血と刃の乱舞、新たな因縁
「움직이지 마십시오! 당신의 존재는 성가신 일입니다!」
怒号と共に振り下ろされる包丁が、容赦なく俺を襲う。ギリギリのところで何とか身をかわしたため何とか生傷には致らなかったものの、刀身が空を切る音がダイレクトに左耳へ飛び込んできた。
やはり侮れぬ相手。踏み込んでくる動きの速さは勿論、一振り一振りが非常に重い。刃物を使った戦闘にはだいぶ慣れているらしい。不発に終わった斬撃を切り返し、次の動作に出るまでの間隔も短い。片や俺は避けるだけで精一杯。
応戦しようにも、ほんの僅かたりとも隙が無い。おまけにこちらは徒手空拳。完全な丸腰ときている。まるで計算し尽くされたかのように右へ左へ飛んでくる刃を反射神経に頼って躱し、ただひたすらに逃げ回る有り様だ。
(ちくしょう! これじゃ勝負にならねぇ……!)
防戦一方とは、まさしくこの事。回避行動を続けるにも体力が要る。俺のスタミナはどこまで持つのだろう。少しずつ上がり始める胸の拍動と連鎖するかのごとく、うっすらと不安も高まってきた。
一方、相手に疲れた様子は無し。乱戦が始まってから既に10分は経っているはず。その上ガスマスクを着けているため呼吸が上手く取りづらいだろうに、絶え間なく繰り出す攻め手が緩むことは一切無い。日頃、どんな鍛え方をしているのやら。何とも人間離れした肺活量である。言うなれば化け物か。
「……はあっ! ふうっ……」
「무엇? 당신의 호흡은 격렬한 것 같습니다, 일본어. 당신이 야쿠자 일지라도 당신은 아마추어입니다. 전투 전문가 인 우리는 서로 경쟁 할 수 없습니다!」
「クソったれ! 負けるかッ……!!」
悔しいことに、俺は息が切れてくる。日課の筋力トレーニングに加えて、持久力も鍛錬しておけば良かったと己を責めた。まずい。このままではやられる。先にスタミナ切れを起こそうものなら、瞬く間に虚を突かれて滅多刺しにされてしまう。そうなる前に、どうにか事態打開の糸口を見つけなくては。こんな所で死ぬのはまっぴら御免だ。
「하, 당신은 꽤 좋은 저항을 보여줍니다. 그러나 준비 연습을 끝내야 할 때입니다. 죽음! 일본어!」
男が大きく構えをとった。具体的に何と言ったのかはさっぱり分からないが、俺を早急に倒すべく痛恨の一撃を繰り出さんとしていることはうっすらと分かる。これはいけない。食らったら間違いなく即死だ。確実に避けなくては。
――シュッ!
例によって、恐ろしいくらいに速い。まばたきをする0.1秒ほどの間に敵の武器が消える。気づいた時には、包丁の先端が俺の心臓あたりのすぐのところまで来ていた。相手に一切の猶予を与えぬ会心必中の一撃。言うまでもなく、こちらの目ではまったく捉えられなかった。
(クソッ、そう来やがったか……!)
だが、ここでまんまとやられる俺でもない。消えた刃先が胸部に当たるギリギリの所にあると分かるや否や、思考に先立って反射的に俺の両手が動く。ここは一か八か。意を決して、上半身を右側に思いっきりよじってみた。
「무엇!?」
「捕まえたぜ。これで動くに動かせねぇなあ!」
作戦成功。俺の読みは当たった。包丁が心臓に突き刺さる直前、瞬時に身をひるがえして刃を避けると同時に、両手で男の右腕をしっかりと掴んだのである。
「바보! 풀어 주세요!」
俺の拘束を振り払おうと筋骨隆々たる腕に凄まじい力が込められる。だが、俺は決して掴んだ両手を解かない。反撃への突破口が掴めぬ中で、ようやくめぐり逢えた起死回生の好機。そう簡単に手放してなるものか。いや、決して放したりはしない。負けじとこちらも手にグッと力を入れる。
「젠장, 나는 일본인이야! 팔을 놓아 줘!」
「悪いが俺も本気なんでね。ここは死んでも譲らねぇぜ。さあ、その包丁をこっちに渡してもらおうじゃねぇか。ガスマスク野郎」
「바보! 원수에게 주라 고 말하며 순종적으로 그에게 주라는 말을 듣는 바보들은 어디에 있는가? 팔을 놓아 줘! 나는 아직도 너를 용서할 것이다……」
「ああ? 何だって? テメェ、さっきから何をギャーギャーわめいてやがる! 少しは日本語で喋りやがれってんだよ!」
男は大きく腕を左右に振ろうとするも、鬼の形相でしがみつく俺がそれを許さない。もはや単純な力比べ。というか、根比べ。互いに物凄い力だったと思う。
もちろん俺は一歩も引かず、向こうと勢いが弱まる気配は皆無。こうなってくると魂のせめぎ合い。より強く意地を張り通した方に軍配が上がる。人間、やはり最後は気持ちの大きさが勝負をわけるのだ。
「서둘러! 가자!」
「うるせぇっ!! この俺がテメェなんぞに負けるかぁぁぁぁぁぁーっ!!」
ここで屈して両手を解けば、その瞬間に全てが終わる。負けない。決して負けてなるものか。マスク越しに怒鳴る相手の気迫に食らいつくかのごとく、俺もまた雷のような雄叫びをあげる。
すると、その時。両手を通して伝わった妙な感触と共に、どこか低くて鈍い音が耳に飛び込んできた。
――ゴキッ。
一瞬で分かった。これは関節が外れる音だ。中2の頃、理不尽な担任教師をボコボコに締め上げて脱臼させた経験があるので鮮烈におぼえている。見れば、相手は苦悶の眼差しを浮かべているではないか。ゴーグル部分から目元がはっきりとうかがえた。
おそらくは俺の腕を引く力が強すぎたせいで、右肘の関節を損傷してしまったのだろう。敵の力がみるみるうちに弱まってゆく。やがて、男は右手から包丁を地面に落とした。拾い上げることもままならず、もう片方の手で肘を押さえて痛みに悶えている。
「오 잘 …… 일본어 나 ……!!」
この機を逃す策など無い。堪え難いであろう苦痛で男が地面に膝をついた、まさにその瞬間。待っていましたとばかりに俺は行動に出る。マスクで覆われた相手の眉間めがけて、ありったけの力で蹴りを叩き込んでやった。
――ドンッ!
