直系昇格へ
俺たちがヒョンムルを敵にまわしてしまった事実は、村雨組を大いに動揺させた。
煌王会内の親団体にあたる斯波一家、虎視眈々と南下を狙う東京日本橋の中川会伊東一家、そして笛吹慶久率いる旧横浜大鷲会残党など3つの組織と睨み合う状況。そこに韓国マフィアまでもが加わったとなれば、この只でさえ苦しい情勢に拍車がかかったことになる。
「なあ、カシラたちを襲った韓国人ってヒョンムルだよな? 最近、川崎界隈で大暴れしてるっていう」
「らしいぜ。このクソ暑い中わざわざガスマスクで顔を隠してたあたり、確実にそうだろ。いや、そうとしか思えねぇ。信じたくはないけどな」
「うわあ、マジかよ……絶対にヤバいって……」
「何が厄介って、あのヒョンムルが横浜に進出してたってことだ。これで抗争の終わりがますます見えなくなった」
不安に駆られる組員たち。ため息をついてしまうも無理はない。彼らの言う通り、村雨組を包み込む混迷の暗雲は今回の件で一段と色濃くなってしまったのである。
中川会および伊東一家の動向は未だに掴めず、何時、如何にして攻めてくるのか予想もできない。笛吹慶久の行方は依然として不明のまま。その上、斯波一家は村雨組の直系昇格により、今までの対決姿勢をさらに強めてくるだろう。
「はあ。韓国マフィアだけでもヤバいってのに……西の斯波と北の伊東のトリプルパンチかよ。おまけに横浜の中には大鷲会の生き残りがいるっていう……これ、もう駄目じゃねぇか。俺たち、終わったな」
「いや、まだ希望はある。俺たちが直系に上がれば、万が一全面戦争になった時には煌王会の本家が必ず助けてくれる。大丈夫だ。きっと何とかなるって」
「あ、ああ……そうだよな。家入の大叔父貴も、そう仰ってたもんな。それに……俺たちの親分は残虐魔王、村雨耀介だ。あの人がいる限り、俺たちが負けることは無い」
「だよな。きっとそうだ。信じるしかない」
一方、当の村雨組長はといえば忙しさに追われていた。横浜貸元への就任と直系昇格が本家から正式に発表されたことで、屋敷には翌日からおびただしい数の客人が押し寄せていたのだ。
やって来るのは、いずれも栄達にあやからんとする連中ばかり。同じく煌王会の三次団体から遣わされた使者や、関東の独立組織関係者、さらには極道と組んで暴利を貪らんとするカタギの実業家など、皆が皆、汚い野心を隠そうともしない。応接室にて彼らの相手をしている間、村雨はずっと真顔。
「下品なハエどもめ……」
すべての来客が帰った夕方、彼は吐き捨てるようにそう呟いていた。まさに本音がこぼれた瞬間だと思うが、これから煌王会の直系団体として組をもっと大きくしていくには組織外交や付き合いを決して粗末にはできない。
また、程なくして村雨は他地方に事務所を置く二次団体への元へ頻繁に挨拶に出向くようになった。高速道路で片道数時間はかかる長旅を敢えて繰り返す理由は、ゆくゆく来る斯波一家との抗争に備えて味方を確保するため。
「本家は必ずお前らの肩を持つ」という家入行雄の甘言を鵜呑みにせず、地道な外交努力によって足場を固めていこうというのだ。
本人の性格からして、この手の活動は実に不得意かつ不本意であったに違いない。けれども、やらなければ組の未来が潰える。9月30日に決まった襲名式の準備と並行させながら、村雨は淡々と日課をこなしていく。
そんな中、俺には気になっていることがあった。9月に入って最初の週が終わる日曜の正午、ふと廊下で顔を合わせた菊川に尋ねてみる。
「あのさ。例の韓国人たち、たしかヒョンムルだっけ? 結局、あいつらは何者なんだ? 見るからに異様な感じだったよな。ガスマスク被ってたし」
「ああ。僕たちと違って、ヒョンムルは非公然組織。ガスマスクはおそらく、構成員の顔を隠すため。対峙した相手に見た目のインパクトでプレッシャーをかけるねらいも若干あるんだろうけど。あのやり方は秘密結社に近いね」
「秘密結社? じゃあ、あの捕まえた奴が毒を食って自殺したのは秘密を守るためってことか?」
