思わぬ誘い
「いちおう聞いとくけどさ、本庄さん。あんた、こんな所にいて大丈夫なのかよ? ここは横浜。村雨組のシマだぞ? いくら村雨と組んでるからって、中川会直参のあんたが煌王会の……」
「大丈夫やって。わしかて代紋ぶら下げて堂々と来てるわけとちゃうんや。いちおうお忍びで来てんねんで。心配せんでええ。誰にもバレへんさかい」
「だとしても、この店はいけなかったんじゃねぇのかな。 お忍びで来てるってんなら尚更。ホテルのラウンジだから人通りも多いし、誰に見られてるか分かったもんじゃねぇだろ」
「気にしすぎや。誰もわしらのことなんか見てへんて。それに、このホテルはお前が初めて鉄砲玉をこなした記念すべきスポットやろ。せっかく横浜に来たんなら、この目で見とこ思うてな」
氷のナイフの件にも、村雨から前もって話が及んでいたのか。本庄は既に知っていた。俺にしてみれば記念でも何でも無い、獲物を仕留め損ねた悔しさの残る場所だ。誰も自分達を見ていないという主張も含めて、どうも素直には頷けなかった。
「いや、やめてくれよ……あれは失敗だったんだ。殺したのは殺したけど、そいつは笛吹が仕立てた影武者だった。本物は今もピンピンしてる」
「ええやん。影武者のことは村雨組の誰も知らんかったんやさかい。それに、お前はちゃんと殺しの務めを果たして帰って来れたんやで? 上出来やないか。普通、初めての鉄砲玉は直前でビビッて何もできんようになるのが当たり前なんよ? あの村雨はんでさえ、初めてをしくじっとるわけやし」
村雨組長が殺せなかった初めての標的というのは、赤ん坊の頃の絢華のことか。 彼が殺しに失敗のは後にも先にもそれっきりで(本人談)、現在は一騎当千の極道に化けている。一方、俺は単なるチンピラくずれ。申し訳ないが、引き合いに出されたところで何のフォローにもならない。
「自信もってええんやで? 涼平。村雨はんも褒めとったわ。『あれだけの逸材にはそうめぐり逢えるものではない』ってな。いくら喧嘩自慢の極道かて殺しっちゅうんは流石に躊躇う、なかなか越えられへん一線や。けど、それをお前は難なく越えられた。大したもんやわ。ほんまに」
「そうかよ……じゃあ、素直に喜んでおくわ」
衝動的な行動に対する躊躇が一切無いのは自分でも長所だと思っているが、笛吹の件に関しては完全な失敗。あのタイミングで奴の首を獲れなかったせいで、一連の抗争を更に複雑化させてしまった自責の念があったのだ。
気恥ずかしくなってきたので、そろそろ話題を変えるとしよう。軽く前置きを挟んだ後、俺は脇に抱えてきたバッグから例の封書を取り出した。
「これ。組長から預かってきた。前に、あんたから頼まれてたもんだってよ。何が入ってるかは知らねぇけど」
受け取って封を開くや否や、中身に視線を落とした本庄。入っていたのは何やら上等な和紙。黒い筆文字が透けて見えたので、おそらくは村雨から本庄に宛てた書状だと思われる。
「ほう。思ったより早かったのぅ。どれどれ……うん、やっぱりな。そう簡単には首を縦に振らへんか。まあ、分かっとったわ。わしかて気長に待っとくつもりやし。へへへっ!」
ネガティブな言葉とは裏腹に、どこか満足気な笑みを浮かべた本庄。差し詰め、何か頼み事をするもあっさり断られてしまったところか。一体、いかなる内容なのだろう。気にはなったが、村雨から「知る必要は無い」と釘を刺されているので敢えて尋ねずに放っておく。
「ああ。そうや。お前に言っとくことがあったわ」
「ん?」
「斯波一家のことやけどな。連中、だいぶ弱ってきとるで。こないだの浜松市長選の一件で理事長以下、幹部7名がパクられてのぅ。ガサ入れのついでに下っ端も大半がしょっ引かれたさかい、組としての体を成さんようになってもうた。あないな状況で戦争仕掛けてきたりはせぇへんやろ。もう村雨組の敵やない。安心してええで」
「マジかよ。いや、斯波がそういう状況なのは何となく知ってたけど。それってもう潰れてるも同じじゃねぇかよ。えっ、そうなるように全部あんたが裏で糸を引いたのか?」
俺の問いに、本庄はニヤリと笑った。