数秒前とは対照的に、実に爽快な感覚が右足から全身を走り抜ける。当然、相手には避ける術も無ければ防ぐ術も無い。俺の渾身の一撃を食らった男は仰け反るように背後へ倒れた。特に声を上げることもなく、宙を向いている。気を失ってしまったのか。
「この野郎。手こずらせやがって」
地面に転がった包丁を手に取った俺は、あお向けで倒れた敵の上に乗っかると一気に覆面を剥がす。中から現れたのはきわめて輪郭の淡い顔。唇は小さくて鼻は低く、白眼を開けた両目もどことなく細かった。
どこの国から来た人間なのだろう。明らかに日本人ではない。ただ、先ほどまで男が話していた言葉が何に当たるのか、その時の俺にはいまいち心当たりが無かった。聞き慣れた単語が出てこなかった点を鑑みるに、英語でないことだけは確かなのだが。
(まあ、いいや。とりあえずトドメを刺そっと)
この不気味な男の正体は一体、何者なのか。いちおう気にはなる。しかしながら乱戦の真っ只中にあっては、所詮些末事に過ぎない。ひとまずここは息の根を止めておいて、後になってからゆっくり考えれば良い。
やるなら早いところやってしまおう。あまり時間をかけてもいられない。そう思って俺は包丁の刃を男の喉元に押し当てる。ところが、その直後。村雨組長の言葉が、不意に脳内で再生された。
『できる限り、相手は殺すな。余計な戦のきっかけをつくりとうはない』
ああ、そういえばそうだった。取引の場では身を慎んで万が一喧嘩沙汰に発展した場合でも立てなくなるまで痛めつける程度でとどめておけ、という注文が付いていたっけ。
色々と思うことはあるが、ここは命令が最優先。軽率な行動はしないに限る。男は完全に気絶していて尚且つ凶器も奪っているのだ。冷静に思考を切り替え、俺はゆっくりと立ち上がる。周囲を見渡してみると、前後左右の誰も彼もが死闘を繰り広げていた。
ぱっと見た限りでは、ほぼ五分五分の戦い。肉切り包丁で猛然と襲いかかる敵に対し、村雨の組員たちもアーミーナイフや特殊警棒といった各々の得物を片手に立ち回っている。聞き慣れぬ言語を話す正体不明のガスマスク男を相手に、武器で皆必死に奮戦しているのが分かる。
(こいつら、意外とやるな……)
もしかして、苦戦を強いられたのは武器らしい武器を持たずに来てしまった俺1人だけか。そう思わざるを得ないくらいの、なかなかの戦いぶりだったと思う。中でも菊川に至っては逆手に持った短刀を自在に操り、鍔迫り合いまで演じているではないか。
「알다시피, 아마추어에게는 큰 문제입니다. 일본 야쿠자에는 여전히 당신과 같은 무술가들이 있었다는 것을 모르겠습니다」
「ふふっ! お褒め頂きありがとう。けど、お前らの方こそ極道を低く見積もりすぎでしょ。少なくとも、ここで競り負けるほど軟弱じゃないさ。よく、覚えておくことだねッ!」
「순진한! 진지한가!」
「何を。まだまだ軽いウォーミングアップってとこだよ。そろそろいいのかな? 本気を出しちゃって? あまり、この僕を怒らせない方が良いよ~」
ガスマスク男の斬撃を涼しい顔で受け流していく若頭。向こうの言葉が分かるのか。敵が吐き捨てる台詞に対し、刃と刃がぶつかるたびに逐一日本語で応じていた。先刻の俺の会話と違い、どこか意味ありげなものとなっている。
両者の勝負は、俺が思ったよりも些か早く付いてしまう。
「ほらっ! 隙あり!」
――ドガッ。
相手の懐へ一瞬で距離を詰めた菊川が、左の掌底で顎を打ち抜いたのだ。右に持った短刀を使わない鮮やかな奇襲。呟くような断末魔を上げるや否や、男はその場に溶けるように倒れ込む。ボクシングでいうところのインファイト。見事という他ない。
「……」
「ごめんね。お前に恨みは無いんだけどさ。こうしてかち合った以上、こっちも本気を出さなきゃいけないんだ。まあ、せいぜいあの世で楽しくやってよ」
心臓近くに容赦なく刃を突き立ててトドメを刺した後、菊川は残るガスマスク集団相手になおも戦い続ける部下へ大きな声で言い放った。
「君たち! ここは僕と麻木クンに任せて、早いところタカハシを追ってくれ! まだそんなに遠くへは行ってないはずだよ。決して殺さず、生け捕りにするんだ。いいね?」
ふと視線を移すと、先ほどまでコンテナの陰でへばっていたタカハシの姿が消えている。おそらくは乱闘の騒ぎに紛れて逃げ出したのだろう。奴はシマ荒らしの憎き敵。背後に潜む陰謀を洗い出すためにも、ここで確実に身柄を押さえておかねばなるまい。
「えっ? あ、でも……それじゃカシラが危険です。せめて1人くらいはここへ残った方が……」
「大丈夫さ。何とかなる。麻木クンはともかく、僕を誰だと思ってるんだよ。キミたちは自分の役目に集中することだ。さあ、急ぎたまえ!」
「しょ、承知いたしました!!」
向き合う敵の攻撃を適当にいなした後、若衆たちは慌てて駆け出していった。彼らがタカハシを捕らえるまでの間、俺と菊川でここを食い止めるというのか。ずいぶんな大仕事がまわってきたものだ。されど、やるしかない。
「ふう。で、どうする? 残る敵は3人。俺とあんたでふたり一緒に組んでかかるか? 俺は別に構わねぇけど」
「いや、いいよ。各個撃破で。そもそもキミと僕でコンビネーションが生まれるとも思えないし。普通にやろう」
「へへっ! そうかい。けど、その場合、もしかしたら敵があんたの所へ同時に2人行っちまうかもしれねぇけど。本当に大丈夫か?」
「大丈夫だとも。2人どころか、3人まとめて僕が倒しちゃっても良いくらいだし」
菊川はそう呟くと、組員たちの後を追わんと歩を進めるガスマスク集団の前に颯爽と立ちはだかった。