「うん。そう考えて良いと思うよ。『拷問の痛みに負けて同志を売るくらいなら、自ら命を絶つ』。それが連中の掟みたいなものさ。昔から変わらない」
在日韓国人によるマフィア、玄武流。聞けば聞くほどに、日本のヤクザとは一線を画した集団なのだと分かる。
構成員の顔と名前や規模といった内情はその一切が徹底して秘匿され、詳細な活動実態も大半が謎。表に出ているのは「ヒョンムル」という組織名と、本拠地が川崎のコリアタウンにあるとの情報だけ。極道で云うところの代紋が存在しないのは勿論、組織の看板を表立って掲げるようなことも決して無いらしい。
そんな連中が存在していた事実もさることながら、気になったのは彼らの過去。かつて俺の父、麻木光寿と激しい戦いを繰り広げ、結果として一時的な壊滅状態にまで追い込まれたという話だ。親の武勇伝に絡んでいるだけあって、興味を持たずにはいられなかった。
「どういう抗争だったんだ? 父さんの組とは」
「それを語るには、まずは少し込み入った話をしなくちゃいけない。キミが知ってるかどうかは分からないけど、川崎は明治の頃から朝鮮人の多い街でね。戦後になると朝鮮半島の動乱や済州島の事件もあってどんどん増えた。最も、大半が密航者なんだけど、彼らは川崎で『在日コリアン』という大きな共同体をつくり上げていったのさ」
「ああ、そういやあ浜町の商店街にコリアタウンって書かれたデカい看板があったな。あの辺に住んでたってことか?」
「もちろんあそこは在日が多いけど、実際にはちょっと違う。ヒョンムルの巣窟になってるのは桜本。ほら、協同病院が建ってるあたりだよ」
桜本――。
そこは俺の生まれ育った堀之内から、車で10分ほど離れた所にあるスポット。一瞬でピンと来た。不良をやっていた中学の頃、同地に住んでいた他校の番長をボコボコにしたことがあったのだ。他にも何度かバイクで走り抜けているので情景はすぐに思い浮かぶ。
全体の面積としてはさほど広くはないのだが、とにかく人が多い印象。大きな団地が幾つも建っており、その間を無数の細い路地が通っている。また、歩道沿いにゴミが散乱しているのをしょっちゅう見かけたため、治安のよろしくない場所であることは一目瞭然。どこか退廃的な雰囲気の漂う「スラム」とも云うべき地域だった。
そんな桜本が海外マフィアの根城と化していたなんて、今の今まで知る由も無かった。されど、特に驚きの感情はこみ上げて来ない。桜本界隈なら大いに有り得るというか、むしろあれでキナ臭い事情を抱えていない方が不自然といった認識。現地にお住まいの皆様には申し訳ないが、わりとすぐに合点がいってしまった。
「……なるほど。そういえばそうだよな。たしか、中学の時にセン公が『桜本では日本語が通じないから気をつけて』とか言ってた気がする。思い出したぜ。あそこでタイマン張った時だって、相手が何喋ってるか分からなかったし」
「うん。川崎のコリアンは他と違って、日本人との同化を極端に嫌がるからね。姓名は韓国式のままだし、言葉も可能な限り韓国語を話す。彼らにとってはそれこそがアイデンティティーであり、民族としての誇りなんだろうね」
だが、異国の社会で生きていくためにはある程度の迎合は必要不可欠。世界の理は「郷に入っては郷に従え」。この日本とて決して例外ではないのだ。文化が違えば風土に馴染めず、言語が違えば周囲との隔たりが生まれる。
これらの“違い”はあまりに大きい。いずれもまっとうな生活を営む上では非常に厄介な障壁となる。特に後者は嫌悪や偏見を招き、やがては差別や迫害という形で当人たちの身に降りかかってくるものだ。
「けっこう悲惨な目に遭ったらしいよ。大人は銀行が口座を作らせてくれないとか、子供は学校でいじめられるとか。だから必然的に同胞間の結束が強まるんだってね。日本人の手を借りずに、自分達だけで全ての物事が完結するよう、コミュニティが閉鎖的になっちゃうのさ。川崎市内にいくつかあるコリアタウン、あそこは半ば独立国と言っていい。いや、もはや別世界か。社会と切り離されても、あの地区だけで十分に経済をまわしていけるレベルだ」