「せやなあ……まあ、種をまいたのはわしやけど、そいつを育てて花を咲かしたんは桜琳一家やで。わしがやったことと言やあ、せいぜい週刊新星の大山っちゅう記者に情報を売ったくらいかのぅ」
週刊誌の報道で浜松市長選への大規模介入が表沙汰になったことにより、斯波一家は幹部陣全員と組員の大半が逮捕・起訴される事態へ陥った。公職選挙に暴力団が介入したという未曽有の出来事が社会に大きな衝撃を与え、それまで静観を決め込んでいた司法当局も世論の煽りを受けて本腰を入れて動かざるを得なくなったらしい。
「地検が特捜部まで組んで動き出すっちゅうんは、そんだけ極道に対する世間の風当たりが冷たくなってることの裏返しや。せやけど、やっぱり一番は斯波が他所様のシマを踏み荒らしたことや。浜松は同じく煌王会の桜琳一家が治めとる街やし」
「そこに伊豆の斯波一家がボーダーラインを越えて入り込んじまったのが、そもそもの原因だってこと?」
「せや。おそらく、静岡地検の背後には桜琳がおるで。地検上層部の何人かが奴らに買われとって、桜琳の利益になるよう動いたんやとわしは思うとる。おう、お前も少しは地理が分かるようになったか。大したもんや」
「いや、まあ前に村雨組の若頭から話を聞かされたもんでよ。ひと通り頭に入ってんだ。静岡は東を斯波一家、西を桜琳一家がそれぞれ支配してて、どっちも互いにいがみ合ってるって」
静岡県を東西で二分する斯波と桜琳。これまで煌王会体制の下で静かな対立を続けてきた両者だが、今年に入り斯波が西の浜松へ踏み込んでしまったことで情勢が一変する。他の組の領地で勝手にシノギを行うのは任侠渡世の御法度。辛うじて保たれていた均衡が崩れたのは言うまでもない。
他にも私的な用事で熱海を訪れていた斯波の組員が現地の旅館から強引にみかじめ料を取った件も含めて、桜琳は一連の事案を斯波による「シマ荒らし」と断定。これを排除すべく報復行動に出た、というのが今回の流れである。
「いや~、わしの売った情報で新星が浜松の件を報じるや否や、待ってましたとばかりに地検が動き出しよってのぅ。表向きは公選法違反で斯波の本部に家宅捜索かけて、そこにおった幹部連中を色んな理由つけて連行したんや。皆、叩けばいくらでもホコリの出る輩ばっかりやさかい。捜査が下っ端連中にまで及ぶのに時間はかからなかったで」
「へぇー。そんな経緯だったのか。ずいぶんと早い展開だったんだな。で、その警察の上層部が桜琳一家とつながってるってことか?」
「正しくは検察な。あいつらはサツと違って1人1人に大きな権限が与えられとる独任制やさかい、カネで買収がしやすいんや。詳しい事情はわしにも分からへんのやけど、おそらくは静岡地検の下っ端検事あたりを囲ったんとちゃうか。『上手くいけば手柄になるデカいヤマがあるぞ~。週刊誌の記事の裏を教えたろか~』いうて」
桜琳一家にとってみれば、武力で斯波領内に直接侵攻するよりはるかに安全で容易いやり方である。自陣営からは死傷者や逮捕者を出さずに済み、なおかつ司法の徹底追及によって敵方に甚大な痛手を与えることが出来るのだ。
まさしく一石二鳥。警察と検察の違いも分からぬほど無学だった当時の俺から見ても、実に賢い報復の手段と思えた。その辺りは本庄にも似た狡猾さを感じる。桜琳の当代を張る人物が相当な切れ者であることは、もはや想像するに難くないだろう。
「桜琳一家三代目、片桐禎省。桜琳の現総長で、前の総長だった長島会長の秘蔵っ子や。会長の身内ゆうこともあって桜琳は今の煌王会でべらぼうに優遇されとってのぅ。本家若頭の日下部も総本部長の庭野も、執行部は殆ど桜琳一家の出や。片桐自身かて38歳で若頭補佐やっとるくらいやし。『桜琳にあらずは煌王にあらず』とも言われとるわ」
「うーん。どうだろ。それって凄いことなのか? 何つーか、親分のコネを使って成り上がったようにしか思えねぇが……?」
「ああ。もちろん、そう考える奴も煌王会には少なくないで。『親の七光りだ!』なんつってな。せやけど全員、批判を打ち返すだけの確かな実力を備えとんねんで。日下部も、庭野も、片桐も、みんな頭脳明晰なインテリや。それを分かってて、長島は子分どもを重用しとんのやさかい。ほら、さっきの作戦だって殆ど片桐が1人で絵を描いたようなもんやし」