「行かせないよ。お前たち、ここで大人しく回れ右して仲間の死体と共に川崎へ帰るっていうなら見逃してやっても良い。僕も手荒なことはしない。どうする?」
「저주하다. 그렇지 않으면 상처 만 입을 것입니다」
「あれれ? ちゃんと通じてる? 僕の降伏勧告。こっちも韓国語で喋った方が良かったかな? まあ、どうしても僕に殺されたいいっていうなら聞き流してくれて結構だけど?」
「입 좀 다물어요! 당신은 길을 열 사람입니다. 우리는 그 무기 딜러를 우리 손으로 양육 할 것입니다. 나는 그것에 대해 모른다. 당신이 방해가되고 싶다면, 나는 그것을 철저히 할 것입니다!」
互いに恫喝の句をぶつけ合った後、睨み合う両者。男が話す言葉は相変わらず俺には不明瞭だったが、何を言っているかは大体分かる。相手に引き下がる意思は無し。衝突は避けられないようである。
「そっか。なら、いいか。全滅させちゃっても。少しは話が通じるようになったと思ったんだけどなあ。変わってないんだね、昔から」
「당신이 꺼내고있는 얼마나 엉망입니까! 그것은 주로 상황에 착수하는 것에 관한 것입니다, 일본어. 그래서 야쿠자는 낭비되는 입이 많기 때문에 그것을 좋아합니다! 나는 그것을 새시로 만들 것이다 ……」
「だったら今すぐやってみななよ! こんな風にね!!」
気づいた時には、既に菊川は飛び出していた。
(えっ?)
相手の言葉を遮るかのごとく、目にも止まらぬ速さで前方へ踏み込む。そして一気に距離を詰め、マスクからわずかに露出した首筋を短刀で切り裂いた。
――グシャッ!
鮮血が飛ぶ。喉笛は人間の急所。そこを突かれたら、いかに屈強な猛者であろうと一撃で終わってしまう。おそらくは声帯を傷つけられたと思われる。悲鳴を上げることもできぬまま相手は後ろへ倒れてゆく。だが、菊川は止まらない。
「八つ裂きにするってのは! こうやるんだよ! 案外、難しいもんだよねぇ! 僕みたいな上級者でないとさあ!!」
両肩、両腕、両手首、それから両太もも。人体における付け根部分を上から順番に且つ左右交互に切り付けていく。刃が入るたびに男の身体からは血が吹き出て、辺りを真っ赤に汚す。
当然、菊川も決して少なからぬ返り血を浴びた。着ていた白いジャケットには赤い水滴が幾多にも染みつき、彼の頬もべったりと濡れてしまっている。しかしながら、若頭はなおも短刀を振り続ける。むしろ、噴き出す血を見て何らかのスイッチが入ったようだ。
「あーはっはっはっはっ! やっぱり、いいもんだねぇ。とてつもない快感だ。癖になったら、やめられないよっ!」
敵はとっくに絶命しているというのに、菊川が振り下ろす刃は勢いを失うことを知らない。それどころかますますエスカレートする始末。やがて暫くすると満足したのか、菊川はようやく手を止めた。刀身に付いた血をまたもやペロリと舐めながら、こちらを振り返ってにこやかに微笑む。
(おいおい、マジかよ……エグすぎだろ……)
つい数十秒前ほどから始まった異様な光景を前に、俺はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。それは残りのガスマスクの男たちも然り。狂乱の極道に成す術もなく切り刻まれてゆく仲間を見て、あらゆる言葉を失っているようだった。
「……」
いやいや。これではいけない。今、俺は戦闘の渦の中にいる。味方の行動で戦意を削いでしまって何とするのか。敵が呆気に取られて棒立ち状態になっているなら、こちらにとっては願っても無い好機。その隙を見事に突いてやるのが戦の定石というものだ。
敵より早く我に返った俺は、包丁を腰だめに構えて全速力で走り出す。狙う標的はたったひとつ。菊川だけに活躍の場を与えたくはない。己は己で確実に相手を仕留めてやるのみ。もう、他のことは一切考えられなくなっていた。
「どこ余所見してんだっ! 死ねやぁーっ!!」
――グサッ。
包丁が敵の体に当たる。レザージャケットの表面の革を一気に貫き、皮膚を食い破って筋肉へと食い込むのが分かった。ここで躊躇いはまったく無用。持ち手を強く握りしめ、刃を奥へ奥へと突き進ませてゆく。
完全に勢い任せの行動だったので、刺さった場所はへそより少し下のみぞおち部分。眼前の光景に気を取られていた男に避ける手段は無く、奴は低い苦痛の声を上げて真後ろに倒れる。
「일본인……그들은 그것을 할 것입니다……」
「どうした? 痛ぇのか? へへッ! ずいぶん情けねぇ声を出すもんだなぁ、外人さんよ。我慢したって意味はねぇ。さっさとくたばりやがれ!」
無論、腹を突いた程度では相手の命を奪うには至らない。今まで極道の現場を幾重にもわたって覗いてきたために、そのあたりの知識は一定ほど有していた。だからこそ、念には念を入れる。
包丁を突き刺したまま、俺はありったけの力を込めて上方向に抉った。
「……ッ!!」
思ったよりも多くの血が噴き出す。たまたま呼吸で開けていたせいか、口の中にも飛び込んできた。使い古したネジを直接舐めているような鉄の味。菊川と違って、とても好きにはなれない。されど、味覚とは裏腹に触覚はきわめて良好。
刃物を用いて肉を切るという行為が、これほどまでに心地よいとは。ましてや、切る対象が人間であれば快感は10倍増し。癖になってしまいそうだ。先ほどの若頭の言葉の意味が少しは理解できたような気がする。
押し上げた刃は、やがて胸のあたりで止まった。縦線状に開いた傷から流れ出る血の量も、どんどん多くなってくる。おそらくは腸や胃といった内臓がズタズタに切り裂かれ、体内が出血で満杯になったのだろう。心なしか、体が少し膨張してきた。