「そんなにかよ。つまり、こういうことか? あの界隈に住んでる韓国人は皆、日本人にいじめられるのが怖いから町に閉じこもって出ようとしなくなったと?」
「うん。昔はね。皆、仲間内だけで慎ましくやってたみたいだよ。だけど、日本人の中にはそれすらも気に食わないって人達もいたらしくてね。『不逞鮮人はこの国から出ていけ!』だの、『さっさと半島へ帰れ!』だの、時たま街宣車でやって来ては、そりゃあ酷い罵詈雑言を浴びせてたって話。まあ、川崎に住んでるのは大半が戦後のドサクサに紛れて入り込んだ密入国者で、土地も殆ど不法占拠に近い状態だから、右翼の人たちの言い分も一理あるんだけどね」
「いや、入国とか土地とか難しいことは分かんねぇんだけどさ。街宣車ってあれだろ? でっかいスピーカーが付いてる真っ黒い車。だいぶ昔に父さんの事務所で見たことがあるぜ。あんなのでギャーギャー騒がれ続けたら、気が狂っちまうって……」
市民による日常的な差別に加え、排外主義を掲げる極右団体からの攻撃という由々しき事態に直面した川崎の在日コリアンたち。右翼の中には過激派もいて、言葉で罵倒するだけに飽き足らず桜本の住人に対して直接的な暴力を振るうこともあったとか。
敵の攻撃手段が中傷のビラ撒きや街宣であれば「見ざる、聞かざる」でどうにかやり過ごせるが、鉄パイプで襲いかかってくるのなら話は別。向こうがあからさまな憎悪と殺意を向けられる以上、適切に対処しなければ死活問題だ。
そうした状況下で生まれたのがヒョンムルだという。
「在日コリアンにとって、警察はまったく頼りにならない。それどころか日本人とのトラブルでは99パーセント、日本人の肩を持たれる有り様だからね。だったら、もう自分達の身は自分達で守るしかない。ってことで、右翼の攻撃に対抗する自警団みたいなのが結成されたんだよ。それがヒョンムルの始まりっていわれてる。今から30年くらい前の話だ」
「じゃあ、もともとはマフィアじゃなかったってことか?」
「ああ。最初は包丁を振り回して、襲ってくる右翼を威嚇して追い払うだけだったらしいけどね。でもそれだけじゃ効果不十分ってことで、他所のコリアタウンから屈強な若い男を集めたり、テコンドーに長けた力自慢を呼んだりして戦力を増やしていったそうだよ」
元来、ヒョンムルは自衛集団であった。活動内容としても当初は町内の見回りや、踏み込んできた日本人の“対応”だけに留まっていたらしい。そんな彼らがマフィア化したのは、一体いつ頃の出来事なのか。当人達の歴史に詳しい菊川も、その辺はいまいち認識があやふやなようである。
「右翼との戦いで初めて双方に死人が出たのが昭和54年の秋って聞いたから…たぶん、それ以降だね。よく分かんないけど。少なくとも、結成当時は穏やかな人たちだったと思うよ。基本的にコリアンは争いを好まない温和な民族でもあるし」
「なら、どうしてマフィアなんかに?」
「ただ単に『儲かる』ってのもあると思うけど、やっぱり一番は『日本人への怒り』じゃないかな。今まで散々、酷い目に遭わされてきたわけだからね」
「そうだったのか…」
自衛集団からマフィアに姿を変えて以降、ヒョンムルは瞬く間に恐ろしい本性を露にしてゆく。
路上における追い剥ぎ行為にはじまり、カタギの営む店や企業への襲撃、女性や子供を誘拐・拉致して韓国本土へ売り飛ばす人身売買など、1998年時点で彼らが行っていたシノギはいずれも日本人を標的にした陰惨かつ凶悪なものばかり。
勢力圏もコリアタウンがある本拠地・桜本地区からじわじわと周辺地域に拡大し、川崎に極道がいなくなったこともあってか、今や街全体の覇権を窺わんとする勢い。それが最近になって横浜へ進出しつつあると菊川は苦々しい面持ちで語った。
「噂には聞いていたんだけどね。今年の2月に『埠頭で韓国人を見かけた』って。南幸町でも韓国語を話す人物の目撃情報がちょくちょく上がってたんだけど、まさか本当にヒョンムルだったなんて。もしかしたら普通の在日コリアンかもと思って放置してた自分の馬鹿が恨めしいよ」