そんな長島会長の引き立てにより華やぐ日々をおくる片桐とは対照的に、清原武彦率いる斯波一家は大した出世にありつけずにいるという。清原の煌王会本家における役職は「伊豆半島総貸元」に留まり、ヒラ幹部にすら就いていない有り様。
人事面で煮え湯を飲まされている要因は清原自身の実力不足もさることながら、桜琳一家出身者だけが贔屓される現体制の風潮にもあると本庄は俺に語ってくれた。
清原にとって、片桐ら桜琳一家は「おとなりさん」。己が苦汁をなめ続ける中で隣人が異様な栄光を甘受していたとなれば、嫉妬もするし嫌悪感も抱く。その米櫃に手を突っ込みたくなるのも頷ける。浜松市長選への介入からはじまった斯波一家による一連のシマ荒らし事件は、どうやら清原個人の妬心がすべての引き金だったようだ。
「なるほどな。たしかにな、その清原って奴の気持ちもちっとは分かるわ。『何で自分だけ……』って思うのが当たり前だもんな。まあ、差を埋めるだけ死に物狂いで頑張れば良い話だけど」
「せやのう。けど、清原だけじゃのうて斯波一家にしてみりゃ、桜琳は先々代から静岡で争ってきた因縁のライバルや。面白くないのは斯波の下っ端連中かて同じや思うで。本家へのクーデターを企むのも無理ないわ」
「クーデター?」
「おう。そないな噂も流れとったで。『斯波が名古屋に攻め込んで本家屋敷を押さえて、長島会長を引退させて跡目に座る』っていう。最も、清原本人は否定しとるみたいやけど。具体的な証拠が出たわけでもあらへんさかい、本家も不問にせざるを得なかったとかいうオチやったな。たしか」
家入が話していた内容と一致する。長島の“身内贔屓”に不満を抱いた清原ら斯波一家が企てていた、長島体制の打倒をはかる謀反劇。本庄曰く事前に情報が漏れたことで未遂に終わったようだが、それが煌王会全体に強い衝撃を与えたのは言うまでもない。
「なんぼ不問に付されたってなぁ。そういうのが一度でも浮上してもうた以上、斯波一家は今後も本家に警戒され続ける。清原に再起の道はあらへんやろ。検察の捜査も進んどるようやし、もう斯波一家は終わりなんと違うかな……? せやさかい、来月に村雨はんが直系へ上がったところで特に血なまぐさいことは起きんと思うで?」
「えっ。それじゃあ、斯波は横浜に攻めてこねぇってことかよ」
「そう考えてええやろな。少なくとも、わしはそう考えとる。兵隊の大半を検察にしょっ引かれて、軍資金も殆ど残ってへん状況のようやし。とてもやないけど、あれで戦争はできんやろ。やったとて勝たれへんよ。ほんまに」
現状の斯波一家に横浜侵攻をやるだけの力は最早残っていないと断言する本庄。この辺りの見解は家入と少し異なる。前に聞いた話だと、村雨組の独立および直系昇格を阻止するために横浜へ攻め込む機会をうかがっているはずだったが。本当のところはどうなのだろう。
家入がもたらした情報は完全にインサイダーなもの。いずれも煌王会の幹部に名を連ねる立場であるからこそ知り得た話ばかり。
けれども、話の信憑性という点だけで考えれば本庄の方が明らかに信頼が置ける。俺たちは一度、家入のせいで危険な目に遭っているのだ。銃器を格安で売ってくれる業者を紹介するとの持ち掛けられ、結果として韓国マフィアとの因縁も生まれてしまった。
おまけに先日村雨邸を訪れた際、斯波一家に静岡地検の捜査が及んでいる旨を家入は話さなかった。真意のほどは不明だが、奴に村雨を陥れんとする良からぬ企みがあったことは容易に想像できる。こうなっては信憑性以前の問題だ。
家入の話は怪しい。中立的な視点で検証を行ったわけではないものの、信じるに足るだけの理由がまったく見えてこないのだ。本庄の言う通り、現状では「斯波一家に横浜侵攻の意思は無い」。この仮説をひとまず信じて、俺は話を進めた。
「……そっか。じゃあ、斯波が攻めてこねぇってなると俺たちの相手が1人減るってことだな。よく分かんねぇけど、敵が少なくなるのは有り難いぜ。こちとら、あんたのお仲間とも戦争しなきゃいけねぇからよ」
「ああ。それについちゃあ油断ならへんで。ほんまに。大原のダボが会長に発破かけられよってのぅ、何が何でも横浜獲らなあかん状況になってきたんや。でないと、組はお取り潰しやさかい。そんだけ連中の立場が中川の中で悪ぅなっとるってことやけども」