「……」
こうなってしまっては、もう何をしようとも助からない。ピクリとも動かなくなった顔面からマスクを引き剝がすと、男は凍り付いたように息絶えていた。苦痛と恐怖で激しく歪んだ情けない死に顔。白目を剥いた瞳が些か哀れであった。
「너! 잘 내 친구!」
骸から包丁を抜いた直後、近くにいたもう1人の男が飛び掛かってくる。嬲り殺しにされる仲間の姿を目の当たりにして、こちらもようやく我に返ったらしい。その声は凄まじい激情を孕んでいた。けれども俺の敵ではない。
「うるせぇなあ。テメェも寝とけよ」
ほんの一撃。向かってくる男の心臓めがけて、順手に持ち直した包丁を突き刺してやるのみ。
こういう時の俺は精神的興奮によって分泌されたアドレナリンの影響からか、相手の動きが止まって見えるのだ。現代風に言い換えるならば、一種のチートモード。しゃがんだ姿勢から立ち上がるまでもなく、2人目はあっさりと倒してしまった。
(ふう。これで片付いたか……)
奇襲を仕掛けてきた5人のガスマスク男のうち4人は死亡、1人は失神による無力化へと追いやった。敵方に死人を出してしまったのは行き過ぎたミスだが、これは戦闘がもたらした偶発的な結果であり、仕方のないこと。きちんと説明すれば、村雨組長も分かってくれるだろう。俺は然程、重く考えてはいなかった。
さて、事が始まってから一体どれほどの時間が経ったのか。連中が乗ってきたバンはいつの間にやら何処かへ消え去っており、現場に残っているのは俺たちだけ。どさくさに紛れて逃走を図った武器商人の行方は依然として知れず、村雨の組員たちが奴を確保できたかどうかも不明。
短刀に付いた血を拭いながら、菊川は言った。
「やるじゃん、麻木クン。百戦錬磨の中堅でも手こずる相手をこんな簡単に仕留めちゃうなんて。刃物の使い方も上手い。ちょっぴり勢い任せの要素もあるけど、大した戦いぶりだったよ」
「ああ。そいつはどうも」
「さすが、朋友が見込んだ男というだけある。喧嘩の腕に関しては光るものを持っているね。これから必ず大成するよ。少なくとも、現時点で僕が安心して背中を預けられるくらいには強いよ。素晴らしいね」
あんたの猟奇的な切り裂き戦法に比べたら、ぜんぜん何てことは無い――。
そう返してやろうとも思ったが、下手に嫌味と受け取られて口論が始まっては面倒なので止めておいた。
ちなみに、菊川が短刀を拭くのに用いていたのは白い布切れ。先ほど惨殺した男の1人がレザージャケットの下に着ていたTシャツから、一部を破り取って拝借したものだ。
敵の血をわざわざ落としておくのは、刀身を腐らせないよう清潔に保つべく行う所作。刃は鋼、すなわち金属で作られているため、濡らしたまま鞘に入れようものなら錆びてしまうのだとか。
ヤクザ御用達のドスに限らず刀剣全般を扱う上での基本中の基本であると、菊川は上機嫌で教えてくれた。本来なら雑巾なりハンカチなりで拭き取るべきところを倒した敵の衣服で行っているあたり、何とも彼らしい。
そんな若頭に、ひとつ尋ねてみた。
「なあ。そろそろ説明してくれよ。さっきの、あれはどういう意味だよ。どうして騙されたふりなんかしてたんだ? 本当は家入の企みに気づいてたんだろ?」
菊川が本心を隠していた理由。俺はそれがどうにも気になって仕方が無かった。銃器の取引が罠である可能性に昨晩の段階で気づいていたなら、舎弟どもにはもっと早く教えてやれば良かったものを。
村雨邸ではあたかも家入の言葉を100%信じきっている体を装い、ここに来て初めて真意を明かすという不可解さ。
差し詰め、村雨にも打ち明けてはいないのだろう。つい先日「組長に隠し事はいけない」などと偉そうに講釈を垂れていた者としては、いささか言行不一致が過ぎるのではないか。
「たしかに。キミの考えてる通りだよ。大叔父貴から話を聞いた昨日の時点で『おかしいな』とは思ってた。タカハシは村雨組にとってみれば、ただのシマ荒らしだからね。仮にも渡世の大先輩ともあろう人が、そんな相手から銃を買うよう勧めてくる理由が分からなかった」
「最初から全部お見通しだったってのか。じゃあ、何で乗った? 何で騙されたふりをした? 連れてきた連中には一言の説明も無しに。皆、戸惑ってたじゃねぇかよ」
「そりゃ、決まってるじゃん。組の空気を壊したくなかったからだ。僕なりの“配慮”ってやつだよ」
「はあ? どういう意味だ?」
まるで頷けない。事前に話を聞いていなかったせいで、随行の組員たちは謎のガスマスク集団の奇襲を受ける羽目になったのだ。中には軽いケガを負った者もいる。彼らとしては、実に腹立たしい心持ちであることだろう。
そうまでして真意を伏せていた理由が「組の空気を壊したくなかったから」。あまりの馬鹿馬鹿しさに、俺は思わず眉をひそめた。仕組まれた罠だと分かってもなお危険な渦の中へ飛び込んでいくことが、人の上に立つ者の“配慮”だとでも言うのか。
「キミにはまだ、分からない理屈なんだろうけどさぁ。僕みたいな立場になると色んなことに気を配らなきゃいけないわけよ」
「それが何だってんだ?」
「最も重視してるのは空気感。組織の中にネガティブな流れが少しでも広がっちゃうと、それが全体の士気を下げることになって、結果として良からぬ事態を招いてしまったりもする。僕、そういうのはどうしても防ぎたくてさ」
拭き終えた短刀を鞘に納めた後、菊川は続けた。
「直系昇格は村雨組の旗揚げ以来の悲願だからね。皆、死ぬ気で頑張ってきた。それがようやく叶おうって時に『あれは全て嘘です』なんて聞かされたら、どう思うよ? もうがっかりってレベルじゃない。全てがどうでもよくなって、何も手につかなくなる。人間、ぬか喜びほど哀しくて虚しいものは無いからね。でも、そうなったら困るんだよ。組のシノギを預かる若頭としては」