「いや、まあ仕方ねぇと思うぜ。そもそも横浜は外人の多い街だし。皆が皆、マフィアだと疑ってかかってたらキリがねぇよ。そいつは普通に振る舞ってたんだろ? なら、むしろ気づかない方が当たり前だと思うが」
「はあ……もはや過ぎ去った話ではあるんだけどさ、やっぱり麻木光寿が消えた穴は大きかったよ。80年代の川崎で猛威をふるっていたヒョンムルをわずか数日で潰して、他の海外組織も軒並み壊滅させて街を守ったんだから。川崎の獅子が死んで、一気に風向きが変わったね。一度は滅んだはずの連中が再び息を吹き返して、川崎は修羅の街に逆戻りさ」
韓国マフィアの横浜侵入は、麻木光寿が渡世を去った“余波”であると言いたいわけか。
俺は親父が極道として戦う姿を一度たりとも見ていない。ゆえに彼がどれほどの強さだったのかは正直なところ、分からない。ただ、村雨、本庄、藤島ら裏社会の大物たちが口を揃えて「自分じゃ敵わない相手だった」と太鼓判を押すので、少なくとも一騎当千の猛者であったことは容易に想像がつく。
菊川曰く、かつて繰り広げられた麻木光寿とヒョンムルの戦いは言うまでもなく前者の圧勝。それも“抗争”というよりは、麻木組による一方的な“虐殺”に近い様相だったというではないか。
若頭から続く言葉に、俺は興味深く耳を傾ける。
「さて、話を戻そう。キミのお父さんがヒョンムルを嬲り殺しにした12年前の抗争、あれを一言で表すならば『土地をめぐる戦い』だ。ちょうどその頃、川崎では在日コリアンによる市有地の不法占拠が大きな問題になっていてね。立ち退かせようにも居住権を盾に出て行かない。特に横田川付近の集落は護岸工事の大きな妨げになっていたんだよ。そんな時、川崎市に手を差し伸べたのが麻木組だった」
「……父さんの組か」
「ああ。当時、麻木組は傘下の土建屋が公共事業の下請けをやっていてね。横田川護岸工事に絡んだ利権を一手に握る立場にあったんだ。工事が計画通りに進まなきゃ、組としてもシノギにならない。だから、川崎の獅子は市長にこんな話を持ちかけたわけだよ。『俺たちが市有地に居座る不逞の輩を叩き出してやろうか?』ってね」
なるほど。だいぶ話が読めてきた。
韓国人の土地占拠に困り果てた市から極秘の依頼を受けた親父が、連中を武力で追い出すべく動いたというのがすべての発端。前述のとおり、ヒョンムルは川崎の在日コリアンを守る自衛集団であるため、その流れで抗争へ至ったのだろう。
表社会でまっとうに生きる人からすれば「自治体がヤクザを頼るなんて有り得ない!」と思うかもしれないが、大井町商店街における品川区と本庄組の件を知っている俺としては大いに納得できる話だ。決して駄洒落ではないけれど。
いくら政治を預かる公的機関と言っても、所詮は人の集まり。人は誰しも欲には勝てない。彼らにとって重要なのは公正公平であるかよりも、自分達の懐に利益が転がり込むかどうか。
建前では「公共事業は地域活性化のため!」などと綺麗事を並べ立てているが、本音はもっと別のところにあるはず。予算の年度内消化か、あるいは癒着業者からの見返りか。
何にせよ、工事が予定通りに進まなければ著しい不利益を被ってしまう。こうした利害が一致する以上、自治体はヤクザとも躊躇なく手を組む。もはや自明の理だ。
「藁にもすがる思いの市長にとって、麻木光寿の申し出は渡りに船。拒む理由なんかどこにも無い。そうして役所からのお墨付きを得た麻木組は、さっそく不法占拠者と裏にいるヒョンムルの掃討に乗り出した。だけど、問題はそのやり方。村雨組にいる僕が言うのも変な話だけど、あれはちょっと悪逆非道きわまりなかったっていうか……」
「へぇー。どんなやり方だ?」
「女子供を含めて皆殺しにしたのさ。横田川に居座っていたコリアンたちを。彼らが使っていた井戸に毒を流してね。毒と言っても薬品じゃなくて天然の神経毒だから、客観的には『腐った井戸水を飲んだせいで集団中毒死した』って見えるわけよ。当然、誰にも疑われない」