「え? 中川会で何かあったのか?」
「煌王と通じとる疑いが持ち上がってん。大原のアホに。そんで会長から目ぇつけられて『潔白を証明したいなら煌王会の領地へ単独で攻め込んで街を1つ奪え』って命じられたんや。できなけりゃ伊東一家は破門。せやさかい、大原は相当焦っとるわ。ありゃあ尻に火が付いとるで」
9月に入って、横浜侵攻の兆候をさらに強めてきた伊東一家。
聞けば、日本橋にある組事務所を煌王会の関係者らしき人物が訪れる模様が目撃されたのだという。伊東一家総長の大原征信は内通を否定するも、状況が状況であるだけに疑いを完全に払拭することはできなかった。
「日本橋の事務所を訪ねた男は煌王の金バッジを付けとってのぅ。直系の組長しか付けられへん代紋や。おまけに、そいつが喋っとったんはゴリゴリの名古屋弁やったようやし」
「煌王会の直系組長……そりゃ、疑われて当たり前だな。話だけ聞く分にはどっからどう見てもクロだ。怪しすぎる。え、伊東の総長は何て言ったんだ?」
「大原曰く『寝返るよう懐柔されたが断った』と。“報酬”として現金5億と向こうの幹部のポストを提示されたようやけど、きっぱり追い返したとか。せやけど、そないな言い訳で納得するほど、中川の三代目は甘ない。なんぼ『断った』言うたって、敵方の幹部をみすみすシマ内に招き入れた事実に変わりはあらへんのやさかい」
「うん。たしかにな。相手が敵の人間、それも直系の組長だと分かってるなら事務所のドアを叩いた時点で追い返せば済む話だもんな。それこそ、その場で殺しても良いくらいだ。なのにわざわざ中へ通したってなると、やっぱ少なからず裏切りの3文字が脳裏をちらついてたってことだよな……」
決め手となったのは、中川会本部宛てに匿名で届けられた一枚の写真である。そこには日本橋の伊東一家事務所の前で佇む来訪者の姿が、恐ろしいほど鮮明に写っていたらしい。
「……へぇ。その写真はあんたが?」
「残念ながら、わしやないで。そもそも煌王の直系組長が日本橋に来とるって知らんかったし。仮に知っとったら真っ先に三代目にチクって手柄にしたのに。先を越されてもうた。ほんま、悔しい話やで」
「そっか……うーん、あんたじゃないとすると一体誰が。少なくとも送った奴に伊東一家を蹴落としたいって気持ちがあることは確かだよな」
「よっぽどの恨みがあんねんのぅ。その写真がきっかけで、伊東は破門の瀬戸際に立たされることになったんやさかい」
逆心は微塵も無かったと必死で弁明するも却って不信感を買う結果となり、窮地に追い込まれた大原。そんな彼に対し中川会三代目会長、中川恒裕が与えた名誉回復のチャンスが3ヵ月以内に煌王会領へ攻め込み、街をひとつ手に入れてくることだった。
「さっきも言うたけど、大原は必死やで? それが出来なんだら伊東一家は取り潰し、大原個人は中川会の裏切り者として討伐の対象になるっちゅうんやさかい。たぶん、そう遠くないうちに何らかのアクションがあるんと違うか? 道具も仰山、揃えとるようやし」
「ったく……余計なことをしてくれたもんだな。あんたのところの会長は。おかげで村雨組はいい迷惑だ。まどろっこしいことはやってないで、さっさと伊東を破門にしちまえば良いのに……」
「まあ、今んところ挙がってる具体的な物証は写真だけいう話やしのぅ。それで大原が裏切ったと決め付けるんには今一つ、証拠能力ってもんに欠けるんやと思う。わしもこの目で見たわけやない。何とも言われへんのやけどな」
本庄の語る通り、写真が示すのは“事象”であって“真相”ではない。煌王会の直系組長が訪ねてきた際のワン・シーンだけで、大原ら伊東一家に謀反の意思があると断定してしまうはあまりに早合点が過ぎるのだ。
会話を録音した音声テープでも無い限り、今回の件において大原は白とも黒とも決定付け難い。だからこそ、中川会長は「本人に潔白を証明させる」という曖昧な裁定を下したと思われる。
はっきりとした根拠を欠いたまま直参を裏切り者扱いして切り捨てたとなれば、極道社会における中川の評判に傷がつく。関東だけで2万人の兵力を有する巨大組織といえども、一応それは避けたいのだろう。大局的見地に立った判断だった。