「連中が自暴自棄を起こすのを避けたかったわけか。だけど、浮かれっぱなしってのもマズいだろ。やっぱり何処かで現実を受け止めて次のことを考えないと。バカみたいに舞い上がって油断してる所を突かれたら、まさに家入の思う壺だろうに」
「一理あるね。けれども伝えるべきタイミングは今じゃない。もうちょっと経ってからの方が、受け止めるダメージは少なくて済む」
組の士気を保つため。それこそが舎弟たちの前で敢えて道化を演じていた理由だという。やり方に完全な共感こそできないが、集団心理における理論としてはある程度正しい。絶望や落胆といった負の感情は、いとも早く組織全体へ伝播するものだからだ。
高坂晋也というカリスマを欠いたアルビオンがあっという間に戦意喪失・瓦解した話を知っているので、とりあえずは納得できた。ネガティブな空気感は組織を根元から崩壊させる。それゆえ早期に取り除かねばならない。考えてみれば、ごもっともな主張だった。
「なるほど。まあ、俺も村雨組へ来る前に色々あったもんでな。あんたの言うことが分からんでもねぇよ。ただ、連中は相当な浮かれっぷりだぞ? いつかは真相を伝えるったって、今の空気は流石にどうかと思うぞ? さっきの車での会話、聞いたろ。あいつら完全に目が眩んでやがる」
「ああ、それは僕の考えることじゃない。組長の役割だ。あの人が厳しく睨みを利かせて緩んだ空気を引き締め、一方でナンバー2の僕が穏やかに場を和ませてポジティブな流れをつくる。組織というものは、そうやって成り立ってるものなんだよ」
「そうかい。最も、組長はあんた自身も家入を信じきってるもんと思い込んでるけどな。なんか、すっげえ怒ってたぜ? 『まんまと唆されおって……!』ってよ」
「思い込むだろうねぇ。わざわざ泣いてみせたんだから。別に構わないよ。たとえ組長に間抜けと思われようと。僕の役割はあくまでも、組の皆の気持ちに寄り添ってあげることなんだからね」
「マジかよ……」
菊川が家入の前で流した歓喜の涙。まさかあれが全て演技だったとは。よくよく振り返ってみれば、昨日の若頭のリアクションは少々オーバーだった気がしなくもない。されど、両者のやり取りを間近で見ていた俺はすっかり騙された。心の底から喜びに浸っているものだと思っていた。
本当は家入の口から「直系昇格」の4文字を耳にした瞬間、何となく陰謀めいたキナ臭さを悟っていたという。
しかしながら、相手は舎弟頭補佐をも務める本家の重鎮。下手にその場で指摘してしまえば「無礼だ!」と逆上され、後でどんな沙汰が来るか分かったものではない。展開次第では村雨組の取り潰しも有り得る。よって表面上は素直に信じたふりをして、やや大袈裟に態度を繕っていたのだと菊川は俺に語ってくれた。
その辺の立ち回りは見事と言わざるを得ない。実に狡猾な処世術というか、コミュニケーション能力の高さを感じる。無骨な武人である村雨組長には、きっとこのような腹芸は出来ないはず。
「キミも薄々気づいてる通り、組長は誰に対してもあの振る舞いだからね。上との付き合いはお世辞にも得意じゃない。だから、組長がこじらせがちな人間関係だとか処世術だとか、そういうのをうまく拾ってフォローしてあげるのも僕の仕事なんだよ。子供の頃から、ずっとそうやって2人で生きてきた」
本家からの使者に対しては組に不利益が及ばぬよう表面的な礼節を弁えてやり過ごしつつ、一方で真偽が分からぬ吉報で歓喜する組員たちの心情にも“配慮”し、かりそめの姿を演じていた菊川。
若頭として彼が持ちうる願いは組の躍進と、主君・村雨耀介の栄達。それらを叶えるためならばどんな手段も厭わない強力な覚悟が彼にはある。組織内の潤滑油に徹するべく自分の真意を偽ることなど、もはや朝飯前なのだろう。
良くも悪くも、ただ純粋に恐れ入るしかなかった。
「あんた、すげぇな。俺には絶対に出来ねぇわ」
「はははっ。別に大したことじゃないさ。そんな話より、明日から大変になるよ。今回、僕らは成り行きとはいえ相手を殺しちゃったわけだし。あいつら、確実にヒョンムルだよ。これで新たな争いのタネが生まれたことになる」
「何だ、そのヒョンムルっのはて……」
「さっきのガスマスクの男たちだよ。あれはキミの故郷、川崎を本拠地にする韓国系マフィアだよ。横浜に進出したって噂は本当だったんだね。だいぶ前に川崎で中川会の麻木組が壊滅させたんだけど、ここ数年で復活して勢力を盛り返してきたと聞く。あれ? お父さんから聞いたことない?」
親父が生きていた時、俺はまだ小学2年生。そんな年端もいかぬ子供相手にシノギや抗争の話をするわけが無い。仮に聞かされていたとしても、難しすぎて当時8歳の子供に理解できるはずも無いだろう。
もしかしたら事務所へ遊びに行った際などに話題が出ていたかもしれないが、いかんせん幼少の頃の記憶は曖昧な箇所が非常に多い。父、母、俺と妹の家族4人で千葉の某テーマパークへ出かけた体験でさえ、数か月前に本庄から聞かされてようやく思い出したくらいだ。
「いや、覚えてねぇな。たぶん初耳だぜ」
俺の返答に「そっか」と軽く相槌を打つと、菊川は後ろのポケットからトランシーバーを手に取る。ちょうど追捕役の組員たちから連絡が入り、呼び出し音がけたたましく鳴り響いたところであった。
『カシラ! ご無事ですか!』
「僕らは大丈夫だよ。3人とも片づけた。そっちはどう? タカハシは捕まえたかい?」