てっきり集落にカチコミをかけて拳を交えた直談判を行ったものと思っていたから、少し意外ではあったのだが。勇猛果敢なイメージばかりが先行する川崎の獅子にも、冷徹な策士としての一面が備わっていたということだろう。むしろ誇らしい気分だ。
もちろん、これだけで終わるはずが無い。同胞を殺されたヒョンムルは烈火のごとく激怒し、仇を討つべく壮絶な復讐戦を挑んでくる。しかしながら、連中も所詮は麻木光寿の敵ではなかった。少し苦笑しつつ、菊川は続ける。
「麻木光寿の戦術は、実に単純明快だね。『相手の心をへし折る』。まずは敵の下っ端を適当に1人攫って、散々痛めつけた後で殺して、そいつの腕なり首なり、身体の一部をもぎとって本拠地に送り付ける」
「で、どうすんだ?」
「すると、向こうは2つの反応に分かれるのさ。片や怒りで発狂して我を忘れ、片や恐怖に慄き激しく動揺。どちらも冷静さを失って、まともな思考ができる状態ではない。人間、そういう時に限っていちばん油断が生まれるからね」
「その隙を突いて一気に滅ぼす、ってわけか」
俺の言葉に、若頭は大きく頷いた。
「ああ。連中の最期は悲惨そのものだったよ。拠点に火をつけられた上、ほんの2、3時間も経たないうちに全員が成す術もなく刀で滅多切りにされたんだから。市長が手をまわして表向きには火災ってことになったけど、実際には『コリアタウン焼き討ち』。あの男の悪行……いや、恐るべき伝説のひとつだ」
改めて書くが、俺にとってはまったくの初耳。少年期の大半を過ごした地元で惨たらしい事件が起きていたことも、親父にそのような一面があったことも、この日に至るまで全く知らずにきてしまったのだ。
そもそも己の中における麻木光寿の姿が「極道だった」という、あまりに漠然としたものに終始していた。だからこそ、印象とは違った事績やエピソードを告げられると戸惑いもするし、驚きもする。もっと早くに知っておけば良かったと思う。
これから俺自身も極道社会へ飛び込んで稼業にて飯を食っていく限り、そうした類の話をさらに沢山聞かされることだろう。伝説の男の2世として親父がどれだけ凄い人間であったか、生前にどれほどの金字塔を打ち立ててきたのかを嫌というほど、教え込まれるはず。
(常に父さんと比べられるのか……)
無論、覚悟の上だ。それが偉大な親を持つ者の宿命であるならば甘んじて受け入れるまで。どうせなら、川崎の獅子を超える存在に俺自身がなってやれば良い。何をしたところで親父は親父、俺は俺でしかないのだから。とても簡単な話である。
また、極道2世の宿命を背負うということは、同時に因縁や因果さえも丸ごと引き継ぐということ。横田川にて、あれだけの所業をはたらいたのだ。連中の心には、麻木光寿に対する尋常ならぬ憎しみが渦巻いているに違いない。
当の本人が既に鬼籍に入っている以上、それらの怨念は全て俺の身に降りかかる。今後は親父が生前に戦っていた相手とも、対等に渡り合っていかねばならない。考えてみると、俺にへこたれている暇などは皆無。自分を奮い立たせるしかなかった。
「いいかい? 今後はヒョンムルと出くわす場面も増えるだろう。キミのお父さんが川崎の獅子だと知れたら、奴らは全力でキミを殺しにかかる。奴らにとって麻木光寿は何百回殺しても足りないほどに憎い相手だ。くれぐれも注意することだよ? ヒョンムルが今のような秘密結社になったのは、12年前の抗争がきっかけでもあるんだから」
「おう。そんだけあいつらの恨みは深いってことだろ。わざわざ言われなくても、分かってるぜ。大丈夫だ」
「そっか。なら、良いんだけどね。キミは絢華ちゃんの婿に選ばれた男だ。これからの村雨組を引っ張っていく者として、組長も大きな信頼と期待を寄せているんだ。それを決して忘れないでくれ。間違っても、くだらない理由で死んでもらっちゃ困るよ? 朋友の気持ちを裏切ったら、僕が許さないからね?」
「分かったよ。心配すんなって」