「ああ。そうかよ。なら、伊東一家が攻めてくるのは確定ってわけだな? 自分達が煌王会と繋がってないことを証明するために?」
「うん。奴らにとっちゃあ、それが唯一の選択肢やさかいのぅ。おまけに、もともと伊東は横浜を狙っとったんや。今回の件が無くても遅かれ早かれ戦争にはなったやろ。こうなった以上、もう割り切って対処してくしかないで」
「分かってるよ。戦争には必ず勝つ。それだけだ。たとえ、相手が誰だろうと俺は村雨のために戦う。覚悟はとっくに決まってるぜ」
「おう。いい心意気やな。そんでこそ、お前は川崎の獅子の倅や。顔つきも前より、みっちゃんに似てきたで」
本庄は他にも、いざ事が起こった際には伊東一家の進軍を少しでも妨害すべく、裏からあれこれ手をまわすと約束してくれた。それが如何ほどの効果を生むのかは未知数だが、支援がまったく無いよりは良いというもの。五反田の蠍なら、きっと上手くやってくれる。そう信じるしかない。
(でも、今のままで戦い抜けるのか……?)
現状は俺と村雨組長と菊川を入れて62名。喧嘩に長けた剛の者揃いとはいえ、伊東一家の圧倒的物量には到底及ばないだろう。さらに言えば敵は伊東だけに留まらず、笛吹率いる旧横浜大鷲会残党は未だ健在。つい先日、因縁が生まれたばかりのヒョンムルの動向も気になるところだ。
やはり、戦争の雌雄を決するのは数。武器の調達と並行させて十分な兵力を確保するよう、早急に組長に進言しなくては。本格的な戦争が始まる前に新たな組員を百人単位で迎え入れるのは困難かもしれないが、それでも多少打つ手はあるはず。何よりまずは笛吹グループを片づけて横浜を制し、資金源を押さえておくのが先決だ。武器も兵も、所詮はカネが無くては集まらないのである。
善は急げ。そう思った俺は本庄の雑談が段々と落ち着いたタイミングで立ち上がり、村雨邸へ戻るべく別れの挨拶を切り出そうとした。だが、その時。
「帰るんか? せっかくやから、コーヒーでも飲んでけや。もう頼んだんやし。ここのは美味いって専らの噂やで?」
引き留められてしまった。どうしたものか。言われてみれば会話に夢中になるあまり、注文のアイスコーヒーが未だ届いていないことに気づいていなかった。ふと時計を見ると、ラウンジに来てから15分ほどしか経っていない。
(……まあ、コーヒーを飲むくらいなら)
それに、いま屋敷へ帰っても組長は不在。たしか深夜まで戻らないと言っていたはず。よって、報告と今後の提言ができるのは明日以降ということになる。特にやることも無い中で、関係のよろしくない組員たちと顔を合わせるのも気が引けるものだ。
俺は素直に、ここは本庄の申し出に従っておこうと決めた。椅子に再び腰を下ろすや否や、まるでタイミングをはかったかようにウェイターが注文の品を運んでくる。
「お待たせいたしました。ケーキセットでございます」
「は? ケーキセット?」
思わず目が丸くなった。てっきり、飲み物を単品で頼んだつもりだったが。
「あ、ケーキは……」
「え? ちゃんと聞いたんやで? 『ケーキが付くけど食べるか』って。そしたらお前、『食べる』と。何や? 忘れたんかいな?」
忘れるも何も、まったく頭に入っていなかった。おそらく先刻は気が張りつめていたあまり無意識で答えてしまったのだろう。おかげで到着した大きなロールケーキを見て戸惑う有り様。これだから、緊張というものは恐ろしい。
「どないした? 食べられへんのか?」
「いや、食べるよ。いただきます」
「おう。勘定はもちろん、わしが持つさかい。2個でも3個でも、遠慮せんと好きなだけ食べや。ああ、そうや。わしの分のコーヒーも飲んでくれや。のう?」
流石は本庄利政。店で出される飲食物には決して口を付けないという彼の流儀は、ここへ来ても徹底されているようだ。敵対勢力に毒を盛られる可能性を想定しての行動らしいが、これではまるで俺が毒見役兼処理係ではないか。いささか考えすぎな気もしなくないのだが。
(まあ、いいか。ケーキは美味いし)