『ええ、ついさっき取り押さえました! 思ったよりすばしっこい野郎でして。時間がかかっちゃいました。すんません。今からそっちに向かいますね!』
「うん。待ってるよ」
聞けば、タカハシは埠頭を出て国道沿いの歩道にまで逃げ出したらしい。人や車の通りが多い場所で押さえつけようものなら、目撃されて忽ち騒ぎになる。そのため人気の無い路地裏へ誘い込む、一種の追い込み漁を行ったというから驚きだ。何とも骨の折れる話ではないか。
端末のスイッチを切った後、菊川は俺に言った。
「さて、それじゃあ僕らも捕まえるとしようか。せっかく良さげな手土産を見つけたことだし」
「捕まえる……? 何をだ?」
「あれだよ」
若頭が顎で指したのは、先ほどの乱戦で俺が最初にノックアウトした男。口から白い泡を吹き、大の字になって倒れている。側頭部から多少の出血は見られるものの、まだ息は残っているようだ。
「見たところ死んではいない。軽く気絶しているだけだね。熱湯でもぶっかけてあげれば、目覚めるんじゃないかな。もしくはスタンガンで電気ショックを与えるか」
「なるほど。あいつをこのまま生け捕りにして、連れ帰って拷問するわけだな? 俺らを襲った理由を洗いざらい吐かせるために」
「そういうこと。さっきも言ったけど、僕らは新たな抗争の因縁をつくっちゃったんだ。必ず勝つためにも、まずは敵を知ること。手土産が無きゃ組長だって怒るだろうし」
「……だな」
それから3分後。迎えに来た組員たちのバンに乗って、俺たちは現場を離れた。車内最後部の積荷スペースには身柄を押さえた捕虜2名。いずれも両手足を縄でグルグル巻きに縛った状態での拘束である。
失神して意識の無い韓国人はともかく、タカハシはひどく怯えていた。
「お、おい! お前ら、俺をどこへ連れて行く気!?」
「うちの組長の家」
「お前らの組長……ってことは、ま、まさか! ざ、ざ、残虐魔王!? 嘘だろ!? おい、嘘だよな?」
「うるせぇなあ。黙って乗ってろや。着いたらテメェは拷問だ。いや、拷問という名の処刑か。何にしたって楽には死ねないぞ。覚悟しておくんだな」
組員の言葉で一気に青ざめるタカハシ。村雨耀介の二つ名は社会の裏表を問わず広く知れ渡っているようで、彼もまた例外ではない。後ろ手に自由を奪われた両腕をガタガタと震えさせ、必死で懇願してくる。
「お、お願いだ! それだけはやめてくれっ! ちゃ、ちゃんと喋るから! 知ってることを全部教えるから!」
「は? 今さら何を言ってやがる?」
「実は俺、元は大鷲会の人間なんだ……組は7年前に破門になってて、それ以来はフリーで武器を売ってきたけど……」
「はいはい。もういいよ。続きは地下室でゆっくりと聞かせてもらおうじゃねぇの。ご苦労さん」
裏社会の摂理に逆らい、極道の領地を荒らした愚か者が迎える悲惨な末路。がっくりとうなだれたタカハシを乗せたまま、車は村雨邸への道をひた走ってゆく。
ちなみに道中、こんなやり取りもあった。
「あのぅ、カシラ。ちょっとよろしいですか? さっきの話の続きなんすけど……カシラは最初から取引をされないおつもりだったのでしょうか? 俺たち、ちょっとまだ事態が呑み込めてなくて……」
「ああ、ごめんごめん。昨日、家入の大叔父貴から渡されたリスト。あれって実は情報提供だったんだよ。『お前らのシマを荒らしてる奴がいるぞ』っていう」
「え? でも、家入組長は自分の得意先だって言ってませんでしたか? そこを村雨組にも紹介してくれるものだと思ってましたが……?」
「だよね。たしかにそう仰ってたよね。でも、これは文字通りに捉えちゃいけない話だよ。大叔父貴が僕らに課した“テスト”なんだから」
首を傾げる若衆に、菊川は続ける。
「いいかい。『得意先を紹介する』ってのはあくまで建前。本音はそういう情報が書かれた紙を渡すことで、僕らがどう動くのかを試してるんだよ。僕らが煌王会の貸元として本当に相応しいかどうかを見極めるって意味でもね」
「た、試す……?」
「ああ。いくら大叔父貴分の紹介といったって、そいつが僕らに許可なくシマ内で勝手に商売を行っていたなら、組の威信をかけて討伐しなきゃいけない。それが極道の掟ってもんだ。直系昇格の報せを受けて喜びに舞い上がるあまり、その掟を忘れちゃ話にならないだろ。そんなんじゃあ貸元失格だ」
助手席で聞いていて、思わず失笑が漏れた。ずいぶんな方便を考えたものだ。おそらくは無用な疑心を生ませないためだろうが、言うに事を欠いて“テスト”とは。一連の出来事をポジティブに捉えるにしても、流石に度が過ぎる。おめでたい解釈だと嘲笑を受けてもおかしくはない。
されど、一方で理屈としては筋が通っている。実際のところ組員たちは有頂天になっていたわけだし、そんな考えを戒めるために家入が試練を与えたという仮説は無理なく並び立つ。実によくできた言い訳である。若衆は、すっかり納得していた。
「つ、つまり家入組長は俺たちが直系昇格の話で浮かれすぎて基本を見落とすことが無いか、“テスト”されたわけですか……なるほど。ようやく合点がいきましたぜ」
「なら良かった。黙っててごめんね? 喜びの余韻に浸るキミたちに、要らぬ心配をかけたくなかったんだよ。僕だけが気づいてるのなら、僕だけで対処すれば良いと思ってた。でも、まさか韓国マフィアが殴り込みをかけてくるなんて。考えてもいなかった。すまないことをしたね」
「カシラ! どうか頭を上げてください! 俺たちの方こそ、すっかり浮かれて何も見えなくなってました。悪いのは俺たちです。申し訳ございませんでした」
「いやいや……僕の方だって……実を言うとさぁ、キミたちを連れていくかも迷ったんだよ。けど、身柄を押さえるには人手が要るから……ついいつい巻き込んでしまった。お詫びに、何か美味しいものでも奢らせてくれ。ね?」