どういうわけか、珍しく俺のことを案じている若頭。言い方に多少の皮肉っぽさは残っているものの、以前に比べるとだいぶ関係が良くなってきたように思える。ただでさえ村雨組の中には味方が少ない身だ。普通に話せる相手が1人でも増えるのは有り難い。
「……くどいようだけど、これからは慎重に動いてね。敵はヒョンムルだけじゃない。わずかな油断が命取りになる。戦争が終わるまで、どうか気を引き締めといてくれ」
そう言い残すと、菊川は静かに去って行った。彼も彼でスケジュールを抱えているのか、足取りがいつになく早い。多忙な時に手間をとらせてしまったと少しだけ申し訳ない気持ちに駆られた。そんな時。
「ここに居やがったか。組長がお呼びだ」
背後からひょっこり現れた下っ端が、俺の肩をポンと叩く。どうやら、またしても新たな仕事を申し付けられるようだ。今度は一体、何だろうか。若干の不安を抱えながら、俺は組長の待つ執務室へと向かう。
途中、下っ端からは例によって直球の嫌味を浴びせられたが、すべて軽く受け流す。組員の中で俺のことを快く思っている人間はゼロ。どれだけ真摯に向き合い努めようとも、彼らとの関係が改善する可能性は低い。ならば向き合うだけ無駄というものだ。
部屋の襖を開けると、村雨は予想通りの反応だった。
「おお、遅かったな。待ち侘びたぞ。今日は時に猶予が無いゆえ、立ったままで構わぬ。私も身支度を整えながら話すとしよう」
「あ、うん。何かあったか?」
「まずは用件から伝える。涼平、これより私の代理として東京は五反田より訪ねてきた客人と会うて参れ。お前にしか頼めぬ話だ」
代理とはすなわち、自分の代わりを務めて来いとのお達し。幹部どころか正式な組員ですらない俺を指名するということは、言葉の通り他には頼めない込み入った事情があるのだろう。組長の口から「五反田」の地名が出た瞬間、俺は「客人」が誰なのかを一瞬で悟る。
「えっ? それってもしかして……?」
ネクタイを締めながら、村雨は大きく頷いた。
「ああ。本庄だ。先ほど、急に連絡が入ってな。たまたま伊勢佐木町まで足をのばしたゆえ、ついでに会いたいとの話であった」
「マジかよ。いや、でも何で急に……!」
「分からぬ。あの男のことだ。断じて『ついでに』などというわけではなく、何か明確な目論見があっての行動であろうな。だが、あいにく私には先約が入っている。これより別に行くべき所があるのだ。それゆえお前に行ってもらおうと思う。この意味が分かるな?」
村雨耀介と本庄利政。両者が個人的な同盟を結んでいる事実を知っているのは、この世界において俺ひとりだけ。煌王会と中川会、互いの上位組織には絶対知られてはいけない密約関係だ。当然、村雨組の他の連中には頼めない。だからこそ、村雨は俺に代理で行って来いと命じたのである。
暦は9月になったといえども、外は残暑の炎天下。気温は一昨日の過ごしやすさから一転して30℃台まで再上昇し、普通に歩くだけでも汗が滴り落ちてくるほどの熱風が空気を支配している。こんな時に外出するのは些か気が引けるが、俺以外に人がいないのであれば仕方がない。
本音をいえば、2日前の乱闘劇により生じた筋肉痛が未だに残っている。されども萎える心を鞭で打ち、俺は快く返事をした。
「ああ。もちろん。分かってる。あんたの代わりに行けるのは、村雨組じゃ俺しかいねぇもんな……で、何かこっちから伝言とかあるかい?」
すると薄手の背広を羽織った後、村雨は俺に1枚の封筒を渡してくる。
「これを読ませるだけで良い。前に奴から頼まれておったものだ。中身は覗くな。それと、本庄と会うことを組の人間に気取られぬよう注意いたせ」
「わ、分かったよ。他には? 聞いてほしいことがあったら、聞いてくるけど?」
「無用だ。いつも電話にて話して居るゆえ。お前の方で、あの男と何か話したいことがあれば存分に話してくるが良い。構わぬ。遠慮は要らんぞ。私とて、今日は夜遅くまで戻らぬゆえ」
「あ、ああ……」