時折アイスコーヒーを口に注ぎながら、俺は黙々と食べ進める。生クリームの強烈な甘さがコーヒーの苦みで絶妙に中和され、なかなか素晴らしい食べ合わせだと思った。海外向けのガイドブックにも載る名宿だけあって、そこで提供される料理もまた絶品。高級ホテルの看板は伊達ではないらしい。
気が付くと、序盤の緊張は完全に消え失せている。硬直していた心のつっかえが解れたといえば良いのか、五反田の蠍を前にしても不安が一切襲ってこない。うっかり乗せられてなるものかという恐怖も、どこへやら。何を言われても平然と返せるくらいの心持ちになっていた。
そうして思考のキャパシティに空きができると、周囲の状況に視線を配る余裕さえも生まれる。ぐるりと360度見渡してみれば、ラウンジ内には多くの客の姿があったと改めて分かる。老若男女、スーツ姿の紳士から上品なワンピースに身を包んだ淑女まで層は幅広い。皆、飲み物を片手に談笑し、優雅なひと時を過ごしている。
すると、本庄が奇妙な行動に出た。おもむろに左手を振って店員を呼びつけると、メニューが記された冊子を取り出し上機嫌でこう言い放ったのだ。
「なあ! いま、ここにいる客全員に冷たい紅茶を出してくれへんか。わしの奢りや。アールグレイのアイス、この店でいちばん高いやつを頼むで!」
思いがけない内容に、店員の男の顔が一瞬にして引きつる。
「えっ!? お、お客様、よろしいのですか? そちらのメニューですと直輸入の茶葉を使用しておりますので、お値段は相当な……」
「ああ! かまへんかまへん。カネなら仰山持っとるさかい、早う出したってぇや。ほら、代金はここにあんねんで。100万もありゃ足りるやろ!」
そう言って本庄はジャケットの内側から灰色の物体を取り出す。よく見てみると、それは帯封でまとめられた紙幣の束だった。突如として聞こえた「100万」という額に、俺は衝撃を受ける。まさか、これほどの大金を今まで懐に忍ばせていたとは。背筋にゾクゾクとした感覚が走るのが分かった。
「あっ……はい、ただ今ご用意いたします!」
驚愕したのは店員も、一連のやり取りを横目で眺めていた客たちも同じ。よもや見ず知らずの人間に最上級の紅茶をご馳走してもらえるとは思っていなかったのだろう。フィクションではたびたび見かける「あちらのお客様からです」的な流れだが、奢る対象が全員というのは珍しい。誰もが呆然と立ち尽くし、こちらを困惑気味に見ていた。
「おう、さっき言った通りや! 今日、この店で出会えたんもきっと何かの縁や思うてなぁ。わしがあんたらに奢ったる。遠慮なく飲んでくれや!」
「……」
「何や? わしに奢られる茶は飲まれへん言うんか? ご一同、わしを誰や思うとんねん。中川会が直参、本庄組の本庄利政やぞ。わしに一度出した札の束を引っ込めろ言うんか? ははっ、そいつはなかなかええ度胸じゃのぅ。おお!?」
その語気を強めた台詞によって、場の空気が一瞬にしてひっくり返る。戸惑うあまり言葉を失っていた客たちは一瞬で我に返り、男も女も次々と姿勢を正し、本庄へ深々と頭を下げる。
「あ、ありがとうございます! いただきます!」
「ご馳走になります!」
「ご相伴に預かります!」
「お気持ち嬉しく思います! 頂戴いたします!」
高級ホテルに集う人々だけあって、皆お辞儀の角度といい言葉遣いといい気品が漂っている。おそらくは全員がそれなりの金持ちで高級品などは親しみ慣れていた思われるが、断る者は1人も無し。本庄の口から飛び出した「中川会」のワードを耳にした瞬間、誰もが血相を変えて話を受け入れていた。
ここにいる中年男性が極道の組長だと察し、下手に逆らっては大変なことになると悟ったのだろう。やがて運ばれてきた紅茶を前に、各々が落雷に打たれたかのごとくすっかり縮こまっている。
そんな彼らを見て、本庄は満足気に笑う。
「はははっ! やっぱ、カネは独り占めせんと人様のために使うのが一番じゃのぅ! いや~、こりゃあ最高に気分がええわ! よう頑張ってシノギに励んだ甲斐があったってもんやわ!」
わざと聞こえるような大声で「シノギ」などという単語を出したせいもある。畏縮した客たちは更に竦み上がった。もはや、彼らは紅茶を美味しく味わえるといった雰囲気でもない。皆、恐怖に怯え、震えながらグラスを手に取っている。
(前からこんな人だったっけ……?)