菊川塔一郎という男は、良くも悪くも本当に口が達者で弁が立つ。そのことを改めて認識させられた気分であった。口から生まれてきたのではないかと思ってしまうくらい、喋らせれば次から次へと言葉が出てくる。
頭の回転も非常に早い。取って付けたような能書きでさえ、あっという間に脳内で論理を付け足せる。自分の中でどんなに詭弁と信じていても、菊川の手にかかればまっとうな言説に聞こえなくもないから恐ろしい。
今回もまた、雄弁な若頭の独壇場。困惑と不安で動揺する相手をみるみるうちに説き伏せ、わずか数分足らずで話の方向性を転換させてしまった。このような芸当ができる人間は、極道社会でも数少ないだろう。戦闘における前述の蛮行も相まって、俺の中では強烈な印象が残ってしまった。
(菊川塔一郎……村雨とは違った意味でヤバいな)
それから屋敷に着いた後、例の韓国人とタカハシを待っていたのはあまりにも苛烈な仕置。両手両足すべての指をハンマーで潰され、その上から釘を計20本も打たれるという、見ているだけでも冷や汗をかいてしまう内容だった。
聞けば村雨組長自ら考え出した拷問とのこと。体の特性上、指先には痛覚が集中している。並大抵の人間であれば当然、耐えられはしない。俺たちが思っていたよりもずっと早く、タカハシは自らの身の上をすべて白状した。
「お、俺は……もともと大鷲会で、組の武器の管理を任されてたんだ。けど、5年前に藤島のおやっさんに睨まれて破門になっちまった。組から預かった金を個人的に使っちまったからな……後から補填すれば大丈夫かと思ってたけど、許されなかった……」
「ほう。それで?」
「組から追い出された時、俺は40歳になってた。学歴は中卒だしな……その年齢の元ヤクザを働かせてくれる会社なんざあるわけがねぇ。嫁さんと娘を食わしてくために、極道だった頃のツテや経験を使って俺なりに“事業”を始めることにしたんだ……」
「なるほど。んじゃ、その“事業”とやらが銃器の密売であったと?」
尋問官役の若衆の問いに、タカハシは大きく頷く。
「ああ。そうだ……最初は隣の川崎で始めた。あそこは8年前に麻木組が解散して中川会が撤退して以来、極道のいない空白地帯になってたからな……俺みてぇな素浪人が稼ぐにはもってこいの場所だった。シマ荒らしにもならねぇしな。実際、やり出してから2か月目くらいでガッポリ稼げた。多い時で月に400万円。あそこは客も多かったし。大鷲会にいた時より、ぜんぜん儲かったよ」
類い稀なカリスマ性で街を仕切っていた麻木光寿の死後、神奈川県内外から様々な組織が流入し互いに火花を散らし合う群雄割拠の情勢となっていた川崎。そんな混沌の街にてタカハシは元極道としてのイロハを存分に使い、独自のルートで銃を仕入れ、火力を必要とするあらゆる勢力を相手に販路を拡大していったという。
「銃を欲しがらねぇ奴はあの街には存在しない。ヤクザ、暴走族、チーマー、外国人ども。皆が俺の上客だ。ああ、そういえば……女子高生相手にS&Wのリボルバーを売ったこともあったな……たしか『いじめられてる同級生を守りたい』とか何とか言ってて、代金もきっちり一括で支払ってたわ。実際に使われたかどうかは知らねぇけど」
「ずいぶん手広くやってたんだな。テメェが節操なく商売してただけにも思えるけど」
「どうとでも言え。客は選ばねぇのが俺の主義なんでな。たとえば、〇〇組が□□っていうギャングとドンパチやってたとしよう。そしたら先ず、俺は〇〇組の人間に接触して銃を売る。次に□□の溜まり場へ行ってこう言うんだ。『〇〇組は高性能な拳銃をたくさん揃えましたよ? おたくらも早いとこ準備された方がよろしいのでは?』とよ。そしたら連中は青ざめて、こっちの提案を丸ごと吞んでくれる。で、今度はまた〇〇組を相手に同じことを言うって寸法だ」
「とんだマッチポンプじゃねぇか。ゲス野郎が」
タカハシにとって、川崎の裏社会における争い事はとてつもなく美味しい飯の種。同業者よりも価格が格安だったこともあり、いそいそと集う客足が途絶えることは無かった。
若衆が指摘した通り、抗争の当事者双方に武器を売る行為はマッチポンプ以外の何物でもない。しかしながら他に廉価で入手できる販売元が見当たらなかったのだろうか、どの組織もタカハシの下劣な振る舞いを黙認せざるを得なかったらしい。
ところが、そんな彼に思わぬ転機が訪れる。それは今月、我らが村雨組との抗争で古巣の大鷲会が壊滅した件であった。
「さすがは残虐魔王。100人を超える大鷲の兵隊をたった1人で倒したんだろ? いやあ、噂を聞いた時にはたまげたよ。同時に胸が躍った。『やっと横浜に帰れる! もっと手広く“事業”ができる!』ってな」
「それで横浜にノコノコ舞い戻って来たわけか。鶴見が既に俺たちの縄張りになってるとも知らずに」
「ああ……そうだとも……一生の不覚だ。てっきりお前らのシマは桜木町だけだと思ってたもんでな。まさか、こんなにも早く横浜の大半を手中に収めていたなんて……本当に知らなかった……なあ、頼む。見逃してくれ。俺は知らなかった。知らなかったんだよ! もう二度と、横浜の地を踏んだりしないから。お願いだ。助けてくれ!!」
先程にも増して必死で哀願するタカハシだが、尋問官は首を縦には振らない。もはや、助かる道は無いだろう。どんな理由や経緯があろうとシマ荒らしの大罪人を生かしておいたのでは、村雨組としても体裁にかかわってしまうからだ。
「駄目だな。お前はうちのシマを荒らしただけに留まらず、韓国マフィアと組んでカシラを弾こうとしやがった。見逃せるわけねぇだろ。馬鹿野郎」