そのように言われても、怪人物を相手に繰り広げる話のタネなど有りはしない。表面的には饒舌で明るい関西人のおっちゃんであるが、面と向かって話していると何処か心の奥底を見透かされているような気になって仕方が無いのだ。
口車に乗せられ、果たせない契約を勝手に結んでしまっては大変だ。うっかり村雨組の内部情報を漏らしてしまってもいけない。よって会話は必要最小限に止め、村雨から預かった封書を渡したらそそくさと帰ってくるのが最善の策。サソリに決して毒を打たせまいと決意を固め、俺は待ち合わせへと向かった。
15時20分に、伊勢佐木長者町のホテル1階のラウンジにて――。
これが今回、本庄が提示してきた時刻と場所。時間的にはあまりにも中途半端な気がするが、引っかかったのは会場の方。そう。前月、そこは俺が笛吹慶久の影武者を氷のナイフで仕留めた伊勢佐木町ロイヤルホテルである。
あの件は表向き笛吹の病死として処理されたことは知っているし、場所も地下駐車場ではなくホテル正面玄関から入ってすぐの喫茶店を兼ねたラウンジなので、本来ならば後ろ暗さを感じなくて良い話。だが、どこか落ち着かない。「本庄組長が敢えてそこを選んだ」という事実に、一抹の胸騒ぎをおぼえずにいられなかった。
杞憂であれば良いのだが、何せ相手は狡猾な五反田の蠍。目的のためならば身内を平然と捨て駒のように使い、善意で手を差し伸べた相手さえも簡単に切り捨てる男だ。どうしても警戒心が緊張を呼んでしまう。おかげで、現地へ向かう俺の足は非常に重かった。
(何を企んでやがるんだ……?)
そのせいだろうか、着いたのは定刻の2分前。店に入ると、待ち人は既に奥のソファに腰かけていた。代わりに俺を行かせることは村雨が前もって伝えてあるらしい。やって来た俺の姿を見かけるなり、本庄はこちらに大きく手を振る。
「おお、涼平! 待っとったで!」
会うのはおおよそ1ヵ月半ぶり。村雨組長と会談を行った浅草の料亭で別れて以来である。しわがれた声といい、大柄な図体といい、久々に再会する本庄の姿は何も変わっていなかった。
「すまんかったのぅ。こないに急に呼び出してもうて。いや、たまたま近くまで来たもんでな、せっかくやから涼平も含めて村雨はんと茶でも飲んで帰ろう思うてん。ほなら村雨はん、来られへんっていうやないか。最近、忙しいみたいやのぅ。やっぱり忙しゅうなるもんなのか? 煌王会の直系に上がるっちゅうんは?」
「まあな。俺も詳しいことは聞かされてないんだけど、挨拶回りとかに行かなきゃならねぇみたいだし、組長に会いたいっていう客も昨日からどんどん増えてきてる」
「そうかぁ。たしかに、わしが中川の直参に上がった時もそんなもんやったな。挨拶やら盃の準備やらで色んなとこ回って、ほんまに寝る暇も無いくらいやった。せやけど体だけは壊さんように、休める時にきちっと休んどけって伝えといてくれや。わしの時と違うて、村雨はんは期待されとるようやしなあ! はははははっ!」
「ああ……うん。伝えとくわ」
軽い雑談もほどほどに、俺はテーブルを挟んだ向かい側の椅子に座るよう促される。程なくして注文を取りにきたウェイターには「アイスコーヒーで」と答えた。普段、珈琲を嗜む習慣など俺には無い。ところが緊張で心が穏やかではないこともあってか、思わず本庄と同じメニューを頼んでしまった。
これはいけない。相手の調子に流されぬよう気を張っているつもりが、却って思考が流されているではないか。己が平常心を保っていないことはすぐに分かった。明らかに動揺している。これを本庄に悟られたら、一巻の終わりだ。心の隙に付け込まれ、誘導尋問に乗せられるのが関の山だ。
(ったく、何やってんだよ……俺は……)
頭の中で自分自身を叱咤しつつ、目を閉じて静かに深呼吸をしてみる。効果があるかは未知数だが、やらないよりはマシというもの。ほんのわずかに3秒ほど瞑想をして無心にかえった後、俺は気を取り直してストレートに話を切り出してゆく。
本庄との久々の再会。果たして、何を話すのか……?
お読みくださった全ての皆様に、
心より御礼申し上げます。