気前が良いのか、それとも単に成金趣味をこじらせた見栄っ張りか。とてもではないが、俺の頭で理解できる振る舞いではなかった。奢るにしたって、もう少し穏やかなやり方があったろうに。これでは、ただカタギをビビらせただけ。今さら指摘したところで無駄なのだが。
軽くため息をつきながら、俺は本庄に言葉をかけた。
「おいおい。お忍びで来たんじゃなかったのかよ? 大丈夫なのか? 『中川会』なんて名乗っちまって。さっきも言ったと思うけど、ここは煌王会のシマだぞ。バレたらやばいことになるのはあんたも分かってんだろ」
「大丈夫やて。わしの見た限り、あの客どもの中に極道はおらへんかった。渡世で長年やってるとな、雰囲気で分かるんよ。同業者は。ここに煌王の目は無い。心配要らん」
「いやいや、そういう話じゃなくて。名乗ったらお忍びの意味がねぇだろって。だいたい、こんな人目に付きやすい場所で話すのもまずいだろ。ほら、伊東一家の総長は煌王会の直系組長と一緒にいる所を見られただけで裏切りを疑われたんだろ? 俺だって仮にも煌王会、村雨組の人間なわけだし」
「せやから、問題あらへんって。わし1人で来たんやさかい、ここには中川の人間もおらん。それにな、涼平。お前はまだ極道やない。正式に盃を呑んだわけとも違うのに、煌王の人間っていうには早すぎるやろ~」
俺の懸念をよそに大丈夫と言い張る本庄。その主張はたしかに筋が通っているが、大勢の人が行きかうホテルのラウンジという環境で素性を高らかに名乗ってしまう行為が危険であることに変わりはない。
通行人の中に煌王会の人間がいないと、何故に言い切れるのか。悪意を持った第三者の尾行を受けていないと、どうして想像が及ばないのか。他人が作った料理には一切口をつけぬほどに警戒心が鋭いはずの本庄にしては、どこか軽率さが過ぎるような気がした。
漠然とした疑問は尽きないが、既にやってしまったことは仕方ない。暴力団関係者に監視されていないことを心の底から祈りつつ、俺はケーキを食べるのを再開する。先ほどよりも、フォークを口に運ぶ手は早い。さっさと平らげて、ここを立ち去ってしまおうとばかり考えていたのだ。
そんな矢先、またしても本庄が会話を振ってくる。
「のぅ、涼平。いきなりこういうことを言うんも無粋かも分からへんけど、ちょっとわしからひとつ提案があってな。それについて、いまの時点での、お前の答えってもんを聞いときたい。ええか?」
「……何だよ」
「言っとくけど、わしに気ぃ遣う必要はあらへんで? 思ったことをそっくりそのまま、教えてくれたらええ」
やや前置きが長い。一体、どんな話を持ちかけられるというのか。やけに勿体ぶった言い方だったこともあり、胸騒ぎがした。皿の上にあったロールケーキを全て口に入れてコーヒーで流し込んでから、俺はまっすぐ本庄を見据える。
「どうしたんだよ。そんなにかしこまって。別に、何でも答えるよ。内容によっちゃあ、すぐには答えを出せないかもしれねぇけど」
「そうか。なら、聞かせてもらうで?」
「ああ。何だっていいよ」
ここまで焦らされると、逆にこっちが気になってくる。少なからず込み入った話題が来るであろうことは何となく想像できた。しかし、俺に動揺は無い。この会話を早く終わらせて帰りたい、そんな思いが強くなっていたのである。
(何を提案しようってんだ……)
一瞬だけ静寂に包まれる。沈黙を破ったのは、本庄だった。
「涼平。お前、中川会に入る気はないか?」