「いや、違うんだ! あれは誤解だ! 俺はヒョンムルと組んでなんかいない! あんたらの方が高い金額を提示してくれたもんだから、先に売る相手を切り替えたんだ。連中はそれが気に食わなくて襲ってきただけのことだ! 信じてくれよっ!」
「へぇー、そうなのか? でも、それって『襲われるきっかけをつくった』ことに変わりはねぇよな? 見苦しい言い訳してんじゃねぇよ。もういい。聞きたいことはひと通り、聞かせてもらった。テメェは死んでもらう」
「まっ、待て! 待ってくれ! じゃ、じゃあ、良い話がある。いま俺が抱えてる在庫、そいつを全部あんたらに渡す。もちろん無料でだ。どうだ、そしたら……うわああああああああああああああっ!!」
さらなる責め苦を与えられ、男の悲鳴が地下室に響き渡った。単に「死んでもらう」と言っても、脳天を撃ち抜くなりして楽に殺してやるわけではない。俗に云う、嬲り殺し。体を襲う痛みが最大限に持続するような惨たらしいやり方で、たっぷりと時間をかけて命を絶たれるのだ。
それからタカハシがいかなる最期へと行き着いたかは、もはや語るに及ばず。村雨邸地下の拷問室には真っ赤な血の海が広がり、性別や年齢が一切判別不能になるほど酷く損傷した遺骸がバラバラに転がった。興味本位で一部始終を見学していた俺であるが、さすがに見るに堪えない。横滑り式の鉄扉をゆっくりと閉め、無言でその場を後にした。
(生きたままチェーンソーで切られる……なかなかエグいな)
一方、マフィアの構成員らしき韓国人はというと、情報を吐き出す前に命が尽きてしまったのだ。正確に書くと、拷問を受ける前に死亡していたのだ。どうやら、奥歯に小型の毒薬入りのカプセルを忍ばせいたらしい。屋敷へ連れ込まれて目覚めさせられた直後、それを噛んで自決をはかったというのが事の顛末だ。
青酸カリは猛毒。開科研の連中ならばともかく、即応的に解毒の応急処置ができる人間など村雨組には存在しない。救急車を呼ぼうにも、ほんの30秒ほどで呼吸が止まり、脈が無くなってしまった。
拷問によって仲間の情報を売るくらいなら、自ら死を選ぶ――。
実に大した覚悟だと思う。奥歯に仕込んだ自決装置も、このような事態に陥る万が一の場合を想定してのものであることは明白。敵は思ったよりも侮れない、極道ともまたひと味違った手強い相手になるかもしれない。最も、件の男の死によって組織の全貌を知る術は無くなってしまったのだが。
ただ、ひとつ確かなのは村雨組が大鷲会残党、斯波一家、中川会に加えて新たに海外マフィアである韓国系のヒョンムルとも因縁を抱えてしまったということ。そこに至る経緯がどうあれ、自らの身内が殺されたのだ。連中とて、決して黙っていはいないだろう。必ずや何らかの報復措置に動き出すはず。
俺と菊川が構成員を死なせてしまった事実を知った村雨組長は、非常に苦々しい表情で吐き捨てた。
「なればこそ迂闊に手を出すなと申したではないか! まったく、余計な厄介事を増やしおって……されど、もはや止むを得まい。かくなる上は存分に戦って討ち滅ぼしてやるまでだ。戦の備えを怠るでないぞ!」
予期せぬ報せは、もうひとつ。俺たちが埠頭で血みどろの乱戦劇を繰り広げている間に、なんと日高が鑑定を終えてしまったという。家入が持ってきた「勅」の封筒、村雨組の横浜貸元就任の旨が記された書状である。日高はこれが煌王会六代目の長島勝久会長によって書かれたものであるか否かを調べていたのだ。
「……で、どうだった? そいつの結果とやらは。やっぱり、家入の野郎が用意した偽物だったのか? あんたを嵌めるために」
「いや、本物らしい。日高によると九割九分、長島六代目の直筆であると考えて間違い無いとのことだ」
「えっ……!? ってことは、つまり……?」
「うむ。私が、この横浜の貸元を煌王会から任されたということになる。そして我が村雨組は来月より直系に昇格だ」
驚きのあまり、声が声にならない。俺としては勅書はまるっきり偽物で、村雨を陥れんとする家入の奸計を裏付ける動かぬ証拠になると思っていた。それがまさか、本物だったとは。反応に困ってしまった。
「なあ? これって喜んでいい話なのか?」
「ひとまずはな。されど先ほども申した通り、今の我らは幾多もの敵に囲まれておる。みすみす気を抜かぬことだ。これからは些細な油断が命取りになるぞ」
「あ、ああ。でもさ。直系昇格の話がマジなら、家入が俺たちにタカハシのことを教えたのはどういうつもりだ……? 菊川が言ってた通り、本当に俺たちをテストしようと思ってたとか……?」
「何だと、菊川は左様な世迷言を申したのか。言っておくがな、涼平。家入行雄という男は決して生易しくはないぞ。他者を蹴落とすための権謀術数に長け、息をするかのごとく奸計を弄する御仁だ。此度の話が真実であったとしても、家入にはきっと何か良からぬ思惑があろう。早うに確かめなくては」
重々しく語る村雨と同様、俺に歓喜の情念は一切ない。あったのは今後の不安と、次なる戦いに向けた闘志の2つだけ。「勝って兜の緒を締めよ」というには少しばかり戦果が足りない気もするが、自分にできるのは目の前の敵を倒していくことだけ。その覚悟に揺るぎはない。
村雨組の直系昇格。思わぬ形でもたらされたこの報せが、横浜をさらなる戦場へと変えてゆくことになる。
韓国系マフィア「ヒョンムル」が登場。
これからどうなる……!?
先週から応援をくださった皆様、
本当にありがとうございました。
元気を貰ってます。
まだまだ梅雨のジメジメとした気候が続きますが、
くれぐれもお体ご自愛くださいますよう。