丑の日、召し上がられました?」
「ああ。食べた。されど、あれは迷信だ。さほど気にすることではあるまい。たかが魚一匹、食べ損ねたくらいで寿命が縮まるとは思えぬ」
手元の作業を正確にこなしながら、村雨との雑談に花を咲かせる店主。口と手を同時に稼働させられるとは大したもの。元より話好きな性分のようで、次から次へと話題が飛び出してくる。かなり饒舌であった。
おそらく、彼女は相手が極道の組長である事実を知らないのだろう。村雨のことを「先生」などと呼んでいたあたり、いま思えば能楽や歌舞伎といった古典芸能の師範だとでも認識していたのかもしれない。その証左に、こんな会話のくだりがあった。
「いやはや、お強いですね……村雨先生は。やっぱり日頃のお稽古で鍛えておられるのですか?」
「いかにも。鍛錬は積んでおる」
「どうりで背筋がピンと伸びていらっしゃいますものね。うちには時々梨園の先生方もお見えになるのですが、皆様お元気ですよ。夏バテされている方はひとりもおられない」
この老婆は村雨が舞台衣装として直垂を買いに来たと思っているのか。応接に畏れや恐怖といった要素が一切、見受けられない。最初はよくもここまで気さくに話せるものだと感心を抱いていたが、それが勘違いゆえの現象なのだとすると少々可笑しく思えてくる。
また、彼女の考える“お稽古”と村雨が言った“鍛錬”では絶対に意味が違うはず。にもかかわらず、会話自体は滞りなく成立しているから不思議なものだ。
(ここで正体を知っちまったら……)
そんな時。店主の視線が俺の方を向いた。
「そちらのお連れ様は? お弟子さんですか?」
ドキッとして胸が強ばる。緩んでいた気持ちを強く引っ叩かれ、一瞬で引き締められるような心地だ。2人の会話にぼんやりと耳を傾けていたが、まさか話題が自分に及ぶとは。考えてもいない展開だ。
本音をいえば組長が用を終えて店を出るまで、ずっと無言を貫き黙っているつもりだった。しかし、こうなっては口を開かざるを得ない。不本意ではあるものの、ここは最低限の自己紹介をするのが適切。
舌打ちしたくなる衝動をグッとこらえ、ひと呼吸置いた後でどうにか挨拶の句を投げようとした俺。しかし、その前に先を越されてしまう。
「ああ。この者か。これは名を涼平と申してな。弟子というよりかは従者……いや、我が子のようなものだな」
「そうだったのですね! ということは、先生のご養子様でございますね。これはこれは、たいへん失礼いたしました!」
村雨によって先に済まされてしまった俺の紹介。ただ、内容が違う。たしかに彼の従者的存在として動いてはいたが、養子になどなっていない。組長としては愛情を込めて使ったであろう「子」という表現が、とんだ誤解を招いてしまっている。
ただ、訂正するのは面倒なので止めておいた。ここで違うと言えってしまえば、それは曲がりなりにも俺を気に入ってくれている組長の愛情を否定するも同じ。迂闊に不興を買ってはいけない。
また、実際のところ将来的に絢華との結婚が成った暁には、俺は村雨耀介の「子」になる。よって、あながち間違った認識でもないのだ。
そうと決まれば、結論はひとつ。俺はさっそく行動に移した。
「どうも、初めてお目にかかりますね。涼平様。私、この地にて長らく呉服商を営んでおります、三浦と申します。どうかお父さま同様、末永くお付き合いできればと。よろしくお願いいたしますね」
「ああ。どうも。よろしく。いつも組……あ、いや、親父が世話になってるみてぇだな。まあ、俺にも贔屓にしてくれや。期待してるぜ」
俺が村雨の「子」であると勘違いして妙に畏まって話しかけてくる老婆に対し、敢えて「子」のふりをして応じてやったのだ。無理に誤解を解くこともない。特に不利益を被るわけでもなさそうだし、ここは思い込ませておくのも一興。それで貰える施しは、最大限に貰っておこうではないか。
気になったのは村雨の様子。俺が会話の流れで止むを得ず「親父」とフランクな呼び方をしてしまったことで、いささかなりとも不快感を抱いたのではないかと心配になったのだ。
「……」
しかし、それは杞憂だった。左の視線をずらして恐る恐る見た先にいた組長の表情は、穏やかそのもの。むしろ、心なしか満足気にもとれる面持ち。俺に「親父」と呼ばれたことで、何を感じたのか。詳細には分からないが、肯定的な印象で受け止められたことは確かである。
そんな村雨はやがてこちらへゆっくりと歩み寄ってくる。そして俺の肩をポンと叩き、店主に揚々と言った。
「実は本日、もうひとつ頼みたいことがあったのだ。直垂をあと1着、こしらえてもらいたい。他でもない。涼平の分だ。頼めるか?」