いかなる意味か。まったくもって、思いがけない提案である。どんな突飛な話をされるかと身構えていたら、言うに事を欠いて「中川会に入れ」とは。前後の脈絡からまるで想像もつかなかったため、不意にたじろいでしまう。
だが、もちろん答えは決まっている。まさしく愚問というやつだ。わざわざ考えるまでもない。すぐに気を持ち直し、俺は返事を投げた。
「いや。悪いけど、その気は無い」
「そうかぁ……まあ、ともあれ、よう答えてくれたな。答えにくかったろ。ほんま堪忍やで。ちなみにやけど……理由を聞いてもええか?」
「俺は村雨組に入る。そう決めてるんだ」
本庄が俺に中川会に入れと持ちかけてきた理由は、何となく分かっていた。差し詰め、亡き兄弟分の忘れ形見である俺を己の手で育てたかったのだろう。心情としては理解できる。だが、どんな誘われ方をされようとも俺の中の誓いが揺らぐことは無い。
絢華と添い遂げたい――。
確固たる宿願であり信念、そのためだけに裏社会に身を投じ続けていると言って良い。生まれて初めて好きになった想い人をへの愛を貫かずして、どうして極道などと名乗れようか。絢華の幸せが、俺の幸せ。決して大袈裟ではなく、生き甲斐そのものであった。
「……なるほどな。そういうことやったか」
「ああ。だから、あんたの要求には応えられねぇ。申し訳ないけど、それが俺の生きてる意味なんだ。どうか、分かってくれ」
「いやいや! 謝る必要なんてあらへん! それがお前の願いやっちゅうんなら、とことん突き進んで叶えたれ。惚れた女のために命張るんは男の義務や。何が何でも、そのお嬢ちゃんを幸せにせい。みっちゃんも、そうやって伝説の男になったんやさかい。わしは応援するで」
どこか残念そうな様子を垣間見せながらも、本庄は頷いてくれた。名残惜しいというか、勿体ないというか。そういった類の悔しさが彼の声色には表れていたと思う。けれども、俺の人生は俺が決めること。ここは譲れない。
「変な質問して悪かったのぅ。ほんま、すまんかったわ。やっぱりお前は村雨はんの子分になる。村雨組で、みっちゃんに負けん立派な極道になる。それでええ。いや、そうすべきなんや。わしは見守るしかあらへん」
「あ、ああ。ありがとな」
「おう。煌王と中川。代紋が違くなっても、わしはずっとお前の味方やさかい。困った時にはいつでも頼ってぇな。『気が変わった。やっぱり中川に入りたい』とかでもええで? ……それはともかくや。みっちゃんが果たせんかった分まで、わしがお前を守る。これはわしの生き甲斐や。まあ、これからも親しくやってこうや。ははははっ!」
豪快に笑い飛ばした本庄とは、それからもしばらく他愛もない雑談を繰り広げた後に別れた。
彼は最後に「気が変わったら、いつでも」と言葉を添えてきたが、やはり俺の意思は変わらない。亡き川崎の獅子に代わって育てようとしてくれるのは嬉しいし、とても有り難い話。されど、村雨組に入る以外の選択肢にどうしても実感が持てなかったのだ。
かつて父が居た組織に自らも属し、極道として人生を歩んでみることへの興味が皆無だったわけではない。だが、夢よりも絢華に尽くす方がずっと大切。夢の代わりはいくらでも見つけられるが、初恋を捧げた最愛の女性との幸せは決してかけがえのないものだ。死んでも、手放すわけにはいかない。
(俺は村雨組で生きる……それでいいんだ……)
日が傾いて夕刻になった伊勢佐木町を1人歩いて、ゆっくりと帰路に就く最中、俺はそんな台詞を頭の中で何度も繰り返したのだった。