「ええ! 勿論でございますよ! 色と紋様はいかがなさいましょうか」
「紋は私と同じ、色は黒にしてくれ」
「かしこまりました」
これには少し驚いた。どうやら、村雨は俺にも直垂を用意してくれるようだ。予想し得ない展開だったので戸惑いも大きかったが、直垂がヤクザのマストアイテムというならいずれ必要になるということ。ここで受け取っておいて損は無いだろう。
「それでは、さっそく採寸といたしましょうね。うーん。見た限り、背丈は先生より少しだけ大きいようにも思えますが。あ、涼平様。こちらへ」
「お、おう」
店主に案内されるがまま、奥の畳敷きの小あがりへ通される俺。老婆が手にした巻き尺にて着丈、袖丈、胴囲を測られた後、たまたま店内にあった試着用に体を通してみる。
「涼平様。袴を履いたご経験は?」
「あるっちゃある。けど、この直垂って着物は初めてだな。着るの、けっこう難しそうじゃん。見ただけで分かるわ」
「大丈夫ですわよ。私がお手伝いいたしますから」
袴どころか、和服を着ること自体が七五三以来。県道だの弓道だのをやらない限り大体皆そんな具合だと思うが、今回の俺に関していえば違う。あくまでも「村雨先生の養子」との設定であるため、日頃から和服に慣れ親しんでいなければおかしいのだ。設定を崩してしまわぬよう、装うのが大変だった。
おまけに直垂の構造は実に複雑だ。特に帯の結び方に関しては独特の作法があるらしく、店主の話を聞いているだけでも眠くなりそうだった。普通に蝶々結びで良いのにとも思ったが、それだと完成形の見栄えが違ってくるのだろう。
「では、最後に右の紐を降ろしたら……はい。袴は準備完了です。次は胸紐。まずは紐を半分に折って、こうやって……うん。大丈夫。これで出来上がりですね! ええ、とってもお似合いですよ!」
「ふう。やっと終わりか。何か、すっげえ時間かかった気がするぜ。20分くらい経っちまったんじゃねぇか?」
「えっと、どれどれ……あ、45分経ってますね」
「おいおい! そんなにかよ!」
降車の際、運転手の待ち時間を長めに見積もった村雨組長。その理由が何となく分かった気がする。店主曰く直垂はアシストを行う者がいたとしても、着付けに最低でも30分前後はかかってしまうとのこと。
(マジかよ……)
無論、脱ぐのにも時間がかかる。先ほどの作業を折り返し反復するのだ。試着の行程を全て終えて村雨の元へ戻った俺が、ひどく気力を消耗していたことは言うまでもない。苦笑と共に迎えられてしまった。
「いかがであった? 初めての直垂は? お前のことだ。見たところ、もう二度と着たくないというのが率直な感想であろうな」
「ああ、その通りだよ。最高に面倒くせぇ」
「フフッ。然もありなん。本番では、あれに加えて烏帽子も被る。私も初めて直垂を着せられた折には、ひどく手戻ったものだ。されど、慣れてくれば苦に思わなくなるぞ」
「ほんとかよ……」
よもや、あんなにも厭わしい装束を儀式の度に毎回着なければならないなんて。とんだドレスコードがあったものだ。
さらに村雨の話によると、儀式用の直垂は各々が自腹で購入することが普通であり、今回のように親分に買ってもらえるケースは稀とのこと。極道たちの知られざる苦労をひとつ、身をもって勉強させられた心地であった。
「……」
「よっぽど疲れたと見える。では、そろそろ参るとしようか。支払いは後日、仕上がった品と引き換えに行う。無論、私が賄ってやるから安心いたせ」
直垂の代金は、いくらになるのか。そういった事情に思考が及ばなくなるほど、俺の気分は萎えてしまっていた。店を出てから、村雨の後ろを歩く足取りは自然と重くなる。ついてゆくのがやっとだった。
「さて。刻限まで少しばかり余裕があるな。ここまで付き合わせた礼だ。お前には茶の一杯でも馳走してやらねばな」
「えっ、マジで!?」
「二言は申さぬ。ちょうど、私も喉が渇いてきたところだ」
「いやあ、有り難ぇわ。マジで感謝」
どこか飲食店へ寄って帰れると分かった途端、沈んでいた俺の気分は一瞬で持ち直す。歩くのも一転、どんどん早くなる。気が付いた時には、つい十数秒前まで前を歩いていたはずの村雨を追い越していた。
「よし! じゃあ、そうと決まれば、早く行こうぜ!」
「騒ぐな。まるで子供ではないか……」
後ろを振り返った時、組長の呆れ顔が目に飛び込んできた。けれども言葉とは裏腹に、あまり怒ってはいないようだ。例えるならば、大はしゃぎする我が子を優しく嗜める親の表情。逆に、どこか嬉しそうにも見えたのだった。




